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国籍変えても思い一つ

2008年9月17日15時5分

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写真北京五輪の日本―米国戦でプレーする李忠成選手=8月7日、中国・天津、杉本康弘撮影

写真李鉄泰さん

写真鄭大世さん

写真鄭吉夫さん(左)と李貞琴さん

 8月7日、北京五輪サッカーの日本―米国戦。李鉄泰(イ・チョルテ)(49)は観客席で、いまかいまかと待っていた。後半、日の丸を胸に息子の李忠成(り・ただなり)(22)がピッチに立つ。必死で球を追う姿に胸が熱くなった。

 鉄泰は在日コリアン3世だ。祖父が日本にきたのは昭和元年の1926年。朝鮮半島は日本に併合されていた。

 「ぼくのアボジ(父)は戦争中、陸軍に志願したんですよ。自分は日本人だと思い、日本のために死ぬつもりだった」

 その父は戦後、東京で土建業をはじめ、朝鮮総連の系列の商工会の幹部になった。

 鉄泰は少年時代からサッカーにうちこむ。東海大から社会人リーグのクラブでプレーした。夢は実らず、退団。スパイクやユニホームを湘南の海に投げ捨て、母の焼き肉店を継ぐ。

 結婚して忠成が生まれた。4歳からサッカーの手ほどきをし、「才能があるな」。18歳になった忠成は韓国の若い世代の代表候補合宿に呼ばれる。だが日本育ちには言葉の壁があり、パスもこない。落選――。

 ソウルから帰る飛行機で、おちこむ息子に父はささやいた。「日本代表をめざす道もあるんだよ」

   ◇

 いま、毎年1万人近い在日コリアンが日本に国籍を変える。「生活の基盤が日本にある」「就職や仕事に有利」と理由はさまざまだ。

 忠成が20歳になってまもなく鉄泰は、日本五輪監督反町康治(そりまち・やすはる)(44)が息子に関心をもっていると聞いた。選ばれたら、サッカーの世界で大きく羽ばたける。それには国籍が……。「あの子にいったんです。これはチャンスだと」

 忠成はうなずいた。じつは韓国で落選したとき「自分は何人?」と悩んでいた。「国籍について友達とも相談していた」

 李家の通名は「大山」。表札にもそう書いている。だが、韓国から日本に国籍を変えるための厚さ5センチ余の申請書類の氏名欄には「李忠成」と書いた。

 鉄泰はいう。「ソフトバンクの孫正義(そん・まさよし)さんは堂々としている。もう在日を隠したり、日本風の名をなのったりする時代じゃないでしょ」

 07年正月、韓国・大邱(テグ)市。父子は祖先の墓前にひれ伏し、新たな出発を誓った。

 しばらくして鉄泰は、自分の焼き肉店で酒を飲んでいた在日のお年寄りから「息子の国籍を変えて、どういうつもりか」となじられた。熱くなって、いいかえした。「われわれは日本に住む人間でしょ。次の世代も、その次も」。祖先と祖国への思いを胸に大切にもっていれば、それでいいじゃないか。

   ◇

 李忠成は今春、五輪代表合宿中にチームメートの紹介で、ある選手と携帯電話で話した。川崎フロンターレの鄭大世(チョン・テセ)(24)。在日3世。北朝鮮代表フォワードである。

 父の鄭吉夫(チョン・ギルブ)(67)は韓国籍で、名古屋で建設会社を営む。母の李貞琴(リ・ジョングム)(57)は朝鮮籍で朝鮮学校の教師だった。

 母の希望で、小学生から朝鮮学校にかよう。サッカー特待生として朝鮮大学校へ。父と同じ韓国籍だが、こころの祖国は北朝鮮。「ずっと祖国の代表になりたかった」。国際サッカー連盟に生い立ちを訴え、北朝鮮代表への道が開かれた。

 ことし6月、ソウルでの北朝鮮―韓国戦。父はスタンドから息子のプレーをカメラで追った。「まさかここまでになってくれるとは」。懸命にシャッターを押しつづけた。

 北京五輪からもどった李忠成は柏レイソルで練習を再開した。携帯電話に1通のメールが届く。「おつかれさま」。鄭大世からだった。今月、いっしょに食事をして語らった。

 「在日として僕らの後に続く世代に道を示したい」。背負う国はちがっても、若いふたりの思いは通じ合う。

(このシリーズは崔、植村隆、千種辰弥が担当します。文中は敬称略)

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