池田信夫 blog

Part 2

2010年06月03日 17:09
法/政治

前例主義と未来志向

今週のニューズウィークに書いたように、鳩山政権の破綻は、首相の優柔不断な性格もさることながら、内閣制度の欠陥によるところも大きい。しかし首相官邸の機能を強化しても、前例を極端に重視する霞ヶ関の風習が直らないと、このような悲劇が繰り返されるだろう。

経済学では前例(sunk cost)は無視して未来志向コスト(forward-looking cost)だけを考えろと教えるが、法学では逆に前例を守るべきだと教える。特に最高裁の判例には法律と同じぐらいの重みがあり、たとえば解雇についての最高裁判決は下級審の基準となる。解雇の違法性についての解釈が裁判所によってまちまちだと、訴訟が頻発してビジネスに支障をきたすので、判例は法的な予測可能性を高めて不確実性を削減するのである。

官僚の行動様式も同じで、各省折衝で法律が経済的に正しいかどうかを議論することはなく、「前例ではこうなっている」というのが論争に勝つ最大の武器だ。このように法律やその解釈が安定していると、それにもとづく行政指導もやりやすい。

これに対して経済学では予測可能性は100%だと考え、不確実性も確率的に計算可能だと仮定し、時間整合性を重視して期待効用を最大化する。たとえば

企業が労働者を雇用するとき、解雇規制が強いと採用を抑制する
→労働需要を増やすためには雇用コストを下げる必要がある
→雇用コストを下げるためには解雇を容易にする必要がある

と結果から遡及し、規制改革によっていま雇用されている労働者が解雇される短期的コストと、労働需要が増えて生産性が上がる長期的便益のどちらが大きいかを考えて政策を決める。ところが、こういう後ろ向き推論は経済学のトレーニングを受けていない人にはひどくむずかしいらしく、先日は公明党の国会議員に説明しても納得してもらえなかった。

これはGilboaも指摘するように、われわれの脳が後ろ向き推論に向いていないからだろう。進化の過程で生き残るためには目の前の敵にどう対処するかがすべてで、その結果が長期的にどうなるかを考えるようには人間の脳はできていないのだ。状況が大きく変わらないかぎり従来の行動様式を守ることは、認知コストを節約する上でも合理的である。

他方、経済学では未来の予測可能性は100%だと考え、不確実な出来事についても事前確率は既知だと想定するが、これは心理的には不自然だ。このため政治家も有権者に迎合して、時間非整合的なバラマキを約束する傾向が強い。首相を苦しめたジレンマは、前例を踏襲する前向き推論(進化的合理性)と未来志向の後ろ向き推論(論理的合理性)の矛盾といってもよい。

このように矛盾した約束をあちこちにして、それが守れなくなったときはトップの首をすげ替えるのが日本的な約束を破るメカニズムだが、このコストは非常に高く、政治への信頼を失わせる。予測可能性と時間整合性のどちらを重視するかはケース・バイ・ケースで、法的な「事後の正義」も無視できないが、前例を踏襲しすぎると環境変化に対応できなくなるので、バランスが重要だ。少なくとも官僚は前例だけでなく、未来のコストも考えてほしい。

まして民主党の政治家は、政権交代したのだから自民党時代からの約束はリセットして、サンクコストは忘れるべきだ。事業仕分けは、従来の増分主義的な査定ではなく、未来志向のプロジェクト評価の実験として意義があった。それが鳩山政権で評価された唯一の政策だったことは、今後の政権運営にも大きな教訓となろう。

トラックバックURL

コメント一覧

  1. 1.
    • jestemneko
    • 2010年06月03日 17:36

    鳩山内閣の挫折の原因は、シンプルに、普天間問題でしょう。普天間問題を前例主義か未来志向かの問題に置き換えてもしょうがないと思います。結論は、小沢総理ならあるいは解決していたかもしれない、でしょうねえ、、、
    全体として、民主党のベテラン政治家や中堅政治家は力量不足。政治家の資質という点で言えば、小沢チルドレンのほうが優れている、というのが私の認識です。
    当面、国民は今の状況に耐えないといけない。夏の参院選後に大きな変動は起きません。政界再編のような変動が起きるとすれば、来年の統一地方選後になるでしょう。

  2. 2.
    • jij999
    • 2010年06月03日 17:56

    >首相を苦しめたジレンマは、前例を踏襲する前向き推論(進化的合理性)と未来志向の後ろ向き推論(論理的合理性)の矛盾といってもよい。

    game theoryのBackward inductionですか。

    要するに、約束の破り方。埋蔵金を数十兆円溜め込んでるとか、特別会計の予算組み替え・ムダがどうとか、金融資産1400兆円・・・とかアホなことを言って約束を破っても、混乱するだけ。

  3. 3.
    • taru77
    • 2010年06月03日 18:09

     まさにバランスだと思います。
     裁判所も未来を考えて判断を下す事はありますが、それが経済の分野では、上手く発揮されていないだけです。
     裁判というのは白黒付ける場ですから、線引きの必要性から、法律家は得てして「どちらが弱者か」ということに囚われやすく、労働者や賃借人といった「弱者」を場当たり的に保護する判決を下し続けてきました。
     しかし、最大の戦犯は、その司法によるアドホックな判断をおっしゃるところの「前例」として過剰に意識し、修正することなく黙って従ってきた立法府だと思います。
     裁判所に機会の平等を重視する判決を出させることは現実問題として難しく、むしろそのような裁判所の欠陥を補う義務が、まさに立法府にあるのではないでしょうか。

  4. 4.
    • jestemneko
    • 2010年06月03日 20:23

    経済学者さんたちは、あきらかに普天間問題が大きいというのに、まともに「普天間」という言葉を使わないでいる。それでは、政治家は経済学者を信用しないでしょう。政治家の中にも、経済通と称する連中にそういうのがいるので、困ったものだと思いますけど。軍事や外交は専門外であっても、普天間については、しっかり考えてものを言わないといけない。
    たとえば、「結論を半年延期すべし」でもいいわけです。よく、アメリカの関与が指摘されていますが、それはちがう。アメリカ合衆国政府は、普天間問題が日本の政権に影響を及ぼすことをもっとも恐れています。なぜなら、普天間問題が倒閣の原因になったと知れ渡れば、日米だけでなく、他国との同盟関係も揺れるからです。アメリカ合衆国政府が結論の半年延期を拒絶するとは考えにくい。

  5. 5.

    鳩山政権・民主党の失敗は、馬鹿と貧乏人を喜ばせることばかり言って選挙に勝ったことではないかと思う。
    民主の公約聞いて実現できると思った奴らは相当馬鹿である。
    いくつか強制的に実施されていますが、失敗であることは多くの人が気づいているはずです。
    ハッキリ言って、この国の半分以上が、民主を支持したということが、この国の一番の問題ではないでしょうか。
    この国の半分以上の有権者は、真実と嘘(無理な約束)の見分けもつかず、目先の利益に飛びつく馬鹿であるということです。

  6. 6.
    • tk856331
    • 2010年06月04日 05:19

    中国が大量のアメリカ国債を保有しています。
    中国が仮想敵国ならば、敵に借金をして軍隊を維持していることに?
    アメリカ経済は軍事産業が肥大化し過ぎて大量の国債を発行しなければならなくなっていなせんか?
    アメリカ経済は構造改革が必要ではないでしょうか?

  7. 7.

    普天間問題が直接の原因だったとしても、そして仮に普天間問題でデッドロックを続けていても、鳩山政権が維持できるとは考えにくい。

    普天間に限って言えば、鳩山が選挙のために嘘をつき、社民党とのチキンレースの中でブレた首相がブレない福島を罷免した。結果、反米票と沖縄票と300万と言われる社民票を失った。それだけのことですね。これは「首相は嘘つきだ」ということ以外、大勢には影響ありません。

    根深い問題は、選挙公約の中でできもしないバラマキを約束し、そのための財源はいくらでもあると豪語していたが、まるでできていないことです。

    そして、有権者が望んでもいない郵政逆戻しを無理押ししている。郵政民営化に反対だったと言った時の麻生総理もあの時一気に支持率を落としたが、まるで学んでいませんね。

    もっというと、有権者が何が何でも自民党を落としたかったのは、天下りと年金問題です。農業のバラマキなどより年金は死活問題と考える人は多いですからね。本当は年金で若者が怒り狂うべきですが、そこまでいってないのがちょっと寂しい。それはそれとして、年金と天下りを解決するどころか何もできていない、天下りに至っては後退してしまった。これへの怒りが大きいのではないでしょうか。

  8. 8.
    • nkjm
    • 2010年06月04日 10:04

    法学的な政策立案傾向と高級官僚の多くが東大法学部出身というのと関係があるのでしょうか…。

    あと、行政組織の現場でも前例主義は徹底されていいて、これはきっと公務員(を目指す人も含む)の性格と深く関わっているのでは?と思ったこともあります。

    公務員制度の問題が出口(天下りなど)だけで論じられてますが、入り口を変えることも必要と感じます。

  9. 9.
    • worldcomw
    • 2010年06月04日 12:13

    官僚が前例主義なのは仕方無いですが、未来志向がゼロなのが問題です。「前例」を全て公開・電子化して、進行中の事案との照合作業を標準化して外注してしまえば、官僚の仕事は時間にして99%、労力にして98%は削減可能でしょう。意思決定が100倍速くなり、(能力的な問題は別にすれば)98%の官僚が「未来志向」の業務に取り組めます。

    まあ夢物語ですね。

  10. 10.
    • poiu07
    • 2010年06月04日 12:14

    まあ鳩山の挫折は予想通りですね。
    というか私が衆院選前くらいに言った事そのままですね。
    衆院選では大勝するが、参院選では民主は大敗し、その三年後の後衆参同日選挙で自民返り咲きと。ただ予想以上に支持率が下がり、鳩山が辞めたので少し読めなくなりましたが。

    ちなみに自民が国民から拒絶されたというわけではないと思いますね、前回の選挙で麻生が獲得した票は、小泉が05でたたき出した票に次二番目です。
    一回やらせてみよう、利権が断ち切れるかな?という期待が大きいかなと。

    鳩山政権の選択肢は三つしかなかった、公約を破って非難されるか、現実的な選択をするか、無理やり公約を守るかです。
    公約を破った場合、次の選挙では何を書いても信じてもらえません、現実的な政策をした場合自民党がやってきたことと大差なくなります。参院選を前にしている以上、無理やり公約を守るしか選択しはありません。
    これは民主党の政策全てに言えることですから、ほとんど詰んでいるんですよね。

  11. 11.
    • poopiang
    • 2010年06月04日 22:16

    小学生みたいな発言になることを承知であえて言うと、「日本人の多くは政治家は誰がなっても同じだ」と思っているでしょう(これが若者の投票率が低い原因の1つでもある)。
    どうして政治家に魅力がないかと言えば、競争原理が働いていないように思います。普通の(競争に参加している)企業だったら絶対に起こさないようなことを、政治家は簡単に起こす。その原因には保身しやすい構造を持続的イノベーションで築き上げてきた背景があり、それを捨て去る「改革」は、誰も成し遂げられない状況に陥っている。

    次の総理大臣はダメダメの菅さんなので、ますます国民は「良いことよりも悪いことを多く起こすようなら、もう政治家はいらないや」と思うようになるでしょう。私も、総理は短命で終わってほしいと願うことが多くなりました。

  12. 12.
    • jestemneko
    • 2010年06月04日 22:56

    poiu07さん、前回衆院選で自民党が大敗した原因は、指揮系統の喪失です。指揮系統を喪失したため、小沢さんに各個撃破されてしまった。指揮系統がしっかりしていても政権交代は起きたでしょうが、200以上の議席を維持できたはずです。
    前回参院選も各個撃破されてます。今度の参院選、逆に自民党が民主党を各個撃破できるかどうかですが、今の執行部ではたぶん無理。今度の参院選、さほど大きな変化にはつながらない。民主党が、公明党ではなくみんなの党との連立を模索する、という程度の変化しか起きないでしょう。

  13. 13.
    • maltcask
    • 2010年06月05日 12:31

    毎回哲学的な深みのある指摘は他に類例が無く、世の中の見方の参考にしていますが、今回はちょっとわかりにくかったです。
    規制改革と労働需要の関係が公明党の国会議員たちには納得してもらえなかったというのは、「後ろ向き推論」とかの問題じゃなくて、納得しちゃうと現状の支持者に対立することになるからなのだと思います。
    企業経営者が解雇規制が強いと採用を抑制するとすれば、それは単純にソロバン勘定からなので、推論の向きが前だろうが後ろだろうが、はたまた右だろうが左だろうが重要ではないと思うのですが、、、

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。               



連絡先
記事検索










書評した本


Fault Lines: How Hidden Fractures Still Threaten the World EconomyFault Lines
★★★★★
書評


ドル漂流ドル漂流★★★★☆
書評


仮面の解釈学仮面の解釈学
★★★★★
書評


これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学これからの「正義」の話をしよう
★★★★☆
書評


ソーシャルブレインズ入門――<社会脳>って何だろう (講談社現代新書)ソーシャルブレインズ入門
★★★★☆
書評


政権交代の経済学政権交代の経済学
★★★★☆
書評


ゲーム理論 (〈1冊でわかる〉シリーズ)ビンモア:ゲーム理論
★★★★☆
書評


丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)丸山眞男セレクション
★★★★☆
書評


ポスト社会主義の政治経済学―体制転換20年のハンガリー:旧体制の変化と継続ポスト社会主義の政治経済学
★★★☆☆書評


〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書) (岩波新書 新赤版 1240)〈私〉時代のデモクラシー
★★★★☆
書評


マクロ経済学 (New Liberal Arts Selection)マクロ経済学
★★★★☆
書評


企業 契約 金融構造
★★★★★
書評


だまされ上手が生き残る 入門! 進化心理学 (光文社新書)だまされ上手が生き残る
★★★☆☆
書評


バーナンキは正しかったか? FRBの真相バーナンキは正しかったか?
★★★★☆
書評


競争と公平感―市場経済の本当のメリット (中公新書)競争と公平感
★★★★☆
書評


フーコー 生権力と統治性フーコー 生権力と統治性
★★★★☆
書評


iPad VS. キンドル 日本を巻き込む電子書籍戦争の舞台裏 (brain on the entertainment Books)iPad VS. キンドル
★★★★☆
書評


行動ゲーム理論入門行動ゲーム理論入門
★★★★☆
書評


「環境主義」は本当に正しいか?チェコ大統領が温暖化論争に警告する「環境主義」は本当に正しいか?
★★★☆☆
書評


REMIX ハイブリッド経済で栄える文化と商業のあり方REMIX★★★★☆
書評


行動経済学―感情に揺れる経済心理 (中公新書)行動経済学
★★★★☆
書評



フリーフォール グローバル経済はどこまで落ちるのかフリーフォール
★★★☆☆
書評


現代の金融入門現代の金融入門
★★★★☆
書評


学歴の耐えられない軽さ やばくないか、その大学、その会社、その常識学歴の耐えられない軽さ
★★★☆☆
書評


ナビゲート!日本経済 (ちくま新書)ナビゲート!日本経済
★★★★☆
書評


ミクロ経済学〈2〉効率化と格差是正 (プログレッシブ経済学シリーズ)ミクロ経済学Ⅱ
★★★★☆
書評


Too Big to Fail: The Inside Story of How Wall Street and Washington Fought to Save the FinancialSystem---and ThemselvesToo Big to Fail
★★★★☆
書評


世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか (光文社新書)世論の曲解
★★★☆☆
書評


Macroeconomics
★★★★★
書評


マネーの進化史
★★★★☆
書評


歴史入門 (中公文庫)歴史入門
★★★★☆
書評


比較歴史制度分析 (叢書〈制度を考える〉)比較歴史制度分析
★★★★★
書評


フリー~〈無料〉からお金を生みだす新戦略フリー:〈無料〉からお金を生みだす新戦略
★★★★☆
書評


新潮選書強い者は生き残れない環境から考える新しい進化論強い者は生き残れない
★★★☆☆
書評


労働市場改革の経済学労働市場改革の経済学
★★★★☆
書評


「亡国農政」の終焉 (ベスト新書)「亡国農政」の終焉
★★★★☆
書評


完全なる証明完全なる証明
★★★☆☆
書評


生命保険のカラクリ生命保険のカラクリ
★★★★☆
書評


チャイナ・アズ・ナンバーワン
★★★★☆
書評



成功は一日で捨て去れ
★★★☆☆
書評


ネット評判社会
★★★★☆
書評



----------------------

★★★★★



アニマル・スピリット
書評


ブラック・スワン
書評


市場の変相
書評


Against Intellectual Monopoly
書評


財投改革の経済学
書評


著作権法
書評


The Theory of Corporate FinanceThe Theory of Corporate Finance
書評



★★★★☆



つぎはぎだらけの脳と心
書評


倒壊する巨塔
書評


傲慢な援助
書評


In FED We Trust
書評


思考する言語
書評


The Venturesome Economy
書評


CIA秘録
書評


生政治の誕生
書評


Gridlock Economy
書評


禁断の市場
書評


暴走する資本主義
書評


市場リスク:暴落は必然か
書評


現代の金融政策
書評


テロと救済の原理主義
書評


秘密の国 オフショア市場
書評

QRコード
QRコード
アゴラブックス
  • livedoor Readerに登録
  • RSS
  • ライブドアブログ