逆襲のジャミラ

逆説のHERO評論(特撮・アニメ)※「ウルトラマン『故郷は地球』は名作か?」「怪獣ジャミラは可哀想か?」という疑問から始まったブログ。ヒーロー番組に仕込まれた自虐史観について考察中。

アイアンキング 不知火族

ヤマトタケルvsクマソ

『アイアンキング』の最大の特徴は、その全26話全ての脚本を、佐々木守ただ一人が手掛けたということだろう。ここには複数の作者の併用による混乱は存在しない。『アイアンキング』には、佐々木守の考えるヒーロー像の全てがある。そう考えても特に問題はないだろう。

アイアンキング:Wikipedia

『アイアンキング』の概要についてはwikiを参照してもらうとして、ここではまず佐々木(&実相寺)が『ウルトラマン』で行った、ウルトラマン像の破壊について振り返りたい。
そもそも彼らはウルトラマンを、現在の国家体制を防衛する国家権力の一機関と考えた、らしい。

実相寺の言葉で言えば

「ウルトラマンのヒーローとしての本質には、正義という名分に、そんな開発側の論理が匂っていたことは否定できまい」
「どうもあのころ、ウルトラマンなど、正義の側に肩入れをしなかったのは、土建屋と歩調を合わせて開発に狂奔するイメージが、超人側にはつきまとっていたせいかもしれない」

つまりウルトラマンの「正義」とは、国家にとっての「正義」であり、体制側に属する者たちの「正義」であるということだ。

そこで彼らはそのことを分かりやすく示すため、ウルトラマンの敵である怪獣を「弱者」「犠牲者」「被害者」として設定した。「故郷は地球」のジャミラは犠牲者・被害者だろうし、「怪獣墓場」のシーボーズや「恐怖の宇宙線」のガヴァドンは弱者だろう。そして殺人鬼ジャミラを除けば、彼らの作る怪獣はみな一様に積極的な破壊活動をせず、ほとんど寝ているだけの存在として登場した。暴力を振るっているのは、いつでもウルトラマンの方だった。

そうした工作の一方で、彼らはウルトラマンとハヤタの分離も図った。
地上破壊工作」ではハヤタの意思とは関係なくウルトラマンが登場し、怪獣テレスドンは退治された。ハヤタという人間の戦いの延長に存在したはずのウルトラマンは、どういうわけか理由もなく地球人類に加担する不思議な宇宙人にされてしまった。要は、ここでウルトラマンの傭兵化が行われた。人間は、ウルトラマンという外部にある武力に依存する存在だとされた。


といったところが『ウルトラマン』における実相寺/佐々木の破壊活動だったわけだが、それでは『アイアンキング』とはどのような物語だったか。
それは、日本のどこかの山中にある神社で、「不知火族」を名乗る一団が日本征服の侵略戦争を開始したというところから始まった。

不知火族の首領は言う。
「われら不知火族、2000年の野望をあと一歩に控えて、由々しき事態が発生した。小癪にも東京の国家警備機構がわれらの存在をキャッチし、われらを滅ぼすべく一人の男を出発させたとの情報が入ったのだ」
「その男の名は・・・静弦太郎!」
「今ぞ、われらの祖先の血と涙を胸に、日本征服の野望達成のために立ち上がる時が来たのだ」

こうして、反乱分子の不知火族の本拠を探し出し、それを叩き潰そうとするヒーロー静弦太郎の旅路が始まるのだが、『アイアンキング』の面白さは、実は主人公の弦太郎がアイアンキングに変身しない、という点にあった。変身するのはドジで3枚目の旅の相棒、霧島五郎のほうだった。弦太郎はいつでも人間のまま、不知火族の戦闘員やロボットと戦った。

以上、『アイアンキング』の要点をまとめればこうなる。
1、不知火族はかつて大和朝廷に滅ぼされ、国を失ってしまった人々である(=不知火族は被害者、犠牲者である)。
2、不知火族と戦うのは「国家警備機構」である(=ヒーローの背景には国家権力が存在する)。
3、主人公の弦太郎ではなく、他の者がアイアンキングである(=主人公と巨大ヒーローは分離している)。

『アイアンキング』が、『ウルトラマン』で行われた実相寺/佐々木による破壊工作と全く同じ構図をとっていることは一目瞭然だろう。『アイアンキング』とはそうした意味では、まさに実相寺/佐々木ワールドの集大成とも言えた。そして『アイアンキング』の全シナリオを担当した佐々木守は、不知火族という「悪役」を通してさらなる一歩を踏み出している。


それは、主人公静弦太郎に「旅」をさせたことから始まる。
この「旅人」という立場は、科特隊本部で事件を待っているハヤタとは全く異なるものだ。弦太郎は、彼が不知火族の本拠を探し出す事が全ての問題の解決に繋がるため、ひたすら旅路を急ぐ。弦太郎は焦っている。
そしてその結果、佐々木守は極めて自然な雰囲気のなかで、ヒーローの本音を次々と引き出していくことに成功したのだった。

まず第1話「朝風の密使」。
不知火族の本拠を探す弦太郎と五郎は野宿をしている。その時の彼らの会話は、こうだ。
「こんなことをしてる間に、やつら東京を攻めるんじゃないかな?」(五郎)
「安心しろ。やつらが狙っているのは、まず俺たちだ。俺たちは一直線にやつらの本拠を叩くまでだ」(弦太郎)
「しかしそれだと犠牲が出るぞ」(五郎)
「大の虫を殺すためだ。やむを得ん」(弦太郎)

第4話「弦太郎孤独旅」。
一緒に旅をしていたゆき子が不知火族にさらわれた。弦太郎はゆき子を助けることより、敵ロボットを倒すことを優先しようとする。ゆき子を助けにいった五郎も捕まってしまうが、そこに弦太郎がやってきて二人は救出される。しかしロボットはその間に港湾施設を破壊してしまっていた。戦いが終わったあとの弦太郎のセリフはこうだ。
「女ひとりを助けたために、とりかえしのつかない損害を出してしまった。だから後悔しているんだ」

第5話「秋風の中の決斗」。
ゆき子が不知火族のスパイであると疑った弦太郎は、ゆき子を殴り飛ばしたうえで木に縛りつける。これを見た五郎は弦太郎に「これほど言ってもまだ人間らしい気持ちを取り戻さないのか」と言って、嘆く。

第7話「大空を征くもの」。
アイアンキングと敵ロボットの戦いに巻き込まれた山中の村に火の手が上がり、老婆が助けを求めている。が、弦太郎は
「大勢の人を助けるためだ。一人や二人に構っていられるか」
と言って敵ロボットに向かおうとする。その様子をみていた和子は、老婆が死んだことを知ると五郎に言う。
「弦太郎さんが殺したようなものよ」(和子)
「弦太郎は全ての人を助けたいがために、あえて・・・」(五郎)
「そのために一人の人間を犠牲にしていいってことにはならないわ。犠牲になった人の悲しみは、同じ経験をしたものでなければわからないわ」(和子)

第8話「影の地帯」。
旅を続けるふたりの元に、東京が敵ロボットに襲われているという連絡が入る。東京に帰ろうとする五郎と、それを止める弦太郎の会話。
「無駄なことはよせ。不知火族の根拠を俺たちは叩けばいいんだ」(弦太郎)
「お前それでも人間か。やつらのロボットのために東京はめちゃめちゃにされてんだぞ。人だって死んでるんだ」(五郎)
「そんなこと、いちいち気にしていて戦いができるか」(弦太郎)


国家警備機構の公務員としての弦太郎の言動に、矛盾はない。弦太郎は極めて職務に忠実な人間だ。それにも関わらず、誰も彼もが弦太郎を非難する。そうなるように、ドラマが作られている。
では、なぜ佐々木守には、主人公弦太郎が人々に非難される必要があったのか。それはすでに書いた通りで、佐々木守は「公」を「悪」だと見なしていたからだ。

「今でも機動隊のバスを見かけると怒りがこみ上げて体が熱くなってくるんですよ」「なぜ今の若者は国に怒りを持たないのだろう」(wikipediaより)

科特隊も、国家警備機構も、機動隊も、国も、すべて「公」に属するものだ。そして佐々木守の考えでは、「公」は「公」を守るために存在していて、決して「個」を守るものではない。だから職務に忠実な模範的公務員である静弦太郎は、時に「個」を見殺しにする。

このように、佐々木守は先を急がざるを得ない弦太郎の本音を引き出す事で、「ヒーロー番組」の主人公たちは本当にぼくら「個」を守ってくれているのか、という疑問を発しているのだろう。

では、もしもヒーローたちが佐々木守の言うように「個」ではなく「公」を守っているとしたなら、その「公」とは何だろう。普通に考えれば「公」とは「個」の集まりのように思えるところだが、佐々木守にとっては違うようだ。
佐々木守はこうも言っている。

「今の日本の諸悪の根元は天皇制にあります」(Wikipediaより)

『アイアンキング』の不知火族。
その名が示すものは、彼らが熊本〜鹿児島を出身とする集団であるということだろう。そして彼らは2000年前、大和朝廷によって滅ぼされた人々でもある・・・。

言うまでもない。彼らは「熊襲」だ。
そのクマソを再び滅ぼすため、彼らが「大和政府」と呼ぶ現政府から、一人の刺客がやってくる・・・。
これも言うまでもないだろう。静弦太郎は、あのヤマトタケルの再現だ。大和朝廷の命令を受けて熊襲を滅ぼした古代史最大のヒーローの旅を、静弦太郎の旅は再現している。
だとすれば、佐々木守が何者を「公」と見なしているかは明白だろう。ヤマトタケルに熊襲征伐の命を出した人。

天皇だ。

静弦太郎は、そして他のヒーローたちも、その実のところは「公」の最深部に潜む、天皇制を守っている。
それが『アイアンキング』の「不知火族編」で佐々木が暗に訴えていることだとぼくは思う。

つづく

テーマ:特撮 - ジャンル:サブカル

アイアンキング 独立原野党(独立幻野党)

イスラムゲリラ?

不知火族に続く『アイアンキング』の敵役は、「独立原野党またの名を幻兵団」と名乗る「この日本を転覆させようという、とんでもない革命集団」(霧島五郎談)だった。

独立原野党の首領は言う。
「同志諸君、革命だ! おれたちの時代を作るべき革命の時が今来たのだ!」
しかし実のところ、この「とんでもない革命集団」がどういう思想や信条を持ち、どういう時代を目指しているのかは作中ではさっぱり分からない。彼らはひたすら「革命」を叫ぶのみで、手がかりといえるものは彼らが不知火族と同じように日本の自民党政府を「大和政府」と呼ぶことだけしかない。

ところが幸いなことに、原作者の佐々木守自身がこの件についてきちんと説明してくれている。

「アイアンキングのいささか異色な点の第二は、闘う相手が宇宙人ではないという点である。その最初の敵は『不知火族』を名乗る日本先住民で、渡来人である大和政権の打倒を目指して襲撃して来るのである。次なる敵は『独立幻野党』を名乗り、現代まで続く大和王朝の転覆を志す革命集団である」
「このころぼくが騎馬民族征服王朝説にひかれて、日本古代史などの歴史書を調べたり、また日本赤軍の行動に関心をもっていて、昭和四八年の暮れにはレバノンのベイルートへでかけたりしていた気持ちがストレートに現れているようである」(『戦後ヒーローの肖像


戦後ヒーローの肖像』は佐々木守の晩年である2003年に出版された本で、かなり物腰の柔らかな、ゆったりとした懐の深い文体で書かれている。上原正三が初めて佐々木守に出会ったころの「オレはこの世に恐いものは何もない。そんな顔である」(『金城哲夫ウルトラマン島唄』)といった威圧感はどこにも感じさせないものだ。
それにもかかわらず、佐々木守はここで何のカッコ書きもなく「渡来人である大和政権」と言い切っている。どうやら佐々木守は、晩年にいたるまで「騎馬民族征服王朝説」を確信していたということだろう。

騎馬民族征服王朝説(Wikipedia)

ぼくは歴史学には詳しくないが、簡単に言えば、現在の天皇家は大陸からの渡来人だという説だと理解している。作家の井沢元彦さんが常々指摘されるとおり、こんなことは宮内省が5世紀前後の古墳の発掘を認めれば瞬時に決着がつくことだと思うが、現在に至るまでその正誤が議論されているようだ。
ただ、戦後民主主義に限りない可能性を追い求め、そのためにも皇国史観を全面否定したい佐々木守にとっては、騎馬民族征服王朝説は、まさに渡りに船のような学説だったことだろう。


「今の日本の諸悪の根元は天皇制にあります」(Wikipediaより)

前回の記事に書いた通り、佐々木守は『アイアンキング』の主人公静弦太郎にヤマトタケルの旅路を再現させることで、ヒーローたちが訴える「正義」や「平和」の最深部にある天皇制をあぶり出そうとした。ヒーローたちはぼくら一人一人の味方ではなく、現在の国家体制を維持するために働いている、というのが佐々木守の本当の主張だろう。
そして不知火族が滅びると同時に登場した独立原野党を使って、佐々木守はさらなる刃をヒーローに突きつける。

第12話「東京非常事態宣言」。
独立原野党党員に恋人をもつ玲子は弦太郎にこういう。
「あなたとあの人は違うわ。あの人たちは革命のために戦っている。自分の思想のために戦ってるわ。でもあなたは命令されて戦っている。そう、あなたは戦うことが好きなだけよ」

第17話「アイアンキング殺害命令
独立原野党の党員だった弟の死について語る姉、真琴。
「弟は幸せものです。だって弟は自分の思想のために、自分の考えを貫いて死んだんですもの。(中略)あなたたちも、あなたたちの考えを貫いて戦ってらっしゃるんでしょう?」

言いたいことは明快だ。
お前が守っている「正義」や「平和」が本当に正しいものかどうか、お前は自分の頭で考えてから行動しているのか、と佐々木は弦太郎に問いかけている。お前はただ無批判に、無自覚に現状を維持しようとしているんじゃないか、と。
無論、「国家警備機構」も「独立原野党」も、それを指摘したいがために用意された装置だから、弦太郎が反論することはできない。したくても佐々木守がそれをさせない。


ここで断っておきたいが、佐々木守という人は相当な天才だとぼくは思っている。
番組の視聴率やら玩具の販促やら、うるさい営業サイドの要望に応えながら、ここまで自分の思想を子ども番組に織り込む力のある作家はそうそういないだろう。またその思想も、正義を平和をそして権力を疑え、と自分の頭で考えることを子どもたちに求めるという点においては、大きな意義があったと思う。

しかし、その佐々木作品は諸刃の刃でもあった。
佐々木守が死守したがった「戦後民主主義」は、何かと極端に走りがちな日本人社会にあっては個人の権利や個人の自由を過剰なまでに追求する方向に向かい、社会的モラルやマナーの破壊につながってしまった。
さらに、皇国史観を否定したいあまりか、佐々木は日本の過去を否定する自虐史観の持ち主でもあった。当然、佐々木作品には自虐史観につながる思考経路から成立しているものが多数ある。

その代表が、怪獣ジャミラの「故郷は地球」だろう。
「故郷は地球」をぼんやり観ていると、権力の犠牲になった人には、例えそれが狂った殺人鬼であっても我々は謝罪しなくてはならない、という気になってくる。
また、『ウルトラマン』という絶対的なヒーローの「正義」に疑問符をつけた、何やら高尚な作品にも思えてくる。

が、それは間違った認識だとぼくは思う。
これまで検討してきたように、佐々木(&実相寺)は一環してヒーローの破壊を行ってきた。「名作」の誉れ高い「故郷は地球」も、その破壊活動のひとつのパーツでしかない。
もしもそれがつい最近放映されて、まだ評価も定まっていないような新作なら話は別だ。しかし「故郷は地球」が放映されたのは、もう40年も昔のことなのだ。そして確かに、40年前には佐々木や実相寺の作品群には相応の意義もあった。

しかし、ヒーローを否定し、戦後民主主義的な価値観を追求するような時代はもう終わっているのではないか。ぼくらはそろそろ、完全に自虐史観から脱却すべき時が来ているんじゃないか。

そう思うとき、「故郷は地球」や「怪獣墓場」は単体の作品として捉えるのではなく、実相寺/佐々木によるヒーロー破壊活動の一環として捉えるべきではないかと、ぼくは思う。くどいが40年も前の作品だ。全体像を捉えることは難しいことではないだろう。そしてそれら「名作」がぼくらに植え付けた思想や感覚を明確に取り出して、過去の遺物として葬り去る必要があるとぼくは思う。

佐々木守は彼のヒーロー番組を通して、子どもたちに、大人が言うような「正義」や「平和」や「権力」を疑えと言った。しかしそのメッセージの受け手であるぼくらが、無批判に「故郷は地球」や「怪獣墓場」を「名作」だと信じ込むことは、果たして佐々木守の本意を理解していることになるだろうか。
むしろ佐々木守の本意を全く理解していないからこそ、それらを「名作」だと信じて疑わない態度がとれるのではないか、ともぼくには思える。


『アイアンキング』を佐々木守によるヒーロー破壊活動の一環として捉えたとき、第三の悪役タイタニアン編は、まさにその集大成とも言えるものだった。タイタニアン編の真意を初めて理解したときの、身震いするような悪意をぼくは忘れることができない。
佐々木守は間違いなく天才だった。

つづく

テーマ:特撮 - ジャンル:サブカル

アイアンキング タイタニアン(宇虫人)

タイアニアンの嫌がらせ

アイアンキング』の最後の敵は、宇宙からやってきた侵略者「タイタニアン(宇虫人)」だった。
タイアニアンについては『戦後ヒーローの肖像』のなかで佐々木守自身が自嘲気味にこう述べている。

ここまで進んだところで(※独立原野党を指す)やっぱり敵は宇宙人にしないとだめだという意見が強くなり、結局タイタニアンという宇宙怪人が出現することになってしまった。


が、そんな不肖の子タイタニアンにこそ、佐々木守の天才性が現れているとぼくは思う。

タイタニアンに先立つ不知火族と独立原野党との戦いを通して、佐々木守が考えた「アイアンキング」という物語の主人公像がわかった。静弦太郎は、自分の頭で考えてではなく、組織に命令されて戦う。弦太郎は国家を守るために戦っているので、一人二人の個人の犠牲は仕方のないことだと思っている。
こう聞いて、それは素晴らしい英雄だ、と感心するような人はいないだろう。自分も弦太郎のようになりたい、という子どももいないだろう。

そしてその一方で、霧島五郎が変身する正義の巨大ヒーロー、アイアンキングにも問題があった。アイアンキングは、とてつもなく弱っちいヒーローだったのだ。
まず1分間しかまともに戦えない。ウルトラマンの三分の一だ。
さらに18話までは光線技もなくて、蹴ったり殴ったりしかできなかった。
その結果、アイアンキングは全26話中、実に15話まで敵ロボットに一度も勝ったことがなかった。何のために登場したのかも良く分からないことすらある。一言でいえば、デカイだけが取り柄だった。


でも考えてみればそれも当然かもしれない。人間サイズのときの霧島五郎は平凡以下の格闘能力しかない。その五郎が大きくなったからといって、いきなり最強の格闘家になるというのもおかしな話だということもできる。
一方、弦太郎はといえば、人間としては最強クラス。変身後の仮面ライダー並みの戦闘能力を誇っている。さらにはアイアンベルトという武器を所持していて、このベルトは巨大なロボットにダメージを与えられるほどの破壊力を誇っていた。
ただ、いかんせんサイズが人間なので、大きな岩を投げつけられたり、踏みつぶされそうになると対抗しようがない。
「アイアンキング」を観る人は誰でも、ああ弦太郎がアイアンキングだったら、と思うだろう。

このはがゆい気持ち。これをさらに引き出すべく用意されたのが第三の敵、宇宙からの侵略者、タイターン星雲出身の「タイタニアン」だ。
名前をみれば一目瞭然だと思う。「巨大」「巨人」。

タイタニアンは普段は人間の姿をしているから、このサイズであれば、弦太郎は5人やそこら楽に相手ができる。しかし、戦いが劣勢とみるや、タイタニアンはあっさり巨大化してしまう。しかもご丁寧に、一度人間の姿のまま巨大になり、それからおもむろに怪獣に変身する。嫌がらせもここまでやると見事というほかはないだろう。

こうして弦太郎は一気に苦戦に陥る。すると五郎がアイアンキングに変身し、いつの間にか覚えたらしい光線技の一撃で怪獣を片付けてしまう。弦太郎はアイアンキングに深く感謝するのだった・・・。

そしてクライマックスがやってくる。
第25話「アイアンキング大ピンチ」、第26話最終回「東京大戦争」。
ここで霧島五郎すなわちアイアンキングはタイタニアンに催眠術をかけられ、からだを乗っ取られてしまう。アイアンキングはタイタニアンと一緒になって、東京の破壊を始めた。ちなみにこのときアイアンキングが破壊しつくした地名は大和町(大和朝)一帯だ。タイタニアン編にも、きっちりと佐々木守の反皇室(反大和朝廷)思想は生きているわけだ。
では、この東京最大のピンチに弦太郎はどうしたか?

・・・何もしなかった。
1分たてばアイアンキングが消えてしまうことを良く知っていたので、ただだまって見物していた。そして弦太郎が考えたとおりにアイアンキングは五郎に戻り、ちょっとしたハプニングでさらに強いアイアンキングに生まれ変わった。弦太郎とアイアンキングは協力してタイタニアンを見事に全滅させたのだった。
めでたしめでたし・・・・。


と言っても、めでたいのは佐々木守にとってのことだ。『アイアンキング』を通して、佐々木守はついに彼が目指した巨大ヒーローの破壊を完成させたといえるだろう。

一般に「巨大変身ヒーローもの」では、主人公とヒーローが一体になっている。
これは、それが子どもに必要な成長物語として想定されたものだからと考えていいだろう。子どもは巨大ヒーローに憧れる。しかし、いきなり巨大ヒーローにはなれない。まずは巨大ヒーローに変身する主人公になるべく、人間としての努力を重ねなくてはならない。だからその主人公こそが、大人が子どもに願う理想の姿でなければ意味がない。
この図式をそのままドラマにしてしまった作品としては『帰ってきたウルトラマン』などがあげられるだろう。

しかし『アイアンキング』はどうか。
主人公にもアイアンキングにも共感すべきものが存在しないうえ、この両者は別人で、そこには連続性がない。静弦太郎をとれば巨大な敵には手も足も出ず、アイアンキングをとれば水をガブガブ飲んでいるばかりの三枚目だ。

問題は、そういった状況にも関わらず『アイアンキング』が立派に「子ども向け特撮ヒーロー番組」のカテゴリーのなかに存在しているということだろう。侵略者がいて、その手先の怪獣やロボットがいて、颯爽とした主人公がいて、巨大ヒーローがいれば、それは十分に成立してしまう。たとえ、主人公がヒーローになる、という成長物語が欠落していてもだ。


実のところ、佐々木守が否定したかったヒーローとは、どうやらこの「変身」部分にあったように見受けられる。
戦後民主主義者である佐々木守にとって、何より大切なものは「個人」だった。個人の自由や権利こそが至上の価値だった。だったらヒーローはその「個人」を守るものでなければならない。

どこかで不幸に泣く人あれば
かならずともにやって来て
真心こもる愛の歌
しっかりしろよとなぐさめる
誰でも好きになれる人
夢を抱いた(いだいた)月の人
月光仮面は誰でしょう
月光仮面は誰でしょう


戦後ヒーローの肖像』のなかで、佐々木守は川内康範作詞の『月光仮面』主題歌を延々と引用しているが、月光仮面はいわゆる「変身ヒーロー」ではない。祝十郎は「変身」するのではなく、月光仮面に「変装」するだけだ。また、祝十郎は民間の私立探偵であって、科学特別捜査隊や国家警備機構に配属された公務員でもない。

この違い。

この祝十郎とハヤタや静弦太郎との違いにこそ、佐々木守は戦後ヒーロー像の変質を見た。そして後者を否定した。つまり、個人が個人の範疇で、個人の意思で、個人の力のみで、他の個人を悪の魔の手から守ることが佐々木守にとっての正義のヒーローだった。だから「公」に属し、現在の国家体制の維持・防衛をするハヤタや静弦太郎を「ヒーロー」と認めることはできなかったのだろう。

しかしかつてのヒーローたちは走った、飛んだ、蹴った、殴った、怒った、叫んだ、時には泣いた・・・。そこにはまぎれもなく人間がいた。見ている子どもたちの感情をそのままに引き受ける、生きた、血の通った人間がいた。(「『月光仮面』と初期のテレビ映画」)


「ヒーロー番組」は、子どもたちに正義を愛する心を教える・・・。
佐々木守はそういった制作側の大人の態度を、嘘であり欺瞞であると言いたかったのだろう。「ヒーロー番組」は正義を愛する心ではなく、現在の国家体制を正当化し、それを維持したがる心を植え付けるためのものだと。

だから佐々木守は、子ども〜主人公〜ヒーローという成長物語の構造そのものを破壊しようとした。ジャミラ、ガヴァドン、シーボーズなど「正義」の名の下に排除されるいのちを強調した。
佐々木守が紛れもなく天才だと言うのは、『ウルトラマン』にしても『アイアンキング』にしても、そのヒーロー番組としての基本構造に手を加えることなく、それらの破壊活動を実現させてしまったことに尽きると言ってもいいだろう。

がしかし、繰り返しになるが、そういった思想は何かと極端に走る日本人にとっては自虐史観の温床にしかならなかった。日本が抱える本当の問題の解決につながることはなく、むしろ解決を遠ざける結果になってしまった。
そのように、ぼくには思える。

では、本当の問題とは何か。ぼくはそれは、国家と民族の自立にあったのではないかと思う。
そして実のところ、ウルトラシリーズのメインストリーム、すなわち金城哲夫と上原正三は秘かにその問題に立ち向かっていたようにぼくは思っている。

つづく




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