2010年6月10日木曜日

政治と芸術との関係をめぐる、ある重要な議論

『紫陽』21号掲載の竹村正人くんの詩「詩人は ―渡辺玄英氏に」を、河津聖恵さんがご自身のブログ「詩空間」で紹介しています
『現代詩手帖』2010年1月号で、渡辺玄英さんは自身が担当する詩集評において河津聖恵さんと野樹かずみさんによるシモーヌ・ヴェイユへのオマージュ『天秤 ―わたしたちの空』を批判的に取り上げたのですが、竹村くんの詩はその詩集評に窺える看過し得ない問題に対する意思表明として書かれたものであり、河津さんのブログ記事は玄英さんに対する当事者としての直接的な反論です。

とはいっても、実は玄英さん個人の問題というよりは、玄英さんを包んでいる現在の批評空間に蔓延するシニシズムという病についての話だと思っていただければいいでしょう。
(渡辺玄英さんは現代詩界においては良質な批評家であることを、誤解のないよう注記しておきます)
言論活動においては無菌室のような安全な場所などありえないわけですから、当然、かくいう僕自身もそのような陥穽とは無縁でありえず、それゆえ常に自らの立ち位置への反省が要請され続けるわけです(『紫陽』というインディペンデントな詩誌を7年も続けているのはそのような要請への実践的な応答だと思ってください)。しかし、僕もまたシニシズムに対しては激烈な論調で糾弾する立場をとりますし、何かを主張するということは常に既に戦略的なものを含み込む以上それが矛盾であるとは思っていません。

さて、そのシニシズムの特徴は、誰もが加害者にもなり被害者にもなりうる構造を絶対的に「相対化」し、その構造ゆえに巧妙に覆い隠された断絶線を、あぶり出し告発する者たちに対して(時に露骨な)不快感を示すというもの。ですが、それは何も詩に限ったことではなく、権威化したメディアにおいては広くみられる現象です。

しかしそれがあまりにも普通な顔をしているせいで、この病に冒されていることに多くの人が気づかず、また気づいても容易には向き合えません。それは詩の世界であれば“現代詩”と呼ばれるものの成立を可能にしている条件そのものにかかわる問題だからなのでしょう。

70年代のある時期、大阪梅田の紀伊國屋に納品された詩誌『白鯨』100冊が完売したというエピソードがあるのですが、詩が売れた時代というのは確かにありました。思潮社の『現代詩手帖』であれば1977年の黒田喜夫特集や1978年の石原吉郎追悼特集など素晴らしい特集が組まれ、現在の『現代詩手帖』と同じ雑誌であることが信じられないくらいの輝きを、今なお放っています。
2010年代に入った今となってはおとぎ話のようなエピソードですが、当時は詩がある社会的なリアリティをもっていた、つまり現実社会との間にホットな回路をもっていたということがそれを可能にしていたのだと思います。

近年、河津聖恵さんがなされている活動は、1991年の藤井貞和と瀬尾育生(及びその背後にある詩壇の顕然/隠然たる力)による湾岸戦争詩論争以後、無惨なまでに断ち切られてしまった回路をふたたび結びなおす取り組みであるともいえるでしょう。

ともあれ、河津さんのブログでは政治と芸術の関係をめぐって、玄英さんや竹村くん(駄々村くん)も交えた非常に有意義な議論が展開されていますので、一読されることをお薦めします。
途中、つまらないコメントをする人もいますが、それも含めて有意義であると。


◆河津聖恵ブログ「詩空間」2010年6月8日
http://reliance.blog.eonet.jp/default/2010/06/post-3d86.html



▼政治と芸術との関係について書いた過去の記事(参考までに)
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2010/03/blog-post_07.html
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2010/04/37.html
http://zatsuzatsukyoyasai.blogspot.com/2010/05/blog-post_06.html

5 コメント:

匿名 さんのコメント...

河津さんのブログにコメントをした、
つまらないコメントをする(?)天敵という者です。
河津さんのブログでは口を塞がれ、排除されてしまったので、
駄々村さんへの応答をこちらに書いてみました。
http://peacemedia.jp/take/take0907.html/comment-page-1#comment-456

天敵 さんのコメント...

あと、

>誰もが加害者にもなり被害者にもなりうる構造を絶対的に「相対化」し〜

について。
端的に間違っていると思います。
誰もが加害者にもなり被害者にもなりうる構造を指摘すること、
暴くことが「相対化」です。
構造の絶対性を指摘しているのであって、
相対化などしていないでしょう。
そして、これはシニシズムではなくラディカリズムですよ。

亰彌齋 さんのコメント...

天敵さん、
あなたのやっていることはブログ荒らし以外の何ものでもないですよ。
駄々村くんに完膚無きまでに批判されていながら、こんなところにまでやってきてとんちんかんなコメントをするあなたとは生憎、議論する気にはなれません。

琴線に触れたのなら、あなたの心の内奥にある琴線と向き合うべきなのではないですか。
老婆心ながら、ヤスパース『哲学 第2巻 実存開明』をお読みになることをお薦めいたします。

尚、あなたのコメントをここでさらし者にするのも気の毒ですので、2件のコメントは近々削除いたします。

あしからず。

亰彌齋 さんのコメント...

天敵さんはピースメディアの記事に駄々村くんへの応答を書いたとおっしゃいますが見当たりません。管理者によって荒らしと判断され削除されたのでしょう。

天敵 さんのコメント...

やれやれといった感じですが……(笑)。
http://peacemedia.jp/take/take0907.html/comment-page-1#comment-456
このURLなんですが、見れませんか?
内容は以下の通りです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

http://reliance.blog.eonet.jp/default/2010/06/post-3d86.html#comments
へ応答を書き込んだのですが、
河津さんが不誠実、幼稚と言うより他ない態度を取り、
掲載を拒むので、ここへコメントします。お許しください。
駄々村さんへ。
>面識のある方ならそのつもりで議論したいのですが、
>できれば最低限、関係者にそれとわかるペンネームを使ってもらえませんか。
心当たりのある方でもおられるのでしょうか。
残念ながら、河津さんとも駄々村さんとも面識はありません。
>河津さんには排除すべき敵がいると推測されていますが、根拠はなんですか?
結果論になりますが、
「倒錯したよろこびのために汚い観念の言葉を投げつけてくる」、
「朝鮮学校への無償化適用を反対する人々」、など、
引き出すことの出来た具体的な言明です。
>真偽不明であることと、真偽を問うことができないこととは別の問題
駄々村さんがおっしゃる「真偽を問うこと」とは、
「善悪/美醜を問うこと」なのです。
規範/価値命題と事実命題の弁えを明確にお願いしたい。
規範/価値命題について真偽を問うことは無意味です。
一方、「善悪/美醜を問うこと」は、有意義かつ必要であり、
これが政治であり、つまりは「闘争」です。
駄々村さんはこの「闘争」をやりたいのだとおっしゃられているわけですが、
もちろん、大いに為されたらいいと思います。
あらゆる価値観は絶対的に相対的であり、アド・ホックでしかない。
しかし、この事実をネガティブに捉える必要はありません。
何しろよくよく考えれば、絶対的に可変的であるということなのですから。
要するに、いつでもどこでも、すべてを覆し得る。
だからこそ、希望が持てるのだと思います。
もっとも、留意すべき点ももちろんあるでしょう。
「闘争」においては、敵の抑圧・排除が不可避であり、
時として抹殺することが必要になるかも知れません。
「覚悟」についての私の言及は、この留意点の認識に基づきます。
>自身の言動が間違っている可能性を認識することと、
>「これは正しい」と主張することとは矛盾しません。
事実命題を言明しているという前提が自明視されている様ですが、
果たしてそうでしょうか。
繰り返しますが、規範/価値命題と事実命題の弁えを明確に。
>匿名で書かれているあなたはどうなのですか。
匿名であれ顕名であれ、指摘、問い掛けが届くなら、
何も問題はないと思います。
>どうも自分の主張は相対化できていないように見えます。
実にありがちな錯覚です。
「規範/価値命題は常に真偽不明である」。
これは真なる事実命題なのです。価値命題ではありません。
しかしながら、コミュニケーションにおける事実命題の言明、
そのパフォーマティヴィティについては、
言語哲学上の重要な課題であると認識しています。
つまり、「1*1=1」は真なる事実命題であり、
政治的負荷のないニュートラルな必然的真理ですが、
これを他者に対して言明する場合、
例えば1*1=11という人に対して1*1=1だと言う場合には、
文脈が発生し、否応なく政治性が付加されるという問題です。
真と善、偽と悪の混同を招く恐れがあることについては、自覚があります。
けれども、1*1=11という人に対して1*1=1だと言うことが、
少なくともデマゴギーでないことには同意して頂けるでしょう。
>その時点で間違っている可能性を抱きながらも、
>過去を反省しながら未来に賭けるしかないのです。
敵を抑圧し排除しようとしていること。
抹殺したいという欲望すら抱えていること。
常に敵と等価であること。
敵が邪悪で下賎ならば駄々村さんも邪悪であり下賎であること。
どうか自覚して下さい。
自分たちは「まっとう」で、敵どもは「まっとう」でないというのは、
端的にフィクションです。何の根拠もありません。
あまりにも粗雑で、短絡的です。
自分が権力者になったとき、自らに抗う者たちをどう遇するか、
想像して下さい。投獄しますか? それとも、処刑しますか?
>ヘイト・スピーチだから妄信だ
この様なことを言った覚えはありません。
自らの価値観への懐疑を徹底的に欠いた、
身も蓋もない自己陶酔を腐したまでです。
「嘘よりも悪質な信念がある」。
ニーチェの言葉であったと思います(間違っていたらすみません)。

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