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[19204] (人外・記憶喪失?)獣なれども
Name: 村人その5◆1f9c2762 ID:63f4e6d8
Date: 2010/05/31 13:32
小野寺一真は夢を見ていた。
自身の爪を獲物に振るい、首に突き刺し組み倒す。
獣は鳴く、命の限り抗わんと。眩い渾身の生が四肢を動かした。だが無情にも、獰猛という字をそのまま形にしたような牙は顎のすぐ下を捕えて獣を離さない。
獣が逃れようとする度に一真の牙は深く突き刺さり、血は大地に吸われる様に吹き出す。
熱い血潮、躍動する筋肉、凄まじい血臭。
みるみる内に獣は衰弱し、遂に目の光がなくなった。
腹の奥底からわき立つ、勝利の喜び。後は食うもの食われるもの。
一真は見た獣を食らう夢を。
血肉の味は驚くほどに淡白なのもだが、内臓は独特の味わいがある。口中に広がる味と租借音、胃を満たす感触に一心不乱になりながらも、一真はぼんやりと思いを巡らしていた。
これは、誰だ?


ゴゴッ
ゴゴッ
何かの衝突音と共に一真が夢から目覚めた時、一真の体は見知らぬ檻の中だった。辺りはほの暗く大地が揺れている。
「なっ!」
瞬時に体を起こそうとし、一真は威勢よく頭を檻の天井にぶつけた。鈍い音と痛みが頭を駆け巡る。
痛みは一真を冷静にさせ、頭をさすりながら周囲に目をやる。視界は暗く見えるものの方が少ないが、一条の光が向かって右手のカーテンから差し込んでいる。
自身を捕らえる狭い檻に触れると、それが冷たい鉄の感触でなく木製のものであることに気づいた。よくわからないが足元には草が敷かれており、全体的にどこか飼育小屋のようにも思える。
頭をかすめたのは誘拐という単語。しかしながら本人にまったく気づかれずに誘拐などできるものだろうか。
「そもそも、誘拐される謂れが…」
その時、一真は気づいた。自分が小野寺一真であるということ以外、何一つ思い出せないことに。
いや、何一つ思い出せないわけではない。自分が「小野寺一真」だという確信以外何ものもないのだ。
正確に突き詰めれば、思い出せないのは「体験」だ。自分が小野寺一真だという「知識」はあれども、どのように人生をたどってきたのかという、それが抜けている。
「小野寺一真・・・オレは小野寺一真だ。いや確かにそうだ。それは確かだ。」
ハッキリとした確証が持てるのは己の名前だけ。それ以外の「知識」はどうしてそれを知っているのかすら定かではない。
一体、何だ?頭を疑問符が駆け巡る。ここは、今は、己は。
床に手をつけば地面は相変わらず揺れており、前を見れば相変わらず檻がある。それらが無性に癪に障った。
「クソッ!」
苛立ち紛れに檻を力の限り押す。木製の檻はしなり、メキリと音を起てた。確かに帰ってきた感触は希望。
歯を食いしばり精いっぱいの力で檻を揺さぶる。
「ァアッ!」
数回揺さぶった所で、檻の支柱が中ほどからボキリと折れた。音を立てて檻であった木材と縄が身体の上に伸しかかる。
体が支柱を押した勢いで前のめりになり、床に右手を置いて体を支える。手を置いた床は陽光が差し込み、ほんのりと暖かだった。
…!
照らされる己が手を見て再び驚く。それは白毛におおわれた獰猛な獣のもの。
なんだ!?なんでこんなものが!?
己の右腕を左手で剥がそうと力を込めて引っ張る。だが、両腕に返ってきた感触はその異形が彼自身ものであることをまざまざと物語った。
最早言葉もない。
恐る恐る顔に手をやる。自分の顔がアジア人特有の平らなものではないことは一撫でで悟ることができた。むしろ人間の枠に入りきらない「何か」だということも。


いつの間にか地面の揺れは収まっていた。一真は呆けたまま光を遮るカーテンらしき布を横に払った。カーテンを開くつもりだったのが悪かったのか、光を遮っていた布地が異形の爪によって横一文字に切り裂かれ、陽光が一真の眼を焼いた。
刹那、何かが飛来した。一真は咄嗟に身を伏せる。それは鋭く一真の背中をかすめた。背中に熱が走り、瞬時に痛みへと代わる。
目が逆光になれてくると光の中に2人の男が立っていた。醜聞もなにもかもかなぐり捨て一真は口走る。
「鏡!鏡はないのか!?オレは一体!?」
返事はなく1人の男は驚愕の、残りの1人は強張った面持ちで此方を見て固まっている。
一方の一真も驚愕した、外国人の顔そして装飾に。
明らかに外人である二人組はどう見ても時代遅れの甲冑、その下に革製のズボン。どちらも工業製品があふれた現代には流通しているはずのない代物だ。
なんの冗談かわからないが、男たちは前世紀の遺物で武装している。少なくともライフルか何かならまだ説得力もあったろう。だが、少なくともこれは現実の風景ではない。
弓持ち男が矢筒に手を突っ込んだ。スルリと姿を現した矢は、どこまでも命を奪うことを目的とする物だった。それが自身に向けられることは一真にも一瞬で想像できた。
一真は一息に飛び出し、近くに棒立ちしていた槍の男の得物をはたく。弾け飛んだ槍に目を取られる目前の愚か者、その隙を突いて胸倉を掴み、ぐいと男を引きよせた。
「おぉッ!」
恐怖に顔をひきつらせた男を傍らの弓持ち目掛けて突っぱねると、2人はもんどりうって地面に倒れこんだ。その拍子に番えられた矢があらぬ方向へ飛んでいく。
身体が勝手に動いたとはこのことだろう。さっきの屈みこむ動作といい、この体には己の思考以前に行動するのだろうか?違う、これは体が覚えていたことだ。つまりオレは普段からこんな状況を経験していたということか?
倒れこんだ2人を尻目に周囲を見渡す。振り返れば幌付きの馬車が、その出入口を無残に切り裂かれた状態で佇んでいた。幌の中で檻を形成していた木材に矢が一本刺さっている。なるほど、さっきの揺れの正体は馬車に揺られていたわけだ。
右手には切り立った崖が泰然とあり、左手は木々に囲まれ、道は緩やかな弧を描いている。
ふと、一真は臭気を強く感じた。―――馬車の方から人の匂いが15に馬が4。
「なぜ?」
―――全員物陰に隠れて見えないが、人間は1人を除いて鉄の匂いがする。つまり1人を除くと最悪全員が武器持ち。
「オレは一体?」

目の前で倒れている2人がもぞもぞと動き出した。一真はそれを手早く両手でうつ伏せにして地面に押しつける。なんにしても目の前の男共に殺されては堪らない。
力をかけ過ぎたのか、一真の下でうつ伏せに抑えこんだ男共が、餌をねだる雛のようにギャアギャアとうるさい。
「喧しい!日本語でしゃべれ!」
一真が男共に吠えるとほぼ同時、馬の方から人の動く気配があった。一真はそちらにも目をやる。調度いい、事情を聞きだしてやる。
風を切る音と呻き声、気配が地面の砂に転がりピクリとも動かなくなった。
馬のいななき、かなり興奮している。それに急に湧き立った血臭。しかし、馬が倒れたり逃げ出そうとする気配はない。ということは、馬の側にいた奴に何かあった?
―――この馬車は襲われている!
脇に情報源2人を抱え込み、木々に飛び込む。
「訳がわからん!」
一真は捨て台詞を放ち、一目散に木々のを走り抜けた。途中で振り返れば馬車が3台並んでおり、最前列の馬車周辺では、黒髪で毛皮の貫頭衣を着込んだいかにも怪しげな連中と、馬車の護衛らしき甲冑集団とで弓合戦をしているのが見えた。
だが一真は止まることなくその場から去った。その時はただ生きることを優先して。




ヒャッハー作者です。
この作品はありきたりな転生物を、小難しく改変してみたものです。
転生と呼ぶか憑依と呼ぶか、まぁ主人公は一応元は日本人でした。元は。



[19204] 獣なれども 起点
Name: 村人その5◆1f9c2762 ID:63f4e6d8
Date: 2010/06/04 00:21
森の中に入ってすでに1時間は経っただろう。一真は地面に気絶した男二人を放り出す。こいつ等が小便臭いのは勘弁してやろう。男共の身ぐるみをはがして装備一式を木の上に隠しておき、使えそうなものだけ頂戴し一真は1人歩きだす。
気のせいでなければ、遠くから水の香りがしている。
水流に行きつく道すがら一真は考えた。先ほどから嗅覚が人間の領域を超えている。
人間の匂い、鉄の匂い、馬の匂い、水の匂いまで嗅ぎわけることができたのだから、事実人間離れどころではない。
この森に入ってからも、それは顕著だ。臭いからどんな動物が森に住んでいるのかも分かる。
動物だけじゃない、昆虫の羽音の量や蜜の香りからミツバチの巣が近いことも判る。
では、オレは一体何になったんだ?
気になってはいた。全身の真っ白な毛、至近距離から引き絞られた矢を避ける俊敏性、武装した人間2人を軽々と持ち上げる腕力、それを1時間ほど背負ったまま軽く走れる持久力、どれをとっても最早ただの人間のものではない。

行き着いた先には思ったとおり小川が流れていた。
小川の流れは早く、その角度も急なこと、水が澄んでいたこと等からこの森は山中にあることを示している。
一真は嫌な予感以外しないが水面を覗き込む。水面に映された顔は、やはり到底人間とは言えなかった。
ネコ科の肉食動物にでも似ていれば、まだ可愛げもあったろうに。

顔を幾重にも走る赤茶けたシミ、顎から鼻先は突き出しており微かにイヌの顔立ちを彷彿させる。しかし耳は顔の横からだらしなく垂れている。
顔だけではない。身体も人間離れしている。
気絶した男どもに比べ身体そのものが大きく、直立すれば身の丈は2メートル近いのではないか?
前腕が驚くほど長く見えるが、実は直立しない方が自然体なのだ。後ろ脚が猫のように節がついて屈折しており、水に至る道で四足歩行を試すと、これが中々快適で困った。
手足の数こそ人類だが、骨格がどうなっているのかまでは想像がつかない。幸い、人間と同じく尻尾はないようだ。
印象を端的に纏めれば、白熊と犬の相の子といったところだ。目の色だけが日本人らしく漆黒を中心に茶色の輪郭。

一真はそこまで考えを巡らせ、深くため息をついた。一体自分は、自分は何なんだ。
ここは何処で一体何に巻き込まれている?言葉も通じず、過去もわからず、頼れる知恵と身体は海幸山幸かもわからない。

ヒントもなければ問題は山積み、まったくこれからどうすればいいのやら。いっそあの時馬車から逃げなければ、或いは良かったのかもしれない。
自分が「小野寺一真」であるという確証すら揺らぎそうな現状。ふと、一真は『山月記』を思い出した。
「何故こんなことになったのだろう、か。」
一真は男の一人からふんだくった水袋らしきものに小川の水を並々と注ぐ。水面は揺らぎ一真の顔がいびつに歪む。水一杯の水袋を背負い一真は川に背を向けた。
なぜだ?わからない。一真もまた、何もかもが判らなかった。


男たちを放置した場所へ向かうのに別に苦労はなかった。一真の臭いが臭腺となって残っていたためである。
視覚的にどう見えるかではなく、判ってしまう。嫌が応にも判ることを視覚化する必要もないし、別に伝える相手もいないので特に口に出しはしない。
恐らく警察犬は麻薬捜査や犯人探しに精を出している自分の主人を愚昧だと思っているに違いない。主人たちが一々伝えないことには理解できない、全くの役立たずなのだから。
一真自身、目の前の男の醜態を見てそう感じた。
一真が男達の元へ戻ったとき、彼らはその場にいなかった。
男たちは自分が猛獣に襲われたと固く信じていたのかどうかはいざ知らずだが、彼らは二手に分かれて歩きだしていたのである。
一方は一真が男共を背負ってきた道を、もう一方は一真が水場へと向かった道を。恐らく折れた枝か一真の足跡でも目印に歩きだしたのだろう。
確かに猛獣の巣であれば、そうしてしかるべきだろう。だが一真は彼らの身ぐるみをはがしていた。
彼らは依るべき武器もなく、生まれたままの恰好でこの森の中を歩まねばならなかったはずだ。
「実に軽率な。」
一真が通った道を行くと言うことは、どちらかが一真の餌として機能することになる。
当然ながら、一真と男の一人は嫌応もなく出会うことになる可能性が高い。思わずため息が出た。
その時、森の木々を縫って金切り声が木魂した。声は男のもの、距離はそう遠くないことが一真には判った。
「面倒だが、手掛かりは奴らだけか。」
男の声に向かって一真は駆け出す。幸いにして男は悲鳴を上げ続けている。少なくとも生死の境を彷徨ってはいないようだ。
途上で一真はハチの巣を見つけた。無残にも何者かに踏みならされ、その姿を憐れにも地表に曝していた。
男の臭いに蜜とハチの臭いが混じり、それが一直線に彼方にある森の切れ目に向かっている。
思うに悲鳴を上げた男は森の切れ目を見た時、漸く光明を見つけたと考えたのだろう。
だが一真には判った。切れ目の先に動植物の気配が全くしない。たぶん崖か大きな川でも通っている。
川なら男は助かる。だが山の中で大きな川があるところは崖、もしくは途上が急な坂道になっているはずだ。
どちらにせよ裸一貫の人間が走り抜けるのは至難の業となるに違いない。
急がなければ男は死ぬ、出血多量か骨折か、内臓破裂、溺死、アナフィラキシーショックの何れかで。
小走りを全速力に変えて森の切れ目に飛び出した。予想通り大きな崖、その下に急流。
「見つけた!」
裸一貫の金髪男を崖の淵で見つけたとき、一真は叫ばずにはいられなかった。
男は至近距離に躍り出た一真を見てなにやら強張った顔をして、挙句再び気絶した。
「何がしたいんだ?」
一真は男を手早く担ぐと、ハチを振り切らんと森林を風上へ駆けた。
途中、小川で手に入れた水で、ハチを数匹払い落した自らの腕と男の足を水で濯ぎ臭腺を残さぬよう心がけた。
ハチもなんらかの臭いをたどる生きものだと「知識」として覚えていたからである。
なんにしても、この男に服を着させよう。
背負い直した男の股間からぶら下がったモノが背中に当たって妙に生暖かい。一真はそんな趣味を持ち合わせていなかったので、単純に不快であったが為の決心だった。


男に服を着せるために服を隠しておいた場所に戻る。
実際はなんの目印もないが、一真には男の小便の香りがやけに鼻につくので、あっという間に目的地は見つけられた。
やはりと言うべきか、もう一人の男の姿はない。武装も木の上にそのままである以上、男の片割れは今も生まれたままの姿で森林浴中だろう。
探しに行こうかとも考えたが、男1人見つけるのにこの手間だ。もう1人は一体どんな厄介事に巻き込まれているのかを想像し結論を出した。
「ま、いいか。」
1人で2人を同時に監視できるほど器用ではない。
足をゆるめて息を整え、男を背から降ろそうとした時、背中でモゾリと動く気配がした。目が覚めたようだ。
しかしながらこの外人には失神する癖でもあるのだろうか。顔を見るたび気絶されては話を聞くこともできない。
まずはオレに害意がないことをどう伝えるべきか?一番手っ取り早いのはそれこそ忠犬の如くこの男の言うことでも聞くことだろうが、この体躯ではそもそも柴犬ほど生易しくいくわけもない。
とりあえず目覚めた男に噛みつかれでもしたら厄介だと、一真は背中の男を地べたに転がす。
その衝撃で金髪男は完全に目覚めたらしく、ぱっと目を開いた。一真は男の飛びかかれるギリギリの距離を取り、じっと男の目を見た。「じっと手を見る」にならなければ良いのだが。
予想通り、男はこちらを見て固まっている。この見るだけ脅迫はゴルゴン3姉妹も舌をまくんじゃなかろうか。

牙を見せない!目つきを柔らかめに!目はなるべく伏せがちに!身体は犬が寝るような穏やかな姿勢!なによりかにより絶対吼えない!
まるで借りてきた猫のようだが、姿勢から入らないと何も聞き出せない以上、一真も真剣そのものである。だが、男は固まったまま視線をしきりに動かし、必死に逃げようという態度のまま。

仕方ない。一真はムクリと体を起こす。男がヒッと引きつった声を洩らす。
「だから、なんにもしないって…」
一真は身軽に木の上に軽く一飛びし、隠してあった装備品一式を丸々男の前に落とす。どれが目の前の男のもので、どれが逃げていった男のものか判別がつかなかったので、全部まとめての御返却である。
「危害を加えるつもりは、この通りないですよ!」
というより、助成してやっているのだから感謝してもらいたかった。一真自身も諸手を振って友好的であることを示す。
男の眼光は一真の挙動を一瞬たりとも見逃すまいとし、男の手は無防備に投げ出された荷物に伸びている。
いい加減に取って食う気のないことぐらいは察してほしい。
思うに、人を取って食ってしまえば人間全体を敵に回すことを察している動物の数は多いはずだ。その証左に動物は人間から離れるのが普通だし、逆に人間が動物を取って食らうのが常なくらいだ。
一真が一人思考に埋没していると、男はやおら立ち上がり抜き身の短刀を構えて一真を睨んだ。
ここに至り一真はやっとあることに気づいた。
あぁ、そもそも交渉する余地などないのかもしれない。男には目の前の異形の行動の意味は判りかねる。一真もこの男がなぜ自分を拘束していたのか未だに知らない。
世の中あきらめることも重要だと一真の「知識」が嘯いた。
「その刃をどうするんだ?」
一真は樹の上から見下ろすと言う行為に優越感を覚えた。高い所は下にいる者がとてもとても矮小に見え、なによりも狙いがつけやすい。
男がなにかしら吠え始めた。一真はそれを冷ややかに見つめる。短刀ぐらいでオレをどうにかできるとでも信じているのだろうか。
「わからない、お前の言ってることは。」
男は大声で言葉を吐き捨てつづける。わけのわからない言葉。聞いているうちに男の言葉が獣の唸り声であるようにも思えてきた。
一真も武器を渡してしまった以上、下手すれば殺されるかもしれないのだ。なぜそのことに早く気付かなかったのか。
敵を強くしてしまうなんて、自殺志願者でなければ絶対にしない。
男の挙動を五感から読み取る。体臭に怯えの色――いつものことだ。筋肉の躍動――やれないことはない。息遣い――荒い、だからこそ焦りが見える。
「―――ビースト!―」
獣の唸り声の中に、確かに聞き覚えのある言葉があった。その言葉は一真の気勢を削ぎ落とし、と同時に閃きをもたらした。
男はこれでもかと単語を吐き続ける。注意深くその言葉を聞けば、中には英語と思えるものがいくつか確認できた。
「まさか、英語なら理解できるとか。」
藁にもすがるとはこのことだろう。一真がカタコトの英語で呼びかける。
「うぇいと!あいどんとうぉんと、ゆあぼでぃー。」
男の眉間に皺が寄った。一真自身なにか間違った気がしないでもない。やはり伝わらないか?
だが一真の予想に反して男はこれでもかというくらい怪訝そうな顔を浮かべ、しかしながらはっきりと呼応した。
「Can you speak ・・・English?」
「あ、りとる!」
一真は日本人の義務教育に英語が若干含まれていたことに感謝した。
とはいえ、現代英語が一般に通用するということは見た目通りの時代じゃないのかもしれない。
一真は問う。汝はなんぞや、と。
「ほわっちゅあ、ねえぃむ!」
心象と現実とは常に剥離し続ける、宜なるかな。刃をこちらに向けたまま男は答える。
「アーレ!ザッツァマイネーム!」
一真は笑みを浮かべながら答えた。
「まいねぃむいず、カズマ!」




[19204] 獣なれども 金髪アーレ
Name: 村人その5◆1f9c2762 ID:63f4e6d8
Date: 2010/05/30 23:02
一真とアーレとの会話は至難の限りをつくした。話が進むとだんだんと理解できたが、一真も英語は日常使ったかどうかも怪しいのに、アーレもまた英語が達者だと言うわけではなさそうだったからだ。
正直、会話というより口から飛び出す単語のドッチボールになっていたのは仕方なかった。
だが、アーレの言葉が真実を語ったものだとすれば、断片的ながらもなぜ一真がこのような不可解な状況下に置かれているのかが掴めた。
「なるほどね、アーレは盗掘者でオレは掘り返された宝物の一つだと。オレはてっきり悪の組織にサイボーグにされたのかとばかり思ってたよ。」
一真が聞き取れた限りでは、アーレの言葉の中に何回も「お前を遺跡から」という語があった。それ以外はどうにもわからない。
アーレが盗掘専業であるとは考えづらいものだが、何回も何回も同じフレーズを繰り返したことで、ある程度は状況が理解できた。かといって到底納得などできる内容ではない。
「仕事帰りの山中で宝物庫のビーストが檻からエスケープして襲ってくる、気がついたらネイキッドで森の中だ、コンダクターとして雇った野郎もエスケープ、ハチと追いかけっこさせられて!今は遺跡のモンスターと遭難しながらカンバセーションしてる!わからないことだらけだ!」
一真に対してアーレの状況整理はだいぶ前に終わっていたのだが、度重なる一真の「パードゥン?」に苛立ちと疲労が募るばかりのようだ。
一真はアーレの話を信じちゃいないが、しかしこの男が嘘をついていないということは確かだ。―――体臭をいっさい変えず、こうも長々と嘘を付ける奴はいない。
「わかった、ありがとう。ところでアーレ?」
「なんだビースト!」
「日が暮れて来たんだが、君は大丈夫なのかい?」
「僕はさっきからその事を注意してたんじゃないか!」
そうか、夕焼けってサンセットっていうものなのか。
対するアーレは、一真のお頭は少々可哀想なレベルだと考えざるを得なかったのだろう。その表れか、先ほどからアーレは一真のことを名前ではなく「ビースト」と呼びつけている。
「太陽が沈むのがあっちなら、方角はあっちが西か。」
「はぁ?太陽が沈むのはイーストだろ、ビースト!」
「イースト?アーレ、ここは東に太陽が沈むのか?」
興味津津に一真が聞くと、アーレはこれでもかと顔をしかめ、今日何回目かわからない深いため息をついた。
「まるで話にならないって面だな。」
一真はあくまで真剣である。アーレの話が真実をとらえたものであれば、もしかするとここは地球ですらないか、さもなくば地球の自転は己の知らぬ間に逆転していたことになるからだ。
「それは置いておくとしてもアーレ、ここはどこだ?それとオレには一真と云うれっきとした名前があってだな。」
「ここがどこかって、こっちが聞きたい!お前に連れ去られたからこんなとこいるんだよ、今は!」
「いや、そういうことじゃなくて。ここは何処かというよりも、一体なんて国なのかってことをだな。」
「もういい!ビースト、お話はやめにしよう!」
アーレの度重なる呆れ顔に、流石に話しこみ過ぎたかもしれないと、一真は木の上から地面に降り立つ。このときの一真の木登り時間はすでに4時間を超えていた。お蔭で脇が痺れるという珍妙な体験をしていた。
「痛ぅ、あぁ痺れた。」
伸びをする一真を見た瞬間、アーレは短剣を構えて後ろに飛ぶ。対する一真はニヤリと笑う。残念ながらそれは友好的と言うよりも威嚇になっていた。
「やめてくれアーレ、情報はもらったんだ。君までは欲しいとは思わないよ。」
「信用できるか!僕を2度も襲っておいてどの口でそれを言うか!」
今度は一真が深くため息をついた。
「2回、救ってやったんだ。1度目はアーレ、君の馬車を襲った何者かから。2度目はハチの大群から。」
一真から見れば1度目はともかくとして、2度目はアーレの間抜けっぷりを露呈しているようにしか思えなかったが。
「どちらにせよ、アーレ。そろそろ水袋も中身がなくなるだろう。水場までは案内しようじゃないか。」
「あの崖か?ビースト、僕はあそこには2度と行かないぞ!」
「別に小川があるんだよ、アーレ。まぁついてくるも来ないのも自由だ。」
それにお前を食おうと思っていたらいつでも食えるよ、と心中で付け加えて置く。
一真がアーレに背を向けて歩き出すと、アーレもしぶしぶといった表情でそれに続く。最も、こんなところで一人ぼっちになるのがアーレには怖ろしかっただけだが。


いよいよ日も暮れ、原初の闇が森を包んでから数分は経とうとした時、一真とアーレは小川の淵にたどり着いた。
アーレが安堵の息を吐き、水で顔を漱いでから言った。
「水の音が聞こえていなかったら日暮れと一緒にお前を刺し殺すところだったよ、ビースト。」
「水の音が聞こえていたんなら、アーレ1人でもたどり着けただろうに。」
一真はボソリと呟いたが、特に何の感慨も浮かばない。全く視界の利かぬ闇の中だと言うのに、胸中にたいして恐怖を覚えていない。初めてきた場所だというのに、まるで実家での夜を、明かりもなく歩いているような、そんな感覚であった。

夕食もなく、特にすることもない以上、アーレと一真の間は沈黙が続いた。ただ周囲で謎の虫が鳴いている。
「ところでビースト、お前は時々訳の分らない事を言っていたが、あれは何だ?」
小川の手ごろな石の上に座ったアーレが一真に尋ねた。いまだに短刀は握ったままだ。―――先ほどからアーレの匂いが恐怖と焦りに埋め尽くされている。
「ジャパニーズさ。と言ったって分からないだろうけどね。」
一真が正直に答えるとアーレは如何にも不思議そうな顔をした。―――やはり演技でもない。
「ジャパニーズ?」
「あぁ、オレの故郷の言葉だよ。」
「そうなのかビースト。お前はハポネスの『遺獣』じゃないのか?」
一真はアーレの英語の中に明確な使い分けが生じた事に気づいた。
「ハポネスの『遺獣』?」
「あぁ、おれ達『ベガ』はお前みたいなものを『遺獣』と呼んでいる。」
アーレは小川に目を向けて語り出す。
「ビースト、『遺獣』の見つかった遺跡はいくつもあるんだ。でも僕の知っている限り、生きたまま『遺獣』が見つかったことなんてことは今まで一度もない。」
アーレの目に力が入る。同時に言葉にも力が入り始めた。
「『遺獣』はミイラとして見つかる、普通はね。正規の学者連中が遺跡に入るには時間が掛かるんだ。中のものを傷めたくないから。だけど黎明ハポネスのものと思われる遺跡は手早く入らないといけない。」
アーレには悪いが、一真はまるで話について行けていない。その上専門用語が混じりだしてしまったようなので、最早アーレの話は理合の彼岸にたどり着いていた。
「理由は単純なんだ。黎明ハポネスの遺跡には必ずある仕掛けがあって、どういう訳か知らないが、遺跡の入口を開けてから1日以内に必ず崩壊するんだ。」
一真は軽く欠伸をしながらアーレの話を半ば受け流すようにして聞いていた。聞いたことのない虫の音が耳に心地よく眠気を誘う。
「なんで遺跡が崩れるのかはよく分からないんだけど、崩れた黎明ハポネスの遺跡の中からは必ず『遺獣』が発見されるんだよ。」
アーレがパッと顔を上げ一真と視線を交わす。その眼はどこまでも真っ直ぐで、どこまでも好奇心に満ち満ちていた。
「その『遺獣』がいることが黎明ハポネスの証なんだ。なぁビースト、黎明ハポネスの世界ってどんなものだったんだ?」
アーレの視線は至純の夢で満ちていた。だが一真にはその透き通るような視線がなにか遠い世界のおとぎ話を聞かせる、どこかインチキ臭い詐欺師のものに思えてならない。
一真はアーレの問いに対する答えは持ち合わせてはいなかったし、そもそも一真は只の日本人「小野寺一真」だ。黎明ハポネだとかなんとかなんて、まるで知らない。
「アーレ、悪いけどな。」
一真は先に断わっておくことにした。でなければアーレの至純に対してとても失礼だと思ったから。
「オレにはお前の言うことがこれっぽっちも理解できない。お前の言った黎明ナントカとかいうものも初耳だ。第一オレはビーストじゃない。小野寺一真って名前があるんだ。」
アーレの目の色が落胆に変わった。だが一真は語り続ける。これだけは最低限伝えておかねばなるまい。
「それになアーレ、オレは自分の名前とジャパニーズってこと以外は何もかも覚えていない。」
「そうか…」
アーレはそれだけ口に出すと視線を再び小川に戻した。恐らくアーレにも一真の言葉の半分も意味は伝わってはいないだろう。一真自身そう思ったし、アーレも同じ思いだった。
「申し訳ない。」
一真は一言謝罪してアーレが昇れないような木の上に飛よじ登った。いい加減眠たくなってきていた。川の周辺にはヒルや蛇、サソリやクモが居り、とてもではないが川辺で眠りたいという気分にはならない。
「おやすみ、アーレ。」
ただ、アーレには物騒な物音と共に、瞬時に一真が闇に溶けたようにしか見えなかったのだが。
「おい!ビースト!どこいった!?」
アーレはガサガサという物音と共に頭上から降り注ぐ枝切れにビクついていた。原因は上方の一真が手ごろな太さの枝を見つけては、それを編んでベットにするのに忙しかったからだ。
「上だ!オレは眠いから寝るんだよ!」
「ビースト!なんで上に昇った!」
「お前に三枚に下されたくはないからだよ、アーレ!」
アーレは実に怪訝そうに眉間に皺を作るも、一真はアーレの方を向いてもいなかったので気づきもしない。一真も眠気のせいで、アーレには日本的な言い回しが通じないことをすっかり忘れていた。
「どういう意味だ!ビースト!」
「うるさい!お前の朝食にされたくはないってことだ!」
アーレはその言葉を聞き、意味を理解すると一挙に眠りづらくなった。
「こっちのセリフだ!ビースト!」
一真はもう答えない。アーレの小言は無視した。
少し経つとアーレの言葉も小さくなった。一真は意識の限りに考え事をした。
そういえば、なんで木の上でベットを作れるのだろうか。
結局一真は眠りに落ちてしまう。



[19204] 獣なれども 負傷
Name: 村人その5◆1f9c2762 ID:63f4e6d8
Date: 2010/05/31 13:51
夢だ。
一真は多くの眠れる人々の前に立っていた。それは際限のない静謐の中にあって、眠れる人々というよりは棺桶の住人に見えてしまう。
棺桶の住人達はみな同じような顔をしている。男女の差はあれども、しかしながら全ての人間が同一人物のように一真には見えた。
オレはこんな顔だったのか?眠れる人々は答えない。オレはこんな姿だったのか?棺の民は答えない。
オレはどんな奴だったんだ?閉じられた目は開かれない。目覚めの時がくるまで延々と眠りつづけるのだから。
こいつは間違いなく夢だ。


気がつけば瞼を光が明るく照らしていた。朦朧とした意識の中で瞼を開けば、当然ながら目前に眩い朝日。
一真は目いっぱいの欠伸をし、上半身を起こそうと片手を動かそうとして、空中に身を躍らせた。
「なぁっ!?」
バキバキと枝と葉っぱを盛大に巻き込みながら一真は木の上から落っこちた。
「そうだ、木の上に寝床作ったんだ。」
みっともなく落下する寸前、とっさに掴んだ枝のおかげで頭を上にすることに成功しただけマシだった。
辺りは昨日と変わらず木ばかり。周囲の風景を夢であればとも考えたが、なんだか夢見も悪かったのでそれはそれで問題だ。
少し打ち付けた膝を擦りながら一真は小川の淵に立つ。水を飲もうと顔を前に突き出すと、昨日と変わらぬどこか犬のような顔と、白い毛が目に入った。
決して朝日の見せた幻影ではないことぐらい判っている。
「こっちは夢になってくれてもいいんだが。」
言葉ごと水で口を濯いでから飲み込む。やけに固い感触がのどを潤した。

水を飲み込み気を落ち着けてみると、昨夜会話した場所にアーレがいないことに気がついた。
「また逃げ出したか?」
―――周囲の気配を探る。五感を駆使して見えないものなど、ほぼありはしない。
木々の合間をアーレの臭いが移動しており、その先から人の寝息が聞こえる。距離にして1分足らず、別に逃げ出したわけでもなさそうだ。
アーレのことを確認したが、どうにも腹が空いてきていることが気になった。空腹でどうにかなってしまう前に、何でもいいから食べられる物を探すべきだろう。今は己の極限に挑めるほどの余裕などない。
食い物。パッと思い浮かんだのは魚。ただ足元を流れている小川ではそれを期待するのも的外れかもしれない。でなければ哺乳類でもとればいいのだろうが、生憎と火を起こす道具もない。いくら見た目が異形になろうと、生肉を食らい食中毒では笑えない。
「まぁ、こんな時は現地人の意見を聞くべきか。」


一真はアーレの寝息に近づき少々面食らった。
アーレが木の根元を利用して作られた穴倉を背にして眠っていたからである。恐らく一真が眠り入った後、延々と穴を掘りつづけていたのだろう。
アーレの寝床は暗中で背後を取られずに済むようにという配慮が見られた。この寝床が完成するまでにそれなりの時間はかかっただろう。
だが目の前で寝息を立てる金髪の男は、剣をすぐ抜けるように柄に手をかけながらも、一真がここまで近寄っても相変わらずだ。
おそらく害獣に襲われても牙を突きたてられて終わり。
「本末転倒のいい見本だ。」
アーレの見せた醜態を堪能した一真は、ずいとその身を前に出した。
「おい、起きろ。」
アーレはカッと目を開き、やはりと言うべきか強張った面持ちとなった。一真は顔を見ただけで驚かれるのが癪だった、誰だってそうだろう。
「グッドモーニング。」
一真がニンマリと目いっぱいの笑顔をくれてやると、アーレは再び眠りの世界へと旅立ってしまった、今度は完全に脱力して。

現地人は見ての通りの役立たずときた。ならば自力で何とかしてみよう。
思考をやめて五感を研ぎ澄ます。野生動物か、もしくは他者から襲われる危険があるものなどは常に行っていることなのかもしれないが、五感を総合して自身とその周囲の状況を把握しきる。
その際に手がかりになるのが視力よりも聴力、嗅覚だ。聞こえる音から接近するものと方向を察知し、嗅覚によって追うべきものを見つけ出す。
視覚はあって損はしないが、如何せん嗅覚と視覚を併用することに比べてあまりにも得られる情報が乏しい。

―――音?
小川の上流から僅かながら水の跳ねる音と、それ以外の気配がある。早とちりして魚がいないなどと、決めつけるべきじゃなかった。
一真は嬉々としながら川をかき分け、気配の元へと近づいた。
山中で水音を立て気配を隠そうともしないとは、随分と活きのいい魚だ。
そういえばまだアーレに季節を聞いてなかった。もしかしたら脂の乗ったシャケが遡るような魚の季節かもしれない。
一真は視線を水に落としながら音のする方へ近づく。魚が近くにいということは、探せば沢ガニや小魚がほかにもいるかもしれない。
音の発信源が視認できるくらいの距離になったとき、見覚えのある生き物を見つけた。
「お、ザリガニ。」
一真が前腕を川の中に突っ込み、見事にザリガニを鷲掴む。しかしザリガニにしてはやけに体型が大きく、川ロブスターとでも言った方が良いように感ぜられた。
なんにしても、一真はホクホクとした表情のまま顔をあげて前を見やる。すると黒髪のうら若き女性が引き攣った顔で弓を引き絞っていた。
「…なんで?」
白の貫頭衣の女性の背後に、羊と牛を足して2で割らず、逆にハイブリットしたようなのが3頭、こちらをつぶらな瞳で見つめている。
ふと、水面に映る自分の顔を思い出した。あぁ、オレのことを家畜狙いの野獣だとでも思っているわけか。
「待て!落ちつけ!話せばわかる!」
一真の必死の呼び掛けに黒髪の貫頭衣の女は表情を硬くした。おかしい、英語で呼びかけたのだ。なぜ伝わらない。
「おい!落ちつけ!」
心中で文句を吐露しつつも女性を見やり一歩一歩後ろへと退く。矢は避けられるはずだ。このまま森に飛び込めば何の問題もない。
その時、右手を痛みが走った。いつの間にか拘束が緩んでいたのか、右手の巨大ザリガニが一真の小指を力いっぱい挟んでいた。
「痛っ!」
まさに痛撃。一真の叫びが引き金となり、目を戻した時、引き絞られた矢は放たれていた。
「ちょ!!」
え?矢!?避ける、無理!顔に来た!!!
一真が自然と取った防御の姿勢は、右手を顔の前に出す。それだけだった。

掌から矢が生えた。
一真が呆然とそれに見とれていると、突如痛みが駆け昇ってきた。
「痛い、痛い!」
流石に自身の母国語が口に出る。心臓が鼓動を打つたびに、痛みは加速度的に強くなる。発端に目を向ければ、女の弓にはすでに二の矢が番えられていた。
その場に倒れこみたくなる衝動を怒りで飲み込み、なんとか足を踏ん張って黒髪の女から遠ざかろうと足を動かした。一歩一歩が重い。
一真は黒髪の女と一定の距離を取るとかぶりを振って一目散に逃げ出した。対する女は終始矢を構えたまま泰然と構えていた。



「痛てぇ!」
小川を下る途中で堪らず座り込み、右手を見やる。ザリガニと掌が鏃で貫かれていた。
矢は狩猟用のものだろう、鏃が骨、矢自体は木でできている。右手からは血が滴り続けており、鏃を抜かなければ危ない。
右手に受けた矢を掴むと、瞬間襲ってきた痛みに悶絶した。背中を痺れが駆けずり、声にならない叫びが口から洩れる。
そのくせ右手だけはしっかりと痛い。こういう事は一気にやらないと痛くなるばかりだ。瘡蓋と同じだ。
「ッガァッ!」
精いっぱいの気力を込めて矢を引きぬく。鋭く抉るような痛みが肘まで広がり、急速に冷めていった。息が自然と荒くなる。止血しないと危ない。
ザリガニ付きの血塗れの矢は脇に捨てた。
 
太陽が朝日から只の日差しに変わった時、一真はどうにかして今日の川上を眺めた場所に至り、地面に横倒れになる。
それから傷のあたりを足で押さえながらアーレを呼んだ。我ながら随分と器用なまねをする。
「アーレ!アーレぇ!!」
アーレがお手製の寝床から姿を見せる。なんとも眠そうな面だ。未だにこっちを見定められていない。
「こっちだ!早く!」
ようやくこちらを見た。一真は力なく左手を掲げた。近づくアーレの眠たげな表情が驚愕の色に塗りつぶされた。気付くのも遅い。
「なにがあった!?」
アーレの声ですら傷に響く。矢で射かけられるなど、おそらく人生初体験だろう、流石に一真も余裕がない。
「矢だ!手当してくれ!」
「手当たって、布や針がない!」
「昨日お前にたっぷり渡したろうが!」
どこぞの馬の骨かわからん奴の服のことだ。いかん、痛すぎてイライラしてきた。
「あ、そうだった。取ってくるよ!」
「頼む、早くしてくれ。」
アーレが寝床の方に走っていく、おそらくそっちに荷物があるのだろう。それにしてもあの女、あぁ痛い。全部あいつのせいじゃないか。
そもそもオレが何をしたというのだ、家畜に襲いかかるどころか、彼女に危害を加えてもいない。いや、原因なんてどうでもいい。痛い。そう、痛いんだ。
右手の肉がめくれて、余りにも痛々しい外見をどうにかしないとマズイ。心は既に折れている。
音が戻ってきた。アーレが金髪を揺らして走ってきていた。
「ビースト!取ってきたぞ!」
「あぁ、何とかしてくれ。」
「わかった。」
結局、一真はアーレの手当て中に堪らず2、3回声をあげてしまった。

木に背を預けてアーレに治療をしてもらっている間、痛みを紛らわすために一真は今朝の事情を説明した。
「いや、矢で撃たれたにしては随分と傷が浅いなぁ。」
ただ、アーレの得心がいったという表情が気に障った。一真が矢で撃たれるのは普通に起こり得る出来事なのだろうか。
「その女にはビーストが見た感じ『ズグリ』に見えたんじゃないか?」
アーレから帰ってきた回答には、例によって新出語句がおまけで付いている。また一つ謎が増えた。
「グズリ?なんだそりゃ?」
アーレがしみじみとした表情で話しだす。
「ズグリだ、洞窟を巣穴にしてる。僕も年に数回は出くわす。普段は驚くほど臆病な奴だけど、縄張り意識が強い奴でね。巣穴に入ったら襲われることもしばしばある。」
まるで熊だ。
「オレはそれにそっくりなのか?」
「いや、ズグリは茶色いし、なにより耳は横についてない。」
ますます一真にはズグリが熊に思えてきた。
「それにビースト、ズグリはこの山じゃ一番強い。飢えてる時は人間なんて肉の詰まった袋ぐらいにしか思ってないくらいに。」
聞けば聞くほど一真の中でズグリのイメージは熊に決まった。というか、これで熊じゃなかったら逆に驚く。
「なるほど、そんな奴が目の前に現れれば、確かに矢を向けるかもな。」
相手から見れば、熊に吠えたてられ、がなり立てられもいた事になる。相当恐ろしい経験ではなかろうか。
「まぁ、それよりもビースト。お前の手を射かけた女は黒髪だったんだな?」
アーレの表情がいきなり真剣そのものになった。
「そうだったが、何か問題でもあるのか?むしろ助けてもらえるじゃないか。」
無論、お前だけだろうが、と一真は言いかけてやめた。だが予想外なことに、一真の言葉にアーレは唸った。
「いや、そうでもない。ビースト、君を遺跡から掘り出したのは覚えてるな。」
「あぁ。たしかアーレの仕事が盗っ人だってとこまでは覚えてる。」
一真の返事に外人らしくオーバーに顔をしかめるアーレ。
「あのなぁ、僕は確かに遺跡の宝物を掘り返してはいるが、コーカス国の許可はもらってるし、むしろ盗んだと言いがかりを付けて襲ってくる原住民が悪いんだ。」
「ん、そんなこと言ってたか?」
アーレの眼差しが可哀想なお頭を蔑む、しかし今回は直にくたびれ果てたものに変わった。
「昨日、あれほど時間をかけて説明したのに…」
「あぁ、すまない。なにぶん使い慣れない言葉だからな。そう気を落とさないでくれ。」
何とも言えない冷えた空気が当たりに満ちた。一真も流石にこの空気は耐え難いものがあり、アーレに先を促すことにした。
「それにしても原住民か、通りであの馬車が襲われていたわけだな。」
「調度ビーストを運ぶ馬車が最後尾だったから、その陰に隠れていた。そしてお前に飛びかかられた。」
思えばあの時も矢に射かけられ、今回も矢を放った奴から逃れている。自分は弓矢との相性は悪いのかもしれない。
「その時の話は置いておくとして、黒髪の何がいけないんだ?」
「あ、あぁ。この山に住んでる原住民、彼ら曰く、ムコっていうんだけど、ムコの特徴が黒髪で背が低い。」
言われてみれば黒髪の女の背丈は低かった。一真自身が大きすぎて大抵の人間は背が低いという事に当てはまるので、まるで気付かなかった。
「ムコの連中だって、『ベガ』を襲っておいて、生き残りを出したらどうなるかぐらいは分かっている筈だ。」
アーレの体臭が変わった。怯えている、ムコの民に対するものか?
「なるほど、ムコの民だったら王国公認の『ベガ』生き残りのアーレは、問答無用で殺されてしまうってとこか。」
「お前にしては物分かりが早いな、ビースト。」
―――足音!
一真は人間ならば水の音にかき消されてわからないであろうそれを聞きとった。どうした、とアーレが訪ねてくるも手でそれを制した。
足音は1体や2体ではない。匂いは、これは嗅いだ事のないものだ。ムコの猟犬かもしれない。
一真は木の陰から顔を出しながらアーレに小声で伝えた。
「何か近づいてきている。アーレ、ムコとか云う奴かもしれない。」
アーレが息を呑んだ。その表情は恐怖そのものが張り付いている。
枯れ枝をふんづけただけで叫びだしかねないアーレに、一真はとにかく落ちつくように耳打ちする。
「静かにしろ。オレが様子を見てくる、危なそうなら戻って伝える。逃げ切れないようなら叫ぶ。頼むからから、静かにしてろ。」
アーレを置いて一真は木陰から飛び出した。まだ聞きたいことも多い、ここでアーレを失うわけにはいかない。



[19204] 獣なれども 葛藤するも
Name: 村人その5◆1f9c2762 ID:63f4e6d8
Date: 2010/06/04 00:23
一真は森の中を疾駆し、近づく対象の風下に廻る。やがて、近づくものが姿を現した。
一真にとって、それはまさに未知の生物だった。
見た目は球だ。球がもぞもぞと動いている。見間違いでも何でもなく、肌色の皺が寄ったバレーボールだった。それが群れている。どんな進化をすれば玉の群れが出来上がるのだろうか?
なんというか、拍子抜けである。
溜息を吐くと自身の腹が空いていた事を思い出した。目の前の玉を眺める。大きさ的には問題ないはずだ。問題はしっかりと調理できるかどうか。
一真は風下から一瞬で玉の群れに突っ込み、その中から2匹の玉を確保した。痛む右手をかばっていたため、何とも申し訳ないが、1匹は憐れ一真の右足の下でもがいている。
左手に掴んだ肌色の玉をしげしげと見る。良く見れば小さな足らしきものが4本付いており、それは必死に空を切っていた。毛に埋もれて見えなかった口らしきものを何とか見つけると、前歯が上下に2本ずつ飛び出しており、どこか齧歯類のようだ。
まぁいい、とりあえずアーレにこいつは何か聞かないといけないだろう。万が一毒でもあったら面倒だ。
一真は玉を1匹は鷲掴み、もう1匹を小脇に抱えてその場を後にした。手の中で玉が叫んでいるが、胃袋に収まるのだからこの際どうでもいい。一真は気付かなかった、玉の小さな小さな足に、木彫りの板がついていた事を。

「アーレ。」
ワザと警戒しているアーレの真横まで音を立てずに近づき、持ってきた毛玉を肩に置いた。
「うふぉ!!」
アーレは声にならない声を上げて見事に転んでくれた。予想通りにからかいがいがある奴だ。
こちらに振り返ったアーレは見る見るうちに赤ら顔となり、その場で地団太を踏んだ。
「ところでコイツ、何だと思う?」
何事か叫びかねないアーレに対して一真は毛玉で先手を打った。
「『アラボー』だろ!どっからどう見ても!」
返答を叫ばれるのは、一真の予想外であった。そして会話の度に英語の授業でも受けているかのように新出語句が増えている。
「アラボーってなんだ?」
「見りゃわかるだろう。アラヒヒの子供だから『アラボー』って、まさかビーストは知らないのか?」
心底意外そうにアーレは一真に尋ねてきた。そんなことを言われても一真に奇怪な玉動物に該当する記憶などない。
「昨日言っただろう、オレには名前と日本人だって事以外は何も覚えていないって。」
「それ、そのまま文字通りってことなのか!?」
今度は心底驚いた顔でアーレが尋ねてくる。一真が首肯すると、アーレは心底納得したように何度も頷いた。
「通りでやけに馬鹿だと思っていたが、なるほど無知だったのか。」
「おいコラ、全然変わってないぞ。」
「そうか?ビースト、無知であることは全く恥ずかしくないぞ。」
「誰が恥ずかしがるか!」
一真の腹の虫が降参の音を唱えるまで争いは続いた。

「で、この醜い毛玉は食えるのか?」
「アラボーだ、食えるぞビースト。」
結局、口論ではアーレに圧倒される形となった。一真にとって英語は少々知っている程度、無知に付け込まれ散々言い負かされた。
口でアーレに勝てない一真が、敗北を悟り、多くの枯れ枝を取りに周辺を駆けずり回り、下準備は既に済んでいる。
一真にとって唯一の成果は、口論の過程で、玉状の生物を良く知っているアーレが料理を賄うことになった点だけだ。
アーレが玉に短刀を突き立て毛皮を剥いでいく、その手際は存外に素晴らしく、見る見るうちに玉は肉塊に変わっていった。正直、その光景は惨たらしいとも一真は思ったが、それ以上にアーレの短刀捌きは美しいものだった。
臓腑を避け、肉を切り取り、いつかの男の鉄製甲冑を使って焼き肉にすると、ほのかに漂う香りに自然と涎が湧いてくる。
見た目はそのまんま肉だ。味はどうかと口に放り込むも、柔らかい肉に固い筋、何とも言い難い食感と味である。
「うん、実に旨みのない肉だな。」
「塩も野菜も何もない、当然至極だ。」
お手製料理を一真に振舞うこととなったアーレは、自身の作品がなんとも納得のいかない味になっていたので眉に皺が寄っていた。
「アーレは料理が得意なのか?」
「これでも『ベガ』じゃ一番下っ端だからね。日常茶飯事だよ。」
一真はアーレの意外な一面に思わず頬が緩んだ。アーレは一真の表情の変化に気付くと拗ねたように鉄板の肉を掻っ攫う。
「…それはオレが焼き始めた肉!」
「おぉ、すまない。焦げ付きそうだったから、つい取ってしまった。」
アーレはしたり顔で一真を見やった。対する一真はなんとも口惜しそうにアーレの租借している肉に見入っている。
不可思議な、だが確実な関係が気付かれていく。火と食事と言葉が人を繋ぐ。相手がいるから余裕が生まれる。

ヒュ
風切り音、一真が咄嗟に身を屈めて方向を見やった。木陰に蠢く色白黒髪。風下からの狙撃、しかも煙に撒かれていた。
「アーレ!」
肩を矢に貫かれた金髪男。ヒュゥと天を喘いでいる。
「逃げるぞ!アーレ!」
治療した方がいいぞ。「知識」が嘯く。うるさいと感情でかなぐり捨てて、アーレを担いで走りだした。連続で風切り音はやまない。
「アーレ!しっかりしろ!」
肩の上でアーレが足掻いている。そうだ、まだ話し足りないじゃないか。耳に入るアーレの息吹が、何かを語っている。
「なんだ!?クソッ、アーレ!」
木の間を吹き抜ける風のごとく、一真の白毛は駆けた。とにかく距離を取って安全なところまで行く。
追手との距離が開いたので足を止め、アーレを抱えて大樹の上に飛び乗る。
口で矢を引き抜いた時、鏃から異臭。そうか、毒!
傷口を小さく噛みちぎる。その上で血を吸って吐き出す。肩の止血は馬の骨の服を破いて包帯にする。そうこうしている内に、追手が近づいている。
「クソッ!」
木の上から飛び降り、再び駆け抜ける。
木の根っこに足を取られないように、足は思いっきり上げてから降ろす。足跡が残るが大した問題ではない。向こうはオレの足跡なんて見たことないはずだ。

太陽が沈み始めたが、ムコの民の襲撃は続いている。アーレの息は、辛うじてある。
ムコの連中、完全に殺しにかかっている。聞き覚えのない言葉が四方八方から聞こえ、一真の足でなければ、とっくに捕まっていただろう。
犬のような獣でも連れて歩いているのか、此方の臭いに敏感に反応している事が分かる。
ムコの追撃に追い立てられるうちに、一真は開けた場所に飛び出した。森が切れ、大地も無くなった、目の前には茜色の空にさらされた葉緑色の斜面。眼下を見れば濁流、吹きあがる風に乗って水の臭いがする。
「崖…」
追い込まれた。いや、狙っていたのだろう。人間だろうが動物だろうが、飛べない動物は恐怖におびえて立ちすくむ。畜生。
背後から飛んできた声、選択の余地などあるわけがない。
言葉も通じないのに命乞い?お話にならない。夕焼けに照らされる崖。深さも解らない崖に飛び込む?どちらにせよ、結果は同じだ。
死という物が、今まで感じた以上に圧倒的に屹立した。目の前にあるものは、生ある限り克服できない壁だ。

壁を乗り越えるために作ったんだろ?
「何だと?」
突然、会話が始まる。アーレの声ではない。アーレは背中で息をしているだけだ。
同じ声、同じ声色、これは自分の声だ。
神になったわけじゃない。お前も作り変えただけだ。
「何の話だ?」
輪廻転生、お前だ。
「ふざけるな!」
自分自身の声を、自分自身で消し飛ばす。無性に腹の立つ声だった。
怒りに身を任せ、大地を硬く蹴り、一真は反転して森に入った。

現状把握には多角的に情報を収集する事が大切だ、そう「知識」が嘯いた。

アーレを近くの木の上に乗せる。見つかったらマズイが、この際この手に賭けるしかない。

崖の近くで人の気配を待つ。四肢に力を込め、風下に回り込む。一真は森の隅々まで、毛穴の一本一本を逆立てるようにして把握する。
人数は10人前後、嗅いだ事のない獣が無数。全員を無力化するのは無理だろう。殺すことも視野に入れなければ。出来るのか、否、やれるか、小野寺一真。
来た。
矢を携えた黒髪長髪の男が一人。狼かジャガーか、足元の茂みで解らないが、動物を連れている。
狩りにきたつもりだろうが、逆に狩る。
風上にアーレがいる。その血臭を見つけたのだろう、足元の獣が跳ねて駆けだした。それを追うように、黒髪長髪の男も駆けだす。引っかかった。
風下から一真が駆け、勢いそのままに黒髪の首筋を左手で木に叩きつける。
声を出そうにも、万力のように一真の5本の指は男の首筋を締め上げた。途端に男の股から尿の香り。
時間にして十秒足らず、男は意識を手放した。

気絶した男を崖の開けた場所に連れていく途上、矢が飛んできた。その方向に向けて、左手で男を盾にして駆ける。三足歩行、右手が痛み、先ほどよりもスピードは出ないが、気にしてなどいられない。
しばらくすると、ネコ科の動物が一真を襲った、本当にジャガーのようだ。これには、盾矢筒に右手を入れて、毒矢を突き刺し機動力を奪う。
一挙に近づいたと判断して、矢を放ったもう一人に向かって男を投げつける。もんどりうって倒れる男の腹にも毒矢を。
「―――!」
毒矢を突き刺された男、これまた黒髪長髪、何かしらを叫んでみせた。気取られる!
瞬間、一真の剛腕が呻った。大地を擦る様にして降り抜かれた左腕は、倒れたばかりの男の首がぶれるほどの勢いで撫でた。頸椎がボキリとへし折れる。頬に穴が開いた男の目は見えない。見たくはない。
また状況が悪くなった、だが想定内。「知識」が嘯く。
残りの人間がどう動くのか、ジャガーような生物は、アーレの方向へ向かって一直線だ。恐らくは血の臭いを追っている。
と、なれば。一真は先ほど首をへし折った男の首筋を噛みきった。溢れる血の味と香りに、思わず咽かえる。だが、名実ともにこれで奴らの敵だ。
噛み切った喉肉を口で噛みつつ、盾にした男を背負い直す。そうして一真は森林を駆けまわった。これでジャガーは血の臭いに迷う。
追手は、ムコは一真を最優先で始末するだろう。アーレから奴らを遠ざけつつ、疑念を抱かせない為には、一真が一番の脅威だという事を見せつけなければならなかった。
要は餌だ。本命を隠すために、わざと派手に動く。だが、此方が思惑を持っている事がどうしてしられようか。獣に思考能力が、どれほどあろうか。
そんなことの為だけに、人を殺すか、お前は。
罪悪感と倫理観が、一真の胃をキリキリ締め付ける。仕方がないと、何かと理由を嘯き始めた。
緊急避難だ、相手はこっちを殺そうとしている。だから殺してやった。人間の歴史はそうやって綴られたものだ。
殺し殺され、当たり前の原理が、この森の中でも繰り広げられているにすぎない。そうだろう、一真。十分じゃないか、一真。

お前はなぜ、それを知っているんだ?

ジャガーの足音、振り返れば、そいつは今にも飛びかかろうとしていた。右足で息絶えた男から鉈のような剣を奪い、切りつける。両手足の5本の長い指、存外、物を扱えるものだ。
獣は殺すまでもない、深手を負った時点で無力化したも同然だ、奴らは生を無碍とする。

一真は、森の中をかく乱するように駆けまわる。森の中で弓の射程はとても短い。よほどの事がない限りは当たらない。
全員を此方に引きつけるために、風上に一真は回ろうと考えるが、やめた。動きが不自然だ。自然に考えれば、これだけの食料を得た時点で野獣は殺しを止める。
ならば、今は野獣のふりをして死体を運び去った方がいい。気絶している男を背に、風下へ向かう。途上、人の気配とジャガーの臭いがしたが無視。毒で一噛みされたら、どんな動物だって無事でいられる保証はない。たとえ自分であれ。
獣はどうする、次はどうする。
アーレは回収しなければならない。アーレと気絶した男を入れ替え、森の中で安全な場所まで向かうのが自然だ。
つまり、逃げる!



[19204] 獣なれども 逃走、もしくは迷走
Name: 村人その5◆1f9c2762 ID:63f4e6d8
Date: 2010/06/04 00:24
闇の戸張が降りた。ようやく、人間の追撃は無くなる。水袋をあてがい、口を水で濯いだ。
原初の闇の中、視界の利かない森を人間の視力で歩き回れることなどあり得ない。追撃があるとしても、彼らは松明だより、此方からの発見は容易い。
夜の内に、なんとかして森を抜けなければ、気ばかりが焦っていることは一真も重々理解できた。手にあの感触、口に血の臭いが残っているような気がする。
「アーレ、大丈夫か?」
背中のお荷物の息は、今のところ問題はない。切り倒したジャガーともども、一真の背中に収まっている。ジャガーは貴重な食料、火は起こせないが、いざとなったら喰うしかない。
闇を注視して歩き回る。地図とコンパスらしきものに、赤い目印がついていた。おそらくはアーレの言っていた、ハポネス文明の遺跡だろう。
赤い印の少し北側から、西の方へ河が流れている。どちらが上流かはわからないが、川の流れる先に大きな街らしきものがあった。文明は川沿いに出来上がる。「知識」は嘯いた。
現在地は確認できないが、恐らくは川沿いに下って行けば、いつかは街に出られるのだろう。
この地図には縮尺がついているが、どうにも文字が読めない。金釘文字で書かれているからだ。
よって縮尺は不明。川沿いに行くと言っても、この森の中から、大河の畔に出る事に危険がないのかと言えば、それこそあり得ない。
ムコの連中は川沿いを見張るはずだ。一真でさえ一瞬で気付いたのだから。川沿いに行けば、自ずと道は開けると。

さて、川に出る事は容易であった。容易ゆえに、やはり対岸に貫頭衣の集団がかがり火を焚いて手ぐすねを引いていた。
どうしたものか、この地図を持っていたアーレを含む『ベガ』は、国家公認だったという。ならばコーカスという国は、少なくともアーレを庇護するだろう。
コーカスという国が、どれほどの威容を誇っているのかは知らない。だが、ムコとは敵対関係にあるはずだ。出来ればコーカスの国土に逃げ込むのが最善。
ただ問題は、巨大な街、これを仮にコーカスとすれば、そこに続く道が、滝の遥か手前から始まっている事だ。
地図を見れば、このまま対岸を歩いていても、いずれは滝にぶつかってしまう。滝の先に森はなく、開けた平野部になっている。道と思われる線も大河の反対側には描かれていない。
大きな可能性としては、滝付近の此方側が、コーカスに属さない土地だという事。故に地図には何も記されていない。

背中に頼れる情報源を積んではいたが、アーレの意識は戻っているとは言い難い。ムコの連中は、一体何の毒を矢に仕込んだんだ?
とりあえず、アーレの回復を待ち、彼に聞くのが一番として、今はこの場所から出来る限り離れなければならない。
一真はコンパスを持ち、南に向かって足を進めた。

日が昇った。水の臭いを遠からぬ所に感じつつ、森の中、足を進め続ける。南に向かうにつれて、河は支流と合流しているのだろう、どんどん巨大になり、渡河する事が困難になりつつある。ジャガーであった肉塊の臓腑を食らい、アーレには租借して肉を与える。
アーレが短刀を持っていて本当に良かった。捌くのに苦労せずにすんでいるのは、この短刀があったおかげと言ってもいい。臓腑を避けるなどと贅沢な事は出来ない。
怪我人を背負って、尚且つ食料は有限。早い所、アーレに回復してもらわねば、命にかかわる。

陽射しが暖かになり、木漏れ日が眠気を誘ったころ、背中の荷物がモゾリと蠢く。
「アーレ。」
「…お前か。くそ、右手がないみたいだ。」
呼びかけに僅かに応じる金髪。目の焦点はあっているのか怪しく、立たせることはできないだろう。それでも、昨夜よりは衰弱は和らいできている。
背中から荷物を降ろし、水袋を荷物の口にあてがう。昨日は半ば零していたそれを、今日はしっかりと飲んでいる。
一真は彼の持っていた地図をアーレの前に広げて見せた。正体のはっきりしない男に道を聞く。目をつぶった先導者に手を曳かれて崖から落ちるか、藁にすがって二人とも溺れるか。
それでも知識を少しでも多く持っている人間に頼るほか、一真に残された手はない。
「アーレ、赤い印の西に、川があるだろう。」
「あぁ。」
「いま、その川沿いを降っている。」
「…コーカス。」
アーレは、正常な思考能力を千切れ掛けた意思でつなぎとめている。一真は、鉛のように重くなっていく両の手足を、恐怖で鞭撃ち歩いている。
「そうだ、コーカスに向かいたい。」
「…渡河をするなら、此処の浅瀬路。」
アーレが動く左指で地図を指す、今歩いている方向とは正反対、上流だ。しかも、浅瀬路、待ち伏せされている可能性が高い。
「このまま降ると?」
「…」
「アーレ。」
無言になる金髪、眠気ではない。必死に記憶を手繰り寄せている。浅く荒い息が漏れ、アーレは呟いた。
「滝、30マイルは渡しがない。」
「森さえ出れば。」
一真の言葉とほぼ同時に、アーレが咽た。水袋を口に含ませる。
「ムコは、騎馬民族だ。」
絶望的な知らせだった。本来平野部にも勢力をもった連中が、山奥の盆地に駐屯している。森で撒けなければ危険度は増すばかりだ。

一真は来た道を取って返した。時間がかかるのだろう。だが、ムコの追手がないとは言い切れない。寧ろ、一真の特徴的な足跡、ジャガーは血の臭いを追ってきている可能性の方が高い。なんといっても、ココは彼らの庭。
遭遇しない方が運がいいのか、遭遇して奴らを胃袋に収めるのが賢いのか。
たわいもない事を、北を指すコンパス片手に一真の思考は彷徨っている。
影が差す。木々の合間を縫っていた暖かさが消える。空を見上げると、白の雲が灰色に変わってきている。
そのまま歩いていくと、あの時の臭いがした。ジャガーの臭い。
「アーレ。」
金髪に声を掛けた。彼は力なく顔を上げ、居心地悪そうに顔を地面に向ける。
「コイツは、運が向いてきたかもしれない。」
臭いの源は木、近くに人間の足跡もあるが、足跡がその場所で引き返しているではないか。一度南へと去り、反転して北に向かった事が、逆に功を奏しているのかもしれない。
その日の夕暮、灰色だった空がついに黒く染まり、雨が降った。水袋の皮を開き、雨水を溜める。水も、食料と同様に腐る。
その夜、一真は久々の睡眠を取った。意識が一瞬で無くなり、気付いた時には朝だったくらいの深い眠りだった。雨は降り続いている。今日も追跡の心配はない。
そして足の疲労は増すばかりだ。

泥の中に一真は足跡を見つけた。
足跡を頼りにして森の中を進んでいると見つけた。マダラ模様の獣の群れ。斜面でのんびりと食事中だ。
足跡の間隔で解るが、奴らの足はそんなに早くないだろう。ただ仕留められるのは一匹だけ。子供は容易に捕えられるだろうが、親は必死でそれを守る。
ならば駆け抜けてはぐれた奴を狙うとしよう。親子の速度差は如何ともしがたいものがあるはずだ。小さいものでも、二人の胃袋を満たすには十分。
息を殺して風下へ回る。風上ではどうにも失敗してしまった。これが二回目の狩りだ。
雨の中でも鼻が効くのだろうか、それとも一真が音を建て過ぎるのだろうか。額が雨にぬれ、いつも以上にほてりを感じた。
物音を立てずに群れに近づいていく。射程距離には既に入った。だが成功率はこれでも五分だ。その時、一匹の獣が甲高い声で浅く早く嘶いた。気付かれた。
一真は四肢に力を込めて駆ける。斜面の泥は程よい感触で一真を風に変えた。一斉に散る群れ。混乱の中、一匹出遅れたのがいた。コイツだ。
一真は鋭角に体を捻り、方向を変えて突っ込んだ。物の見事にターンした一真の前を行くマダラ模様。だがジリジリと距離は狭まり、思いっきり掴みかかる。苦しげに鳴くマダラの獣。

黒一色の目の中に、自身の犬顔が写った。その眼に火が宿っていた。遠慮すればするほど相手が苦しむだけ。殺しにいっているのだから、そのために手加減などしてはならない。
荒い息を吐きながら、一真は咽喉と頭を掴み別方向へ捻じった。鈍い音が響き、マダラの獣は動かなくなった。
一真の仕留めた獲物はまだ子供なのだろう。一真はそれを背負って斜面を駆け降り、森へと入る。まとわりつく湿り気の中、短い雄叫びは鳴りやまない。


ジャガーを喰いつくし、一真は狩りをおこなった。存外に弓がないのは不便だ。
四足歩行ゆえだろう、一真の腕は垂直に上がらない。どうやっても木の枝のように屈折する場所が出る。石を投げると、全く見当外れの場所に吹き飛ぶのはそのせいだろう。
狩りの方法は、駆け抜けて襲いかかる方が断然早い。腰だめに革のベルトで帯剣してみたものの、ムコの民の剣に鞘はなく、走る時に足を切ってしまう。狩りの時には無用の長物だった。
いっそ針か、小柄なナイフ、そこらへんに落ちている手頃な石の方が、武器としては使いやすいだろう。持ち味の素早さを殺さず、尚且つ殺傷能力に優れている。
現状の狩りは徒手で行い、アーレの元へと戻って行く。
アーレも歩けるくらいには回復した。周辺の茸や果実、山菜で食べられるものはアーレに選別してもらっているが、歩行速度の違いで未だに一真に背負われている。
ムコの民とはまだ出会っていない。彼らの追跡の後は、足跡、人糞、などは見つかったが、すでに途上で引き返している。
雨の行軍は体力を使う。足元が滑るし、何より重さがいつもの4倍くらいに感じるからだ。
「おい、それも食えるはずだ。」
「解った。」
背中でアーレが言ったとおりに一真は動く。指示があるだけありがたい、遭難者ではあるが、川の音がそう遠くはない位置を常にいる為、その内、道に出られる。
限りなく可能性の高い生還の道を信じ、一真の影は泥を蹴った。



[19204] 獣なれども 出会い道
Name: 村人その5◆1f9c2762 ID:54cfbd59
Date: 2010/06/05 23:56
ここ最近にしては珍しく、雨が降らなくなってきたその日。

―――不思議なにおいがする。
一真の嗅覚に風上から香るものがあった。
自然のものは木々に溶け込むのだが、これは明らかにそうではない。血と汗、それに鉄、無駄に鼻を付く甘い香り。
太陽に照らされた白い毛は、久方ぶりの好奇心に逆立つ。近づくにつれてそれが人間の匂いと気付くのに時間は要らない。

「おい、どうした?」
若干やつれてきたアーレも一真の異変に気付いた。地べたに足をおろし、上がらない右腕を気にしつつ、木の根を噛みながら獣に問うた。
それもそのはず、一真の様相が一変するときは、何か口に入れられるものを見つけた時ぐらいなのだから。
「アーレ、人間だ。」
流石に慣れてきている。人間と言えばムコ、アーレもこの言葉を聞くや否や、体を強張らせる。
「何人いる?」
目の鋭さを増した金髪は、木の根を口から吐き捨てて伏せる。
「…分からない。何かとても甘い、熟れたイチゴみたいな匂いが邪魔だ。」
「そんなに強く香るのか?ムコにしては不用心な。」
彼らは森に溶け込む。森そのものが、ムコという敵なのだ。
少し風上に近づけば、アーレにもその臭いが微かに感じ取れたのだろう。眉間にしわを寄せて考え込んだ。
「罠にしては余りにもお粗末だ。」
「待ってくれビースト、この匂い、なんか覚えがあるような…」
「決まりだ、正体を見極めよう。」
一真はアーレを背に乗せて森を走る。
風下にいる限り、相手の数や正体がわからない。

とにかく獲物を見定めなければならない。甘い匂いは驚くほど明快に一真を導いている。
「おっ!」
背中のアーレが声を上げた。
森の影が唐突に断ち切られ、遮蔽物のない大地に一真は飛び出した。開けた道路。人が山を切り開き、大地を行きかう為の最も原始的な装置。
一体何時ぶりであろうか。

「道…道だ!」
「落ち着け!まだ相手がムコじゃないと決まった訳じゃない!」
はしゃぐアーレに同調したくなる自分自身を、甘い香りが強く押し付けた。
甘い匂いはまだ先だ。久方ぶりのでこぼこ道に沿って歩いていると、なんとなく自身が人間であったような気がしないでもない。
小野寺一真という人間は胡蝶の夢であり、あくまでも己は獣なのか。
あの虎が悩んだのも、自身が人であった証左が無くなったためだろう。
特に一真には記憶がない。日本人という人は知っていても、果たしてそれが一真の空想の産物でない証明はできなかった。
まるで映画を見ているように、知識は視点をくるくる変える。誰かの物語を読んでいるような、一馬自身にも説明しづらい知識の存在。
伝聞や情報だけで構成された、ツギハギの知識。

「アーレ、とりあえず森の中に隠れて相手を待つ。いいな?」
「あぁ。」
心底安心したという顔を見せて返事するアーレ。
そんな金髪と共に、ちょうど道を見下ろせるように山腹に身を隠した。
人間は普段は上に気を配らない。木を登る猿の後継にしては不思議な話だが、事実そうなのだ。
思考を止めて、獲物に集中する。
気配は多くない。蹄の音が聞こえる、つまり馬がいると云う事。
甘い匂いが強すぎて良く判らないが、相手は複数だと考えるべきだろう。

そろそろ眼下に獲物が見える筈だ。
一真は目を凝らした。容易には見つからない。それもそうだ、道に居れば互いに目が合えばわかるだろうものを、わざわざそこから外れて見ているのだ。
だが狩りの経験が、人間と云う狩られることに慣れていない違和感を判別するのに時間は要らなかった。
見つけた。相手は3人、全員が騎乗している。
全員が帽子なり甲冑なりを被り、ムコかは解らない。2人は女だろうか、甘い匂いは其方からする。先頭を行く一人は男、おそらくコイツが武装している。血を被ったのだろう、鎧と槍が血で染まっていた。

「どうした、ビースト?見えるのか?」
「あぁ、ちょうど道をこっちへ来ている。あそこだ。」
一真が指先で一行を指さすと、途端にアーレが喜色満面になる。
「おい?」
次の瞬間、一馬には解読不能の言葉を叫んで、アーレは道に飛び出していた。
「おい!」
制止の声を聞くことなく、アーレは道にいる一行に対して言葉を投げつけている。
そして、実戦的な鎧で武装した男が金髪に気付いた。アーレに対して血濡れの槍が構えられた瞬間、一真は風になっていた。

跳躍と共に鎧男を馬上から蹴り落とす。
男は肩を大地に強かに打ちつけ、鉄兜道に転がる。少なくとも、骨は折れただろう。かぶりを振って獲物を正面から見据える一真。
プラチナブロンドの髪の同じ顔が二つ並んでいる。
しまった、ムコではない。
男の馬が逃げた。男が何事かを叫ぶ。逃げるように勧めているのか、さもなくば痛みに耐えかねた叫びか。

「やめろ!ビースト!」
攻撃が終わってしまっているというのに、アーレがいまさら一真の存在に気付いたとでも言わんばかりの声を上げる。
「す、すまん。」
相当ぎこちない言葉になっていることは承知で、一真は言葉を紡いだ。
男がふらつきながら立ち上がり、一真に剣を向けた。
彼らはアーレの関係者だろう。
そうでなくとも、少なくとも同じ人種ではありそうだった。
男が散々喚き散らしている。今にも飛びかかってこないところをみると、どうやら主従の関係があるようだ。
女同士がヒソヒソと話し合い、アーレが何か言葉を足した。
瞬間、全員の目が丸くなる。何を言ったんだ、アーレ。
アーレと出会った時と同じようなものだ。ただ状況は此方に非がありすぎる。

一触即発のにらみ合い、いざとなったらアーレを担いでトンズラするしかあるまい。
男は剣を抜き放ち、既に構えをとっている。一真は何時でも逃げ出せるように足に力を込めた。

木漏れ日や鳥の囀りすら気に障る緊張感。静寂を破ったのは女の一声だった。
忌々しげに此方を睨む男が剣を収めた。男の額に脂汗が見える。
やはりあの一撃は痛手だったようだ。一真は男が苦しげに歩きだそうとするのを見て、アーレに声をかけた。
「あの馬、取って来る!」
「追いついてこいよ、ビースト!」
アーレの返事の意味を理解しないうち、一真は駆け出した。
程なくして男の馬を連れ戻し、一真は大人しく連行されることにした。アーレと女二人組がとても親しげに会話している。
友人、とまでは言い過ぎだろうが、初対面というわけではなさそうだ。
道中、馬の歩調に合わせる一真に、苦しげな男を除けば一行は驚いているように見えた。





[19204] 獣なれども 忌まわしい鎖
Name: 村人その5◆1f9c2762 ID:63f4e6d8
Date: 2010/06/09 22:45
実に不愉快だ。

一真達が浅瀬路に辿りついたのは、太陽がその輝きを依然として失っていない時間帯だった。
きらめく浅瀬路に野営地を築いている兵隊。彼ら曰くではあるが、『ベガ』捜索隊。

浅瀬路の畔、いずれは大河になるであろう、この浅瀬の対岸に居並ぶテントを見つけた時、一真は圧倒された。数は二十を下らない。ベガを救いに来たにしては、あまりにも仰々し過ぎる陣容。
騎兵だけで百は超えるのだ、違和感を覚えない方がおかしい。ムコに見つけてくれと言っているも同然だ。いや既に交戦したのだろう。先ほどの男の槍や鎧に着いた血が物語っている。
血の着いた武具と馬。死体から引き抜いた鉄製の矢が、テントの脇に束ねられていた。それに、臭いが強すぎる、血と肉と人に馬。

アーレは同じ顔をした女に連れられて姿を消した。彼女達は姉妹だろう。浅瀬路のキャンプに辿りついた途端、アーレは怪我人という理由で川に一番近いキャンプに入った。それっきり姿は見ていない。

それはいい。
だが、ここからが一真にとっての不愉快の始まりだ。まず、手足と首に鎖が付けられた。まるで罪人にするように締め付けてきたので、文句を吐露するが、一切改善されない。
首を引きずられるようにして、天幕の中へと放り込まれた。転がって頬に着いた大地は冷たい。

天幕の中には特別見張るものはない。上を見張れば簡易に折りたためる天幕、折りたたんだ後に馬に引かせるのだろう、ご丁寧に荷車と同じ天幕に入れられた。
剣の臭い、矢の臭い、盾の臭い、鎧の臭い。つい先ほどまでこの天幕の主であった男は、酒の臭いまで残している。
天幕から外は見えない。ましてや雑音だけで状況の把握など出来る筈がない。
「クソ。」
手足が痛い、首は元より、動かせる方が痛い。

しばらくすると、天幕の向こうから咽かえるほどの甘い香りがした。同じ顔の女だ。
目の前に居並ぶ同じ顔をした女が英語で、この国では古語らしいが、いろいろ尋ねてくる。一真は何も知らないとしか答えようがない。ただでさえかみ合わない知識、語って聞かせて信用など得られるはずはない。

その上、厄介は続くものだ。なんといっても、この二人の質問、あのアーレの質問を微分積分に見せかけた関数問題にして、その上相対性理論でも理解していないと解けないような代物ばかりだった。
アーレと同じく、黎明ハポネスの詳細な歴史を教えろという。こいつらはアーレに話を聞いていないのか、それともアーレを信用していないのか。
女の放つかぐわしい悪臭。
「カイラースの乱以前の事も、知らないって。」
「本当に何のためにいるのかしら、この獣?」
番の片割れの悪意のこもった視線。不愉快さはいや増すばかり。
専門用語に次ぐ専門用語、遺跡の位置を聞いたと思ったら、内部構造を尋ねてくる。
「地図を見て行った方が早いんじゃないか?」
こう答えるしかない。オレの記憶の起点は木の檻の中、揺れる地面、そして薄暗く、混迷した幌。
「アナタ、獣の皮を被った人間なの?」
女の片割れが問う。その質問に答えられるものがあれば苦労しない。獣の体に宿った魂が、もしも人間だとして、今の自分が人間かどうか、誰に確かめられよう。
「質問に質問で返すようで悪いが、アンタは誰の股から生まれたか覚えているか?」
「母のアンナよ。」
「オレは知らん。目が覚めたと思ったらアーレに攫われていた。」
もう一人の女が口を開く。コイツらを見分けるには服装の差異で考える他に方法はない。
「ということは、アナタの言う日本、でいいのね。アナタは日本について豊富な知識はあるけど、記憶はないって事かしら?」
「そうだ。」
「じゃあアメリカとか、中国とか、この古語の本来の出自はイギリスだとか、なんで断言できるの?」
ついに、琴線に触れた。己が一番知りたい知識の確証、誰のものか分らない知恵の塊。これは誰だ、お前はなんだ。
「知るわけがないだろう!オレは日本人だ!それ以外、日本の事以外何も知らない小野寺一真だ!」

結局、彼女達は意義のある回答を聞き出せなかったのだろう。ため息交じりに天幕を後にした。己の吐き出す言葉は、頭ごなしに否定され、そもそも日本という存在が胡散臭いと言われた。

手足に鎖が食い込む。どの姿勢も楽ではない。
「待てよ?」
どうして頭ごなしに否定できるんだ?おかしいじゃないか、彼らは何かを知りたがっていた。それはハポネスの歴史だ。アーレの話では一真は黎明ハポネスの文明、よく解らないがはるか古代の遺跡の出土品だ。
「もし、オレが奴らならどうする?」
奴らは歴史を知りたいのではないか。彼らは研究者ではないのか?一体ベガの求めるものは、本当に遺跡なのだろうか。
歴史が彼らの興味を引く代物か?命を賭けるほどに知りたがるモノが、歴史?
「なぜ否定できた?」
一真にとっての『ベガ』はアーレでしかない。アーレは宝物から歴史を探求し、そのついでに盗賊紛いを行う人物と思っていた。
「奴ら、何が目的だ。」
そもそもの認識を改めなければならないような気がする。

馬車から目覚めて何度目になるのだろか、いよいよ日が暮れた。一真に飯として出されたのは肉塊。臓物も着いていた。何の肉かは臭いで解った。流石に息をのむ。

人肉。間違いない。
ムコの首筋を噛み切った時の臭いは、今も口の中で鮮明に思い起こせる。

コイツらは、遺獣というものをなんだと考えているのだろうか。理解できない、嫌、理解したくない。獣、言葉を理解し話す獣、珍しさで言えば、神話の中に出てきてもおかしくはない。
だが、それでも、古に存在したという、人食い門番のスフィンクスと一緒にしないでほしい。自分は人間だ。姿形がいくら変わろうが、悩み、迷い、救いを求める人間なのだ。

もしも遺伝子分析が可能ならば、今すぐしてほしかった。きっと人ゲノムが己の中から検出されるだろう。
さもなくば生物ではない、化け物のものだ。一真は切に願った。誰でもいい、正体を教えてくれ。己の、コイツの、この世界の、今この瞬間の。

一真が口で出された肉塊を投げ捨てると、キャンプの中心にいた同じ顔の番いが笑った。布で隔たれているが、声で解る。二人の女の笑いが病のように伝染し、野営地は笑いに包まれた。

次に運ばれてきたのは残飯。野ネズミの肉でもシチューにしたのだろうか、随分と豪勢に火を使うものだ。天幕の向こうで燻り揺らめく炎の臭いは、一真の鼻を潰す為か。
これに口をつけると、やはり笑いが起こる。最早スフィンクスになったのだろうか、この肉は何かまでは分からない。肉は肉だ。味は、少なくとも悪いものではない。
一度口に付けると、一真は何も考えずに喰った。最早、考える事にも疲れた。コイツらは、敵だ。ムコが狩人だとしたら、この天幕を囲む兵は皆、敵だ。
一真は木皿を齧り、天幕の向こうで立っている男に、首を振って皿を投げつけた。

一真は不愉快だった。
甘い香りに包まれて、臭いが皆目知れない。意図が計りしれず、動く事もできない。馬の小便と嘶き、人の湧き起こす騒音。全てが不愉快だった。

布越しに、水の流れる音。甘い香りが薄くなると、男女が交わる嬌声が聞こえてきた。あの女達の声もする。
「ざけんな…」
僅かに身じろぎをすると、縛られた手足が痛んだ。浅瀬路野営地と言うよりも、この場所はただのベースキャンプでしかない。
「―!」
嬌声に悲鳴が混じった。ムコが襲ってきたのだろう。当然だ。此処まで見せつけておいて、襲われない方がどうかしている。

嗅いだ事のある異臭を放ち、一真の居る天幕を貫く矢。だが、二の矢は続かない。
「―!―!」
理解の出来ない言葉が一喝する。そして重たい鎧が居並ぶ音と、鉄の鏃の多重奏。呻き声が微かに耳介に届き、後は虫の音が戻ってきた。
闇の中で、追撃も行わない。コイツらは戦力の分散の危険を知っている。此処がムコの庭である事を知り、その上でこの数で攻めてきている。
間違いない。コイツらは正規の軍隊か、さもなくば歴戦の傭兵だ。

一つだけ、功名があった。その夜はこれで嬌声が消えた事だ。一真にとって、それだけが唯一の幸福だった。


夢だ。これは夢だ。
かつて、栄華を極めた者はすでにない。その姿を消した、否、出られなくなった。
棺から、石棺から。彼らは出る事を許されない。
罪人だからではない、自ら望んでそうなったのだ。幾つも同じ顔が並んでいる。どいつもこいつも、みんな同じ顔。望んでそうなったんだ、永遠になりたかったんだ。
愚かな男だ、馬鹿な女だ。あぁ、馬鹿だとも、いくら永遠があっても、いくら永劫を得ても、最早出づる者はない。ここは静謐に包まれている。


朝日がを拝まずに迎えた朝は、恐らく初めてだ。
「誰か!」
一真は喉の渇きを覚えて喚き散らす。しかし声に反応する者はなく、ただ天幕の向こう側を通り過ぎる影ばかり。金属のカシャカシャと擦り合う音、砥ぎ石で刃を擦る音、馬の小便の臭い。そして号令。
陣地の朝に、一真のような畜生を構う者などいなかった。
生き殺しだ。身動きも取れず、訴えも聞き入れられない。そう思えば、一真の鳩尾に鬱憤が発芽し、目覚ましい勢いで育っていく。

時は進み、影が短くなったころ、一真の天幕が開かれた。甘ったるい臭い、あの女だ。
「おはよう、自称カズマさん。」
足を動かしてぶん殴ってやりたかった。ガチャリと繋がれた鎖が行動を防ぐ。
顔を少し動かして睨みつける。目的はなんだ、何が知りたい。
「今日から歩くわ、コーカスまでの長旅よ。」
「質問はもうないのか?」
「時間は無駄に出来ないの、ムコのしつこさは知ってる?」
ムコ、騎馬民族だと、アーレは言っていた。そうだ、アーレ。
「聞きたいんだが、いいか?」
「手短にお願い。」
「アーレはどうした?」
女の目が左に動き、そして言葉を紡ぐ。
「先にコーカスに向かってもらってるわ。」
「嘘だな。」
女の心音がウサギのように跳ねた。汗の臭いが増す。
「アンタの匂いが変わっている、香水でごまかせると思ったのか?」
「そう、だから何?」
「アンタ達に警告だ。」
己の中で敵意が育つ。健やかに、すくすくと伸びやかに育ったそれは、ついにソイツは花を開いた。
「ムコが甘い敵だとは思わない事だ。」
女の顔が歪んだ。そのまま背を向ける女に一真は声を投げる。
「後、そろそろトイレの時間が近い。」

一真の手足の鎖が解かれ、枷の付けられた首を鎖で曳かれる。鎖帷子を着込んだ男が一真の先導を行い、馬の横に並ばせた。何匹もの馬が糞をし、小便をしている。

此処でしろと言う事だろう。便意に逆らわず、一真はすることにした。見ず知らずの人間に囲まれ、こんな事をしている。自分でも、人間らしさが抜けてきたと思う。
「我ながら度し難くなった。」
馬も人も、クソを垂れる事に差異はない。大脳新皮質様のおかげで優位に立っている人間は、果たしていつまで繁栄できたのだろうか。


遥か彼方の昔の、神話として語られることのない世界の住民。彼らはいつまで王座に就く事が出来たのだろうか。
一真の知識の正体は、存外に神話の世界のものかもしれない。よく出来た神話じゃないか、この世界でも愛される神話だろう。いっそ、作家にでもなってやろうか。
「言葉を覚えないとなぁ。」
一真は呟く、だがこの言葉を聞いている人間はいない。
鎖に縛られ、一真は荷車の荷物にされた。便意と食事の時間を与えられる時だけが、一真にとって青空が見れる瞬間だ。
山の斜面に沿い、道路は曲がりくねっている。出発から半日経つが、ムコは仕掛けてくる気配はない。
この兵力差は如何ともしがたいのだろう。コイツらは狭かった道を切り開き、進んできたのだから。
空気が弛緩している。和やかと言ってもいい。視点を変えれば油断し過ぎだともいえる。

山から吹き下ろす風で、先の事は分からない。
ただ、一真は予感していた。ムコは仕掛けてこないのではない。奴らは、別の手段ですでに動いている。
吹き下ろす風にムコの気配が全くしないのが証拠だ。
ムコが全滅したとは考えられない。昨夜の戦闘は斥候がてらだろう。オレがムコならば、もしコーカスに敵意を抱いているならば、どうするか。答えは下山すればわかる。

ひっきりなしに怒号が飛び交う。馬が駆け、人が疾駆し、必死になって輩の骸を集めている。
「あー…」
軍団が山を降り切ったのは、夕暮れ時であった。軍団の数は多い。つまり、兵站の必要性に駆られるのは必定。
下山した軍団が目にしたのは、彼らの駐屯地であろう村が、略奪され、焼き尽くされた光景だった。


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