「いつも変わらなくてこそ本当の愛だ。一切を与えられても、一切を拒まれても、かわらなくてこそ」
「生涯の終着点を生涯の出発点と結びつけることができれば、最も幸せな人といわねばならない」
――ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
~ワシと私と人間賛歌~
「……ねえ」
「ん? なぁに?」
「アンタ……学校は?」
「………………」
○○大学病院。B棟。203号病室。
「だめじゃない。ちゃんと行かなくちゃ」
「だって、学校、つまんない」
「つまらないわけないわよ。友達、いるんでしょう?」
「……うん」
「嘘ね」
「う、嘘じゃないよ!」
「じゃあ何人いるの?」
「えっとえっと……千人くらい……でも、これはまだまだ氷山の一角で……」
「アンタは若干11歳にして教育関係にどれほどのコネを持ってるのよ」
「ほんとだもん」
「ほんとにアンタは嘘をつくの、へたっぴね」
少女は消毒の施されたベッドから気だるそうに溜め息をつきながら体を起こし、彼女とそっくりな顔をした少年の頬を指で優しくつつく。彼女はこの病室で唯一の患者だった。
「やっぱりアンタのほっぺ、癒されるわ。おもちみたいに柔らくて」
「自分のを触ればいいのに」
「ダメね、アタシのは。痩せちゃって、もう昔みたいにふかふかしないの」
「……お姉ちゃん」
「なに?」
「お姉ちゃん、目の下にクマができてる」
「ああ、これね。昨晩は夜更かししたの。ずっと演劇のビデオを観てたのよ。いいわねぇ、劇団四季って」
「……辛かったんだね、おくすりの副作用」
「………………」
「……お姉ちゃん」
「なに?」
「……前来た時よりも、痩せてる」
「でしょう? 夏が近いからね。ダイエットしたのよ。カッコイイ?」
「……飲み込めなかったんだね、病院の食事」
「………………」
「ごめんなさい……お姉ちゃん、ごめんなさい……!」
人気のない病室に少年の静かなすすり泣きが響く。
「……どうして、アンタが泣くのよ」
「だって……」
「泣きたいのはアタシの方なのに! 全部投げ出したいのはアタシの方なのに! どうしてアンタが泣くのよ!」
少女は疲れた目に涙を浮かべ、細い喉に渾身の力を込めて泣き声とも掠れ声ともつかない怒声を絞り出した。
「なんでアンタはアタシがこんな隅っこに一人だけで寝ているか知ってるの!? ここも最初はね、満員だったのよ! みんな友達同士だった! 一緒に退院しようねって笑い合ってた! 好きな人の話で盛り上がったり、折り紙やあやとりをしたり、お勉強したり、毎日が楽しかった! ああ、病気のアタシでも幸せになれるんだ、いつまでもこの時が続けばいいのになって、心から思った! だけど、違うのよ! 続かないのよ、幸せって! 嘘なのよ、幸せなんて!」
でたらめに弦で擦られたヴァイオリンのような音を喉から掻き立てながら、少女は息を吸い込む。
「冬が来て、死人が出たわ! おさげの可愛い女の子だった! 面白いわよね! 一人死んだら、他の子も遅れまいとテンポよく死んでいくの! マザーグースみたいにね! それからは早かった! あっという間にアタシと隣の女の子だけになった! アンタも会ったことあるでしょう!? 笑顔が可愛くて、いつもアタシを励ましてくれて、アタシの一番の親友だった! それがね、朝起きたら転がってたのよ! 陸に打ち上げられたマグロみたいに! 死んだ魚みたいな目がアタシに語りかけるの! 『友達でしょう? こっちにおいでよ』って!」
「お姉ちゃん……」
「ご、ごめんなさい! アタシ、つい……!」
「ボク、迷惑だったよね……」
「違う! 迷惑なんかじゃない! アンタがいなかったらアタシ、ここまで頑張れなかった! アンタが毎日お見舞いに来てくれるから、今日もアンタの顔を見なくちゃって、我慢できたの! アタシにはアンタがいなくちゃダメなんだから!」
少女が少年を力強く、しかし、少年が痛がらないように気を遣いながら、優しく抱き締める。もはやどれだけ力を込めても少年を傷付けることはできないほど自分が衰えているにも関わらず。
「お姉ちゃん……ボクも、お姉ちゃんがいなくちゃ、いやだよ」
「そっか……」
「だから、お姉ちゃん」
「なぁに?」
「明日もあさってもしあさっても、ず~っと、お見舞いに来てもいい?」
「学校が終わってからよ?」
「お姉ちゃんのいない学校なんてつまらないよ。ボク、朝から晩までお姉ちゃんのそばにいる」
「だ~め。ちゃんと友達を作らなくちゃ。アタシがいなくなっても大丈夫なようにね」
「お姉ちゃん……そんなこと言わないでよ……」
「ほら、アンタはすぐ泣くんだから。男の子は強くなくちゃダメよ」
「ボク、強いもん」
「……ねえ」
「なぁに?」
「この際だから言うけど、アタシ、もう長くないの」
「いやだ! そんなこと言わないで!」
「お姉ちゃんの遺言、聞いてくれる?」
「聞きたくないよ! だってお姉ちゃんは死なない! 絶対に死なないから!」
「聞きなさい」
少女は少年をぴしゃりと黙らせる。
「この前、すごく嬉しいことがあったの」
「……うん」
「実はアタシね、好きな人がいるんだ。片想いっていうのかな。その子もここに入院していて、たまに外でリハビリしてるの。男らしくて、カッコよくて、『生きてやるぞ!』っていう希望に満ち溢れてる強い目をしているの。アタシ、窓からその子を見て、いつも元気をもらってた。いつものようにその子を眺めてたら、その子がね、アタシのことを見つめ返してきたの。それでさ、笑ってくれたんだ。『頑張ろう』って。アタシ、嬉しくて泣いちゃった。ずっと『うん、うん』って頷くしかなかった」
「…………」
「前向きな人ってね、元気をくれるの。人を幸せにしてくれるの。アタシみたいにドジで、ズボラで、見栄っ張りで生意気なガキでも、あの子が笑ってくれた一瞬、あの一瞬のために、生きててよかったと思えた」
「…………」
「だからさ、アンタも強くなりなさい」
「……うん」
「強くなって、幸せになって、アタシを喜ばせてちょうだい」
「うん!」
「アタシ、天国か地獄か知らないけど、アンタが幸せになるまでずっと見守ってるから」
「…………ぅぐ」
「ほら、また泣いた。大丈夫よ。アンタが幸せになったら、きっとアタシ、アンタのところへ帰ってくるわ」
「ほんとう!?」
「本当よ。ゾンビになってでも戻ってくるんだから。気持ち悪いからって後で手の平を返して追い出すような真似をしたら、タダじゃおかないわよ?」
「大丈夫だよ! だってお姉ちゃん、今でも十分腐ってるもん!」
「よかったわね。アタシが病気じゃなかったら、きっとアンタ射殺されてたわよ」
「どういう意味?」
「追求しなくていいの。ね、ところでさ、久しぶりにだっこさせてよ」
「うん。はい、どうぞ」
「では遠慮なく」
少女は再び、少年を大切に抱き締める。
「……大きくなったわね」
「でも、クラスでは一番小さいよ」
「アンタさ、イジめられてるんでしょう?」
「……うん」
「やっぱりね。大丈夫。お姉ちゃんがイジめられなくなる方法、教えてあげる」
「え!? なになに!?」
「男らしい言葉を使うのよ」
「男らしい? 『俺』とか?」
「それはありきたりねぇ……『ワシ』とかはどう? 水戸黄門みたいで、カッコいいでしょう?」
「そんなのをカッコいいって言うのは、演劇好きのお姉ちゃんくらいだよ」
「なら、アンタも演劇をやりなさいよ。楽しいわよ」
「演劇、かぁ……。ボクにできるかな?」
「はい、カットカット。そこは『ワシにできるかのう?』よ。言ってみなさい」
「いやだよう」
「つべこべ言わないの。3、2、1、キュー」
「わ、ワシにできるかのう?」
「ふふ。カッコいいじゃない」
「本当?」
「ほんとよ。ねえ、ところでさ」
「なぁに?」
「アタシのこと『姉上』って、呼んでみて」
「姉上」
「ふふふ」
「な、何じゃ姉上?」
「それよそれ! 最高に男らしいわ!」
「からかわれておるような気がするのう……」
「アンタ、才能あるわね……」
「そうかのう?」
「でも、よかった。これで大丈夫ね」
「む? 何が大丈夫なのじゃ?」
「アタシ、いつ死んでも大丈夫そうね」
「お姉ちゃん……」
「アンタ、何回泣けば気が済むのよ」
「ぇぐ……」
「ねぇ、秀吉……」
「……なに、優子お姉ちゃん」
「今まで、ありがとう……本当に、ありがとう……」
いっぱいに涙をこぼしながら少女は、再度少年を抱き締めた。
その三日後、203号は空き病室となった。