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つまり「自由主義」を放棄するわけだなw

 投稿者:まっぺん  投稿日:2010年 6月 6日(日)15時21分17秒
  「自分はただ一般的に殺す自由は存在する(認められるかどうかは別)し可能である(実行するかどうかは別)と言いたいのであって、過去に自分を自由主義者だと規定したのはまちがいでした。自分は自由主義者ではありません」ということだな? それならそれでよい。  

「思い込み」ねぇ・・・(苦笑)

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時56分55秒
  「人を害する自由」「人を殺す自由」があるというのこそ「思い込み」の所産ではないか、とw。  

ことばの正しい意味って

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時50分52秒
   最初から「自由」について語っていて、「自由権」について語っているわけではありません。

 伊達さんが<<勝手に>>「自由権」に話を限定してしまっただけです。

 しかし、それを私には防ぐ方法はないのです。なぜなら、伊達さんが伊達さんとして
 考えることを私には禁止することができないからです。可能だとしても、それを公言
 することを禁止することしかできません。

 つまり、そんな思い込みをもつことができるのは「自由」だからです。
 決して「自由権」をもっているからではありません。

 脳をもっているからですね。はっきりいってしまえば、自由って本能によって制限され
 てないってことなんです。だから危ないので社会的に制限するってことになるわけです。

 ライオンは木の上で待ち伏せして餌をとることはできません。そのような行動を本能が
 もってないからです。

ことばの正しい意味でも「自由」はそんなことです。
 

ところで

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時49分32秒
  単一発展史観 [編集]
他の文化を貶め、自分の文化を至高とする…(以下略)

と書かれているが、「人を害する自由」「人を殺す自由」とは、「他の文化を貶め、自分の文化を至高とする」どころか、己ひとりを至高とし、他の全ての人間を敵とする、ということではないのかな?w

 こりゃ「単一発展史観」未満だなw。
 

>自由と行為を認めるかは別のことだ

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時43分59秒
   百歩譲って、仮にそうだとしておこうよw。

「人を害する自由」「人を殺す自由」とは言葉の正しい意味での自由ではない。

 まっぺんさんが言うように身勝手と言うべきだろうね。
 

自由と行為を認めるかは別のことだ

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時36分57秒
  ということがまだわからないらしい。

 自由ということは正当を意味するのではない。

 なのに二人とも正当性について論議している。自由の制限は正当性を以って行われること
 をさかさまに見ているのだ。

 人は人を殺す自由をもっているから、これが正当ではないといってこれを法や慣習で
 制限しようとするのである。

 しかし、この大元の自由がなくなるわけではないので、現実には犯罪としての殺人や
 敵に対しての攻撃が行われる。この内、敵に対しての攻撃は帰属する社会にとって
 有益なので正当化されるのである。

 人を殺す権利はないという言い方ならわかる。(権利は正当性と同様に使われる。)
 わたしは自由権の話をしているのではない。自由の話をしているのだ。
 だからこそ、自由を能力としてとらえた方がよいといっているだ。権利としてとらえると
 いくつかのアポリアが残るのだ。
 

発展史観?

 投稿者:まっぺん  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時31分31秒
  なんかそーとードカンチな反論がかえって来たなww
ソ連スターリニスト完了の犯罪を上げればきりがないが
人権の問題はそういうものとは違うんじゃないのかね?
 

発展史観を糞喰らえと言うのは

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時29分54秒
  全然、全く構わんが、「人を害する自由」「人を殺す自由」「自然状態」「万人の万人に対する闘争」への退歩史観は如何なものかとw。  

Re:まっぺんさん。それはさすがにまずいです。

 投稿者:まっぺん  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時28分46秒
  おいおい。お前の弁を代弁してやってるだけで、私はそんな立場は取らない
勘違いするな。「さすがにまずい」のはお前の立場だ。他人に言われて気づいたか?
 

生得権を認めない部族は

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時27分27秒
  野蛮でどうしようもない殺してでも教育しなきゃいけない人々なんでしょうね。

 まっぺんさんたちにとっては。

あーあ。どうしてそう世界観が狭いんですか?
 

>抱腹する権利

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時26分41秒
   卒倒モンの報復絶倒(←わざと間違えがんだから突っ込まないよーに)w。大バクシオw。  

発展史観ですか?

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時25分33秒
   糞喰らえですね。

 人権という概念で何が発展したっていうんです?ソビエト革命で何万人も死にました。
 尊い犠牲と言って感謝するのは大問題だと思うんです。


単一発展史観 [編集]
他の文化を貶め、自分の文化を至高とする思想は世界各地で見られるが、その偏見や差別を正当化するために、文化は異なる進歩の階層があり遅れた文化と進んだ文化が存在するという説が19世紀のヨーロッパの社会進化論を背景にとなえられた。現在遅れているように見える文化であっても、将来的には進歩するという考えである。植民地主義とともに、こうした遅れた地域を指導し、文化的に発展させる(近代化)ということが帝国の役割であるという独善的な考えが強く押し出された。このような観点から、人間を動物園の動物のように見せる催しが流行した(人間動物園)。

後にフランツ・ボアズが文化相対主義の立場から猛烈に批判し、単一発展史観は現在では論じられることはなくなった
 

法治主義がタテマエでしかないことは重々承知だが、

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時23分35秒
  >法律を作る奴こそが自由でほかは法の下の平等によって守られるべき存在だってことですよ。

 これだと法治主義の否定だなw。「人治主義だよ」w。
 

量刑は仇討ちでも復讐でも

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時22分6秒
  ありませんよ。

 まっぺんさん。それはさすがにまずいです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E5%BE%A9

どこかの頭の悪い人が言い出したことで整合性に欠きます。
治安維持の観点から抱腹する権利がただ制限されているだけです。
国が肩代わりをするわけではありません。
 

人権宣言の精神は

 投稿者:まっぺん  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時21分16秒
  時代を経ると共に発展している、という事を理解できないとはカワイソウだな。
18世紀当初ではまだ帝国主義以前の時代だ。ナポレオンさえ登場していない。
ヨーロッパでは国家間戦争も度々起こっていた。
そんな時代の人権宣言にはおのずと限界がある。しかし時代が下るにつれて
人権思想は発展し、現代に至っている。そういう歴史経過をわきまえず
現代と比較した18世紀の欠点をあげつらって己の人権思想の欠如を正当化することはできない。

なんちゅうか、あ呆の反論は、誰でもわかる幼稚すぎる論法で、アホらしくて苦笑の連続だな。
お前、よくこういうはずかしい反論をヒッシに書いてくるなぁ。歴史観がまるでないみたいだなぁ。w
 

>「国家」を念頭に置いているのはバレバレなんだが?

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時19分50秒
  「あ」が「ジョンロックだって自然状態が不都合だから権力を作り出すって筋書きなんです」と書いていることからも明らかですねw。  

ウィキペディアの自然状態の項を

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時17分20秒
  引用して、どうだと言うんだね?w

 平等に自由が無い、人を害する自由、人を殺す自由の延長に「自然状態」はある、ということには違いが無い。

 オマエさんは、まさにその「自然状態」を以ってよしとしている訳だよな?w
 

頭痛い。

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時17分20秒
   ならなんで、それを持ち出すんだろう。

 「きまりはきまり」って言っているだけじゃん。それ。本人がまだ気づかないとしたら
 それはどうかなあ。

 だから、フランス人権宣言の前に自由はなかったのですか?
 (そんな馬鹿なことはない)

 自由を市民の権利として宣言したことに意義があるのであって、そこで行われている
 自由の定義が絶対ではありません。(第一良く原文を読めば、法によって規制すっから
 と書いてあるのですよ。つまり、法律を作る奴こそが自由でほかは法の下の平等によって 守られるべき存在だってことですよ。)

 諸個人の行動は法に基づく限り侵害されないっていう解釈が妥当なだけです。
 なんのことはありません。

 とってもつまんないことですね。
 

Re:なんで、身内を殺された家族は敵討ちをしてはいけないのか?

 投稿者:まっぺん  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時13分17秒
  敵討ちがいいことか悪いことかの議論はさておいて、
その「敵討」とやらも裁判という手続きを踏んで「死刑」という形で行われる。
つまり「国家」という枠組みを離れては行えない。
勝手にそれをやればただの「怨恨殺人」であって、これも国家に法で裁かれる。
つまり、「社会」という時、お前が「社会の内・外」というのは
「国家」を念頭に置いているのはバレバレなんだが?
 

フランス人権宣言が敵は殺せといっている証拠

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 6月 6日(日)14時12分7秒
  http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/furannsujinnkennsenngenn.htm

第12条(公の武力)

人および市民の権利の保障は、公の武力を必要とする。したがって、この武力は、すべての者の利益のために設けられるのであり、それが委託される者の特定の利益のために設けられるのではない。

ついでにラ・マルセイエーズも訳しておきましょう。

いざ 祖国の子らよ 栄光の日はやってきた!

我らに向かって暴君の血に染められた



軍旗(ぐんき)は掲げられた!

暴虐な兵士たちの叫び声が、荒野にとどろくのを聞け



彼らは迫っているのだ



我らの子や妻を殺そうと



[ ルフラン ]



武器を取れ、市民よ!

隊を組め! 進め! 進め! 我らの畑を

けがれた血でみたすみまで!
 

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