荒川修作

建築家の磯崎新が朝日新聞の5/22日夕刊で次のように追悼文を結んでいて、私は目を疑った。

「私には、「アラカワの死」がきめつけの作品のように思えるのだ。」そして、その文章には、--究極の作品に昇華した「死」--とタイトル付けされている。

誰もが知っているように、アラカワの作品は「天命反転」である。言葉を換えて言えば、「死の反転=死なないこと」である。

だから、磯崎のように言うのは全く逆である。少しでも考えてみると分かることだが、彼の言葉は、アラカワ作品の、少なくとも彼が全力を上げて試みようとしたことの完全否定に等しい。少しの悼みも感じられない。

追悼文に故人の作品や試みの完全否定がこのようにあからさまに書かれるというのは、極めて珍しいことだ。(それはほとんど冒涜にも近い。)磯崎氏は、荒川修作の旧友ということになっているが、この30年間の付き合いで、私は荒川氏本人からは一度もそのようなことは聞いたことがない。タイトルの美辞麗句はおそらく記者が付けたのだろうが、まるで私たちが中世にでも居るような感覚だ。

でも、事実、彼は死んだのではないのか。当然、そのような反論があろう。もちろん、エコロジカルな肉体は死ぬ。あたりまえのことだ。だが、私たちの存在には単なる肉体を超えていくものがあり、そこに「芸術」とか「作品」とか「建築」などの営みが不断につづけられている根源がある。それもあたりまえのことだが、磯崎氏の言葉はそのようなことまでも否定しまう。

5月20日、ぼうぼうと、涙が止まらなかった。あってはならない反応なのは分かっているが、なりふりなんか構っていられないほど、私の中で何か大きな存在が崩れた。ほんの数ヶ月ほど前に、彼から、何枚ものファックが来ていた。たぶん応えてはくれないだろうということもわかりつつ、どうしても一つ彼に聞いておきたいことがあった。

思えばもう30年以上もの間、はじめは不思議としか思えなかった彼の言葉に励まされ、考えさせられ続けてきた。それはこれからも変わらない。だから私は非常識きわまる追悼文に抗議はするが、追悼はしない。