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「あ」のダブルスタンダードw

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 6月 6日(日)11時03分36秒
   左翼を「きまりだからきまりなのだ」と非難しておきながら、他ならぬ自分自身が「きまりだからきまりなのだ」という罠w。「これでいいのだ〜」♪  

外国人参政権

 投稿者:まっぺん  投稿日:2010年 6月 6日(日)11時00分1秒
  >外国人には法的に認められません。

なら初めからそう言えばいい。外国人に対して、さも公平であるかのように装いながら
実は国粋主義であるにすぎない。それも「きまりだからきまりなのだ」で答えてるよなぁwww
 

きまりだからではないが?

 投稿者:まっぺん  投稿日:2010年 6月 6日(日)10時57分5秒
  >みなさんが言ってるのは「きまりだからきまりなのだ。」です。

私がその「みなさん」に入らない事は、下の「社会と個人」を読めば分かるな?
社会の中では相互主義が自由主義に深く関わるということだ。
ではそれに答えてくれ。
 

まっぺんさん 

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 6月 6日(日)10時56分1秒
   議論とはまったく違うことですね。

 参政権(現法においては、日本国籍を有するものという一文があるので無理ですよ。)は
 外国人には法的に認められません。

 帰化をしなければ認められないのが現在の法的解釈です。

 日本を乗っ取られるとか、そんな話じゃありません。手続き的に法改正が先なのです。
 ですから、論議を続けるこってすな。

 ↑余談にすぎないのでこれ以上の展開を求められても困ります。
 

もうひとつの問いには答えてないな>「あ」

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 6月 6日(日)10時55分18秒
   オマエさんは殺されたいのかね? 殺されたくないなら「殺す自由」など言わないことさ。  

外国人が帰化しようとしたら

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 6月 6日(日)10時53分23秒
  日本人らしい名前をつけさせようとするもんなぁ…。

 別に辛淑玉なら辛淑玉、田中マルクス・トゥリオだったら田中マルクス・トゥリオ、サントスだったらサントスでいいよ…。ヘンな当て字の漢字をあてはめなくてもさ…。ましてや無理やり田中だの山田だの鈴木だのにしなくても…。
 

伊達さん

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 6月 6日(日)10時52分20秒
   孔子の時代は戦国時代ですよ。

 実際は人殺しが当たり前に行われていました。

 戦争によって天下を統一するということに反対したのが孔子です。
 徳によって<自然と>天下は統一されるという考えでした。

 その端的なことばがその「己の欲せざるところを人に施すなかれ」です。

 じゃあ、徳によって天下は統一されたでしょうか?
 歴史の勉強ですね。
 答えはNOです。孔子の儒家の系統から出た法家の考え(王の作った法によって国は治められえ るべきで権威と権力は法によって守られる。韓非子ですね。)を採用した秦によって天下は統 一しました。

 だけど、徳がないから滅びたろうって?いいえ、法という考えによってその後の中華を未だに
 支配していますよ。
 

それは外国人参政権を認めることになるな

 投稿者:まっぺん  投稿日:2010年 6月 6日(日)10時49分13秒
  >参政権は日本国民である限り保証されますが、きちんとある条件に
>(ある義務を果たさない人間には停止されます。)

日本が外国人参政権を認めないのは外国人に「日本人の血が流れていない」からだが
君は「きちんとある条件」「ある義務を果たす」ことを要件とする。
それは外国人参政権への道を認めた事になる。それは大いに結構。

一般的には「納税・教育・労働」の三大義務を「国民の義務」としているから
これがみたされていれば誰でも参政権を持っていいと私は思う。
まず在日70万人が一挙に参政権を持つことになるね。
国会議員の中に「パク何とか」とか「キム何とか」とか「デビッド何とか」と言った名前が出てくれば
日本ももっと国際的で自由な社会になるだろうなぁ。
 

>なぜ、人を殺してはいけないのですか

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 6月 6日(日)10時45分48秒
   では言い方をかえてやろう。孔子の『論語』でも嫁。「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」

 オマエさんは死にたいのかね?>「あ」
 

もっと現実的な話ですよ。

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 6月 6日(日)10時40分30秒
   ジョンロックは自然状態の人間が人を殺しても裁くことはできないと明言しています。

 (そのままだと、自由権と並立する生存権が維持されないから合意による法が生まれる
  という筋書きなんです。)

 自由主義者にしろ、リバタリアンにしろ、根源にあるのは(生存権と自由権は切り離せな
 い。)ということなんです。

 なぜなら、生存権しかない状態は「奴隷」で、自由権しかない状態は「無法」なんです。

 なぜ私が一人で議論を展開して、一人でつっこみを入れなきゃいけないのか疑問ですが、
 しかし、この議論を端緒を開いた人間としては、「きまりだからきまりなのだ」のような
 次元でこれを解決することだけは避けなきゃいけないので、仕方がないことです。
 (つまり、私は私の行為によって制限を受けています。全くの自由ではありません。行為の
  可能性としては止める、議論を低レベルで放置するという選択枝もありますが、利得があ
  りません。)

 自由ばかり持ち出して生存の方を持ださない左翼脳っていったい何と思います。注入されす
 ぎです。フランス革命でいえば生存権は博愛に関係します。

 まったくここで社会を持ち出しても社会契約説に還るだけで問題が解決しないばかりか同義反復をするだけです。

 みなさんが言ってるのは「きまりだからきまりなのだ。」です。大江が「なぜ、人を殺しては
 いけないのですか。」という質問自体を禁止したようなものです。このときの大江の対応は
 やっぱり批判されるべきものでした。(アンタにはガッカリだよ。ぐらいは言ってかまわない
 でしょう。まあ作家に何を求めているだ。ってことも含めてですけどね。)
 

社会と個人

 投稿者:まっぺん  投稿日:2010年 6月 6日(日)10時16分22秒
  あ呆は「社会」と「個人」の関係が結びついていないように思う。

人は「社会」の中で生きている。
したがって「自由」とは常に他者との関係において考えていくものでなければならない。
誰もいない無人島における「自由」と、社会の中で人と人との関係における「自由」とは違う。
他者を殺す自由を認めないのは、他ならぬ自分が他者から殺される事を拒否するからだ。
他者から殺されるのは自分の自由が侵害されることに他ならない。
死んでしまったら、その先の自分の「可能性」が消滅する。

したがって自由主義者なら、
相互に「自分の自由を侵害されない」という意味において
相互に「相手の自由を侵害しない」ということになる。

これを否定するとすれば、自分はより高位の位置にあって相手の自由を束縛できるが
相手は自分より下位にあるから自分の自由は束縛されない、というような関係を前提とすれば可能だ。
つまり「自分は相手への侵害も含めて自由だが、相手はそうではない」という関係。
しかしこのようなヒエラルキーを認めた社会は「自由主義社会」と言えるのかね?
そのような社会は「自由主義社会」とはいえず、絶対優位に立つ特定の人間だけの「自由社会」となる。
それが君の主張する「自由主義」の行き着く先になると思うが?
つまり君の「身勝手自由主義」は実は「不自由主義社会」へと続いているのだ。

※したがって私が「人を殺してはいけない」と思うのは、
 博愛主義からでもなく、法規範によるものでもなく、君のように「矜持」によるものでもなく
 まさに今述べた「自由主義」によるものだと考えている。死刑廃止も同じ理由による。
 

「あ」も答えてね〜なw

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 6月 6日(日)10時08分33秒
   ウィキペディアのリバタリアニズムの項には、自然権的リバタリアン=「他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだとする政治思想」、帰結主義的リバタリアン=人を害する自由、人を殺す自由をも認めるとでも定義されているのかね? いないのかね?w

「他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだとする政治思想」というリバタリアニズムの定義はウィキペディアのリバタリアニズムの項の冒頭に書かれており、自然権的リバタリアニズムと帰結主義的リバタリアニズムの双方に共通する定義であるとしか読めないのだが、違うかね?w

>伊達さんが金科玉条のように持ち出されている

 ほ〜お、リバタリアンらしきまこさんは「あ」の言うような「人を殺す自由」があるとでもお考えなので?w
 

いや、「あ」氏の論点自体は面白いと思うんですけどね

 投稿者:まこと  投稿日:2010年 6月 6日(日)09時49分2秒
  伊達さんが金科玉条のように持ち出されているフランス人権宣言のいうところの「人および市民」の内実とな何か?とか、深く議論すべき論点なんですけど。

でも、「あ」氏が絡んでいると、まじめに議論する気が萎えるんですよねー。
 

だから自由は権利ではなく能力なんですよ。

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 6月 6日(日)09時46分4秒
   でないと、無法という根源状態が口を空けますよ。

 義務を背負える能力がなければ自由を行使することはできないはずです。

 参政権は日本国民である限り保証されますが、きちんとある条件に(ある義務を果たさない
 人間には停止されます。)
 

まっぺんさん

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 6月 6日(日)09時41分47秒
   あの「自由主義者」が考える「自由」だけが「自由」ではありませんよ。
 自由主義者は自身が考える「自由」を「自由」として流通させることに
 よって自身の利益を最大限に守り、確保しようとしているだけです。

 (私自身もそう考えます。)

 しかし、哲理における自由となると話は別です。自由主義者の自由は常に法と対応して
 います。(自由主義者はだからそれについては自覚的で生得的権利ってやつについては
 懐疑的なんです。だから、自由主義の説明に成人したなることばがついているわけです。)

 でも、人権として持ち出される自由は「生得的」です。他人に保護されている存在にも
 自由があると考えます。(ヲイヲイそれは上からの奴隷解放根性だぞ。)
 その結果、人を殺すのは自由だという現実的な無法という自由が出現するのです。
 (人権を生得的とすることの危険性を左翼のみなさんがなぜに理解できないのか不思議で
 す。)

 戦場や経済危機で幼い子どもたちが死んでいく悲劇は保護の放棄によるものです。彼らの権利
 が剥奪されているからではなく、むしろ、彼らを保護しなければならない人々の義務が放棄さ
 れているからなのです。義務を放棄した人間に代わって彼らを保護する人間が彼らに対する
 権利をもつべきなのです。

 私は私の自由主義者としての「矜持」によって、人を殺さないという選択を行います。

 しかし、それが絶対の正義であるとは思いませんし、他人にそれを強要することもしません。
 人の気持ちというものはそんなことをすれば、反発するに決まっているからです。
 ただ、そうあろうとすることは自由に私が決められます。
 (そういう自由が法によって保障されている国でよかったと思うだけですね。)
 

とぼけたいいわけを…

 投稿者:まっぺん  投稿日:2010年 6月 6日(日)09時30分17秒
  >わたしがフランス人権宣言をしたわけではありません。

自分を「自由主義者」と定義しながら「人権宣言」の標榜する自由を認めないのは
自分勝手な「自由」つまり、「ただの身勝手主義」を宣言しているだけのことだ。

「言葉」はお互いにある程度共通の認識を前提として使われている。(例外もある)
世間一般にいう「自由主義」にはちゃんと「定義」があり、伊達さんは、その「定義」を説明している。
にも拘わらずお前がこれまでのような内容において自分を「自由主義者」というならそれは
世間一般には通用しない、また「自由主義」の定義からも外れた、ただの「身勝手主義」だという事だ。
お前には「自由主義者」を名乗る資格がない、と言っているのだ。

>なのにフランス人権宣言も以って自由の定義を押しつけようとしているのは伊達さんです。

自由の定義は「すでに存在している」のであって、それを受け入れないお前は「自由主義者」ではない。

>権利が基本的に「神」に基づくものであるということが

はっはっは。またいつものコピペ知識か。
当時「人権」を定義した人々は、何か確たるものから導き出すことはできず、「神」の存在から借りてきた。
しかし、だからといって人権についていつまでも神の定義にすがる必要はない。
すでに人権は国際的に共通の認識として広く知れ渡り、「常識」となっている。
それを今更「神」など持ち出してきてどんな意味があるのかね?何もないと思うが?
ただお前がコピペしてきた知識の断片をひけらかして自慢しているだけにしか聞こえないが?

まぁ「人権思想」を拒否した上で「自由主義」を標榜するのはただのフォービズムだな。
ヤクザの殺し合いの世界が君には相応しい。とっても「自由」で人権などクソ食らえだもんな。www
 

だからずっと言っているのに

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 6月 6日(日)09時27分47秒
   問題は身内/身内外=(人/非人)の境界線にあるんだって。

 ずっと同じ問題について語ってるようなものです。

 私は私の行動については、危害原理を認めています。そして、危害原理の採用を
 停止してもよいのは危害を受けた場合であるということも。
 (だから、猫君に直接行動を取るということは正当性があると主張できる。)

 しかし、現実には危害原理を認めない人たちがいるというか、危害原理を解除し
 た方が自分にとって利得があると判断する自由人がいるわけです。

 ですから、それについては、法で公をもって対応するということ(要は暴力の解禁を
 以ってあたるってことだ。)

 ところが、法は国家が基準になります。自由もそれを説明に使おうとするとやはり「理」
 ではなく「想」なんです。

 自由を最大限の方向ではなく最小限の方向に「自らしたい」という人々がいるのです。


 なぜ「無根拠」に「危害原理」が自由に組み込まれたのか。そこに問題があるのです。
 

>人を殺す自由がある。というのが現実なのです。

 投稿者:伊達 純  投稿日:2010年 6月 6日(日)09時17分14秒
  >そうあってはならないは「想」です。

 もはやオマエとの対話は無意味であると考えたから、まっぺんさんに話をふった訳だが、そこに割り込んでくるから、言ってやる。

 人および市民の権利宣言(フランス人権宣言)の第4条において自由は「他人を害することのないもの全てを、なし得ることに存する」と定義されていることを踏まえて言葉を発すること。つまりオマエの言う「人を殺す自由」なるものは存しない。「人を殺す『自由』」とでも書くんだな。

 リバタリアン、リバタリアニズムについても同様。リバタリアニズムは「他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだとする政治思想」であるということを踏まえて言葉を発すること。「人を殺す自由」なるものを言っているオマエはリバタリアンではない。

 まず自由とは「他人を害することのないもの全てを、なし得ることに存する」という定義、そしてリバタリアニズムとは「他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだとする政治思想」という定義を踏まえ、それを前提として論理を構成すること。

 話はそれからだ。

■追記
 リバタリアニズム(ウィキペディアより)には、自然権的リバタリアン=「他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだとする政治思想」、帰結主義的リバタリアン=人を害する自由、人を殺す自由をも認めるとでも定義されているかね?w

「他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだとする政治思想」というリバタリアニズムの定義はリバタリアニズム(ウィキペディアより)の冒頭に書かれており、自然権的リバタリアニズムと帰結主義的リバタリアニズムの双方に共通する定義であるとしか読めないのだがね?w
 

フランス人権宣言を無視する自由だってある。

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 6月 6日(日)09時15分19秒
  ってことでしょ。

 自由を積極的自由だけに解釈するのは止めませんか?
 あまりにも偏狭です。自由という考えはとてつもなく制限的に使わないと難しくなる
 のは納得できます。

 しかし、やっぱり私は「積極的自由はない」と思います。「消極的自由しかない」のだ
 と考えないと現実の説明ができません。

自由
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1
 

まっぺんさんへ

 投稿者:「あ」とよばれしもの  投稿日:2010年 6月 6日(日)09時12分5秒
   さすがにそれは思考回路としておかしな話です。

 わたしがフランス人権宣言をしたわけではありません。
 なのにフランス人権宣言も以って自由の定義を押しつけようとしているのは伊達さんです。

 わたしは自由は選択枝があるかないかだといっています。行動の可能性が自由なのです。
 懲罰があるから、殺人の自由はないという言い方は自由は権利だという考えです。
 初めから自由は能力だと私は申しております。

 権利が基本的に「神」に基づくものであるということが伊達さんにはわかってらしゃらない
 ようです。(もしかして、まっぺんさんもですか?)

 私は日本の歴史の中で生存し生活してきましたから、基本的に権利という考えは考えの一つ
 であり、生存の基盤ではないと感じています。日本の文脈では所有にしても仮のもの、借り物
 としてすべての所有があるという感覚が正統です。

 「金は天下の回りもの」という誰が言ったかわからないテーゼは貨幣が社会の血液にすぎない
 という認識を日本に住む人々が江戸時代にもっていたということを示していると考えます。

 自由を能力と考えることで、自由を取り巻くおよそほどきがたかった難問がするっと無くなる
 のです。権利と考えれば平等が求められなければなりません。しかし、能力と考えれば、端か
 ら平等ではないのです。むしろ、平等に保障されることで困窮する人々だっているのです。
 しかし、能力ならトレーニングすることができます。トレーニングする気になれば。自由にな
 ろうとすれば人は自由になれる。

 権利と考えるよりも遥かにポジティブだと思うのです。

 あと「フランス人にも…」の件は余計に私の「人を殺す自由がある」むしろ、「法は仲間を殺すな。敵を殺せ」と言っているということの補強です。

 人権宣言によって多くの混乱を起こし、世界史的な展開において遅れた国を生み出した「人権思想」には懐疑的どころか、誤謬だと思ってますよ。マルクスの労働価値説ぐらいに誤謬です。

 何しろ当のフランス人自体がこの宣言を絶対だとは思ってないんです。
 

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