静々と……。
ただ静々と、曇天の空から雪は降っていた。
そこは地平まで続く、荒れ果てた荒野だった。
かつては険しい山脈がそびえ、峰が連なっていたその場所。
山は砕け崩れおち、逆に地割れのような渓谷が大地を深くえぐっていた。
「…………」
その荒野の只中。
崩れて廃墟と化しているその場所に彼は居た。
かつては荘厳な城だったそこは、今やただ崩れ落ちた瓦礫が転がるだけの場所。
彼は一際大きな瓦礫に背中を預けて、降り積もる雪を見上げていた。
鮮やかな極彩色の刺繍が施された着物を羽織り、その下には墨色の着流しを着込んでいる。
ざんばらの黒髪には雪が降り積もり、黒い双眸は静かに空を眺めていた。
―――全身が血と傷に塗れていた。
鮮やかな着物は血で汚れ、もはや服としての体裁が保てないほどボロボロになっている。
そしてそれは、その下にある着流しや彼の体も同じだった。
下ろした腰の下には、いまも流れている血で赤い水溜りが出来ていた。
「……随分とまぁ、派手にやったもんじゃの」
聞き覚えのある声に、視線を向ける。
いつの間にか、そこに人影があった。
銀髪の老人だった。
品の良いスーツを着込み、手には一本のステッキ。
腰に宝石細工の剣を下げている。
彼を見下ろすその双眸は、赤く朱く染まっていた。
「……何の用だ、クソジジイ」
「ふん。いきなりご挨拶じゃな。旧友がわざわざ会いに来てやったというのに」
老人が笑う。
彼は不機嫌を隠そうともしないまま、老人に言った。
「テメーがそんなガラか。ったく、力を借りたいときには姿も見せやがらねークセに。……俺ァいま気分が良いんだ。邪魔すんじゃねェ」
そう言って彼はまた、雪が降り注ぐ空を見上げた。
「―――負けたのか?」
老人が、男の傍らを見て言う。
そこには、銀色の鎧を着込んだツンツンとした黒髪の少年が一人。
やはり彼と同じく、ボロボロに砕け散った鎧の下は血と傷とで塗れて倒れていた。
「ああ、完敗だ。もう再生も回復も追っつかねぇ。……大した小僧だぜ、まったく。闘争じゃあ、あっちの世界の『南の蜘蛛』にも引き分けたのが自慢だったってのに……」
「アルティメット・ワンを相手に引き分ける貴様も大概じゃな。……しかし、なるほど。英雄―――いや、お前さんが魔王だというなら、さしずめ勇者というヤツか」
「随分と安い呼び方するじゃねーか。テメーの弟子だろう?」
「―――なんじゃ、気付いとったのか」
驚いたように言う老人に、「よく言うぜ」と鼻を鳴らす。
「力の流れとか、所々のクセが同じなんだ。嫌でも気付くさ」
「…………」
「それに、おおよそ見当はつく。コッチで好き勝手に暴れた俺を、止めたかったんだろう?」
「けどな」と、ジロリと老人を睨む。
「それならテメーが素直に出てきて、俺を倒すなり帰すなりすりゃー良かったろーが。わざわざ、こんな小僧を使いに出すんじゃねェ」
「それは出来んよ。かつてのワシならともかく、今のワシではお前さんに敵わんじゃろうしな。
それに、お前さんはあの世界から偶然ここに飛ばされたワケじゃない。追放されたんじゃよ。あっちの世界では、もうお前さんを抱え込みきれんとな」
「……そーかい」
どこか遠くを眺めるように、力の抜けた声音で彼は呟いた。
「……良いのか? このまま此処で終わってしまって」
「そうだな……こんな終わりなら、悪かぁねぇ」
「……ワシが力を貸せば、助かる見込みはあるぞ?」
「ガラガラガラ……!! ここで助かってどーする。俺ァ負けて、子分たちはみんな散々になっちまった。俺の目的も、お前の言うとおりなら見込みはもうねーんだろう? なら、俺にゃここが潮時ってヤツだ」
「ふん。貴様の言う『ジンギ(仁義)』と言うやつか?」
愉快気に言う彼とは対照的に、詰まらなそうに老人は言う。
「違げェな、こいつァ『筋』ってんだ。それに、流石にどうしようもねーだろう? どっちにしろ、俺の身から出た錆なんだ。始末くらいはつけるさ」
自嘲するように、彼は言った。
「「どうしようもない」、か。フン、まさかお前さんからそんな言葉を聞く日が来ようとはな」
どこか諦めの篭った彼の言葉に、老人が不機嫌気に鼻を鳴らして言う。
そんな老人に、男は初めて微笑のような物を浮かべた。
「クク、そう言うな。……老いたんだよ、俺もな」
「フン。そんな若々しい姿をしとって、何をほざくか」
「『不老』と『不変』は違う。お前だってわかってる事だろう?」
老いないという事と、変わらないということは違う。
たとえ姿形は変わる事がなくとも、過ごした年月と経験は間違いなく蓄積されていく。
だからこそ、何もかもは移り変わっていく。
「あぁ。一応言っとくが、その小僧をちゃんと手当てして元居た場所に帰してやっとけよ。テメーの事だ、後の事は気にせず、ほっぽり出すようなマネをしかねねーからな」
「言われんでも分かっとるわい。流石にここまでやってくれた弟子に、そんな事はせんよ」
「なら、良いがな……」
そう言って、彼は疲れたように深く息を吐いた。
「おら、とっとと失せろ。そろそろ抑えが効きそうにねェ」
そう言う彼の足元では、パキパキと音を立てて大地が乾き、罅割れていっていた。
「……『暴食』か」
「ああ。早くしねぇと、お前ェらまで“喰っちまう”ぞ」
そういう間にも、大地は罅割れまるで枯渇するように彼の周囲が乾いていく。
「あらゆる物を喰い尽し、無ければ持ち主すら餌とする。……随分と使い勝手の悪い『権能』じゃて」
「ガラガラガラ……! 確かに。だが、コイツもやっぱり俺の“力”だ。最期まで一緒にするさ」
渇きと罅割れが、彼自身をも蝕んでいく。
そうでありながら、彼はそれをも愉快そうに笑っていた。
「今まで世話になったなと言っといてやるよ、キシュア・ゼルレッチ=シュバインオーグ。“魔法”に届いた宝石術師」
「最後まで、随分な物言いじゃのぉ。天破 仰よ、“人の身にて天上の意思を超えた者”よ」
嘆息するように息を吐いた。
そして腰にぶら下げていた宝石細工の短剣を引き抜く。
キラキラと、キラキラと。
宝石の断面が、一面一面違う色の光を放ち始める。
その光に誘われるように膨大な量の魔力が集い、空間を、世界を歪め穴を開けていく。
「……なんのつもりだ、ゼルレッチ」
その意味を知る彼は、しかし何のためにそれをするのか分からず老人を見やる。
「幾らワシでも、《世界》に拒絶された貴様をあの世界に帰してやることはできん」
彼の言葉に答えず、老人は独り言のようにそう言った。
轟々と音たて、風が渦巻くように魔力が雄叫びを上げる。
「じゃがな、あの世界に限りなく似た世界で、その上で貴様を受け入れきれるところに連れて行ってやることぐらいは出来る」
「なにっ!?」
驚く彼に構わず、光はその輝きを強めていく。
キラキラ……。
キラキラキラ……。
様々な色の輝きを放つ宝石剣の断面に、様々な風景が浮かび上がる。
それは無限に存在する、無限の選択肢から成る、無限の平行世界の景色。
やがてその中の一つが、一際強く輝きを放つ。
「別に礼は良いぞ」
老人はそう言って、皺だらけの顔に微笑を浮かべて言った。
「友と呼ぶ人間が居なくなるのは、ワシとていささか寂しいからのォ」
光が、爆発した。