逆襲のジャミラ

逆説のHERO評論(特撮・アニメ)※「ウルトラマン『故郷は地球』は名作か?」「怪獣ジャミラは可哀想か?」という疑問から始まったブログ。ヒーロー番組に仕込まれた自虐史観について考察中。

ジャミラは可哀想か?(ウルトラマン怪獣)

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ある国にジェイソンという科学者がいた。
彼の専門は宇宙工学にあり、彼はエリート中のエリートとして、志願して有人人工衛星のパイロットになって宇宙に飛び出していった。しかし思わぬ事故が発生し、ジェイソンの乗った人工衛星は軌道を離れてしまう。通信機能も故障してしまったらしく、その国の宇宙局はジェイソンと連絡が取れない。広大な宇宙では、ジェイソンの人工衛星を探すことは困難を極めた。宇宙局はジェイソンからの通信を待つしかなかったが、やがてはそれも諦め、ジェイソンは死んだものと判断した。ただし、宇宙開発に対する一部の世論の反発を怖れ、この事故については公表を差し控えた。

ところがジェイソンは生きていた。
彼は宇宙をただよった末に、ある惑星に漂着していたのだった。
ジェイソンは、どんなに困難であってもエリート中のエリートである自分を彼の国の宇宙局は探し出すべきだと考え、通信機能の回復をしなかった。しかし、いつまでたっても救援が来ないことに恨みを持ち、やがて彼の人工衛星を宇宙ロケットに改造しはじめた。彼はすでに発狂していて、宇宙局への恨みは、いつしか人間全体への恨みにすり替わっていたのだった。

十数年という年月をかけて宇宙ロケットを完成させたジェイソンは、恨みの心だけを持って地球に帰ってきた。
彼は地球に降り立つや否や、無差別に大量殺人を開始した。少なくとも2機の大型旅客機が爆破され、1隻の客船が沈没させられた。数百人から数千人に及ぶ、何の罪もない人々が殺害されていった。
捜査隊はジェイソンの宇宙ロケットを見つけ出して破壊するが、ジェイソンはなおも山中に逃げ込み、手近かな山村を焼き払った。ここでも、人々のささやかな幸せはジェイソンによって奪われていった。
そしてついに、ジェイソンを説得して逮捕することを諦めた捜査隊は、ジェイソンを殺害するに至ったのだった・・・。



以上は、『ウルトラマン』第23話『故郷は地球』を客観的にみた、あらすじだ。ただし、怪獣となった宇宙飛行士ジャミラの名前を、『13日の金曜日』の殺人鬼ジェイソンに代えて書いてみた。

そもそも「ジャミラ」というネーミングは、アルジェリアの独立運動家、ジャミラ・ブーパシャに由来するという。現実のジャミラさんは、爆弾テロ未遂事件の容疑者として逮捕され、フランス当局による凄惨な拷問を受けたそうだ。そしてこの事件は重大な人権問題として、時のフランス政府を揺るがすことになったとWikipediaに書いてある。

『故郷は地球』(監督・実相寺昭雄/脚本・佐々木守)は、怪獣にジャミラと言う名前を与えることで、現実のジャミラさんのイメージを付与しようとした作品だ。そうすることで彼らは、怪獣ジャミラの物語が人権問題を含んでいることを示唆している。要するに印象操作だ。
だからぼくも、ジャミラをジェイソンと呼ぶことで、殺人鬼のイメージを付与しようとしてみた。これもまた、印象操作だ。

実際のところ、年季の入ったおじさんの視点からみてみると、怪獣ジャミラは自分を捜索してくれない人間に恨みを持ち、無差別大量殺戮に走った幼稚なテロリストでしかない。そしてジャミラは全人類に対する恨みを持っているんだから、放置しておけば人類は滅亡してしまう。これは凶悪だ。

しかし、このような殺人鬼のストーリーが、長らく『ウルトラマン』シリーズ屈指の名作として高く評価されてきた。ためしにネットで検索してみると「悲劇」「不運」「かわいそう」と言った乙女チックな言葉が、怪獣ジャミラに添えられていることがわかる。
そして、実を言うとこのぼくも、小学生の時に『故郷は地球』を観たときにはジャミラは「かわいそう」だと思い、それを排除しようとする科特隊とウルトラマンに激しく憤慨した一人だったのだ。

怪獣ジャミラの断末魔の声には、人間の赤ちゃんの泣き声が使われているという。それは、普通の感覚を持った人間には、およそ無視できないものだ。誰しも必ず何かしらの感情がわき起こるように、赤ちゃんの泣き声はできている。
一事が万事なので、いちいち説明はしないが、『故郷は地球』における殺人鬼ジャミラが「かわいそう」に見えるのは、このような高度な演出の積み重ねによるものだ。極端に言えば、映像による印象操作、洗脳の結果、殺人鬼ジャミラが「かわいそう」に見えるように作られているということだ。だから純朴な美しい心を持つ人ほどジャミラが「かわいそう」に見える。

もちろん、脚本のほうも凶悪だ。
少なくとも科特隊は人々の平穏な暮らしを守るために怪獣ジャミラを排除した。それにもかかわらず、なぜ科特隊が悪いやつらに見えるのか。それは、怪獣ジャミラが元は人間だったという点が、ことさらに強調されているからだ。人間が人間を殺していいのか、という一見もっともな問いかけがここにはある。

しかしジャミラを巨大な怪獣ではなく、人間サイズのジェイソンだと考えてみたらどうだろう。おそらくジャミラに涙する乙女たちですら、即刻の射殺を要求するはずだ。ジェイソンのほうがジャミラより人間に近いにも関わらず。
つまりここでは、怪獣という形態じたいが、ジャミラの本質を隠蔽していると見ることができる。怪獣という形態が持つ、巨大であることの悲しさ、哀れさが、『故郷は地球』では悪用されているわけだ。

そして脚本は、ジャミラが「被害者」であることも強調する。ジャミラは「被害者」だから、無差別殺人にもジャミラなりの正当性があると主張する。ただし、この時、ジャミラに蹂躙された数千の人々の被害には言及されない。

こういった態度は、現実世界でもしばしば目にすることがある。一つは人権派を名乗る弁護士グループなどによる殺人鬼弁護の態度。もう一つが、朝日新聞や毎日新聞などによる特定アジア弁護の態度だ。
前者の異常さについては、普通の感覚を持った成人が惑わされるようなものではないだろう。問題は後者だ。「南京大虐殺」「従軍慰安婦」に代表されるでっち上げを行い、繰り返し繰り返し特定アジア地域への謝罪を要求する左翼系マスコミの態度の根底には、それら特定アジアを「被害者」だとする見方がある。「被害者」は罪もない「善」であり、加害者は一方的な「悪」であるという単純な決めつけがある。ただしこのとき、「被害者」がどのように「善」であるかの検証はなされない。


ジャミラの「かわいそう」さを支える「善」。それはジャミラが「被害者」であるということだ。だからぼくたちは、被害者ジャミラの犯す罪については目をつぶらなければならない・・・というような感覚は、まさしく左翼系マスコミが主張する「かわいそうな」特定アジアに日本がとるべき態度というやつと一致する。一言で言ってしまえば「自虐史観」と呼ばれる思考と一致する。であれば『故郷は地球』は、自虐史観を子供たちの脳に植え付け、増幅させる装置として作られた作品であることは疑いがないだろう。

いくら『嫌韓流』や『戦争論』にうなずこうとも、ジャミラを「かわいそう」だと思う心がある限り、自虐史観から逃れることはできない。それは、純朴だった幼少期に心の奥底に秘かに埋め込まれたICチップであり、トラウマとなって「かわいそう」な感情には抗えないようにぼくたちを呪縛する。


このブログでは、幼少時にぼくらが観てきた作品を、中年になったおじさんの視点からアレコレ考えてみたいと思う。そこにはまず、ぼくらを自虐史観の暗黒に引きずりこもうとする作品群がある。それは『ウルトラマン』における佐々木守作品であり、『仮面ライダー』等の東映ヒーローであり、『巨人の星』も含まれるだろう。
しかし一方で、日本人を自虐史観の呪縛から解き放とうとした作品群もある。『レインボーマン』や『宇宙戦艦ヤマト』は言うまでもなく、実は『ゴジラ』シリーズもその一つだったとぼくは考えている。

つづく

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