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2009年9月27日(日曜日)

大栄丸から遺体が次々に、悲痛にくれる生月島

佐世保、相浦港から瀬渡し船をしたたて、平戸島に向かう。
波はベタなぎ、アブラなぎと言っていいくらい穏やかだが、船は波を桁たて全速力で走る。
海面にはうっすらと霞がかかっている。
先方にようやく、大きな船影が現れた。
第11大栄丸だ。
これまで、再三、民主党内で「長崎漁船事故検証小委員会」を立ち上げて、海底80メートルに沈んだ大栄丸の引き上げを求めてきた。
ブログでも7月5日と7月17日に、そのいきさつを書いている。
「先ほど、10時10分にもう1体の遺体があがりました・・・・・」
次々に報告が入る。
今回は農水省の副大臣として、引き上げられただ船体をこの目で確かめて、2度とこのような惨事が起こらないように、「運輸安全委員会」(折りしも西日本JRで委員が会社側に情報を漏らしたとか話題になっている)に厳格な調査の督励に来たのだった。
・・・・・船台に上がる。
さすがに135トンのまき網の本船だけに、どでかい。
船首部分がへこんでいる。船側も一部しゃくれている。
大栄丸のデッキのすぐそばまで登った。
青いペンキの船側には、沈潜して半年もならないのに、すでに白いフジツボがびっしりとついている。
船上はマストに網がかかったままで、まだ船室の片付け、遺体の捜索が続いている。
私たちは最後に、民主党長崎県連の高木先生たちと一緒に献花して、そっと船を離れた。
生月島で、遺族の方々にお逢いした。
「・・・ありがとうございました」と声をかけられて、これでよかったのだと思った瞬間、
「山田さん、私の息子はまだ、発見されてないんです」と初老の奥様が私の手を握ってきた。
「・・・・・・・・・・・」

記者会見で今回の引き上げは「異例のことでしたね」と聞かれた。
そうではない。海洋汚染ならびに海洋災害防止法43条では「困難でない限り船主は引き上げねばならないことになっている。
そのために「船主保険」に6億円の限度で加入していたのだ。
保険の約款からしても、長崎県が「法律を変えない限り、保険金の支払いはできない」と家族に説明したのは間違いである。
今回、引き上げて、油を抜くなど無害化工事をして宇久島沖まで運ぶ費用まで保険からの支払いで3億円もかかっていない。
これまでも、昨年は千葉沖で同型の船諏訪丸が転覆し、それ以前にも転覆して16人の死者が出ている。たいした時化でもなかったのに。
いずれも困難でない限り引き上げねばならなかったのだ。
運輸安全委員会は、徹底した原因究明をして、今後は若い乗組員が安心して、まき網漁船に乗れるようにしなければならない。
余計なことだが、漁礁にする工事は、平戸でもできるのに、何故か広島まで、大栄丸を曳航して工事するそうだが、できれば地元の業者にさせていただきたい。
白浜平戸市長さんが、そう叫んでいた。

 

 


2009年9月21日(月曜日)

「大臣は許しても、私は許さない」

国会、政府連絡室で初の政務3役会議が行われる直前での出来事。
赤松大臣がにこやかに入ってきた。
すでに農水省官僚、井出事務次官はじめ幹部が7,8人揃っている。
「みんな副大臣たちに挨拶したか」
「大臣、私は次官から挨拶は受けない」
私は咄嗟に、そう言っていた。
「山田さん、これまでいろいろあったろうが、昨日歴史的和解をしたのだ。今度は民主党の大臣のために心底忠誠を尽くすといっている・・・・」
赤松大臣が私をたしなめた。
「大臣は許せても、私は許せない」
その場に緊張が走る。
私は井出次官、農水省幹部たちのほうに向き直って
「次官、君はこれまで民主党の農業戸別所得補償政策を批判してきたではないか。
マスコミには政権が交代しても前言は撤回しないと言っているそうだが・・・」
詰問した。
「それは、私の言葉足らずで・・・・・・・・・」
と意味不明の弁解をする。
私は聞いているうちに腹立たしくなった。
「次官、前言を撤回すのか、しないのか、はっきりして欲しい」
「・・・・・・・・・・前言を撤回します」
と深々と頭を下げた。

ただそれだけのことだが、私の胸のうちは複雑だった。
脱官僚政治への道のりはこれからである。


2009年9月12日(土曜日)

「ああ、モンテンルパの夜は更けて」の実話ドラマに感動

「チロリン、チロリンリーン、リーン・・・」
耳を澄ますと、虫の鳴き声がどこからとも無く聞こえてくる。
コオロギ、マツムシ、キリギリス・・・・など、その鳴き声も次第に大きくなって、秋の夜更けの盛大なオーケストラだ。
最後の華やかな演奏を、ありったけの力を振り絞っているのかと思うとなにやら、秋の夜はもの悲しい。
スパンの長短はあっても、人間の人生も、精一杯、競って、競って、そして最後を迎えるのだろうか。
そんな物思いにふけりながらテレビのスイッチを入れると、私はすっかり惹きつけられてしまった。
渡辺はまこさんの懐かしい「モンテンルパの夜は更けて・・・」の歌にまつわる事実だ。
歌のメロデイは子供のころから、耳によく馴染んでいたが、そのいきさつには、不明にも全く知らなかった。
戦後、「名指し裁判」と称して、フイリッピンでは戦争中、多くの住民が日本軍によって虐殺、強姦されたとして、多くの若い日本兵がB級戦犯だとして逮捕され裁判にかけられた。この人だと写真に名指しされるだけで、死刑囚となり、モンテンルパの刑場に消えていったのだ。
今も、アフガンなどで続けられている戦争とはそのようなものかもしれない。
当時、戦後7年も経て、日本はサンフランス条約でようやく独立、日本国民が沸き立っていた。
そのころモンテンルパの収容所では、明日処刑されるかもしれない若い日本兵(死刑囚)108人が不安におびえて絶望的な日々をおくっていた。
歌手、渡辺浜子さんは、戦争中日本軍の命令で戦地で「支邦の夜」「蘇州夜曲」などを唄って慰問に回っていた。
歌で慰撫した多くの若い日本兵が帰らぬ人となり、自責の念に駆られているとき、新聞に小さく「モンテンルパで14人が処刑」とかかれてあるのを読んで、復員局を訪れ遺族を調べては、一軒一軒と慰問に歩いた。
モンテンルパの刑務所では、日本から派遣された僧、加賀尾師が必死になって絶望の淵にあえいでいる日本兵(死刑囚)を励まし続けていた。
そして、「ああモンテンルパの夜は更けて」の歌が生まれたのだ。
作詞は代田銀太郎元大尉、作曲は伊藤正康元大尉、いずれもモンテンルパに収容されている元日本兵死刑囚だった。
渡辺はまこは、その歌を歌って、モンテンルパに慰問に行く決意をする。
当時のことで、国交も無く、戦後1年間戦犯とされ捕虜となっていた渡辺はまこに入国を認めるはずが無い。
香港経由で違法渡航を試みる直前、ビザがおりた。
当時のモンテンルパでの渡辺はまこの収容所での慰問がそのまま、録音されて残されていた。
渡辺はまこは泣きながら唄っていた。
最後に加賀尾師の悲痛な搾り出すような声「強く生きよう、日本の土を踏むまでは」は私の耳から離れない。
とうとう、妻子を日本兵に殺されたキリノ大統領の胸を打って、全員が特赦で日本へ帰ることができた。
私は、「ドラマ戦場のメロデイ」を見終わって、ふっと息をついた。
渡辺はまこさんの歌を歌う姿勢、加賀尾師、元日本兵一人ひとりの姿勢が実に整っていて美しい。
これこそ日本のよき伝統なのではないだろうか。
失われてしまったのだろうか。
はまこさんの
「私には唄うことしかできない。唄うことで何とかモンテンルパの元日本兵を救いたい」
その一念が死刑囚となった108人の若い日本兵を救うことができた。

番組が変わった。
若い芸能人のお笑い番組だが、その軽薄なお喋りが、私にはやりきれない思いで、再びスイッチを切った。
再び、秋の夜更、虫の鳴き声も、滝の流れのように大きくなっていく。


2009年9月6日(日曜日)

無限清風、干刈あがたさんの17回忌で教えを受ける

干刈あがたさんと言っても、朝日新聞にも「黄色い髪」を連載した女性の作家で「ウホッホ探検隊」など芥川賞の候補になり、映画化されたことなど知っている人も少なくなった。
すでに亡くなって17年になる。
それでも、熱心な読者、高校時代の友人などで毎年、青梅市の宗建寺で「コスモス忌」偲ぶ会が催されてきた。
私にとっても、彼女のことは生涯忘れることのできない思い出がある。
彼女は学生時代、私が早稲田で蕎麦屋さんの2階で「早稲田キャンパス新聞」を創刊したときの、最初の部員だった。
当時、安保闘争の後で学生運動の盛んなときだった。
いっぱしの革命家を気取っている学生も多く、ましてや新聞会などでいろんな仲間が集まった。
私がボスで、皆に「バンチョウ」と呼ばれていた。
編集会議では、口角泡を飛ばして大激論を戦わすが、私は理論闘争には、腕力があれば負けることはないと妙な自信があって、明け方近く、いつも最後は私の言いなりになった。
彼女は口論に加わることなく、おとなしい控えめな感じで、いつも私のそばにいて、広告とりから、原稿までよく書いてくれた。
それでも、いきいきとして群れの仲間、女子学生の中では一番存在感があった。
若い二人である。いつの間にか、淡い恋が芽生えた。
招かれるままに、彼女の家に遊びに行った。
円い小さな「ちゃぶ台」をはさんで、二人で向き合ってお茶を飲んでいるとき、何かの調子で肩が触れた。そのまま接吻。
私にとっても初体験。3日ぐらいは彼女の口移したときの肉の匂いが私の頭から離れなかった。淡い恋心だった。

ところが、彼女は突然、私にも何も言わずに、早稲田のキャンパスから去った。
当時の仲間にも誰にも、それ以後何の連絡することもなく。
それ以後、私は2度と彼女に逢うことはなかったのだ。

私は五島列島で牧場を開き、牛400頭を飼い、肉豚だけで年間8000頭出荷、肉店まで開いて、県庁前に牛丼屋も。悪戦苦闘に明け暮れて、東京のことなど意識の外にあった。
いつか衆議院選に挑戦、1993年始めて当選したとき、学生時代の友人から彼女の小説「ウォークインチャコールグレー」を渡されて、驚愕した。
彼女は著名な作家になっていたのだ。
「実は、昨年亡くなりました・・・・・・」と告げられ、その夜、私は夢中でその本を読んだ。
・・・・・・・私の学生時代のことが克明に描かれている。
懐かしさが込み上げてくる。生きていてくれればと無性に逢いたくなった。

その彼女が亡くなってすでに17回忌の「コスモス忌」偲ぶ会が、9月6日催された。
久しぶりに私も参加した。
本堂に、和尚の「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。・・・・・・・」の読経が続く。

宗建寺は青梅市に開山されて250年、臨済宗の名刹である。
若い和尚が淡々と語る。
「開山の祖が『無限清風』と語られたのです。どうですか、一服のさわやかな風が吹いてきませんか」
そういわれれば、心地よい一陣の風が吹き渡る。
「・・・・・いろいろあっても、いつも心の中は清い風が吹き渡っている、そんな心境になりましょう」
そうか。ようやく政権が交代して新しい政治が始まる。
政権交代に向けての人事が、次から次に進んでいく。凡なるかな、皆が心中は穏やかではない。
ピリピリと張り詰めた重苦しい空気が漂っている。
そうだ、今、清い風が吹き渡っている心境になれれば、私も救われる。
無限清風、無限清風・・・・・・・・・・。
何かしら、干刈あがたさんが、鼻をくすんとさせて、笑いかけてきたような気がした。


2009年9月3日(木曜日)

政権交代―私の選択は間違っていなかった

赤味を帯びた下弦の月が、大村湾の対岸、山裾に低く照っている。
靄がかかってくる中、海面は月の明かりにきらきらと輝いている。
綺麗だ。
一瞬の静寂。先ほどまでの選挙事務所での喧騒が嘘のようだ。
1日、午前12時10分。
私は車を東彼杵町の選挙事務所に急がせていた。

勝った。ようやく選挙区で自民党候補を破って、間違いなく当選したのだ。
改めて、嬉しさが込み上げてきた。

考えれば、最後まで、息の抜けない壮絶な戦いだった。
県知事(相手候補の子供同士が結婚)、市長、町長、県、市議会議員が鉢巻をして選挙区に繰り出してくる。
農協、漁協の団体組織が、烈風のように押しだしてくる中、みんなが本当に最後まで頑張っていただいた。
ありがたい。
翌日の地元紙には「固い保守地盤突き崩す、山田さん悲願成就」「山田さん粘り勝ち」とか活字が躍っていたが、総じて「組織」に対しての草の根の運動の勝利と書かれてあった。
なかでも「山田さんは、超―ドブ板選挙を展開して・・・・・」とあったのには恐れ入った。

思うに、私は佐世保駅前に10年間、朝立ち(街頭)に立って、1993年中選挙区の時代トップ当選を果たした。
小選挙区になって、佐世保市と五島、壱岐対馬など離島部に選挙区が別れたとき、私は当時佐世保重工業(SSK)などの応援も得ていたので、誰しもが長崎4区、佐世保市から出馬するものと考えていた。
私はそうでなかった。長崎3区、離島部の固い保守地盤を選んだのだ。
離島のこと、過疎地の農業、漁業のことを、本気で取り組むのは、私しかいないと思い込んでいた。
皆から「馬鹿」だの、「アホ」だのと笑われた。
そして自民党の虎島和夫氏に挑戦したが、見事、敗退して議席を失った。
それでもあきらめなかった。
五島、壱岐対馬などをこつこつと歩き続けて挑戦を続けたのだ。
ありがたいことに、私の熱烈な支持者は少しずつだが増え続けた。

虎島和夫氏が防衛庁長官を経て引退するにいたって、なかなか後継が決まらず、私に自民党から出馬の話があった。
私は即座に断った。
自民党で議席を得ても何も変えることはできない。政権交代を成し遂げなければならない。

今回、念願の離島部から、固い保守地盤を破って、選挙区から当選できたのだ。
しかも圧勝して、民主党は308議席を獲得、明治維新以来の官僚政治を打破する革命的な勝利をものにした。
これから、見放された過疎地、生きる力が弱くなった人達への新しい政治の1ページが開かれる。
私の選択は間違っていなかった。


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