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下落合が気になったわけ・再び。 [気になる下落合]

 

 下落合の風情が、やたら気になるきっかけとなったドラマに、1973~74年にNTVで放映された『さよなら・今日は』Click!がある。その関連記事Click!を含め、寄せられた『さよなら・今日は』に関するコメントが、合わせて130コメントをゆうに超えているのに改めて驚いてしまった。下落合を舞台にしたこの作品を、みなさんが非常に印象深く憶えていらしたのだ。CSでの再放送をめざして、いま、たくさんの方々がアプローチしてくださっている。
 高校生のころに、この作品を録音したカセットテープがどこかにしまってあったので、ゴソゴソ探しまわって引っぱり出してきた。もちろん初回放送のときではなく、1976年前後に再放送されたときに改めて全話を録音したものだ。わたしがドラマを録音したのは、これが最初で最後だったので、それほど当時は強い印象を受けたのだろう。ビデオがいまだ、家庭に普及していなかった時代のお話。当時の新書サイズほどもあったウォークマンを、TVに接続して録音していたのを憶えている。
 いま、改めて全26話を聴きなおしてみると、ドラマのストーリーよりも背景から聞こえてくる、下落合に響いていたサウンドが気になる。当時の西武新宿線の警笛や走行音だったり、踏み切りの警報機の音、落合第四小学校のチャイム、十三間通りを走る救急車のサイレン、商店街の年末福引セールの放送、宣伝カーのアナウンス、樹木をわたる小鳥のさえずり(ドラマの季節設定からヒヨドリが多い)、ゴーッと通奏低音のように響く新宿一帯のノイズ、公園で遊ぶ子供たちの歓声、建築工事や道路工事の音・・・などなど、1970年代の下落合で採集された環境サウンドが横溢していて、当時の情景がわたしの脳裡にまざまざと甦ってくる。
  
 テープケースには、高校生のわたしのヘタな字でメモが残っていた。それを見ていて気づいたのは、このドラマには当初サブタイトルが存在せず、途中の第6回目から付けられるようになったらしいことだ。この際だから、そのデータを列挙しておきたい。

 下落合をロケ地にしたドラマの記事に、これだけのアクセス(最初の記事は8,000アクセスを超えている)やコメントが寄せられるということは、なんとなく2匹めのドジョウを狙いたくもなってくる。下落合はドラマやCMでもよく使われる界隈なので、おそらくネタには困らないだろう。わたしが知っている限り、この10年の間には1998年に放送された御留山直近の『眠れる森』(木村拓哉/中山美穂)と、2000年の旧・学習院昭和寮へロケした『やまとなでしこ』(松嶋菜々子/堤真一)というドラマが撮影されているけれど、わたしは残念ながら両作品ともまともに観ていない。当時は小中学生だった、オスガキたちの見学話を聞いているだけだ。
 
 『さよなら・今日は』から30年余、下落合はずいぶん変わったところもあれば、まったく変わらないところもある。家々や緑地の風情はずいぶん変わったが、御留山では水量が減ったとはいえ、相変わらず泉が湧きつづけている。新宿で、おそらく唯一残った湧水源だろう。目白崖線から新宿方面を眺めれば、西口の高層ビルは激増しているけれど、手前を走る西武新宿線や神田川の風情、氷川明神社のたたずまいは変わらない。ドラマのタイトルバックに使われた、東京富士大学(当時は富士女子短期大学)の時計台Click!もそのまま健在だ。
 テープの音だけを聴いていると、この30年で下落合からなにが「さよなら」して、なにが「今日は」したのかを、危うく忘れてしまいそうな錯覚におちいる。・・・さて、いまの下落合のサウンドを聴きに出かけよう。きょうは、下落合のどの坂道を歩こうか?

■写真上は、下落合2丁目にある現在の高田馬場住宅から丘上の日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮)を眺めたところ。は、ドラマのタイトルバックのひとつにも使われた1974年の同住宅。
■写真中:高校時代に再放送を録音した、『さよなら・今日は』のカセットテープ。日付メモは、初回放送のタイムスタンプ。から第1回、第13回「女同士」、第26回(最終回)「別れも楽し」。
■写真下は、御留山の森を背景に相馬坂で撮られた『さよなら・今日は』の広報スチール。右から、緑役の中野良子、夏子役の浅丘ルリ子、愛子役の栗田ひろみ。ドラマでは、吉良家の家族は目白駅ではなく、高田馬場駅を利用する設定だった。は、柵がやや低くなった撮影場所の現状。

『さよなら・今日は』予告編
 落合第四小学校沿いの相馬坂を下る3姉妹の会話、おとめ山公園の小鳥のさえずり、西武新宿線が山手線ガードをくぐって加速する走行音、クルマのクラクション、十三間通り(新目白通り)の道路工事の音・・・、1973~74年にかけ下落合で繰り広げられた物語は、すべてここからはじまりました。

 (Part1)
 (Part2)
 (Part3)
 (Part4)
 (Part5)
 (Part6)
 (Part7)
 (Part8)


井上哲学堂にやっぱり出たんです。 [気になるエトセトラ]

  

 いくらカメラを向けても、はっきり写らない被写体がある。わたしの撮った写真では、オーブClick!は比較的はっきりと写るけれど、幽霊さんはサッパリとらえられない。夢二と下落合を散歩した、笠井彦乃さんの「ゆふれい」Click!はコメントを寄せてくださったけれど、いまだ写真には姿を見せてはくれない。同様に、哲学堂Click!の幽霊さんを写そうとがんばってみたのだけれど、どうしても鮮明に撮影することができないのだ。
 こんなことを書くと、とうとうChinchiko Papalogはイカレちゃって、心霊サイトになってしまったのだ・・・と思われるかもしれないが、井上哲学堂(現・哲学堂公園)の哲理門にある幽霊像が、うまく撮れないのだ。イタズラされるといけないので、細かな目の金網がかぶせられているせいもあるのだろう。この前も挑戦したのだけれど、うまく撮影できずに白っぽくぼんやりと、まるで幽霊のように写ってしまった。・・・あ、幽霊さんか。(爆!) 幽霊のお姉さんの隣りには、天狗のおじさんもいるのだが、こちらも撮影がむずかしい。今度、昔の一眼レフカメラシステムを引っぱりだして、重装備で挑戦してみたいと思っている。
 この哲理門に並ぶ幽霊像と天狗像は、哲学者であり哲学館(現・東洋大学)の創立者である井上円了が、彫刻家に発注してこしらえさせたものだ。1904年(明治37)に完成した哲学堂を訪れると、寺の山門で迎える仁王像のごとく、幽霊さんと天狗さんがお出迎えしてくれる。いくらチャレンジしても、ロングヘアで細面な幽霊のお姉さんは恥ずかしがりやなのか、なかなか鮮明に姿を見せてくれないので、制作された当初の写真を手に入れた。井戸からおでましの彼女の様子は、応挙以来の足がなくて日本標準の姿をしているのだけれど、当初は美しく(?)彩色されていたのが見てとれる。現在の彼女は、残念ながら色がかなり褪せてしまい(年を取ったという意味でなく)、よりすさまじいその様子は、ますます幽霊のようになってきた。・・・あ、幽霊さんだ。(爆!)
 
 井上円了は、ほんとうに幽霊やお化けの類が、わたしと同様に大好きだったらしく、彼らに愛情さえ感じていたようだ。ついでにといっては失礼だけれど、哲学堂公園の向かいにある荒玉水道Click!水道タンクClick!の隣り、蓮華寺へ寄ってきた。井上哲学堂の主、井上円了の墓を見るためだ。山門を入って左手にある、その墓石のかたちがすこぶるふるっている。「井」の「上」に「円」が載って、「了」(しまう=死んでいる)という、まるで江戸下町のシャレとばしだ。本人が指示をして、生前にデザインを決めていたのだろう。
 落合地区とその周辺には、幽霊やお化けをめぐるフォークロアがごまんと眠っている。目白は『東海道四谷怪談』の舞台Click!だし、面影橋の南蔵院と下落合は『怪談乳房榎』の事件現場Click!そのものだ。でも、中にはかわいそうな幽霊さんの話もある。昭和初期、上落合の廃屋に現れた女性の幽霊は、宵の口から界隈をのんびり散歩していたところ、お遣い帰りの子供に発見されて石をぶっつけられ、シクシク泣きながら閉じられた門から廃屋の中へスッと吸いこまれている。きっと、哲学堂の哲理門に住みついた幽霊さんのような風情だったにちがいない。めったにお目にかかれない稀少な存在なのに、どうしてもっと大切にしてあげないのだろう。
 
 わたしが出かけた日、哲学堂は各建築の開放日だったようで、主要な建物のほとんどを中まで見学することができた。さっそく、六賢人を奉る六賢台へと登ってみる。昔は樹林が低く、かなり遠くまで見わたせたのかもしれないが、現在では大きくなった樹木に視界を邪魔されて、ほとんど見晴らしがきかない。それでも南側のバッケ(崖線)側は、ほんの少しだが見透かすことができた。木々の葉が落ちる冬場なら、妙正寺川をはさんで上高田をはじめ、葛ヶ谷(西落合)から下落合(中井2丁目)の目白崖線を見わたせるかもしれない。そして、昔ながらに富士山Click!も見えるだろうか?
 妙正寺川へと抜ける、バッケに通う「経験(唯物)坂」を弁証法的に折れ曲がりながら「唯物園」へとくだり、それと東西で対峙する「唯心庭」の「観念亭」をへて、葛ヶ谷御霊神社へと抜けてきた。(メチャクチャでわけがわかんないし(^^;) 幽霊のお姉さんよりも、井上円了のアタマの中のほうが、よっぽど怖いかもしれない。

■写真上は、明治末から哲理門に住む幽霊のお姉さん。は、やってきたばかりのころの若い(?)彼女。は、世界一周旅行の途中、カルカッタで撮影された若き日の井上円了。
■写真中は、哲学堂の真向かいの蓮華寺にある井上円了の墓。は、できたばかりのころの井上哲学堂。崖線下に拡がる上高田の農地から、丘上に建ち並ぶ哲学堂の全景を眺めたところ。
■写真下は、開放されていた六賢台。は、最上部から時空岡や四聖堂あたりを眺める。


新吉原の「お上がりなさいませ!」。 [気になるエトセトラ]


 八丁土手(日本堤)から、新吉原界隈を散歩してきた。さすがに親父は、子供のわたしを連れ歩いてはくれなかったエリアだ。見返り柳を左手に見ながら、元は編笠茶屋の並んだ「五十間」を通り、おはぐろどぶを越えて大門をくぐった(つもり)。江戸期の黒塗りの大門は、1881年(明治14)にアーチ型の鉄門へと造りかえられたが、大震災以降は照明が載るただの門柱となっていたらしい。もちろん、現在はおはぐろどぶも門も存在しないし、わたしも実際に見たことがない。
 大門をすぎると、引手茶屋がズラリと両側に並んで・・・なくて、柳並木の仲の町(新吉原メインストリート)が、突き当たりの吉原神社や弁天池(花園池)跡のあたりまで通っている。関東大震災のとき、新吉原の南側にあった弁天池へ娼妓たちが殺到し、500人近くが死んだ話は、さすがに親父から聞かされて知っていた。さて、仲の町を歩いていて意外だったのは、乳母車を押した女性や子供たちがふつうに歩いていることだ。一時期のソープランド街と化した面影さえ、いまやなくなりつつある。大門脇にはampmが、仲の町のまんまん中にはサンクスだって開店しているのだ。
 
 いまだ、さまざまなそれらしい看板があちこちに出ているけれど、店名から上のショルダーがすべて削除されている。たとえば、「ソープランド江戸紫」とか「ファッションヘルス小百合」という看板だったのが、「○○○江戸紫」や「○○○小百合」というように、風俗店を思わせるような部分がいっさい消されてしまった。おそらく、周囲の住宅街や学校を意識して配慮した、商店組合の申し合わせなのだろう。だから、ただの店名だけの看板となり、いったいなんの店か一見してわからない。夜間、この場所が新吉原だと気づかない人がブラブラやってきて、「おっ、寿司屋発見、江戸紫とくらぁ」とか「あそこの小百合ってバー、入ってみようか」などということもあるのではないか?
 
 仲の町の並木は桜と決まっていたのに、いまではなぜか柳に植えかえられている。ここの桜並木を描いた浮世絵や図絵、あるいは芝居の書割は数知れない。仲の町を書割にした芝居に、河竹新七(黙阿弥)の『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ・さとのえいざめ)』(通称「籠つるべ」)がある。絹商人の次郎左衛門が、兵庫屋の遊女・八つ橋のもとへ通いつづけ、あげくの果てには「大っキライ!」と愛想をつかされる芝居。八つ橋と兵庫屋を恨んだ次郎左衛門は、ついに名刀「籠つるべ」をひっさげて兵庫屋へと斬りこみ、遊女たちを殺傷するという筋立てだ。この芝居、実はほんとうに新吉原で起きた事件を題材にしている。以前にも書いたけれど、江戸期には大刀や脇差を所有していたのは、なにも武家ばかりとは限らないClick!のだ。おそらく、このような痴情話は戦後すぐのころまで、この街のあちこちに転がっていただろう。

 桜並木の仲の町ならぬ、柳並木をブラブラ歩いていたら、いきなり右手の建物から真っ白いワイシャツに黒づくめ姿のボーイが出てきて、客とおぼしき中年の男性を、迎えのワゴン車へとすばやく誘導する。「お上がりなさいませ!」と、ボーイは客に最敬礼した。「お帰りなさいませ!」は、秋葉原のメイド喫茶の迎え言葉だけれど、新吉原では以前から「お上がりなさいませ!」が客への送り言葉らしい。確かに、「風呂」から上がったばかりなので、「お上がりなさいませ!」なのだろう。いや、それともなにかを「召し上がった」からなのか?(爆!)
 そして、仲の町通りに停められたワゴン車は、その店が手配りした辻駕籠ならぬ、最寄り駅へと客を送迎する、どうやら“シャトルバス”らしいのだ。お昼すぎのやたらまぶしい新吉原、「お上がりなさいませ!」は一度きりしか聞こえなかった。

■写真上:新吉原の仲の町通り。桜並木が“お約束”なのだが、いまでは柳が植えられている。
■写真中上は、見返り柳を左に見て・・・。は、1950年(昭和25)ごろの見返り柳。八丁土手(日本堤)通りから見た光景で、左へ曲がるとおはぐろどぶ、大門から仲の町へとつづいていた。
■写真中下は、1853年(嘉永6)作成の尾張屋清七版・切絵図「今戸箕輪浅草絵図」。は、安藤広重が描いた『名所江戸百景』の第38景「廓中東雲(かくちゅうしののめ)」(部分)。手前に見える桜並木の通りが仲の町で、正面に見える小路は江戸町のいずれかの丁目だと思われる。
■写真下:黙阿弥作の『籠釣瓶花街酔醒』(通称「籠つるべ」)の舞台写真。昭和初期の撮影で、右のうしろ向き次郎左衛門は二代目・市川左団次、左の八つ橋は二代目・市川松蔦。書割には、引手茶屋がズラリと並ぶ仲の町通りが描かれている。このふたりの役者は、稀代の名コンビとして絶賛されたが、くしくも1940年(昭和15)にふたりとも相次いで病没している。


「東亜同文書院大学」展へ出かけた。 [気になるエトセトラ]

 近衛篤麿の号である“霞山(かざん)”の名称を冠した、東亜同文会Click!の後継団体「霞山会」の新ビルが完成した。もともとは、1928年(昭和3)に建設されたモダンなデザインの建物だったのだけれど、東京オリンピック(1964年)の直前に解体されている。そのあとにできた旧ビルも壊され、霞ヶ関コモンゲート(霞ヶ関3丁目)として建て直された。霞山会館は、その西館の最上部に入っている。ビルのオープニングとともに開かれた、愛知大学Click!の「東亜同文書院大学」展示会へ出かけてきた。午前中のオープン直後にもかかわらず、たくさんの方々が見学にきていた。
 まず、展示を見ていて驚いたのは、明治期に日中貿易を推進していた岸田吟香が、東亜同文会の設立時に深く関わっていたことだ。岸田吟香は、明治の早い時期から有名な銀座の目薬屋さんで、もちろんこのサイトでも頻繁に登場している岸田劉生Click!の父親だ。岸田は医薬品を販売するだけでなく、日中貿易の振興と「日中提携論」を提唱して、日清貿易研究所などを通じ東亜同文書院の設立へ積極的に参画したようだ。
 
 もうひとつ、現物を見てびっくりしたのは、上海の東亜同文書院Click!の学生たちが企画した「大旅行」のレポート。以前、資料で読んで知ってはいたが、実際に拝見するのは初めてだった。「大旅行」とは、日本人留学生がテーマを決め、それにもとづいて中国全土で取材調査を行う「研究旅行」のようなものだ。軍閥が割拠していた当時の中国では、当然ながら命がけの旅行となる。その膨大なレポートの一端を拝見したとき、その緻密な調査と研究に舌を巻いてしまった。旅行記などというレベルではなく、当時の中国を詳細に知ることができるデータベースそのものだ。中国へ侵略をつづけた陸軍が、これら資料の貴重性に目をつけ流用したこともあったらしいが、今日から見れば中国現代史のかけがえのない一次資料となっている。
 
 出口近くで近衛篤麿と文麿の書幅を観てから、資料販売コーナーで愛知大学が出版した書籍類をめくっていたら、急にわたしの名前が呼ばれた。驚いて横を見やると、わたしが呼ばれているのではなく、展示会にみえた方へわたしの名前をお話されているようだった。一瞬、同姓同名かと思ったけれど、東京同文書院Click!という名称が出たので間違いないと思い、「はい、それはわたしです」と申し出たら、にわかにワーッと盛り上がってしまった。このサイトにもおみえになった、愛知大学の成瀬さよ子様とかたい握手。
 成瀬様とお話されていた相手の方は、お父様が東京同文書院=目白中学校Click!で国文の教師をされていた方のお嬢さんだったのだ。下落合の東京同文書院=目白中学校の跡地には、記念碑もなにも残っていないので、どのあたりにあったのか調べてもおわかりにならず、この展示会でなにかわかるかもしれない・・・とおみえになったらしい。そこで、成瀬様はわたしのサイトをご紹介くださっていたというしだいだった。わたしは、ブログの名称をお教えしたところで、さっそく笑われてしまった。どなたも、Chinchikoナントカいういかがわしい名前のサイトに、東京同文書院や東亜同文書院のことが掲載されてるなんて、夢にも思われない。(爆!) でも、下落合は「杏奴」Click!発祥のこのネーム、わたしはけっこう気に入ってるんですけどね。(^^;
 
 成瀬様より、ご自身が編纂された『東亜同文書院関係目録』(愛知大学・2004年)をいただいた。東亜同文会や、上海の東亜同文書院に関連する書籍や資料類をまとめられた、たいへんな労作だ。現存する主要な資料のほとんどが、網羅されているといってもいいだろう。今後、このテーマについて調べるときに、ぜひ参考にさせていただこうと思う。成瀬様、ありがとうございました。

■写真上:旧・霞山会館の跡地にオープンした、37階建ての霞ヶ関コモンゲート西館。左手に見えているビルが、“超高層のあけぼの”で有名な霞ヶ関ビル。
■写真中上は、東亜同文会の設立に関わった岸田吟香。は、上海にあった東亜同文書院。
■写真中下は、「東亜同文書院大学」展示会に設けられた、東亜同文会の創立者・近衛篤麿コーナー。は、1963年(昭和38)ごろに姿を消したモダンな旧・霞山会館。
■写真下は、成瀬様の『東亜同文書院関係目録』。は、近衛篤麿(左)と文麿(右)の書幅。


伐折羅大将の石膏マスクもあるの!? [気になるエトセトラ]

 仕事が重なり、原稿を書いてる時間がなかなかとれなくなってしまった。(汗)
  
 いまから考えると、小学生のわたしはどうかしてたとしか、あるいはちょっとおかしいとしか言えない子供だった。文楽のガブ頭Click!が「ほっし~っ!」と言ったかと思えば、伐折羅大将(新薬師寺)か龍燈鬼(興福寺)が「ほっし~っ!」と言ったりする子供だった。怖さの中に、どこか親しみやすさやユーモラスな匂いのするものが好きだったのだろうか? もっとも、伐折羅は決してユーモラスではない。やがて、伐折羅大将がわが家へやってきた。
 当時、美術誌などの通販カタログでは、当時としては先端素材だった特殊プラスチックを用いた、精巧でホンモノそっくりな仏像の実物大レプリカ販売がブームになっていた。さまざまな仏教美術のレプリカに混じって、伐折羅と龍燈鬼がいた。龍燈鬼は全身像だったけれど、伐折羅大将はもちろん全身ではなく、肩甲骨から上あたりの首像で、しかも前半分をタテに輪切りにしたような壁に架けられる実物大レプリカだ。塑像の表面の、剥離や瑕までが忠実に再現されている。龍燈鬼は、時代色までそっくりに作られた実物サイズのすばらしい出来ばえだった。当時の価格で、伐折羅は6千円、龍燈鬼は5万円ほど。いまの価格に換算すると、それぞれ6万と50万ぐらいだろうか?
 わたしが安いほうの伐折羅を「ほっし~っ!」と言ったら、自分で買えと言われてしまった。それから2年近く、正月を2回はさんで小遣いを必死で貯めつづけ、とうとう小学5年生のころ伐折羅を手に入れることができた。でも、いとしの伐折羅はなぜかわたしの部屋には架けられず、「居間に架けてみんなで観よう」ということになってしまった。それ以来、クワッと口を開けてあたりを睥睨する伐折羅は、宿題をまったくせず学校へ遅刻しそうなわたしをにらみつづけ、家へやってきたお客たちに強烈な印象を残したようだ。ほかにも、親父がどこからか求めてきた広隆寺や中宮寺の弥勒や、戒壇院の増長天(わたしはスーパーボールをぶつけて、これを割って壊した/爆!)などもあったけれど、実物大でそっくりなレプリカは伐折羅だけだったから、わたしは得意になっていた。
 わたしが壁の伐折羅を見あげながらウキウキしていたころ、この像は伐折羅大将ではなくて迷企羅大将だ・・・という論争がどこかで行われていたのを、親父の話として記憶している。当時は、文化庁の国宝登録の記録をベースに、「寺の伝承が間違ってる」なんてことだったのかもしれない。権威あるエライ学者センセたちが集まって、国宝登録の際に規定した名称だから正しい・・・とされたのだろうか。そんな簡単お手軽に、地元に連綿と伝わる寺伝の像名を、変更して規定してしまってもいいのかな? 地元や地域の伝承を無視して、「官」や「公」が“歴史”を作り上げるのは、別にいまに始まったことではない。いまでも、新薬師寺では寺伝の表記をそのまま踏襲しているが、国立博物館あたりで国宝展などが開かれると、伐折羅大将はいきなり迷企羅大将へと改名されてしまうのだろうか?
 
 以前、会津八一Click!が所有していた救世観音(法隆寺夢殿)の石膏型マスクClick!について書いたけれど、さらに信じられないことに、新薬師寺の十二神将像の石膏型マスク(!)が存在するというのだ。十二神将は塑像だから、顔に粘土をかぶせてしまったらダメージは救世観音の比ではない。石膏型が取られたのは戦前、新薬師寺の尼僧をたらしこんだ美術愛好家(ちなみに会津先生ではない、念のため)、十二神将の顔に粘土をかぶせてしまった。新薬師寺の大ファンだった相馬黒光は、『黙移』(法政大学出版局/1977年)の中でこんなことを書いている。
  
 (前略)十二神将は薬師如来の周囲にあって守護神として立っているものだと聞いておりますし、また、この寺は元来尼寺ではなく東大寺の別寺で、ある時代に定まった住職がいないで、留守番として円頂の婦人が住職の代わりをしていたのだということ、無論そういう時には若い尼僧の姿も見られておのずとそこに和辻氏の観察を導くものもあったでしょう。私もある美術家が若い尼さんをそそのかして十二神将の二、三点を石膏にとり、その祟りで狂人となって死んだとかいうロマンスも聞いておりますが、もともと尼寺ではなく、現に数年前から福岡隆聖氏(旧姓田島)が住職をしておられるのであります。 (同書「仏像礼賛」より)
  
 和辻哲郎の『古寺巡礼』(岩波書店/1919年)の新薬師寺に関する記述を批判して、黒光が1936年(昭和11)に書いた文章だけれど、彼女は特に「静坐」している岡田虎二郎Click!にどこか似ている(?)薬師如来像を気に入っていたようだ。お目めパッチリの新薬師寺本尊は、確かにちょっと他には類例のない特異な表情をしている。さて、ここに書かれている「十二神将の二、三点」とは、はたしてどの像のことだろうか? おそらく、もっとも人気の高い伐折羅は入っていたのではないか。
 
  ちかづきて あふぎみれども みほとけの みそなはすとも あらぬさびしさ (秋艸道人)
 わが家にやってきた伐折羅大将は、その後どうなってしまったのだろうか? 学生時代に親から独立するとき、持って出るのを忘れた。そのまま親父が棄てずにいたとすれば、いまでも箱に入れられてどこかに仕舞われているはずだ。今度、休日にゆっくり伐折羅探しでもしてみよう。

■写真上:顔の右半面よりも、左半面の表情(剥落含め)が好きな伐折羅(バサラ)大将。
■写真中が、連綿とつづく地元の寺伝を尊重すれば伐折羅大将。が、こちらも一方的に因達羅(インダラ)と規定され、神(かん)違いされているような迷企羅(メキラ)大将。
■写真下は、お目めパッチリの薬師如来本尊。は、新薬師寺の本堂大屋根。いずれも、親父の古いアルバムにはさまっていた写真だが、建築の様子を見ると、いまだ修理前のポロポロの状態なので、戦前かあるいは戦後すぐのころに撮影されたものだろう。