2009.9.22
今週は「めざせ!会社の星」「経済ワイドビジョンe」に出演された、株式会社ワーク・ライフバランス代表・小室淑恵さんの登場です。
スマートな小室さんからはかけ離れた、ご本人が「泥臭い」と言う20代のお仕事をお届けします。
vol.84 小室淑恵 さん
Profile
1975年生まれ。東京都出身。
日本女子大学卒業後、99年(株)資生堂に入社。インターネットを利用した育児休業者の職場復帰支援サービス事業を立ち上げる。資生堂を退社後、2006年(株)ワーク・ライフバランスを設立し代表取締役社長になる。女性に限らず、男性の育児休業者、介護休業者、うつ病などでの休業者が職場にスムーズに復帰できるようにサポートする仕組みを開発。 内閣府「仕事と生活の調和連携推進・評価部会」や「厚生労働省委託:男性の仕事と育児の両立意識啓発事業」の委員なども勤める。

小室淑恵ブログ
(NHKサイトを離れます)
女子大に通っていたころの私は、聞かれもしないのに「私、専業主婦になりたいの」と友達に言うような女子でした。それは、自分に対しての嘘を自分に納得させるための作業だったと思うんです。心の奥底には社会で活躍したいという気持ちがあるのに、女性が長く働くと社会の迷惑になると思っていたので「私は専業主婦になるんだ」と何度も自分に言い聞かせていたんです。
その自分への嘘に気付いたのは、猪口邦子先生の講義がきっかけでした。

猪口先生が講義後の質疑応答のときに「みなさんは仕事と家庭の両立は無理だと思っているんでしょうね。でもあと1、2年もすると、共働き家庭が専業主婦家庭の数を逆転して上回りますよ」とおっしゃったんです。そうなると企業は共働き家庭に向けてサービスを提供しないと商品が売れなくなる。あなたたちが育休から復帰するときには、『家事と仕事を両立している生活から出てきたアイディアを聞かせてくれ』って頼まれるようになる世代なのだから、「あなたたちのアイディアを企業に入れてあげなさい」っていうような話をされたんです。
女性が社会に出ることを期待されていないということは、学校で勉強していても何のための勉強なのか分かりませんから、「先が閉じているトンネルかもしれないけど、とにかく今は走れ」と言われているようなものなのです。実は女性はそのことに結構傷つきながら育っているものなのです。しかし、猪口先生のお話で、閉じたトンネルの先が急にパッ開いたような感覚を覚えて、働くことへの意欲が急上昇したんです。

その時、自分の人生を変えなきゃって強く思いました。そしてたまたま地域紙を読んでいたら、「アメリカに行ってベビーシッターをして暮らしてました」という体験記が載ってたんです。今思うと本当に単純だったのですが、それを見て「私もアメリカに行って、人生を変えたい」って思ってしまって、大学3年と4年の間の1年間休学してサンディエゴに飛んだんです。
そこでアメリカ人のシングルマザーの家で、ベビーシッターをしながら過ごしました。彼女は育児休業を2年とって職場復帰したんですが、その際に以前よりも昇給していました。育児休業中にインターネットを通じて勉強していて、私がスキルブランクだと思っていた期間をブラッシュアップ(能力を磨きあげる)期間に使っていました。この経験が私のキャリアにとても大きなヒントを与えてくれたんですが、向こうにいる間は人生観が変わったことが実感できないぐらいに、とにかく無我夢中でした。

帰国してからの就活は本当に苦戦して、40社も落ちたんです。超就職氷河期だったにしても、ちょっと落ち過ぎですよね。一言で言って、ものの伝え方がストレート過ぎて、企業にとって一番厄介な女性だという風に思われたんだと思います。
現場レベルの面談では評価いただけても、最終の役員面接になると面接官が全員男性なので、役員男性にとって「採用したい女性像」と私がかけ離れていたので、落ちるということを繰り返したんですね。そんな中資生堂は最終面性にまで面接官に女性がいて、その女性のおかげで採用していただくことができました。

入社後、私は営業担当として奈良支社に配属されました。私が担当したのは、昔ながらの商店街(当時、すでにかなりのシャッター街になっていました)の薬局の奥に化粧品の棚があるようなお店でした。かつては資生堂にとっても一番の収入源はそういったチェインストアでした。ただ私が入ったころには売り上げがどん底まで落ちて、ドラッグストアや百貨店形態への過渡期だったんですね。中でも奈良は最も売り上げが落ちているエリアの一つでした。それでも売り上げノルマは前年比110%なんですよ。どうやって? 人来ないよ? と不可能なミッションに思えた毎日でした。
車の運転は非常に苦手なうえに、大量の荷物を積んで、山奥のお店まで一人で延々と車を運転して営業に回って、最初はすごくめげていました。資生堂のやりかたすべてが不満に思えた時期もありました。でも当時の奈良支社長が素晴らしい方で、懇親会の席で私が「資生堂がもっとこうならいいのに」と資生堂の変わるべき点を力説したら、「小室さんは資生堂全体を変えたいんだね。それならばまず奈良支社をどう変えるかだ。僕が見ているから」っておっしゃってくださったんです。それで「私が奈良支社を変えられなかったら全社なんて変えられるはずがないんだ」と思って、急にモチベーションが上がりました。

私は勝手に「奈良支社変革3ヵ年プラン」を立てて、「奈良支社を一番IT化された支社にする」っていう目標を立てたんです。それに向かって「じゃあ明日から社内の人むけにパソコン教室をやろう」って決めたんです。もちろん配属されたばかりの新人が改革なんて言っても、最初はだれも聞いてくれないんですけどね。

同時にどうしたら担当店の売り上げを伸ばせるかも考えました。私の仕事は、担当するチェインストアに資生堂の商品をできるだけ多く納品して成績を上げることでした。ですから先輩たちからは「お店の在庫になってもいいから、とにかく詰め込まないとあなたの成績は上がらないよ」ってアドバイスを受けるんですね。でも、売れなければ返品になって返ってくるわけだし、在庫をちゃんと適正にしてあげなかったらお店の資金繰りが苦しくなって結局はお店が潰れちゃう。私は最小の納品で、売上を最大にすることがお店のためになると思って、納品の交渉をすることよりも、お店の売り上げが上がる提案をすることに力を入れました。先輩からは「綺麗事だ」って言われましたが・・。そうこうするうちに、上期末になり、私の数字は部では最低で、目標達成はほぼ不可能な状態でした。
「お店の在庫を適正にする」「売上げを伸ばすための提案をする」・・・どう考えても正論なのにどうして通じないの?ところでほぼ不可能な納品ノルマ、どうなったのでしょうか?後半では小室さんの人生に急展開があります。