(CNN) 公民権運動の指導者でプロテスタントの牧師、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア氏がある日、記者会見を終えて立ち去ろうとすると、長身でブロンズ色の肌の男が歩み寄り、キング氏の前に立ち塞がった。
その男の名はマルコムX。アフリカ系アメリカ人のイスラム教指導者で、融和的なキング氏を「弱腰」と批判した男だ。マルコムXとキング氏は互いに握手を交わし、笑みを浮かべた。
1964年3月26日に実現した2人の対面はわずか1分ほどで終わった。しかし、この写真が45年以上にわたって学者や2人の支持者らをじらしてきた。
19日にマルコムXは生誕85周年を迎えたが、彼はこれまで一貫して白人を「青い目の悪魔」とみなす怒りに満ちた黒人分離主義者と考えられてきた。
しかし実は、マルコムXは晩年、キング氏に似て穏やかになり、一方キング氏は晩年、マルコムXに似て攻撃的になった、そう語るのは作家のデビッド・ハワード・ピットニー氏だ。ピットニー氏は自著の中で2人の対面について詳しく書いている。
■ マルコムXは「文化革命家」に
2人の対面は1度きりだったが、当時、米国民の間では長きにわたって2人は敵対関係にあると考えられていた。
マルコムXが表舞台に登場したのは1959年のことだ。あるドキュメンタリー番組でマルコムXとネーション・オブ・イスラム教団が取り上げられたのがきっかけだった。マルコムXは、ニューヨークの自身の拠点でネーション・オブ・イスラム教団の最も目立つスポークスマンとなった。
マルコムXの辛口のレトリックのおかげで、アフリカ系住民はアフリカ人としての誇りに目覚めた、と語るのは作家のジェームス・コーン氏だ。コーン氏は「キング氏は政治革命家であり、マルコムは文化革命家」とし、「マルコムの登場で、われわれはアフリカ系アメリカ人という意識を持つようになった」と指摘する。
しかしピットニー氏は、キング氏とマルコムXは対照的だが、彼らの政治的実践主義の起源は同じだと語る。「彼らの社会的、政治的活動ばかりが思い出されがちだが、彼らは根本的には信仰の厚い人間だ」(ピットニー氏)
■ キング牧師のマルコムXへの影響
しかし、マルコムXは文化的革命家では飽き足らなかった。1964年3月にネーション・オブ・イスラム教団を脱退し、政治組織「アフリカ系アメリカ人統一機構(OAAU)」を立ち上げる計画を発表した。
マルコムXはキング氏など複数の公民権運動の指導者を訪ねた。1965年には、キング氏が運動を展開していたアラバマ州セルマに赴き、キング氏に支援を申し出た。
マルコムXはキング氏を高く評価していた、と語るのはOAAUの発足当時のメンバーでマルコムXの友人でもあるピーター・ベイリー氏だ。
「キング氏は非暴力に信念を持っていた。決して見せかけの信念ではなかった。マルコムは、命をかける人には敬意を表しなければならないと語っていた」(ベイリー氏)
マルコムXは公民権運動に参加したかったのかもしれない。しかし、彼は決して非暴力に賛同しなかったし、イスラム信仰も捨てなかった、とベイリー氏は語る。
■ マルコムXのキング牧師への影響
一方、キング氏がマルコムXに似てきたのは、キング氏が公民権運動を北部に移した時だ、とキング氏の友人や学者は語る。
キング氏は最後の3年間はより急進的になっていった。黒人の誇りについて説き始めると、キング氏はマルコムXのようなレトリックを多用するようになった、とピットニー氏は語る。
また、キング氏の妻コレッタ・スコット・キング夫人も「マーチンはマルコムを大変尊敬していた」と述べている。
しかし、マルコムXとキング氏が手を組むことはなかった。マルコムXは1965年にハーレムで暗殺され、その3年後にキング氏も殺害された。
しかし、2人の対面の写真は今も残っている。この写真が取られたのは、その日、2人がたまたま米公民権法(1964年)に関する論議を聞くために連邦議会議事堂を訪れていたためだ。
この写真が今も残っているのは、2人がアフリカ系アメリカ人の魂の奥底で「陰陽」を体現しているからだ、と作家のコーン氏は語る。キング氏はアメリカを変えていた。しかし同時に、非暴力を掲げて穏やかと言われたキング氏自身もマルコムXの影響で変わっていることに気付いていたという。コーン氏はその象徴的なエピソードとして次のように述べている。
「マーチン・ルーサー・キングはマルコムの発言を聞いて、さすがの彼も怒りを覚えたと言っていたよ」