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[17426] セラエノの空
Name: 白夜◆ea6127af ID:5239ed0d
Date: 2010/03/21 06:34
 プロローグ



 僕はついに夢を掴んだ。

 空気を裂く音が無数に木霊する。
 眼下に視認するのは喧騒の中の人々。
 蒸気機関を改造したそれはエンジンの音を唸らせて僕を後押しするようだ。
 急がないと。
 時間は無かった。
 蒸気の雲は霧散して、僕に道を切り開く。
 目標の宮殿へはあと少しだ。
 と、ここで僕は当初の目的を思い出す。
 ――どんな顔をして会えばいいのだろうか。
 ――どんな言葉をかければいいのだろうか。
 ――どんな思いを伝えればいいのだろうか。
 別に僕は全ての悪を倒す正義の味方ってわけじゃない。
 もう誰が悪で誰が正義かなんて分からない。
 ただ、僕は彼女の為にここにいる。
 今更足がすくんで腰にも力が入らなくなる。
 肺に空気が入りづらくなって息が苦しい。
 これは恐怖ではない。
 だって僕は今夢を掴んだのだ。
 そしてもう一つ、神に願うのならば――

 ――どうか彼女が笑顔でいてくれますように。





 

 ■■



 どうも、白夜と言います。
 あまり前書きを書く主義はないのですが今回は少々自信があるので、ぜひご覧になってそれほど嫌悪感を抱かないのであれば感想などを頂けるとありがたいです。
 まだまだ修行中のみですので、これらを糧にしていきたいと思います。よろしくお願いします。



[17426] 0
Name: 白夜◆ea6127af ID:5239ed0d
Date: 2010/04/21 13:37
 工房の匂いが好きだ――なんて思い始めたのはいつごろからだろう。チェルシーはそんなことを考えながら今日も“あるもの”を作っている。シンプルな造りの場所であった。普通の豚小屋分の大きさであるその場所にはチェルシーを満足させるための物が無造作に放置されている。作業を円滑に進めるために使用する油の臭いが鼻につく。
 たった一人の工房である。メインストリートから聞こえる朝の喧騒以外はチェルシーの息遣いと擽ったそうに響く工具の音だけが木霊していた。
 焦げ茶色の髪をしてメガネを掛けるチェルシーの姿は痛いほど油まみれでなければ何処かの学者として捉えられたかもしれない。夢中で作業を続けるチェルシーの様子は玩具で遊ぶ子供のように見えるが決してそうではない。
「あとはここをこうして……」
「おはようチェルシー。今日も朝までやってたのか?」
 チェルシーは誰の声なのかは分かっていたが一応確認の為に顔を覗かせた。工房の入り口にその視線を向けるとそこには長身の男が立っていた。
「マルコ。おはよう。そうだよ今日も徹夜さ。でもね、何日も徹夜を続けているとそのうち睡眠欲すら無くなってくる境地に達するんだってさ。僕は今その状態だよ」
 得意げにペンチを投げて弄ぶチェルシーに対してマルコは溜息一つ。
 儚げな表情であった。
 今にも消えてしまいそうな、そんな存在感が満ちていた。背が高く、細くてしっかりとした彼の容姿ならば恋人の一人二人いてもおかしくはない――常の世ならば。
 ――誰もマルコに光を向けようとはしない。
 ――ここセラエノではマルコは『社会の底辺』と位置づけられる存在だからだ。
 どんな人間にだってやりたくない仕事というのは存在する。面倒なもの、汚らわしいもの、危険なもの。その中でも最も忌み嫌われる職業がある。
 死刑執行人――
 死神と同義である。その名の通り死刑を行う人間のことだ。誰もが犯罪者に死刑を望み喝采する。だが、その死刑を行う人間のことは蔑むというのはなんと皮肉で愚かしいことなのだろう。死刑制度がこの国家から廃止されるまでマルコは永遠に囚われ続けることになる。自分が殺したという事実に、罪悪感に。そしてそんなことを考えるときチェルシーはいつも考えてしまうのだ。――可哀相なマルコ、と。
「もう、ちゃんと睡眠をとらないと早死にしてしまうぞチェルシー。それでは実家の両親も傷つくだろう。それに、彼のサフラン学院の学生がこんな油まみれじゃ街の人たちに示しがつかないだろうが」
 持っていたハンカチーフでマルコはチェルシーの顔を乱暴に撫でる。兄のような存在だ。チェルシーはそう思っていた。もしかしたら自分よりも頭がいいのではないかと疑うほどの頭脳明晰さと、死神と呼ばれるには不相応なその笑顔には逆らえない。
 ――マルコ。
 ――僕の大切な親友。
 たった一人で仕事をすることの多いチェルシーにとってマルコは心の支え。
 ――誰よりもやさしくて、誰よりも心が強い。
 ――僕は知っている。
「よし、綺麗になった。工房にばかりいると気が滅入ってしまわないかい? チェルシー」
「ありがとう。いや、でももう少しでいいところまでいけそうなんだ。だからもう少しだけ……」
「僕はこれを配りに行こうと思うんだけど」
 マルコはそう言って手に持っていた大きなバスケットをチェルシーに見せ付けた。
 中にはこれでもかというほどに敷き詰められた美味しそうなパンが詰まっていた。
 明らかにそれをみたチェルシーの表情が変化した。
「マルコ。またそれを配りにいくの?」
「そうだよ。小さいことからコツコツとね」
 ――また、笑顔。
 チェルシーはマルコの笑顔を見るのが好きだった。彼が笑顔なことを見るとすごく救われた気持ちになった。そして――なんて意地悪なのだろうとも思った。
「分かったよ。行こう。いつものところだね」
 ありがとう――とだけマルコは言って踵を返す。全て計算づくのことなのだ。
 何故ならば。
 ――僕が絶対に断らないことを彼は知っているから。




 ■■



 ステンドグラスから降り注ぐ柔らかな光が二人を包んでいた。二人だけではない、この教会全てがノエル・ファンデにとっては奇妙で愚かな雰囲気に見えた。
 ――これが、私の願ったこと?
「汝、ハロルド・バスティーユはノエル・ファンデを生涯の伴侶とし、病める時も健やかなる時も変わらず愛することを誓いますか?」
 厳かな雰囲気のまま式は滞りなく進められた。教会は思ったよりも小さくて式場に入りきらなかった市民たちが外でたむろしていることもノエルは知っていた。
 今日は特別だから――そう言いつくろって教皇自らが導師を務めると聞いたときには心底驚いた。だって、
 ――こんな結婚に何の意味があるというのか。
 ノエルには理解できなかった。ただただ男と女が契りを結ぶだけ。だが、今のノエルたちはそれにも劣るのかもしれない。
 教皇の言葉はノエルの耳を右から左へと風のように抜けてく。何も聞こえなかった。いや、聞きたくなかった。今此処で再確認できたからだ。
 ――自分はこんな好きでもない人と一生を共にするんだと。
 何もかもがどうでもよかった。自分は贈呈品。この人に、この国に対してファンデ家から送られる物。意思はない。
 満足げに尋ねてくる教皇に対してノエルの前の男性は申し訳のなさそうな視線を向ける。
 ――何?
 ――どうしてそんな視線を私に向けるの?
 敵わない。ノエルが思った第一印象はそれだった。
 とても美しいのだ。
 女だからだろうか。話しているだけで心を奪われそうなそんな美丈夫。
 彼は耐え切れなくなり目立たないようにその双眸を落とす。そして言うべきことをその唇から発する。
「……誓います」
 凛とした声。私なんかよりもずっと人間が出来ているのだろう。ノエルはそう思った。
 ――私は無機質に彼に視線を預ける。
 ――意外と簡単だった。ただ、感情を捨てればいいのだから。
「汝、ノエル・ファンデはハロルド・バスティーユを一生の伴侶とし、病める時も健やかなる時も変わらず愛することを誓いますか?」
「誓います」
 ――驚いた。自分自身に。
 ――だって私はこんなに簡単にこの言葉を口にできるなんて思ってなかったから。
沈黙の教会には笑顔が溢れていた。感動して涙する者もいる。歓喜の声を出さないように必死に自制をするものもいる。皆が皆、ノエルたちの幸福を信じて疑わなかったに違いない。それがノエルにとって一番つらかった。
 澄んだ声が響いて教皇が頷くと、美丈夫の男は歩み出てリングピローを差し出してくる。
「それでは指輪の交換と誓いの口付けを」
 小さな指輪は左手薬指に通し、手に同じものが通される。
 ――今、彼の手が私に触れているのだろうか。
 ――多分そう。でも感触は無い。
 小さなダイヤがいくつも散りばめられているだけでシンプルなものなのに、酷く重い。重さだけが実感としてある。それ以外はノエルには分からなかった。
ヴェールを上げられると、ノエルは怯えるようにその蒼い瞳を閉じる。
 ――怖い、のだろうか。
 ――分からない。
 触れた唇からは何も伝わってこなかった。温度も、思いも、愛も。
ただ、もしかしたら――この人は申し訳ないと思っているのかもしれない。そう、思った。
「ブリギットの名の下に、この二人をただ今より夫婦として認め、広く世に宣誓します。若き二人に幾多もの幸せと、ブリギットの加護がありますように」
 歓声が沸く。
 嵐のように声が轟く。教会の外はお祭り騒ぎだった。参列者が先に出て行き、暫くすると荘厳な鐘の音と共に巨大な扉がゆっくりと開かれた。
 純白のウエディングドレスに身を包んだノエルは眩しさに目を細める。
 ――奇跡、なのね。
 そんな言葉がノエルの心で、市民達の口から溢れていた。花吹雪を撒くことも忘れ、それは風にさらわれる。
 空の“隙間”が見えていた。唯一この世で光が差す場所。普段ならこんな場所には決して現れない奇跡。“日差し”がノエルたちを祝福していた。
「……青いんだな。青空とはこんなにも……」
 ――彼の口から漏れた言葉。
 ――今ではあり得ない。そんな言葉。
 ノエルは一瞬言っていることが理解できなくて戸惑ってしまうが、市民達の声にそれは退けられた。義務的に“隙間”を見つめるハロルドの腕をしっかりと組みゆっくりと手を振る。ハロルドは手が組まれていることを確認するように見た後同じように手を振った。
 その瞬間、歓声が一際大きくなる。
 ――これが私の仕事だから。
「ハロルド様! ノエル様!」
「おめでとうございます!」
 その言葉にノエルは皮肉めいた色の瞳を隠しきれない。
 結婚式とは確かに普通は祝福されるものだ。けど、つい先ほど指輪を互いの指にはめ、誓いの口付けをかわし、今隣にいる男性のことは何も知らない。
 ハロルド・バスティーユという名と第三十六代セラエノ王位継承者という肩書きだけ。実際に会ったことさえ今日が初めてだった。
「何が、おめでとうだよ……」
 思わずハロルドが零した言葉は市民達の歓声にかき消されノエルの耳には届かない。



[17426] 1
Name: 白夜◆ea6127af ID:5239ed0d
Date: 2010/03/20 22:17
 蒸気国家セラエノ――
 前半のそれはこの国に対して付けられた尊大な称号のことである。先代のチャールズ国王からハロルド国王に至るまで。この国は異様な速度での発展を遂げてきた。
 雲は薄っすらと黒ずんでいて、大気は薄っすらと汚れていて、太陽の光は薄っすらで。
 ――いつからだったろうか。
 ――こんなに居心地が悪いと思い始めたのは。
 栄光の繁栄期と人は言う。
 ハロルド一世の統治はそれほどまでに素晴らしかった――そんなことはない、という人もいるが――重商業に視点を置いたその内政政策は人々の心に希望を与えた。
 戦乱が絶えぬ昨今の情勢の中で国民達が一番欲していたことは何よりも愛国心を抱くに値する国だったのだ。言い換えるならば他国には無くて自国にはある何か。それこそが国民の求めるものであり、望みだった。
 蒸気機関革命に成功し、一気に工業都市に発展したこのメインシティでは華々しい装飾が施された店の隙間を縫うように大小様々な工場が乱立してしまっている。
 ――変な話だけど、僕は工房ならいいが工場は嫌いだったりする。
 ――だって、そうだろう?
 乱立したそれらは都市の概観を蹂躙する。今ではそれが見慣れた光景になってしまい、誰もおかしいなどと咎めようとする者はいない。
 工場が息を吐くようにして放出するその排気は確実に空気を犯す。蒸気機関革命に成功した当初はそんなこと考えもしなかっただろうが今ではどうだろうか。工場が犯すのは何も都市の概観だけではなくて、
 ――だからここでは傘を差すのだ。
 ――防ぐものは雨ではなく、この汚物。
 それでも市民は構わないのだ。
 信じて疑わないのだ。この永遠の繁栄を――

「皆さん。今日もパンを持ってきましたよ」
 チェルシーの工房から歩いて数分。メインストリートのある種気持ちのいい忙しさとどうしても拭えないこの街の黒さを纏いながら二人はここまで着た。
 歩いている間はとりとめの無い会話をした。
 例えばチェルシーの仕事の出来について。
 例えばマルコの宝物である妹について。
 例えば拭えないこの街の闇について。
 空気が汚れているせいか自然と会話の流れも遅くなっていことには二人とも気づかない。
 二人が辿り着いたこの場所は一言で言ってしまえばこの世の果て。場末と呼ばれるような所だった。
 ――あ、やっぱりそうか。
 ――まだこの場所に僕は慣れていないんだ。
 場末の路地裏には生きていくために最低限のものなど用意されているわけもなかった。排水があちこちに水溜りを造り、ゴミなのか、それともここに住む人たちにとっては生活用品なのか分からないようなものしかない。
 それでもなおこの場末に住む人たちには笑顔があって、誰も自らの境遇について愚痴を零したり嘆いたりするものはいない。チェルシーは案外この場所が好きだった。
 ――この人たちに僕は何が出来るんだろう。
 ――でもそう、僕の考えは間違っていないんだ。
「おお、マルコ様。いつもいつもありがとうございます」
 場末の長老……と思わしき人物がマルコの手にあったバスケットを受け取り、それを皆に配り始める。マルコは度々ここを訪れてはこうしてボランティアのような活動をしている――最も彼はそんなボランティアなどという感覚はないだろうが――。パンを貰うまでもなく、路地裏にいた人間全員が帽子を取りマルコに頭を下げる。
 ――未だに僕はこの光景を見るたびに驚かされる。
 こんなこと街に居たならば絶対にあり得ない話だ。今日ここまで歩いてくる間でさえマルコが通る道は異様なまでに人を寄せ付けなかったのだ。
「ねえ、チェルシー。この人たちを見て君はどう思う? 汚いって思う? それとも……」
 考え事をしていたチェルシーは慌てたように変な声を上げてしまう。マルコがそれに対して笑顔になってくれたのでチェルシーは「まあいいか」と思うことにした。
「いや、僕はそうは思わないな。ここにいる人たちは街中にいる人たちに負けず劣らずに笑顔なんだ。そんな人たちを汚いなんてとても思えないよ」
 ――そう言うとマルコは微笑えんでくれた。
 ――何となくいつもと違うような……。
 空を見上げて厚い蒸気の雲を眺める。マルコはここで遊ぶ子供たちを視ながらこう続ける。
「今から数年前。ハロルド国王の結婚式から王位継承まであっという間だった。この国は世界で一番技術が進んでいる国とまで言われて、一番裕福な国だと言われて……でも、そこまでして商業を発達させることに何か意味はあるのかな」
 そこまで言うとマルコは視線をこちらに向ける。
「今こうしてここで明日の日々を送ることさえ間々ならないような人たちが沢山いる。こんな工業をただ発展させただけじゃ救えない人間だっている。そんなものは表面的なものでしかないんだ。いつかは発展は止まり、泡のように弾けると思う。そんな時ここの人たちはどうすればいいのかな」
 チェルシーは言葉を繋ぐことができなかった。マルコの言っていることは全てが正論だ。だが、チェルシーは彼の言葉に全て同意することを躊躇わざるを得ない。
 ――分かっているよ、マルコ。
 ――君の言いたいことは分かる。でも、あの人は……。
「でも、仕方無いんじゃないかな」
 訝しげなマルコの視線が矢のようにチェルシーを突き刺した。
「……チェルシーは何を思ってそんなことを言うの?」
「いや、僕はただハロルド様は一生懸命に政をこなしていて、まだ結果は出ていないけれどいつかはこの国をいい方向に導いてくれると信じたいだけなんだよ」
 少しだけ沈黙が流れた。マルコは何か深く考えるようにチェルシーから視線を外す。手を顎に移し熟考の後、再び口を開いた。
「分かったよ。確かに今の僕の論理は早計過ぎたね。たしかにまだ希望を捨てるのは早過ぎるかな」
「そうだよ。まだ、失望するには早すぎると思うんだ」
 薄汚い霧が二人を覆った。
 ある人は言う。人の心とは純白な花なのだと。どんな雨が降るかでそれは色を変貌させる。今の二人の花は何色だっただろうか。
 誰も知らない。


 


 ■■
 





 結婚式の後、パーティーのようなものを催すのは貴族皇族にとってもはや通例の出来事だった。掻い摘んで言えば新たな花嫁、花婿のお披露目会というわけだった。
 ノエルは皇族が住むべき宮殿へ馬車で移動し、パーティーに向けての準備を施されていた。ノエルの感覚ではメイド達はやさしかった。誰もノエルのことを無理やりに着飾ろうとはせず彼女の意思を十分に尊重してくれる。少なくともノエルはそう思っていた。
 ――酷く眩しいと感じる。
 ――このセラエノという国の中でここだけは。
宮殿の中は恐ろしいほどに財の隋が使われていて、ただただ綺麗だった。目に見えるもの全てに感嘆を漏らしてしまいそうなほどに。光り輝くそこを建築する目的は威信の証明。そのことを考えるたびにノエルは不思議な感覚に囚われる。
 ――私はこんなところに一生住む。
 ――もう既に目が疲れてしまった。
 巨大な宮殿の一室にはノエルと名前すらしらないメイドが一人。会話は必要最低限のことだけ。服のサイズ、髪型をどうするか、香水は使用するか、例えば――
「これでよろしいでしょうか后様」
 メイドの声はノエルにとって非常に心地のよいものだった。明るく自らを元気にしてくれるようなものではないが、安心していられるようなそんな感覚。
 だから、
 ――ちょっとだけ、本音を言ってみてもいいかもしれない。
「うーん。あの、派手すぎないかしら。私にこんなに光るものは……」
「そうでしょうか? 私はこれでも后様には不十分なように思われますが」
 スパンコールが妖しく周囲を照らすようなそのドレスはノエルにしてみれば確かに過ぎたものだった。まるで周囲に自らの存在を振りまいているような。それは本来のノエルの望むところではなかった。
 それでもこのメイドはノエルのことを似合ってると評価してくれた。今までは気持ちがどこかに行っていたせいか目も虚ろになっていて彼女の顔も視てはいなかった。
 ――なんだ。
 ――私なんかよりずっと綺麗じゃない。
 ――笑顔なんて特にそう。
 メイド服を着ているのが勿体無いと思われるほどの容姿だった。鏡越しにみる彼女の顔はそんな感想が漏れるほどのもので。ノエルは自分が酷く矮小なものに思えた。
「そんな、私なんかよりあなたのほうが似合うと思うわ」
「后様。そのようなことを私以外の下賎な者に言っては言ってはいけませんよ。后様の威信が疑われてしまいます」
 子供をあやすように彼女はノエルを笑顔で諫めた。ノエルは彼女に髪をすかれるのがとても心地よく感じられた。
「私、あなたの名前が知りたいわ。教えてくれないかしら」
 彼女は数刻驚くような顔を覗かせてこう囁く。
「……セリスと申します。記憶の片隅にでも覚えておいていただけるのならばこれ以上のことはありません」
「セリス……なんだか優しい響きね。これからも私のお世話をしてもらえないかしら。私あなたといると安心できるの」
 言葉は偽りでしかなかった。
 ――本当は一人の人間として対等に話がしたい。
 ――こんな主従の関係じゃなくて友達になりたかった。
 優しい音色はノエルを誘惑する。もっと本音をいってみたい、もっと友達のように接してみたい、もっと、もっと――
 ――だめよノエル。
 ――私はさっき彼女に諫められたばかりじゃない。
 覚悟は生かす。そう心に決めた。
「……后様。后様は今不安ですか?」
 え? とノエルの口から言葉が零れる。
 言葉の真意は読み取りきれなかった。
「后様が思っておられるよりもハロルド様はよいお人です。后様を無下に扱ったりすることもないでしょう。それに私も居ます。ですから安心してください。――あなたは一人ではないのです」
 嗚咽が漏れることはなかった。
 替わりに涙が一滴。それだけしかノエルは流さなかった。
 ――だって私は、
 ただの人間ではない。



[17426] 2
Name: 白夜◆ea6127af ID:b6257cfa
Date: 2010/03/23 17:22
 路地裏にてパンを配布した後、チェルシーとマルコはマルコの家を訪ねることになった。チェルシーにとってマルコの家を訪ねることはもはや日常と化していて。もう感覚的に家の位置を捉えているほどだった。
 メインストリートのやや外れにあるマルコの家は存外にも中流貴族並の豪邸であった。死刑執行人であり、街の人々から忌み嫌われるマルコがこれほどの財力を有しているのにはある理由があった。マルコの副業は医者なのである。
 ――僕は病気に罹ったらマルコにみてもらうことにしている。
 ――何故ならば彼がこの国で一番に信頼できる医師だから。
 死刑執行人であるマルコにとって人の身体の構造を熟知することは必要不可欠な要素である。誰もがボタン一つで人を殺せる機械などあるわけもない。銃殺という手もあるがそれは非人道的な処刑法である。それは――一瞬で殺すことができないからである。
 例えば銃殺では脳天を一撃で打ち抜けば一瞬で殺すことができるかもしれない。だが、それが可能なのは熟練された狙撃手のみであり、わざわざ処刑の為にそれを呼び寄せるというのは国益にとっても良いことではない。撲殺、刺殺、毒殺……。これらは全て人を苦しめることしかできない殺し方なのだ。
 では、マルコが死刑執行人である所以とは何なのか。それは人間の身体の情報を誰よりも理解し、最も苦しまなくて済むように殺せる人間だからである。マルコの家系は代々死刑執行人という職業を受け継いできた。それは知識として、書籍として、まるで魔術師のように代を重ねるごとに進化を増す。マルコはそんな家に生まれてきてしまったのだ。
 当然その身体に対する知識は人の命を消すためだけではなく人の命を救うためにも利用される。裕福なものからは金を受け取り、明日も見えない者たちからは一銭も受け取らない。これが家の家訓なんだと得意げに語っていたのをチェルシーは覚えている。
 ――本当にマルコは困っている人からはお金を受け取ることはなくて、
 ――それはかのロビン・フッドを髣髴とさせるようだった。
 義賊――というと弊害があるかもしれないが、マルコのイメージは正にそれであるとチェルシーは思っていた。死刑執行人である彼よりも医師である彼のほうがチェルシーは好きだった。
「チェルシー、そろそろ着くよ」
 チェルシーは少々考え事をしていたせいでマルコの言葉に反応するのが遅れてしまった。
 マルコの家はもうすぐだった。




■■




 ホールに出るとそこはノエルにとって異世界のような場所であった。中流以上の貴族、皇族、あるいは富裕層の市民など様々な人物が出席しているようだった。
 ――これ全部が私達のために来ている。
 ――何だか実感が湧かない。
 鮮やかに飾り付けられたそのホールはノエルにとって目に毒でしかなかった。シャンデリアが照らす光は妖しく見え、自分自身を含めたドレスの全ては見苦しい拘束具のように見える。ここはノエルにとってお世辞にも居心地がいいとは言えなかった。
 ――息苦しい。
 ――私はこんな所に居たくないのに。
 そんなノエルの想いとは裏腹にパーティに集まっている者たちからは感嘆の声が漏れていた。
「これはまた……」
「画になりますわね」
 ひそひそと囁きあう声が木霊するが無意識の内にノエルはその音を遮断する。何時の間にか先ほど口付けをかわした男が横に立っていた。相変わらずの美しさでノエルは自分の場違いさを改めて認識した。
 ――あなた一人で出ればいいじゃない。
 ――私はこんな所には合わないわ。
 言葉は胸の内に。表情だけは保っておこうとノエルはそう思った。
 手を差し出される。
 ハロルドの手は思ったよりも傷ついていてノエルは手を取るのを一瞬躊躇ってしまう。もうすぐ王座につこうとする人間の手がこんなに汚れているなんてノエルは思ってもいなかった。
 ――これがあなたの手、なのね。
 ――私はこんなことすら知らなかったのよ?
 手を取り中央の階段を二人で下りる。ドレスの格好には慣れていないはず、それなのに自然と階段を歩けることはノエル自身を驚かせた。拍手が連鎖し、ノエルたちは受け入れられた。
「果報者ですな。ハロルド様。こんなに美しい后をめとるとは」
「きっとお子様も美しいことでしょうね」
 ノエルは好き勝手に色々な言葉をかけてくる来席者たちに苦笑を交えながら応答していく。
 ――美しい? 私が?
 ――子供をつくる? 私が?
 ――何で? 何で? 何で?
 心が軋んだ。
 ノエルは適当に受け答えしている自分自身を殺したくなった。
「これはこれは、ノエル様。初めまして」
 いつの間にかノエルはハロルドとはぐれてしまい、パーティの渦の中に飲み込まれていた。声を掛けてきたのは参列している中でも一際目立つドレスを身に纏う女性だ。ノエルとは違い長い川のような髪が美しくまとめられている。恐らくはどこか有名な家の人だろうとノエルはそう思った。
「初めまして……あの、あなたは?」
「なっ……いえ、申し遅れました。わたくしはエレーナ・アラゴンといいますの。それにしても意外ですわ。これよりハロルド様の正室になろうとするお方がアラゴン家の顔であるわたくしの事を存じ上げていないだなんて前代未聞ですわね」
 ――何が言いたいの。
 嘲笑交じりに言葉を紡ぐその女性にノエルは純粋な怒りを覚え始めていた。
「……申し訳ありませんでした。何分世間には疎いものですので」
「構いませんのよ。わたくしはそこまで短気ではありませんし。それにしても……何故あなたのような人がハロルド様の正室なのでしょうね」
「――! それはどういう意味でしょうか」
「いえ、他意はありませんのよ。ただ、その山猿のような短い髪で、よっぽどわたくしのほうが美しいですわ。あなたもそう思いませんか?」
 ――だったら――
「――あなたがやればいいじゃない」
「え? 今何と仰いましたか?」
 拳には知らず知らずのうちに汗が滲んでいた。
 唇からは知らず知らずのうちに言葉が零れていた。
 ノエルはこのまま全て吐き出せばいいと自分の理性を殺し始めていた。
 引き金を引けばよかった。
 
 ――気持ちは抑えるためじゃなくて伝えるためにあるんだと思うよ。
 
 昔の記憶が蘇る。
 かかる手には力が入る。
「私はっ――」
「――失礼をいたしましたエレーナ嬢。私の妻がとんだご無礼を」
 現れたのは背の高い美丈夫、ハロルドであった。ノエルは何故か自分自身の怒りが急速に醒めていくのを感じた。
「ハロルド様……いえ、わたくしのほうこそ行き過ぎてきました。申し訳ありません」
「今後ともあなたとアラゴン家とは親密な関係でありたいと所望します」
 手を取り、エレーナのそれに口付けをする。その動作の一つ一つがノエルには宝石のように光り輝いて見えた。
 エレーナと名乗った女性は女性らしく頬を赤らめる。真っ赤になった頬に片手を当てるその仕草は素直に可愛いらしいものだった。
「ハロルド様……」
 ――そうか。そうよね。
 ――だったら私のことが憎いはずよね。
「では、失礼します。ノエル様。またお会いしましょう」
 にこやかなその笑みの中に鋭い視線が隠れていたことをノエルは見逃さなかった。踵を返すその動作すら綺麗でノエルは自分自身が不思議な感情に支配されていくのを感た。
 怒りは変換され、自嘲へと移り変わる。落ち込むというよりは開き直るといった感覚であった。
 ――何で私はこんなことまでされて。
 ――何で私は……。
「……すまない」
 表情は見えなかった。
 ノエルはハロルドがそう言った気がしただけ、それだけだった。



 
 ■■




 視界を遮るほどの霧が在る中、マルコとチェルシーは目的の家へと到着した。中々に広いその屋敷は油断をすれば迷うことが出来そうなほどだ。
 中に入ると広がったのは鬱蒼と舞う甘い蝋燭の匂いだった。精緻な細工の施された銀色の蝋燭立てが要所要所に設置されており、屋敷の雰囲気の良さを一層際だたせている。
 この屋敷に入ってきた二人が行く場所はもう決まっていた。迷うとこなく脚は二階の方向へと動く。
 ――僕はここへ来るたびに不思議な気持ちになる。
 ――嬉しいのか悲しいのかよく分からない。
 ドアが軋む音を交えながらゆっくりと開かれる。そこにいたのは一人の少女だった。
「兄さん。お帰りなさい。あ、チェルシーさんも来てくれたんですね」
「こんにちは。アリスちゃん。身体の調子はいいみたいだね」
 上半身のみをベッドから起こし、受け答える姿は妙に艶かしく見える。もっともチェルシーはそんな目でアリスを見たことなどないが。
 綺麗な少女であった。可憐な少女であった。そして儚げな少女であった。
 部屋の中は女の子らしいものなど一切無く不思議なくらい生活感に欠けていた。物語の中で永遠に眠っているヒロインのような、時間の中で一人取り残された人形のような、それがアリスだった。
「はい。私は大丈夫です」
 ――その声には恐ろしいほどに力が無くて。
 ――僕はすぐにでも表情を崩してアリスに駆け寄りたくなる。
 チェルシーは笑顔を貫くことを止めることは無かった。マルコも同様である。細い肩と棒のような手首。見るたびにチェルシーは心が痛くなる。
「じゃあ、今日も診察してみようか」
 マルコがアリスの服を肌蹴させ、聴診器を当てようとするのでチェルシーは慌ててそっぽを向いた。
「兄さん……くすぐったいです」
「ん……ちょっと我慢して」
 ――何だか妙に色っぽい会話だな。
 ――いやいやいや! 僕は親友をどんな目で見ているんだ。
「はい。終わったよ」
 チェルシーが一人悶々と妄想していた時間は終わりマルコが声を掛けてきた。
「うん。大丈夫そうだね。このまま行けばきっとよくなるよアリス」
「本当ですか。ありがとうございます、兄さん」
「じゃあ、僕はちょっと用事があるから。チェルシー、ちょっとアリスの話し相手をしていてくれ」
 チェルシーは適当に返事をしてマルコに返す。マルコの目の合図をチェルシーは見逃さなかった。
「チェルシーさんと話すのも一月ぶりくらいでしょうか」
「ああ、そうだね。最近は忙しかったから」
「兄さんはいつもお話の相手をしてくれるのですがチェルシーさんとお話しするのはとても新鮮な感じがして楽しいです」
「そう? そう言ってくれると嬉しいな」
「今日も色々な話をお聞かせください」
「いいよ。じゃあ今日はね――」
 それから色々なことをチェルシーは話し聞かせた。異国の話――例えば、砂が一面に広がっていて一年中昼は真夏のようで夜になると真冬のように寒い国だとか。一年中雪に覆われていて氷の中で生活している国だとか。それにチェルシーの仕事の話も少々。
 ――話しているうちのアリスの表情は笑顔で僕はまた救われた気分になる。
 ――もっと笑顔にしていてあげたい。そう思うようになっていた。
「ふふ。チェルシーさんのお話はとても興味深いですね。いつも感心してしまうほどです」
「いや、僕も学院の文献で一見しただけで実際に行って見たことはないんだよ」
「それでも知識があるということはそれだけで素晴らしいことだと私は思いますよ。私は見ての通り満足にベッドから降りられないような有様ですから」
 失意の表情であった。
 こんなはずじゃなかったのに。
 自分のせいでアリスを落胆させることは許せないことだった。
「大丈夫だよ。今度学院から何冊か本を借りてきてあげるから」
「本当ですかっ。ありがとうございます」
 ――これでいいんだよね、マルコ。
「うん、それに僕は何か大事なものを作っているって言っただろう。あれはね、『飛行機』っていうものなんだ」
 ――何故僕はこんなことを喋っているんだろう。
 本来ならばチェルシーの仕事のことは誰にも口外してはならないことだった。それはチェルシー一人の趣味の問題ではないからだ。
「飛行機……ですか?」
「そうだよ。その名の通り空を飛ぶ機械のことさ。信じられないかもしれないけれどもう少しで完成なんだ。その暁にはアリスちゃんを乗せてさっき話した国々を回ろう。きっと楽しいよ」
「うわあ……凄いですね。私信じます。チェルシーさんが嘘を付くはずがありませんものね」
「……そうだね。信じてくれてありがとう。大半の人はこの話をしただけで笑って気にも留めないんだけどね。そのくらい喜べる元気があるのならきっともうすぐ良くなるよ」
 ――嘘だ。
「マルコも言っていたけれど僕が学院を卒業する頃にはもうすっかり元気になっているだろうってさ」
 ――嘘だ。
 喜ぶアリスの顔を見るたびにチェルシーは歯を食いしばった。
 チェルシーは知っている。彼女の命が――もう残り少ないことを。
 ――嘘を付かないだって? 僕が?
 ――そんな言葉をかけないでくれ。だってそのたびに僕は、
 泣きたくなるから。



[17426] 3
Name: 白夜◆ea6127af ID:74fed61a
Date: 2010/04/22 14:09
 部屋は実家のものより明らかに広かった。
 ノエルはパーティーの後宮殿の中にある自分の部屋へと通されていた。空気が違っている。最低限生活できるものがあればよいノエルにとってこれほどまでに物が溢れているのはまるで意味を成すことはない。
 大きなソファ。大きな絵画。大きな暖炉。
 ――いらない。
 ――全部いらない。
 ドレスはセリスに手伝ってもらい、もうクローゼットの中に仕舞っている。今着ているのは薄い夜着だけである。セリスの言葉が頭を過ぎった。
 ――もしかしたら、これは必要ないかもしれませんね。
 小声で話していたので確証はないが確かにそう言っていた気がしていた。どういう意味なのかまだ理解はできていない。だが、この夜着を着てやることと言えばたったの一つだ。
 ――つまり、どういうことなの。
 浴槽に浸かっている時間はノエルの人生の中で一番長かったかもしれない。考えるべきことがあった。
 実家の浴槽は横たわらなければ全身がお湯に浸からないのでこういった浴槽があることは素直に嬉しかった。薔薇の香りが無造作に浴室を満たし、ノエルはこのまま眠ってしまいたいとまで思った。
 ――けど、私にはやらなければならないことがある。
 ――これくらいのこと、覚悟してた。
 浴槽から出てまた薄い夜着を身に纏う。ノエル自身は気づいていないがそのプロポーションはなかなかのものである。
 小さな扉を恐る恐るノックする。
 この扉は先ほどノエルと婚約を済ませた美丈夫の部屋へと繋がっている。夫婦なのだから部屋が近いのは当たり前といえば当たり前だった。
 ――あなたはどうするの?
「入れ」
 聞き覚えのある声が転がってノエルはドアノブに力をかける。自分自身も驚くほどに手は震えていた。カタカタと金属を打つ音が木霊してノエルは自分自身が酷く情けなく思えた。
 ――何でこんなに震えるの。
 ――こうなることは分かっていたじゃない。
 ノエルは体の中にある力を振り絞ってドアを解き放った。
 部屋はノエルのものの左右対称といった様子で驚くところはなかった。
 バスローブを着たハロルドはノエルから見ても艶やかで美しかった。薄く濡れた髪。綺麗な肌。強い瞳。普通の女性ならばこの段階で参ってしまうだろうとノエルは思った。
 ――怖い。
 ――本当に怖い。
 背筋に残った水滴が走り、体は強張る一方だ。これから何をされるのだろうと考えただけで凍りつきそうだった。
 ハロルドが自分が座っているソファに招き入れる仕草をしたのでノエルは恐る恐る近づく。ハロルドの瞳に憂いの色が見えたのさえノエルは気づかなかった。
 緊張は頂点に達している。ノエルは少しでも触れられようものならここから逃げ出してしまいそうなほどであった。
「別に何もしない」
 ――え?
 言葉が漏れる前に力が抜けた。
 結婚初夜ならば当たり前にするだろうものをこの男はやらないというのか。ノエルの胸にはは戸惑いと安堵と二つの思いが去来していた。
「な……何で?」
 ――私に魅力が無いから?
 様々な推測がノエルの頭の中を行き来する。元々女性に興味が無いのか、それとも――
「疲れているから、明日から戴冠式までは忙しくなるから遅くなる。好きに部屋は使っていい、寝ていても構わない」
 ハロルドはノエルの部屋にあるベッドを指さしながらそう言った。瞳の色は動かずにまるで虚空を眺めているようであった。
 ――悔しかった。
 いっそ、思い切ってやられていたほうがノエルにとっては気が楽だったのかもしれない。部屋に入るまでは恐れを抱いていたものが今となっては自分はどういった存在なのかという自問に囚われていた。
「……はい」
 そう答えるしかノエルにはなかった。
 ノエルが頷いたのを見てハロルドが立ち上がる。進む先は大きなダブルベッドだった。
「寝よう」
 ベッドは想像以上に大きくて背中が合わさることはなくて。
 ――あなたは何を考えているの?
 ベッドの中は存外寒かった。二人が中にいるはずなのに一人しか存在しないような気がしてノエルは心が荒んだ気持ちになる。
 ハロルドが蒸気灯を消して辺りは光を失う。
 夜が堕ちてきていた。





 ■■




 ――昔々の話。
 ――霧のように薄らとしか残っていない記憶。
 ――昔の思い出などすぐに忘れる僕が唯一はっきりと覚えている記憶。
 ――まだ僕が少年で、愛する父が生きていたころの記憶。
 僕は父のことが大好きだった。チェルシーという名も父が昔異国へと赴いた際一番記憶に残ったお菓子からとった名前なのだということも聞いた。貴族である父の背中は大きくて僕はいつもそれを追いかけていたのを覚えている。
 何不自由ない暮らしだった。欲しいものは殆どが手に入り、我儘を言えば近くにいるメイドが叶えてくれるようなそんな生活だった。
「チェルシーはこの家の跡継ぎだからな」
 頭を撫でながら呟いた父のその言葉を僕は免罪符のように乱用していた。幸せだった。このままこの生活が永遠に続くものだと思っていた。
 きっかけは些細なものである。僕は幼いながらも父がどんなことをしているのかをおぼろげながら理解していた。自らの前に立ちふさがる存在は全てを排除する。政敵、公的組織、ついには国家権力によって抑圧されることすら父は許さなかった。どんな手段を用いたのかは結局のところ僕には分からなかったが。
 そんな父でもいつも僕には優しかった。だから僕は父の行うことすべてが正義だと信じていて。故に、僕は父のことを裏切った人間に対しては生まれてから最大の怒りをもって接したものだった。もう少しで父は国のすべてを掌握できるはずだっのだ。
 ――あの女さえいなければ。
 僕が恨んでいた女は二人いた。一人は名前も知らない。時折僕らの家に来て馴れ馴れしく名前を呼ばれたことしか記憶はない。今思えばあの女は父の側室だったのだろう。子供のころの僕にとってあの笑顔は酷く取り繕ったものに見えて僕はいつも汚物を吐き出しそうになっていた。
 ――この人、嫌いだ。
 頭を撫でられたその手を一度振り払ったことがある。その時の顔は今でも忘れられないほど恐ろしかった。人間のことをこんなに怖いと感じたのは幼いころの僕にとって初めての経験だった。
 ある日その女と共にもう一人僕の憎むべき相手が現れた。その名はジェニファー・ロウ。彼女の名前を知る者は存外多い。普通の一般市民から明日も見えない場末の人間。はたまた幼い子供にまで彼女の英雄伝は轟いていた。皆は彼女のことを尊称でこう呼ぶ。
 ――名探偵、と。
 彼女の行動は的確だった。父の起こしていた行動の中で拭き取りきれなかった悪意の証拠が次々と彼女の手によって暴かれていく。もう父に未来は無かった。
 最後に父は僕にこう言った。
「もうこの家の名を口にしてはいけない。誇りは胸の中に仕舞いこむんだ。困ったり悩んだりした時は空を見るんだ。きっとお前の頭上には光が差し込むはずだから」
 父はこうして僕を解き放った。






 ■■




 チェルシーの毎日はおよそ学院生とはかけ離れたものである。一日のほぼ大半を工房で過ごす。たまに気分転換をするといえばマルコとともに語り合うか、そうでもなければこの“公園”に来ることくらいだろうか。
 こんな生活が送れているのもひとえにチェルシーの造っている飛行機の国家的価値に影響していると言える。未だにセラエノもとい世界各地で人工物によって空を飛ぶことができたなどという事例は報告されていない。つまり、もしもチェルシーがこれを完成させた暁には世界初の飛空ということになるのだ。
 こんな夢物語を信じる人間とはセラエノの国家元首ハロルドであった。彼の支援があるからこそチェルシーは集中して作業に取り掛かることができ、こうしてこの“聖地”にも足を運ぶことができるのだ。
「これはこれはチェルシー殿。お元気そうですな」
 太陽の光が眩しかった。チェルシーは無意識のうちに目を細めてしまう。このセラエノの中でここだけは特別だ。
 チェルシーに話しかけてきた初老の男性は純白の髪に顔の至るところに波のような皺を持っている。だが、その服装、声色、雰囲気はただものではないことが伺える。
 ――何となく僕はこの人のことが苦手だ。
 ――別に意識もしてないのに身構えてしまうようなそんな感じ。
「導師様。こんにちは。今日もここは“天気がいいですね”」
 この聖地と言われる特に何もない一帯はこの導師シオンが治める教会によって管理運営されている。日差しが差し込む場所とは世界的に見ても大変貴重なものであり、人々はこれを『神の奇跡』と呼んでいる。そのためか日差しが差し込む一帯のことは聖地と呼ばれ教会の手中に収まった。
 人間が日光を求める行為は至極一般的なものであり不思議に思う所はない。たとえ自分の財産を消耗しても、だ。
 教会の資金の大半は教会独自に徴収する税金とこの聖地に対する入園料によって賄われる。つまり、ここは教会にとって金の泉なのだ。
「ええ、いつも沢山の方にお越しいただいて神も喜んでおられることでしょう。全ての人間には導かれる光が必要です。ここはそれを与えてくれます。皆がお金を惜しまず信仰して下さるのはそのせいなのでしょうな」
 そうですね、とチェルシーはおざなりな返事を返す。
 ――何を言っているんだ。
 ――神の存在を盾にとってお金を巻き上げているのは教会のほうじゃないか。
 チェルシーは神の存在を信じない。昔々の記憶より痛いほど痛感させられたからだ。
 ――たとえ信じていたって信じていなくたって神はいない。
 ――助けてもくれない。
 ――だってもしもそうならば――
「どうしてここは入場するのにもお金が必要なのですかね。市民のことを思うのならばここを自由に開放すべきでは?」
 こんなことを言うつもりではなかったとチェルシーは心底後悔した。この国で第二の地位につく人間に思いがけず本音を言ってしまった。心臓は早鐘のようになり、手には汗をかいている。もう後戻りはできなかった。
 導師は一瞬キョトンとした表情を見せ、その後深く息を吸いこう言った。
「人間の心には強欲な悪魔が必ず潜んでいるのです。ここを開放すれば利権を争い紛争まではいかないでしょうが戦いが起こってしまうでしょう。我々が一応の入場料金を設定しているのはそのためです。お分かりいただけましたか?」
 ――偽善だ。
 チェルシーの頭の中にはそんな否定的な言葉しか浮かんでこない。シオンのいう倫理学はチェルシーのそれとは全くもって一致しなかった。
 ――人は他人の為に生きている。
 ――誰かを救うことこそが人間の生きるべき意味なんだ。
 ――この人はそれが分かっていない。
「それよりもチェルシー殿。あなたが製作しているという飛行機なるものについて私はとても興味があるのですが」
「はあ。もう少しで完成の予定ですが」
「それは本当に空を飛べるのですか? 私には信じがたいのですが」
「それは完成した暁に明らかになると思いますよ。僕は世界中の人のためにも早く造りたいなと思っています。もっと皆に青空を見てほしいから」
 チェルシーは何の疑問もなくその言葉を紡いだがシオンは驚いたような表情を見せる。
「青空……ですか? そのようなものはおとぎ話でしか聞いたことがないのですが、あなたは信じているのですか?」
 今では誰も信じようとしないおとぎ話。このことを語る人間といえば年老いた老人か純真無垢な幼児か。そんなものあるわけないと誰もが言う。だが、チェルシーは違った。
「父がいつも言っていたものですから。異国で真っ青な空を見たんだと誇らしげに語っていました」
 かつては世界全体を覆っていたはずのもの。かつては美しい風景を人々に与えていたはずのもの。だが、この時代に生きるチェルシーたちにとっては現実ではない。虚ろな妄想は風に掻き消されてしまう。
「ほう、それは興味深いですな。父上はやはり貴族の方なのですか?」
「……ええ、まあそうですね」
 ――嘘、ではない。
 ――だって父はそうだ、貴族だったんだから。
「では、今日はこれで失礼します。チェルシー殿。またお越しください」
 導師はチェルシーに気づかれないように不敵な笑みを浮かべその場を立ち去った。何もかもを見透かしたかのような瞳の色だった。



[17426] 4
Name: 白夜◆a556230e ID:a78129de
Date: 2010/05/22 17:00
 蒸気国家セラエノの政治というのは一般的な立憲王政であった。国の指標を定める大まかな権限は議会にあるが未だに国家元首である王の鶴の一声で戦争やら国家として重要な事柄が進められてしまうのは仕方がないことである。そんな立憲王制の国家が昨今他国との戦争に至っていないのは議会の冷静さと王の不動性に起因していた。
 その国家の中枢を担う議会は今や二大政党が支配していると言っても過言ではなかった。一つ目の党はディプリス。徹底的な重商主義を説き税制の強化、王政の強化を謳い貴族または王族、第二身分の人間からの厚い支持の元に活動している水平派。つまりは過激な党として扱われている――もっともディプリスが過激なのかどうかはそれを受け取る人間によってバラバラではあるのだが――。
 そんな強大な党と選挙戦で争い辛くも第一党としての地位を確立したのはアンブリアと呼ばれる党であった。彼らのマニュフェストのキーワードとはつまり『平等』『環境保護』というこのセラエノにしてみれば場違いと扱われても仕方が無いようなものである。第三身分から愛されていた彼らが勝利できた大きな要因は現国王ハロルドによる強い支持があったからであろう。
 そんなアンブリアの重鎮の一人であるテレネスは自身の政務室にて苦悩していた。外界よりは綺麗な空気のはずのこの部屋も彼の悪癖である溜息によって少々曇って見えるのは気のせいではない。使いの者が入れた紅茶を飲みゆっくりと午後のティータイムと洒落込みたいところではあったが責任感が人一倍強いテレネスにしてみればそんなことをしている余裕など微塵もありはしなかった。
 予想外の勝利と言っていいだろう。先の総選挙での勝利によって党アンブリアの立場は百八十度変化したといっても過言ではなかった。今までは野党としてディプリスの強行的な政策――これもアンブリアにしてみればの話だが――に野次を飛ばすことしかできなかった彼らが今度は自ら国政を動かす立場になったのだ。それは即ち権利とともに責任も背負ったことに他ならない。だが、テレネスを悩ませていたのはそれだけではなかった。
 紅茶を半ば惰性のように貪り頭を二回ほど掻いた。自身の頭の薄さすら思考の中には無いらしい。煤のようなものが窓ガラスをノックしてそれはだんだんと黒く黒く染まっていく。風は強く、何かを伝えようとしているようだった。
「テレネス殿ー。ただいま帰還しましたー」
 彼を悩ませていた種の一つは言うまでもなく彼のことであろう。腰に携えるサーベルは兵士のそれ。青い髪に青い眼。背の高い彼が身につける勲章は並みの兵士では一生かかってもお目にかかれないようなものだった。およそ自身の上官に対する態度とは思えない立ち振る舞いをする彼は両手を頭の後ろで組み鼻歌らしきものを歌っていた。
「……ブルーノ。お前のその言動は何とかならんのか。――少々癇に障る」
 ――空気が切断される。
 ブルーノは常人では視認できないような速度でサーベルを抜きテレネスの額を切り裂く紙一重でそれを止めて見せた。笑みを崩さないブルーノに対してテレネスはこう続ける。
「私を舐めるな。そんなことで私の心配の種の一つでも切り捨ててくれるとでも?」
 眼鏡の奥に隠された瞳は微動だにせず力強い。その瞳でテレネスはブルーノを見つめ続けた。先ほどの風圧で蝋燭の火は消え、甘い匂いが部屋に漂う。
「俺は気に入らない上官の元にはつかねっす。でもあんたのことは認めてるんですよ。頭と度胸は俺よりもいいかもしれねえすからね。そんなテレネス殿にお頼み申しますが今の任務は退屈すぎます。変えて下さいな」
 サーベルをゆっくりと鞘へ納めながら彼はそう進言した。一般的には脅したと見るべきなのかもしれないが。
「今はまだ監視を続けるんだ。これはあまり公にはできないが陛下直々の任務なのだ。だから私の部下の中で一番信頼のおけるお前に委ねているんだ。私の信頼ほど高価な褒美はないだろう?」
「違いないっすね」
「もしかすればまたお前に人を斬らせるかもしれんな」
「この任務でですか?」
「あくまで可能性の話だ。私はかなりの確率でそうなると読んではいるがな。もう前のことはいいのか?」
「……あんたに言われるとは。ええ、もうケジメは付けましたよ」
 そう言ってブルーノは自分の右腕を左手で優しく撫でる。瞳の色は陰り、彼の第一印象からは想像もできないようなものであった。
「お前のことは信頼している。だから、無理はしないでほしい」
「俺は自分にできることしか誓って実行しようなんて思いませんよ。もっとも、神の御意志であるのなら別ですがね」
「……そうか、ならいい。それよりこれは別件の話なのだが例の切り裂き魔事件のこともある」
「ちょっと、人使いが荒いっすよ。一兎追うものは二兎も得ずって東洋の島国の言葉を知らないんですか?」
「それは逆だろう。いや、どちらもお前にこなしてもらおうなどと考えてはいないさ。ただ、もしかしたら何かしら関連があるのではと思ってな」
 テレネスにしては珍しくとても自信がなさそうな声色と態度であった。顎鬚を摩り、深く考え込む。
「そうっすかね。あれは女ばかりを狙う変態の類でしょう? でも、あんたの感は当たりますからね。まあ気には留めておきますよ」
「何もないのならそれに越したことはないのだがな」
「そんな悲しいことを言わないで下さいな。何もなかったりしたら俺はどうやってこの国に忠誠を尽くせってんですか」
 大きく手振りを見せながらブルーノは悲しんだ様子でそう言った。もっとも口元は緩んでいるのだが。
「馬鹿なことを言うな。人を斬ることだけが忠誠だと思うんじゃない。この国の正義を守ることが忠誠を尽くすということだ」
「正義……ですか。テレネス殿の言う正義って一体何なんですか? 俺はそれによって行動を変えなくちゃいけないかもしんないっす」
「正義とはな、信念を持った人間が行動した結果勝ち取ったもののことだ。信念を貫き通せばそれは正義だ。我々アンブリアがここまでこられたのはその信念――即ち正義があったからだと私は思う」
 風は止んでカーテンの舞も終焉を迎えようとしている。終焉の伴奏は突然降ってきた強い雨ということになりそうだった。
「そうですかい。ちょっと俺のロジックとは違いますね。俺が思う正義ってのは――負債なしで年収が一万ガルドもあって、それにどんなに汚くて卑怯なことをして法を犯したって平気で、少々頭が悪くて綺麗な女が腐るほど手に入る。そういう事情のことです。
 それが正義なんじゃないですかね、テレネス殿」
「……私にはよく分からんなお前の考えていることは」
「そりゃそうでしょう。誰もに俺の考えていることが分かってしまったら兵士なんて務まりませんからね」
 子供のように無邪気にそう告げるブルーノに対してテレネスは次ぐ言葉もなかった。
「そういうことではない。――っ」
 テレネスは言いかけてはっとした。ようやく気がついたのだ。――異変に。
「ブルーノ、もういい。下がってくれ」
「……へい、了解しました。今度は何か良い報告をもって帰りましょう。あなたの信頼に応えてね」
 音もなくブルーノは静かに踵を返し部屋を出る。雨の音と匂いによって彼の存在は完全にこの部屋から消えた――ように見えた。
「あの馬鹿者が。悔むなら悔め。だが、その受け皿は私がやるといっただろうが」
 ――彼の右腕から滴る鮮血が鮮やかな道を作っていたのだ。





 ■■





 朝日の眩しさを感じることは無かった。ノエルの瞳には何も映ることはなくて。目覚めたのはただセリスによって体を揺さぶられたから。ただそれだけ。
 ――体が重い。
 ――動きたくない。
 セリスを困らせるわけにはいかないからと無理やりに体を起こす。数日前から朝起きてからすることと言えば入浴と決まっていた。当初は一つの部屋に一つずつ浴室があるということに驚いていたが今ではそんなことも無くなって。着替えを手伝ってくれるセリスの美しさには今も見とれていて。ノエルは自分がひどく取るに足らない存在に思えてならなかった。
「どうされましたか? どこか元気がないようですが」
「……そうかしら。私は大丈夫よ」
 セリスの滑らかな指によってノエルの着替えは進んでいく。
 本来ならば愛すべき花婿とは結婚式の夜から一切顔を合わせてはいない。戴冠式までは忙しいといっていたハロルドの言葉は本当でほとんど缶詰状態で仕事に当たっているそうだ。
 すべてセリスの言葉の中で頭の端に残っていた情報をつなぎ合わせただけなのでノエル自身にとっても信憑性はなかったが。
 ――会えないのならそのほうがよかった。
 ――だって彼とはどんな顔をして会ったらいいか分からないもの。
 ノエル自身も薄々とは気づき始めている。彼はそんなに悪い人間ではないと。まだ何を考えているかは分からないがきっと自分を無下に扱ったりはしないだろうと。
 ――眼を見れば分かる。
 ――声を聞けば分かる。
 ――私は多分憐れまれているんだと。
「左様ですか。ハロルド様より言付けが、『庭師に頼んで花壇を一つ作ったから好きにすればいい。ここはそれほど空気の汚染も進んではないから花も育つだろう。書斎にも小説などが充実しているはずだ』とのことです」
「そうなの」
 ノエルはそれだけを呟いた。
 ――私は一体何なの?
 ――見ず知らずの男に憐れまれて自らの運命を切り開くこともできない。
 ノエルの心は張り裂けそうだった。
 自分がとても恵まれた存在だということは自覚している。本来花などはこのセラエノでは滅多にお目にかかることはない。日光も満足に降り注がず空気が悪いこの国では一定の条件を満たさない限り自然などは有り得ない。代わりに存在するのは工場の煙突などの人工物だ。ノエルの実家でもそれは例外ではない。
 ハロルドの心遣いは妻に対するものとしては至極自然だ。だが、二人の関係というものはそれほど単純なものではない。
 ――私は、あなたにとって何なの。
 ――ただの政治的な道具?
 ノエルの実家であるファンデ家はセラエノでも五指に入る名家であった。さすがにアラゴン家には及ばないもののこの国の経済に大きな影響力をもたらしていたのは誰の目にも明らかであった。
 そんな名家の娘であるノエルが時期国王であるハロルドに娶られるというのはもっともな流れである。だが、そんな政略結婚には赤い糸など存在するわけもなくノエルは今に至っていた。
 セリスはノエルの気持ちを悟ったのか悟っていないのか淡々と着替えを進ませる。ノエルは未だに彼女の心が読めなかった。
「今日のご予定ですが、午後よりアラゴン家のエレーナ様とのお茶会が控えております」
「えっ? 今日は家庭教師の方とお勉強だとこの前……」
「エレーナ様からの直々のお頼みでしたので。ノエル様、これも皇女としての務めとお知りください」
 嫌な予感がノエルの頭をよぎった。






 ■■
 


 


 ――怖かった。
 走った。走った。走った。
 どれくらいの距離を走っただろうとそんな思考も追いつかないほどに僕は走った。
 恐怖が頭蓋を揺らし、僕に走れと強要する。
 頭が酷く痛かった。
 雨の匂いの残る森に僕一人。
 父が殺された。あの女のせいだ。あの女がいなければ――
 風の唸る音が囁き声に聞こえて僕は本当に死んでしまうのではないのかと考えてしまう。父を殺した女が僕を生かしておこうとする道理なんてない。僕は明らかに死の瀬戸際だった。
 ――囁き声が変化する。
 森の悲鳴のようなそれは僕にさらなる加速を迫る。僕は声にならない悲鳴とともにまた走った。
 気がつかないうちに僕の膝小僧からは鮮血が溢れ足がひんやりと冷たかった。匂いもなく、痛感もない。五感も鈍り始めているようだ。
 森の木々たちは僕の行く手を遮り始める。今度は自分が転んだことに気がついた。恐怖よりも集中のほうが勝ったらしい。
 僕はまだ死ぬわけにはいけない。
 ――何の為に?
 ふと、足が静止する。
 立ち止ったら死ぬかもしれないのに。僕はすくんで動けなくなった。
 死は迫っている。僕が行くべきなのは天国か地獄かそれとも煉獄か。
 走ることにもう意味はなかった。僕は父の為に生きてきていた。将来は父の後を継いでこの家を繁栄に導こうと夢見ていた。
 だが、それはもう叶わない。もう、力なんて入らない。
 雨は僕を慰めるように降り注いでいた。開けた道に出ている。もう、諦めてもいいだろう。
 ――僕はもう生きる意味を失ったのだから――

「……ち……え! ……の子ここに……助けてあげて下さいっ!」
 ――僕に気安く触れるな……――




 ■■






 学院の授業というのはチェルシーにとって酷く退屈なものだった。
 黒板を中心に丸みを帯びたその場所は一般的な大学院の教室といって差し支えない。蒸気灯によって照らされた教室内はそういった蒸気機関の装置や模型が壁際に溢れていてこの学院の特質を無言で表現している。まだ昼間のはずなのに異様に薄暗いのは言わずもがなこの国の日照環境のためである。たくさんの机が整然と並んでおり、それにはやる気があるようで真剣に講義を聴いているもの。何処かの貴族の出なのかまったくもって授業態度にやる気が感じられないものまで色々な人間がいる。
 チェルシーはどちらかといえば後者に属していた。だが、決してチェルシーはやる気がないわけではない。こんな授業よりも一生懸命にやるべきことが彼にはあった。夢中になってペンを動かし描くものは飛行機の設計図である。
 コツコツと黒板の音だけが響き、教室の中は独特な空気に包まれる。チェルシーはこの雰囲気が嫌いではなかった。真面目に取り組んでいるかは別としてだが。
「また内職ですか? 教授に怒られてしまいますよ?」
 ふわり、と女性特有の花のような香りに気がついてチェルシーは右隣に視線を預けた。
 背が少し小さくて華奢なその女性にはだがしかし弱々しい印象はまるでない。髪は真っすぐでとても長く人形のようである。ごく自然にチェルシーの隣に座る彼女に対してチェルシーはいつものことだからとあまり気には留めない。
「大丈夫ですよ。ちゃんと怒られないようにやってますから。リリスさんも僕と話していると怒られてしまうかもしれませんよ?」
「大丈夫です。ちゃんと怒られないようにやってますから」
 そう言って二人は声を殺して笑いあった。
 ――相変わらずこの人と話していると面白い、そう思った。
 ――リリスさん。
 ――大学内で知り合った女の人。
 ――僕はこの人のことが嫌いではなかった。むしろいい印象を抱いている。
 その仕草は非常に女性らしいものでありチェルシーもたまに見とれてしまうのだった。そんな時チェルシーは酷い自己嫌悪に陥るが今は関係のないことである。
「また、飛行機のことで何かやっているんですか?」
「ええ、そうです。でもあまり言いふらさないで下さいね。なるべく秘密にしろと言われているので」
「分かっています。私口は固いってよく言われるんですよ?」
 その飾り気のない胸を張りながらリリスはそう言った。それがまたおかしくてチェルシーはまた微笑んだ。
「ところで、聞きましたか? あの切り裂き魔事件のこと」
「はい。女性ばかりが狙われてバラバラにされるっていう……」
「そう、そのことです。私怖くて怖くて。私みたいな小さい人のほうが狙われるんじゃないかなって」
「大丈夫ですよ。夜遅くなったら蒸気電話で教えてください。家まで送りましょう。それか蒸気車とかであまり一人にならないようにすれば」
 ――切り裂き魔。
 ――最近メインシティでもその噂で持ち切りだった。女性ばかりを狙う卑劣さ。体をバラバラにするという残虐さ。片手では数え切れなくなるような被害者のに反比例するかのように犯人の足取りは一向に掴めない。そういった要因が噂の広がりに拍車をかけた。
 ――僕も気になってはいたが、どうしようもなくその進展を見守るだけだった。
「……それと、これは噂なんですが」
 リリスが重々しく口を開いたのでチェルシーは気になり、彼女の表情を伺う。リリスは気まずそうな表情でこう続ける。
「あの死刑執行人の人が容疑者として疑われているって……」
「……」
 不可解なリリスの言葉に戸惑うチェルシーに対してリリスはどうしたらよいのか分からない、まるで怯えた小動物のようにして視線を逸らしていた。
「どういうことなんですか……?」
「あ、あのその……何だか死体の切断が丁寧すぎていてとても素人にはできないだろうって……そういう話があるみたいで」
「そんな……そんなわけないじゃないですかっ!」
 激しい音とともにチェルシーは乱暴な声を上げ立ち上がりそう吠えた。机は激しく揺れペンが音を立てながら転がる。
 教室内の視線が集まりチェルシーは気まずそうにゆっくりと腰を下ろす。
 ――何で。何でマルコが……。
 ――そんなことできるわけないじゃないか。
 チェルシーは完全に冷静さを失っていた。もしかしたらマルコが疑われるのではないかと一瞬考えたこともあったが時間の流れとともにそれは風化して消え去ってしまっていた。
「で、ですから噂なんです。ですが、警官隊があの人の家に事情聴取に行ったっていうのは事実らしくて」
「そんな……」
 人間の体の切断というのは意外にも技術が必要なものである。素人がやれば刃物が途中で骨や筋肉などで詰まり切り口が歪なものになるのは避けられない。それを美しく行うためには医学の知識と経験が必要だ。
 この街で誰よりも人の体を理解し誰よりも体を切断する経験に長けているのは――
「――マルコだっていうんですか」
「う、噂ですが……」
 俯きながら言葉を紡ぐ彼女に対し、しかしチェルシーは怒りを向けることはできない。
 拳には力が入り、掌には汗が滲む。歯を食いしばり怒りを抑えるのでチェルシーは精一杯であった。
 ――そんなことあるわけないじゃないか。
 ――マルコは本来人を殺せるような人間じゃないんだ……。
「……あの、私が言うのも難ですが。あの執行人の方と親しくするのはあまり世間体がよくないんじゃないかと思います」
「――っ。それはリリスさんには関係のないことです」
「私はチェルシーさんの事を思って言っています。チェルシーさんが親友だというのだから悪い人ではないということは分かりますがそういう問題ではないんです。チェルシーさんがそのせいで何かトラブルに巻き込まれたりしたらと思うと私……」
 ――分かってる。
 ――リリスさんは悪くない。
 ――でも、僕は……。
「ありがとうございます。でも、僕はマルコの事を見捨てることができないんです。僕自身で犯人を探してみようと思います」
「チェルシーさん……。分かりました。私もその調査に協力します」
 突然のリリスの言葉にチェルシーは驚きを隠せない。そしてこう続ける。
「いや、ですがこんなことに巻き込むわけには……」
「言ったでしょう? 私チェルシーさんのことが心配なんです。これは別にチェルシーさんの為でもましてや執行人の方の為でもありません。――私自身がそう望むんです」
 ――力強い言葉だった。
 瞳は曇らず。芯が通ったものであった。チェルシーは確かに彼女の言葉に感銘を受けていた。
 ――自分の為か……。
「分かりました。ですが、危ないことになったら身を引いてくださいね。僕はあなたになにかあったらと思うと……」
「分かっていますよ。早速ですが私には少々当てがあるんです。私の知り合いにそういうことに詳しい人がいて」
「そうなんですか。それでその人の名は――」
「――『名探偵』ジェニファー・ロウ」
 ――その名は僕がこの世で一番聞きたくないものの一つだった。



[17426] 5
Name: 白夜◆a556230e ID:e9e7427b
Date: 2010/06/09 16:52
「ねえ、アリス。神様っていると思う?」
「えっ? 兄さんどうしたんですか。 神様ってあの神様ですか?」
「ああ、そうだよ。どう思う?」
「うーん。私いると思います」
「へえ、何で?」
「神様っていうか兄さんが私にとっての神様なんです」
「……」
 ――言葉もなかった。
 ――何を具現化すればよいか分からなくなった。
「やさしいし色々と教えてくれるし、やっぱり偶像の神様なんかより兄さんのほうが神様です」
 あどけない可憐な表情でアリスは言った。アリス、お前は何でそんなにも僕の事を――
「そ、そうだな。確かに僕はやさしいし、アリスにとっては神様かもしれないな。でも、神話とか教会とかで信仰しているのは違うのかい?」
「もし、ですよ。もし本当に教会や神話で出てくるような全知全能の神がいるのならおかしいじゃないですか」
「……」
「だって、私みたいに病気で苦しんでいる人や飢えで苦しんでいる人、戦争で亡くなってしまう人。そんな人たちが何で現れてしまうのかなって思ってしまうんです。全てを全て救ってほしいなんて言いませんけどせめて教会を信じて止まない人たちは救うべきなんじゃないかなって私思うんです」
「そう……だよね。アリスは色んなことを知っているね。僕も兄さんとして鼻が高いよ」
「そんな……。私、早く皆が平等な社会になったらいいなって思います。――兄さんもそう思いませんか?」
「――……ああ、そうだね」
 言葉は弱く、風で飛んでいきそうなほどだった。

 ――アリスは昔から病弱だったというわけではない。元々は活発的で明るい子だった。
 ――それがどうしたことだろう。こうなってしまった原因はある毒物の誤った接種によるものとカルテには書かざるを得なかった。
 ――誤った接種?
 ――危険な毒物を誤って口にするほどアリスは頭の悪い子ではない。
 ――全ては僕の、いや、俺のせいだった――

「反応はどうだった?」
「はい。議会に提出した懇願書と署名により工業化の追加法案を可決させるのは難しくなったようです。ディプリスの中にも署名が効いたのでしょう造反するやつらもちらほらと」
「そうか。良かった」
 メインストリートの外れに隣接する形で広がるのはプレハブ倉庫が延々と連なる倉庫街である。もはや時代遅れとも言える蒸気機関機器が散乱しているこの地域一帯は産業革命によって置き去りにされた機械たちの墓場といっても過言ではなかった。人々はこの倉庫群を見るたびに昔を思い出すと昔聞いたことがある。夜ともなれば人通りは一切なくなりさながらゴーストタウンと化す。まばらな街灯が無益にアスファルトを照らす様もまたこの場所の雰囲気を空虚にしている。無人のデリッククレーンが乱雑に並べられている様子は石化した恐竜の群れに見えなくもなく酷く不気味である。
 そんな不気味な倉庫街に俺たちはいた。成すべきことがあった。正義を貫かなければならなかったのだ。――例え、何があっても。
 ここに集まっている人間の大半は政治的に強い思想を持った者たちだった。この国を変えたい。誰もが平等な社会を作りたい。そんな一心で皆行動している。政治という大きな活動の前では個人の力などまるで無に等しいと言ってもいいだろう――国王などの特例を除いてだが――。
 ――人というものはとても脆い。牙を持たず、爪を持たず、逃げるための羽すらない。だから、人は身を守るために頭を使う。その行動の中で人間と動物が共通して行うことといえばそれは群れを作ることだ。一匹ずつのか弱い羊であっても、何千何万匹と群れることで肉食動物の襲撃にもびくともしなくなる。
 俺たちは群がることで議会すら無視できないような行動をやってのける。そんな強い集団だと思っていた。
「マルコさん。こんな署名運動なんてちまちましたことは止めてもっと実力行使でいきましょうよ。例えばほら、一気に革命を起こして……」
「――おい、口を慎めよお前。そんなことを軽々しく口にする時点でお前はこの組織の心理を履き違えてんだよ!」
 怒りを持って、なおかつ冷静に俺は無謀な進言をした男の胸倉を掴む。
 俺よりも大きなその男は宙に浮き、足をパタパタと動物のように跳ねさせる。
「な、何を……」
 その姿が酷く滑稽に見えて俺は無造作にその男を投げつけた。コンクリートに激しく叩きつけられて大きな音が発生するが、あの体格だ多分ほとんど怪我もないだろう。
「いいか。他のやつらも勘違いしねぇようによく聞いておけ。――暴力を避け、力づくを避け、つねに話し合いを行う。だが、暴力が不可避になったその時はふいをつき、迅速にそれを叩く。
 これが、俺たちが目指すべき行動の指針だ。もしもお前らの中で話し合いを通り越してまで暴力による革命を志す者がいるのならすぐにここを出て行ってくれ。俺たちリシアはそういった組織じゃねえってことだ」
 大勢いる仲間をまとめるのは俺の役目だ。この倉庫内には納まりきらない規模の人数がまだたくさんいる。ざっとこの辺りを見回してみても数十人あるいはそれ以上の人数がいるだろう。いちいち一人一人の行動を監視、管理するわけにもいかないからこの組織の人間が俺の知らないところで何をしようと俺にはどうしようもない。だから、たまにこうして集会の際に宣言しなければこの組織は荒れていく。俺はそう思う。リーダーの俺がしっかりしなければリシアはただの暴力団に落ちぶれてしまうだろう。
 思想の力というのは絶大だ。人間が本来できないようなことも思いの力があればできてしまう。歴史とはそういった思いの力で動かされてきたといってもいい。だが、それは常に暴力、戦争によってだ。暴力によって悪が淘汰されるというならばそれは悪が悪にすり替わったというだけに過ぎない。いずれは繰り返される。この国ではそんなことを起こすわけにはいかない。――絶対に。
「マルコさん。では次はどうしましょう。あの法案を廃案にしましたが」
「そうだな。まずはアンブリアに次の総選挙で勝利してもらおう。あいつらのマニュフェストは俺らの考え方と一致している」
「アンブリアですか? ……正直俺はあいつらのことはあまり好かねえんですが」
「何故だ?」
「目的が同じ者を人間はすぐに味方と判断してしまいます。ですが、あいつらが俺らみたいな組織をそのまま放っておくとは思えねえんすよ。こんな不良が皮かぶったようなやつらを」
「いや、構わんさ。俺たちもあいつらを利用しようとしているんだからな。ギブアンドテイクだ。もし、あいつらが俺たちを裏切って掃討軍を差し向けるようなことがあればその時は……返り討ちにしてやればいい。そうだろう?」
「マルコさん……はいっ。俺一生あんたについていくっす!」
 怒号か歓声かどちらともとれるような声が真夜中の倉庫街に木霊する。幸いだったのはまったく人通りがなかったことだろうか。
「よし、そろそろ行動を開始するぞ。まずは選挙権を持った第三身分のやつらからだ。それが終わったら第二身分、第一身分と順を追っていけ。暴力以外ならどんな手段を使ってもいい。ただし、あまり脅迫はするなよ? 賄賂は金が尽きない程度にだ。いいか――非暴力とは弱者の持つ武器ではなくもっとも雄々しい心を持つ人間の武器だ。これさえ忘れなければ俺たちは正義だ!」
 ――だが、群がるということはつまりその集団が一匹の大きな獣になるということを示している。それはつまり自分たち以外を敵と見なし個々人が獣の一部にならなければならないということだ。そのお陰で一匹の無力な者は大きな力の恩恵に預かれる。その獣が右を向けば右を向き、鳥を狩れといったら狩らなくてはならない。例え自らが愛する歌を唄う鳥であってもだ。指針を間違えば獣は暴走する。
 人間というのは酷く脆いのだ。





 ■■




 ノエルにとって社交はあまり興味を注がれるものではなかった。元々ノエルの実家であるファンデ家はノエルを直接社交の場に出そうとはせず、半分箱入り娘のような形で溺愛していたというのもその一因だった。血筋にもあまりとやかく言わない家系だからだろうか、よく庶民の出の女性をめとっていたし、後を継がない女性は庶民の家に嫁いだりすることもたまにあったらしい。ノエルもいずれはそうなるのだろうかと考えてはいたが、王室からのお誘いである。断る理由もないし、意義もなかった。
 ――最近、笑顔を作るのが難しくなった。そう思う。
 ノエルは薄々感づき始めていた。自分は軟禁されているのではないか、と。
 セリスにそのことを遠回しに聞いてみてもやんわりと誤魔化されてしまうがノエルには確信に近いものがあった。実際に数少ないお茶会といえばこの宮殿で行われるものだけであるし、皇女として政治的な会談に臨むこともあるだろうと思っていたのだがそれは全て愛すべき伴侶の判断でキャンセルされているらしい。
 ――本当にあなたは一体何を考えているの?
 ――こんな広い宮殿に私を閉じ込めて何かいいことがあるの?
 現実を見よう。ノエルはそう思った。実際にこの数週間宮殿から一切外には出ていないし、セリスはそのことについて深く触れようとはしない。
 ――私はここで生きていくしかないんだ。
 ――どんなことがあったって。
 現在ノエルは宮殿のテラスにてお茶会の真最中であった。セラエノでは貴重な緑が溢れる庭を臨み、小鳥たちの囀りも聞こえてきそうな暖かさであった。もっとも、そこまで日差しが溢れているわけではないが。
 周りに座っている同い年かそれより下の令嬢たちは明るい笑い声をあげてお互いに好きなものを飲み、噂話に余念がない。けれど、誰一人セリスには話しかけてこない。それはこの会を主催したエレーナも例外ではなかった。
 いつものことだ、そうノエルは自分を納得させこの状況に耐えようと試みる。王家に嫁いで一ヶ月、どうやら『夫』を狙っていた令嬢は多かったらしくこのような地味な嫌がらせをされている。
 酷いものになれば、そう例えば――
「――っ!」
「あら、ごめんなさい。ちょっと手が滑ってしまいましたの」
 明らかに悪意がある眼である。手が滑ったとはいうまでもなく偽りであり、ノエルの膝の上にはワインの葡萄の香りが漂う。悪意があったかなかったか、そんなこと今はどうでもよかったのだ。
 ――私はただ耐えるだけ。
「い、いえ、大丈夫です。すぐに着替えて来ますので……」
「あら、よろしいんではなくて?」
 声の主はノエルの対面、一番奥に控えていたエレーナであった。相変わらずの派手なドレス姿にノエルはいやらしさしか覚えることはできなかった。
 嫌味、皮肉を含んだ声色で彼女はこう続ける。
「そんな安っぽいドレスですし、濡れた部分だけ破ってしまえばよろしいではありませんか」
「そ、そんな……」
「誰もあなたの足なんて見ようとは思いませんからお気になさらずに。私たちは気にしませんのよ?」
「――っ」
 ――そんなのできるわけないじゃない。
 ――私は――
「大丈夫です。このままで」
「ふうん。そうですか。まあ、風邪をひかないようにご注意なさいませ。あ、もしかしたらわざと風邪をひいて旦那様に看病してもらうおつもりですか? まあ、いやらしい」
「ち、違いますっ。私はそんな……」
「頑なに否定するところを見ると怪しいですわね。どうでしたかハロルド様の胸板は。その淫らな体を生かして陥れたんでしょう? 怖いですわ」
「……違います……」
「ふふ、そういえば失礼ながらあなたの事を少し調べさせていただきましたの」
「え?」
「何でも、あなたは婚約の一年前までなんと身元もよく分からないような同年代の男性を屋敷の中にはべらせていたとか」
「――なっ」
 ――違う。
 ――そうじゃないの。
「不潔ですわねー。もしかすればハロルド様との前にもう乙女ではなくなっていたのかも」
 他の令嬢からも蔑むような歓声があがる。ノエルは怒りにうち震えていた。だが、しかし彼女は――
 ――あなたたちに何が分かるのよ。
 ――耐えないと。
 ――私は、違うの。
「――知りません。そんなこと記憶にありません。エレーナ様の勘違いではないでしょうか」
 ノエルは少々微笑みながらそう返した。
 心が荒む。軋む。
 自分自身が酷く信じられなくなる。
「……そうですか。あなたがそこまで言うのなら勘違いなのでしょうね。あなた……笑顔がとてもお似合いですわ。特に今のそれが」
 ノエルは怒りのせいかそれが今日最大の皮肉だと気付くことができなかった。





 ■■





 ――瞼を、開ける。
 そこは見覚えのない部屋だった。当然僕の元いた屋敷にはない部屋である。広さは人一人が滞在するのには十分でベッドが一つドアの真向かいにある窓に沿うように置かれている。それにテーブルと椅子が一つずつ。
 真っ白な部屋だった。壁も床も天井もみんな白い。そんな、遠近感が狂ってしまいそうな部屋の中に僕は一人取り残されていた。
 ――何だ、ここ。
 ――確か僕は……。
 自身の記憶を探る。記憶の断片をつなぎ合わせ状況の整理を試みる。雨の降り荒む森の中で僕は倒れてそして……。
 そこからの記憶はなかった。ベッドは想像以上に柔らかくて体を起こすのが億劫になってしまう。
「――っ」
 膝小僧から酷い痛感が伝わってくる。そういえば森の中を走っているうちに転んだような気がする。よく見てみればまたも真っ白い包帯が怪我をした場所に巻きつけられておりどうやら手当をされたようである。
「何だこれ、一体……」
 僕は大きな疑念に囚われていたがその間に部屋の中に一つだけ存在するドアがノックもなく開かれた。思わず僕は身構える。
「あ、もう眼が覚めたのね。怪我の具合はどう?」
「……」
 部屋の中に入ってきたのは僕と同じくらいの年齢の少女だった。薔薇のように真っ赤でなお且つ肩の辺りで切り揃えられた髪が印象的である。僕の価値観では女性の髪とは基本的には長いものであり、それが美しさ、気品の象徴と感じていたのだが、目の前の少女のそれはそんな僕の常識を打ち砕いた。
 僕はそんな少女に恐怖のような怒りのような感謝よりもそんな感情が先行して浮かんできてしまっていた。
「あなた、誰なんですか?」
 不躾に僕は尋ねた。少女は少々むっとしたような表情を浮かべこう返す。
「君ねそれが助けてもらった人に言う台詞? まあいいけど。私はノエル。君は森の中で倒れていたんだよ、覚えてない? 私たちが通りかからなかったら今頃どうなっていたか」
「別に助けて欲しいなんて言ってないです」
「捻くれてるね。あのまま死んだほうがよかったって言うの? でも、私に助けられた以上もう勝手に死ねるなんて思わないでね」
「――っ。何を勝手に」
 瞬間。その少女はその顔面を僕のそれに近づけてきた。眼と眼の距離が限りなく零に近づき僕はその勢い、強さに圧倒されてしまう。
「ねえ、知ってる? 死にたいって人に喋る人間は本当は死ぬ覚悟なんてできていないんだって。君は私より年下だよね。私だってそんなもの考えたこともないよ。だから、君にできるわけない。強がってるだけなんだよ君は」
「あなたに何が分かるっていうんですかっ。僕はもう死んだっていい……」
 カランカランと金属が床に転がる音がした。見ると少女がポケットからナイフを取り出して僕のほうに投げつけていた。
「ほら、林檎を剥くために持ってきたものだけどどうする? それでも手首をうまく斬れば出血多量で死ねるかもね。やってみれば?」
「……」
 恐る恐る僕はナイフを手に取ろうとする。そして気づく。手は以上に震え汗は止まることはない。眼は大きく見開かれまともな精神状態ではないに違いない。
 ――何を怖がっているんだ。
 ――さっき宣言したばかりじゃないか。
 何とかナイフを拾い上げ左の手首にその切っ先を宛がう。薄らと血が滲んできて僕はそれを見た瞬間に吐き気を催さずにはいられなかった。
「くっ……」
「どうしたの? 早くやってごらんよ」
 ――この女――
 僕は蔑むような眼で見てくる少女に怒りを向ける。だが、できない。
「――」
 カラン、とナイフがまた落ちる。僕は自分の無力さに酷く情けなくなった。
「ほらね。そんな簡単に死のうなんていうもんじゃないよ。君はまだ子供なんだしさ」
「……あなただって僕とそんなに変わらないでしょう?」
「私十五歳だよ。どう、私のほうがちょっと年上でしょう」
「確かにそうですけど……」
「……父上がね、軍人だったのよ」
 ポツリポツリと先ほどとは違った様子で少女は語り始めた。左手を右手で抑え、俯き加減で語るその姿は何処か儚げであった。
「何でもすごく武勇に優れていたらしくて私が子供のころから戦争があるたびに父上は遠くに行っちゃってたわ。もう指揮官になってもおかしくないくらいだったのに父上は前線から離れることはなかったそうよ。戦争に出発するたびに父上は『大丈夫だ。必ず帰ってくる』ってそう言ってたわ。父上は死なんて恐れてなかった。いえ、もう死を受け入れてそれを乗り越えたんだと思うわ。父上がまだ生きているのもそういう気持ちで臨んでいたからだと思うの。だから、君のその態度はすごくイライラするのよ。勝手に死ぬとか軽々しく口にして、どんな事情があったのかは分からないけれどそんな姿見たくないの」
「……」
 話し終わった少女の表情はほんの少し明るさを取り戻しているように見えた。僕はこんな女性に会ったことが今までなかった。今まで出会った女性というのは自分の意見なんて隠しておしとやかで品があって。それなのにこの少女は自分の意見をはっきりと言って、言葉遣いも荒くて。そんな姿に僕は何故か惹かれていた。
 気がつけば僕は今までのあらましを眼前の少女に洗いざらい話してしまっていた。
「……そっか。君も色々大変だったんだね。ごめん、勝手なことばっか言って。君だって辛いのに」
「いや、もういいんです。……なんでこんなこと話してるんだろうな。まるで懺悔室にいるみたいだ。あなた牧師の経験ありますか?」
「あなたじゃないでしょ? ノエルよノエル。牧師の経験なんてないわ。それよりも君の名前をまだ聞いてなかったね」
「僕は……チェルシーです」
 真っ白な部屋に光が舞った。


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