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[18692] Struggler of Other World to World
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/06/05 00:22
 この作品はガンダムSEED DESTINYとリリカルなのはストライカーズのクロスオーバー作品です。

 独自解釈、独自設定それなりに多いです。
 時系列は、リリカルなのはストライカーズは原作終了後、ガンダムSEED DESTINYは原作より二年後となっています。
 どちらも原作後の話なので、基本的にオリジナル展開です。
 HPの方に掲載しているSSを改訂した上で投稿しています
 致命的な設定の矛盾などがありましたら、ご指摘等お願いします。
 また、感想や意見などがいただければ幸いです。
 よろしくお願いします。
 
※改訂について
 1~25話まで三点リーダー等の変更行いました。
 26話からHPにあるものから、一部大幅な改訂を行いました。
以前某所に投下したまま未完成だった海短編完成させて投稿しました。
 0.序 前日談を追加しました。
 大改訂箇所:始まりの鼓動(c)、決別の時(a)
 中改訂箇所:ハジマリを全般的に修正。表現、描写不足な部分のみ。
 小改定箇所:一度読み返した上で表現や文章のおかしな部分を修正。




[18692] 0.序
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/25 13:45
 新暦75年。
 ジェイル・スカリエッティとその配下であるナンバーズ――ウーノ、トーレ、クアットロ、セッテの4名が脱獄した。
 脱獄の方法は未だ不明。まるで消えるように“いなくなった”と言う話だ。
 当然時空管理局は上へ下への大騒動となる――そして、騒動はそれだけに収まらない。
 その後始まった全次元世界規模へのガジェットドローンの襲撃。
 ミッドチルダを含めた全次元世界への次元漂流者の“極端な増加”。
 誰もが不穏を覚えだした暗雲深まるミッドチルダ。

 そして、胎動する世界の滅びと言う未曽有の危機。

 その中で――ある運命が絡み合う。

 運命に翻弄され、それでも生き足掻き続ける一人の男。
 運命に捏造され、その中で人生を歩み続ける一人の女。
 運命に複製され、そうして本物であることを求める一人の女。
 
 三者三様の運命が絡み合い、一つの物語を紡いでいく。
 
 男の名前はシン・アスカ。朱い瞳の異邦人。
 女の名前はギンガ・ナカジマ。蒼色の髪の戦闘機人。
 女の名前はフェイト・T・ハラオウン。金髪紅眼の複製。
 
 ――これは、滅びの未来に支配された世界の運命を真っ二つに断ち切り、盛大に道を踏み外していく、ある男と女の物語。




 夢を見ていた。
 夢の内容はいつも茫洋として内容はつかめない。
 分かっているのは少女の夢。
 少女はいつも悲しそうに泣いている。
 気丈な瞳の奥で涙を溜めている。
 それでも少女は諦めることなく、夢に向かって歩みを止めない。
 笑って、泣いて、笑って、泣いて。

「……また、あの夢か。」

 目が覚めれば、与えられた兵舎の一室。
 彼は――シン・アスカは今も戦っていた。

「どんなに吹き飛ばされても、僕達はまた花を植えるよ」
「それが俺達の戦いだな」

 そこはオーブの慰霊碑の前。戦いで破損し、傷ついた慰霊碑の前で、シン・アスカはアスラン・ザラとキラ・ヤマトにそう言われた。

「一緒に戦おう」
「……」

 言葉が出なかった。身体が震えた。
 言葉が出ないのは耳に入ってきた情報の意味を理解できなかったから。
 身体が震えるのは放たれた言葉に込められた“気安さ”への怒りと悔しさから。

 ――呆然と、シン・アスカは俯いた。それは自分が負けたモノの正体を思い知らされたから。

 何のことは無い。自分が負けたのは“力”にだ。強大な力はより強大な力によって淘汰されると言う、ただそれだけの運命という名の法則に過ぎなかった。
 そこには理想も理念も関係なく、存在するのはただ単純な力の鬩ぎ合い。
 理念や理想は自分達にだって存在した。
 たしかにデスティニープランは間違っていたかもしれない。

 極端すぎる政策だと自分もそう感じてはいた―――けれど“戦争の無い平和な世界”と言う確固たる目的が、その先にあった。
 その目的に向かって自分達は――自分は全てを賭けたのだ。それが打ち砕かれた。敗北した。
 よりによって、その勝者がこのような力だけの無法者だったことは皮肉としか言いようが無かった。
 知らず、頬を零れ落ちる涙。流れた理由は二つ。自身の悔しさと情けなさからだった。
 弱いことが悔しかった。弱いことが情けなかった。

「……」

 無言で、差し出されたキラの手を取った――瞬間、自分の中の大切だった何かが折れたような気がした。心に染み渡るのは諦観。自分は負け犬なのだと言う烙印。
 心が磨耗し、磨り減っていくような錯覚を覚える――何かが終わったことを確信した。
 彼の中の大切な何かがその時“終った”のだと。

「はい……」

 呟きに力は無い。考えも纏まらない――違う。もう、何も考えたくなかった。



 そしてシン・アスカはザフトに迎え入れられた。
 キラやアスランはシンを元々の赤服として――そればかりかフェイスとして扱ってくれると言ったが、周囲の人間が取りやめるように言った。

『デュランダルの懐刀だった彼にそういった力を持たせるべきではない。』

 「世界の平和の敵」に最も近い彼の立場からすると当然とも言える。本来、極刑にされてもおかしくないのだから。
 そうして彼はザフトに迎え入れられてから幾つもの戦場を渡った。

 その殆どは旧ザラ派残党の掃討やデュランダル派の軍人たち――要するに軍人崩れのテロリストだった。
 彼らにとってシン・アスカは憎悪の対象だった。デュランダルの懐刀として最も寵愛されていたと言うのに、戦後あっさりと裏切ったからだ。
 何度も罵倒された。罵られた。憎まれた。幾つもの憎悪を受け止め、プラントを守る為に戦った。
撃墜し、捕縛する。
 何度も何度もそれを繰り返した。
 来る日も来る日もそれを繰り返し続けた。

 疲れは無かった。戦後、シンは考えることを止めていたから――兵士は何も考えないのだから。
 シン・アスカにとって平和と言うのは何者にも耐え難いモノである。
 だからこそ遺伝子に寄って人を選別すると言うデスティニープランをシン・アスカは支持した。
 戦争がない世界――シンにとってはソレだけが平和な世界その物だったから。
 シン・アスカがラクス・クラインの元で戦うのも同じ理由である。
 “戦争が無い世界”を平和と捉えるシンにとってギルバート・デュランダルであろうとラクス・クラインであろうと関係が無かったから。

 トップが誰にすげ替えられようとも関係は無い。平和を作ってくれるのなら、戦争を消してくれるのなら、誰であろうと関係がないのだから。
 だからシンは考えることを止めて、戦いに没頭した。
 『クラインの猟犬』、『裏切り者』、『虐殺者』
 幾多のシンへの罵倒は消えることなく続いていた。任務に没頭し、思考を放棄して、磨耗していく毎日。
 ルナマリアとは戦後すぐに別れた。

 元々、傷の舐め合いから始まって、ただお互いに溺れただけの関係だ。
 それがずっと続く方がおかしかった。

 戦後、彼女はオーブに行くと言った。メイリン・ホークからの誘いがあったらしい。シンも誘われたが断った。
 彼はその時、既に軍に入ることを決めていたから――これ以上考えを迫られることに堪えられなかったから。
 シン・アスカとルナマリア・ホークはそうして別れた。唐突に始まった二人の関係は、同じく唐突に終わった。

 僅かばかりの未練はあった――けれど、それも直ぐに消えた。彼らは、ただ肌を合わせただけの他人に過ぎなかったから。
 来る日も来る日も出撃し、戦い続ける日々が始まった。
 磨耗していく自分。日に日に色を失っていく現実。
 そうして、いつかは死んで行くのだろう。

 彼はそう思っていた――そして、“その時”は、思ったよりも“遅く”やってきた。
 終戦より2年。
 シン・アスカは19歳になっていた。
 幼さを残した顔つきは少しだけ大人になり、身長は既に175cmほどになっていた。
 そして、その表情に映りこむ陰鬱は消えることなく――変わらず、陰鬱は彼の中に存在していた。


 プラントと地球連合の間に和平条約が締結された。これによって世界は本格的な平和への道を模索することになった。
 その日、哨戒任務に出かけていたシンはテロリストに急襲されていた。
 共に出撃した同僚は既に逃げおおせている。
 交戦自体は直ぐに始まるだろう。
 敵は3機のザク。こちらも同じくザクウォーリア。ただし、数は一機だけ。

「……行くぞ。」

 呟き、ザクウォーリアを動かす。ザクウォーリアのモノアイが暗闇に輝いた。


 戦いは直ぐに終わった。
 周辺には2機のザクの残骸と1機のザク。こちらは自分の乗っているボロボロで動いているのが不思議なくらいのザクウォーリア。

「……恨むならクラインを恨め、か。」

 テロリストの言葉だ。戦闘中に聞こえた。
 その時、シンは全てのコトを理解していた。
 元々おかしな任務ではあったのだ。今回の任務は単なる哨戒任務であり、本来なら自分に言い渡されるような任務ではない。
 そこに待ち構えたように現れたテロリスト。彼らは逃げていく同僚には目も暮れずに自分を狙っていた――だからこそ、同僚は逃げることが出来たとも言えるのだが。

 最後に接触通信で拾ったテロリストの言葉――恨むならクラインに寝返った自分を恨むんだな。
そこまで符合すれば大よそは理解できる。
 多分、軍に自分は捨てられたのだろう。これからの世界にとっては自分は不要となるからだ。
 和平条約によって自分のような者を使い続けることに意味が無くなった。そういうことだろう。
 前大戦の残り香は全て消しておきたい――道理である。
 だから、自分は最後に捨て駒にされた。そういう訳なのだろう。

 『和平条約締結後、テロリストの急襲で前大戦の引き金を引いた故ギルバート・デュランダルの懐刀が戦死する。それも同僚を守って。』

 ――それなりに感動できる話だ。結果、平和は“加速”する。

「……まあ、いいか。」

 真実に気がついてもシンには裏切られたことへの怒りなどありはしなかった。
 どうでもよかったというのが一つ。
 そして自分の命の最後が平和の役に立てるなら十分だと言うのが一つ。
 そして、寂しいなというのが一つ。

 その三つがシンの心にあった思いだった。
 もとより助かることは無い。諦めると言うよりも淡々と事実をシンは認識していた。
 ザクウォーリアの推進剤は切れ、通信も出来ない。
 モニターどころか殆ど全部の計器も死んでいる。

 何せコックピット内の色んな場所から火花が散っているのだ。
 機体自体がいつまで保つのかなど分かったものではない。
 正直、いつ爆発していてもおかしくはない。更に具合の悪いことに自分の位置も分からない。
 敵の機体の爆発に巻き込まれて吹き飛ばされたせいで現在の座標が分からなくなったのだ。
 言うまでもない。状況は完膚なきまでに絶望的だ。

 コックピット内の電灯が消え、非常用電源に切り替わる。ヘルメットを外して、ため息をついた。
 戦闘中にかいた汗がコックピットの中に水滴として浮かび上がった。
 それをぼんやりと見据え、懐に入れておいたマユの携帯を手に取る。
 画面は消えていた。電源ボタンを押し込んだ――動かない。電池切れか、それとも壊れたのか。
 なるほど、ついていない時はとことんついていないと言うのは本当のことらしい。
 そんな馬鹿なことをシンは思い、再びため息。
 そして、小さく呟いた。

「これで終わり、か。」

 マユの携帯を懐に仕舞いこむ。

「――レイ、ごめん。お前との約束守れなかった。」

 瞳を閉じて顔を上げる。生きろ、と約束した親友の顔が思い浮かぶ。

「……ちくしょう。」

 力の無い呟き。

 ――これが終わりなのだ。自分はここで死んでしまうのだ。

 そう思うと悔しかった。本当は死にたくなどなかった。
 生きていたい。生きて……・誰かを守りたかった。思えば、何も守れない人生だった。

 家族を守れなかった。
 守ると約束した少女を守れなかった。
 未来を託してくれた親友を守れなかった。
 守ると誓った国を守れなかった。
 守りたかった。誰であろうと、何であろうと。

 戦争はヒーローごっこじゃないと言った奴がいた。
 その通り、戦争では英雄になれてもヒーローになどなれはしない。

 ――だから、自分がやっていることはヒーローごっこなのだろう。
 目の前の苦しむ人々を守るだけの自己満足に過ぎないから。
 それは永遠に世界の平和になど繋がらない。

 それでも守り続けることには意味があると信じて縋り付いた。自分には力しかなかったから。
 けれど、それも今――終る。
 力だけを拠り所として戦い続けてきた。
 戦い続けて、戦い続けて……・その終わりがこの薄暗いコックピットの中。
 そう思うと、その余りにも似合いの末路が、どこかおかしくて―――シン・アスカは薄く微笑んだ。力の無い、諦めの笑みを浮かべて。

 胸に去来するのは、また守れなかったと言う後悔だけ。
 後悔があるとすればそれだけ。夢があるのならば、それが夢だ。

 ――生まれ変われるなら、せめて誰かを守れる人生を。

 そう願って。瞳を閉じて、力を抜いた。
 気付かない内に疲労はあったのだろう。ストン、と落ちていくように意識は薄れていった。



「……なんだ……?」

 いつの間にか寝入っていたらしい。時計を見ればあれから既に数時間が経過している――そこでおかしなことに気がついた。
 室内が、やけに“明るい”のだ。
 非常用の電源にしては異常なほどに――いや、正常な状態よりも明るいかもしれない。
 ふと、前を見る。
 外部カメラが壊れたせいで何も映るはずのないモニターに何かが映っていた――いや、違う。
 映る場所など無い。何故ならその画面は、空中に“浮かんでいた”からだ。

「……な、に?」

 それは泣き叫ぶ少女と女性の映像だった。
 映像に映る町並みはどこかオーブを連想させる町並み。

 ――これは何だ。どこかから発信されている電波なのか。

 シンはすぐさま、キーパネルを操作するも反応は無い。
 考えるまでもない。先ほど確認した通り全ての計器は“死んでいる”のだ。
 というよりもこの機体にこんな機能は付いていない。
 空間投影式のディスプレイなどまだ実用化すらされてないはずだ。

 ――ではこれは何だ?

 女性は空中に浮かび上がり光の中に消えていく。まるでコミックや映画の世界だ。

「……何なんだ、これ」

 何より恐ろしいのがその目だった。
 画面越しの女性の目は逸らすことなく“自分”を見ているのだ。

「くっ――」

 怖気が走る。恐怖で心臓が早鐘を打っている。理解できないモノに対する純粋な恐怖。
 死の恐怖なら何度も味わっている。だがそれはそのどれとも違う全く別の領域。未知なるモノへ抱く人間の原初の感情だ。

「落ち着け、落ち着け、シン・アスカ……」

 ぶつぶつと呟きながら、シンは動揺を抑えようと必死に落ち着けと繰り返す。
 映像の中の女は空中に浮かび上がり光に包まれていく。
 輝きは強まりその姿などまるで見えなくなっていく。

 輝きは休まらない。女が“自分”に向けて視線を飛ばす。
 背筋に悪寒が走り、シンは思わず後ずさる。
 けれど、逃げ場など無い。そこはコックピットという閉鎖空間なのだから。

「……何なん、だ、よ。」

 恐れからの呟き。そして――胸の奥で何かが“弾けた”。刺し貫かれるような激痛と共に。

「は……あっ…が……あああああ!!?」

 それは銃を撃たれたような激痛。胸を射抜かんばかりの耐え難い激痛。
 胸を押さえて、彼は蹲る。呼吸が出来ない。耳鳴りが酷い。

「ひ、ぎぃ……!!!」

 か細く漏れる声は正に虫の吐息。
 理解できない事態と胸を刺す激痛がシンから正常な判断力を奪っていく――この状況で判断力を維持できる方がおかしいといえばおかしいのだが。

 《……主を頼んだぞ。シン・アスカ。》

 声が聞こえた。「名前」を呼ばれた。

「ア、アン、タは……」

 閃光が視界を埋め尽くす。爆音で何も聞こえない。
 同時に見たことも無いような“幾何学的な文様”がコックピットを埋め尽くしていく。

「アンタは一体何なんだあああああ!!!!」

 絶叫。世界が純白に染め上げられたその瞬間――シン・アスカは、この世界から姿を消した。



[18692] 掌篇 0-2.序 彼女たちの前日談
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/26 08:21
 夢を見る。
 夢の内容は懐かしい夢。
 多分――手に入れたかった懐かしい夢。
 リインフォースがいる。
 シグナムがいる。
 ヴィータがいる。
 シャマルがいる。
 ザフィーラがいる。
 リンフォースⅡがいる。
 そして――皆がいる。
 誰も欠けていない。全員がそこにいた。楽しそうに笑っていた。
 温かな日常。
 それは――私が、求めた理想の世界だ。
 リインフォースは嬉しそうに微笑んでいる。
 現実ではあり得なかった光景。
 彼女はそんなことも出来ずに消えていったから――眼が覚める。
 名残惜しい気持ちはあるけれど、これは夢だ。
 もう過ぎ去って――取り戻せない光景。それに取り戻してはいけない光景でもある。
 この光景を見ることが出来なかったから、私は今の人生を選んだ。取り戻してしまうということは――今までの私を否定すると言うことだから。
 
 眼が、覚めた。

「……リインの夢、か。見たの、久しぶりやな。」

 私――八神はやては呟いた。
 温かい布団の中で見る過去の夢――郷愁に近い想いを抱きながら、カーテン越しに届く朝日を見て、自然と頬が綻んだ。

「……何か良いこと、ありそうやな。」
 
 多分、それは単なる気分の問題でしかないだろうけど――そう、信じることくらいは良いだろう。
 人生はそんな程度には幸せであるべきだから。

 ――その期待はある意味では裏切られ、ある意味では応えられることになる。人生なんて先が分からないと言うが、まさかそれを自分の人生で“また”認識するとは思わな

かった。




「私の勝ちですね、リチャードさん?」

 仰向けに倒れた岩のように屈強な身体と掘りの深い顔立ち、そしてモミアゲにまで伸びる顎髭が印象的な男性――リチャード・アーミティッジの顔面に左拳を突き付け、私は

呟いた。
 リチャードは呆けたような顔で、信じられないようだった。
 彼は私をいつもいつも負かしていた――自分が負けるとは露ほども思っていなかったろう。
 ――隠し技を使ったことで辛うじて勝ったのだから、胸を張っていいのかは分からないが。

「……まさか、ギンガに負ける日が来るとはな。」
「……五回目にしてようやく、ですから。それに――これを奇襲に使ってるんですから、そんな驚くようなことでも無いと思いますよ。」
「ま、奇襲であれ、何であれ、負けは負けだ。」

 彼が立ち上がろうとしていたので、数歩後退する。
 彼の表情は、獰猛な熊のような微笑み。
 その巨躯と相まって、本当に熊みたいに見えてくる。

「で、どうする? これで終わりか?」
「まさか。まだまだですよ。」

 拳を引いて、数歩下がり、再度戦闘態勢を取る――模擬戦を一度で終わらせては勿体ない。
 何度も何度も戦うことで、今しがた使用した技を実戦に馴染ませていかなければいけないのだ。
 まだ、自分は編み出しただけ。本当に実戦で通用する技にする為には――まだ、練習が必要だ。

「……よし、来いよ。」
「行きます……!!」

 リチャードが両手で握り締めた杖――殆ど棍棒と言っても良い――を構えた。
 私は、そんな彼に向けて、一直線に突き進む。
 
 差し込む朝日。
 訓練は終わらない。
 多分、それは明日も明後日も明々後日も――永遠に続く訳ではないだろうけど、ずっと続いていく。
 戦闘機人である私は――敗北し、何も出来ないまま妹と敵対してしまった私は、そうすることで、心の空白を埋めていく。
 
 新しく出来た家族――ナンバーズと言う、敵とも言える少女たち。わだかまりが無いと言えば嘘になる。
 けれど、彼女たちが悪いのではない。悪いのは――彼女たちをけし掛けた誰か。
 そう、思う事で私は納得した。
 
 だから、わだかまりは無い――あるとすれば、負けて、何も出来なかった自分への憎悪と悔恨。
 左手をそのままにしているのも、その悔しさを忘れない為。
 訓練を繰り返すことで、私はその空白を埋めていく。
 
 ――振り返ってみると、私の人生は空白だらけだ。けれど、その空白はいつか埋められることになる。空白を埋めてくれた人は酷く歪でおかしな人だった。




「……お母さん。」

 呟いて――それを夢だと知った。
 いつか見た光景。
 落ちていく母。
 崩壊して行くスベテ。
 世界の果ては遠く――誰も辿り着けずに、スベテが終わる。
 
 私――フェイト・T・ハラオウンは夢を見る。
 昔の夢だ。
 何度も何度も見た夢――最近ではあまり見なくなった夢。
 今では吹っ切れたと思っているけれど――心のどこかで吹っ切れていないのかもしれない。
 それを自分は自覚している。
 多分、この気持ちは一生続くモノだと思う――きっと、忘れられない感傷なのだろう。

「……お母さんのこと、夢に見て、泣かなくなったのって、いつからかな。」

 クロノや母さんと家族になって、エイミィ達が家族となって――エリオやキャロがいて。
 その頃にはもう、自分は涙を流すことは無くなった。
 考えてみれば、それは凄いことだと思う。
 朝、起きれば何度も泣いていた。泣かない日は無かった。
 涙を流すことを何かの贖罪とでも思っていたのか――私は夢の内容に涙を流すことで答えていたような気がする。
 
 起き上がり、ベッドの傍の椅子にかけていたカーディガンを着る。
 いつも通りの寝間着は薄着過ぎて、朝起きると肌寒いことがあったから、最近用意するようにしていた。
 窓を開ければ、快晴――朝日はまだ昇っていない。

「晴れ、か。」

 蒼い空を少しずつ染め上げていく金色の太陽。
 朝日は綺麗に世界を染め上げていく。
 蒼から紅へと染めて、オレンジ――金色と変わっていく。
 綺麗な光景。
 どこでだって見ることの出来る、他愛の無い風景。
 けれど、少しだけ、その光景は私の胸を嬉しくさせる。
 綺麗な風景は、ただそれだけで、心を豊かにしてくれるのだから。
 
「良いことあると……良いなあ。」

 呟いて、私はそんな幸せを願い続ける。
 どこにでもある、ほんのささやかな幸せ。
 例えば、それは自動販売機で当たりが出ることだったり、仕事がいつもよりもほんの少しだけはかどったり、するようなささやかな喜び。
 そんな当たり前の幸せが起きることを願って――私は朝日を眺め続ける。
 
 満たされている心の中。
 けれど、満たされているのは、気持ちだけで――私はいつも何かを求めている。
 その何かが何なのかは分からないけれど――私の胸の奥で、いつも何かが囁いていた。
 もしかしたら――朝日に願い続けることで、それは起きるのかもしれない。
 そんなお伽噺のようなことを思い浮かべていた。
 
 ――私のその願いは、いつか叶う予定調和。けれど、その為に私はある道を踏み外す。
 今では無い、いつか――私は自分自身“だけ”の為に、幸せになる為に――道を踏み外す。それが良いことなのかは分からないけれど――多分、私は幸せなのだろう。




「まさか、君が生きていたとはね。」
「……お笑い草みたいなものよ。死に損ねた挙句に、こんな醜態さらしてるんだから。」

 私は自嘲する。
 死んだと思っていたのに、生きていた。
 生きていた理由は――本当に馬鹿げた理由。

「……同調したのかい?」
「そう……なるのかしらね。ドクターではなく、私の声に応えた理由も良く分からないけど。」
「アレは気紛れだからね。私ではなく君に応えたと言うのも――まあ、君の声が好みだったとかそんな程度だろうさ。」

 好み――アレにそんなモノがあると言うのだろうか。
 死にかけた私を救ったのは、ある化け物――羽鯨と呼ばれる化け物によるものだった。
 その結果、私は今もこうして生きていて――それどころか、おかしな力まで手に入れてしまっている。
 
 ドクター――ジェイル・スカリエッティを拘束する手錠を切り裂いていると彼が呟いた。

「君はもう戦闘機人を越えている。その気になれば“人間”になることも容易いのだろうね。」
「……そんなのどうでもいいわ。」
「いけないなあ、君は。もう少し人生を楽しんでみたらどうだい、ドゥーエ?」

 ドゥーエと呼ばれることで、僅かに安堵――偽者でしか無い私はまだドゥーエと言う存在なのだ――その事実に安堵する。

「今までが今までだもの。特にどうってことも思わないわね。」

 出来る限り素っ気なく返事を返した。
 ドクターの考えを少しだけ裏切りたくて――肩を竦めて、ドクターは苦笑する。やれやれ、とでも言いたげだ。

「何よ?」
「いや、素直じゃないなと思ってね――まあ、いい。では行こうか、ドゥーエ。」
「……ええ。」

 嫌々ながらも返事を返す。
 この男がこれから放つであろう言葉を予想して――その言葉は多分自分が心底嫌うような言葉だろうと確信して。

「世界を救う為に――この世界を守る為に。」
「……」

 私は黙りこむ。
 その宣言とも取れる言葉に同意なんてしたくなかったから。

 嘘だらけだった自分は、嘘でしかない存在になってしまった。
 私は偽者――ずっと誰かの偽者でしかない。
 嘘でしか無い自分。嘘に塗れることが全ての自分。
 本当の自分はどこにいるのか――そんな、どうでもいい言葉が思い浮かんだ。

 ――けれど、いつか私は真実を手に入れる。それはちっぽけな真実。自己満足の極みでしかないどうでもいい事柄の集積結果。
 だけど――それに満足してしまう自分がいる。私は、道を踏み外し、奈落の底へと落下していく。幸せとなる為に、私はきっと破滅する。
 きっとその破滅は、蜂蜜のように甘さと、珈琲のような苦さを併せ持つのだろう。



[18692] 第一部陸士108部隊篇 1.異邦人
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 12:10
 誰かの為に頑張れる人間は美しいと言う。
 ならば、誰かのためにしか頑張れない人間はどうなのだろうか。
 無論、美しいに決まっている。けれどそれは太陽のような正当な美しさではない。

 それは月のように儚いからこその輝き。
 いつ消えるとも知れぬその儚さが美しさを装っているだけの幻。
 いつか来る終わりに向かって駆け抜ける幻想。

 それでも、男はその幻想に自分自身を賭けた。
 その終わりはいつなのか……それはまだ語るべき時ではない。
 世界から拒絶された男は別の世界で目を覚ます。
 そこは異世界ミッドチルダ。
 男の――シン・アスカの新たな戦いが今、始まる。

 これは、運命に翻弄され続けながらも、意地汚くあがき続ける、ある一人の男の物語。


「……う」

 目を開けば、そこは気を失う前と同じコックピットの中だった。
 違いがあるとすれば、身体に重みを感じること――重力があると言うことだった。
 よく見れば酸素の残量は既に底を突いている。なのに自分は生きている。
 つまり――

「救助、されたのか?」

 考えられる結論はそれだけだった。
 だが、それでも違和感が付き纏う。
 コロニーの中であるならどうしてコックピット内で放置されているのか。
 違和感があった。何か取り返しのつかないことが起きていると言う違和感が。

「……夢だったのか。」

 息を吐くように小さく呟く。
 思わず胸を押さえ、顔を歪めた。
 あの激痛――胸を弾丸で撃たれたような激痛を思い出して。
 知らず、身体が震えた。恐怖ではない、怖気だ。背筋を這うような怖気があったからだ。
 あの赤い瞳。そして、自分の名を呼んだ女。伸ばした手は自分に向かって伸びていく。
 そう、それはこの胸に届き、この胸の中を突き進み――

「……馬鹿か、俺は。」

 夢を現実として認識し、恐怖するなど馬鹿のすることだ。
 シン・アスカは心中でそう断じると、思考を振り切って、計器類に目をやった。
 状況は異常だ。何が起きているのか、さっぱり分からないがとにかくおかしい。
 
 一つは救助したとして、どうして機体に乗ったままなのか。
 今は収まっているようだが先ほどなどはいつ爆発するか分からないと言う状況だった。
 爆発寸前の機体を救助せずに捨て置くならばまだしも、どうしてそのまま救助したのか。

 もう一つの異常は肉体が覚えている。
 空気が違うのだ――否、風が違うとでも言うべきか。プラントの中に漂う空気とは空気清浄機によって“作られた”空気だ。だが、今感じる空気はどうだろうか?
 それは、清浄な、澄み切った空気だった。そう、故郷(オーブ)でいつも嗅いでいたような――

「……とりあえず、出よう。」

 先ほどから頭を掠めるくだらない思考を振り切ってシンは、コックピットハッチを手動でこじ開けた。
 そして、そこに広がる光景を見て、シン・アスカは今度こそ言葉を失った。何かの冗談だと信じたかった。それは予想していた光景とはまるで違った場所だったから。

「何……?」

 前後左右の全てが木だった。日の光が差し込み、木々を照らす。それは間違いなく自然に存在する森。決してプラントには存在しない。存在するはずの無い本物の“空”。

「……」

 信じられない思いが胸を占める。自分はどこにいるのか。自分に何が起きたのか。何もかもが理解出来なかった。
 分かることは一つだけ。自分は得体の知れない“何か”に巻き込まれた。
 それだけだった。

 その周辺を散策してみたがまるで手がかりは無かった。
 少なくともプラントではないと言うことだけは空に上る太陽を見て、理解できる。

 ここは、“少なくとも”地球である。それは間違いない。
 どんな悪い冗談だとしても決してあの空までは騙せない――無論、自分が狂っていないと言う前提での話ではあるが。
 ザクウォーリアの前で座り込み、ため息を吐く。
 考えられる手段は既に講じていた。

 通信はこの世界に着いた瞬間から何度も何度も、繰り返した。
 整備班ではないシンにはマニュアル程度の応急処置しか出来なかったが、それでも何とか通信機器の復旧くらいは出来たからだ。
 無論、残量電力にも限りがある為、定期的に且つ広域範囲に。だが、既に数時間を経過していると言うに何の音沙汰も無い。

「どうすりゃいいんだかな。」

 手の中でもう壊れた携帯を弄ぶ。諦めにも似た感覚が胸中を満たす。救助は来ない。このままここで死ぬのを待つしか出来ないかもしれない。
 とりあえず、どこかに行こうかなどと言う考えは不思議と浮かばなかった。

 ――ここでひっそりと死んでいく。それもいいかかもな。

 そう、思ったから。

(どうせ、プラントに戻っても殺されるだけだし。)

 確証は無いのでそれは彼の妄想かも知れない。だが、シンにはその確信があった。
 ――現プラント議長ラクス・クラインという人間は善性の塊である。その伴侶にして最強の剣であるキラ・ヤマトも同様に。
 彼らには悪意というものが無く、自分達がすることは正しいと信じて疑わない。
 彼らはあくまで自身の善性を信じて戦っている。

 だからこそデスティニープランという極端な政策に対して、人間の未来を殺すとして反発し、当時のザフトを打ち倒した。
 無論、彼らに何かしらの考えがあった訳ではない。ただ、彼らは反発しただけだ。その有り余るカリスマと戦力を使って。
 だから、戦後のザフトは大いに混乱し、戦争の火種はそこかしこに存在していた。
 ラクス・クライン政権は直ぐに崩壊する。傍から見る第3者はそう考えていた。

 だが、彼女の政権は信じられないほど優秀な治世を行った。
 地球連合との和平交渉。プラントの復興。周辺航路の治安維持。
 細かく挙げれば切りがないほどのそれらを全て成功させてきた。

 勿論、それは彼女の周りに集まった優秀なプレーンの力あってこそだろう。
 だが、数ある選択肢の中から、選びぬいたのは他ならぬラクス・クラインであり、彼女の力であるのは疑いようも無いことだった。
 民衆は当然クライン政権を支持する。傍でずっとそれを見ていたシンとてその手腕には感服していたのだ。民衆からの支持が低い訳が無い。

 さて、ここでシン・アスカについての話である。
 以前、語った通りシン・アスカとは前議長ギルバート・デュランダルの懐刀。
 専用機デスティニーを駆る、いわば前ザフトの象徴でもある。
 クライン派にとって彼は当然面白い存在ではない。
 はっきり言ってしまえば死んでもらった方が良いに違いない。
 前ザフトの象徴である彼がいる限り火種は消えないからだ。

 彼自身にはクライン政権に対する反抗心は無かったが、内心どう考えているかなど分かったものではないからだ。
 むしろ憎悪の対象にしていると考える方が普通である。クライン政権にとっては処刑にするべき男である。
 だが、戦後のプラントはそんな危険分子ですら駆りださなければいけないほどに混乱していた。
 無論、その裏にはラクス・クラインやキラ・ヤマト、そしてアスラン・ザラ等の“英雄”達の進言があったのは言うまでもないが。

 頻発するテロ、航路の襲撃。それらはクライン派となったザフト兵だけでは不足していた。
 故にシン・アスカは必要だった。
 真実、戦いの為だけに彼は必要とされ、戦うことになった。
 テロリストを駆り立て、駆逐する。彼は戦後、「裏切り者」「猟犬」とも呼ばれ蔑まれながらもテロリストの恐怖の象徴として君臨し続けた。

 だが、そんな彼も――否、そんな彼だからこそ平和な時代において不要な人材だった。戦後の混乱が収束していき、彼の力は徐々に問題視されていった。
 恐らくその結果として自分を殺したのだろう。
 シンはそう思っていたし、哨戒任務の際の待ち構えていたような襲撃とテロリストの言葉はシンがそういった考えを持つには十分すぎる状況証拠だった。
 だから、今のシンにとって死ぬことは問題ではなかった。どうせ戻ったところで殺されるのだ。
 ならば、ここで死のうとプラントで死のうと、あまり差は無い。
 シン・アスカは捨て鉢な気分を宿していた。
 無気力、そう言い換えても良い倦怠感に見を包まれて――彼自身、その倦怠感がどこからやってくるのか、判断しきれていなかったのだが。
 シンがそうやってぼうっとしていた時だった。
 がさりと音がした。思わず彼はそちらを振り向いた。そして、そこには信じられないモノがあった。

「何だ、これ。」

 それは球だった。機械仕掛けの球体。大きさは数mといった程度。いつ現れたのか、気付かなかった。
 冗談のようなその巨躯にシンは呆気にとられて見つめていた。
 機械は小さな駆動音を鳴らしながら、横方向に回転する。まるで、向きを変えるかのように。

(やばい)

 背筋を這う悪寒。シンは直感の任せるまま、その場から転がるようにして離れた。
 同じタイミングで球体の前面に開けられた穴から幾つもの黒い弾丸が放たれた。
 弾丸がザクウォーリアを蹂躙する。
 ザクウォーリアは弾丸の衝撃で仰け反るようにし、倒れた。転倒の衝撃で幾つもの箇所で小さな爆発が起きた。

「嘘だろ!?」

 モビルスーツが――例えどれだけ損傷していようともあの程度の攻撃で破壊されるなど想像の埒外だった。
 ザクウォーリアを破壊したことを確認すると球体は呆然とするシンに向かってその穴――砲門を向けた。
 打ち込まれる弾丸。シンはそこから飛び退き、後方にあった木に隠れる。
 木ごとシンを殺そうと言うのか、球体は障害物などお構いなしに弾丸を乱射してくる。

「くそっ!!」

 懐から拳銃を取り出し、安全装置を外す。
 こんなものが役に立つとも思えないがシンにとってそれが残された最後の武器だった。
 木から木へ移動するようにシンは乱射から身を外す。
 幸い、球体はこちらの位置を完全に確認している訳ではない。

 大方、カメラで確認して、確認できた対象に照準を合わせているだけだろう。
 だが、そんなことが分かったからと言って状況が好転する訳でもない。
 木の陰に隠れるようにしていたところでいつか見つかる。大体、弾丸の乱射に巻き込まれない可能性など殆どないのだ。
 現状のシン・アスカの行動は死ぬことを先延ばしにしているだけに過ぎない。

(どうする)

 自問。けれど、その答えなど簡単なモノだ。
 隠れ続けて逃げるのは論外だ。そんなことをしている内に、後ろから狙い打たれる。
 もしくは乱射に巻き込まれる羽目になる。今、目前の機械から視線を外してはならない。
 ならばどうするか。答えなど一つだけ。

(一か八か、強行突破しかない……!)
 
 無謀な賭け。だが現状でシンが取れる選択はそれしかない。
 少なくともシンはそう考え――そして、それは恐らく正しい。
 火力で勝る相手に、逃げ回るなど愚の骨頂。
 それは耐える為の戦い――補給や仲間、武器などがあり、長期戦が出来る場合の考えだ。

 現状はそれとはまるで逆。
 武器は無い。
 仲間はいない。
 補給など出来るはずもない。ここがどこかも分からないのだから。

 だから、それしかない。強行突破を行い、敵が方向転換している間に逃げる――そんな策とも言えないことしか出来ない。
 機銃の乱射が止む一瞬。その一瞬に賭けて突進し、血路を拓く。息を潜み木の陰に隠れながら、その期を探るシン。
 機銃が止んだ。

(行くぞ。)
 シンが木の陰から飛び出そうとしたその時、上空から“落ちてくる”人影があった。

「……え?」

 人影は女性だった。
 レオタードにジャケットを羽織ったような服を見につけ、ローラーブレードのような靴を履き、左手に巨大な円形の物体――例えて言うならリボルバーの弾倉のようなものをつけていた。

 女性は、落下の勢いそのままに強烈な後ろ回し蹴りを放つ。仰け反る球体。
 そして女性は、その懐に飛び込む。胸を張り、左腕を引き絞り、右足を前に。
 矢を要るような予備動作――放つは鉄の矢じりではなく、刃金の拳。

 「はああああ!!!!!」

 左腕の弾倉が回転し、輝く。刃金と鋼の激突。耳を塞ぎたくなるほどの轟音。
 球体は沈黙した。
 放たれた刃金の拳は、あろうことか、球体の装甲を貫き、破壊したのだ。

「……」

 シンは拳銃を構えたままその女性を呆然と見つめていた。
 拳銃を握る手には力がない。現実離れした光景が連続したせいで思考が停止した訳でもない。
 見惚れていたのだ。目前の女性の使った“力”に。
 それはモビルスーツなどを介することなく、個人が振るう個人のレベルを超えた圧倒的な絶対たる“力”
 初めてモビルスーツに乗った時よりもはっきりと、初めての実戦の時よりも大きく、胸の鼓動が鳴り響く。

『これは何なんだ。』

 心に響くその問いに答える人は誰もいなかった。


 シン・アスカ。
 19歳。男性。出身世界:オーブ首長国連邦。生年月日:CE57年9月1日。
 元々の世界での職業:軍人(15歳から)。モビルスーツのパイロットをしていた。
 特記事項:コーディネイター(遺伝子を操作した人間。ただし健康方面のみと本人が主張)
 補足:コーディネイターとは発生段階の受精卵に遺伝子操作を行って生まれてきた人間の総称。
 モビルスーツとは彼の出身世界における人型の機動兵器。

「モビルスーツ、ザフト、プラント、地球連合、コロニー、コーディネイター……」

 自分で書いた報告書を手に取り、長髪のスーツ姿の女性――ギンガ・ナカジマは呟いた。

「……まるで漫画やゲームの中の話ね。」

 その報告書を手に、最近保護した赤目の青年について嘆息した。

 あの後、シン・アスカは長髪の女性――ギンガ・ナカジマに保護された。
 そこで彼はとんでもない事実を教えられる。
 「異世界ミッドチルダ」
 「数多に存在する次元世界の中の一つであり魔法文明が最も発達した世界の一つ」
 「別の世界から「次元移動」をしてこの世界に来た」
 「球体は「ガジェットドローン」と言う。3ヶ月前に収束したある事件で使われた機械兵器」。

 聞いたことも無い単語の連続。
 「魔法」という単語に反応したシンを見て、さっきの私が戦う際に使ったモノのことですと至極簡単そうにギンガは説明した。
 シン・アスカは呆気にとられた。信じられなかった――だが信じざるを得なかった。

 何故なら、彼は一度その力を目前で見ていたからだ。伊達に何年間も戦場で戦い続けた訳ではない。
 彼とて目の前で見せられたモノが真実かどうか判定する程度の眼は持っている。
 どう考えてもあの時の彼女の力はトリックにはどうしても思えなかった以上――信じる以外に無かった。
 それからシンはギンガに連れられて陸士108部隊の兵舎にて事情聴取、その後肉体の検査を受ける。



 ジェイル・スカリエッティの脱獄から始まったガジェットドローンのミッドチルダ全域への散発的な襲撃。それにより、時空管理局は緊張を強いられていたせいである。
 シンにされたその処置もその一環である。何せ時期が時期だ。スカリエッティの脱獄と関連があると思われるのも仕方なかった。

「毎日、検査ですいません。」
 そう言って、ギンガ・ナカジマはシンに対して缶コーヒーを手渡した。次の検査は20分後。
 今シンは検査室の前の椅子に腰をかけている。着ている服は病人服。こういった部分は異世界だろうと変わらないらしい。

「……別にいいですよ。コーヒーありがとうございます。」

 ぶっきらぼうに言ってその手のコーヒーを受け取る。

「それで結果はどうでした?」

 ギンガの問いにシンは手元の紙を見ながら答えた。

「よく分かりませんよ。リンカーコアがどうだとか、免疫機能がどうだとか言われても。」
「ちょっと見せてくれます?」

 そう言うとギンガはシンの手元の紙を手に取るとまじまじと見始める。

「……ふう」

 なにやらブツブツと呟いているギンガを見ながらシンは缶コーヒーを開いて口につける。
 正直、検査した医者の言ってることも殆ど理解できなかった。何せ魔法が存在する世界である。理解できないのも道理だった。
 物思いに耽っているとギンガがこちらを見ていた。

「……何ですか?」
「やけに落ち着いてますね。」

 その言葉に苦笑する。
 確かに自分は落ち着いている。見知らぬ世界に漂流し、身寄りも何も無い。
 しかも自分の知る常識はこの世界にはまるで通じない。魔法と言う非常識がまかり通っているのだから。
 そんな世界に放り出されたばかりだと言うのに自分は落ち着いている。変だと思われてもおかしくはない。

 だが、実際シンには不安は無かった。自分でも不思議に思うほどに。
 シン・アスカはあの世界で“殺された”。結果的には死んでいないだけで、実際は殺されたも同じだ。
 縋り付いていた『平和』に見捨てられて本来なら死ぬべきところで、死に損ねた。
 だから彼は今更、元の世界の状況を知りたいとも思わなかったし、元の世界に戻ることなどに価値を感じることは無かった。

 シン・アスカの願い。それは戦争が無くなることである。
 皮肉なことにそれを願う本人がいては願いが叶わない。
 それを自分自身でも強く理解しているからこそ、彼は“戻りたい”とは思わない。
 戻ることで火種になるくらいなら、死んだ方がマシだった。

「元々、戦災孤児なんでこういう状況に慣れてるだけです。」

 後者の理由は言わないでおくことにした。要らぬ誤解を受けたくは無かったから。

「アスカさん、次の検査始めます。」
「はい。」

 シンはそう言って立ち上がり、ギンガに声をかける。

「じゃ、検査あるんで行きますね。」
「あ、分かりました。」

 彼女は椅子に座りながら答えた。シンはそれを見て検査室の中に入っていった。

 数時間後、シン・アスカの検査は滞りなく終了した。
 その結果判明したことは、以下の通りである。
 シン・アスカには魔導師としての資質があること。
 本人の言うとおり、彼の肉体は免疫機能が著しく発達している以外は一般人と変わらない。
 運動能力、体力、反射速度はどれも卓越したものがある。
 だが、遺伝子を操作した形跡が無い為、それらは軍人としての訓練等によって身に着けたものであると推測される。

 それ以外に怪しい部分は見当たらなかった。プロジェクトF、人造魔導師等の形跡は全く無かった。
 結論から言うと三日間の検査の結果、彼とジェイル・スカリエッティには何の関連もないことが判明した。
 その日の夜、シンは陸士108部隊隊長ゲンヤ・ナカジマ3等陸佐に呼び出された。
 その隣には、来客なのかこれまで見たことの無い茶色い髪の小柄な女性がいた。年齢は恐らくシンやギンガと同年代。もしかしたら、年上かもしれない。
 自分の部屋にやってきたシンを見つめ、ゲンヤは話し出した。

「結論から言うとこれでお前さんは自由の身だ。どこへなりと行っていい……と言いたいところだが、そういう訳にもいかんだろう?」

 頷く。実際その通りだった。
 身寄りも無ければここがどんなところかも分からない。
 考え方によってはオーブからプラントに渡った時よりも酷いかもしれない。

「現在、こっちも忙しくてその世界の捜索に手を回すほどの余裕は無いんでな。しばらくここにいてもらうような状況なんだがどうする?」
「……別に、どっちでも構いません。」

 気だるげに呟くシン。それをみて、「ふむ」と唸るゲンヤ。

「まあ、いいさ。一応、これからの選択肢も伝えておく。一つは元の世界に戻る。まあ、普通はこっちを選ぶ。誰だって故郷に帰りたいって言うのが本音だからな。もう一つはこの世界で暮らす。向こうの世界を忘れてな。少数だがこういう奴らも中にはいる。」

 そして、と前置き、ゲンヤは続ける。

「時空管理局で働くって選択肢も一応あるにはある。これを選ぶ奴は本当に少数だが、優れた魔導師としての才能を埋もれさせるって言うのは人手不足の管理局としては辛いもんでな。実はそこの八神はやて二等陸佐もその口だ。」

 茶色の髪の女性が手を差し出してくる。

「八神です。よろしく。」
「……よろしく。」

 差し出された手を掴んで握手する。
 変わったイントネーションの言葉を話す。これが彼らの世界の標準語なのだろうか。
 シンはそう思って八神はやてという女性に目をやる。
 シンとそれほど変わらない年齢だろうに2等陸佐……ザフトで言えば白服くらいなのだろう。シンは心中で素直に感心する。

「まあ、何にしても、もうしばらくはここで暮らしてもらうことになる。どうだ?」
「ああ、はい……充分です。」

 気だるげ、というかやる気が無い返事。心底、どうでもいいといった感じの。
 そう、答えてシンは部屋から退室する。
 シンが退室したのを見計らってはやてが口を開いた。

「……彼の検査結果見ましたが、こら凄いもんですね。」

 ゲンヤが手元にある検査結果を記した紙をめくりながら、答える。

「純粋な魔力量で言えばお前くらいかもな。その上、身体能力も高いときた。鍛えればとんでもない魔導師になるかもしれん。」
「次元移動の原因は何なんです?」
「証言の内容からは、誰かが召喚したっていうのが一番有力だな。」
「……少女と女……・どういうことやろか。」

 考え込むはやてに向かってゲンヤは呟く。

「まあ、その内分かるだろうよ。あいつの乗ってた機体の中に記録も残ってたらしいからな。そいつを解析すれば多少は進展するだろう。」
「多分……落ち込んでるのは、別の世界に来て不安やからなんでしょうね。」

 はやてが先ほどのシンの様子を思い出す。
 暗い、という訳ではない。どちらかというと元気が無い、と言うか無気力が一番近かった。
 別の世界にいきなり放り込まれて、不安もあるのだろう……いや、不安が無い方がおかしい。
 それに――何かを感じる。彼女のように魔導師の資質を持っている人間というのは実は酷く珍しい。
 どこから来たかも分からない次元漂流者が、魔導師の資質を持っているなどと言うコトは
 資質を持っている、と言うのは酷く珍しいことだ



「……まあ、私が考えても仕方ないことですね。ではナカジマ三佐、そろそろ行きます。色々とありがとうございました。」
「ああ。お前も頑張れよ。」

 そう言って八神はやては部屋を出て行った。
 一人残された室内でゲンヤは思った。

「……不安、か」
 違う、とゲンヤは思った。
 シン・アスカ。あの青年はきっと不安など露ほどに感じていない。
 どこか、何かが欠落したような表情。
 ゲンヤははやてにこそ告げなかったがシン・アスカに対して大きな危うさを感じていた。


 あてがわれた自室に戻るとシンはベッドにそのまま倒れこんだ。

「本当、何なんだろうな。」
 あの時、死ぬと思った。
 そうしたら訳の分からない力で別の世界に来てしまった。
 おかげで死ぬはずが今も生きている。
 死にたかった訳ではないし、生きているのが嫌な訳でもない。
 ただ、肩透かしを食らったような感じがあった。
 生きている理由を奪われた。それが一番適当な表現だろう。
 元の世界から弾かれて来たこの世界。厳密には誰かに召喚されたと言うことらしいが、シンにはそう感じられて仕方なかった。
 あの世界で殺されそうになった。平和の礎に殺されそうになった。自分がいては平和の邪魔なのだと。それは同時にあの世界での自分の役割が終ったことを意味している。
 つまり――自分はもうあの世界に帰ってはならないのだと。

(……寝よう)

 連日の検査と慣れない場所――世界での生活はシンの肉体に思った以上に疲労を溜め込んでいるようだった。身体中に倦怠感があった。目を瞑ると即座に眠気が押し寄せてくる。眠りに付く直前、ゲンヤの言葉を思い出す。

 ――元の世界に戻る。

 戻れる訳が無い。戻れば自分は火種になる。安定していくあの世界。それがどれくらい続くのか定かではない。だが、願わくば出来る限りの長い間平和を維持してほしかった。
 なら、自分はどうするべきなのか。検査の間ずっと考えていたが結局その答えは見つからなかった。
 ふと、ギンガの使った魔法を思い出す。

(あの力があれば、ステラやレイを守れたかもな。)

 眠りにつく瞬間、胡乱な頭はそんなことを考えた。
 寝顔は安らかな子供のような笑顔だった。



[18692] 第一部陸士108部隊篇 2.烈火
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 12:10
 シン・アスカの調査結果を見て、ギンガ・ナカジマは自身の机の前で陰鬱な表情をしていた。
 身体検査、事情聴取。
 そしてモビルスーツの残骸から回収できたブラックボックス内の記録。
 その3つの結果はシロ。彼とジェイル・スカリエッティの間に繋がりはない。
 ここまではいい。だが、問題はシンの証言の内容だった。
 コーディネイターとナチュラル。持つ者と持たざる者。その間で起きた戦争。
 何か些細なきっかけで起きた戦争。愛すべき隣人は互いに銃を持ち殺しあった。
 これが時空管理局の管理世界であるならそれほど問題にはならなかったかもしれない。
 現在、時空管理局の管理する世界では質量兵器の使用は全面的に禁止されている。
 それゆえこのような泥沼の全面戦争――殲滅戦になることはあり得ない。
 だが、如何せんシン・アスカのいた世界は違った。
 そこは質量兵器が発展した世界。モビルスーツと言う機動兵器が闊歩する世界。
 その中でデスティニーと言う専用機を与えられるまでに強くなった少年。
 少年は与えられた任務に対して忠実に従い何万人もの人間を殺してきた―――そう、“殺している”のだ。
 非殺傷設定というものが存在する時空管理局において殺人とはタブーの一つである。
 そのような人間を野放しにしていいものか。恐らくそういった問題が発生する可能性が高い。

「……でも、そういうことする人には見えないのよね。」

 ぼそりと呟き、彼の顔を思い出す。
 時々こちらを射抜くように鋭くなるものの平時は柔和な感情を浮かべる赤い瞳とどこか子供っぽさを残した顔つき。
 聞いた限りでは自分よりも一つ年上のはずだが、時折自分よりもよほど子供っぽい仕草をしているように思う。
 卑屈ではあるが、非道ではない。それがギンガの見た、シン・アスカだった。父であるゲンヤも同じくそう思っていることだろう。
 だが、彼は実際に何人も殺している。彼の話を信じればそれこそ、何千人―--もしかしたら何万人もの人間を。
 レコーダーから聞こえてきた彼の叫び声は鬼を連想させるように狂気を纏っていた――けれど、彼は恐らく任務に忠実だっただけだ。軍人である以上、上官の命令は絶対である。
 だから、彼はその戦争において殺し続けた。そして、戦争は彼の所属する側の敗北で終わり、幕を閉じる。

 その後、彼は敵に乗っ取られた軍――ザフトに復帰し、数え切れないほどの任務をこなし、そして、撃墜される。
 テロリストの鎮圧。航路の治安維持。
 その幾たびの戦いは彼の乗っていた機体、ザクウォーリアに残されていた戦闘記録に残されていた。
 それ以前に彼に与えられた専用機デスティニーの分も。
 彼の機体に備え付けられていたOSはデスティニーのモノを移植して作ったモノらしい。
 通常のOSでは彼の動きに追いつかないためのやむを得ぬ措置だったとか。
 結果、そのおかげで自分たちは彼の証言が正確だったことを知ることが出来たのだが――結果としてそのせいで彼の処遇に悩むことになってしまった。
 一度、彼が軍に入ろうと決めた理由について聞いたところ、

「身寄りも無い戦災孤児が生きる為にはそれが一番都合が良かっただけです。」

 ということらしい。だが、それだけで、僅か13歳の少年が組織のトップになるほどに努力することが出来るのだろうか。
 復帰した理由を聞くと、彼はその瞬間、それまでのような愛想笑いを消し去って――ぞっとするような冷たい赤い瞳で覗き込まれた。
 何も感情を写さない虚ろな赤い瞳。何があって彼はあれほどに冷たい瞳を手に入れたのか。

「……・シン・アスカ、か。」

 ギンガは小さく呟くと、再び報告書の作成に没頭する。没頭しつつ彼女は思った。
 ―――彼はこの後どうするつもりなのか。
 その問いに答える言葉をシン・アスカは持っていなかった。今は、まだ。


 その日、八神はやては自分の机の前でいつもなら気にもしないことを気に病んでいた。
 赤い瞳の男。シン・アスカ。陸士108部隊にて保護され、現在も108部隊にて留まっている次元漂流者である。とりあえずと言うことで陸士108部隊にて受け入れられている。
 気に病んでいるのは彼のことだった。別段、一目ぼれとか好みだったと言うような浮ついた話ではない。何が気になったのか、自分自身でも分からないが、何かが気になった。どこかで会ったことがあるのだろうか。そうも思った。
 けれど、はやてには彼との面識などあるはずもない。
 報告書ははやても、読んだが彼と自分の間に接点となるものは一つも存在しなかった。それも当然。彼は異邦人である。
 ならば、胸に在る違和感は何なのだろうか。例えるなら、再会した相手が自分の思い出とはまるで別の人間だった時の、落胆と懐かしさと嬉しさが同居し混ざりきって混沌とした気持ちだった。

(まあ、ええか。また今度や。)

 はやては頭を切り替えて、机の前の書類を片付けていく。
 どの道、彼女が今従事している――そしてこれから行う任務においてゲンヤ・ナカジマ三等陸佐の協力は必要不可欠であり、陸士108部隊にも頻繁に顔を出すことになる。つまり、シン・アスカと話をする機会など幾らでもある。
 ならばその時に確認すればいいだけのことだ。そうして再びはやては書類整理に没頭し始めた。それは翌日陸士108部隊に提出しなければならない書類。つまり明日にでも会えるのだから。
 この時、八神はやては知らなかった。いや、ミッドチルダに住む誰もが知らなかった。
 翌日はそんな暢気なことを言っていられる状態には決してならないと言うことを。


 仏頂面でシンはギンガと共にあるいていた。空は青く、風は気持ちいい。本来なら喜ぶべきところだ。そんなシンにギンガは苦笑しながら呟いた。

「浮かない顔ですね。外出は楽しくないですか?」
「いや、楽しくないと言うか……」

 ギンガに睨まれて、シンは両手の荷物に目をやる。右手は生鮮食品やらお菓子やらの食品。左手は服とかタオルとかの洋服関連。

「重いんですが。」
「我慢してください。」

 ギンガは一言告げると直ぐに歩き出す。
 その後ろ姿を見ながらシンは呟いた。

「……何で俺ここにいるんだ?」

 シンはこの世界に来て始めての外出をしていた。



 朝、寝ているとゲンヤから呼び出しを受け、言い渡されたのが「外出命令」。
 ギンガが買い出しに行くと言うのでその手伝いをしろと言うことだった。

「……何で俺が行くんですか?」
「今日非番の人間はギンガだけでな。暇してる奴って言ったらお前くらいしかいないんだよ。一日、ベッドで寝てるよりは健康的だと思うぞ?」
「……好きで暇してる訳じゃないんですが」
「だったら、グダグダ言わずに行ってこい。今のお前さんは誰がどう見ても暇してるさ。」

 そう言われると立つ瀬が無かった。ため息を吐き、シンは答えた。

「……分かりました。」

 結局シンはそのまま流されて、ギンガと共にここに来る羽目になっていた。

「……はあ」

 シンの前を歩くギンガは見た感じ笑顔で歩いていた。たまの休日を謳歌していると言う感じだ。だが、当のシン・アスカは冗談じゃないと言う感じで歩いている。ありていに言ってかなり帰りたそうだ。 ぱっと見たら分かるくらいに。何せため息をついている。
 ギンガがそんなシンの様子を見て、ようやく立ち上がる。

「それじゃそろそろ行きましょうか、アスカさん。」
「……やっと終わりですか。」

 先ほどから数えて三件目。両手の荷物は順調に増えている。幾らなんでも一つくらい持ってくれてもいいんじゃないのかとも思ったりしたが、止めておいた。流石にそれはなんとも情けないにも程がある。
 だが、疲れは蓄積する。ザフトのトップエースと言えどそれは例外ではない。買い込んだ荷物も服だけではなく日用雑貨等、まるで引越しの前準備のようなものばかり。何で自分がこんなことをと言いたくなる。

「何言ってるんですか?これからが私の用事です。」
「私の用事?……じゃあ、これ誰のですか?」
「さっき話したじゃないですか……今日はアスカさんの服とか買いに来たんですよ?いつまでも、その服着てる訳にもいかないでしょう?」

 ちなみに今シンが来ている服はゲンヤの服である。茶色いジャケットにスラックス。元々、服装に頓着しないとは言え流石にセンスが古かった。ありていに言ってオヤジ臭い。

「……ああ、そういえばそんなこと言ってましたね。」

 自分の為にやっていると言われて、何で自分がなど言えるはずもない。
 少しだけ居た堪れない気持ちになって、シンは俯いた。
 ギンガはそんな彼を見て、溜息を吐き、口を開いた。

「……これから食事して、ブラブラするつもりなんです。アスカさんだって、荷物持ちしに来ただけなんて嫌でしょう?」

 痛いところを突かれるシン。確かにその通りだった。

「いや、まあ。」
「荷物はそこのロッカーにでも入れておいて帰る時に持って行きましょう。」

 ギンガはそう話すとロッカーに向かって歩いていく。てきぱきとしたその様子からすると、こういった買い物に慣れているのだろう。
 それに対して、不貞腐れて、ぼうっとしている自分。買い物に慣れていないにしても話を聞いてないのは、自分でも流石にどうかと思った。

「……ホント何してんだろうな、俺」

 自分は何をしているのだろう。情けないにも程がある。ふて腐れるにも程がある。
 今日の外出自体、ゲンヤやギンガが自分を気遣ったからこそ起こったことなのは良く分かる。
 本来、こんなことにギンガが来る必要はまるで無い。
 それどころか自分をこうやって外出させる意味なんてまるで無い。
 もし自分が彼女の立場であれば独房にでも入れて動けないように縛り付けておく。
 そっちの方がよほど確実だし、安価だからだ。それをわざわざここまでして気遣うなどシンの感覚からするとどうにも信じられなかった。
 基本的に人のいい親子なんだろう。
 てきぱきと前を歩いていくギンガの後姿を見つめながら、歩き出す。頭の中にはこれからのこと。
 自分は一体何をしているのだろう?
 ふて腐れて、いじけて、諦めて、そして今も動けないでいる。
 起きるべきだ。動くべきだ。そう、思う。思うけれど、どうしても心は動かなかった。
 自分は何をするべきなのか。何をやればいいのか。
 その答えがどうしても見つからずに、一歩も動けないでいる。
 上空からは陽光が指し照らす異世界ミッドチルダ。その只中で自分はあまりにも無力で弱くて情けなかった。


(元気を出してくれればいいけど……多分無理かな。)

 ギンガ・ナカジマは半分以上今日の目的に諦めを感じていた。
 日々無気力な様相を続けるシン・アスカ。
 彼女はそんな彼に少しでも立ち直ってもらおうと思っていた。
 とても放っておいて、立ち直るようには思えなかったからだ。
 そこに昨日の夜、ゲンヤに呼び出され、外出許可とシン・アスカの付き添いを言い渡された。
 こういったことは本来捜査官である自分の任務ではないのだが、「異世界から次元移動を行って現れた人間。しかも魔導師の素養があり、その出自は特殊なモノ」という特殊な事情があって、事務官ではもし彼が拉致されたりした場合に対応しきれないと言う判断からだった。
 それ故、生真面目な彼女はやったことも無い異性と外出ということをする羽目になった。
 無論、彼をどうやって立ち直らせるかということを考えていた彼女にとっては渡りに船であったことは間違いない。
 そうして今日に至る。
 不謹慎ではあるが、ギンガもそれなりにワクワクはしていた。
 正直期待するのも甚だしいほど憔悴しきったシン・アスカと街を歩いたところで楽しいとはとても思えなかったが、年齢的にはギンガも少女と言っていい年齢である。
 しかも仕事仕事でそういったこの年代の少女が持つ楽しみ――いわゆる色恋沙汰とはまるで無縁の生活を彼女は続けてきた。
 故にギンガにとって今日の外出は、保護対象とは言え“男性”との始めての外出であった。男の影などまるで無い彼女にとっては初めての経験である。
 2週間前まではこんなことをするとは思いもよらなかったことを考えると、表面上は完璧に振舞っていても内面では割と葛藤していたりするのだ。
 彼からは見えないようにカンニングペーパーを懐から取り出し、そこに書いてあるチャート図を見て、さも「慣れてますよ」と言わんばかりの態度で先ほどからギンガはシンを案内していた。
 その時々のシンの反応を見て、心の中では一喜一憂している。
 本質的に良いお姉ちゃんを地でいっているため、基本的に見栄っ張りなのだ。

「あ、アスカさん、このロッカーです。」
「……ああ、はい。」

 このロッカーへの案内にしても、右手に隠したカンニングペーパーに書かれている道だった。
 ギンガ自身はここに来たことは一度も無い――そこは駅の構内のロッカーでありギンガ自身はこういったものを利用する機会が無かったからだ。
 シンはロッカーを開けると、気だるげにに今日買った荷物を入れていく。
 その横顔を見れば、ギンガで無くとも、息抜きにすらなってはいないなと分かる。
 気だるげで、虚ろで、覇気というものが欠片も無い表情。簡単に言ってやる気が無い、無気力だった。

(……前途多難ね)

 ギンガはシンからは見えないように影でこっそりとため息をついた。
 仕事とは言え初めての異性と遊んでいるというのに、その相手にやる気がまるで無い。
 自分は何やってるんだろうかと考えたくもなる。
 せめてもう少しくらいはやる気を出してくれてもいいんじゃないだろうか、と。

「で、次はどこに行くんですか?」

 ロッカーに荷物を入れ、シンは物思いに耽っていたギンガに尋ねてきた。

「ああ、次はですね……あれ?」

 その時、ギンガはシンの後方にそれまでとは違う景色を見た。シンの身体越し――恐らく数km以上離れた場所にソレはあった。

「……?」

 怪訝に思ったシンが振り返る。遠方に立ち昇る煙がある。工場から噴出している白煙のように高く立ち昇っていく煙。

「……煙、あれは、火?」

 ギンガが呟き、慌てて、その場所から駆け出し、外に出る。そして、音がした。空気を震わす轟音が。そして同時に立ち昇る炎。天を焦がさんばかりに炎が登る。それはまるで天に向かって助けを求める手のように。

「嘘でしょ」

 呟き。そして再び爆発。轟音。炎。終いには火の粉がここからでも見えるほど上空を舞い散った。馬鹿げた大きな炎から飛び散る火の粉も馬鹿げた上空に舞い踊る。
 一瞬。正に刹那。
 時間など幾ばくかの間に、平穏で牧歌的で穏やかそのものだった街は、阿鼻叫喚の煉獄と化した。
 周辺で爆発が起きる。上空には幾つものガジェットドローンの群れが見える。
 空は赤く染め上げられ、街のそこかしこで爆発が起きている。
 一刻前の光景など最早どこにも存在していなかった。

「どうなってるんだ!!」
「誰か助けて!!助けて!!」
「いやああああああああああ!」
「娘が、娘が!!!」

 悲鳴と怒号。
 いきなりの事態に誰もが恐慌しパニックを起こしている。
 我も、我も、とその場から逃げ出す。
 シンはただその光景を呆然と見つめていた。
 ギンガは懐から慌ててインテリジェントデバイスであり通信機でもあるネックレスに向かって何事か大声を張り上げている。

「……けるな。」

 シンは呟きと同時にその場から駆け出した。走り出した方向は炎が立ち昇るその中心。
 押し寄せる人波を掻き分け、泳ぐように走っていく。表情はギンガからは、陰になってまるで見えない。

「あ、アスカさん!!どこ行くんですか、アスカさん!!」
 通話中だった電話から耳を外し、突然走り出したシンに向かってギンガが叫ぶ。
 シンはギンガの叫びなど意に介すこともなく人並みを走り抜ける。
 止める間もなく彼女の方からシンの姿は見えなくなった。

「ああ、もう!!ブリッツキャリバー!」
『Yes,sir.』

 ギンガが胸に下げているネックレスが答える。
 閃光が煌めき、ギンガの姿が変わる。それは初めてシンを助けたあの時の姿。
 足元の車輪が唸りを上げる。

「ウイングロード!」
『Wing Road』

 叫びと共に地面に拳を突き立てる。つき立てた場所から空中に向かって伸びて行く薄っすらと輝く空中へと続く道。
 その道をギンガは走り、目的地へ一直線に向かっていく。
 シンの行き先は恐らく被害の中心部。あの爆発が起きた場所だろう。
 ギンガはそう当たりをつけて駆け出した。

 身体が重い。全力で何百mも走り抜け、尚且つ人ごみを掻き分けてきたのだ。
 疲れない方がどうかしている。それはコーディネイターとて同じ。普通ならそこで座り込んでもいいような疲労。
 だが――顔を上げる。炎を見つめる。
 赤い瞳が憤怒で歪み釣り上がる。

「ふざけるな。」

 声に感情が篭っている。無気力では決して込めることの出来ない感情が。

「ふざけるな……!!」

 疲れた身体から送られる「休め」というシグナルを全力で無視し、シンは無理矢理走り出した。

「ここも同じなのか、平和じゃないのか・・・・!!」

 燃えている。世界が、赤色に染め上げられていく。
 炎で燃え盛る街はベルリンを思い出す。
 炎で逃げ惑う人はオーブを思い出す。
 理不尽な光景。戦いとはまるで無縁の一般人を狙った襲撃。否、惨劇、だ。
 それはシン・アスカの心を刺激し、無気力を忘れさせるには十分すぎるほどの刺激だった。

 ―――シン・アスカの心には傷がある。戦争という名の傷痕が。
 一度目の戦争で彼は家族を失くした。
 二度目の戦争では守ると約束した少女と親友を失くした。
 それはトラウマとなってシンの脳裏に刻み込まれている。
 トラウマ――シンにとって戦争とはトラウマそのものである。
 もっと具体的に言うなら、身を守る力を持たない弱き人々が苦しむコトそのものを憎んでいる。
 無気力でやる気など欠片も無かった心には今や暴風雨の如く激情の波濤が押し寄せていた。
 それはこの世界に来てから一度も感じたことの無い感情。
 シン・アスカという男の本能に巣くう感情。「理不尽に対する怒り」という炎だ。
 シンは怒りの形相のままにそこに向かった。
 何が出来るのか。何も出来ないのか。
 足手まといにならないのか。自分は逃げるべきではないのか。
 そんなものは一切関係なかった。考えすら浮かばなかった。
 彼の中にあるのはただ一つ。
 強迫観念のように畳み掛けてくる“守る”と言う願い。
 それを彼は、思い出した。
 自分がどうして生きているのか。その理由を。己にとって初心を。
 思い返すのはあの日のオーブ。散らばる身体。
 右手だけの妹。顔の無い父。臓腑がはみ出た母。
 善でも悪でも関係なく、理不尽に苦しむ人を失くしたい。理不尽な横暴で苦しんで嘆くのは自分だけで十分だったから。
 だから、どんなに疲労してもシン・アスカの疾走は止まらない。身体の命令を心が拒絶し、無理矢理に動かす。

「くそったれ……!!!」

 目的地までは未だ遠く、シンは走り続けた。


「どうして、こんな辺境にまで……!!」

 ギンガはウイングロードを展開し、空中を疾走する。目的地へはもう少し。だが、思うようには前に進めないでいた。
 空を飛行し、街を蹂躙するガジェットドローンⅡ型が彼女の邪魔をしているからだ。高速で移動する飛行機のような形をしたソレはギンガのような陸戦魔導師にとって鬼門のような存在だった。
 ギンガの使う魔法は、以前シンの前で使ったリボルバーナックルによって魔力を高め、拳の前面に硬質のフィールドを形成し、フィールドごと衝撃をぶち込む「ナックルバンカー」に代表されるように、その魔法は主に「格闘」を強化しているものばかり。
 ウイングロードを使用することで空中の敵との戦いは行えるものの、あくまで突撃用。広域への射撃魔法を持たないギンガにとって、援護する――もしくは共闘する仲間のいない単独でのⅡ型の大群など鬼門以外の何者でもなかった。

「これじゃきりが無い。」

 あまりにも数が多いこと。そして前述したように相性が悪い。ギンガは周辺の地形を観察しながら、思考を巡らせる。無論、回避の為に身体は止めずにだ。
 ガジェットドローンⅡ型というのはその見た目どおりにとにかく動きが早い。だが、その代わりに直線的な動きしか出来ない。ありていに言って小回りがまるで利かない。
 思考を加速させていく。小回りが利かない高速移動。攻撃箇所は前方のみ。つまり、決して

「……いけるわね。」

 ――ギンガ・ナカジマの顔色が変わる。鋭く細い視線は明らかな戦士の瞳。
 ふと、シン・アスカを思い出した。
 何も力を持たない癖に、彼は後先を省みずに走っていった。
 それまでとはまるで違うあの様子ならガジェットに生身で喧嘩を売ってもおかしくない。
 だが、彼が向こうの世界でどれほどの実力を持った軍人だとしても、こちらでは魔法も使えない一般人。

 ――それは、ただ死にに行く自殺行為となんら変わらない。

(死なせる訳にはいかない……!)

 心中の叫びと同時にブリッツキャリバーに連絡。返答は問答無用の『Yes,sir』
 直ぐにウイングロードを展開し、その場所に向かう。風切り音と共にⅡ型も追いかけてくる。

「――予想通り。」

 だが、遅い。こと直線に限って言えば、ブリッツキャリバーに敵う者など殆どいない。追いすがれるとすれば同じ系統の、そう彼女の妹――スバル・ナカジマの持つマッハキャリバーのみ。
 鋭く細い鷹の如き視線がⅡ型との距離を推し量る。
 ――その距離およそ数十m。
 頃合だ。そう思ったギンガ・ナカジマはそこで急停止をかける。
 彼女が今いる場所。そこは、ビル街のど真ん中―---彼女が目指した目的地だ。
 そこでは通り抜ける場所が限定され、必然ガジェットドローンⅡ型の動きは“直線的な動き”だけに限定される。振り返り、彼方を向く。リボルバーナックルが回転し、カートリッジロード。
 見れば――引き離したⅡ型がこちらに向かって突進してくる。その数、凡そ20。

「ブリッツキャリバー、いいわね。」
『Yes,sir』

 足元のブーツ――ブリッツキャリバーが答えを返す。
 次瞬、ウイングロードを自分を中心に複数展開。
 それも平面ではなく三次元的に段差を設けて。
 これは自身の行動範囲を広げるライン。これまでのように「走る」為のラインではない。「戦う」為のラインである。
 ラインは蜘蛛の巣のように幾何学模様を描きながら、広がっていく。
 ――小さな構え。腕を折り畳み、ギンガ・ナカジマの瞳は敵を射抜く。
 ひゅっ、と息を吸い込み、踏み込む。そして、ギンガの足元の車輪が唸りを挙げる。
 左拳のリボルバーナックルに再度のカートリッジロード。ガシュンと薬莢が飛び出し、蒸気があふれ出る。そして、ナックルが回転する。
 僅かに身体を前傾に押し倒し――瞬間、ギンガ・ナカジマが弾け飛んだ。否、弾け飛んだかのように突進した。

「はあああああ!」

 裂帛の気合と共にこちらに向かっていたⅡ型が攻撃する前に左拳を叩き込む。拳を叩きつけられたⅡ型は攻撃する間もなく沈黙。その背後が光る。攻撃の為にただ一瞬のみ動きが止まったギンガに向けて狙いを済ました射撃。左右、そして後方のガジェットからだ。
 放たれた射撃。それを彼女は確認することも無く、上空に向かって跳躍――何も無い虚空に“着地”した。そこにあるのは薄く輝く光の道――それは先ほどあらかじめ段差を付けて広げられたウイングロード。そして、それを足場に再び跳躍。
 くるり、と回転し左かかとを方向転換してきたⅡ型に浴びせる。
 その後方に再びⅡ型。跳躍。そして先ほどと同じく段差をつけて作られたウイングロードを足場にⅡ型目掛けて跳躍し、左拳を叩き込む。
 ギンガ・ナカジマがやっていることは実に単純なことだ。
 予め高低差を設けて作られたウイングロードを足場に、相手が攻撃してくる瞬間を見計らって回避し背後もしくは上空を取って攻撃する。ただそれだけ。Ⅱ型はその性質上、前面にしか武器がついておらず、上空・真下・背後が死角となる。
 後はそれを繰り返すだけ。単純な作業しか出来ないガジェットは状況への対応が出来ない為に対応策を練ることもない。いわゆるハメ技だ。

「これで、最後……!」

 左拳を打ち込み、最後のガジェットがその動きを停止する。
 戦闘用に展開していたウイングロードを全て破棄し、彼女は再び爆発のあった場所に向かった。

「……無茶はしないでくださいね、アスカさん。」

 あの無気力なシン・アスカならそんなことはしない。
 だが、多分、無茶をしている。何故だか彼女にはその確信があった。
 最後に一瞬だけ見えた彼の瞳。赤い瞳には焔が宿っていたのだから。



 シンはその場所にたどり着いた時、何をするべきかなど考えはしなかった。彼はただ反射的にその場所に向かっただけだ。
 だから逃げ遅れた人はいるのか、破壊の規模は、原因は?
 そういった基本的な事柄の確認の一切を忘れて、その場に直行した。だから、着く直前になってシンは思ったのだ。どうするべきか、と。
 今更戻ることには意味が無い。もし、戻ってから、逃げ遅れた人がいるとなれば取り返しのつかないことになる。だから、彼が出来ることは逃げ遅れた人がいないかどうかを確認するくらいだった。何とも間抜けな話である。
 自嘲気味に嗤うシン。慌てたせいで空回り。まるで意味が無い。だが、

(いいさ。確認だけでもしてってやる。)

 とりあえず現状ではやれることをやろう。そう思ってシンはその熱気の中に身を晒す。建物の影から出た瞬間、そこは正に別世界だった。
 熱気が呼吸を阻害する。炎が生み出す上昇気流。熱量その物も凄まじくその場にいるだけで、息が苦しくなるほど。
 車はひっくり返り、煙を上げている。空は朱く染まり、火の粉が空から降り注ぐ。
 地獄と言って差し支えない、そこはそんな場所だった。

(酷いな。)

 予想以上の惨劇にシンは胸中で舌打ちする。如何なる方法を用いたのか、この僅かな時間でここまで徹底的な破壊を引き起こすその敵の力量に。
 戦後、シンは兵士として戦っていた際にこういった場面には何度も出くわしていた。無論、その全てが既に廃棄されたコロニー内での出来事ではあったが。だが、それでもここまでの徹底的な破壊というのはそうそうあるものではなかった。
 焔と瓦礫を避けて、赤く染まった道路を歩く。道路の両脇に建てられたビルは軒並み崩壊し、傾くか崩落するかのどちらかだけ。更に酷いものは既に瓦礫が残るのみで殆ど更地と化している。
 周囲に注意しながら歩いていく。崩れているビルや抉られた道路。何かの爆発でも起こったのだろうか。よほどの破壊力を持つ爆弾でもなければこんな結果は生み出せない――いや、魔法と言うものがあった。
 あれならば問題なく出来る……のかは分からないがシンは恐らく出来るのだろうということにしておいた。モビルスーツや爆弾と言った質量兵器を嫌うこの世界では少なくともそれ以外には考えられない。
 そして曲がり角に指しかかり、シンはそこを曲がろうとした――瞬間、動きが止まり、慌ててその場に身を隠した。

(何だ、あれは)
 そこには一人の人間がいた――いや、人間かどうかは定かではない。
 ただ、見えた姿はそうとしか思えなかっただけで――けれど、それは人間とは懸け離れた存在だったが。
 ソイツは蒼かった。
 蒼い――蒼穹というべき青。白混じりの蒼。全身を覆うは甲冑。
 鋭利に尖り、優美に曲がり、一目見て目を奪われるほどの造形。
 世辞を抜きにして、ソイツは美しかった。機能美などあるはずも無い姿でありながら、ソイツはそれ以外の姿を許されない。
 およそ2mほどの体躯。その体躯に比べて腕や足は細く長い。背面から突き出した翼を思わせる二対の羽金。そして腰に差し込まれた二挺の銃。
 鎧騎士。それを表すとするならその言葉が適当だろう。無骨さなど欠片も無く、優雅さすら忍ばせた華麗な“騎士”。
 その鎧の白混じりの蒼穹を見てシンはふと似ていると感じた――それはどこか、自分がいつか倒したあの機体を思い返させる、と。自由の名を冠した前大戦で最強を誇ったモビルスーツ。
 ――フリーダムを。

「……ぁ」

 ソイツが、上を向く。背部の羽金が変形する。その変形は機械が変形するのとはまるで違う――変形というよりは再構成。そういった方が良い変化だった。
 砲身を形作り、構成されていく羽金。その間、僅かに数瞬。間髪いれずに放たれる白光。光熱は一瞬で、世界を激変させる。
 熱風が飛び交う。立ち昇る熱風は旋風を生み出し、粉塵を巻き上げ――一瞬、世界が粉塵に覆われた。そして、その只中でシンは見た。
 ガラス状に融解したビルを。

「…………」

 それを見て、シンは瞬時に察した。眼前に佇む蒼穹の翼持つ鎧騎士。ソレがこの惨状を作り出した元凶なのだと。
 ガラス状になるほどに融解したビル。それは一体どれほどの高温で熱せられたと言うのか。
 シンの体からいきなり冷や汗が流れた。生唾を飲み込む。目が見開いた。

(まずい。)

 身体が動かない。思考もまるで働かない。今まで一度もこんなことは無かった。
 元の世界で戦っていた時もこんな風に――「恐怖で動けなくなること」など一度も無かった。
 真の恐怖に出会った時、人は震えることすらしない。ただ、停止する。極限の怯えは肉体の活動よりも延命を選択させるのだ。隠れ、逃げることで一分でも一秒でも長く生きる為に。
 今のシンが正にそれだ。一目見てシンは理解する。
 治安維持の為、その前は復讐と平和の為、何度も何度も戦い続けてきた。
 その膨大な戦闘経験がシンに告げたのだ。
 コレに触れるな、と。
 “生き物”としてのレベルではなく、ステージが違う。例えるなら、蟻と象。比べることも馬鹿馬鹿しいほどの絶対的な差がそこにはあった。

「……っ」 

 蒼穹の鎧騎士がこちらを向いた。いつの間にか背部の砲身は羽金に戻っている。
 シンの背筋を怖気が走る。シンはじっと息を潜め物陰に隠れ続ける。冷や汗が止まらない。心臓の鼓動がやけに煩い。シンはソレの一挙手一投足からまるで眼が離せない。恐怖と、そして絶望で。

 ――ソレが歩き出した。動き出す。

 ソレはシンに気付かなかったのか、彼の前をゆっくりと通り過ぎていき、そして、ソレは右手を振り上げる。
 何をする気なのか。シンはそう思い、眼をこらす。
 今度は、右手が変形――“再構成”されていく。
 その姿は剣。それも大昔西洋の騎士が使ったと言う片手剣――サーベル。
 そして、シンはそこで気付いた。
 それの振り下ろす先には、気絶しているのか、うつ伏せに倒れている小さな――凡そ年のころ9、10歳の少女がいることに。

(……え?)

 心中で間抜けな声が上がった。
 ドクン、と心臓が跳ねる。鼓動が大きく耳の奥で鳴り響く。

 ――間違いない。ソイツは、その少女を殺そうとしている。

「……ぁ」

 止めろと口にしようとしても声が出ない。止まってしまった身体と同じく、恐怖で口が開かない。
 少女は死ぬだろう。確実に。剣は明確に子供の心臓を貫く。万が一、億が一にも外すようなことはない。

(俺は)

 かちり、と、シンの頭の奥でチャンネルが切り替わる。
 瞳に今を映すチャンネルから、思いの過去を写すチャンネルへ。

 ――焼け焦げた丘。家族は吹き飛んだ。父は死に、母は死に、妹は死んだ。残されたのは妹の右腕と唯一の形見へと成り上がった携帯電話。
 自分は叫んだ。力が欲しいと。不条理をぶち壊し、理不尽を駆逐し、平穏を押し付ける絶対的な力を。

 ――チャンネルが切り替わり元に戻る。そこには剣を振り上げた蒼穹の鎧騎士。
ソレに怯えて動けないでいる、無様で惨めで生き汚い汚泥の如き自分自身。

(俺は)

 止められない。止められない。止めることなど出来はしない。
 無力だからだ。無力な自分は此処でこうやって怯えて生きるしかない。

 ――がん、がん、がん、がん、がん、がん。
 頭痛が走り出す。ハンマーで何かを殴るような音が鳴り響く。

 ――ガチガチガチガチガチガチガチガチ。
 身体の震えが止まらない。さながら虫の羽音のような音が鳴り響く。
 頭の中はさながら大合唱。まるで大音量のライブハウスの中にでも放り込まれたよう。

 痛みが教えることは一つだけ。震えは告げることも一つだけ。
 救え、と。それが答えなのだ、と。
 目前で行われようとしている光景。シン・アスカが望むモノはその中にしか存在しないのだと。
 怯えを殺せ。恐怖を殺せ。命など捨てて、全てを「守れ」。
 恐怖と保身から助けられたかもしれない命を見殺すくらいなら、守れなかった後悔で身を切り裂かれるくらいなら、死傷の痛みの方がはるかに良い。

(俺は)

 唐突にシンの呪縛が解ける――何故か。
 何故ならば、目前で起こるソレを止めること、それこそがシン・アスカの積年の望み。
 積み重なり、澱のように沈殿した願望――「誰かを助けたい」という常軌を逸したヒーロー願望。
 シン・アスカはそれを成就する為「だけに」これまで生きてきた。そしてそれはこれからも変わることなく。

(俺は)

 何かが割れる音がシンの中で鳴り響く。
 それは、戦時中、幾度もシンを救ったあの感覚。シンの瞳から焦点が失われる。同時に張り巡らされていく全能感。

 ――今、此処にシン・アスカは蘇る。

「――う、」

 声が弾けた。足が動く。身体が動く。思考など既に置き忘れた。

「うわああああああ!!!!」

 迸る咆哮。血走る瞳。裂けんばかりに広がった口。
 憎悪と怒りが燃え上がったその表情は、焦点を失った瞳と相まって悪鬼を思わせる邪悪で苛烈な顔だった。
 シンの雄叫びを聞いて、ソレはシンに気がついたらしい。
 彼の方へ振り向き、剣を構え――その時にはソレの懐に入り、右足を両手で掴み、思いっ切り――柔道で言う、すくい投げの要領で投げた。
 ソレはバランスを崩し、後方に倒れる。
 そのまま馬乗りになると相手の首の部分を左手で掴み、全身全霊を込めて握り締め、そして残っている右腕を振りかぶり――殴りつけた。

「あああああああ!!!」

 叫びながら一発といわず何発も連続で殴りつける。
 硬い鎧で拳が割れようと、まったく痛みなど与えていないとしても、構わない。何度も何度も殴りつけた。引き出せるだけの力で思いつくだけ殴り続ける。
 シンの右拳は自分の血で赤く染まり、掴んでいた左手からも同じく赤い血が流れ出ている。
 だが、それがどうしたとばかりにシンの拳は止まない。

「うううう、ううううう!!!!!」

 獣のような唸りを上げ、今度は両手でソレの首を締め付ける。細身ながらもシンの身体能力は鍛え上げられた結果としてかなり高い。少なくともスチール缶を片手で握り締める程度には。
 その、全身全霊を賭して、シンはソレの首――鎧ではなくその継ぎ目――を両手で握り締める。
 呼吸を止める為にではなく首の骨ごと“折る為”にだ。
 だから首と身体の繋ぎ目を狙った。どんな硬い鎧を着ていようと関節部分は絶対に脆くなる。
 それはモビルスーツだとて例外ではない。
 事実、今触っている感触だとて、殴りつけた鎧のように鋼の感触ではなく柔らかいゴムのような感触。
 首を狙ったのは本能によるものか、それとも考えてのことか。それは定かではないが、それはこの時点でシンが出来る最上の殺害方法。つまるところ、先手必勝考える間もなく殺す。
 だが、全力で首を絞めているにも関わらず、ソレには苦しむ様子がまるで無い。否、苦しむどころかソレは右手を挙げて、シンの額に触れ――ソレの右腕が僅かに動いた。
 優しげに触れただけの右手はその瞬間、シン・アスカの肉体を軽く“押した”。見た目には軽く触れただけのような――赤子を撫でるような優しさで。
 だが、その優しげな手つきから生まれた力は、剛力などと言う言葉を馬鹿らしく思うほどの、怪力だった。

「うおおお!?」

 叫びと共にシンは吹き飛んだ。軽く力を込めて押されただけで、数mほどの距離を吹き飛ばされ――そして、落ちた。地面に激突する瞬間、わずかばかりに身体を捻り、何とか受身を取る。
 硬いアスファルト舗装の上に叩き付けられるシン。交通事故にでもあったような衝撃がシンの全身を殴打する。だが――血走った目で、荒い息を吐きながら、鼻血をぼたぼたと流しながらも、彼は直ぐに立ち上がった。痛みなど感じていないかのごとく。

「はあっ!はあっ!はあっ!はああああ!!!」

 再び突進。ソレは面倒そうに剣を振った。いきなり現れた異常者。そんな風に思ったのだろう。事実、今のシンは健常者とはとても言えない。
 迫る剣。面倒そうとは言ってもそこに込められた力はシン如きの肉体など易々と破壊するほど。
 だが、シンはそれを身体を僅かに前傾させることで回避する――ボクシングで言うダッキングだ。
 紙一重の差で剣はシンの背の上を通り抜けていく。

「ほう?」

 ソレから初めて声が発せられた。どこか知性的な、されど嫌らしさを滲ませた声。その声には驚いているような調子があった。
 シンが右手を振り被る。狙いは先程と同じ首と体の継ぎ目。どこが脆いか、どこが強いのか。
 そんなこと調べる暇も力もない。だから彼に出来ることはソレを繰り返すだけ。

 愚直に、ひたむきに。
 ただ、力任せに殴る以外に無いのだから。

「うわああああああ!!」

 右拳が当たる。その次は左拳。拳戟は止まない。幾度も幾度も、シンはソレを殴りつける。
 だが、まるで効果は無い。当たり前だ。シンは鎧の上からただ力任せに殴りつけているだけなのだから。
 だから、ソレは面白くも無さげに剣を振りかぶる、その鎧騎士のちょうど瞳の部分にある窪み。そこに白い光が灯る。猫の瞳が輝くように、ソレの瞳が開き、輝く。
 瞳は静かに告げる。
 ――死ね。

「あ――」

 本能が恐怖を覚え、肉体は硬直しようとし――されど、理性はそれら全部を裏切って、彼の身体を目の前の鎧騎士に向かって“押し出した”。

「あ、あ、あああ!!」

 振り下ろされる剣。それに向かって、シンは更に殴りかかった。
 ソレもさすがに驚いた。自殺志願としか言いようが無いその所業に。

「ああああああああ!!!!」

 そして、それまでよりもひときわ大きな叫びと共にシンの右拳がぶち当たる。
 拳程度でソレは微動だにしない。決して、ダメージなど受けることは無い……はずだった。
 だが、ソレがよろけた。シンの拳の一撃で。先ほどまでは何の痛痒も感じなかったソレが初めて、“動いた”。

「くっ」

 たたらを踏んで、後方に倒れ込もうとする身体を、剣を支えとすることで倒れ込むのを防ぐソレ。呆然と――無論、外側からはその表情は見えないが――シンを見る。

「はあっ!!はあっ!!はあっ!」

 止まらない鼻血。全身を襲う殴打の痛み。歯を食いしばり、唇を噛み切って、それでも耐え切れないほどの激痛。けれど、それを全て振り切って、彼は再び視線を向けた。
 鋭く、苛烈な、焔の瞳を。

「……」

 ソレは静かにシンを見つめていた。彼の拳、それが朱く燃えていた。彼自身はまるで気付いていないようだが――それともそんなことは初めから“どうでもいいこと”なのか――炎は朱く、高らかに燃え上がっている。
 両手に灯る大きな炎。デバイスも詠唱も無しに資質だけで無意識に起こした魔法。

「……ふむ、中々面白いことをするじゃないか。」

 ソレが口を開く。流される言葉はどこか軽薄な響きを感じさせる。しばしの睨みあい。そして、ソレが上空を見て、口を開いた。

「……来たか。」

 シンも血走った目で空を見た。そこには、この間、ゲンヤの部屋で会った八神はやてが浮かんでいた。白と黒を基調としたバリアジャケット。背中に生える3対の黒き羽。そして、手に持つは魔法使いの杖。

「八神、はやて……?」
「アスカさん、その子連れて離れてや!」

 その言葉を聞いてシンは直ぐに子供を抱えて、その場から飛び退くようにして離れる。瞬間、はやては呟く。

「いくで、リイン!」
『まかせるですぅ!』
「――仄白き雪の王、銀の翼以て、眼下の大地を、白銀に染めよ。来よ、氷結の息吹。」

 高らかに謡われる歌。それは詠唱。即ち、魔法を使う為の言霊。魔力が収束し、形を為す。
 生まれ出でるは幾何学模様の魔方陣。重なり、回転し、そして。

「氷結の息吹(アーテム・デス・エイセス)!!」

 はやての周囲に出現した4つの立方体から幾つもの光が放たれる。放たれる光、それは光ではなく、圧縮された気化氷結魔法。
 放たれた光は着弾した瞬間、着弾地点の熱を一気に奪い取り凍らせ、氷結へと導く。

「す、げえ」

 呆然とシンはその光景を見つめる。はやてが放った魔法は付近一帯を鎮火……いや、凍結させていた。燃え上がっていた街は一瞬で白く凍った世界となり、阿鼻叫喚は極寒の地獄へと変化する。

「アスカさん!大丈夫ですか!」

 いきなり腕を掴まれ、シンは振り向いた。そこには、ギンガがいた。出会った時と同じ格好でこちらを睨んでいる。

「アンタは……」
「ここは八神二等陸佐に任せて速く!!」

 そう言ってシンが抱えていた子供を奪い、彼の手を取ってギンガは叫んだ。
 手をひっぱられるシン。上を向けば、はやては以前としてあの鎧騎士に向かって氷結魔法を放ちながら、付近の鎮火を行っている。あの鎧騎士は沈黙している。確かにあれほどの魔法の直撃を受ければ、どんな生物であろうとも動きを止めるのは間違いない。

「……分かった。」

 ギンガの言うとおりだった。自分がここにいても意味は無い。危険すぎる上に足手まといになるだけだ。既に炎の消えた拳を握り締め、無力を痛感する。
 力が無いと言うのは、つまりは何も出来ないのと同じことなのだ。自分ひとりではこの子供一人助けることも出来なかったのだから。

「……アスカさん?」

 そんなシンを怪訝に思うギンガ。どこか助けてもらったことに不満そうな、駄々をこねる子供のような。そんなこれまで――とは言っても2週間にも満たない期間だが――見たことの無い表情を見せたシンを。



[18692] 第一部陸士108部隊篇 3.願い
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 12:11
 世界は残酷だ。
 誰も自分を救ってくれなかった。
 世界は残酷だ。
 誰も自分を見てくれなかった。

 “だから”世界は残酷だ。だから、こんな世界など滅んでしまえばいい。

 それが、彼の――ラウ・ル・クルーゼの切なる願いだった。


「それでも!!守りたい世界があるんだあああ!!!」
 返答ではない、ただの叫びだ。決して、その言葉に意味など無い。
 そこにあるのはただ私が放った 言葉への反応。
 決して、質問への返答ではない――無論、自分の言葉も質問になどなっていないのだからお互い様ではあったのだが。

 目前に迫る光の刃。仮面が壊れた。熱量が跳ね上がった。
 溶けていく。世界が。自分が。終わる。
 断末魔の声など上げる暇があればこそ。その時、自分は死んだ。その確信があった。
 死。細胞が燃焼した。骨が折れた。頭蓋が破裂した。ヘルメットに弾けた脳漿。世界が消えた。

 ――たかが、ヒーローごっこをしようとしていた人間に私は完膚なきまでに殺された。それも、人類最高の才能と言うふざけたモノの前に。

 後悔があった――違う。ソレしかなかった。
 伸ばしたモノに手は届かなかった。
 世界は私のモノにならなかった。
 怒りなど無かった。結局、人の人生を決めるのは才能なのだ。遺伝子調整などと言う神への冒涜。その前に私は敗れた。
 もう、何もかもがどうでも良かった。

 ――思考することさえ出来ない死の中で私の意識は拡散していった。
 願わくば、今度こそはもっと“まともな”人生を。それだけを願って。


 ――おかしなことに“目覚めた”。
 おかしなことに、と言うのは他でもない。死んだ人間が目を覚ますなどと言うこと自体がおかしいのだから。
 目が覚めれば見えたのは、にやついた瞳と釣りあがった唇。
 次の瞬間、耳に入り込んできたのは肌を舐めるような怖気を奮う鳥肌すら立たせようとすら、嫌らしい声。
 声の主は自分に聞いた。

「君を助けてやろう。その代わり、君は私に力を貸してくれないか?」

 自分は、返答しなかった。その男は沈黙をイエスと捉えたのか、勝手に自分を助け、力を与えた。自分にとってそんなことはどうでも良かった。
 心中の思いは一つ。

 ――また、ろくでもない人生が始まりそうだ。

 その、一つだけの絶望だった。



 月日が流れた。数ヶ月か、それとも数週間なのか。そんなことはどうでも良かった。時間の感覚など、ひたすらにどうでもいいことだったからだ。

 ありていに言って、その時から彼は死んでいたからだ。
 あの瞬間、人類の最高傑作と名高いスーパーコーディネイターと戦い、敗れた瞬間から彼の心は完全に折れてしまっていた。願いを叶えることは出来なかったからだ。
 世界を滅ぼすことも、人類の驕りそのものとも言える彼を殺すことも、結局、何もかも為すことの無いまま彼は死んだ。
 苦痛や悲しみは無かった。あったのはただの虚無。自分がこの世界において、何を為す事も出来ないと言う虚無だった。
 けれど、皮肉なことにその虚無があったからこそ、彼は生き残ることが出来た。
 死んだ人間が生き返るなどと言うことはありえない。いわんや別世界に来て生き返るなどと言う御伽噺など、ただで起こり得るはずが無い。
 毎日毎日着替える度に見える、自分の身体。ところどころに機械が“現出し”、胸の中心で薄く輝く心臓――レリック。
 彼は助かる為に――自分では望んでもいなかったが――人間の身体と言うモノを捨てなければならなかった。

 人として生きる為に人を捨てる。
 彼を助けた人間は助かったことを喜びもしない彼に何も言わなかった。
 ただ、自分の行った処置が上手くいったことに満足した――そんなご満悦な顔をしていた。

 彼は、人間では無くなった。
 男が言うにはデバイスであり、人間であると言う。
 人類における初の試み。その初の成功体なのだと。意味が分からなかった。知ろうとも思わなかった。どうでも良かった。

 その無気力の虚無があればこそ、その人間では無くなった虚無に対応出来た。
 そして、その虚無があればこそ、彼は日に日に腐っていった。
 前にも後ろにも進めない無限の停滞――少しずつ腐食して行く日々。

 早く誰か私を殺してくれ。ずっと、そう思っていた。

 ――今日、この日までは。


 空中から間断なく放たれる氷結魔法。規模からして恐らくはオーバーSランクの魔導師だろう。
 鎧の中でソイツはそろそろいいかと考えた。
 耐えろと言うならこの、“身体”は幾らでも耐えられるだろうが、いい加減ソレにも飽きてきていたし、欲しかった「結果」は予定通りだった。
 そして、そこでこの付近に潜伏しているように伝えていた、部下の一人に念話を送ろうとし――その部下から逆に念話が送られてきた。

『一つ、いいかね?』

 声の調子は、どこか押さえ切れないモノを抑えられないと言った、まるで誕生日のケーキを前にした無邪気な子供のように、“逸っていた”。そして“昂ぶっていた”。
 鎧の中でソイツは逡巡する――だが、別に構わないかと思い、答えを返した。面白くなってきた。そう、思って。

『……何かな?』
『手助けをしても構わないかい?』

 声の調子は先程よりも強く、強く、抑え切れない熱を感じさせる。
 鎧の中のソイツは、背筋を這い上がる鳥肌を抑えられない。
 口元に浮かび上がる笑みを押さえられない。
 面白い。面白い。
 愉悦が身体中を走り回る。
 何事があったかは知らないが、無気力一辺倒であったこの男に焔が灯ろうとしていること――それが面白くて。
 けれど、そんな感情を一片も表に出すことなくソイツは続ける。

『君が……かね?これはどうした風の吹き回しだい?』

 返す声には愉しみが混じっていた。
 そう、暴虐の限りを尽くすことに悦びを感じる人類最低の、汚泥よりも尚汚い廃棄物の如き愉悦が。

『なに、気まぐれさ……狙いはあの少女で構わないんだね?』
『ああ、出来れば生かしたまま撃ち落してもらえると助かるんだが。』
『……了解した。』

 念話を切って、シツは笑いを抑えられなかった。

(面白い――やはり、腐った人間ほど面白い。)

 ソイツは鎧の中で思いを馳せる。これから起こるであろう惨劇に向けて。

(さて、彼女たちはどうやって“回避”するのかな?)


「……不愉快なことだ。」

 男はまだ倒壊していなかったビルの屋上に現われた。男の名はラウ・ル・クルーゼ。
 シン・アスカと同じ異世界からの異邦人である。美しく艶めいた金髪。
 身長は180を少しばかり超えている肉体。以前はトレードマークとすら言えた仮面を今はつけていない。
 その顔は、彼の大本であるアル・ダ・フラガと同じであり、シン・アスカの親友であったレイ・ザ・バレルと同じ顔。
 彼は心底忌々しそうに、“嗤い”ながら、呟く。

 先程のシン・アスカの戦い。
 ここから全てを俯瞰していた彼には全てが理解できた。
 あの男は、身も知らぬ少女の為に命を懸けて、戦いを挑んだのだ。

 シン・アスカ。己と同じ世界より現れた異邦人。
 管理局内部の間諜から得た情報によると、ザフト所属の人間だと言う。
 そして、彼が乗っていた見たことも無いモビルスーツ――恐らく彼は自分よりも未来のザフトからこちらにやってきたのだろう。だが、それはどうでもいい。そんなことはどうでもよかった。

 大事なのはそんなことではなかった。
 シン・アスカ。
 その経歴。それは自分と――ラウ・ル・クルーゼと同じく自分勝手な個人主義である。

 家族を戦争で失い、オーブからザフトへ流れ、アカデミーへ入学。
 そして、その中で自分の専用機を得るまでに成長した少年。
 少年はその後、再び起こったザフトと地球連合の戦争に駆り出され破竹の戦果を上げ――そして、彼は戦争に敗れた。
 その後、彼は敵に乗っ取られた自軍――ザフトに再入隊し、軍務に励み、そして、最後は殺され、此処に来た、と言う。

 目的が違うだけでやっていることは自分と何も変わらない。
 ヒーローになりたがるも、なれるはずがない。
 何故なら彼は「特別」とは程遠い人間だからだ。
 CE世界の戦争とは極論を言えば、ヒーローごっこをしていた人間が世界を救った。
 それだけに過ぎない。
 彼ら、ヒーローごっこをしていただけの人間がヒーローになれたのは他でもない。
 コーディネイトと言う戦争そのものの発端と言う技術の結果だった。
 つまりは、彼らはなるべくしてなったのだ、ヒーローに。
 努力もあるだろう。研鑽もあるだろう。だが、本質的には、彼らはただ単純に出来て当然の結果としてヒーローになったに過ぎない。

 だから、彼はヒーローになどなれない。彼にはそれだけの才能が無いからだ。
 キラ・ヤマトは言わずもがな。
 アスラン・ザラ、イザーク・ジュール、ディアッカ・エルスマン。
 彼らは全てプラントでも資産家の息子だった。
 コーディネイトとは基本的に高額であればあるほど大きな効果を発揮する。
 アスラン・ザラなどがあの若さであれほどの戦闘技術を誇っていたように。

 シン・アスカにはソレがない。ただの戦災孤児だ。だからヒーローになどなれるはずがない。精々主役ではなく端役がいいところだ。
 なのに、何故、この世界に来てまで足掻き続けるというのか――決まっている。自己満足の為だ。

 あの瞬間、シン・アスカは全てを捨てて、少女を救うために走り抜けた。

 自身の命などどうでもいい。助けられるならば、“守れる”ならば何も必要ない、と。
 ――その姿が酷く癇に触った。殺人者でありながら、重罪人でありながら、聖者にでもなったつもりなのか、と。

 ぎりっと奥歯をかみ締める。仮面をつけていないクルーゼの瞳に焔が灯りだしていた。
 焔の名は嫌悪。認められないモノ、自身とは決して相容れないモノへ抱く生理的な嫌悪だった。

 彼は――ラウ・ル・クルーゼは折れた挙句に失敗した。
 だが、シン・アスカは折れそうになっても、構わずに走り抜けた。人を守ると。それ以外は全て雑多でしかないと。

「……不愉快だ。」

 まったくの逆恨みでは在るが――その姿勢その態度は彼を嘲笑っているように見えた。
 “お前には出来ない”、と嘲笑っているように。

 ラウ・ル・クルーゼの願い。それは、“八つ当たり”である。
 自分を拒絶した世界。
 そして、自分とは逆に世界に愛されたモノ全てへの、厳粛とした“八つ当たり”である。
 俗物根性のみで構成されるその憤怒こそがラウ・ル・クルーゼの原風景。

 世界を変革するなどそんな大それた目的はどうでもいい。ただ、自分を苦しめた奴らを苦しめ返せればそれでいいと言うだけの感情。

 男は懐から、仮面を取り出した。今はもう付けていない――付ける必要など無い仮面を。

 ラウ・ル・クルーゼにとって“八つ当たり”とは正当なモノ。正当な“逆恨み”なのだ。
 シン・アスカはその“正当”を著しく、傷つけている――だから、彼は憤怒する。その胸で虚無として燻っていただけの憎悪に火が灯る。

 仮面を顔に付けた。
 アル・ダ・フラガのクローンとしての顔を隠す為ではなく、ラウ・ル・クルーゼがラウ・ル・クルーゼであるが為の“儀式”。

「――君は不愉快だ。」

 顔は忌々しげに歪み、唇は釣りあがり、微笑みを形成する。
 その笑みは見る者全てが顔を背けるような汚らしい微笑み。
 そこに映る感情は虚無と絶望。そして、“逆恨み”。
 絶望を嗤い、全てに八つ当たりせずにはいられない俗物極まりない醜悪の微笑み。

 此処に――ラウ・ル・クルーゼが蘇る。醜悪に。汚らしく。そして、何よりも――華々しく。

「――プロヴィデンス、セットアップ。」

 呟きと同時に彼の肉体に“変貌”が始まる。
 時間は数瞬。されど、一度見たならば決して忘れられぬであろう、その“変貌”。
 クルーゼの肉体に灰色の光が奔る――毛細血管のように細く、そして回路のような幾何学模様の光。
 全身から灰色の液体が流れ出る。同時に辺りに立ち込める濃密な匂い――血液の匂い。
 その液体は色こそ違えど紛れもない血液。
 灰色の人にあらざる血液がラウ・ル・クルーゼの肉体から流れ出ている。粘り付くような醜悪さと鼻に絡みつくような嫌悪を伴わせて。
 単細胞生物の生命活動のように蠢きながら灰色の血液が、ラウ・ル・クルーゼの全身を覆っていく。

 覆われていくその姿。
 例えるなら、多くの蛇が彼の身体中に噛み付いているようにも見え醜悪なおぞましさを強調する。。
 灰色の血液は服を飲み込み、仮面を飲み込み、靴を飲み込み、ラウ・ル・クルーゼと言う人間の全てを飲み込んでいく。
 その中にあって、ラウ・ル・クルーゼはただ狂ったような微笑みを浮かべていた。亀裂を貼り付けたような嗤いを。
 変貌は収束を迎える――そこにはラウ・ル・クルーゼの原型などまるでありはしなかった。
 子供が粘土細工で作ったようなノッペリとした顔の無いヒトガタ。
 灰色の光が今度は彼の身体の外側を走り抜けた――所々が鋭利なヒトガタを描いて。それはどこか、モビルスーツを連想させるような軌跡だった。
 そしてその軌跡に従い、灰色の血液が、蠢き始める。軌跡は設計図。そして血液は装甲。

 ――さあ、始めよう。世界を股に掛けた“八つ当たり”を。

 心中の呟きが終わり――その時には“変貌”は既に終わっていた。
 そして現れたのは灰色の鎧騎士。それはどこか、モビルスーツ・プロヴィデンスを髣髴とさせるシルエットだった。張り出した肩。スマートなデザイン。ただ違うのは背後のバックパック。モビルスーツ・プロヴィデンスほどに巨大ではなく、小型化している。
 それがプロヴィデンスを髣髴とさせながら違うと思わせている。
 セットアップと言う言葉から察するに“恐らく”バリアジャケットなのだろう。
 だが、それはバリアジャケットというには、そこに至るまでの過程があまりにも禍々しかった――見たもの全てが嫌悪を示す程度には。

 その名を「ウェポンデバイス」。
 技術者ではないラウ・ル・クルーゼはこれに関しての詳細を知らない。
 だから、彼が理解していることは一つだけ。
 これは、「モビルスーツとデバイスと人間を融合させたモノ」である。
 それが必要となった背景など彼は知らない。

 現在のラウ・ル・クルーゼの姿は戦闘用――つまり、内面に収納していた機体を外界に展開した姿だ。
 “意図限定の小規模次元世界の作成”と言う技術を利用することで、展開された小規模次元世界に装甲及び全ての機械を収納し、展開した姿。プロヴィデンスと似て非なる姿となるのは当然だ。表から見える部分はあくまで一部分に過ぎないのだから。
 流れ出た灰色の液体はプロヴィデンスそのものであり、ラウ・ル・クルーゼそのもの。身体を奔った灰色の光はモビルスーツ・プロヴィデンスの設計図であり、デバイス・プロヴィデンスの設計図。
 レリックウェポンの一つの究極。
 誰が、どこで、どうして、そんな技術を手に入れたのか。
 そんなことは誰にも分からない。それに元よりラウ・ル・クルーゼはそんなことに興味を抱かなかった。そう、どうでもいいのだ。

 大切なのはコレが比類なき力を与えてくれること。
 それによって、彼は全てに“八つ当たり”する力を手に入れていると言う事実。それこそが大事なのだから。

『――ドラグーン』

 ラウ・ル・クルーゼは呟く。その声は壁越しのように少しだけしゃがれた声に変化していた。
 そして、その呟きと共に背中に浮かび上がる魔方陣。そしてその中から浮かび上がるようにして現れるプロヴィデンスのドラグーンに酷似した西洋の槍――ランスの如き突起。
 それが浮かび上がり、彼の目前にまで移動する。

『すまないな、君に恨みなど欠片も無いが……』

 言葉と共に右手を八神はやてに向け――止めた。
 浮かび上がった突起が彼の眼前にまで移動する。彼はその“ドラグーン”と呼ばれた突起に手を触れ、

『――愉しませてもらおうか。』

 冷たく、言い放った声には言葉の通りに愉悦と、そして憤怒が込められていた。
 その憤怒は全て己が為の憤怒。まるで関係ない誰かにぶつけるただ一つの感情。
 声に呼応するように、“ドラグーン”は彼女に向かって高速で飛行し、そして――その姿が変化する。
 その速度は正に弾丸。そして、その大きさは先程までよりも大きく、大きく、“5mを超える”サイズへと変化する。それは、モビルスーツ・プロヴィデンスが戦時中に使用していた“ドラグーン”そのもの。大きさも、見た目も、何もかもが同じモノ。

 ――墜ちろ。

 ラウ・ル・クルーゼの仮面の下で邪悪な笑顔が咲き誇っていた。


 ――瞬間、リインフォースⅡは“それ”を索敵した。
 信じがたい速度で迫る巨大な――少なくとも数m以上と言う馬鹿げた質量を感知する。

「はやてちゃん、下方より高速で飛来する物体があります!これは……!?」

 はやては咄嗟にリインフォースⅡが示した方向に向かって、防御魔法を展開――シールドを張る。
 さほど得意ではないもののどれだけかは持つだろうと思っていた……だが、飛来した物体がその勢いそのままに“放った”魔力弾を止めた瞬間、凄まじい衝撃が発生した。
 一撃だった。たった一撃でそのシールドは意味を失った。
 だが、彼女はその事実よりも目前に現れた物体――その姿にこそ驚愕する。

「ブラスタービット……!?」

 驚くはやて。それはそうだろう。それは、“あの”高町なのはの切り札。ブラスターモード時に展開されるブラスタービットにどこか似ていたモノだったからだ――だが、その大きさは比較にもならない。

 目前に現れたソレ。全長は5mを優に超えている。一見したところ自動車くらいのサイズがあると思って良い。そしてその先端に開いた穴から放たれる一撃の威力は比類なきモノだ。これまで、一度も“感じたことがない”ほどに。
 背筋に冷たいものを感じながら、現状、構築した全ての魔法を破棄し、八神はやてはその場を離脱する。
 だが、それはまるで自立した一基の兵器であるかの如く飛行し、はやてに近づく――砲口は今も彼女に向けられている。緑色の光が灯った。

「次弾来ます!!」
「くっ……!!」

 緑色の光刃が彼女がそれまでいた場所を突き抜けて行く。何発も何発も。
 避け続ける。声を出す暇すらない。彼女は逃げ続ける。ただ、ひたすらに。
 止まれば死ぬ。その事実に恐怖すら覚えながら。


『一基では足りないか。』

 上空で、はやてが必死に避け続けている様を見ながら、クルーゼは呟き、そして彼の背中に先程と同じように魔方陣が浮き上がり、そこからもう一基、這い出てくる。
 浮かび上がるは新たに一基の突起――その名はドラグーン。

『さあ、踊ってくれたまえ。』

 新たに浮かび上がった一基のドラグーンが飛翔する。風を切り、八神はやてに迫る。
 先程と同じように駆け抜ける間に巨大化し、凡そ5mほど――つまりはプロヴィデンスの背中に配置されていた姿に舞い戻っていく。
 放たれる光熱波。その致死の雨を放つ瞬間、彼は再び唇を吊り上げた。
 優美な口調とは裏腹の、どす黒い汚泥のような微笑みを。



 ――新たに飛来した先程と同じカタチをした一基の巨大な突起。
 それが初めから彼女を追い掛け回した巨大な突起と連携し、囲まれた瞬間、はやてが考えたことはまず現状からの離脱方法。次に防御方法。最後にそれらに対する諦めだった。
 動きながら、けれど決して穴を生み出さない絶対の連携。
 それと同時に自身の上下左右前後の視界全てに回り込みながら放たれる魔力弾――確信は無いが恐らく魔力弾であろう――の連撃。
 回避方法は無い。先程、防壁は一撃で壊れた。故に二撃と三撃と続けば、防ぎきれる道理は無い。離脱は無理だ。この包囲から抜け出るほどの速度を自分は生み出せない。
 ならば、殲滅魔法で一気に消し去る……構築や詠唱までの時間が足りない。考えるまでも無く不可能。

 結論は簡単に出た。
 眼前の巨大な二門の砲口に緑色の光が灯る。

(私、死ぬな)

 あまりにもあっけない結末。駄目で元々、そう思って残された時間で注ぎ込めるだけの魔力を全て防御に回し――視界が閃光で埋め尽くされた。


 爆炎がはやてを覆い付くし、クルーゼの方からは何も見えなくなる。
 だが、確かめるまでもなく、撃墜した。
 手応えを感じ取り、彼は彼女を撃ち落としたであろうドラグーンを此方に戻すことに決め、呟いた。

『終わったが。』
『さすがはラウ・ル・クルーゼと言った所か。では、戻って休んでくれたまえ。』
『……そうさせてもらうとし――』

 彼の背筋を寒気が走り抜けた。肌がざわついた。

「紫電」

 瞬間、クルーゼはその巨体に似合わぬ速度でその場から一瞬で凡そ3mほどの距離を飛び退く。

「一閃!!」
 次瞬、上空から振り下ろされた炎熱の剣が一瞬前まで彼がいた場所に激突する。
 赤い髪を後ろで縛ったその女性。それは八神はやての守護騎士であるヴォルケンリッター、シグナムとその愛剣である炎熱の魔剣レヴァンティン。
 自身を攻撃した者が何者か、クルーゼが認識した時、彼は自身のすぐ後ろに気配を感じた。反射的にその場から離れようとし、動きを止める。
 彼を覆う灰色の鎧――その首筋に当たる部分に金色の刃が当てられていたからだ。

「抵抗はやめなさい。時空管理局のものです。」

 低く静かな声。そしてクルーゼの首に黄金の刃を押し当てる金髪の女性。
 八神はやての友人にして機動6課ライトニング分隊の隊長フェイト・T・ハラオウンだった。
 そしてそれから少しばかり離れた場所に槍を構えたエリオ・モンディアルとキャロ・ル・ルシエ、彼女の使役する竜フリードが空中に浮かんでいる。
 彼らも油断無く、クルーゼを睨み付けている。

「動かないで。動けば、反抗の意思有りとして攻撃します。」

 フェイトが手に持つバルディッシュアサルトに力を込める。

「…………」

 上空を見れば、先ほど撃墜したと思った少女はまだ空に浮かんでいる。そこには赤い帽子を被り巨大なハンマーを持ったまだ幼女と思しき子供が、赤い魔法防壁――パンツァーガイストと言う古代ベルカの魔法だ――を発生させている。どうやら撃墜には失敗していたようだ。

(失敗か。)

 周囲を一瞥する。
 一見しただけでは分からなかったが、自身の後ろにいる女と前で剣を構える女が最大戦力なのだろう。それから後方でこちらを見ている子供たち。
 そのどれもが通常の管理局員から見れば卓越した能力を持っていることは理解出来る。
 感じ取れる魔力量、構え、動き。
 だが――そこには注意こそあれど、殺意など欠片も無い。

(不愉快なのは彼だけではない、か。)

 心中でのみ放たれた静かな、侮蔑。
 苛つく激情を、押さえ込み、クルーゼは、後方のフェイトからは決して分からないように仮面の下で嗤った。
 瞬間、クルーゼから得体の知れない鬼気を感じ取るライトニング分隊の一同。
 感じ取る感情は虚無。世界を侵食し、怖気を振るう腐食した虚無。
 周囲の空気が緊張する。その場にいる誰もが、次の瞬間に向け、緊張を高める。
 そして――不意に、何の前触れも無く、“爆発”が起きた。

「え?」

 間抜けな声を上げたのは誰なのか。フェイトなのか、キャロなのか、エリオなのか。
 ラウ・ル・クルーゼは全身を微動だにしていない。“動いていない”。だが、突然、キャロとエリオの後方に緑色の光熱が降り注いだ。
 誰もがそちらに意識を奪われた。一瞬。ただの一瞬の意識の空白。
 だがウェポンデバイス・プロヴィデンス――ラウ・ル・クルーゼにとってその一瞬は、長すぎた。
 間髪いれず背中に魔方陣が展開される。
 その中より現れる新たに三基のランス型の突起――ドラグーン。
 瞬間、それが空中に疾駆し、先程と同じく巨大化していく。
 同時に付近の瓦礫の影から高速で飛来する二基のドラグーン。
 八神はやてを撃墜した時とは違い、その二つは既にサイズを元の大きさ――およそ1mほどにまで小さくしていた。
 それが瞬時に巨大化――先程と同じサイズへと変化する。およそ5mほどの大きさへと。
 緑光の雨が降り注ぐ。全員がその場から離脱する。

「踊れ、踊れ、踊れ、踊れ、踊れ踊れ踊れ踊れ踊れ…………!!!」

 クルーゼは逃げ惑う彼らを見ながら、狂ったように呟く。
 空中に浮かび上がり、背中から更に数基の――今度は先程よりも小型の――ドラグーンを射出する。
 ラウ・ル・クルーゼは八神はやてを撃墜した後、ドラグーンを収納していなかった。
 収納せず、ただ先程とは逆に“小型化”し、ビルの陰に隠れるように配置していたのだ。
 そこに魔力の流れは無い。何故なら、これは“量子通信”。厳然たる科学の通信手段――魔力による操作ではないからだ。
 フェイト・T・ハラオウンがバルディッシュアサルトを構えた時、既に彼は配置を“終えていた”のだ。

「さて、まずは一組――死んでもらおうか。」

 ラウ・ル・クルーゼの右腕が先ほどの蒼穹の鎧騎士の如く“再構成”される。生まれ出でるは黒く巨大な鋼の銃。それを――エリオ・モンディアルとキャロ・ル・ルシエに向けた。

「させない!!」

 ラウ・ル・クルーゼの後方――そこには決死の形相で、弾幕を掻い潜り彼に迫るフェイト・T・ハラオウンの姿があった。
 魔法――ソニックムーブによる補助を受け、最高速度で彼に迫り黄金の刃を形成する鎌を振り被り、背後から奇襲する――だが、

「そうくると思っていたよ。」

 ラウ・ル・クルーゼは振り向かずに呟き、その背中に再び魔方陣が生まれ出る。後に射出した凡そ3mほどの小型の――とは言えそれでも小型車くらいの大きさはあるのだが――ドラグーンが現出する。
 それは現れ出でると同時に、砲口を彼女に向かって狙いをつけていた。そして緑色の光が灯る。同時にエリオ、キャロの方向へクルーゼの手元の銃も緑色に光が灯る。

「っ―――!!!」

 フェイトは反応すら出来ない。突然、背中から出現したのだ。反応など出来るはずもない。
 エリオとキャロは辛うじて反応できた。だが、その状況で展開した防壁はその一撃を受け止めるにはあまりにも弱く、不完全なものだった。
 瞬間、放たれた光熱波は狙い違わず彼女に迫り、彼女自身が咄嗟に展開した防壁によって阻まれるもののその勢いを殺すことは出来ないまま、彼女の身体は後方の瓦礫の中に吹き飛んでいった。
 彼女に動きは無い。意識を失っていた。
 そして、それとは逆側。そちらを見れば――同じくエリオとキャロも瓦礫の中に倒れこんでいるのが見えた。クルーゼが生み出した巨大な銃。そこから蒸気が立ち昇っていた。
 放たれた光熱波を受け止めきれずに吹き飛ばされたのだ。


「何と言う……」

 シグナムは驚愕していた。相手が使った武器の威力もだが、それ以上にその手腕に。
 一番初めの光熱波の雨。あれで全員を分断し連携する暇が無くなった。
 次にキャロとエリオを狙ったのはフェイト――もしくはシグナムを誘うため。
 そして無防備な背中を晒すことで好機と捉えた自分たちはそこに付け込む為に迫ると睨んでだ。
 わざわざ、言葉に出してからエリオとキャロを狙ったのはそこで砲撃をさせない為と自分たちの動きを直線的な動きに限定するため。激昂を誘い、無防備な姿を晒すことで無茶な攻撃を行わせる為に、だ。
 まんまとその罠にはまったフェイトは切り伏せるどころか、吹き飛ばされた。
 全て一分にも満たない数十秒のことである。

「……貴様、何者だ。」

 レヴァンティンを構えシグナムは呟く。
 彼女にとってこの状況は流石にまずかった。隊長であるフェイトは未だに起き上がらない。恐らく気を失っているのだろう。キャロ、エリオは言わずもがな。
 状況は絶対的に最悪だ。眼前の化け物――恐らく人間なのだろう――と自身の相性は最悪に近い。
 空中を高速で飛行し光熱波を放つあの奇妙で巨大な突起。それを複数同時に操作しながらも自身の戦闘能力を損ねない単身の戦闘能力。

 一対一では勝てないだろう。踏み込めば後ろから狙われ、下がればその火力で押し流される。
 と言うよりもあの大きさ。あの巨大さの前ではそんな理屈など全て押し流される。この時ほど彼女は自身が握る愛剣が、か細く見えたことはなかった。

 負ける。まず、間違いなく。それが理性によって自己を制御した彼女の判断だった。
 そして、それは恐らく――否、間違いなく正しい。
 故に目前の一挙手一投足をつぶさに見入る。相手は僅かな予備動作すら必要とせず、あの突起を動かした。
 対応するには読み取るしかない。僅かな動き。僅かな感情。何であろうと構わない。
 そこから次の動きを感じ取る以外に彼らが生きる術は無い。
 シグナムの額から冷や汗が一筋流れていく。張り詰めた帯電したような空気。
 そしてシグナムの前に立つ化け物――ラウ・ル・クルーゼが口を開いた。快活な声で。

『目的――そんなものは昔から一つも変わらない。』

 右腕に携えた銃が構えられた。その砲口がシグナムに向けられる。

『八つ当たりだよ。』

 その言葉と同時に放たれた一筋の緑光。シグナムは動けない。
 彼女の後方には未だ意識を失ったエリオとキャロがいる。避ければ彼らの命は無い。
 逡巡など一切無く迷うことなく彼女波は瞬間的に全魔力を投入し、眼前に魔法防壁――パンツァーガイストを展開する。

「――はああああ!!!!!」

 咆哮と共に放たれた緑色の光熱波を、塞き止め、相殺する。
 緑と赤の光のぶつかり合いで生まれた爆風が辺りの埃を舞い上げ、一帯を覆い隠す。

『では、これでさよならだ、お嬢さん方。』

 声の調子は軽薄な薄ら笑い。ラウ・ル・クルーゼはその足元にいつの間にか生まれた魔法陣に吸い込まれていく。

「待て!!」

 シグナムは逃げようとするクルーゼに向かって飛び込み、レヴァンティンを振り下ろす。
 しかし時は既に遅く、彼女の姿は既にそこには無かった。空を切るレヴァンティン。

「おのれ……!」

 周辺を探索しようとシャマルに通信を送ろうとする――だが、繋がらない。ジャミングか?そう考えた時、シャマルの声が聞こえてきた。

「シグナム!はやてちゃんが!はやてちゃんが!」

 その声を聞いてはっと上空を見上げれば、ヴィータに背負われたはやてがいた。意識を失ったのかぐったりとしている。
 周辺の三人の意識は未だ戻らない。逃走を妨害することすら出来なかった。
 トドメを刺さなかったのはただの気まぐれか、それとも何か理由があるのか。
 どちらにしろ、見逃されただけに過ぎない。
 唇を噛み、悔しげにシグナムはレヴァンティンを収めた。

「……完敗か。」

 機動6課ライトニング分隊は、たった一人の人間に完敗した。


「どうやら終ったみたいですね。」

 上空ではやてが運ばれていく様を見つめるギンガ。
 その隣でシンは壁に寄り掛かり座り込むようにして上空を見つめていた。

 ――シンとギンガは八神はやての指示に従い、その場から去って、駆けつけた108部隊と合流。
 子供を保護してもらった。シンは保護されたことを確認すると直ぐに現場に戻るべく走り出した。
 ギンガはそんなシンを確認すると直ぐに追いかけた。シンとて怪我人なのだ。
 両手は真っ赤に染まり、身体中埃や泥、何よりも血まみれだった。
 だから彼女はそんなシンを止めに行こうとしたのだが、シンはまるで言うことを聞かなかった。
 聞かなかったと言うよりは殆ど無視していた。

 そんなシンを見てカチンときたギンガは、無理矢理連れて行こうか、などと考えたがあまりにも真剣そのもののシンの顔を見るとそんな気が起こらなくなり、その横についていくことにした。

「……止めなくていいのか?」

 ギンガをちらりと見てシンは呟いた。
 ギンガはそんなシンに対して当てつける様に――実際そうなのだろうが――盛大にため息を吐いた。

「はあ……だってアスカさん、止まる気ないでしょう?」
「・・・いや、その」

 しどろもどろになるシン。申し訳ないとは思っているようだ。

「だから危険なことに直ぐ対応できるように私もついていくことにしました。」

 ギンガはそう言って前を向いた。シンもそれに釣られて前を向く。
 上空から間断なく放たれる八神はやての氷結魔法。
 火災は既に大部分が鎮火されてきており、これで事件は収束するだろう――ギンガはそう思っていた。
 ギンガがシンを止めなかった理由もそこに起因する。既に鎮圧されかけている事件なのだ。これは。
 だから何かあっても自分ひとりで事足りる――彼女はそう思っていたし、誰もが、そう思っていた。
 だが、そこで彼らは信じられない光景を見ることになる。
 凄まじい轟音が鳴り響き、下方―-おそらくどこかのビルの屋上より八神はやてに向けて、何かが飛来していった。
 二人は見た。ソレを。八神はやてに向けて飛んでいく「巨大な突起」を。
 その前で八神はやてはまるで無力だった。彼女は瞬く間に劣勢となり、そしてその「巨大な突起」がもう一基飛来した瞬間、爆発が起きた。

「くそっ!」

 それを見た瞬間、シンは居ても立ってもいられなくなり、走り出した。
 胸一杯の後悔と、一瞬でも安堵して彼女に――八神はやてに全てを任せようなどと考えた無力な自分に吐き気すら感じながら。

「ちょっと落ち着きなさい!」
 ギンガが走り出したシンを無理矢理に引き止める。

「離せ!俺があそこにいれば!俺が盾になれば!」
「貴方のせいじゃない!大体そんな身体で行けば死んでしまいますよ!?」
「うるさい!俺は、俺は、俺は……くっ!?」

 いきなり、膝を付き、シンは嘔吐する。体力の限界を超えて、それでもまだ身体を動かそうと言うのだ。胃が拒絶してもおかしくはない。そして自分が吐いた物に顔を突っ伏し……・けれど、彼はそれでも前に進もうとする。

「く、そ」
「アスカさん!」

 ギンガはシンの吐しゃ物に触れることにも怯むことなく彼を無理矢理壁に押し付けるとそのまま、座らせ、休ませた。
 暴れる――暴れようとするシン。だが、今の彼にそんな力があるはずも無い。結局、息が収まる頃には八神はやては救われていた。

 そして今に至る。
 シンは上空で運ばれていくはやてを見つめている。悔しげに。

「何で、俺は、こんなに弱いんだ。」

 俯き、力なく呟くシン。ギンガは何も言わない。
 涙は流れない。声も出ない。だが、それでも彼は哭いていた。
 もう少しで八神はやてを死なせるところだった。
 彼女の言葉の通りに自分は死にたくないからと逃げ出した。
 残っていたところで確かに邪魔にしかならなかったかもしれない。だが、それでも弾除け程度にはなったはず。
 そんなことも出来ずに誰かを選んで、誰かを見捨てた。
 自分はそんなことして良い訳が無いのに――

「……いい加減にしなさい!」

 突然、シンの頬が高い音を上げた。ギンガの右手が振り下ろされていた。
 続いてシンは自分の頬に痛みを感じ始める。
 ギンガに頬をはたかれたと気付いたのはその時だった。
 見れば、彼女は少し怒っていた。

「あの子を助けたのは貴方でしょう!もう少し、喜びなさいよ!」
「喜、ぶ?」
「そうです。貴方はあの子を助けたんでしょう?なのに、喜びもせずに悔やんでばかりで。それに誰も死んでない!皆、生きてます!貴方が悔やむ必要も、いじける必要も無いんです!」
「ナカジマ、さん?」

 声を荒げるギンガを見て、呆気に取られるシン。そんなシンの視線に気付いたのか、ギンガは、こほん、と息を落ち着けて彼女はシンを見つめる。

「貴方は守ったんです。あの子供を。もうちょっと喜びましょうよ。」

 泥と血と吐しゃ物で塗れた掌を開き、見つめる。

「そっか……俺、守れたのか……」

 血色を失い青白い顔。今にも倒れそうなほど傷ついたシン。だが、ギンガのその言葉はシンの胸にすっと染み込んで行った。

 ――守れた。
 その言葉だけでシンの中にあった後悔や悲しみ、自分を卑下する全てが消え去っていく。

「……よかったぁ。」

 満面の春の息吹のような優しい微笑みをシンは浮かべる。子供のように無邪気で綺麗な笑顔を。
 どくん、と彼女の鼓動が跳ねた。
 そうして心の底から安堵したのか――シンが瞳を閉じた。
 一つ緩やかに息を吐き出すと――彼の身体から突然力が抜け、ずるずると地面に倒れこんでいく。

「ちょっと、アスカさん!?アスカさん!!」

 青白い死人のような顔。ギンガの幾度もの呼びかけにもシンは答えない。
 緊張が緩み、それまでの無理が祟ったのだろう。
 意識を保つことなどまるで出来ず、シン・アスカの肉体から力が抜けていく。
 見れば、彼の身体中には痣や裂傷が数多く――それこそ今まで普通にしていたことが信じられないほどに存在していた。
 ギンガは蒼白な顔をして、即座にウイングロードを展開。流血や吐しゃ物で身体が汚れることなど関係無しにシンを担ぎ、足元のパートナーに向かって声を上げる。

「ブリッツキャリバー!」
『Yes sir』

 爆音と振動を伴い、シンを担ぎギンガは急ぎ避難所に走り出す。少しでも速く、と。
 シン・アスカはそれでも目覚めない。疲れていたのだ。
 だから、彼の意識は落ちていく。闇へ、闇へ、暗闇の中へ――。


 瞳に映るのは罪という名の追憶。
 金髪の少女が沈んでいく。冷たい水の底に沈んでいく。
 戦争という時代に翻弄され、戦いしか知らなかった心と身体を痛めた少女。
 もう誰にも傷つけられないようにと沈めた少女。
 彼女は今もあの湖のそこで眠っている――彼女は今の自分を見て何と思うのだろう。

 金髪の少年が苦しんでいる。命が短いと彼は言った。そして戦時中にあの少年は死んだ。混乱と悲しみの中で。
 そして自分は彼を殺した奴らの下で力を振るい続けた。
 弱者を守る為と言ったところで彼にしてみれば裏切ったも同然だろう。
 彼は自分に未来を託してくれたと言うのに。彼は今の自分をどう思うのだろう。

 焼け焦げた丘。散らばった肉体。残されたのは妹の右腕。助けられなかった家族。
 二度と繰り返したくは無い光景。
 それから戦った。戦い続けた。
 自分のような者をこれ以上生み出さない為にという理由を以って、考えるのも馬鹿らしいほど多くの人間の命を奪い去った。
 そんな今の自分を家族は一体どう思うのだろう。

 目を開くと、金髪の少年と金髪の少女、妹がそこにいた。
 ベッドに眠る自分の両脇に立ってこちらを見下ろしている。
 恨んでいるのか。憐れんでいるのか。そう思ったが彼らは何の反応も示さない。
 その瞳はとても悲しげで……自分にはまるで泣いているようにしか見えなかった。
 どうして泣いているのだろう。どうして悲しいのだろう。
 それがどうしても自分には分からなかった。
 見詰め合うこと暫しの間。気がつけば、彼らの姿は消えていた。
 そこにあるのは守れなかった誰かではなく、見たことも無い天井だった。

「……夢か。」

 シンは眼を覚ます。電灯が消えていることから時間は夜なのだろう。
 ベッド脇にはギンガ。そしてシンの隣には八神はやてが眠っており、更に奥には金髪の女性と赤い髪の子供と桃色の髪の少女がいた。あの戦いで怪我を負った人間なのだろう。
 彼らの前には、シンよりも少し年下に見える青い髪と栗毛の少女が二人、幼い赤毛の少女、気の強そうな赤毛の女性、おしとやかそうな金髪の女性が肩を寄せ合ってベンチに座って眠っていた。
 その下には犬が寝そべって――

(何で犬?)

 その犬は大きな犬だった。どれくらい大きいかというと「抱きつかれると重くて死にそう」という程度。 まあ、病院側が了承したならいいんだろうと考えシンは犬から眼を離し、ベッドに寝そべる。視界にあるのは薄暗い天井。

「やりたいこと、か。」

 呟き、自分は何を迷っていたのだろうと思った。やりたいことなど決まっている。誰かを守ることだ。
 それはこの世界だろうとあの世界だろうと変わらない。
 どちらの世界にも変わらず、理不尽で横暴な不条理は存在する。それに苦しめられる人々もいる。
 何のことは無い。世界が変わっても人は変わらないのだから。
 今日見たあの光景などまるで同じだった。自分のいた世界と何も変わらない。
 だから、自分の願いも変わらない。何一つ変わらない。

 ギンガに言われ、あの子供を守ることが出来たと自覚できた時、自分は救われた。
 暗闇の荒野に少しだけ晴れ間が見えたような気がした。
 自分にとって人を守ると言うことはそういう――ただ自分の為に、行うことだった。

 だから、これは覚悟や決意ではない。これは願いだった。
 シン・アスカという男にとって、何よりも優先される唯一の願い。

 だから、彼の進むべき道など初めから決まっている。
 彼にはもうその道しか必要ないのだから。




[18692] 第一部陸士108部隊篇 4.怪物
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 12:11
「それでお前は魔導師になりたいと?」
「はい。」

 身体中を包帯まみれにしたシンが神妙な顔のゲンヤ・ナカジマに言い放つ。
 その目はそれまでのように無気力なものではなく、真っ直ぐに前を見据える、赤い炎の眼。
 彼の中で燻っていた何か――その何かはゲンヤには分からないが、迷いが晴れたのは確かなのだろう。

「たしかに管理局は常々人手不足に悩まされてる。そしてこないだの事件みたいな襲撃も頻発している。優秀な人材は正直喉から手が出る程欲しい。」
「じゃあ」
「慌てんな。というかお前まだ魔法使ったことも無いだろ?」

 身を乗り出すシンをゲンヤは手で制すると静かに告げる。

「どっちにしても、その怪我治してからの話だ。」
「……はい。」

 ゲンヤはそう告げると、シンのベッドの横に備えられていた椅子から立ち上がる。

「そんじゃ、俺は行くぞ。なんかあったらすぐにギンガに伝えるように。」

 シンのいた病室から出てゲンヤは部屋の外で待っていたギンガと目が合う。

「……アスカさんは何を?」
「魔導師になりたい、だとよ。まあ、SSクラスの逸材ではあるからな。」

 その言葉を聞いて、ギンガは顔を伏せる。ギンガの脳裏には倒れる前のシン・アスカが焼きついていた。
 白い壁に一筋の線を引く鮮烈な赤。そして土気色の顔と動かない身体。正直、肝が冷えたとはあれのことだった。

「……アスカさんは魔導師になれるんですか?」
「あいつが望めば、間違いなく、な。デバイスも無しで魔法の理論も何も知らない人間が本能で魔法を使ったんだ。常識外れにも程がある。」

 それはそうだ、とギンガは思った。
 魔法というものを発動する為には複雑な工程があり、それを簡略化する為にデバイスという自動詠唱や魔法の発動補助を行うものが生まれた。現行の魔法はよほどのことがない限りデバイス無しでは使用することはない。

 更に――次元漂流者が魔導師になった場合、それまで基礎的な訓練というものをまるで受けていないが故に基本的に魔法の使用はデバイスに依存することが多い。そしてそこから訓練を受けて基本を覚えていく。

 しかし、この間の襲撃の際に行われた広域スキャンの際に拾われた映像――どこかの監視カメラに映っていたシンと蒼い鎧騎士の戦いだ――から見えたのはそんな常識を覆すものだった。
 デバイスも持たない、全くの魔法の素人が、魔法を使っているのだ。
 無論、使用した魔法は魔力を炎に変換すると言う、資質があれば簡単に出来る魔法である。だが、それでもそれは異常だった。
 故にシン・アスカが望めばそれこそ引く手数多の受け入れ先があるだろう。
 今でこそ単なる魔導師志望だが、その素質は折り紙つき。成長性は凄まじく高く、将来的に高い戦力になることは間違いない。Sクラス……SS、もしかしたらその上さえも。

 だが、ギンガには一つの懸念――不安があった。それは件のシンの戦いだ。あの様子が頭から離れない。嬉しそうに微笑んだシン・アスカと戦いの中の悪鬼のようなシン・アスカが結びつかないのだ。

 あまりにも極端な二面性。
 ギンガにはそれが何を引き起こすのか分からなかったが、それでも一抹の不安を感じていた。

「……」

 そう物思いにふけるギンガをゲンヤはじいっと見つめる。そして、「おお」と何か納得したのか、ニヤニヤと笑みを浮かべ出す。

「……何ですか?」
「ギンガ、お前……惚れたな?」

 瞬間――ボンっと湯気でも噴いたかのように顔を真っ赤にするギンガ。

「ちょ、父さん、何言ってるのよ!!」

 混乱の余り、常には狂わぬ口調が素に戻ってしまう。

「隠すな、隠すな。そうか、あの堅物のギンガにもとうとう春が来たのか……そうかそうか。父さん嬉しいぞ。多分、きっと母さんも喜んでるに違いない。」

 そう言って懐から彼女の母であり亡き妻――クイント・ナカジマの遺影を取り出すゲンヤ。いちいち芸が細かい。

「何でそんなものを持ってるのよ!」

 ニヤニヤしながらクイントの遺影に何事か呟いているゲンヤからばっと奪い取る。年の功なのか、性質が悪すぎる。

「……まあ、あの男はお前には荷が重いかもしれねえが……頑張れよ。」

 そう言ってゲンヤはギンガの肩をポンと叩くと、彼女がその手に持っていた遺影を奪い取ると懐に仕舞いこむ。
 出口に向かって歩いていくゲンヤの後ろ姿を見ながら、ギンガは呆然と見送った。


 屋上――頭に包帯を巻き、病人服を着た、八神はやてとシグナムがそこに佇んでいた。
 彼女の前には空間に浮かぶ立体映像――念話による映像通信である。
 そしてそこに映るカリム・グラシア――ミッドチルダ北部に位置する聖王教会の騎士であり、時空管理局内で少将と言う地位を持つ正真正銘の実力者である――がいた。
 はやては神妙な面持ちでついこの間の戦いについて語っていた。

「カリム、あいつらについて何か分かったん?」

 はやては聖王教会所属であり自分の直属の上司でもあるカリム・グラシアにある依頼をしていた。
 入院して気が付いた時即座に連絡して。

『そうね。まあ、時間も無かったら何にも分からなかったんだけど……一つ、異常な点が見つかったわ。』

 異常と言えばあの場にいた全ての存在その物が異常だったがこれ以上何があるというのだろうか。
 今思い出しても寒気がするほどの圧倒的な強さ――いや、怖いのは強さではない。その正体がまるで見えないことが、だ。
 自身にとって虎の子であるはずのフェイト・T・ハラオウン率いる機動6課ライトニング分隊の完敗。
 それを行ったのはどこの馬の骨とも知れぬ人型の化け物。
 その上、あるカメラに写っていた映像から察するに、金髪の仮面の男が変貌した姿であることまでが判明していた。肉体そのものを変容させる魔法。それも恐らくは戦闘能力を得る為だけに。
 八神はやてとしてはこれ以上の悩みの種はごめんこうむりたいところであった。

『一応映像回してもらって確認したんだけど……この人……って言っていいのか分からないけれど、どうやら……魔導師じゃない、みたいなの。』
「魔導師じゃない?」
『むしろ、人間に似た何か、と言ったほうがいいのかしら。魔力も感じ取れない、それに記録によると生命反応も通常とはまるで違う――そう、まるで内燃機関でも搭載した機械。それが解析班の見解よ。』
「何や、それ?せやったら、この男は人間じゃない……そういうことなん?」

 信じられないと言いたげに八神はやては呟き、カリム・グラシアはそれに言葉を返すことで対応する。

『恐らく……いえ、確実に、ね。この男は少なくとも人間じゃない……それに戦闘機人とも違う。完全に人間とは違うモノよ。』

 言葉の意味が理解できない。
 人間ではない。ならば、何と言うのだろうか。

『……簡単に言えば化け物よ、はやて。この男の変貌には恐らく魔力が使用されている。けれど、魔法ではこの男の使った武器はどうしても説明できない。あれだけの大質量を人間の力で構成できるとあなたは思う?』
「……それは。」

 答えるまでもない。不可能だ。如何に不可思議に見えようとも魔法とは物理法則に従う術理。
 理であるが故に魔法は物理法則を越えられない。
 あれだけの大質量を個人の魔力で補うなど不可能に決まっている。
 呆然とするはやてを尻目にカリムは続ける。

『どんな技術が使用されてるかなんて正直想像もつかない。こんな技術、どこの次元世界でもまだ確認されて無い技術よ。』

 絶句するはやてを尻目にカリムは傍らに立つシグナムに向けて話しかける。

『……シグナム、貴方なら勝てる?』

 シグナムはその言葉にあの化け物を思いだす。
 あの男に勝つ方法。
 幾つか方法はある。そして、その中でもっとも現実的な方法。それは――

「私では無理でしょうね。テスタロッサが万全の状態ならばあるいは……それも彼女と同等の能力を持つ者が幾人もサポートに回った状態でなら、なんとかなるかもしれません。ここからは私見になりますが」

 一つ、言葉を切ってシグナムははやてとカリムを見る。続きを話していいのか、伺っているのだ。
 二人は同時に頷いた。シグナムはソレを見て、再び口を開いた。

「アレに勝とうと思えばまず第一に速度が必要です。あの雨のような攻撃を全て掻い潜り懐に入り込む速度と、
そして、一撃で勝敗を決するだけの攻撃力。有り体に言って先手必勝。それくらいしか私には思い浮かびません。そして、それを出来るのは6課ではフェイト・T・ハラオウンただ一人。それ以外のメンバーではあの雨のような攻撃の前で沈むだけです。」
『でしょうね。私もそう思うわ。アレは単騎で現在の機動6課と張り合うだけの能力を持っている。』

 再び絶句するはやて。
 当然だ、時空管理局内部でも異常とすら言える戦力を集中した機動6課と、たかだか一人の人間――人間かどうかは定かではないが――が同等と言っているのだ。絶句する以外にない。

『……問題は次にアレが出てきた時、どうするのかということよ。フェイトさんを6課の全戦力でサポートすると言う条件下で当たれば確かに勝てるかもしれない。けど、』
「敵がアレだけとは限らへん。万が一フェイトちゃんがやられた場合はその時点で終わりや。それに……フェイトちゃんには――」

 苦虫を潰すような声。それでもはやては言葉を放つ。現状の認識を確かなモノとする為に。

「うちの子達じゃ……多分無理や。」

 言葉を返さずにこりと笑うカリム。物分りが良くて助かる。そう言いたいのだろう。

『そうね、その通りだわ。あなた達、機動6課の子達の能力は確かに高い。正直、ここまで強くなるなんて思ってもみなかった。これからだってどんどん強くなるでしょう。』

 確かにそうだ。思い起こすあの子達――スバル、ティアナ、エリオ、キャロ。あの子達はきっともっと強くなる。だけど、

『それでも勝てない。あの戦い方――ああいった相手の弱点を突く、傷口を抉る……そういう戦いに、貴方たちはまるで慣れていないから――ううん、シャッハやシグナムだって同じこと。そして相手の戦闘能力は間違いなくSSクラス以上。』
「笑えてくるな、ほんま。」
『ええ、その通りね。けど私たちは――貴方には笑っている暇は無いの。』
「うん、そうやね。」

 強いカリムの言葉。それに向き合うようにはやてはカリムから視線を逸らさず答えた。

『アレを倒す方法……考えられるのは、おびき寄せた上で大規模殲滅魔法で倒すこと。これなら反撃の暇を与えずに倒せる。本当ならこれを選びたいところなのだけれど、管理局の立場上これは選べない。』
「そうやね。周辺被害もとんでもないことになる。」
『だから選べるのはこれ以外の方法になる。単騎精鋭による一対一。それも速度と威力に優れた近接型の。』
「その、誰か一人を足止めに使うということなん?」
『アレがいるからバランスが崩れるのなら、バランスが崩れないように足止めすればいいということ。』

 たしかにいい方法だ。唯一の解決策と言ってもいい。だが、問題がある。

「けど、そんな人間どこにおる?」

 そう、その人材だ。それほどの強さを持った人間を倒せる人材など限られている。
 だが、カリムはその問いに即答する。

『一応、こちらで用意した人間を6課配属にして、出向させるわ。』
「……えらい、手際ええな。」
『ただ、少し時間がかかるわ。今、その男は別件で動いてる最中だから。それに……正直、この男は先程シグナムが言った条件には該当しないの。能力は申し分ないのだけれど――だから、足止めの為にはもう一人必要になる。この男はあくまでサポートよ。突撃役はそのもう一人になるわ。だから、はやて――』

 言葉を切って、八神はやてを覗き込むカリム・グラシアの瞳が鋭くなる。それはあまり表には見せない表情。“謀略”を実行する魔女の顔。

『――そこで、提案があるのだけれど』
「提案?」
『彼はどうかしら?』
「彼?」

 はやての顔が僅かに曇る。

『シン・アスカ。報告書ではSSクラスの潜在魔力量を持っているらしいわね。』
「……せやけど、彼はまだ魔導師ですらあれへん。それに彼の適正もまだ分からへん。」

 その八神はやての当たり前の返答にカリム・グラシアが嗤う。先程の魔女の微笑みで。

『なら、そういう風に鍛えてもらえないかしら。』

 謡うように軽やかに。その言葉は羽毛の如き軽さで以って八神はやてに襲い掛かる。

『正直、適任よ?戦争を経験して、その後何年間も戦闘に従事している。死線を潜り抜けた経験は恐らく6課の誰よりも多いでしょうね。汚い手管への対処法も学んでいる……少なくとも貴方たちよりは。』

 八神はやては奥歯をかみ締める。言い返せないからだ。その通りだと理解しているからだ。

『勿論、普段はスターズかライトニングのどちらかに所属させることにはなるけど、アレが出てきた場合はこちらが送る戦力と共同で足止めすることになるわ。6課の戦力を損なうことなく、ね。それに、こちらから派遣する男のたっての希望でもあるわ。シン・アスカを自分の部下に欲しい、とね。』
「……どういうことや。」

 搾り出すような八神はやての声。カリム・グラシアは視線を逸らすことなく答えを返す。

『言った通りよ。シン・アスカ個人を指名しているのよ。こちらから送る戦力は。』

 ――八神はやては今度こそ解せなかった。この強硬手段とも取れるようなシン・アスカの採用。確かにその案は自分も考えた案だ。考えて……そして、破棄した。
 この考えはシン・アスカの潜在能力に依存した考えだ。そして、彼をこちらの思う通りの戦力として成長させると言う理総論でもある。
 人の成長過程と言うのは複雑なモノである。陸上競技で言えば短距離走者を望んでいても練習の過程で中距離走の資質を見つけられ、そちらに移行する。そういったことが往々にしてある。

 誰も他人の才能を思い通りに成長させるなど出来はしない。人間の育成とはゲームではないのだ。
 カリム・グラシアの言っていることは正にそれだ。“そういう風に鍛えろ”などと現場を知らない単なる素人意見以外の何物でもない。彼女自身がそんなこと不可能だと知っているであろうに。
 そして、もう一つ。シン・アスカ個人を名指しで指名していると言うことが何よりもおかしい。
 名指しと言うことはシン・アスカを知っているということだ。この世界に来てまだ間もないばかりの彼をどうして知っているのか。

「どういうことや、カリム。何で彼のことをそこまで知っているんや。」
『彼と同じ次元世界の出身者――そう言えば納得出来るかしら、八神はやて二等陸佐?』
「……なん、やて?」
『その男がこう言っているのよ。“シン・アスカならば、その預言を覆す”、とね。勿論、確かな情報として、こちらで確認したわ。』

 ――詳細についてはまだ言えないのだけれどね。そう、彼女は言葉の後に付け足した。
 躊躇い無く返された答えにはやては、とうとうカリムから視線を逸らし、俯いた。
 二等陸佐――その言葉に込められた重みに耐えながら。

「……彼を、鉄砲玉にしろ言うんか、カリム。」
『ええ、その通り、捨て駒にしろと言っているのよ、八神はやて“二等陸佐殿”。預言を覆す為に、ね。』

 言葉に嘘は無い、とはやては感じていた。例えも何も無い。
 これは“何も知らない人間に鉄砲玉になれ”というのと同じこと。それは“死ね”と命令するのと何も変わらないのだ。
 しばしの逡巡。そして、彼女は沈痛な面持ちで呟いた。

「少し、考えさせてくれへんか。」

 彼女はそういって踵を返し、屋上のドアを開けて、降りていく。シグナムもその後に付き従って降りていった。

 ――通信を切り、聖王教会の自室でカリムは目の前に置かれた紅茶に口を付ける。

「これでいいのかしら?」

 腰まで届くような長いウェーブがかった黒髪を後方で纏め、顔には銀色の仮面をつけたスーツ姿の男がいた。どこか優美な品の良さを感じさせる仕草の長身の優男が彼女の前の椅子に座りながら、頷きながら紅茶に口をつける。

「問題ない。むしろ、そうでなくては困るさ、カリム・グラシア。それはキミも分かっているだろう?」
「……そうね、分かってるわ。これからの危機は犠牲無しじゃ乗り切れない。あの子にもそれを自覚して貰わないと……それに、どの道、この方法しかないのでしょう?」

 優雅な仕草で紅茶のカップを口から離し、テーブルに置く。
 男は確かに、と呟き、自分の前におかれた紅茶を同じくテーブルに置いた。
 カリムはため息を吐いた。
 彼女自身、このような方法を使うのは本意ではないのかもしれない。

 だが、此度の事情はそんな本意を置き去りにしなければ解決できないほどに重大だった。
 彼女が言った預言。『預言者の著書(プロフェーティン・シュリフテン)』。
 古代ベルカ式魔法の一種であるそれは、最短で半年、最長で数年先の未来を、詩文形式で書き出した預言書の作成を行う魔法。的中率や実用性は割とよく当たる占い程度ではあるが、以前、カリムが預言した詩文は時空管理局の崩壊を示していた。
 二人はそれを覆す為に機動6課を設立し、一切の犠牲を出すことなく、聖王のゆりかごを破壊し、防ぐことに成功した。J・S事件と呼ばれた事件の終息である。

 そして預言はこれで覆した。そう、誰もが思った。
 だが、J・S事件の黒幕である、ジェイル・スカリエッティの脱獄により状況は一変する。
 つまり、預言の事件はまだ終っていないのではないのか、と。目の前の男から得た情報、そして今回の事件で彼女はそれを確信した。そして、これは時空管理局史上に無いほどの強大な闘いになるであろうことも。
 そして――ある日、予言が追加された。
 追加された預言。それは末尾に以下の一文が追加されることとなる。

『だが、心せよ。朱い炎だけがそれを止める。狂った炎は羽金を切り裂く刃となるだろう。』

 これはあの襲撃が起こった日。そう、八神はやてが撃墜された、あの日に書き込まれた。
 現在、これは管理局の中でもカリム・グラシアと八神はやてしか知らない。
 預言が追加されることなど原理的にあり得ないことだ。だが、それが起こった。そして書き込まれた記述。
 彼女の能力『預言者の著書(プロフェーティン・シュリフテン)』とは、曖昧な世界の運命を書き出す能力である。
 それはただこれから起こるであろうことを淡々と書き出すだけであり、その性質上、的中率はどうしても低くなる。『未来』という曖昧で確定されていない事象を観測すると言う能力であるが故に。
 だが、この一文はそれとは明らかに違う。これは預言ではない“伝言(メッセージ)”だ。
 どうやって、自身の魔法に干渉したのかは定かではない。その方法も、発生条件も、発信場所も全てが定かではない。
 だが、カリム・グラシアが決意を固めた理由。その一つがこれであった。
 故に彼女は本意を置き去りに、解決を求めた。
 彼女がこれから八神はやてに強いることはそういった類のことだ。そして、そうでなくては事は成しえない。数多の次元世界に降りかかる焔を払う為には。

「では、行くとしよう。まだ、準備は残っているのでね。」

 男はそう言って、立ち上がり、出口に向かう。
 ドアノブに手を掛け、男は外に出て行った。その背中に向けてカリムは呟く。

「では、後は頼みますよ、ギルバート……ギルバート・デュランダル。」
「……今の私はデュランダルではない。グラディス……ギルバート・グラディスだ。」

 ギルバート・デュランダルと呼ばれ、ギルバート・グラディスと名乗った男は彼女に背を向けたまま部屋を後にした。


 部屋の中は混沌と化していた。
 ギンガやはやての予想以上に子供の面倒見がいいシンは、すぐにエリオやキャロと意気投合。
 ついでに同室にいたフェイトも一緒に4人でトランプをしていた。ちなみに内容はババ抜きである。
 ギンガはいきなりのその様子に少し呆気に取られてしまっていた。
 昨日までのシンなら決してこんなことはしなかった。絶対、間違いなく、確信が持てるレベルで。

(な、何があったの!?)

 焦るギンガ。当然だ。辛気臭いことこの上ない、陰鬱この上ない男がいきなり無邪気な少年のように人の輪の中に溶け込んでいるのだ。
 彼女でなくとも何があったのか、聞きたくなるに違いない。

「フェ、フェイトさん、これどういうことですか?」
「あ、久しぶり、ギンガ。……これどういうことって?」
「いや、アスカさんが妙に打ち解けてるので……」
「良い人よね、アスカ君って。キャロやエリオ、私のことも慰めてくれたし。」

 嬉しそうに微笑むフェイト。
 信じられない。何事にも無関心無気力だったシン・アスカはどこいった。ギンガは何か詐欺にでもあったような気分だった。
 
「あ、ナカジマさんも来てるならババ抜き一緒にやりませんか?」
「い、いえ、私はいいです。」

 シンに呼びかけられ、ギンガは一層疲れてきた。心の中で思ったことは一つだけだ。

(いや、貴方誰ですか?)

 ついこないだまでのシン・アスカはどこにいったんだ。少しだけ、肩肘張って気合入れてきた自分が馬鹿馬鹿しくなって――

 ――お前、惚れたか?

 先ほどの父の言葉が舞い踊る。

(いや、私は別に気合入れてなんて無いし、そういうのじゃないし、別にアスカさんがどうこうなんてないんだから)

 ぶんぶんと頭を振るギンガ。傍から見るとこっちの方が危ない人である。

「……何してんのや、ギンガ。」
「はっ!?や、八神部隊長、お久しぶりです!」
「いや、久しぶりはええねんけど、椅子に座ってぶんぶん頭振って何や?ライオンの真似か?」
「い、いえ、違います。気にしないでください。」
「まあ、ええけど。ほんでギンガは……あ、アスカさんの見舞いか?」
「ええ、そうです。」

 そう言って4人で仲睦まじくババ抜きをしているシンに目をやる。

「部隊長はアスカさんのこと知ってます……よね?」
「一回だけ会ったことはあってんけど……ああいう人やったかなあとは思うてるね。」

 はやての頭にあるシンはやる気の無さそうな無気力人間だった。ところが目の前にいるのは非常に人当たりのいい好青年である。180度ターンというよりも次元跳躍ターンと言っても過言ではなかった。

「いえ、違う、と思うんですけど……」

 混乱する二人を尻目に4人はトランプに熱中していた。
 まずはエリオが一番、キャロが二番、現在負けをシンとフェイトで最下位争いをしている。
 両者の性格――思い立ったら一直線――が如実に出たような結果である。

(あんな子供のようなフェイトちゃんは久しぶりやな。)

 口には出さずはやてはそう思った。
 そうこうする内に勝負は決まったらしい。何とかフェイトが上がってシンが最下位。

「……それじゃ、ここらへんにしようか。キャロもエリオも明日にはここ出なきゃいけないんだしね?」

 優しくフェイトが諭すと

「はい!」
「分かりました!」

 と、元気よく返事を返すエリオとキャロ。実に素直ないい子供だった。

 ――シンの笑顔の理由の一つにこの二人があった。

 シン・アスカには妹がいた。マユ・アスカ。故人である。
 シンは家族の遺した唯一の形見として戦時中マユの携帯を肌身離さず持っていた。
 家族で一緒に住んでいた時も帰りの遅い両親の代わりにシンが勉強を教え、夕食や掃除を二人で行い、両親の帰りを待つ。シン・アスカとマユ・アスカはそんな仲睦まじい兄妹だった。
 キャロとエリオ。彼らはちょうど年齢も同じくらいで、シンにそれを思い出させていた。

 そしてもう一つ。今のシンには迷いが無いのだ。やりたいこと。やるべきこと。
 シン・アスカは「誰かを守る」という自分の道を選んだ――それは選ぶべくもなくそこにあったのだが。
 結果として彼を覆っていた無気力は今や存在しない。ここでこうして落ち着いているのも身体を治す為だ。ゲンヤは怪我が治ってからだと言った。全てはそれからなのだ。
 シン・アスカはそうやって自分の中の問題に人知れず整理をつけていた。エリオ、キャロ、フェイトは「整理をつけたシン」にしか会っていないから「整理できていないシン」のことしか知らないギンガやはやてとは話が噛み合わないのは当然だろう。
 ちなみにエリオとキャロとフェイトは肋骨の骨折などで一週間――両者共に咄嗟に張ったシールド及びプロテクション等の魔法防壁とバリアジャケットの性能によってその程度で済んだのだった――程度であり、シンは全身の裂傷と打撲と肋骨の骨折、右拳の骨折、火傷などで全治2週間――火傷や裂傷は魔法によって優先的に治癒された――だった。
 一時は危険な状態だったものの一度峠を乗り越えてからはこの部屋に移された。余談だがシンが目を覚まし、「自身の願いを確認した」のは峠を越えてからのことである。

 仲睦まじいエリオ、キャロ、フェイト。それはまるで本当の親子のように――実際義理の親子なのだが、そんなことをシンは知る由も無い――見える。そんな三人に充てられたのか、シンは立ち上がると、

「俺は少し、外に出てくるよ。」

 と、呟き、病室から出て行った。出て行く一瞬前、ギンガに目配せして。
 ギンガも立ち上がり、その後を追う。何か話しがあるのだろう。そしてその内容をギンガはおおよそ予測していた。


 屋上と言うのは秘密の話をするには実に適している。
 密室ではないが、実質的には密室なので誰かに話を聞かれる心配はないからだ。
 別に、シンが今からする話は他の誰かに聞かれたところで不都合があるわけではないが。

「魔導師に?」
「はい。魔導師になるにはどうしたらいいのか。それを教えて欲しいんです。」

 それは半ば予想できた問いだった。
 昨日のシンの態度を見ていればこうなることは見えていたし、ゲンヤにもシンは同じことを聞いている。その時は素気無く「怪我を治せ」で終ったようだから今度はギンガに、ということだろう。

 けれど彼女には分からなかった。力を求める理由、ではない。どうしてこの世界で戦おうとするか、その理由がだ。
 彼にしてみれば縁も所縁も無い別の世界。
 その世界でその世界の為に――実際はミッドチルダの為だけではないが――戦おうとする理由。それがギンガには見えてこなかったのだ。

「魔法を覚えるのは別に構わないんですが……どうしていきなり?」
「別に大した理由じゃないんだけど……俺の経歴、知ってますよね。」
「ええ」

 報告書を書いたのは彼女なのだ。知らないはずがない。

 ――軍に入ったのは力を手に入れる為。戦後、再び軍に入ったのは戦う力の無い弱い人達を守る為。

 彼はその為に力を手に入れ、そして戦い続けた。けれど、彼は此処にきてその目的を失い、無気力となった。自分には何も出来ない。自分は無力だから――と。
 そこで、ギンガは思い至る。一つの結論に。

「時空管理局は“守らせて”くれるんでしょう?」
「え、ええ。それが仕事ですから。」

 真摯なシンの態度にギンガはたじろぎながら、答えた。

「だから、魔導師になりたい。時空管理局に入りたい。そこで俺にも「守らせて」欲しい。それだけです。」

 彼は嗤う。あの「無邪気な笑顔」で。
 ギンガはそこで確信した。自身の出した結論に。
 彼は、今、自分で言っている通り「守りたい」だけなのだ。その結果、何が起ころうとどんな結果を産もうと関係なく、ただ有象無象を老若男女を問わず眼に映る全てをただただ「守りたい」だけ
本来なら守ると言うのは目的のためだ。

 「愛する人」を「守る」。「大切な夢」を「守る」。

 だけど彼は違う。シン・アスカは「守りたい」から「守る」のだ。目的が手段と成り果てた妄執である。

「も、元の世界に戻ると言うのは考えなかったんですか?」

 少しだけ彼の雰囲気が変わる。にじみ出る陰鬱。それは彼女が良く知るシン・アスカの空気。
 シンの瞳が射抜くようにギンガを見つめた。

「それを考えての結果です。あの世界に戻ったところで、もう誰も“守れない”。だから、俺は、ここにいたい。」
「アスカさん……」

 かすれた声でギンガは呟く。それは彼の言葉に感動してなどという理由ではない。
 彼の言葉に、願いに圧倒されて、だ。寒気と同時に怖気を感じ取り、ギンガは目前のシン・アスカに得体の知れない恐怖を覚えた。
 その時、がちゃりと音がする。屋上のドアが開く。二人はそちらに注目し、そして、

「あー、なんや、重要な話しとるようやけど私も混ぜてもらってええかな?」

 そこには、しれっとした顔で「盗み聞きしてましたよ」と言いたげな八神はやてがいた。

「……何の用でしょうか、八神2等陸佐殿。」

 シンの雰囲気が変化する。
 話の邪魔をされたことが気に食わないのか、それとも自分の「邪魔」をするのだと予想したのか。
 敵意をむき出しにして、シンははやてを睨みつける。
 シンが醸し出す「敵意」。はやてはそれを微風のように受け流し、二人の傍に歩み寄り、シンに向かって話し出す。
 一触即発。当人同士はどうなのかは分からないが、ギンガから見る二人はそう見えた。今、ここで戦いを始めてもおかしくはない。そう思える程度には。
 はやてが口を開く。

「盗み聞きするつもりはなかったんやが、ちょっと聞こえてきたもんでな。アスカさん、さっき言ったことに偽りはないんやな?」
「……ええ、例え誰が嗤おうとも、俺にとってはソレが全てです。」

 嗤いたければ嗤え。シンは言外にそう言っている。
 はやてはそんなシンの心情を察しているのか、いないのか。あくまで淡々とした態度を崩さない。

「さよか。」

 何事か思案するはやて。そして、十秒ほど経った後彼女はシンに呟いた。

「魔導師になりたいんやったな?」
「はい。」

 躊躇いなく返される答え。
 はやてはその返答に満足したかのように頷き、言葉を口に載せる覚悟をする。そう、これは覚悟だ。指揮官として、「使う側」であることを肯定する覚悟。
 シン・アスカを鉄砲玉にしろ。カリムはそう言った。はやてはその問いに返答出来なかった。彼女には覚悟が無かったからだ。
 「死んで来い」と部下に告げる覚悟が。だが、それが無ければ、彼女を撃墜し、ライトニングを倒したあの化け物と渡り合えないのもまた事実。
 小を取って大を生かすか、それとも一蓮托生で戦うか。
 どちらを選ぶべきか。彼女はそれを迷っていた。覚悟を決められなかった。だが、

 ――守らせてくれるんでしょう?

 シンがギンガに言い放ったその言葉がはやてに覚悟を決めさせた。
 捨て鉢なその言葉。自分を一発の弾丸としか思っていないその言葉が、はやての奥底にある記憶の琴線に触れた。そう、10年前。救えなかった彼女を思い出させた。

 リインフォース。闇の書の管制人格であり、己の名前も忘れるほどに辛く長い世界を歩いてきた守護騎士ヴォルケンリッターの一人。そして、八神はやてにとっての忘れられない「犠牲者」。
 思い起こすは彼女との最後のやり取り。


 空に消えていく彼女にはやては泣き叫んだ。

「やっと、やっと救われたんやないか。」

 そうだ、彼女はようやく救われたのだ。

「私が暴走なんかさせへん。だから消えたらあかん。」

 長い年月を渡り歩いてようやく見つけた安息のはずなのだ。

「駄々っ子は友人に嫌われますよ。聞き分けを」

 なのに、彼女は諦めて、勝手に覚悟を決めて、

「これからもっと幸せにしてあげなあかんのに」

 これからなのだ。これから彼女の前にはもっともっと幸せなコトがたくさん待っている。生きていれば、そこにいるだけで、彼女は幸せになれるはずなのに。

「大丈夫です。私はもう世界で1番幸福な魔道書ですから」

 けれど彼女は嬉しそうに、幸せそうに微笑んだ。彼女は消えた。遺されたのはその欠片。

 ――それが八神はやてに残された癒えない傷痕。
 シン・アスカの言葉はそこに触れた。
 互いに掛け替えの無い「喪失」を経験し、その為に力を求めたシン・アスカと八神はやて。
 方向は違えども、二人の本質はよく似ている。そして至った道は真逆の道。

 シン・アスカは守る為に全てを捨て、八神はやては守る為に全てを欲した。

 それゆえに、全てを欲する彼女にとって自分の命に欠片も意味を見出せない彼の言葉、それが彼女には許せない。
 だから、彼女はこう思った。
 ならば、守らせてやろう。その為の力をくれてやろう。そして、決して止めることなく守り続けろ、と。

 カリム・グラシアとその配下の男――それが誰なのかも定かではないが――が何を考えていようと、自分は、八神はやては決して捨て駒になどしない。鉄砲玉になどさせるものか。鍛えて、鍛えて、鍛えて、鍛え続けて、全てを覆す最強として君臨させてやろう、と。
 その力で以って全てを守ってみせろ、と。
 そんな彼女にシン・アスカの敵意など如何ほどの意味も無い。
 内に秘めた怒りのまま彼女は続ける。こちらを睨みつけるシンに笑顔すら忍ばせて。

「それやったらアスカさん、私のところに来る気ない?」

 だから、この言葉が出る。カリム・グラシアの言った指示。その“斜め上”を行く為の一歩目の言葉が。

「は?」
「え?」

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする二人。はやては微笑みを浮かべながら付ける。

「私のところ……機動6課で鍛えてみんかと思ったんやが。」
「俺が、ですか?」

 そうや、と頷きながらはやては続ける。

「勿論、今のアスカさんじゃ来てもらうのは難しい。せやからBランク試験に受かる言う条件がつくが。」
「Bランク!?」

 驚くギンガ。新人魔導師にとっての最初の難関。それは魔法をまるで知らない素人に突きつけるコトではないからだ。
 だが、そんなことを知らないシンは――いや、彼ならば知っていたところで変わらないかもしれないが――はやての返答に答える。唇を喜びで歪ませながら。

「……八神さんのいるところは、俺に“守らせてくれる”場所ですか?」
「そうや。あんたの望む通りに“守らせたる”。老若男女問わず一切合切選ばず全部守ってもらう。あんたが望む限り、ずっとな。怪我して……死んで休んでる暇なんて無いくらいにな。」

 その答えにシンは我慢できずに笑みを浮かべた。
 唇を吊り上げ、瞳を吊り上げた、獰猛な獣の笑みを。

「そのBランク試験っていうのに受かればいいんですね?」
「いや、アスカさん、Bランクって言いますけどそれはかなり……」

 そのギンガの言葉を遮って、はやては続ける。

「そうや。次の試験は準備期間を含めて今から3ヶ月後。アスカさん一人で受けてもらう。それでもええか?」
「……俺はそれに受かれば“守れる”んですね?」
「そうや。」
「分かりました。」
「そんなら、また三ヵ月後にな。連絡は追ってするから、アスカさんはそれまで訓練したっといて。そうやな……ナカジマ三等陸佐に私から進言しとくさかい、ギンガがアスカさんの相手してあげてくれへんか?」
「わ、私がですか?」
「そうや。もう、知ってるやろうけど、またギンガには機動6課に出向してもらうことになってる。アスカさんにも来てもらうんやったら適任は……ギンガやろ?」

 そう言われると立つ瀬も無いギンガ。確かにその通りである。共に同じ部隊から出向する形になるのだ。引率するとしたら自分以外には無い。

「わ、分かりました。」
「よし、ほんならな。二人とも。」

 八神はやては踵を返すと二人の元から離れていく。

(……またカリムに頼んで裏から色々と手を回してもらわなあかん、か。焚き付けたんはあっちやし、無理にでもしてもらうけど……)

「八神はやてさん!!」

 歩きながら思考に耽っていたはやてに後ろから大きな声がかかる。
 振り返るとシン・アスカが真剣な面持ちをして直立不動で彼女に向かって立っていた。
 何事かと彼女は怪訝に思い、

「本当にありがとうございました!」

 そのまま一礼。
 そして再び直立不動に戻る彼の顔には本当に綺麗なギンガが見惚れたあの笑顔があった。
 コロコロと変わる表情。きっとそのどれもが本心からの表情なのだろう。傍らのギンガはそんなシンに圧倒されて言葉も無い。

 清廉潔白で純粋無垢な欲望の塊。人はそれを怪物(モンスター)と呼ぶ。彼は今その入口に足を踏み入れたのだろう。

「――は、そういうのは受かってから言うもんやで、アスカさ――いや、シン・アスカ。」

 彼の言葉に笑顔を返す。それは先ほどまでの何かを溜め込んだ笑顔ではない。本当の彼女の笑顔だった。
 ――その笑顔は彼女もまた踏み入れたことの証。表と裏が乖離した化け物共の一端に。
 爽やかな風が吹く―-―風だけは爽やかだ。風には心象は映らない。

 ギンガは恐れる。シン・アスカを。彼の選んで歩く道のその果てに彼がどうなるのか。それを恐れる。

 はやては挑む。シン・アスカに。彼が選んで歩く道のその果てに彼がその道を越えていけるのか。それに挑む。

 彼らが選び、駆け抜ける道は血と硝煙が渦巻き、死臭と腐臭が漂う獣道。
 その果てに何が待ち受けるのか。今はまだ誰も知らない――。



[18692] 第一部陸士108部隊篇 5.訓練
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 12:11
 新暦76年某日ミッドチルダ。
 世界は今―――変革を迎えている。
 そう、誰もがまことしやかに噂していた。
 全次元規模でどこからともなく現れるガジェットドローンの大群。
 世界を揺るがしたジェイル・スカリエッティの脱獄。
 そして、何よりも―――世界に蔓延る次元漂流者の極端な増加だ。
 それはいつから、始まったのか分からない。だが、気がつけば、次元漂流者の数はその数ヶ月の間に極端に
増加し―――その半数以上が死骸で発見されていた。
 ある者は炎よりもはるかに“高熱の何か”で身体を焼かれ、
 ある者は“巨大な何か”に踏み潰されたような傷があり、
 ある者は酸素のあるはずの地上で“何故か”酸素欠乏症となっており――そのどれもが、「普通」に生きている人間では決してなるはずの無い怪我ばかりだった。

 時空管理局はこれに対して高度に発達した質量兵器が関与しているとその世界の捜索を開始する。しかし、
その捜索は一向に前進することなく、凍結されることになる。
 ガジェットドローンの襲撃が発生するようになったからだ。しかも、時空管理局のお膝元とも言えるミッドチルダにて。
 管理局はその処理に追われる中でその事件のことを忘れていった。誰しも目前の脅威の方が重要なのは明白。
 故に―――その事件は記憶の底に追いやられていくことになる。
 だから、誰も気付かなかった。
 シン・アスカがこの世界ミッドチルダに現われたその日から―――“一度”も時限漂流者は発見されていないことを。


 ギンガがシンに課した訓練。それはとりもなおさず基本の反復。そして模擬戦と座学。この三つに尽きた。
 何しろ、本来数年かけて合格するべきモノをたった数ヶ月で合格するというのだ。まともな訓練で出来るはずがない。
 よって三ヶ月と言う期間の全てを使って彼女はシンの望む系統の基本魔法の習得、そしてその習熟に費やし、あとは全て模擬戦と言うスケジュールを組むことになる。
 今日で7日目。初日はずっと魔力の認識と基本の魔法。
 驚くことに――と言っても一度魔法を使ってはいるが――シンは通常2週間から1ヶ月はかかる魔力の認識と発動を物の見事に一度目で成功させた。流石のギンガもモノが違うと感じた。八神部隊長が眼をかけるだけはあると。
 それから分かったことはシン・アスカの適性は空戦魔導師の中近距離型。元の世界でパイロットをやっていたせいか飛行に必要な一通りの能力を全て高いレベルで保持していた。ギンガ自身は飛行に関してそれほど得意でもない為――というか官理局の多くの魔導師が――詳しく教えることは出来なかったが。
 そして一週間。とにかく基礎の反復と習熟を繰り返させた。
 寝ても醒めてもデバイスの起動を繰り返し、基礎魔法――魔力弾の発射と魔力の収束、そして魔力の変換をとにかく何回も繰り返させた。そして、以前シンが無我夢中で使用した魔法―-炎熱変換と呼ばれる類の魔力変換を特に重視して反復した。
 知らずに使える以上最も高い適性を持っているのだろう、とギンガはあたりをつけ、重点的にそれを反復させた。炎を垂れ流すだけではなく、それを収束し、放ち、爆発させるなどの変化をつけて。
 結果としてシンは一週間で“とりあえず魔法を使える”と言ったレベルにまではなった。
 無論、とりあえずである。殆ど素人と変わりは無い。だが、これでようやく模擬戦を訓練に組み込むことが出来るレベルなのだ。
 模擬戦――ギンガは基礎を怠るような真似などするつもりは無いが、何よりもBランク試験に受かる為に必要なのは経験と発想力。それを手に入れるには実務経験が最も有効な訳ではあるが、シンをいきなり陸士108部隊の職務につけるなど出来る筈もない。故に模擬戦でそこを補うしかない。
 これでようやく二歩目。ギンガはそう考えていた。

「おはようございます、ナカジマさん。」

 訓練場にやってきてギンガが目にしたのは陸士108部隊の訓練用の運動服を着込んだシン・アスカだった。

「おはようございます、それじゃ早速始めましょうか、アスカさ……えっと、今日からは、シ、シ、シンと呼ばせてもらいますけど、い、いいですか?」

 物凄いどもりながら、ギンガは言い放つ。
 目前に立つシンはそれについて怪訝な顔をする。当然だろう。何故かギンガの頬はわずかばかりに赤面しているのだ。

「別に構いませんけど……なんでいきなり?」

 怪訝な顔をするシン。

「あ、いや、いきなりと言うか……ア、アスカとかナカジマよりお互いにシン、ギンガの方が呼びやすいかなあとかあったんですけど……ど、どうですか?」

 少し赤面し、話すギンガ。緊張しているのだ。
 彼女はかつてこのようにして異性と話したことなど無いから。あっても基本的に全て同僚。つまりは、ギンガ・ナカジマと言う個人の前に、組織を介した付き合いである。
 だが今回は違う。
 初めは保護者と言う枠組みではあるものの、出会ってからずっと彼らは個人同士の付き合いと言ってもいい。
 故に、ギンガは緊張する。
 気になる異性の前では乙女と言うのはすべからく緊張するというのは世界が変わろうとも常にそこにある真理なのだから。
 その相手がこんなどうしようもないほどにひねくれてねじれ切った変人だといのはギンガにとって憂うべき事態なのかは定かではないが。
 ちなみにこの提案はゲンヤからのものだった。シンとギンガの訓練を見ていた彼は訓練後にギンガに言った。

「お前ら、もう少し仲良くしろよ。」

 ギンガ本人は仲良くしているつもりだったが、どうにも空気が硬い上に呼び名がどっちも硬すぎて傍から見ればかなりギクシャクしているように見えるらしい。
 別に、決して仲良く見られたい訳では無いし、積極的に仲良くなりたいわけでもないが周りからそう思われるのも嫌なのでギンガはゲンヤの提案に乗ることにした。

(べ、別に、仲良くなりたいとかそんなんじゃないのよ?)

 誰に言い訳しているのかギンガは心中で呟き……彼女を不思議そうに見るシンに気付く。

「あ、アスカさん?」
「俺は別にどっちでも構いませんけど。」

 シンは少し苦笑気味に頷く。呼び名など別にどう呼ばれても気にはならないからだ。

「そ、それじゃ模擬戦を始めますね、デバイスの準備はいいですか、アスカさ……シン?」
「はい!」

 シンは答えを返すとデバイス――彼に支給された銃剣型のデバイス「デスティニー」を起動し、魔力を込める。
 途端に刀身から赤い炎が燃え上がる。
 目前で「デスティニー」を構えるシン。
 デスティニー。それは今回シンがBランク試験を受けるに当たり、機動6課からシン・アスカ個人に対して支給されたアームドデバイスである。
 名前については、シンの乗っていたモビルスーツに残されていたデータからつけられたとか。そしてその設計思想も。
 基本素材は全て機動6課ライトニング分隊所属エリオ・モンディアルの持つアームドデバイス“ストラーダ”と同じである。
 ストラーダのスペアパーツを元に作り出された、いわばストラーダの兄弟とでも言うべきものである――その内容はツギハギ同然ではあったが。

 およそ長さ1m、幅15cmほどの片刃の刀身と40cmほどの長さの柄。そしてその刀身の背に存在する銃身。
 「銃に剣を装着する」のではなく、「剣に銃を装着する」というその外観。
 それは、銃剣(バヨネット)と言うよりも剣銃(ガンブレード)と言った方が正確である。
 そして何よりも奇異なのは鍔の部分に突き刺さるようにして収まっている僅かに刀身が反り返った二本の短剣。
 コンセプトは「如何なる距離であろうとも優れたパフォーマンスを発揮する」と言うモノ。
 その特性は機動6課の中ではフェイト・T・ハラオウンの持つバルディッシュアサルトが一番近い。
 中距離、遠距離においては刀身に装着された砲撃武装「ケルベロス」のモード切替により速射と砲撃を。
 近距離においては大剣「アロンダイト」による斬撃。そして鍔に収納されている双剣「フラッシュエッジ」により取り回しが不便な超接近戦における適性も持つ。
 急造仕上げであるが故に、インテリジェントデバイスではなくアームドデバイス――それも非人工知能搭載型として作り出された。一応AIは存在するものの、補助のみの役割であり、思考することは無い。

 故に――ギンガには一つの疑問があった。
 どうしてこんなに早くこの人にデバイスを支給するのか。急造仕上げと言うことは「間に合わせなければいけない理由」があったと言うことだ。
 その理由がギンガにはどうしても分からなかった。
 確かにシン・アスカの潜在能力及び成長速度は並ではない。異常とすら言える速度だ。元々魔法への認識能力が高かったにしてもその速度は、才能の一言で済ませられないほどに際立って異常だった。
 故に、彼がいずれ自分専用のデバイスを手に入れるであろうことは想像に難くないのは確かだった。
 だが、それでも、未だまともに戦闘も行えない魔導師にデバイスを渡すなどどう考えてもおかしい。
 ましてやこれは専用デバイス。本来は「使用者を観察し、そのスタイルに見合ったデバイス」として開発するのが常であるのに、今回のこれはまるで「デバイスが求めるスタイルの使用者を作り出す」ように思えてならない。
 結果と過程があべこべになっている上に、このデバイス「デスティニー」の性能がギンガの疑念に拍車をかける。
 「デスティニー」は、いわば「何でも出来ることそのもの」が武器のデバイスである。遠距離から近距離まで如何なる距離においても平均して戦果を生み出すことの出来る――要するに器用貧乏のデバイスだ。
 「如何なる距離においても平均的な戦果を生み出せる」と言うことは逆に言えば「絶対的な戦果を生み出せる距離」が無いのだから。
 だが、それも使用者の実力一つではある。もし、使用者が如何なる距離をも得意とするなら――このデバイス「デスティニー」
は極めて強力な「単騎精鋭」を作り出すことになる。だが、これはあり得ない。何故なら、戦闘とは個人戦ではないからだ。
 個人戦で無い以上、そんな技などまるで必要ない……・だが、もし、個人戦、もしくはそれに近い環境での戦闘を強制させられるならば、辻褄は合う。

 それともう一つ。
 器用貧乏とは言い換えると全ての距離適性――つまりは戦闘技術に対する適性を持っていると言うことになる。
 逆に言えば、右も左も知らない素人に基本技術を叩き込むには最も問題の無い手法ではある。
 後者は理解できるのだ。
 短期間で成長させる為の方法論としてはいささか疑問が残るものの、基本技術を叩き込むと言う姿勢には意味があるからだ。
 だが前者―――単騎精鋭を作り出すという考えはどうしてもおかしい。
 おかしいのに、ギンガはその可能性を馬鹿げたこと、と切り捨てることが出来なかった。
 それは、多分、あのシン・アスカを見せ付けられていたからかもしれない。
 個人戦に近い状況。
 それが選択される状況とは基本的に劣勢だ。総合点で勝てないから個人戦という局地戦に持ち込むのだ。
 その戦場がどれだけ殺伐としているかなど考えるまでも無い。
 そして、そういった状況で矢面に立たされる誰か――この場合はシン・アスカである――は基本的に命の危険に晒されるか、もしくは捨て駒――要するに殿(シンガリ)として配置される可能性すらある。
 トカゲの尻尾切りのように、捨て置かれる末端として。
 それに思い至ったギンガは一つの仮説を思いつき―――それを振り払う。
 これを彼に支給した機動6課部隊長八神はやて二等陸佐の顔を思い出す。
 ギンガの知る彼女はそんなことを考える人ではない。そう思って。
 彼女は今度こそ、自身の頭に思い浮かんだ考えを馬鹿げたことと一蹴した。
 そうだ。そんなことがあるはず無いのだ。
 八神はやてが、シン・アスカを、“捨て駒”もしくは“鉄砲玉”として作り上げようなど、あり得るはずが無いのだから。
 目前ではシンがデスティニーを振りかぶり、地面を這うようにギンガに向かって疾走する。彼女はその一撃を前に考えを振り払い、模擬戦に没頭することに決めた。
 考えても仕方が無い。そう割り切って。


 そこは医務室。ベッドの上でシンが眠り、その横でギンガが椅子に座り、彼の寝顔を見つめている。

「こうしてると子供みたいな寝顔なのに……どうして倒れるまで止めないのよ。」

 苦々しく呟き、ギンガは目前のシン・アスカの寝顔を見る。それは酷く満足げで、満足感にあふれた顔だった。
 ――模擬戦はギンガの完勝に終った。シンはその時点で疲れ切って動けなくなっていた。
 当たり前と言えば当たり前である。
 デバイスを使った戦闘というのは、非常に過酷である。
 特に接近戦においては強固な守りを常に張り続けると言う大前提がある。
 こちらの最大威力の攻撃を当てることの出来る距離というのは、逆に言えば敵の最大威力の攻撃を受ける距離でもあるからだ。
 シンは無謀にもそんなギンガに接近戦を挑んできた。負けると言うのは当たり前である。
 そのエリアに立つと言うことはシンも同じくギンガの攻撃を受け止める為の防御を行わなければいけないのだから。
 そんな彼が彼女に勝つことなどどう足掻いても不可能だ。というよりも相手の得意な分野で勝負しているのだからしょうがないとは言える。
 ギンガの見立てでは、シン・アスカの資質は彼女と同じフロントアタッカーではなく、ガードウイング――所謂中衛に位置する。
 高い反応速度と身体能力は確実な回避を旨とするガードウイングに適していると言う見地からの考えだ。
 その考えは間違っていない。だが、シンはその性質上どうしても最前衛にならざるを得ないのだろう、そうギンガは考えていた。
 シン・アスカの願いは守ることだ。誰をも。眼に映る全てを。
 そんな彼が果たして、誰かを前にして戦うことなど出来るだろうか?

(……多分、無理でしょうね。)

 ため息を吐いて、胸中で断言する。その理由があるからこそ彼は力が欲しいと考えた。
 ――俺は、どうして、こんなに、弱いんだ。
 あんな顔をする彼が、誰かを盾にして戦うなど恐らく――否、断じてあり得ない。
 暗澹たる気持ちが渦巻く。このまま、魔法を教えていいのかとすら思うほどに。

「……はあ。」

 ため息を吐く理由はまだある。
 彼がこうして、医務室のベッドに横たわる原因は何も模擬戦で倒されたからと言う訳ではない。
 問題はむしろ模擬戦の後――ギンガが言い渡した基礎訓練だった。
 彼女は模擬戦の後、力尽きて倒れたシンに向かって、魔力に炎熱変換を行いその上で収束と開放を命じた。
 基本中の基本である。回数は特に問わない。「出来る限りでいい」と。
 それが失敗だった。
 彼は気が付けば、凄まじい回数をこなし、ギンガが一時その場を離れ、職務をこなし、昼食を買って戻ってくるその瞬間まで続けられた――実際、続きはしなかった。
 彼女が再び訓練場を訪れた時に見たのは床に倒れているシンだった。
 その後彼女は大慌てで軽い脱水症状を起こしていた彼を医務室にまで運び、処置を頼み、付き添って看病している。
 一体どこの世界にいることだろう。自身が倒れて気を失うその直前まで延々と魔法を行使し続けるなどと。
 普通は物理的な限界の前に精神的な限界で人は諦める。
 そこが安全ラインなのだと肉体は知っているからだ。
 だが、本当の限界はその先――精神的な限界を超えて肉体の血の一片、細胞が慟哭する瞬間に初めて訪れる。
 けれど普通はそこに行き着くことはない。
 エンドレスでマラソンをすることが出来ないように精神的なラインを超えると言うのはあまりにも苦痛であるからだ。

「……死んだらどうするつもりだったのよ。」

 文句が知らず漏れ出る。
 分かってはいたが彼は常軌を逸している。ブレーキの壊れた機関車ではなく、ブレーキの存在しない機関車だ。
 あの時、彼が魔導師になる理由を語った時、ギンガは彼の異常を感じ取った。
 コロコロと変わる表情。内から滲み出る陰鬱。そして、獰猛な怪物のような笑み。
 それが仮面ならばまだ良かった。だがそれが全て本心からのものだとすれば。
 「守る」と言うことに拘り、その為ならば他の一切合切――自分の命ですら必要ないと切って捨てることが出来る怪物。
 人間には決して理解できない人外の化生。彼女はシンにそういったモノを感じ取っていた。
 そしてそれは間違いなどではなかった。「守る」ために、彼は訓練に置いて自分自身を非常に軽く見積もる。
 少しでも速く強くなる為に、自身の命を削らんばかりに常軌を逸した訓練を施し、尚且つそんな訓練を当たり前にこなす。
 それが、正気の沙汰であるはずがなかった。

「守る、か。」

 小さく呟き、ギンガはシンの顔を見つめる。
 椅子の背もたれに身体を預け天井に目をやる。
 ―――思い返すのは、あの記憶。
 朧気に覚えている、最愛の妹の敵となり、戦いを強いられ、そして妹に助けられたあの記憶。
 改造され、心を侵され、そして戦い続けた無機の記憶。
 情けなかった。自分が――妹を守るべき自分があろうことか敵に回り、危うく妹を殺すところだったのだ。
 ギンガにとって妹であるスバルとは守るべき対象だった。
 姉が妹に送る――いや、家族が家族に送る感情とは大概にそういったものではあるが、彼女も同じくそうだった。
 母を亡くし、父と妹の三人で自分は生きてきた。
 自分よりも弱い妹は自分にとってかけがえのないモノで、守らなくてはならないものだった。
 それが――守るどころか手にかけようとした、などと到底看過出来るはずがない。
 だから、彼女は義手となった左腕をそのまま残してもらうことにした。
 二度と忘れ得ぬ痛みとして―――悔恨の戒めとして残しておきたかったから。
 故に彼女の左腕は今もジェイル・スカリエッティが作り出した義手である。
 けれど、自分は何も失うことは無かった。最愛の妹も、自分を愛してくれた父親も、何よりも自分自身を失うことなく此処にいる。
 最初は自分が許せなかった。妹を殺そうとしたことが許せなかった。
 けれど――誰も死んでいないのだ。結果が良ければ全てが許せると言う訳ではないが、それでもそれは満足の行く結果の一つなのだ。
 生きていると言う、それだけで。自分は死なず、誰も死なず。
 けれど――ギンガはベッドで眠るシンを見る。

(この人は……守れなかった。)

 シン・アスカは家族を守ることも出来ずに奪われた。守れなかった。それはどれほどの苦痛と怒りを生み出したのだろう。
 話を聞けば彼はそれまでは軍人などの教育を受けたことは無い一般人だったらしい。
 そんな少年が、軍に入って自身の専用機を会得するようになるなどどれほどの努力を必要としたのか……想像など出来るはずも無い。
 そして、彼はその果てに、敗北した。詳細は聞いていない。けれど、それを告げた時、彼は一切の感情が抜け落ちたような顔をしていた。
 それだけで理解できた。恐らく、彼の努力は報われることなどなかったのだ――彼は、“また”守れなかったのだ、と。
 納得は出来ない。出来ないけれど――彼女はそれを理解出来てしまう。彼のその感情を。守れなかった後悔と守りたかった悔恨の、身を切り裂かれるような痛みを。

「……鍛えるしかないのかな。」

 ギンガにはそれしか解決策が見当たらなかった。
 彼を誰よりも強く鍛え上げ、彼が自分の望みを叶えることで、彼の傷跡は癒えていくだろう。
 けれど、それは解決策と言うほどに前向きなモノではない。
 ただ、シン・アスカがこれ以上傷つかない為だけの応急処置に過ぎない。
 ギンガは思う。鍛えて、鍛えて、鍛え続けて、その果てに彼は一体どうなると言うのだろうか。
 分かり切ったことだ。
 その道の果てには何も残らない。ただの虚無だけが残るのみ。そんな道はただ戦うだけの機械と同義。
 けれど、それでも彼女にはそれしか思いつかなかった。
 理由は一つだけ。

(この人はもう、ソレを貫くことでしか笑えない。笑えない人生なんて……悲しすぎる。)

 彼の笑顔を覚えている。あの花のような笑顔を。
 別に彼のことを良く知っているわけではない。知っていることは上辺のことだけで――内実は知らない。
 恐らくは単なる同情だろう――
 天井を見ていた顔を下ろし、シンを見る。
 少しだけ綻びが見えるものの――彼女の瞳には強い光が浮かんでいた。覚悟という名の光が。
 とことんまで付き合おう。この人を傷つけたくないと願うのなら――その意思をとことん貫かせよう、と。
 あの日、妹に救われた自分を悔しく思った。だから今度は自分が助ける番だ。今度は自分が「誰か」を助けなければいけない――いや、助けたい、と。そう願ったから。
 それは単なる代償行為。けれど、その心は決して汚れることなく、綺麗な硝子球のようで。
 ギンガ・ナカジマはそうして彼の頬に手を当て、髪を漉き……呟く。
「……私が、貴方を強くします。だから――強くなりましょうね、シン。」
 小さな呟きと共に彼女は穏やかな笑顔を浮かべる。それはどこか母性を感じさせる笑みだった。


 翌日からギンガのシンへの訓練は苛烈さを増した。それは訓練と言うよりも修行と言う言葉が似合うほどに。
 内容は変わらない。
 相も変わらず魔力の収束と開放、変換と言う基礎を幾度と無く繰り返し、何度と無く模擬戦を繰り返すこと。
 変わったのはその密度。そして、態度。
 それまでのギンガはあくまでシンを生徒として扱っていた。名前で呼び合うようにしたのも親しくなるべきだと考えたからであってそこに深い意味は――ある意味あったのかもしれないが――基本的には存在しない。
 だが、今のギンガは違う。そこに遠慮は一切無い。
 そう、ギンガはこと此処にいたりシン・アスカを「弟子」として扱っている。
 リボルバーナックルによる一撃を防御出きるか出来ないかの速度で打ち出し、シンに防御技術の鍛錬を施し、その重要性を認識させる。「効果的な防御術」とは如何なるモノか。それを彼自身の技術として編み出させる為に。
 そして本来なら空を飛ぶシンの方が有利であるはずなのに、それでもギンガに翻弄される。
 速度ではない。そのフットワークの巧妙さによって。それを認識させ、自身のポジションを無理矢理にでも認識させる。

 元よりシンとギンガの間には素人と第一線のプロと言うほどの隔たりがある。
 まずはその格差を認識させ、自分自身に何が足りないのか。何を得るべきなのかを考えさせる。
 これがギンガの教育方針。曰く「習うよりも慣れろ」である。
 元々、シューティングアーツと言うミッドチルダにあっても希少な魔法の使い手であるギンガは、教師としては向かない。
 性格的にどうかと言われると確実に「教える側」の性格ではあるが、技術――スタイル的に向いていないのだ。
 なぜならシューティングアーツは少数派(マイノリティ)だから。

 それは簡単に言えば、魔法ではなく、むしろ武術に近い。魔法で強化した武術とでも言うべきモノである。
 その根幹にあるのは“戦闘距離を戦闘思考で補う”コト。
 一撃が届かないのなら“届く距離まで近づけば良い”。
 一撃を避けられるのなら“避けられない状況を作り出す”。
 その為の方法論として魔法を使用する。
 こういった極端極まりない魔法を素人に教えたところで意味は無い。
 妹であるスバルのように、同じシューティングアーツを学びたいというのであれば問題はないのだが。
 いかんせん、デスティニーがシンに求めているのは「単騎精鋭」であり、シン自身そうなりたいと思っている。
 そして、彼女はその思いを尊重することに決めている――それゆえギンガはシンに基礎だけを教え込むことにした。
 その他の能力は自分では無い誰かが教えればいい、そう割り切って。
 結果、ギンガは模擬戦を重視することを決めた。
 当然のことだが、如何に戦闘に慣れていようと、それはモビルスーツなどの機動兵器による戦闘のことだ。
 生身の肉体を用いた戦闘と言うのは、肉体の運用方法から短所、長所など全ての分野で違い過ぎる。
 例えば戦車を扱わせたら一騎当千と言う人間がいたとしよう。
 ならばその人間がナイフによる白兵戦でも強いのか、と言われれば首をかしげざるを得ないのと同じように、その二つに繋がりは無いのだ。
 模擬戦はその為だ。
 シン・アスカに今必要なのは肉体の効果的な運用方法を学ぶこと。つまり、「魔法を使った戦闘に慣れること」。
 これに尽きる。

「シン、そこは違います!そこはもっと小さく防御しなさい。次撃への対応が遅れるでしょう!」
「くそっ、分かりましたよ!」

 吹き飛ばされ、毒づきながらシンは再び、目前のギンガに向けて『デスティニー』を構える。モードは「アロンダイト」。
 つまりは接近戦用である。
 だが、シンはアロンダイトを振り回すばかりで、斬撃と言うものには程遠い剣戟を繰り返す。
 ギンガはそれを受けることなく捌き、懐に入り込むと左脇を締め右腕を前面に展開し顔面を防御。
 そして左腕を空手の正拳突きの如く構え、放つ。

「うおおおお!!!」

 叫びながらシンはアロンダイトを無理矢理に振りぬいてギンガの左正拳突きにぶつける。
 弾ける魔力の余波と衝撃。爆風と共に両者が吹き飛ばされ距離が開く。
 だが、その程度で戦闘に切れ目は入らない。
 直ぐに二人は活動を開始する。
 シンは舌打ちをしながら、思い通りに動かせない自分に苛立ちを隠せない。
 ケルベロス――砲撃モードは問題ない。出力、範囲と申し分が無い。
 フラッシュエッジ――取り回しの良い短剣であるが故に接近戦ではこれ以上無いほどに頼りになる。
 そして、刀身を折り畳み――モビルスーツの方のデスティニーが装備していたアロンダイトのように折り畳むことで、いわゆる反動の少ない拳銃のような運用が可能となるケルベロス速射モード――これも悪くない。使い勝手の良さは折り紙付きだ。
 だが、

「くそっ!何でこんなに動かし辛いんだ!!?」

 アロンダイト。これが拙い。
 デスティニーを駆り、戦っていた時は同じ名前の大剣に幾度と無く助けられたと言うのに、いざ生身で似たような武器を使うとこれが使いづらいことこの上無かった。
 取り回しが悪い。そして、その長さゆえにどうしても振り回すような形になる。
 剣術を学んでいたならば違っていたかもしれないが、シン・アスカは軍人で、CE時代の軍人は当たり前の話しだが剣術の指導など受けない。
 精々がナイフによる白兵戦くらいである。
 現在のシンにとって、基本形態である「アロンダイト」こそが最も厄介な代物となっていた。
 頭の中にあるモビルスーツ・デスティニーの見様見真似で振り回すも先ほどのように簡単に捌かれ、懐に入られる隙を作ってばかり。
 その代わり威力は折り紙付き。
 当たればプロテクションやシールドなどの防壁を破壊しながら、敵にダメージを与えるそれは破格の斬撃武装と言って良かった。
 故にシンは一撃逆転を狙って何度もアロンダイトを振り回す。
 しかし当たらない。当たらないどころか徐々にギンガの攻撃を受け止めるだけの盾に成り下がっていく。

「ひゅっ」

 ギンガの鋭い呼気。
 僅かばかり大振りだったその一撃を紙一重で回避するとシンは上空に飛び上がる。同時にデスティニーへ指示を送る。

「デスティニー!カートリッジロード!モードケルベロス!」
『Mode Kerberos』

 デスティニーが電子音による返答と共に変形。刀身の中腹辺りに取っ手が現われる。
 同時に刀身が白熱し、その背部の砲門へと魔力が収束する。
 即座にシンは現われた取っ手を掴み、柄の部分をしっかりと握り締め、デスティニーを地面に向ける。
 収束する魔力。刀身の弾装から一発薬莢が飛び出る。同時にガシュンと言う音と共に漏れ出る蒸気。

「くらえ!!!」

 その目的は上空からの大規模砲撃による一撃必殺。
 接近戦で嫌と言うほどに味わったリボルバーナックルの味は身に染みている。
 あの拳撃の嵐から逃れ、一矢報いるにはそれしかない。そう判断して、だ。
 だが、シンのその思考は既に“彼女”の範疇の中。

「そう、来ると思っていました。」

 余裕を感じさせる声でギンガは既にシンの真横――左側にいた。

「なっ!?」

 ギンガはシンへの一撃が外れた瞬間、即座にウイングロードを展開し、シンの視界に入らないようにシンの死角へと向かう軌道で上空に既に到達していたのだ。
 慌てて、シンはデスティニーの柄から三日月上の短剣――フラッシュエッジを引き抜き、ギンガに向かって振り抜いた。だが。

「慌てて、攻撃しても意味はありません。攻撃とはこんな風に落ち着いて――」

 笑みを浮かべ、ギンガはシンのフラッシュエッジを落ち着いて捌く。シンの背筋に冷や汗が流れる。
 シンの右腕はデスティニーを地面に向けて固定している。そして左腕は今しがたフラッシュエッジを振りぬいた。
 つまり、シンの胴体部分はがら空き。
 どうぞ、攻撃してくださいと言わんばかりの絶好の好機。左手のリボルバーナックルが回転し唸りを上げる。
 幾度も幾度もこの身を打ち抜いたその鉄拳。
 シンはその一撃に恐怖を感じることも無く、最後の足掻きとばかりに、無理矢理に身を捻り、少しでもその一撃から身を逸らそうとする。

「撃ち貫くものですよ!」

 叫び。そして、打ち出される鉄拳。
 瞬間、声を出す間さえ無く吹き飛び、地面に向かって突き刺さるようにして叩き落されるシン。

「……ちょっと、やりすぎたかな?」

 展開したウイングロードから見下ろすと、地面に突き刺さるようにしてシンが気絶していた。
 


 シン・アスカとギンガ・ナカジマはこのようにして毎日毎日模擬戦を繰り返した。
 基礎訓練の際にはやりすぎないようにきつく(主にリボルバーナックルで)、回数制限を行い、残りの時間を模擬戦に当てる。
 筆記試験に関しては元々軍で座学などは習っていた為かシンにとっては復習程度で十分だったらしく、満点――とまでは行かずとも及第点は確実に取れるようになっていった。
 そうして二人の修行は続く。
 余談だがどんなに期間を空けたとしても3日に一回は医務室に運び込まれる彼はその内に「陸士108部隊始まって以来の特訓マニア」などと不名誉なあだ名を付けられることになる。
 そして彼を介護し、何度も叱責し、それでも鍛え、挙句の果てに叩き落とし、殴り倒し、吹き飛ばすギンガはいつからか畏怖と賞賛と揶揄を込めて「特訓マニアの鬼嫁」として呼ばれることになる。
 


「……せやけど、本当にギンガがやってくれるとは思わんかったわ。」

 陸士108部隊隊舎内の一室にて二人の女性が向かい合って座っている。
 一人は八神はやて二等陸佐。機動6課部隊長。
 もう一人はギンガ・ナカジマ二等陸尉。二人が今いるのは応接室である。

「シン・アスカの調子はどうや?」
「かなりいい感じです。このまま進めば本当にBランク試験に受かっちゃいますね。」

 微笑みながらギンガは先ほどまでの模擬戦を思い出す。いつものことながらアロンダイトの扱いに四苦八苦していた。今頃は自分の言っておいたメニューをこなしていることだろう。
 彼の様子を思い出し、楽しそうにするギンガを見てはやては紅茶を口に付けると、不敵な笑みを浮かべる。

「へえ……何や、ギンガはえらい楽しそうやな。」
「ええ、楽しませてもらってます。」

 くすりと笑いながらギンガは自分の前に置かれた紅茶をもって口に運ぶ。

「ふふん……まあ、ええけど。今日ここに呼んだ理由についてはナカジマ三佐から聞いてる?」
「いえ、何も。」
「そか。」

 紅茶をテーブルに戻し、組んでいた足を戻すはやて。それを見て、ギンガも居住まいを正す。
 雰囲気が変わる。和気あいあいとした雰囲気は消え去り、厳粛な空気が立ち込める。
 はやてが口を開く。ぎろりとギンガに視線を飛ばす。

「……シン・アスカについて、ギンガはどう思う?」
「どう、とは?」

 聞き返すギンガにはやては繰り返す。

「単刀直入に言うで、シン・アスカは前線に出して使えるレベルなん?」

 それを聞き、ギンガは言葉に詰まる……も、素直に状況を説明し始める。

「……現場によりけりです。少なくとも聖王のゆりかごやナンバーズクラスの相手に対しては……無理です。」
「まあ、そうやろうな。」

 再び紅茶に口を付けるはやて。それは諦観でも気落ちでも無い。予想通りと言う反応だった。
 ギンガはそれを見て、以前から考えていたことを口に出す。
 自分が機動6課に出向する理由。それは、

「やっぱり、6課では……」
「うん、これから6課が行う任務はそのレベルや。そやさかいにギンガに来てもらうことになった。正直、なのはちゃんの抜けた穴を埋めるんはそれでもまだ足らんくらいや。」
「……確かに。」

 高町なのは一等空尉。
 管理局のエースオブエースの異名を持つ彼女は聖王のゆりかご戦で行ったブラスターモードの後遺症によって現在療養中である。
 ギンガが出向するのはその為。エースオブエースが抜けたことで生まれた大きな穴を少しでも埋める為、である。
 だが、はやて自身が言っている通り、ギンガ一人が出向した程度で埋められるほどその穴は浅くはない。
 オーバーSランクの魔導師の実力とはそれほどに大きい。

「……彼は6課にはまだ、早い、か。ほんまはその方がええんやろうな。」

 はやては呟き、顔の前で両手を組み、何事か思案するような顔をする。
 ギンガの胸中は複雑だ。
 シン・アスカは“守る”ことが出来るからこそ、機動6課に入る為にあれほどの地獄の訓練に身を浸している。
 だが、実際彼がBランクの魔導師となって機動6課に入ったところで、彼が即座に役に立つとも思えない――いや、思えるはずが無い。
 はやてがどうしてここまでシンに拘るのか。その理由は正直理解できない。故にギンガは確信じみた疑念を持っていた。
 八神はやては何かを隠している、と。
 無論、上官である八神はやてが自分に隠し事をするなど当たり前のことだ。
 そのことについてギンガ自身は別に何を思うこともない――それがシン・アスカに関わらないことであるのなら。
 ギンガ自身気付いていないが、シンに対する彼女の感情は、管理局が次元漂流者に抱くものとまるで違っている。
 彼女はシン・アスカを“保護”するべき対象としてではなく、“庇護”するべき対象として捉えている。
 故にギンガは上官である八神はやて二等陸佐であろうとも“シンを害する”つもりで隠しているのであれば、それに対して反抗するつもりであった。
 それはまだ、「気持ち」というほどに確定していない、“つもり”程度のものであったが。
 はやてが顔を上げる。思案は終ったらしい。

「今日ここにきたんは、ギンガに言うべきことがあったからや。今度の模擬戦の内容について、や。」

 場の緊張が一斉に張り詰める。

「内容はギンガとシン・アスカの一騎打ち。そこで彼がギンガに勝てばBランク。と言うことにしてる。」

 あまりにもあっさりと告げられ、ギンガは一瞬はやてが何を言っているのか理解できなかった。
 それはその内容がBランク試験という昇級試験の“意味”や“内容”からあまりにも常軌を逸していたからでもあったが。

「……え? いや、ちょっと待ってください、それ、どういう……」
「反論は受け付けん。これは決定事項や。」

 厳しいはやての目つき。それに射すくめられ、怯みながらもギンガは反論する。

「ちょっと待ってください!どう考えてもおかしいじゃないですか!」

 大きな声を上げ、テーブルを両手でばんっ!と叩く。
 紅茶の水面が揺れ、波紋を広げる。

 ―――Bランク試験。
 それは新人魔導師がまず最初にぶつかる壁である。
 その内容は複数試験課題を用意され、そのうちの一つがランダムで選択され、それを突破すると言うもの。
 内容もBランク試験という名に違わない、「Bランク魔導師の能力があり、資格を得るに適性であるかどうか」という部分を見る試験である。
 断じて――断じて、戦闘能力だけを見る為の試験ではない。戦闘能力と共に、判断力、発想、行動力、安全性等の様々な要因を確認する試験である。模擬戦という戦闘能力だけを見るようなそんな試験ではない。
 八神はやてがその程度のこと知らない筈が無い。いや、知っていなければおかしいのだ。

「おかしいか?」
「おかしいです!Bランク試験ですよ!?模擬戦って言う内容はそれまでの期間や経緯を考えれば理解は出来ませんが納得は出来ます!けど、どうして、その相手が“私”なんですか!?」

 現在のギンガ・ナカジマのランクはAランク。前述した「Bランク魔導師の能力があり、資格を得るに適性であるかどうか」を見るにはまるで意味が無い。
 そう、Bランクの能力があるかどうかを見るならBランク魔導師をぶつけるのが筋である。
 これではまるで、Aランク以上の昇級試験である。如何にシンの成長が早かろうともそれは不可能。無謀である。
 ギンガはシンのあの笑顔を守る為に鍛えようと思ったのだ。彼があの笑顔を出来るように、“守れる”ように。
 けれど、これでは彼を騙しているだけだ。ぬるま湯のような期待を与えるだけ与えて、叩き落す。
 今のギンガにとって絶対にそれは看過できない。シン・アスカを裏切ることだけは絶対に。
 それがギンガ自身未だよく分からない感情が発端であったとしても。
 はやてはそんなギンガを見上げ、二人から見て左側になる空間に画面を生み出す。

「ギンガも、コレのこと知ってるやろ?」

 そう言ってはやてが空間に投影したディスプレイ――念話の応用だ――に写した画面に一人の鎧騎士が映る。
 八神はやてを撃墜し、そしてライトニング分隊を撃退したと言う化け物。

「……知ってます。」
「この男の力な、推定で少なくともSS以上だそうや。」
「SS、以上……?」

 それは、管理局においても最強クラスの魔導師を意味する。一騎当千を地で行く魔導師の最強。SSランク。
 ギンガは絶句し、その男を凝視する。

「機動6課の虎の子、フェイト・T・ハラオウン率いるライトニング分隊が殆ど何も出来ずにやられた。正に悪夢みたいな化け物や。」

 その言葉にギンガは眼を見開いて驚く。
 “あのフェイト・T・ハラオウン”が何も出来ずに倒された――その詳細を知らず、何かしらの理由があって倒されたと思っていたギンガにはそのことが俄かに信じられなかった。
 驚くギンガを気にせず、視線を移すことも無くはやては続ける。

「シン・アスカを機動6課にどうして入れようって話しになったか。理由は複数ある。その一つ……それはこの男の足止めをさせる為や。」
「どういう、ことですか。」

 一瞬の静寂。
 ギンガはその次の言葉を大よそ予測していた。

「これからの任務には捨て駒が必要になる。」

 はやては、そこで一度言葉を切り、再び繋げる。

「――シン・アスカはそれに選ばれた。」

 その言葉を聞いてギンガは椅子に腰を落とし、顔を伏せる。
 それは自分の知る八神はやての言葉とは信じられなかったから――否、それがおよそ自分の予想していた現実と同じだったことに衝撃を受けて、だ。
 沈黙が場を満たす。
 八神はやてはそんなギンガに構わず続ける。

「せやけど、“私”はシン・アスカを殺すつもりはない。彼には彼の望み通りに守ってらうつもりや。全てをな。」

 そうだ。八神はやては決して「捨てない」のだ。
 誰であろうと何であろうと、零れ落ちる全てを拾い続ける。
 故に、シン・アスカを利用する。
 彼の願いを利用して、全てを守り抜かせる。

「私はシン・アスカを最強の魔導師にする。そして彼の力で以って化け物共と相対する。これが私のプランや。」
「それ、は……」

 ギンガには言葉も無い。はやての言葉は、そこに込められた目的こそ違えど、大筋で彼女がシンに対して決めたことと同じだったから。

「その為の一歩目。シン・アスカを現在のうちのフォワード陣と同格にする。」
「だから、私を……?」

 力無く呟く。ギンガの体から力が抜けていく。
 彼女は今、自分自身が彼に施そうとして居た処置の正体を見せ付けられ、打ちひしがれている――断罪されているのだ。彼女は、彼女の思い描いたシン・アスカの姿に。

「今のギンガは恐らくAAからAAAくらいの実力がある……私はそう思ってる。それは機動6課のフォワードと同じくらいの実力や。」
「だから、私を、試金石にする、と?」
「そうや。」

 躊躇い無く答えるはやて。

「その為にこんな、登れもしない壁を作る、と?」

 疑問を呟く。けれど、その疑問に返される答えはどこまでも自分自身の思い描いた彼の行きつく果てと同じで―――

「その壁を登るか、ぶち壊す力が必要なんや。無理を通して、理不尽だろうと不条理だろうと、道理を全て吹き飛ばす。そういうむちゃくちゃなヒーローがな。シン・アスカが……彼がなりたいのはそういうヒーローや。」

 ヒーロー。
 八神はやてとギンガ・ナカジマの見解は一致している。
 シン・アスカの成りたいもの。それは何であろうと全てを救う無敵のヒーロー。
 コミックスやアニメ、映画……・平たく言えば空想の中にしか存在しない、してはいけないご都合主義の塊。
 八神はやては、これまでの経験から。
 ギンガ・ナカジマは彼との触れ合いの中で。
 違う経緯を辿りつつ、彼女たちはシン・アスカの本質に行きついている。
 シン・アスカとはどこにでもいる存在だ。
 “偶像を崇拝する人間”ではなく、“偶像になりたい人間”。
 違いがあるとすればその思いが肥大化し過ぎただけで。
 だから、彼の傷を癒す方法など一つだけ。
 鍛えて、鍛えて、鍛え上げて、越えられない壁を越えさせて、撃ち抜けない壁を撃ち抜かせて、届かないユメに手を届かせる。
 けれど、その代償は大きい。
 ギンガははやての言葉に耳を傾けながら、思考を沈める。以前――あの時、ギンガが覚悟した時には沈めなかった深度まで。
 一つの懸念を浮かび上がらせる為に。

「……それで、全てが終わったら、どうするつもりなんですか。」
「戦い続けるだけや。ヒーローに終わりは無い。いや……“終わりが無い”からヒーローなんやから。」

 それは、虚無。
 戦って、戦って、戦って、世界を守る為、自身を削り続ける鉛筆削り。
 けれど、鉛筆は永遠に削ることは出来ない。鉛筆はいつか折れる。細く尖った鉛筆は鋭く強く……けれど繊細で脆い。
 いつか辿り着く終わりに向けて、駆け抜けてゆくだけの、ドラッグレース。
 ああ、だからこそ単純で明快で一途で。それはシン・アスカにとっては何よりも安息を得るであろう一つの理想―――。

「ふざけないで……ください。」

 血を、吐くような声でギンガが呟いた。

「どうして、そこまで、シンを」
「――捨て駒として消費するよりはよほどマシやとは思うてる。違う?」

 滑らかに、まるで初めから用意されていた答えを読み上げるようにはやては答えを返す。

「あの子は守りたいんや。私は守らせる。その為に、あの子には強くなってもらわなあかん。」

 ギブアンドテイク。彼女はそう言っているのだ。
 八神はやてはシンをヒーローとして鍛え上げ、彼を癒し、自分も利を得ると言うギブアンドテイクを提案している。
 その果てにシンがどうなるのか――それを知った上で。
 か細い声でギンガは尋ねる。

「道具扱い、ですか。」
「違う。“手駒”扱いや。」

 その言葉をこれまで通り、躊躇い無く言い放つ。

「……もし、シンが私に負けた時、彼はその後どうなるんですか。」
「どうもせん。まあ、ここまで強引な手を使うんや。出来ませんでした、じゃ済まんやろうから……魔導師としてはもう生きていけへんかもな。」

 魔導師としては生きていけない。それはもう、誰も救えないと言うこと。彼が望む願いを剥ぎ取られると言うこと。
 ――それは、それだけは駄目だ。そんなことをして、彼を、最悪の絶望の淵に追い込むくらいないっそ――
 そんなギンガの思考を読んだのか、はやては断罪するように呟いた。

「……一つ言っておくで。」

 びくっとギンガの肩が震える。

「試験時の監督は私、八神はやてと機動6課が全面的に執り行う。手抜きしたら直ぐに試験は中止にして、この話しは初めから無かったことになる。」
 ギンガは答えを返す力すら無く、俯いたまま顔を上げられない。
 それで話しは終わりだった。
 八神はやては立ち上がる。見れば、いつの間にか、彼女は紅茶を飲み干していた。

「ほんなら、後は頼むでギンガ。シン・アスカをたの……」

 その言葉を切るように、ギンガが呟く。

「……部隊長はシンをどう思っているんですか?」
「どう思っている?」
「シン・アスカという個人を。」
「私が、彼を……?」

 八神はやてがシンに拘る最も大きな理由。それは預言の末尾に付け加えられた一文である。

『狂った炎は羽金を切り裂く刃となるだろう』

 狂った炎――それは恐らくシン・アスカのことだとカリム・グラシアと八神はやては予想した。
 時期を同じくして現れた異邦人。臓腑に清廉潔白な狂気を隠し持った一人の男。
 そして、カリム・グラシアの配下のある男は言ったそうだ。破滅の預言を覆せるとしたら、シン・アスカだけだと。その情報は確かな筋の情報だとか。
 故に、時空管理局という組織は、シン・アスカを捨て駒とすることを決めている。
 それは管理局としての決定。
 組織としての決定である。それに対して八神はやてという一局員には別段文句は無い。
 では、自分――八神はやてはどう思っているのか。
 見栄っ張りで強情で、人の話を聞かない猪突猛進。それは、彼と同じ赤い瞳の彼女を思い起こさせる。
 だから、これはみっともない八つ当たり。
 あの時、助けられなかった彼女と同じく、自分の好き勝手に生きて周りを省みない彼への嫌がらせ。
 八神はやてはそんな自分を卑下し、自嘲の笑みを浮かべ、ギンガに答えを返す。
 嘘と、少しだけ真実を混ぜ込んで。

「……亡くなった誰かに似てる。そんな気がするから拘ってるのかもしれんな……・ギンガはどうなんや?」
「私は……あの人に傷ついて欲しくない。それだけです。」
「そか。」

 二人はそこで別れた。

 車に乗り込み、帰路に着いた彼女――はやては顔を顰めると自身の鞄の中からミネラルウォーターと白いケースを取り出し、その中から白い錠剤――胃薬を取り出すと一気に水で流し込んだ。
 落ち着かない感情。軋むように痛む胃。そして罪悪感で砕け散りそうになる自分自身。それら全てを飲み込むようにミネラルウォーターに口を付ける。

(……ごめん、ギンガ。ごめん、アスカさん。)

 ごめんと心中でのみ彼女は繰り返す。幾度も幾度も。数え切れないほどの懺悔を。
 そんな懺悔をする資格は自分には無いのだと分かっていながらも、彼女――八神はやては“変われていない”自分自身に嫌悪を示し、挫けそうになる心を強く戒める。

 ――自分は強くならなければならない。誰よりも何よりも。“この世界を救う為に”
 悲壮な決意と思いは誰にも知られない。彼女の心の内にのみ潜むが故に。
 ―――それは誰にも知られることなく沈殿する。


 部屋の中、ギンガは俯き、ずっと彼のことを考えていた。
 どうしたら、彼を救えるのだろうか……救い“出せる”のだろうかと。
 答えは出ない。気が付けば既に夕暮れ。
 茜色の空は彼女が思考を焦がす彼の瞳のように真っ赤で、胸を抉られるような鈍痛の中、彼女はただ強く、強く拳を握り締めた。
 答えの出ない自分自身に憎悪すら感じながら。ティーカップの中の紅茶は既に冷め切っていた。



[18692] 第一部陸士108部隊篇 6.乙女
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 12:11
「……あの今日はどうしてこんなところに?」
「息抜きです!」

 ギンガがそう力強く叫ぶとシンはため息を吐く。

「何を、するんですか?」
「だから、息抜きです。何と言っても、試験日が決まったんですから。最後の休暇だと思って少しは楽しみませんか?」

 シンに向かっていつもよりも上機嫌にギンガは呟く。
 けれど、試験日が決まったのなら、それを励みにより一層訓練するべきではないのだろうか?そう、思ってシンはソレを口に出す。

「いや、それならもっと頑張って訓練した方が……」
「いいですよね!?」

 先ほどよりも更に強い調子で言われる。
 それは基礎訓練を規定の回数以上やったことがばれた時のギンガの眼と同じだった。

 ――曰く、リボルバーナックルで撃ちますよ?

「……そうですね。」

 少しだけため息混じりに呟くシン。流石ににそう言われれば何も言うことが無い。本心では今すぐにでも戻って訓練を再開したいとは思っていたが。

「息抜き、か。」

 天気は快晴。季節は初夏の匂いが漂い始めた6月。
 そこは以前シンが訪れたあの街―――そう、あの襲撃によって破壊された街だった。

 シン・アスカはその日、あの襲撃があった街にギンガ・ナカジマに連れてこられていた。
 ギンガ曰く息抜き――ということらしい。
 シンに先日伝えられたBランク試験の日程。
 そこから逆算してちょうど2週間前の今日、息抜きをし、疲れを取って残りの期間を十二分に訓練に充てられるようにする。
 理屈は分かる。総仕上げに至る前の休憩。そして思い新たに、と言うことなのだろう。

 けれど、シン・アスカに思い新たになどあり得ない。彼の思いは変わらない。
 守る為に力を手に入れる。それも絶対的な力を。
 それがあれば、何であろうと守り抜けるはずだから――否、少なくとも力が無いと嘆くことなど無いはずなのだから。
 そんな思いを持ったままどこに連れていかれるのかと思い、来た場所は、あの日、襲撃があった街。それはシンでなくとも驚くことだろう。
 よりにもよってココを選ぶのかと。
 その街はシンにとって普通の街ではない。彼にとって、その街は、自身の弱さを自覚し願いを自覚した切っ掛け。
 なるほど、確かに心機一転には都合のいい場所だろう。誓いを新たにするにはここは確かにうってつけた。

(……上等だ。)

 そう思い、シンは拳に力を込め、唇を吊り上げた獰猛な笑みを浮かべる。
 通行人がそんなシンを見て、幾人かが目を背ける。
 当然だ、いきなり現れた誰とも知れぬ全てを射抜かんばかりに鋭く釣り上がった瞳をした男。
 街を破壊されたと言う「傷」を持つ住民にとってそんな男は警戒の対象にしかならない――だが、ギンガはそんなシンの心とは裏腹にいつもとは違う笑顔で彼に微笑みかけた。
 そして、少し緊張しているのか、頬を赤面させながら呟く。

「……き、今日はここで、あの日の続きをしたかったんです。」

 そう言ってギンガはシンの右手に手を伸ばし、握りしめられた。

(……ギ、ギンガさん?)

 握られたことを不可解に思い、シンはギンガの方に向いた――そこで彼は一瞬彼女に見蕩れてしまう。
 ギンガの服装は白色のワンピース。
 派手でもなく、かといって地味でもない。ありていに言って普通。そう、普通に可愛かった。
 シンとて正常な男だ。女性に全く興味が無いと言う訳ではない――それ以上に興味があることが他にあるというだけで。
 それ故、その姿を見た時はいつものギャップと相まって、柄にも無くドキリとしたのは言うまでも無い。
 ましてや、今いきなり手を繋がれるなどと言う突発的な状況に陥った彼の心臓が早鐘を打つのも無理は無いのだ。シン・アスカは内に秘めたその願い同様、純情で一途なのだ。

「つ、続き……?」

 どもりながら、ギンガに尋ねるシン。

「そう、続きです!」

 そう言って、ギンガはシンの右腕を力強く引っ張った。

「うわっ!?」
「え?」

 いきなり引っ張られ、バランスを崩すシン。
 二人の身体と身体がぶつかり、足がもつれ、土煙を上げて、二人はぶつかるようにして倒れた。

「いった……ご、ごめんなさい、シン……ってきゃああああ!!?」
「い、いや、こっちこそすいませ……って、うわああ!!?」

 シンは自分の顔が“埋められて”いた場所―――目前を見つめる。そこは豊かな双丘。
 ぶっちゃけギンガの胸である。シンは今ギンガの胸に顔をうずめるようにして倒れてしまっていた。
 ギンガはいきなり感じた自分以外の体温と匂い、そして胸に感じるその頭の感触で。
 シンは目前に突然現れたその双丘と自分以外の体温と匂いを感じ取って。
 二人の思考が混乱し錯綜する。
 ギンガは顔を赤く染め上げ、シンは全く予想だにしなかったその展開に慌てふためき、

「す、すいません、今どきます!」

 そう言ってシンは直ぐにその場所からどこうと身体を起こす――瞬間、手に感じる、むにゅっと言うあまり感じることの無い柔らかな感触。
 思わず、それを“握り締めて”しまい――そして、理解する。それが何なのか。
 ああ、何と言うことだろう。それはおっぱいである。ギンガの胸に実った豊かな双丘それそのものなのだ。

「……え?」
「……っっ!!!ど、どこ触ってるんですか!!?」
「す、すいません、今直ぐにどきます!!」

 シンは今度こそ、ギンガの体から身を離す……ギンガは俯き、顔を赤くし――その表情は髪に隠れて見えないが――心臓はドクンドクンと爆発寸前。シンも似たような物で呆然と今しがたの惨劇を思い出し、右手を握り締め、そして開く。
 ちなみにそこは往来のど真ん中。
 前述したように周りには通行人が一杯いる。

「……お盛んなことね」
「おい、いきなり押し倒したぞ、あいつ!」
「目つきが悪いとは思っていたが、いきなり押し倒すとは……」
「ママ、あれってプロレスごっこ?」
「見たら駄目よ!!」

 沈黙が二人を包む。もはや、二人は沈黙するしかない。
 その様々な言葉はもはや拷問である。
 ギンガ・ナカジマは花も恥らう乙女である。
 男女間の営みなど結婚初夜までは許してはならぬと考える古風な女性である。
 流石に、コウノトリが赤ん坊を運んでくるとか、男女が一緒に寝るとキャベツ畑に赤ん坊が生まれるだとかそこまで純情というか、そういうことを知らない訳ではないが、それでも最近流行りの“出来ちゃった婚”など彼女の“倫理法則”内には存在していないのだ。

 そんなギンガにとってそれらの言葉は臨海を軽く越えさせるに充分であった。
 ゆらりとギンガが立ち上がり、シンに向かって歩いていく。白いワンピースが風に煽られ棚引く。

「ギ、ギンガさん?」

 異様な雰囲気に包まれたギンガにシンは一瞬気圧される。そして、ギンガは小さく呟いた。

「ブリッツキャリバー。」
「Yes,sir.」

 主の窮地に答えてこそ従者。間断なく、ブリッツキャリバーは答え、閃光が光り輝く。一瞬でギンガの姿は白いワンピース姿から、バリアジャケット姿へと変容し、

「ウイングロード!!!!」
「WingRoad.」

 展開する天駆ける道に足を掛けると、ぐわしっと呆然とするシンの首根っこを掴み、ギンガはその場から駆け抜けていった。


「……これからは気をつけてくださいね。」
「いや、その……はい。」

 気まずげに、シンは頷く。よく見れば彼の頬が赤く紅葉の形で腫れている。
 ギンガは既にバリアジャケットを解き、その姿は先ほどと同じく、白いワンピース姿。だが、気分は既に台無しである。

「…………」
「…………」

 気まずい雰囲気が二人の間に漂う。
 どうしてこうなってしまったのだろうか?
 ギンガは表情こそ硬いモノだったが、内面は非常に困惑し、頭を抱えていた。

 ―――ギンガ・ナカジマが今日ここにシンを誘ったのには理由がある。

 伝えなければいけないことがある。伝えるべきことがある。
 今のギンガ・ナカジマは“あの時”、見つからなかった答えを持っているから。それは、あまりにも個人的で、感情的な答えではあるけれども。

「……そ、それじゃ、行きましょうか?」
「行く?」
「今日は、ここにこの間の続きをしに来たんですよ?」
「と言うと……」

 シンは思い出す。“この間のこと”を
 破壊。廃墟。初めての戦い。撃墜されるはやて。
 いや、それよりも更に前。たしか自分はギンガと共にこの町で色々と買い物をしていた。
 つまり――

「私と一緒にココで休暇を満喫しましょうってことです。」

 そう言って、ギンガは改めて、手を差し伸べる。
 先ほどよりも勢いは弱く、けれど差し伸べられた手は開き、シンを誘い、その手を握り締める。
 握られたその手は暖かく、先ほど握り締めてしまった彼女の胸の感触を思い出させて、シンは思わず赤面し―――年下であるの彼女にリードされていることが少しだけ気になってギンガから顔を背けるようにする。
 そして顔を背けた瞬間、その方向に目をやって、ふとあることに気付く。

「何、照れてるんですか、シン?」
「ち、違いますよっ!」

 ニヤニヤと笑うギンガに、シンは今気付いたことを呟く。

「ここって、あそこだなって思ったんですよ。」

 それはあの日の被害を直接受けた場所。未だ復興の目処が立たない廃墟区画。
 恥ずかしさの余りに知らぬ間にそこまで彼女は彼を連れてきたのだが、そこは彼にとって、非常に感慨深い場所だった。
 そこは今の自分が生まれた場所。今の自分――此処ミッドチルダで、何かを守りたい。あの世界で出来なかったことを今、此処で。
 その自分が生まれた場所。それが此処だった。
 あの蒼い鎧騎士と対峙し、命を賭けてあの子供を救い、ギンガに言われたこと。

 ――守れたことを喜べ。

 それが今の自分に繋がる発端。

「まだ、復興はされてないんですね。」
「……ええ。ここらへんは特に被害が酷かったので後回しにされてるんでしょうね。」

 ギンガは付近を見渡す。
 眼に映るだけで様々な店がある。
 コンビニ。喫茶店。パン屋。少し遠くには学校があり、その隣の体育館の屋根には穴が開いている。 どれもこれも焼け焦げ煤塗れで、あの日の光景をありありと思い出すには充分だった。

「少し、歩いていいですか?」
「ええ。」

 シンの呟きに答え、二人はその場を歩き始める。
 歩きながら変わる光景。けれど、傷跡は決して消えない。
 粉々になったガラス窓。破片は今も地面に散らばったままだった。
 傾き、倒壊した建物の群れ。コンクリートの破片がそこかしこに散らかっている。
 コンビニの棚は全て倒れ、中は縦横無尽に亀裂が入り、喫茶店のカーテンは半分以上が燃え落ち、かろうじて掛かっているだけ。店内のテーブルはコンビニの棚と同じく、全て倒壊している。それはパン屋も同じく。そしてそれは民家も同じ。

 到底―――到底、人が住めるようなモノではなかった。
 ギンガがシンに目をやる。この光景を見て、どう思っているのか……そう、思って。
 シンは穏やかな視線でそれらを見つめている。瞳に映るのは悔恨と侮蔑。悔恨はこの風景に対して。侮蔑は―――それを止められなかった自分に対して。
 ギンガはそれを見て、瞳を逸らすことなく、見つめた。
 彼女は、初めから“ここ”に連れてくる気だったから。
 シン・アスカに自分に勝て、と告げる為。その為に彼女はここにシンを連れてきた。
 これはシン・アスカにとっての一つの始まり。だから、あの日の続きをしようと決めたのだ。
 この瓦礫の山――此処から始めるべきだと考えて。
 八神はやてとの問答で得た一つの問題――シン・アスカを救い出す方法とは何なのだろうか、と言う問題に対する答え。
 その回答がそれだった。彼を信じること。そう、“シン・アスカが自分を倒せない訳が無い”と信じることだった。

 ―――八神はやての考え。それはシン・アスカを最強の魔導師として作り上げ、彼をヒーローとすること。結末や規模こそ違えど、以前ギンガがシンを鍛えようと思ったのも同じ理由だ。

 「守りたい」と言うシン・アスカの持つその願いを叶え、その為の力を与える。
 確かにそれはシン・アスカに絶望をもたらすことは無い。
 そうすればきっと彼は、彼にとっての幸せの中で生きていけるだろう。ヒーローと言う名の偶像と成り果てて。

 ――けれど、それは永遠に続くのか?

 答えは否、だ。
 風船はいつか破裂する。楽園とはすべからく儚いモノだ。終わりは来る。
 いつか、必ず。いわんや戦い続ける人間の末路などそれ以外にありえない。
 故に――それはいつか来る終わりを遅らせるだけの応急処置ですらない問題の先送りとなんら変わり無い。
 シン・アスカは真っ当な幸福を得ることなく死ぬ。それは避けることの出来ない命題だ。何故ならシン・アスカはそれをこそ望んでいるのだから。
 だから、ギンガは考えた。どうしたらいいのか。どうすれば彼を“救い上げる”ことが出来るのか。

 その答えがそれだ。“信じること”。それに他ならない。
 その答えを得たのは八神はやてとギンガ・ナカジマの問答より数日後、里帰りと言う名目で陸士108部隊に彼女――スバル・ナカジマが彼女の元に来た時。
 歩きながら、その時のことを思い返すギンガ。
 それは彼女ら姉妹が部屋で話していた時のことだった――。


 それは彼らが自室で談笑していた時のこと。
 久しぶりに会った二人は話を弾ませる。
 互いに多忙の身。特にスバルはジェイル・スカリエッティ脱獄の影響を受け、休暇など無いに等しい。それが今回どういう経緯かは分からないが、彼女にのみ休暇が言い渡されたと言う。

「家族と仲ようしとくんや。」

 彼女は八神はやて機動6課部隊長にそう告げられたとか。
 ギンガはそれを聞いて、思った。
 あの時、打ちひしがれていた自分に対する八神はやてからのフォローなのか、と。
 小さな屈辱が胸に生まれる。敵に情けをかけられたような―――別段敵と言う訳では無いはずなのだが――そんな複雑な気持ちだった。
 目前のスバルはその指令に対して不思議に思いながらも、純粋に家族と会えることを楽しみに此処に来た。
 そうなれば自分とて可愛い妹との逢瀬を嫌がるような気持ちなど寸分も無い。

 そうして、夜、自室にて二人は語り合った。
 J・S事件収束後の自分たち。
 特に目まぐるしい変化のあったギンガについてスバルは聞きたがり、ギンガは仕方無しにスバルにそれを話すことにした。
 シン・アスカ。彼女の心に住み着いて離れないある一人の男のことを。


「……それで、気絶するまで訓練するのよ?直ぐに医務室に連れていったからよかったようなものの本当に何考えてるのかと思ったわよ……他には」
「ま、まだ、あるの?」

 ギンガがシンについて話し出してこれで既に一時間。
 内容は殆ど愚痴だった。
 訓練に関する話題から、普段の身だしなみは結構だらしないだとか、何度言っても寝癖を直してこない、etcetc……
 話題の切れ目を生み出さないマシンガントークはスバルに相槌以外をさせる暇を与えない―――そしてそれが更に拍車をかけていく。

「……言い出したら切りが無いわよ。あの人、放っておくと直ぐに無茶するし、気が付いたら倒れてるし……ってどうしたの、スバル?」
「……ん、いや、ギン姉が凄く楽しそうに話すから―――何か、好きな人の話みたいだった」

 好きな人―――その言葉でギンガの顔が真っ赤に染まる。

「は、はい!?好きな人!?」
「うん。」
「……な、何言ってるのよ、スバル!?今のは私の苦労話であって、絶対にそんなのじゃないのよ!?」

 必死に身振り手振りを交えて、自分はそんなのじゃないと否定するギンガ。
 スバルはその様子を苦笑交じりで、眺め、的確な指摘を呟く。

「ギン姉の苦労話って言うか、ギン姉とそのシン・アスカさんの苦労話でしょ?」
「う……」

 図星だった。
 確かに、今までギンガが言っていたことは全て、“ギンガ・ナカジマ個人”の苦労話では無い。“ギンガ・ナカジマとシン・アスカ”の苦労話である。
 その指摘で「うっ」と硬直し、唇を歪め、心底困った顔をするギンガ。スバルはその顔が見えているのかいないのか、更に指摘を続ける。

「だって、ギン姉本当に楽しそうに見えたんだよ。なんていうのかな……うん、あれだ!」

 右の人差し指を立てて、スバルは一人で勝手に納得する。
 なんとなく嫌な予感がしたギンガは聞くのを躊躇いつつ、尋ねる。

「……あれ?」
「亭主の無茶に苦労する嫁さん?」
「て、亭主!?ば、馬鹿なこと言わないでよ、スバル!?」

 どもりまくり喋れていないギンガ。動揺が漏れまくり、姉の威厳は欠片も無かった……と言うかどんどんどんどん、ボロボロと崩れて行っている。

「だって、ギン姉の顔って私がこの間見た昼ドラに出てきた人に良く似てた……」
「そんなのと比べるな!」

 別に昼ドラが駄目な訳では無いが、花も恥らう乙女(自称)であるギンガに対して、昼ドラに出てきたと言うのは幾らなんでも失礼であった。

「えー。」

 無茶苦茶不服そうにするスバル。だが、ギンガはそんなことに取り合わずにテーブルを叩いて、否定する。

「えー、じゃない!全くもう、スバルも父さんも何を考えているのよ……」
「父さんも?」
「そうよ、あのクソオヤジよりにもよって母さんの遺影、胸に潜ませて「母さんも喜んでるぞ」とか何とか言ってたのよ!?どれだけ芸が細かいのよ、あの人は!?」

 その時ギンガの脳裏にはその時のゲンヤがありありと浮かんでいた。
 キラン、と歯が光るくらいに良い笑顔だった。

(な、殴りたい。)

 ギンガの切なる叫び。わなわなと震える拳。
 けれど、スバルはそんなことは気にも止めない。

「あはは、父さんもギン姉に春が来たと思うとやっぱり嬉しいんだよ、ギン姉そういうの一切無かったし。年頃の娘に男の影が無さ過ぎるって言うのはやっぱり父親としては複雑だろうしね。」
「そ、そう、そんな風に思われてたんだ、私……」

 最愛の妹から割とドギツイことを言われ、落ち込むギンガ。

「だって、ギン姉、男友達なんていないでしょ?」
「ど、同僚はいるわ。」
「いや、プライベートで一緒に遊ぶような人は。」

 一瞬の逡巡。小さく悔しげに呟く。

「……いないわ。」

 でしょ?と言ってスバルは目の前に置かれたお茶請けの煎餅を手に取ると、口に運びバッキバキと噛み砕きながら、続ける。

「大体、ギン姉の趣味も渋すぎるもん。編み物とか料理とか掃除とか。」

 その言葉にギンガは今度こそ目をひん剥かれるような衝撃を受けた。

「なっ!?編み物駄目なの!?」
「いや、趣味が編み物とかあんまりいないよ?」
「そ……そうなの?」
「そうだよ、編み物だっていつも凝った物作ってるし。と言うか相手もいないのにセーター作って自分で着るなんてギン姉くらいだよ?」
「……う、嘘。」
「うん、私の周りにはいないかな。」
「そ、そうなの。編み物って自分で使うために編むんじゃ無いんだ……」

 用途としては間違っていない。だが、年頃の娘としては大間違いだ。

「少数派だと思うよ?それになんていうのかな……微妙に苦労じみてると言うか……うん、子供何人もいる肝っ玉お母さんみたいな感じがあるしね!」

 全く悪気の無い無垢なる笑顔でそう断定するスバル。
 しかし、その言葉がギンガに与える衝撃は大きい。
 ギンガ・ナカジマ。その年齢は18歳。自慢じゃないが未だお肌の曲がり角は程遠い。
 それが、それが、「肝っ玉母さん(しかも子供一杯)」などと言われているのだ。
 確かにおばさんくさいかもしれない。そういう部分はあったのかもしれない。けれど、正直、ギンガにしてみれば、もう少しこう何と言うか手心と言うか、空気を読んで欲しかったりする。

 ギンガの心の弱点をピンポイントで突き続けるようなことをする最愛の妹スバル。
 ギンガ・ナカジマは今度こそ完膚なきまでに陥落した。

「…………」
「あれ、ギン姉どうしたの?」
「……い、いえ、何でも無いわ。」

 愕然とするギンガ。
 部屋の中に、バリッバリッと言うスバルの煎餅をかじる音が鳴り響く。
 ゴクンと、煎餅を飲み込むとスバルはお茶を啜り、彼女が口を開く。

「あのさ、ギン姉。」
「……私は若い、大丈夫、私はまだいけ……え?何、スバル?」
「その人、今度6課に来るんだよね?」

 先ほどとは違い、真剣な眼差しのスバル。ギンガはその目を見て、切り替える。
 そして、本来の問題を思い出す。
 シン・アスカについての問題を。

「……模擬戦で、勝てば、ね。」
「相手は?」
「……私。」

 幾ばくかの沈黙の後に彼女は呟く。

「……え、だってギン姉、Aランクだよね?」

 彼女の疑問は最もなモノだ。
 Bランク試験にどうしてAランクの魔導師が――それも模擬戦と言う戦闘能力だけを比較するような試験をするのか。
 正直、考えられない事態だった。

「そうだけど、私らしいわ。」
「じゃ、能力限定するとか?」

 それならば、まだ納得も出来よう。けれど、ギンガは首を横に振る。

「いや、勝てる訳ないよ……それ。」
「……うん、私も、そう思う。」

 姉妹は、沈黙する。
 そう、勝てる筈が無い。
 仮にもAランク魔導師が潜在能力が高いと言えど、Bランクになろうとするレベルの魔導師に負ける筈が無い。
 能力限定での場ならば理解も出来る。納得も出来る。だが、それすらしない。それは全力の勝負と言うことを意味する。
 決して負けることなどあり得ない。もし、そんなことになればAランクの沽券に関わる問題だ。
 こと此処に至ってスバルはギンガが悩んでいることに気付く。
 彼女が苦しんでいると言うことに。
 沈黙が続く。
 ギンガは俯き、スバルは天井を眺め。
 二人の姉妹は考える。
 ギンガはシン・アスカをどうすればいいのか。
 けれど、スバルがその時考えていたのはそれと似て非なること。

 ―――ギンガ・ナカジマはどうするべきなのか。
 それを考えていた。

「……ギン姉はさ、本当は負けたいんでしょ?」

 天井から目を離し視線をギンガに向け、ぽつりと呟く。

「私は……」

 ――その通りだ。
 私が勝てばシンの笑顔は曇るどころか消えて行くのは間違いない。
 それだけは見たくない。嫌だった。だから、自分はわざと負けたいと思っていたのだ。
 なのに、八神はやては断罪するように呟いた。
 手加減は許さない、と。そんなことをすれば、シンの話をなかったことにする、と。

 ぎりっ、と奥歯を噛み締める。八方塞がり。そう呼ぶに相応しい状況だった。
 俯いていた顔を上げる――スバルと目が合う。

「……その人はきっとギン姉がわざと負けるようなことをすれば、ギン姉のことを許さない、と思う。」
「……」

 その言葉を聞いて、ギンガはスバルから眼を逸らす。
 だってその通りなのだ。
 もし、仮にギンガが手を抜いて、それでシンが勝ったとしよう。
 そんな偽りを彼が喜ぶ訳が無い。
 彼の純粋な性格はそんなことを決して許さない。

「その人、一生懸命に頑張ってるんでしょ?それをそんな風に手抜きなんてされたら……・私なら絶対に許せなくなる。」
「私は……。」

 ―――どうするべきなのだろう。
 答えが、出ない。
 戦って負かして嫌われるのは嫌だ。
 嘘を吐いて負けて嫌われるのも嫌だ。
 ……あの人に、嫌われるのは、もっと嫌だ。

(私は、どうしたら)

 涙すら滲みそうになり、ギンガは瞳を瞑り、それを堪え――

「……ギン姉、その人のこと、本当に好きなんだね。」

 スバルのその一言が思索に沈み込んでいたギンガを引き上げた。

「……シンを好き―――私が?」

 寂しさを伴った優しい微笑み。それはどこか、亡くした母を思い起させる。

「私はさ、そんな風に男の人を好きになったりしたことないからわかんないんだけど……」

 言葉を切り、スバルは繋げた。

「もう、その人以外は目に入らない―――そんな感じだよ?」
「………………」

 先程よりもはるかに顔を真っ赤にし、言葉も出ないほどに固まったギンガを無視してスバルはニヤニヤと人を食ったような笑みをして呟く。

「だから、多分、ギン姉は勘違いしてるんだよ。ギン姉が考えなきゃいけないのは、その人に“どうしたらいいのか”、じゃない。“ギン姉がどうしたいか”。」

 そう言ってスバルは話しは終わりだと、立ち上がり、電灯のスイッチに手をかける。

「さ、もう寝よ、ギン姉!明日も早いんだしさ!」
「え、ちょっとスバル?」
「おやすみ~。」

 スバルはギンガの声に耳を貸すことなく、直ぐに電気を消すとベッドに潜り込む。

「ど、どういう……」

 声を返すもスバルの声は無い。

「おやすみ、ギン姉!」

 そう言って布団を被るとスバルは直ぐに眠りにつく。

「……スバル?」

 訳が分からないと、か細く呟くギンガ。しばしの沈黙。……そして、立ち上がると部屋から出て行こうとする。

「……ギン姉、外行くの?」
「うん……ちょっと外の空気吸ってくる。スバルはもう寝る?」
「うん。」
「……おやすみ。」
「おやすみ、ギン姉。」

 がちゃりとドアノブを回し、ギンガは部屋から出ていく。その背に彼女に聞こえるか聞こえないかの 小さな声でスバルは微笑みを絶やすことなく告げた。

「頑張れ、ギン姉。」


「……私がどうしたいか……か。」

 夜空を見つめながら彼女は呟く。そこは屋上。シン・アスカが自分に魔導師になりたいと告げた場所。

「……どうしたいのかな、私。」

 自分がどうしたいかなど考えたことがなかった。彼女にあったのはどうしたら“シン・アスカの願いを潰さないで済むのか”、それだけだったから。
 だから、自分がどうしたいかなど考えるまでもなく決まっている。

「……負けたい。私に勝って、欲しい……」

 それが、願い。
 だが――とギンガは思う。それだけなのか、と。どうしてそう思うのか、と。
 彼女がシンに抱く思い。その一つに恐怖がある。シン・アスカのその末路。それがどうなるのか。それを恐れている。
 けれど、それは、何故なのだろうか。どうして、自分はこんなにも彼を心配して、その結末に心を痛めているのか。
 ――もう、その人以外は目に入らない―――そんな感じだよ。と、スバルは言った。
 そうなのかもしれない、と思った。

 あの激情を。あの幼さを。あの純粋さを。
 自分は確かに好ましく思っているから。
 気がつけば、スバルの言う通りいつだって頭の中にはシンのことがある。
 自分――ギンガ・ナカジマはシン・アスカを中心として生きているのだ。
 ふと、あの笑顔を思い出す。

 ――よかった。

 あの微笑みを思い出す。
 思い出すと同時に胸に広がる気持ち――簡単な気持ち。誰でも経験したことのある気持ち。

「……恋、してるんだ、私。」

 口に出して呟く。驚くほどすんなりと、それは彼女の胸の中に入り込んでいった。
 気恥ずかしくて、けど決して不快じゃない暖かな気持ち。
 それは「恋」という名の想いだった。
 同時に悟る。彼を救い出すにはどうしたらいいのか、その答えを。
 シン・アスカを救うには手を差し伸べるだけでは無理だ。
 何故なら彼は救いなど求めていないから。……だから、彼を救い出そうと言うならば答えは一つ。
 それは酷く単純な、たった一つのシンプルな答え。
 彼は全てを守り続ける為に戦い続ける。それが、それだけが彼の願い。けれど、それはいつか折れる儚い幻想。
 それが何よりも怖い。
 あの笑顔が見れなくなる。

 ――それは何よりも怖くて恐ろしい。
 だから、守りたい。ただひたすらに彼を。彼の笑顔が輝く日々を。
 あの孤独に囲まれ悲しみに揺れることすら無い心を。守って、癒して、救い上げたい。

 これは答えではないのかもしれない。答えとは方法論だ。どうするのか、どうするべきか、と言った。
 だから、多分――これは願いだ。
 ギンガ・ナカジマが抱いた純粋な願い。

 少女は恋を知り、女としての願いに身を任せる。
 それは無理と無謀を殴って壊す“女の意地”。それが導く、模擬戦への答え。

「シンを信じる。」

 それだけだ。
 彼を信じること。彼が自分を“超えられない訳が無い”と信じて、全身全霊を振るうこと。
 もし、それで彼が絶望に苛まれると言うなら、自分が支える。
 もし、それで彼が願いの果てに命を使い果たすと言うなら、その命を守る支えとなる。
 恋する乙女は折れず、曲がらず、ただ己が想いを貫くのみ。
 それがギンガの答え。
 満天の星空を見上げ、彼女は決然と微笑む。
 恋とは――自覚した時、何にも負けない強い力となるのだから。



[18692] 第一部陸士108部隊篇 7.邂逅
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 12:11
「ギンガさん?何ぼうっとしてるんですか?」
「えっ?」

 物思いに耽っていたギンガの思考が一瞬で現実に引き戻される。
 眼前には思い人であるシン・アスカの顔。
 心臓が跳ねる。頬が熱い。

「う、あ、いや、ちょ、ちょっと熱っぽくて」

 赤面した顔を隠すようにして顔を背ける。

「風邪、ですか?」

 シンがそう言って顔を近づけてくる。
 赤い瞳と幼さを残した顔が彼女の瞳に映る。それが余計に彼女の心を騒がせる。
 胸の鼓動が治まらない。

「い、いえ、そ、そんな、か、風邪とかじゃないんですから!」

 どもりながら喋るギンガ。けれど、シンは訝しげな視線を送り、彼女の顔を見る。

「そう言えば……顔赤いですね。熱は……」

 ギンガの額にシンが手を触れ、自分の額にも手を当てる。
 彼の体温を感じる。
 ドクン、と心臓が一際大きく跳ね上がる。
 シンの赤い瞳が彼女を見つめ、熱に浮かれたように―――ある意味熱に浮かされているのだが―――彼女は呆けたように彼を見つめ、

「熱は無いようですね……ギンガさん?」
「あ、は、はい?」
「ど、どうしたんですか?やっぱりどこか調子悪いとか?」
「え……あ、いや、別にこれは……!」

 ばっとその場から離れ、焦るギンガ。当たり前だ。“貴方に見蕩れていました”などと言い出せる訳も無い。
 心臓がドクドクと鼓動する。音が小さくならない。顔の体温が下がらない。

(だ、駄目だ。不意打ちは駄目だ。)

 幾ら自分の気持ちを自覚したとは言え、そうそうこんな風におかしくなる訳も無い。
 そうであれば幾ら朴念仁であるシンであっても奇妙に思うだろう。
 だが、二人が顔を合わせるのは殆ど模擬戦の場合のみである。
 その中ではギンガはシンとどれだけ触れ合おうが別に顔を赤くすることは無い。気持ちの切り替えが行えているからだ。
 だが、今回のように切り替えをする前に近づかれたり触れられたりするとギンガの動揺は一瞬で最高潮に辿り着く。

「ほ、本当に大丈夫ですか?」

 彼女を心配するシンの言葉。

「あ、あははは……や、やっぱり、一度どこかで休んでも良いですか?」

 そう言って彼女はシンと距離を取り、空に眼を向ける。これ以上彼と眼を合わせればおかしくなってしまいかねない。
 そうなれば、言いたいこと、言わなければいけないことを言えなくなる。それだけはどうしても看過出来なかった。
 伝えたいこと。伝えなければいけないこと。
 彼女にとって本当に大事なコト。それを貫くために、今日此処は彼女にとっても“始まり”なのだ。

「別に構いませんけど……本当に帰らなくて大丈夫ですか?」

 訝しげに見つめるシン。空を見上げ、切り替えが出来たのか、ギンガはいつもの調子でシンに笑いかける。

「……大丈夫です。それに、ほら、もうお昼だし……一度休みましょう?」
「……まあ、ギンガさんがそう言うなら……でも、少しでも調子悪くなったら帰りますからね。」
「あ、あははは、分かってます。」

 苦笑するギンガ。心中でのみ、誰のせいだと呟きながら、周りを見渡す。
 いっそ、清清しいほどに付近は廃墟だらけだった。
 けれど、都合よくその一角―-少しばかり離れた場所に公園が見えた。
 その公園はこの廃墟の中にあって、殆ど被害を受けていなかった――被害の中心地から大分離れた場所だからかもしれない。
 その公園は廃墟の中に存在するだけあって、まるで人気が無かった。

「あそこはどうですか?」
「いいですよ。」

 シンが返事するとギンガは左手に握っていた鞄の重みを思い出す。
 それは少し大きめの手提げ鞄だった。
 思えばよく落とさなかったものだと思う。
 バリアジャケット姿になってもしっかりと握り締めていたことが良かったのかもしれない。
 並んで歩き、ギンガは公園の中に入るとその中のベンチに座る。
 だが、シンだけはいつまで経っても座らない。

「シン、どうしたんですか?」
「あ……そうですね。」

 その横顔には傷があった。感傷と言う名の傷が。
 気にすることでは無い。自分がいたからどうなった訳でも無い。
 そういった事柄だ。“それ”は。
 本来、公園からは付近の町並みが見れたのだろう。高層ビルや、並ぶ家、テナント街。
 けれど今、それはない。殆ど全てが倒壊するか崩壊するかしており――それがその公園からは一望出来るから。

「……はあ。」

 シンはため息を吐き、ベンチに深く腰掛け、心を落ち着ける。
 気持ちが逸る。その光景を見るとどうしても湧き上がってくるからだ。
 力が欲しいと言う気持ちが。今すぐにでも戻って訓練を再開したいと言う気持ちが。

「シン?」

 そんなシンを見ながらギンガはため息を吐く代わりに、右手に持っていた鞄を自分の膝の上にまで持ち上げ、シンに声をかけた。

「あ、はい?」

 考えを中断し、ギンガに向き直るシン。

「そう言えば……私、お昼作ってきたんですけど、食べますか?」
「昼?」
「ええ、お弁当を。」

 その言葉を聞いて、シンは感心したように返す。

「へえ、ギンガさん料理とか出来るんですか?」
「ええ、これでも家事全般は一通り。」

 微笑みながら、そう返答するギンガ。
 そのギンガを見て、シンはうんうんと納得したように頷く。

「ああ、でもそんな感じはしますね。」
「そうですか?」
「はい、何か、お母さんとかお姉さんとかそんな感じがしますから。」

 瞬間、グサッとギンガの胸に言葉の刃が突き刺さる。

 ――うん、子供何人もいる肝っ玉お母さんみたいな感じがあるしね!

 奇しくもソレは少し前に妹であるスバルに言われたことと同じ。

「あ、あははは、お、お母さんはちょっと……でも、まあ、お姉さんって言うのは当たってるかな。」

 彼女は手に持っていた鞄を二人の間に置きながら呟いていく。

「あ、兄弟いるんですか?」
「妹が一人。私、母が死んでからずっと家事とかしてましたから。……あ、気にしなくてもいいですよ?昔の話ですから。」

 鞄の中から弁当箱を取り出しベンチの上に置きながら、顔色が少し変わったシンを見て、ギンガは慌てて、言葉を付け足した。

「そ、そうですか?」
「ええ、もう、ずっと昔の話しですから……本当に気にしなくてもいいですよ。ほら、弁当食べませんか?久しぶりに作ったんで味は保障しませんけど……」

 そう言って、ギンガは弁当の箱に手をかけて、ぱかっと開く。

「いや、そんなことは……」

 シンの言葉が止まる――と言うよりも二の句を告げなくなっていく。
 そこにあったのは、シンの想像の斜め上を行くだのと言うレベルではない、想像の遥か上を行くモノが揃っていたからだ。
 メニューは肉じゃが、卵焼き、きんぴらごぼう、から揚げと言う弁当と言うジャンルでの定番メニュー。
 傍らにはお握りに、水筒まで準備してある。
 しかもその量がまた凄い。一つだけだと思っていた弁当箱は見る限りおよそ4つ。
 そのどれもが黒く大きな箱―――俗に言う重箱である。その量は軽く見積もっても4人前はあるだろう。
 思わず絶句する。

 シンとてオーブに住んでいる頃は“普通”の子供だった。
 忙しいとは言え母は弁当を作ってくれたりもしたし、自分が母に教えてもらっていたりもした。
 プラントに来てからはめっきりすることは無くなったが。
 そんなシンから見てもこれは“完璧な弁当”だった。
 何より、細部に至る拘りが細かい。
 しっかりと仕切られ、肉じゃがの汁が他の具材を浸し、味を壊すことなどが無いように配慮され、色とりどりの色彩が楽しめる配置。
 主婦顔負け――否、主婦以上の力作であった。

「……す、凄いですね。」
「あ、あははは」
(き、気合入れすぎちゃった……かな?)
「と、とりあえず、食べてみてください!」

 声を大にして、シンに迫るギンガ。

「はあ、分かりました。」

 そう言って、まずはと卵焼きに箸を付け、噛り付く。
 口内に卵と出汁とほのかな甘みが広がる。

「……これ、美味しいですね。」
「ああ、それは自信作です。卵焼きは得意料理……と言うか初めて成功した料理なんで、得意なんです。」

 そう言って、ギンガも卵焼きに手を付ける。

「ああ、大抵そうですね。皆、初めは卵焼きから料理作り出して……俺もそうだったなあ。」
「シンも料理するんですか?」

 意外そうなギンガ。いつも訓練ばかりのシンにそういったことが出来るとは思っていなかったからだ。

「昔、妹に作って上げたりしてたんです。妹が生まれてからは父さんと母さんは忙しくなって……だから、俺が親代わりみたいなことしてたから。……まあ、随分と作って無いんですけどね。」
「へえ……シンの妹さんはどんな人だったんですか?」
「……普通の妹でしたよ。たまに喧嘩もしたし、遊んだり、勉強を教えたり……仲は良かったんでしょうね。あ、これいただきます。」

 傍らのギンガが紙コップに注いでくれたお茶を手に取り、シンは眼を細めて、眩しそうに上空を見上げる。
 太陽が、高く昇っている。
 思えば、妹の、家族のことをこんな風に――穏やかに思い出すことなどあっただろうか?
 オーブを出てからこれで6年目。
 色々なことがあった。それは大別すると鍛えるか、戦うかの繰り返しだった。
 家族のことを思い出すことはあっても、それは憎悪の引き金でしかなかった。
 思い出すことなく戦った。考えることもなく駆け抜けた。

 大事な親友。一度は心を通わせたはずの女性。尊敬出来たかもしれない上司。そして、命を懸けるに値すると信じた理想。
 それらを砕かれて、それでも縋り付いた平和。その為に戦いに没頭した2年間。終わりなど無い繰り返し。
 振りかえってみれば、単に力を求めて戦い続けてきただけなのかもしれない。
 そしてこの世界に来て、それでも、自分はまだ力を求めている。
 自分はもしかしたら今も一歩も前へ進んでいないのかもしれない。
 あの日から。きっと、自分はこの繰り返しを続けているだけ。

「シン、どうかしたんですか?」

 黙り、お茶に口をつけないシンを訝しげにギンガが見やる。

「え、ああ、何て言うんですかね……俺も変わらないなって思って。」
「変わらない?」
「……なんでも無いです、気にしないでください。」
(俺はいつまで、ソレを続けられるんだろう?)

 心中で自問するシン。
 彼とて馬鹿では無い。
 自分がやりたいことが人の領分を大きく外れた願いだと言うことはよく理解している。恐らく、誰よりも。
 そして、その果てに破滅しか待っていないであろうことも。
 それでも構わないと思うのは、どうしてだろうか。
 理由など一つだけ。
 それは楽な生き方だからだ。
 弾丸は――兵士は何も考えない。ソレは込められ、放たれるだけのモノだ。思考を放棄し、ただ突き進むだけ。
 だからこそ彼は守る為の場所を望み、それに縋り付く。
 もし、本当に守りたいのなら組織の力など当てにせずに個人の力のみで守れば良い。
 守ることの責任を全て個人の責任で背負い、その結果として死んでいく。それが正しい“守り方”だ。誰にも迷惑をかけない守り方だ。
 それが出来ないのは怖いから。死ぬことが、ではない。選ぶこと、選択することが、怖いのだ。
 ソレを選び、その生き方に自分を乗せること。それだけがシンにとっての恐怖である。
 
 選んだ時、彼は一変する――否、一変しなければならない。
 思考を放棄することなく、手繰り寄せ紡ぎ上げた思考の果てに守ることへの“答え”を見つけ続けなければならない。導くのか、捨て置くのか。
 それとも別のやり方なのかを選び続けなければならない。
 それが、怖い。その時、自分がどういう選択をするのか。それこそが怖い。
 無論、自身の願いを自覚した時、それを理解していた訳では無い。
 けれど、守り続けると言うことは本来そう言うことだ。
 守る――救うと言い換えた方が良いだろうか。ただ救われた誰かがどうなるかと言うその末路。
 シン・アスカはそれを誰よりも理解しているのだから。

 戦後のラクス・クラインはそういった意味で素晴らしかった。
 救った誰かへの責任を放棄することなく、理想と責務、欲望を見事に両立させ、その果てに起こる責任を全て背負い込む覚悟をしていた。 
 名君とはそれだ。
 シンにはそれがない。その決意はあってもその為の“覚悟”が無いのだ。

 ―――だからシン・アスカが望む願いは歪で、それ故に美しい。

 救った誰かに背を向けて、次の人間を救って、また背を向けて、次の人間を救う。救うことだけを突き詰めそれ以外を放棄した願い。
 故にその願いは幻想であり、現実には届かない。
 殉教者としての生き方は美しいかもしれない。けれどそんな空想は現実として成し得ない。
 そんな生き方は人を惹き付けても、人を引き寄せない。
 彼の願いは子供の持つ願い―――13歳の時から一つも変わっていない。
 あの日のまま、彼は、何を選ぶことも無くただ流され、ここまで大きくなっただけだ。
 違いがあるとすれば一つだけ。

 ザフトにいた時は力を与えてくれた誰かの為に。
 その後は居場所を与えてくれた誰かの為に。
 今は――守りたいと言う自己満足の為に。

 それは少しは前に進んでいるのかもしれない。
 楽な方向に流されていると言うベクトルは変わらないけれど、それでも進んでいるだけマシなのかもしれないのだから。

「……」

 押し黙り、天を睨み続けるシン。それを眺めるギンガ。

「……シ」

 それを見て、ギンガは彼に声をかけようとする―――瞬間、ベンチの後方の茂みから音がした。

「……何だ、この音?」

 懐に忍ばせていたバッジ型のデバイス――デスティニーの待機状態――を手に取り、油断無く構え、ソレが現れた。

「え、何か後ろから……ぎゃあああああああ!!!!」

 ギンガが先ほどまでの柔和な微笑みからは想像も付かないような顔をして、絶叫した。

「ギ、ギンガさん!?」

 シンがその声に驚き、思わずギンガを振り向く。
 どこの世界にうら若き女性が「ぎゃああああ」などと色気も素っ気も無い絶叫をすると思うだろう。

「あ……あ、あ、あ」

 そこにいたのは、おばけ―――そう、おばけだ。言うなれば映画に出てくるゾンビ。
 ぱっと見ワカメのようにウェーブがかった艶めいた黒髪と枝や葉っぱで塗れた黒い見るからに高価そうなスーツ。そして白いワイシャツ。
 優美さすら感じさせるその佇まい―――ならば、何故ゾンビなどギンガは勘違いしたのか。
 それはその顔を隠している木の枝の群れと、身体中を覆い隠すような木の葉と枝。そして……銀に輝く仮面である。

 口元だけを外に出し、顔のほぼ全てを覆い尽くした仮面。
 ぶっちゃけると、あからさまな変態である。
 そんな変態が高そうなスーツを着て、林の中から現われれば、ギンガで無くても絶叫する。少なくとも顔のデッサンが崩れるくらいには。

「お、おばけ!?た、倒さなきゃ……!!」

 混乱の余りギンガはいつの間にかバリアジャケット姿に移行し、リボルバーナックルが回転している。そして、振りかぶり、特大の一撃を撃とうとしているのだ。

「ちょ、ちょっと、アンタ、何殴ろうとしてるんだ!?殺す気か!?」

 シンは混乱するギンガを後ろから羽交い絞めにするようにして動きを止める。口調も思わず素に戻っている。だが、ギンガはひるまない。混乱の余り、もはや何がなんだか分からなくなっているのだ。
 そんな二人が騒がしく、喚いている中――――男は仮面の下で薄っすらと微笑み、呟いた。

「……いちゃつくのなら、影に行ってやるべきではないかね?」
「……は?」
「あ……」

 そして、その後の展開は正に劇的だった。
 シンはそこで気付く。自分がギンガを羽交い絞めにしていることに。
 ギンガはそこで気付く。自分がシンに羽交い絞めにされていることに。
 ―――二人の頬に朱が差し込めた。

「……い、いや、これは」
「ちょ、ば、ど、どこ、触ってるんですか!!?」

 二人は仮面の男の呟きに反応し、一瞬でその場を離れる。
 シンは羽交い絞めにしていたギンガの身体の感触を忘れるように、すーはーすーはーと深呼吸を繰り返す。
 ギンガはギンガでにやけてるのか、歪んでいるのか、定かではない顔で俯き、ブツブツと呟いている。呟きの内容はこうだ。

(どうしようどうしようどうしようどうしよう)

 男はそんなギンガの呟きを聞いて、顔を引きつらせる。ちょっと怖かった。

「いや、すまない。逢引きを邪魔するような趣味は無いのだが、」
「お、俺たちはそんなんじゃ」
「ち、違います!」

 男の申し訳なさそうな言葉に二人はそろって反応し―――そして、その姿に男は口に手を当てて再び微笑んだ。

「な、何がおかしいんですか!?」
「どう見ても逢い引きにしか見えないがね。君たちはもう少し素直になるべきだと私は思うが……・おっと」

 言い終わる前にシンが男の襟を掴んでいた。赤色の瞳に凶暴な色が宿る。

「……あのな、俺とギンガさんはただの“仲間”でそういうのじゃない!さっきからそう言ってるだろ!?」
「……ふむ。」

 激昂するシン。それと対照的に男はシンに気付かれないように、仮面の下で視線を動かす。
 その視線は彼の背後で俯き、呆然と再びブツブツと呟き出すギンガの元へと。再び顔が引き攣る。

 やっぱりちょっと怖かった。如何せん恋する乙女とは基本的に恐ろしいのである。
 男が再び視線をシンに戻す。凶暴な朱を宿した鋭い瞳。その瞳は変わっていない。何一つ、として変わっていなかった。

(……君は変わらないな、シン。)

 男は心中でのみそう呟き、激昂するシンに向かって、返事を返す。

「まあ、それならそれでいいんだが……キミたちはこんな廃墟で何をしているのかね?」

 その問いに対してシンは答えに窮した。まさか、偶然押し倒してしまい恥ずかしかったので魔法でここまで逃げてきましたなどと言えるはずも無い。

「人気の無い場所で若い男女が二人でいる――――状況的には逢引きが適当だが?」
「…………た、ただの散歩だよ。」

 苦しい。余りにも苦しすぎる言い訳である。

「散歩、ね。」
「……」

 暫しの沈黙。そして、男がその沈黙を破るように口を開いた。

「分かった。すまないね、変な誤解をしてしまった。」

 予想外の返答にシンは驚きを隠せなかった。目前の男はもっとしつこく嫌らしく聞いてくると思っていたから。

「え?あ、いや、分かってくれたなら、いいさ。」
「ああ、最後に一つ聞かせてくれないかね?」
「……何だよ?変なこと聞くなら今度こそ、承知しな……」
「ここはどこだね?」

 ―――シンとギンガの二人を沈黙が襲う。そして、どこかでカラスが鳴いた。
 こう、かあかあと。


「いや、すまない。」

 迷子の男――あからさまに怪しい仮面で長髪の男は二人の前に座ると、ギンガの作った弁当に口を付けていた。
 迷子に道だけ教えてそのまま帰すのは人道的にどうかと思ったこと。
 そして何よりもギンガの作ってきた弁当はどう考えても二人分以上の量があったからだった。
 どうせ、道を教える為に案内するのだ。ならば、飯を食べる手伝いをしてもらった方がいい――そういった判断である。
 無論、この案はシンからだ。提案した時、ギンガの頬は僅かに引きつったモノの否定する理由も無い為に、頷いた。

(……折角、シンに作ってきたんだけどなあ。)

 少しだけ俯き、ギンガは卵焼きを口に運びながら心中で呟く。
 確かに作りすぎたのは認めよう。どう考えても二人分の量ではない。三人分――下手をすれば四人分以上の量である。
 ただ、それでも想い人に食べてもらいたいと言う一心で気合を入れて作ってきた――と言うか作りすぎてきた訳だが――ソレは何も眼前の仮面の男の為ではないのだ。

「……。」

 二人に気付かれないようにギンガは仮面の男を見つめた。
 銀色の仮面。長髪を後ろで束ねた俗に言う尻尾頭。
 その格好を見るだけで眼前の人物が尋常ならざる人物であることは理解できる。
 何故なら仮面である。仮面を被って日常生活をするなど変人のすることだ。
 普通は仮面は被らない。
 だが、ギンガが男を怪しむのはその格好のせいだけではなかった。
 男の名前を聞いた瞬間のシンの態度が、どうしても解せなかったからだった。
 グラディス。
 男が名乗ったのはそれだけ。それが苗字なのは名前なのかは定かではない。
 だが、その名前を聞いた瞬間、シン・アスカは一瞬硬直し、そして再び元に舞い戻った。それがどうしても解せなかったからだった。

 ――シン・アスカが硬直した理由。ギンガがそれを解せないのは当然のことだ。
 彼女は彼の過去を口頭でしか聞いていない。その詳細――つまり、そこに登場する人物のことなどは知らないのだから。

 グラディス。それは彼が過去、所属していた戦艦ミネルバの艦長であり、故ギルバート・デュランダル議長の愛人の名前である。
 だから、シンは硬直した。まさか、と思ったからだ。目前にいる仮面の男。それが死んだはずのギルバート・デュランダルなのではないか、と。
 だが、彼はすぐに思い直した。あり得ないからだ。
 ギルバート・デュランダルはあの戦争で殺された。
 殺したのはシンの親友にして戦友であり、ギルバート・デュランダルの子飼いの少年――レイ・ザ・バレルの手によって。

 そこにどんな理由があったのかは、シンには分からない。シンとレイは親友であり戦友である。
 だが、その心の最奥を知っていた訳ではないからだ――それは当然のことではあるのだが。
 だから、あり得ない。死んだ人間が生き返るなど決してあり得ない。
 そして、否定する理由はもう一つ。目前の男の声はデュランダルの声とはまったく違う――それは否定するには十分な理由だ。
 幾つか怪しい部分はあった。
 だが、故人が声を変えて生き返り、なおかつ別世界にいる、などと言う不可思議極まりない現象が起きるなどはあり得ない話だろう。
 シン・アスカはそうして、目前の男への認識を、確定した。即ち、額面通りに仕事でたまたま、ここに来た人間なのだ。

「ほお。」
「あ。」

 二人同時に呟く。何かと振り向くギンガ。二人の視線の先には、4歳くらいの子供が数人とその親らしき人物がいた。
 親たちはこれから昼なのか、シン達と同じように弁当を広げ、子供たちは公園に広がる遊び道具に我慢し切れずに遊んでいる。
 人気の無かった広場にはいつの間にか人気が戻りだしていた。
 恐らく――復興作業中なのだろう。つまり、彼らはこの廃墟に住んでいた住人――難民とも言える――なのだと。
 それは穏やかな日常のヒトコマだった。生きていれば、誰でも素直に味わえるはずの当然の産物。
 だが、とシンは思った。

 親たちの服装。子供の服。弁当の中身。そして――彼らが時折自分たちに向ける視線。
 好奇と恐怖が織り交ざった視線。恐らく、あの襲撃の恐怖が彼らの心に傷を負わせているのだろう。
  その視線に込められた恐怖は異邦人――見知らぬモノに対する恐怖だった。
 たかが公園にいた見知らぬ人にそれをぶつけるほどに彼らは追い詰められているのだろう――いや、いた、か。
 少なくとも彼らの表情からは今、駆り立てられるようなストレスは感じられない。感じられるのはその名残程度。けれど、その名残は恐らく簡単には消えはしない。
 彼らはこれからもしばらくは眠れぬ夜を過ごすに違いない。いつ襲撃されるかと言う不安と恐怖で。シン自身がそうだったのだから、良く分かる――彼の場合は恐怖と言うよりも怒りが先立ってはいたが。

 一つ、ため息を吐き、シンは今度は公園で遊ぶ子供たちに眼を向けた。
 グラディスが呟いた。

「なるほど、廃墟ではなかった訳だ。」
「……ああ。」

 それに気乗りしないように返事を返すシン。
 先ほどまでと違う雰囲気をかもし出すシン。それを見てグラディスは彼に向かって仮面を付けた顔を向けて、問いかけた。

「どうかしたのかね?」
「え、あ、いや……」

 シンはどうしてから、彼に問いかけられると口ごもる自分に違和感を感じていた。
 “守ること”を選んだ、その時からシンにとっての他人とは単純に守るだけの対象に成り上がった。
 別に他人との係わり合いが変わった訳では無い。
 ただ、その結果としてシンは以前よりも他人に対して無頓着になっていた。故に誰であろうと言い淀むことなどは無かった。
 特別な反応をするのは特別な相手にだけだ――特別な相手がいなければ、特別な反応をすることなど無い。。
 だから言い淀む自分にシンは違和感を感じていた。久しぶりに感じるそれはどこから、教師に間違いを咎められた生徒の如き居心地の悪さ。

「……別に……ただ、何となく嫌だったから。」

 グラディスの声色が変化する。神妙な声色から、何かを思案するような声音へと。

「……嫌だった?」
「だって、この間の襲撃で此処はこんな風になってさ。そのせいで、あんな風にしてる人がいる。」
「……ふむ。」

 悼む訳でもなく、惜しむ訳でもなく。淡々と事実を告げるように――どこか子供のような口調でシンは呟いた。
 ギンガはそんなシンを痛々しげに見つめ、グラディスは――仮面で隠れて誰にも見えないが――そんなシンを真剣な眼差しで睨み付けていた。
 シンはそんな二人の視線に気付くことなく、ぼうっとしたまま、続ける。

「俺にもっと力があれば、ああいうのを失くすことが出来たのかなって。」
「……。」

 ギンガは何も言わない。
 シンのその言葉は大筋ではあっているからだ。

 力があれば守れると言うそれは一種の真理である。
 力だけでは守れないモノはある。けれど力が無くては何も守れないのも、また事実。
 だが、その言葉に男が返事を帰した。

「それに対して根拠はあるのかな?」
「……そんなのは無いさ。」

 根拠。そんなものはどこにも無い。
 力があれば守れた――それは単なる可能性に過ぎない。単なる“もしも”の話だ。
 だが、それでも、とシン・アスカは思った。苦しげに。シン・アスカの瞳に悲しげな虚無が滲み出す。

「けど、力があれば、守れる。少なくとも力が無いよりはもっと沢山の人を守れるんだ。」

 俯き、吐き出すようなか細さでシンは呟いた。
 力無く、弱々しく、儚く――何よりも、嬉しそうに。

「だから――」

 儚げな呟き。
 微笑みが浮かぶ。
 どこか壊れた微笑み――或いは自嘲の嗤いが。

「――俺はこれから“ずっと”守っていくんだ。」

 俯き、両手を合わせて力の限り、握り締める。
 溢れ出しそうな喜びの感情を押さえ込むようにして――呟きの最後は小さく、聞こえない。
 それは自分自身へ向けた言葉。
 口元が緩みそうになるシンを見て、グラディスが溜め息交じりに呟いた。

「それに終わりはあるのかい?」
「……終わりなんていらない。」

 小さな呟きと共に儚げな虚無(ワライ)が滲み出す。

「俺は、それだけで、いいんだ。」

 それを見て、グラディスは少しだけ表情を変えた。
 哀れみと同情と――紛う事なき“喜び”が混じりこんだ表情へと。
 シンは何も気付かない。元よりそんな表情など見てもいない――見えているのは常に自分だけ。
 周りのことなど最初から目に入ってなどいない。

「君は、強いな。」
「……何が言いたいんだ?」

 少しだけ、苛立った。
 その言葉の意味が彼には上手く理解出来なくて――苛立ちが募るのを止められなかった。
 肩を竦めるグラディスを睨み付ける。滲み出す虚無が空間を侵食する。

「すまない。少し老婆心が過ぎたようだ。……歳を取ると説教っぽくなっていけないな。気に障ったなら謝ろう。」

 その言葉を聞いて――浮かび上がる嘲笑。

(……強い、だと?)
 
 目前の男が言い放った強さとは、決して力のことではないだろう。
 自身の――シン・アスカの心を強いと言ったのだ。
 守ると言う行為を延々と継続し続けること。ソレを貫き通そうとする強さ。
 恐らくはそんな類の強さだろう。
 浮かび上がった嘲笑が消えない。
 違う。まるで違う。笑わせるなと言いたいほどに――笑い出したくなるほどに、それは“違う”のだ。
 自身が求めるモノは強さではなく力。
 シン・アスカはそういった一切合切の過程を捨て置いて、力を求めているだけ。

 全てを、目に映る全てを――守る為に。
 
 その言葉自体の聞こえは良い。
 だが、その内実はまるで真逆だ。
 “誰を”、“何を”、“何の為に”。
 そういった対象が存在しないソレはただの自己満足に過ぎない。
 自己満足――そう、シン・アスカはその為だけに生きている。
 決して、誰かのためにというココロなどどこにもない。シン・アスカはただ自分の為だけにそうしているのだ。
 そこに善意など欠片も無い。あるのは自己満足の願望だけ。
 強いなどと言われるようなことではない。
 嗤うしかない。
 そんな風に俯いたシンに向かって、グラディスが呟く。

「すまないが……名前。名前をもう一度聞かせてくれるかな」
「シン・アスカ。」

 俯いたまま、シンは名乗った。
 俯いたままなのは、自分の中の汚さを見抜かれるような気がして。
 だが、男はそんな彼に気付くことはなく、微笑んだ。――無論、仮面からその笑顔の全ては窺えなかったが。

「……シン・アスカか、良い名前だ。」

 男が空を見上げた。つられてシンも、ギンガも空を見上げた。
 そこには蒼穹。抜けるような青い空が広がっている。綺麗で、不確かで、誰の手も届かないそれは一種の聖域。……・幻想の聖域だ。

「誰にも負けない。そんな気持ちにさせてくれる、強い名前だ。」

 その言葉にシンは、瞳を閉じて――そのまま瞑目する。

 ――誰にも、負けない。

 違う。自分はそんなに強くない。

 ――シン・アスカは誰も“選ばない”。

 選択肢を“放棄”し、見限ることを“放棄”し、ただ全てを守り抜くことだけを遵守する。彼のやりたいこと。したいこととはただ、それだけ。

 朱い眼に映る全てに差異は無く、何を選ぶこともなく全てを守る。それが彼の願い。神様にしか出来ないような馬鹿げた願い。
 それでも――それ故にシンはその願いを捨てきれない。眼に映る全てを守りたいと言うその願いを。そうでなくてはならない。そうでなくては、選択の重みが彼に迫り来る。
この願いはただの現実逃避である。選択の重みから逃げるためだけの、ただそれだけの、一つの願い。
 だから、シンは呟いた。

「……買いかぶりさ。俺は、ずっと負け続けてるんだから。」

 恐らく、それはこれからも。選択から逃げ続けるだけの彼に勝利など舞い込むはずが無いのだから。

「……君はただ、ずっと勝ったことがないだけさ。きっとね。」

 シンはその言葉に何も言えなかった。それはあまりにも的を射ていたから。


「……シン・アスカ、か。」

 グラディスは小さく呟き路地裏を歩いていた。
 あの後、彼は二人に道案内を頼み、知っている場所まで案内してもらったのだ。
 そして、その後別れ、帰路に着いた。
 今日、ここであの二人に出会ったのは真実、偶然であり、彼自身にとっても予想外の出来事だった。
 男の名はグラディス――ギルバート・グラディス。だが、そんな名はまやかしだ。彼の真実の名は違う。

 男の本当の名はデュランダル。ギルバート・デュランダル。前ザフト議長であり、シン・アスカにとっては守ると誓った理想そのもの。
 グラディスと言う名はある誓いだ。
 『世界を救う。』
 その大望を忘れぬ為に、彼が自らに刻み込んだ誓い。救えなかった、ただ一人愛した女性。
 幸せに出来なかったただ一人の女性。それを世界になぞらえて――彼は二度と忘れえぬ為に、その名を自らに課した。
 周囲を見れば、空はいつの間に朱く染まっていた。

 ――かつて、デスティニープランと呼ばれる政策があった。
 内容は簡単だ。
 遺伝子によって人を選別し、生まれ持った遺伝子特性によって社会的役割を決めると言う、徹底した管理社会の実現を目的とする政策である。
 この政策の目的は戦争の根絶。血統により無能な人物が不当に高い地位につくことでおこる混乱、自分の境遇・待遇への不満からおこる“争い”が理論上は根絶出来る。
 その結果として戦争が二度と起こらないようにするという政策であり、デュランダルの考えたナチュラルとコーディネイターの“終わらない争い”を終わらせるための政策である。

 馬鹿げたプランだ。空想と言ってもいい。
 例え、そこに意味があるのだとしてもそんな性急過ぎる政策は決して実現出来るはずがない。多くの人間の理解を得る為に長い年月を掛けたなら、まだ理解できる。それこそ数十年単位で、だ。
だが、デュランダルは唐突に――あまりにも唐突にこれを実行しようとした
 無論、これは暴挙であると世界各国から糾弾された。そして彼はネオジェネシスという破壊兵器によって世界を脅した。無理矢理にでも従わせるために。
 結果、英雄が現われた。英雄は彼とその国であるザフトを襲い、世界を救った。
 そして、世界はシン・アスカの知る“平和な世界”へと歩を進めて行った。
 それは世界全てが称えた一つの結果。そしてデュランダルは世界の敵として処理されていった。

 ――だが、彼は今でもデスティニープランそのものを馬鹿げたモノとは思っていなかった。

 確かに性急過ぎた上に予定通りの効果が得られたのかというとソレは否だ。
 ギルバート・デュランダルのリアリストの部分はそう結論付けている。だが、そのリアリストの部分を以ってしてもそのプランには意味があった。
 それはあの世界、コズミックイラの世界にてギルバート・デュランダルと彼の僅かな側近――それも特に信頼していた学者達のみである――くらいしか知らない“ある事実”によるものであったが。
デスティニープランとは、まず遺伝子を選別する。それによって各個人の適性が得られる。
 適性には様々なモノがあるだろう。料理人、運転手、配管工、建設業、整備士、SEなど数え上げれば切りが無いほどの職業が。
 無論、そこには“戦闘に適した人種”も存在する。
 デスティニープランにはこの“戦闘に適した人種”を全人類規模で探し出し隔離し鍛え上げ、“戦闘に適した人種”同士を交配させ、その子供に更にコーディネイトを行い、真実“戦闘に適したコーディネイター”を作り上げることにあった。

 世迷言だ。妄想だ。彼の愛した息子同然の存在であるレイ・ザ・バレルですらこの事実を知らない。 そんなコトを行おうとしていたことが知れたならば、デスティニープラン程度の騒ぎでは済まない。
 だが、彼にはそれほどの多大なリスクを払ってでも、その計画を推し進める“必要”があった。

 彼とその僅かな側近しか知らない“事実”である。そして誰よりも先に彼が確認し知ってしまった“事実”である。
 それが故に彼は、その道を進まざるを得なくなった。
 それが故に彼は、この世界に来ても生きていなければならなくなった。
 それが故に彼は、そんな狂気に支配されたようなコトを行わなければならなくなった。
 彼がそこまでした“理由”。それは――

『感傷かい、ギルバート。』

 声がした。振り向けば――そこにはゆらゆらと陽炎のように揺らめきながら立つ白衣の男がいた。
 男の表情はにやついた笑顔。嫌悪を感じさせる笑みだった。

「……君か。何のようだね、スカリエッティ?」

 スカリエッティと呼ばれた男はデュランダルの方を見ながら話しかける。

『なに、私の手がけた君たちがどうなっているのか、気になってね。』
「それなら、心配には及ばない。私も、ハイネも問題なく“稼動”している。君の手には及ばない。」

 そう言って、デュランダルは笑顔すら忍ばせて胸の辺り――心臓の位置を優しく撫でながら。

『ああ、確かに君であればこの程度の処置は簡単に行えるだろうね。』
「では、もう消えたまえ。君と話すのは正直骨が折れる。」

 心底、疲れたように肩を竦め、グラディスはスカリエッティに対して背を向けた。その背中は完全な拒絶を示していた。
 ――曰く、失せろ、と。

『つれないね。こちらは、一つ頼みがあるんだが――』

 だが、スカリエッティは構うことなく続ける。彼にとっては相手の拒絶など別にどうでもいいことなのだから。
 そして、その返答を聞いた瞬間グラディスの――ギルバート・デュランダルの瞳が釣りあがった。

「――消えろ、と言ったのが聞こえなかったのかね?」

 両の手の手袋が光り輝く――それはブーストデバイス。名前をナイチンゲールという。手袋の色は赤。穏やかな彼の物腰には似合わない――深紅の紅。
 網目状の幾何学模様の光が彼の全身を覆い、消える。その光の色は紫。それは一瞬で消え去り、彼は“ナニカを握り締めるようにして振りかぶった”。
 構えは右手を左手側に伸ばしたブーメランやフリスピーを投擲するような構え。
 何も持っていない、ただグローブで覆われただけのその右手を、彼はそうして構えた。

 ――瞬間、空間が歪んだ。帯電する空気。そして、まるで“空間から引き抜く”ようにして、右手は数本の“武器”を掴み――そして、投擲した。流れるような動作。それは文官の動きではなく、武術家の動きである。
 放たれた武器――それは3本のナイフである。それはインパルスの使用していたフォールディングレイザーそのものの姿だ――は狙い違わず、スカリエッティの幻影を貫いた。
 だが、幻影を物質が貫くなど当たり前だ。幻影とは虚(ウツロ)であるが故に実(マコト)の物理は通用しない。

『……さすがはギルバート・デュランダル。「ナイチンゲール」の加護を受けたその武術は正に達人もかくやと言ったところかい?』

 その言葉を前に、デュランダルは視線を更に険しくする。その瞳に映る威圧は正に王者。
 彼は敗北者だ。
 世界を敵に回し、英雄を敵に回し、自身の理想を貫こうとした一種の暴君である――その暴君の裏にあった“事実”を知らないが故に世界は彼を敵として認定したのだが。
 「ナイチンゲール」。それは一種のブーストデバイスである。無論、キャロ・ル・ルシエの持つ「ケリュケイオン」とはまるで違うモノだ。

 ウェポンデバイスとは「人とデバイスとモビルスーツ」を融合させたモノである。
 これはそれとは違うアプローチ。デバイスによって人間を超人と化させると言うモノ――要するに魔法によって“コーディネイト”を行うと言うデバイスだ。

 このデバイスは身体能力・反射神経・肉体強度の強化を行い、脆弱な人体をその限界にまで引き上げ、その動作を全て達人へと“書き換える”。
 故にそのスーツの中に隠れし肉体は鋼の如く。
 呼気は息吹となり、歩法に至るまで達人と化させると言う遺伝子に直接作用する魔法である。ギルバート・デュランダルの脳裏に刻み込まれた遺伝子学の知識があればこそ生まれたデバイス。
 それが、「ブーストデバイス・ナイチンゲール」である。

 武器は全て彼の周囲を覆うようにして存在する“小規模次元世界”――ウェポンデバイス・プロヴィデンスに使用されていた技術である――に収納されている。その武器の数は凡そ数百。
 脳裏にイメージした武器をそこから手繰り寄せて引き抜いたのだ。ギルバート・デュランダルの記憶に強く刻み付けられているのはシン・アスカの乗っていたインパルスである。今、フォールディングレイザーの如きナイフが引き抜かれたのはその影響だ。常勝不敗のフリーダムを撃墜したインパルスとは一つの奇跡に他ならないのだから。

 そして、遺伝子に作用すると言う特性上、その反動は凄まじい。鍛錬した人間ならばともかく、一般人――デュランダルなどの文官も此処に該当する――ならば起動と同時に肉体にかかる負荷に耐え切れずに死んでもおかしくはない。
 ならば、何故脆弱な文官であるデュランダルがソレに耐えられたのか。答えは簡単である。彼も既に人間ではないからだ。
 その胸の中心――心臓があるべき場所に輝く光。それはラウ・ル・クルーゼと同じモノ――レリック。彼はクルーゼと同じくレリックウェポンとして――人外として生を許されているのだ。
 それ故にギルバート・デュランダルの肉体は「ナイチンゲール」の酷使に耐え抜いている。高密度の魔力の発生に伴って常時彼の肉体には「人体の再生能力の活性化」が行われ、強制的に彼の肉体を“復元”し続けているからだ。
 また、このデバイスにはバリアジャケットは存在しない――否、見えないのだ。不可視のバリアジャケット。ジャケットというよりはむしろ単純にバリアと言うべきモノだろう。デバイスの稼動時にはそれが常に四重の枚数で以って周囲を覆っている。今、仮に魔力弾が襲いかかろうとも、ソレは彼に辿り着く前に霧散するだろう。

 難攻不落の武術の達人。
 現在のギルバート・デュランダルを言い表すならばそれが適当だった。

「失せろ、スカリエッティ。私には君と戯言を語り続けるような“時間”は無い。」

 彼には似合わぬ口調でデュランダルは言い捨てる。そして、スカリエッティは唇を吊り上げ、嬉しそうに微笑んだ。

『ああ、そうか。君には――君たちには“時間”が無かったんだね。』
「…………」

 デュランダルは答えない。険しい刃の如き王の視線で以ってスカリエッティを睨みつける。

『今度は沈黙かね?――まあ、いいさ。では、本題に入ろう。』
「……何かね。」
『シン・アスカ。彼を殺さないでいて欲しい――そして、彼に力を与えて戦わせてもらいたい。』
「なるほど、君の目的の為に、か。」
『そうさ。それ以外に何が在る?』

 ジェイル・スカリエッティの瞳は変わらない。何を当たり前な、とでも言いたげ視線だ。

「…………君に言われるまでも無い。」

 言葉と同時にデュランダルは不敵に微笑んだ。敗者になって尚その微笑みは不遜なる王として翳り一つ生み出さない。

「元より、そのつもりだ。彼は炎となって君たちを燃やし尽くすだろうさ。」

 スカリエッティが唇を歪ませた。それは壊れた亀裂の微笑み。狂気すら従える強欲の微笑みだった。

『……期待しているよ、ギルバート。』

 そう言ってスカリエッティの幻影が掻き消えた。後に残るのはただの廃墟の路地裏。それを見てデュランダルは小さく呟いた。

「……怖いものだな。狂気の至りというのは。」

 自身もそうなっていた――否、今もそうなっていることを考えて、彼は静かに苦笑した。
 至極、楽しそうに。


 グラディスが彼らの前を去ってから数時間後。
 シン・アスカとギンガ・ナカジマの二人は今、ある丘の上に来ていた。理由は簡単なもので、ギンガの散歩でもしないかという提案だった。
 弁当を片付け、一時間ほど経った後の話だった。
 お茶を飲み、空を見て、呆っとしていたシンにギンガは意を決したように呟いた。

「シン、これから、ちょっと付き合ってくれませんか?」
「……付き合う?」
「ええ。ちょっと行きたい所があるんです。」
「別にいいですよ。」

 そうして、二人が歩くこと数時間。
 そして、着いた場所がそこだった。その街の外れに存在する丘だった。
 そこは街を一望できる観光ガイドにも乗っているような場所だった。普段ならば、きっとそこはもっと賑わっているに違いない。
 それほどにそこから見える光景は綺麗だった――今は破壊され見る影も無いが。

「……へえ、いいところですね。」

 感心したように呟くシン。
 天頂高く上る太陽。日の光に照らされて見える街は、一部瓦礫の山があるとは言え美しい。
 肌を撫でる風が心地よい強さで吹いていく。

「座りませんか、シン。」
「……ギンガさん?」

 どこか思いつめたような――けれど決然とした表情でシンに呟くギンガ。その胸に揺れる思いが彼女を後押しする。

 ――シン・アスカを、好きな人を信じる。

 ただそれだけの純粋な気持ち。それがギンガ・ナカジマの真実ならば。

(私は、今ここで、言わなきゃならない。)

 本気の気持ちには、本気で応える――否、応えたい。自分の恋慕に嘘は吐けないのだから。

「2週間後の模擬戦について、話があります。」
「……はい。」
「今回の試験は特殊な形式で行われます。本来なら、試験目的の成否だけではなく、安全性や判断力等様々な要因を試験官を観察した結果、合格というものです。ですが、今回は、ただ勝つか負けるかのみです。」
「要するに、勝てば合格。負ければ不合格……ってことですか?」
「はい。」
「……分かりました。相手は、どんな人なんですか?」

 一瞬の逡巡。そしてギンガはその言葉が生み出す変化に怯えながらも――決意と覚悟を込めてその言葉を押し出した。

「私です。」

 一陣の風が吹く。

「私と戦い、私に勝つこと。それがシンが機動6課に行く為の条件です。」

 彼女は静かな闘志を瞳に込めて、言い放つ。自身の恋した男が自分を超えてくれると信じて。
 そして、その言葉を切っ掛けに、シン・アスカが“変質”する。

「ギンガさんが……相手、ですか。」
「はい。」

 躊躇無く放たれた答え。シンの唇が釣りあがって笑みを形成する。

「……ギンガさんは、俺の邪魔をする、ということですか?」

 壁がそこにあった。超えるべき壁が。その壁は気高く、美しく、何よりも高い。だが、それがどうした。 本心では無理だ、駄目だと喚きたがっている――だが、そんな“怯え”は全部捨ててしまえ。
 状況は単純。勝たなければ自分には“守ること”さえ残らない。勝てば自分は“守れ”る。
 敵意が空間を侵食する。
 シン・アスカの視線が変質する。それは八神はやてに向けた敵意と同質。
 ギンガはその敵意を受けて、萎縮する自分を必死に鼓舞する。
 恋した男に睨みつけられ、敵意をばら撒かれ、それで平常心を保つなど不可能に近い。
 今にも泣いてしまいそうなほどにギンガの心は波打ち、砕けそうになる――けれど、それでも彼女は堪える。
 これは彼女にしても始まりだから。好きな男を支えると言う彼女自身の願いを叶える為の第一歩なのだ。だからこそ、彼女はその敵意に負けない。威圧に押し潰されない。

「ええ。全力で、邪魔させてもらいます――“守りたい”なら、倒してみなさい、私を。」
「……上等だ。」

 ぼそりと呟く。その言葉、その態度を引き金に、この時、シン・アスカはギンガ・ナカジマを敵と設定した。



[18692] 第一部陸士108部隊篇 8.決戦
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 12:11
 シン・アスカとは狂気に塗れることが出来ない人間である。
 彼の心に常にあるのは勝利への渇望では無く、平和への憧憬だ。
 その結果として彼は戦時中にデスティニープランという極端極まりない政策を己が理想として身を任せた。
 けれど、その中にあって彼の心に在ったのは迷いだった。

「戦争を失くす」
「平和な世界を作る」

 デスティニープランとはその為の政策である。
 だが――そこに“幸福”はあるのか?
 人の未来を失くすとはラクス・クラインの言葉だ。本来ならそれは唾棄すべき言葉であるはずなのに、彼は心のどこかでそれを否定出来なかった。
 それでも彼が選んだのは「未来」ではなく、「平和」だった。
 平和な世界。それこそが守るべきモノなのだと決断したのだ。決して迷いが晴れた訳ではなかったが。
 彼が真に狂気に塗れることの出来る人間であるなら、デスティニープランに迷いを抱くはずなどは無く――あの赤い正義の名を冠した機体に敗れることも無かった“かもしれない”。
 別に、迷いが晴れていれば確実に勝利していたと言う訳ではない――迷いは刃を鈍らせた。ただ、それだけ。その結果、鈍った一刃は、無限の剣の前に叩き折られた。

 彼は、迷う人間だ。
 迷いは人を弱くする――だが、その迷いこそがシン・アスカの強みでもある。
 迷い、考え、導き出した結論。それが確固たるモノであればあるほど、彼は如何なるモノであろうとも“喰らい付く”。足掻き、試行錯誤を繰り返す。
 その結果として倒せ無いこともあるだろう。届かないことも在るだろう。
 けれど、彼は決して“諦めない”。
 意地汚く、浅ましく、足掻き続ける、潔さなどまるで無い、その生き方。
 それだけが誰にも真似出来ないシン・アスカだけが持つ強さ。迷いを力に変える力。

「ええ。全力で、邪魔させてもらいます――“守りたい”なら、倒してみなさい、私を。」
「……上等だ。」

 言葉とは裏腹に、心中に迷いはあった。彼女への恩を仇で返すと言う迷いが。
 それでも彼は選んだ。その言葉、その態度を切っ掛けとして決別の道を。
 己が力で己以外の全てを守る。
 その願いの前では彼女への親愛など些事でしか無いと投げ捨てて。

 ――決して戦いたかった訳では無い。けれど、自身の目的を邪魔するのなら誰であろうと打ち倒す。
 ――迷いはあった。けれど、彼はそれを自身の深奥に押し込める。

 守る為に。
 力を振るう場所を得る為に。
 前へ前へと駆け抜ける為に。
 駆け抜けるその道。それが現実逃避であり、終わりは無様で滑稽な孤独の死であると知っていて、尚、彼は駆け抜ける。
 その過程の遵守こそが彼の願い。その願いを果たす為に。

 これは、男と女の物語。
 願いを叶える為に走り続けた「女達」と自分を手に入れる為に駆け抜けた「一人の男」の物語。


 そこは決戦場だった。
 施設の名前は訓練場。けれど、今から戦う二人にとって、そこは紛れも無く“決戦場”だった。
 シン・アスカは今、今日支給されたばかりの真っ赤なバリアジャケットに身を包み、静かに佇む。
 赤一色と言ったそのバリアジャケットは彼が以前来ていたザフトエリートの証である赤服を連想させるものだった。
 同じくギンガもバリアジャケットを着こんで瞳を閉じている。心を落ち着かせているのだろう。

『……ルールを一応伝えとくで。』

 マイク越しに喋る試験官八神はやての声がホールに響き渡る。

『時間制限無し。どちらかが動けなくなるか、降参するかで勝敗は決まる。まあ、ルールなんてあってないようなもんや。』

 彼女は言葉を切って周囲を見渡す。
 観客はそれなりに入っており、入場料でも取ってやれば結構な収入になったかもしれない――そんな馬鹿な考えが思いついては消えた。
 そこは陸士108部隊隊舎内の訓練場である。
 今日この日の為にゲンヤ・ナカジマに許可を貰い、借りている。
 観客の殆どは陸士108部隊の隊員である。

『では、前置きはこんなもんにして……今から十分後。始めるで。』

 淡々と言葉を切るとマイクを置いて、自分の席に戻るはやて。
 声の調子は軽やかでいつも通り。その場にいる誰もが彼女の深奥が塗り換わっていることになど気付きはしない。
 それほどに彼女の“擬態”は完璧だった。
 赤毛の少年と桃色の髪の少女が座っている。
 エリオ・モンディアルとキャロ・ル・ルシエだ。そしてその後ろには彼らの保護者であるフェイト・T・ハラオウンが座っている。
 それから少し離れた場所――ギンガ・ナカジマが立っている側の近くに彼女の妹であるスバル・ナカジマとその親友であるティアナ・ランスターがいた。
 そして試験官である彼女の周りにはいつもの通りに守護騎士――ヴォルケンリッターが座していた。
 時空管理局において最強であり異常の戦力の集中を誇る名実共に最強部隊。
 「機動6課」の全戦力がそこにいた。

 ギンガ・ナカジマは居並ぶその威容に少しだけ緊張しつつも、彼女の前に佇む彼を眼にして気を引き締める。
 彼女には彼女の願いがある。それを叶える為にも、彼にはここで“全力の自分”を超えていってもらわねばならないのだ。
 けれど、そんな心中は浮かべることもなく。
 彼女、ギンガ・ナカジマは、不敵に微笑み、呟いた。
 その微笑みは戦乙女の如く美しい。

「……私に勝って、「守れる」ようにはなりましたか?」
「――ああ。俺はアンタに勝って、守る為に“そこ”に行く。」

 視線は刃。声は毒の如き威力で以ってギンガ・ナカジマの心根を打ちのめす。
 だが、彼女は退かない。媚びない。省みない。
 そんなことをしても、何も手に入らないのだから。

「やってみなさい、シン・アスカ。」
「やってやるさ、ギンガ・ナカジマ。」

 今、此処に、男と女の戦いが始まる。

 フィールドは、崩れ倒れた廃墟。ビル郡が立ち並び、アスファルト舗装された道路が縦横に走っている。
 戦いの展開は予想通りの展開となった。

「はあああああ!!!!」
「うおおおおおおお!!!」

 シンはギンガに対して距離を取る。射撃による牽制と飛行、そして突然行う突進。
 対するギンガは奇をてらうことも無く、ただ前進する。無論回避と防御を怠ることなく。
 追う者と追われる者。
 ギンガはその予想通りの展開に僅かながら落胆し――シンはその落胆にこそ勝機を見出し、彼女からは見えないように、笑いを堪えきれずに頬を緩め、唇を吊り上げた。
 そう、罠が成功したことを喜ぶ子供のように邪悪な笑顔で。


 ――2週間前。
 ギンガ・ナカジマは、あの宣言の後、一人帰っていった。
 2週間後まではお互いに会わないことにしようと言って。
 平然と自分は頷いた。
 彼女は敵だった。敵である彼女に自分の手の内を晒すことは出来ない――そう、思って。
 けれど、どこかでナニカが痛かった。胸の奥でしっかりと、ナニカが痛んでいた。
 ナニカ――多分、それはココロ。彼女を敵に回したことが自分は辛いのかもしれない。味方だと思っていた。仲間だと思っていた。ソレが、裏切られた気がして。
 感傷だ。
 シンは、その想いを振りきって彼女とは別の道から帰路に着いた。その道中、彼はしきりにギンガとの模擬戦について考え込んでいた。
 ギンガ・ナカジマ。
 彼女はシューティングアーツと言う独特の魔法を使うAランクの魔導師である。
 シン・アスカとの模擬戦の戦績は数えるべくもなく彼の全敗である。
 彼の攻撃は彼女にまともに当たったコトなどなく、彼女の攻撃は全て彼を撃ち貫いた。
 近距離特化と言う凡そ魔導師と言う分野において異端と言わざるを得ないスタイルでありながら、その戦闘能力は極めて高い。

 その理由の一つとして、挙げられるのが“回避率の高さ”である。
 無論、フェイト・T・ハラオウンのように眼にも止まらぬ神速による華麗な回避では無い。
 実直その物と言ったプロテクションやシールドなどの魔法による単純な防御である。
 敵の放つ攻撃の内、直撃だけを確実に回避し、致命傷を決して受けない。ただ、それだけ。
 そして射程が短いなどどうと言うこともなく簡単に懐に入り込むと彼女は一撃を放つ。その一撃はすべからく必倒の威力で以って迫り来る。
 判断力、そして洞察力が優れているのだろう。こちらが、何を考えて次に何をしようとするか。それを読み取る能力が非常に高い。
 アロンダイト――大剣を未だに上手く扱えないと言うことを差し引いても、現状の能力ではシン・アスカは奇跡でも起きない限り彼女には勝てないだろう。
 それほどにシン・アスカとギンガ・ナカジマの間の差は大きかった。
 そして、それは今も大して変わらない。


 飛び回るシン。そして追いかけるギンガ。
 シンの動きは、これが3ヶ月前まで本当にズブの素人だったのかと疑いたくなるほどに、速く的確な飛行を繰り返す。
 縦横無尽。ギンガを射線から逃すことなく、上下左右を移動する。その様は正に疾風の如く。
 観客席で見ていたエリオが思わず感嘆を挙げる。

「……凄い。」

 それはエリオ・モンディアルの師であり保護者でもあるフェイト・T・ハラオウンをして、感嘆の溜息を吐かせるほどであった。
 逸材である。その成長速度は彼女の親友である女性を思い出させるほどに。
 彼は“あの”高町なのはと同じく天才と呼ばれる区分なのかもしれない。
 このまま成長していけば、彼女と同じく――エースと呼ばれるような魔導師にもなれるかもしれない。
 故に、無理をせずに頑張って欲しいと思った。
 無理をして、なのはのようには満足に戦えなくなって欲しくない。そう思いながら。

 話を戻そう。
 端から見ても紛うことなく非凡を見せつけるシン。対峙するギンガもこれまた非凡であった。
 以前、ガジェットドローンに使ったように多数のウイングロードを展開し、攻撃の場を広げる。
 今回はそれよりも一歩進んだカタチ。
 この戦いの場は模擬戦である。模擬戦である以上、この場所には限りがある。外界のような距離の限りがない場所で戦闘する訳ではないからだ。
 故にこの場は限定空間。その場において、速く鋭く動くことにどれほどの意味も無い。
 シンを注視し、その動きを探る。
 身体の動きではない。身体の各部位の動きを観察することで、次の動きを読み取る。
 何十回と繰り返された模擬戦でギンガはシンの考え方、思考パターン、追い詰められた場合の対処法等の情報を彼女はあらかじめ殆どを取得している。
 取得している以上、ギンガ・ナカジマの読みは的確だ。
 シンがどう鋭く動いたところでギンガは既にそこに向かっている。

 右へ動けば、自分は左へ。
 左へ動けば、自分は右へ。

 自分から離れるように、けれど射線は外さないように。そう動くシンの動きは悲しいかな、綺麗な円を描くようになり、行動予測があまりにも簡単になる。
 行動予測が簡単になってしまえば――彼女にしてみれば、それは止まっているのと同じこと。

「……」

 ギンガが踏み込む。
 その踏み込みに呼応し、その場から一旦退がろうとしたシンの背中が何か建物にぶつかる。

「くそっ!」

 それはビルだった。もはや誰もいない廃墟のビル。
 それがそこにあることをシンは知らずに退いてしまい、自分自身で逃げ場を無くす――無論、それはギンガの誘導による状況操作。
 ギンガが踏み込む。
 同時にブリッツキャリバーが急加速。
 シンの背筋に怖気が走った。
 紡ぐ言葉は危険を示すものばかり。曰く――逃げろ、と。
 ギンガが左拳を脇に仕舞い込み、構え、突き抜ける弾丸の如く疾駆。
 自身の左足に体重をかけるように踏み込み、その左足の動きに巻き込むようにして全身を突き上げる。
 狙うはシンの左脇腹。即ち五臓六腑の一つ――肝臓。

「もらいます……!!」

 言葉と共にギンガの左拳が轟と唸りを挙げ、疾走する。

「やらせるかぁあ!!!」

 シン、咄嗟に右手で引き抜いたフラッシュエッジをギンガの拳に向かって力任せに叩きつける。
 込める魔力に制御などしていない。ただその一撃を逸らす為だけに瞬間最大出力でぶち当てる。

「くっ」
「うおおお!!」

 衝撃の余波で二人の身体が離れた。
 その距離およそ20m。シンにとっては攻撃可能。ギンガにとっては一足で攻撃出来る距離では無い。
 彼女の足元のブリッツキャリバーが唸りを上げた。

「っ――!!」
『Mode KerberosⅡ』

 右手に大剣の柄から引き抜いた短剣、左手に大剣を変形させたケルベロスⅡを構え、制御出来る最大速度で一気に上空へ飛翔。
 そのままギンガの周りから離れるように飛行すると、左手のケルベロスⅡによる射撃を行う。
 無論、その射撃は攻撃を意図して行ったものでは無い。ただただ、離れる為の牽制。狙いも何もあったものではない。

「――トライシールド。」

 その魔力弾の雨を前に彼女は右手を掲げ、魔法防壁――シールドを展開し、疾走する。
 そして、状況は再び元に戻る。
 追う者と追われる者。
 シンにとってギンガの拳は致命の一撃。喰らえば即座に吹き飛び意識を失う危険極まり無い打撃だ。
 対するシンの一撃がギンガの意識を刈り取ることは無い。
 心中でシンは息を吐く。
 状況は絶望的。劣勢にも程がある。例えるなら戦車に向かって拳銃で挑むようなモノ。
 分が悪いどころではなく――勝とうと思う方がおこがましい。
 だが、それは当然のことだ。2週間前までの差。それをたかが2週間――14日間で埋められるなどとは思っていない。
 真っ当に戦えば負けるのは自明の理。だが――彼は、決して負けるつもりで戦っている訳では無い。

 彼の願いは唯一つ“守る”こと。負ければそんなもの全て奪われる。
 奇しくも八神はやてがギンガに言い放った――恐らく魔導師としては生きていけんやろうな、という言葉。
 それを彼はしっかりと認識している。
 聞いてはいない。
 だが、そんなこと、考えてみれば簡単に予想はつく。
 自分がBランク試験を受ける。それが、かなりの話題になっていることはシンも朧気ながら知っている。
 わざわざ一人の人間の為だけに、本来ならば年に数回と決まっている試験を無理矢理するのだ。反発も大きいだろう。
 そこで必要と成る時間、準備、資金を考えれば、どれだけ八神はやてが無理をしているかが見えてくる。
 その結果失敗した時どうなるのか、も。

 怖かった。
 自分がどうなるのか――死ぬとか生きるとかの話では無い。
 失敗した場合、折角見つけた目的を完全に奪い取られる話しになるかもしれない。
 そう思うと、怖かった。怖くて怖くて仕方なかった。
 もし負ければ、守ることが出来なくなり、結果自分は安寧として生きていくことになるのかもしれない。二度と戦うことなく。
 それは幸せな人生だ。今、自分が望む人生よりも余程真っ当で幸せな人生だ。
 だが、それで誰が喜ぶ?
 少なくとも自分は喜べない。そんな“幸せ”などこちらから願い下げだ。
 そんなもので自分は決して救われない。救われるはずなど無い。
 だって、自分には何も無い。守る以外に何も無い。それ以外に自分が生きていても良いとする理由は一つも無い。
 死んで無いし、死ぬことも許されない。
 だから、守らなくてはいけない――それはシンの中に根差した衝動。屑である自分が生きていても良いとする衝動。

 だから、考えた。必死に考えた。
 どうしたら、現状を打破出来るのかを、必死に考え抜いた。
 彼に残された手段はただ、勝つことのみ。勝たなければ“守る”ことさえ出来ない無気力に逆戻りする。
 それは、それだけは嫌だった。
 何度も考えた。訓練を重ねた。気絶するまでアロンダイトを振り続けた。開放と収束と変換を繰り返し続けて何度気を失ったか分からない。
 2週間の内、まともなベッドで寝た回数など数度だけだ。その他全て起きているのか、寝ているのか分からない状態だった。
 鍛えた。考えた。そして――見つけた。一つの策を。

「うおおおおおお!!!」

 ケルベロスⅡを途切れぬまま連射させ、ギンガとの距離をとにかく開かせる。疾風の如き動きに鈍りは無い。
 シン・アスカは、“その時”が近いことを感じ取る。
 自身がここまで身体を張ってかけ続けた“罠”が、身を結ぶ時。それが近いコトを。


 それは残り一週間を切った日のことだ。
 シンは珍しくベッドで眠ることが出来ていた――と言うか倒れて運ばれたところを108部隊の誰かに運び込まれたらしい。
 慣れたモノで誰も何も言わなかった。皆が口々に聞くのは、ギンガのこと。突然、険悪になった二人を108部隊の人間はとても心配していた。
 部隊員でも無いよそ者に対して、部隊全てが優しかった。

「……ザフトじゃこんなこと絶対無かったよな。」

 お人好し、なのかもしれない。この世界全てが。

「馬鹿か、俺は……いつっ!?」

 自分の発現の馬鹿さ加減に苦笑しようとして、腹筋がつりそうな程に痛かった。肉体は流石にギシギシと軋みを上げ、動かそうと思ってもまともに動きそうに無かった。

「だ、駄目だ。もう、寝よう。」

 そして、眼を閉じる――けれど、眠気は一向に襲ってこなかった。

「……」

 頭の中には何回も見た自分のデバイス「デスティニー」の姿があった。思い描くのはやはり、どうやって彼女に勝つか。それだけだった。
 シン・アスカの持つ銃剣型――“銃剣(バヨネット)”と言うよりも“剣銃(ガンソード)”と言う外見をしているが――非人格型アームドデバイス「デスティニー」。
 このデバイスに装備されている武装は4つ。
 柄の部分に刺し込まれるようにして収納されている「フラッシュエッジ」
 大剣として使用する「アロンダイト」
 刀身を砲身として利用する「ケルベロス」
 そして刀身を折り畳み、取り回しを改善し一発の威力を犠牲にして連射性能を高めた速射モード「ケルベロスⅡ」
 この4つの武装の内、鍵となるのは間違いなくアロンダイト。あの大剣の一撃のみが彼女にとっての脅威。
 だが、それは彼女も承知のコト。恐らく、そう易々と当たってくれる訳も無い。
 また、アロンダイトは取り回しが悪く使い勝手が悪すぎる。
 コレを使いこなすとすれば、何かの方法で「必ず当たる状況を作り出す」以外に無い。
 彼女の戦闘方法から考えれば行きつく答えは一つ。
 「距離を取って戦い続け、隙を見て突撃する」。コレに尽きる。
 彼女自身の弱点でもある「射程距離の短さ」を徹底的に尽く。そして、隙あらば、アロンダイトによる一撃必殺を敢行する。
 その際に、何らかの方法で彼女の動きを一瞬でも止めることが出来れば――勝機はまだある――否、それしかないと言っても良い。
 だが、どうすれば、動きを止められる?
 生半可な方法では無理だ。ケルベロスⅡによる射撃で動きを止められるかと言えば、あれは牽制程度の役にしか立たない。ケルベロスならば可能かもしれないがまず当たらない。
 故に答えは“ケルベロスくらいに威力があって直ぐに撃てる魔法。それがあれば、どうにかなる”ということだった。

「……そんなのあったら苦労しないよな。」

 そう、彼の言う通り、物事はそう単純な話では無い。そんな都合の良いモノがあるのなら、悩む道理は無い。

「……けど、待てよ。」

 だから、シンはそこで発想を変えた。そんな都合の良いモノが無いのが問題なのだ。ならば、無いなら――作れないのか、と。
 シン・アスカの現状。
 つまりギンガ・ナカジマが知るシン・アスカはデバイス無しでは攻撃方法を持たない魔導師だ。
 無論、誰しもそうだと言えばそれまでだが、少なくともギンガはシューティングアーツ・ウイングロードというデバイスに依存しない魔法を保持している。
 これは、差だ。シン・アスカとギンガ・ナカジマとの決定的な差。
 デバイスが無ければ何も出来ない自分とデバイスが無くとも何かが出来る彼女。
 彼女は模擬戦当日もそう思っているだろう。シン・アスカはデバイス無しでは魔法を使えない、と。
 なら――そこを突く事が出来たら?
 つまり、“デバイス無しでは魔法を使えない”という先入観を利用することが出来れば――それはこれ以上無いほどの奇襲になる。
 それは奇しくも“あの時”の自分と同じコトだ。
 未だ稚拙な魔力をただ垂れ流し炎として燃やし、叩きつけた自分。今思えば、自殺行為のようなものだと思った。
 けれど、あの鎧騎士はよろめいた。何故?大した威力も無かったであろうに。大したダメージは与えていない。けれど“よろめいた”。その理由。
 それは、

「……“知らなかった”からだ。俺が、魔法を使えるって。だから、予想外だったから反応出来なかった。だったら……」

 あの時、シンは魔力を纏った拳で殴りかかった。
 けれど、自分はあの時と同じでは無い。
 あの時はただ垂れ流すだけの魔力を今の自分は完全に制御出来ている。
 制御とは、抑え付けるだけのモノではない。逆に間欠泉のように噴出させることも可能なはずだ。だから、

「く……」

 ぶるぶると震える右手を持ち上げ、毎日繰り返している通りに、そして今までとは少し違うように、ソレを――収束と開放と変換を“同時”に行った。
 どうして、その時、そうしようと思ったのか。
 「奇襲」という言葉が元々の世界でシンの搭乗機であるデスティニーにだけ取り付けられていた“隠し武装”を連想させたからか。それともただの直感か。
 けれどもそれが答えだ。対ギンガ戦において、恐らく真に鍵となる魔法。
 それこそが、彼が今から“作り出す”魔法の名前。その名を――

「――パルマフィオキーナ。」

 呟く。同時に左手で右手を掴み、右掌の魔力をそれまでやったことも無いほどの“高密度”に収束し始める。

「……くっ、う、うう……!!!」

 それまで込めていた魔力を10とするなら、今こめている魔力はおよそ100。
 あまりの過負荷に全身の意識をそこに集中し、制御に一心に努める。ガタガタと右手が震え出す。全身から汗が流れ出す。

「……ううううう……!!!」

 収束は圧縮となり、それまでの明滅とはまるで違う輝きを放ち出し、真っ暗な部屋を照らし出す。
 それは太陽の如き眩い輝き。輝きは凄まじい勢いでその光度を増していき――霧散した。
 再び部屋の中は暗闇に舞い戻る。
 息を荒げ、シンは呆然と霧散していく自身の魔力を眺め、そして――最後にそれらを生み出した己の右手を見つめて、口を開いた。

「……いけ、る、ぞ。」

 その呟きと共にシンの意識も霧散した。


「うおおおおお!!!」

 シンの放つケルベロスⅡの魔力弾をトライシールドで掻い潜り、ギンガは次のシンの動きに思考を巡らせる。
 好きな男と戦わねばならないと言う心の痛みと裏腹に、思考は明瞭に彼の行く手を紡ぎ出し、彼女の肉体に行動を指し示す。
 シンが右に動く。その速度は鋭く速い。未だ動きは鈍っていない。そのスタミナと集中力は流石に卓越したモノがある。だが、

(予想通り、過ぎるんです、シン……!!)

 悲しいかな。シンが如何に速度を上げたところでギンガ・ナカジマのシューテングアーツの前ではまるで無意味に帰するのだ。
 ギンガが今シンを追い詰めているのはその卓越した洞察力である。
 洗脳され、ナンバーズとして戦っていた時のギンガには無かったものだ。
 そして、妹であるスバルにもその洞察力は存在していない。
 そして、現在のギンガですら、完全なソレを体得している訳では無い。
 完全なソレ――シューティングアーツを体得したのは彼女たちの母であるクイント・ナカジマただ一人。故にギンガは不完全に、スバルはそれすら知らないでいた。

 では、シューティングアーツとは何なのか。
 それは、立ち技系格闘技――言うなればキックボクシングやボクシングを魔法を使って発展させたモノである。
 それは魔導師としては規格外なほどに、“近距離特化”と言うリスクを背負う。
 魔法とは、すべからく“放つ”ものだ。故に魔法による戦闘は格闘技とはある程度距離を置くことを前提とする。
 無論、近距離を得意とする魔導師もいるだろう。八神はやての守護騎士ヴォルケンリッターのシグナムがその一例だ。
 だが、それでも彼女にも長距離砲撃魔法は存在する。戦術の幅を考えた際に最も求められるのは距離の幅であるからだ。
 近距離から長距離と言う戦闘距離を持つ者と、近距離のみの戦闘距離を持つ者であれば、必然的に前者が有利となるのは自明の理。
 ではそれを覆すことは出来ないのだろうか?
 無論、その答えは否だ。距離と言うものは絶対ではない。
 何故ならば、一撃が届かないのなら“届く距離まで近づけば良い”。一撃を避けられるのなら“避けられない状況を作り出す”
 それがシューティングアーツの発案者クイント・ナカジマ――ギンガとスバルの母親の見出した答え。
 シューティングアーツとは、それを覆す為にクイント・ナカジマが考案した、凡そ全ての魔導師の天敵と成り得る“武術”である。
 ローラーブーツ、ウイングロード。他に類を見ない――と言うか誰も好んで使用しないそれらはその為の鍵である。
 スバル・ナカジマは未だその深奥を知らず。ギンガ・ナカジマは未だ体現すること叶わず。
 シューティングアーツ。その全貌は多くは知られていない。
 だが――もし、それを体現するならば……稀代の砲撃魔導師高町なのはであろうとも苦戦は必死であろう。
 繰り返そう。
 シューティングアーツ。それは魔導師の天敵。即ちそのコンセプトは“魔導師殺し(カウンターマギウス)”。
 その前で、シン・アスカの高速など烏合の衆も同然。
 飛び回る彼を叩き落とすなど障害物を生かし、彼を追い詰める術を持つ彼女にとっては造作も無い。
 現に先ほどからシンはギンガの一撃から辛うじて逃げているに過ぎない。
 機動6課の面々も同じように思っているのだろう。同じく陸士108部隊の面々も。終わりは近い。誰もがそう、確信していた。

 ――戦っている張本人であるギンガ・ナカジマと審査官である八神はやて、そしてシン・アスカを除いて。

 八神はやては、不敵に微笑んだままだ。
 ギンガ・ナカジマは未だ警戒を解けない。
 その理由。それは、彼の――シン・アスカの目が未だに死んでいないからだった。
 未だギラつく彼の瞳は燃え盛る炎の如く、こちらを睨み付けている。

 ――胸が苦しい。あの瞳で射竦められるとどうしようも無いほどにココロが痛む。この場から逃げ出したくなる。
 以前の模擬戦ならばこんなことを思いはしなかった。彼を撃ち抜く拳の感触は、彼を強くしようとするための拳だった。純粋にそう思っていた。けれど、今は違う。
 私は彼を叩き落とす為、絶望させる為に、此処にいる。
 それが悲しい。本当に辛い。だが、

(そんなこと初めから分かっていた。分かりきってたことだ……!)

 放たれるケルベロスⅡの乱射を巧みに避け、ウイングロードを疾駆しながら、ギンガは僅かに顔を歪め心中でのみ叫んだ。
 そうだ、分かっていたことだ。シン・アスカと敵対するなら、こうなると。
 自分はそれを織り込み済みで彼と敵対したのだ。
 だから、振り切れ。情けは無用。審査官である八神はやては今もずっとこちらを見ている。手加減しないかどうか、を。
 ギンガははやてと一瞬だけ眼を合わせると決然と不敵に微笑んだ。

「……手加減なんか、しない……手加減なんか、するもんですか……!!」

 ケルベロスⅡを変形し、シンはアロンダイトに切り替え、突進する。
 突然、リズムを狂わせられたギンガの動きが鈍る。考え事をしていたのも関係しているのだろう。
 アロンダイトが迫る。それを上空に跳躍し、くるりと回転。
 彼女の上下が逆さまになり、既に展開していたウイングロードを足場に再び跳躍。向かう先はアロンダイトを振り下ろした状態のシン・アスカ。
 リボルバーナックルを振りかぶり、撃ち抜く。シンも同じくアロンダイトを振りぬいてそれを迎撃。
 弾ける魔力。そして状況は鍔迫り合い――この場合はぶつかり合いの方が正しい――に移行する。

「はああああ!!」
「うおおおおおお!!」

 裂帛の気合と咆哮の叫び合い。
 紫電と火花が舞い散る。赤の魔力と紫の魔力がぶつかり合う。拳と剣の力は互角――だが、ジリジリとギンガの左拳が押されていく。

「ううううおおおおああああ!!!」

 砕けろとばかりにシンが叫びと共に更に力を込める。
 釣り合っていた均衡が崩れる。
 全身全霊を込めて、シンのアロンダイトが“振り切られた”。
 凄まじい金属音を伴い、ギンガの左拳が後方に勢い良く弾かれた。

「――うそっ!?」

 驚きの表情を表し、ギンガは咄嗟に後方に跳躍し、距離を開ける。
 これまでのどんな模擬戦でも自分の拳は彼に届いた。また彼の剣は一刀足りとも自分には届かなかったはずだ。
 確かに、こうなるだろうとは思っていた。二週間という時間は彼が成長するには十分だとは思ってはいた。だが、いざソレを見せられると驚愕が勝っていた。

 彼の剣は彼女に今、届いた。
 彼女の拳は今、彼に届かなかった。
 シンの瞳が鋭くなる。一瞬ギンガの眼に浮いた驚愕。それを見逃さなかった。

「行くぞ……!!」

 シンが突進する。ここを勝負処と判断し突進する。その判断は正しい。
 これまで一度も退くことなど無かった彼女が“退いた”。それは、彼女にとっても予想外の事態なのだから。

「シン……!!」
「ギンガさん――!!!」

 稚拙な剣戟。けれどそこに込められた気持ちと迷い無く振るわれる剣はどんな技巧に勝る剣戟よりも、“彼女には”輝いて見えた。
 先ほどとは打って変わって守勢に回るギンガ。その剣戟の中で迂闊に攻撃などしようものなら即座に倒される――そう、直感して。
 ことここに至って、彼女は、認識を改める。
 シン・アスカは既に弱者ではない。自身を食い荒らさんばかりの強者だ。
 そこに込められた想いは本気。馬鹿げた願いを叶える為に紡ぎ挙げた想いは心の底から本気なのだ。
 本気の想いに対しては、本気で応える。
 ――そう、手加減など真実不要。全力を出し、その上で彼に敗れる。その願い。それは決して叶わないものではない。それが、今此処に見えた。朧気ながら確信を持てた。
 だから、

(全力で、貴方に挑みます。シン・アスカ――!!!)

 もし、彼がここで自分に叩き潰され、絶望に落ちると言うのなら、自分は全身全霊でその責任を取ってみせる。
 もし、彼がここで自分を超えて、はるかな高みへ羽撃(ハバ)たいていくというのなら、自分は是が非でもそれに追い縋る。
 馬鹿で無謀と嗤われようと、胸の想いは止まりはしない。
 退く道など非ず。在るのは彼を想い従うこの道のみ。
 それは通常の女人が抱く恋とは懸け離れた苛烈極まりない恋慕。
 だが、恋する乙女は、ギンガ・ナカジマはそんなコトに気付きはしない。
 何故ならば、恋する乙女は常に猪突猛進究極無比。その理に従うなら、周りが見えないなど至極当然であるが故に―--!!

「ナックル――!!」

 ギンガのリボルバーナックルが紫電を伴い、回転する。

「アロン――!!」

 シンのアロンダイトが炎熱を伴い、赤熱する。

「バンカー――!!!」
「ダイト――!!!」

 三度、拳と剣が激突する。
 空気が帯電し、衝撃が旋風となって周囲を駆け巡る。
 退かぬ女と男の鍔迫り合い。

「シン・アスカアアアアッッ!!」
「ギンガ・ナカジマアアアアッッ!!」

 両者が、自身の得物を“振り抜いた”。
 瞬間、爆発が起きた。爆風が吹きぬける。その場にいた皆の髪を揺らし、空気が振動する。
 片方が押しやられる訳ではなく、互角であるが故にぶつかり合いによって空間に留まった魔力が行き場を失い爆発した。
 その衝撃で二人の距離は再び離れた。
 そして――シンの瞳が変わる。
 何かを狙っているような瞳から、何かを決意したような瞳へと。燃える炎は、射抜く矢となり、ギンガを見つめる。
 そして、ギンガもそれに気付く。彼が、何かを仕掛ける気なのだと。

「……アスカさん、狙っとるな。」

 八神はやてがシンの瞳の色が変わったことに気付き、呟いた。

「はい。恐らく次の一合に勝負を賭けるつもりなのでしょう。」

 シグナムもそれに続く。
 歴戦の勇士たる彼女もまたそれに気付いていた。

「……シグナムはどうなると思う?」
「……言いにくいことですが、ギンガの完勝ではないかと。」

 主が執心する人間に対する態度ではないかとも思いながらシグナムは返事を返した。
 けれど、恐らく自分の意見はここにいる大多数――否、全ての意見であるとは思っていたが。

「ヴィータは?」
「あたしも同じ。見込みはあるけど、まだ早いぜ、アイツには。」

 あっさりとそう言い放つヴィータ。
 後方のシャマルも同じく頷き、犬の姿のままのザフィーラも頷く――と言うか、ワンと吼えた。恐らく「私もだ。」と言いたいのだろう。

「やっぱ、そう思うんやな。」

 はやては、自らの家族でもある彼らの意見を聞いて、そう答えた。
 その口調には諦めと寂しさと……そして、少しだけ期待が込められていた。

「主はやては……違うのですか?」

 シグナムははやての言葉に込められたソレに気付き、怪訝な顔で聞き返す。

「私は……もう少し、見てるわ。まだ、分からんよ。」

 だが、はやてはソレについての返答を避けた。まだ、答えるべき時期ではないと。

「主はやて?」
「はやて……?」

 シグナム。ヴィータ。
 二人が同時に怪訝な顔をする。
 はやては、それに取り合うことなく観戦に集中する。
 ――シン・アスカはギンガ・ナカジマを超える。
 その一抹の期待に賭けて。

「……行きます。」

 シンが、呟いた。
 これまで、基本的には逃げに徹していたシンが真正面から突進してくるというのだ。
 先ほどのように流れが向こうにある訳ではない。一度流れが切られた以上、現状はそれまでと同じく距離を取るのがベストだと言うのに。
 そして、その呟きと同時、ギンガが構えた。
 その構えは、これまでとは違う構えだった。右手を下げ、左手を顎の辺りにまで上げ、僅かに身体を前傾した構え。ボクシングで言えばデトロイトスタイルに近い。
 今のギンガに油断は無い。手加減も無い。突進してくると言うのならば、簡単なことだ。
 正面からカウンターで撃ち貫くのみ。故にこの構え。これはギンガにとって最もカウンターを放ちやすい構えである。

「……」

 無言でシンが走る。速度はこれまでで最高。振りかぶったアロンダイトにその速度を上乗せして一刀の元に切り伏せるつもりなのだろう。
 だが、甘い。
 如何に最高の速度とは言え、直線的過ぎる。そんな攻撃はカウンターを合わせてくれと言っているようなモノだ。
 落胆が生まれる。
 シンはその表情を見逃さない。落胆すると言うことは彼女は“罠”に気付いていない。
 速度を緩めることなく、シンは突進する。

「――アロンダイト。」

 言葉と同時に刀身が赤熱し、振りかぶったソレを叩き付ける。
 そしてアロンダイトが振るわれるよりも僅かに速く、構えたままのギンガが身体を動かし始める。
 シンの肉体に一撃を撃ち込む為にタイミングを計り、そして交差に向けて全身を動かす瞬間――違和感を感じ取る。

(――変だ。)

 別に何があったと言う訳ではない。強いて言うなら虫の知らせ。そんなレベルだ。そんな小さなレベルで何かが伝えている。
 危険だ、と。
 それは近づくことでシンの瞳の内面に気付いたからか。シンの瞳の内面に確かに見える。“罠に嵌めた”愉悦に。
 そこで気付く。
 シンの右手が既にアロンダイトを“掴んでいない”ことに。
 彼は両手で振りかぶり、両手で振り抜く振りをしながら、ギンガがカウンターを始める僅かに数瞬前に右手を離していた。
 左手一本で振りかぶったアロンダイトは狙いを保つことなど出来ず、既にあらぬ方向に向かって振り抜かれ始めている。
 そして自由になった右掌が、しっかりとギンガに向けて狙われていた。

「っ――!!?」

 ギンガは、“見た”。シンの掌に集まる赤く輝く小さな光球を。
 魔力を変換し収束し、自身の限界まで圧縮し、そして生まれた魔力球の一部分のみを開放させ、間欠泉のような勢いで炎熱の魔力を撃ち放つ。
 それが今、正にギンガの眼前に展開されている。
 カウンターを狙っていたのはギンガだけではなかった。
 シンもまた彼女がカウンターをしてくると読み切って、それにカウンターを合わせる腹積もりだったのだ。
 罠とはこれだ。彼は身体を張って、彼女の意識をアロンダイトにのみ集中させた。シン・アスカの切り札はアロンダイトしかない。そう“思い込ませる”為に。
 シンの口が開く。今、打ち放たれるそれこそが、シン・アスカがこの2週間で作り上げた近接“射撃”魔法

「パルマ――フィオキーナ!!!」

 朱い光球が爆ぜた。威力は申し分無い。それはその名の如く、“掌の槍”として彼女を貫くだろう。
 だが、ギンガ・ナカジマはその只中にあって、未だ諦めてはいない。
 繰り返すが乙女とは猪突猛進究極無比。
 この程度の障害で終る訳にはいかない。何故なら、彼女もまた“切り札”を出していなかったのだから。
 そして、シンがその魔法を放つ寸前、ギンガが叫んだ。

「ブリッツ――キャリバアアアアッッ!!」
『Calibur shot, Maximum.Cartridge overload!!』

 ブリッツキャリバーが応える。言葉の意味は一つ。それは一人の女が全身全霊を放つ為に決めた言葉。
 リボルバーナックルが回転する。カートリッジが高速で3発連続リロード。
 彼女の身体はそれまでよりも更に一歩踏み込み、左腕を振りかぶるような態勢へと無理矢理に移行する。
 身体を前傾させた、背負い投げのような構え。それは身体ごと全身の全ての力を叩き付ける全力の一撃を意味する。

「リボルビング――」

 言葉を紡ぐ。自身の切り札。
 洗脳されて敵となり最愛の妹と殺しあったその怒り。
 二度と負けないと誓ったその信念。
 そして、初恋であるが故に限りを知らないその恋慕。
 それら全てを織り交ぜた一撃。それが今、全てを穿ち貫く。
 それはスバルですら見た事が無い、この数ヶ月でギンガが編み出した新たな魔法。
 背負い投げでもしようというほどに前傾した構え。

「ステ――ク!!!!!!」

 叫びと共にギンガの左手に収束し、回転し、形作られるソレは正しく杭(ステーク)。
 その正体は積層型シールド。つまり、トライシールドを幾重にも張り出して形状変化させ、回転させたモノ。
 カートリッジをリロードすることによって魔導師は一時的にその魔力量を増加させることが出来る。
 だが、リロードした瞬間の魔力量は吹き上げるマグマのように、落ち着いた状態の魔力量よりも少しだけ大きい。
 ギンガはそれを利用して攻撃の瞬間にリロードを連続で行い、魔力量を極端に上げたのだ。
 瞬間的な量のみの話ではあるがはそれは凡そオーバーSランクの魔力に匹敵する。
 それによって形作られる杭(ステーク)。それは回転し螺旋の流れを生み出し、魔力の流れを強制的に拡散させていく。
 その前では如何なる威力の魔力砲撃であろうとも、螺旋の流れの前に穿ち拡散し、用を為さない。
 シンの放ったパルマフィオキーナもその前に拡散し、意味が無い。迫り来るその拳を押し留めることすら出来ない。

「くっそおおおおっっ!!」

 我武者羅に魔力を注ぎ込むシン。だが、右手から噴出した朱い間欠泉はその流れを粉砕され、無意味に他ならない。
 絶望感が押し寄せる。
 負ける。
 自分は此処で負ける。

(こんなところで俺は終るのか。)

 そして、拳が到達する。
 ――瞬間、脳裏で何かが弾け散る音がした。同時に胸の奥で、何かがドクンと鼓動した。


「……終わりだね。」

 フェイトは観客席で小さく呟いた。
 終わってみれば、結果は当初の予想通りにギンガの勝利。実際にギンガは最後こそ危うかったがそれでも力押しで彼を倒した。
 その差は本当に紙一重。あの一瞬の攻防の天秤が僅かにでも彼に傾いていればギンガの勝利は無かっただろう。
 それは膝を付き、息を切らしている彼女を見れば一目瞭然だった。

「……ギンガ?」

 戦いは終った――はずだ。あの後シンはギンガの一撃を喰らい、吹き飛ばされた。
 如何に非殺傷性設定とは言え、あの一撃は死にはしないにしても相当の痛みを伴うはず。だから、彼女は直ぐにでも救護班が駆けつけると思っていた。
 だが、当の本人であるギンガが未だに彼の方に視線を向けている。そして、バリアジャケットを解く気配が無い。
 そして、親友である八神はやても同じくそれを止めようとする気配が無い。

 ――あの瞬間、フェイトからは角度の関係で見えなかったのだが、シンはギンガの拳が当たる瞬間、自身の飛行制御を完全に解除していた。

 パルマフィオキーナほどの威力の攻撃を支え無しで放てば当然使用者の――シンの肉体は放出方向とは逆に吹き飛んでいく。
 限界まで膨らんだ風船に針を刺せばあらぬ方向に飛んでいくのと同じ理屈だ。
 あの瞬間、シンはそれを行った。
 拳が当たった瞬間、自身の飛行制御を完全に解除し、パルマフィオキーナの勢いそのままに後方に自ら吹き飛び、地面に激突した。
 その為、殆どの人間がギンガの一撃によって吹き飛んだと勘違いしたのだ。
 ギンガは吹き飛ばされた方向を見据える。
 まだ終わってなどいない。
 シンはリボルビングステークを避けられないと悟るとその威力を少しでも“殺す”為に、自ら後方に飛んだ。
 地面に叩き付けられる衝撃とギンガの拳。そのどちらが致命的かを一瞬で判断し、躊躇など一切無く実行した。
 その判断。その行動。諦めることが無い為に行うその無茶苦茶。
 八神はやては笑顔を隠しきれない。
 シグナムは驚きを隠しきれない。ヴィータもまた同じく。
 その無茶苦茶は、あの、化け物に相通じるものがあったから。
 シンが激突したことで上がっていた噴煙が晴れていく。
 そしてギンガはそこに見つける。
 自身の思い人を。

「……シン。」

 シン・アスカが幽鬼の如くそこに立っていた。



[18692] 第一部陸士108部隊篇 9.決着
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 12:11
 世界は残酷だ。
 ――家族を奪われた。

 人々は残酷だ。
 ――守りたかった人を奪われた。

 何もかもが残酷だ。
 ――未来を託してくれた友を奪われた。
 振り返ってみれば、その全てが残酷だった。
 けど、一番残酷だったのは本当は誰なのだろう。


 そこは暗い場所だった。暗い、暗い、光など通さぬ闇の底。
 その中に自分がいる。落ちていく自分がいる。

 ――これは、夢か。
 シンはその光景が現実ではないことを悟る。現実の自分は今、ギンガ・ナカジマに吹き飛ばされたはずだから――半分は自分から吹き飛んだ訳だが。
 だからこれは夢だ。
 その夢の中にあって彼は自分自身に深い落胆と――切実な絶望を手に入れていた。
 運命は変えられなかった。
 3ヶ月間必死に頑張ったつもりだった。けれど、届かなかった。
 確かにたかが3ヶ月間の訓練で一流の魔導師に勝とうなど甘い話しだ。だからここで終わるのは別に拙いコトではない。それを誇るコトなど決して出来ないけれど、ある意味それは最も正確な対応なのだろう
 何故なら、この結果は至極当然。“当たり前”の出来事なのだから。
 だから、ここが終わり。この結果が、自分にとっての一つの終わりだった。

「……ちくしょう。」

 暗い闇の中。彼は瞳を閉じた。
 意識が、落ちていく。更に深奥。負け犬の人生へと。
 見えたのは幾つもの自分。
 無様に負け続け、失敗してきた自分だった。
 何度も何度も誰かを失ってきた自分。そしてそれと引き換えるように何度も何度も数え切れないほどの人間を殺してきた。
 決して等価交換とは言えない、交換だ。
 そして、その果てに辿り着いた結論は、自分には力しか無いと言うこと。力を振るって守ることしか出来ないと言うこと。

 ――そして自分は力を奪われた。
 元の世界を弾かれて此処――異世界ミッドチルダに来たコトで。
 そして、そこでも力を求めた。けれど、それももう終わり。負け犬はここで終わるのだ。いつだって、自分は誰も守れないのだから。
 自分を猟犬と呼ぶ者もいた。

 ――それは間違った見解だ。自分は猟犬などではない。“負け犬”なのだ。
 伸ばした手はいつも届かない。また、それが繰り返される。
“また”守れない人生が始まる――。

「あ、あ、あ……!!」

 声が漏れた。哭き叫ぶ声。
 狂ったように声を上げて哭くシン。
 自分は、救われない。
 もう、“決して”救われない。
 決して救われることなく諦観と絶望の人生に突き進む。
 安寧と平穏の人生など、彼にとっては煉獄と何ら変わらない……文字通り針のムシロそのものなのだから。

 そして、頭の奥。心の最奥。意識の深奥。そこで――何かが弾けた。そして、同時に自分の胸にあった“何かが眼を覚ます”。
 そして、いつも近くにいた――そう感じていた暗い人影が一つが“弾け飛んだ”。
 まるでシャボン玉が破裂するように。そして弾け飛んだ“ソイツ”は無数の光となって、飛んでいく。
 手を、伸ばした。
 行くな、と。おいて行くな、と。
 けれど――その手は届かない。光はシンの制止に構わず飛んでいく。
 同時に感じ取る暖かな温もり。それは粉雪のように儚く消えて、彼の中に染み込んでいく。
 涙が流れる。理由は分からない。けれどそれは“流すべき涙”。シン・アスカにとって大切な涙。

 ――行こう、お兄ちゃん。
 そんな声が、聞こえた気がした。 


 その日、シャリオ・フィニーノは機動6課の隊舎内で待機していた。
 本当は今日行われる模擬戦を見に行きたかったにも関わらず、だ。
 だから、正直暇でしょうがなかった彼女はいつも通りに機械弄りをしていた。
 ザクウォーリア。
 異世界の機動兵器。半壊し、スクラップ同然だったそれを引き取って解析を行っていた。
 異世界の技術は彼女にとっては未知なることばかりで、眼を輝かせて取り組むことが出来た。

 その日も彼女はいつも通りに、解析しようとして――おかしなことに気付いた。
 “勝手に動いている”のだ。
 動力は落としてある。更には本来、魔法が関係ない純粋な機械であるソレは動力なしで動くなどというコトが発生するはずもないのだ。
 燃料のないエンジンは動かない。魔法だとて出来ないであろうその所業。
 在り得るわけがない――だが、目前で起こる現実として、ソレが起こっていた。
 起こっている以上は現実なのだ。現実である限り覆しようはない。
 呆然とそれを見やるシャリオ。
 その時、ブツン、と画面が、消えた。唐突に始まった異常は同じく唐突に消えた。
 再び電源が落ちたのだ。

「……何が、起きてたの。」

 薄ら寒いモノを感じながらシャリオは呟く。まるで狸に化かされたような……幽霊にでも出会ったかのような悪寒を感じ取って。
 ――彼女は知らない。コックピットシートに残されていたピンク色の携帯電話。電池が切れ、放置され、半ば壊れていたソレ。ザクウォーリアが起動していた時、それが“何かを通信中だった”ことを。


 ――機動6課隊舎内で起きたザクウォーリアの自動機動と同時刻。
 陸士108部隊訓練所。
 吹き飛ばされ、叩きつけられ舞い上がった噴煙の中で、シン・アスカのデバイス「デスティニー」。
 デバイスが言葉を示す画面。それが、静かに動いていた。シン・アスカの意思とは無関係に。
 目まぐるしく動いていくその画面。そこに映る文字はあまりにも高速すぎて確認出来ない。
 そして、画面が消え――数瞬の間を空けて、再び輝いた。
 デスティニーの画面がそれまでとは違う形の文字を映し出す。
 それまでは通常の文字だったモノが――少しだけ丸みを帯びたどこか女性らしさを強調する文字へと。
 文字は一文ずつ現れ、そして消える。その回数は7回。
 即ち――

『Gunnery』
『United』
『Nuclear』
『Deuterion』
『Advanced』
『Maneuver』
『System』

 ――その言葉自体には意味は無い。
 意味があるのは言葉の意味ではなく、その言葉そのもの。
 それは、ZGMF-X42S……すなわちデスティニーのOSの名称である。
 シンの肉体に血管のような“赤色の輝き”が生まれる。それは回路のようにシンの全身を覆い尽くし――そして、消えた。
 デスティニーの液晶画面に、再び文字が現れた。その回数は5回。
 即ち――

『Renewal completion pro-movement(動作系書換完了)』
『Nervous system connection completion(神経系接続完了)』
『An optimization start pro-operation(操作系最適化開始)』
『The power fixation completion(魔力定着完了)』
『Wake up ,brother. And you stand ,and fight.(起きなさい、兄弟。そして立って、戦いなさい。)』

 人格の無いはずのデスティニーが“喋った”。
 聞いた事もない電子の声。怜悧冷徹で、人間らしさなど欠片も無い――けれど、それはどこか誰かを思い起こさせる。
 それが誰なのかは既に過去の彼方。よく分からないけれど。
 シン・アスカはその声に導かれるように立ち上がった。


 幽鬼の如く立ち尽くすシン。バリアジャケットは所々が破れ、真紅のソレは埃を被って、白く染め上げられている。
 満身創痍。接近して確認するまでもない。シン・アスカは既に限界だ。
 だが、

「……ギンガ?」

 フェイトが呟く。あろうことかギンガ・ナカジマはその姿を見て、カートリッジをロードし、再度構えを取った。
 戦いはまだ終わっていない。そう、言わんばかりに。

「ちょ、ちょっと待ってよ、ギンガ!!」

 フェイトが観客席から身を乗り出し、ギンガに向かって叫んだ。

「もう、勝負はついてる、これ以上は単なる虐待にしか――」
「……弱くないんです。」
「え?」

 ギンガが答えた。答える声はか細く、脆く。けれど、

「これで終わるほど、シン・アスカは弱くない――彼を侮らないでください。」

 言葉に秘めた想いは決してフェイト・T・ハラオウンには理解出来ない。何故なら、彼女はシン・アスカを“知らない”からだ。
 シン・アスカを本当の意味で知っているのは、この場において、ギンガ・ナカジマと八神はやての二人――支えようとする者と利用しようとする者。その両極端な二人だけだった。だから、彼を止める資格があるとすればその二人だけ。

「……ギンガ、どうして、そんなことを……」
『ええんやな、ギンガ?』

 呆然と呟くフェイトを尻目にはやてはギンガに向かって念話を送る。

「はい。」

 返される声は平然としたモノだった。

『……分かった。』
「はやて、どうして止めないの!?」
「試験官がやめへんて言うてるのに止める訳にもいかんやろ。それに……私もこの程度で終わるとは思ってないんや。」

 フェイトは口ごもる。はやての表情。それがこれまでにないほどに愉悦に歪んでいる。

「はやて……?」
「見てみい、フェイトちゃん。シン・アスカを。」
「シン君を……?」

 はやての言葉に従い、フェイトはシンを見る。そして、絶句した。
 その異形に声を失った。

「何が……起きてるの。」

 シンの肉体が輝いている――否、正確には光が走り回っている。
 右手に携えたデスティニーを大基として、シンの肉体にまるで電気回路のような形で光が走り回っているのだ。
 光はシンの肉体全てを走りぬける。
 服の上からでも分かるほどに明滅が分かるその輝き。
 それは凡そ確認されているどの魔法にも類似しないモノ。

「狂った炎は羽金を切り裂く刃となる、か。」

 シンの肉体を走る赤い光――回路上に輝くその光。それは鼓動を刻むようにシンの全身を明滅しながら走り抜ける。
 そして、魔力が膨れ上がる。感じ取る魔力量。その量がどんな“意味”を持つのか。
 歴戦の勇士たるシグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ、そして八神はやて、過去、蒐集行使を繰り返していた彼らだけがそれに気付いた。
 シン・アスカの増加した魔力量。それが凡そ一般的な人間一人分の魔力量。リンカーコア一つ分とほぼ同量だと言うことに。
 その意味にまでは気付かなかったが。

『Wake up ,brother. And you stand ,and fight.(起きなさい、兄弟。そして立って、戦いなさい。)』
「デスティニー」の画面にその文字が映し出され、そして消えた。

 同時にシンの身体中を走り回っていた光が消える。
 シン・アスカの閉じていた瞳が開く。
 焦点を失った瞳。幽鬼の如き立ち姿。そして、“あり得ざる意思”を持ったデバイス。

「……行く、ぞ。」

 声の調子は満身創痍。肉体も同じく。
 されど、煮えたぎる意思だけは決して冷めることなく。
 ――“シン・アスカとデスティニー”の戦いが始まる。


 戦いは、それまでとはまるで違う様相を見せていた。
 シンはそれまでと同じくアロンダイトによる突進を行う。その表情は悪鬼羅刹の如く歪み切っている。
 焦点を失った眼はそれを覆い隠す役割を何らしていない――それどころか彼の異常さを際立たせるのにさえ貢献している。
 鈍い金属音を響かせ、両者が激突する――そこでギンガは気付いた。シン・アスカの動き。
 それが吹き飛ばされる前と、吹き飛ばされ立ち上がった後でまるで“違う”と言うことに。

「アアアアア!!!!!」

 獣の如き咆哮と共に振るわれるアロンダイトの連撃。
 嵐の如きそれを左拳の一撃で弾き、右手に発生させた幾重にも折り重なり、翼のような外見をした小規模積層型トライシールド――リボルビングステークに使用されている技術である――によって捌きつつ、ギンガは心中で呟いた。

(これ、は……!?)

 戸惑うギンガ。
 弾いた左拳が衝撃で痺れる。
 捌こうとして、速度が間に合わなかった右手に痛みが残る。
 吹き飛ばされる前は決してそんなことはあり得なかった。
 確かに積層型トライシールドこそ彼の前で今始めて使ったものだ。
 今それを使用したのは純粋に速度が間に合わなかったからだ。回避よりも捌くべきだと言う判断によるものだった。
 これまではそんなモノを使う必要は無かったのだ。全て回避できていたから。何故なら彼の剣戟は稚拙だが気持ちの篭った剣戟。
 そう、“稚拙”だったのだ。
 それが今はどうだろうか。その動きはもはや怜悧冷徹。強靭且つ俊敏でありながら精緻極まりない機械の如き動き――かと思えば次の瞬間、元の獣の如き動きと成り変わり、そして機械に舞い戻る。
 稚拙且つ精緻。荒ぶる獣でありながら、冷徹な機械。
 矛盾した二つの動き。シンの動作はその狭間で揺れ動く。

(一体、何が……!?)

 心中の言葉通り、これで戸惑わない方がおかしい。同時に、それはギンガにとっての危機をも意味する。
 前述した通り、シューティングアーツとは洞察力と戦闘の組み立て、そして鍵となる魔法を使うことで距離の差を埋める“武術”である。

 シン・アスカの動きがこれまでとまるで違う――それは再び情報の取得を行わなければならないと言うことだった。
 彼女が守勢に回るのは何もシンの速度が上がったからという訳ではない。それまでとはまるで“違う”からだ。違うからこそ彼女は守勢に回り、情報の取得に全霊を込めるしかない。
 シンの身体に起こった異変――それが何なのか、と心を乱しながらも。
 あの回路上に走りぬけた光が影響を与えている。それは分かる。だが、“それ”が何なのかまでは彼女には分からなかった。
 だから、彼女は戦いながらも祈るしかなかった。
 それが単なる杞憂であることを――シン・アスカの肉体が“変質している”などありうるはずがないと祈りながら。
 そんな彼女を気にすることもなくシンは剣を振るい続ける。
 シン自身、自分の動きが――身体が変化したことには理解していた。そして、その動きが“何の動き”なのかも。
 現在シンが行っている動作、その動きの根幹にあるのは“ZGMF-X42Sデスティニー”の動作パターンである。
 つまり、シンは今、正に“ZGMF-X42Sデスティニー”に乗るようにして戦闘を行っているのだ。

 ――以前、語ったことではあるがザクウォーリアのOSとはつまり“ZGMF-X42Sデスティニー”のOSである。シン・アスカの反応速度を生かす為に元々のOSから書換えたモノである。
 デバイス「デスティニー」はあの瞬間、ソレをザクウォーリアから“受け取った”。
 如何なる意思が働いたのか、如何なる力によってか。それは“今は”誰にも分からない――だが、それは起きた。
 そして「デスティニー」はそれをシン・アスカの肉体に付着し、その結果としてあの回路の如き光が走った。

 MSと言う機動兵器の動作パターンである以上、実際の人間が使うような応用性がある訳では無い。
 動きを書き換えたところで、人間の動きと機動兵器の動きは決して相容れないモノだ。
 機械の動きは人間の動きに辿り付けない――その絶対原則は決して超えられない。
 “だから”、それを一瞬一瞬ごとに最適化していっているのだ。“ZGMF-X42Sデスティニー”のモーションパターンを“根幹”として。
 元より、斬撃武装として作られた“ZGMF-X42Sデスティニー”のモーションパターンは余人では辿り付けないほどに高度なモーションデータを使用している。斬撃を放つための理想的な動き――達人の動きを。

 そして、それはアロンダイトによる斬撃だけではない。フラッシュエッジの投擲や動きそのものへの干渉。
 それらの、“理想的な動き”の内、彼にとって必要なモノ、不要なモノをデバイスである「デスティニー」が取捨選択し、彼の身体の動きを“書き換え”、彼にとって最も最適なカタチへと最適化を施していく。
 その動き。それは“ZGMF-X42Sデスティニー”に記録される以前の“達人の動き”である。
 そして“書き換えられた”動きは現在のシン・アスカにとって正に理想そのものと言った最強の動きである。

 ――だが、理想であるが故にその動きは限界を超えることをシンに強いるのは自明の理。
 身体と骨格が軋みを上げる。
 剣を振るう度に身体のどこかがギシギシと唸りを上げ、全霊の一撃はそれだけで筋繊維を少しずつ断裂していく。
 それはあくまで凡庸であるシン・アスカの斬撃を理想の斬撃に塗り替えていくことへの反動である。
 そして、断裂していく筋肉を無理矢理繋ぎ止めていく跳ね上がった“自動治癒術式”。
 増加した魔力が余剰魔力となり、それを燃料としてデスティニーに納められていた“自動治癒術式”がシンの肉体を癒していっているのだ。

 身体の節々から立ち上る蒸気は断裂する度に繋ぎ止められていく筋繊維が生み出す蒸気。
 デスティニーとは機動6課において作成されたデバイスではあるが、その設計図や使用する魔法については管理局の上層部――カリム・グラシアから直接機動6課に渡されている。
 故にデスティニーにその術式を納めたのはデバイスを作った人間ではなく、デバイスを設計した人間となる。それが誰か、など考えるべくもない。
 カリム・グラシア直属の部下ギルバート・グラディスである。
 シンやはやてはそんな事実を知らない。知るはずも無い。
 シン・アスカは与えられた武器に意見を言う人間ではなく、八神はやては与える武器の持つ意味を知らぬまま、デスティニーを使用した。
 その流れは全てカリム・グラシアとギルバート・グラディスの計画の通りである――だが、彼らもこんな状況は予測していなかった。デバイスに突然意思が宿り、“使用者の肉体の動作系を書き換える”などと言う“世迷言”は。

 ――剣を振るえばブチブチと筋肉が千切れ、千切れた端から肉体は再生を繰り返す。
 血切れる痛みと繋ぎ止められる痛み。
 シンの表情が悪鬼の如く歪むのは、怒りでも悲しみでも無い。ただ単純な話し、脳髄にまで到達せん勢いのその痛みによってだった。
 けれど、シンは止まらない。止まることを知らないからではない。
 止まってしまえば、躊躇してしまえばその瞬間全てが終わる。それを知っているからこそ、シン・アスカは止まらない。暴走列車の如く、突き進む。
 だが、それでようやく互角。
 シンの連撃は未だ彼女に当たらない。完全に守勢に回ったギンガの防御をシンは未だ切り崩せないでいる。そして、それが長引けば長引くほどに彼女の防御は完全に近づいていく――ギンガ・ナカジマの情報の取得がシン・アスカの進歩を飲み込んでいくのだ。
 当初はズレていた捌きのタイミングも今はもはやコンマ数秒のズレさえない。

「くっそ……!!」

 一合ごとに壊れ、無理矢理に繋ぎとめられていく身体。それでも突き崩せない高き壁。
 その前でシンの心は剣を振るうごとに折れそうになる。
 膝を付きたくなる衝動が我慢しきれない。
 痛みに震える身体を休めたい。

 自分は勝てない。届かないモノに憧れたから。
 自分は負ける。分不相応な願いを抱いたから。
 あの時――あの赤い無限の正義に敗れた時――と同じく自分はまた、負けるのだ。
 焦燥は絶望となり、彼に停止を促す。
 止まれば、ここで止まってしまえば自分は“楽になれる”のだ。

(――違う)

 楽になどなれるものか。
 安寧とした人生。幸福な人生。昔、当たり前にそこに在ったモノ。
 けれど、守れなかった人達が、守りたかった人達が、そんなことを望む訳が無い。
 望みは一つ。守ること。全てを守り、彼らのような人々を二度と生み出さないこと。
 世界の平和などどうでもいい。目に映る人々を全て守って守って守り続けるただそれだけ。
 大剣と鉄拳が激突した。衝撃が全身を襲い、痛みが激増した。
 割れんばかりに奥歯を噛み締め、必死に耐える。
 刺すような激痛の生理的な反応として涙が零れそうになる――いや、零れた。
 涙を零しながら剣を振るうその姿は正に無様。正に敗者。
 けれど、それでも彼は止まらない。
 無様で構わない。敗者で構わない。負け犬で構わない。
 守れるなら、一生をソレに捧げることが出来るならばソレで良い、と。
 決然と瞳を燃え上がらせ、赤き瞳の異邦人は、諦めることを選択しない。
 止まることなど、初めから選択肢に存在しないのだ。

(――考えろ、シン・アスカ。)

 速度はこれ以上上がらない。技術もこれ以上、上がらない。
 だが、彼女の防御を突き崩すには“今のまま”では駄目だ。
 今よりももっと速く、もっと強くなければ駄目だ。
 ならば、どうする。今までのように“出し抜く”のではない、“追い抜く”為にはどうすればいい?
 脳裏を覆う全能感と共に澄み切った思考も未だに消えていない。
 そして彼の思考は、剣戟を繰り返す肉体と離別したかのように冷静に加速し、考えを繰り返し続け――その方法を閃く。

 それはあまりにも簡単な基礎の応用。けれど、恐らくこの世界の誰もが気付くことは無い方法。
 MS戦闘を行い続けた自分だけが辿りつく解答。
 必要となる“その魔法の規模”は極小規模。故に詠唱も不要。増加したが故に魔力量に不安などあるはずもない。
 だが、思った通りの結果が得られるのか。そして、限界に差し迫るこの身体が果たしてもつのか。
 正直、不安材料にはこと欠かない。だが、それでもやらねばならない。
 それは正に賭け。伸るか反るかの大博打。
 逡巡は一瞬。
 そして、シンは決断する。それを使うことを。

 ――発生地点を操作し、アロンダイトの峰の部分に設定した極小規模のパルマフィオキーナを。

「行けええええ!!!!」

 叫びと共に赤い間欠泉がアロンダイトの峰で“噴き出した”。その様はMSならば必ず存在するバーニアそのもの。
 そう、シン・アスカはパルマフィオキーナをあろうことか、“スラスター”として利用したのだ。
 そんな思考はこの世界の人間には出来はしない。何故なら、宇宙空間における機動戦闘などこの世界の人間にとっては真実無縁であるが故に。
 そして、“噴き出した”瞬間、振るわれたアロンダイトが“加速”した。

「速い……!?」

 左拳での迎撃が間に合わず、ギンガの左手はアロンダイトの一撃で彼女の身体ごと吹き飛ばされた。
 好機来たり――シンがアロンダイトを構え、跳躍。地面と並行に飛行し、空中を正に弾丸の如く疾駆する。

「そんな真っ正直な攻撃で……!!」

 右腕の小規模積層型トライシールドをアロンダイトの予想斬撃角度に対して、斜めに構え、アロンダイトの斬撃をトライシールドで“滑らせて”捌く。
 大剣を振り下ろしたその状態は大きく態勢を崩し、正に絶好の好機そのもの。
 間髪すら入れることなく、右手の捌きと完全に連動した滑らかな流水の如き動きで彼女の左拳が放たれる――そして、シンの姿が掻き消えた。
 ギンガの左拳が空を切る。ぞくりと肌が粟立つ。

「――!?」

 ヒュン、と風を切り裂く音がした。即座にその場から一も二も無く離脱するギンガ。
 彼女がそれまでいた場所をシン・アスカの斬撃が振りぬいていったのだ――それも背後から。
 見れば、彼の身体のそこかしこが黒く煤で汚れていた。バリアジャケットが、熱量に耐え切れずに焦げ付いたのだろう。
 熱量――それは、パルマフィオキーナの熱量である。
 今、シンは小規模のパルマフィオキーナを全身の至る所から“放ち”、無理矢理に自身の肉体を動かしたのだ。
 アロンダイトを振り下ろした姿勢。
 そこから足裏から“発射したパルマフィオキーナ”によって無理矢理、真上に跳躍し、そして連続した肩からの“発射”によって彼女の背後に移動。
 肩からの“発射”によって態勢を大きく崩し、脳天から地面に激突するような態勢から再びアロンダイトの峰からパルマフィオキーナを発射。
 そうやって、シンはギンガに向かって、無理矢理にアロンダイトを振り抜いた――むしろ激突させた。
 そして本来なら頭から地面に激突し、首の骨を折っていてもおかしくない状況であったにも関わらず、遺伝子に刻みこまれたSEEDと言う名の度を過ぎた集中力によって拡張した知覚は、態勢を崩しながらも何とか着地に成功させる。

「……ゲホッ、ゲホッ!」

 咳き込むシン。急激な加速がシンに与えた影響は甚大だ。
 足裏からの発射は発射点である足裏、そして膝や腰に大きな負荷をかけ、連続して行われた肩からの発射による移動は足裏の時と同じく発射点である肩に甚大な痛みを与え――足裏からの移動と伴って、彼の内臓を大きく揺らし、乗り物酔いのような状況を作り出す。
 吐き気と胸焼け。そして、先程よりもはるかに強く痛み、ギシギシと軋み出す肉体。満身創痍の肉体は限界へと確実に一歩近づいた。
 だが、それでもシンはそんな辛さなど欠片も見せずに、戦闘に没頭する。

 ガキン、と音がした。鈍く、そして馬鹿みたいに大きい、金属がぶつかり合う音。
 何度も何度もこの決戦場に響き渡った「拳」と「剣」のぶつかり合う音だ。
 戦闘は止まらない――否、シンが用いたパルマフィオキーナの高速移動。それを切っ掛けに二人の戦いは“加速”する――。
 シン・アスカは小規模パルマフィオキーナによる残像すら生み出さんばかりの高速近接戦闘。得物はアロンダイトとフラッシュエッジの二刀流による高速連撃。

 対するギンガ・ナカジマは左手のリボルバーナックルと右手の小規模積層型トライシールドによる全てが全力の一撃必殺近接戦闘。
 短剣と蹴りが交錯し、大剣と鉄拳が激突する。

 ギンガのリボルバーナックルが唸りを上げてシンの腹部に激突する――寸前、シンは小規模パルマフィオキーナで独楽でも回すような動きで身体の向きを無理矢理右に回転させ回避。そして、回転した勢いのままギンガに向けて右手でアロンダイトを振るう。
 ギンガが振るわれたアロンダイトを小規模積層型トライシールドにて捌き、その動きに合わせるように右足を跳ね上げる。
 狙いはシンのコメカミ。ブリッツキャリバーの加速によって放たれる蹴りは意識を断絶するには十分すぎる。
 左手に持っていたフラッシュエッジでシンは無理矢理弾く。捌くような余裕は存在しなかった。衝撃で態勢が崩れる。腰が落ち、後ろに寄りかかるようになったその態勢では攻撃手段は無い。防御手段も無い。一度立て直さなければ何も出来ない。
 リボルバーナックルが唸った。必殺の一撃。喰らえば意識は無い。

 シンの瞳が燃え上がる。まだだ、と言わんばかりに咆哮。そして同時にフラッシュエッジ、アロンダイト。両の手に持つ得物の峰から同時に小規模パルマフィオキーナを発射。その二つを全力で絶対に離さない様に握り締め、“振り抜いた”。シンを支点にしてフラッシュエッジとアロンダイトはハサミのようにギンガを左右同時に挟み込む。

 それを後方に反り返るようにして回避し、右足を跳ね上げるギンガ。狙いはシンの顎。
 シンは後方に倒れこむことでその一撃を避ける。紙一重。刹那の差で眼前をギンガの左足が通り抜けて行った。
 僅かに距離が開く。両者の身体が動く。そのタイミングは同時。

 そして――激突。交錯は止まらない。
 二人が戦っている場所は先ほどから殆ど変わっていない。だが、それにも関わらず二人は一瞬たりとて同じ場所には位置していない。
 上下左右前後。目まぐるしく動くシンとギンガ。その攻防が一瞬ごとに入れ替わる。
 極小空間にて行われる疾風怒涛。
 過熱し、赤熱し、白熱する男と女。
 その様は正に座して動かぬ竜巻の如く。

 大剣による一撃必殺と短剣による高速連撃。

「うおおおおおおおおお!!!」

 ――振るう刃が剣嵐(ケンラン)ならば。

 それを捌き、弾き、唸る一撃必殺の拳の雨。

「こんなものでええええ!!!」

 ――荒ぶ拳は驟雨(シュウウ)の如く。

 今、此処にシン・アスカとギンガ・ナカジマは肉薄していた。


 ――シン・アスカは強い。
 異常な成長速度。
 常識を超えた発想。
 その身が秘めているであろう何かしらの秘蹟。
 だが、それら全てを除外したとしても彼は強い。
 その心根は、折れぬ曲がらぬ無毀(ムキ)の剣。決して刃毀れなどしない――したとしても、その逆境すら飲み込んで彼はきっと“超えて行く”。
 ストライカー。立ち向かう者。それがスバル達に求められた資質である。
 では、シン・アスカはそれなのか?
 否。断じて否。
 シン・アスカは立ち向かう者に非ず。
 彼は足掻く者だ。
 ドブ泥に塗れようと、絶望に落とし込まれようと、何もかも失ったとしても。
 彼はそれでも足掻き続ける。
 ありとあらゆる全てを利用し、僅かな可能性に縋り付き、何度失敗しても、諦めないと駄々を繰り返して足掻き抜く。
 故に彼は“ストラッグラー(足掻く者)”。生き汚さだけに特化した生粋の戦士である。
 男と女のぶつかり合い。
 その横で、二人の女の胸中にも複雑なモノが蠢きだしていた。


「……なんて――凄いんだろう。」

 疼き始めていた。彼女の心の奥底で、これまで一度も動かなかった気持ちが。
 フェイト・T・ハラオウンはいつの間にか、手に汗を握りながら、観戦している自分と――そして、いつの間にか“彼”を応援していた 自分に気付いた。
 それは何故か。
 立場上は中立である。そして、試合が始まるまではどちらが勝つかなどあまり興味があることではなかった。

 ――彼女はシンを知らなかったから。
 なのに、今は心情的にはシンに勝って欲しいとも思う。
 それは先ほどのギンガの発言が気になったから?
 違う。フェイト・T・ハラオウンはそんな狭量な人間ではない。彼女は純粋無垢が故の強さを“生まれ持った”閃光。
 作られた人間であるが故に、誰よりも人間の善性を信じ抜く人間である。

 ――それはシン・アスカとはまるで真逆。彼は人間を信じてなどいない。
 信じていないからこそ、守ることに命を懸けたいのだ。信じるべきは人間の善性ではなく悪性だと考えているから。
 だから、彼女は彼を応援しているのかもしれない。
 自分には無いものを持った彼を――自分は今、好ましく思い始めている。
 話したことなど僅かに数時間。だから彼女は彼を知らなかった。彼の内なる苛烈さを。
 だが、今、彼女は“見た”そして“知った”。朧気ながらも――知ってしまった。
 胸が疼く。心臓の鼓動が大きくなる。

 ――20年と言う人生の中で一度も感じたことの無い鮮烈な気持ち。
 その胸に疼く思いは如何なるモノか。
 その頬を熱くする想いはどこから来たのか。
 そして、この胸の鼓動は何を意味するのか。
 彼女には分からない。経験したことなど一度も無いが故に決して理解など出来ない。
 金色の乙女の――その胸の奥で、今、一つの心が疼き始めていた。
 それはカタチなど持たない、曖昧なモノでしかないけれど。


 八神はやての胸は、痛んでいた。
 目前で繰り広げられているシン・アスカとギンガ・ナカジマ。両者の迷い無き剣と拳のぶつかり合い。
 それを見て、思ったのだ。

 ――自分は薄汚れてしまった、と。
 別にその汚れは決して誇れないものではない。むしろ誇って然るべきものだ。
 世界を救うと言う大望。その為に利用できるものは何であろうと利用する。それは間違いではない。
 だが、と思うのだ。
 自分が利用しようとしているあの男――シン・アスカ。
 その戦いぶりは苛烈である。奇襲を行うなど模擬戦という舞台には相応しくないほどに勝利――いや、彼の場合は“守る”ことか――に拘る姿勢。そして自分自身の身などまるで省みない戦い方。
 それは、戦闘力ならば6課でも下から数えた方が速いと自認する彼女にとっても“輝いて”見えたから。
 自分自身を省みない戦い方と奇襲は届かないモノに届く為の試行錯誤の表れ。
 そうまでして、彼は守ることに拘り続けている――今も、まだ。
 その姿は自分を苛んでいく。
 決して自分を省みないその生き様。
 誰かの為にと身体を張って戦うその苦しみ。
 それがあまりにも自分とは食い違っていたために。

「……・っ」

 胃が痛む。罪悪感が再びせり上がってきている。
 だが、それを鉄の精神力で押さえ込むと八神はやては決然と戦いを“見た”。

(……地獄の果てまで、付き合ってもらうで。シン・アスカ。)
 
 ――鋼鉄の乙女は、再び鎧を身に纏う。自身の意思を隠し、“強くなる為に”。


 剣と拳が離れる。
 竜巻の如き闘争は互角のままに終了し、二人は一度その場を離れた。
 両者の目に灯るは決意の輝き。
 それを見て、シグナムが呟く。

「……これが最後だろうな。」
「ああ。」

 ヴィータが返答を返す。
 二人の意見は同じもの。疲労困憊のギンガと満身創痍のシン・アスカ。
 両者の肉体は既に限界に近づいている――シン・アスカは既に限界を超えていると言っても良いのだが。
 先ほどまではギンガが圧倒していた。だが、何があったのか、シン・アスカの力は戦っている内に成長していった。
 その速度は凄まじく、数多の戦いを超えてきたヴォルケンリッターである二人ですら見たことが無いほどだった。
 ――だが、それでも未だギンガ・ナカジマが有利なのは動かない。
 ギンガには防御や攻撃をそれごと破壊し撃ち貫く一撃――リボルビングステークが存在するが故に。互角では適わない。届かない。
 それが、シグナムとヴィータ、二人の見解だった。
 だが、二人はある種の期待を覚えるのを抑えられなかった。
 先ほど増加した、一人分の魔力量。そしてその後の爆発的な成長。幾重にも絡んだ要因と、その要因を全て抜き去った部分で二人は思った。
 赤い瞳の異邦人“シン・アスカ”。そんな簡単にこの男は終わらない。終わらせない、と。


 ブリッツキャリバーに向かってギンガが呟く。

「ブリッツキャリバー、リボルビングステークはあと何回撃てる?」
『One bullet(あと一発です。)』
「――十分ね。」

 確認を終えるとギンガは構えを取った。
 対するシンも同じくデスティニーに呟く。

「……勝つぞ、デスティニー。」
『Exactly(当然です。)』

 味も素っ気も無い回答にシンは苦笑を浮かべる。
 シンはデスティニーに意思が宿ったことに対して不思議と違和感を感じていなかった。
 そして、そのデバイスによって身体機能を書き換えられたと言うことを理解していながらも、それに対して恐怖も無かった。
 不思議な話し、デスティニーは自分にとって害となることを“決してやらない”。そんな確信を持っていたから。
 それは――デスティニーに何か懐かしいモノを感じ取ってしまったからなのかもしれない。
 ギンガが構えたことを見て取ると、シンもフラッシュエッジを収めてデスティニーを振りかぶる。
 脳裏に浮かべるのはこの交錯で勝負を決める為の考え。
 どの道、これで終わる。
 自分に、もはや余力は無い。
 故にこの一撃が最後。間違いなくこれが最後の交錯。
 最後である以上、現時点で自分が出来る全身全霊を込めて、彼女を超える。
 そして、その意見はギンガも同様だった。
 言葉はもはや不要。

 ――ギンガが駆け出す。ブリッツキャリバーが唸りを上げる。
 ――シンが撃ち放つ。ケルベロスから朱い光が放たれた。

 ギンガは放たれた朱い光に対して突進した。速度を止めることなく、着弾の瞬間にそれを避け懐に入り込むつもりなのだろう。
 シンはギンガの動きを確認するとデスティニーに二本収納されているフラッシュエッジの内、一本に手を掛け、抜き放ち、弧を描くように投擲した――投擲の瞬間をケルベロスから放たれた光に紛れ込むようにタイミングを計って。
 放たれたフラッシュエッジは大きく弧を描くように飛んでいく。その軌道はシンが設定したモノだ。彼女の視界の端を“舐めるように”飛んでいけ、と。
 そして、ケルベロスを彼女が避け、そして加速する。ギンガは大きく腕を振りかぶり、リボルビングステークの準備をする。
 無論、ブリッツキャリバーは全く足を止めない。突進し、その勢いそのままにこちらに撃ちこむつもりなのだろう。

「リボルビング――!!!!」
「させるかぁああ!!」

 シンは全速力でギンガがリボルビンステークを完成させる“前に”彼女に向かって突進していった。
 リボルビングステークとは魔法の天敵である。
 完成してしまえば、その前では如何なる魔法であっても無意味となって拡散する――だが、それは完成した場合の話だ。
 魔力を収束し、回転することでリボルビングステークは天敵足りうる。
 その前段階であるならば、決して魔力を拡散させることは出来ない。
 故にリボルビングステークの弱点とは突進。
 こちらから距離を近づけ、鍔迫り合いに持ち込むことが出来ればリボルビングステークは、“破れない”までも“止める”ことは出来る。

「くっ……!!」
「うおおおお!!」

 ギシギシと軋みを挙げる二人のデバイス。

「はああああっ!!」

 押し合いに勝利したのはギンガだった。裂帛の気合と共にシンが後方に吹き飛ばされる。
 そして距離が開き、ギンガは再度、リボルビングステークを打ち放つ準備をする。

 ――ここだ。
 振りかぶったその隙を逃すことなく、シンは残されたもう一本のフラッシュエッジを抜き放ち、アロンダイトをギンガに向かって、“投擲”した。

「――“飛べ”……!!」

 投擲されたアロンダイト――つまりデスティニーは飛行の魔法を付与され、投擲ではありえないほどの速度に加速する。
 そして、同時に先ほど投げたフラッシュエッジがギンガに向けて飛来する。
 右斜め上空から飛来するフラッシュエッジと真正面から飛来するアロンダイトによる二点同時攻撃。
 だが、そんな程度の奇襲で破れるほどギンガ・ナカジマは甘くない。

「そんな、奇襲で……!!」

 リボルビングステークを解除し、ギンガは目前のアロンダイトに狙いを変更。生半可な捌きなどではこれは捌けない。故に、打撃を以って迎撃するのみ。

「ナックル……バンカー!!」

 左足の踏み込み。そしてその踏み込みの力に下半身を連動させ、左拳を突き上げ――鈍い金属音を放ち、アロンダイトが弾き返された。残った右拳に展開したトライシールドで上空から飛来するフラッシュエッジを弾き返した。

 ――そして一瞬で二点を同時に撃破したギンガはそこで今度こそ驚愕する。
 アロンダイトと同じ軌道でフラッシュエッジが既に迫ってきていたからだ。
 シンはアロンダイトを投擲した瞬間、あらかじめ抜いておいたもう一本のフラッシュエッジをその背後に連なり、アロンダイトの影に隠れるようにして“投擲”したのだ。ギンガの眼にはフラッシュエッジが突然現われたように見えたことだろう。完全なる奇襲。
 だが、

「まだ、終わりじゃ――ない……!!」

 両手は既に使用済み。手は無い。だが、両手は使えなくとも足がある。
 こんなもので終わらない。ギンガ・ナカジマは未だ終わりを認めない。

「はあぁっ!」

 右足を力任せに振り抜いた。その一撃はフラッシュエッジを弾き、今度こそギンガ・ナカジマの回避は成功する――。
 そして、その後方、ギンガがフラッシュエッジに意識を集中し、弾き返したその後ろからシン・アスカが突進していた。

「シ、ン。」

 腰溜めに構えたシンの右手が赤熱している。
 その姿は紛うことなくある魔法を意味する。その魔法の名はパルマフィオキーナ。

「――っ!」

 ギンガはそれを見て咄嗟に振り上げた右足を振り下ろし、シンに向かってカカトを落とした。
 ――そして、シン・アスカが加速する。
 迫る一撃を完全に無視して前に進む。あえて左肩で受け止めた。
 今、この一瞬を逃すことに比べれば左腕など安いものだ。そう、思って。

「ぐ、ぎぃ」

 カカトが当たった肩に痛みが走りぬけた。ヒビ、もしくは骨折くらいはしたのかもしれない。
 ――恐らく左腕は死んだ。もう、アロンダイトを持つことは出来ないだろう。
 だが、構わない。それでいい。それは全て承知の上。
 何故なら、今、この瞬間、必要となるのは右手の掌のみ。その為にここまで全てを“放り出した”のだから――!!!

「パルマ――」

 残った全魔力を炎熱変換し、右手に注ぎ込む。赤く光るも炎は出ない。収束した魔力は赤色の魔力光を放ちながらシンの右掌の中心で光輝く。
 シンの右手が無防備なギンガの右胸に触れる。ギンガは咄嗟にその右手を叩き落とそうとするが間に合わない。

「――フィオキーナ!!」

 瞬間、魔力光の間欠泉が吹き上げようとする――が、ギンガに右手を叩き落された結果、制御を狂わされ、収束した朱い魔力光は、吹き上げることなく、“爆発”した。

「――」
「――」

 ――閃光が爆ぜた。
 空気が振動し、爆煙が立ち昇り、決戦場を覆い隠す。
 誰も動けなかった。
 動こうとしなかった。
 誰もが見入っていたから。
 そして――煙が晴れていく。

「……シン、君」

 金色の乙女が呟いた。

「アスカ、さん」

 鋼鉄の乙女が呟いた。
 赤い瞳の異邦人――シン・アスカがそこに立っていた。膝を抱え、倒れそうになる寸前になりながら。
 ――観客席からは分からないが、シン自身立ち上がれたことに驚きを隠せなかった。
 歯を食いしばり、笑う膝を両手で押さえ込み、そして全身全霊の力で立ち上がった。
 そして、前を見る。ギンガ・ナカジマの吹き飛んだ方向の煙は未だ晴れていない。

「……」

 胸の鼓動が収まらない。
 今、彼の心には二つの怖さがあった。
 一つは最初から今まであった恐怖。
 即ち――負けてしまうことへの恐怖。敗北し、終わってしまうことが怖い。彼女が立ってきたならば余力など欠片も無い自分は終わってしまう。その確信があったからだ。
 もう一つ。それは今、初めて生まれた気持ち。今まで気付くことのなかった気持ち。
 もし――眼を覚まさなかったら?
 非殺傷設定は継続している。だが、非殺傷設定とは万能ではない。所詮は人間の作り出した技術。神ならぬ人間が作り出した技術である以上は万能でなどあるはずも無い。
 それが、怖い。ギンガ・ナカジマが眼を覚まさない――彼女が、いなくなることが怖いのだ。
 その気持ちが何なのか。シンは考えたくは無かった――否、考えられなかった。
 “その気持ち”を持った時、自分はその気持ちを抱いた相手をいつもいつもロクな目にあわせていないから――だから、その気持ちについて、何も考えたくはなかった。
 けれど、そんなシンの理性を無視して恐怖はシン・アスカの鼓動を早まらせ――そして、煙が晴れた。
 シンはその方向を凝視する。
 そこには――座り込んだままのギンガ・ナカジマがいた。
 その表情はシンが思い描いたどんな予想とも違う晴れやかな笑顔で。

「――貴方の勝ちです、シン。」

 その笑顔にシン・アスカはしばし、見惚れていた。
 そして、すとん、と腰を落とし、床に寝そべった。

「……やった。」

 シン・アスカは、ギンガ・ナカジマに勝利した。
 叫びを上げることも、勝ち名乗りを上げることも無い。
 全身全霊を尽くしたが故に、そんな力はどこにも無かった。
 ただ、一つ、彼の右拳。それだけがしっかりと握り締められていた。


 しばらくして、八神はやてがシン・アスカの場所に降り立った。
 座り込み、休んでいるシンに向かって右手を伸ばす。

「おめでとう……アスカさん……いや、これからはシン・アスカって呼ばせてもらうな。」
「八神、さん……・そうですね、そうしてください。」

 そうして、立ち上がると、身体がふらついた。
 そこを横から新たな手がシンの身体を優しく抱きとめるように差し伸ばされ――彼に肩を貸すようなカタチになる。
 新たな手の主。それは金色の髪をした女性――フェイト・T・ハラオウン。

「おめでとう、シン・アスカ君。そして……これからよろしくね。機動6課はキミを歓迎するよ。」

 何故か頬を染めながら、彼に向かって自己紹介をしつつ肩を貸すフェイト。
 その笑顔は柔和であり金色の月の如き輝き。男ならば真っ先に頬を染めるであろう、その笑顔。
 だが、シン・アスカはその顔を見て必死に考えていた。
 曰く、「正直、どこで会ったか分からない。」
 恐らく、ここまで親身にしてくれる以上はどこかで会っているのだろう。

「アンタは……」
「私はフェイト・T・ハラオウン。覚えてないかな?」

 その名前でシンの記憶が繋がる。

「ああ……病院で会った金髪の人か。」

 味も素っ気もない――それどころか、水っぽさすら無いその回答。
 フェイトは苦笑しながら肩を貸して、彼の歩く手助けをする。
 八神はやてはその後方で、親友のそれまでに無いような行動に呆気に取られながら――無茶苦茶、邪悪な微笑みを浮かべた。
 唇を吊り上げ、瞳をにやけさせ、擬音で伝えるならばまさに「ニヤリ」。

「何があったかは知らんが……これはまた面白いことになりそうやな。」

 呟くはやて。
 そして、フェイトに置いていかれたエリオとキャロは呆然としていた。

「……フェ、フェイトさん、いきなりソニックムーブ使っちゃったね。」
「ど、どうなってるんでしょうか、エリオ君。」

 純真無垢な子供は知らなくても良い事柄だ。
 特にこの二人は既に“出来ちゃってる”ようなものであるが故に、その内知るに違いない。
 そうして、シンはフェイトの手を借りて歩き、彼女の前まで歩いてきていた。
 彼女、ギンガ・ナカジマの前に。

「……」

 先ほどとは打って変わって申し訳なさそうにするギンガ。
 そして、シンは手を伸ばす。
 言葉を添えて。

「……なんて言っていいのか……分からないんだけど、俺は、アンタと戦えて、良かった、と思う。」

 たどたどしい言葉。恐らく本人も何を言っているのか分かっていないに違いない。

「シン?」
「アンタが――ギンガさんがいたから、俺はここまで来れた。だから――えーと、あの」

 何が恥ずかしいのか、シンは一瞬、口ごもり、

「これからも、よろしく……お願いします。」

 その声はか細く、小さな声で。
 先ほどまでとは打って変わったその姿にギンガは小さく苦笑し……彼の右手を取って、呟いた。

「……こちらこそ、これからもよろしくお願いしますね、シン。」

 そして、彼女はシンの手を“思いっきり”引っ張った。
 シンの肉体は満身創痍。誰かに支えてもらわなければ、歩けないほどに。
 そこを思いっきり体重をかけて引っ張ればどうなるか。

「ギンガさん、ちょ、どい……ん――!!?」
「え、ちょ、ん、ん――!!??」
 重なるようにして二人は倒れた――正に流れるように、狙ってこれが出来るかどうかというほどの流麗な動きで“シンの唇はギンガの唇に押し付けられた”状態で。
 そしてこれで終わりではなかった。
 あろうことかギンガのバリアジャケットの胸の部分にシンの右手が触れ、ギンガのバリアジャケットが舞い散っているではないか。
 ――そう、パルマフィオキーナが直撃した部分がボロボロに破れ散っていた。
 どうしてか。簡単だ。
 パルマフィオキーナは炎熱変換した魔力の収束発射。
 先ほどはギンガの妨害によって集束爆散になってしまったとは言え、その直撃を受けた代償としてバリアジャケットは焦げてボロボロになっていたのだ。
 シンの右手が偶然そこに押し付けられて、“破れる”くらいには。
 そのままシンの右手は桜色の突起が輝くギンガの胸に吸い込まれるようにして、接触。

「―――」

 水を打ったように辺りが静まり返った。
 現状を整理しよう。
 シンの右手はギンガの胸を押さえつけるように――しかも外気に晒された素肌の上を触っている。
 シンとギンガの顔は瞳と瞳が触れ合うほどに近づき、唇と唇が触れ合っている。
 ああ、そうだ。シン・アスカは何と、ギンガ・ナカジマの「おっぱい」を触っているのだ。
 見ようによっては揉んでいると言っても良い――否、既に揉んでいた。
 こう、むにゅっと。
 そしてその状態でシンとギンガは唇を触れ合わせ、キスしている。
 一瞬、固まる二人。そして硬直するその場にいた全員。
 シンは現状を理解できていないのか、呆然としたまま唇を触れ合わせている。
 フェイトはあまりの状況の変化に思考が追いついていないのだろう。呆然としっかりと見つめていた。
 はやては抑えきれないのか、口元を押さえて笑いを堪えている。
 そして、当のギンガは――何というかこう、“うっとり”していた。
 どれほどの時間だったのか、本人同士にしてみれば、数分にも数秒にも数時間にも感じられるほどに長い時間のようにも感じられていた。
 シンがギンガからばっと離れた。顔は赤く、冷や汗が流れ落ち、表情は狼狽しきっている。
 直ぐに自分の上着を脱ぐと呆然としているギンガの胸を隠すように被せ、頭を下げる。

「す、す、す、すいません!!!俺、ホントわざとじゃ、いや、ゴメンナサイ!!!すいません!!」

 平身低頭。地面に頭をこすり付けんばかりに土下座を繰り返すシン。
 何せ年頃の娘の唇を奪い取った挙句に、胸を触って揉んで――しかもその胸は素肌の上……いわゆる生乳だ。殆ど犯罪者である。
 捕まるとかどうとかではなく、シン・アスカはひたすらに罪悪感で頭を下げ続けた。
 ――その狼狽は彼女の心を理解していないが為の狼狽なのだが。
 彼女は床に座り込んだまま――シンにかけてもらった服と謝り続ける彼を見つめながら、呆然としていた。

 胸/揉まれた=シンに触られた/赤い瞳が綺麗/でも駄目私たちまだそんな/でも私シンなら……/あれ、これファーストキスだよね、ワタシ/初めてがシン/初体験/ピンク/やばい無茶苦茶嬉しい/皆に見られた

 情報が錯綜し、次元跳躍し、思考が天も次元も突破して――ギンガの思考はパンクする。

「……ぐすっ」

 泣き出した。じわっと涙が広がる。
 それは喜んでいるのか、悲しんでいるのか、まるで定かではない泣き笑い。
 彼女はあの時を思い出したのだ。
 彼と決別した二週間前の“あの日”。あの日の始まりもこうだった。
 ――やっと、戻ってこれた。
 そう、その涙は喜びの涙。ただただ、シン・アスカと――想い人とまた元に戻れた、その喜びの。

「ああ、ちょっ、泣かないでください!ギンガさん!!」
「うっ、うっ、うう、うわああああああああん!!!!」

 抑えきらなくなったのか、ギンガは今度こそ大声を上げて子供のように泣き始める。
 対するシンはオロオロとして、どうすればいいのか分からないと言った有様だ。

「ほ、本当にごめんなさ、へぶらっ!?」

 突然、横合いから入った一撃で吹き飛ばされるシン。

「ギン姉を、ギン姉を泣かせたなああああ!!!!」

 金色の瞳。白いバリアジャケット。右手にはリボルバーナックル。
 そこには鋼の鬼神――スバル・ナカジマがいた。

「痛って……い、いや、アンタ、誰ってうおおおおおお!!!?」

 訳も分からぬ一撃に驚き、食って掛かろうとして――先ほどまで嫌というほど味わったリボルバーナックルが目に入った。

「問答無用――!!」

 繰り返すが、シン・アスカの肉体は限界を超えている。だが、その限界を超えて本能が叫んでいる。
 危険だと。彼女の目は本気だ。本気の目だ。

(逃げろ)

 シン・アスカは一目散に逃げ出した。
 ――でも、多分無理だよな。
 そう、確信じみた思いを持ちながらも。


 姉に狼藉を働いた――あの瞬間のギンガの顔を見れば狼藉なのかどうかは微妙なラインではあるが――シン・アスカを追い掛け回すスバルを尻目に、ティアナ・ランスターはとりあえず、ギンガのフォローに回ることにした。
 ――そして、そのことを彼女は直ぐさま後悔することになるのだが。

「ギンガさん、大丈夫ですか?」
「や、やっぱり、子供は二人くらいよね?」

 赤面して、ぼうっとして、夢うつつのような表情で、“何の脈絡もなく”突然彼女の口から飛び出した言葉にティアナは、思わず鳩が豆鉄砲食らったような顔をしてしまう。

「……は?」

 訳が分からない。何がどうなって、子供という単語が出てきたのか。
 だが、猪突猛進究極無比の乙女はそんなティアナの困惑など知ったことかとばかりに話を続ける。

「……は、初めてはやっぱり結婚式の初夜で……いや、でもいきり立つリビドーを抑えられない二人は……」

 頬に手を当て、いやんいやんと言わんばかりに身体をゆらすギンガ。
 正直、ぶっ壊れてました。

(怖っ! ギンガさん、怖っ!!)

 メーデーメーデー。ワーニンワーニン。
 ギンガさん、乙女回路発動中です。当社比150%増しで乙女中。もはや止められません。

「う、うふふふふふ」

 うふふふ、と恐らく傍から見てる分には綺麗な笑顔をしながら――思わず身体を引いて、硬直するティアナ。
 正直、怖すぎた。

「ギ、ギンガさん!?ギンガさん!?しょ、正気に戻ってください!!」
「……はっ!?」

 身体を揺らされながら必死に叫んだその一言でギンガはようやく正気に舞い戻る。

「わ、私、今、何を……」
「だ、大丈夫ですから。と、とにかく気を落ち着かせて……あの人も今頃スバルが……ってスバルゥゥゥゥ!!??」

 二人がそちらに眼をやると、壁際にシンを追い詰め、右手を腰溜めに構え、左手を突き出したスバル・ナカジマの姿があった。
 その構え。それはスバルの代名詞にしてパルマフィオキーナと似て非なる“近接砲撃魔法”。

「だから!アンタは誰なんだ!」
「一撃!!!必倒――!」

 切なるシンの叫び。だが、そんなことはもはやどうでもいいと言わんばかりに、青く輝く光が大きく膨れ上がる。

「ディバイィィィン!バスタアアアアアアァァァ!」
「人の話を聞けええええ!」

 そして――放たれた閃光はシン・アスカの意識を今度こそ刈り取った。
 最後に思ったことは一つだけ。

(ああ、もう、どうにでもしてくれ。)

 まな板の上の鯉――それはそんなヤケッパチな思いだった。


「これで、君は合格や――って聞いてないな、これ。」

 八神はやてがその光景を見ながら、予め用意してあった合格通知書を再び鞄に仕舞いこむ。

「……はやて、シン君はいつから機動6課に来るの?」
「まあ、ボロボロになった身体を治してからやから……一月後くらいかな?」
「一ヵ月後、か。」
「……ま、そんなに気に病まんでもええよ。悪いようにするつもりはないし。」
「はやて?」
「……ちゃんと見ててな、フェイトちゃん。あいつはフェイトちゃんの下につけるつもりやから。」
「シン君を……?」

 八神はやてはフェイトの言葉に答えることなく、シンをただ見つめ続ける。
 その視線は厳しい――少なくとも、彼女達に向ける視線とは一線を画す厳しさを秘めている。

「はや……」

 フェイトが口を開いた。はやての視線があまりにも厳しくて――どこか寂しさを漂わせていたから。
 けれど、言葉は届く事無く後方から上がった声にかき消された。

「フェ、フェイトさん、エリオ君が!?」
「へ?」
「エリオがどうしたの、キャロ?」

 予想もしなかった人間の名前。
 キャロの声には切迫した調子が込められており――フェイトとはやては直ぐに現場に直行――そして、呆れてしまった。
 そこには鼻血を垂らしながら、地面に寝そべるエリオがいた。

「エリオ君!エリオ君!?」

 そんなエリオを必死に揺さぶるキャロ。
 だが、悲しいかな。その揺さぶりは彼にとって余計に鼻血の噴出を促すだけの結果に終わり――それでもキャロに鼻血が飛ばないように両手で必死に抑えるあたり、エリオ・モンディアルは紳士なのだろう。
 一言、呟き地に伏した。

「……ピ、ピンク……きゅう」
「エリオ君――!!」

 二人が繰り広げるその惨劇。
 フェイトとはやては溜息をついて呟いた。

「……刺激が強すぎたんか?」
「エリオにはまだ早いって言うか早すぎたんだよ。」

 それは正に道理であった。



[18692] 第二部機動6課日常篇 10.女難と接触と
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 12:12
 ギンガ・ナカジマとシン・アスカの戦いから二ヶ月が経ち、季節は既に初夏の香り漂う5月。
 彼ら二人は今、機動6課に配属されていた。
 ギンガ・ナカジマは元々長期離脱中の高町なのは1等空尉が抜けたことによる戦力の穴埋めの為に出向された為に、当初の予定通りスターズ分隊に配属された。
 シン・アスカは、というとフェイト・T・ハラオウン率いるライトニング分隊に配属されることとなった――ただし有事の際には独自の行動を行うことが前提ではあったが。これは、八神はやて2等陸佐の要望によって決まった。
 この際にフェイト・T・ハラオウンは、頬を赤く染めつつ何処か嬉しそうな顔で。

「これから、よろしくね、シン君。」

 そう、微笑んでいた。
 シン・アスカはその顔に対して、朗らかな微笑みを浮かべながら答えを返していた。
 彼自身も本当に嬉しかったのだろう。ようやく“守れる場所”にたどり着けたことが。

「ええ、これからよろしくお願いします。ハラオウン隊長。」

 だが、シンの口調は味気ないものだ。当然だろう。彼女は上司である。それも直属の。
 そんな人間にいきなり馴れ馴れしくするほどシンは馬鹿な男ではない。

「フェイトでいいよ?皆、そう呼んでるから。」
「いや、俺はまだ新米だから……」
「別にええやろ、シン。隊長が自分からそうしてくれって言うとるんや。そういう場合は素直に聞いとくもんやで?」
「……ええ、分かりました。」

 はやての言うとおり、確かにそれも一理あった。
 上司の方から呼び方を限定してきている――それに従わない方が確かにどうかと思う。

「なら、これからよろしくお願いします……フェイトさん。」

 そう言って頭を下げるシン。その姿を見て、フェイトは何故かどもりながら、頭を下げるシンの手を取ってブンブンと振り回し、物凄くニコニコしながら、挨拶する。

「うん、よろしくね、シン君!」

 ――その時シンの頭にあったのは一つだけ。

(……この人、テンション高いんだな。)
「……」

 その光景をギンガ・ナカジマが、静かに――見つめていた。

「……ギン姉?」
「ギンガさん?」

 スバルとティアナがギンガの様子に気付く。
 瞳が鋭く尖り、そして唇が釣り上がっていった。
 フェイト・T・ハラオウン。金色の閃光の異名を持つ管理局でも名うての魔導師。ギンガ・ナカジマにとっての憧れ。
 彼女が今、彼に投げかけている微笑み。それを見て、ギンガ・ナカジマは気付く。
 本人が気付いているかどうかは知らないが――あれは、恋する瞳だと。

 ――上等じゃない。

 フェイト・T・ハラオウンは知らぬ内に、そしてギンガ・ナカジマは自ら進んで――ここに乙女と乙女の恋愛大戦が静かに開始されようとしていた。
 
 賞品はシン・アスカ。稀代の朴念仁である。
 彼はその鈍感さ故に何も知らない。流石に好意をもたれているとは思っているだろうが、彼が思う“好意”とは仲間や友達へ向ける“親愛”である。
 彼にしてみれば、まさかギンガ・ナカジマ、そしてフェイト・T・ハラオウンという二人から“恋愛”感情をもたれているなどと思う訳も無い。
 以前のギンガの態度から、少しくらいは分かっても良さそうなモノではあるが――そこで気付かないことこそシン・アスカ。何故なら彼は、誰かを守ること“だけ”が願いの人間。
 それだけに眼を向けているからこそ、苦しみ嘆く人間を見つけることを容易にしている――だが、いつも誰かに視線を向けているからこそ、彼は“自分に向けられた”視線になど決して気付かない。
 だから、彼は気付かない。ギンガの想いと、フェイトの彼女自身も気付かぬ想いに。
 そして、この日から――シン・アスカの機動6課での日々が始まる。
 長くは無い。けれど短くも無いその女難な日々が。


「どうした、アスカ、そんなものか!!!」
「くっ……!!」

 シン・アスカは歯噛みする。自身とシグナムの“相性の悪さ”にだ。
 機動6課ライトニング分隊に配属されて以来、彼の個人訓練の相手はいつのまにかシグナムで定着していた。
 シン自身そのことには納得している。
 彼女と自分の戦闘スタイルは共通点が多いからだ。
 共に剣型のデバイスを使用し、近距離を得意としている――無論、近距離戦は自分よりも彼女の方が一枚も二枚も上手なのだが。
 技術が、では無い。現在のシン・アスカの近距離戦の技術はシグナムよりも劣ってはいるものの、天と地というほどの差は存在していない。
 デスティニーによって書き換えられた動きは今、シン・アスカに定着し、彼の動きを大きく向上させ達人としての動きに近づけている。
だが、技術はともかく駆け引きという点でシン・アスカはシグナムよりもはるかに劣っている。
 何せ、彼女は悠久の時を主と共に駆け抜けてきた騎士。駆け引き、経験という意味で彼女に勝る者などそうはいない。
 如何にシン・アスカが2年間という期間で濃密な戦闘経験を蓄積したとしても、それはあくまで“MS戦闘”のモノだ。魔法を用いた対人戦ではない。
 ――故に、これがシンとシグナムの相性が悪いと言うことに繋がっていく。
 自身の得意な系統で相手のレベルが自分よりも高い。戦闘においてそれほど相性の悪い相手はいない。
 これがスバル・ナカジマやティアナ・ランスター、そして同じ部隊であるエリオ・モンディアル、キャロ・ル・ルシエ――彼女は除外しても構わないが――であればやりようはある。
 彼らならばシンが勝る部分を利用出来るのだ。
 スバルであれば、射程距離。
 ティアナであれば、近距離戦。
 エリオであれば、攻撃力。
 確実な勝利などは不可能だが、これほどに相性が悪いと言うことはありえない。シンのデバイス「デスティニー」の本領とは全ての距離への対応能力であるがゆえに。
 どんな相手であろうと“相性が悪くなることなど本来はありえない”のだから。
 だが、シグナムにはそれが出来なかった。
 それはシン・アスカ自身の切り札となるべき“距離”が完全に重なっているからである――無論、シン自身よりもはるかに年季が入った彼女に勝とうなどBランク魔導師が思うべきことではないのだが。
 気が付けば、彼女が眼前に迫っていた。

「紫電一閃っ!!!」
「くっ!!」

 右肩から発射した小規模パルマフィオキーナ――現在は区別の意味でも単純にフィオキーナと呼んでいる――によってその一撃を回避。
 間髪いれず“左肩の後ろ”からも発射、シンの身体がシグナムに向けて回転し、続けてアロンダイトの峰からも発射する。

「うおおおお!!」

 そうして、身体を捻り込むようにして彼女の背後に“滑り込んだ”シンは、その勢いそのままに彼女に向かってアロンダイトを激突させる――だが、彼女の動きはシンの予想を上回っていた――否、シンの動きは彼女を相手にするには真っ正直すぎた。
 ガキンと、鈍い金属音を立てて、刃金と刃金がぶつかり合う。

「なっ!?」
「――良い戦法だが、何度も使うと動きを読まれる。このようにな!!」

 滑りこんだと思っていた彼女の背後は実は既に彼女の真正面だった。
 あの瞬間、シグナムは確実にシンが背後から来ると予想し、彼が滑り込む前に態勢を整えていた。
 そして、態勢を崩しながら背後に回りこんだシンと態勢を整えて待ち構えていたシグナムでは、込める力に差があるのは自明の理。
 故に、

「はああ!!」

 裂帛の気合と共に渾身の力を込め、シグナムはアロンダイトを弾き返す。
 態勢を崩した状態で更に斬撃を弾かれたシン――それは受けることも攻めることも充分に行えない袋小路そのもの。
 シグナムがレヴァンティンの姿を“切り替える”。それは三つある形態の内の一つ。 
 鞭状連結刃――シュランゲフォルム 
 狙いを定め、言葉を紡ぐ。

「シュランゲバイセン――アングリフ……!!」

 ソレを振るった。その様は正に蛇。うねり、くねり、迫るその攻撃。
 迫る連結刃は炎熱を纏い、シンに向かって“曲進”する。
 焦燥。フィオキーナの高速移動では“避けきれない”。
 彼女は攻撃に集中している為に本来なら絶好の好機であるが彼の態勢も大きく崩れている為にケルベロスによる砲撃は不可能。アロンダイトで迎撃――刀身を絡め取られて終わりだ。
 ならば、

「だったら――」

 右腕をアロンダイトから離し、シンの右掌が赤熱する。魔力を収束圧縮。掌の中心に生まれる赤い光球。
 それはシン・アスカの切り札の一つ。近接射撃魔法。
 狙いは、鞭状連結刃そのもの。迫り来る刃に対して、シンは構え、叫ぶ。

「パルマ――フィオキーナ!!!」

 ――炎熱の蛇咬と炎熱の射撃が激突する。

「うおおおおおお!!!」

 咆哮が轟く。
 吹き荒れる紫電と赤炎。同じ炎熱の魔力はぶつかり合い、そして――爆発した。

「……なかなか。」

 後方に大きく吹き飛ばされたシン・アスカを見て、シグナムは呟く。
 シグナムにとって、シン・アスカとは好敵手に近い。 
 戦力で言うと、彼女と彼の間にそれほどの差は無い。ギンガ・ナカジマとの模擬戦で彼が獲得した戦闘技術と増加した魔力量。そして、フィオキーナによる高速移動。デバイス「デスティニー」の持ちうる多彩な武装。
 シン・アスカの単純なスペックは既にAAAランクと言っても過言ではない。それほどの戦力を彼は既にその身に秘めている。
 実戦経験の数に比類ない差があるからこそ、今、彼女は彼を圧倒できているのだ。
 ならば――これから、先、彼が経験を積んだならばどうなるのか。
 魔法を全く知らない素人から僅か半年足らずの間にこれほどの成長をしたシン・アスカ。
 この先、この男はどれほどの高みにまでたどり着くのか。
 そう、考えて背筋がゾクゾクする自分に気付く。知らず、彼女の表情は微笑みを浮かべていた――獰猛な女豹の笑みを。
 彼女はいわゆる戦闘狂(バトルジャンキー)ではない。ただ、強い相手と戦うことが好きなだけの騎士である。
 いわば、コレは趣味の一環に過ぎない。
 だが、趣味だからこそ彼女は真剣になる。戦うことが好きだから――面白いから。特に強者と刃を合わせることは何よりも面白いのだから。
 強者でありながら、未だ未熟だと言う目前の戦士など――彼女にとっては馬の前に垂れ下がらせた人参――つまりは我慢しきれないほどの大好物のようなものだった。

「……」

 高揚するシグナムの気持ちとは裏腹にシン・アスカの心は焦燥に満ち溢れていた。

 ――危なかった。

 心中でそう呟き、右の掌を見る。

 あの鞭状連結刃――シュランゲフォルムを迎撃した右手が強く痺れている。
 もし、あと一瞬でもパルマフィオキーナの発動が遅れていれば今頃、自分の意識は無いことだろう。
 あれから二ヶ月。シン・アスカは成長を続けていた――それはあの模擬戦の時の成長の帳尻あわせのようなモノではあったが。
 パルマフィオキーナの発動に慣れてきた為か、魔力の収束・開放がスムーズになり、そのおかげで今の一撃を迎撃出来たのだ。以前の自分ではこうはいかなかった。
 小規模パルマフィオキーナ――「フィオキーナ」による高速移動も以前よりも滑らかになってきている――身体にかかる負担そのものはどうしようも無かったが。慣れるしかない、と彼は思っていた。
 実際、現実として出来る対策はその程度だった。
 アレは使う度に身体のどこかを傷つけてしまう諸刃の剣。
 発射地点は言わずもがな、胸やけや吐き気などは確実に起こり、場合によっては脳震盪を起こしかねない魔法である。
 その上使い勝手は良いが多用すると今のように簡単に読まれてしまう。魔法の特性上その軌道はどうしても直線的にならざるを得ないからだ。
 また、デスティニーによって書き換えられた肉体は、彼女ほどの手練れと渡り合えるだけの力を彼に与えている。ただし、こちらは最近になってようやく“安定してきた”ところだった。
 ギンガ・ナカジマとの模擬戦の後、彼の身体は厳密な検査を受けることを余儀なくされた。
 何せ、デバイスが使用者の肉体の動作系を“書き換えた”のだ。前例が無いがゆえにその事態は重く取られた――そして、検査の結果、分かったことは以下の通りである。
 ――肉体は既に“作り換わっている”。筋肉が断裂するような事態は最早起こらない。
 つまり、あの時シン・アスカの肉体は最適化を施され書き換えられながら、崩壊と再生を“繰り返すこと”で、考えられないほどの短期間に“超回復”を繰り返し、強化されていたと言うことだった。
 筋肉とは、負荷を与えることで崩壊し、再生の際には崩壊する以前よりも強くなる。これが“超回復”である。これは誰の肉体にも起こることだ。だが、それは本来ゆっくりと進行するものである。
 だが、彼は――少なくとも“あの瞬間の彼”の肉体はそうではなかった。
 常人の超回復を野球でピッチャーが投げる球だとするなら、あの瞬間の彼は長距離狙撃用ライフルの弾丸--―つまりは音速の弾丸である。
 その結果として彼の肉体は全力で戦ったとしても、崩壊することは無い。そういう肉体に“なった”のだ。
 だが、その反動は凄まじかった。
 ギンガとの模擬戦の後に彼は何日間も眠れない夜を繰り返した。
 身体中を襲うそれまでの人生では決して感じたことが無いほどの激痛――筋肉痛によって。
 本来ならソレを感じ取りながら、肉体は変質するのだが、彼の身体はそれを感じ取る間も無いほどの速さで変質し、その為に置き去りにされた痛みがその後、彼に襲い掛かった。
 それは音速で発射された弾丸が対象に命中した後になって初めて発射音が響くように。
 そして、今に至る。無論、身体が治って直ぐに彼は訓練を再開した。大体にして休んでいたのは二週間ほどだ。その二週間の遅れを取り戻すかのように彼は幾度も幾度も訓練を繰り返した。
 恐らく、元々適性があったのだろう。
 “過剰な訓練に耐える肉体”という適性――つまりは単純な肉体の頑強さ。壊れ難い肉体。そういった資質が。
 ギンガとの模擬戦の際に、フェイト・T・ハラオウンはシン・アスカを天才と評した。
 だが、それは否だ。
 シン・アスカは天才ではない。少なくともキラ・ヤマトやアスラン・ザラのような天才とは違う。そして、彼自身も否定するだろう。
 発想、閃き、判断。そういったモノに関して言えば彼は天才かもしれない。
 だが、天才とはそういったモノとは違う。純粋に成長速度が速い――1を知って10を為す。そういった人間である。
 シン・アスカの成長速度が速いのは、自身の身体が壊れないのをいいことに通常ならば壊れるほどの訓練を行えるから、である。
 彼は1を知り、1を為す。それを誰よりも多く繰り返す。
 壊れないが故に彼は誰よりも訓練を続けられる。類まれな肉体強度、そして狂わんばかりの力への渇望。それこそが、シン・アスカの資質なのだ。

 ――話を戻そう。その結果としてシン・アスカは今、シグナムと渡り合えるほどの実力を持つことになった。
 けれど、彼は満足など出来ない。――それでもまだ足りないのだ。
 機動6課に配属された時に見た映像――ライトニング分隊が為す術も無く完敗したあの男。ドラグーンのような魔法を使う化け物はこの程度では倒せない――自分の願いを叶えることなど出来はしない。
 “全てを守る”。その願いを叶えるには、未だ力が足りていないのだ。
 ――レヴァンティンをシュランゲフォルムからシュベルトフォルム――長剣状態である――に切り替え、シグナムがこちらに向かって構えている。

「……デスティニー、ケルベロスⅡだ。」
『All,right,brother.Mode KerberosⅡ』

 デスティニーから響く電子音の返答。
 それに伴いアロンダイトが折り畳み、ケルベロスⅡ――連射性に特化した魔力銃である――に変形、それを構え、柄の部分からフラッシュエッジを引き抜く。
 ケルベロスⅡの魔力弾の連射で牽制し、フラッシュエッジで切り込む。そういう考えなのだろう。

「行くぞ、アスカ!!」
「はい……!!」

 両者が突進する。シンはケルベロスⅡを構え、シグナムはレヴァンティンを振りかぶり、交錯が始まる――瞬間、声がかかった。

「……どうやら、今日はここまでらしい。」

 そう言ってシグナムは構えを解く。

「え、ここまで?」

 シンは不思議そうにシグナムを見て、彼女が目線を下に向ける。

「ああ、下を見てみろ。」
「……フェイトさんですね。」

 そこにはライトニング分隊隊長フェイト・T・ハラオウンが手を振っていた。その横でエリオとキャロが申し訳なさそうにこちらを見つめている。
 そして、

「あっちもだ。」
「……ギンガさん。」

 膝を付き、肩で息をしているスバル、ティアナ。そしてそれとは対照的に笑顔でこちらに手を振るギンガ・ナカジマがいた。
 ヴィータはその横で半眼で笑っている。苦笑しようとして出来なかったのだろう。

「朝食を食べるので戻ってこいとのお達しだ。……全く、果報者だな、貴様は。」
「いや、その……すいません。」

 半眼で睨まれて、シンは思わず謝っていた。

(……何がどうなってるんだ?)

 シンには未だ状況が掴めていなかった。果報者――その言葉の意味が。
 今は、まだ。



「シン、おかわりはいりますか?」
「あ、じゃあ、お願いします。」
「……」

 そう言ってギンガにご飯をついでもらうシン。その横に座るフェイトはもしゃもしゃとサラダを食べながら、その様を見つめ続ける。

「ギンガさん、醤油いります?」
「あ、ありがとうございます。」
「…………」

 まるで往年の夫婦であるように、息のあったコンビネーション――ただ朝食を食べているだけなのだが――を繰り広げる二人を見て、フェイトは傍らにあったサラダとシンを一瞬見比べ――意を決して口を開く。

「シ、シン君、サラダどう?」
「あ、じゃあ、もらいます。」
「…………」

 今度はギンガが、ずずっと味噌汁を啜りながらその様子を見つめ続ける。

「フェイトさん、ドレッシングかけないんですか?」
「はっ!?ああ、わ、私、生野菜は生で食べるのが好きなの!!」
「はあ……そうですか?」
「う、うん!!」
「…………」

 まるで初々しいカップルのような会話を続ける二人を見て、ギンガは何も言わず沢庵を口に含み、ポリッポリッといつも通りに咀嚼する。
 ――目じりが微妙に釣り上がっているのはさておいて、だ。

「……ドリル怖いドリル怖いドリル怖い。」
「……うう、一発も当たらなかったよ。」

 その傍ら――同じテーブルの直ぐ横に突っ伏し、顔面蒼白のティアナと泣きそうになっているスバル。
 彼女たちは先ほどの模擬戦で、ギンガ・ナカジマとヴィータの前に完膚なきまでに倒されたのだ。
 無論、彼女達が劣っていると言うわけでは無い。
 幾多の戦いを乗り越えてきた彼女たちの実力は、ヴィータやシグナムと比べても遜色は無いほどに成長している。
 ならば――何故、彼女たちは完膚なきまでに敗北したのか。
 いわば相性の問題だった。
 ギンガ・ナカジマの弱点。それは射程の短さである。だが、チーム戦とは個人の力量のみで行うものではない。彼女と組んでいたヴィータは得意距離こそ接近戦ではあるが、その内実は万能型。如何なる距離にも無難に対応出来る柔軟性を持っている。

 そして、もう一つ理由がある。
 “シューティングアーツ”。彼女が使う“シューティングアーツ”とは距離の壁を“洞察力”によって、打ち崩す“魔導師の天敵(カウンターマギウス)”。
 洞察力。それは個人戦においても遺憾なく威力を発揮するが、チーム戦においても同じく強力無比なものである。
 何故なら、連携とは味方の動きを読んで合わせることで成立する。
 故に洞察力が優れた相手がパートナーであれば、そのやり易さは加速度的に向上する。
 スバル・ナカジマはそれを学ぶことなく、ティアナはスバルのシューティングアーツと同じだと思っていたが故に――彼女たち二人は完敗することとなった。
 ティアナの瞳に残るのは、ヴィータの援護を受けて自分に向かって突貫し、こちらが放つ魔力弾を突き破り、近づき、魔力を食い荒らす螺旋――リボルビングステークの威容が。
 スバルの瞳に残るのは、ありとあらゆる攻撃を読まれ、ヴィータとギンガの二人に執拗に追い回された挙句に、壁際に追い詰められ、カウンターを合わせられた瞬間が残っていた。恐怖も残ろうと言うものだ。
 ティアナ・ランスター。スバル・ナカジマ。彼女たちが敗北したのは、ギンガの洞察力によって、だった。
 これが単騎による個人戦ならば、結果は違う。恐らく、ギンガは敗北か、もしくは引き分け。決して勝利ではない――ことになっていただろう。
 1と1を足せば通常は2である。それを3にも4にも引き上げる。それがギンガ・ナカジマの洞察力なのだから。
 そして、同じテーブル――彼女たち二人の横で、純真無垢であるはずの子供にも影響は出ていた。

「ピンク……」

 エリオ・モンディアルの口から紡がれる言葉。それはまがり間違ってもキャロ・ル・ルシエの髪の色ではなく、模擬戦の時見えた、桜色の乳首―--。

「――エリオ君?」
「ひぃ!?」

 底冷えするようなキャロの声。その声を聞いて、エリオの意識は現実と言う名の地べたに連れ戻される。
 怖気を振るう恐怖とはこのことか。視線だけで人を殺せるとしたら、これである。エリオはそう思った。
 言動には気を付けよう――エリオは一つ大人になった。

「……ヴィータ、これは何とかならんのか?」

 嵐が吹き荒れるテーブルから少し離れたテーブル。そこに八神はやての守護騎士ヴォルケンリッターがいた。

「……あたしに聞くな。どうにかして欲しいのはこっちだぜ、まったく。」

 うんざりといった感じでヴィータはサンドイッチを口に頬張った。その視線が向かう先はギンガ・シン・フェイトと居並ぶその姿。

(……変わりすぎだろ。)

 以前見たギンガ。そしてついこないだまで知っていたフェイトとのあまりの落差に呆れを通り越して困惑しているのだ。
 何せ展開が速すぎる。設定された年齢上彼女――ヴィータはそういった恋愛沙汰の機微に疎い。だが、その彼女をしてフェイトの変貌は早かったと思わせるほどに劇的だった。

(……恋する乙女は変わるって言うがなあ)

 それでも早すぎるだろう、これは。
 だが、と、ヴィータは思う。フェイト・T・ハラオウン。彼女はこれまでの人生の殆どを、他の誰かの為に費やしてきた。恐らくは自己満足に過ぎないであろうこと――エリオやキャロを引き取り育てるなどと言う保護。それは単なる自己満足でしかあり得ない。
 だが、その彼女が今自分の為に行動している――無論、無自覚ゆえの行動であろうが。
 それは、むしろ歓迎することなのではないだろうか?
 ヴィータはそう思い、もう一度彼らの方に眼をやる。
 シンをはさみ込むようにして、ギンガとフェイトがおかずをよそいまくっている。
 ギンガはご飯をこれでもかと言うほどにこんもりと盛りシンに渡し、フェイトはフェイトでサラダをこれでもかと言うほどにもっさりとよそいシンに渡す。
 その中心にいるシンは黙々と食べている――と言うかその表情は先ほどに比べてかなり険しく成っている。
 まるで何かに耐えるように。心なしか顔面蒼白にすら見える。胃の許容量以上の量を食いすぎたせいだろう。
 フェイトはシンのその表情に気付いていないのか、ニコニコと笑いながらサラダをもっさりとよそい続け、対するギンガはシンの苦しげな表情に気付いているのか、顔を曇らせ――だが、意を決するようにご飯をよそう。
 その様を見て、ヴィータはため息一つ、頭を振って心中で呟いた。

(……やっぱり、やりすぎだ、あれは。)

 頭を振り、ため息を吐くヴィータを尻目にシグナムは次に傍らでヴィータと同じくサンドイッチを口にするシャマルに向かって口を開く。

「シャマル、お前は?」
「いいんじゃないですか?」

 そう言ってシャマルは微笑みすら浮かべながら、三人を見つめている。
 彼女にとって男と女の色恋沙汰などあって然るべきだとものであった。
 何故なら、年頃の男と女の間に起こりうるものと言えば相場は色恋沙汰だ。
 二人には――特にフェイトにはそういったモノは皆無だった。
 それはヴィータが思っていたように彼女自身が自分自身に無頓着であり、自分の為には生きていなかったからであろうと考えていた。
 たとえその恋がどんな結果に終わろうとも、その想いはきっと彼女を変える。
 恋をして変わらない女などいない。
 その絶対原則は覆らないのだから――そんなことを思っている彼女も別に恋愛経験が多い訳では無いのだが。むしろ、皆無である。
 そんな風に微笑ましいものを見る母親のような視線で以って三人を見やるシャマルに業を煮やしたのか、シグナムは次の相手に声をかけようとする。
 彼女がこれほどに焦燥している理由――それは別に6課の雰囲気が悪くなることを恐れて、ではない。
 元よりシグナムにそういった機微を調整するなど出来ない。
 伊達に自分を騎士だ、騎士だと言っている訳では無いのだ。
 自身は不器用であり、無骨。器用さなど無用であり不要。そう、思っている。
 だが、それでも彼女は焦燥を抑えられない。
 これまであのような状態にならなかったフェイト・T・ハラオウン。
 そこに変化が起きたコト。それが焦燥を生ませているのだ。
 焦燥の根源は一つ。もしや、我が主にまでそれは届いているのか、と。それは全くの誤解であるのだが。

 八神はやてにとってシン・アスカとは策謀の為の“手駒”である。
 彼女自身にとっての切り札――最悪、彼女“個人”が使用出来る捨て駒としての意味を含めたモノ――である。
 そんな八神はやてが、シン・アスカに恋愛感情を抱くなどはあり得ない――無論、その“表向き”の裏側ではどうなっているかは彼女以外は知らないことではあるが。
 シグナムはそれを知らない。と言うよりもヴォルケンリッターはそれを知らない。知れば、彼らは、八神はやてに言うだろう。
 それは自分たちの役割では無いかと。捨て駒として使用するべきは自分たちではないかと。
 八神はやてがそれをしなかったのは、ひとえに彼女たちヴォルケンリッターが大切な存在だからだ。
 そして、八神はやてがシン・アスカに対して抱く感情――それはコールタールのように黒く粘りつき、身も心も縛り付ける“罪悪感”である。
 表には出していない。だが、彼女の内心は、シン・アスカとそれ以外という枠組みを作っている――つまりはシン・アスカは如何様に使おうとも構わない、と。
 
 殺すつもりは無い。捨て駒として使うつもりも無い。だが、別に五体満足で生きている“必要も無い”のだから。
 シグナムはそれを知らない――知らないからこそ、そんなピントの外れた回答を導き出す。無論、そんな考えに気付いている人間など誰一人としていない。ただ、一人、八神はやて本人から伝えられたギンガ・ナカジマを除いては。
 そんな的外れの焦燥から逃れる為に、彼女はこの場を静めてくれる誰かを欲していた。
 そして、次なる相手に声をかけ――

「ザフィー……いや、いい。」

 ようとして止めた。

「いや、ちょっと待て!!」

 犬の姿のままザフィーラは叫んだ。
 周りの職員は何事かと驚いている。犬が喋ったからだ。

「ん?なんだ、餌か?ほれ。」

 そう言ってシグナムは、ザフィーラに向かってサンドイッチが入った皿から幾つか取り出して別の皿に入れると、そのまま床に置いた。

「ワン!!」

 威勢よく声を上げて、それにかぶりつくザフィーラ。
 そして、一拍置いてその動きが止まる。

「……」
「……」

 たらり、とザフィーラの背を冷や汗が流れていった。

「犬だな。」
「ああ、犬だ。」
「犬ね。」
「何故だ――!!」

 仲間達の冷静且つ冷徹な視線を受けて、ザフィーラは吼えた。吼え続けた。煩かった。


「……えらい、変化がおきとるなあ。」
「なんで、そんなに他人事なんですか……。」

 それはシャリオ・フィニーニと八神はやてだった。無論、この場に来た理由は当然ながら朝食を食べに、である。
 フェイト、シン、ギンガが黙々と朝食を食べ続ける――フェイトは何故か赤面している――その横ではティアナとスバルが机に突っ伏して、朝食を食べ続け、その片側ではエリオがギンガ(主に胸)を見てぼうっとしている横でキャロがにこやかな笑顔でフォークを天に向けて構えている。心なしか額に青筋が立っている。
 別のテーブルではヴォルケンリッターとヴァイスがメシを食いながら全員顔を歪めている。
 シグナムなんぞは、けしからん、けしからんと繰り返しつつ蕎麦を食っている。
 ザフィーラは……なんか吼えてる。

(いつから、この食堂には和食が入ったんだろう?というか朝から蕎麦?)

 そんなシャリオの疑問を無視して、食堂に蔓延る雰囲気にはやては唇をひくひくと震わせて、苦笑する。

「……げに恐るべきは乙女パワーっちゅうことか。やっぱり、ライトニングは早まってしもたかなあ。」
「……まあ、戦力的には間違ってるとも思いませんけど。」

 シャリオがはやてのぼやきに返答を返した。
 戦力という面から考えると、シン・アスカをライトニング分隊に入れたのは間違いではなかった。
 シン・アスカ。彼は強い。それは“あの”模擬戦を映像でしか見たことのないシャリオにも理解できる。
 だが、実戦経験の数はまるで皆無――のはずだ。異世界において幾多の戦争を乗り越えてきたと言っても、それは全てMS戦闘であり、白兵戦などは無かったのだから。
 だからこそ、戦力が充実しているライトニングに配属させた。スターズとは違い、ライトニングに欠員は出ていないからである。
 恐らくそこで彼に経験を積ませるつもりなのだろう。選択としては悪くない。だが、

(けど、有事の際には……ってどういうことなんだろう。)

 隣を歩く彼女――八神はやてに眼を向ける。シャリオにはその部分だけが腑に落ちなかった。
 “有事の際”、その言葉の意味が。

 カーテンで覆われた一室にて男と女が話をしている。
 ギルバート・グラディス。そしてカリム・グラシア。
 彼らが今見ているのはあの模擬戦の映像であり、そしてシン・アスカの肉体を奔り抜けた朱い光。

「ここを見てもらえるかしら?」

 カリムのつぶやき。そして画面が一部拡大された。それはデスティニーに現れたあの文字列。

「……これは」
「解析班からの報告によるとアームドデバイス・デスティニーのOSは当初搭載されていたモノとはまるで別物のOSに上書きされていたそうよ。」
「……Gunnery United Nuclear Deuterion Advanced Maneuver System」
 流麗な発音でギルバート・グラディスが呟いた。

「ギルバート?」
「気にしないでくれていい……・・が、なるほど、これは予想出来なかった。」

 仮面の下で薄く笑うギルバート・グラディス。その表情は心底楽しそうな微笑みだ。自分の予想を超えた教え子を見て喜ぶ。そんな微笑みだった。
 仮面をカリムに向け、質問を飛ばす。

「シン・アスカの肉体にはどんな変化が?」

 グラディスの質問にカリムは目の前にA4用紙ほどの画面――シン・アスカの検査報告書である――を映し出し、答えを返す。

「全身の打撲や打ち身、そして異常なほどの筋肉疲労、乳酸の溜まり具合……ありていに言って極度の疲労。ただ、これには続きがあるわ。」
「それは?」
「身体中――特にあの大剣を振るう際に使用する筋肉の部分が著しく太くなっていたそうよ。」

 画面に映る

「……ふむ。」

 その言葉を聴いて、再びギルバート・グラディスは楽しそうに微笑んだ。
 カリム・グラシアはそんなグラディスを見て、一つ息を吐き――現れていた画面をすべて閉じて、話を続ける。

「ただ、これで貴方の計画は頓挫したことになる。」

 その言葉を聞いて、グラディスもため息を吐き肩を竦めた。

「……まさか、勝つとはね。」

 カリム・グラシア。ギルバート・グラディス。シン・アスカの模擬戦や訓練等の一連の事件の“黒幕”である二人にとってシン・アスカの勝利というのは殊の外に予想外な事柄であった。
 勝利するなどは思わなかった――否、勝利などする筈がない勝負なのだ。
 元よりこの戦いはシン・アスカに“シン・アスカに絶望を与えること”ことこそが目的。シン・アスカに最高の絶望を与え、“力への渇望”を最大限にまで活性化させる。その上で彼に手を差し出し、力を与える。
 膨れ上がった“渇望”はシン・アスカに著しい成長を促すだろう。それこそ、最強と言う文字に違わないモノにまで。
 ギルバート・グラディス――ギルバート・デュランダルはそうやってシン・アスカに力を与えるつもりだった。要は以前シン・アスカがインパルスの正規パイロットになるまでの過程をもう一度再現しようとしただけだ。

 シン・アスカは絶望によって強くなる人間だ。
 過去、家族を亡くした絶望を糧に怒りと言う炎を燃やし、彼は自身を鍛えた。
 寝る間を惜しんで教本を読み漁り、いっそ身体が壊れた方が楽になれると思えるほどに鍛え続けた。
 何故なら彼の周り――アカデミーにいたのはザフトで生まれ育ったコーディネイター。
 良家の出の者の中にはシンに施されたコーディネイトなど歯牙にも欠けぬ人間だとて多く存在した。
 コーディネイトと言う才能の差――彼にとって一つ目の壁である。それを超えるには努力しかなかった。
 才能と言う厳然たる性能差を埋める為に異常な努力で以って彼は突き進んだ。
 結果、彼はインパルスと言うモビルスーツの専属パイロットとなった。努力で埋めたのだ。才能の差を。
 そして彼の実力は際限無く伸び続け、デスティニーと言う専用機を得るにまで至った。
 奪われた絶望が、比類なき力を彼に与えたのだ。

 ――だが、今回の模擬戦でシン・アスカはそれを覆した。
 誰もが負ける、勝てる筈がないと断じた戦いを己が力一つで覆した。
 そして、デュランダルの誤算はもう一つ。
 デバイス・デスティニーに宿った“意思”である。
 これが何を意味するのか、はデュランダルにも分からなかった。
 ただ、これでデュランダルの描いていた「シン・アスカ」には到達しないことだけは確実だった。
デ ュランダルの描いていた「シン・アスカ」。それは、以前シグナムが八神はやてとカリム・グラシアに語った通り。
つまり、「一瞬で懐に潜り込む“速度”と一撃で勝負を決する“攻撃力”を兼ね備えた“近接特化型”」である。
 機動6課に作成を依頼した現在のデスティニーは完全な間に合わせの産物であり、あくまで訓練用。
 シン・アスカに魔導師としての戦闘を叩き込むただそれだけの産物である。
 それ故シン・アスカが受領し現在使用しているデスティニーは完全な試作品であり、不完全な代物である。
 今のデスティニーがツギハギのように見えるのは当然だ。“在るべきパーツ”が存在していないのだから。
 だが、彼の身体は模擬戦の際にデバイス・デスティニーに生まれた“意思”によって「万能型」として最適化された。
 如何なる距離であろうとも対応出来、そして近距離が“得意”と言う姿に。
 これは、由々しき事態だった。

「確かに、これでは“本当のデスティニー”の作成は断念せざるを得ない訳だ。」

 困ったことだと言わんばかりにデュランダルは肩を竦めた――その表情はまるで困っているようではなかったが。

「で、どうするのかしら?まさか、これで終わりな訳ではないでしょう?」

 カリム・グラシアが瞳を細く射抜くようにデュランダルを見つめる。
 視線は弾丸の速さと刃の鋭さで彼を射抜く――その視線を受けて、デュランダルは微笑みを浮かべた。
 口を開いた。

「無論、問題は無いさ。“あのデスティニー”を使いこなし、万能の単騎になると言うならそれもいいさ。……むしろ、彼の性分としてはそれが最も“幸福”だろうからね。」
「幸福?」

 聞き慣れない――現在の会話にはまるでそぐわないその単語に首を傾げるカリム。

「近接戦闘に特化し、敵陣深く切り込む。だが、その間後方の味方はどうなる?もしかしたら、自分が敵陣に切り込んでいる間に“殺されて”いるかもしれない。」

 一つ、言葉を切って、デュランダルは続ける。それはどこか生徒に講義する教師の如く。

「そして、後方からの支援は一切出来ない。殺されそうになっている誰かを“守る”為の援護などが一切出来ない。“今”の彼にとってそんなことは耐えられないだろうさ。」

 シン・アスカの“異常”を間近で確認したデュランダルはそう言葉を終えた。
 然り。
 現在のシン・アスカにとって最も優先すべきコトは“守るコト”である。
 瞳に映る全てを守り抜くこと。彼はその為だけに力を求めた。
 如何なる敵であろうと打ち倒し、誰も守れないと嘆くことの無い様に。
 “もう一度”ヒーローになる為に。彼はその為に魔導師になろうと自身を磨き抜くのだ。
 シン・アスカが求めるのは“倒す為の力”ではなく、“守る為の力”である。
 デュランダルの言う力はあくまで“倒す為の力”シン・アスカの求める“守る為の力”ではないのだ。
 だからこそ、“幸福”だとデュランダルは評した。“あの”デスティニーはシン・アスカの望む力そのものだと。

「……単騎の万能ね。そうなるまでの時間があるのかしら?」

 カリム・グラシアが言葉を返した。
 ――時間。そう、単騎の万能とはそうなるまでに必要となる時間がまるで違う。
 デュランダルが“近接特化”を望んだ理由の一つにそれがあった。
 特化型とは一つの分野を徹底的に鍛え上げることである。
 無論、鍛える分野が少ないことから引き出しは少なくなる。
 だが、究めるまでにかかる時間は、万能型よりもはるかに短くて済む。
 近接特化を1とするなら、万能型は少なくとも5は必要となるだろう。
 だが、そんなカリム・グラシアの懸念にデュランダルは薄く笑いながら返答する。

「問題無い。君が思っているよりも機動6課と言う場所は彼にとって理想の鍛錬所に近い。」

 デュランダルの右の手袋――ナイチンゲールが薄く輝いた。
 彼の目前に現れるA3ほどの長方形の画面――そこには機動6課の面々が映し出されている。
 名前、写真、ランク等がそこには書かれていた。
 そして、その内の一人――エリオ・モンディアルとキャロ・ル・ルシエを指で指し示す。
 その次にはティアナ・ランスター、スバル・ナカジマを同じように指でなぞっていき、次にシグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ、八神はやて、フェイト・T・ハラオウン……最後はギンガ・ナカジマの前で止まった。

「ここには彼の“庇護欲”を煽り立てる“餌”がいる。それこそ両手では抱えきれないほど、ね。
守らなくてはならないモノが眼に見えて増えれば――増えた分だけ彼は強くなる。」

 そこで一つ言葉を切って、ナイチンゲールに再び光が灯る。

「何よりも彼は実戦でこそ磨かれる人間だ。
機動6課が相対する実戦――今のシン・アスカ程度ではどうにもならない現実を見せれば否が応にも強くならざるを得ないだろうさ。」
「なるほど、ね。」

 確かにそうだ、と彼女は思った。
 あの映像を思い出す。あの襲撃と模擬戦の映像を。
 土壇場に置いて、彼は“怯える”よりも“戦う”ことを選択した。
 本来、それはありえない選択だ。
 誰であろうと自分の命は大事である。他人の命よりも自分の命を守ろうとするのは本能に刻まれた“命令”なのだから。
 だが、彼はそれを駆逐した。恐らくは“守る”と言う理性によって。
 確かにそういった人間は存在する。家族や恋人、友人を守らねばならないような事態になった時、人はそういった行為をすることが多々在るだろう。
 だが、彼がしたのは見ず知らずの子供に対してだった。
 それも自分よりも遥かに、一目見た瞬間に理解できるほどの化物を相手にして、だ。
 大多数の人間がそれを正気の沙汰ではないと考えていた。
 だが、カリム・グラシアとギルバート・デュランダルだけは見定めていた。あれが狂気の産物ではなく、正気の産物なのだと。
 死にたくないと言う本能を、殺意と言う名の狂気で駆逐する者はいる。多数とは言わない。だが、珍しくも無い。
 だが、死にたくないと言う本能を、守ると言う名の正気で駆逐する者などそうはいない。
 そして、模擬戦において彼は何があっても諦めることなく足掻き抜き――勝利した。
 あの模擬戦は映像でしか見ていないカリムにとっても鮮烈であり、苛烈であった。劣勢を挽回する為に、ありとあらゆる手段を講じた――考えたのだろうことが見て取れた。

 皆無に等しい勝利の可能性を手繰り寄せるために、如何なる方法であろうと試行する。
 適任である。
 強大な――それも恐らくは初見から殺し合うような敵と相対するにするにはこれほどの適任もあるまい。
 カリム・グラシアが右手を上げて、傍らに佇む侍女におかわりを促す。侍女は無言で彼女に近づき、空になったカップに紅茶を注ぎ込む。

「で、彼はこの後6課で過ごすのかしら?」
「それが妥当だろうね。」

 カリム・グラシアは想いを馳せる。
 機動6課……その長である彼女にとって妹のような存在である“はず”の女性――八神はやてのことを。

(……はやてに、扱いきれるのかしら。)

 冷徹にカリム・グラシアの脳髄は思考する。
 八神はやて。彼女は恐らくは甘さを捨てようと必死に努力しようとしていることだろう。
 彼女にとって誰かを捨て駒にするなど在りえないことだ。シン・アスカを受け入れることを承諾したのも恐らくはその表れ。
 だが、とカリムは思った。

(あの子は“シン”を捨て駒にする気など恐らくはない。せいぜい、手駒にする程度でしょうね。)

 冷徹な彼女の思考は八神はやての思考を簡単に読みきる。甘さを捨てられない彼女が辿る道など、それしかない。
 恐らく彼女には理解出来ていないだろう。いつか、あの男――シン・アスカは“壊れなければいけない”と言うことを。

 守り続けることが願いなのだと、彼は言ったそうだ。では――守るとは何だ?
 命を守ることか?それともモノを守ることか?
 違う、守るとはもっと単純なことだ。

 守るとは戦いである。生命活動を継続させる為だけに行われる単純な命の鬩ぎ合いでしかない。救うこととは違うのだ。

 人を救わない守るだけの行為。ならば、それが行きつく果てにある事象は何か――これも単純なことだ。
 守ることしか出来ない彼は、いつか“救えない現実”を直視する羽目になる。

 彼に出来るのは“守る”だけだ。守ると言う行為が守るのは生命活動と言う事象のみ。
 彼には誰かを救うなど出来はしない。
 出来はしないから彼はいずれその現実の前に膝をつき、狂気に身を染める。自身を壊すしかなくなる。
 カリム・グラシアが思い悩むのは、その時の八神はやてについて、だ。
 恐らく、その現実に八神はやては気づいていない。
 シン・アスカと言う人間にとっては“捨て駒”と言う扱いがもっとも幸せな扱いであることに。
 その時、八神はやては耐えられるのだろうか。
 人一人を完膚なきまでに壊し尽くしたと言う罪悪感を背負えると言うのだろうか――

「例のモノ――“ティーダ”に関してはどうなっているのかな?」

 デュランダルの呟き。思考の奥底に沈みこんでいたカリム・グラシアの意識は一瞬で現実に舞い戻る。

「……すでに用意させているわ。いつもの場所で受け取ってもらえるかしら?」

 それを聞いてデュランダルは仮面の下で微笑みを返し、手に持っていた紅茶をテーブルに置いた。

「了解した。では、そろそろ行かせてもらうことにするよ。」

 デュランダルは立ち上がり、扉の前まで歩きドアノブに手を掛ける。
 彼は無言でその扉を潜り抜け――その先で彼を待っていた一人の男に眼をやった。
 男の髪はオレンジ色。直立不動。その服装は豪奢な髪の色とは対照的なダークブルーのスーツ。
 優男と言った方が良い風体である。だが、男が身に纏う雰囲気はどこか野趣を感じさせる雰囲気だった。
 男の名前は――ハイネ・ヴェステンフェルス。
 ギルバート・グラディス――ギルバート・デュランダルやシン・アスカと同じ世界からの異邦人である。

「待たせてしまったね。」
「いえ、問題ありません、議長。」

 議長、と呼ばれ、デュランダルはわずかに苦笑し、ハイネに背中を向けると歩き出す。

「では、行こうか、ハイネ。」
「はい。」

 彼はそうしてデュランダルに従った。



 デュランダルが退室してから、数分。紅茶に口をつけながら物思いに耽っていたカリム・グラシアは思い出したかのように呟いた。

「……そろそろ解いてもいいんじゃなくて?」

 微笑み。優美で華麗で可憐そのものと言ったその笑み。
 誰もが見とれるであろう毒花の微笑みを浮かべながらカリム・グラシアは傍らに佇む侍女に向かって呟いた。

「――ねえ、ドゥーエ。」

“ドゥーエ”と呼ばれた侍女は、その時、微笑みを浮かべた。
 唇を吊り上げて、頬を歪ませた亀裂の入ったような微笑みを。
 それはどこか“あの”ジェイル・スカリエッティを髣髴とさせる笑みだった。



[18692] 第二部機動6課日常篇 11.接触と運命と
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/29 12:12
 あの後、ギンガとフェイトにとんでもない量の朝食を食わされ、シンは殆ど顔面蒼白になり、倒れるまで食い続けていた。
 殆ど執念である。
 そして、倒れた。
 いきなり、倒れたシン。
 そんな彼を見てフェイトは慌て、ギンガはああ、やっちゃったと言った感じで――彼女はシンが倒れるという事態に陸士108部隊にいた時に既に慣れ切っている――医務室に運んだ。
 そうして、慌てるフェイトをギンガは宥め、部屋から連れ出していった。

「……あんなあ、そんなアホな無理して、どうすんの?」

 医務室でベッドに寝かされたシンを見て、八神はやては呟いた。

「あ、あはは、いや、なんとなく止めづらかったんで……」
「アホか。……まあ、そんなことやろうとは思うてたけど……」

 呆れるはやて。力無く笑うシン。
 それは親に叱られる子供のような構図だった。

「とりあえず、今日はそんな様子じゃ仕事にならん。キミは今日一日休みや。たまには有給使わなな。」
「え?」
「休め、言うてるんや。大体、いつまで同じ服着てるつもりなんや?」

 言われて、自分の着ている訓練服を見やる。
 それは以前、ギンガと共に買い物した際に買ってきたモノだった。
 所々がほつれ、ボロボロになっている。使い込まれている証――というよりも、買換え時である。
 シンはそんなはやての言葉に取り合わずに笑いながら返事を返す。

「ああ、大丈夫です。毎日洗濯してますから。」

 そのシンの返答にはやては、額を押さえながら呆れたように――実際呆れているのだが――呟く。

「……そういう問題やないんやけどな。とにかく、キミは今日休みや。服とか買ってくるんやな……この6ヶ月間まともに休んで無いんやから。」

 6ヶ月。シンがこの世界に来てからの年月だ。

「いや、でも」

 はやてはそんなシンの様子を見て、もう一度言葉として押し出す。今度は少し声色が変わった。それは八神はやてではなく、シン・アスカの良く知る八神はやて。
 自分を使う主の声。

「休め。そう言うてるんや。」
「……」

 顔が上がる。シン・アスカと八神はやての視線が交錯する。
 シンの瞳が変質する。
 朱く虚ろな、感情の削げ落ちた無機の瞳が八神はやてを覗き込む。
 ギンガやフェイト、機動6課の面々の前では決して見せない虚ろな視線。
 それを受け止める八神はやての瞳もまた、無機の瞳。例えるならば、その眼は兵器を扱う人間の瞳。
 そうして暫しの交錯――その場所だけが深く昏い海の底にでもなったような錯覚――先に折れたのはシンだった。

「……そうですね。」

 俯いた朱い瞳に虚ろな輝きはもう“無かった”。

「分かりました。今日一日休みます。」
「うん、ええ子や。」

 八神はやてが微笑んだ。殺伐とし始めた空気を塗り直すような暖かい微笑みだった。
 これは彼らのいつも通りのやり取りだ。
 シン・アスカは八神はやてに対して決して逆らわない。
 以前、CEにいた頃のように反論すらしない。
 彼女の“命令”に対しては絶対服従。
 二人の関係は信頼で結ばれているような関係ではない。
 二人を結ぶのは、信用。即ち、互いに互いを利用しあうだけの関係であるが故に。
 シン・アスカは居場所を求め力を振るう。
 八神はやては力を振るわせ居場所を与える。
 徹底したギブアンドテイク。そこに絆など一切無い。
 そうして、二人はすべからくいつも通りの日常へと舞い戻る。溢れ出した虚無は日常に押し戻っていく。
 残されたのは平穏な光景。上司が部下を注意する微笑ましい光景だった。
 だが、それを後ろから見つめる人影があった。

「……」

 ギンガ・ナカジマ。そして、

「何、これ……?」

 ――フェイト・T・ハラオウン。
 さすがに自分たちのせいで倒れた彼を放っておけずにここまでやってきたのだ。
 そして、そこで今しがたのやり取りを目撃した。シン・アスカと八神はやてのおかしげなやり取りを。

「今の、はやてとシン君……?」
「……あれは八神部隊長とシンです。」

 ギンガは平然と呟く。忌々しげに唇をわずかに歪めながら。
 今しがた、シンが発した虚無。
 それにフェイトは呆然としていた。
 知ってはいた。シン・アスカという人間には幾つもの顔が存在するなど。
 誰でも――自分だって接する人によって態度が変わるように、人間には幾つもの顔が存在する。
 けれど、今のシンの顔をフェイトはいまだ見たことがなかった。
 当然だ。“この”シン・アスカを知っているのは、彼女――ギンガとゲンヤ、そして目前の八神はやてだけなのだから。
 誰かを守る、その為だけに生き抜くことを望み、その為にならば何であろうと捨て去る。
 それが“現在”のシン・アスカ。一途で純粋すぎる想いを、ただひたすらに研ぎ上げ、振るう“だけ”の存在。
 ごくり、と唾を飲み込む。
 一瞬、一瞬だけではあったが圧倒された。
 死線を幾つも越えて来たフェイトですら感じ取れなかったその虚無。
 そして、平然とそれを身の内に押し込み、まるで何事もなかったかのように日常へと回帰するその姿。
 スイッチを切り替えるように、ただ切り替えた――まるで、それこそが日常そのものだとも言いたげな姿。
 そして、何よりも、八神はやての有様――それが予想とはまるで違っていたから。

「……フェイトさん、帰りましょう。」

 ギンガは視線を逸らし、二人から顔を背け、フェイトに対して呟いた。
 それはこの場を見られたことを困る――そんな仕草。

「何か、知ってるの?」

 その仕草に気付かないようでは執務官など出来はしない。真っ直ぐな視線でフェイトはギンガに問いかける。
 一拍の間。睨みあう二人。けれどギンガは口を開くことはない。

「……」

 視線を逸らし、ギンガはその場から去ろうとする――だが、フェイトの右手がギンガの右手を掴み、それを阻んだ。

「……教えて、どういうことなの、これは?」

 強い言葉。金色の閃光は有無を言わせぬ口調で語りかける。
 その瞳は決して譲らない強固な意思を湛え、彼女を射抜く。そして、それに威圧された訳でも無いが――彼女は一つ溜息を吐き、呟いた。

「……場所を、移しませんか?」

 黙っていることは恐らく無理だろう。ならば、言ってしまった方が良い。そう、考えて。

「……シン・アスカってどういう人間か知ってますか?」

 彼女達二人が今いる場所は機動6課隊舎の屋上。出入り口は施錠してあり、誰も入ってくることは出来ない。

「シン君について?」
「ええ。この世界に来る前のシン・アスカについて、です。」
「……次元漂流者ってことだけは。」

 その言葉を聞いて、ギンガは僅かな寂寥感と共に言葉を押し出す。
 寂寥感は多分、皆に誤解されている彼を想って。自分の願いの内実とはまるで違う感想を持たれてしまう彼を、偲んで、だった。
 こちらを静かに見つめる紅い瞳――フェイト・T・ハラオウンの瞳。
 それを彼女も静かに受け止め、口を開いた。
 この人が敵に回るのか、それとも味方なのか。それとも――
 考え出せばきりが無いほどに膨れ上がる疑念。
 だが、その疑念のどれに行き着いたとて自分には関係ない。
 その疑念のどれに辿り着こうが自分の貫くべき道など一つ――故にギンガ・ナカジマは迷うことなく言い放つ。

「――虐殺者。裏切り者。猟犬。」
「……え?」

 その言葉はフェイトにしてみるとまるで予期しない言葉だった。

「モビルスーツという人型の巨大質量兵器の戦争で少なくとも何千人。もしかしたら何万人の――数え上げるのも馬鹿馬鹿しいほどの人間を殺した挙句、戦争に敗北した“落ちぶれた英雄”。」

 すらすらと、教科書を読み上げる講師のようにギンガは言葉を紡いでいく。

「……なに、それ。」

 呆然と呟くフェイト。言葉の意味をまるで理解出来ていないのかもしれない。だが、ギンガはそんな彼女に構うことなく答えた。

「シンのことです。あの人はそうやって非殺傷設定の無い泥沼の戦争に従事して、その果てに此処へ来た。」
「……殺した?何万人も?」

 フェイトの顔は呆けて、言葉を紡ぐことすら出来ずにいる。
 時空管理局。そして、管理世界における非殺傷設定とは絶対的なモノである。
 この世界――ミッドチルダにおいて、殺人とは重罪である。およそ考え得る全ての中でもっとも重い。そう言っても過言ではない。
 殺人。それはこの世界における禁忌中の禁忌である。
 それをシン・アスカがしてきた。何千、もしかしたら何万人も、殺した。
 何万人――想像がつかない。一体、どうしたらあの年齢でそれだけの人間を殺せると言うのだろうか。

「……」

 重ならない。重ならない。まったく持って重ならない。
 彼女の脳裏のシン・アスカと、ギンガが呟き――先ほど見せられたシン・アスカが重ならない。
 一月半。シン・アスカが機動6課ライトニング分隊に配属されてから、今までの期間。
 ライトニング分隊におけるシン・アスカは、温厚な性格だった。
 彼女にとっての大切なモノ――エリオやキャロには実の兄弟のように明るく、優しく、そして時に厳しく。
 義理の母親であるフェイトが時に羨むほどに、仲良くしていた。
 副隊長であるシグナムともだ。非常に良好な関係だった。
 無論、そこにシグナムが彼に興味を――無論、男女の興味ではなく強さにおけるモノだが――持っていると言うことを抜きにしても、だ。

 そして、自分――フェイト・T・ハラオウンとも。彼は自分に対していつも笑顔だった。
 それは誰に対しても同じく、笑顔。優しく、華やかで、そして――どこか儚げな。
 例えるならば月光。いつか消える夜空のように儚げな笑顔。
 そんな笑顔をしていた彼が、それほどの殺人を行っていた。
 それが繋がらない。
 確かに、あの模擬戦は苛烈だった。けれど、それは勝利への渇望が生み出す必死さの現われ。
 そう彼女は解釈していたし、その感覚に間違いがあるとも思えなかった。
 だからこそ、自分の胸は跳ねた。
 感じたことなど無い胸の高鳴りはきっと、その死に物狂いの必死さと苛烈さ。
 それがあまりにも眩しく思えたから――だからだと思った。
 そして、それからの模擬戦においても、だ。

 彼は、自分の身を省みずエリオやキャロ、ティアナやスバル、そしてギンガや自分、ヴィータ、シグナム――およそチームを組んだ全ての人間に対して、身を盾にして守ることが多々あった。
 誰もがそれを叱責した。
 当然だ。チーム戦とは協力することが主となる。
 互いに信頼することで――時に相手を危険に陥れることでこそ、チームワークは活きる。
 確かに誰かを危険に陥れることは怖い。けれど、それを貫かせるのは信頼があるからだ。
 信頼しているから、相手が“出来る”と信じているからだ。
 余談だが、この技能が格別に高いのが彼女――ギンガ・ナカジマだ。
 個人としての身体能力はスバルに劣りつつも、“合わせる”ことが抜群に上手い。
 故に今日の模擬戦のような結果になる。能力――スペックと言う点では変わらないチームを組んでいながら、彼女が組んだチームは勝ちやすい。

 ――話を戻そう。
 彼はそれが出来ない。仲間を危険に陥れること――簡単に言えば囮だ――が出来ない。
 致命的なほどに。そして、彼は笑う。ごめんと言いながら。

 ――だから、私を含めた全員がこう思っている。シン・アスカは優しい。優しすぎる人間だ、と。

 優しさの中に苛烈があり、苛烈の中に優しさがある。矛盾した強さ。
 彼女の中のシン・アスカはいわば聖人なのだ。苛烈でありながら温和。温厚でありながら凄絶。
 だから、重ならない。重なるはずも無い。
 そんな彼が何万人もの人間を殺している、などと信じられるはずもない。

 ――それは彼女が戦争を知らないからだ。戦争において人を殺すことは当然のこと。
 自身の命を守る最も楽な方法は殺すことに他ならない。
 何よりも“命令”は人の命の重さを軽くするから。
 彼女は信じられないのではない、“信じたくない”だけなのだから。

 シン・アスカの本性とは誰が何と言おうと聖人では無い。
 彼はどこにでもいる人間だ――ただ、その欲望が大きすぎると言うだけで。
 誰にもそれを見せる必要が無いからこそ見せていないだけで――悪魔のような本性はその身の内に今も潜んでいる。

 ――信じられない、と言った視線のフェイト。ギンガはそんなフェイトに向かって続ける。

「……信じられないかもしれませんけど、事実です。これは彼の証言と彼の機体に残されていた記録から、もたらされたものですから。」
「……。」

 沈黙。フェイトの顔は呆然と、ギンガはそんなフェイトを少しだけ“忌々しげ”に見つめ――呟いた。

「……シンが戦う理由、わかりますか?」
「戦う、理由?」
「シンが何であんなに必死なのか。その理由です。」

 理由――戦う理由。
 分からない。フェイトにはシンが分からない。だから、フェイトは答えた。自分にとっての戦う理由を。恐らく、それほど離れていないと“願い”ながら。

「……大切なものがあるから、だと思う。」

 ギンガはその答えに、彼女らしくもない“嘲笑じみた溜め息”を吐きながら間断なく返答する。

「守りたいから、です。」
「守りたい?」

 聞きなれない単語。
 守りたいと言う言葉はよく耳にする。戦いに赴く人間は誰であってもそうだ。何か、大切なモノを守りたいから。
 けれど、ギンガの言葉はおかしい。
 守る、とはそれ単体の言葉ではない。その前に、守りたいモノが付属していなければおかしい。
 家族を、両親を、友を、仲間を、愛する人を。
 その言葉が無ければ、その言葉は成り立たないはずだ。

「それだけ……?」
「それだけです。守りたいから。……全部、守りたいから、ですよ。」

 そう言って笑うギンガ。それは何かを諦めたような笑顔。
 それは何かを手に入れる為に決意をして、その為に何かを諦める決意をした人間だけが出来る“覚悟”の笑顔。

「その為には自分がどうなっても構わない。あの人は誰かを守れること、それだけが嬉しいんです。それだけが生き甲斐なんです。」
「おかしいよ、それ。守って、それだけでいいってこと?」
「……“おかしい”んですよ。」

 さも、当然のことのように――少しだけ苛立ちを込めて、ギンガは告げる。シンの異常を。
 そして、話は八神はやてに及び始める。淡々と。

「八神さんとシンが仲良くしてる理由は一つだけ。彼女はシンを利用すると言いました。あの化け物達と戦う為に。」

 捨て駒と言う戦術を容認するならば、最も確実な戦術だ。

「八神さんがシンを此処に呼んだのはその為。シンと私を戦わせたのもその為。彼を決して殺させないように――強くする為。」

 強く、誰よりも、何よりも、目に映る全てを超えて強く、強く。最強の二文字の裏側に孤独の二文字が貼り付けてあるジョーカーとする為に。

「シンが八神さんに逆らわないのは、それをシンも望んでいるから。そして――」

 言葉を切る。

「私は彼を守る為に此処にいる。絶対に彼を死なせない、その為に。」

 決然と。青い髪の戦乙女は言い切った。

「ギンガは、どうして、そんなにシン君を」
「……好きだから。大好きだから……だから、壊れそうなあの人を守りたい。それだけ、です。」

 赤面も、恥じらいも、何も無い。言いよどむことなど何も無く、彼女は言い切った。
 恐らく――伝えるべきではないその気持ちを。
 けれど、それでも言いたかった。その衝動を“止めたくなかった”。
 シン・アスカが好きなのだ、とフェイト・T・ハラオウンに対して言いたかったのだ。
 別にシン・アスカは彼女のモノではない。そして、それはこれから先も恐らく変わらない。

 きっと彼は誰のモノにもならない。彼の瞳は誰をも同一に見る。
 全てを助けると言うことは特別を持たないと言うことだ。
 特別な誰かがいればその時点で「シン・アスカ」は崩れ落ちる。
 誰よりも平等であるが故に彼は全てを守れる。
 選ぶことなく、守ること“だけ”に集中出来る。その壊れた願望を維持できる。
 それを遮るつもりは彼女には無い。
 ギンガ・ナカジマはそれを守り、支えると決めて、彼を好きになった。
 全て織り込み済みでそんな不毛な恋をしたのだ。
 彼女の恋はどんなに燃え上がろうとも無償の愛(アガペイズ)にしか繋がらない。そう、知っていて。

 けれど、例え、それが不毛であろうと恋は恋。
 乙女とは、恋に活きて、恋に息して、恋に生きるものなのだ。
 故に――

「止めない、の……?」

 その問いを許さない。

「止めません。……どの道、誰かがやらなきゃならないことなのは分かりきってることですから。あの人がそれを望むなら私は止めない。だから、守るって決めたんです。」

 彼女の決意。そしてそれが生み出す覚悟。それが彼女を押し通す。

「もし、フェイトさんがあの人を無理矢理にでも止めるなら……私はあの人の側になります。たとえ、フェイトさんであっても……誰であっても私は」
「……駄目だよ、ギンガ。そんなの、誰かを捨て駒にするなんて、絶対に……止めなきゃ。」
「……そうやって、あの人から生き甲斐を奪うんですか?」

 駄目だから、と。それだけの理由で。

「……違うよ。生き甲斐ってそんなのとは違う。きっと、違う。生き甲斐って言うのはもっと……」

 溜息を吐きながらフェイトは続ける。生き甲斐とはそういうものではない。違うのだ、と。
 薄っぺらな言葉。彼女自身が本当にそう思っているのか、定かではない言葉。そんな言葉で誰かを否定するなんて出来るはずがない。

「生き甲斐って言うのは……きっと、違うよ。もっと、自分を信じてくれる誰かの為にやらなきゃいけないことで……」

 その言葉に彼女はきつく奥歯を噛み締める。
 生き甲斐。彼にとってそれは守ること、である。
 別段、それを彼に確認した訳ではない。ただ、そうとしか思えないだけで――無論、間違っているとも想わないのだが。
 自分を信じてくれる誰か、とフェイトは言った。

(ここにいるわよ。誰よりも強くあの人を信じてる人間は……!)

 ギンガ・ナカジマ。彼女自身が誰よりも強く彼を信じている。
 何故なら、好きなのだ。大好きなのだ。
 今でも頭の中はいつでも彼のことで一杯だし、毎朝起こしに行くのだって楽しみだ。
 一緒に食事をするだけで胸の鼓動は激しくなるし、彼の朱い瞳を見つめていると顔が赤面する。
 寝顔を見つけた時など何度見惚れたかなど分かりはしない。
 一緒にいるだけで、心は温かくなって、自然と顔は綻んで笑顔になる。顔や身体は火照って、時折ぼうっとしがちになる。
 彼に恋してから既に数ヶ月。初めての恋だからかは分からないが、あの日から自分の生活はシン・アスカを中心に動いている――否、動きたいと願っている。
 けれど、そんな想いはいつだって空回りしている。シン・アスカはまるでそんなことに気付かないから。
 空回りでも良い。恋は恋。彼女はそう想っていつも自分を叱咤していたのだ。だが、

 ――生き甲斐って言うのは……きっと、違うよ。もっと、自分を信じてくれる誰かの為にやらなきゃいけないことで

 どうしても、その言葉だけは看過出来なかった。
 何も知らない癖に。
 ギンガ・ナカジマがどれだけ彼のことを好きなのか知らない癖に。
 シン・アスカを何も知らない癖に。
 私の想いがどうして空回りしているのかも知らない癖に。
 そんな何も知らないフェイト・T・ハラオウンの言葉を――

「――ふざけないで。」

 ――ギンガ・ナカジマは否定する。

「え?」

 口調が変わった。
 子供に駄々をこねられて困ったようなフェイト・T・ハラオウンのその瞳。その瞳を見て、消えていた――消そうと思っていた苛立ちが募り出す。

「――あの人を、勝手に、勝手に貴女の理屈で塗り潰さないで!!!」

 止まらない。言葉が。苛立ちが。嫉妬が。――怒りが。
 言葉に檄が籠って行く。
 憧れていたが故の反動として、フェイトの瞳が許せない。

「あの人は人形じゃない。絶対に、貴女の、私の――他の誰の、人形でもない!!」
「ギ、ギンガ、違う、私は……」
「そうやって、勝手に決めて!まるで人形扱いじゃない!!シンを人形扱いしないで!!あの二人みたいに、勝手に保護とかしない……」

 パチン、と何か軽い音がした――それは、フェイトがギンガの頬を叩いた音。

「……あ」
「……」

 奥歯を噛み締める。零れ落ちそうな激情を必死に抑え付けた。これ以上、感情に任せて口を開いてはならない、そう思って。

(……私の馬鹿)

 明らかに言う必要の無いことを言った。まるで今の状況とは関係の無い言いがかりのようなものだ。
 罪悪感が灯る。心の中に暗い渦が廻り出す。

「ご、ごめん……ギンガ。」

 彼女の右手が震えていた。それを、呆然と見つめているフェイトは――20歳などという年齢よりもはるかに幼い、弱々しく儚く、脆い、そんな少女にしか見えなかった。
 ぎりっと、更に強く奥歯を噛み締めた。自分の馬鹿さ加減を半ば呪いながら。

「……すいません。私、今、まるで関係の無いこと言いました。」

 深々と頭を下げる。どんな反応をしたらいいのか分からなかったから――違う、彼女の顔を見ていられなかったから。見ていれば、その罪悪感で押しつぶされそうになるから。
 そして、そのまま逃げるようにそこから歩き出し、扉に手をかけた。

「最後に、一つだけ。」

 ――彼女に背を向けたまま、ギンガは呟いた。

「……あの人のことは放っておいてあげてください。あの人には、もう――“それしか”ないから……だから、お願いします。」

 ギンガの方へ振り返るフェイト。彼女からはギンガの顔が見えない。

「ギン、ガ……」

 呆然と呟く。手に残る感触が消えない。

 ――こんなつもりじゃなかった。こんなつもりじゃない。
 フェイトの心中でそんな言葉が何回も繰り返されていく。
 けれど、口に出さないそんな心がギンガに届くはずも無い。

「……ごめんなさい、フェイトさん。」

 彼女はそう言って出ていった。

「……わた、し」

 彼女は――フェイト・T・ハラオウンはそのまま屋上のコンクリート張りの床に力無く座り込んだ。瞳は潤み、呆然と。ジャケットは少しだけ着崩れて。
 ――世界はこんなはずじゃないことばかりだ。
 いつか聞いたそんな言葉が胸に響いていた。


 どうして、私は彼が気になるのだろうか。
 出会いはあの病院。
 誰も守れなかった自分を慰めてくれた。
 あの時はただのいい人だと思っていた。
 次にあの模擬戦。おかしな話、あの模擬戦の時から私は彼から眼が離せないでいる。
 あの戦い。アレは結果はシンの勝利ではあったが、内容はギンガの完勝だ。
 シンは奇襲と発想、そして捨て身によって勝ちを拾ったに過ぎない。
 けれど、自分をまるで省みない戦い方。常に限界を超えようとする姿勢。
 何度倒れても倒れても、立ち上がるその背中。
 届かないモノに届こうと、何度でも繰り返す。
 薄汚れ、埃塗れで、血塗れで、苦しそうに顔を歪ませて、それでも諦めない。
 たった一人、一人だけであっても決して折れず曲がらず挫けない。
 それを、綺麗だと思った。凄いと思った。自分には決して“出来ない”と。
 そして、此処に来てからの1ヶ月。
 キャロやエリオは彼を慕っている。元々年下――というか子供に好かれやすいのだろう。
 あの二人とシン・アスカは直ぐに打ち解けた。
 シグナムとは同じ武器を使っていることから、そして、私とは――私から彼に近づいた、のだと思う。
 別に他意はない。ただ、彼が気になっただけだ。凄いと思ったから話しただけだ。
 そのはずだ。

 ――こんなはずじゃなかった。
 
 繰り返した言葉。心の中で呟き続けた言葉。 

 ――なら、どんな“はず”なら自分は良いのだろう。どんな“はず”を自分は求めているのだろう。

 分からない。分からない。
 答えは出ない。出口の無い思考は迷宮の如く、彷徨い歩くことを彼女に強いる。
 落ちていく思考。それを止める術など、脳裏のどこを探しても見つからなかった。


 声が聞こえる。誰の声だろう。
 周りを見れば、そこは真っ白な世界。
 声が聞こえる――今度はしっかりと。
 
 ――あの二人と同じように。

 聞こえてきたのはギンガの声。耳に響くように届いてくる。
 その声は、その言葉は私の胸を締め付ける。
 分かってるからだ。そんなこと、誰よりも分かっている。
 私があの二人を引き取ったのは単なる自己満足に過ぎない。代償行為に過ぎない。だから、思わず叩いた。
 私は、彼女の言葉が図星だったから堪えられなかったのだ。

 自分は――フェイト・T・ハラオウンは弱い。一人では何も出来ない人間だ。
 家族に憧れた。
 母に優しくして欲しかった。
 だから、私は自分が埋められなかった空白をエリオやキャロに感じて欲しくなかった。
 ――どこかから、また別の声が聞こえる。聞きなれた……いや、ずっと聞きたかったはずの声。

「なら、貴方の隙間は誰が埋めるの?」

 家族がいる。機動6課がいる。
 はやてやなのは、お母さんやお兄ちゃん、そしてキャロとエリオ。
 私には掛け替えの無い仲間がいる。

「本当に埋められる?」

 埋められる。仲間の絆は何よりも強いから。

「嘘。空っぽの貴方の空白なんてきっと誰にも埋められはしない。」

 違う。空白は既に埋まっている。

「こんなに寂しいのに?」

 寂しくなんてない。

「エリオやキャロはもう二人で生きていける。それくらいに強くなった。それが――寂しいんでしょ?」

 寂しくなんてない。

「また、貴方は受け入れるモノを“失った”。」

 失ってない。私は大丈夫。

「嘘。」
 本当。

「嘘。」
 本当。

「嘘ばっかり。だって、見つけたじゃない。」

 何も見つけてない。私は大丈夫だ。

「彼を。受入先の存在しない永遠の迷い子を。」

 違う。彼はもう一人で立っている。

「欲しくないの?」

 欲しくない。私には必要ない。

「“保護”したいのでしょう?」

 したくない。

「受け入れたいのでしょう?」

 したくない。だって彼は――

「テスタロッサの名前を捨てられない。それが貴方が今も誰かを“求め”続けている証よ。」

 違う、と言おうとして顔を上げ――そして、見えたその顔はあまりにも自分に似ていて、けれど髪の色だけが決定的に自分とは違う。
 それは、紛うことなき自分の母親、一番この世界で自分が優しくしてほしかった人――。

「――っ!!」

 眼を見開く。そこに見える物。それは見知った天井。
 母の顔などどこにも無かった。

「……気持ち、悪い。」

 寝汗が酷く気持ち悪かった。


「……」

 次の日、フェイト・T・ハラオウンは物憂げに窓辺を眺めながらコーヒーに口をつけようとしてつけられずにいた。
 目を向ければ、そこには物憂げに自分を見つめる自分の顔。
 それがどうしても、夢で見た母の顔に見えて――

「……違う。」

 小さく、呟き思わずコーヒーをかき混ぜる。
 白と黒のコントラスト。螺旋模様が巡り回る。ミルクと混ざり合ったコーヒーにはもう何も写らない。
 それに少しだけほっとして、彼女は窓辺に視線を向けた。
 視線の先には曇天の空模様。ひたひたと降りしきる雨。まるで、自分の感情を塗りたくったように黒で染め上げられた空。

「……なんや、アンニュイやな、フェイトちゃん。」

 その声に身を強張らせた。
 八神はやて。彼女の親友にして――事の元凶の一人。

「……おはよう、はやて。」
「おはよう、フェイトちゃん。……降ってるなあ、雨。私、今から行くとこ一杯あるんやけど。」

 朝食を乗せた盆をテーブルに乗せ、面倒そうに呟くはやて。

「ふふ、大変だね、管理職って言うのも。」
「ほんまになあ。」

 そうして、いただきます、と呟いてはやては箸を割ると朝食に口をつける。

「……」
「……」

 止まる会話。はやては、そんなことをお構い無しに朝食を食べている。
 メニューは純和風。温泉卵にアジの干物に味噌汁と香の物。そしてほうれん草のおひたし。
 フェイトは、コーヒーに口を付ける。
 昨日、見た夢が今も瞼の裏から張り付いて離れない。

「……元気ないなあ、どないしたん?」
「え、ああ、だ、大丈夫だよ、はやて。」

 慌てて、取り繕うフェイト。
 その様子に、何かを感じつつも、深くは聞かない。
 フェイト・T・ハラオウンと八神はやての付き合いは長い。
 10年――今年で11年目である。
 聞かれたくないことであれば、聞かない。
 言いたいなら、自分から言ってくる。
 そう、信頼を持つほどに彼女たちの付き合いは長かった。

「まあ、ええけど……そういや、昨日“シン・アスカ”が珍しく酔っ払って帰ってきたで。」
「へ?あのシン君が?……珍しいね。」
「うん。どうにも、街で友達が出来たとか言うてたわ。」

 しみじみとはやてはそう言う。

「あ、あははは。」
「まあ、あれで苦労人やからねえ……たまには羽目外しても罰は当たらんと思うんよ。」
「……そ、そうなんだ。」
「まあ、あれにも色々あるからなあ。」

 ――ちくり、とフェイトの胸で痛みがした。

 “キミ”
 “あれ”
 “シン・アスカ”

 八神はやては、シン・アスカを名前で“呼ばない”。
 初めは違っていたはずだ。けれど、今では確固たる規範としてそれを貫いている。
 自分はそれを単なる呼び方の違いとだけ思っていた。だが、違うのだ。
 以前は不思議にも思わなかった。だが、真相を知った今では何となくその理由が分かる。
 彼女はシン・アスカを道具として見ている――だから、名前で呼ばない。

「……」

 朝食を食べる彼女見つめるフェイト。
 脳裏を巡る思考は一つ。何が、どうして、彼女をそこまで駆り立てるのか、だった。
 恐らく、これはヴォルケンリッターにも言っていないことだろう。
 シグナムはきっとそんなことを許さない。
 リインフォースⅡも同じく怒りに燃える。
 ヴィータならば激昂する。
 シャマルは悲嘆に暮れる。
 ザフィーラは静かに泣くだろう。

 家族である彼らを騙してまで、彼女にはしなければならない理由があったと言うのだろうか。
 あの化け物達と戦う為に、とギンガは言った。
 確かに自分は――自分たちは負けた。完膚なきまでに。
 そして、生かされた――決して、生き残った訳ではない。
 今、この命があるのは単純な話、ただ、敵の気まぐれで生きているだけに過ぎない。
 だから、戦力の増強を考えるのは至極当然。
 現在、機動6課はその為に――散発的に行われるガジェットドローンの襲撃に対抗する為に存続しているのだから。

 ――だが、ならば、何故シン・アスカなのか。
 そこが疑念の発端だ。
 確かに彼は強い。これから更に強くなるだろう。最終的にはどれほどのモノとなるかは想像出来ないほどに。
 けれど、その話が表面化した時、彼はまだ魔法をまともに使うことすら出来なかったはずだ。
 そんな人間を、果たして捨て駒に使うのか――否、どうして使おうと思ったのか。
 違和感があった。何かを“見落としている”と言う違和感が。
 そして、恐らくそこにこそ鍵があるのだ。
 はやてが、そして管理局の上層部が、シン・アスカを手駒として――捨て駒として使おうと決めた理由の発端が。

「フェイトちゃん?」
「え?」

 いつの間にか、朝食を食べ終えていたはやてが、フェイトを覗き込んでいた。

「何や、ぼうっとして。ほんまに大丈夫なん?」

 覗き込まれた瞳は純粋に自分を心配する色を浮かべている。本当に、心の底から。
 自分は、まだ、彼女に“受け入れられて”いる。安堵の溜息が知らず漏れた。
 自分には仲間がいる。自分を気遣って、手助けして、そして共に進んでいける仲間が。

 ――嘘。空っぽの貴方の空白なんてきっと誰にも埋められはしない。

 背筋が凍る。冷や汗が流れた。
 違う。自分はきっと大丈夫だ。
 きっと、幸せに生きていける。
 きっと、空白は埋められる。
 仲間と言う絆はきっと、空白を埋めていくのだから。

 ――ああ、病院で会った金髪の人か。
 
 声と共にフラッシュバックのように思い起こす、あの日見た彼の背中。
 傷だらけで、埃塗れで、それでも決死に前を向いて、戦い抜いたあの背中。

 ――彼にはいるのだろうか。そんな、仲間が。

 前を向けば、心配そうにこちらを見るはやてがいた。

「……ううん、大丈夫。」

 答えは儚く。疑念は消えず。
 そして、最大の疑問は未だ晴れない。晴れ間が差し込む様子すら無い。
 自分は――フェイト・T・ハラオウンはどうして、これほどにシン・アスカのことを思い悩んでいるのだろうか、と。


 その日の夜、フェイトは仕事を終えて隊舎に戻ると、おかしな光景に出会う。
 時刻は10時をすでに過ぎている。連日、朝から訓練を行う機動6課のフォワード陣ならば既に眠りにつくかしている時間である。
 だと言うのに、訓練場の一角に光が灯っている――否、光が明滅している。光の色は燃える炎の朱。

「……もしかして」

 身体に無理のある訓練は機動6課においては――と言うかどの場所においても禁止されている。
 連日の勤務と訓練。そして場合によっては出動を行うこともある。
 機動6課は24時間勤務体制であり、基本的に隊舎まで30分~1時間以内に戻ることのできる地点に滞在することを条件とした休息と自由行動しか取れないことになっている。
 仕事に束縛される時間は通常の職業と比べて比較にならないほどに大きい。
 故に就寝時間を過ぎれば皆早々と眠りにつく。訓練など以ての外である。
 以前、それを行ったティアナ・ランスターはその後そういったことは行っていない――否、隊員誰もが行っていない。
 身体に無理のある訓練とはそれだけで“効率が悪い”のだ。
 適度な休息と過酷な運動が相まってこそ、肉体は鍛えられていく。
 そして、連日の訓練や通常業務にさえ支障を来たす――仕舞いには本分である出動時にまともな動きさえ出来なくなる。
 だから、基本的に禁止されているのだ。そういった無理な訓練は。
 故に、今の機動6課でそんなことをする者と言えば一人しかいなかった。
 シン・アスカ。フェイトの心を悩ませる、ギンガの想い人であり、はやての武器。
 考えるまでも無い――彼しかいないのだ。


「まだ、起きてるんだ?」

 訓練場の一角――グラウンドの隅である――に座り込み、一心不乱に右手に意識を集中させているシン・アスカの後方からフェイトは声をかけた。
 赤い光で照らされる彼の顔は無表情そのもの。一心不乱にその作業に没頭していた。

「……ああ、フェイトさんですか。」

 声をかけられて、初めて気づいたのか、シンは彼女に振り向く。
 色濃く疲労が見える顔。けれど、その表情はいつも通りの柔和な笑顔。
  その顔は、彼女の心を曇らせる。
 ――その顔の裏側を聞いてしまったから。

「こんな時間にまだ訓練なんて……」

 少しだけ咎めるように呟く。シンはそんな彼女を見て、申し訳なさそうに苦笑しながら呟いた。

「ああ、日課くらいはやっておかなきゃって思って。」

 そう言って、右手に溜め込んだ魔力を霧散させる。

「日課ってそれのこと?」
「はい。」

 そう言って、一瞬右手に意識を集中させる。
 流れ込む魔力を留め、束ね、練り上げていく。
 イメージするのは吹き上がる寸前の間欠泉。
 自身の右手から生まれる朱い魔力の間欠泉が吹き上がる寸前をイメージする。
 赤い光が輝きだす。外観はまさに膨れ上がった弾ける寸前の朱い風船球。
 輝きは収まらない。
 けれど、触れあがる外見とは裏腹に、ソレは熱くも無く、煩くも無くただ静かに光を発し続け――そして、消えた。
 それは全ての魔法の基本中の基本。そして、シンの使う魔法「パルマ・フィオキーナ」を構成する技術。

「収束と開放と変換……」
「毎日、やってるんです。俺は、まだ魔法使い出したばかりの素人ですから。」

 そう言ってシンは再びその作業に没頭し始める。
 その瞳はキラキラと輝く子供のような無邪気な瞳。
 例えるなら――プラモデルを作ることに没頭する子供のようだった。

「……楽しそうだね。」
「楽しい……そうですね、楽しいです。此処は、守らせてくれるし――」

 フェイトの問いかけにシンは振り向かずに答える。今度は両手に魔力を収束させている。
 そして、それを終えると収束箇所をどんどんと変えていく。
 足裏、右肩、左肩、背中、腰、しまいには頭や腹部にまで。身体中の至る箇所が朱く輝いていく。

「――戦って、誰かを守っても、文句言われないんですから。」

 そう、“嬉しそう”に微笑みを浮かべた。
 その微笑みは彼女の顔を曇らせる。理解、出来ないからだ。

 ――どうして、そんな嬉しそうなのか。それがどうしても彼女には分からなかった。
 次元漂流者とは基本的に孤独である。
 何故なら、彼らは全て“元いた世界”から弾かれて来た者ばかり。
 異世界に流れ着く理由――その理由の殆どは単なる事故だ。
 つまり、彼らは事故によって別の世界――自分のことを誰も知らない孤独な世界へと流れ着く。
 誰も彼もが悲嘆に暮れる。
 帰りたい。帰りたい、と。
 孤独だから。自分のことを誰も知らない世界。
 世界のことを何も知らない自分。

 ――それは、どれほどの孤独なのだろう。
 彼女――フェイト自身、クロノ・ハラオウンやリンディ・ハラオウンと言った家族、高町なのはや八神はやて等の親友が“出来た”からこそ、この世界にやってこれた。
 それは彼女だけではない。誰だってそうだ。
 八神はやても、今は療養中の高町なのはも、家族がいたから、友達がいたから、此処に来ることが出来た。
 だけど、彼にはソレが無い。
 そういった、この世界での絆が皆無なのだ――彼女、ギンガ・ナカジマを除いて。
 ならば、ギンガとの間には絆があるのかと言うとそれも首を傾げざるを得ない。
 何故ならシンがギンガに抱く気持ちとは、ただの大事な仲間へ向ける気持ちに他ならない。友情ではあっても、愛情ではない。

 ――以前、一度だけ、彼に聞いたことがある。彼女のことをどう思っているのかを。無論、それは興味本位で、だ。

 その時の彼は、まるで狐に化かされたような表情をしていた。そう、質問の“意味自体が分からない”と言ったような。
 そして、彼はこう言った。

「……大事な仲間ってとこじゃないですか?」

 散々考えた挙句の答えがこれだった。
 彼は、シン・アスカはギンガ・ナカジマを大事に思っているだろう。
 だが、それは恋愛感情の“大事”とは違う。守るべきモノ。それだけだった。
 つまり――彼には何も無い。
 彼女、フェイトにはそれがどうしても分からない。
 どうして、そこまでして、ソレだけに固執“出来る”のか。
 それがどうしても理解出来なかったからだ。
 訓練を続ける彼の背中はそんな彼女の想いと裏腹に非常に“楽しそう”だったから。
 だから、

「……シン君はどうして、ここで戦うの?」

 思わず、呟き、フェイトはすぐに口をつぐむ。
 だが、一度口から出た言葉を変更するなど出来はしない。シンが、その言葉に反応し、振り向いた。

「……どうして?」

 そんなことを聞かれたコト自体が意外過ぎたのか、シンは不思議そうに呟く。
 シンの朱い瞳がフェイトの赤い瞳と交錯する。
 無邪気な――何万人もの人間を殺した虐殺者とはとても思えないその瞳。
 沈黙は数瞬。そして、口を開く。

「キミの過去を聞いたんだけど……キミはずっと戦い続けて……此処に、来た、ってことを。」
「……それが、何か?」

 自身の過去を聞いた――つまりは人殺しの過去を知ってしまった。
 シンの瞳が少しだけ鋭くなる。
 彼女が自身を危険人物だと判断している。
 胸中に恐れが渦巻く。この願いを奪われるかもしれない――そんな恐れが。
 フェイトは俯いている為、シンのそんな視線には気付かない。
 呟く。

「……だから、どうして戦うの、かって。」
「……」
 
 その言葉に込められた感情は――どこにでもよくある感情だ。
 よく聞く感情とも言える。

「……同情、ですか。」

 微か、落胆するような呟き。
 安っぽい同情――それが少しだけ癇に障り、そして“安堵”する。目の前の女性が、“邪魔者”にならないことに。
 フェイトがその声を聞いて、顔を上げた――表情は、少しだけ茫然と。
 彼女はシンが同情を受けたことに激昂しているとでも感じたのかもしれない。
 そんな勘違いをしている顔。

「ち、違う、私は……!!」

 だが、フェイトはそんなシンを見ると慌てて彼に向かって、手を振って否定する。
 心中では自己嫌悪の嵐だ。
 そんなことを言うつもりじゃなかったのに。
 そんな気持ちはまるで無いのに。
 フェイト・T・ハラオウンにとってシン・アスカとは取りも直さず劇物なのだ。
 思考を淀ませ、感情を歪ませ、心を掻き乱す。
 だから、このようになってしまう。言わなくていいことを言ってしまい、言うべきことを言えない。

(どうして、私は……)

 そんな風に落ち込むフェイトを見て――シンは軽く息を吐いて、訓練を一旦止めた。
 そして、一度背伸びして、床に寝そべり、空を見上げる。

 見上げた空は晴れ晴れとして星の輝きがとても綺麗な――彼にとって、何よりも身近だったはずの星々を思い出させる。
 思い出したくも無い世界のことを。
 もう、切り離されて、思い出すことすら無くなっている世界のことを。
 シンが口を開いた。
 至極穏やかな表情で――月夜の湖面のように穏やかで静かな表情だった。

「――力が欲しいんです。」

 けれど、吐き出された言葉はそんな表情にまるで似合わない殺伐としたモノ。

「……」

 静かな彼の言葉。はそれを静かに聞いている――聞くしかなかった。
 瞳が朱く濁り出す。
 穏やかな表情とは裏腹に、瞳を濁らせる欲望の渦。
 穏やかな微笑みを、凄絶な薄笑いへと変貌させていく。

「力があれば何でも守れるから。今思えば――多分やりたかったのはそんなことだった。」

 彼の瞳に現れ出した虚無。それは朝、はやてに向けた虚無そのもの。
 知らず、彼はそれを表に現していた――童話の中の怪物が、誰かの皮を脱ぐようにして。

「ただ守りたいだけだったんです。俺は……誰も守れなかったから。」

 語るごとに朱い瞳の濁りが強くなる。

「けど、元の世界じゃそんなこともさせてもらえなかった。」

 呟きは止まらない。楽しそうに、謡うように、そして嘆くように。

「皆、世界の平和だの、世界の未来だの小難しいことばっかり言って、目の前で苦しんでる誰かを守ろうともしなかった――最後は多分俺もそうなってた。」

 虚無に、悔恨が混じる。
 見上げた空に手を伸ばす。その行動に意味は無い。ただ、何となくだろう。
 雲に隠れていた月が現れた。
 ふと、彼は振り向いた。黙り込んでいた彼女――フェイト・T・ハラオウンが気になって。

「……」

 フェイト・T・ハラオウンはいつの間にか床の上に座り込んでいた。
 月の光で照らされた彼女はまさに女神もかくやと言うほどに美しく――けれど、その表情は暗い。
 恐らく彼女はシンのことを傷つけたとでも思っているのかもしれない。
 どうでもいいことだ、と苦笑する。
 
 ――そう、本当にそれはどうでもいいことだ。
 
 そう、心中で呟き、彼は彼女からは見えないように少しだけ苦笑する。
 この人が気にする必要なんて無い。
 使い潰してくれるだけで良いのに――そんな言葉を内に秘めて、彼は続けた。
 
「けど、ここはさせてくれる。力を振るっても誰にも迷惑はかからない。休息だって出来る。訓練だって出来る。しかも……殺すか殺さないかで迷わなくていい。だから此処は最高なんです。俺にとっては。」

 彼の瞳の朱は紛うことなく、虚無を示す。それは、彼女が昔見た忘れられないモノ。
 彼女の母――プレシア・テスタロッサと同じ虚無。取り戻せないモノを取り戻す為に自身を切り売りする破滅主義。
 浮かべる笑みは破滅を享受する死神そのもの。
 いずれ、落ちるであろう破滅すら厭わない死者の微笑みそのもの。

「……その為なら、死んでもいいの?そんなこと繰り返してれば……こんな無茶ずっと繰り返してたら死ぬんだよ?」

 座り込み、俯いたままフェイトはシンに尋ねる。
 けれど、シンの声はそんなフェイトとは対照的にあまりにも日常的過ぎた。まるで、散歩にでも行くような気軽さで。

「死ぬ気は無いです。死んだら守れないし。けど、まあ……死んだら死んだで仕方ないかなとは思ってますけど。戦ってる以上は、仕方ないことですから。」
「仕方ないって……そんな、簡単に。」
「まあ、仕方ないのは本当ですからね。……あ、もうこんな時間だ。」

 シンはそう言って立ち上がると一度大きく背伸びをして、振り返ると座り込んでいたフェイトに向かって手を伸ばした。

「行きましょう、フェイトさん。もう、遅い。」

 差し出されたその手を掴む――寸前、フェイトは呟いた。俯いたその表情は髪で隠れた彼からは見えなかった。

「……最後に聞かせて。」

 小さく、しかしはっきりと彼女は彼に向かって質問した。

「はい?」
「元の世界には、もう、戻りたくないの?」

 その質問を受けて――シン・アスカの瞳が変質した。
 暖かく柔和な瞳から、冷たい無機の瞳へと。
 元の世界――平和な世界。
 乱れない平和。その中で生きる自分――考えただけで吐き気がする。
 シンが呟く。
 声は低く、空気を掻き分けるような重さが籠められていた。

「……“守れない”世界に用はありません。あそこは俺のいる場所じゃない。」

 瞳に嘘は無い。彼には元の世界への未練など露ほども無かった。

「……そう。」

 シンの手を掴んだ。瞳の冷たさとは違って、暖かかった。
 その暖かさが余計に彼の孤独を強調しているようで――フェイト・T・ハラオウンは何故か悲しさを感じていた。
 どうして、目前の男はこんなにも、嬉しそうに“思い出(キズ)”を語るのだろうか、と。


 一人の男がいた。
 男の性は炎。近づく者を――自分自身ですら焼き切る、燃え盛る朱い炎。近づけば全てを焼き尽くす紅蓮の火。
 
 二人の女がいた。
 一人の女は人間。そしてもう一人は人間ではなく。

 人間の女は男を抱きしめる。
 自分自身ですら焼き尽くさんとする男を抱き締め、共に歩いていこうと支えていこうと、“勝手に”決意をした。
 例え、その先に自分自身すら焼き尽くされることになろうとも。
 それが女の願いだから。彼女は人間であるが故に傷つき易く、そして強く、だからこそ“勝手”であり――ソレゆえに美しかった。

 一人の女は人間ではなかった。内実が、では無い。その在り方が。
 人間ではないその女は何なのか――それは言わば女神。人間の善性を信じ抜く無垢なる善。それを女神と言わず何と言おう?
 女神は男の前で立ち竦む。彼女は女神であるが故にその炎に焼かれるようなことは無い。けれど、女神は立ち竦む。
 優しく微笑むだけだった女神は、優しく抱き締めることを知らないから。伸ばそうとした手は動かない。

 ――女神は今も迷い続ける。

 その手はいつ動くのか。それは、誰にも分からない。そして、彼に焦がれる理由も分からない。
 鎖は強く、今も彼女を縛り付ける。
 強く、強く。
 けれど、これは運命の恋。
 女神が恋焦がれるのは、化け物だと、むかしむかし、から決まっているのだから。




[18692] 第二部機動6課日常篇 12.接触と運命と Other side
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/29 12:12
 これはシンが八神はやてに休めと言われ、街中を歩いていた時の話である。
 昼飯に入った牛丼屋でのことだった。
 
「豚丼特盛。つゆだくで、ギョクと味噌汁も。」
 
 堂に入った注文っぷり。まるでこの店のことは誰よりも知っているといわんばかりである。
 
 牛丼を持てはやすのが現在の世界だ。
 豚丼はそれの代替品でしかない。豚は牛に敵わない。そういうことなのかもしれない。
 
 だが、シンはこの豚丼というものがコトの外好きだった。
 別段料理を作れない訳でもなければ、味覚が変な訳でもない。元々、食事にそれほどこだわりがないシン・アスカである。
 
 とにかく量があればそれでいい。安ければ言うことは無い。その上速ければ最高だ。
 安くて、速くて、多量。
 
 シンにとってこの豚丼や牛丼というファーストフードは非常に性にあったモノだった。
 その上であえて豚丼を選んだ理由は味だった。
 
 ショウガの聞いた豚肉と白米の生み出すハーモニー。
 そこに卵をかき混ぜて投入し、仕上げに紅ショウガと七味をこれでもかというほどにかけて食す。
 聞かれない限りは誰にも言わないが、この一時が何よりも彼にとって至福の一時であった。
 故に特盛。特盛以外は食べることは無い。
 
 6課の食堂で食べることの出来るメニューは確かに美味しい。
 美味しいのだが、シンには洒落た感じがしてとっつき難いのだ。
 ラザニアと呼べばいいのにラザーニャと呼ぶような、パスタと言えば良いのにスパゲッティーニと言うような、そういった洒落すぎた感じがあった。
 勿論嫌いな訳でも食べない訳でもない。
 栄養バランスという点で言えばあちらが確実に上なのも分かる。
 けれど、シンはこちらの方が好きだった。飾りようの無いファーストフードの方が好きだった。

「はい、豚丼特盛つゆだくです。」

 注文してから数分と経たず彼の前に現われた豚丼。味噌汁も直ぐに用意され、卵は横の小鉢に添えられている。
 この速さは魅力である。待ち時間が無い。つまり、空腹を味わうことも無い。タイムイズマネー。素晴らしい。

「さて、七味と紅ショウガは……なんだ、アイツ。」

 卵を投入し、これから七味と紅ショウガで仕上げようと思ったシン。その視線の先にいるのは何ともまあ怪しげな男であった。
 サングラスをかけた白衣の男。髪の色は紫。瞳はサングラスで隠れて見えない。白衣の下のスーツは高級そうだ。
 曲がり間違ってもこんなところで昼食をとるようなそんな人間の風体ではなかった。
 怪しいといえばこれ以上無いほどに怪しい。今すぐ警察に突き出しても誰も文句は言わない。そんな気さえしてくる。
 
「……まあ、いいか。」

 だが、今のシンは休暇である。
 八神はやてに休めと言われたのだ。故に仕方ない。

(放っておこう。)

 実に懸命な判断である。
 だが、運命は彼にその賢明な判断を許しはしなかった。

「いつもので。」
「はい、牛丼特盛トリプルのセットですね?」
「今日はそれに卵をつけてもらおうか。」
「分かりました。」

 トリプル。シンは聞いたことの無い、その単語に内心首を傾げた。
 冷静に考えればトリプルと言えば、漬物、味噌汁、サラダ、のことだろう。

(結構食べるんだな。)

 見た目は優男だと言うのに、その胃袋は屈強なのかもしれない。痩せの大食い、という奴だろうか。
 そんな益体も無いことを考えながらシンは目前の豚丼に箸を伸ばす。
 汁を吸った白米の上に豚肉を乗せるようにして掴む。口に運ぶ――瞬間、ドンと言う音がして、テーブルが震えた。

 思わず、そちらを振り向く。
 そこには信じられない光景が広がっていた。
 メガ盛と言うものがある。特盛の更に上位。メニューにあるメニューの中では最上位の量と値段を誇る王である。
 だが、その優男の前に現われたメニューはそんなものではなかった。
 牛丼特盛トリプルのセット。
 トリプルセットではない――そこにあったのはその名に恥じない巨大な牛丼であった。そう、特盛トリプル(3倍)の名前通りに。

「……馬鹿な。」

 そんな巨大な牛丼を前に「ふんふんふーん♪」と鼻歌さえ歌いながら、卵を投入し、紅ショウガをこれでもかと言うほどにかけ――その一瞬で紅ショウガの入っていた箱は空になっていた――七味を親の敵の如くかける。
 呟き、絶句するシン。
 あの威容に対して自分の食するこの豚丼は何と小さいことか、と。みすぼらしささえ感じてしまうほどに。
 悔しげに歯を噛み締めるシン――優男と目が合った。
 優男は、シンを見る。その下のメニューを見る。
 豚丼特盛。

「はっ」

 鼻で笑われた――嘲笑。いつもなら無視するのにその時は無視できなかった。

(あいつ……!!)
「……すいません。俺にもあれと同じサイズの豚丼ください。ギョクつきで。」
「お、お客様追加でございますか?」
「追加です。」

 数分後。威容が現われた。

「……ぬふう」

 おかしな台詞が口から洩れた。
 シンは今、トリプルが来るまで数分で当初の特盛を平らげた。
 その速さは非凡である。だが、その非凡もこの威容の前では霞むのみ。
 真向かいを見る――あの優男は優雅な箸使いで牛丼を食している。何せ箸の先しか汚していないのだ。
 何と言うテーブルマナー。何と言う礼儀使い。

 ――それがやけにシンを苛立たせ癇に障らせた。

「上等だ。」

 一人、呟くとシンは目前の豚丼特盛トリプル(日本円にして1800円相当)に箸を伸ばした。
 ――豚丼を舐めるな。
 当初の目的とは既にズレていることに気付かないまま。


「……中々やるじゃないか。」
「……アンタこそな。」

 そこは公園。
 二人の男はそこに設置されてあるベンチにもたれるようにして座り、天を仰いでいた。
 両者共に息が荒い――単純に食いすぎだった。
 シンとサングラスの男の期せずして始まった大食い対決――それは傍から見た者にとっては正に鬼気迫るものであった。
 食う。
 食う。
 食う。
 相手を見る――ニヤリと笑うサングラスの男。
 おかわり――驚愕するサングラス/ニヤリと笑い返す――おかわりの声。再び驚愕。
 終わらない円舞曲の如く続くお代わり合戦――正直、食いすぎで休暇言い渡された自分がどうして、わざわざ大食いをしているのか良く分からない――思考を遮断。考えるな。考えればその瞬間、全てが終わる。
 バーストアウト――嘔吐(リバース)を意思の力を総動員して押さえつける。
 抑圧する食道。食に対する暴虐に等しい――味が分からなくなってくる。
 旨いのか旨くないのか。食っていることすら曖昧になる意識。
 胃の許容量を超える内容物――それでも豚丼は旨い。その一心を頼りに口に運ぶ。食べる。流し込む。
 霞む意識――狭窄する視野。
 それでも食べ続け、二人は2杯目のトリプルを食べ終えた時点で代金を払いその場を離れた。
 睨み合おうとし、そんな気力などどこにも残っていないことに気づき、それでも歩き続け、此処に座ることになった。
 ちなみに冒頭の台詞までは一切喋っていない。
 どちらも先に口を開いた方が負けだ、などと言う訳の分からない衝動に支配されていたからだ――結局のところサングラスの男が先に折れた訳だが。
 男がシンに向かって呟いた。

「キミ、名前はなんと言う?」
「……シン・アスカだ。そっちは?」
「……J。ドクターJとでも呼んでくれたまえ。」
「アンタ、それ絶対本名じゃないだろう。」

 サングラスの男――ドクターJなどとふざけた名前を名乗った男はシンの咎めるような台詞に苦笑する。

「色々と事情があってね。そう、深く聞くのは野暮じゃないかね?」
「……まあ、いいさ。」

 そう言って、黙り込むシン。別に深く聞こうとも思わなかい。
 言いたくないならそれで構わないし、自分も身分を偽って話をするつもりなのだからお互い様だろう。
 名前を名乗らないくらいは別にどうでもいいこと――確かに野暮かもしれない。

「シン・アスカ、と言ったかね?」
「……ああ、何だよドクターJ……なあ、言いにくいからJでいいか?」
「別に構わないが、多分そっちの方が恥ずかしいと思うが?」

 一瞬、沈黙するシン――Jと呼ぶ自分を思い浮かべる。
 何だろう、呼び合うだけで生まれるこの何とも言えない恥ずかしさは。

「……やっぱりドクターでいいか?」
「むしろ、普通はそう呼ぶと思うんだが……思わずキミは羞恥プレイが好きなのかと勘ぐってしまったよ。」
「なんで羞恥プレイに俺が走らなきゃならないんだよ!どんなマゾなんだ、俺は!?」
「違うのか。まあ、それはいいとして。」

 しれっと流すドクターJ。シンは唇を引くつかせながら視線をそちらに向ける。

「……あー、もう、それでなんだよ?」
「キミ、この後暇かね?」

 ドクターJは顔だけシンに向けてそう呟いた。正直、腹が痛くて動きたくないのだろう。

「……暇、ではあるな。」

 時刻は2時。この後の予定は白紙。元々今日は休暇ではないのだから当然である。
 仮に休日だとしても本来なら黙々と訓練を繰り返しているであろうシンにとって休日の予定など白紙以外在り得ない。
 と言うかそういう暇つぶし――遊びそのものをよく知らない。
 ミッドチルダと言う異世界に来て以来やっていることと言えば訓練と仕事くらいである。
 遊びどころか遊ぶ場所すら知らないと言う有り様である。
 ドクターJはシンのその返答に気を良くしたのか、ニヤリと彼に笑いかけた。

「……なら付き合わないか?」
「付き合う?」
「そうだ。どうせ暇なんだろう?だったら私の散策に付き合わないか、と、そういうことだ。」
「俺も殆どこの街知らないから案内とか出来ないぞ。」
「構わない。私が案内しよう――私には行きたいところが幾つかあるのでね。」
「……俺と、か?」

 散策――クラナガンを見て回ると言うことだろうか。
 それはいい。だが、どうして自分を、とシンは思った。
 今日会ったばかりの見ず知らずの人間。それもさっきまで大食い勝負を演じていたような相手だ。
 確かに親近感は沸くだろう――けど、それだけだ。接点の無い人間と街を歩いたところで面白いはずもない。

「キミとだね。ただ私に付いて来ればいいだけだ。暇潰しにもなるだろうし、街を知る事も出来ると思うが……どうかな?」
「……まあ、どうせ暇だし、いいさ。付いてくよ。」

 上を見上げた体勢のままシンはそう呟いた。ドクターが嬉しそうに立ち上がる――どうやら胃の調子は元に戻ったらしい。

「では、さっさと行かないか?ここでこうしていても時間を無駄にするだけだ。」
「……だな。」

 そう言ってシンも立ち上がる。

「……で、どこ行くんだよ?」
「楽しみにしておくことだとだけ言っておくよ、シン・アスカ君。」
「どんだけ胡散臭いんだよ、それ。」

 さもありなん。見た目も口調もやる事も、その全てが胡散臭い。
 全てに嘘を感じる、という訳ではない。
 それはシンがこれまで感じたことの無い感覚――享楽という類の感情だ。
 目に映るものを楽しむ。
 純粋な欲望の発露の感情。シン・アスカが決して得ることのなかった感情。理由の無い愉悦そのもの。
 そんなシンにとって理解不能で不可思議な感情を前に胡散臭さを感じ取り――その胡散臭さがそれほど不快ではないことに気付く。
 目前にいるのは礼儀正しく、慇懃無礼で、高圧的で、上から目線で――はっきり言ってシンにとって最も嫌悪に類する人種だ。
 けれど、シンは目前の男にどこか懐かしさにも似たモノを感じていた。
 極端なほどに胡散臭いと言うのに、どこかその胡散臭さを好んでしまう自分がいる。不思議な、感覚だった。

「……何を呆けている?アスカ君、さっさと行くぞ。それとも……ホントに羞恥プレイが好きなのか?」

 しつこい。しかもその羞恥プレイという言葉が気に入ったのか、一人でブツブツと呟いている。

「羞恥プレイを周知する……くっ、くくくくく!!」

 終いにはそんなヤバイレベルの駄洒落を呟きながら笑い出して始めている。
 周りにいた人間は物凄い勢いで引いている。ドン引きである。
 しかもドクターの視線は自分に向いているから、自分も同じに思われているのかもしれない。
 マユと同じ年くらいの子供がこちらを見つめている――母親に呟いていた。

「お母さん、羞恥プレイって何?」
「……み、見ちゃ駄目よ、ハルカ。ああいうのはいないものと思って無視するのが世の常なのよ?」

 泣きたくなった。いつの間にか羞恥プレイの相方だと思われているらしい。

「……あー、凄い帰りたくなってきた。」
「何をしているんだ、アスカ君!!そんなに羞恥プレイを周知……く、くくくく、これはやばいぞ!」
「……お前の頭がやばいと思うぞ。」

 そう言ってシンはまだ少し張っている腹を無視して走り出す。
 これ以上、ドクターが馬鹿なことを言い出す前にこの場を離れよう。そう思って。

 ――それと羞恥プレイの相方だと思われるのは本当に嫌だった。

 何かうんざりして疲れたような気分を味わいながら、シンは笑い続けるドクターに向かって走っていった。
 太陽の光を浴びる緑がやけに綺麗だった。


 ドクターJ。サングラスをかけた優男。
 その男がシンを連れまわした場所は、どうと言うこともない場所――彼の持つ胡散臭い雰囲気にそぐわない美しい場所だった。

 一つ目はクラナガンの中でも有数の公園。
 新緑と太陽が織り成す風景。
 子供たちが楽しく遊ぶ光景――自分にはまるでそぐわない場所。
 清々しい空気。綺麗な世界――居心地の悪い世界。それは多分自分の錯覚なのだろうけど。

 二つ目は単なる海辺。
 沈み始めた太陽と海の織り成す光景。
 美しいと言う言葉以外思いつかないほどにの美しさ。
 陳腐な言葉――けれど、それ以外に当てはまるものがないほどの美しさ。
 どこにでもある海辺が豹変する瞬間。

 そして三つ目は立ち並ぶビルの屋上――そこから見える光景だった。
 日は既に落ち、時刻は7時を過ぎている。
 感じていた胃もたれはもう無い。
 高層ビルの屋上だからか、風が強い――気持ちよかった。

 その場所から下を見る。ネオンが映し出す世界――裏も表も、清濁呑んだからこそ生まれる光景。
 その灯りの下では幾つもの挫折と栄光が立ち並ぶ。
 都市部の中心――それもミッドチルダの首都という現実のど真ん中とも呼べる場所。なのに、その光景はひどく幻想的で美しかった。
 眼下を見れば人々が思い思いの日々を謳歌している。道行く車。喧騒とざわめきが支配する眠らない都市。

「……綺麗なもんだな。」

 ぼそり、と呟く。
 見慣れていたと思っていた光景――けれど、思えば初めて見たような気さえする光景。
 それを見て、少しだけ寂しさを感じた――そこに入り込もうとも思わない自分自身が少しだけ寂しくて。

 この光景はどこにでもあるものだ。
 月光にこそ映える桜。潮の香り漂う海。夜空に浮かぶ朧月。深々と降り積もる雪。
 何処にでもある光景――世界を渡り歩いたシン・アスカならばいつだって見れたはずの光景。けれど、思い浮かぶものはいつだって“赤”だった。
 朱い世界。炎で燃える世界。誰かが泣き叫ぶ世界――自分が憎んだ世界。

「綺麗なものさ……愚かな人々はこうして日々の疲れを癒し、そしてまた日々に埋没していく。これはそうやって癒し、癒される人々の生み出す輝きなんだ。」

 穏やかにドクターは言う。その言い様は男の風体や雰囲気には到底そぐわないモノだった。
 シンはその横顔を見て思わず口を開いた。

「……今日は色々連れてってくれたけど、あれ、全部アンタの好きなところなのか?」
「ふむ……そうだな、その通りだ。私も最近知ったのでね。思っていたよりも世界というのは美しいものだと。」

 美しい。確かに美しいものだろう。
 綺麗な風景が人の心を和ませるのは当然のことだ。そう、告げるとドクターは、にやりと笑い、告げた。

「落第だな。まったくもって違うさ。」
「……風景が綺麗って言いたいんじゃないのか?」
「世界とは、そこに生きる人々をも含めたモノを言う――くだらない人生、くだらない生活、くだらない生活に追われて生きるくだらない人々。」

 ドクターはそこでシンを見た。サングラスの位置を直す。呟いた。

「だが、そのくだらなさが何よりも美しい。持たざる者こそが世界を動かしている。その事実が何よりも美しい――そう思わないか?」
「かもな。」

 静かに呟いた。
 彼はこう言いたいのだろう。世の中はくだらない。けれど、そのくだらなさこそが何よりも美しい。得がたい宝物なのだと。

 それは、自分には理解出来ない事柄だった。決して理解できない――多分、他の人間は理解できるのだろうが。
 目前の男の言い方に従って言えばシンにとって世界とは守るべき対象でしかない。

 シン・アスカの望みは守ること。全てを――昔出来なかったヒーローごっこをいつまでもやり続けることでしかない。

 守ることで得られる充足感も、守れないことで得る焦燥も全て、ソレが発端。
 ヒーロー。そんな映画や漫画、御伽噺の中にしか存在しない荒唐無稽の存在になりたいだけ。

 誰がどう生きているかなどどうだっていいのだ。生きていれば――生命活動を行っていればそれで自分は満足できる。
 本当のヒーローのようになど出来はしない。
 目に映る人々を全て“救う”ことなど、自分には不可能だ。
 だから、“守る”。全てを。
 それが本当の願いから零れ落ちた薄汚い妥協の願いでしかないと知っていて尚突き通す。

 ヒーローならそんなことはしない。
 きっと妥協せずに自身の願いにまい進する――妥協して突き進むしかない自分のやっていることは、だからヒーローごっこに過ぎないのだ。
 その望みは決して外側には向かない。いつまでもいつまでも内面に沈んで行くだけの空想に過ぎない――そしていつか潰える、それだけの望みだ。

 目前の男――ドクターJの言っていることはソレとは違う。彼の目は外へと向いている。
 ドクターが話を続ける。楽しそうに。

「私は昔から思索の末に思いついたことを実践してきた。色んなモノを生み出した。」
 
 ドクターの口調に哀愁が混じる――悔恨ではない。

「それがつい最近は実践できなくなってしまってね。それはさぞや面白くないことが始まると思っていたのだが……これはこれで面白いことに気付いたんだよ。」

 うなずきを繰り返す。そして空を見上げる――サングラスの横から映る瞳の色は金色。口調にはそぐわない、ギラギラとした欲望を備えた瞳。

「ただ、静かに思索に耽る日々。実践も実証も必要ない。考えをはき捨てるだけの自己満足だ……だが、その自己満足は殊の外に心地よいものだった。それに気付いた時、私は思った。これまでの私の人生とはなんと狭窄で狭い道を行っていたのかと。その道を後悔するつもりも無ければやり直そうとも思わない。だが、寄り道をしなさ過ぎていたな、とね。」
「寄り道?」
「その通りだ、アスカ君。私のように欲深い人間はもっと寄り道を楽しむべきだった。でなくば、このくだらなくも美しい世界を単なる箱庭程度にしか思えなくなる。それはあまりにも勿体無いと思わないか?」

 勿体無い――何ともそれは男にぴったりの表現で、思わず笑い出してしまう。

「勿体無い、か……確かにそうかもな。」
「だから、私は選んだ――この世界を守ろうとね。」

 男の声色が変わる。その声音に誰にも穢されない無垢なる愉悦を忍ばせて。

「この美しい世界を滅ぼさせるのは何とも度し難いことだ。この美しい世界は私にとって最高の遊び場だ。そして最高の“居場所”なのだ。それが訳も分からず蹂躙されるなど我慢出来るはずがない――例え神であろうと私から私のモノを“奪う”など許しはしない。私から奪っていいのは私だけだ。私以外の誰にもそんな権利は認めない。」
「世界を、守る?」
「そうだ。まあ、あくまで仮定の話だが……キミはこの世界がある日、突然滅びたらどう思う?」
「……想像が付かないな。」
「私はそんな滅びは我慢ならない。自分のやった結果として滅びるならともかく、知らぬ間に滅びて、最後は祈りを捧げて終わりを待つなど冗談ではないさ。」

 男がこちらを振り向いた。

「この世界は私のモノだ。私が生まれた、私にとっての遊び場だ。私が滅ぼすならともかく何者にも滅ぼさせる気は無い。」
「……もし、その為に誰かを犠牲にする必要があったら、どうするんだ?」

 シンが呟いた。鋭くドクターJを見つめた。こちらが真剣なコトを知らす為に。

 ――世界を守るなどという大それたことをするならば、それなりの代償も必要だ。

 今、目前の男は“そこに生きる人々を含めた世界”を守ると言った。
 それは自分よりも余程馬鹿げた願いだ。
 奇跡でも起こさない限り絶対に出来ない世迷言なのだ、それは。
 だから興味があった。
 この男にはそれに対する考えがあるのか、と。
 自分では思いつかなかった、自分では誰かに縋るしかなかったその願いを叶えるための対策――そんなモノが存在するのなら、聞いてみたい。そう思ったのだ。
 だが、ドクターJの返答は至って簡潔だった。

「犠牲にするさ。当然だろう?」

 まるで、当然のことのようにドクターは言った。
 呆気に取られるシン。だが、幾ばくかの後、シンは苦笑して頷いた。

「なるほど。確かにアンタらしいな、それは。」

 今日、初めて会ったばかりの人間に言う言葉ではない――そう、思いつつシンはそう言った。
 男のことはよく知らない。なのに、何故か旧知の友のように思ってしまって。
 言葉の裏にある思い。それは、羨ましいという気持ちだった。
 この男はそこに生きる人々が死んだとしても別に構わないのだろう――世界という共同体を維持するそれだけの人間がいるなら、それでいい、と。

 選択の恐怖――選ぶことで生まれる何かを捨てると言う結果。 
 シンはそれが怖い。もう何も選びたくない。何も考えたくは無い。その結果として今の彼の行動指針――守ると言うことが生まれた。
 だが、目前の男は違う。男の前にそういった恐怖など全く無い――否、それどころか片方を選ぶ事が片方を捨てるという事実さえ無いだろう。
 彼にとって選択の果てあるのは恐怖ではなく、あくまで未来でしかないのだ。
 男の中にあるのはシンのように小難しい事情ではない。
 単純に自分の邪魔をする者は許さない。ただ、それだけ。
 そんなシンプルな答えのみ。
 それが、どうしても羨ましく思えて――選べない自分とはあまりにも対照的過ぎて。

 シン・アスカは過程を求めた。故に選べない。過程を求めるが故に結果には届かないから。
 ドクターJは結果だけを求めている。故に、求めた瞬間、既に選んでいるのだ。

 選べない自分と選ぶしかないドクターJ。
 同じカードの表と裏のように決して出会うことは無い紙一重。
 黙り込むシンを見てドクターがシンに向かって口を開く。神妙な顔つきで。

「ふん……私は、私としてしか生きられない。そういうことだ。……キミもそうだろう?」

 自分は――確かに自分もそうなのかもしれない。
 生き方は変えられない。例え、誰に何を言われようとも、自分は自分として生きて、そして死んでいくしかないのだから。

「……まあな。」

 そう、呟き、頷いた。
 その肯定に満足したのか、男――ドクターJが懐電話が鳴り出した。

「おっと、失礼。……なんだ、ウーノかね? ああ、今から行こうと思っているところだ。準備は……そうか、分かった。……ああ、頼むよ。」
「ドクター?」
「アスカ君、キミ、この後暇だね?」
「はい?」

 訳も分からず質問に質問を返すシン。ドクターは、くい、とコップで何かを飲む動作をして、ニヤリと笑って呟いた。

「いい店を知っているんだが……呑みに行かないか?」


 歓楽街の中にある古びた住宅街――ネオンの光ではなく古びた電灯が辺りを照らし出す。
 周囲を歩く人々は皆、見ただけでそれと分かるような高級そうなスーツを着ている。
 その中を歩く明らかに場違いな男二人。
 サングラスの優男。高級そうな紫のスーツとその上に羽織った白衣。ドクターJ。
 ジーパンとTシャツ。そのまま草野球でも出来そうなほどの軽装。シン・アスカ。
 二人はある店の前で立ち止まり、シンは一人呆然としていた。

「……やっぱり俺帰る。」
「待てい。」

 振り返って脱兎の如く逃げようとするシン。
 そのシンの腕をを神速の貫手で捕らえるドクターJ。

「い、いや、だ、俺は帰る……だ、大体呑みに行くって言ったら、普通は、居酒屋だろう!?なんで、こんなところに来てるんだよ!!」

 さもありなん。あまりにも自分に場違いな雰囲気をびしばし感じるのだ。行きたくないに決まってる。
 周りを見れば香水くさい女性が男性と腕を組んで歩いている――所謂“同伴”だ。

(だ、大体、ここどこだよ!!何でミッドチルダにこんなところがあるんだよ!?)

 こういう空気は正直苦手だった。昔、無理矢理連れていかれたキャバクラを思い出す。
 煙草の匂い、酒の匂い、香水の匂い。いつまで居ても慣れない空気。そこにいた女性すら困ってしまうほどに喋れない自分。
 シンはそういった場の雰囲気に溶け込めないのだ。
 女性に慣れていない彼にとって、そういう「お姉ちゃんと酒を飲む場」そのものが駄目だった。辛いというよりも苦手だった。

「まあ、いいじゃないか、アスカ君。興味がない訳じゃないんだろう?」

 シンの腕を掴み、中に連れて行こうとするドクターJ。

「い、嫌だ、帰る……俺はかえ……」

 じりじりとドクターJに引っ張られ、シンはそれを本気で振り解こうとして解けないでいた。
 意外なほどにドクターJの力が強いのだ。見た目は単なる優男にしか見えないというのに。
 「ふんぬぎぃ」と言葉で形容するには難しいうめき声を上げて、シンは渾身の力を込めて、その腕を振り払うことに集中する。
 大体、金も無いのだ。とてもじゃないが、こんな高級そうな店で酒を飲んだらオケラだ。無一文だ。帰りのタクシー代だって無くなるに決まっている。
 下手したら騙される。財布ごと取られて、裸一貫で機動6課に帰る羽目になるかもしれない。

(じょ、冗談じゃない、ボラれてたまるか……!!)

 別にこういう店は、決してボラれるような店ばかりではないのだが、慣れていないシンにとってはどれも同じだ。
 スナック怖い。キャバクラ怖い。女は怖い。女は魔物だ。
 そう言って遊びはほどほどにしろと言っていた上官を思い出す。
 あれからだ。彼がPCゲームにハマっていったのは。そんな馬鹿なコトを思い出す――走馬灯のように。

(ノオオオオオオオ!!!出てくんな、ふくちょおおおおおお!!!!)

 発狂寸前のシン―――そこに声がかかった。超至近距離から。

「――おいでやす」

 息を吹きかけられるような距離。いや、実際耳に息が吹きかけられた。背筋が粟立った。

「ひゃうっ!?」
「……なんだね、その生娘が股を開く時のような声は。」

 ドクターJがシンを胡散臭そうな目で見つめる。

「お前、例えがいちいち卑猥なんだよ!!」

 いきり立つシン。流石に生娘扱いされては黙って居られない――だが、後方から彼らにかかった声が二人の諍いを止めた。

「ドクター、何馬鹿なこと言うてはるのん?お連れさん困ってるやないの。」

 その声の方向に振り向く二人――シンは一瞬、息を呑んだ。
 それは着物と言うものを着た女性だった。
 シンも言葉だけは知っている。東洋の神秘“キモノ”。
 自分たちとはまるで違うその出で立ち――白く塗られた顔。紅を引かれた唇。起伏の激しい肉体――出るところは出て、引っ込むべきところは出る。
 本来、着物を着た場合覆い隠すようになる為に、胸のサイズなどは分からなくなるものだ。
 だが、その覆いを突き破るかの如く彼女の胸は着物を押し上げていた――それは正に弾頭のような錯覚すら覚えかねない姿である。
 着物と言う名の艶姿。その覆いで尚隠しきれない肢体の妙。
 隠すはずの服装が、より内面を艶やかに魅せているのだ。ごくり、と唾を飲み込む――着物の中から感じられる色気に中てられて。

「ドクター、こちらはお連れはんでよろしいん?」
「ああ、ドゥーエ。その通りだ。そこで生娘みたいにビビってる子供を連れてきたのだよ。全く……困ったものだ。」

 肩を竦めて、やれやれと言った感じのドクターJの視線が突き刺さる。辛辣な物言い――その視線は酷く冷たい。

「だ、誰が生娘みたいな子供だ!!」
「キミだよ、アスカ君。」

 びしっとシンを指差すドクターJ。

「ぬ、うぐぐぐっぐぐぐぐぐ……!!」
「ふん、怖いのなら帰りたまえ。“たかが”舞妓遊び如きに恐れを成すとはキミはそれでも男か?ちゃんとついているのか?」

 そう言ってシンの股間をうすら笑いを浮かべながら睨み付けるドクターJ。
 シンの脳裏で音がした――カチン、と言う音。細くなる視線。噛み締めた奥歯。
 “ついているのか”――男にとって最も看過出来ない暴言。しかも股間に向かって楽しげに喋るとはどういう了見だ。

「……上等だ。」

 底冷えする声。シンはドクターの手を放るようにして振り解く――その手には既に力が入っていなかった。
 苛立たしげにシンが呟く。

「……マイコ遊びだかなんだか知らないけど、要は酒飲んでればいいんだろう?」
「そうだとも。旨い肴に舌鼓を打ちつつ、旨い酒を飲んで、野球拳をする。それが正しい舞妓遊びだ。」

 ちなみに一つだけ大間違いが入っている。
 別に野球拳は舞妓遊びの基本事項ではない。
 と言うか基本的に舞妓遊びはそういった類ではない――いや、確かにそういうのになる事もあるのかもしれないけど基本的には健全です。

「ああ、ヤキュウケンだろうと何だろうと、上等だ……やってやるさ……!!」

 そう血走った目をしたまま叫び、店の中に入っていくシン。
 その後ろでドクターJは笑っていた。唇を吊り上げた強欲の笑み――無限の欲望に相応しい微笑みを。


 店の中に入り、お座敷へ通されたシンが思ったこと。まず、やばい。次にどうしよう。最後は場違いすぎる。この三つだった。

「アスカはん、一献どうどすか?」

 独特のイントネーションで自分に話しかけるドゥーエと言う名のマイコ――舞妓と書くらしい。
 シンは中に入って酒を飲み出して初めてそれを知った。
 舞妓――第97管理外世界に舞い降りた奇跡。
 着物と化粧で身を包み、男を癒す天使たち。キャバ嬢とどこが違うのかと聞くとドクターJにはたかれた。思いっきり。
 ドクターが言うにはこうだ。「キミは馬鹿か!?お座敷遊びをキャバクラと一緒だと思ってどうする?ここは神聖なるお座敷――ニホンのキョウトやその他僅かな場所にだけ存在する天国だ。あんなどこにでもあるようなキャバクラと一緒にするなど恥を知るがいい……それが羞恥プレイの一環ならたいしたものだがね。」

 シンにはよく分からないがキャバクラとは雲泥の差があるほどに違うらしい。
 その後、羞恥プレイ羞恥プレイと薄ら笑いを浮かべながらブツブツ繰り返すドクターに本気でむかついたので取っ組み合いの喧嘩になりかけたが、ドゥーエに「喧嘩はあきまへんよ?」と注意されて、そこは抑えることになった。

 なんと言うか、シン自身知らぬ間にその場の雰囲気に飲まれていた。
 舞妓の醸し出す雰囲気――こう、癒しの雰囲気に。
 そうして、夜は更ける。二人が飲み出してから既に数時間。
 ドクターJとシン・アスカ。
 二人はまだまだ酔い潰れていなかった。


「……それで、私は思ったのだよ!世界は美しいとね!!……お、ドゥーエ、酒がきれてるじゃないか!?」

 都合、これで同じ話を15回目である。
 ドクターJはどうやら酒を飲むと同じ話を何回も繰り返して話し続ける癖があるらしい。
 正直、かなりうんざり気味だったりする。もう、ホントいいよ、コイツ。
 シンは殆ど無視して酒を飲み続ける。既に飲み明かした量は1升を楽に越える――それでケロリとしてる辺りかなりの酒豪である。

「あ、ほんまに?クアットロ、お酒のお代わり、もってきてくれへん?」
「わ、分かりましたわあ。」

 障子の向こうでどたどたと足音がする――恐らくクアットロと言う女性が酒を運んでこようと厨房に戻っていったのだろう。

「……時にドゥーエ、ウーノはどうしているのかね?」
「ウーノ姉さまとトーレは厨房で料理作ってはるから……・呼んできましょか?」
「うん?いや、構わんよ……しかし、アスカ君は見た目に似合わず強いねえ。」

 “コップ”になみなみと注がれている日本酒を一息に飲み干すシンを見ながら、ドクターが呟きながらお猪口を傾け一息で飲み干す。

「うーん、そうなのか?」

 喋りながらツマミの蒲鉾を口に運ぶ――旨い。ここまで呑んでみて思ったが、ここの酒も料理も相当に旨い。それこそ6課の食堂よりもはるかに。

「……そんな風に酒を浴びるように呑んで大丈夫な人間を強いと言わずに何と言うんだね?」
「失礼いたしますぅ……ドゥーエ姉さま、お酒ですわぁ。」

 語尾が伸びる口調と共に開く障子――そこから現れる白粉で白く染まった頬と紅い唇。
 手に持った盆にはお銚子が5本ほど立てられている。
 先ほど、酒を持ってくるように頼まれていたクアットロと言う女性なのだろう。

「おお、ようやく来たか。待ちわびていたよ、クアットロ。」

 ドクターがそろそろと手を伸ばす――だが、その手はお盆に乗せられたお銚子ではなくクアットロの太股へ向かっていく。
 そのドクターの手を、やんわりとした仕草で回避し、クアットロはテーブルの上に酒を並べならが苦笑を浮かべ、呟く。

「ドクター、酔いすぎじゃありませんことぉ?」
「おや、これは手厳しいな。」

 はははは、と笑いを上げるドクター。そのドクターに酒を注ぐクアットロ。
 あまりにも自然な二人の動作――それはまるで親子のような。年齢はそれほど離れてはいないように見える。だが、何故かシンはそう思った。
 ――もしかしたら、“そういう意味”での親子なのかもしれないが。
 そんなシンの思考を遮る声――同時に鼻腔をくすぐる香り。
 振り向けばドゥーエがお銚子を持ってそこにいた。

「アスカはん、どないです?」
「あ、すいません。」

 コップの中に残っている微量な酒を飲み干し、ドゥーエに向かってコップを突き出す。
 とくとくと注がれて行く酒を眺めながらドゥーエが呟く。

「アスカはんは……不思議な人やねえ。」
「へ?」
「ドクターとこんなに長く呑んでられる人なんてそういまへんえ?」
「……そう、なんですか?」
「皆、途中で帰ってしまわれるんどす。まあ、ああいう人やから反感買いやすい言うのもあるんやろけど。」

 何となくその風景が思い浮かぶ。
 自分はあまり気にならないが、確かにドクターJとの会話は疲れるのかもしれない。
 辛辣な口調かと思えば、気のいいオッサンのようでもあり、スケベなオッサンのようでもあり。
 千変万化し、一時足りとも同じなドクターはいない。
 面白い物があればそちらに赴き貪って楽しみ、飽きたら別の所に行く――簡単に言えば子供なのだ。
 だから、大人はついていけない。子供の遊びに大人が付き合えば疲れるのは道理である。
 もし、それについていける人間がいるとしたら、それは――同じく子供であると言うことになる。

(俺も子供だってことか。)

 思わず苦笑する。その結論が正しいものだったから。

「……アスカはんは……ドクターに似てはるようなとこ、あるんやろかもね。」
「かもしれませんね。俺は別に……そんな嫌じゃなかったし。」

 言葉にして、不思議に思った。
 嫌じゃない――こうやってドクターJと遊ぶことが。
 自分は、そういうコト全てを放り投げて守るだけで生きて行くつもりだった。それはこれからも変わらない。
 なら、どうして、こんな風に遊んでいるのに“焦らない”のだろうか?
 人生は有限だ。故に鍛えられる時間も有限だ。
 強く、誰よりも強くなって全てを守ると言う己の願いを叶える為にはこんな風に遊んでいる時間など無いのだ――なのに、何故。

「多分、俺もドクターも子供なんですよ。きっと。」

 理由は多分それだけ。
 自分とドクターJはズレることなく、同じなのだ。
 精神年齢が低いのか、それとも考え方が幼いのか。
 何かしら子供っぽい、のだろう。自分ではよく分からなかったけれど、ドクターJを見ているとそう思う。
 子供だから、大人と一緒にいられない。
 子供だから子供同士で遊ぼうとする。
 永遠の子供。ピーターパンシンドロームだったか、そんな言葉が書いてあった本を思い出した。

「子供……ふふ、子供はこんなところに遊びにはきまへんよ?ほんま、いやらしい子供やわあ。」

 言葉が耳元で流れる――ドキリとする。
 眼前、吐息が重なるような距離に彼女の顔があった。
 肩が当たる。意図して当てているのか、それともただ当たっただけなのか。
 どちらかは分からないが、その体温がシンの鼓動を早まらせる。
 体温が熱い――酒の火照りとは別の理由で。

「アスカはんの眼って、ほんまに綺麗やわあ。朱くて……ほんに綺麗。」

 穏やかな口調――心臓が早鐘を打つ。
 コップに注がれていた酒を一気に喉に流し込む。胃がかあっと熱くなる。
 早鐘は止まらない――当然だ。そんなものを流し込めば加速するだけだ。

「……ど、ドゥーエさん、ち、近いですから。」

 ドキドキする胸を無視して、言葉でドゥーエを遠ざけようとするシン。
 だが、ドゥーエはそんなシンの心情を知ってか知らずか――いや、知っているからこそ、より近づいてきた。

「こんなに赤うなって、ほんに可愛いお人。」

 吐息が前髪にかかる。いつの間にかドゥーエは更に近づいていた。
 ドクターに助けを呼ぼうと思って、周りを見る――既に居ない。クアットロと一緒に消えている。

(やっぱり、そういう関係か、お前らは!?)

 ――ドゥーエの左手がシンの胸元に伸びる。視線が絡み合う。
 奥底に何を秘めているかなどまるで見えない金色の瞳。それに紅い色が映り出す。

「……アスカはん。」

 まさかまさかの超展開。シンの心臓がオーバーヒート寸前まで回転数を上げていく。
 やばいやばい。何がやばいってこの展開はやばい。

(待て待て待て。)

 流される関係。溺れる関係。
 一体全体何が起こったのか、さっぱり分からないが、何故か“そういう”雰囲気が醸し出されている。

「え、い、いやいや、こ、この手は、な、何ですか・・どぅ、ドゥーエさ……ひやぁっ!!?」

 それこそ生娘のような声を出してシンが飛び上がる。
 飛び上がった理由は音だった。自分の胸元に忍ばせていたデバイス――そこからピピピと甲高い音がしている。
 着信音。シンはその音が何かを理解すると直ぐにデバイスを耳元に当てて、通話を開始する。

「は、はい、こちらシン・アス……」
『このドアホオオオオ!!!!!どこ、ほっつきあるいとるんや!!?消灯時間はとっくにすぎとるんやで!!?』

 耳を突き破るかと思うほどの轟音。八神はやての声だ。

「え……?」

 デバイスに表示されている時間を見る。時刻は既に1時半。消灯時間などとっくに過ぎている。

「ああああ!!!!」
『ああああやないわ、このアホンダラ!!!さっさと帰ってこんかい!!』

 そのまま怒号と共にガチン、と通話が終わる。

「……あ、あははは。」
「ふふふ……お帰りやねんね?」
「お、お帰りです。」
 ちょっとほっとしつつ、実はちょっとだけ残念なシンだった。

「さて、そろそろ“引き上げる”とするか。」

 からんころん、と足音を鳴らし――足元には下駄を履いている――振り返るドクターJ。
 シンを乗せたタクシーが曲がり角を曲がって消えていくのを見計らったように、ドゥーエが呟いた。

「……ドクター、今日は楽しそうだったわね。」

 ドゥーエの口調が変化している。先ほどの舞妓の喋り方ではない――どこか冷たさを感じさせる喋り方に。

「……さて、ね。羽鯨に餌として選ばれるような人間――それに興味が無いと言えば嘘になるがね。」

 呟いて、ドクターJがサングラスを外す。
 ――そこには異形の眼があった。およそ、人間には似つかわしくない色彩。金色と虹色のオッドアイ。

「……羽鯨(エヴィデンス)に魅入られた者、か。」

 言葉と共にドクターJ――ジェイル・スカリエッティの金色の左目と虹色の左眼が妖しく輝いた。
 二つの色彩の異なる瞳が空を見上げる――夜空には月が浮かんでいる。満月ではない――半月が。
 同じようにしてドゥーエも空を見上げた。その金色の瞳で。
 二人の瞳に映るのは同じく半月。
 だが、その心の水面に映るものは違う。

 ――片方は世界を救うと言う我侭の為に。もう片方は己の宿命に即した一つの願いの為に。

 静かな月夜。風が吹く。流れていく雲。
 そうして、どれだけの時が流れたのだろう。
 時間にして数分――もしかしたら何十分かもしれない。
 スカリエッティが呟く。

「……そういえば一ついいかね?」
「何かしら?」
「キミがいきなり迫るとはね。さては気に入ったのかい?あの朱い瞳の“異邦人”を。」
「……それこそ、さてね、だわ。」

 くすり、とドゥーエが笑い、着物をなびかせて、暖簾をくぐって店内に戻っていく。
 その艶やかな後姿を見ながらスカリエッティが強欲な微笑みを浮かべ、サングラスを再びかけ直す。

 ――からん、と足音を立てて、スカリエッティも店内に戻っていく。扉が閉まる。

 その瞬間、辺りから“音”が消えた。辺りに漂っていた喧騒が掻き消えた――まるで初めからそこに何も無かったかの如く。
 異常はそれだけに留まらない。
 光が、消えた。辺り一帯を照らし出していたネオンの光が。
 人が、いつの間にかいなくなっていた。喧騒が消えたのは当然だ。その元となる人間がいなくなったのだから。
 そして、最後に――建物が“崩れ始めた”。付近にあった建物全てが――「街」が崩れて行く。
 風化した砂山が風に運ばれて、崩れていくようにして、初めからそんな「街」など存在して居なかったかのように、さらさら、さらさらと、崩れていく
 「街」はその姿を紅く光る粒子へと姿を変え、闇に融け、そして消えていった。
 異変が始まって数分後。そこには歓楽街などどこにもない――あるのは月が照らし出す廃墟の群れだけだった。

 ――これは、ある一人の男の物語。



[18692] 第二部機動6課日常篇 13.運命と襲撃と(a)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 12:12
 母は弱い人だった。
 失ったモノの大きさに耐え切れずに禁忌に手を染めた。

 友は強い人だった。
 見ず知らずの誰かの為に身を賭して戦った。

 友は強い人だった。
 苦しみ続けたはずなのにそれでも誰かの為に笑っていた。

 私は弱い人間だ。
 誰かを救うことで、自分の空白を埋めていた。それが私。迷うこと。悩むこと。それを繰り返し続ける。
 それも全部、含めてフェイト・T・ハラオウンなのだ、と。
 
 ――“守れない”世界に用はありません。あそこは俺のいる場所じゃない。

 不意に、切って捨てるように、そう断じた彼を思い出した。
 彼は、強くは無い人だ。決して、強くはない人。
 何かを守ると言う為だけに生きると言うのは即ち思考放棄に過ぎないのだから。

 けれど――その生き方は誰から見ても綺麗だった。
 綺麗で、綺麗で、触れることすら躊躇するほどに綺麗で――何より歪。

 それは太陽のような美しさではない。
 例えるならば、月の美しさ。いつか消える定めを享受するが故の輝き。
 死ぬ事は結果の一つであり、大事なのはその“過程”だと言い切るが故の輝き。
 大切なのは、どう“生きたか”。それ以外の全てのモノを雑多だと断じるその生き方。

 それは私には、決して出来ない生き方。
 今も、自分の生き方は間違っているんじゃないのか。ただの欺瞞でしかないかと疑い続ける自分には出来
 ない生き方だった。
 
 だから、私は彼を凄いと思った。
 彼の生き方には欺瞞など欠片も無いから。
 正しいとか間違いだとかはまるで関係なく、その生き方に自分の全てを躊躇いなく懸けることが出来る彼に欺瞞などあるはずがないのだ。

 届かないモノに手を伸ばし、届かないと知りながら近づく為に走り抜けるその生き方。
 分不相応だと知りながら、そんなものは関係ないと自分自身を張り続けるその生き方。
 その生き方を美しいと思った。間違いを恐れる自分には決して出来ないと思ったから。

 ――だから憧れた。魅せられた。彼のようになりたい。迷いを捨てて生きていたい、と痛切に思ったから。

 自分は、フェイト・T・ハラオウンは彼の朱い瞳からもう目が離せないのだ――。

「――イトさん!!フェイトさん!!」
「……シン、君?」

 そこは暗闇の中。恐らくは彼が灯したであろう魔力光の光が朱く世界を照らしていた。

「こ、こは……」
「……閉じ込められたみたいです。」

 そこは密室の中。そこは廃棄区画内に張り巡らされていた下水道跡。
 明かりなど無い暗闇。肌を刺すような冷気。

「私……生きてる、の。」

 フェイト・T・ハラオウン。
 シン・アスカ。
 二人は、今――いつ崩れるとも知れぬ密室の中に閉じ込められていた。


 その日、機動6課に出動命令が下された。場所はミッドチルダ東部エルセア地方の一角。
 ――あの空港火災が起きた場所である。

「……シンさん、緊張してませんか?」

 シンの傍らに佇むエリオが尋ねた。

「ああ、大丈夫だ。」

 呟きと共に小さく頷くシン。
 その顔に浮かぶのは“あの儚げな笑顔”。それを見て、エリオは安心する。
 実際、心配をしていたのだ。声を掛けるまでのシンは瞳を閉じて俯き頭を垂れ――それは
どこか祈りを捧げるように見えていたからだ。
 エリオの声を切っ掛けに皆が口を開く。

「大丈夫だよ、シン君強いし、もしもの時は皆がいるんだから!」

 スバル・ナカジマが。

「そうそう。あ、でもスバルみたいに調子に乗らないでよね?フォローが大変なんだから。」

 ティアナ・ランスターが。

「そうです!シンさんがミスしたって私達でフォローします!」

 キャロ・ル・ルシエが。

「私達もいるぞ。」
「あたしもだ!」
「ま、足引っ張んじゃねーぞ、シン?」

 シグナムとアギト、そしてヴィータが。
 その言葉を受けてシンは笑う。

「そうですね……皆の為にも頑張って“守らない”と。」
「…………」
「…………」

 フェイトとギンガは口を開くことなく、シンの言葉を反芻していた。

 ――“皆のためにも”。

 誰も気づかない。けれど、“既に”気づいている二人は感じ取った。
 初めての実戦である。あの模擬戦、そして連日の訓練のせいで忘れそうになっていたが、彼は魔法を使い出して未だ数ヶ月と言う素人である。
 以前の世界で軍人をしていたと言う話は6課のフォワード陣は誰もが知っている。だが、彼が以前いた世界での戦いがどのようなモノであれ、魔法を用いた戦いとは意味が違う。
 初陣である。緊張もするだろう。
 誰もがそう思っていた。だから、こんな軽口を言ってまで彼の緊張をほぐそうとしたのだ。同じくヘリに乗り込んでいたフェイトとギンガ以外の6課のメンバーは。
 二人は――二人だけは違った。

 声を掛けることなど無い。その必要が無いことを知っているから。
 シン・アスカが瞳を閉じて俯いていたのは単純な話、自身の衝動を抑えていたからだ。
 何故なら彼にとって、コレは“待ち望んでいた戦い”。ようやく、ようやく、願いを叶える旅路の一歩目に辿り着いたのだ。
 すぐにでも飛び出しそうになる身体を必死に押さえつけ、深く呼吸をすることで冷静になろうとしていただけ。
 だから、声を掛ける必要など無い。彼はただ静かに必死に集中していただけだ。
 静かに、守るために。
 それを知る二人も同じく静かに集中していた。
 一人は――ギンガ・ナカジマは、そんなシンが巻き起こすであろう――もしくは巻き込まれるであろう――惨状の中で何が何でも彼を守る為に。その意思を貫かせる為に。
 一人は――フェイト・T・ハラオウンは、そんなシンが巻き起こすであろう――もしくは巻き込まれるであろう――惨状の中で、どうするべきかを考えていた。その意思を貫かせるべきなのか。それとも止めるべきなのか。迷いは静かに沈み込む。
 そして、ヘリが揺れた。

「到着しました!」

 ヴァイスが叫んだ。
 眼下にはガジェットドローンの襲撃に瀕されている町が見えた。
 フェイトが振り向く。その顔にもはや陰りは無い。

「じゃあ、行くよ。予定通り、ライトニングはドローンの排除。スターズは避難し遅れた人たちの救助。既に展開している陸士部隊と連携して作業について。」

 全員が頷き、自身のデバイスに手を掛け、叫んだ。
 セットアップ、と。
 瞬間、輝きが生まれ、全員の姿が変化する。
 ――バリアジャケット。つまりは戦闘の為の服装へと。

「ライトニングは私に続いて降下。スターズはその後。いいね?」
「はい!!」

 言葉の通りにフェイトが降下し、次々と降下して行く。
 そして、シンも降下しようとした時――ギンガが呟いた。

「無理はしないで、くださいね、シン。」
「……善処します。」

 困ったようにシンは笑い――ヘリの扉から飛んだ。
 ギンガはその背中を見て、諦めたようにため息を吐き、そして思考を切り替えた。
「行きましょう、私達も。」

 頷くスターズ分隊の面々。
 ――シン・アスカの戦いが、今始まる。


「……来たか。」

 腕を組み、筋肉質の女が呟いた。服装は肉体を引き締めるラバースーツ。瞳の色は金色。

「……」

 彼女の傍ら。右後方に立ち尽くす男たち――いや、少年か――がいる。
 少年の数は三人。
 黒ずんだ金髪の少年。赤い髪の少年。緑のウェーブがかった髪の少年。
 着ている服は彼女と同じラバースーツ。違いは、肘や膝、首、胸の辺りから跳び出ている突起である。
 少年達の表情は変わらない。直立不動。3人が3人とも同じ姿勢で同じようにして佇んでいる。
 その様はどこか機械じみていて、およそ人間らしさというものをまるで感じさせなかった。
 年齢はおおよそで全員が16、7と言ったところだろうか。
 能面のように何の感情も写さない無機質の瞳がそこに在った。

 だから、だろうか。違和感があったのは。
 3人とも見た目の印象はもっと活発なイメージがある。
 だが、身に纏う雰囲気はそれに反して、冷徹そのものと言った無機質なイメージ。
 外見から受け取る雰囲気と内面から滲み出る雰囲気は通常乖離しない。外面と内面とは密接に影響しあって人間を形作るのだ。だから、その二つの受けるイメージというのは普通はそれほど乖離しない。
 ――意図的にどちらかを隠すか、無理矢理捻じ曲げるかしない限りは。筋肉質の女は少年たちに目をやり、呟いた。

「出番だ。よろしく、頼む。」
「――“了解しました”。」

 女の言葉に従い少年たちは“同時に”動き出した。
 一糸乱れぬ完全同期。人形が、人間を真似ているようなその動作は本来彼らの味方であり、主である女から見ても顔を歪める程度には気持ち悪かった。
 そして、三人が同時に口を開いた。淡々と。抑揚も無く。

「カラミティ」
「レイダー」
「フォビドゥン」

 三人が言葉を開き、呟いた。

「セットアップ。」

 言葉と共に肉体が変容する。
 ――セットアップ。つまりはデバイスによる変化の言葉。そして、その変容はラウ・ル・クルーゼの変化と酷似した変化であった。
 身体中から噴出し、彼の身体を覆い尽くそうとする決して赤色ではない粘液――それは彼ら血液である。
 噴出した“色とりどり”の血液が彼らの身体を覆っていく。
 緑の血液。黒の血液。青の血液。
 そのどの色を以ってしても決して人間にはあり得ない色彩。
 そして、三人のその全身を光が奔り抜けた。奔る光の軌跡に沿って、アメーバがその身体を広げていくように噴出した血液が蠢き、彼らの肉体――装甲を形作られていく。
 ――これがウェポンデバイス。彼らの“正式名称”である。

「標的は機動6課ライトニング分隊及びスターズ分隊。フェイト・T・ハラオウンには私が当たらせて貰う。お前らは、それ以外を当たってくれ。決して殺さずに、だ。」
「了解しました。」

 感情を表すことなく三人は動き出した。
 変容した三人の威容。
 ラウ・ル・クルーゼとの最も大きな違いは背中から突き出た突起と色彩。

 黒い装甲を纏った騎士――レイダーは背中から生えて横に張り出した翼のような突起を持ち、
 青い装甲を纏った騎士――カラミティは背中から上空に向けて突き出た突起を持ち、
 緑の装甲を纏った騎士――フォビドゥンは背中から自身を覆う盾のようにして張り出した突起を持つ。

 三者三様。
 レイダーは背中の突起を翼のように広げ、飛び立つ。
 カラミティは歩きつつ、全身の鎧を変化させ、戦闘準備に取り掛かる。
 フォビドゥンは身体を覆う盾のような突起から長い杖のような突起を“引っ張り出す”と武器として再構成し――その姿は一瞬で大鎌となって顕現させ、飛び立つ。
 そして、三人の鎧騎士がその場から去ってから、数秒の後。爆発と轟音がそこかしこで生まれた。
 筋肉質の女は薄く笑いを浮かべると、その光景から逃げるどころか近づいてくる一機のヘリに目をやる。

「――ライドインパルス。」

 小さな呟き。それは言霊。彼女が磨き上げた彼女自身にとっての唯一の武器を呼び覚ます言霊。
 光の翼――それはそう形容するしかないモノであった。例えて言うなら昆虫の羽根がもっとも近い。薄く光り輝きながら、羽根が背中、太股、足首、手首から生まれていく。
 その大きさは大きなもので1.5mを超えて2mにも届かんばかり。小さなものでも50cmは下るまい。
 女は右手を伸ばし、右手首付近から生まれていた光の翼が巨大化していく。その姿は翼というよりはむしろ刃と言ったほうが正しい。

「――行くぞ。」

 女の狙いはただ一人。フェイト・T・ハラオウン。
 女はただ彼女と“再戦”する為だけに此処にいるのだ。
 強者を越える為に、女は……ナンバーズ・トーレはここに来たのだ。

「……教えてやるさ。敗者の矜持と言うものを。」


 今回の作戦は空戦を行える者が多くいるライトニングによってガジェットドローンを撃破。
 そしてスターズによって陸士部隊の援護と支援を行うと言うモノだった。
 その目論見自体はそれほど悪くはない。スターズよりも足の速いライトニングの方がより速く撃破が行えるのは確かだからだ。
 尚且つライトニングには現在シン・アスカが入隊したことにより人数が一人増加している。
 人数が一人増加したならばその分だけ部隊としての攻撃力も増加している。一度に撃破出来る絶対数も増加している。問題は無い。

 それはベストとは言えないまでもベターな選択であった。
 誤算があるとすれば、展開されていたガジェットドローンの数が予想よりもはるかに多かったことと、地上に展開していた敵の予想外の強さだろう。
 間断なく放たれる砲撃。一撃一撃が必殺の威力で持ってスターズに迫り来るソレ。
 当たれば意識を失うどころか命を失うだろう。破壊されていく街。逃げ惑う人々。
 唯一の救いは一般市民などには眼もくれずに自分たち――機動6課にのみ的を絞っていることくらいだ。
 戦いは膠着状態に陥っている。
 スターズを相手取る敵――緑と青の鎧騎士。フォビドゥンとカラミティである。

「スバルとギンガさんはそのまま攻撃を回避し続けて!ヴィータさんは中衛で私の防御お願いします!!」

 ティアナ・ランスターが叫び、その言葉に呼応するようにして、ヴィータがティアナの前面――ギンガとスバルの後ろに位置する。

「ティアナ、へまるなよ!」
「わかってますよ!」
「ギン姉、行こう!」
「ええ、スバル!」

 射撃主体でありこの部隊の実質的な指揮官でも在る彼女はその特性上、高速機動と言う技は存在しない。
 彼女の本分は、広い視野と冷静な判断で部隊を導くことだからだ。
 故に敵の砲撃の射程が前衛を超えていきなり後衛を狙えると言う場合はヴィータが援護に回り、彼女への攻撃を受け止めるか、弾くかしなければならない。
 ティアナ・ランスターは両手に持つ二挺の拳銃型デバイス・クロスミラージュを構えながら叫ぶ。

「クロスファイアー!!!」

 彼女の周囲に多数の魔力弾が浮かび上がる。その数およそ10。以前のように魔力弾の制御は損なわない。
 その全てに彼女の意識が通っている。

「シュ――ト!!!」

 発射。撃ち放たれた魔力弾はティアナ・ランスターの脳裏に浮かび上がった弾道補正によって各々の軌道をなぞって、突き進む。

「ゲシュマイディッヒパンツァー。」

 小さな呟きと共に緑色の鎧騎士の前面の空間が“歪み”、ティアナの放った魔力弾はあらぬ方向へと流れていく。
 先ほどから何度も何度も繰り返されるその光景――自身の放った魔力弾が成す術も無く流れていく様をティアナは冷静に見つめていた。
 ティアナの魔法の威力はそれほど低くはない。だが、彼女が使える魔法はあくまで“射撃”魔法。砲撃魔法ではない。威力と言う点だけで見れば、その差は大きい。

 そして緑色の鎧騎士が使う魔法――空間を歪曲させているのか、彼女が放つありとあらゆる射撃魔法を歪曲させている。
 現状のティアナ・ランスターにはあの防御を貫くような魔法は存在しない――いや、あることはあるのだ。
 彼女にも砲撃魔法と呼べる魔法は。伊達にJ・S事件から年月が経っている訳ではない。ギンガ・ナカジマがリボルビングステークを開発したように、彼女――ティアナ・ランスターにも新たな魔法は備わっている。
 ならば、何故それを使わないのか。簡単な理由だ。意味が無いからである。確かにあの魔力弾を捻じ曲げる防御を貫くには砲撃魔法くらいしかあるまい。
 だが、間断なくその後方から放たれる砲撃の雨の中、立ち止まり魔力をチャージする時間があるのかと問われれば答えは否である。また、その砲撃魔法を使ったからと言って、あの歪曲を貫けるのかと言われればそれも不明瞭。
 苦労して撃ち放った結果が簡単に防御されましたではあまりにも最悪すぎる。

 敵を見る。
 青と緑の鎧騎士。彼らは大砲と盾と言う二つの特性を極端に特化させたモノ――と言うのがティアナ・ランスターの考えだった。
 青の鎧騎士は砲台と言う性能に特化し、緑の鎧騎士は盾と言う性能に特化したモノ。彼らはその特性を上手く組み合わせることで相互補完を行っているのだ。
 意味が無いと先ほど言ったがそれは、盾によって防御し大砲によって攻撃すると言う敵の行動と同じことをしてどうするのか、と言うことである。
 砲撃には砲撃を。防御には防御を。そんなことをする必要はない。それでは決して勝てない。間違いなく負ける。
 強大な盾があるならばそれを貫く攻撃力で穿てばいいなど愚の骨頂。
 砲撃で負けるなら他の部分で勝てばいい。防御で負けるなら防御できない部分に攻撃を打ち込むことがベストである。

「……移動しながらの砲撃も出来る訳ね。」

 ヴィータの後方に位置しながら周辺から間断なく、尚且つ一度も同じ場所から撃ち放つことなく、砲撃が届き続ける。
 頭の中にその情報を追加し、敵の動きを冷静に見つめながらティアナ・ランスターは考えを張り巡らせる。
 決め手となるのは前線で攻撃を回避しながら気を伺うあの二人――スバルとギンガのナカジマ姉妹だ。
 クロスミラージュからアンカーを射出し、場所を移動する。現在地であるこのビルから隣接するビルへと移動する。自身とスバル達を繋ぐライン上に位置しているヴィータと目配せし、彼女も移動する。
 魔力のロープに引っ張られながらティアナは隣のビルの屋上へ移動。そこから見えるのは肩から突き出た砲身から緑色の光熱波が放ち続ける青色の鎧騎士。足を滑らせながら移動するその様は正に移動砲台が相応しい。
 自身とはまるで違う、その姿にティアナはわずかに嫉妬し――その感情を奥底に仕舞い込んで思考に没頭する。

「凡人、馬鹿にしないでよね。」

 小さな呟き。これまでの情報を整理し、作戦――と言うほどに洗練されたものではないが――を練り上げる。
 両手に握るクロスミラージュに魔力を込める。
 まずは冷静に在ること。能力で敵わないならそれ以外の部分で敵うようにすればいい。
 自分はこの部隊の主役ではない。速さ、威力、防御。その全てで劣る自分には思考を張り巡らせて、サポートをするのみ。
 凡人には凡人なりのやり方があるのだ。

「スバル、ギンガさん、今から突破口を話すけど、聞く暇ある?」

 通信が帰ってくる。間髪いれずに。

『当たり前!』
『当然です。』

 その返答にティアナはくすりと笑う。姉妹でありながらまるで違うその返答に。

「まずはあの緑の敵を狙います。砲撃主体の青い奴はとりあえず放っておいて。」
「……なるほど、盾からぶっ壊すって訳か。」
「はい。それで二人には動きが止まった瞬間に攻撃を加えて欲しいの。タイミングはこちらで指示するわ。……いける?」
『十分!』

 スバルの返答。傍らのギンガも同じく頷く。

「そして、ヴィータさんにはその間、私が受けるであろう攻撃を全て防御して欲しいんです。出来ますか?」

 その言葉に鉄槌の騎士は不敵に微笑み、その手に握る相棒に問いかける。

「出来ますか――だとさ、アイゼン。どうだ?」
『Kein Problem.(問題ありません)』

 その小さな手に握り締められたグラーフアイゼンが答える。

「だとよ。」

 そう言って、ティアナに背を向けると、グラーフアイゼンからカートリッジが3連続でリロードされる。
 戦闘の準備を整えているのだ。
 その小さくも頼もしい背中に微笑むとティアナは再び通信を開く。

「……二人とも、準備はいい?」
『いつでも!』
『いけるわ。』

 返答は心地よく力強い。
 微笑みながらティアナ・ランスターは瞳を見開いて敵の動きを視認する。その間、およそ数秒。

 ――緑の鎧騎士が動いた。青の鎧騎士が再び砲撃を始める。動きを止めた自分を狙った砲撃だ。
 ヴィータがグラーフアイゼンを握り締め、不敵に微笑んだ。
 ティアナの瞳がかっと見開く。カートリッジを3連続リロード。
 同時に周囲に出現する魔力弾。その数およそ30。

「クロスファイア――!!!シュート!!!」

 発射。30の魔力弾の全てに軌道補正を行い、直線的な軌道で魔力弾が迫り行く。
 緑の鎧騎士の前面の空間が再び歪む。彼にとっては定められたルーチンワークと同じその作業を繰り返す。
 ――ゲシュマイディッヒパンツァー。これはティアナ・ランスターが考えているような空間を歪曲させるモノではない。
 装甲の表面に発生させた磁場でビームの粒子を反発させ、放たれたビームの軌道を修正し自機への命中を避けるモノである。
 本来ならビーム兵器に対してのみ有効で実体弾に対しては効果が無いモノなのだが、AMFの近縁技術の流用により“魔力を反発させる”と言う効果を得ることで魔法に対しての屈曲防御を可能としている。

 故に、“この”ゲシュマイディッヒパンツァーの前ではありとあらゆる砲撃・射撃魔法はその方向を逸らされる――無論、スターダストフォールのように物質を加速させる類には無意味ではあるのだが。
 今、ティアナ・ランスターの放った30の魔力弾も例外に漏れずその軌道を歪められ、彼には決して届かない――はずだった。
 放たれた30の魔力弾。その内、わずかに10発ほどの魔力弾がその壁をすり抜けて来たのだ。
 まるでそんな歪曲など初めから存在していないかのように。

「っ――!?」

 感情など無いはずのその表情に初めて、“狼狽”と言う名の感情が浮かんだ。
 咄嗟に彼は量の腕を閉じて、防御を行う――だが、数秒が経過し、当に攻撃されていなければおかしい時間が過ぎても、衝撃はいつまで経っても来なかった。
 閉じた両腕を開き、防御を解く。そこには魔力弾など一つも存在していなかった。代わりに存在しているのは、青い髪をした二人の女だった。

「ディバイン――!!」

 短い髪の女の右手が青白く光り輝く。
 放たれるは近接砲撃魔法「ディバインバスター」。砲撃魔法で在りながら近接と言う一種矛盾した特性を持つその魔法を屈曲させることはゲシュマイディッヒパンツァーであっても不可能。如何に屈曲させようと彼我の距離が近すぎるが故に。

「リボルビング――!!」

 長い髪の女の左手に魔力の螺旋が生まれる。撃ち放たれるは近接突貫魔法「リボルビングステーク」。
 その威容は正しく「杭(ステーク)」。魔力を食い荒らし、突き進むその杭を屈曲させるなど不可能。
 それは純粋に格闘の延長線上の魔法であるが故に。
 ゲシュマイディッヒパンツァーが屈曲させられるのはあくまで砲撃・射撃魔法のみ。格闘など初めから想定していないのだ。

「バスタ――!!!」
「ステ――ク!!!」

 ――二人の一撃必倒が到達する。
 緑の鎧騎士――フォビドゥンは僅かに身体を捻り直撃だけは避けたモノの、成す術無く吹き飛ばされていく。
 然り。攻撃力と言う点でこの二人の同時攻撃以上のモノは現状では存在していない。直撃したならば誰であろうと一撃必倒。

 ティアナ・ランスターの考えた策とは簡単なコトだ。
 敵にとって彼女の魔力弾など確実に防御できて然るべきモノでしかない。
 故にそこを突く。侮っているのならばその侮りを武器とする。
 魔力弾に幻影を混ぜ込んで撃ち放つ。
 敵にとっては防御出来ない“訳が無い”以上は、これまで通りにあの屈曲防御を行う。
 だが、幻影の魔力弾は屈曲の影響など受けることは無い。実体が無い幻影である。屈曲などするはずが無い。

 だが、敵にしてみれば、まさかと言う部分があるだろう。
 ティアナにしてみても、そこで敵が防御までしてくれたのは恩の字だった。
 一瞬、怯むかどうかと言う程度の策でしかなかったにも関わらず、動きを止めた上に絶好の好機まで生み出せたのだから。
 ――無論、そこで一瞬怯んだだけならば、屈曲された魔力弾を連鎖爆発させて、煙幕として攻撃の隙を作るつもりではあったので、それほど結果に差異は無いのだが。

「……これで、どうよ。」

 息を吐き、膝を付くティアナ。幻術と射撃の同時併用に加えて、軌道補正まで行ったのだ。瞬間的な魔力消費はソレに伴って大きい。
 前を見れば、青い鎧騎士が放った砲撃を全て受け止めたヴィータが噴煙の中に浮かんでいた。
 こちらを見る彼女に微笑みを返して、ティアナは再びクロスミラージュを握る手に力を込めると立ち上がる。
 手応えはあった。ギンガとスバル。二人のシューティングアーツ使いの最大の一撃を同時に受けたのだ。あれで無事な筈が無い。これで残るは一人。
 ティアナ・ランスターはそう思って、残る青い鎧騎士に視線を動かす。
 ――瞬間、緑の鎧騎士が吹き飛んだ方向。その直下から馬鹿げた大きさ――少なくとも5mを超える刃金が天に向かって振りぬかれた。

「は……?」

 冗談のようなその光景。ティアナが呆けたような声を出すのも無理は無い。
 予想し得るはずが無いのだ。5mを超えるような巨大な刃物が突然そこに現出するなど、誰が想像するだろうか。

「なに、あれ。」

 呆然とティアナ・ランスターが呟いた。
 ギンガとスバルはその場から退避し既に距離を置いていた。離れろ、と言う生存本能に従って。
 ヴィータだけは油断無く、そして緊張することなくグラーフアイゼンを握り締める。
 目前の敵。それが恐らく自分の予想よりも遥かに悪辣な敵であることを確信しながら。
 それは、冗談のような光景だった。
 緑の鎧騎士――2mに届こうかと言う“人間”が立っていた。
 その右手に馬鹿でかいほど――少なくとも人間が振るうような大きさではない武器をその手に持って。
 それは鎌だ。大鎌と呼ぶに相応しい――否、そう呼ばざるを得ないほどに巨大な鎌である。
 柄の部分だけで少なくとも10mを下ることは無いだろうと言う長さ。
 握り締めている部分の太さはどんなに太くとも10cmにもならないと言うのに、刃の部分に近づけば近づくほどに、その柄は太くなり、最終的には直径で2mほどにまで太くなっている。
 何よりも巨大なのはその刃。刃渡り10mほどの巨大な巨大すぎる大鎌だった。
 それを人間――正直、もはや人間なのかどうかすら疑わしいが――が構えているのだ。
 夢と言われた方がまだ信じられる現実感を喪失した光景である。

 緑の鎧騎士がそれを振りかぶり、振り下ろした。
 ビルが一刃で切り裂かれた。真っ二つに、まるで豆腐でも切り裂くようにして。
 鉄筋コンクリート製のビルがずずず、と音を立てて“ズレ”落ちていく。
 誰も、言葉が無かった。圧倒的な、その光景に呑まれていたのだ。
 巨大なビルを一撃で崩壊させた。
 今、どれほどの被害が生まれたかなど想像もつかない。まして、アレが直撃したならば人間など一瞬で肉片へと変化する。

 非殺傷・殺傷設定など関係ない。単純明快な殺戮武装である。
 自分達が今相対している敵、とはそれほどに悪辣で凶悪な力を持っている。
 ギンガ、スバル、ティアナの背筋を怖気が通り抜ける。迫り来る死の気配。それを恐れて――だが、次の瞬間、彼女達は再び戦闘態勢に望んだ。
 恐怖を踏みしめて、戦う為に。
 その様子にヴィータは満足げに微笑み、通信を開いた。

「どうやら敵は、あたしらが思っているよりもとんでもない敵なようだ。」

 その通りだ、と三人は心中で呟く。

「だが、ここで退く訳にもいかない。……そうだよな?」
『当たり前です。』

 ティアナ・ランスターが強気な微笑みを浮かべ、クロスミラージュを構える。

『当然です!!』

 スバル・ナカジマが朗らかな微笑みを浮かべ、右手のリボルバーナックルを構える。
 そして――

『ギンガは、どうだ?』

 僅かに返答が遅れたギンガにヴィータが再度問いかける。恐れずに戦えるのか、と。
 青い髪の戦乙女は瞳を閉じて祈るように瞑目する。

『……敵は全て撃ち貫くのみ、です。』

 物騒な言葉と共にギンガ・ナカジマの覚悟が完了する。
 何があろうと、自分は生き残らなければならない。シン・アスカは自分が死ぬことを――他の誰も死ぬことを望まない。死は彼に断罪の鉄槌を与え、彼を奈落の底に突き落とす。
 看過出来ない事実だ。彼女にとっては、何よりも。
 故に撃ち貫く。彼を奈落の底になど突き落とさせる訳にはいかないのだから。
 ギンガの言葉を聞いて、ヴィータは一瞬怪訝な顔をするも、気を取り直したのか、再び、敵に向かい合い、声を上げた。

「じゃあ、さっきと同じ布陣で、行く……何?」
「……鎌が、消えていく。」

 スバルの呟きの通り、その威容を誇っていた鎌がまるで霞で構成されていたかのようにして消えていく。
 同時に鎌が消え去る頃にはあの鎧騎士二人も消えていた。影も形も無く、初めからそこにいなかったように。

「……何がどうなってるんだ。」

 ヴィータの小さな呟き。唐突に現われた化け物は唐突に消え去った。
 後に残されたのは廃墟となった町並み。
 勝利ではない。敗北でもない。それは引き分け――痛み分けと言った類の結果だった。


 彼ら二人が攻撃を止めたのは一つだけの理由だった。

「下がって休んでいろ。」

 そうして、二人の鎧騎士――カラミティとフォビドゥンは撤退した。
 戦えと言うなら未だその身体は問題なく稼動したし、道連れにしろと言うなら標的の全てを道連れにするなど花を手折るように簡単なことだった。
 彼らが撤退した理由は単純なこと。命令があったからだ。下がっていろと。
 命令には絶対服従。彼らに命令に従わないなどと言う回路は存在しない。

「もう、役割は十分に果たした。」

 トーレの言葉。それを聞いてカラミティとフォビドゥンは消え去った。
 唐突な始まりは唐突に終わる。
 そして、唐突過ぎる展開は観客に展開を読ませることを許さない。
 彼らの――この襲撃が持つ一つの意味。
 疑念は気づくことで初めて生まれる。
 彼らの派手な立ち回りはそれを誰にも気づかせることを許さない。
 疑念は静かに沈殿する。黒幕は静かに佇むのみ。



[18692] 第二部機動6課日常篇 14.運命と襲撃と(b)
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/29 12:13
「くそっ……!!」

 毒づくシン・アスカの周囲に浮かびこちらを伺うようにして展開するガジェットドローン。
 その数目算でおよそ200。目算でその程度と言うことは恐らくはそれ以上はいると言うことだ。
 先ほどから何度も何度も攻撃を繰り返していると言うのに一向にその数を減らさないことからも、どこかから増援が逐一入ってきていると言うことだろう。
 規格外の数である。ありえないほどに。
 AMFを纏うドローンに対してはケルベロス等の砲撃は効果が薄い。
 その結果、シンは手持ちの武装の内、もっとも効果があると思われるアロンダイトを使い、戦っている。
 だが、それが拙かった。
 アロンダイトとは一撃必殺の斬撃武装。
  一撃必殺であり、一撃一殺である。一撃他殺ではない。
  シグナムは先ほどからユニゾンデバイス――彼にはその原理はよくわからないが要するに彼女はアギトと合体することで能力を底上げすることが出来る――によって彼女の周囲を覆い尽くそうとするガジェットドローンⅡ型を次から次へと文字通り薙ぎ払っていく。
 シュランゲフォルム――中距離一斉攻撃によって。
 それでもドローンの数は一向に減る様子が無い。単純な話、数の暴力である。ライトニング分隊は、部隊の特性上の弱点を突かれているのだ。

「アスカ、前に出すぎだ!狙い撃ちされるぞ!」

 再び炎の蛇蛟を一閃し、シグナムはシンに向かって叫ぶ。
 シンの位置は今部隊から離れていた。
 本来、ガードウイングであるシンの位置は少なくとも彼女の後方。考えるまでも無く突出しすぎである

「けど、このままじゃフェイトさんが孤立します、誰かが援護に行かないと!!」

 シグナムの方向に振り返ることなく、叫び、シンは再び敵陣に突っ込んでいく。
 止められない。彼の飛行の速度は既にシグナムと同等の速度。追いつけるとすれば、フェイト・T・ハラオウンしかいないのだ。
 だが、そのフェイト・T・ハラオウンは今彼を止めるどころの状況ではない。
 現状、彼女達――フェイトを除いたライトニング分隊がいる場所からおよそ数百mの距離で、激突する光と光。
 フェイト・T・ハラオウンと、ナンバーズ・トーレ――ジェイル・スカリエッティの子飼いの戦闘機人である――が戦っているのだ。

 フェイトのソニックムーブに勝るとも劣らぬほどの速度で、トーレはフェイトに襲い掛かるとそのまま彼女を部隊から引き離すようにして押し込んでいった。
 シグナムたちとて馬鹿ではない。すぐにそこに追いすがろうとしたのだ。
 だが、フェイト・T・ハラオウンと部隊の距離が開いた時、街を襲っていたドローンが全て転進し、ライトニングに攻撃を始めたのだ。
 その数、およそ数十を超え、数百。しかもドローンは破壊されそうになると撤退し、未だ無傷の個体と隊列を入れ替える。
 一気に攻め込んで倒そうと言う単純明快なコトではない。これはその逆だ。
 つまり、出来る限り長くこう着状態を作り出そうと言う魂胆なのだろう。
 こちらの疲弊を誘っているのか、それとも単純にトーレとフェイトの戦いを邪魔させないことが狙いなのか――恐らくは後者だろう。
 どちらにしても状況はジリジリと危険領域へと押しやられていることは事実である。
 その状況で一人だけ突出するなど自殺行為である。どれほど仲間が大事であろうと、だ。
 
 ギンガやフェイとの危惧していた通り、シン・アスカの短所が完全に表面化しているのだ。
 対してエリオとキャロは年頃に似合わず冷静なものだった。
 キャロ・ル・ルシエのフリードに乗りつつ、一体一体を確実に倒していく。
 彼らの顔には不安は無い。恐らく頭に上ることも無いのだろう。フェイト・T・ハラオウンが負けるなど。彼らは彼女に全幅の信頼を寄せているのだから。
 彼ら二人が異常なのではない。むしろこれが通常の反応だ。シグナムだってその一人である。
 
 何せ、“あの”フェイト・T・ハラオウンである。
 数々の死線を巡り超えてきた最強の魔導師の一角。それがたかが戦闘機人程度に負けるなど在りうるはずが無いのだ。
 だが、シグナムは一抹の不安を感じていた。
 最近のフェイト・T・ハラオウンは少し違うのだ。
 
 シン・アスカ。今、敵陣に猪突猛進に突っ込んでは全身全霊で敵を壊し続けるあの大馬鹿者。
 あの男と出会ってからのフェイトはアレが20の女かと言いたくなるような所作を振舞うようになっていった。
 自分しか気が付いていないようだが、フェイト・T・ハラオウンの瞳は常にシン・アスカに向けられている。
 それが一抹の不安を彼女に抱かせる。もし、そこを突かれたらどうなるのか、と。

「私は馬鹿か……!!」

 自分の頭に浮かんだ馬鹿な呟きと共にシグナムが高速でその場を移動する。
 ドローンは自動機械である。つまりは突然の状況変化に弱い。
 臨機応変と言う機能を持ち合わせていないが。故に彼らは数と言う暴力でその弱点を補っているのだから。
 故に、

「アギト、行くぞ!!」
「おう!!」

 ――二人の叫びが呼応する。

『剣閃烈火――』

 シグナムとユニゾンしたアギトの左の腕に炎が灯る。シグナムの左手に炎が灯る。
 極大の猛り狂い、全てを燃やし尽くさんばかりの炎が――炎は一瞬でその姿を剣へと姿を変える。
 狙うは敵集団その中腹。全滅まではいかないまでも半数程度は“持っていける”。その自信が彼女にはある。
 その様子を見たエリオ、キャロ、シンがその場を離れる。巻き添えを食らわない為だ。

『火龍一閃――!!!』

 シグナムがその左手に握り締めた炎の剣を振るった――否、“薙ぎ払った”。瞬間、炎の剣はその姿を変える。
 長剣サイズ程度でしかなかった長さが、一気にその“長さ”を数kmほどの長さへと変化する。
 収束した炎熱の魔力を加速し極大化させ、長剣として振るう一撃。
 振るう刃は剣ではなく槍(スピア)と言う表現が最も近い。もはや砲撃と言ってもいい殲滅魔法である。

「……すげえ。」

 シンが呆然と呟く。一撃で100機ほどのガジェットドローンが破壊されたのだ。初見であるなら感嘆の溜め息を吐かない方がおかしい。
 それほどの強大極まりない一撃である。

「アスカ、こちらは任せてテスタロッサの援護に行け。」
「え?」
「……私はここを動く訳にはいかない。そうなれば援護に向かえるのはお前くらいだ。」

 シグナムはこの場にいる最大戦力である。彼女がこの場を離れれば一気に均衡は崩れてしまう。
 キャロとエリオは空戦適性を持っていない。空戦のエキスパートであるフェイトとトーレの援護に回るには飛行の魔法は必須である。
 故に、シン・アスカ。空戦適性があり、飛行の魔法を問題なく使用できる彼しかいないのだ。

「……わかりました。」

 だが、シンの顔は浮かない。先ほどまでは何が何でもフェイトの援護に回れと言っていたのにも関わらず、だ。
 その理由は明白。半数以上は破壊されたはずのドローンが再びその数を増やし始めていたからだ。蠢くようにして、その数を増やしていく。
 シンのそんな顔を鼻で笑うかのようにシグナムは不敵に微笑む。

「ふん、そんな心配そうな顔をするな。それとも――私達では役不足だとでも言いたいのか?」

 刺し抜くようなシグナムの視線とシンの瞳が交錯する。

「……絶対に死んだりしないでください。」

 そう呟いて、シンがフェイトが戦っている方向――空港の上空に向かって、速度を上げて飛んで行く。

「……まったく、心配が過ぎるな、あいつは。」
「シンさんは優しい人ですから。」
「まあ、ちょっと過保護な感じもしますけど……」

 シグナム、キャロ、エリオが同じ場所に集う。シグナムが火龍一閃にて薙ぎ払った為に彼女の周辺には敵がいないのだ。

「……さて、此処からお前たち二人には私の援護を頼――」

 言い切る前に彼女達の横合いを赤い光熱波が轟音と共に通り過ぎていく。瞬時に散開し、その場を離れる3人。
 三人が三人とも光熱波が飛んできた方向に眼をやる。
 そこには黒い異形――彼女達にとっては記憶に新しいあの“化物”によく似た異形の鎧騎士がいた。
 彼女達の顔に緊張が生まれる。以前の戦いを思い出して。

「……どうやら、ここからはガジェットのように楽にはいかないようだな。エリオは私に続け。キャロは魔法で私達の援護を頼む。……気を抜くな。」
「はい!!」
「はい!!」

 二人の力強い返事に気を良くしたのはシグナムは薄く笑いを浮かべ、レヴァンティンを構える。

「アギト、出し惜しみは無しで行く。」
「了解だ!」


「――どうやら、そろそろ終わりに近いようですね。」

 トーレがシグナムの火龍一閃によって大きく数を減らしたガジェットドローンの集団を見ながら呟いた。
 そして、次にあそこに現れるであろう鎧騎士――レイダーを思い浮かべる。
 あれほどの一撃を放てる魔導師がいると言うのであれば、問題は無いだろう。少なくとも戦局は“釣り合う”だろう、と。

「……ナンバーズ・トーレ、貴女を今此処で逮捕します。」

 対峙するフェイトはその赤い瞳を輝かせ、金色の大剣――バルディッシュアサルト・ザンバーフォームを構え直す。
 終わりに近い――無論、彼女は自分の部隊の面々が負けるなどとは思っていない。
 だが、それでも不安はあった。今回の襲撃における
 最大の誤算――予想外の敵機の数の多さ。
 そして、あの赤い瞳の異邦人。
 彼がどんな戦いをしているのか。
 訓練の時のように身体を張って誰かを庇っているのではないか。そんな想いが彼女に一抹の不安を抱かせている。

 内心、フェイト・T・ハラオウンは僅かばかり焦っていた。
 トーレとは以前、ゆりかご内部で戦っている。
 限定解除を行っているのは以前と同じ――現状、彼女達6課の面々は基本的に限定解除がされている。
 これは名実共に機動6課が特別な部隊として機能していることを意味している。
 能力限定――部隊毎に定められた保有できる魔力ランクの総計規模を超えてはいけないという規定を潜り抜ける為の“裏技”である。
 だが、現状ではそんなものは彼女達には使用されていない。
 以前、ライトニング分隊が戦ったあの化物――灰色の鎧騎士。あの戦いの後に彼らの能力限定は解除されたのだ。
 あの戦いは“限定解除状態”での戦闘であった。つまりは全力全開。
 オーバーSランクと言う高位魔導師が全力で戦い、なお倒せなかった。それどころか敗北した強敵と言うのもおこがましいほどの化け物。
 簡単な話、それほどに強い敵にぶつけると言う条件を引き換えにして機動6課は“保有ランクの総計規模”と言う規定から公然と逃れているのだ。

 ――話を戻そう。つまり、彼女――フェイト・T・ハラオウンには現在能力限定はされていない。オーバーSランクの力をそのまま最大限に引き出して戦っている。
 以前、トーレと戦った時に苦戦したのはAMF下だったこともあり、限定解除をしていながらに苦戦した。
 だが、その後、真ソニックフォームとライオットザンバーと言った“本気”の攻撃により撃退に成功している。

 ――つまり、トーレとフェイトの間には揺るがし難い実力差が存在していた。少なくとも本気の二人の間には。
 だから、フェイトは油断などはまるでしていないながらも、勝てると言う確信があった。
 訓練を怠けたことは一度も無い。彼女の実力はむしろ以前よりも上がっていると言ってもいい。
 だが、ならばどうしてこれほどに戦いが長引いているのか。
 未だ真ソニックフォームとなっていない彼女の速度は確かにトーレを圧倒するほどの速度ではない。
 それでも先ほどからの攻防で何度も何度も攻撃を加えている。
 通常ならば一撃で戦闘不能に陥りかねない大剣による一撃。
 だが、トーレはそれを以前よりも巨大化したライドインパルス――手首から生えるエネルギー翼の長さはおよそ1.5m。身体から生えるエネルギー翼の長さは長い物で2mほど。依然とは違い、そのエネルギー翼を斬撃武装として扱っている――によって巧みに必倒の一撃だけを避けている。

「やれるものなら。」

 微笑った顔を崩すことなく、トーレは呟く。

「……バルディッシュ。」
『Get set.』

 彼女の唇が動く。

「――行くよ。」
『Sonic Drive.』

 フェイトの全身が輝き、服装――バリアジャケットが変化する。
 羽織っていた外套は消失し、露になる白い肌。
 現れ出でるは彼女の全身を締め付けるようにして覆う水着と見紛うような軽装の服――もはや、バリアジャケットとしての体裁はそこには無い。
 真ソニックフォーム。フェイト・T・ハラオウンの切り札にして諸刃の剣。魔力のほぼ全てを攻撃と速度に費やし、装甲を極限まで削った一つの究極。
 彼女の手がバルディッシュアサルトに優しく触れる。

『Riot Zamber.』

 大剣――バルディッシュアサルトがその威容を“二つ”に分けていく。
 それは金色の双剣。剣の柄と柄を結ぶ魔力によって編みこまれた紐によって、二つの剣の間で魔力の移動を可能とし、状況に応じれ魔力強度調節する攻防一体の双剣――ライオットザンバー・スティンガー。
 それを見て、トーレの笑みが変化する――薄く不敵に微笑んだ微笑みから、獰猛に唇を吊り上げた肉食獣の笑みへと

「……そう、その姿だ。その姿の貴女を駆逐してこそ意味がある。その姿を待っていた……!!」

 喜びを隠すことなく、トーレもまた胸に手を当てる。
 次瞬、ラバースーツの生地を超えて――赤い光が輝き出す。
 定期的に。輝き、消えて、輝き、消えて、そしてまた輝く――まるで心臓の鼓動のように。

「では、こちらも本気で行かせてもらいましょうか……!!!」

 言葉と共に金色の瞳が紅く染まる。それは血色の赤。フェイトやシンよりもなお赤い深紅の赤。
 そして、身体中から生えたライドインパルスの色も同じく変化する。紫の昆虫の羽根のようだった外見は、血に染まるようにして、血色の赤の羽根へと。
 その変化にフェイト・T・ハラウオンの顔色が変化する。
 見たことも聞いたことも無い変化。魔法には違いないだろうが、それがどんな体系のどんな類の魔法なのか、まるで想像が付かない。
 ソレは、“あの時”、彼女を――ライトニング分隊を完膚なきまでに倒したあの化け物から受けた感覚と同じモノ。

「トーレ、貴女は……。」
「私が今日ここに来たのは、フェイト・テスタロッサ。貴方と手合わせ願いたかったからだ。」

 フェイトの問いかけを遮るようにして、トーレが口を開いた。開いた口から蒸気――彼女の体内を駆け巡る魔力が溢れて、体外へと放出されている。
 その威容を前に、フェイトは双剣――ライオットザンバー・スティンガーを構える。いや、取らされたと言うべきか。
 フェイト・T・ハラオウンの研ぎ澄まされた戦士としての感性がトーレから溢れ出る殺意や憎悪などと言う負の感情とはまるで違う気合――克己心と言う真っ直ぐな信念に、充てられたのだ。

 ――目前の敵は全身全霊を懸けても勝てるかどうか分からないほどの強敵だと。
 そこに油断や慢心など欠片も無い。いや、そんなことを思う余裕すらない。
 フェイトの心臓が鼓動する。自身の全力を以って敵を倒すと言う高揚と、死んでしまうかもしれないと言う“恐怖”で。
 構えるフェイトを見て、トーレは満足げに頷くと彼女もまた構える。
 両手を地面に向けて、真っ直ぐ突き出す。

「あの時、私は貴方に倒された。成す術も無く。そして――私はあの脱獄の後、“力”を手に入れた。更なる力――人としての限界を超える為の“力”を。」

 淡々とした呟き。それは感情が無いから淡々と呟くのでは無い。
 感情を押さえ込む為に淡々と呟かざるを得ないのだ。
 逸りに逸り、いきり立つトーレの戦士としての悦び。それを無理矢理に押さえ込み、在るべき時に爆発させる為に。

「手に入れた力を支配する為に濃密な時間を繰り返した。何度も何度も血反吐を吐いた。意識を失うことなど何度あったか分からない。そして、今――待ち望んだ、夢にまで見た戦いをもう一度出来る。鍛えた力を試し、その上で駆逐することが出来る。――最高じゃないはずがないでしょう?」

 その問いかけと共に瞬間、両手が巨大化した――違う、五指の先から紅く光り輝くインパルスブレードが生えた。
 それは正に獣の爪を巨大化したモノだった。
 およそ地上数百mの高さから真下に向かって反り返って伸びる血で染め上げられた様に“紅い五本の爪”。その一本一本の長さは少なくとも2mを下るまい。

「私達ナンバーズの使うI・Sとは生まれついての能力。獣の爪、牙のようにそれはただそこにあるものでしかなかった。だが、私達は獣とは違う――1人の人間だ。人間は生まれついての能力を磨き抜くことで過酷な環境を踏破してきた。」

 言葉と共に右手に生えた巨大な“紅い爪”は、目まぐるしく姿を変えていく。
 五指を広げ、その流れに沿ってそのまま伸ばしたかのような巨大な“爪”。
 五指を閉じ、真っ直ぐ伸ばすことで生まれるライオットザンバーの如き“剣”。
 掌を広げ、それを中心に広がる巨大な“盾”。
 彼女の両手に存在するのは紅く輝く巨大な武装。彼女の両手に握るライオットザンバーの大剣状態に比肩すると言っても過言ではない“武器”がそこに存在していた。
 トーレが構えを取る。両手の五指を閉じ、真っ直ぐに伸ばし、剣とし――後方に向けて下ろす。
 そして、全身から生えるライドインパルスの紅い輝きが一層激しくなっていく。禍々しく、見る者全てに災厄を与えんとする悪魔のごとく。

「――ナンバーズ・トーレ。推して参る。」


 ――そこから先の動きはもはや人知を超えた戦いであった。
 傍目には紅く輝く線と金色に輝く線が何度も何度も数え切れないほどに交差し続けているようにしか見えなかっただろう。
 高速戦闘――否、それはもはや光速戦闘。眼にも留まらぬ動きではなく、眼にも映らぬ動き。
 その場所に辿り着いたシン・アスカはただその光景を呆然と見つめるしかなかった。

「……なんて、戦いだ。」

 デスティニーを握り締め、小さく呟く。
 援護など出来はしない。下手に援護などすればフェイト・T・ハラオウンが被弾しかけない。
 “眼で追う”ことは出来るのだ。その動きを眼で追うだけならば。
 元よりコーディネイターでありモビルスーツによる高速機動戦闘を真骨頂としてきたシン・アスカの動体視力は一般の人間など軽く凌駕する域にある。そして反射速度は“あの模擬戦”の際にデスティニーによって書き換えられている――戦士として力を発揮できる程度には。
 その二つがあって、シン・アスカの眼には彼女達二人の動きは、眼にも映らぬ動きではなく眼にも留まらぬ動きとして映り込んでいる。
 だが、眼で追えるからと言って肉体がソレに付いていけるかと言う話になると全く別の話である。
 高速で走る自動車の動きを眼で追うことは誰でも出来よう。ならば、それに追いつくことは出来るのか。不可能である。
 眼で追うことは、付いていけるとはイコールで繋がれないのだ。
 同じくシン・アスカも二人の戦闘に入り込むことは出来ない。あれほどの高速を生み出すことは彼には出来ないからだ。

「……デスティニー、ケルベロスだ。」
『All right brother.Kerberos standby ready.』

 アロンダイト――大剣形態だったデスティニーが変形し、砲撃形態――ケルベロスへと変化する。
 ケルベロスの射程距離内に入り、尚且つフェイトの邪魔にならない場所に移動し――シンは狙いを定める。
 シンの見た感じ、両者の戦いはほぼ互角。速度ではフェイトが僅かに勝り、威力では敵――その姿はしっかりとは見えないが恐らく女――が僅かに勝っている。
 拮抗している戦いであるなら、どこかで必ず“停滞”が起こる。
 それは一瞬かもしれないし、数瞬かもしれないし、数秒かもしれない。
 だが、それは隙だ。ならば、自分に出来ることはその瞬間に狙いを定めて砲撃する他に無い。
 無言でケルベロスの側面から飛び出した取っ手を握り締め、シンは目まぐるしく動く紅と金に狙いを定める続ける。

 ――もっと力があれば俺も加勢出来たかもしれない。

 取っ手を握り締める手に力が篭る。
 そんな“情けない”、“不甲斐ない”と言う思いがが彼の心を占めていた。


「はあああ!!!」

 双剣――ライオットザンバー・スティンガー。

「おおおおお!!」

 紅い爪――インパルスブレード。
 トーレの右手に現出した巨大な爪を双剣の一方が受け止め弾き、その隙間を縫うようにしてもう一方が突き抜いていく。
 だが、それを左手の爪――今は剣の形へと変化している――が受け止め、巻き込むようにして弾く――フェイトの右手からライオットザンバー・スティンガーの一方が滑り落ちるようにしてトーレの方向に持っていかれる。
 フェイトは左手に握る双剣の片割れに意識を集中し、魔力配分を変更。
 持っていかれた方の双剣の刃は一瞬でその刀身をナイフ程度にまで縮小し、逆に左手に握る双剣の刃が巨大化する。
 巨大化した双剣を両手で握り締め、力任せに振り抜き――トーレはそれを避ける為に自分の近くにまで引き寄せたライオットザンバー・スティンガーの片割れから手を離し、即時後方に退避する。

 後方に退避したトーレを見て、フェイトは自分の元に引き寄せたライオットザンバー・スティンガー――トーレに奪われそうになっていた方の剣である――を握り、両の手に双剣を構えると間髪入れず突進。
 トーレの右手が巨大化し――あの紅い爪だ――フェイトに向かって振り下ろされる。
 爪は斬撃範囲が最も広い代わりに大きな隙間がある。その分射程も短い。
 剣は長さを調節できるようで取り回しが良く、また斬撃射程も広いと使い勝手の良い武器のようだ。
 盾はほとんど使うことはないのだろう。恐らくは砲撃に対して対抗する手段――その程度の保険なのかもしれない。
 フェイトはその爪の一撃を、トーレの下方に潜り込むようにして回避すると、両手の双剣を一つに纏め、大剣――ライオットザンバー・カラミティ。災厄の名を纏いし雷光の大剣に変形させてトーレの下方より叩きつける。

「はあぁ!!!」

 咆哮と共にカラミティの巨大刃がトーレに迫る。

「くっ……!!」

 間一髪。トーレは両手の五指を閉じてインパルスブレードを大剣にし、ライオットザンバー・カラミティの一撃を防ぐ――拮抗する両者。バチバチと火花が散る。
 鍔迫り合い――その最中、トーレの口元が微笑みに歪む。

「……やはり、貴女は強いな。迷いを抱え込んだまま、これほどの力とは。」
「迷い……?」
「そうですよっっ!!」

 トーレが力任せにインパルスブレードを振るった。
 単純な力とフェイトの上空と言う位置関係から、トーレは容易く吹き飛ばす。
 距離が開く。トーレは間髪いれずに下方に吹き飛んだフェイトに向かって両の手のインパルスブレードを剣のままフェイトを挟み込むようにして振り抜く。

「くっ……!!」

 一旦、更に下方に退くことでフェイトはその一撃を回避し、すぐさまトーレよりも上空へ移動する。
 トーレも動きを止めることなく、フェイトに追い縋るようにして両の手を握り締めるようにして一本の大剣として展開。
 力任せに再び叩き付け――状態は再び鍔迫り合いへと移行する。

「戦えば分かるものでしょう――貴女の一振りには隠し切れない迷いがある。」

 夢のこと。答えなんて見つからない。それ以上に増えた疑問。
 ――“守れない”世界に用はありません。あそこは俺のいる場所じゃない。
 不意に、その言葉を思い出した。
 彼をどうするべきなのか、迷っていないなどと言えるのか。

「――っ!!私は、迷ってなんて、いない!!」
「……ふん、まあ、いい。」

 その時、口調が変わる。それまでのような礼儀正しく――慇懃無礼ではないが――態度ではない。
 その口調、その雰囲気。それは正に戦士。
 戦場で生き、戦場を寝床とし、戦場にてのみ散ることを望み、女だとか男だとかまるで関係の無い、力のみを拠り所とする誇り高き戦士のモノ。
 そう、彼女にとってフェイト・T・ハラオウンに迷いがあろうと無かろうと同じことだ。
 目前の敵を鍛えた力で打ち倒し、超える。ただ、それだけ。それだけがトーレと言う存在の全てであるが故に。
 元より、この会話に意味は無い。
 迷いを感じたと言うのは真実ではあるが、そんな迷いはトーレには一つも関係の無いことだからだ。
 その迷いの根源が何なのか分かるのならまだしも、だ。
 だからトーレにとってこの会話の内容に意味は無い――大事なのはフェイト・T・ハラオウンが会話に“答える”と言う事実。
 会話に答えるとはすなわち会話に集中すると言うこと。
 それは即ち――他の部分への意識の警戒が僅かばかりでも緩むと言うこと。

「っ――!?」

 それはフェイト・T・ハラオウンにとってはまるで無意識の行動だったに違いない。
 視界の端に何かが見えた。背筋を悪寒が走り抜けた。
 彼女の生存本能が警戒を鳴らした。
 彼女は現状の戦闘行動全てをかなぐり捨てて、後方に倒れこむようにしてその場を急速離脱した。
 瞬間、彼女の目前を通り抜けた一筋の紅い線。
 フェイトのバリアジャケットの胸元に僅かに切れ目が入った。

 ――トーレの思惑は簡単なことだった。鍔迫り合いの最中、言葉を掛ける。
 彼女の剣に迷いがあったのは打ち合い出した時から分かっていたことだった。
 だからこそ、それを会話に乗せた。
 狙い通りフェイトは会話に集中し、トーレの両手だけに意識を集中することになった。
 そこへ足元からの奇襲。人の眼と言うのは左右への反応に比べてどうしても上下への反応が遅くなる。
 そこを突いた奇襲。

 トーレの狙い通りならば今、フェイト・T・ハラオウンは臓物を巻き散らかして真っ二つになっているはずだった。
 だが、彼女は直感なのか本能なのかは知らないが、紙一重でソレを回避した。それは特筆に価することだ。稀有な技術である――だが、それだけだ。
 別段、彼女はそれを読みきって回避した訳でもなければ、カウンターを狙っている訳でもない。
 ただ、避けただけ。後方に倒れこむように避ける――無論、ライオットザンバーからは手を離さずに。
 鍔迫り合いの最中そんな風に動けばどのような隙が生まれるか――考えずとも分かる。

「ふっ――!!」

 鋭く息吹を吐き、トーレの左足が後ろ回し蹴りの要領でフェイト・T・ハラオウンの腹部に激突する。

 ――身体を捻る。無理矢理にライオットの柄でそれを防御する。
 だが、そんな不安定な体勢からの無理矢理な動作で防御が叶うほどトーレの後ろ回し蹴りは弱くは無い。
 鳩尾に叩きこまれ、横隔膜を突き破ってもおかしくなかった蹴り――それはむしろ突きと言うべきか――はライオットザンバーの柄に接触し、狙いを僅かに外れ、ちょうど彼女の右脇腹と右脇の中間――ちょうど肋骨のあたりである――を掠めるようにして突き抜けていった。

「――あ」

 めきり、と音が、フェイトの耳に届いた。
 同時に加速する風景。その様はどこか万華鏡の中を覗くようにグルグルと回転し、押し込まれていくような錯覚の中で、フェイトの意識は消失した。



[18692] 第二部機動6課日常篇 15.運命と襲撃(c)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 12:13
「……これで、終わりか。呆気ないものだな。」

 瓦礫の中、フェイト・T・ハラオウンが瞳を閉じて、気を失っていた。
 その身体中に傷を負い――だが、致命傷となるような傷は一つも無いことから気を失ったのは傷ではなく叩きつけられた衝撃によってだろう。

「せめて、苦しまぬように一撃で殺してやろう。」

 トーレの右手が大きく朱く輝き出す。現出する“爪”。これまでで最も巨大な――人間一人程度ならば一瞬で消し飛ばすほどに巨大な爪。その爪を高々と掲げ、トーレは呟いた。

「――さよならだ、フェイト・テスタロッサ。」

 そして、トーレがその右手を振り下ろした。ここで、間違いなく、フェイト・T・ハラオウンはその命を散らす。
 ――だが、振り下ろし出した瞬間、彼女の肉体に衝撃が与えられた。
 感じ取るは衝撃だけではない。熱量もだ。直撃した左肩にダメージが生まれる。それはこの戦いが始まってから初めての“直撃”だった。

「あ、がっ……!?」

 全くの完全な不意打ち。トーレは完全に無防備な状態で、防御も耐えることもせずにその一撃を食らうことになった。彼女の左肩から煙が上がる。
 その一撃。その名は“ケルベロス”。地獄の番犬の名を冠された砲撃魔法――シン・アスカの魔法。

「うおおおおおおおおお!!!」

 デスティニーを大剣形態――アロンダイトへと変形させ、振りかぶり、全速でトーレに向かって突進するシン・アスカ。
 その背後からは何十発もの朱い間欠泉――パルマフィオキーナが放たれている。
 パルマフィオキーナによる連続加速によって通常の何倍もの速度でこちらに突進してきている。

「……加勢、か。」
「はああっ!!」

 シンが手に握り締める大剣が朱く輝く。一撃必倒。それは斬撃武装としては破格の威力を有する無毀(ムキ)の大剣――アロンダイト。

「くうっっ!!」

 トーレ、咄嗟に展開した両手のインパルスブレードでそれを受け止める。
 だが、先ほどのケルベロスによるダメージが未だ残っているのか、受け止めきれずにジリジリと押し込まれていく。

「パルマ!!」

 叫び。
 シンの右手がアロンダイトの柄から離れ、トーレに向けて突き出される。
 収束し、変換し、吹き上がり出し半円状に膨らむ魔力――それは破裂する寸前のマグマを連想させる、朱い魔力の間欠泉。
 トーレの両目が見開かれる。全身のライドインパルスが紅く輝く。これまでよりも更に強く、禍々しく。

「フィオキーナ!!!」

 詠唱の咆哮と共にシンの右手から朱い魔力の間欠泉――パルマフィオキーナが吹き上がった。
 近接射撃魔法パルマフィオキーナ。
 近接限定と言うことから分かる通り、その威力は並みの砲撃魔法よりも遥かに大きい。
 これが射撃魔法と言うのは単純に見た目の問題である。吹き上がる間欠泉――そのイメージで放つ以上は、吹き出す魔力は砲撃のように太く大きいものではなく、細く小さいものとなる。無論、砲撃と違い、溜める必要がない為に出が速い、射程が短いなどの理由もあるのだが。

「……どうだ。」

 油断無く、シン・アスカは先ほどの筋肉質の女――トーレが吹き飛んだ方向に見つめる。
 先ほどから彼はずっと二人の戦いを観察し、ケルベロスを狙っていた。
 だが、何をどうしようとも二人の距離は離れず、撃つことは叶わなかった。下手に放てば敵に当たるどころかフェイトに直撃しかねないからだ。
 フェイトのバリアジャケットはいつもと違い、水着と見紛うような軽装である。
 その格好が戦闘における能力にどれだけの変化を持つのかシンは知らない。
 もしかしたら見た目に反して防御力は高いのかもしれない。
 だが冷静に考えて、水着のような軽装にケルベロスが間違えて当たっても無事なフェイトというイメージが浮かび上がらなかったのでシンは撃たなかった。
 それは正解である。現在のフェイトのバリアジャケットは速度重視の防御力は皆無に近い。ケルベロスが命中した場合怪我では済まない重傷を負いかねなかった。
 だが、フェイトが吹き飛ばされ、地面に叩きつけられ、身動きを取らない状態となり、更には敵がトドメを刺そうと近づいた時、そんなことは頭の中から抜け落ちた。
 トドメを刺す為に動きがゆっくりとしたものに変化したからだ。それは紛れもなく狙うべき隙だった。
 狙いを定め、逡巡無くケルベロスを発射。同時に飛行によって一気に近づき――と言うよりも突進し、そして至近距離からの一撃を見舞うことに成功した。
 これがここまでにシンが描いてきた軌跡である。

「……」

 至近距離からのパルマフィオキーナ。
 特に今の一撃はあの一瞬で注ぎ込める全ての魔力を投入した一撃。直撃したならば、どんなに頑丈であろうと意識を根こそぎ奪い取る自信はあった。
 だが、そんな自信を打ち破るかのように彼の心には確信があった。そんな程度で倒せるような敵ではない。そんな確信が。
 そして、その確信の通りに、声がした。

「……なかなか、やるじゃないか。不意打ちとは言え、私に一撃を見舞うとは、な。」

 吹き飛んだ方向。その瓦礫の中から筋肉質の女が、何事も無かったかのように現れた。
 ――いや、何事も無かったなどと言うことはない。良く見ればケルベロスの直撃を受けたその左肩は焦げ付き、全身を覆うラバースーツもところどころに傷が付いている。

「シン・アスカ、だな?」

 女は衝撃で崩れ、顔を覆っていた髪をかき上げ、確認するようにシンに声を掛けた。

「……」

 その瞳を見た瞬間、シンは 無言でアロンダイトを構えた。
 そして、考えた。今、自身の背後にいるフェイト・T・ハラオウン。どう自分を犠牲にすれば彼女を助けられるのか、と。

 シン・アスカ。彼は歴戦の勇士である。
 その殆どがモビルスーツによる戦闘のみとは言え、戦ってきた年月とその密度、死線を潜り抜け死線に叩き込んできた数などはフェイト・T・ハラオウンやギンガ・ナカジマなどの機動6課の面々とは比べ物にならないほどの経験である。
 その濃密な戦闘経験が彼に言っている。
 目前に佇む女。コレは強者だ。油断もしなければ、遊びもしない、紛うことなき戦士。
 自分では――少なくとも現在の自分では何をどう足掻いたとしても勝つことは出来ない。確実に殺されるのだと。

 だから、犠牲になる。フェイトを助ける為には――守る為にはそれしか方法が無いからだ。
 思考は滑らかに。自分を犠牲にする幾多の方法を思考する。
 どう犠牲になればいいか。
 逃げるべきか?背中を見せた瞬間に肉体は真っ二つにされている。
 戦うべきか?敵わない。何をどうしたところで必ず殺される。突進しようものなら数瞬後に肉片と化しているに違いない。 
 そんな死は犠牲でも何でもない単なる無駄死だ。
 ならば、どうする?
 どうすれば、フェイトを助ける“犠牲”が出来る?

「沈黙か……まあ、いい。どの道、やることに変わりは無い。」

 トーレの全身の朱い羽根が輝きを開始する。両の手に再び爪が生まれる。

「死んでもらおうか。」

 言葉と共に爆発する鬼気。瞬間、トーレの姿が掻き消える。高速移動――ライドインパルス。その動きは通常の知覚で追えるようなモノではない。
 脳裏に閃き。肉体はその閃きに刹那の間隙も入れずに追随する。

(ここだ……!!)

 掻き消えたトーレ。だが、シンの目はそれを追っていた。シンの書き換えられた反射速度は捉えていた。
 トーレが今、どの方向に移動して何をしようとしているのか、シン・アスカはそれらを読み切ることが出来る。少なくとも眼で追える。
 無論、その動きに対応することなどは出来ない。
 如何に眼が良かろうと肉体はその動きに反応するようには出来ていない。
 シン・アスカの肉体にそれだけの性能は無い――だが、一度だけならその動きに追随することは出来る。
 何故なら彼にはフィオキーナと言う“裏技”がある。身体中から収束した魔力を放出しバーニアやスラスターのように操る。シン・アスカ独自の高速移動。

 ――朱い瞳が血の如く紅い軌跡を捉える。

 トーレが攻撃しようとする方向は自分の右後方。
 そこからシンの首をその手の刃で切り落とすつもりなのだろう。
 こちらが何が起きたかを考える暇も与えずに頚動脈を切り裂けば――否、そんなことをせずとも首ごと刈り取ればそれで戦闘は終了する。
 フィオキーナが発動する。
 シンの右肩前面、そして左肩後方から“同時に”最大威力のフィオキーナが発射された。
 違う方向に同時にパルマフィオキーナを発射した場合、どうなるか。
 簡単なことだ。肉体は独楽のように回転する――以前、シグナムとの模擬戦で使用した時と基本的には同じ方法。
 違うのは発射するパルマフィオキーナの威力とそれに合わせて横薙ぎを行うと言うことくらい。
 シンの肉体が独楽のように回転する。
 最大威力のパルマフィオキーナによって回転した肉体はトーレが攻撃する前にシンをその方向に“振り向かせる”ことに成功させる。
 トーレの表情に驚愕が浮かぶ。
 それはありえないことが起こったとでも言わんばかりの表情。
 そして、シンの全身全霊による回転による威力増加も伴ったアロンダイトによる横薙ぎがトーレの刃と激突する。そのまま鍔迫り合いの状況へ移行する。

「いっけえええええ!!!」
「貴様――!!?」

 叫び、シンの肉体の後方――右腰、左腰、右膝、左膝、右肩、左肩、背中の計7箇所から朱い間欠泉が吹き上がり、シンの身体がトーレに向かって“弾け飛んだ”。
 それはフェイトとは逆の方向――引き離す為に。敵を、彼女から、可能な限り引き離す為に。
 彼があの一瞬で考えたことはそれだった。
 敵をフェイトから可能な限りに引き離し、救助を要請する。
 ただ、それだけだった。バルディッシュ――デスティニーに通信させた――には先ほどからずっと救難信号を発信させている。
 少なくともそうしていれば後から追いついてくるメンバーが場所が分からないと言うことも無い。
 自分が目の前の敵を押さえ込むことが出来れば、6課の仲間が彼女を救助に来る、と。

「うおおおああああああ!!!!」

 アロンダイトでインパルスブレードを押し込み、パルマフィオキーナの勢いそのままに吹き飛んでいくシン。
 一瞬で組み合った二人の距離はフェイトから離れていく。だが、

「私の邪魔を……するなぁ!!」

 トーレが全身のライドインパルスを最大規模で発動。
 紅く禍々しく羽根が輝き震える。
 動きが止まる。シンの突進が止められる。態勢は鍔迫り合い。押し込んでいたアロンダイトがトーレのインパルスブレードによって、逆に押し返されていく。

「はああ!!!!」

 裂帛の気合と共に渾身の力でアロンダイトを弾き返すトーレ。
 アロンダイトが跳ね上げられた。シンは態勢を崩し、両の手を広げている――無防備な状態。隙だらけ。 
 トーレが両手を振りかぶる。
 紅く巨大な爪がその両手から生まれた。禍々しく美しく輝く爪。
 無防備な現在の状態で喰らうその一撃はシンの臓腑を抉り、見るも無残な姿へと変えるに違いない。
 その爪が抉った自分を思い浮かべる。
 四肢を失い、臓腑を撒き散らし、身体中を切り刻まれ、肉片と化した自分。人間ではない。畜生の餌以下の自分。

(死ぬ。)

 確信が浮かぶ。間違いなく殺される。場所はフェイトからさほど離れていない。
 その距離は凡そ数百m。囮にすらなれていない。自分が死ねばフェイトは確実に殺される。
 それは駄目だ。それだけは駄目だ。何故なら、それでは、単なる無駄死にだ。

(ふざけるな。)

 心中での叫び。無駄死にをする為に此処まで来たのではないと叫ぶ心。
 自分がここにいるのは何の為だ――考えるまでも無い、守る為だ。誰かを、眼に映る全てを。
 死ぬのは怖くない。むしろ問題ないとさえ言える。犠牲となり、誰かを守って死ねるなど最高の一言に尽きる。悔いなど無い。十分過ぎる。

「――ふざけるなよ。」

 だが無駄死だけは駄目だ。
 無駄に生きて、無駄に死んで、誰も守れずに、ただ消えて行く。
 それだけは決して許せない。そんな“今まで通り”の無駄死を許せるような潔さをシン・アスカは持ち合わせてはいない。
 彼は自身の願いを叶える為に此処にいる。

 その為に力を得た。
 その為に鍛えてきた。
 決して、こんなところで無駄死にする為にいる訳ではないのだ。
 目前の敵の力は万武不倒。どんな裏技を使ったとしても、決して届かない位置にいるのは明白。
 届かせるなら――少なくとも渡り合うには力が必要だ。それこそ、何もかもを守れるような絶対足る力が。

「そっちこそ――」

 求めは内に。叫びは外に。
 記憶を掠める幻影。
 家族が見えた。
 妹が見えた。
 守れなかった少女が見えた。
 守れなかった少年が見えた。
 殺してきた誰かが見えた。 

 ――何かが見えた。泣いている誰か。笑っている誰か。見たことも無い誰か。様々な誰かの思い出がカケラとなって入り込んでくるような錯覚。
 
 シン・アスカのココロが稼動する。螺旋模様にくるくると。ゼンマイ仕掛けの人形のように。
 がちり、と音がした。無音の響きが。

「俺の“願い”の……!!」

 空気がざわめく。吹き飛ばされた態勢そのままに、シン・アスカの周辺が陽炎のように揺らぎ始める。

「邪魔をするなぁっ!!」

 叫びに呼応するようにしてデスティニーの液晶画面に文字が映る。

『Mode Extreme Blast.Gear 4th ready.』

 デスティニーから放たれた言葉。その瞬間、シンの脳裏で何かが“弾けた”。
 朱い瞳が焦点を失った。広がる知覚。
 世界を自分のモノとして捉えたような感覚。戦時中、シンを幾度も救い、そして模擬戦の際にシンを“変質”させたあの感覚だ。
 だが、変化はそれだけに留まらない。
 言葉が流れる。デスティニーの液晶画面に。

『Nervous system intervention start――End(神経系介入開始――終了)』
『Life activities optimization――End(身体内部活動最適化――終了)』
『The power release operation preparations start――End(魔力放出操作準備開始――終了)』
『Acceleration start(高速活動開始)』

 畳み掛けるようにして流れていく文字列。
 それが消えると陽炎のように揺らいでいた彼の周りの空間が朱色で染め上げられていく。それはパルマフィオキーナと同じ朱い光――というよりも朱い炎。
 そして再び身体中を走り抜ける朱い光。
 ドクン、ドクン、と心臓の鼓動のように明滅し流れていく回路上の朱色。
 明滅は加速する。ドクンドクンという鼓動から、ドドドドドという轟音へと。

「ぐ、ぎぃ。」

 うめき声を上げてシンの肉体が悲鳴を上げた。 
 心臓の鼓動が加速した。
 身体中の血流が増加する。
 拡張する血管。血圧が一時的に極端に上昇し、血管が膨れ上がった。
 同時に肉体が膨張する。血管の膨張に伴って。破裂寸前の肉体。
 そしてそれを押さえ込む朱い炎。魔力の圧力によって膨れ上がった肉体が元々の大きさにまで縮められる。
 身体中を激痛が走り抜ける。それをシンは奥歯を割れんばかりに噛み締めることで耐え抜く。

 ――脳内に流れ込む“情報”。デスティニーがシンに送信する現在の状況説明であり、今施された“処置”の内容であり、これより自分がどうすればいいかの指針。

 襲い来るトーレの姿を捉えた。その速度は人外の領域。人の反射速度を凌駕した速度。
 だが、シンはその高速の一撃を――アロンダイトで“受け止めた”。それまでとはまるで違う。ギリギリではなく、流麗なシン・アスカの肉体に定着した“達人”の動きで。

「なにっ!?」

 これまでに無いほどに驚愕するトーレ。驚きは当然だ。
 突然、シン・アスカの反応速度が変化したのだ。
 それまでよりもはるかに速く――それこそ、これが人間かと疑いたくなるほどの速度へと。

「……貴様、今、何をした。」

 受け止められた爪を前に、トーレが呟いた。
 エクストリームブラスト。現在、デスティニーがシンに施した魔法の名だ。
 この能力もシンの肉体を癒した術式と同じくデスティニーの中に格納されていた魔法の一つ。
 ただし、この能力は今シンに発動している能力とは少し違う。
 元々格納されていたのはシン・アスカのSEEDを強制的に発動させ、神経系に介入し、人の感じ取る“一秒”と言う単位を1/2秒、1/3秒、1/4秒と言った具合に圧縮することで、体感時間を加速させる。
 1/2秒であれば2倍。1/3秒であれば3倍。1/4秒であれば4倍と言った具合に。
 それ自体は肉体を加速させる効果などは無い。本来、この魔法は現在のデスティニーには“組み込まれていない”パーツが生み出す魔法を制御する為のモノである。
 故に本来であれば、この魔法は宝の持ち腐れに他ならない。
 どれほど体感時間を加速しようとも肉体の行動速度は変化しない。
 加速した体感時間に引き摺られて、多少は速くなるかもしれないが、“高速活動”と言うほどには決してならない。
 逆に肉体と脳の時間が乖離し、感覚だけが暴走すると言う行為になりかねない――本来なら。
 だが、デスティニーには――シン・アスカにはフィオキーナと言う高速移動があった。
 彼の全身を覆う朱い光――それはパルマフィオキーナそのもの。
 パルマフィオキーナを間欠泉と例えたが、あちらが間欠泉ならば、こちらは太陽から吹き出る紅炎(プロミネンス)。
 肉体そのものを発射寸前――つまり待機状態のパルマフィオキーナで覆い、肉体のありとあらゆる“活動”をパルマフィオキーナによって加速させるのだ。
 シン・アスカの加速した体感時間に肉体を追随させる為に。
 膨れ上がり破裂しそうな肉体を押さえ込んだのは魔力を圧縮する為である。常に魔力を圧縮することで最大威力のパルマフィオキーナを常に発動できるように、と。
 SEEDによる感覚の鋭敏化と知覚の拡大が、デスティニーによる体感時間の加速を“許容”し、全身を覆うパルマフィオキーナの朱い光がシン・アスカを高速の世界へと誘う。
 その様は正に炎。
 作り変えられた肉体はこの為に。
 書き換えられた神経系はこの為に。
 それが定着し、使用可能と判断され、デスティニーは術式施工を開始した。
 シンの叫びに呼応し、彼の敵全てを打ち倒し、彼の願いを軒並み叶える為に。
 今、この瞬間、人間シン・アスカは姿を消す。そこにいるのは人機一体を具現した戦士の雛形。

「……なるほど」

 ――シン・アスカは炎となってキミたちを燃やし尽くすだろう。
 
 シン・アスカを覆う朱い炎の如き魔力。自分のライドインパルスの紅とは違う朱い炎。
 インパルスブレードを受け止められ、その炎を間近で見たトーレの脳裏にあのギルバート・デュランダルの言葉が蘇った。
 あの交錯――彼女はあの時スカリエッティの隣に佇み、その一部始終を見届けていたのだ。

(あながち冗談では無かった訳だ。)

 呟きと共に全身の神経を張り詰める。
 突然、強く速く鋭くなった彼の動き。
 インパルスブレードを難なく受け止めていることからも、その実力が伺える――何故突然動きが良くなったか、その理由は分からないが。だが、トーレにしてみればそんなことはどうでもいい。彼女にとってシンが強くなったことは喜びこそすれ、憂うようなことではないからだ。
 戦士という人種にとって強者とはつまりご馳走である。
 戦いに溺れるようなことは無いにしても、戦い無くして生きていけないのが戦士だからだ。
 先ほどの動きを見れば、シン・アスカは十分にトーレと戦える程度の実力を持っていると思っていい。
 しかも、そんな強者が今、自分の前に立ち塞がっている。

(ならば、断ち切るしかないじゃないか……!!)

 トーレの唇が釣り上がる。獰猛であり、凶暴であり、そして何よりも――美しい微笑みが浮かぶ。
 それは肉食獣の笑み。命の鬩ぎ合いを何よりも望む微笑みであった。
 シンが無言で動いた。一歩前へ足を踏み出す。トーレも動いた。もう一方の手には爪ではなく大剣が生まれていた。

 ――瞬間、巻き起こる旋風。疾風が吹いた。土埃が舞い上がった。
 
 線と線の応酬。シンの身体が残像を残して分裂する。トーレの身体が残像を残して分裂する。
 アロンダイトとインパルスブレード。二種の得物が織り成す高速斬撃の応酬。
 それは余人には線と線が絡み合うようにしか見えないほどの高速斬撃。
 彼ら二人の間で交錯するそれは優に秒間に十発ほど。
 切り下ろし、切り上げ、刺突、袈裟、逆袈裟、右薙ぎ、左薙ぎ。
 考えうるありとあらゆる斬撃方向で絡み合う刃と刃。
 それと平行してじりじりと二人の足が動いていく。徐々に近づく距離。
 止まらない歩みと同様に斬撃の応酬も止まらない。
 耳に届くは、高速で鳴り響く甲高い金属音。チチチチチチチ――と何十匹もの鳥が一斉に鳴き出したようなそんな音。
 アロンダイトという刃金とインパルスブレードと言う光刃を打ち合わせる音である。
 二人の手元と言わず、その全身は人間の視認速度を大きく超えた速度で活動している。故に間断の無いそんな鳴き声のような音を生み出すのだ。

 両者、搦め手などは使用しない。
 目前の敵を斃す方法は一つ。出し抜くのではなく、追い抜く――それのみだと理解しているからだ。
 上下左右前後。ありとあらゆる角度・距離・態勢から放たれる斬撃はもはや斬撃ではなく弾丸の如く。
 弾け飛ぶ空気。捻じ曲がる大気。そして、耳に響く金属音。その音が僅かに一瞬足りとも隙間を開けずに辺り一体を覆い尽くしていく。

 ――そして、血色の紅と炎の朱が弾け飛んだ。
 
 両者が同時に放った大振りの一撃――とは言え視認もかくやと言う高速の一撃である――でお互いの一撃の魔力が相殺されずに爆発した。
 爆発。噴煙が上る。そして、縦横無尽にその噴煙を断ち切るようにして駆け抜ける二つの赤。
 
 炎の朱――シン・アスカと、血色の紅――トーレ。
 シンの大剣による一撃を爪状のインパルスブレードで打ち払い、残る左手のインパルスブレードを叩き付ける。
 その一撃を後退するのではなく、更に前に踏み込むことで回避するシン。
 そして――突進の勢いそのままにトーレの鳩尾に向かって肘打ちを放つ。
 不敵な笑みを浮かべ、トーレはその一撃を後方にシンが突進してきた距離の分だけ移動することで回避する。

 紙一重で当たらないシンの左肘。
 だが、それで終わる訳でもない。
 そこから左腕を伸ばし、トーレの胸に手を当てる。
 パルマフィオキーナ。近接射撃魔法の直接発射。
 だが、トーレとてその動きを読み切っている。
 戦士の経験は伊達ではない。
 トーレはシンが左手を伸ばし押し当てようとする寸前に、その身体を更に近づけた。
 否、近づけると言うよりも突進である。
 突然の突進によってシンの左手はその勢いで上に弾かれ――懐に隙が生まれる。

 トーレの左手がシンの腹部に押し当てられた。
 一瞬の混乱。
 トーレの左手にはインパルスブレードは生まれていない。
 ならば、単純な殴打かと思えば、そうではない。
 ただ押し付けただけだ。瞬間、トーレの全身に力が満ちた――シンの背筋を怖気が走る。咄嗟に右手をトーレの左手に向ける。
 無言でシンは全身の魔力を右手に集中。既に待機状態のパルマフィオキーナが全身を覆っている以上は魔力の流れは何よりも滑らかであり、尚且つ早い。
 放たれる朱い魔力の間欠泉。同時にトーレの身体が“ブレ”た。
 残像を生み出すかのように高速でブレた身体はその前よりもおよそ10cmほど前進していた。
 そして、遅れて――数瞬の後、トーレの拳が向かう方向の先で瓦礫が“破裂した”。まるで何かが激突したかのように。
 口を開き犬歯を見せ付けるようにして、微笑むトーレ。よくぞ避けた。そう言いたげな笑みだった。
 今の拳の一撃はトーレの新たな技――切り札である。その名をインパルス。

 全身の関節を筋肉で締め上げ固定した状態からライドインパルスによる局所的な超高速移動を行う。ただ、それだけの技。
 だが、ただ“それだけ”の一撃が生み出すその衝撃は強烈という言葉すら生温い一撃である。
 トーレという物体の持つ重量が音速の速さまで一気に加速し、10cm移動するのだ。
 運動エネルギーとは質量と速度の二乗の積に1/2を掛けたモノ。
 10cmという超々短距離の中で音速に到達するライドインパルスの“加速”だけが可能とする強大無比の一撃。
 その一撃が生み出す運動エネルギーは高速で迫る砲弾など簡単に凌駕する。
 今、シンがそれを避けたのは単なる偶然であり直感である。
 だが、もし避けていなければ――シンの腹部には今頃巨大な穴が開いていたことだろう。

 僅かに開いた距離。それを埋めるように、二人の身体が再び激突する。
 振りかぶったアロンダイトと振り上げた爪の激突。
 交錯は一瞬。そして、

「くっ……!」

 トーレが苦しげに呻く。
 シン・アスカのアロンダイトがトーレのインパルスブレードを突き抜け一撃を加え、彼女の右肩に直撃し――

「がぐ……!」

 言葉にもならない吐くシン。
 トーレの右足が彼の左脇腹に接触し、掠めて、突き抜けている。
 瞬間、両者はお互いの得物によってお互いに与えられた衝撃を逃すことも耐えることも出来ぬまま――吹き飛んでいった
 加速する景色。その中でシンは見た。自分が今、吹き飛ばされている方向、その先に意識を失い瞳を閉じて眠るフェイト・T・ハラオウンを。
 ――意識が肉体に介入する。

「……とま、れ」

 呟き。身体が言うことを聞かない。確実にフェイトに直撃する。
 この速度で自分が彼女にぶつかれば大怪我では済まないのは明白。フェイト・T・ハラオウンを殺すことになる。
 
「――とまれええええええ!!!」
 
 絶叫。即座に自身を覆うパルマフィオキーナを利用して、地面に向かって自分自身を叩き付けた。垂直落下。地面にダウンバーストのごとく。
 迫る地面。左右への方向転換を思案――不可能。方向転換は出来ない。この速度粋では軌道が変わる前にフェイトに激突する。彼女は死ぬ。
 惨劇を防ぐ方法――そんなものは一つしかない。止める。彼女を守るには停止させるしかない。

「ああああああああ!!!!!」

 叫びながら、全身の魔力を振り絞り、全身全霊の力でアロンダイトを地面に突き立て――それでも身体は止まらない。

(止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれええええええ!!)

 叫んでいる暇も無いほどの渦中。故に内心で絶叫。狂ったようにソノ言葉を何十回も繰り返す。
 それでも止まらない。フィオキーナを背部に集中させる。
 背中や腰、関節部分に激痛――歯を食いしばってそれを無視し、ひたすら集中する。
 流れる汗。呼吸が出来ないほどの激痛。目の奥がチカチカする。噛み締めた奥歯が痛い。

「ああああああああ!!!」」

 絶叫。そして、彼の身体が減速していく――彼女の目前、数mでようやく停止。
 彼の身体を覆っていた朱い炎もその姿を消している。そして、彼の瞳にも焦点が戻っている。

「……よかっ……」

 その言葉を言い切る前に、シンの膝が地面に付いた。足に力が入らない。

「あ、れ……?」

 そして、次は身体。糸をなくした操り人形のように、力無く蹲るような態勢になり、

「……ぐっ、げほ……げほっ!?」

 口元から夥しい量の血液がこぼれた。
 急激な加速と減速。更には人間の限界を超えるような速度。
 それを制御する術や身体を防御する術など持たないシンがそんなことをしたのだ。
 内蔵のどれかを傷つけていても何ら不思議ではない。そして、更には――

「あ、は、あ、ぐ……!!」

 ――全身を針で同時に刺されるような激痛が襲った。神経を直接抉るような激痛。声すら出せないほどに。
 そして、彼の身体の節々から立ち昇り始める“蒸気”。

「……時間、なのか、デスティニー」
『Yes, Regeneration start.』

 リジェネレーション。肉体の自動回復の魔法である。
 あの模擬戦の際にシン・アスカの肉体を治癒した魔法。それが今再び機能し出したと言うことだ。
 先ほど感じた痛み。それはつまり肉体を治癒する為に生まれる反動。
 強制的に肉体の回復を促進するが故の反動である。蒸気は彼の肉体を癒す際に生まれた熱によるもの。
 そして回復に使用した魔力が次から次へと霧散していくことによるものだ。
 かつり、と音がした。シンは振り向き、身体を起こした。息は絶え絶え。身体は満足に動かない。正に虫の息の状態で。

「……殺さ、ないの……か。」

 身体を起こし、地面に座り込むような姿勢でシンは既にかなりの距離にまで近づいていたトーレに呟いた。

「よく言う。近づけば不意を付いて攻撃する気だろう?」

 トーレはその言葉を受けると、肩を竦め、笑いながら返事を返した。

「……さあ、ね。」

 シンはその返答に内心、舌打ちをしていた。
 彼女の問いは概ね合っている。
 今、彼女が不用意にこちらに近づけば刺し違える覚悟でもう一度エクストリームブラストを発動するつもりだったのだが――どうやら敵はまだまだ冷静らしい。
 状況は絶望的。
 自分は身動きどころか死んでいないのが不思議なほどに満身創痍。
 あちらにも手傷は与えたモノのそれでもこれだけ軽口を叩けると言うことは致命傷ではないと言うことだ。こうなっては刺し違える程度で覆せるモノではなかった。

 ――だが、だからどうしたと言うのか。

 シン・アスカは心中で呟き、力の入らない足を片手で押さえ込み、もう一方の手でアロンダイトを杖代わりに立ち上がる。
 戦う為に。

「……」

 彼女を見つめる視線は一途な朱。何があろうと、たとえこの身体がどうなろうとも、自身の背後にいる“人間を守る”。
 願いを、叶える為に。彼はここで眠っている訳にはいかないのだ。

「……凄まじいな、貴様は。本当なら捕えておきたいところだが――」

 そんなシンの姿に感嘆の溜息を吐いてトーレは地面に膝を付き、右拳を地面に押し当てた。

「お前は捕えておくには問題が多すぎる。ドクターの“世界を救う”計画の邪魔になるのは確実だ。」

 トーレが拳を押し当てた――その意味にシンが気付くのは僅かに一瞬、遅かった。

「死んでもらう。もっと安全な方法で。」

 呟きと共にトーレの身体がぶれる。ライドインパルスによる超近接打撃「インパルス」
 あれほどの威力の攻撃を瓦礫だらけのこんな場所で――しかも地面に向けて使えばどうなるのか。そんなもの想像するまでもない。
 ――全てが壊れるに決まっている。

「く、そ……!!!」

 地面に亀裂が入った。
 フェイトは未だ眠りから眼を覚まさない。
 ズルズルと落ちていくフェイト。シンは咄嗟にフェイトに抱きつき、その肢体をきつく決して離さないようにと力強く抱きしめた。

 ――眼下に見えるのは真っ暗闇。下水道。もしくはそれに類する施設に繋がっているのかもしれない。
 
 そして、シンがフェイトを抱き締めたまま上空に向かって、何とか昇ろうとした時――

「トドメ、だ」

 そこにはそれを待ち構えていたトーレがいた。右手の爪がこれまでで一番巨大化している。そして、その言葉を言い終える間に爪が振り下ろされた。
 思考は一瞬。逡巡も一瞬。行動に移る際には間髪入れず。
 シンの脳裏に浮かぶ言葉はたった一つ。

(守る)

 その“願い”に従い、彼は言葉を発することもなく、“自ら”その暗闇に落ちていった。
 フェイトを抱き締めたまま、瓦礫を避けるようにして。
 上空に昇れば確実な死が待っている。
 だが、下方――暗闇に落ちればまだ可能性はある。
 少しでも守れる可能性があるならば――そんな考えで彼は自ら暗闇に落ちていった。

「……ふふ、やはり、逃げられたか。」
 
 少しだけ嬉しそうにトーレは呟いた。
 その表情にはもう一度戦う機会が欲しいと言う愉悦があった。彼女はあの二人が死ぬなどと露ほどにも思っていない。
 特にあの男――シン・アスカ。
 あの男は死なない。
 その前歴や“こちら”に来てから経歴を多少聞いてはいたが――実際に出会ってみて彼女は思った。あの男はこんなところでは死なない。
 運命は、あの男にこんな所で死なせてやるような幸運を許していない、と。
 だからこそ、楽しい。だからこそ嬉しい。

「……また会おう、シン・アスカ。今度は二人で、な。」

 それはどこか愛の告白にも似た“熱”が籠っていた。



[18692] 第二部機動6課日常篇 16.運命と襲撃と(d)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 17:55
「くっそっ……!!!」

 エリオ・モンディアルがその手に持つ槍――ストラーダを再び、構える。
 足場の無い空中での戦闘は分が悪い。そう判断したシグナム、エリオ、キャロの三人は戦闘の舞台を地上に移していた。
 そこならばエリオ・モンディアルの高速機動戦闘を遺憾なく発揮出来る、という目算でだ。
 事実、先ほどからエリオ・モンディアルの攻撃は何度と無く敵の身体中に届き直撃している。
 そして、その援護を受けてアギトとユニゾンし遺憾なく力を発揮するシグナム。
 速度と力による連携。そしてそれを支える後衛。それは傍目には安心を生み出す光景である。此方が優勢である、と。
 だが、何度目かの攻撃を終えた後にエリオは思った。

 ――通じていない、と。

 彼らは勘違いをしていた。
 本来ならばライトニング分隊において最大戦力に位置するフェイト・T・ハラオウンにこそ最大戦力を当てる、と。
 最優、もしくは最強のスペックには同じく最強を当てる。それが定石である。
 故に、ナンバーズ・トーレこそが敵の中で最も強いのだ、と。
 だが、それは否だ。断じて、否。
 彼女達は知らないが、ウェポンデバイスとは小規模次元世界の作成を用いて、モビルスーツを人型サイズにまで圧縮したモノである。
 ウェポンデバイスを相手にすると言うのは即ちモビルスーツ――全高およそ十数mの鋼の塊を相手にするのと同義である。
 見た目が人間サイズだからと安堵することは出来ないのだ。
 彼らウェポンデバイスが放つ光熱波は即ちCE世界にて猛威を振るったビーム兵器そのもの。その手に持つ格闘武器は即ち鋼を砕き破壊する殺戮鈍器そのもの。
 その重量も。その装甲の厚さも。その装甲の質も。
 全て、モビルスーツと同じなのだ――いや、違う。
 プロヴィデンスがドラグーンを地上で使えたように、魔法というCE世界には存在しなかった技術を取り入れたことでその性能はCE世界で稼動していた時よりも向上していると言ってもいい。
 また、機械である以上は避けて通れない電気や水への耐性。魔法という技術を利用すれば、そんな弱点など簡単に防護できる。
 つまり、ウェポンデバイスとは人間ではない。モビルスーツという機動兵器そのもの。
 スターズ分隊の連携攻撃――ディバインバスターとリボルビングステークという二つの一撃必倒で倒せなかったのも当然である。
 全高十数mの鉄の塊――しかもその装甲はフェイズシフト装甲という打撃や斬撃などの物理衝撃に強い特殊な物質である――が倒せるだろうか。
 冷静に考えて無理である。装甲の厚さ。装甲の質。そして重量。
 速度や技術などを帳消しにする圧倒的な攻撃力と防御力。それがウェポンデバイス。
 
 ナンバーズ・トーレ。彼女は比類なき強者だ。
 だが、彼女であっても真正面からの戦いでウェポンデバイスには勝てない――無論、彼女は真正面以外からの戦いを挑むであろうが。
 
 真正面からのぶつかり合いでウェポンデバイスを倒せるのは同じウェポンデバイスかモビルスーツのみである。
 現状で効果がある攻撃があるとすれば、それはシグナムとアギトの火龍一閃それのみである。それ以外の攻撃は全て“通用しない”。
 
 自然、エリオ・モンディアルはキャロ・ル・ルシエのブーストを受けた上での持ち前の高速機動による撹乱と回避しか出来ることは無くなる。
 シグナムはその撹乱によって生まれる隙間を縫うようにして攻撃を行い、尚且つガジェットドローンの掃討を行わざるを得ない。
 そしてキャロ・ル・ルシエは後方での援護に専念する以外にない。
 攻撃が通用しない以上、彼らのこの判断は当然であり、敵の攻撃一度でも喰らえば肉体は肉片に成り下がり、その光熱波が一度でも直撃すれば肉体は蒸発する、と言う以上は当然である。
 以前、エリオやフェイトが咄嗟に張った防御魔法によって攻撃を凌いだのは彼らの魔法が秀逸だからということもあるが、それと同時に巧妙な出力操作をクルーゼが行っていたからだ。
 殺さないように且つ苦しむように。
 目前の黒いウェポンデバイスにはそんな“感情”は無い。
 今も“殺すな”という命令を受けているからこそ、死なない程度の攻撃を繰り返しているだけだ。
 だから、彼女達は、勘違いをしている。
 彼らの目前に立つ、黒色の鎧騎士――レイダー。意思や感情を持たない彼らウェポンデバイスこそが敵にとっての最強。
 生きる屍として存在する彼らこそがこの場における最強の個体なのだ。

「くそっ……!!このままじゃ……」

 毒づくエリオの脳裏を嫌な想像が掠めていく。それはあの化け物との戦いを思い起こして。
 あの時、エリオ・モンディアルは何も出来なかった。無力にただ倒され、囮として使われる弱者だった。
 目前の敵。それはあの時と同じモノだとエリオは感じていた。
 火力。防御力。そして、得体の知れない強さ。
 目前の敵が打ち出す鉄球。
 撃ちだされる度に巨大化し、周辺の建物を薙ぎ倒し、地面に突き刺さり、そしてそれを軽々と――まるで手足のように自分の元に“縮小”しながら戻す。
 巨大化。そして縮小。これはあの化け物と同じだった。
 エリオ・モンディアルの中には成す術無く倒されたその記憶が色濃く残っている。苦手意識と言っても良い。
 それが彼の動きを鈍らせている――わずかばかりに。
 エリオ・モンディアル。彼はこの年齢にして、多くのモノを置き去りにする代わりに多くの経験を獲得してきた。死線を潜り抜けた。
 魔導師としての実力は同年代の中では規格外とさえ言って良い。
 だが――

「はああああ!!!」

 ストラーダによる高速機動からの突貫。本来ならこれで終わりだ。
 ソニックムーブと言う高速移動とブリッツアクションと言う高速行動によって加速し、更には電撃を伴った一撃は機械であろうと魔導師であろうと一撃で行動不能に落とし込む。
 その一撃に対して何を思うことも無く、黒い鎧騎士は右の手から鉄球を再び放り投げてくる。瞬間、巨大化。エリオはすぐにソニックムーブでその場を離脱する。

 焦燥が彼を支配する。
 本来ならコレでいい。彼がキャロのサポートを受けて撹乱し、シグナムが必殺の一撃を加える。それがベストである。
 だが、シグナムはそれだけに集中する訳にはいかない。ガジェットドローンの“掃討”と言う役目が在る以上、そちらをおろそかにする訳にはいかない。
 
 焦燥が加速していく。
 エリオ・モンディアルの攻撃では敵の装甲は貫けない。
 けれど、敵に損傷を与えることの出来る攻撃を放てるシグナムはこちらに集中できない。
 集中したが最後、今度は数の暴力で押しつぶされる。
 キャロ・ル・ルシエは元よりそういった戦いに向いていない。
 無論、召還魔法は強力ではあるが、現状でさしたる効果を生み出せる訳でもない。

 膠着状態。そして長引けば長引いた分だけこちらが不利になる。
 黒い鎧騎士が体力を消耗するのかは分からないが、少なくともガジェットドローンは機械である以上は疲れを知らない。
 考えを巡らせるエリオ。
 敵は鉄球による一撃と口元から発射される光熱波を主とした攻撃手段として扱っている。
 そしてここまでの攻防にて気づいたのだが、電撃を伴った攻撃は多少なりとも効果があると言うこと。
 無論、著しい効果ではない。
 せいぜい、動きを僅かに鈍らせる程度。だが、鈍らせるだけでも僥倖である。
 単なる刺突や斬撃では動き一つ止めることも出来ないのだから。
 付け入る隙があるならば、それは弱点であり――それがあるならば、やりようなど幾らでも在る。
 エリオ・モンディアルが彼なりに考えて出した結論である。

『キャロ、いい?』

 エリオがキャロに向かって念話を送る。

「エリオ君?」
『僕のストラーダにブーストをかけて欲しいんだ。』
 
 エリオの言葉。その言葉の調子にキャロは

「……懐に入り込んで一撃を加えるの?」
『……うん、多分、それしか方法が無いと思う。』
「でも危険すぎるよ。」
『……でもやらなきゃ。シグナム副隊長はガジェットに集中しなきゃならない。僕らがやるしかないんだ。』

 静かに、断言するエリオ。その言葉を聞いて彼女――キャロ・ル・ルシエも覚悟を決める。
 そうだ。その通りなのだ。危険を恐れて何が機動6課なのだ、と。

「……うん、信じたからね、エリオくん。」

 二人の瞳に覚悟が写る。それは子供だからこその純粋な決意。決して自分達を止める者などいないと信じている。
 それは幼いが故の一途さ。

『キャロ、行くよ。』

 エリオの呟き。始めると言う合図。
 キャロ・ル・ルシエが言霊を紡ぐ。

「我が乞うは、疾風の翼。若き槍騎士に、駆け抜ける力を。」

 一つ目のブースト。ブーストアップ・アクセラレイション。
 その名の通り、機動力を上昇させる魔法である。

「猛きその身に、力を与える祈りの光を。」

 二つ目のブースト。ブーストアップ・ストライクパワー。
 対象の打撃力を上昇させる魔法である。

「――ストラーダアアアア!!!!」

 叫びと共にストラーダが変形する。
 デューゼンフォルム。基本形態――スピーアフォルムの側面部に4機現出し新たなノズルが現出し、それに合わせて各部が変形する。
 その外観が示す通り、この形態はスピーアフォルムよりも、より高速近接戦闘に特化した形態。
 推進加速を使用し斬撃・刺突の強化だけにとどまらず、推進方向を制御することで、限定的な――本来の用途ではない――空戦すら可能とする形態である。
 キャロ・ル・ルシエの機動力・打撃力のブーストに加えて、エリオ・モンディアルの高速機動特化形態のストラーダ。
 彼らの思考は至極単純である。
 強大な敵に小細工など不要。全力全開、己が最強の一撃で以って貫き穿つ。ただそれだけ。

「うおおおお!!!」

 叫びと共にストラーダが紫電を纏う。エリオ・モンディアルの姿が掻き消える。高速移動――ソニックムーブである。
 加速。瓦礫――戦闘で既に破壊されたビル郡である――を蹴って、方向修正。上空に向かって走る。
 加速。敵がエリオに向かって鉄球を振りかぶる。キャロ・ル・ルシエの従える竜――フリードリヒが炎――ブラストレイを放った。
 加速。敵がそちらに一瞬、気を取られる。エリオ、その一瞬で方向修正。狙うは装甲の隙間。間接部分。

 最大威力で魔力変換。
 電撃の威力はこれまでの比ではない。
 打撃力強化によってその一撃の威力はシグナムにも劣らない。
 加速した速度による一撃の威力はフェイトの大剣にも匹敵する。

「紫電――」

 その一撃は単純にして明快。基本にして究極。
 魔力を自身の適性上の変換を行い、それを高密度に圧縮し、武器に付与し、打撃――もしくは斬撃として撃ち込むと言うただそれだけの一撃。
 それは魔力変換資質を持つベルカ式術者の基本にして奥義とも言える“技法”。
 それは進路上の全てを突き穿つ雷鳴の槍。

「一閃――!!!」

 狙い違わず、エリオ・モンディアルの繰り出した紫電一閃は黒い鎧騎士のその装甲の隙間――間接部分に接触する。
 感触は鋼を切り裂くが如く。電撃を伴った斬撃は敵の肩と腕の付け根の部分を貫いた。

「これで……!!!」

 間髪入れず、エリオはそこからもう一度紫電一閃を繰り出そうストラーダを握る手に力を込めた。
 接触状態からの最大威力による電撃。
 如何に敵が人間離れしていようとも、それほどの電撃を流せば機械だろうと人体だろうと、損傷を与えられることは明白である。

「終わ……」

 ――そう、言い終える前に、敵の右手がエリオに向けられていた。そして掌に穿たれている“穴”がエリオを直視する。
 
 エリオ・モンディアルの全神経が警鐘を鳴らした。緑色の光がそこに灯った。

「エリオくん!!」

 キャロが叫ぶ。悲鳴を上げた。

「――!!!」

 エリオは無言で――声を出す暇などまるで無かった――再びソニックムーブを発動。
 敵の身体を台にして全身全霊でその場を離脱する。
 瞬間、掌から発射された光熱波がそれまでエリオがいた場所を突き抜けていき、そして――先ほどエリオが台として使用した瓦礫に命中した。瞬間、爆発が起きた。
 それはアフラマズダと言うビーム砲である。
 モビルスーツ・レイダーの掌に設置された近距離でのビーム砲撃装備。無論、レイダーはこの一撃をエリオが回避出来る速度と威力で発射している。

 本来の威力で放てば、回避しようとしたエリオの身体を消し炭にしていてもおかしくはない。
 間髪いれずに敵が鉄球をエリオに向けて放つ――エリオ・モンディアルは未だ着地していない。

「ストラーダ!!!」
『Sonic move』

 ストラーダの返答と共にエリオが加速。同時にストラーダの側面に現われたノズルからバーニアの如く魔力が放出される。
 最大威力。余裕などは欠片も無い。

「……」

 加速した世界の中で、紙一重の差で目前を通り過ぎていく鉄球。
 巨大な鉄球が通ることで起きる乱気流――エリオ・モンディアルには飛行の魔法は無い。
 彼は“飛べる”だけで留まることは出来ない。
 そして、乱気流に巻き込まれ、エリオがストラーダからの魔力放出で必死にその場から撤退しようとした瞬間――エリオは息を呑んだ。
 黒い鎧騎士。その口元の辺りが赤く輝き、エリオとは違う方向――キャロ・ル・ルシエの方向へと向いているのだ。

「キャロ!!」
「え?」

 キャロ・ル・ルシエは恐らく状況を理解できていない。その射線上に自分がいることに。
 
 ――今、彼女は死ぬ間際の危機に晒されていることに。

 赤い光が、放たれようとする。

「くっ――!!!」

 シグナムが現状に気付き、ガジェットドローンとの戦闘を全て破棄し、キャロ・ル・ルシエの元に馳せ参じようと急ぐ。
 だが、その行く手を遮るドローンの数は未だに40を切っていない。
 火竜一閃ならば一撃で倒せよう。だが、その一撃を放ち終わった時には既にキャロ・ル・ルシエは消し炭だ。

「うわあああああ!!!!」

 エリオが絶叫と共にソニックムーブを発動。
 高速移動下に身を移す。
 迅雷の速度で敵の身体に一撃を加えようとストラーダを振り被り――その眼前に現れるは黒い鎧騎士の左手。掌に穿たれた穴がエリオを見つめていた。

「――え」

 緑色の光が、灯った。
 一瞬、肉体が硬直する。
 死の恐怖なら何度か味わっている。
 だが、これは違う。これは“死の実感”。
 確実に、間違いなく、紛うことなく、死ぬ。
 
 それは、高層ビルから下を覗くことに似ている。
 それは、高速道路を走る車の傍に立つことに似ている。
 それは、自動車が高速でスピンした時に似ている。
 それは――死を待つだけの瞬間。
 
 為す術無く、抗う術無く、払う術無く、何もかもを“喪う”瞬間。
 動けない。動けない。動けない。

(嫌だ。)

 死にたくない。死にたくない。死にたくない。

(嫌だ。)

 死にたくない。
 何よりも、誰よりも、たとえ“全てを見捨てて”でも。

(死にたくない――!!!!)

 声を枯らすほどの絶叫。発動していたソニックムーブを継続。
 ストラーダの狙いを“キャロ・ル・ルシエを狙っていた口元”から、“自分を狙う左手”に変更。

「紫電――」
 
 それはそれまでのどの一撃よりも強く、鋭く、そして何よりも、誰よりも、ただひたすらに速く――

「一閃――!!!」

 爆発が起きた。これまで一度足りとも届かなかった一撃。それが此度の一撃だけは穿ち貫いた。
 黒い鎧騎士がたたらを踏んで後退する。キャロ・ル・ルシエには光熱波は発射されていなかった。
 その一撃を放つよりも速く撃たれたエリオ・モンディアルの一撃が影響したのだろう。

「……」

 沈黙。そして、闇に戻るようにして、黒い鎧騎士がその姿を消していく。
 エリオ・モンディアルは地面に落下しながら、それを呆然と見つめていた。
 攻撃を放った態勢そのまま、彼は何かが抜け落ちたような顔で消えていくその様子を見つめていた。
 その姿が完全に消える――同時にエリオは地面に着地していた。
 膝を付き、彼は地面に座り込んだ。
 両手で自分の身体を抱くように押さえ込む。ガクガクと身体が震え出した。

『エリオくん、大丈夫!?』
『エリオ!!大丈夫か!!』

 キャロとシグナムの声がエリオの耳に届く。その全ては彼を心配する声。けれど、

「……僕、は。」

 エリオ・モンディアルの耳には誰の声も届かなかった。
 呆然と両の掌を見つめる。
 彼だけは知っていたから。自分が今、何を選んで、何を選ばなかったのか――誰を見殺しにしようとしたのかを。
 自分は、今、自らの命欲しさに大切な仲間の命を意識の外から捨てたのだ。見殺しにしようとしたのだ。

「僕は……キャロを……・」

 ――見殺しにしようとした。
 
 最後の一言は言葉にもならなかった。
 情けないとか悔しいとかではなく、エリオ・モンディアルは生まれて初めて殺意を抱くほどに自分を信じられなかった。


 戦いがあった場所から遠く、遠く。
 空間に展開した画面を見つめる影があった。

「素体候補は誰がいいか、などと聞くから当てが無いのかと思えば……いるじゃないか、最高の素材が。」

 白い仮面。その下に亀裂の入った破滅の笑顔を浮かべた一人の男。
 男の名はラウ・ル・クルーゼ。仮面の外道。
 男の視線が見つめる先。そこには赤毛の少年――地面に呆然と座り込むエリオ・モンディアルの姿があった。
 力無く呆然と座り込むその姿。先ほど最後の一撃を発した時とはまるで違うその姿を見て男は思った。

「……エリオ・モンディアル――君は、最高だ。」


「……こ、こ……は。」

 暗い闇。その中で朧気な光が灯っている。
 一つは金色の光。もう一つは朱い光。
 
 金色の光はバルディッシュアサルト。朱い光はデスティニー。
 デバイス内に格納されていた魔力を利用して明かりを作り、暖を取っていたのだ。
 その二つが照らし出すことで漆黒とも闇が弱まり、カタチを映し出している。
 恐らくは既に廃棄された下水道。
 カサカサと周囲を走る小さな動物の足音。流れる水の音。
 廃棄されていると言う時点で流れているのは下水ではなく、どこかから染み出した雨水や湧き出した地下水。
 恐らくそんなところだろう、とシンはあたりをつけた。
 そして、自分が強く抱き締めていた柔らかいモノに今更ながらに気がつく。
 金色の髪の女性。自身が所属するライトニング分隊の隊長――フェイト・T・ハラオウン。
 口元からは苦しげではあるものの呼吸が繰り返されている。それを見て、シンはほっと息を吐き――自分の身体の変調に気がついた。
 確かに身体は鉛のように重く、瞳を開けることすら億劫なほどに肉体は疲れ切り、同時に凄まじい倦怠感が残っている。
 身体の中に重りを仕込まれたかのように。
 だが、本来ならそれ以上に自分は苦しんでいなければおかしい。
 先ほど吐血した光景を思い出す。あの量の吐血であれば、内臓破損の可能性が最も高い。
 で、あれば自分は今頃起き上がるのが億劫どころか、死んでいるはずだ。
 よしんば生きていたとしても腹部の痛み――もしかしたら痛みを感じることすら出来ないかもしれないが――で苦しんでいるはずなのだ。
 だから、この状況はおかしい。起き上がるのが億劫とは言え、“生きている”この状況は。
 そこでシンはふと思いついたように口を開いた。今も明かりをつけて暖を取ろうとしている自身のデバイスに向けて。

「……あの、回復、魔法の……効果、か、デスティニー?」
『Exactory(その通りです。)』

 即答するデスティニー。どことなくその口調は、胸を張って自分の行いを誇る子供のような即答だった――ようにシンには思えた。
 実際はどうか分からないが。
 リジェネレーション。
 デスティニーが行える回復魔法の一つである。
 それによって自分の肉体は疲労や倦怠感と引き換えに、“生きている”状態にまで回復したと言うことだろう。
 その原理はシンには分からないが、とりあえず助かったことが分かれば十分だった。

「そっか……悪い、な。」

 途切れ途切れの言葉。

『You are welcome(気にしないでください。).』

 何も問題は無いとデスティニーは言いたげに返答。その返答を聞いてシンの身体から力が抜けていく。
 胸に抱き締めたフェイト・T・ハラオウンの身体の暖かさのせいかもしれない。瞳を開いていられない。眠気が襲い掛かる。

「……ちょっとだけ、眠らせ、てくれ。さすが……に、身体が……動か、な……。」

 言葉は途中で切れ、シン・アスカはそこで意識を失った。
 後から聞こえてきたのは穏やかな寝息と少しだけ苦しげな寝息の二つだった。


「……それで二人の安否は分からん訳やな。」
「はい。地下に落ちていく二人を確認することは出来ましたが、その後の詳細はまるで……それと主はやて、これを。」

 シグナムの正面の空間に画面が出現する。
 そこには遠目でよく分からないものの血を吐き蹲るシン・アスカがいた。
 八神はやての瞳の色が少しだけ変化する。

「……これは?」
「……戦闘を捉えていた映像です。これを見る限り危険なのはテスタロッサよりもアスカの方かと。」

 吐き出した血の量。
 夥しいと言う表現の通りにその量は――彼女は医者では無いので正確なところは言えないものの――致命的な量に見えた。
 吐血する、とは言うまでもなく危険なものだ。吐血が示すところはただ一つ。内臓に損傷がある、ということを示す。
 八神はやてはその光景を睨み付けていた。
 その光景――血を吐いた部分だけではない。シン・アスカとトーレの戦闘全てである。

「主はやて……シン・アスカとは何なのですか?」
「――何とはどういうことや?」

 八神はやての瞳が鋭く変化した。それはシン・アスカに対してのみ見せ付ける瞳。
 人間を捨て駒――もしくは手駒扱いすることを受け入れた人間の瞳である。
 シグナムの瞳に驚愕が走りぬけた。当然だろう。はやては彼女達の前でそんな瞳を見せたことは一度も無かったのだから。

「……アスカの強さは異常です。いや、強いだけならいいのです。けれど、“この強さ”はおかしい。魔法の反動で吐血するなど聞いたことがありません。」
「……そやな。わたしも聞いたこと無いな。」
「主はやて!!私は……!!」
「……シグナム、シン・アスカのこの戦闘どう思う?」
「……強い、ですね。この朱い光を身に纏ったアスカに勝つのは私でも至難の技です。」

 画面には朱い光を身に纏い、トーレと死闘を繰り返すシンが映っていた。恐らく、この“力”の代償なのだろう。
 どこからこんな力を得たのか、はやてには分からなかったが、その結果としてあの吐血があるのだろう、と。
 シグナムが激昂――この場合は驚愕か――するのも無理は無い。
 命を削る魔法とデバイス。
 それによって比類なく強くなるシン・アスカ。
 まるで、予め定められた運命のように、自分よりも強い相手との戦いで相手の強さに喰らい付くようにして強くなる。

 例えばギンガ・ナカジマの時のように肉体の動作系を書き換え、その実力の底上げを行い、達人の域にまで肉体を強化する。
 そして、その強さには代償が常に付き纏う。
 ギンガとの戦いの時は全身を襲う筋肉痛ともう元には戻らないシン・アスカの肉体の動作系。
 今回は――断言は出来ないが命を削っていることは明白。下手をすれば今頃野垂れ死んでいるかもしれない。
 その思考に辿り着いた時、はやては薄く嗤い――嗤おうとして、失敗した。
 罪悪感が胸に湧き上がり、表情を侵食しようとし――寸でのところでそれを阻止した。

 ――自分に彼を慮る資格は無い。
 
 その鋼鉄の意志で彼女は表情だけは崩さないことに成功する。そして、シグナムに向かって振り向く。
 その顔には覚悟と決意があった。人の命を使い捨てる覚悟と決意が。

「シグナム、このことは他言無用や。誰にも言ったらあかんで。」
「主はやて……それでは……!!」

 激昂するシグナム。だが、はやてはそんな彼女に冷たい視線を突きつけて言葉を止める。
 視線は刃の如き鋭さと冷たさでシグナムの心を刺し抜いた。

「主……はやて……」
「いらん心配はさせん方がいい。ええな?」

 そう言って、呟く八神はやての顔は苦渋など見て取れなかった。
 怜悧冷徹冷酷無比。結果だけを求め、それ以外の全てを雑多だと断じるその顔に苦汁は無い――だが、シグナムはそれを痛ましげに見つめる。
 彼女の視線の先にあったもの、それは……八神はやての拳。
 プルプルと震え――恐らくは爪が食い込み、血を流しているだろうと思われる拳があった。
 シグナムの目前で紅い血が垂れていく。アスファルトの上に咲いた紅い花はその数を次々と増やしていく。
 激情を押さえ込み、八神はやては何を言うでもなく、戦うシン・アスカの映像を見ていた。
 その激情は誰の為の激情なのか。何を意味する激情なのか。
 怒り、悲しみ、憎悪。
 シグナムには分からない。
 はやてが何を隠し、何から自分達を遠ざけているのか、何にシン・アスカを近づけているのか。彼女には何も分からなかった。

「……」
 
 シグナムが主である八神はやてから眼を逸らし、周囲に眼をやった。
 見ていられなかったからだ。その姿を。それはどこか自分の望みを全て捨てて主の幸せを願って消えていったあの大馬鹿者――リインフォースを思い出させて。
 シグナムが逸らした視線。その先には瓦礫に腰を下ろし、俯いたギンガ・ナカジマと沈痛な面持ちで彼女を見つめるスバル・ナカジマとティアナ・ランスターがいた。
 彼女達――特にギンガにとっては大きな衝撃だろう。
 色恋に疎い――というかそんなもの知るはずも無い自分には完全に理解できるものではないが、彼女は今、想い人と恋敵が同時に事故にあったのだ。
 それも生死不明――片方はもしかしたら既に死んでいるかもしれないが――の事故である。
 通常でいられるはずも無い。
 もし、シンが死んだとなれば、彼女は一体どうなるのだろうか。
 ――胸が痛い。疼きは大きく、彼女を縛り付けていく。

(……テスタロッサ、アスカ……頼むから死んでくれるなよ)

 心中の呟きは殆ど祈りに近かった。


「……ギン姉、大丈夫?」

 スバルの問いかけにギンガは俯いたまま頷く。

「……うん、大丈夫。心配しないでもいいわよ、スバル。」

 嘘だ、とスバルは思った。この場にいる6課のフォワード陣――少なくとも自分は、彼女が大丈夫な筈がないと知っていた。
 確かに本人同士は気づいていないかもしれない。だが、傍から見ればギンガがシンを眼に掛けていることは一目瞭然である。
 そんな彼が、今、フェイト・T・ハラオウンと共に地下の下水道に落ちていったと言う。
 
 ――現時点でギンガ達が知るのはそれだけである。
 それ以前の状況。
 つまりシンが吐血したことやフェイトがトーレに敗北したことなどは八神はやてによって未だ伏せられている。
 
 仮に言ったところで信じられるかどうかは定かではなかった。
 フェイト・T・ハラオウンが敗北し、彼女を敗北させた敵とシンが渡り合ったと言う事実は信じられるものではない。
 これを最初に確認したシグナムも我が眼を疑っていたのだから。

「きっと……大丈夫よ。シンはそんなに簡単に死なない。」

 絞り出すような声。
 ギンガはそう言って顔を上げるとスバルに向かって微笑んだ。

「……ギン姉。」

 スバルの沈痛な面持ちは変わらない。その微笑みが何を意味しているのか、彼女は良く分かっていたから。
 彼女――ギンガのその微笑み、その言葉は誰に向かって言っているものでもない。
 彼女は自分に向かって言い聞かせているのだ。大丈夫だと。決して問題は無いと。
 盲信出来ればどれだけ良かっただろう。けれど、ギンガにそれが出来るはずが無い。彼女はシンが、こうなるだろうことをよく理解していたから。
 ぐっと奥歯をかみ締めた。彼を守ると決めたのにこの体たらく。そんな自分に憎悪すら感じて、彼女は自身の不備を恥じる。

「……死ぬはずがないじゃない。あの人が。」

 祈るように、彼女は呟いた。
 スバルは何も言えない。姉ではなく、女としての顔を覗かせる彼女に言えることなど何も無かった。



[18692] 第二部機動6課日常篇 17.運命と襲撃と(e)
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/29 17:55

「――イトさん!!フェイトさん!!」
「……シン、君?」

 そこは暗闇の中。恐らくは彼が灯したであろう魔力光の光が朱く世界を照らしていた。

「こ、こは……」
「……閉じ込められたみたいです。」

 そこは密室の中。そこは廃棄区画内に張り巡らされていた下水道跡。
 明かりなど無い暗闇。肌を刺すような冷気。

「私……生きてる、の。」

 頭が、痛い。記憶が纏まらない。
 自分がどうして此処にいるのか。どうして彼と一緒なのか。まるで記憶が纏まらない。
 最後に見たのはトーレに蹴り飛ばされた瞬間。その時点から自分の記憶は目前に広がる暗闇のように真っ暗で、何も思い出せない。

「わたし、……トーレに」
「……大丈夫ですよ。あいつはもういない。……その代わり、余計に酷いことになってるかもしれませんが。」

 言葉は重く、顔色は芳しくない。それは不安と怒りが綯い交ぜになったような表情だった。
 その声と顔色の意味を考えようとして再び頭痛。そして身体を襲う疲労感。
 頭が重い。瞼が重い。身体が重い。
 纏まらない思考。纏まらない感情。
「どういう……」

 紡ぐ言葉は途中までしか出てこない。彼の顔がぼやけていく。世界が歪む。輪郭を失っていく。

「……フェイトさん?」

 そうしてフェイト・T・ハラオウンの意識は再び闇に落ちていった。
 これまで違って寝息は少しだけ穏やかだ――以前、苦しげではあるものの。
 赤い瞳は閉じている。身体からも既に力は抜け、規則正しく胸が上下する。

「……寝たのか。」

 呟き、シンは周囲を見渡した。
 そこは既に廃棄されたであろう下水道の一画だ。
 廃棄されたと言うのは予想ではあるが、確信でもある。
 下水道というのは汚水を流す場所である。
 故にその中の匂いというのは非常に酷いものとなる。汚泥や汚物交じりの汚水が流れていくのだから当然といえば当然のことではあるが。
 だが、此処にはソレが無い。
 廃棄された結果、汚水は流されつくしたのか。そ
 れともどこかに亀裂が入って溜まり込んでいた汚水や汚物が全て飲み込まれていったか。真実は分からないが恐らくそのどちらかだろう。
 こんこんと眠り続けるフェイトの額に手を当てる。

「……熱がある。」

 彼女の額は熱かった。
 昔――それも思い出せないくらいに昔の経験から考えると熱さの程度からして38℃前後というところだろう、とシンは辺りをつける。
 明かりを灯し、暖を取り続けるバルディッシュに声を掛ける。

「フェイトさんの容態は実際どうなんだ?」
『Perhaps a rib is broken.(恐らく肋骨が折れています。)』
「……デスティニー、外部への通信は?」
『Not found.(繋がりません)』
「……まだ繋がらないのか?」
『Yes(はい。)』

 状況は思っていた以上に拙い、とシンは思った。
 正直なところ、此処に逃げ込んだのも敵――あの筋肉質の女から逃げ延びれば、救助が来ると考えていたからだ。
 だから、とにかくあの場から逃げることだけを考えてここに飛び込んだ。
 瓦礫にさえ当たらなければ自分はともかうフェイトは助かるだろうと。
 だが、現状は予想とはまるで違う。
 重傷だと思っていた自分の怪我は既に治り――疲労や倦怠感こそ消えはしないが――逆にフェイトの方が熱を出して寝込んでいる。
 更には当てにしていた救助と言う芽も消えている。
 ならば、ここで救助が来るまで待てば良いと言う考えも浮かぶ――だが、その考えを否定する。このままここで救助を待つと言うのは危険すぎる。
 既に廃棄され――というよりも既に瓦礫同然と言った下水道。
 その上、先ほどの一撃――トーレとフェイトは呼んでいた――がこの付近の瓦礫に甚大な影響を与えたと思って良い。
 現時点ではまだその様子すら見えないが、崩れ落ちるコトが無いとは限らない――むしろ、その可能性の方が高いと思ってもいい。
 そんないつ崩れるとも知れぬ瓦礫の中で息を潜めて救助を待つと言うのは幾らなんでも馬鹿げた考えだ。

「……どうする。」

 思案に沈むシン。いっそ、フェイトを置いて出口だけでも探しに行くべきか――そんな考えが浮かんだ時、シンの耳に小さな、小さな声が届いた。

「……さん」

 振り向く。その方向には熱に浮かされ、赤面し、苦しそうな表情で――フェイト・T・ハラオウンが眠っていた。
 呟きは小さく、か細い、つたない言葉遣い。目じりに見えるのは涙。見れば、身体がガクガクと震えていた。

「……さむい……さむいよ……おかあさん……!!」

 そこに彼の知るフェイト・T・ハラオウンはいなかった。そこにいたのは熱に浮かされ、意識を失い、“誰か”を求める小さな子供がいただけだった。

「くっそ……!」

 ガタガタと震えるフェイト。
 瞳は虚ろでまるで目前を捉えていない。
 肋骨の痛みとそこから生まれる熱。その上、身体を苛むこの冷気。
 けれど、その様子は明らかにそれだけではないほどに――衰弱している。寒い寒いと震えている。
 胸に渦巻く不安を余所にシンはフェイトの手を握り締めた。
 確かに手を握るだけでは身体など温まらないし、殆ど意味など無い。気休め程度だ
 だが、それ以外に今の彼に出来ることなど存在しない――魔法を使えば精妙な魔力操作はシンには不可能。それだけの技量は彼にはいまだ存在しない。
 この灯りや暖を取ることとて、バルディッシュやデスティニーのサポート無くては出来なかった。
 そしてその二つのデバイスは今彼らに熱と灯りを与える為に起動し続けている。

「……これしか、無い、か。」

 言葉を切って彼女を見る。
 服は既に汗に塗れ用を為していない。
 その内にこの汗が余計に彼女の身体から熱を奪い去り、身体を冷やす。
 そして彼女の熱はソレに乗じて上がる。螺旋の如く彼女を追い詰めていく。
 それから救う方法は――守る方法は。

「……」

 無言のまま逡巡する。
 簡単なことだ。簡単で、そして、今この場にいるシンにしか出来ないことだ、“ソレ”は。
 逡巡は一瞬。そして覚悟は直ぐに決まった。

 ――後から彼女にどう思われるかなど分からないがそんなことはどうでもいい。
 まずは彼女を守ること。助けることこそが先決であろうと。
 シンはおもむろに彼女の服に手を掛けた。

「……フェイトさん、すいません。」

 呟いてシンは彼女の服のボタンに手を掛け、一つ一つ外していく。
 鼓動が荒い。緊張しているからだろう。
 これから自分が行おうとしていること。
 考えてみれば大それたことをしていると思うが、それでもこの場ではこの方法しかない、と思う。
 多分にシンが思うのはそれが自分の都合の良い欲望が弾き出した結果で無いことを祈るだけだった。
 そして、混沌とする思考を他所にフェイトの服のボタンが全て外れ、シンは彼女の背に手を掛けた。
 寝込むフェイトの背に手を入れ、持ち上げ、彼女の上半身だけを起き上がらせる。

「……フェイトさん、手を上げてください。」

 言ってシンはフェイトの服に手を掛けた。フェイトは言われるままに両手を挙げた。
 瞳を閉じて瞑目するシン。
 上半身だけ起き上がったその体勢だと既にそのボタンを外した部分が垂れ下がり、中身――フェイトの肌が見えそうになる。
 ドクンと鼓動が跳ね上がる。

「……いいか、シン・アスカ。何かしようとか、そんな気持ちは無いんだからな。これは役割だ。いいか役割分担の一因だ。」

 一人、ブツブツと呟きながらシンはフェイトの服に手を掛ける。
 ゴクリと、喉が鳴る。鼓動が収まらない。煩悩退散煩悩退散と何度も何度も心中で叫んでいるのに鼓動はまるで収まる様子は無い。さながら胸中で削岩機が唸りを上げているようだ。

 女の裸――別段見るのは初めてではない。
 一時期、赤い髪の彼女と一緒に自堕落に溺れ合っていた自分には“そういった”経験があるのだから。
 だから別に動揺などしない。しない、はずだ。
 しかし――

「……う……ん」

 フェイトが苦しそうに息を吐く。苦しげなその様子は何故だか余計に艶っぽい声となる。
 シンの喉が鳴る。
 息を飲む。瞳が知らず、露になっていく肌に釘付けになる。黒い下着と対象的な白い肌。白と黒のコントラストが彼女の白磁の肌の白さをより鮮明に浮かび上がらせ――

「ば、馬鹿か、俺は!?何見てるんだ!?」

 シンは即座に瞳を逸らした。いつの間にか露になっていくフェイトの裸身――無論、下着姿である――に釘付けになっていたのだ。

『You are naughty(不潔ですね)』

 どこか冷たいデスティニーの声。
 シンはその返答に瞳を逸らしながら――無論、フェイトの肢体からもだ――呟いた。

「……だから、これは役割なんだ。いいか、俺は別に……」
『You had better let you change her clothes early?(早く着替えさせた方がいいのでは?)』

 デスティニーの鋭い言葉がシンの心中を抉る。
 実際問題、女性の服を脱がせて言い訳している今の自分は変態と言わざるを得ない。

「……うん、そうですね。」

 素直にその言葉を聞くシン。基本的に素直なのだ。
 デスティニーの言う通りにシンは直ぐに彼女の服を脱がせ終え――つまりフェイトが上半身裸になっている状態で――シンは呟いた。

「……デスティニー、俺の服、今出してくれ。」
『……』
「デスティニー?」
『……All right.』

 僅かに返答に間があったが気にすることは無く、シンは光の中から現われた自分の服を彼女に着せていく。

 ――今、フェイトはバリアジャケット姿ではない。

 バリアジャケットとは魔力で編まれた服型の魔力壁。つまりは魔力そのもの。着ているだけで――展開しているだけで魔力を消耗する。
 シンはこうなる前に自分の身体にデスティニーが施した魔法をフェイトに出来ないかと聞いてみた。返答は「No.」。
 その返答はシンの予想通りだった。その理由も。
 あれはデバイスの使用者のみの肉体を強制的に回復する魔法。その際に使用される魔力は全て使用者の自己負担。
 通常の回復魔法と違い、誰かに行ってもらう訳ではないので当然である。
 現在のフェイトにそれを行う――つまり彼女の魔力を無理矢理に食い荒らさせデスティニーに回復させる。危険すぎる。瀕死ではないものの既に熱を出して寝込むフェイトにそれを行うのは余りにも危険すぎた。

 例えて言うなら風邪を引いた人間に手術を行うようなモノだ。よほど切羽詰った状況でもない限りそんなことをする必要は無いし、何より危険である。
 故に現状のフェイトにバリアジャケットを展開させるなど愚の骨頂。まるで意味が無い。シンはそう思い――バルディッシュもそれに同意し――彼女の服を通常の制服姿に戻していた。
 シンは今もバリアジャケットのままである。バリアジャケットが展開されるメカニズムをシンはよく知らないが――知る気も無いが――要するにそれは“置換”である。
 魔力で編まれたバリアジャケットと通常服を“置換”する。置換された通常服はデバイスの中に圧縮・格納されている。今、シンはそれを利用してフェイトに自分の服を着せようと考えたのだった。
 シンのYシャツとジャケットを羽織るフェイト。無論、裸身ではなく下着姿の上に。目を閉じた状態でそこまで外すような余裕はシンには無かった――というかそんな発想も思い浮かばなかった。
 
「……さむい、よ……」

 それでもフェイトの身体の震えは止まらない。
 身体を覆っていた汗は服を着替えたことで相当に改善されているモノの、純粋に熱が足りていないのだ。
 冷やされた身体はもっと暖かくなることを望んで震えている。
 違和感。消耗の度合いが大き過ぎる。骨折の痛みと言うだけでは説明がつかない。

「……これじゃ、まるで。」

 自分が助けられなかった少女を思い出す。

 ――瞬間、脳裏に過去が写り込む。それは彼女と同じく金髪の少女。
 戦争に翻弄され、自分が何も出来ずに死んでいった少女。
 自分が無力だったから死んだ少女。
 彼女との出会いもこんな風に二人だけの世界で抱き合って、始まった。

 重なる。目前の女性と、写り込む少女が。

 その金髪が似ているから?
 内に隠れた幼さが似ているから?
 分からない。分からない。けれど移り込んだ過去がシンに何事かを感じさせる。
 漠然と感じていた感覚。自分自身気付くことすらなかった感覚。
 ギンガ・ナカジマと共に自分の周りにいようとするフェイト・T・ハラオウンを邪険に扱えなかった理由。

 ギンガは分かる。彼女は恩人だ。そして、この世界に来てからずっと自分と共にいる隣人だ。
 だからシン・アスカはギンガ・ナカジマを邪険に扱うことは出来ない。それが事実だ。
 シン・アスカにとってギンガ・ナカジマはある種、特別なのだから。

 ならば、フェイト・T・ハラオウンは?
 ギンガのような理由は彼女には無い。
 彼が所属する部隊の隊長だからなのか――違う。
 そんな程度のことでシン・アスカは彼女が近づくことを許容しない。
 だから、理由など無い。けれど、シンは彼女を邪険に扱っていない。
 もっと詳しく言うなら、踏み込んでくる彼女に対してシン・アスカは距離を取れなかった。
 理由など一つも無いと言うのに――だが、もし、理由が“あった”ならば?

 写り込む過去が教えるのはソレだ。
 フェイト・T・ハラオウン。
 ステラ・ルーシェ。

 何が似ている訳でもない。
 何が近い訳でもない。顔のつくりはまるで違うし、年齢も何もかもが違うのに――フェイト・T・ハラオウンはステラ・ルーシェに近似している。
 相似ではない。酷似でもない。近似しているのだと。

 胸の奥に潜む“ナニカ”がシンの脳裏にそう伝えている。
 そのナニカが何なのか、シンにさっぱり分からない。けれど、それは確かな事実としてシンの脳裏を侵食し――

「……どうでもいいだろ、そんなことは……!!」

 一瞬、シンの脳裏を流れた考えを即座に破棄し、どうでもいいことだ、と一蹴する。
 目前には寒さに苦しみ、震えるフェイトがいる。
 シンの瞳の困惑が消え、覚悟の光が到来する。
 目の前で、苦しむ“少女”一人救えなくて何が守り抜く、だ。自分はいつだってこういう時の為に存在しているんじゃなかったのか。

(ああ、そうだ。だから俺は……)
「……ごめん……!!」

 謝りながらシンはフェイトの腕を掴んだ。
 そして、強く自分の元に引き寄せる。
 治療というには程遠いかもしれない、けれど彼の頭にはそれしか浮かばなかったから。

 ぎゅっと力強く抱き締めた。この身体の熱を全て彼女に与えるように。
 そうして、数十秒。彼女の身体の震えが少しずつ少しずつ収まっていく。彼女の手がシンの背中に伸びる。
 もっと暖かくなるように……抱き締めるように。二人の体温が溶け合っていく。

「……あったかい……」

 フェイトの声が――穏やかに変わる。
 今、フェイトはシンの胸に引き寄せられるようにして顔をというか身体全体を彼の身体にくっ付けている。いわゆる“人間抱き枕”状態である。
 シンの顔は赤面し、目を閉じている。
 幼子が眠るように無邪気に瞳を閉じて眠りに着こうとするフェイト。
 それを邪魔しないように一心不乱にその身体を暖める為に抱き締めるシン。

「……あ…たた……かい……おかあ……さん」

 言葉は徐々に途切れ途切れに。
 気がつけば聞こえてくる寝息は先ほどまでとは明らかに違う安らかな寝息。
 彼女の胸が上下するのを感じる。少しずつ彼女の身体が暖かくなっていくのを感じる。

「……落ち着いたのか。」

 すうすうと穏やかな寝息を立てるフェイト。無邪気な寝顔。子供のように幸福を享受することが当然なのだと信じている穏やかな寝顔だった。

「……ステラっていうか、こうしてるとマユみたいだな。」

 ぼそり、と呟いた。
 マユ・アスカ。故人である。シン・アスカの妹にして彼に刻まれた消えない名前。
 恐らく未来永劫忘れることは出来ない名前。彼にとって初めての喪失の相手である。
 自分を抱き締める――自分が抱き締めているとも言えるフェイトを見て、ふと思い出した。
 脳裏に蘇るのはいつの記憶だろう。
 もう5年以上前――まだ、ザフトに入る前のことだ。マユ・アスカはシンによく懐いていた。両親が仕事柄家を明けることが多かったせいだろう。
 こうやって彼女が熱を出した時はいつもシンが付きっ切りで看病していた。――無論、人間抱き枕などということはしたことがあるはずも無いが。
 昔の経験というのもその頃のこと。マユを看病していた時の記憶から引っ張り出してきただけのことだ。その時の経験でフェイトの熱がどれくらいか、分かったのだ。
 ――彼にしてみれば、まだそんな記憶が残っていたことが驚きではあったが。

「……おかあ、さん」

 呟きは、か細いまま、途切れることなく続く。
 涙も止まることなく流れ続ける。何度も何度も。
 その様子を怪訝に思いながらもシンは無言で彼女の頭を撫で続ける。
 優しく、優しく。撫でられた本人が安心出来るように、優しく。

「……大丈夫、大丈夫だから。」

 声の調子は穏やかだ。先ほどまで悪鬼の如き表情で血を吐いて戦っていたようには思えないほどに。

「……あった、かい。」

 声に安心が混じる。それを見て、シンは小さく――されど決然と呟いた。

「……守るから。今度こそ守ってみせるから。」

 “今度こそ”。そうシンは呟いた。それは知らず口から出た言葉である。
 それが意味するところ――本人が気付いているかどうかは別として、シンにとって、これは多分、単なる代償行為なのだろう。
 あの時、助けられなかった、守れなかった彼女――ステラ・ルーシェやマユ・アスカへの。
 特に彼女――ステラ・ルーシェには何もしてあげることが出来なかったから。
 守ると約束した少女。けれど、実際は、力が足りないことで死なせる羽目になった。

 別に力があれば、彼女を助けられたとは今でも思わない。
 力は絶対ではない。そんなことはよく分かっている――けれど、力は確実なのだ。
 力があれば、確実にあの末路は無かった。それだけは確信を持って言える。

 だからこそ、今度こそ、と彼は呟いた。
 それは目前の女性――フェイトに対して侮辱とも言える言葉だろう。
 それを理解して、けれど、それでも構わないと思った。
 代償行為――それでも守ることには意味があるのだと。
 今も彼の心はあの紅い空から動いてはいなかった。それは、至極当然のことではあるのだが。


 二時間が経った。
 シンはフェイトの横に沿うようにして、目を閉じていた。眠ってはいない。身体を休めていただけである。
 本当ならフェイトが寝静まったら直ぐにでも出口を探しに行くつもりだったのだが――自分を抱き締めた手の意外な強さに諦めた。
 離れようとすると力一杯抱き締めてくるのだ。
 まるで、置いて行かないでくれと泣いている様で、シンはその場を離れることなく、フェイトの傍に寄り添っていた。
 時折、うなされるフェイトの汗を拭き、頭を撫で、看病を繰り返す。
 けれど、熱は引くことは無い。無論、シンとて理解している。たかだか二時間眠った程度で身体が治ることなどあり得ない。

「……どうするかな。」

 事実上の八方塞がりである。今のこの状況は単なるこう着状態に過ぎない。天秤が何かしら傾けば一気に崩れ落ちる砂上の楼閣である。
 その時だった。

『I start the reception of data. 3,2,1, reception completion(データの受信を開始します。3,2,1、受信完了。)』
「……どうした、デスティニー……ってバルディッシュ?」
『Yes.(はい)』

 シンの眼前に展開されるA3用紙ほどの大きさの画面。それはマップだった。この状況、この展開からして恐らくはこの廃棄された下水道のマップだろう。

「……そういや、フェイトさんとかは何年か前にここで救助活動したんだったな。」

 恐らくその時から保存されているデータなのだろう。

「バルディッシュ、お前フェイトさんを置いて助けを呼べに行けって言うのか?」
『No.』
「じゃ、どうしろって言うんだ?」
『Please leave here with a master together.(一緒に此処を出てください。)』

 その言葉――デバイスの返答を言葉と言って良いものかは分からないが――シンは溜め息を付く。マップには確かに精妙な地図が記されている。
 だが、シンが先ほどから逡巡していたようにこのマップも恐らくは信用ならない。何故なら――
「……このマップっていつのだ?」
『5Years ago(5年前です)』

 5年前。それは恐らくこの下水道が廃棄される前の地図だ。瓦礫となった施設の内部を歩くのに瓦礫となる前の地図を使用する。方法論としては確かにソレしかない。
 だが、それでも危険に思える。何故なら、この地図の通りに歩いたからと言って、この地図の通りに辿り着くとは限らないからだ。
 無論、バルディッシュもその程度のことは理解しているだろう。だから、これは順当の策に思えて実際は一か八の意味合い――つまりは賭けに近い。

「……それでも、か?」

 だから、シンはバルディッシュに向けて確認する。だが――

『Yes』

 その返答は問答無用のイエス。即断である――と言うよりも既に答えは出ているのだろう。
 このデバイスは賢い。そして何よりも主の安易を第一に考えている。
 そんなデバイスが主の安否を自分に預けると言っている。
 もう一度溜め息をするシン。そして、傍らのデスティニーに向けて、口を開く。

「……デスティニー、バリアジャケット残して、待機。通信はこの後5分毎に繰り返し続けてくれ。返答が無くても構わない。とにかくやり続けろ。」
『All right.』
「バルディッシュ、お前もデスティニーと同じように待機しててくれ。通信も頼む。」
『Sir.yes sir.』

 フェイトの身体から手を――と言うか身体を引き離す。
 どうやら寝入っていたらしい。先ほどまでとは違い、抱き締める力が弱くなっていた。
 そしてその身体を再び抱き上げる。

「……フェイトさん、行きますよ。背中に乗ってください。」
「……う……ん」

 瞳が開く。けれど、その顔は言葉の意味を理解しているのではなく、ただ言われたことに従っているだけのようだった。
 フェイトが力無く彼の背中に抱きつく。
 シンの手が彼女の身体を自分の背に乗せるようにして持ち上げる――何か柔らかい部分に当たったが気にしない。不可抗力だと自分に言い聞かせる。

「……思ってたより、全然軽いんだな。」

 背中に感じる重み。それはまるで羽根のような軽さだった。本当にそこにいるのか、疑いたくなるほどに。

「デスティニー、マップ表示してくれ。」
『All right.』
「……じゃ、行くか。」

 背中に感じる重みと熱。それを感じながら歩き出す。
 それはどこか子供をおぶって家に帰る親子のようだった。


 思うことは一つだけ。
 暖かい背中だった。眠りにつくことを享受したくなる暖かさ。
 自分が守られていることを実感できる温かい背中。この暖かさがあれば何にもいらない。そう思えるほどに、それは魅力的な背中。
 暖かく、守られたいと思える背中だった。

 守ることしか知らなかった。
 自分は生まれた時からずっと誰かを守りたいと言う想いを持っていた。

 アルフ。お母さん。母さん。お兄ちゃん。なのは。はやて。すずか。アリサ。キャロ。エリオ。

 自分には力があったから。
 鍛えれば鍛えた分だけ力は応えてくれた。
 だから、ずっと知らなかった。本当に全身全霊で“守られる”と言うことを。
 その暖かさを――自分は一度も知らなかった。

 彼は私とはまるで正反対。何度鍛えても力は応えてくれなかった。
 私に流れ込んでくる記憶は誰のモノなのだろうか。彼を背後から見つめるようなこの視線は。
 詳細はまるでわからないけれど、彼がずっと誰かを“守りたかった”ことだけは理解出来た。そして、その末路も。

 金色の髪の少女を。
 赤色の髪の少女を。
 その全てに裏切られて――守ることは一度も出来ずに、彼の戦争は幕を閉じる。

 そして、それから2年と言う歳月を彼は戦争での帳尻あわせをするかのようにして戦い続ける。
 守れなかったと言う後悔を埋めるように、ただただ戦う日々。
 その果てに彼は縋り付いていた平和にすら裏切られて――彼は此処ミッドチルダへとやってきた。

 ミッドチルダにやってきてからの彼。初めはまるで無気力でやる気が無かった。
 奪われたからだ、力――違う、願いを。
 そんな無気力な時間の中である少女が浮かび上がる。
 ギンガ・ナカジマ。青い髪の少女。

(……だから、ギンガは特別なんだ。)

 彼女の放った一言。それが現在の彼を作り出した一因。守ることを喜べ。別にそれが直接の原因では無いだろう。
 ただ、それを切っ掛けとして彼は“気づいた”。
 自分のやりたいこと――やるべきことに。
 だから、彼にとって彼女は特別。
 彼の瞳が捉えた守るべき存在の一人。自身を破滅から救ってくれた一人の少女。
 彼自身気づいていない――けれど、彼女は彼にとって間違いなく特別な一人。

 ズキン、ズキン、と胸が痛む。まるで悪性の心臓病にでもかかったように痛みが治まらない。
 呼吸が出来ないほど、暖かさに安心していたのに、その痛みだけで私はまた涙を流しそうなほどに悲しくなり――そして次に彼の瞳が捉えたのは……私、フェイト・T・ハラオウン。

 胸がドクンと鼓動した。
 そして、頬が赤面する。身体が熱くなる。
 幻影でしかない自分の身体を抱きしめる。この熱が逃げて欲しくないから――もっと自分の中に沈みこんで欲しいから。
 ギンガは守るべき人。特別な守るべき人。
 そして私も彼にとっては守るべき人だった。無論、ギンガほどに特別では無いが。

 ギンガは言った。彼を守る、と。
 理性はそう言っている。
 彼女と同じ道を辿るべきだと。いつか終わるだけの彼を守る――それはきっと良い事だ。
 あの時、ギンガが怒った理由が理解出来る。彼は……シン・アスカは本当は守られるべき存在だ。
 いつだって前だけ向いて突き進むしか“無い”彼こそが本当に庇護されるべき存在。
 何も知らない私がそれを否定できるはずが無い。
 けれど、だって言うのに、自分は。自分の本音はそれとはまるで違う道を求めている。
 理性では抑えられないほどに。身体を熱く疼かせるこの想いは、私に一つの道を教えている。

 ――フェイト・テスタロッサ・ハラオウンは彼に守られたい。

 それを自覚した瞬間、胸が熱くなって、大きく鼓動した。
 罪だ。これは彼に甘えることに他ならない。

 ああ、けれど、それでも――自分は彼に甘えたい。守られたい。
 これは彼を理解した上で利用することに他ならないと分かっていて尚――この背中の温かさは離れがたい。

 涙が毀れる。
 自分がどれだけ罪深いのかを自覚して。けれど動き出したこの幼い恋慕はソレを止めることを決して許さない。
 あの手で抱きしめられたい。彼ともっと触れ合いたい。彼の赤い瞳で見つめられたい。もっと彼に自分を見てもらいたい。
 自分は、もう、彼から離れられない――否、離れたくない。もっと、もっと彼に甘えていたいのだ。
 そして願わくば――彼を変えたいとも願う。
 誰をも守るのではなく、自分だけを守ってくれる、そんなことを願って。
 それは――否定だ。
 彼が間違っていると否定するのではなく、彼に自分だけを守ってもらいたいからの否定。
 ギンガは肯定し、フェイトは否定する。
 酷似しているのに結末だけが懸け離れた想いの行き先。

「……イトさん」

 声が聞こえる。声が聞こえる。
 その声は私を駄目にする。溶かしていく。けれど、もう駄目だ。
 私はその声を聞いた瞬間、踊る胸を知覚してしまったから。
 条件反射のようにフェイト・テスタロッサ・ハラオウンは彼に守られたいと思ってしまった。
 夢が覚める。意識が現実へと落ちていく。覚醒する意識。その最中――声が聞こえたような気がした。
 幼い、けれど快活な少女の声を。
 それが誰の声なのかは良く分からないけれど――どこかその声はシンに似てる。そんな気がした。



[18692] 第二部機動6課日常篇 18.運命と襲撃と(f)
Name: smap◆93e659da ID:17f428f0
Date: 2010/05/29 17:55
 あの後、シンはフェイトを運び、6課フォワード陣に合流した。
 彼女を担架まで運び、一息を吐いた瞬間、彼は突拍子も無く、倒れた。
 エクストリームブラスト。
 そしてその後に続くリジェネレーションの急速な回復によってシンは一命を得た。
 だが、急速な回復とはそれだけで肉体に負担を掛ける。

 東洋医学と西洋医学のようなモノだ。
 東洋医学は肉体の内面から長い時間を掛けて改良していくのに対し、西洋医学は患部を切り取ることで治す。
 一長一短の両者ではあるが、肉体に掛かる負担は術式の内容からして、後者が大きい。
 それと同じく、致命傷を高速で修復したリジェネレーションが肉体に掛ける負荷は甚大なモノだ。

 彼がここまでフェイトを背負ってこれたのは一重に精神的なモノが大きい。
 彼女を背負って歩き出してから数十分で彼の身体は異変を教えた。
 疲労と倦怠感が、フェイトを背負って歩くと言う負荷を切っ掛けに一気に目覚めて襲い掛かってきたのだ。
 実際、歩いていたのは数時間も無い。
 けれどシンにとってその数時間は何十時間かと思えるほどに過酷な道のりだった。
 少なくとも、安心した瞬間に意識を喪失する程度には。

 いきなり、倒れたシンを見てスバル達は慌てふためいたものの――ギンガだけはその様を見て、別に何の驚きも無いのか、彼を背負うと、フェイトと同じ担架まで運んでいった。
 彼女にとって、シンがこうして倒れることなどいつも通りのことに過ぎないからだ。
 そして、それを連れて行くのは自分である。その関係は変わらないし、変える気など毛頭に無い。
 それはまるで酔っ払って潰れた亭主を連れて行く妻のようだった。

 その様子を唖然と見つめる視線。
 皆、微妙に赤面している。スバルが小さな声でギン姉って大胆だねとか呟いていたが気にしない。
 別にこれは大胆でもなんでもない。いつも通りのことだからだ。
 そこで彼女達とは違う視線を感じる。気がついたのだろうか、フェイトもギンガを見つめていた。

 ――いや、違う。彼女が見つめていたのはギンガだけではなく、その背中で眠るシンも含めて、だ。

 ギンガはその視線を受けて、睨むでもなく逸らす訳でもなく受け止めた。彼女の潤んだ瞳。それが何を意味するのか。その意味に薄々と感づいてはいたから。

(……やっぱり、フェイトさんも。)

 不安に陥りそうな自分を心の中で自身を鼓舞し、彼女の視線を受け止める。けれど、その内面は複雑である。
 何せ、フェイト・T・ハラオウンである。自身にとって憧れとも言える女性だ。
 そんな女性が自分と同じ男――確証は無いが恐らくは間違いなく――を好きになったのだろう。
 彼女は鼓舞しようと思って鼓舞した訳ではない。鼓舞しなければ折れてしまいそうなほどに不安だったからだ。

 シン・アスカが欲しい訳じゃない。けれどシン・アスカが誰かのモノになるのは嫌だ。

 そんな至極我が侭としか思えない気持ち。
 それを嫌らしいと蔑みつつ――彼女はそんな自分を抑えることが出来ずに“鼓舞”し続ける。
 背中に感じる重みと熱。それを拠り所にして。
 
 ――フェイト・T・ハラオウンの胸中は複雑だ。
 守られたいと言う自身の内から湧き上がる衝動。
 それに甘え、此処まで背負われてきた。
 それはとても甘く、暖かく、もっと包まれていたいと思う一時だった。

 けれど、ギンガが彼を背負ったその様子を見て、胸がドクンと鼓動した。
 更にはズキン、ズキンと酷く胸が痛む。悪性の心臓病にでもかかったように――否、これはそんな病よりも尚酷い病。恋の病に他ならない。

 ギンガがシンを背負って運ぶその様子。手馴れた感じと慈しむような動作。
 それはどこか、翠屋――彼女の親友である高町なのはの両親のように見えていた。或いは義兄であるクロノとエイミイ夫婦のようにも。

 悔しい訳ではない。“まだ”自分はそんなところには辿り着いていない。
 けれど、ギンガがそこに辿り着いていること――別に彼女はそんなことに気付いてもいないだろうが――どうしようもなく羨ましかった。
 
 そこで、はて、と思う。羨ましい。そんな思いを誰かに抱いたのは恐らく初めてではないのだろうか、と。

(……私、変わっちゃった)

 その思考を思うと、自然と頬が綻んでいく。変わってしまった自分。恐らく、もう元には戻れないことを察して、それが嬉しくて。
 恐らくこれから自分の視線は彼を追いかける。これまでは無意識に――これからは意識して。
 彼を――シン・アスカに恋しているフェイト・T・ハラオウンはきっと彼から目を離せない。
 きっと彼に近づくのを我慢出来ない。
 胸に生まれた幼い恋慕は幼い故に一直線。猪突猛進。ふつふつと湧き上がる想いが身を焦がす。

 ――負けないからね、ギンガ。

 ギンガ・ナカジマの想い。
 彼を守りたい。彼に甘えて欲しいと言う想いとはまるで真逆のベクトル。それが彼女が選んだ在り方。
 彼に守られたい。彼に甘えたい。
 その想いを胸に金色の女神は恋と言う名の荒波に身を浸す。
 
 ――それは砂糖菓子の如く甘い、桃色の想いであった。

(まるでネクターみたい)

 幼い頃に飲んだジュースの名前。そんな馬鹿な言葉が彼女の心を通り抜けた。


 医務室。時刻は夕暮れ。
 シン・アスカが昏々と眠り続ける横で、フェイト・T・ハラオウンも身体中に包帯を巻かれ、ベッドで横になっていた。
 シャマルの見立てでは肋骨に皹が入った程度でそれほど酷い訳でも無いらしい。

 彼女は隣のベッドに眠るシンを見つめる――ちなみに部屋の中には今、彼女達二人しかいない。
 シャマルは用事があるらしく席を外し、ギンガは二人の着替えを取りに行って来ると出て行った。
 
 黒い髪。穏やかな寝顔と寝息。それとは対照的に包帯で身体中を巻かれた痛々しい姿。
 シン・アスカ。
 彼の肉体は重傷ではなかった――だが、それが本当に良いことなのかどうかは判断に苦しむが。

 エクストリームブラストとは諸刃の剣である。
 感覚を加速し肉体をそれに追従させる、ただ、それだけ。
 だが、その為に必要となる魔力の量は膨大であり、その代償もまた甚大。
 急激な加速と停止は身体中の筋肉を断裂させん勢いで負荷を与え、内蔵――特に心肺系に強大な負荷を与える。
 
 シンが吐血し、倒れたあの瞬間。
 時間なのかというシンの言葉が示す通り、あの時点がシン・アスカという器がエクストリームブラストという魔技から生きて帰れる臨界点。
 あの時点で彼の全身の筋肉は全て断裂寸前であり、心肺は破裂寸前であった。
 吐血したのはほんの少しそれが遅かったから。
 それだけで内蔵の一部が損傷したのだ。
 もし、破裂していたならばあの程度では済まない。まず間違いなしに死んでいただろう。
 
 八神はやてはこの事実をシャマルから聞いた時、深く嘆息した。
 それは彼が助かったことを安心してではない。彼がこれを使うことをどう止めるか――それを考えると気が重いからだ。
 シン・アスカはこの力を平然と、それこそ次に戦闘があれば直ぐにでも使うだろう。
 たとえどんな代償があろうとも、彼に躊躇いは無い――その躊躇いを無くすだけの力がエクストリームブラストには存在するからだ。
 だが、これは諸刃の剣。
 如何にはやてがシンのことを武器として扱っていると言っても、戦う度に吐血する人間など見ていて気分のいいものではない――何よりも彼女の胃が持たないだろう。

 話を戻そう。
 シン・アスカは現在、そういった事情で医務室に保護されている。
 全身の打撲と疲労、そして筋肉痛。全て絶命に至るほどではないものの、放っておける怪我でもなかった。
 眠り続けるシン・アスカ。
 それを何が楽しいのか、微笑みながら見つめるフェイト・T・ハラオウン。
 その瞳は恋する乙女でもあり、無邪気な子供のようだった。
 いわゆるデレ期だ――無論、彼女にツンがあったかと言えば断固として否定するが。

 シンが寝返りを打った。彼の顔が彼女から離れていく。無邪気な笑顔が曇り、こちらに振り向くことを願う。
 だが、そんな都合よく寝返りを打つなどあり得ない。故に、

「……ちょ、ちょっと近づいてもいいよね。」

 そんな悪戯するような子供めいた呟きを誰に言うでもなく放った。恐らくは自分自身に言い聞かせているのだろう。
 そそっと静かに、誰を起こすことも無くフェイト・T・ハラオウンはベッドから起き上がり、彼の眠る
ベッドへと近づく。誰にも気付かれてはいない。彼女の鍛えられた戦闘技術はそんな下手を打つことを許さない。
 そして、彼の顔の側に移動し、彼の顔の目前に近づく。吐息が触れ合う距離。心臓の鼓動すら聞こえそう。

 ――ゾクゾクする。何かいけないことをしているようで。
 
 フェイト・T・ハラオウンの恋慕とはギンガ・ナカジマの恋慕とはまた違う。違う意味で滅裂である。
 
 ギンガは「こう在るべき」と言う何処かで聞いたような恋愛観を元に、シン・アスカを守り彼を支える――端的に言って甘えさせる――ことを骨子として、彼女自身の恋愛観を構築している。
 そこにあるのは杓子定規な雁字搦めの考え。それが故に彼女は踏み出すことが出来ない。無償の愛(アガペ)になど身を染めようとするのだ。
 それとは逆に彼女――フェイト・T・ハラオウンとは、無邪気である。なまじ近しい場所――自身の義兄や親友の両親、兄弟である――にテストケースが揃っていたからだろう。
 ギンガの「こう在るべき」よりも余程「生っぽい」恋愛観を得るに至っている。それは随分と歪んではいる――というかおかしな方向に特化している。

 いわゆるラブラブ特化型である。
 高町夫妻。ハラオウン夫妻。そして高町(息子)夫妻。
 その共通点は基本的に“ラブラブ”である。
 ちょっと見てるこっちが恥ずかしくなるような、というか子供の情操教育的に悪影響なのか良影響なのは分からないほどに、仲睦まじい――というかラブラブな夫婦である。
 だから、彼女の恋愛観は極端だ。
 
 普通なら、「いいか、落ち着け。クールだ。クールになれ。」と胸中で自身に問いかける部分で「うん、行こう」とクラウチングスタートでも決めるようにぶっちぎる。
 要するに我慢が効かない――違う、我慢を知らないのだ。
 だから、こんなことをする。それが周りに与える影響よりも、まずはやってから考えよう。
 素直すぎるというかエロいのだ。
 だから彼女は“我慢”出来ずに、ついキスをしようとする。

「……は、恥ずかしいな。」

 恥ずかしいもクソも無い。傍から見ればキスしてるようにしか見えない至近距離。 
 けれど、彼女は恥ずかしい。キスという行為の重大さが彼女に恥を感じさせる。

(い、いきなりは拙いから、やっぱり此処は段階を踏んで――)

 鼻の頭を舐めた。こう、ペロっと。

「……シンの味がする。」

 少しだけしょっぱいのは汗をかいているからだろうか。そして、再び舌を伸ばそうとして――扉を開く音。
 そして、閉める音が、した。
 一瞬の沈黙。そして、甲高い声が室内に響いた。

「フェ、フェイトさん、な、なんばしょっとですか!?」

 ギンガ・ナカジマ登場。

 ――固まるフェイト。その姿はキスを敢行しようとする姿そのもの。
 ――固まるギンガ。その手にはシンがいつもパジャマ代わりに来ているジャージとフェイトの寝巻き――何故かそこには黒い下着も一緒に入っている。彼女は黒以外持っていないのだろうか――を持っていた。

「……え、あ、い、いや、わ、私は、そ、その」
「な、何ドサクサ紛れにキ、き、キ……接吻しようとしてるんですか!?」

 キスと言おうとして恥ずかしかったのか、ギンガは接吻と言い直した。

「し、してないしてない!!ちょっと舐めただけ!!」

 フェイトさんの返答。それは余計にやばいです。

「な、舐めた!?な、ナニを、ど、どこを舐めたって言うんですか!?」

 ギンガの瞳が鷹の如く鋭くなり、威圧が放たれる。
 拳を握り締める。ここがどこかなど関係ない。叩き潰す。その意思がそこに見えた。

(ま、まずいよね、これ)

 確認するまでも無い。拙いなんてレベルじゃなく、ヤバイ。猪突猛進の乙女は返答次第では明らかに吹き飛ばす気満々である。

「あ、い、いや、その……は、鼻を」
「は、鼻……?」

 ワナワナと身体を震わせるギンガ。

(鼻、ですって……!?)

 鼻。それは顔だ。
 それを舐めた――つまり、鼻=顔を舐めた。
 顔を舐めたといっているのだ、この女豹は。
 何と言うことだろう。何と言うかいきなりそこまでするか、とギンガは思った。
 自分ですら未だ口と口を触れ合わせるのが精一杯である。しかも不可抗力によってでしか出来ない。
 自分から率先してそれを行う――考えただけでギンガの顔は真っ赤になった。

(で、出来る訳ないでしょ!?そ、そんな、は、ハレンチなこと!!!)

 そんな風に思い悩むギンガと、目前のギンガを不思議そうに見つめるフェイト。
 対照的といえば対照的過ぎる二人。その間で眠るシン・アスカ。
 その寝顔は先程よりもどこか寝苦しそうだ。気合に当てられたのかもしれない。
 再びがらっと扉を開ける音が響く。
 思わずそちらの方向に振り向く――そこには白衣を着た金髪の女性――ヴォルケンリッター・シャマルが疲れたようにして、立っていた。

「……あのね、二人とも喧嘩するなら外でやりなさい。」
「でも、看病とかは……」

 フェイトが呟く。再び溜息。シャマルが口を開く。

「……フェイトちゃんも怪我人なのよ?分かってる?」

 有無を言わせぬ迫力――というか看病されるのはむしろフェイトの方である。
 どうして彼女に看病などさせられようか。
 言われて、ようやくそのことを思い出したのか、フェイトはしゅん、と俯くと小さく呟いた。

「……はい。」
「それとギンガ?」
「は、はい。」
「……ここ、一応病室だから静かにしてね?」
「……はい。」
「ふう、それじゃ、ギンガ、フェイトちゃんと一緒に食事に行ってきなさい。」
「あの、でも、シンは?」
「起こして食事させる訳にもいかないでしょう。彼は点滴。」

 そう言われては立つ瀬も無い。二人は揃って病室のドアに手を掛け、退室する。

「それじゃまた後で。」

 ええ、と言う声が室内から聞こえてきた。そうする内にガチャガチャと音がする――点滴の準備を始めたのだろう。

「……じゃ、フェイトさん、行きましょうか。」

 そう言ってギンガは歩みを始め――振り返った。
 フェイトは動いていなかった。部屋の前で立ち続けていた。顔は俯き、髪で隠れて表情は伺えない。
「フェイトさん?」

 声を掛ける。フェイトはその声に反応するように顔を上げた。
 
 ――そこには決然とした表情があった。覚悟を決めた表情。それはどこかで見たことのある表情。

(……ああ、そっか。)

 その表情を見て、ギンガは全てを看破する。これは“自分”だ。自分と同じ、決意をした表情なのだと。
 だから、次に出てくる言葉も予想できた。

「私、シン君が――シンが好きかもしれないから。」

 予想通りの言葉。そして、胸の奥で渦巻いていた不安がカタチを為して、“霧散”した。
 宣戦布告である。好きだから――だから、どうしようというものでもない。彼女自身その先に続く言葉を見つけられていないのかもしれない。
 それでも、彼女は布告した。自分は彼を好きなのだと。その気持ちは本当だと。
 正々堂々、恋をしようと言っているのだ。
 彼女の不安が霧散したのはそのせいだ。不安とは未知の恐怖。不確定であるが故の恐怖である。
 けれど、正々堂々と言う勝負の前でそんな未知や不確定は存在しない。
 故に――

「――上等です。」

 その言葉、その瞬間を以って、ギンガ・ナカジマはフェイト・T・ハラオウンを恋敵――強敵(トモ)として認識した。
 不敵に笑う二人。しばしの睨み合い。空気が帯電するような緊張感がそこに張り詰め――数分後、二人は食堂へと向かっていった。
 
 ――此処に二人の乙女は女豹へと続く階段に足を掛ける。至る未来は桃色螺旋回廊。
 
 中心で眠るシン・アスカは何も知らない――否、知ろうとさえしていなかった。
 今は、まだ。


「……エリオ君、大丈夫?」
「あ、うん……大丈夫、だよ。」
 ぎこちなく笑いながら、エリオはキャロに返答する。
 その微笑みが翳る理由は簡単だ。
 負い目。彼女を――キャロ・ル・ルシエを見殺しにしようとしたことへの。
 彼が今いる場所は食堂――ちょうどフェイトやギンガが着いた時点である。

 見殺しにしようとしたこと。
 エリオの冷静な部分はそれを仕方ないことだと断じている。
 誰だって自分の命が、他人の命よりも大事なのは明白である。
 むしろ、そうでなければならない。
 戦いの場に置いて、自分の命を軽く扱う人間ほど性質の悪い存在も無いからだ。
 そのことをエリオ・モンディアルは知っている。
 何よりも大事なのは自分が生き抜く事。生きようとする執念は何よりも強いのだから。

 だが、エリオ・モンディアルの思考はその考えを許せない。
 
 自分は事実として、彼女――キャロ・ル・ルシエを殺そうとした。自分の命と彼女の命を秤に賭けて自分を選んだ。
 それは、人として、戦士としては正しいだろう。
 だが、騎士としてはどうなのだろうか。
 騎士。
 それは、守る者である。
 主を、領地を、誇りを、愛する者を。己の力で守り抜く者のことである。

 故に騎士とは守る。眼に写る誰かを、何かを守り抜く。それが単なる言葉に過ぎない――単なる称号に落ちぶれたモノだとしても、だ。
 ずっと守られるだけだった自分。
 力は彼に守ると言う行為を与えてくれた。彼はその時境界を超えたのだ。守られるだけだった自分から、守ることの出来る自分へと。
 だからこそ、許せない。騎士であるならば、あの瞬間、命を捨ててでも彼女を選ばなければならなかった。

 ――その考えは間違いだ。だが、幼い彼のココロはその間違いを正解だと信じている。

 彼とて、それが間違いだと理解している。不可能だとも。
 けれど、“運の悪い”ことに彼の周囲にはその不可能を可能にしようと足掻く男がいた。
 シン・アスカ。眼に写る全てを守る為にそれ以外の全てを雑多だと断じる生き方。
 彼がいたからこそエリオは落ち込む。自分の戦いは決して正しくは無い――そう、言われているようで。
 話を聞けば、彼は最後の瞬間まで背中に守るフェイトのことを忘れてはいなかったらしい。
 そう、訓練でもそうだったように。彼はいつだって、誰かを守る為に戦っている。

 本当は比較する必要など無い。
 シン・アスカとエリオ・モンディアルは本来比較することなど出来ない。
 違う世界で生まれ育った人間。
 ましてやシン・アスカの思考回路は普通とは違い大きく歪んでいるのだから。
 だが、シンの思考が歪んでいることなどエリオは知らない。知らないから、彼は特別なのだと思えない。認めたくない。
 それは憧れた女性の変貌と言う影響もあった。
 目前でギンガと睨み合いながら食事を続けるフェイト。
 いつもよりも早く、より早く食事を終えてどこかへ戻ろうとしている――恐らく医務室へだろう。
 エリオ・モンディアルは、悔しかった。
 自分はあんなフェイトを見たことが無かったから。恋するフェイトなど見ることなど出来なかったから。
 少年の心は沈んでいく。澄んだ水の底に溜まる澱のように少年の昏い感情は沈殿し、溜まっていく。

(力が、欲しい。もう、見殺しになんてしないで済むように。)

 内なる叫びは切なる声で、少年に成長を促せる。願わくば、この願いが果たされますように、と。


「……フェイトさんも眠ったのね。」

 時刻は既に10時を過ぎている。眠るにはいささか早い時間だ。ギンガは今、医務室で二人の看病をしていた。
 二人の寝息が木霊する。完全に熟睡しているのだろう。そう、思って一人呟いた。

「…鼻は無いわよ、鼻は。」

 それは先ほどの光景――眠るシンの鼻をフェイトがペロっと舐めていたことを意味する。

 ――シンの味がする。
 
 フェイト・T・ハラオウンはあろうことか、シンの鼻を“舐めた”。犬が飼い主の顔を舐めるように、その桃色の舌でペロリと。
 所作自体は無邪気なものだった。だが、無邪気が故にそれはどこまで淫靡さを伴わせていた。

「……鼻は無いわよねえ。」

 そう言いながら両脇のベッドを確認する。こんこんと眠り続けるシン。彼は未だに一度も眼を覚まさない。
 もう片方のベッドを見る。すやすやと寝息を立てるフェイト。
 疲労困憊な上に肋骨の負傷などを受けた彼女は食事を取って薬――痛み止めである――を飲むと睡魔に襲われたのか、そのまま眠りについた。

「……シンの味、か。」

 言葉を発して彼女は立ち上がり、眠り続けるシンに向かって歩いていく。
 
 ――思い出した先ほどからギンガの胸の鼓動が高鳴っている。実は全く収まらないほどに。
 思い出した光景が、一抹の悔しさと共に彼女の脳裏を刺激しているからかもしれない。

「……シンの味。」

 熱病に浮かされたような声。声には少しだけ甘さが混じっていて、彼女は引き寄せられるようにしてシン・アスカの顔に自身の唇を近づけていく。
 対抗心。嫉妬。好奇心。彼女の胸に渦巻いていたのはそれらが密接に絡み合った複雑な気持ちだった。
 彼女の唇が彼の鼻に近づく。
 鳴り響く心臓の鼓動はもはや拍動ではなく轟音そのもの。
 その時には横に誰がいるのか、何を自分はしているのか、などの常識的な考えは既に思考の埒外にあった。
 端的に言って酔っていた。自身の心臓が生み出す鼓動。その雰囲気に。
 近づく。その距離およそ数cm。そして、脳裏に思い描いたフェイト・T・ハラオウンのように彼の鼻を舐めようと舌を出した瞬間――パチリ、とシン・アスカの朱い瞳が見開いた。

「……」

 身体が硬直する。身動きが取れない。

「……これは別に、シンとキスしたいとか鼻を舐めたいとかじゃなくて、そう、ただの好奇心で、私はただシンの健康状態を確かめようと思って、鼻の上に浮かんだ汗を舐めようと思った訳で、昔から言うじゃないですか、汗を舐めれば嘘か本当か分かるって、だから私もソレに倣って――」

 言い訳なのか、誤魔化しなのか分からない、愚鈍な言葉が次から次へと渦巻いては彼女の口を通って出て行く。
 だが、シンはそんなことを聞こえていないのか、左手で近づいていた彼女の身体ごと自分の方に引き寄せる。
 力強い動作は彼がどうしようもないほどに“男性”なのだと彼女に意識させ、彼女の脳裏と精神と鼓動を台風の如く掻き乱し、混乱させていく。

(ええええええええ!!!!!??)

 パクパクと陸の上に上がった魚のようにギンガは口を開けたり締めたりしている。
 混乱しているのだ――違う、そんな程度ではない。
 これは最早、混沌だ。
 恋に目覚めたばかりの乙女にはまだまだ荷が重いと言うか重すぎる恋慕のその先にあるもの――触れ合いである。
 そんなものにいきなり近づけば、彼女でなくとも停止する。
 彼女は望んで停止しているのではない。
 どうすればいいのか分からないから、まるで何も知らないから停止せざるを得ないのだ。

「よ、横にフェイトさんいますから……!こういうのは、ふ、二人だけの時に……!?」

 彼の顔が――苦々しく、歪む。苦しんでいるようにして。
 唇が動いた。
 至近距離で動く唇は唾液を絡ませて、どこか艶めかしいという印象を与える。

「……る、な」

 瞬間、シンの身体が抱きしめる力を弱めた。
 瞼は既に閉じている――彼の身体がゆっくりと崩れ落ちて、自分の胸の谷間に埋まるようにして寝そべっていく。
 聞こえるのは、すーすーと言う寝息だけ。

「……」

 荒れ狂う暴風のような、彼の力に身を任せていたギンガは、その言葉を聞いて――少しだけ彼から身体を離した。
 ストンと彼が眠るベッド脇の椅子に腰を落とし、呆然とする。
 抱きしめられた手が気持ちよかった。
 身体中をまさぐる手が心地よかった。 
 けれど、その言葉は――
 
「……ルナ……?」
 
 ルナマリア・ホーク。シンにとって忘れられない――忘れたい名前。

「誰の、こと、なの……?」
 
 その言葉が彼女の心に影を作る。
 猪突猛進究極無比。乙女とはそういったものだ。盲目と言ってもいい。
 だからこそ迷わない。突き進む。振り返らない。
 けれど、それは傷が無いからだ。傷は乙女の足に絡み付き、その動きを鈍らせる。
 今、彼は自分をギンガ・ナカジマと認識しないで抱きしめたのだろう。
 恐らく、そのルナという女性と間違えて――違う。単なる偶然だ。そんなことはない。
 胸中から溢れ出る言葉はどこまで薄っぺらい。

 ――もしかしたら、そんなことがあるかもしれないとは考えていた。

「……違う、よね。」

 呟きは弱々しく、誰にも聞かれることなく沈澱する。
 脳髄は既に真っ白だ。何も考えられないと言って良い。

「……違う。」

 その言葉は、どこまでも嘘臭く――誰にも知られることなく、空気に融けて消えていく。



[18692] 第二部機動6課日常篇 19.襲撃と休日と(a)
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/29 17:55
 ――真っ白な世界。そこには何も無い。ただ虚無のみがそこにあった。
 
 世界はまっ平ら。太陽も無い。月も無い。地平線の先には何も無い。その先を見てはいないが、それでも何となく理解できた。
 “ここ”はそういう場所なのだと。
 そこは箱庭だ。閉じられた世界。メビウスの円環。入り口も無い。出口も無い。始まりが無いから終わりも無い。
 ただそこにあるだけの永遠と言う名の虚無。
 その中で、彼は平然としていた。その光景には見覚えがあったからだ。いつ、どこで見たのはかはまるで分からない。
 けれど、見覚えがあった。見たことがある。感じたことがある。その光景を、その空気を、彼は、知っていたから。
 
 彼は歩いた。虚無と言う世界にあってやることなど身体を動かすことくらいだ。手には何も無い。
 だから、歩いた。魔法を使って飛ぼうとは思わなかった。
 何故か、まるでそんな発想が生まれなかった。恐らく使えば飛べる。
 後にして思えばそれが不思議だった。どうして自分は魔法を使わなかったのか、と。
 それについて、今はまだどうでもいい。とにかく彼は歩いた。歩き続けた。
 どこに向かっているのか、それは彼にも分からない。ただ他にやることも無かったから歩いただけだ。
 そうしてどれほど歩いたのだろう。気が付けば、風景が変わっていた。
 草原だった。
 風が吹いていた。気持ちの良い風だった。
 空には太陽。雲が流れていく。

「うわっ」

 彼が思わず体勢を崩す。
 風だ。ひときわ強く彼の背中を押すようにして風が吹いた。日光で火照った身体を覚ます気持ちの良い追い風だった。
 声が、した。暖かい声。

「……ふふっ」

 いつ、現れたのだろう。前を向けば、そこには一人の女性が立っていた。
 白銀の髪と紅玉のような赤い瞳。年のころは10代後半ほどだろう。

「……なんだよ。」

 彼は少しだけむっとした声で返答を返した。笑われたのが自分が転びそうになったからだろうと思ったからだ。
 女性はそんな彼の様子を見て、彼に向かって返答する。その顔は少しだけ申し訳なさそうだった。

「ああ、すまない。随分と気持ちよさそうにしていたから、ついな。」
「気持ちよさそうにしていたから?……よく意味が分からないんだが。」
「気にしなくていいさ。お前がこの世界を心地良いと感じたことがうれしかった。それだけだ。」

 女性はそう言って、笑う。その笑いは暖かな笑顔。どこか母性を感じさせる微笑みだった。

「……まあ、いいけど。」

 そんな風に笑われるとムッとしていた自分が恥ずかしく思えてくる。彼は少しだけ居心地悪そうに瞳を逸らした。
 そんな彼の様子を彼女は見つめながら微笑む。
 それからしばらく時間は過ぎていく。
 彼はその場に座り込み、彼女はその場に立ち尽くし、共に空を見つめていた。青い空。雲が流れ、太陽が照らす空を。
 綺麗だった。手を伸ばせば届くような蒼穹。吹く風が心地よく彼らの身体を撫でていく。
 二人の間に言葉は無い。
 
 彼にとって彼女は恐らくは初対面だ。
 だから、話をするのが難しかったから、ではない。
 確かに彼は人付き合いが苦手だ。不器用な性格が邪魔をして、口下手と言ってもいい。
 最近では随分と改善されてきてはいるが、それも表面上に過ぎない。
 本当の彼はいつだって不器用で真っ直ぐで前を見るしか能が無いのだから。
 だから不思議だった。
 その沈黙が心地良い一時だったから。
 言葉を口にすることなど必要は無い。
 長年共にいた仲間といるような、気心の知れた者といるような、そんな沈黙。
 風が気持ちよかった。
 そうして数時間が経った――実際はそんなに長くはなかったのかもしれない。
 もしかしたら数分だったのか、それとも数十分だったのか。
 或いは――そんな感覚はまるで意味の無いことかもしれないが。
 彼女が口を開いた。心地良い沈黙が破られた。彼は彼女を見つめた。彼女の赤い瞳がこちらを見つめた。

「伝えなければいけないことがある。」

 彼女は、少しだけ申し訳なさげに呟く

「“彼女”の覚醒によって時計の針は早まった。お前が今此処にいるのはその結果だ。」

 彼女の口がスラスラと言葉を並べて行く。託宣を告げる預言者のようにして。

「世界が重なる時、アルハザード――羽鯨の覚醒は近い。」

 聞き慣れない単語。聞いたことの無い言葉。けれど、その言葉は何故か彼の心に刻まれていく。深い場所。決して忘れられない深遠に。

「だから、■■・■■■。この世界で最も強欲な男よ。魂を食らう人間よ。今はまだ何も分からないかもしれないが――」
 
 彼女は息を吸い込む。言葉を切って、そして呟く。
 祈るように。
 謡うように。
 哀れむように。

「願いを叶えてくれ。お前の持つその淀んだ願いを。その全身全霊を懸けてその願いを叶えてくれ。」

 そして、その言葉を契機として、世界が崩れ出した。
 ガラスにヒビが入るようにして、世界が崩れていく。空が割れた。草原にヒビが入った。それでも風は温かなまま。
 彼の座っていた地面が割れた。見えたのは宇宙の果てのような漆黒。全てを吸い込む虚ろの穴。
 落ちていく。彼が落ちていく。
 恐怖は無い。驚愕も無い。それを当然のこととして、受け入れて、彼は落ちていく。
 遠く、遠く、遠く。
 漆黒の世界へと。
 それは一時の逢瀬。決して出会うはずの無い男と女の“再会”の逢瀬。

 ――これはある一人の男の物語。


「エクストリームブラスト……か。諸刃の剣とは良く言ったもんやな。」

 報告書に書かれている内容に眼を通し、はやては嘆息する。
 トーレとフェイトの戦いに割って入ったシン・アスカが得た新たな力。
 元々ブラックボックスとして格納されていた魔法を、デスティニーが応用し、生み出した魔法らしい。
 魔法の内容は簡単なモノで、体感時間の加速とそれに肉体を追随させる為に全身のありとあらゆる行動をパルマフィオキーナで加速させる。
 その際に肉体を朱い炎のような光――待機状態のパルマフィオキーナである――が覆う。
 単純ゆえにその威力は絶大である。
 フェイト・T・ハラオウンの真ソニックフォームと互角の速度を誇ったトーレと渡り合い、一撃を与えるほどに。
 
 そして絶大な能力に比肩するようにその代償も凄まじい。
 内臓への致命的な損傷。心肺機能への致命的な損傷。全身の筋肉や関節へと掛かる甚大な負荷。
 それらが呼び込むモノは単純に死以外にあり得ない。その死を回避する為にデスティニーにはもう一つ魔法が格納されていたことも判明している。
 リジェネレーション。要するに回復魔法である。それも非常に特殊な。
 規模を使用者個人に特定し、膨大な魔力消費によって死ぬ寸前――つまりトーレとの戦闘を終えた時のシン・アスカのような状態からでも生還させてしまう。
 究極とも言える回復魔法だ。無論、腕や足の欠損や頭部を吹き飛ばされた状態からの復元は不可能だろうが、それ以外の致命傷など死ぬ前に全て回復させてしまう。
 腕や足、胴体が千切れそうになれば千切れる前に繋ぎ、内臓が破裂しようとすれば破裂しそうになっている箇所から再生する。

 その際に不足した魔力はデスティニー自身がシンのリンカーコアに干渉し、無理矢理稼動させ強制的に魔力を変換し出力を上昇、そして、回復させる。
 結果、使用者の肉体に残るのは通常ならば考えられないような疲労と倦怠感。
 一時的に魔力すら消失している様子すらある。
 
 この魔法は本来エクストリームブラストと同時に使われるモノらしい。
 つまりエクストリームブラストによって崩壊する肉体をリジェネレーションで治癒し続ける。
 魔力が続く限り、彼は最大戦力で戦い続けられると言うことだ。現在はその機能を担当するパーツが無い為に同時に使えないらしいが。
 シャリオ・フィニーノの言葉では、初めから組み込まれていないパーツであるとのこと。
 それがどんなパーツなのかは彼女にも、デスティニーにも分からないらしいが。
 製作者――この場合はこのデバイスの設計者を指す――でなければ分からないのだと言う。

「……滅茶苦茶やな。」

 デスティニー。このデバイスは異常だ。何よりも異常なのはその出自。非人格型アームドデバイスとして作成されたこのデバイスには意思は元々存在していない。
 けれど、それが意思を持った。それも使用者の承諾も無く肉体に干渉するほどの強い意志を。
 実際、このデバイスは既に二度、その意思でシン・アスカの肉体に干渉し、彼に武器を与えている。
 
 一度目はギンガとの模擬戦。その時は肉体の動作系を書き換え、達人の動きを与えた。
 二度目は今回のトーレとの戦い。神経系に干渉しエクストリームブラストと言う諸刃の剣そのものの魔法を作り出した。
 デバイスが主の承諾も無く肉体に干渉するなどあり得ない話だ。だが、現実として起こっている以上認める以外に無かった。
 以前、はやてはこのデバイスはシン・アスカを鍛える為のモノだと解釈し、受領した。
 だが、もはやデスティニーはシン・アスカを鍛えるようなデバイスではなくなり、シン・アスカを作り変えていくデバイスとして、稼動している。
 その結果、彼の肉体がどうなろうともリジェネレーションで治るから問題ないとでも言いたげに。
 
 ある意味では主人の意思を何よりも汲み取ろうとするデバイスなのだろう。
 その結果、主人がどうなるかなどまるで考えず――もしくは考えた上での結果なのかもしれないが。
 
 どちらにせよ、それはシン・アスカが熱望する生き方――つまり、守る為に戦い続けると言うそれだけを最大限にサポートしているようにしか彼女には思えなかった。
 大体にしておかしな話だ。
 重傷を負ったはずのフェイト・T・ハラオウンが三日で退院したと言うのにシン・アスカは眠りから醒めるだけで三日かかった。
 デスティニー。それは聖王教会で設計され、機動6課にて作り出したモノだ。
 設計段階から携ってないとは言え、製作段階に携っていたことからその性能の大よそを把握している気になっていたが――もしかしたら、自分はあのデバイスのことを何も理解していないのかもしれない。
 何よりも彼女の――八神はやての直感が今のアレには何か得体の知れないモノを感じるのだ。
 融合騎――ユニゾンデバイスなどよりも余程危険なデバイス。
 それがどう危険なのかは良く分からない。けれど、“とにかく”危険なことは間違いない。

 エクストリームブラスト。リジェネレーション。管理局でも例の無い特殊で強大な魔法。
 使用すること引き換えに数日間身動きが出来なくなるが――何せ命すら簡単に救ってしまうと言う強大な効果に対して、反動は非常に小さい。小さすぎると言ってもいい。

 魔法とは不可思議に見えてはいてもその裏には確固とした技術体系が存在する。つまりは法則によって縛られている。
 物理法則であれば常に等価交換の法則に縛られる。何かが在れば何かが消費される。
 
 魔法も同じだ。魔法を使えば必ず魔力を消費する。無から有を生み出しているように見えて、有から有を生み出しているだけに過ぎない。
 
 だがデスティニーのリジェネレーションはその法則に縛られていない。
 シン・アスカの生産魔力量と通常時の魔力量。リジェネレーション時に必要とされる魔力量は少なく見積もってもその倍は必要となる。
 ならば、その魔力は何処から供給されているのか。
 
 魔法とは無から有を生み出すモノではない。有から有を生み出すものに過ぎない。
 仮に、リンカーコアを無理矢理に稼動させて、周辺から魔力を供給したとしよう。
 けれど、それでも必要となる量はにまるで足りていない。

 ならば――はやての脳裏にふと、一つの考えが浮かぶ。
 それは酷く馬鹿げた考えで――けれど、その考えを笑い飛ばすことは出来なかった。
 何故なら、その考えは彼女が経験したある事実を元に積み立てられた考えだったから。

 リジェネレーション。
 瀕死の人間――死ぬ間際の人間を完全に回復させる魔法。
 それを使用するにはシン・アスカの魔力量では足りない。周辺の魔力を供給したとしても、まるで足りない。

 満足のいく効果を得る為にはそれよりももっと多くの魔力が必要となる。
 例えば――周辺の魔力だけではなく、周辺に存在する魔力の塊――平たく言えば魔導師から魔力を奪い取ったとしたら?
 突飛な考えだ。あり得ない考えだ。
 思えばフェイト・T・ハラオウンの状態――バルディッシュアサルトの記録していた映像で確認した――は尋常ではなかった。
 直ぐに回復はしたものの、熱と疲労によって、意識は朦朧とし、酩酊状態に近かった。
 まるでAMF下で魔力を急激に消費したような消耗だった。
 “魔力を急激に消費した”――確認は出来ない。
 もしかしたら、という程度の疑念に過ぎない。
 だが――
 
「……馬鹿やろ、私。」

 言葉は静かに震えている。背筋を走る震えを止められなかった。
 
 彼女のこの考えは自分自身に備わった在る能力とそれによって引き起こされたある事件が根幹にある。
 他人の魔力を蒐集する。
 そういったレアスキルは確かな事実として、“彼女の中”に存在している。蒐集行使という名前を持って。
 
 死を超越することは彼のアルハザードの魔法ですら出来なかった。
 誰にも出来はしない。それは人間の領域ではなく神の領域である。
 神ならぬ人間が神の領域に手を掛ける――ならば、その代償はそれに比して巨大とならなければならない。
 はやては頭を振ってその馬鹿げた考えを隅に追いやった。在り得る筈が無いのだ。そんなことが、在る筈が無い。
 
 デスティニーが、シン・アスカが――蒐集行使に近い力を使い、その結果としてフェイトは命の危険に晒されていたなどと言う世迷言が。


 いつもの通りの訓練。シンは何故かフェイトとペアを組んでストレッチをすることになった。
 あの戦闘の後、何故かフェイトは自分に対して態度が変わっていた。
 どういった心境の変化か分からないが、よく笑うようになっていた。
 時折、こちらを見ていることもある。眼が合うと笑って手を振ってくる。
 食事時には必ず自分の隣に座り――これは以前から変わらないが――色々よそってくれたりもする。
 流石に隊長にそんなことをやらせるのは悪い、とシンが一度止めようとしたら、泣きそうな――今思えば、あれは振りなのだろう――顔で「……嫌?」とか言われた。
 割とドキッとしたが、次の瞬間、彼は我に返り、小さく分かりました、とだけ呟いた。
 
 それからは止めることもなく――と言うか、止めても同じことの繰り返しだったので、それからは黙っている。
 どこか、そんな彼女を見ていたいと言うのもあったかもしれない。
 フェイトのその仕草。その表情。それはどこかマユを連想させたからだ。
 彼が初めて守れなかった対象。
 第一の喪失の証。マユ・アスカ。彼女との思い出――無論、彼女が死ぬまでの間だが――は彼にとって幸せだった頃の象徴として今も胸に刻まれている。
 どこかそれを想起させるフェイトを止めようと思わないのも道理だろう。
 幸せそうな彼女を見ているとこちらも幸せになる――そんな馬鹿な思いを頭に抱く。
 それとは対照的に、あの戦闘以降よそよそしいと言うか、元気の無い者もいた。
 彼らがいる場所から少し離れたところ。そこではギンガがストレッチをしているシンとフェイトを見つめていた。
 ギンガ・ナカジマ。恐らくシン・アスカにとってこの世界で最も信ずるに値する人間。彼女の元気がどうにも無いのだ。

(……何かあったのかな。)

 心中で呟くもシンには何も覚えが無い。
 けれど変化はあった。毎朝ギンガは自分を叩き起こしに来ていた。それが、今は無い。
 一度その理由を聞いてみたところ笑いながら誤魔化された。
 
 それだけではない。気がつけばいつも一緒に食事していたと言うのに最近はスバルやティアナ達と一緒に食べたり、かと思えば自分と一緒に食べたりする。
 シンはどうにも不安だった。人間は常ならぬ行動が起こると違和感を感じる。
 シンにとってミッドチルダに来てからずっと一緒だった彼女は、いなくなったことで違和感を感じさせるほどに日常に食い込んでいたのだ。
 無論、彼はその原因が自分にあるなど知るはずも無い。
 夢の中でルナとのことを思い出した挙句、いつもルナにしていたように抱き締めて――そんなことをギンガにしたなど全くもって覚えていないのだから。
 だから、シンは最近ギンガを眼で追いかけることが多くなっていた。以前は追いかける必要も無く傍にいたのだから当然と言えば当然だが。

(……まあ、いいか。傍には“いる”んだし)

 そう、思考を切り替えてシンは再びストレッチに没頭する。

 シン・アスカの思考とは単純明快だ。
 守れるか、守れないか。ただ、それだけ。

 何かしらの理由があってギンガが自分の傍にいることが嫌になったとしよう。
 それは辛いことだ。
 恋愛感情の有る無しに関わらず誰かに嫌われることとは辛いことだから。
 けれど、彼にとってソレは問題ではない――問題ですら無い。
 自分から離れていく誰かには、とうの昔に慣れていると言うのが一つ。裏切られることは別に問題ではない。
 何せ、自分は元いた世界で縋り付いた平和にすら裏切られているのだから。今更、それにどう思うことも無い。

 もう一つは、離れていても守れるから。
 機動6課。そこは激戦区である。
 故にそこで戦う魔導師たちは全てトップクラスの実力を持っている。ギンガもその一人だ。
 けれど、トップクラスとは言え激戦区である以上は危険であり、彼女だっていつ死ぬか分からない。戦う以上は当然の話だ。

 だが、それでも同じ部隊にいれば、“守れる”。
 違う部隊では無理かもしれないが同じ部隊ならば可能だろう。命を懸けて守ることを許される。
 だから、彼は安心していた。彼女はまだ、守れる。だから不安になる必要は無い、と。

 ――もし、これでギンガが違う部隊に行くとなれば状況は変わっていたかもしれない。彼は不安を覚えただろう。どうしようもない不安を。
 焦燥感が胸に生まれ、それに蓋をすることも出来なかっただろう。

 彼の歪みは今も継続している。
 より螺旋(ネジ)れ、より曲がり、より大きく。
 己が無知を自覚することもなく、彼は歪みを継続する。守れると言う幸福に浸りながら。



[18692] 第二部機動6課日常篇 20.襲撃と休日と(b)
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/29 17:55
 ギンガ・ナカジマは今、シン・アスカに近づくことが出来なかった。
 向こうではシンとフェイトがストレッチをしている。
 シンはいつも通り。フェイトは頬を染めて無邪気に微笑みながら。
 胸に渦巻く感情は何だろう。嫉妬、もしくは諦観。もしくはそのどちらもか――彼女には判別など出来なかった。
 シンにおかしく思われているのは知っている。

 今までずっとやってきたことを突然止めたのだ。おかしく思われるのも当然だろう。

 朝、彼を起こしに行くこと。
 朝食を一緒に取ること。
 夕食を一緒に取ること。

 そして彼が願いを叶えるサポートをすること――つまり出来る限り彼の訓練に付き合うこと。

 これはシンとギンガが機動6課に入ってきてからずっと自主的に行ってきたことだ。
 シンはコレに関して一度は別にしなくてもいいとは言っていた。
 だが、一人よりも二人の方が効率が良いと言ってその返答を一蹴し、彼女は彼と訓練を続けていた。
 けれど、今ではそれもない。
 それも出来ない。

「……シン」

 呟く。言葉に乗せる想いは昏く、重い。
 ルナ。その言葉が彼女に与えた影響は殊の外、甚大だった。
 少なくとも彼と面と向かって顔を合わせることが出来ないくらいには。

 ルナ、と彼は呟いた。
 それはシンにとって大事な女性――もしかしたら、“身体を重ねる”ような関係なのかもしれない。単なる友達なのかもしれない。

 ――そんなことは彼に確認しなくては決して分からないことだ。

 彼女は今初めて彼を支えると言う願いそのものに迷いを抱いている。
 今までは単なる恋慕だと思っていた。
 だから、シンに対して強く在れた。
 けれど、横恋慕であるなら話は変わってくる。

 もし、シンが元いた世界に「ルナ」という女性を残してきているなら、自分やフェイトの想いは単なる邪魔物だ。
 彼を苦しめるだけの想いでしかない。
 そんな想いがどうして彼を支えることが出来るだろうか?
 支えることなど出来はしない。苦しめるだけだ。
 そんな想いが彼女を苦しめる。
 自分はシンを支えようとして、支えたつもりになっただけで実は苦しめているのではないのか、と。
 疑念程度の想いではある――けれど、確固とした気持ちで無い分、疑念と言うのは喉に刺さった魚の骨のように、まるで抜けないのだ。

(……私、何してるのかな)

 呆然と彼女は心中で呟く。

 ――彼女は知らないが、シンにとってルナマリア・ホークとは既に終わった関係である。

 確かに一時期、お互いを慰めるようにして溺れた時期はあった。
 自堕落で退廃的な睦み合い。決して何も生み出さない関係。
 結果として、彼らは別れた。
 元々、慰め合うだけの関係でしかなかった二人は、お互いを傷つけあうしか出来なくなり、最後は互いに逃げるようにして別れた。
 寂しさはあったが、だからと言ってそれが尾を引くほどに大きなものでなかったのも事実。
 唐突に始まった関係は、同じように唐突に――そんなもの初めから存在すらしていなかったようにして消滅した。
 それが今から二年半前の話。

 シンがその時のことを思い出したのは、単純にギンガにおぶられて眠っている内にその時のことを思い出したからだろう。

 柔らかな身体と髪の感触、顔にかかる吐息。
 そして直前にフェイトの服を着替えさせたことなどが忘れていた彼女の記憶――溺れあったことも含めて――思い出させ、彼女を想起させたからに過ぎない。

 シン・アスカにルナマリア・ホークへの恋慕など何一つとしてない。それは間違いの無いことである。
 だが、そんなことを知らない彼女にとって、シンに大事な人がいる“かもしれない”と言う事実はどうしようも無いほどに辛いことだった。

 ――哀れなことに彼女には大切なモノが一つだけ欠落していたから。
 
 シン・アスカが欲しいと言う当たり前の感情。恋をしたならば誰であっても胸に在るはずのその感情。
 彼女にはソレが無い。
 彼女が選んだ恋慕とは無償の愛。
 何も求めず、何も望まず、ただ彼の為への想い。だから、彼女は自分の想いがシン・アスカを苦しめるのだと言う風にしか思えない。
 好きだから、踏み込めない。彼を傷つけるのが嫌だから。この想い。その勘違い。それこそが彼女を縛り付けているのだ。

「私は……」

 どうするべきなのか。シンと話をしたい。
 けれど、それはもしや彼に余計な心労を与えているのではないだろうか。
 それは彼を支えると言う自分の願いから逸脱している。それではいけない。それでは駄目だ。
 けれど……それなら、自分はどうしたらいいのだろうか。

 思考の堂々巡り。そんな思考に落ちるギンガの後ろからティアナが声をかける。
 ちなみに当たり前だが訓練場である。これから朝の訓練を始めるところである。

「おーい、ギンガさーん。」

 ブツブツと呟きながらギンガは一心不乱にシンとフェイトの方向を見つめている。恐らくティアナの言葉など耳に入っていないだろう。

「……はあ。」

 表情は陰鬱そのもの。チラチラとシンを見つめ、フェイトを見つめ、また俯く。
 ティアナが溜息を衝きたくなるのも道理である。

 ティアナ・ランスター。
 彼女はシン・アスカのことを正直危険視している。
 以前の自分と同じ――恐らくそれよりもかなり重大であろうが――モノを感じるのだ。
 つまりは、周りが見えていない。ハードワークではなくオーバーワークを繰り返し、いつかは潰れる――そんな感じを受けている。
 これまでは違う隊である上にギンガというお目付け役がいるので何も言う気は無かったのだが、どうにも最近の流れはおかしい。
 ギンガの代わりにフェイト・T・ハラオウンがいるのだ。
 しかも当のフェイトはこれまで彼女達の前では見せたことが無かった子供のような表情で彼に甘えている――少なくともティアナにはそう見えた。

 つまり、シンがフェイトを選び結果としてギンガは振られたのだろうか。
 だが、その割にはシンの態度はまるで変化していない。
 傍から見ている彼女にはよく分かるが、彼は恐らくフェイトに想われていることすら気づいていない――好意を持たれていることくらいは気付いているだろうが。
 故に、ギンガが彼から離れていく道理は無い。

 間違いなく彼女――ギンガ・ナカジマもシン・アスカに惚れている。見れば分かる。
 と言うか、そのことに気づいていないのは当の本人であるシン・アスカくらいだ。

 そのギンガがシンから離れている。これがおかしい。そしてその結果、目前で俯き溜め息を吐いているように落ち込んでいる。
 何かがあったのだろう。
 
 色恋沙汰、それも一人の男を二人の女が争うと言う三角関係であれば、何があってもおかしくは無い。
 彼女自身が読んでいるファッション雑誌の恋愛相談欄も大体そんな感じである。
 女性は恋をするとあからさまに変化した上に一喜一憂するのだから。
 ――と偉そうなことを考えるティアナ・ランスターにもそれだけの恋愛経験があると言えば皆無である。絶無である。
 
 夢に向かって走り続けてきた。
 その夢の為に多くのものを振り切ってきた。17歳と言う少女が一流の魔導師として戦う。
 その在り方そのものが本当は歪だなどと気付かぬままに。
 その過程で恋などするはずが無い。出来るはずが無い。
 
 だから、ティアナ・ランスターはこれほど冷静に観察できる。
 恋をしたことが無いから共感することなく俯瞰できるのだ。
 
 彼女にしてみれば、シン・アスカとギンガ・ナカジマの色恋沙汰は正直どちらでも構わないと言うのが本音だった。
 無論、二人が上手くいけばそれでいいと思っていたが、フェイト・T・ハラオウンまで絡んできた時点で火種になるのは明白である。
 古今東西、三角関係とは火種以外の何者でもないからだ。
 だが、それをこうまであからさまに訓練――と言うか仕事に持ち込まれるとティアナでなくとも溜息を吐きたくなる。
 
 その上、彼女というお目付け役がいなくなれば、シン・アスカのオーバーワークはきっと加速する。
 そうなれば、あの時の自分の二の舞となるだろう。いや、下手をするとそれ以上のことになりかねない。
 だが、彼の側で笑うフェイトを見て、思う。
 
(……フェイト隊長は……止めないだろうなあ)

 恐らく――間違いなくフェイトは止めないだろう。ティアナはそう思っていた。
 最近のフェイトのデレデレっぷりは以前の彼女を知っている者であれば思わず、あなた誰ですかと聞きたくなるほどに劇的な変化である。
 今の彼女ならシンがオーバーワークで倒れたあたりで気づくような気さえする。
 平たく言えば、あからさまに眼が曇っているからだ。恋の盲目に。
 故に――

(止めるとしたら……私よねえ、きっと。)

 ティアナ・ランスターは憂鬱だ。別にシン・アスカが嫌いな訳ではない。
 と言うよりも嫌いとか苦手と言う以前の問題である。彼女はそれほどシンのことを知らない。
 隊が違えばそれだけ訓練や仕事で一緒になることは多くない――それでもシンとの繋がりを維持していたギンガはある意味凄いのだが。
 彼の能力の高さは折り紙つきだ。恐らくは自分よりも高い。下手をすればシグナムほどの強さを持っているかもしれない。
 
 それはあの模擬戦の時から知っている。そして、その戦いぶりの苛烈さも。
 
 ティアナが彼の戦いで最も凄いと思ったのは、その発想だった。
 まずフィオキーナと言う魔法による加減速と転進。
 そして魔導師にとって最も大事と言ってさえ良いデバイスを“投げる”と言う発想。
 そしてそれすら囮として最後の一撃を加えるという発想の裏切り。
 戦闘者としては一級品と言っていい――少なくとも彼女にはそんな戦い方は出来ない。
 
 だから、彼女はシン・アスカに羨望を向ける。そして羨望を向ける彼女だからこそ気付く。シン・アスカが焦っていることに。
 だから、彼女には不思議だった。どうして焦らなければいけないのか、と。
 
 シン・アスカ。
 魔法を覚えて、実に数ヶ月。驚くべき速度で彼は強くなっている。
 その速度ははっきり言って異常だ。
 
 天才と言う言葉さえおこがましい。少なくとも彼女の同期にそういった人材はいなかった。
 現時点で既に自身と同等かそれ以上。
 このまま、順調に成長して行けば、高町なのは、フェイト・T・ハラオウンすら凌ぐ魔導師に成りかねない。
 
 それは彼女にしてみれば純粋に羨ましいと思えるほどの“才能”だ。
 自身を凡人と認定し、その克己によって凡人の限界を超えてきたと考える彼女にとっては特に。
 
 だが、シン・アスカはそれに満足した様子を見せていない。
 満足するどころか、焦っている――むしろ、生き急いでいるようにすら見える。
 彼女が以前同じような状況に陥った時の理由は、“置いていかれる”かもしれない不安である。
 
 仲間が強くなっていくのに自分は取り残されていく。自分は本当に強くなったのか。そういった不安だ。
 ならば、彼は何なのか。彼は一体何を不安に感じているのか。それが彼女には分からなかった。
 
 ――分からないのは至極当然の話である。シン・アスカが生き急ぐ理由が彼女に分かるはずも無い。
 
 シン・アスカが急いで強くなろうとする理由。
 シン・アスカの胸にある不安。それは“守れないかもしれない”と言う絶対的な不安である。
 力があれば必ず守れるとは限らない。力は決して絶対のモノではないからだ。
 けれど、もし、絶対的な誰であろうと敵うことの無い力があれば――もしかしたら、彼は全てを守れるかもしれない。

 守れないと言う不安は早く早くと彼を急かし続ける。
 絶対的な力。強大な力。
 それがあれば確かに全てを守れるかもしれない。
 けれど、それを手に入れるまでに、もし守れなかったらどうするのか。
 
 だから、彼は生き急ぐ。もっと強くもっと強く。誰よりも何よりも強く。そして、出来る限り早く強くならなければいけない。
 
 ――強大な力を得たからと言って安心するな。強大な力はより強大な力によって淘汰される。
 
 だからこそ磨け。鍛えろ。一つ階段を登れば直ぐに次の階段に眼を向けろ。
 その昇りに終わりは無い。
 鍛えて、鍛えて、鍛え続けろ。
 でなくば誰も守れない。お前は、また誰も守れないに違いない。
 内から滲み出るその声が彼を不安に陥れる。不安を生み出すその声。
 その声によって生み出される、守れないかもしれないと言う不安。それを押し潰す為に彼は自らを鍛え続ける。
 
 だから、ティアナには分からない。
 ティアナ・ランスターには夢がある。夢と言う果てがあり、その果てに辿り着く為に無茶をする。
 シン・アスカにも夢はある。けれどその夢は果ての無い夢。その過程こそが夢そのものと言っても良い。だからこそ夢を叶え続けるために無茶をする。

 夢を叶える為に無茶をするティアナと夢を叶え続ける為に無茶をするシン。
 それは僅かな違いだ。本当に小さな違い――けれど、それは決定的な違いである。
 話を戻そう。
 とにかく、ティアナは困り果てていた。これでは訓練のしようが無いからだ。指揮をする彼女にとってこれほど厄介なことはない。

「……ギンガさーん」

 殆ど諦めながらも彼女はもう一度呼びかけた。
 ギンガは応えない。というよりも聞こえていない。オドオドしながらずっとシンの方を見つめ続けている。

「……シン」

 その仕草に落胆よりも先に苛立ちが来た。

「ギンガさん、いい加減に……」
「あー、もうギン姉ウジウジしてるならいっちゃいなよ!!」

 言葉を言い終えることなく、隣で同じく呼びかけていたはずのスバルがギンガの首根っこを掴んでいた。

「……スバル?」

 思わずティアナは呆気に取られてしまう。何故なら、スバルが手にしたのはギンガの着ているTシャツのネック部分。
 そこをぐわしと掴み、そして――

「マッハキャリバー!!!」
「All right,Budy!!」

 車輪が回る。あまりの加速にホイールスピンが始まり、白煙が立ち昇る。

「ちょ、ちょっとスバル、貴方何を……」

 あまりに唐突な展開に慌ててスバルに声をかけるギンガ。
 だが、彼女が皆まで言い終える前に、スバルが叫んだ。

「いっくよ―――!!!」

 元気一杯の叫びと共に急加速。

「へぐヴぃぃ!?」

 ギンガの顔がカエルが潰れたような様相を見せた。
 当然だ。スバルは彼女のTシャツのネック部分に手を掛けて、“思いっきり加速した”のだ。
 要するに締まっている。もうこれ以上無いほどに締まりまくっています。

「……ぎゃ、ぼ」

 ギンガの顔色が一気にやばくなる。
 さっきまで乙女の顔で「ふう」とアンニュイな溜息を吐いていたのが嘘であるかのように、青白い。
 というか潰れたカエルみたいな顔である。乙女の顔は既に無い。

「ちょ、スバル!!?アンタ、何してんのおおおおお!!!!?」

 ツッコミ担当ティアナ・ランスターの叫びが木霊する。
 だが、そんな声などもう遅い。
 何故なら彼女のデバイスの名前はマッハキャリバー。マッハ!!である。
 そんな声など置き去りだ――いや、音速で走ると言う訳ではないが。

「行くよ、ギン姉!!」
「……」

 先ほどからギンガが見つめていた彼らの方へと視線を送る。
 どうやら、今ストレッチが終わったようだ――ああ、私達まだ何もやってない。
 どうしよう。ていうかギンガさんが返事して無いのってまずくない?――ティアナはそんなことをふと思った。
 殆ど現実逃避に近かった。だって、この後スバルが何をするのか、彼女には分かりきっていたからだ。
 
 ティアナだってそうするべきだと思う。
 言いたいことがあるならはっきりと言えばいい。それが駄目なら諦めろ。
 それが世の常だ。少なくとも自分は恋をしたらそうするつもりだ――それが出来るかどうかは別として。
 けれど、それはどうだろう。
 それはあまりにも苛烈すぎないか。というか家族だからって好きにしすぎではないだろうか。
 ティアナは思った。

(……この子にだけは恋愛相談しないでおこう。)

 ティアナ・ランスターは堅く心に誓った。きっとそれは正解だ。何故なら、スバルがやろうとしていること。それはつまりは至極単純。

「飛んじゃえ――!!!!」

 文字通り。
 彼女は今、姉であるギンガ・ナカジマをマッハキャリバーの加速と彼女自身の膂力、そして絶妙のタイミングで――背負って投げた。
 
 ――中島流一本背負い。
 
 ギンガの身体が宙を舞う。
 慣性によって一気に彼女の身体に加えられた速度がそのまま彼女の身体に雪崩れ込み、まるで飛び立つ鳥の如く彼女の身体が空を飛んだ。
 中島流。それはナカジマ家に伝わる対魔導師用武術であり、シューティングアーツの骨子としてゲンヤ・ナカジマからクイント・ナカジマに受け継がれし“武術”。
 
 ――つまりは柔道で言う一本背負いである。
 
 大きく放物線を描き、彼女の身体は“目標”に向かって飛んで行く。
 目標――シン・アスカに向かって。

「……ギン姉、聞きたいことは聞けばいいんだよ。」

 額の汗を拭いながらスバルは呟いた。ちょっとかっこよかった。
 そして、次の瞬間、喧騒が始まった。
 スバルが投げたギンガがシンに激突。
 シンは咄嗟に彼女を受け止めるような体勢を取り、結果、彼女を抱きかかえ、衝撃を受け止め―――彼女が彼に馬乗りするような格好でシンは気絶していた。
 傍らのフェイトがシンに駆け寄る。
 それを見て、落ち込んでいたのが嘘のような神速でギンガがシンを抱きかかえる。
 睨み合う竜虎。緊張する空気。
 そして睨み合ったまま二人はシンを連れてどこかに歩いていく。
 恐らくは医務室だろう。訓練も何も合ったものではない。
 半眼で唇を引きつらせているシグナム。困ったように苦笑するキャロと力無く苦笑するエリオ。

「……これは問題ね。」

 ティアナ・ランスターは呟き、二人に連れられていくシンを見つめていた。

(少し、釘を刺しておくべき、かな?)

 機動6課現場指揮官としての彼女がそう告げていた。このままでは拙い、と。


「エクストリームブラストは金輪際禁止や。」

 彼女――八神はやての第一声はそれだった。
 彼が意識を取り戻して一分ほどしてから、医務室に現れた彼女は即座にギンガとフェイトを追い出し――と言うか

「二人共仕事せえ、仕事!!」、と言いながら追い出す彼女は額に手を当てやけに疲れているようだった――二人がいないことを見計らうとそう言った。
「……何でですか?」
「分かってるはずよ、シン君。」

 彼女の後方からもう一人女性が現れた。
 シャマル。八神はやての守護騎士ヴォルケンリッターの一人。そして、この医務室の主である。
 いつも朗らかな彼女が神妙な顔で呟く――それだけで次にくる言葉が予想できてシンは耳をふさぎたくなる衝動に駆られた。
 それは雑音だ。彼にとって不要すぎる雑音。

「あの魔法は危険すぎます。貴方にはまだ荷が重い魔法よ。」

 シンはかけられたその言葉に少し苛立ちながら、返答した。

「――でも、あれがあったから、この間の戦闘を切り抜けることが出来ました。無ければ、死んでいたんです。」

 淡々と呟く彼の声。19と言う年齢には似合わないような表情。それを見て、はやてが瞳を細めて質問する。当然の質問を。

「……次、使えば死ぬかも分からんような魔法に許可が出ると思うてるのか?」

 道理だ。出るはずが無い。そんな人間を使い捨ての機械になり下げるような魔法においそれと許可が下りるはずはない。

「……それでも。」

 それでも食い下がるシン。だが、はやての声は断罪するようにしっかりとシンに宣告する。

「異論は一切認めん。これはキミの上司としての“命令”や。」

 その言葉。それを使うと言うことは彼女が本気と言うことだ。本気でそうするつもりなのだ。“彼女からの命令”とは絶対であり、遵守の対象である。

「……分かりました。ただ、」
「ただ?」
「場合によっては俺は使います。それだけは覚悟してください。」

 朱い瞳に写るのは強く鮮明な朱。はやてはその視線を受け止める。

「あいつらに勝つには、絶対に必要です。」

 静かな宣言。その視線を受け止めたはやては、少し視線に怒りを込めて、返答を返した

「……それで、ええよ。ええけど……極力使うな。キミは……捨て駒やないんや。」
「そうですか。」

 捨て駒では無い、と、はやてが答えた瞬間、シンの表情に失望が籠った。
 それを見てはやての胸が痛む。薄ら寒い心配をする自分に嫌気が刺して。
 胸に生まれたある不安。
 シャマルからははやてがシンの身体を心配して言っているように思えるだろう。だが、彼女は思う。本当にそうなのだろうかと。

 ――シン・アスカとデスティニーはリジェネレーションを使う際に周囲の人間から魔力を奪い取り、自身の肉体の修復に使用している。
 
 それが導くモノはシンだけの破滅ではないそれは彼の周囲で生きる人間全て。
 フェイト、スバル、ギンガ、エリオ、ティアナ、キャロ、そしてヴォルケンリッター。それは彼女にとって掛け替えの無い仲間だ。
 そんな大切な仲間を全て死地に導くことになりかねない。
 視線に込められた怒り。それはもしかしたら親友を、家族を殺していたかもしれない人間に対する怒りだ。
 
 その怒りがどれだけ身勝手なモノであるのかを彼女はよく理解していたし、その怒りが無意味なものだと言うことも理解していた。
 罪悪感とはそんなふざけたことを思った自分に対してだ。確証もない上に疑念のみで怒りを持ち、一瞬でも激昂しようとした自分へのモノだ。
 ふざけた考えだ。はやては自分自身を嘲笑する。
 ベッドから起き上がり、部屋からシンが出て行く。その背中を睨み付けるはやて。
 
 変わっていくはやて。彼女を変えた男シン・アスカ。
 そんな二人をシャマルは静かに見つめていた。見つめることしか出来なかった。
 二人のこんなやりとりを彼女は初めて“見てしまった”から。


「シン、アンタ、今日暇?」

 医務室からシンが戻り朝の訓練が終了した頃合だった。
 ギンガとフェイトは向こうでこってりとシグナムとヴィータに説教されている。
 どうやらさっき無断で訓練から抜け出てきたようだ。
 シンはその様子眺めながら訓練場の出口に向かって歩いて行く。
 ある意味、被害者である彼に説教するのは筋違いとも言えるからか、シグナムとヴィータは彼に何も言うことはなかった。
 彼女の、ティアナ・ランスターの声が聞こえたのはそんな時だった。

「今日?」

 言われて頭の中のスケジュールを確認する。
 暇かと言われても仕事があるのは確かだ。
 この後制服に着替えれば自分は直ぐにでも事務仕事に―――とそこまで考えて思い出す。
 自分が今日は非番だと言うことに。

「一応、空いてるな。」

 何の気無しに返答を返す。そのまま彼の思考は今日の一日何をするかと言う予定を立てはじめる。
 一日中訓練に励むか――恐らくシグナムさんは今日も多分暇っぽい。
 別段、彼女が働いていないと言う疑いを持っている訳ではないが、訓練以外の時間はいつも医務室にいるか、八神はやての部屋で護衛しているか、食堂にいるかの彼女だ。

 恐らく、訓練に付き合って欲しいと言えばきっと付き合ってくれるに違いない。
 
 そんなことを考えていた時にティアナがシンに再び声をかけた。

「買い物に行くから付き合わない?」
「……は? 俺と?」

 シンの疑問は最もだ。
 彼はこれまでティアナとそれほど仲悪くしてきたつもりもないが、仲がいいと言うような関係でもなかったはずだ。
 有り体に言えば仲間。その程度の関係でしかなかった。
 それがいきなり買い物に付き合えと言うのだ。疑問に思うのも無理はない。

「別にいいじゃない。あ、勿論、二人っきりじゃないわよ?スバルも一緒。」
「スバルも?」

 その言葉に再びシンの脳裏に疑問が渦巻く。
 無論、ティアナとの二人っきりが良かったなどと言うことではない。
 ティアナ・ランスター。スバル・ナカジマ。
 彼女達二人の仲がいいのはシンとて知っている。だからこそ疑問なのだ。
 仲のいい二人が休日に揃って買い物に行く。いいことだ。問題は無い。問題なのはどうして自分を連れて行くなどと言っているのか、だ。

「そういうこと。どうする?行くの行かないの?」

 だが、ティアナはそんなシンに疑問について考えさせる気も無いのか、矢継ぎ早に質問を繰り返す。
 休日に買い物に行く。行くこと自体は問題ではない。いろいろと物入りなのは確かだ。
 だが―――

「あ、えーと、俺、ちょっと……」
「何よ、まさか、訓練したいからとか言い出すんじゃないでしょうね?」

 図星だった。出来れば朝から晩まで訓練、と言うかシグナムあたりと模擬戦をするつもりでいたシンにとって、ティアナたちとの買い物は正直少し面倒ではあったからだ。

「あ、いや、その」
「駄目よ。アンタは今日私とスバルの二人の買い物に付き合うこと。これは決定事項よ。」

 有無を言わせぬ口調でティアナが断言する。

「いや、横暴すぎだろ!?」
「駄目よ。これは決定事項なんだから。」
「いや、だから……」
「だから決定事項よ、これ。絶対に覆らないわよ?」

 暫しの睨み合い。
 先に折れたのはシンだった。はあ、と溜め息を吐いて呟く。

「……いつ頃には帰ってくる?」
「はあ……いきなり帰る時間とか聞く?サイテー。」

 吐き捨てるようにティアナが言う。実際、確かに最低ではあった。

「あ、いや、そういう訳じゃ……」

 そう言われ、途端にうろたえるシン。そんなシンの様子を見て、ティアナはクスリと悪戯をする猫のように笑い、言った。

「冗談よ、冗談。別にそんなうろたえなくてもいいわよ。時間は……そうね、多分6時前には帰ってくるけど……どう?」
「……それなら、問題ないけど。」

 シンがそう、告げるとティアナはじゃあ決まりとでも言うようにして、6課隊舎に向けて、うろたえていたシンを置き去りにして歩いていく。
 そして、扉の前で振り返ると確認するように呟いた。

「じゃあ、着替えたら行くわよ?出発は8時。いいわね?」
「あ、ああ。」
「じゃ、また後でね、シン。」
「……いきなり何なんだ、あいつ?」

 最もな疑問だった。



[18692] 第二部機動6課日常篇 21.襲撃と休日と(c)
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/29 17:56
 ティアナ・ランスターがシン・アスカを買い物に連れ出そうと考えた理由。
 一つは過度の訓練に対して一言、言っておこうと思ってだった。
 6課内では驚くほど彼が一人になる時間は少ない。
 基本的にフェイトかギンガが傍にいるから――と言うか仕事以外の時間を訓練場で過ごしている以上は一人になる時間など殆ど無いといっていい。
 ちなみに彼女達二人がいつも傍にいるシンは男性職員にとっては垂涎の的である。いつだったかヴァイスがそうぼやいていた。非常に羨ましそうに。

「羨ましいかって?あのな、羨ましくない理由がどこにある?あんな美人二人をはべらせて、あんなことやこんなことやそんなことまでしてると想像してみろ……・身悶えするに決まってるだろ!!!」

 無論、そんな彼をゴキブリでも見るような視線で睨み付けたのは言うまでもない。
 何はともあれ、今日はそんなシン・アスカが間違いなく一人になる瞬間――非番である。
 しかもギンガやフェイトは揃って仕事。
 あの二人がいないなら、シンと二人だけで話をすることはあまり難しくはない。
 ティアナの見立てでは基本的にシン・アスカの交友関係とは浅く広くが基本である。
 と言うか恐らく親しい人間などギンガとフェイト――それから遠く離れてキャロとエリオやシグナムなどのライトニング分隊の面々くらいではないだろうか。
 それくらいにシンは他人と交友を持っていないのだ。

 食事時はギンガやフェイトに連れられて、自分たちと一緒に食べることが多い。
 だが、彼女らがいない時は適当に空いている席に座り、すぐさま食事を追えてどこか――恐らく訓練場だろう――に向かっている。
 話しかければ話をするし、すれ違えば挨拶も忘れない。
 けれど、それだけだ。それ以上の会話には決して発展しない。
 
 理由は分からないが、自分から線を引いているようにティアナは感じていた。これ以上は踏み込まないという線を。
 普通、そんな線があれば近づくことを遠慮する。
 そしてその遠慮によってお互いに踏み込めない距離を形成する。結果、その距離は持続する。
 よほどのことがない限り――その線を越えてでも彼に近づこうとする二人のように近づきはしない。
 だが、それではまずい。
 過度の訓練や色恋沙汰に対して、色々と思うところはあるし、注意くらいはしておきたい。
 その上で――仲間である以上は、ある程度友人のような関係だって作りたくなるものだ。
 
 そんな思いで、ティアナは彼を今日連れ出した。
 
 時刻は既に8時。ティアナとスバルは準備を終えて6課隊舎のロビーでシンを待っていた。
 ちなみに季節は八月。ティアナの服装はオレンジ色のキャミソールにジーンズ。それにトートバッグと言うもの。
 
 スバルの服装は如何にも今時の女の子と言うティアナとは対照的に大きくロゴの入ったTシャツにハーフパンツと言うモノ。
 ボーイッシュと言う自分のことを良く分かっている服装だった。

「……遅いわね。」
「ティア、そんなに急いでる訳じゃないんだから。」

 スバルが不機嫌そうに呟くティアナを諌める。時刻は既に8時を5分ほど過ぎている。

「すまん、待たせた。」
「……遅いわね、何してたの?」
「い、いや、ティア、そんなに不機嫌にならなくても」
「いや、ギンガさんと話してたんだ。すまん。」

 そういって、申し訳なさそうにするシン。
 
「ギン姉と?」

 スバルが呟く。先ほどまではシンと話すことすら出来ていなかったと言うのに何故だろうか?
 やはり自分の投げが効いたのかもしれない、とスバルは思った。大分と間違った認識である。

「あとフェイトさんもいたな。」
「フェイトさんも?何言ってたの?」

 何でもないことのように呟くシンに尋ねるティアナ。

「いや、誰と行くのかとかどこ行くのかとか、その程度。そのせいで遅れたんだ。ゴメン。」

 頭を下げるシン。基本的に真面目と言うか融通が効かないのだろう。ティアナはそんなシンを見て、肩を竦めると一つ息を吐いて言った。

「……まあ、いいけど。」
「だから気にしてないって!」

 そんなティアナとは対照的な様子でスバルも口を開く。別にそんなことは気にもならないのだろう。
 シンはそんな二人の様子に安堵したようにほっと息を吐いて、再び口を開く。

「ところで、聞きたいことがあるんだけど、いいか?」
「うん?どしたの?」
「何よ?」
「今日って何処に行くんだ?」

 最もな質問だった。実際、今日買い物に行くとだけ聞いているだけでどこに行くかとかはまるで聞いていないのだ。

「特に決めて無いけど……シン君ってクラナガンあんまり見回ったことないでしょ?たまにはそういうところ見て回るのもいいかなって思うんだけど。」

 スバルの言葉にシンは心外だとでも言いたげな表情で言葉を返した。

「いや、一応、何回か行ったことはある。」
「へえ、意外。アンタってそういうの興味ないと思ってたし。」

 意外そうなティアナとスバル。彼女ら二人から見たシンは完全な仕事馬鹿、もしくは訓練馬鹿だからだ。そんな彼がクラナガンを見て回っていると言う。彼女らで無くとも興味は尽きない。

「どんなこと知ってるの?」

 シンは少しだけ誇らしげに言う。

「クラナガンへの突入経路、下水道の位置、各地区の避難経路は完全に把握してある。いつ襲撃があっても大丈夫だ。」
 続けて、上空からの襲撃の際の心得や、どこにいれば敵に一番見つかり辛いか、潜伏していそうな場所などなど……・etc。
 その内容にティアナは呆れ顔になり、スバルは苦笑いを浮かべる。

「あ、アンタねえ……」
「ほ、他には?」
「他に?クラナガンのことで知ってることか……ATMの置いてあるコンビニがどこかとか、一回飲みに連れていかれたから、あの辺も一応知ってるし……」

 そして、これだと言わんばかりに目を輝かせて、シンが呟いた。

「あとは、そうだな、牛丼屋のチェーン店なら幾つか知ってるぞ。」
「あ、それなら私も分かるよ。おいしいよね。」
「旨いよな、アレ?速いし安いし旨いし。」
「……なるほど。アンタにそういう部分を求めるのはとんでもなく間違ってるってことが良く分かったわ。」
(……こういう性格だからオーバーワークを当然だと思うんでしょうね。)

 然り。
 彼の頭の中にはどこまで行っても仕事のことしかないのだろう。四六時中そういったことを考えているに違いない。
 そうなれば必然的に日常の行動もそうなっていくのは当たり前だ。
 要するに仕事に集中するあまりそれ以外のこと――人間関係
 ティアナは今もスバルと一緒に牛丼について熱く語り合う――今は豚丼の素晴らしさについて議論を交わしている――彼を見て、思った。
 彼に必要なのはまずは仕事以外の楽しみだ。
 そういったことがあれば少なくともオーバーワークと言う問題は回避出来る。
 その後に控えるギンガとフェイトのデレデレ行動をどうするかと言う問題については頭が痛いものの、これは部隊長にでも意見を仰ぐべきだろう。
 だが、彼女はまだ知らない。本来ならこの時点で知っていなければならないこと。本来ならばこの時点で気づいていなければいけないある事実に。

“いや、ギンガさんと話してたんだ。”
“あとフェイトさんもいたな。”

 その言葉。その事実。
 ティアナ・ランスターは恋愛経験がない。
 夢に向かってまい進して来た彼女にそんな余裕があったのかどうかと言えばあるはずもない。

 だが、その結果として彼女はそういった恋愛沙汰を俯瞰――つまりは一歩退いた場所から見ることが出来ていた。
 故に彼女は冷静である。少なくともシン・アスカと言う人間で眼が曇りまくった二人の女性よりは遥かに。
 だが、だからこそ気づくべきだった。
 
 ティアナは今誰に言うでもなくシンに誘いをかけて街に連れ出そうとしている。
 ティアナ自身に思うところはない。それはシンもスバルも同じだろう。
 別にティアナにシン・アスカへの恋愛感情など塵芥の欠片ほどもないのだ。
 彼女が彼を連れ出したのは単純な仲間への感情と同じと思ってもいい――そうすることをする時点で彼女も十分にお人よしではあるが。
 
 だが、例え無いとしても、だ。
 
 “女性が男性を連れ出して街に赴く”と言うその行為。それは一般に“デート”と呼ばれる行為である。
 だから、彼女は気づくべきであったのだ。その事実に。その行為が意味するところに気づくべきだった。
 それは荒ぶる飢えた猛獣の前から餌を取り上げていくと言う暴挙に等しいと言うことを。
 ――ティアナ・ランスターがそれを後悔するのはもう少し先の話。


「……疲れた。」
「まったく、あの程度で疲れるってどうなのよ?」
「私、凄い面白かったんだけどなあ、シン君、面白くなかった?」

 三人は今、テラス付きの喫茶店で談笑していた。
 テーブルの並べられているのは今しがた見てきた映画のパンフレット。スバルがどうしても買いたいと言って買ってきた。
 映画の内容は特にこれと言って特筆する内容ではない。クラナガンで最近流行っている映画であり、至って普通の恋愛映画である。
 男が女に恋をした。その過程にはさまざまな障害があり、彼らはその障害を乗り越えて幸せになろうとする。
 
 要約するとそんな話だ。
 それを見たスバルはえらく感動していた。流石に泣きはしなかったが、パンフレットやサウンドトラックまで買っていたあたり、相当に感動したのだろう。
 対してティアナは至って普通と言う感想である。特に可も無く不可も無い。
 さしあたって文句を言うならもう少し話にメリハリがあっても良かったと言う程度である。
 シンに至っては正直なところ、退屈だった。元々恋愛映画などが苦手なのだ。
 恐らく最も盛り上がる部分であろう告白シーンも、こう、むず痒い感覚に襲われて、素直に見ることが出来なかった――本人はそんな感じの告白を何回もしているのだがそれはこの際置いておこう。客観と主観では認識にズレが出るのは当然だ。無論、そんなことを知った瞬間身悶えするのは想像に難くないが。

「すまん、やっぱり俺にはアクションとか以外無理そうだ……」

 そう言って、椅子の背もたれに体重をかけるシン。テーブルの上のコーヒーを口元に運ぶ。

「ティアはどうだったの?」
「私は、普通かな……あ、でもあの橋の上で告白した時はちょっとぐっときたかも。」
「そうでしょ、やっぱりそう思うでしょ!?」
「うーん、でもなあ。名作と言うにはもう少し……」
「……」

 コーヒーに口をつけながらシンはそんな二人を見つめる。
 思えば、こんな風にこの二人と話すことは初めてなことに気づいたからだ
 違う部隊と言うこともあるだろうが、それでも同じ課である。
 同じ課である以上はもう少し付き合いがあってもいいものだ。
 
 そこまで考えて――と言うか考える間でも無くシンにはその理由が分かっていた。
 フェイト・T・ハラオウン、エリオ・モンディアル、キャロ・ル・ルシエ。
 彼らとは作戦上、そして訓練上でも顔を合わせることが多い。
 だから彼らとの付き合いは問題無い。少なくともあまり話したことが無いなどと言うことは無いだろう。
 
 八神はやて、シャマル。
 八神はやてについては言わずもがな。シン・アスカにとって最も大事な人間である以上付き合いが無いなどはありえない――その付き合いはいささか歪な関係ではあるが。
 よく医務室の世話になる――と言うか6課フォワード陣で最も多いシンにとってシャマルも同じく付き合いが無い等ありえない。
 
 ギンガ・ナカジマとの付き合いも既に長い。
 それに彼女は割りとシンのことを目にかけてくれて――と言うか事実はそういった目にかけているなどとは少し違うのだが――付き合いは恐らく、こちらの世界の中で最も長い。

 問題はここからだった。
 ヴィータ、スバル・ナカジマ、ティアナ・ランスター。
 前述したように部隊が違うと言う理由が一つ。
 そして、彼が自分から話しかけたりはしないと言う事実がある。
 これはフォワード陣以外とも同じだ。
 デバイスの整備などで世話にはなっているものの基本的に訓練ばかりしているシンが彼らに話しかけること――と言うか自分から人付き合いしようとしていないのに付き合いが生まれる訳も無い。

 ヴァイス・グランセニックとも同じくである。
 ただ、彼の場合は年齢も近い同性と言うことで彼の方から話しかけてくることが多いので、付き合いが無いと言うには該当しないが。
 
 シン・アスカにとって他人とは、すべからく守るべき対象である。
 そこに敵や味方、仲間や恋人、家族――これはもう存在もしていないが――などの垣根は存在しない。
 全てが同じ存在であり、そこに歪みは無い。完全なる平面(フラット)だ。
 他人との触れ合いはそこに優先順位という歪みを生み出す。
 だからと言う訳でもない。無論、そんなことを意識したこともない。だが、現実としてシンは他人との深い触れ合いを避ける傾向があった。
 腹を割って話すような人間は彼にはいない。少なくとも、ここには。 
 それに、彼にとっては“必要”も無かった。

 別段、誰が何を思おうと関係無い。
 仮に自分以外の全ての人間の中身が感情の無いロボットで、自分に見せる嬉しさや喜びが偽物だとしても関係は無い。
 今の彼の思いは全て、自己満足の産物。彼が欲しいモノはただ守れたと言う達成感でしかないからだ。
 そんな彼にとって、他人がどんな人間であろうとも関係は無いし、ましてや他人の内面などへの興味はとうの昔に失くしている。
 
 彼には特別な誰かなどいないからだ。無論、一部、例外は存在するが。
 兎にも角にもシンにとってこうやって、ギンガやはやて、フェイト以外とまともに話をするのは久しぶりなものだった。
 
 だから、懐かしいと思った。
 こうやって誰かと友達のように話すことが久しく無かったからだ。
 ギンガやフェイトは友達ではない。
 彼女達はどちらかと言うと位置的にはステラに近い。
 最も明確な守護対象という位置である。
 はやては、契約者――もしくは発注者である。自身に仕事――守ることを与えてくれると言う位置である。

 恐らくは、2年ぶりのことだろう。
 ミネルバを最後にしてシンにとっての友人とはついぞ現われなかったからだ。
 友人。
 その言葉を皮切りに思い出すのはあの金髪の少年。
 自身の未来と言う当たり前のモノを持つことすら許されずに、誰かの夢を叶えることで生きる証を残そうとした少年。
 自分――シン・アスカに未来を託した少年のことを。

「シン君、話聞いてるの?」

 そうやって物思いに耽っていたからだろうか。スバルが恨めしげに自分を覗き込んでいることに気付けなかった。

「……あ、ごめん、聞いてなかった。」
「もう、じゃもう一回聞くね?アイス、何食べるの?」
「アイス?」
「そうだよ!」
「あれよ、あれ。」

 そう言ってティアナが指で指し示す方向を見る。
 そこには「アイス一番!!世界で一番美味い奴!!」とデカデカと書かれた垂れ幕が下がっていた。
 その下では店員と思われる女性がいそいそとアイスをすくってはコーンに入れ、アイスを買いに来たお客さんに渡している姿が見えた。
 それを涎を垂らさんばかりの勢いで、見つめるスバル。
 ティアナはその様子を見ながら、苦笑している。

「凄いよね!?世界で一番美味しいんだよ!?」

 頬を紅潮させ、物凄く興奮しているスバル。よほど世界一と言う垂れ幕が気に入ったのだろう。
 ぶつぶつと「世界一のバニラにしようかな、それともストロベリー?いや、ここは絡めてでラムレーズンとか……」と呟きながら、時々「ひひひ」と笑っては、ごくりと喉を鳴らしていた。

「……えーと、スバルってそんなにアイスが好きなのか?」
「――愛してる。」

 一瞬の停滞も無く光の速さで運命の相手にプロポーズをするかのごとく、スバルは言い放った。

「……そ、そうですか。」
「うん。」

 呆気にとられるどころか、その視線の強さに気圧されて、思わず敬語になるシン。
 ティアナはそんな二人を見て、くすくすと笑っていた。
 それは微笑ましい日常のヒトコマだった



[18692] 第二部機動6課日常篇 22.襲撃と休日と(d)
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/29 17:56

「本当にアイスが好きなんだな、スバルって。」
「愛してるらしいわよ?まあ、あの姿を見ればあながち冗談にも思えないけど。」

 ティアナの視線の先にはカウンターの前で、これにしようかあれにしようかと悩み続けるスバルがいた。

「たまにはこうやって、外出して遊ぶのもいいでしょ?」
「……まあな。」

 少し、俯くシン。彼のそんな様子にティアナが怪訝な顔で声をかけた。

「なによ、楽しくなかった?」

 ティアナの質問にシンはそんなことは無いと首を振る。

「いや、楽しかった。だけどさ、何か……申し訳ないと言うか。」
「は?」
「いや、二人の邪魔してるみたいで……俺、ああいう映画駄目だったし。あんなに楽しそうなスバル見てると悪い気がして。」

 苦笑しながら、シンは今もアイスの前で悩むスバルを見つめる。そのシンの横顔を見ながらティアナもスバルに視線を向ける。そして、告げる。少しだけ照れくさそうに。

「別に邪魔なんかじゃないわよ。」

 言葉を切ってティアナは続ける。

「正直言うと私だってああいう映画駄目だもの。私はどっちかって言うとサイコスリラーというか、探偵物とかが好きだし。」
「へ?だって、さっきは」

 意外だった。先ほどの感想を聞いて、ティアナもああいう映画が好きなのだと、シンは思っていたからだ。
 けれど、意外そうなシンの顔を見て、苦笑し、ティアナは続ける。

「さっきの感想は正直な感想よ?だって感想だもの。面白くないとか、肌に合わないとかも十分な感想でしょ?面白いだけが感想な訳無いじゃない。それに私は映画の後にこうやって、感想言い合ったり馬鹿なこと話すことが面白いの。あんただってそうでしょ?」
「言われてみれば……そうかも。」
「だから、そんな風に邪魔とか言うのやめなさいよね?大体、誘ったのは私達なんだし。」

 半眼でシンを睨むティアナ。どうやら先ほどシンが言った「邪魔」という言葉が気に障っているらしい。
 確かにそうだろう。誘った本人の前で誘われた本人が、邪魔して悪い気がするなどと言っているのだ。不機嫌にもなると言うものだ。
 それに気付くと、シンは苦笑する。

「……はは、そりゃそうだ。」
「当たり前じゃない。そうやって、何でもかんでも自分が悪いみたいに思うのは良くないわよ?」

 責めるのではなく諭すようなティアナ。シンはその言葉に納得したように頷く。

「……かもな。」

 そう言って、スバルを眺めながら呟くシン。
 二人はそのまま、今も悩み続けるスバルを見ながら、沈黙する。会話が出てこないのではなく、会話をしない類の沈黙。

 ――それは思いの外心地よい沈黙だった。まるで、あの夢のような。

(……夢?)
 
 脳裏で渦巻いた言葉にシンは首を傾げる。夢とは何だ、と。
 それを皮切りに断片的に浮き上がる幾つかのイメージ。それは夢の内容であるが故に朧気だ。
 見えるのは瞳。自分と同じ赤い瞳。そしてあの小さな魔法使い――彼の主である八神はやてのデバイスであり部下でも在るリインフォースⅡと同じ雪のような銀髪。
 脳裏に浮かぶのはそんな女性だった。

(……そういや、どこかで見たような。)

 記憶を更に手繰り寄せる。向かいに座っているティアナの意識を頭の隅に追いやる。
 手繰り寄せる。それはあの宇宙。あの世界で最後に見た宇宙(ソラ)の――
 ずきん。頭痛がする。
 
 ――けれど、その記憶に繋がらない。まるで記憶が霧で覆われたようにその記憶に繋がらない。
 
 例えるならば、金庫に鍵をかけてその暗証番号を間違えたような感覚。
 繋がるはずなのに、繋がらない。記憶に至る道が“見えない”。
 道は無くなるはずなど無いと言うのに。
 
 ずきん。頭が痛む。微かな、本当に微かな痛みだ。意識しなければ、それが頭痛だなどと決して分かるはずがないほどに。
 息を吸う音。沈黙が破れた。

「本当はね、それを言いたかったの。」

 ティアナの、よく通る声が彼の耳に届いた。

「私とアンタって今までそんなに話したことなかったでしょ?だから、かな。遠くから見てたから分かるって言うか。」
「何が、だ?」

 返答を返す。会話によって、気が緩んだのか、痛みが消えて行く。同時に先ほど感じた記憶が繋がらない違和感も消失する。

「アンタはちょっと背負いすぎ。訓練でも何でもね。確かにアンタは強いし、事務処理だって無茶苦茶早い。けど、一人で何でもかんでもやろうとしてない?」

 苦笑する。その通りに違いない。強いかどうかは分からないが、誰かの手を借りたいとは思わないから。

「……どうだろうな?」

 だから、そんな返答を返した。けれど、ティアナはそんな彼の言葉を見透かすように、今度は断定してきた。

「嘘。自分でも分かってるはずよ。アンタは自分一人で何でもしようと思ってる。じゃなきゃあんなに訓練なんてしない。」
「……」
「もう少し周りを頼ったらどう?アンタは一人で戦ってる訳じゃないのよ……・って、ごめん、説教臭くなったかも。」
「……いや、確かにティアナの言う通りかもな。」

 言葉は真実だ。シンの思考はティアナの言っていることが間違いなく正しいと認めている。
 誰かを頼る。それはきっと正しい。成功率を上げると言うならそれが一番正しいに違いない。けれど、とシンは思う。

(俺には無理だ。)

 そう。彼には無理だ。
 誰かを頼ることは決して出来ない。誰かを頼れば、彼はきっと後悔する。
 成功したならばいい。問題は無い。
 だが、もし失敗したならば、何で頼もうなんて考えたんだと自分を責める羽目になる。
 故に自分はそんなことをするべき人間ではない、と心のどこかで何かが語り出す。

 ――頼る。
 それは忌避すべき事柄だ。

 ――誰かを信頼する。
 それは恐るべき事柄だ。

 頼れば死なせる。信じれば失う。
 これは彼にとっての常識である。
 そう、自動販売機からジュースを買う為には金が必要となる、と同じくらいの常識である。

 多くの誰かを失い、守れなかった誰かばかりを生み出し続けた彼にとって、誰かに頼ることなどやってはいけないことである。
 彼自身、それが間違っていると思いつつも、直す気などさらさら無い。
 だって、怖いのだ。信じて失うことなどもう嫌なのだ。
 
 だから、彼は頼らない。信頼しない。誰にも背中を預けるつもりは毛頭無い。
 失う怖さに比べたら、自分が死ぬ怖さなど、塵芥に過ぎないからだ。

「そういえばさ」

 その思考を遮るようにして、ティアナの声が僅かな――数秒ほどの沈黙を引き裂いた。

「アンタって次元漂流者だったよね?」
「……ん?ああ、そうだけど。」
「どうして、わざわざ魔導師になろうと思ったの?それ以外の選択肢もあったでしょ?」

 ティアナがした質問はごくごく一般的な質問だ。
 以前も述べた事ではあるが、時限漂流者の全てが魔導師やそれに関係した職に着く訳ではない。
 戸籍と生活保護は、別に時空管理局に協力せずとも受けられる。
 受けられる以上は魔導師とはまるで関係の無い一般人として生きると言う選択肢は存在していなければおかしい。
 例えば、ゲンヤ・ナカジマの先祖は、こことは別の世界――第97管理外世界と言う場所から漂流してきた人間である。
 ゲンヤに魔導師としての資質が無いように彼の先祖にも魔導師としての資質は無かった。そして、そのまま帰化し、一般人として生きた。
 
 むしろ、そういった人間の方が多いはずである。魔導師としての資質を持つ者などそれほど多いはずが無いのだから。特に魔法が発達していない世界においては。
 これは言葉通りの意味の問いである。ただし、その内実は言葉通りではないが。
 ティアナが知りたいのはどうして魔導師になろうと思ったかではない。どうして、魔導師以外の選択を選ばなかったかである。
 それを知れば、少しは彼の内面――度を過ぎた訓練をする理由を知ることが出来るのではないか、と。

「それ以外の選択肢?」
「そうよ。アンタ、別の次元世界からこの世界に来たんだったら、別に無理して魔導師にならなくちゃいけなかった訳じゃないでしょ?」
「……ああ、うん、言われてみれば、そうかもな。」
「何よ、歯切れ悪いわね。あ、もしかして……言いたくないとか?」
「あ、いや、違う。言いたくないとかじゃない。ただ、そういえばそう言うのあったなあって、思っただけだ。」
「は?」
 
 呆けたような声を出すティアナ。シンの返答は正にティアナが聞きたいことの核心である。だが、その返答の内容は彼女の思っていた返答とは少しずれていたから。

「いや、俺って戦災孤児だからさ。生きてくには軍に入るのが一番都合よかったんだ。それで、そのまま軍に入って教育受けて……だから、一般の義務教育も受けて無いし、受けたと言えばその軍隊での教育くらい。他のこと考えたことなかったなあって思ったんだ。そんなの考えたことも無かったから。」

 そう、呟くとコーヒーを啜りながら、スバルがアイスの前で悩む姿を楽しそうに見つめる。
 ティアナはそんなシンにどう返答していいのか分からずに口ごもる。返された返答の中身が自分の思っていた答えよりも重かったからだ。

「……そっか、ごめんね、言いたくないこと聞いたかな?」
「いや、気にしなくてもいいぜ、別に。隠すことでも無いだろ、こんなこと。」
 
 何でも無いことのように彼は呟き、俯くティアナを見て、シンが再び口を開く。

「ティアナはどうなんだ?この道以外の選択肢とか考えなかったのか?」

 ――夢がある。その夢に邁進するために自分はこの道を選んだ。

「……無いわ。叶えたい夢があるから、私はこの道以外行くつもりも無かったし。」

 そう、ティアナ・ランスターには確固とした夢がある。その夢を貫くと決めた時から彼女の前からは他の道など消失した。

「スバルもそうよ。あいつは昔なのはさん――ってアンタは知らないか、とにかくその人に助けられて、この道を志した。」

 同じくスバル・ナカジマも、この場にはいないキャロ・ル・ルシエも。全員が何かしらの切っ掛けを糧としてこの道を選んだ。
 ある意味では彼ら――シンを含んだ全員である――は似たもの同士なのだろう。他に行く道を選ばなかったと言う一点において、だが。
 彼らは皆、何かを置き去りにしてきた者達だ。

 戦災孤児であったシンにはその意味が良く分かる。
 そして、ティアナもシンの内面が手に取るように分かる。
 彼女は戦災孤児ではないが、魔導師になろうと思った理由――戦おうと思った理由にそれほど差は無いからだ。

 シンは家族を失ったことを切っ掛けに軍に入り、ティアナは兄の汚名を晴らす為に魔導師となろうとし、彼らは色々な何かを置き去りにしてきた。
 だから、ティアナはこういった現実――つまりは休日に誰かと遊ぶと言うことを大事にするべきだと考える。
 過去を起点に明日へ向かおうとする彼女にとって、置き去りにしてきたモノとは大事にするべきものだからだ。
 シンも同じだ。ただ彼の場合はまだそんなことを考える余裕が無いから、過去を振り返ることが出来ないだけで。

「だから、あいつは――」

 その言葉を神妙に聞くシン。ティアナはその視線を受け止めると再び続け――ようとして、言葉が止まる。

「……スバル、アンタ一体何個アイス買って来てるのよ!?」

 彼女たちが座るテーブルにはいつの間にかアイスを買い終えたスバルが立っていた。

「……えーと、一つ二つ三つ……たくさんかな?」

 途中で数えるのに飽きたのか、スバルはそこで数えるのを止めるとテーブルの上に所狭しとアイスを置いていく。
 スバルの表情は晴れやかで、直ぐにでもアイスを食べたいと言う欲求が丸分かりだ。
 つまり、数えることなどよりも早くアイスを食べたい。そういうことなのだろう。
 シンはそのテーブルに置かれたアイスの群れを怪訝な視線で見つめる。それほどアイスは嫌いでもないが、それでもこの量は流石にあり得ない。

「……誰がそんなに食べるんだ?」
「私が8つで、シン君とティアが2つずつ。」

 アイスを売っていた屋台に眼を向ける。遠めでよく分からないが、恐らくはアイスの種類は8つ。
 要するに全種類+αを買ってきた。そして、スバルは迷った挙句に、「じゃあ、全部買えばいいんじゃん!」という結論に達したそんなところだろう。

「……どんなバランスなんだ、それ。」
「……言わないで。」

 力無く呟くシンとティアナ。だが、スバルはそんな二人の方が理解できないといわんばかりに不思議な表情で、既にアイスを頬張っていた。

「おいしいよ?」

 確かに彼女の食べるバニラアイスは美味しそうだった。


 その後方、十数mの地点。そこに二人の人間がいた。二人の格好はサングラスとコートを羽織って、口元にはマスクをしている。
 そんな人間が電柱の影や建物の影に隠れ、前方を伺いながら人ゴミや車の陰に隠れながら、三人を尾行している。
 その怪しさはもはや職務質問してくださいと言わんばかりである。
 呟く。その内の一人の人間――女性だ。

「……フェイトさん、仕事しなくていいんですか?」

 口調。声色。ギンガ・ナカジマ。

「そういうギンガこそ。」

 口調。声音。フェイト・T・ハラオウン。

「私はヴァイスさんに色々と頼んできたからいいんです。」

 ギンガ・ナカジマの言葉でフェイトの眉が釣り上がる。
 ギンガはシンを伴って買い物に行ったティアナ達を追いかけるためにヴァイスと取引きを行い、この場にいる。
 取り引きの内容は詮無いこと――今日中に片付けなければいけない書類を肩代わりしてもらう代わりに、彼女は彼女の同僚――6課職員やこれまでの同期の間で合コンをセッティングすると言うものだった。条件付で彼女は取り引きした。条件とは彼女――ギンガは参加しないと言うものだった。
 無論、ヴァイスは了承した。無問題。既にお手つきに近いギンガが来るよりも他の女性が来た方がいいと言う戦略的判断である。

「私はシグナムにたまには仕事してもらおうと思って頼んできたんだ。」

 そう、得意げにギンガに呟くフェイト。綺麗な外見に比べて、言っていることは、かなりえげつない。
 ――その頃、シグナムはフェイトの使っている端末の前で必死に仕事をしていた。

「……私はローマ字打ちは出来ないんだ。いつもかな文字打ちでしかやったことないんだ……!!!」

 そう言って必死に、ポチ、ポチと人差し指でキーを打ち込み続けるシグナム。
 既に涙目で、充血している。アーメン。彼女の行く末に幸があらんことを。
 余談だがこうなることを予期して、八神はやてはシグナムに護衛などの肉体労働ばかりやらせている。
 基本的に彼女に事務仕事は無理なのだ。出来る出来ないの適性ではなく無理。
 なのに、意地を張ってずっとやり続ける。
 仕舞いには涙目で、その後誰か適当な相手を見つけては訓練と言う名のうさ晴らしをしかねない。
 以前、犠牲になったのはザフィーラだった。彼は身体中を埃や泥まみれにして涙目で呟いた。

「……わん。」

 号泣物である。その言葉に込められた数多のフレーズ。それはどれほどの言葉だったのだろう。
 犬語が分かれば彼の思いは少しでも理解できるかもしれない。だが、誰も犬ではないので分からなかった。だって、犬じゃないし。

「……まあ、いいです。そんなことよりも問題は……」

 ギンガは話をそこで切る。どうでもいいと言わんばかりに。

「うん、あれだね。」

 フェイトもそれに同意する。
 残してきたシグナムが本当に仕事できるのかどうか甚だ不安ではあったが、それよりも目前の問題の方がよほど重大である。
 彼女主観の当社比およそ10倍くらいには。

「盲点でした。……まさか、こんな盲点が存在するなんて。」
「うん、猫に手を噛まれるってこれだね。」

 二人は静かに暗躍する。談笑するティアナとシン。そしてアイスを美味しそうに頬張るスバル。
 その時、スバルが何の気なしにシンの頬についていたアイスを手で取り、口に含んだ。
 風が吹いた。嫉妬と言う名の風が。帯電する空気。そして、渦巻く嫉妬の気合。

「……」

 無言のギンガ。目が血走っている。愛すべき妹である。だが、だからと言って譲れるかと言われると、そこは古来からある格言通りの意味である。
 曰く――それはそれ。これはこれ。

「……」

 無言のフェイト。ギリギリと奥歯が噛み締められている。怒りではない。悲しみでもない。ただただ嫉妬である。
 一触即発。今にも破裂しそうな風船の如く、彼女達は鎮座する。道行く人が全て眼を逸らしていることにはまるで気づかなかった。


 ぶるっとスバルは悪寒を感じた。
 刺すような殺気――否、殺気よりもどこか優しい感じのする視線。だが、こちらを圧迫するような視線には変わり無い。

「……?」

 スバルは再びアイスに意識を戻す。何はともあれ、アイスだ。ようやく最後の一個に取りかかれる。ここまでに食べたアイスの数は6つ。
 バニラ。ストロベリー。チョコレート。ラズベリー。ラムレーズン。チョコチップ。
 我ながら結構な量を食べたと思うが仕方が無い。アイスは食べるものだ。溶かすものではない。

「じゃあ、それ食べ終わったらどこか行くか?」
「そうね……お昼にはまだ速いし、少しそこらへん歩く?」

 再び視線の圧迫が強まる。今の言葉が届いた直ぐ後くらいだ。
 スバルはアイスを食べながら、辺りを見回す。見えるものは雑踏。
 そこには別にこの優雅なアイスの一時を邪魔するような存在はいない――ように感じる。
 やはり、自分の気のせいだ。そう思って彼女もアイスを食べ終えて、立ち上がる。
 そして、懐からアイス――チョコミントを取り出す。

「……アンタ、まだ食うのか。」
「これで最後。……歩きながら食べてもいい?」
「ああ、別にかまわな……」
「……スバル、あんたねえ。」

 シンの言葉を遮ってティアナがいつもよりも少し低い声で呟く。

「邪魔になるし、誰かに迷惑かかるかもしれないから駄目よ。待っててあげるから、ここで食べていきなさい。」
「うう……ティア、駄目?」

 縋るようなスバルの瞳。だが、ティアナの視線は冷たい。

「駄目。」
「……分かったよ、ここですぐに食べるから。」

 観念したのか、スバルはアイスのカップの蓋を開く――見えるのは緑と黒のコントラスト。
 うわあ、とスバルの感嘆の声が聞こえた。
 最後まで残しておくあたり本当にチョコミントが好きなのだろう。その後ろに人影。そのままだとぶつかる。そう思ったシンはそれを見て咄嗟に声をかけた。

「あ、スバル、後ろ。」
「へ?」

 間抜けな声。思わず振り向くスバル。当然、その手に持っていたアイスごと旋回することになる。

「きゃあ!?」
「うわ!?」

 驚く声。身体がぶつかったのだ。
 声の数は二つ。一つはスバル。もう一つは自分たち以外の誰か。
 当然、スバルの持っていたアイスもぶつかった。振り向いた表紙に後ろにいた誰かに。

「あ、アイス……」
 
 女性の服の裾にアイスが付着する。スバルのチョコミントは無論地面に落ちている。女性の服の裾がチョコミントに僅かに染まる。

「す、すいません、すいません!!!」

 思わず、平謝りしながら自分のポケットからハンカチを取り出そうと躍起に成るスバル。だが、焦っている為か、上手く出せないでいる。

「あ、別に気にしなくてもいいわよ?こんなの洗えば直ぐに落ちるんだし。」

 そう、笑いながら手を振る女性。本当に気にしていないのだろう。
 シンはその少女を見た。
 別段、注視した訳ではない。ただ、どんな人なのかと気になったくらいのもの――反射行動と言ってもいい。
 けれど、その反射行動はシンの心根を予想外に揺さぶった――否、“脅かした”。
 
 ――背筋に冷や汗が流れた。胸の鼓動が激しくなる。思わず、目前の少女に掴みかかろうとする衝動を必死に抑える。

(……うそ、だろ?)

 言葉は心中でのみ。
 いきなり初対面の女性にそんなことをすれば、単なる暴漢に過ぎない。
 その程度の理性が残る程度には余裕があったのか――それとも動くことすら出来ないほどに動揺していたのか。

 内心の動揺を悟られないようじっと彼女をもう一度見る。
 年齢は凡そ10代後半――恐らくシンよりも年下、に見える。

 女性の髪の色はなびくようにウェーブがかった金髪。
 朗らかで笑顔の似合う顔。全体のスタイルはほっそりとして、けれど女性らしさを強調するように丸みを帯びた身体。
 
 やはり似ている。彼が守ると約束して無様に守れなかった一人の少女――ステラ・ルーシェに。
 瓜二つ、と言う訳ではない。
 まったく同じではない。恐らく――多分。
 確認は出来ない。既にその事柄は2年以上前。
 記憶と言う意味では写真などが存在したマユ・アスカなどより余程曖昧である。
 だが、それでもシンは目前の彼女から目を離せなかった。その声から意識を離すことが出来なかった。

「……どうかした?」
「あ、ああ、気にしないでくれ……ちょっと昔の友達に似てたから」
 
 言いよどむシンをティアナは怪しそうに見つめる――が、直ぐに視線を戻した。
 気にしても仕方ないことだし、シンにだって女友達くらいはいてもおかしくはない。そう思って。

「あ、ほ、本当にすいません、これ、どうぞ!」

 そう言ってようやく懐からハンカチを出すことに成功したスバルが女性に手渡す。

「ありがとう。でも別に気にしなくてもいいわよ?」
「いえ、そんな……」

 言い淀むスバル。律儀で生真面目な彼女はそれでも気にしているのだろう。
 そんなスバルを見て、少女は困ったように首を傾げる。そして、名案でも思いついたように人差し指を立てて、答えた。

「うーん、だったら、コーヒーでもおごってもらえる?それで貸し借り無しってことで。ほら、もう汚れなんて消えちゃったしさ。」

 自分の服の裾部分をスバルに見せ付ける。確かにそこには、アイスの汚れは見えない。

「ね?」

 そう、言葉でもう一度確認。表情は朗らかな笑み。見た目の年齢にそぐわない笑顔。もしかした見た目よりも年上なのかもしれないとシンは思った。

「はい!!」

 その返答に気を良くしたのスバルも同じく笑顔で答えを返す。
 貸し借り無しと言う表現が彼女にとっては嬉しかったのかもしれない。未だ付き合いの浅いシンには本当の所は分からないが。
 走り去るスバル。今度は喫茶店の中に走りこんでいく。その様を子供のおつかいを見るような微笑ましい視線で見つめる少女。
 少女の視線がこちらに移る。

 ――眼と眼が合った。シンの心臓が高鳴る。思わず眼を逸らす。

「……ごめんね、邪魔しちゃった?」

 少しだけ申し訳なさそうに少女は言う。

「あ、いや、そんなことは無いけど。」
「ええ、別に問題は無いですから。」

 そんなことは無いと言わんばかりに手を振って否定するシンとティアナ。
 ティアナにしてみれば、こちらが迷惑をかけたのだから当然と言う思いがあったし、シンにとってはそんなことを気にするどころではなかったから。
 彼女は幼い見た目にそぐわない、大人っぽい柔和な表情で笑い、手を差し出す。

「そっか。じゃあ、ご相伴に預かるね。短い付き合いかもしれないけどよろしくお願い。」

 一拍遅れて、ティアナが差し出された右手に自分の手を重ねる。
 お互いの手が重なったことを見て、少女が言い放つ。

「私の名前はフェスラ。フェスラ・リコルディ。そっちは?」

 ステラと言う名前が出てこなかった。
 それだけで少しほっとするシン。
 
「あ、ティアナ。ティアナ・ランスターって言います。よろしく。」
「そっちの彼は?」

 フェスラがシンに振り向き、右手を差し出す。

「し、シンだ。シン・アスカ。」

 震える右手。それを素直に差し出す。自分でもおかしいと思うくらいに緊張するシン。右手が触れ合う。

「シン・アスカ、ね。よろしくね、シン。」

 その口調は間違いなくステラとは違う。
 ステラはもっと幼いたどたどしい話し方だった。
 その口調はシンの記憶の中にある思い出の中ではステラと言うよりも、ルナマリアに近かった。
 記憶が走る。昔に聞いた言葉。寝物語で語られた言葉。
 
 ――シンって、いつか壊れちゃうんじゃないかって、心配になってさ。
 
 思い出の逆流。それを押し流す。思い出す必要も無ければ思い出す意味も無い記憶。
 スバルの声。快活な声がシンに届く。思い出が霧散する。思わずそちらを振り向く。そこにはスバルが笑顔でコーヒーを手に持っていた。

「コーヒー買ってきました!!」
「あ、ありがとう。えーと、」
「スバル・ナカジマです!!」

 そう言ってスバルは右手に持ったコーヒーをフェスラに差し出す。フェスラはそれを左手で受け取り、彼女の空いた右手に自分の右手を重ねる。
 柔和な笑顔は絶え間なく。スバルもつられて笑っている。

「よろしくね、スバル。私の名前はフェスラ。」
「うん、よろしくお願いしま……」

 そう、返答しようとするスバルの口元にコーヒーを持っていた手を差し出して、言葉を遮った。

「敬語はやめにしましょ? 別にそんなに歳離れてる訳でもなさそうだし。」

 ね?と片目を一瞬閉じてまた開く――ウィンクをするフェスラ。スバルはそんな彼女の芝居がかった仕草を見て、ははっと笑い、言い直した。

「……うん!よろしくね、フェスラ!!」

 言い直した彼女を見て、フェスラは答え返す。もう一度、3人に。

「よろしくね、スバル。ティアナも。それからシンも。」
「うん、よろしく。」
「あ、ああ。」

 いつの間にか、その場には気安い雰囲気――もしくは穏やかな雰囲気と言うべきか――が漂っていた。
 

 いつものシンと違う。
 それが彼女の持った印象だった。
 彼女の知るシン・アスカと言う人間は基本的に他人に興味が無い人間だ。
 どうして、そんな男を好きになったのかと言われると理由は様々だし、今も現在進行形で彼のことは悩みの種だ。
 近づいていいのか、悪いのか。その悩みは恒久的に彼女の中にある。
 
 けれど、彼が妹達と共に出かけると言うことを聞いた瞬間、居ても立ってもいられなくなり、気が付けばヴァイスと取り引きを行い、仕事を抜け出してこの場に来た。
 とりあえず、自分が誰かは分からないように、着たこともないトレンチコートとサングラスをかけてみた。
 何か探偵にでも成った気分だった。
 ともあれ、その結果として彼女はこの場でシン達を追跡することに成功している。
 予想外だったのは彼を好きなもう一人の女性も同じように考えて行動していたことだった。
 
 その女性――フェイト・T・ハラオウンは彼女と同じように双眼鏡で彼の方を覗いている。
 二人ともやっていることは犯罪みたいなものだ。殆どスレスレである。
 いつものシンと違う。それはスバルがある女性にアイスをかけたことから始まった。その在る女性との対応。それが、シンだとは思えないような反応だったからだ。
 
 初々しく、可愛い歳相応の少年のような反応。
 傍から見ているギンガは何度可愛いと生唾を飲み込んだことか分からない。フェイトなどは時折うふふと何事か呟いていた。
 
 だが、ギンガはそこで冷静になる。
 考えてみればこれは非常に拙い。危機感を感じる。何が拙いかなどは単純明白。
 シンはあの女性に対して、いつもとは違う反応をしている。それはつまり、意識していると言うことだ。
 意識している。気になっている。女性として、であるに決まっている。
 
「……どうしよう。どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう……」
 その考えに思い至り、ギンガは双眼鏡を覗きながらブツブツと小さく呟き始める。
 瞬間、フェスラがシンにいきなり近づいた。肩をくっつける。赤面するシン。

「――ぶっ飛ばすわよ」

 本音が出た。周りが自分をぎょっとした視線で見ていることに気づく。
 咄嗟に笑顔を作り、「す、すいません。市民の安全意識を調査しているので」と誤魔化す。
 周囲の人間は「ははは」と苦笑しながら彼女を避けるようにして、歩いていった。
 誤魔化せたようだとギンガは結論付けると再び索敵に没頭する――実際は誤魔化したのではなく関わりあいに成りたくないというのが市民の本音である。
 横を見れば、フェイトも同じような状況だったらしい。
 大破した双眼鏡が彼女の足元に転がっていたからだ。
 我慢できずに壊してしまったのだろう。
 ちなみにギンガが使っているのは2台目の双眼鏡だった。1台目は既に握りつぶしてしまった。
 
 気を取り直して、双眼鏡を覗く。
 周りのスバルやティアナはニヤニヤと笑いながら事の推移を見守って居るようだ。楽しんでいるのかもしれない。

「……止めなさいよ、スバル。」

 毒づく。だが、その言葉が届くはずも無い。止めるならば何とかしてあの輪の中に入り込む以外に無い。だが、どうやって?
 
 方法その1。いきなり登場。「はーい、あなたのギンガでーす!!ちょっと気になったから付いて来ました!!もう、私を置いていくなんて酷いぞ、シン♪」

(死んじゃえ、私♪)
 
 思いついた瞬間破棄決定。頭を抱え込んで振り回す。
 やばい。何がやばいかって、どこからがやばいのか分からないのがやばい。
 多分何もかもがやばい。ありえない。ありえない。大体、貴方のギンガと言うフレーズは流石に言いすぎだ。
 もしかしたら彼には本当にこんなことを言うような女性――ルナと言う名の女性だ――がいたのかもしれないんだから。
 
 そのことを思い出して気分が沈む。

(……今はとりあえず、それは考えないでおこう。)

 思考を振り切る。考えを続ける。
 方法その2。しれっとした顔で混ざる。「あ、シン。貴方も今日非番だったんですか?」

(……うわあ、寒い。むちゃくちゃ寒い。)

 心中の言葉通り、無理がある。
 例えるなら、三十路の人妻が制服を着て、女子高生ですと言うくらいに無理が在る――いや、もしかしたら世の中にはそんな奇天烈な女性の一人や二人はいるかもしれないが。
 どちらにせよ、無理がある。ギンガは思案する。どうするか、と。
 ふと、隣に居るはずのフェイトを見る。恐らく彼女も悩んでいることだろう。

「……あれ?」

 いない。いつの間にか、彼女の姿がそこに無かった。

(諦めて帰ったのかしら……)

 そして、何の気無しに前を見た。
 そこに、見つけた。ここよりもはるかに前方。
 シン達の座るテーブルからおよそ数mの場所――つまり喫茶店のテラス部分のテーブルにいつの間にか座っているフェイトを。
 新聞紙を顔の前に出しながら彼らとの間に壁を作り顔を見えないようにする――ご丁寧に新聞紙には僅かな穴が空いている。そこから覗いているのだろう。

(ちょっと待てえええええ!!!!!!)

 怒鳴るギンガ。無論、口には出さない。
 口はパクパクと地上に水揚げされた魚のように動くだけ。
 一瞬でフェイトの辿った思考を予測・構築・確定するギンガ。シューティングアーツの恩恵である。
 導き出した答えは一つ。彼女はギンガが鼻で笑ったと言うか「寒い」と形容した方法その2を採用したのだ。

(……ば、馬鹿じゃないの、あの人!?)

 思わず、敬語も何もかも忘れるギンガ。
 無論、馬鹿である。怪しいを通り越したその姿は、今か今かと通報されるのを待っているようにすら思える。殆どマゾヒストだ。捕まりたいのだろうか。

『あのフェイト・T・ハラオウンの大追跡!!彼女が補導された経緯――そこにはとらいあんぐるハートが潜んでいた!!』
「……うわあ。」

 思わず、溜め息。ギンガは明日の見出しのトップがこんなことになったら嫌だなと本気で思った。
 そのまましばし様子見。だが、一向に通報や補導されるような気配は無い。あれほど怪しいにも関わらずだ。

(……そうか。)

 ギンガは気づく。
 つまり、あれほど怪しければ皆、目を逸らす。
 関わり合いになりたくないからだ。当然だ。
 仮に自分があの場に居てもきっと眼を逸らすに違いない。その確信があった。
 
 故に、だからこそ彼女は恐らくあの場で監視を続けられる。関わり合いに成りたくないから誰も通報しないのだ。
 木を隠すには森の中。灯台下暗し。
 つまり、監視するなら至近距離。
 まさか、そんな距離で追跡しているなど夢にも思わないだろう。
 あの怪しさはいわばカモフラージュとなっているのだ。
 
 だが、あそこにいるフェイトはそんなことは何も考えて居ないだろう。
 ただ、我慢なら無かったのだろう。あの場でおいそれと見ているだけと言う状況に。
 遠目では完全には分からないが、フェイトの瞳の色は紛れも無く本気だ。
 本気でこんな馬鹿丸出しで破れかぶれなことをしているのだ。
 何せ乙女は猪突猛進。なりふり構ってなんていられないのだ。
 なりふり構っている余裕――そんなものは自分にだって存在していない。

「……そうですよね。なりふり構ってなんていられないんですよね。」

 呟き。ごくり。唾を飲み込むギンガ。
 双眼鏡をトレンチコートに仕舞い込む。
 サングラスをしっかりと目が隠れるような位置にまで上げる。トレンチコートをしっかりと着る。
 瞳に写る色。決意。覚悟。
 足を踏み出す。踏み越える。胸にはルナと言う見も知らぬ誰かへの恐れが渦巻く。踏み出していいのかと言う恐れが渦巻く。
 それが正しいのかどうか。そんなものは分からない。
 だが、今は衝動に身を任せようと思った。そうでなければ、ここでただ諦めていくだけだ。
 悔しげにここで眺めて、地面を涙で濡らすだけに過ぎない。だから、とりあえず踏み出すことにしよう。ギンガはそう思って足を踏み出した。
 
 ――数分後、喫茶店には怪しい人間が一人増えていた。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 23.襲撃と休日と(e)
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/29 17:56
「シンっていつも何してるの?」

 肩が近づく。赤面するシン。同じく赤面しているフェスラ。恋愛にそれなりに慣れているという印象を受ける。その癖それが嫌味に写らないのは彼女の態度がそうさせるのだろうか。

「え?あ、いや、勉強とか事務とか……」

 いつもとまるで違う雰囲気。シンの言葉がたどたどしい。いつものようなふてぶてしさが無い。いつもならば、淡々と言うと言うのに。
 スバルとティアナはそれを見ながら笑いをかみ堪えていた。。
 どうやら目前の少女――フェスラはシンのことを気に言ったらしい。それも異性として。
 再三繰り返されるアプローチをシンは必死に避けている。時折、ティアナとスバルに目で合図を送るも、二人はニヤニヤしながらそれを放っておいた。
 6課内においてあれほど露骨なアプローチ――ギンガとフェイトからのアプローチを受けていながら、それに気づくこともない最高の朴念仁がこれほどまでに慌てている。
 それどころか意識しまくっているその姿があまりにも新鮮で面白いからだ。

 別にギンガとフェイトの恋路を邪魔する気などはさらさら無い。
 だが、逆にそれを手伝おうと言う気も無い。不干渉。二人のスタンスはそれだ。

「だから、仕事じゃなくて普段のことよ!遊びにとか行かないの?」
「いや、俺は……」
「アンタ、仕事馬鹿だもんねえ。」

 にやりと笑いながら追加で注文したアイスコーヒーを啜るティアナ。

「あはは、シン君って放っておくといつまでも仕事してるしね。」

 こちらは追加注文したクリームソーダのアイスを崩しながら頬張るスバル。愛していると言う言葉通りに確かにアイス以外には目もくれない。ソーダは調味料とのこと。
 機動6課。管理局内部でも異端とも言える部隊。そこには当然守秘義務と言うモノが存在する。
 現在、彼らは会社の同僚で、今日は3人ともが非番なので遊びに来たというものだった。無論その会社名もダミー会社の物である。
 その過程で聞いた事。フェスラはこの近辺で働いているフリーター。親元を離れて上京してきたこと。魔法は使えない。

 無論、あちらの世界――シンの生まれた世界とは何の関係も無い人間だ。ステラに似ているのは偶然と思うしかなかった。
 そして、現在シンの胸にはもう一つの驚愕があった――その驚愕があるが故に彼はしどろもどろにならざるを得なかった。
 
 似ているのだ。その雰囲気。話し方。口調。その他様々な動作や所作に至るまで、その全てがシンの記憶の中のある女性に。
 ルナマリア・ホーク。一時シンと互いに溺れあった女性。忘れたい傷跡。忘れられない傷跡。
 
 偶然だ。それこそ、よくある話だ。だが、そう思っても彼女の動作の一つ一つがシンの傷に触れる。
 その言葉や動作の全てが、彼女を思い出させるのだ。
 未練は無い。あれば2年間の間、一度くらいは連絡を取ろうとしたはずだ。少なくとも思い出を振り返ったりはするはずだ。
 だが、自分は一度もそんなことをしなかった。思い出を振り返ることなど忘れていた。
 
 それゆえにフェスラ・リコルディ――彼女は厄介な人物だった。ルナマリアのような仕草。ステラのような見た目。
 それはシンにとっては苦い記憶を詰めた火薬箱。
 何も考えることが無く、ソレゆえに波打つ事の無い平面だった彼の心象を乱す暴風そのもの。

「ん?どうしたの、シン?」
「あ、いや、何でもない。」

 思わずどきっとする。
 その仕草に。彼女がいつもしていたように髪をかきあげる仕草。それが彼女をどうしても想起させる。今更の話だ。
 思い出したところでどうにもならない。どうにもしようと思わない。
 だが、波打つ心は収まる様子を見せない。
 
 守れなかった少女と守るべきだった少女に近似した女性。
 そこに恋愛感情は無い。会ってまだ数時間も経っていない。そんな感情を持つほどシン・アスカの心は潤っていない。
 
 今、彼の心に渦巻く感情は罪悪感と後悔の二つ。即ち守れなかった後悔と守らなかった罪悪感。
 周囲の皆は勘違いしているが、シンの心に在るのは周りが思っているような明るい気持ちではない。
 ただただ申し訳無さだけがそこにある。上手く話せないのは当たり前だ。彼にとっての罪の象徴と罰の象徴の二人がそこにいる。
 正視できる訳が無い。出来るなら、今すぐにでも土下座して、謝りたい気分だ。
 そして、そんな憂いの表情を見つめる二つの視線があった。超至近距離。気づかれないのが不思議なほどの超至近距離である。

 ――ギンガ・ナカジマ。往年の刑事のようにコーヒーを啜りながらシンのその様子を見つめる。
 ――フェイト・T・ハラオウン。優雅に上品にケーキを食べながらシンのその様子を見つめる。
 
 服装はトレンチコート。サングラス。そして、大仰に広げられた新聞紙――穴の空いた。
 怪しさ抜群。捕まえてください。そういった風体である。
 けれど、シン達は今もソレに気づいていない。
 気づかないのは道理だ。
 彼女達はシン達がそちらを見た瞬間は必ず新聞紙で顔を隠すことを徹底しているからだ。
 どんなに怪しいとしてもそこまで徹底するなら誰も気に止めない。
 無論、これは彼女達の卓越した戦闘技術があるからこそ、である。
 
 シンの動きの一挙手一投足から目を離さず、その動きに合わせて行動するギンガ。
 つまり、シンが彼女達に近づく一瞬前には彼女はそこにいない。既にトイレや売店に移動しているのだ。それもごく自然に。
 
 同じくシンの動きに合わせて行動するフェイト。こちらはシンが動いてからの行動になる。
 だが、シンが彼女の方を見れば既にそこにはいない。何故なら高速行動――ブリッツアクションによって視界外へ移動しているからだ。

 ――そんな技術を使ってまで、追跡しようとするならもう少し見た目を気にするべきではないのか、という気もするが、さもありなん。猪突猛進する人間がそんなことを気にするはずが無い。
「赤くなっちゃって。もしかして、照れてるの?」


 フェスラが再びシンに近づく。シンの頬が赤面する。膨れ上がる嫉妬の炎。帯電する空気。吹き荒れる疾風。

「へ?あ、ち、違う。そういうのじゃ……」

 思わず後ずさるシン。それを追いかけるようにしてフェスラがシンに近づいていく。
 押しとどめようと彼女の肩を両手でシンは押しながら呟く。

「い、いや、フェスラさん、アンタ、何する気なんだ!?」
「シンをからかってるの♪」

 満面の笑みでそう朗らかに話すフェスラ。
 完全な開き直り。フェスラは嫌がるシンなど意に介さずにそのまま近づく。
 ティアナ達はニヤニヤしながらそれを眺めている。物珍しそうに。シンがこんな風にうろたえるのは本当に珍しいからだ。

「そ、そんなことを開き直るな!!ティアナ、スバル!!見てないで何とかしてくれ!!」

 殆ど泣きそうな声でシンは二人に助けを求める。元々こういった女性に迫られると言う状況が大の苦手なのだ。

「諦めなさい。今日はそういう日なのよ。」

 しれっと新しい玩具を見つけたような子供のような顔でティアナは応えた。

「あ、あははは……」 

 苦笑するスバル。だが、その顔はティアナと同じような顔。つまりスバルも現状のシンのうろたえ具合を楽しんでいるのだ。

「いや、だから止めろよ、二人とも!!鬼かお前らは!!」

 そんなシンの叫びを意に介さず、スバルとティアナの二人は「ねえ?」「うん!」とアイコンタクト。
 まだまだ、遊び倒すまではシンをフェスラから助ける気はさらさら無いらしい。

(こいつら、最悪だ!!)

 シンが心中で叫ぶ。それを表に出せば余計酷いことになると言う確信があったので口には出さない。
 そんなやり取りの中、フェスラが不満げに呟く。

「シンって酷いわね、こんなに可愛い子がなけなしの勇気出して迫ってるって言うのに。」
「自分で言うな!!ていうか、何で迫る必要があるんだよ!?そんななけなしの勇気はいらないから!有効利用の方法違うから!!」
「いいじゃない、面白そうだし。さ、それじゃ観念しなさいね、シン?」
(アホかああああ!!!)

 心の内でのみ絶叫。素面でこれと言うなら酔っ払いよりも余程性質が悪い。
 シンとてフェスラのこの態度が冗談だとは分かっている。出会ってまだ間もないのにこんなことをするようなことは無い。
 単純にノリのいい女性なのだろう。だから、本当なら無視すればよかったのだ。
 そうすれば飽きた彼女はいつしかこの場を去っていったに違いない。
 
 だが、思いの外シンは反応してしまった。いつもなら決して反応せずに無視するか、既にこの場を去っているであろうに。
 何故か?簡単なことだ。前述したフェスラ・リコルディへ抱く罪悪感と後悔がシンをこの場に留めているのだ。
 精神的にフェスラに対してシンは下手に出てしまう。
 彼女にとっては全く関係の無いシン自身が彼女に勝手に抱いてしまう負い目。
 よってフェスラがどう思っていようと彼女の言うことに対してはよほどおかしなこと――命がかかっているという状況ででも無い限り、イエスとシンは答えるだろう。
 故にこんな滅茶苦茶にからかわれてもシンは助けを求める以外に何もしないのだ。負い目が拒絶に手を掛けさせないのだ。

「じゃ、次は……って、誰?」

 訝しげなフェスラの言葉。その視線の先を追いかけて、シンもそちらに振り向く。同じくティアナとスバルも。

「……古来より女性は奥ゆかしさや慎みというものを念頭に男性を踏破してきました。」

 声が聞こえる。よく慣れ親しんだ声。
 服装はまるで似合っていないトレンチコートと右手に持った新聞紙。
 小さな顔に不釣合いなほどに大きいサングラスが顔を隠す。特徴と言えばその長い髪。青く長い髪。
 怪しいなどと言うものではない。今時、こんな格好など探偵でもする事はないだろう。

「ヤマトナデシコという言葉が現れるほどそれは顕著なものです。つまり、奥ゆかしさや慎みというものは色気と同一だと言うことです。それが何ですか、その姿は?」

 びしっとフェスラに向かって人差し指を向ける。その先に在るフェスラの姿。上半身はキャミソール。下半身は丈の短いひらひらしたスカート。肌は露に――露出度高めである。

「人前でそんなハレンチなことをするとか少しは考えなさい!!女性ならもう少しは慎みというか恥じらいと言うかそう言うものを持って、男性に接する。これが基本でしょう!!」

 そして、いつの間にかその隣に腕を組みながら「うんうん」と頷きながら立つもう一人の人物。
 先ほどの人物と同じような格好。違うと言えばトレンチコートを押し上げるミサイルのように突き出した胸と輝く長い金髪。

 ティアナの唇が釣りあがる。苦笑しようとして出来なかった。
 予想外と言うか、まさかやりはしないだろうと思ったことをやりやがった二人を見て。
 スバルも同じく、苦笑。ただ、こちらはティアナほどのショックを受けてはいない。
 もしかしたらと思っていたのだ――まさか、本当にするとは思わなかったが。
 フェスラは何が何だか分かっていない。然りだ。
 直ぐに顔を赤くする純朴な青年をからかっていたら、突然現れた変質者みたいな二人組みに説教されているのだ。理解するほうが難しい。
 そして、シン。彼は呆然としていた。二人の口から紡がれた言葉。その声がどう考えても彼の知る声にしか聞こえなかったからだ。

「……ギンガさんとフェイトさん?」

 その一言に彼の目前に佇む二人が一斉に後ずさる。

「ち、違います!私はそんなギンガなんていう女性では……」
「わ、私もそんなフェイトなんていう人じゃないんだけど……」
「ていっ」

 シンの両手が伸びる。不意打ち。二人のサングラスが取り外される。
 露になる素顔。ギンガ・ナカジマ。フェイト・T・ハラオウン。

「……どっからどう見てもギンガさんとフェイトさんじゃないですか。」

 シンの瞳が細まる。口が開き、頬が引きつる。怒っている、と言うよりも呆れている顔。

「……あんたら、一体何してるんだ」

 その瞳の前で俯く二人。流石に仕事中に来ていることがばれたので後ろめたいのだろう。

「……二人とも仕事は?」

 ティアナの声。少し震えている。恐らく二人のやっていることの馬鹿さ加減に堪忍袋の緒が切れそうになっているのかもしれない。

「ギン姉……もしかして」

 スバルの呟き。その言葉に被せるようにして、二人が同時に言葉を話す。

「え、あーいや、私は別に……ヴァ、ヴァイスさんが仕事代わってくれるって言ったので。」
「わ、私はシグナムがたまには仕事させてくれって懇願されて仕方なくここに……」

 胡散臭い。あまりにも胡散臭い言葉だった。


「……それで何でここに来たんですか?」

 ジト目で二人を見つめるシン。その視線は睨み付けると言うほどに険しくもないが。

「そ、それは……」

 言いよどむギンガ。
 正直に話せば、恐らくシンの視線は今よりもはるかに険しくなる事は間違いない。
 それに大切なイベント、と言うか想いの告白無しには正直に言うことも出来ない。
 周囲にはシンとティアナとスバルとフェイト。
 そして見たことも無い女性――しかも、美人でその上、シンは彼女を非常に意識している。

 何しに此処に来たか。その理由。そんなもの言えるはずも無い。意識するシンを見てたら、どうしようもなくなってこの場に現れました、などと。

 シンの朱い瞳がこちらを貫く。
 その視線を受けて、ギンガが萎縮する。隣を見ればフェイトも同じように萎縮している。
 言えない。シンに気持ちを知られたくない――今はまだ。その気持ちが二人の共通事項。

「え、えっと……」

 それでも何か言わなければならない。ギンガが口を開く――瞬間、それを遮るようにして、フェイトが口を開いた。

「ふ、不純異性交遊してないか確かめに来たの!」

 びしっとシンとフェスラに人差し指を突きつける。ギンガの目が輝く。「それがあったか!」とでも言いたげな輝き。

「そう、それ!」

 その言葉に便乗するギンガ。

「そ、それで来てみたらこんなことになってたんです!」
「だから、思わず止めに入ったんだよ!?」

 流れるような二人の弁明。身振り手振りを使って大仰に弁明するその姿。
 もう、どこから突っ込んでいいのか分からない。
 恐らくはその見た目に始まり殆ど全てに対してツッコミを入れるべきなのだろうが。
 だが、シンはツッコむことなく、一つ溜め息。

「……まあ、いいですけど。」

 正直なところ、内心、シンは安堵していた。
 あのままフェスラに迫られたり、からかわれ続けていれば、正直なところ自分を保てたかどうかは分からないからだ。
 保てた、と言うのは別に性欲を持て余したと言う意味ではない。
 単純な話、あのままいたら、自分の中の罪悪感に耐え切れずに土下座して、謝っていただろうからだ。
 そのことに内心でほっと息を吐く。
 
 その時、不意に、左腕に暖かな膨らみ――柔らかかった――を感じる。思わずそちらを振り向く。
 そこにはステラに似た少女――フェスラ・リコルディがシンの腕を抱き締めるようにして佇んでいた。

「フェ、フェスラ!?」

 驚くシンを無視して、フェスラはそのままギンガとフェイトに顔を向けると言い放つ。挑発的に。

「ねえ、ギンガさんとフェイトさん、だっけ?」
「……はい?」
「……なに?」

 剣呑な眼光を隠そうともしない二人。標的からの言葉。剣呑となるには十分だ。

「貴女たち二人って……シンの恋人?」

 放たれた言葉は矢の如く。二人に突き刺さる。ついでにシンにも突き刺さる。
 彼にとっては寝耳に水の事柄だ――少なくともそう思っている事柄だ。

「は!?あ、アンタ、何馬鹿なこと言ってるんだ!?」
「シンは黙ってて。」
「く……」

 睨み付けられ、押し黙るシン。基本的に女の言うことには弱い。特に彼女のようにシンの傷口をつつきまわすような女性には。

「どうなの?」
「……ち、違いますけど。」
「……うん、違うね。」

 フェスラの視線から眼を逸らす二人。本心では、肯定したいがシンやティアナ、スバルの手前それを言い出せないでいる。

「じゃあ、シンってフリーなんだよね?」

 その言葉を聞いてフェスラがニッコリと笑い、シンに向かって口を開いた。

「あのな、フリーとかフリーじゃないとかじゃなくてだな!!俺は別にそういうのには興味が……」
「ゲイじゃないんでしょ?」

 ありえない質問。

「当然だ!!」

 一拍も置くことなく否定するシン。そのやり取りでフェスラはニヤリと唇を吊り上げ、微笑みを邪悪なものへと変化させる。

「じゃ、チャンスありって思ってもいいのかな?」
「チャ、チャンス!?」

 うろたえるシン。赤面する頬。
 それを確認して、フェスラはチラリと視線を横にやる。視線の先にはギンガとフェイト。二人の乙女。
 挑発的なフェスラの視線。
 ギンガとフェイトの瞳が、フェスラを射抜く様に鋭くなる。瞳に炎が燃え上がる。嫉妬と言う名の炎が。

「……へえ。」
「ふうん……。」
「別にからかうだけのつもりだったけど、シンって思ったより可愛いしね♪」

 ギシリ。帯電し、硬直し、固まり、停滞していく空気。比喩でも誇張でもなく、空気が痛い。
 皮膚に静電気が走ったような錯覚――恐らく錯覚ではないだろうが。肌が粟立つ。背筋を走る怖気すら伴う恐怖。

(や、やばい)

 心中での呟き。自分が落とし穴に落ちたのだと言う感覚を覚える。
 ティアナ・ランスターはこの場に至ってようやく理解した。
 自分が踏み出した場所。そこは文字通り虎穴。つまり、危険区域そのものだと言う事を。
 彼女とて機動6課の一員である。
 潜り抜けた修羅場の数と質は他の魔導師に比べてはるかに多い。潜り抜けた修羅場は戦闘経験として彼女の中に蓄積されている。
 その戦闘経験が呟く。これは危険だ、と。

 ギンガとフェイトの織り成す危険な空気。
 触れれば消し飛ぶと言われても信じてしまいそうなその嫉妬。
 触れずともその嫉妬だけで眼前の敵――この場合はフェスラ――を吹き飛ばせるのではないのかと勘違いしてしまいそうなほどに。

 空気が帯電する。空気が疾風する。ギンガの青い瞳。フェイトの赤い瞳。そしてフェスラの赤紫の瞳。三つの瞳が交錯する。
 その中心でシンだけがフェスラの態度にうろたえながらも、気を取り直すようにコーヒーを飲んでいる。
 ギンガとフェイトのことは気にしていないようだった。
 凄まじい朴念仁――殆ど異常だ。
 いわんや、その朴念仁があればこそ彼はこの場の空気に耐えれているのかもしれない。
 ヴァイスが言った言葉。「羨ましいに決まってんだろ!」。馬鹿な話だ。羨ましい。
 その言葉は知らないからこそ言えるのだ。知っていれば、この空気を一度でも味わったことがあるなら羨ましいなどと言えるはずがない。
 少なくとも自分はあんな状況になりたくはない。
 猛獣。それが彼女達二人を形容する最も適当な言葉だった。
 そして、その隣でスバルも同じように現状を捉えていた。
 つまりは虎穴にいることを。しかも別に彼女達は虎子――この場合はシンである――が欲しいと言う訳でも無い。
 要するにハイリスクノーリターンである。
 
 危機感を感じる。このまま、ここにいれば、とんでもないことになってしまうのではないのか、と。
 いや、連れ出した時点で既にそれは確定かもしれない。猛獣を檻から解き放ったのは他でもない自分たちだからだ。
 そしてどうするべきか、と二人が思い悩んでいた時――ちなみに二人が考えていたのはこの場からの脱出方法である。
 互いのデバイスを用いて、とりあえず連絡付きそうな人に片っ端から連絡。
 そして、さも連絡が入ったように通話して、この場から退却する。
 高速で方々に通信を繰り返し続けるマッハキャリバーとクロスミラージュ。
 多くの金と時間をかけて作られた最新型AIである彼らもまさかこんな使い方をされるとは思わなかっただろう――声がした。

「言ったはずですよね?不純異性交遊は駄目だと。」

 先手。ギンガ・ナカジマの一言。傍らでフェイトも同じくうんうんと頷いている。
 シンは相変わらず「ま、まあまあ」と愛想笑いを浮かべながらコーヒーを飲んでいた。その表情を見るに、どうして彼女達が険悪になっているのか理解出来ていない。

「……そんなのシンと私の勝手でしょ?ねえ、シン?」

 後手。フェスラの言い分。彼女の瞳が妖しく揺れる。その瞳に見つめられるとシンは何も言えない。罪悪感が彼女の肯定に手を貸す。

「あ、いや……まあ、確かに勝手……」
「へえ。」
「ふうん。」

 言葉と共にギロリ、と血走った青と赤の瞳が射抜く。
 瞬間、肌が粟立った。本能が警告する。それは死亡フラグだと。決して選んではならない選択肢だと。

「……じゃないですよね?あ、あはははは」

 肯定を言い放つ寸前で否定に変更。愛想笑いで誤魔化しに入る。幸運好色(ラッキースケベ)の称号は伊達ではない。
 シン自身どうしてそこで変更したのかは分からないが、変更しなければきっとロクな目に合わない。
 そう、理性ではなく本能が察知していた。

(……な、何で今日に限ってこんなに二人ともブチ切れてるんだ?)

 シンにはその理由が本当に分からない。何故なら彼にとって彼女達が自分に好意――それも異性への好意を持っていると言う事柄が理解の外側にあるからだ。
 
 シン・アスカ。彼は朴念仁である。そして大抵の朴念仁がそうであるように彼も自分が異性の興味を引くような人間ではないと思っている。
 
 ――そして、彼の場合は、もう少し状況が“おかしい”。
 
 いつもやっていることと言えば訓練ばかり。
 13の時に家族を失ってからやってきたことと言えば軍での訓練や教習や座学、そして数え切れないほどの実戦。
 それはこの世界にやってきてからも殆ど変わりはしない。
 故に同年代の同性が行うようなコトなど知識として知ってはいても殆ど知らないに等しい。
 客観的に見てこれほど偏った人間もそうはいない。
 面白みの無さにかけては折り紙つきだ。少なくとも自分ではそう確信している。
 だから、自ずから自分に関わってくる機動6課のメンバーは物好きでお人好しで気のいい奴らだと、考えていた。
 その中でも特に自分のことを気にかけてくれて関わろうとしてくれるギンガやフェイトに対しては感謝の念すら抱いていた。

 そして、もう一つ。彼の頭には恋愛などと言う概念は存在しない。
 寝ても覚めても戦うことばかり考えているような、世間一般の概念に照らし合わせれば、最悪最低の駄目人間である。
 恋だの愛だのは全て過ぎ去った幻でしかない。
 ――つまりは、彼も恋愛下手、或いは恋愛初心者なのだ。
 初心者は初心者であるが故に何も知らない。そして気付くこともない。
 仮に想われていると感付いたとしても――初心者はそれを“あり得ない”と一蹴する。
 そんなことあり得るはずが無い、と。
 誰もが陥る、朴念仁の袋小路に彼もまた陥っているのだ。世の大多数の男性と同じく。
 
 “だから”その理由が分からない。どうしてギンガとフェイトがブチ切れているのか。
 彼女達がどうしてここに来たのか。
 自分に向けられた好意に対して鈍感どころか無感なのだ。分かる訳が無い。分かるはずが無い。

「ほら、シンも嫌がってるじゃないですか。ねえ?」
「うん……嫌がってるよね。」

 誰もそんなことは言ってない。凄まじい自己解釈である。

「へえ……そうなんだ?そうなの、シン?」

 フェスラの問い。シンに向かって顔を向ける。

「あ、い、いや……」

 言い淀み、うろたえるシン。いつものような無関心はそこにはどこにもなかった。そこにいたのは女性に迫られうろたえる年相応の年齢の反応。
 ティアナは3人の様子に怯えながら彼のそんな様子をつぶさに観察していた。
 いつも自分が見ていたイメージとは違うシン・アスカを。

(……こいつ、本当はこんな奴なんだ。)

 心中で呟く。言葉の通りだ。ティアナにとってシンとはどこか危うい劇物だった。その上6課内に嵐を巻き込んだ張本人。
 無愛想で無関心。他人にはあまり関わりたくない――と言うよりも線を引く人間だと。
 だが、その内面は何の事はない。
 年相応、もしかしたら実際の年齢よりも幼く見えるような人間だった。
 実際、今眼前にいるシンはティアナと同年齢くらいに見える。とても彼女やギンガよりも年上とは思えない。単純な話、不器用な人間なのだ。
 そして、不器用だからこそ無茶をする。
 視野狭窄に陥って。ギンガやフェイトの思いに気づかないのも無理はない。彼には周りなど見えていないのだから。
 ティアナが今回、彼を連れ出したのは孤立しがちな彼を孤立させない為だった。
 何よりもギンガやフェイトと言う二人とだけ親密な関係を作ってしまっている彼の歪な人間関係を正したかったからだ。
 だが、そんな必要は無い。彼は別にギンガやフェイトと親密な関係など作ってはいない。
 今の彼の態度を見れば分かる。
 恐らく、そんな二股をするような甲斐性など彼には一切存在しない。
 恐らく、誰かを振ることですら彼には無理だろう。女性にからかわれたくらいであそこまでうろたえるのだ。
 ギンガとフェイトの二人の思いに気づけばあんな態度を取れるはずが無い。
 単なる朴念仁なのだ。そういった人間の人間関係を是正する方法――そんなもの一つしかない。
 こちらから関わるコト。気にかけるコト。それだけだ。
 今はギンガとフェイトが関わっている。別に彼女達と同じように関わらずとも、友達として接すればそれでいい。
 彼はそういった人間の言葉を無碍には扱わないだろうし、そういった立場からなら彼のオーバーワークを止める――ことは出来ないにしても軽減することは確実に可能だ。
 
 そうして、ティアナはこれからの自分の立ち位置を考えると、溜め息を吐きながら苦笑し――そして、現状を思い出し、顔を青くした。
 視線を上げる。互いに交差し、睨み付ける視線。帯電したままの空気。爆ぜる嫉妬の炎。
 その最中でうろたえたままのシン。スバルは現実逃避に入ったのか、アイスをモリモリと食っている。

(……どうしよう。)

 どうするもこうするも無い。
 先ほどから行っている通信は全て失敗。
 当然と言えば当然だ。今は誰もが勤務時間。
 別の課からの同期からの通信に暢気に応対出切るほど楽な仕事ではないのだ、皆。逃避の方法はこれで終わりだ。
 思考を切り替える。
 ならば、どうする。妥協案。逃げる方法が見つからないなら、せめて場所を変えて空気くらいは変えたい。
 そして、再度逃げたい。いや、ホントに。マジで怖いんです。

(シンは当てにならない、スバルはアイス食べてる、ギンガさんとフェイトさんは触れてはいけない、フェスラは……何をしてくるかがまるで読めない。……ああ、本当にどうしよう?)
 
 折角の休日にどうしてこんな目に遭うのだろうか。
 そうして、ティアナが諦観の境地に至りそうになった時――ぐぅっと音がした。
 皆が言葉を終えて周囲を見る。
 赤面するギンガ。ギンガのお腹が鳴ったのだ――つまり、それは空腹。
 考えてみればシンとティアナとスバルは朝食を終えて直ぐに来た。
 ギンガとフェイトは何事か言い争っていたはず――その間に連れ出してきたのだから。
 その間、二人がシンを探していたのだとしたら、彼女たちは朝から何も食べていないと言うことになる。

 罰が悪そうに赤面するギンガ。それを見て、ティアナの背筋に電流が走る。
 閃きという名のその電流は彼女の口を淀みなく動かし始める。この状況からの脱出の方策――は無理ではあるが、変革の方策を。

「……ねえ、皆お腹空かない?」

 一つ目の言葉。その言葉に皆がギンガに向けていた視線をティアナに向ける。

「へ?」
「は?」

 唐突なティアナの言葉に驚くフェイトとフェスラ。

「あ、い、いや、私は別に……」

 ギンガはティアナの言葉に反抗するように問題ないと言う。その時お腹が再度鳴る。赤面が加速する。

「……ギン姉、説得力無いよ。」

 溜息一つ。呆れたように呟くスバル。

「……言われてみれば、もうそんな時間か。」

 今自分達がいる喫茶店の近くの電光掲示板に示されている時刻を確認するシン。
 時刻は既に11時半を過ぎている。昼には少し早いかも知れないが早すぎると言うほどでもない。
 その時、ティアナがシンに目配せ――と言うよりもシンにしてみると睨みつけているようにしか見えなかったが。
 その視線に怪訝な顔をするシン。ティアナのアイコンタクトの意味を理解していない。
 というか睨みつけられているようにしか見えないので叱責されているようにすら感じている。
 ティアナはアイコンタクトを理解していないのが丸分かりのシンに見切りをつけて、行動を推し進める。

「じ、実は今日ってシンが昼を奢ってくれるって話だったんだけど皆どう?」

 二つ目の言葉。その言葉に今度は皆の視線がシンに向く。

「はあ!?」

 シンの素っ頓狂な声が上がる。だが、皆はそんなシンの声が聞こえていないのか、矢継ぎ早に質問が飛び交っていく。

「え、そうだったの、シン君?」

 状況が理解できていないスバルは驚いた表情で。

「シ、シンに奢ってもらえるんですか!?」

 物凄く嬉しそうにギンガは胸の前で腕を組んで、目を輝かせている。こう、ぽわわーんと。恋する乙女のように。

 ギンガ・ナカジマ/脳内会議実況中継。
 円卓を中心に数人の女性が並んでいる。女性の顔は全て同じ顔。それもそのはずだ。
 ここはギンガ・ナカジマの脳内会議。彼女のペルソナ達が語り合う無意識の円卓。
 そこにいる全てはギンガ・ナカジマという存在を共有しつつもその一部でしかないのだ。

「シンが私にご馳走してくれる……・その後はあれなのね。君の瞳に乾杯して今度は君をご馳走になるよとか何とかで夜の隙間をハイドアンドシークして二人の心はノッキングオンザヘブンズドアー!!」

 脳内会議出席者その1。「乙女ギンガ」。ギンガ・ナカジマの乙女ちっくな部分を司るペルソナである。
 最近は壊れ気味である。

「ち、ちょっと貴方ねもうちょっと慎みを持ちなさいよ!?仮にも私でしょ!?」

 眼鏡をかけた知的なギンガ――脳内会議出席者その2。「委員長ギンガ」。ギンガ・ナカジマの潔癖な部分を司るペルソナである。

「何言ってるのよ!シンよ!?あの朴念仁で無頓着でこっちの気持ちにまるで気が付かない鈍感がご馳走してくれるって言うのよ!?『私の為に!!』熱が上がらない訳無いじゃない!?」
 
 脳内会議出席者その3。「熱血ギンガ」。ギンガ・ナカジマのテンションを司るペルソナである。

「落ち着きなさい二人共!!別にシンは私だけを誘った訳じゃなくて、他にも誘って…」

 委員長ギンガは叫ぶ。いつ暴走するとも知れぬ二人を見るに見かねてだ。だが、そんな委員長の思惑を知ってか知らずか、ぼそっと呟く声があった。

「…シンはきっとシャイだから周りの人達は単なる生き証人でしかないのよつまりこれはきっとシンからの遠回しなプロポーズもう所帯を持つしかないのよお父さんスバル私は今日本当の意味で女になりますああもう乙女じゃなくなっちゃう物理的な意味で!!!」

 物凄い早口言葉でそう話しながら、自分の身体を抱き締めて「うふふふふ」と薄笑いし続けるギンガ。
 脳内会議出席者その4。「ヤンデレギンガ」。時に暴走しがちなギンガの恋愛部分を司るペルソナである。主に暴走させる方向に。

「ば、馬鹿なこと言ってんじゃないわよ!?な、何で私がろ、ろ、ろ」

 ロストバージンというのが恥ずかしいらしい。赤面しながらズレそうになる眼鏡を何度も合わせ直している。

「ロストバージン……落ちる牡丹。雪原に咲いた赤い薔薇。」

 乙女ギンガは胸の前で手を組むと、陶然とだらしなくにやけた顔で中空を見つめながら詩を歌っている。

「うふふふふふふふ」

 ヤンデレギンガは自分で言った「乙女じゃなくなっちゃう」発言をさぞ気に入ったのか、先ほどからずっとうふふふふと笑い続けている。

「物理的な意味で……」

 熱血ギンガは物理的な意味を思い起こして、ボンっと顔を赤面させて、俯いた。どうやら彼女にはまだ早いらしい。

「だ、だから、もう少し慎み持ちなさいよ!!たかが食事を奢ってもらえるだけよ!?」

 そう言って皆を諌めようとする委員長ギンガ。紅潮した顔で叫んでも説得力は皆無です。

「たかが奢り。されど奢り。千里の道も一歩から……これは幸せに至る道の一歩目。」

 しみじみと諭すようにヤンデレギンガは独白する。誰に聞かせるまでもなく。

「し、幸せって……」

 委員長ギンガの返答。
 ヤンデレギンガがその返答に対して真っ向から答える、先ほどのように世界を縮めるほどの早口言葉で。

「そうよ……奢りから始まり商店街のくじ引きで温泉旅行を当てて二人は旅行に行くのよ温泉と言う非日常の中では男女二人が一緒に泊まればきっと旅館側もサービスしてくれるに違いないわきっとフトンをくっつけたりフトンの近くにティッシュがあったり、枕の裏には「Yes or No」とか書いてあるのよ!!」

 もはやヤンデレというよりも妄想ギンガさんである。しかも発想が古い。オッサンとかオバサンの領域である。
 そして、その言葉を聞いた瞬間、その場にいた三人のペルソナが同時に上を向いた。思い描く。その光景を。

『……』

 その光景を思い浮かべる。瞬間、三人が三人とも鼻を押さえる。その手の隙間から漏れ出る赤い雫――鼻血。

「……どう?見えた?」

 三人はその瞬間、ヤンデレギンガに親指を立ててプルプルと震える拳を突きつけた。
 それはいわゆる英語で言うと「GJ」の証である。
 迸る情動。震え上がる情熱。結論は一つのみ。その震える親指が示す意味のみである。


 同じ瞬間、ギンガと似て非なる思考をしていた女性がいた。言わずと知れたフェイト・T・ハラオウンである。

「ほ、ほんとに!?」

 フェイトも同じくテーブルに手を突いて目を輝かせている。こう、きらきらっと。無邪気な子供のように。


 フェイト・T・ハラオウン/脳内会議実況中継。
 広大な金色の草原。そこにいる無数の金髪の女性達。

「シンが奢ってくれるって――!!!!」
「いやったあああああ!!!」
「やったああああああ!!!」
「うわあああああああい!!!!」

 それはフェイト・T・ハラオウンだった。
 無限――無限と言う数が数え切れないほどに多いと言うものを言うのであればこれは無限であろう。
 子供のフェイトがいた。
 大人のフェイトがいた。
 オバサンのフェイトがいた。
 女子高生のフェイトがいた。
 キャバ嬢のフェイトがいた。
 小人のようなフェイトがいた。
 貧乳のフェイトがいた。
 巨乳のフェイトがいた。
 数限りないフェイトがいた。
 草原を埋め尽くす金色の髪。
 見えていたのは金色の草原ではなく、金色の髪の群れだ。
 その全てがシンに奢ってもらうと言う一事に歓喜している。
 数限りない無限のペルソナが狂喜乱舞しているのだ。

「わーい!!!」
「わーい!!!」
「わーい!!!」
「わーい!!!」
「わーい!!!」

 もはや会議っていうかサバトである。魔女もビックリである。
 無限のフェイトが手を繋いで踊っている。
 マイムマイムを踊るように皆で「シーン!!」「シーン!!」と繰り返しながらスタンディングオベーションを繰り返している。
 その光景は綺麗とか可愛いとか通り越して、ぶっちゃけホラーです。
 見ている人間などいない――だが、もし見た人間がいたらこう思うだろう。ゾンビに追われる気持ちってこんな感じなのかなと。


「……それならさ、私いいとこ知ってるんだけど、どう?」
 その時フェスラの口が開いた。ティアナに目配せする。
 どうやら彼女にはティアナがやろうとしていることが見透かされているようだ。
 その視線に目で合図するティアナ。その提案に乗る確認だ。

「いや、待て!!俺は別に一言も奢るなんて……」

 否定するシン。予想外の状況――いつの間にか自分が奢ることになっていることに驚きと共にうろたえている。
 ティアナがクロスミラージュを操作し、シンにだけ秘匿通信で念話を開始する。

『いいから、アンタは言うこと聞きなさい!!』
「っ!!?」

 怒鳴り声。シンの脳裏にティアナの叫びが木霊する。思わず黙り込むシン。その間隙を縫って、ティアナがフェスラに質問する。

「いいところってどんなところ?」
「うん、安くて美味しい定食屋。結構人数多いからそういうところの方がいいと思うんだけど……どう?」

 フェスラが皆――無論、シンを除いた女性陣のみへ――に視線を向ける。

「わ、私はシンに奢ってもらえるならどこでもいいです!」
「わ、私も!!私も!!」
「私も奢ってもらえるならどこでもいいよー!!」

 否定は無い。意見は肯定のみ。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!!そんな話は一言も……」

 否定するシンの声。その声に反応して皆の視線が彼に集中する。
 思わずその視線に後ずさりするシン。

「く……。」

 元来、他人の頼みを断らないシンにとってその視線は強烈を通り越して凶悪だった。
 1秒。沈黙。視線は動かない。
 2秒。沈黙。視線は動かない。
 3秒。沈黙。視線に奢ってくれないのかという不安が混じり出す――主にギンガとフェイトの瞳に。
 4秒。沈黙。その瞳を見てシンが自分の財布を開き、溜息一つ。財布を閉じる。そして、その口が開いた。観念したように肩を落とす。

「……そこ、教えてくれ。」

 財布の中身は結構危険だった。思えばATMで金を降ろし忘れていたからだ。
 朱い瞳の異邦人シン・アスカ。彼は案外庶民派だった。少なくとも財布の中身を気にして奢ることを渋るくらいには。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 24.襲撃と休日と(f)
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/29 17:57

 フェスラに連れられて歩く事十数分。
 街中だったはずがいつの間にか路地裏に入っていき、辿り着いた先――そこには「定食屋赤福」と大きく朱い文字で書かれた看板があった。

「……定食屋赤福?」
「ここね、知る人ぞ知る名店なのよ。」

 怪訝な顔で呟くシンを見てフェスラが得意げに呟く。

「へえ、こんなところにこんな店あったんだ。」
「なんか美味しそうな感じがしますね。」
「美味しそうな匂いがする……」

 店構えを気に入ったのか、フェイトは店内を覗きこむ。
 どこかワクワクしているその様子は未知なるものへの好奇心……それと同時に「シンに奢ってもらえる」と言う状況そのものが嬉しいのも関係しているのだろう。
 それに追随するようにして同じく店の中を覗きこんでいるティアナとスバル。
 匂いを嗅ぎ取れば、非常にいい匂いがする。二人の胸で期待が高まっていく。ついでにティアナは非常にほっとしていた。

(……とりあえず風向きは変わった。あとは食べ終わって、退避する。これでいい。)

 虎穴からの脱出はならずとも出口に向かって身体の向きを変える程度は出来た。
 とりあえず一触即発と言った空気は変わり、今は和気藹々とした雰囲気である。
 その事実にひたすらほっとするティアナ。実際、本気で怖かったのだ。
 後ろをとぼとぼと歩くシンを見る。財布の中身を見ながら溜め息を吐いている。

(ごめんね、シン。今度ジュース奢るから。)

 全くもって釣り合いが取れていないのはお約束である。
 ティアナが勝手にシンに謝っている中、シンはトボトボと歩いていた。横にはギンガが連れ添っている。

「何で俺が……」

 とぼとぼと歩きながらそんな皆を見ながら盛大に溜め息を吐くシン。

「ま、まあまあ。」

 彼の傍らに佇むギンガがそんなシンを慰める。
 彼女自身、シンに奢ってもらえると言う状況に舞い上がって、彼の財布事情をまるで考えていなかったコトに多少の罪悪感を感じていた。
 というよりもシンが奢ると言う状況が想像出来ずどんな反応をするか全く分からなかったと言うこともある。

「……とりあえずこうなったら好きなだけ食べますよ。……俺の奢りなんだし。」

 呟き、再び財布を見る。ティアナの提案でここに来る事が決定した時、シンは途中のコンビニのATMでわざわざ卸してきた。
 札束――とまではいかないが、それなりの量である。持てば重量はともかくその膨れ上がったボリュームに誰もが目を惹かれるだろう。
 奢ると言った以上は奢るべきであり、それが当然だ。そもそもこれほど盛り上がった皆を見れば止めるのも気が引ける。
 だが、それでも彼は正直不安だった。
 
 ――足りるのか?
 
 彼自身はあまり金にうるさくないが、それでもこれだけの人数に奢ると言うのは流石に気が引けるというか、どれだけかかるのか不安になる。
 何故ならスバルとギンガがいるからだ。
 シン自身もよく食べる方だが――それ以上にスバルとギンガの食べる量は多かった。
 はっきり言って、常人からするとありえない量である。
 フードファイターに再就職も十二分に可能だろう。
 そんな人間が奢る相手にいるのだ。正直、後が怖かった。

「スバルが……食い過ぎなきゃいいけど。」
「あ、あはははは。」
「……いや、ギンガさんもその中に入ってますからね。」
「……あ、あはははは。」

 何も言えない。と言うか笑うしかない。
 流石にシンの前でいつものようなドカ食いをする気は無いが――妹はそんなことお構いなしだろう。

「まあ、もう、気にしても仕方ないですけどね……」
「シーン、何してるの――!」

 フェスラの呼び声。入り口を見れば既に前方を歩いていた集団の姿はない。
 いつの間にか全員既に入店し、座っている。

「ギンガさん、俺たちも行きましょうか。」
「そうですね。」

 顔を突き合わせて、頷く二人。
 古びた入り口の前に立ち、暖簾を手でよけて中に入る。
 店内を見る。古びた外観に準じて内装も古びている。
 木造仕立ての内装――いわゆる最近ミッドチルダに増え出している和風の店と言う奴だ。
 店内にはテーブルが6つ。それとカウンター席が同じく6つ。その先に厨房が見える。
 厨房ではオレンジの髪をした男性が料理を作っていた――年齢はシンよりも少し上くらいだろうか。帽子に隠れて顔は見えなかったが。

「――いらっしゃい。」
「っ――」

 突然、横から声がした。全く気配を感じなかった。
 切り替わる思考。日常から戦闘へ。
 シンは咄嗟に懐に仕舞い込んである待機状態のデスティニーに手を掛け――起動しようとしたところで思い直す。見えた顔に見覚えがあったからだ。

「……グ、グラディス!?」
「君は……シン?それにギンガ君かね?」

 そこにはギルバート・グラディス――シンが“あの”街で出会った仮面の男がいた。
 以前と同じに艶めいた長髪を後ろで束ねている。服装は以前のようなスーツ姿にエプロンと言う出で立ち。
 驚きのあまり、パクパクと口の開け閉めを繰り返すシンとギンガ。

「あ、アンタが何で……」

 その返答を聞き、グラディスがふふんと笑いながら、眼鏡の位置を直すように仮面の位置を正す。

「何で、とは失礼だね、君も。」

 芝居がかった仕草で店内を手で指し示す。

「この赤福は私の店だからね。私がここにいることは当然だ。むしろ、君達がここにいることの方が驚きだ。旅行かね?」
「あ、いや部署変わって……」

 呟くギンガ。シンも頷く。その二人の様子を見てグラディスはいやらしそうな笑みを浮かべる。

「ほう。転勤かね?二人揃って?」
「あ……ああ。俺とギンガさんの二人共な。」
「仲の良い事だ……まあ、社内恋愛も程ほどにね。」

 一瞬、ピシリ、と空気が緊張する。
 赤面する二人を睨み付けるフェイト。フェスラはその様子を面白そうに見つめる。
 スバルは現実逃避しているのか、必死にメニューを眺める。
 ティアナはもはやどうにでもしてくれと言わんばかりに雑誌を読み耽っている。

「な、」
「な、何馬鹿なこと言ってるんだよ、アンタは!!」

 嬉しそうに赤面するギンガの言葉を遮ってシンの叫びが店内に響く。

「……ふむ、何だ、そういう仲じゃないのかね?」
「違うって前も言っただろ!?」

 その横でショボンとするギンガ。「そんなに否定されると悲しくなっちゃいます。女の子だもん。」と顔に書いてあるような表情である。
 そんなギンガを哀れむような表情で一瞬見て、グラディスは溜め息を吐き、呟く。

「ふむ。まあ、どちらでも構わないんだが……」
「いや、だから……」
「入り口にずっと立たれているのもおかしな話だ。とりあえず席についてもらえないかね?」

 そう、言われて自分たちが入り口で立ち往生していたことに気づく。

「そ、それもそうだな……座りましょうか、ギンガさん。」
「あ、はい。」

 シンに促されてギンガも中に入り、皆が座っている円形のテーブルに座る。
 シンの隣にはギンガ。その隣にはフェスラ。その隣にはスバル、ティアナと続き、フェイトが座っている。悔しそうな顔のフェイト。
 ティアナは決してそちらを見ないようにしながらメニューを眺める。スバルも同じく。
 ギンガは何だかんだでシンの隣に座れたのが嬉しいのか、微笑みながらシンと一緒にメニューを眺めている。
 フェイトの方には目もくれない。
 フェイトは仕方無しに自分の前に立てられているメニューを手に取り、眺め始める。
 誰も店長とシンやギンガが知り合いだったことを話題には出さなかった――ティアナやスバルは怖くてそれどころではなかったし、フェイトはシンの隣の席に座れなかったことを悔しがっていてそれどころではなかったし、フェスラは何故か先ほどから厨房の中をじっと見つめていた。
 そこでここまでメニューを眺めることすらせずに厨房を眺めていたフェスラがグラディスに視線を向けた。

「店長、ニシカワさんいるの?」
「ああ、今日はフルタイムだ。」

 フルタイム。そう聞いた瞬間フェスラの唇が釣り上がり、好戦的な微笑みが現れる。

「……そっか、じゃ、私アレお願いできる?」

 “アレ”。その言葉を聞いた瞬間、グラディスの瞳が細まり、緊張が走った――そして、間断なく言葉を発する。

「了解した――ニシカワ君、オーダーはスペシャル一式だ。」
「――了解しました。」

 返答は速やかに。厨房からガチャガチャと音がし始める。にわかに騒がしくなり、心なしかグラディスの顔にも険しさが通り抜けた。
 そんな厨房に漂い始めるピリピリとした緊張感に首を傾げながら、シンは彼らのテーブルの前で注文を待っているグラディスに声をかけた。

「なんでフェスラのだけ初めに頼んだんだ?」

 その言葉を聞いて、目を丸くするグラディス。そして、フェスラとシンの顔を交互に見合わせる。
 グラディスのその様子を見てフェスラが「ふふん」と笑う。
 その笑みで納得したのか、グラディスがニヤリとした笑みでシンを見た。

「そうか、君は彼女がどんな女性か知らないのか。」
「実は今日知り合ったばっかりなの。それで親睦を深めようと、ここに来た。そんな感じ。」
「親睦を深めに……君も人が悪い。驚かせようと思ったの間違いじゃないのかい?」

 呆れた顔でフェスラに向けて呟くグラディス。それは悪戯好きの子供に呆れたような顔だった。
 再び首を傾げるシン。話の内容がよく分からない。

「驚かせる?」
「ふふ、気にしない、気にしない。それよりもシンと店長が知り合いって言う方が私は気になるな。」

 ずい、と顔をシンの傍に寄せるフェスラ。思わず仰け反ってそれから離れようとするシン。
 ニヤニヤとシンのその反応を楽しむようにフェスラはその体勢を崩さない。

「ん……ああ、俺らはここに来る前に一度会ってるんだ。」
「ここに来る前?」

 その問いにギンガがシンに代わって答える。
 表情は笑顔。しかし微妙に血管が浮き上がった額が印象的である。
 その隣で興味深そうにその話を聞くフェイト。どうやら自分の知らない部分の話なので興味深いようだ。

「少し前に転勤してきたんです、私とシンは。」
「へえ……その時に店長に会ったんだ?」
「ああ、そうだ……って、まさかこんなところで会うとは思いも寄らなかったけどな。あ、注文いい?」
「ああ、というよりも私はそれをずっと待っていたのでね。……では何かな?」

 皮肉げに笑いながら懐からメモ帳とボールペンを取り出すグラディス。
 それを見て、シンがメニューを覗きながら注文を始める。

「えーと、俺はカツカレー大盛のラーメンセットで。ギンガさんは何するんですか?」
「わ、私はオムライスの大盛りをお願いします……って、何笑ってるんですか、シン!?」
「あ、いや、結構子供っぽいなあと思って。あと何か少ないような気がして……」
「い、いいじゃないですか、好きなんですし!! ……それにあんまり食欲は無いんです。」
 
 はいはい、ワロスワロスとでも言いたげなティアナとスバル。
 それなりに大食いの彼女がそんなことを言うとは大方シンの前ではあんまり食べたくないとでも思っているのだろう。
 さっき、腹の虫が鳴ったのは彼女だと言うのに片腹痛いとでも言いたげだ――とりあえず、シンは安堵する。
 シンとギンガがメニューについて言い合っているその横。スバルとティアナも注文を頼んでいた。

「私もカレーライス。で、アンタは何するのスバル?」
「うーんとね……私はここらへんかな。」

 そう言ってメニューの半ばあたりを指で丸を描くように指し示す。シンの表情、硬直。ギンガの顔が引き攣る。
 場が沈黙。というよりシンが沈黙する――すぐさま再起動し、立ち上がってスバルに向かって怒鳴りつける。

「ちょっと待て!!何だそのここら辺って言うのは!?」
「……オムライス大盛に……トマトとチーズのサラダに…ピッツァマルゲリータ、あとは…何コレ、あんかけスパゲティに味噌カツ?美味しいの?」
「聞いたこと無いから試してみたいと思って。ほら、シン君の奢りだし」

 聞いてない。まったくもって人の話を聞いてない。シンの財布事情など知ったことかとばかりに駆け抜ける。

「いや、聞けよ、人の話!!」
「じゃ、私もあんかけスパゲティ追加で。」

 それに便乗するティアナ。こっちも最悪です。

「アンタら、ちょっとは遠慮しろ!!」
「ま、まあまあ、シンも抑えて抑えて……そういえばフェイトさんは何するんですか?」
「……こ、これ頼んでもいいかな?」

 そう言ってフェイトが指し示すメニュー。
 そこには「特別メニュースペシャル。値段は応相談」と書いてある。

「……スペシャル?値段……応相談?なんだこれ?」
「す、凄い気になって……」

 怪訝な顔で呟くシンにフェイトが俯きながら呟く。少し図々しいとでも思ったのかもしれない。
 そんなフェイトの様子を見て、シンは被りをふってグラディスに顔を向ける。

「グラディス……これ、値段応相談って……どういうことだ?」
「ああ、これは少し特殊でね。要するにランチセット“みたいな”ものだ。試してみるかね?君ならば……ふむ、そうだな、Sくらいだろう。ちなみに値段は……そうだな、カツカレーと同じくらいだ。」

 具体的な数字を言われ、もう一度メニューに目を通すシン。
 思考する。値段の計算。正確な計算ではなく、おおよその概算である。
 少し真剣な顔で暗算を繰り返すシン。その表情に押されたのか、フェイトが申し訳なさそうにし、シンに声をかけようとしてかけられないでいる。

「あ、え、えーと……」

 おどおどとするフェイト。そんな彼女を見て、シンは自身の財布の中身と相談する。黙考。そして溜め息一つ。
 息を吐きながら、フェイトに向かって力無く呟いた。

「……いいですよ。フェイトさんも好きに頼んじゃってください。」

 シンの言葉を聞いて、フェイトの目が再び輝き出す。

「じゃ、じゃあ、それで!!」

 シンはその言葉を聞いてグラディスの瞳の奥がにわかに光った――ような気がした。
 すうっと息を吐き、グラディスが見た目に似合わない大声で叫んだ。

「ニシカワ君、オーダーだ!!カツカレー大盛のラーメンセット、オムライス一つ、カレーライス一つ、オムライスの大盛一つ、トマトとチーズのサラダ一つ、ピッツァマルゲリータ一つ、あんかけスパゲティ二つに味噌カツ、そしてスペシャルSだ!!」
「了解しました、店長!!」

 そんなグラディスと厨房にいるであろう料理人の応対に何か懐かしいものを感じるシン。

(……どこかで聞いたことあるような。)

 そうやって一瞬浮かんだ疑念は傍らのギンガやフェスラ、フェイト、そしてティアナやスバルとの対話の中で泡沫の如く浮かんでは消えていく。
 懐かしい。その言葉の意味を反芻することなく。


「ふう、食べた。食べた。」
 
 フェスラの声が響く。時刻は既に3時を過ぎている。都合、4時間近くも昼食に費やした計算になる。

「……在り得ない。」

 ぼそり、とギンガが呟く。テーブルの上にうず高く積み上げられた巨大な皿。その数は20。
 つい数時間前まではその全ての皿に料理が乗っていた光景を憶えている一行はその変化に恐れすら抱いて、呆けていた。


 まず、初めに誰もが言葉を失った。
 フェイトとフェスラを抜いた全員の前にメニューが行き渡り、届くのを待っていた時、フェイトの横にグラディスが料理を持って現れた。
 正確には持って来た料理の威容に言葉を失ったのだ。
 先ほどフェイトとフェスラが頼んだ“スペシャル”。それは名前の通りに特別なメニューである。
 その料理の内容が、ではない。料理の量が、である。

 要するに大食い用のメニューである。俗に言うデカ盛と言う類の料理だ。
 フェスラがこの店を隠れた名店と言ったのは、大食い好きの人間たちにとってと言う意味である。
 そんなものがクラナガンの観光ガイドに乗るはずが無い。
 
 フェイトが頼んだ“S”とはショートと言う意味である。つまりは“短い”。
 運ばれてきた料理は、故に3つ。
 カツカレー特盛、チャーシュー麺特盛、ハンバーグ特大。そして健康に気を使ってハンバーグに付け加えられる特盛のキャベツである。

 一杯一杯のドンブリの大きさはミッドチルダに最近増え出した牛丼チェーン店の特盛の凡そ3倍ほど。
 肉汁溢れるトンカツ。
 格調高い香りが食欲をそそるカレー。
 澄み切った琥珀色のスープの熱で温められとろけそうなチャーシューとシナチクと葱、そして縮れた麺。実に基本的な構成でありながらその見た目が醸し出す旨さは食べる前から既に上物を予感させるチャーシュー麺。
 そして、内から肉汁を溢れさせながらもしっかりと引き締まったハンバーグ。その上にかかる褐色のデミグラスソースの複雑で芳醇な香りが恍惚を引き出す。目算でその大きさは、長径で約50cm、短径で約30cmの楕円形。付け合せに添えられたキャベツ――うず高い山のような――が圧巻であった。

 見た瞬間、皆の顔が引き攣った。そして視線が一斉にフェイトに集中した。
 
 フェイトは呆然と目の前に運ばれてきた料理――恐らくは彼女の人生で初めて目にしたであろうデカ盛された料理の群れを。
 その瞳に浮かぶ輝きは恐怖――さもありなん。それは食と言う世界に舞い降りた怪獣である。

「ああ、言い忘れていたが時間制限は無し。とにかく食べ切れば問題は無いよ。皆で分け合って食べなさい。」

 その言葉に涙さえ浮かべ、うんうんと頷くフェイト。その光景を見て唇を引くつかせる一同。
 これを食するのに協力する――全員で食べたとしても、とんでもない量になるだろう。考えるだけで目眩がしてきそうだと、一同は想った。
 無論これを一人で食べるなど――考えるまでも無くフェイトには無理だ。
 と言うかこの場にいる全員が無理だ。スバルですら顔を引きつかせているのだ。
 誰もが思った。ここは魔窟だと。
 だが、次に運ばれてきた料理。それが今度こそ一同の度肝を抜いた。

「では、こちらがフェスラ君が頼んだスペシャル一式の“開始料理”だ。」
 
 ずどんと置かれたカレー。巨大な皿に小高い丘のようにして盛られたカレーライス。

「全20品の特盛の嵐、その名を“スペシャル一式”――はたして君に食べきれるかな?」

 不敵に、グラディスが宣言し、フェスラに指を付きつける。その宣言に挑むようにフェスラが不敵に微笑んだ。呟く。

「……愚問ね。既にフルコースは制覇しているのよ?あの時は用事があって食べ切れなかっただけ。――あまり、私を甘く見ないことね?」

 そんな二人の様子を見て、一同は声を上げることすら出来なかった。
 スペシャル一式。定食屋赤福の名物料理にして未だ誰も完食出来ていないデカ盛の満漢全席とも言うべきフルコースである。
 特盛カレー。特盛シチュー。特盛カツ丼。特盛チャーシュー麺。特盛ビーフシチュー。特盛ミートスパゲッティ。
 特盛シーザーサラダ。特盛カキフライ。特盛天丼。特盛鍋焼きうどん。特盛ざるそば。特盛ハンバーグ。特盛パエリア。
 特盛温野菜盛り合わせ。特盛オムライス。特盛サンマの塩焼き。特盛豚肉の生姜焼き。特盛ミックスサンドイッチ。
 特盛ミックスピッツァ。バケツプリン。

「食べるわよ、店長。料理の準備は出来てるの?」
「無論、完遂だ。」
 
 フェスラの料理が先に注文されたのはこの為だ。
 大食い料理を出す以上、そこに停滞があってはならない。それが大食い料理を出す店の誇りであるが故に。
 フェスラがスプーンを手に取り、カレーライスにつけ、口に運ぶ。その動きは淀み無く、ペースを崩すことなく進み往く。
 皆が彼女に合わせるようにして、料理に口をつけ始める。そして漏れる感嘆の溜め息。
 実に旨い。正直、これなら毎日通ってもいいくらいだ――その場にいる誰もがそう思うほどに。
 フェイトは恐る恐ると言った感じでまずはカレーに口をつけた。美味しい。加速するスプーン。減らないカレー。

「……」

 溜め息が漏れる。とりあえず美味しく食べようと思った。皆が助けてくれるはずだ、と。と言うかそうでなければ無理である。
 フェスラの方を見る。

「今日のカレーは……んぐ、前と味が違うわね……スパイス変えたの?」
「分かるかね?ガラムマサラの配合を少し変えてみたんだがね。悪く無いだろう?」

 カツカツとスプーンを皿に運び、淀みなく食べ続けていた。顔色一つ変わっていない。
 既にその半分は消えていた。

(はやっ!!!?)

 目が飛び出すような衝撃を受けた。自分は未だに3分の1も終わっていないと言うのに、フェスラは既に半分を食べ終えているのだ。
 あの細身の身体のどこにそれが収納されていくのか。人体とはかくも不思議なものである。
 そうこうする内にフェスラが食べ終える。次々に運ばれる皿。その全てが巨大である。
 フェイトの前に運ばれた料理に手をつけ出すスバルとシン。自分たちの料理を食べ終えたようだ。
 フェスラの元に運ばれていく数々の料理。それを見ながらフェイトは思った。

(……超人っているんだなあ。)


 そうして、今に至る。
 死屍累々。
 その場にいる誰もが、もはや動けずにいた。
 皆で取り掛かれば食べ終えれると思っていた、フェイトのスペシャルS。だが、その巨大さは予想外に凄まじかった。
 食べ終えたことは食べ終えている。
 だが、皆がテーブルに突っ伏し、もしくは椅子に寄りかかり天を仰ぐ姿からは食べ終えた歓喜は無い。
 あるのは凄まじいまでの疲労と苦しみ。満腹の苦しさである。
 シンは椅子に寄りかかって虚ろな瞳で天井を見ていた。
 フェイトはテーブルに突っ伏して瞑目している。
 スバルはちらちらとフェスラを眺めながら、頭を抱えて椅子に寄りかかっている。
 ティアナはテーブルに突っ伏したまま身動き一つしない。
 その中でフェスラは最後のバケツプリンを食べ終えていた。
 実に4時間以上を食べ続けた。正にその姿はフードファイターである。

「……まさか、食べ切るとはね。」

 呆れた表情でグラディスはフェスラを眺める。そんなグラディスを見ながらフェスラは再びメニューに手をつけ、中を眺め、口を開いた。

「あ、口直しに五目ラーメンもらえる?」
(まだ、食べるのか!!)

 シン・アスカの内なる叫び。多分、誰もが思ったことだった。

「……ああ。構わないが。」

 流石のグラディスもその言葉は予想していなかったのか、少しだけ声が震えていた。

「……い、いつも……そんなに……食べてるの?」

 途切れ途切れにギンガがフェスラに問いかける。
 彼女の顔にも倦怠感がありありと浮かんでいる。
 律儀な彼女は出された料理を残すことが嫌だったので、フェイトのスペシャルSの完食に協力したのだ。
 おかげで彼女も身動き出来ない状態だが。

「うん?まあ、大体こんなくらいはね。」

 ふう、と息を吐いて、水を飲む。口直しの五目ラーメンを待っているのか、視線は厨房に固定されている。

「……何でそんなにスタイルいいのよ。」

 ティアナの呟き。誰もがそう思った。


 そして、彼らはそこで午後を過ごすことになった――と言うよりも身動き出来なかった彼らを見て、グラディスが提案した。ここで休んでいってはどうかと。
 よくあること、とグラディスは言った。当然だろう、とシンは思った。
 あれだけの料理を食べて、その後、普通に行動できたらそれはもはや化け物の領域だ――目前にその化け物がいるのだが。
 結局食べすぎて動けなくなったシン達以外その日客は来なかった。
 元々、それほど客の来る店では無いらしい。
 
 一人、また一人、と眠りに落ちていく。
 別に一服盛られたとかではない。単純に身体の求める欲求だ。皆、食事と言う名の戦いに疲れていたのだ。
 ただ一人、疲れなど何処吹く風だったフェスラもいつの間にか寝入っていた。
 その光景を見ながら、カウンターに座り、自分で入れたコーヒーに口をつけるグラディス。
 厨房の奥にいたオレンジの髪をし、眼鏡をかけた料理人がカウンターに近づいてくる。
 その手にはグラディスと同じくコーヒーがあった。自分で入れたのだろう。

「……まさか、この世界でまたコイツに会う事になるとは思いませんでしたよ。」

 苦笑しながら話すオレンジ色の髪の男。

「……私もさ。」

 呟き、コーヒーを口に含む。

「コイツを見てると、実感が沸いてきますよ。あれから2年経ったんだなって。」

 目を細め、懐かしむようにオレンジ色の髪の男は話す。

「……そうだな。もう2年経ってしまった。残り時間は……少ないということだ。」
「議長……」

 オレンジの髪の男がグラディスに向けて呟いた。
 グラディスはその言葉に返答を返さずにコーヒーに口をつけ、カウンターに置く。視線をオレンジ色の髪の男に向ける。

「ハイネ、例のモノはどうなっている?」

 ハイネと呼ばれたオレンジ色の髪の男の顔が引き締まる。柔和な一般人ではなく、決然とした騎士の表情へと。
 懐からシンのデスティニーに似たバッジを取り出し、A4型の映像を空間に映し出す。
 ちなみにこの映像は特殊な魔法処理がしてあり、使用者の認証を受けたものしか視覚認識できないように加工されている。
 つまり、この場ではグラディス以外には何も見えないと言うことだ。同じく此処での声もシン達の側に届く事は無い。
 彼とハイネがいるカウンターに張られた結界によって音声のみがそちらには届かないようにされているからだ。
 そこに現れるのは3種の武器の映像。鞭。剣。銃。
 強度。重量。使用方法。用途。その他様々な各種データが詳細に記されている。

「聖王協会技術開発部によると後は細かい調整を残すのみと言うことです。」
「……予定には間に合うと言うことだね?」
「問題なく。」

 その返答にグラディスは満足したように再びコーヒーに口をつける。そして、一拍の間を置いて呟いた。

「……“彼ら”の計画はどうなっている?」

 画面が切り替わる。現れたのはミッドチルダ全域の地図。ところどころに赤い線で×印がつけられている。

「この地図をご覧ください。」
「……既にかなりの数になったな。」

 地図を見ながら、ミッドチルダ全域に点在する赤い×印を指でなぞっていく。

「以前予想した数量を全てと考えれば、現状70%を超えたと言うところです。」
「ふむ……ならば、そろそろ動き出すな。」
「その可能性は高いかと。」

 その言葉を聞いて、カウンターを中指でトントンと叩きながらグラディスが思案する。

「……ハイネ、君は引き続き情報を収集してくれ。」
「議長はどうされるおつもりで?」
「種まきをやろうかと思ってね……と、どうやら、ここまでのようだ。」

 そう言ってグラディスがシン達を見る。静寂を引き裂く音。音は徐々に大きくなり、皆の目を覚まそうとする。
 それは通信音。誰かがデバイスに通信しているのだ。
 フェイトが自分の服のポケットに入っていたバルディッシュを取り出し、操作する。通信開始。
 空間に映し出される映像――そこには6課部隊長八神はやての顔があった。
 心なしかその顔は赤くなり、額には青筋が立っている。
 フェイトの背筋に悪寒が走る。ギンガの背筋にも。その悪寒が何を意味するのか、起きたばかりの彼女達には分からないだろうが。

「二人とも、どこほっつき歩いとるんや!!!!」
「あ。」
「え。」

 彼女達はその一言でようやく思い出す。自分たちが仕事をさぼって――と言うか別の人間に押し付けてここに来たと言うことを。

「……何から何までスイマセン。」
「……本当に申し訳在りません。」

 申し訳なさそうに謝るギンガ。同じくフェイトも頭を下げる。
 あの後、はやてに事の次第がバレたギンガとフェイトはみっちりと数十分間怒り狂う彼女の説教を受けながら、うな垂れていた。
 どうやら仕事しているシグナムを見て不審に思ったシャマルが聞き出したらしい。
 当のシグナムは涙目になりながらも、「……ローマ字打ちじゃなければ私だって……!!」と言いつつ仕事を止めなかったとか。
 今、彼女達がいる場所の前には車があった。
 見ただけで高級車と分かる黒塗りのロングボディ。後部座席と前部を区切る部分が存在する、いわゆるハイヤーである。
 はやての説教でうな垂れ、急いで戻らなければならないことになった彼女達を見て、グラディスが車を出してくれたのだ。
 流石にそこまで世話になる訳にはいかないと言う一同にグラディスは「なに、また来てくれるなら構わないさ。サービス料だと思ってくれればいい。」、そう言って強引に彼らを説き伏せていった。
 無論、渡りに船なのは間違いない。一同――特にフェイトとギンガが――は申し訳なさそうにしていたものの、じきに承諾していた。

「ニシカワ君、この住所は分かるかね?」

 グラディスはそう言ってニシカワと呼ばれたオレンジ色の髪の男――先ほどまで厨房にいたハイネと呼ばれていた料理人である――に地図を手渡す。

「ああ、ここなら大丈夫です。分かります。」

 乗るのは機動6課のメンバーであるシン、ギンガ、フェイト、スバル、ティアナ。フェスラはここで別れると言う。方向が違うらしい。
 続々と乗り込んでいく一同。シン以外全員が乗り込み、彼も乗ろうとした瞬間、グラディスが彼に声をかけた。

「シン、いいかね?」
「え?」

 振り向くシン。グラディスはそのシンに顔を近づけ、小さな声で呟いた。

「エクストリームブラストを使いこなせるようになりたいなら、まずは肉体改造から始めたまえ。内功を鍛え、強靭な肉体があってこそ、アレは生きる。君の身体は手に入れた力に比べて未だ脆弱だ。」
 
 シンの表情が一拍を置いて切り替わる。一瞬、グラディスが何を言っているのか、理解出来なかったからだ。
 エクストリームブラスト。完全に秘匿された情報。六課内においても未だ誰も知らないはずの魔法。

「……何で、それを知ってるんだ。」

 険しい視線を向ける。警戒するシン。今にも掴みかかりそうな雰囲気がそんなシンをグラディスは口元を歪ませ笑うだけで答えない。

「アンタ、一体……」

 その言葉にグラディスは答えることなく、足を踏み出す。懐に一歩。右手がシンの腹部に触れる。軽く力を込めた。流れるような動作。

「っ――!?」

 その動きにまるでついていけず、シンの身体が吸い込まれるようにして後部座席に入り込む。
 意識の間隙を突く様な動き。シンの背筋を怖気が通り抜けた。それは自分がまるで反応出来なかったことに対して、だ。

「君はまだ気にしなくて良い。大切なのは折角手に入れた力を生かすことだ。違うかね?」

 シンは答えない。警戒を解かない。解けずにいる。そんなシンを見てグラディスは微笑みを絶やすことなく呟いた。

「……では、また会おうシン。君には期待しているよ。」

 走り出す車。シンの瞳に写る警戒と疑念。それが確信として彼の心に突き刺さる。
 何かが動いているのだと言う、ただそれだけの確信が。


「……」

 車内。ティアナは手の中に隠し持った折り畳まれた一枚の紙を眺めていた。
 それは先ほどシンを車の中に押し込んだグラディスの服から落ちてきたものである。
 直ぐに拾って返そうとしたが、平って中を見た瞬間、思わず隠してしまった。
 そこに書かれていた言葉。「聖王教会治安維持部第19次中間報告書」と。その言葉の上には「極秘」という判子が押されていた。
 折り畳まれたそれを思わず開く。
 期待していたように複数の紙を折り畳んでいたのではなく、その一枚の紙――表紙を折り畳んでいただけだった。落胆と同時に不安が湧いてくる。
 聞いた事のない名前。聞いた事もない部署。
 冗談で済ませれば良い。けれど、冗談では済ませられない。そんな嫌な予感がする。
 表紙に書かれている目次。そこに記されたある名前。それが自分の記憶を刺激したから。

 “ティーダ・ランスター”。
 
 忘れない。忘れられない名前。彼女にとっての開始地点(スタートライン)。
 何か、何かが動いていると言う予感――否、確信があった。それがどんな確信なのか。それはまるで分からないけれど。
 彼女は必ずもう一度赤福に行くことを決める。
 何が始まっているのか。何が進行しているのか。それを確かめる為に。


 夜の闇。帳が降りる。ここは魔が集う夜の闇。世界を牛耳る女傑の集いし闇の底。

『それで、どうなったのかしら?』

 聞こえてくるのは声。気品のある女性の声。
 それに答えるもう一人の女性。夜の闇の中で顔は見えない。
 分かるものと言えば、風に揺れる金色の髪の輝きと闇の中で爛々と輝く血のように紅い瞳。月光の金。血色の紅。

「別に……予定通りの結果よ。」

 さして面白くもなさそうにその女性は呟いた。口調は普通。どこにでもいる年頃の女性のソレである。

『つまり、シン・アスカは貴方に興味を抱いた?』

 女性の内心を探る気品のある女性の言葉。その言葉に少し顔をしかめながら女性は返答を返す。

「当然よ。アレはあの子の贖罪そのもののような存在なのでしょう?」
『ええ、デュランダルの提示した情報によるとそれは間違いないわ。』

 気品のある女性の言葉に確信が混ざりこむ。

「そんな人間が自分の前に現れる――本当に最高の悪夢ね。」

 気の毒そうに女性は誰に言うでも無く呟く。
 それは誰かに向けた言葉ではなく、ただ口に出したと言うだけのものだろう。
 彼女には似つかわしくも無い哀れみが滲み出ただけに過ぎない。

『あら、躊躇うの?あなたらしくもない。』

 驚く気品ある女性。彼女が知るその女性にはそんな躊躇いなどまるで無いと思っていたからだ。
 だが、女性はその問いを聞くと、一笑に付して、返答した。

「私は私の為になるようにやっているだけ。躊躇う訳なんて無いでしょう?」
『なら、いいのだけど……あなたはすぐに“影響”を受けてしまう性質だから。』

 “影響”。その言葉を聞いて再び顔をしかめる女性。その血色の紅が細まり険悪な輝きを抱き始める。

「貴女、私を誰だと思っているの?あなたの要望通りにシン・アスカを叩き落してあげるからもう少しそこで待っていなさい。」

 剣呑な感情を隠すことも無くその女性は呟いた。

『では、期待しているわ、貴女のその手腕に……あまり“引っ張られ”過ぎ無いことね。』
「聞いておくわ、ご主人様。」

 皮肉を込めてそう呟き、女性は念話を切った。後に残るのは闇。静謐で奥深い闇だけだった。



[18692] 第二部機動6課日常篇 25.乙女の資質は親譲り
Name: spam◆93e659da ID:17f428f0
Date: 2010/05/29 17:56
 それはある日の話。
 シンがエクストリームブラストを発動させ、ギンガとフェイトが仕事さぼるという暴挙に出た数日後の話である。

□ 
 曰く――急所に一撃を当てることが出来るなら、力も技も耐久力も関係ない。つまりは一撃必倒。相手の意識を一瞬で奪い取る一撃は、強力な力に勝ると言う。

 その様子を真剣な面持ちで聞き続けるシン。
 何かと言うとギンガがシンに説明しているのだ。彼女の使うシューティングアーツについて。
 場所はいつもの訓練場……ではなく、そこから少し離れた会議室である。
 時刻は既に8時を回っている。この時間帯であれば、いつもならどうしてそんな話になったかと言えば、いつもの如くの訓練をしている最中にシンがふとたずねたのだ。
 シューティングアーツの話を聞かせてくれないかと。
 
 ギンガにしてみればその質問は意味の分からないものだった。
 シンの訓練相手として最も数多く相手をしたのは他でもないシューティングアーツの使い手であるギンガである。
 誰あろうシンこそがシューティングアーツについて最も身体で理解していると言っていい。その彼がどうして教えてくれと思うのか。
 そう尋ねるとシンはこう答えた。

「もっと強くなれると思って。」

 見も蓋も無いド直球。もうちょっと何か無いのかと思いつつギンガは苦笑しつつ話し出した。冒頭の一文はそれを極端に要約したモノである。
 つまり、シューティングアーツとはそういった武術。一撃で相手を沈める魔法なのだと。

「……ということです。分かりましたか、シン?」
「えーと、ですね。いくつか疑問が。」
「はい。」
「それだと遠距離からの攻撃に無防備になりませんか? あとバリアジャケットがある以上は一撃必殺って言うのは難しいと思うんですが。」
「……必殺じゃなくて必倒です……まあ、その通りです。現在の魔導師の基本防御であるバリアジャケット。 これがある限り、“一撃”で敵を倒すと言うことは無理でしょうね。 バリアジャケットを破壊する一撃と決め手となる一撃。 最低でもこの二撃が必要となります。 また、砲撃・射撃魔法というものが存在する以上、接近して一撃を与えると言うスタイルはその時点で必要となるアクションが増えます。 仮に相手が射撃・砲撃型であれば、近接型は接近すると言う行動が必要ですから。」

 その通りだとシンは頷く。首肯するシンを見て、ギンガは更に続ける。

「この問題を埋めるべく作られた技。それが、」
「シューティングアーツ、ですか?」

 ギンガの言葉を遮ってシンが口を開いた。ギンガが頷く。

「そうです。先に言った一撃で倒すと言う理論ですが、これは別に特別なことじゃありません。シンなら分かるでしょう?」
「まあ、隙、見つけて一撃当てれば大抵はそれで終わりますね。」

 シンが最も慣れ親しんだ戦闘――白兵戦やMS戦闘、そのどちらも一撃を当てればそれで終わりというものだった。
 銃で撃てば基本的に人は死ぬ。
 同じようにビームライフルを当てれば大抵の装甲は役に立たない。
 一撃必殺と言う言葉がこれほど似合う戦いは他に――少なくともシンが知る限り存在しない。
 
「バリアジャケットが無ければ、その傾向はより顕著になります。 人間の肉体と言うのは機械のそれに比べて非常に脆弱ですから。私達はバリアジャケットがあるから耐えられているだけで、もし、バリアジャケットが無ければどんな低級魔法の一撃だろうと私達の意識は簡単に奪われます。」

 理想論ですがね、とギンガは付け加えた。

「例えばスバルのディバインバスターに、私のリボルビングステーク。これはどちらもバリアジャケットを破壊もしくは無効化して一撃を与えると言う技です。私の場合はバリアジャケットごと、スバルの場合は一度バリアジャケットを破壊して、その上で最大の一撃を叩き込む。」

 ディバインバスター。リボルビングステーク。
 シンは奇しくもどちらの技もその身で経験している。
 スバルからはあの模擬戦の後に。
 ギンガからは模擬戦の際に。
 喰らった上で言えること。アレらはバリアジャケットの有無など問題にはしない一撃と言うことだった。
 あれはそういった類の技だ。当たることがそのまま必倒に繋がる文字通り一撃必倒。
 どちらかと言う必殺の方が似合っている気さえするが。

(……ああいう技があれば、白兵戦とかと基本的には同じなんだよな。)

 心中で呟き、納得し……首を傾げた。
 シューティングアーツ。つまり、「急所に一撃を当てることが出来るなら、力も技も耐久力も関係ない。相手の意識を一瞬で奪い取る一撃は、強力な力に勝る」と大言壮語するその定義に反していのるではないか、と。
 眉根を寄せて怪訝な表情を浮かべるシンにギンガが慌てるなとばかりに再び口を開いた。

「本題はここからです。今、シンが思っている通り、これではシューティングアーツの定義に反している。 そう言いたいのでしょう? 結局威力が全てを決めるのだと。」

 頷くシンを見てギンガは続ける。

「そういった技を使用しないでも、同じことは出来る、というのが母の持論でした。」
 
 ――シューティングアーツとはただ“当てる”為の術。攻撃を確実に当てる。ただそれだけに特化した武術。
 先読み、ローラーブーツ、ウイングロードなどの他の魔法と一線を画す技術の全ては最終的にそれに繋がっていく。
 巨大な武装も、膨大な魔力も、視認出来ない高速も必要無い。ただ、当てる。防御も攻撃も全てを貫いて。
 そこまで言って、シンはギンガに尋ねた。

「……そんなこと出来るんですか?」

 シンの疑問も最もだ。
 要するに先手必勝。攻撃を当てて意識を刈り取ればそれでいい。そこに強大な威力も射程も速度も必要は無い。そう言っているのだ。
 けれどバリアジャケットの問題を解決するには一度バリアジャケットを破壊するか、もしくはバリアジャケットごと相手に攻撃を加えるほどの強大な威力の一撃が必要となる。
 また、それほどの威力の攻撃を当てようと言うならば速度や射程はあればあるほど、命中率は高くなる。
 逆に言えば近接攻撃しか出来ない彼女達の戦法では砲撃型に対しては為す術が無いと言う現実がある。
 彼女の言っていることは理想ですらない。夢物語だ。

「どうでしょうね。私もまだそれを実感したことはありませんけど……母さんが言うには、“当てる”んじゃなく“当たる”、らしいです。」

 答えるギンガも要領を得ない返答。自分でも理解出来ていないのかもしれない。自分で言っている言葉の意味が。

「当たる?」
「子供の時ですから、正確には覚えていませんが、そういうことらしいです。」

 そう言って、彼女は机の上のメモ用紙に絵を描き始めた。
 人のシンボルを覆う○。お世辞にも上手いとはいえない。

「……えーと、これ人間ですか?」
「え、ええ。」

 赤面するギンガ。少し恥ずかしいらしい。
 苦笑するシン。ギンガはそんなシンに向かって、コホンと息を吐くと気を取り直して続ける。

「この絵のようにバリアジャケットって言うのは全方位に対して等しい防御力を保っているモノではなく、どちらかと言う傘に近いんです。傘を広げた方向が最も防御力が強くなる――つまり自分の認識方向に対して強くなる。」
「……確かにそうですね。」

 考えてみれば当然のことだ。デバイスが制御しているとは言えバリアジャケットというのは魔法であり、魔法である以上は術者の意識が起点にある。
 ならば術者が一番集中している方向に対して強くなるのは当然のことである。 呟き黙り込んだシンを見てギンガが話を続ける。

「逆に言えば、認識外の方向に対してバリアジャケットは確実に弱くなります。集中している方向から離れれば離れるほど。そして、ここ。」

 相手が攻撃してる場所――絵の中に矢印で示している――の正反対の場所を指で指し示す。

「……防御に集中している場所の反対側……要するに死角からの攻撃ってことですか。」
「その通りです。仮にこういった状況でこの死角に攻撃を当てることが“出来れば”、バリアジャケットは全く用を為しません。殆ど素肌に近い防御力しかありませんから。」

 こういった状況――つまり一方に集中している状態のことである。
 その状態で、全くの逆方向から予想外の一撃を当てることが出来れば、バリアジャケットは単なる服に成り下がる、と言っている。
 だが、それは理想の技ですらない。妄想のようなものだ。シンがその心中を言葉に出して返す。

「いや、それ無理でしょう。2対1とかならまだしも1対1で出来る訳が無い。」

 そのシンの言葉を受けて、ギンガは苦笑しながら、話を続ける。

「そうです。無理ですね、普通は。」
「普通は?」

 ギンガが今話したこと。それは自分が戦っている最中に自分の分身を作り出して後方から奇襲でもさせない限りは決して出来はしない。
 無理とか無駄とかではなく物理的に不可能なのだ。先ほどシンが思った通り、妄想や空想の類に近い。

「けど、これ出来た人いるんですよ。」
「……は?」
「私の母がこれをやっていたんですよ。一度だけ、私とスバルの前で。スバルは覚えていないかもしれませんが……」
「ど、どうやってたんですか?」
「……不思議な光景でしたよ。相手のバリアジャケットの隙間に母さんの拳が吸い込まれるようにして入り込んでいく。……殴るって言う感じじゃないんです。こう、あるべき場所に収まっていくような……」

 その光景を思い返すギンガ。

 ――その光景を一言で表すならばよく出来た殺陣と言うものだった。
 相手にしてみれば何が起きたのかなど理解出来はしないだろう。
 理解する間など与えず――と言うよりも、視認することも出来なかっただろう。
 その一撃は全て死角からの一撃だったのだから。
 
 それは訓練だった。
 相手は生粋の魔導師が十五人。無論デバイスを装備した中距離型ばかり。
 対して母は一人。得物と言えば足元のローラーブーツのみ。
 一対十五と言う戦力差で言えば絶望的と言うにも生温いほどの差である。
 正直、ギンガはこんなものが訓練になるのかと子供心に呆れていた。勝負になどなるはずがない、と。
 
 だが、現実は違った。
 母の撃ち出す拳は全て相手の背後や側面などの死角に吸い込まれ、息を切らすこともなく、一人また一人と相手を昏倒させていく。
 狙いは全て急所。頚椎・鳩尾・脇腹・心臓・延髄・米神。
 
 拳は狙いを違えることなく吸い込まれていく。
 まるで御伽噺に出てくる魔法だと思った。
 相手が撃つ魔法は全て当たらない。
 それこそ磁石の同じ極が反発し合うようにして、ごくごく自然に離れていく。
 逆に母の拳は違う極が引き合うように当たっていく。
 
 相手の攻撃は全て“外れる”。
 母の攻撃は全て“当たる”。
 
 拳が唸る。足元のローラーブーツが喚いた。回転する身体。滑り込む拳。
 舞うように踊るように敵陣を切り裂くように駆け抜ける。
 
 十数分の後、その場に立っていたのは母のみだった。
 息が切れていた。息が切れていないように見えたのは戦っていたから我慢していただけで実際、母にとってもその訓練はかなりの難度だったらしい。

「……これが、シューティングアーツ、よ、ギンガ、スバル。」

 疲れ、汗に塗れ、それでも笑う母。腰を落とした。

「……やっぱりこの人数は辛いわね。」

 晴れ晴れした笑顔で母はこちらに笑いかける。
 その時の笑顔は今も彼女の記憶に焼き付いている。
 母はリボルバーナックルを使わずに、魔導師十五人を倒した。デバイスを用いることなくバリアジャケットを使用した魔導師を倒したのだ。
 鮮烈な光景だった。それこそ記憶に残るほどに。

「……映像だけは残ってるんですが、見れば見るほど訳が分からなくなります。……正直どうやってあんなことが出来るのか、理解出来ないような技術ですよ。」

 参ったと言わんばかりにギンガが苦笑する。

「理解出来ない?」
「……たとえば、デスティニー無しで私に勝てますか?」

 ギンガの言葉を聞いて少し考える。
 デスティニー無しでギンガに勝つ。
 シンが現状デバイス無しで使える魔法。飛行。パルマフィオキーナ。この二つのみ。
 後は徒手空拳の格闘……平たく言えば殴り合いだ。

「無理ですね。」

 見得も外聞も無くシンは言った。
 不可能だからだ。
 殴り合いで言えばギンガの方が強いだろう。
 飛行出来ると言う点で地の利は自分のものかもしれない。
 だが、ウイングロードはそんな一切合切を台無しにする。
 仮に超近距離でパルマフィオキーナを最大威力で放つことが出来たとしても避けられるか、捌かれるかリボルビングステークで散らされて終わりだ。
 冷静に自身のスペックとギンガのスペック。双方を考えれば結果がそうなるのは自明の理である。

「生身の俺じゃギンガさんどころか、誰にも勝てません。」

 不貞腐れるでもなく淡々と事実を告げるシン。

「そうですね。今のシンの強さはデバイスに依存したモノですから。デバイス無しで私に勝つことは無理でしょうね。」

 ギンガもまた淡々と呟く。別に今更シンに気を使うようなこともない。

「けど、母はそれが出来たんだと思います。デバイス……というよりは魔法ですね。そういった攻撃手段無しで魔導師を制圧することが。」
「……。」
「ここからは私の勝手な推測なんですが……多分、母にはこれから誰がどう動いて何をしようとしているのか、全て見えていたんじゃないかと思ってます。戦闘の流れを支配するとでも言うんでしょうか……私が使うような先読みよりも遥かに高度な、本当にどうやってそんなことが出来るのか理解できない技術です。」

 言葉も無い。シンには想像も出来ない技術だった。
 そして、同時に彼は思った。自分には縁の無いモノだな、と。
 強く。ただ強く。敵よりも強く。味方よりも強く。誰よりも何よりも強く。そんな物騒な願いを持った人間が力の誘惑から逃れられる訳も無い。
 求めるモノは力。誰よりも強い力。
 力だけでは救えない。けれど力があれば守れる。
 そんな歪んだ欲望の結晶ともいえる魔法が先日、デスティニーから発動した高速活動魔法エクストリームブラストである。
 
 今日、シンはエクストリームブラストを問題なく使用するヒントが無いかと考えてギンガにシューティングアーツについて聞いたのだった。
 肉体に干渉し、反射速度を向上させ、フィオキーナによる高速移動により無理矢理、加速した体感時間と肉体の運動を摺り合わせ同一化させる魔法。
 フェイト・T・ハラオウン並みの速度を防御力の低下を起こさずに行うソレの効果は絶大なものがあり、以前のトーレ戦を見れば分かる通りエクストリームブラストを使用した状態のシン・アスカの戦闘力はフェイト・T・ハラオウンと同等もしくはそれ以上――つまり現役のSランク魔導師と同等以上ということになる。

 Sランク魔導師とは例えるならモビルスーツのようなものだ。
 装甲や重量、速度と言った部分ではない。純粋な火力などの攻撃能力のみを見た時、Sランク魔導師とはモビルスーツと同等と言っても良い。
 つまり一騎当千。一般人から見れば化け物と思われても差し支えの無いほどの規格外の存在である。
 
 シン・アスカの基本戦闘能力はB~AA程の強さである。
 それがエクストリームブラストという魔法を使っただけでSランク――それもS+もしくはSSほどの――強さを手に入れるのだ。絶大な効果と言わずに何と言おう。
 
 だが、その絶大な効果に比して、その代償もまた大きい。
 心臓や筋肉、血管、その他全ての内臓や骨格など自身の肉体に凄まじい負荷がかかるのだ。
 比喩ではなく心臓は破裂しそうなほどに高速で鼓動を繰り返し、全身に血液を送り込む。
 常の数倍から十数倍の速度で全身を駆け巡る血液は血管を引き裂かんばかりにせめぎ立てていく。
 膨れ上がった血管は腕や足などの肉体の末端部分を膨れ上がらせ、それを待機状態のフィオキーナが全身から押さえつける。
 押さえつけることによって破裂しそうな血管は無理矢理収縮し辛うじてその機能を維持できる。
 もちろん、重力制御・慣性制御等の魔法を同時に併用することでその負荷は減少するだろう。
 だが、未だ魔法を覚えて間もないシンがそんなモノを使えるはずもない――シンはそもそも制御という類の魔法が苦手である。

 故に八神はやてはこの魔法を原則使用禁止とした。
 使う度に吐血し昏倒する魔法など余程切羽詰った状態以外では使ってもらう訳にはいかないからだ。部隊の体裁的にも、彼女の精神的にも。
 結果、シン・アスカの新たな武器は禁じられた。はやてが許可を出さない限りは使わないと言う誓約を。
 シンも、はやての意見に逆らうつもりは無いし、正直彼女の意見には同意している。
 アレは確かに危険な魔法だと誰よりも身を持って知っているのだから。
 ――無論、有事には躊躇い無く使うつもりではあった。命の危険があろうと無かろうと必要であれば使う。
 戦闘とはそういうものだ。
 
 ナンバーズと自らを呼んでいたあの女。
 あの女の戦闘能力は現在の6課の魔導師の誰よりも上だと。
 シグナムやヴィータ、フェイトであれば渡り合える。
 彼女達が手を組めばもしかしたら勝てるかもしれない――つまり、単体では決して勝てはしない。
 速度領域が違い過ぎる。

 あの速度に追い縋るにはどうしてもフェイトと同等の速度が必要になる。
 そしてあの高速と両立させているあの武装。
 大剣や爪、盾に変化するあの紅い羽根。
 あの速度を維持しながらあの防御力と攻撃力を持つ。
 そんな敵に勝とうと思えば無理をする必要が出てくる。
 
 つまり、エクストリームブラスト無しでは確実に負ける。
 もし、あのレベルの敵が同時に二人現れたならその時点で終わりだ。全員が八つ裂きにされて終わるだけだろう。
 だからこそシンはエクストリームブラストに使えるような技術が無いかを探していたのだ。
 
 発端は、グラディスの言葉だった。
 身体を鍛えろ。彼はそう言った。今のシンの肉体では耐えられない、と。
 だが、かと言ってエクストリームブラストに耐えられる肉体を手に入れるなどいつになるか分からない。
 人間の身体はそんな急激に強化されたりはしないのだから。
 その為にシンはシューティングアーツから何かしら使えるような技が無いかとも考え聞いたのだが――結果は少なくともシンにとって役に立つようなモノではないということだった。

 当然といえば当然だ。
 身体を鍛え強靭な肉体を手に入れる為にはやはり地道な肉体の鍛錬しかないのだから。

「シン?」

 ギンガがこちらを覗きこんでいた。
 一瞬、吐息が触れ合うほどに近づく二人。
 蒼い瞳と蒼い髪。瞳は透き通るように澄んでいて、彼を一つも疑ってなどいない――もしかしたら彼の内奥をすら見通しているのかもしれない――ように見える。

 ギンガは意識せず。シンだけがその吐息が触れ合う距離を意識する。
 
 彼女はこうやって時々驚くほど無防備に近づいてくることがある――彼は、それが苦手でいつも顔を背ける。
 女の視線は苦手だった。
 女の視線は苦い思い出ばかりを浮かび上がらせる。
 泣いている女とか苦しんでいる女とか死んでいく女とか。
 幸せそうに笑う女などどこになかった。本当に碌な思い出が思い浮かばない。
 
 埒の無い思考を切り捨て、視線を定める。顔を背けて目を逸らした方向には白い壁があった。
 その上を見ると時計がある。彼はその時計を見ている振りをしながら、視線を明後日の方向に向けて、呟いた。

「いや、ギンガさんのお母さんは凄いんだなあと、思って。」

 嘘八百もいいところだ。だが、ギンガはそれに異を唱えることもなく会話を続ける。

「ええ。凄い人でした。当代切っての魔導師殺し(カウンターマギウス)クイント・ナカジマ。」

 俯いて、右の拳に眼をやるギンガ。
 開いて、閉じて、開いて、閉じてを繰り返す――瞳に浮かぶ感情は……郷愁だろうか。
 忘れていく――けれど忘れたくない思い出。
 ギンガは過去に思いを馳せた。
 彼女の父――ゲンヤから聞いた母の話を。


 ギンガの母が使ったと言うその技術。シンにとってその力はこの世で最も縁遠い力と言っていい。
 一生かかったとしても彼には得ることの出来ない力だろう。

 ギンガの母――つまりクイント・ナカジマが幼い頃の彼女の前で使った技術。
 それは彼女の予想通りに戦闘経験による戦闘の構築と支配である。
 
 シューティングアーツ。
 ギンガやスバルのように近接に特化――というか固定――した魔導師が使う魔法――むしろ、“武術”である。

 射程距離というものが殆ど存在しない前線にいることしか出来ない非常に特殊なタイプである。
 非常に特殊――つまりそれを使う人間は殆ど存在していないことを意味する。
 考えてみれば分かるが魔法というモノはすべからく距離を取って“撃つ”ものである。
 実際、ほぼ全ての魔導師はそういった魔法を使う。
 近距離で戦う者も当然いるだろうが、それだけしか出来ないなどという魔導師は殆ど存在しない――いるとすればそれは単なる落ちこぼれだ。
 このシューティングアーツという武術は、そんな落ちこぼれが他の魔導師に打ち克つ為に編み出した武術である。
 落ちこぼれ――クイント・ナカジマが。

 普通の魔導師ならばこんな武術など考え付かないし考える必要も無い。
 真っ当な魔法が使えれば、そんな特殊な技術を構築する必要などどこにも無いからだ。
 だが、クイント・ナカジマは真っ当な魔法など一切使えなかった。いや、使えることは使えるのだが、魔法を撃つことが極端に苦手だったのだ。
 撃ち出すと言う行為。その瞬間に何度も何度も魔法はあらぬ方向に飛んで行った。
 時には暴発もした。おかげで彼女は何度も何度も挫折を繰り返した。スバルやギンガのような順風満帆な昇進など彼女には一度も無かった。
 
 出来ること言えば、格闘術くらいしかなかった。だから彼女は格闘術に全てを賭けた。
 全霊を賭して研鑽を重ね――そして、やっとの思いで昇進し前線を志望し、これからは自分の力を活かせると思っていた彼女は後方待機に回された。
 
 理由は一つ。射程距離が存在しない彼女は魔導師同士の戦闘では邪魔にしかならないからだった。
 彼女は再び挫折した。その拳に懸けた数年は単なる徒労に終わってしまった。
 才能が無いと言う自分の不運を嘆き、悲嘆に暮れた。生活は荒んでいく。行き場の無い怒りが彼女をどんどんと鬱屈させていった。
 
 そんな時、彼女のいた部署に配属されたのがギンガの父――つまりゲンヤだった。
 彼女は一目見て、彼が気に入らなかった。凛とした佇まい。それでいてどこか柔和で落ち着いた雰囲気。
 クイントよりも後輩で魔法を使えない人間。彼の中の何かが気に食わなかった。
 だから鬱屈した彼女にとって彼は格好の八つ当たりの材料となる――はずだった。
 クイントがゲンヤに突っかかっていった時、ゲンヤは冷めた眼で彼女を眺めながらこう言った。

「そんなにいじけて、面白いもんですかね。」

 鬱屈した行き場の無い怒りが、行き場を見つけて、弾け飛んだ。
 情けも容赦も一切無く彼女はゲンヤに向けて攻撃した。
 魔法を使えない一般人を――だが、次の瞬間、床に倒れていたのはゲンヤではなくクイントだった。
 彼女には何がどうなったのかなど理解できなかった。
 魔法を使って殴ろうとした瞬間、世界が反転し、気がつけば見慣れた天井が視線上に存在していた。
 意識が無くなる直前に自分を見下ろすゲンヤと眼があった。
 
 その時の構えから彼が自分を投げたのだと理解した――その時、彼女は意識をなくした。
 それから、彼女はゲンヤについて調べ出した。
 幾ら落ちこぼれの魔導師とは言え魔法を使えない人間が魔導師に勝つなど聞いたことが無かったからだ。
 煮え滾る怒りを抑えながら彼女はゲンヤについて聞きまわった。
 
 そして、ゲンヤの友人という人間と接触することに成功する――ここまで来ると殆ど探偵並の執念だった。

「ゲンヤ?ああ、アイツは元々武装隊志望だったんだけどね、魔法使えないからって試験するまでもなく落とされてさ、それで後方勤務を選んだはずだよ。」

 その時、彼女は自身の耳を疑った。
 武装隊?彼のように魔法を使えない人間が?

「アイツ強いからねー。魔法を使えない人間に用は無いって言ったその時の試験官と喧嘩になって結局勝ったらしいけど……アイツの夢はそこでお蔵入り。なにぶん、魔法が幅を利かすこの世の中で魔法を使えないって言うのは結構致命的だからね。」

 夢?彼女はその時、反射的にゲンヤの友人に聞いた。夢とは何かと。

「魔法を使えない人間でもやれば出来るんだって、ね。アイツはいつもそうやって自分を鍛えてたから。後方勤務を選んだのは、諦めたくなかったからだろうね。やれば出来るって言うのをさ。」

 その時、どうして彼女は彼が気に入らなかったのかを理解し、同時にあの時の彼の言葉の意味を理解する。
 彼女達二人は似ているのだ。
 足りないモノがあって、夢を諦め無ければいけなかったこと――二人とも落ちこぼれであること。
 けれど、一方は諦め、一方はそれでも諦めなかった。
 
 それが大きな違いで、自分はそれが認められなかっただけなのだ。
 けれど、どうしてここまでゲンヤの友達はクイントに伝えてくれるのだろうか。
 不思議に思って、聞くとその男はこう言った。

「君は結構アイツの好みっぽいしね。いい加減、ゲンヤにも春が来ないかなって期待して言っただけ……ってちょっと、何で拳振りかぶってんの!?」

 赤面しながらクイントはぼそぼそと呟いた。何で自分があのゲンヤの春到来に手を貸さなければいけないのか、と。
 そういうと男は心底不思議そうに話す。

「いや、ほら、わざわざここまで調べに来るなんてよっぽど好きなんだなあと思ったんだけど……あれ、違うの……って、ちょっと!振りかぶるの無し……ってぎゃああああああ!!!」

 それから後、彼女はゲンヤと話をするようになっていく。

 ゲンヤと仲良くなっていくクイント。
 初めは敬語。それから敬語は止めて対等の口調で……いつしか二人は互いを相棒として認識するようになっていく。
 その中でクイントはゲンヤからある武術の話を聞く。
 中島流という武術を。
 ゲンヤ・ナカジマの家に伝わる徒手空拳の武術。
 打撃を主体に投げや組み技などを網羅した古流武術の類、であるらしい。
 何よりもクイントの眼を惹いたのはそのコンセプト――武器を持った相手、或いは人以外の何かに勝つ為に作られた武術という部分だった。

 ゲンヤが武装隊に入ろうとしたのは生身の人間が魔導師に勝つ為に彼なりにアレンジしたからだった。
 結果、中島流は対武器格闘術から、対魔法格闘術に生まれ変わった――はずだった。
 だが、それでも魔導師には敵わないのだとゲンヤは言った。

「どんなに身体を鍛えても、魔導師より早くは動けない。魔導師より強い一撃を放つことは出来ない。 だが、そんなことはどうでもいい。間合いに入ることが出来れば、速度も威力も関係無い。だが、その間合いに入ることが出来ないんだ。俺らみたいな魔法使えない人間だとな。」

 そう、寂しく呟くゲンヤを見て彼女はゲンヤにあることを伝えた――そのゲンヤの悩みは彼女の悩みと同じだったからかもしれない。
 彼女の伝えたことは簡単だった。

「私がゲンヤの夢を継ぐよ。」

 と。
 だから、中島流を教えてくれと。
 当然ゲンヤが簡単に教えるはずも無かった。
 だが、何度も何度もゲンヤに教えてくれと頼むクイントや、いつの間にかクイントとも仲良くなっていた彼の友達の後押し――曰く「えー、別にいいじゃん。どっちみちクイントちゃんもナカジマ性になるんだしさ。」その後赤面したゲンヤが三面六手の鬼神となって彼に襲い掛かったのは言うまでも無い――によって、ゲンヤはクイントに中島流を教えることになる。

 これがシューティングアーツの生まれた発端。
 一人の男と一人の女が互いの夢を重ね合わせた結果、中島流はゲンヤからクイントに伝えられ、対魔導師格闘術「シューティングアーツ」として生まれ変わって行ったのだった。

 その後、彼女は管理局の中でも名うての強力な魔導師として頭角を現していく。
 そして大方の予想通りに結婚。その後、二人の子供を引き取り、育てていく中――彼女は命を落とした。
 彼女は弱かった訳ではない。そしてシューティングアーツが通用しなかった訳でもない。

 ただ、不運が重なったのだ。
 大多数のガジェットドローンと移動を限定される室内。
 数の暴力と狭さの暴力。
 この二つが重なった挙句に、後方支援型の魔導師であるメガーヌ・アルピーノを守りながらという絶対的に不利な状況での戦闘。

 そんな最悪の状況で彼女が勝てるはずもなかった。
 そして、中島流――シューティングアーツは受け継がれることなく、そこで途絶えることになる。
 また幼いギンガやスバルが学んだシューティングアーツは全体の僅か数割程度でしかなかったからだ。
 彼女たちはそれを反復し研鑽を積み重ね――けれど、未だクイントのいた領域には辿り着けていない。
 
 ゲンヤは彼女達にそれを教えてはいない。彼ならば教えられる。クイントを鍛えたのは誰あろう、ゲンヤなのだから。
 だが、娘がクイントと同じようになることを彼は恐れ未だ娘達にシューティングアーツ――つまり中島流の扉を開けないでいる。
 その扉はいつ開かれるのか。
 それは誰にも分からない。


 シンと向かい合いギンガは自分の左手を眺めた。
 機械混じりの自分の中で、本当に機械仕掛けの偽物の腕を。

「いつか、私は、あの人に追いつけるのか。まだ、分かりませんけど。」
 
 拳を閉じて、握り締め、瞳を閉じた。

 ――その瞳に浮かぶ思い出はどんなものなのか。シンはそれが少しだけ気になった。



[18692] 番外編 その1 「夢」
Name: spam◆93e659da ID:17f428f0
Date: 2010/05/17 00:08
 これはある一人の男の物語。
 男が辿る可能性の一つ。
 未だ定まらぬ未来の物語。


 夢、を、見ていたかった。
 夢で、あってほしかった。
 どうしてだろう。
 どうして、こんなにも世界は残酷なのだろう。

 ――願わくば、起きた瞬間、これが夢であることを願って
 彼は――シン・アスカは瞳を閉じた

「ほら、シン!!起きてください!!」
「うーん、もうちょっと……」
「ああ、もうフェイトさんもまた潜り込んで!!週に一回はシンも休みたいって言ってたじゃないですか!!」

 ――隣に眠るYシャツ一枚の金髪の女性――フェイト・T・ハラオウン。
 そしてベッドの前でエプロンをつけて、こちらに向かって怒鳴る青色の髪の女性――ギンガ・ナカジマ。
 ふと、身体に感じる柔らかい感触――フェイトが顔を近づけていた。

「ねえ、シン……私、今日……休みなんだ……」

 熱っぽいフェイトの吐息。瞳を向ければ、彼女の瞳は少しだけ潤んでいた。
 そして、おもむろに自分のYシャツに手を掛けて、そのボタンを一つパチンと外した。
 その様子を見て、青色の髪の女性は慌てて、彼女を引き剥がす。

「だ、だから、朝っぱらから寝ぼけて何やってるんですか、貴女は!?ああ、脱ぐな!!脱ぐなああ!!」

 そうやって、押し問答を繰り返す二人。自分が知る彼女達よりも年月を経たような二人は、朝日の中で輝いていて、綺麗で、幸せそうで――

「……シン、駄目……?」

 そうして、ギンガを片手で押しのけて、もう一つ、ボタンを外す――少しだけ赤らめたその顔。
 無邪気な天使のようでいて、女としての喜びに満ち溢れたその素顔。
 潤んだ瞳と相まって、彼女の鮮烈な美しさを更に際立たせ――その後ろでジタバタしているギンガを抑える手は青筋すら浮かんでいるが――シン・アスカは見惚れてしまった。
 そして、その桜色の唇が言葉を紡ぐ――淫靡さすら伴わせて。

「ね?……しよ?」

 ドクンと心臓が大きく鳴り響く――彼の人生の中でこれほど響いたことは無かったほどに大きく。

(する?何をするんですか?ああ、あれか。朝食を一緒に食べようとか、模擬戦をしようとか、そういうコトなのか。あはは、なら、そんな風に変な格好しなくても、いいじゃないですか、フェイトさん。)

 言葉にならず、パクパクと口を動かすシン。緊張と混乱のあまり、喋っているはずなのに言葉が出ていない。

「……う、ん」

 悩ましげな声で彼女が擦り寄ってくる。無論、奥でジタバタするギンガを押さえつけたままだ。

「ねえ……シン?」
「あ、あはは」
(ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ)

 乾いた笑い。
 もはや笑うしかなかった。極度の混乱は彼から真っ当な思考を停止させる。
 その様は正に蛇に睨まれた蛙――それ、そのものだったから。金色の女豹はそうして、ニッコリと笑うと彼に飛び掛ろうとして――

「だから――しよ?じゃないって言ってるでしょおおおおおおお!!!!」

 一撃必殺――リボルビングステーク。ギンガ・ナカジマ、渾身の一手はフェイトの手を弾き返し、彼女に迫る。

「――ソニックムーブ。」

 詠唱――発動。
 フェイトの姿が掻き消える。そして、彼女はその裸身にYシャツ一枚を着ただけという姿で壁際に立っていた――無論、下着は黒である。

「……おはよう、ギンガ。」
「――おはようございます、フェイトさん。」

 視線と視線が交錯する。
 裸Yシャツの女豹はその瞳に邪魔されたと言う敵意を滲ませ、エプロンの女豹は抜け駆けしたことへの敵意を滲ませ。
 空気が帯電する。比喩ではなく、現実として。

「……夢だ、夢に違いない。」

 ガクガクと震えながらシンは呟く。
 自分が知る二人は決してこんな状況を起こさないし、起こる余地も無い。
 何がどうなって、こうなっているのか。意味が分からないし、さっぱり意味が分からない。

「……寝よう。」

 シン・アスカは――そこで瞳を閉じて意識を手放した。
 男の名前はシン・アスカ。
 機動6課ライトニング分隊所属の一人の魔導師。そして――生まれ育った世界から弾かれた負け犬だ。
 ……そのはずだ。多分。


「……夢だ。きっと夢だ。」
「シン、本当に大丈夫ですか?」
「……シン、大丈夫?」

 女性二人に挟まれるカタチでシンは歩く。
 もはや何だコリャである。

(落ち着け、落ち着けよ、シン・アスカ。クールだ、クールになるんだ。まず、昨日は何してた……?)

 いつも通りである。
 シン・アスカの日常など、毎日基本的に変わらない――つまりは訓練と模擬戦と事務。
 そして夜はあの化け物の映像を繰り返し見続けて、意識を失うようにして眠りについた。
 いつも通りだ。夕飯のメニューまで完璧である。

(じゃ、どうなってるんだ!!)

 心中で叫ぶ。出来ればあの青い空に向かって叫びたい。何がどうなってるんだと。
 だが、傍らの二人はそんなシンの様子を本気で心配している。

(い、いい人なんだ、いい人なのは間違いないんだ……!!)

 だが、こう身体を寄せてくるのは何故だ。何で、腕を絡めたがる。何でそんなに頬が赤い。何でそんなに近づいてくる。
 今、分かることは一つ。
 自分はどこか違う世界――恐らくは未来に飛んできた。そういうことだ。
 先ほど見たカレンダーには新暦82年――つまりは、シンがいた時代から6年後の世界である。
 とにかく、そんなファンタジーのような話は決してありえないことではあるが、現実として起こっている以上はどうしようもない。
 元より、自分と言う存在自体が得体の知れない力で、この世界に現れたのだ。
 また、別の世界――時代に行くくらいあるだろう。多分。むしろ、問題はそこではない。
 別の世界に移動したとか別の時代に移動したなど問題ではないのだ。
 問題なのは、目の前の二人。
 何がどうなって、“あの”フェイトがこれほどに変貌したのかは分からないが。と言うか知りたくも無い。
 大体、どうしたら自分とこの二人が同棲するなどというコトが起こりうるのか。
 一体未来の自分は何をしたんだ。そう、言いたくなる。

(“俺”はいつもこんなことをしてるのか!何やってるんだよ、俺は!!)

 自分に向けて恨みを吐いても仕方が無いが吐きたくもなる。
 傍から見れば、極楽に見えるかもしれない。だが、本人にしてみると最悪だ。彼はこんな状況に耐えられない。

「シン?」

 フェイトがいきなり身体を寄せてくる。そして腕を取ると、そのふくよかな胸を――押しつけてきた。
 シンの頬が赤く染まる。そして背筋に鳥肌が立ち出す。元来、こういうシチュエーションに慣れていないのだ。
 故に耐性などまるで無い彼は動揺する。
 いつもの面影など今の彼には皆無――単なるヘタレである。

「ちょ、ちょっとフェイトさん、当たってる、当たってる!!」

 叫ぶシンに対してフェイトは少しだけ得意げにニッコリと笑って、言い放つ。無論、頬を染めて、だ。

「当ててるんだよ?」
(ノーーーーーウ!!!!ちょっと待て!!アンタ、そんなキャラじゃないだろ!?)

 その言葉に対抗したようにフェイトの逆側――ギンガも残っていた腕を取ると身体を押し付けてきた。

「……」

 だが、こちらはシンと同じく赤面しながらだった。微妙に俯いている。

「……な、何してるんですか」
「……当ててます。」
(うおおおおい!!アンタ何、対抗意識燃やしてんだああああああ!!!!)

 心中で叫ぶシン。フェイトさんとギンガさんのオーバーヒートっぷりにシンは翻弄されまくり、もはや面影などまるでありません。

「ちょ、ちょっと待ってくださいね!?お、俺は、別に、」
「?」
「なんですか?」
「い、いや、俺は……俺は……そうだ!!!実はですね、実はですね……!!」

 ――考えろ、シン・アスカ。どうしたら、この場を切り抜けられる?どうしたらいい?逃げるか――無理だ。あのソニックムーブの前で逃げるなど不可能。ならば、正面突破――リボルビングステークで貫かれます。どうする?どうする?シン・アスカならどうする!?

「あ」

 その時、シンに電流走る――そう、天啓が閃いた。

(……そうだ、これなら――!!)

 にやり、と笑うシン。
 いきなり微笑んだシンに対してフェイトとギンガはきょとんとした顔をする――ひとつ断っておくと彼女達にとってもこれが日常と言う訳ではなかった。
 幾らなんでもそれでは変態である。
 では何故彼女達がこんなことをしているのか?
 それはたまたまシンがある日に居合わせたからだ。
 ある、大事な、“約束の日”に。だから、今日の彼女たちは“特別”なのだ。

 ――無論、そのことをシン・アスカが知るはずも無いのだが。

「どうしたの?」
「なんなんですか、シン?」

 二人の顔がこちらに向けられる。
 青色の瞳と赤色の瞳が彼を射抜く――そして、口を開こうとし、止まる。
 良く考えたら、このアイデア、やばいんじゃないか――というか引っかかる訳が無いと気付いたからだ。
 だが、口に出そうとした言葉は止まらない。

「き、きお、」
「キオ?」
「……誰ですか、それ?」

 二人とも誰かの名前と勘違いしているらしい。ギンガなどは眉を吊り上げている。
 ――言うしか無い。
 シンは意を決して口を開き――

「き、記憶喪失なんでぷぽっ」

 噛んだ。噛みまくった。

「……」
「……」

 その場に沈黙が流れた。一陣の風が流れていく――どこかでカラスが鳴いているような声がした。

「だ、だから、実は、皆さんのことがわからない……」

 一応、頭を抑えて、そんな感じを装ってみた。

(い、今更、無理があったか?)

 ありすぎである。これで誤魔化させるとしたら、それはどれだけ――

「本当に!?」

 誤魔化せた。金色の女豹は問題なく誤魔化せてしまった。

(マジかよ、この人!?)
「……ふーん、そうですか。」

 だが、流石にギンガは騙せない。というかこっちの反応が普通である。
 シンは記憶喪失と聞いて本気で心配し出すフェイトと半眼で睨み付けるギンガを見て、思った。

(胃が、痛い。)


「それで此処に?」
「ええ、シャマル先生なら何とかなら無いかなと。」
「……ど、どうも。」

 シンは申し訳なさそうにシャマルに向かって頭を下げる。
 彼女は今、教導隊の医務室に配属されていた。

「記憶喪失ねえ……また、ギンガが吹き飛ばしたんじゃないでしょうね?」

 じとり、とギンガを睨み付けるシャマル。そう言われてギンガは慌てて、否定する。

「ち、違いますよ、今回は別に、そういうのじゃ……」
(今回ってことはたまにあるのか……)

 “自分”は一体どういう状況で生きているんだろうか。
 というかどうしてフェイトとギンガの二人と同棲してるのに誰も何も言わないのだろうか。
 シンはそれが不思議で仕方がなかった。

「それじゃフェイトちゃん?」
「わ、私は今日はただシンとたまにはイチャイチャしたいなと」
(……耳に毒だ。)

 聞こえない振りをするシン。
 本当に耳に毒だった――それは甘い砂糖菓子のような毒ではあったが。

「うーん、これと言っておかしなところは無いけど――昨日は、皆何してたの?」
「確か、私は帰って、夕飯作ってたら、フェイトさんとシンが、キャバクラへの潜入捜査から帰ってきて、また触られたってフェイトさんが泣くっていうか、かなり怒ってて……」
「それで私がシンと一緒にお風呂に入ろうとしたら、ギンガに邪魔されてって言うか吹き飛ばされて……」
「……それでシンがとりあえず風邪っぽいから寝るよって言って……」
「全員、寝静まった後にシンのベッドに私が……潜り込んで、終わり、かな?」
「……もういいわ、フェイトちゃん、ギンガ、ありがとう。」

 頭に手を当て、瞳をつむるシャマル。
 それはそうだろう。彼女たちの話を聞いていたシンも頭を抱えたくなったくらいだ。
 大体、何で潜入捜査?
 そして、どうして自分がフェイトと一緒に潜入捜査などやっているのか――考えたくない。何か凄く嫌な予感がする。

 だが、そんな頭が痛くなる返答にもシャマルはしっかりと答えを返した。
 その様は正にキャリアウーマン。白衣を着こなす女性は一味違う。
 そんな馬鹿なことをシンは思った。

「となると今関わっていた案件にでも関係あるのかしらね?」
「……そうなると」

 ギンガが呟いた。

「はやてちゃんは今里帰りしてて、いないから……シグナムだったら、話聞いてるかもしれないわね。聞いてみたら、どう?」

 そう言ってシャマルはギンガにシグナムの居場所を伝える。

(シグナムさん……か。会いたいような会いたくないような。)

 嫌な予感がするのだ。どうにも厄介事はまだ終わっていない。
 そんな予感をひしひしと感じるシンだった。


「記憶喪失だと?」
「……はい。」

 そう言って黙り込んでいるシンを見やるシグナム。
 シグナム――烈火の将の異名を取る彼女は、ここ、時空管理局本局に勤めている。
 ちなみにヴィータ、ザフィーラ、リインフォースⅡの皆も同じく時空管理局勤めである。
 主である八神はやては――実を言うと時空管理局にはいない。
 これを語るべきは、この物語では無いので割愛する。
 
「……ギンガが吹き飛ばしたのか?」

 じとり、とギンガを睨むシグナム。
 ギンガはそれに慌てて手を振って否定する。

「違いますよ!」
「では、テスタロッサか?」

 視線を受けるとフェイトは唇を吊り上げ、ヒクヒクと震わせながら、半眼で睨みつける。

「シ、シグナム……私がそんなことすると思いますか?」
(……俺、よく生きてるよな。)

 切実にそう思った。シャマルだけなら、まだ彼女の茶目っ気なのだろうと思ったが、二人も続くとさすがに怖くなってくる。
 なんだろう。未来の自分はそんなに毎日彼女達二人に吹き飛ばされているのだろうか。

「……果報者だな、貴様は。」

 そう言って、シグナムはシンの方を見やるとニヤリと微笑む。

「ど、どういたしまして、です。」

 頭を下げるシンを見ながらシグナムは、デバイスを操作して通信を開始――そして、通話を始めた。

「――ああ、今、三人が来てる。こちらに来れるか?」
「……シグナム、誰ですか?」
「ん?いや、スバルとティアナがちょうどこっちに来ていたところだったからな。どうせ、しばらく会っていないんだろう?アスカのこともある。顔を会わせてみたらどうだ?」
(スバルとティアナ……か。さすがにあいつらもってことは無いよな。)

 一縷の望み。それは流石にあいつらまでおかしくなってないだろうと言うものだ。
 それはそうだ。ティアナ・ランスター、スバル・ナカジマ。彼女達は年下でありながら自分などよりもよほどしっかりしているのだから。
 ……無論、それも簡単に破られる訳ではあるが。


「記憶喪失……?」

 そう、スバルはそう呟くとギンガに向き直る。

「ギン姉……またやったの?」
「あ、あのね、スバル……」

 先ほどと同じ質問にギンガは、少々疲れたように返答する。

「フェイトさんですか?」
「だから、私は別に……!」

 その横ではフェイトに向かって、ティアナが半眼でスバルと同じ質問を繰り返す。

(俺って本当に何で生きてるんだ?)

 本当に、切実にそう思った。
 シン・アスカ。彼はコーディネイターだ。確かにその肉体強度は通常よりも頑強かもしれない。
 だが、毎日毎日、非殺傷設定の魔法を喰らい続けて無事でいられるのだろうか。
 あの金色の大剣とか、どでかいドリルとか。
 
(……いや、死ぬだろ。)

 一も二も無く、否定するシン。あれほどの一撃を喰らい続けるなどどんな人間であろうと不可能である。
 ひっそりとガクガクと心中で震えていたシンを放って、スバルとティアナは話を続ける。

「けど、シン君も幸せだよね、本当に。こんな可愛い人二人も捕まえちゃってさ。」
「……本当にね。普通は単なる浮気者で断罪されるところだっていうのに……・」

 そういうティアナの表情はどこか悔しげだった。
 何と言うか――“逃した魚は、案外、大きかった”、と言いたげな。

「あれ?ティア、どうしたの?」
「ああ、別に、何も……ない、わ……」
 
 そのほんの僅かなティアナの動作を見て――ギンガとフェイトは目つきを変える。
 ――女豹の視線へと。

「ティアナ……」
「まさか、ね。」

 低く、底冷えするような声音を出して、二人はティアナへと振り向く。
 ティアナはそれを見て、背筋に冷や汗が流れるのを止められなかった。

 ――ああ、やばい。

 脱兎の如く、ティアナ・ランスターは表情転換し、戦略的撤退を試みる。
 彼女は知っているからだ。こうなったこの二人がどれだけ危険かを。それゆえに、シン・アスカは管理局内で“猛獣使い”という二つ名を得るに至ったことを。

「な、何を誤解してるんですか、私はただ、アイツが浮気者の二股野郎って言いたかっただけ……」
「シンはどう思って……あれ、シン?」
「……逃げた?」

 シン・アスカは忽然と消えていた。厳密に言うと、脱兎の如く“逃げ出した”。


「……はあ、はあ、はあ……も、もう勘弁してくれ」

 逃げてきた場所は屋上。茜色に染まる世界。明らかに自分のいる場所とは違う、居心地の悪い世界。
 別にギンガやフェイトが嫌いな訳ではなかった。
 単純な話だ。
 ここは自分がいるべき場所じゃない。そう、思っただけだった。

「――俺は戻れる、のか?」

 不安を胸にシンは一人呟く。それが表情に出てしまっていたのだろうか。クスクスという笑い声が聞こえてきた。
 思わずそちらを振り向いた。
 そこには先客がいた。

「アンタは……」

 思わず、初めて会った時のような態度が表に出る。それはシン・アスカにとって何よりも“大事な”人間――八神はやて。

「何や、鳩が豆鉄砲食らったような顔しよって。」
「八神、部隊長。」
「へえ、ホントに入れ替わってるんやな。」

 そう言ってはやてはシンに向かって手を伸ばす。
 あれから6年と言う年月を経て、幼さを残していた彼女は、立派な女性になっていた。柔らかな微笑み――自分の前で決して見せない微笑み。

「ようこそ、シン・アスカ。ここは、未だ確定されて無い“未来”。キミが選んだ一つの結果――その可能性や。」

 茜色に染められた柔らかな微笑み。
 過去、鋼鉄の鎧を心に纏っていた女はそう、囁いた。


「俺が、選んだ、ひとつの結果って……」

 シンは呆然とその言葉に答えた。訳が、分からなかったからだ。流れていく状況が早すぎて何も理解出来ていない。
 八神はやてはそんなシンを見て、優しく諭すように話し出す。

「うん……まあ、要するに昔のシン――要するにキミのことやな、が、選んだ結果としてはじき出されたひとつの未来。要するに“あり得るかもしれない可能性”のひとつ、それだけや。キミの未来がこうなるって訳やない。別にずっと此処におるわけやない。どの道一晩寝たらそれで終わりや。だから、さっきみたいな泣きそうな顔はせんでも……」
「い、いや、俺は別にそんな風には……」
「ふふ、まあ、そういうことでええよ、シン。」

 泣きそう、と言う言葉に反応して、いきり立つシンに向かって笑いかけながら、はやては呟いた。
 不思議な感じだった。彼は八神はやてとこうやって笑い合いながらの会話などしたことが無かったから……どこか別人に見えたのだ。
 シンの知る彼女は策謀を巡らせ、鉄面皮を張り付かせた女性である。
 だが、今の彼女はサバサバとしたどこにでもいる――そう、当たり前の女性としてソコにいる。その二つがどうしても結びつかないのだ。
 だが、それはどうでもいい。そう、“どうでもいい”のだ。
 今、八神はやてはこう言った。
 “ここは未来”だと。それはつまり、現状のシンの状況を最も深く理解していることを意味する。
 自分が今此処にいる理由。それを彼女は最初に語ったのだから――その内容に付いてはよく理解は出来なかったが。

「八神、さん……ひとついいですか?」

 意を決してシンは口を開く。

「うん?」
「俺はどうしてここに?」
「まだ、時空が固定してないんや、“そっち”は。だから、特異点であるキミが揺らいでこっちにきた――まあ、そういうことやな。」
「……」

 さっぱり意味が分からなかった。

「ああ、意味は分からんでええよ?私だってよく分かってる訳やない。これ、単なる受け売りやしね。」
「受け売りって、誰の……?」

 シンの返答にはやては額に手を当て、思案するように呟く。

「んーと、キミは“まだ”知らない人や。そんでもって、キミ以外のフェイトちゃんとかは知ってる――そんでヴォルケンリッターや私にとって“大事になるはずだった”人、やな。……ま、キミはまだ知らんでもええことや。」

 そう言ってはやては屋上の手すりに手をかけて夕日を眺める。
 ぼかすような言い方は知らなくてもいいからなのだろうか。訳が、分からなかった。

「……」

 暫しの沈黙。そうしてふと、思いついたように呟いた。

「……俺は“守れて”いるんですか?」
「現在のコト――“キミにとっての未来”は教える訳のは駄目なんや。」
「駄目?」

 聞き返すシンにはやては苦笑しながら返事を返した。

「そう、教えられないってことや。色々とややこしいことになってんのよ。」
「だったら、それはいいから、もう一つ聞かせてください。」
「なんや?」
「どうして、俺は、ギンガさんとフェイトさんと……ああなったんですか?」

 脳裏に浮かぶ二人の姿。
 それがどうしても自分の知る二人に繋がらない。

「……それも本当は答えたら駄目なんやけど……ええか、それくらい。簡単にいくで?」
「は、はあ。」
「キミはあの二人に惚れた。あの二人はキミに惚れた。そしたら、ああなった。それだけや。」

 短かった。殆ど一言みたいなものだった。

「……み、短く無いですか?」
「仕方ない。あの頃のキミたちはそれだけやったんやから。」
「それだけ?」
「そうや。それだけでな……それだけでキミたちは……ここからは私が言うべきことやない。後はキミが現実で感じることや。」

 羨ましそうに、痛みに堪えるように、そして、愛しそうに、彼女は呟く。
 沈黙が場に行き渡る。そして、はやてがふたたび口を開いた。

「一つだけ、頼みがあるんや。」
「はい?」
「キミの時代の私――どんなんやった?」
「……怖くて、強くて、ずるい。そんな感じです。」
「……はは、そっか。怖くて、強くて、ずるい、か」

 力無く笑う彼女。それがどうしてか、泣いているように見えてしまって――

「……なあ、シン?」

 その時、聞いていれば良かった、と彼は後悔することになる。その声に込められた“想い”は一体何だったのだろうか、と。

「――お願いやから、“私”を見捨てんといてあげてな。」

 ――その言葉に返事を返すことすら出来ず、ただ間抜けな声を上げるしかなかった。

「……え?」
「……それだけや。ほんならな、シン。」

 そう言って八神はやては、屋上の扉を開けると消えていった。


 そうして、夜。
 シンは屋上に未だ佇んでいた。
 屋上から見える空は快晴――クラナガンにしては星が良く見えた。

「……シン。」
「……ギンガさん、ですか。」
「何をしてるかと思えば……屋上でぼうっとしてるなんて……まあ、シンらしいと言えばらしいですけど。」

 そう言ってギンガはシンの隣まで歩いてくる。

「ギンガさん?」
「……どうしてあんな嘘吐いたんですか?」
「嘘?」
「記憶喪失って、嘘です。」
「ああ、それは……」

 上手い言い訳は思いつかないが何か口走れ――そう思ったシンの言葉を遮るようにしてギンガが口を開いた。

「それと、貴方は、私の知ってるシンとは違う――そうですね?」

 声に厳しさはまるで込められていない。そこに込められた声はただ悪戯をした子供を叱るような響きだけがあった。

「……気付いてたんですか?」
「当たり前じゃ無いですか。何年一緒にいると思ってるんです?……それに、今日って私とシン、そしてフェイトさんがあの部屋に住み出した日なんですよ?何も言わない訳が無いんですよ。フェイトさんはそういうイベントを何よりも大事にしますから。」

 少しだけ寂しげな表情でギンガは続ける。

「子供の頃から、ああいうイベントに憧れてたらしいんです。だから、絶対にそういうイベントは忘れない。シンもそんなフェイトさんを知っているから、絶対に忘れたりはしません。」
「……“昔”のフェイトさんとは、まるで違うんですね。」
「昔……ああ、なるほど。貴方は、過去から来たんですか?」
「……驚かないんですか?」
「少し、心当たりがあるから……“私達”は分かるんです。」
 
 心当たり――それも、“これから”自分が知ることに関係しているのだろうか。
 自分がこれから辿るであろう未来。それは如何なるものなのか、シンには皆目検討がつかないでいた。
 だから、シン・アスカを心配しないのか、と思った。彼女はさっきから“まるで、そんなこと在るわけが無いと知っているように”、この時代のシン・アスカを心配していない。

「心配、しないんですか?」
「心配?ああ、そんなことある訳無いです。シンが私達を置いてどこかに行ってしまうなんて、ね。」

 そんな風に断言されてシンは相槌を返すしかない。訳が分からず、さりとて聞くことも出来ない――そんな状況であれば。

「……そうですか。」
「それで、朝起きた時、私たちが一緒にいたことに驚いたんですか?」
「そうです、ね。正直、何が何だか……」
「それで私たちから逃げようとした……そういうことですか?」
「……はい。」
「ま……思えば、私達にも色々あった訳だし……あの頃のシンならそんな反応するでしょうね。間違いなく。」

 クスクスと笑うギンガ。その様があまりにも幸せそうで、シンは思わず呟く。“落胆”を。

「……俺は、変わってしまったんですね。」

 自分はなりたかったモノには結局なれなかったということだろう――だって、ここはあまりにも暖かすぎる。
 もし自分がなりたかった自分になれたならば――自分がこんな世界で生きているなんて決してありえないのだから。
 辿り着きたかった場所はもっと冷たい場所。“彼女”を沈めたような凍てつくような場所。自分は出来るなら、そこで永遠に“守り”続けていきたかったはずだ。
 今、ここにいる――それは、辿りつきたかった場所には辿り着けなかった。そういうことだろう。
 自分は何も出来ていない。そんな暗い想いがシンを覆っていく――だが、ギンガはそれを否定するように口を開いた。

「……いいえ、貴方はあの時から何にも変わってない。貴方は、変わったんじゃない。ただ、私たちを“特別”に見てくれるようになっただけ。」

 しみじみと、“懐かしむ”ようにギンガはシンから目を離し、呟いた。
 視線の先は空――月光冴え渡る夜空。

「特別……?」

 思わず、彼女に眼を向けるシン。

「そりゃあ、私だってどうして私だけじゃないんだ、なんていつも思ってます。正直、フェイトさんと私のどっちとも一緒にいるなんて最低の人間だと思いますよ。……けど、」

 あまりにも耳が痛い。胸にグサグサ言葉が突き刺さる。

「貴方は“私たち”を選んだんです。どっちも選べないから、じゃない。どっちも選びたかったんです。私たちのどちらのことも好きなんだから。」

 ――それは意外な返答だった。
 自分は彼女達二人に対して、明らかに不誠実な態度を取りながら……・どちらも好きだと言い張って求めたと言うことだろうか。

(それは、本当に俺なのか。)

 結びつかなかった。今の自分とはまるで。
 器が大きい、とでも言えばいいのだろうか。それともただ単に馬鹿なだけなのか、それとも――ある意味では本当に誠実なのかもしれない。
 誰かが自分を好きで、その誰かを自分も好き。もし、その誰かが2人になった場合――誠実である為にはどちらかを切り捨てるしかない。
 そう、考えて、頭に一つ閃くことがあった。

(ああ、そうか。)

 確かにシン・アスカならばそんなことを考えてもおかしくはない。すんなりとどうして、“未来の”自分がこんなトンデモナイことをやらかしたのかが理解できた。
 シン・アスカは“選ばない”。選択を恐れるシン・アスカの精神は何かを選ぶと言うことを極端に恐れている。
 だからだろう。結局のところ、これも同じ、逃避の一つでしかないと言うことだろう――

「いいえ、違います。」

 考えを読まれていたのか、ギンガが真剣な顔でこちらを見つめていた。青い瞳。その瞳に映る自分。それは自分が知る自分よりも大人びていて――あまりにも優しそうだった。

「貴方は“選んだ”。私たち二人を。決して選択から逃げたとかじゃない。」

 ――その言葉はシンに再び混迷をもたらしていく。
 繋がらない。決して繋がらない。
 分からない。まるで分からない。
 そう、もっとも分からないこと。繋がらないこと。それは――変わり果てた自分。
 過去の存在である自分自身と未来の存在であるシン・アスカがまるで、繋がらない。重ならない。
 そうやって、俯き思い悩むシンを見て、ギンガは懐かしそうに微笑んで、呟いた。

「私は、貴方を愛しています。フェイトさんも同じく。そして――」

 一拍を置いて、彼女は少しだけ恥ずかしそうに呟いた。

「同じように貴方も私たちを愛してくれている。」
 
 シンはその言葉に俯いた顔を上げられない。けれど、ギンガはそんなことは気にしない。ただ、今の幸せをまるで“誇る”ようにして話を続ける。

「世間から見たら、おかしなことだらけかもしれません。けど、私たちはこれが幸せなんです。」

 そう言って微笑む彼女は本当に幸せそうで、シンは何も言えない。
 意味が分からない。理解出来ない事柄。
 彼女が続ける。

「この関係のこと言った時のリンディさんとか父さんは本当に見物でしたよ? リンディさんはクロウディア出してくるし、父さんは父さんで眼が本気だったし。……八神さんが出張ってきて、場を収めてくれなかったら多分とんでもないことになりかねませんでしたね。」
「……」

 何と言うかリアクションが取り辛過ぎる話題だった。
 二股――聞いたことだけはある単語。要するに最低な駄目人間と言うこと。
 リンディと言う人が誰かは知らないがクロウディアと言う単語には聞き覚えがあった――それは確か戦艦ではなかっただろうか。出してくるとは一体どういうことなのだろうか。
 そして――怒り狂ったゲンヤ。その顔を思い出すとシンはあまりにも居たたまれない気持ちで一杯になってくる。
 ……彼は本気で頭を抱えたくなった。

「でも、今は幸せです。あの日々が無かったら――貴方に出会わなかったらきっとこんなこと思いもよらなかったでしょうけど。」
「……どうも。」

 そう、シンは言葉を返すしかなかった。


「……本当に戻れるのか。」

 今、シンは自室――3LDKほどのアパートの一室である――で“一人”で寝ていた。
 ベッドに忍び込もうとしたフェイトはギンガに連れられていった。
 決まり手はソーラープレキサスブロー(鳩尾打ち)。
 一瞬で彼女の意識を刈り取っていた辺り、ギンガの実力もかなり上がっていた。正直、怖かった。

「……寝よう。」

 八神はやては一晩、寝れば、終わると言った。
 ならば、今はそれを信じるだけだ――それを信じるしか出来ないのだから。
 そう、思うと途端に眠気がやってきた。
 自分では気付かなかったが疲れていたのだ。
 訳の分からぬ世界に放り込まれて、その上理解できない状況に振り回されて。
 だから、直ぐにシンは寝入った。
 眠りは深く。落ちていくようにシン・アスカは意識を手放した。


「……なんか、変な夢を見たような気が……」

 そう言って起き上がるシン。
 その時、むにゅっと、以前ギンガの胸を揉んだ時と同じような感触を手に感じた。

「……な、に?」

 手が握り締めるその感触。
 そちらの方に目を向けて、フトンをどかすと――そこには、寝ぼけて部屋を間違えた挙句にフトンに潜り込んだ、フェイト・T・ハラオウンの姿があった。

「う……ん」

 服装はYシャツ一枚。下着は黒。デフォルトである。

「な、な、な」

 固まるシン。当然である。

『朝起きたらいきなり横に半裸の美女が寝ていたその胸を触っている。』

 そんな状況に陥るなどありえない。存在するはずが無い。幾らなんでもおかしい。
 だが――シンはどこかその光景に既視感を覚える。

(こんなこと、前にもどこかであったような……)

 だから、だろう。
 本来のシンなら、動きを止めることなく直ぐにでもフトンをかけ直して、フェイトを隠すはずなのに――別に何かしようとかそう言う訳ではないのだが――今回に限って、その動作が一瞬、遅れた。
 だが、その一瞬――刹那は何よりも大きく、そして罪深かった。
 ばん、と“いつも通り”にドアが開く。そこには“いつも通り”にシンを起こしに来たギンガ・ナカジマが現われた。
 正に、シンが、フトンをどかして、フェイトの肢体に釘付けになった一瞬――その一瞬を狙ったかのように。

「シン、朝です……よ……?」

 ギンガが固まる。シンも固まる。そして――フェイトのYシャツが少しだけ“ずれた”。

「ぶっ!!?」
「――あ」

 ぽろん、とずれた拍子に、それはこぼれ出でた。胸――そう、おっぱいが。
 シンは即座に顔を背け、ギンガは即座にフェイトにフトンをかけ、そして、

「ギンガさん……とりあえず話を聞いてください。」

 出来るだけ神妙に呟いた。自分は違うのだ。自分は何も知らないのだ、と。痴漢の冤罪で訴えられた被害者のように。

「朝っぱらから夜這いとはいい度胸じゃないですか、シン――!!!」
「だから、俺は何もやってないって、へぐぅっ!!?」

 叫び、シンを部屋の外へとリボルバーナックルで“吹き飛ばした”。
 ――何かこんなコトが前にもあったような。
 そんな既視感を再び覚えてシン・アスカは再び意識を失った。


 彼はこうして舞い戻った。
 自身のいるべき世界。短くも無く、そして長くも無い女難な日々へと。
 赤い瞳の異邦人に、夢の中での記憶は残ってはいない。ただ、残滓として残るのみ。
 彼らの行く末に如何なる未来が待ち受けているのか。
 それは未だ確定していないが故に、誰にも分からない――。



[18692] 番外編その2「SOWW~ぱられルンルン海水浴~ ビーチバレーにかけた情熱」
Name: spam◆93e659da ID:cc4806a2
Date: 2010/05/19 23:43
 この物語は俗に言う漫画祭りとかそこらへんのノリでお楽しみください。
 時期は大体二人が告白する前くらいの一種のパラレルワールドストーリーです。
 ギャグなのでキャラ壊れてる可能性アリです。ご愛嬌で許してください――いや、ホントすんません。

SOWW~ぱられルンルン海水浴~

「海だーーーー!!!!」
「スバル、恥ずかしいからやめて!!」

 どことなくスクール水着を連想させる色気も何も無い――ある意味ありまくる――水着を着て、両手を掲げ叫ぶスバルを諌めるティアナ――こちらはパレオをつけた水着で

ある。色は白。

「し、シンどうですか、この水着?」
 
 頬を赤らめ、シンに自分の水着姿を見せるギンガ・ナカジマ――胸のサイズはほどほどである。
 その水着は彼女にしては非常に際どいものであった。
 青いビキニ。露出面を極端に上げる事で男性の視聴率を上げると言う意図を含めた計算ずくのコーディネイト。
 隠す部位は効果的に。魅せる部位は効果的に。
 自身が自身を持って魅せられる部分のみを際立たせる立ち振る舞い。
 計算ずくの青いビキニの女。いつも結んでいる髪を今日は解き、代わりに添えられた麦藁帽子が彼女のビキニを際立たせている。
 綺麗――ではない。可愛い、と言った風体の姿。それが今日のギンガ・ナカジマだった。

「シン、この水着どうかな?」

 こちらはギンガとは対照的。何を考えているのか――恐らくは何も考えてはいまい。
 黒いビキニ。それも、かなりのきわどさを誇る。もはや水着ではない紐と布だ。
 そのはちきれんばかりの肢体を包み込むその布切れ。
 どこを見ても私は一向に構わないと言わんばかりの明けすけっぷり。これが、スイカかと言いたくなるほどの胸。
 そして動くたびに皺が出来るヒップ部分の水着――水着の張力限界に達しているのだ。
 いつ、弾け飛ぶか、分からないそんな崖っぷち。それを知っているのかどうなのか。
 少なくともフェイトにはそんな悲壮感は見当たらなかった――別に見られても恥ずかしいものではないからいいのだろうか。

「……フェイトさん、シンとは今私が話しているんです。邪魔しないでください。」
「ギンガこそ……シンは今私と話してるんだよ?」

 そして、当のシンといえば正直困っていた。
 シン・アスカ。19歳。来年には20歳である。
 別に女性が嫌いな訳ではない――むしろ好きだ。スケベだ。美乳好きだ。
 困っていると言うのはこの状況にだった。
 基本的に彼はモテた経験が無い――ルナマリアとの関係はなし崩しと言ってもいい自堕落な関係でしかない上に付き合っていた期間も短かった。
 実際、海に行った事は無い――と言うかプラントに海はないので当然だが。
 モテたことがないので当然だが、男性に水着を見てくれと言う女性は基本的にその男性に好意を持っているものだが、彼にはイマイチ理解出来ていない。
 要するにそんなに水着がどうこう言われてもどういうリアクションを取るべきかよく分かっていないのだ。故に戸惑っている。
 ギャグ漫画なら頭の上にクエスチョンマークがついていることだろう。

「……ま、まあまあ、二人とも泳いできたらどうですか?俺はこれから八神さんに頼まれたことやらなきゃいけないから、一緒に行けませんし。」
「へ?」
「頼み?」
「いや、オイル塗れって……ッ!?」

 ――殺気と言うものがある。
 
 殺す気、と書いて殺気。即ち殺意を凝縮し、体外にまで膨れ上がらせたモノ――疾風とすら化す殺意の物理である。
 今、シンはそれを感じた――目前の二人から。

(こ、これは……!!)

 二人の瞳から――ハイライトが消えていた。
 ゴゴゴゴと言う擬音すら聞こえてきそうなほどの迫力――怖い。
 瞳に宿る迫力は怒り狂ったアスランなど歯牙にもかけないほど。
 恐らくぶち切れたラクス・クラインにすら匹敵するのではないだろうか――余談だが巷では歌姫と呼ばれているラクス・クラインはキラ関連だけは非常に怖かったりする。
 キラ・ヤマトと一度だけ喧嘩した時がそうだった。ハイライトの消えた瞳。低くなる声音。言葉の節々に浮かび出す棘棘棘――そして迫力。
 その時のシンは抜け殻のような生き物だった。戦いに没頭することで何も考えないようにしていた――これは今も変わらないが。

 だが、その時は違った。正直、怖いと思った。
 そして、ラクス・クラインに向かって平謝りするキラ・ヤマトを見て思ったのだ。
 女は怖い。そう切実に。
 
 ――目前の二人から感じ取れる殺気はそれほどだった。
 歴戦の勇士であるシンを怯ませるほどにその迫力は凄まじかった。
 フェイトなどは見た目の凄さも相まってもう何か凄かった。エロ可愛いではなくエロ怖いだった。

「……なんや、二人とも不満そうやな。そんなにソイツにオイル塗られたいんか?」

 そういう問題じゃないだろう。そう心中で呟くシン――その後ろでシンがこちらを見て居ないことを確認して頷く二人。周到である。

「……ま、ならええわ。私はシグナムにでも塗ってもらうし……シン・アスカ。キミはそっちの二人にオイル塗ってあげるんや。」
「え、あ、はい。」

 素直に頷くシン。いまいち状況が飲み込めて居ないのだろう。

「ほい。」

 そう呟いて、シンに向かってサンオイルを投げ渡す八神はやて――受け取るシンは呆然とそのサンオイルを眺める。
 そんな彼を見つめる二つの視線。

「……な、なら塗りましょうか?」

 ぎこちない笑顔――作り笑い。引き攣った顔。
 それでも二人は嬉しいのか、声を合わせて返事した。

「はい!」
「うん!」

 そんな満面の笑みを前にシンは引き攣った笑顔を浮かべたまま心中でのみ呟いた。
 
 ――俺、塗ったことないんだけどな。


 サンオイルを水着の女性に塗る。

 ――世の男性はいつだってそんな嬉し恥ずかしポジションを求めてるんだ。
 
 そんなコトをMUGMUGとか言う雑誌を片手に力説していた上官を思い出す。
 
 あの時は正直よく理解できなかったが……確かにこれは魔的だ。
 前の部分は後から自分で塗るらしい――ちょっとがっかりしそうになる自分を感じてシンは自分を諌めた。
 流石にそれはまずい。18歳以上禁止である。

(ばっ、馬鹿だろ、俺!?こ、こんな公衆の面前でなんでそんなこと、がっかりしてるんだ、当たり前だろ当然だ当然に決まってる!!)

 テンパリすぎである。まあ、シンにとってはこういった経験そのものが初めてなので仕方ないといえば仕方ないのだが。
 大体、蓋を開ければシンだって19歳の健全な男性。そっち方面の興味が無いかといえば嘘になる。
 単にそういうことよりも興味があることがあるだけで、そりゃもうたんまりとあるに決まってる。
 胸がドキドキして、緊張するのも当然だ。

「……じゃ、じゃあ、塗りますね。」
「……は、はい。」
「うん、いいよ♪」
 
 ガチガチに緊張し、全身を強張らせているギンガ。
 そんなギンガとは対照的にノリノリのフェイト。まるで何かのアトラクションを前にした子供のようにノリノリである。

「……で、では。」

 オイルの詰まった瓶を手にとって、フェイトの背中にオイルを垂らす――広げるようにして塗っていく。
 フェイトもギンガも水着はビキニ。背中の部分で止めて、今は外している――立ち上がれば桜色の突起どころか、胸のふくらみも全て見えますザッツフルオープンという姿

である。
 いや、立ち上がられても困るのだが。何と言うか周りの視線がこれ以上痛くなるのは正直シンとしてもかなり辛いので。

「ふんふーん♪」

 フェイトさん、本気でノリノリである。このまま踊り出しそうなくらいにノリノリである。

「……」

 シンは言葉も出ない。出ないどころかフェイトの肌の感触さえ良く分からない。
 緊張のあまり、目が血走るほど塗ることにのみ集中している。というかそうでもしなければ周りの視線に耐えられなかった。

 ティアナとスバルはその横でその状況を見つめていた。
 ティアナはドン引き。もう凄いドン引きである。この変態が!と罵り出すほどに冷たい視線である。
 対するスバルは純粋に面白そうに見つめていた。単純にやったことないからの興味本位であろうが。

「……皆の前とか凄いわね。」
「なんか映画のワンシーンみたいだね。」

 多分その映画はアクション物で、大抵塗られた女性は死んじゃいます。

「……けしからん。」
「ま、まあ、まあ、いいんじゃないか?」
「しかし、シン君も大胆ねえ。」
「ワン」

 こちらはシグナムとヴィータとシャマルとザフィーラ。
 ヴォルケンリッターの面々である。
 着ている水着は、シグナムが赤いビキニ。そのスタイルの魅力を惜しみなく発揮させている。
 けしからんと言えばシグナムの服装も十分にけしからんモノだった。主に腰周りとか胸が。メロンだもの、仕方ない。
 右胸に書かれている「しぐなむ」という名札ははやてなりの親切なのか嫌がらせなのか、判断に苦しむところである。
 
 次にヴィータ。こちらは青いスクール水着。やはり平仮名で「ゔぃ―た」と書かれた名札が張ってある。
 はやてからの贈り物であるらしい。あざとい。あざとすぎるような出で立ちである。大体なんで平仮名なんだ。

 そしてシャマル。白いワンピースのような水着である。特筆すべきものは特に無い。
 大人っぽい外見に似合った水着――それ以外に言いようが無い。こちらにもやはり左胸に平仮名で「しゃまる」と書かれている。
 たどたどしい文字を装っているのはやはりそういう嗜好への対応もバッチリと言いたいのだろうか。
 
 最後にザフィーラ。こちらは犬の姿でどこぞの競技用の水着を着ている。
 柄は赤と白。スイマーという感じである。名札はもちろん平仮名で「ざっふぃー」。
 何と言うかもはやこれが通称なのだろうか。しかも微妙に似合っている。語感とか凄い良い感じ。ざっふぃー。
 
 兎にも角にもそんな幾つもの面白そうな視線に晒されながら、女性の柔肌にサンオイルを塗りながら「俺は渚のシンだぜ!?」などと踏ん反り返って塗ったくるなどシンに

は到底無理だった。
 普通は無理である。
 むしろ、これでノリノリになれるフェイトは凄い。シンとギンガは本気で感心した。
 そしてギンガはと言えば、

「……」

 無言だった。全身に力を入れてまな板の上の鯉というよりもまな板の上で死後硬直して動かない鯉である。
 例えて言うなら柔道の押さえ込みから逃れるようにして丸まっている姿を連想させるような力の入れ具合。内股でハの字に足を構える寝姿。
 リラックスして本当に寝てしまいそうなフェイトとは対照的にガッチガチだった。見る人が見ればこう思ったろう。
 「全身の筋肉を締め上げたあの構え。あれは三戦(サンチン)!!」。
 決してそんな構えではないが、それくらいに力入ってると思ってください。
 
 とにかくシンの手が自分の背中に触れる度にとんでもない勢いで硬直する身体。こう、ばきーんと。
 こんなに緊張するならやらなきゃいいのに――そう、自分で思ったが、仕方ない。
 傍らのフェイトがやる気満々であった以上、自分だってやらなきゃならない。そう思ったからだ。
 何と言うか要するに思いっきり流された訳だが。

 大体サンオイルを塗る時に背中のホックを外すと言うのも寝耳に水だった。
 思わず心の中で「マジで!?」とデッサンが崩れるくらいに動揺していたくらいだ。
 何せ、ギンガはサンオイルなど塗ったことが無い。
 せいぜいドラマのワンシーンで「子供が出来たらこういうのは見せたら駄目よねー」とか言いつつ煎餅かじっていたような思い出しかない。どこのおばさんだ。
 ティアナがドン引きしているのが見えた時など、羞恥で死にたくなった。
 ドン引きというなら彼女自身、自分にドン引きしている。もう、ここにいる人間の中で一番ドン引きしている。

(……何でこんな羞恥プレイをしてるのよ、私は。)
 
 後悔後先に立たず。ギンガは正直その言葉を噛み締めていた。
 よく知りもしないのに流されるべきではない――今度からは色々と勉強しておこう。
 心構えとかこういうのに対する覚悟とか渚でイケてる女とかについてとか。
 多分、色々と駄目な思考だった。


「……なあ、グリフィス。何で俺らはこんなことしてるんだ?」
「……何でなんですかね。あ、ヴァイスさん、出し汁とってください。」
「……ほらよ。あっちはあんな色とりどりでオイルまで塗っちゃってんのに何で俺らは焼きそば作ってるんだ?」
「仕方ないじゃないですか。八神部隊長が、海といえば焼きソバだって言ったんですから。」
「……何で俺がこんなことを……今日の為にわざわざ一眼レフのカメラとか買ってきたって言うのに。」
「僕だって今日の為にこの水着を用意したのに……」
「いや、お前のその水着は正直どうかと思うんだが。」

 ちなみにグリフィスの水着は黒一色のビキニパンツである。
 もっこり大魔神とでも言うべき出で立ちである。ヴァイスは決して言わないけど心の中でそう命名していた。

「ちょ、ちょっと何でですか!?普通、これですよ!?」
 
 お前の普通はどこの世界の普通なんだ。
 ヴァイスは正直頭を抱えて蹲りたくなった――このもっこり大魔神め。

「ほら、二人とも手がとまっとるよ。さっさと作って作って作りまくるんや。」

 ハリセンを持った水着姿の八神はやてがそこにいた。
 ちなみにハリセンは海でも使えるように防水加工を施してあるらしい。
 さすが6課の技術力。何でそんなに無駄に凄いんだ。
 ヴァイスは余計に疲れた――無論、手は止めずにだ。
 グリフィスもはあ、と溜め息を吐きながらも作り続けた。
 目前では皆が自分達の作った焼きソバを食べている。
 シンは今もオイルを塗っている。
 ギンガは物凄く赤面してる。
 フェイトはとんでもなくニコニコしてる。
 
 なのに自分の前にあるのは、そばとキャベツと豚肉とイカとエビ。いわゆる五味焼きソバの材料だ――少なくとも水着姿の女性ではない。
 
 再び溜め息。

「……はあ。」
「……まあ、こうやってても不毛だからさ、何か喋ろうぜ。」

 ヴァイスの提案。
 確かに一人で考えていても落ち込んでいくだけに違いない。

「……何について話すんですか?」
「そうだな……やっぱり、こういう時はあれだろう。胸のサイズについてとか。」

 物凄く唐突な流れである。何でいきなり胸のサイズについてなのか。
 というか胸のサイズについて語る時がどういう時なのか、グリフィスには良く分からなかったが、言いたいことは分かる。
 何しろ、胸については自分も拘りがある。
 目の前で繰り広げられている戦争とも言うべき胸の饗宴を目にしたら普通は胸について語るものだ。
 中には足とか腰周りの脂肪のつき方とか鎖骨とか背中のラインとか語り出す少数派達もいるが――幸いグリフィスは少数派ではなく多数派だった。

「……ちなみにヴァイスさんはメロン派?それとも目玉焼き派ですか?」
「普通はメロンだろ。あそこでオイル塗られてる二人とかは最高だろうなあ。まあ、一人はスイカだけど。」

 何のやり取りもなく始まる隠語の応酬。
 直訳するとメロン=巨乳。目玉焼き=貧乳。スイカ=超乳である。
 二人にとってこの隠語は万国共通。
 バベルの塔が出来たせいで過去言葉は別たれたとは言うが、漢にとってはこんなのものユニバース言語である。通じないはずが無い。
 ラーメンといえば胡椒。カレーといえばライス。仮面といえばライダーであるくらいに当然である。

「僕は……目玉焼きもいいと思うんですがね。アレにはメロンには無い味がある。」

 胸を張ってもっこりパンツを惜しげもなく晒し、ちょっと背を反らせてどこぞの料理評論家みたいな台詞をのたまうグリフィス。
 一瞬、眼鏡が光ったような気がする。何だか立ち姿も芸術的でカッコイイ。ちょっと反ってる。ミロのヴィーナスとかみたいに。

「……お前、水着もそうだけど、そっちの趣味も少数派だな。」

 ザッツマイノリティである。

「何言ってるんですか!?人類皆メロン派とか思ったら大間違いですよ!?」
 今の言葉が相当癇に障ったのか、顔のデッサン崩しながらヴァイスに向かって、焼きソバを作る時のヘラを突きつけるグリフィス。
 それを半眼で見つめ、ふう、と溜め息をしてヴァイスは呟く。

「いや、フツーはメロンだろ。」
「目玉焼きです!」
「いや、メロンだって……って、シン?」

 必死に大人としてはかなり情けない言い合いを演じていた二人。その前にいつの間にかシンが現われていた。

「あの、焼きソバもらえますか?三つほど。」

 そうシンは申し訳無さそうに注文する。

「おう、いいぜ……っと、そういやお前とはこういう会話したことないよな。」
「……こういう会話?」
「ちょ、シンも混ぜるんですか?」
「当たり前だ。俺は前から気になってたんだ。どっちなのかなって。」
「どっち?」
「……僕、知りませんからね。」
「シン、お前正直どっちが好きなんだ?今お前がオイル塗ってた二人の内、な。」
「……い、いや二人とはそういう関係ではなくて……」
「違う違う。胸オンリーの話でだ。」

 シンの眼がキラリと輝く。
 胸オンリー――ハートオンリー。
 それは即ち世界共通の男の話題である。

「……なるほど。どちらがより胸として適切かってことですか。なるほど……スイカとか目玉焼きって言うのはそういうことか。」
「理解が早くて、助かるぜ……時間も無いようだから単刀直入に聞くぞ。例えるならスイカとメロンだろ、あの二人は。」

 少し思案するシン。一瞬の思考の後に呟く。

「どっちかって言うとスイカとマスクメロンじゃないですか?」
「……なるほど。確かにそっちのが正確だな。で、お前はどっちなんだ?」
「俺は……正直、大きすぎるよりは、真ん中くらいのがいいですね。どっちかって言うと大きさよりもカタチとか軟質かどうかとか。」
「……なるほど、お前、美乳派か。」
「……ですね。少なくともメロン派ではないです。俺はそっち方面も内面重視ですから。」

 そうして、わしわしと何かを握る動作をするシン――ヴァイスはその時、思った。

(コイツ、経験者か……!!)

 隣で焼きそばを焼きながら「絶対目玉焼きだと思うんだけどなあ」とか呟いているモッコリ眼鏡大魔神の用いるリアルシャドーなどとは比較にならない本来の意味での経験

者。
 妄想ではなく現実として胸――オッパイに拘りを持つリアルグラップラーである。

「……中々やるようだな。」
「……ヴァイスさんこそ。」

 ヴァイスが右手を突き出した――シンがその手を掴んだ。

「よろしくな、シン。同士が出来て嬉しいぜ。」
「俺もですよ。おっぱい同盟はいつだって日陰者だ。」

 ここに男たちは分かり合ったのだった。
 いや、一人は未だに焼きそばを焼いているが。


 胸。おっぱい。乳。
 幾つもの言葉にて形容される、人体の妙の一種――女性の胸。
 鎖骨が好きという人もいる。
 首筋が好きと言う人もいる。
 お尻が好きと言う人もいる。
 脇腹が好きと言う人もいる。

 ――だが、それでも胸は女性のアピールポイントとしては最もメジャーであり、最も分かりやすい部分である。
 何故ならば、大きさと言う数量比較が出来るからだ。

 鎖骨を数量で語ることが出来るだろうか?
 首筋を数量で語ることが出来るだろうか?
 脇腹を数量で語ることが出来るだろうか?
 お尻を数量で語ることは出来る――けれど、余人にはその大きさの違いなど分かりはしない。
 スカート、ズボンで隠されているお尻の中身から大きさを測りだすなど通常の人間には不可能だからだ。

 故に胸とは女性にとって――そして男性にとっても重要な部分である。
 ましてや――

「……いや、大きさだけで語っては、パイオツニアとは言えないんじゃないですか?」
「そうですよ、パイオツニアって自称したいなら少なくとも5項目は測定しないと。」
「……お前ら、目測でそこまで分かる訳?」
「僕は楽勝ですけど。この眼鏡って、その為に作ったんですし。」

 しれっと呟くグリフィス。

「え!?その眼鏡って、そういう機能ついてるのか!?」
「ぐ、グリフィスさん、それ本当ですか!?」
「このボタンをこう押すと……何とサイズだけじゃなく、カップまで割り出せるんだよ。」

 ビビるヴァイスとシン。
 まさか、その眼鏡にそんな機能があったとは。

「ちょ、ちょっと俺にも使わしてくれ。」
「あ、いいですよ。」

 割と簡単に貸してくれたグリフィスの眼鏡をかける――とりあえず、シグナムを見てみる。
 ぴぴぴぴ……と何かを測定し出す眼鏡。
 どこぞのスカウターみたいに、シグナムを捉える――数秒で測定は終了する。
 戦闘力(カップ数及びサイズ)が現出する。
 
「……じ、Gの102……す、すげえぜ、シグナム姐さん。」
「つ、次は俺も貸してもらっていいですか?」
 
 シンがヴァイスから眼鏡を借り受け、おもむろにティアナを見る――ぴぴぴ、という音。
 ティアナを捉え、戦闘力が弾き出された。
 弾き出された数字は、Cの82。
 横にいるスバル――Dの85。
 
「……す、すげえ、本当に数字とカップまで出てる。」
「当然さ。一時期の給料全部これにつぎ込んだんだから。」
 
 まるでそれが世界の常識物理法則であるとでも言わんばかりの態度で、グリフィスは焼きそばを作るのを一端終えて、シンから眼鏡を取り戻す――寸前に呟いた。
 
「……F91。着痩せしてますね、あの人。」
「…へ?」
「……ほ、本当にF91だ。」
 
 眼鏡をかけたシンだけが理解した。
 F91――Fの91。
 海辺を歩く、眼鏡をかけた長身の女性の胸のサイズとカップだった。
 無論、見ず知らずである。

「す、すげえよ、グリフィス。お前、裸眼でそこまで分かるのか!?」
「毎日、見てますからね……もう、眼鏡のその機能が速いか僕が当てるの速いかで遊べるくらいですから。」

 人間胸計測器とでも言うべき能力だった。
 眼鏡かける意味あるのか。ていうか、真面目な風貌の下でいつもこいつはそんなことをやっていたのか――ヴァイスは少し目眩になりそうになりながら、心中で感嘆した。
 世の中広い。自分には知らない事柄がこうもあるとは、と。
 やはり、もっこり大魔神は一味違う――そう、思い、シンの方に目を向ける。

「……何やってんだ、お前。」
「……いや、皆見てて思ったんですけど」

 少しだけ、不思議そうにしている。
 視線の方向はハリセンを持った八神はやて。

「なんで八神さんって、見た目より小さい数字出てくるのかなって。」
「は? そんなことある訳ねえだろ……ちょっと貸してみろよ、多分何か操作違ってるとかじゃねえのか?」
 
 そう言ってヴァイスがシンから眼鏡を受け取り、はやての方向を見る。
 見れば――確かに数字が小さい。同じくらいの膨らみのティアナよりもかなり小さい。
 弾き出された数値は、Aの75。どうしてこんなに小さいのか。
 ふと――右上にアルファベットで“PAD:C―80”と書かれていることに気付く。
 彼女以外を計測した時にはこんな文字は出てこなかったはずだが――

「グリフィス、このPADって何の意味だ?」
「ああ、補正かかってるってことです。」
「補正?」

 補正――ヴァイスとシンが首をかしげた。補正とは何の補正だろう。
 彼らが思いつくものと言えば、水蒸気による補正、日光による補正、磁力等の補正だった。
 パッド補正なるものなど聞いたことが無い。
 まるで想像もつかないと言わんばかりの愚鈍な男二人。
 グリフィスはそんな二人に憐れみの視線を送り――はやてに、僅かな憐憫の表情を浮かべて呟く。
 
「……部隊長って、結構“詰めてるんです”。」
「……つめ」
「てる……?」

 一瞬の思考。そして――

「……あ。」
「ま、さか……」

 二人の視線がはやてへ向いた。
 憐れみ――寂寥の視線である。
 はやてが二人の視線に気付いた。

「……何や、二人共?」
「あ、いや、何でもないです。」
「す、すいません。」
 
 一気に眼を逸らした。
 気付きたくなかった事柄――確かにグリフィスが憐れむのも分かる。
 PAD。詰めている。
 その言葉から連想される事実は一つ。
 八神はやてのブラジャーは……恐らくかなりパッド、つまり詰め物がしてあるということ。
 彼女が水着の上にワイシャツを羽織っているのも、恐らくはその為――詰め物が見えようものなら、女性としての沽券に関わる。
 しかも、AからCへのクラスチェンジなど――見栄っ張りだった。見栄を張るにも程があるというものだった。

 そして、それ以上に、彼女の視線と表情が涙を誘う。
 注意して見てみればよく分かるが、やけに溜め息が多い。
 シグナムやシャマル、フェイト、ギンガ、スバル、ティアナなどの胸を見て、自分の胸と見比べ、溜め息を吐き、時々ジャンプして胸が揺れるかどうかを確かめたり、キャ

ロやヴィータを見て、実に実に安堵している――涙を流すしかない。何の感動ドキュメンタリーだ、これはと言わんばかりに泣けてくる。

「……泣けるな。」
「……あの人、苦労してるんですね。」
「小さいには小さいの良さがあるのに……。」 
 
 男たちは泣いた。約一名はむしろそれがいいと呟いていたが、ヴァイスとシンは全力でスルーした。二人共どっちかというと、無いよりある方が好きだったから。
 何にしろ、男たちは泣いた。涙は流さなかったけれども、心の中で泣いた。持たざる者の悲哀に慟哭した。

 無論、馬鹿二人の視線は揺れる他の女性に首ったけだった。
 さしづめ、そこはパラダイス――オッパイ星人にとってのパラダイスだった。


「はーい、それじゃ、そろそろビーチバレーやるで。」

 揺れるモノなき貧しき乙女――ではなく、八神はやてが唐突に焼きそばを食べながら告げる。
 
「ビーチバレー?」
「そうやで、フェイトちゃん。海と言ったらビーチバレーや。」
「主はやて、びーちばれーとはどういったことをするのでしょうか?」
「ん? ああ、ええとな、ビーチバレーいうのはな……」

 盛り上がりだす女性陣。
 対照的に男性陣は冷ややかだった。
 
「……混ざりたくねえな。」
「熱いし疲れるし……ビーチバレーするくらいなら、胸、見ていたいですね。」
「……焼きそば、熱い……。」

 かなり本音だった。
 結局、あの後、シンも焼きそば作りに協力していた。
 周りの視線が非常に辛かったと言うのもあるが、オッパイ星人と言う同士の苦労を見て見ぬ振りは出来ないと協力したのだ。
 ぶっちゃけ眼鏡で、色々見ていたかったという気持ちがあったことも否定は出来ない――というか、そればっかりだったりするが。
 そして、語り合いたいと言う想いもあった。
 シンにしてみれば、久しぶりの胸談義だ。数年ぶりと言っても良い。
 アカデミーにいた頃は毎日のようにヨウランやヴィーノと熱く語り明かすこともあったのに、ミネルバに移ってからは、戦時中と言うこともあって、まるで無くなった。戦

後などある筈もない。そして、ミッドチルダに来てからは語り明かすような男友達などいない。作っていないのだから当然だが、胸のどこかに胸について語りたい!と言う想

いはあったのだ。だって男の子だもの。リビドーなんて三日で溜まります。
 胸について語り明かす――おっぱい星人にとって、これほどのご褒美も無いのだ。

 兎にも角にも、そう言った理由でシンはあまりビーチバレーには興味が無かった。
 ヴァイスやグリフィスも同じだ。
 大体、熱い所で焼きそばなんてクソ熱いものを作らされて、その後ビーチバレーとかあり得ない。体感温度急上昇である。死ぬ死ぬ。マジで死ぬ。
 
 そんな訳で三人の男はやる気が無かった。

「商品は、37型のプラズマテレビや!」

 きゃー、とか、うそー、とか何か盛り上がっている女性陣。
 男性陣は、別にそれを聞いてもやる気は出ない。
 だって、熱いんだもの。鉄板の熱さは彼らの体力と元気を確実に奪っていっているのだ。
 何せ鉄板の温度は100℃を軽く超えている。その前に立っているだけでも汗が噴き出ると言うのに、上空からの日差しは夏なので当然の如く強い。
 体力も無くなるが、やる気も無くなっていくと言うものだ。

「何や、男連中は。そんな、ぐてーってなって。」
「……いや、熱いんですよ、部隊長。」
「熱いのは皆一緒やで? エリオとかキャロ見てみい、どんだけ元気やと思っとんねん。」

 エリオを見れば、キャロやスバルと今も楽しく海辺で遊んでいる――凄く楽しそうで羨ましい。ぶっちゃけ混ざりたい。男性陣の本音だった。

「……子供はいいなあ。」
「楽しそうですね……」

 呟くシンとヴァイス。
 やる気が無いこと、この上無い態度である。ビーチバレーなんてしたくないと言う想いが見え隠れする――その時、ふと、グリフィスが呟いた。

「……部隊長、ビーチバレー、三対三とかですか?」
「うん? ああ、別にそれでもええよ。三人っていうと……チームは君ら三人でええんか?」
「お願いします。そういうことなら、問題ありません。」
「え、お、おい、グリフィス、俺は出たくなんて無いぞ!?」
「え、俺もやるんですか!?」
「シン、ヴァイスさん――大丈夫。良い夢見れますよ。」
 
 かなり良い笑顔で、グリフィスが呟いた。
 何事か反論しようとする二人だが、グリフィスはそんな二人を完全スルーして、はやてと共にビーチバレーの準備を進めていく。
 シンやヴァイスが何を言おうとも、グリフィスは「後で教えます。いいから手伝ってください。」と二人に準備を押し付ける始末。
 そうして、このクソ熱い中二人して準備を終えて、グリフィスに言われた場所で待つこと十数分。
 辺りは人気のない海辺。

「――間近で揺れる胸が見れるんですよ? こう、前かがみになったおっぱいが。」

 思わず眼が点になるシンとヴァイス。
 言われてみれば――確かにそうなのだ。

 ビーチバレーとは何か。
 海辺でやるバレーである。
 ではバレーの基本姿勢とは何か?前かがみである。
 前かがみ――即ち、おっぱいを重力のままに従える態勢だ。

「……確かに、それは。」
「で、でも何で俺ら三人なんです? どうせなら男女混合って言った方が……」

 然り。何でこのクソ熱い中、暑苦しい男のみでビーチバレーのチームを組んでしなければならないのか。
 揺れるモノの無い貧しき民どころか、揺れる訳が無いっていうか揺れても見たくない類の人種である。

「……いいかい、シン。まず大事なことは対面にいるってことだ。」

 ゆっくりと、落ちついて――グリフィスが語りだす。

「対面……?」
「対面にいなければ、揺れる胸を眼に収めることは出来ない。人の視覚範囲はどんなに広くても180°程度。プロのバスケットボール選手でも精々が200°くらいだ。背後の胸は見れないんだ。それに、理由はそれだけじゃない。」

 グリフィスが言葉を切って続ける。

「大事なことは、“勝つことじゃない”。負けないことだ。僕らが目指すべき勝利とは、“見続ける”ことだ。その為には――」
「勝負を長引かせることが必要――そして、堪能した上で、勝負に勝つ。それが大事ってことか。なるほど、お前のプラン、大体分かってきたぜ。」

 ヴァイスが唇をにやりと歪ませ邪悪な――それでいて、不敵な漢の微笑みを浮かべた。
 シンは未だ察することが出来ずに困惑している。
 グリフィスはそんなシンに慌てることなく、焦ることなく、語り続ける。

「……このメンバーでなければいけないのさ、シン。戦力的にも、心情的にも、男三人組でビーチバレーなんて、そりゃ僕だってしたくない。だけど、このメンバーでなければ、必ず誰かが勝負を決めようとするだろう。」

 その言葉を聞いて、ハッとするシン。
 ようやく気付いたかと微笑むグリフィス。

「そう、つまり、男女混合でやると勝敗を決めて、“試合を終わらせてしまう”のさ。だから、僕らだけがベスト――この三人でなければいけないし、この三人以外だとまずいんだ。」
「……ってことは、俺達の勝負は勝つことじゃなくて、引き延ばすこと、ですか。」

 シンの顔に浮かぶ薄い微笑み――それは、目前の勝負に向けて燃えあがる漢の瞳だった。

「上等だ。何が何でも引き延ばしてやりますよ。」
「その意気だ……必ず、あの人たちに、一谷間揺らせてやろうぜ。」

 シンに向けて、右手を伸ばすヴァイス。
 腕を組み、微笑みながら、そんな二人を眺めるグリフィス。
 
 ――ここに三人のおっぱい星人が揃ったのだった。
 
「……君ら何してんの?」
 
 瞬間、ビクゥゥゥッっと電撃でも流されたかのように痙攣する三人。

「ぶ、部隊長?!」
「な、何でここに……?」
「つめ……や、八神さんこそ、ど、どうして、ここに?」
 
 詰め物――と言いかけたシンが慌てて言い直す。
 はやての顔が一瞬、その言葉に反応して、亀裂が入ったように歪み掛けたからだ――だが、彼女は未だ気付いていない。
 セーフティーセーフティー。
 大丈夫。まだ慌てるような時間じゃない。
 クールだ、クールになるんだ、シン・アスカ。
 シンは心中で呟いた――傍らの二人組は正直気が気じゃなかった。
 何がやばいって詰めものである。パッドである。
 おいそれと言って良い代物ではない――ていうか、あり得ない。
 この男はそれを何ぽろっと言おうとしてるんだ、と漢二人は真剣に胃が痛くなってきた。
 
「何しとるんや? そろそろ始めるで?」

 だが、はやては何も気付いていない――相も変わらず詰め物だらけの胸を白いワイシャツで覆いながらこちらに向けて話しかける。
 ――それはそれで可愛いモノではあった。
 
 世の貧乳好きとは大別すると二つのタイプに分けられる。
 即ち、貧乳そのものが好きなタイプと、貧乳であることへのコンプレックスが好きなタイプである。
 貧乳そのものが好きなタイプ――即ち、リアルまな板が好きなタイプと言うのは好みの範疇である。
 それは、ラーメンにおけるあっさり派とこってり派の違いのようなものだ。
 どちらにも長所と短所がある。物事は全て一長一短と言う物理法則の通りに、である。
 コンプレックスが好きなタイプとは、こういった好みとはまた別である。
 つまり、「べ、別に胸の大きさなんか気にしてないんだからね!」とツンデレっぽく解釈してみると分かりやすい。
 小さいのだ――胸は。
 けれど、それを恥じるのだ――小さいから。或いは周りがデカ過ぎるから。
 だからこそ、別に胸なんてどうでもいいんだからね!とツンデレってみたり――ツンしか無い気はしないでもないが――するのだ。
 このコンプレックスを好きなタイプは、その部分をこそ好きなタイプである。
 ツンデレが好きな訳ではない。あくまで好きなのは、“恥じる”部分である。
 その為に詰め物をしたり、ワイシャツで羽織ったりして、隠す。
 それこそを愛でるタイプである――まあ、変態ではあった。ぶっちゃけ、ロリコンとかとあんまり変わらない嗜好である。ロリコンは犯罪です。

 兎にも角にも八神はやてのその不遇さ(胸)と言えば、ヤバイものである。ぶっちゃけ、可愛いとさえいえよう。
 詰め物をしていると知ればこそ、だ。
 これは、この場にいる三人の共通認識である。
 おっぱい星人とは、巨乳だけを好きなのではない。乳が好きなのだ。胸が好きなのだ。
 故に――巨乳も超乳も並乳も貧乳も虚乳も全てが好きなのだ。おっぱいとは須らくおっぱいなのだから。
 それこそがパイオツニア――胸道を行く者である。
 無論、それでもシンとヴァイスは巨乳の方が好みである。グリフィスみたいに虚乳が好きとかマイノリティ過ぎる。
 
「あ、ああ、わかりました。今行きます。」

 グリフィスが素知らぬ顔で返事を返し、動揺しているヴァイスとシンに目配せする。
 始めるぞ、と。
 その眼は――獲物を狙う鷹の目であった。
 眼に籠る光を見て、シンとヴァイスも同じく鷹の眼へと変貌していく。
 
「……行くよ、二人共。」
「はい!」
「おお!」

 今、おっぱいを間近で眺める為に――戦いが始まる。


「……やけに気合入ってるな、あいつら。」
「こっちを見る視線が何か怖いんですけど……凄く気合入ってるわね。」

 一回戦はシグナムチーム――シグナム、シャマル、ヴィータ対ヴァイスチーム――ヴァイス、シン、グリフィスである。
 正直、シグナム達にしてみれば、休暇に来た上での遊び、である。
 リゾート地にやってきた家族が行う和気あいあいとしたテニスのようなものである。
 彼女たちもそういったノリで参加したし、他のメンバーもその程度の思い入れだったのだが――ヴァイスチームだけはまるで違っていた。
 それは、今彼らが円陣を組んでやっている叫び声を聞けば、直ぐに分かる。
 
「ぶっ――倒す!!!」

 ヴァイスが叫ぶ――続いて、全員が叫んだ

「YAHHHH!! HAAAAAA!!」
「気合を入れろよ、お前ら!!」
「おお!!!」

 三人が円陣を崩し、皆、一歩下がる。
 
 ヴァイス・グランセニック――狙撃手。
 彼の表情は真剣そのもの――海パン一丁というかトランクスにタオルと麦わら帽子と言う、どう見ても海の家にいるオジサンみたいな恰好でしかないのに心なしかカッコよ

く見えてくる。
 
 グリフィス・ロウラン――品行方正、実直、真面目と絵にかいたようなインテリ眼鏡の代表格でありながら、その立ち振る舞いは正に紳士王と言っても良いほどの胸の張り具

合である。ビキニパンツを好んで着ると言う、かなり変わった風貌の癖にやけにかっこいい。指揮官補佐の称号は伊達では無い。

 シン・アスカ――朱い瞳の異邦人。その瞳を燃え上がらせ、血走った表情――鬼気迫るモノさえ感じさせる。海パンにTシャツを言うどこにでもいる海のお兄さんでしかない

と言うのに、その姿はどこかカッコイイ。

「絶対、勝つぞおおおおおおおおお!!!!」
「「おおおおおおおおおお!!!」」

 ヴァイスの叫び声に呼応して、全員が叫ぶ。シンもグリフィスも、ヴァイスも全員の眼が血走っていた。
 正直、やり過ぎゴメンと言いたくなるくらいに、その気合の入りようは凄かった。

「……何か、怖いんだが。」
「……そんなにプラズマテレビ欲しいのかしら。」
「なあ、あいつら何で、私の方見ると眼を逸らすんだ?」

 ヴィータが不思議そうに呟く。
 シグナムとシャマルはヴィータの方に振り向き――そりゃ眼を逸らすだろうと思った。
 ヴィータの着ている水着はスクール水着。はやての嗜好により「ゔぃーた」と書かれた名札が貼られている。
 これでも一応彼らの上司である。こんな幼女幼女した上司の姿を見るのは、そりゃ居た堪れないだろうと思う。

「まあ、気にする程でも無いさ。」
「……そうか? あとやけにグリフィスの視線が熱い気がするんだが……。」
「それも気のせいよ、気のせい。」
「……そうなのか?」
「そうだ。」
「そうよ。」

 押し切る二人。
 我が家の可愛いロリっこ幼女には不要な知識は要らない――というか、熱い視線をぶつけるとか、グリフィスって実はロリコンなんだろうか。
 二人の胸にそんな疑惑が膨らみ――それでも、やはり、彼らの熱い視線の意味が分からない。
 自分達の姿に見とれているとでも言うのだろうか?
 だが、見とれていると言うには、その視線はあまりに苛烈。これから戦いでも始めようかと言うほどの気迫を見せつけている。

「……まあ、いい。邪魔をする者は全て蹴散らせとのお達しだ。遠慮する必要もなさそうだし、良いことだと思っておこう。」
「そうね。まあ、はやてちゃん、あのプラズマテレビ欲しがってたし。」
「……あれでWiiやったら面白そうだもんな。」
「はやてちゃんは映画観賞に使いたいって言ってたわよ? 5.1ch作りたいとか。」
「マリ○カートやらせてくれないかなあ、はやて。」
「やらせてくれるだろう。主はやてもマリ○カートは好きだからな。」

 デカイ画面でやるマリ○カート――それは本当に楽しそうだ、とヴィータが思い浮かべたところで、はやてが声をかけてきた。

「始めるでー」
「では、始めるぞ、二人共。」
「ええ。」
「ああ。」
「一つ、楽しませてもらおう。」

 一回戦が始まる――おっぱい星人達と揺れ動く双丘(一名は平原)の戦いが。
 


 ボールがシャマルによって浮き上がった。
 シグナムは持ち前の反射速度と運動能力の高さで、タイミングを測り――跳躍。振りかぶる。右手を後ろに引き絞り、ボールに向けて叩きつけた。

「ジェノサイドオオオオオオ!!!!」

 物騒な言葉。魔力はこめないまま、全身の力を一か所に集めるような感覚で打ち放つ。

「シュートおおおおおおおおおお!!!」

 シグナム渾身の一撃、ジェノサイドシュート。名前に意味は無いが、必殺技は叫ばなければいけないと言うはやての意見によって決定した必殺アタックである。

「ぬああああ!!!」

 転がりながらヴァイスがそのアタックを右手で弾く。
 天に上がるバレーボール。飛んでいく方向は、まるで明後日の方向――コートの方向では無い。

「シン!!」

 ヴァイスが叫んだ。
 自分は回転レシーブをした為に追いつけない。
 グリフィスの足では追いつけない。
 この場で最も足が速く、砂浜にも負けない強靭な足腰を持った漢――シン・アスカに望みを懸ける。

「分かって、ますよおおおお!!!!」

 シンが走り出す。
 雄叫びをあげながらの全力疾走。
 おっぱいに懸ける情熱は、チームの中でも一際だ――若さが彼の情熱を支えているのだ。 
 正直、間に合うかどうかは絶望的――諦めるな、諦めたら、そこで全てが終わる。

(間に合わないって言うなら――)

 走るだけでは追いつかない。
 それまでの速度を全て活かし、跳躍。手を伸ばしても届きそうにない、ほんの僅か届きそうにない。

「間に合わせりゃいいんだろうがああああああ!!!!」

 雄叫びと共に足を伸ばす。スライディング――砂が舞い散り、砂塵を巻き起こす。
 伸ばした足が届く。ボールが足の甲に届いた。思いっきり、自分から見て後方に足を叩きつける――いわゆるオーバーヘッドキック。

「グリフィスさん!!」

 ボールは奇跡的にグリフィスの方向へと向かっている。
 そして、ボールが落ちる地点でグリフィスはボールが来るまでの僅かな時間を思考に費やす。
 
 つまり――どこにどうすれば一番胸が揺れるのか、と。

 考えるべきはシグナムチームの位置取り。
 シグナムはネットのすぐ傍でシンとヴァイスの奇跡のようなファインプレーに茫然としている。
 シャマルはその後方、ネットから凡そ2mほどの場所で呆れている。
 ヴィータはネットの近くにいては何も出来ないので――小さすぎる――後方でリベロのような感じで拾いまくっている。
 
「……ここだな。」

 グリフィス・ロウランの桃色の脳細胞が、最揺れ地点を弾き出す。
 彼の視覚の中では砂浜のコートは既にグリッド線を引かれ、64のパーツに分割されている――両手を組んで、シンが蹴り上げたボールを受け止め、弾く。 
 ふわり、と彼の両手が絶妙の力具合でボールの勢いを吸収し、弾き返す――狙い通りの場所へと。

「くっ――!?」
「こ、今度はそこ――!?」
「間にあわねえ!!」

 シグナム、ヴィータ、シャマルの誰もが動いた。
 それはその三人にとって、非常に“微妙”な場所だった。
 飛びつけば、ギリギリ追いつけると言う距離。
 三人が動く/胸が揺れる。
 刹那の速さで戻ってきたシン。心臓がバクバクと早鐘を打ち、全身から流れる汗。体感温度は否が応にも上昇し、彼の体力を蝕んでいく。
 息を切らしながらも、既に次の行動の準備をしているヴァイス。既に体力は限界。目眩はするし、足はふらついて、いつ熱射病で倒れてもおかしくはない。
 グリフィスも同じく冷静さを保ちながらもボロボロだった。眼鏡や髪の毛は砂交じりで、口の中にも砂があり、ジャリジャリと嫌な感触を伝える。
 
 だが――それでも彼らの眼は死んでいない。彼女たちの“揺れ”を作る為に、何度も何度もこんな攻防を続けているのだ。
 三人の視線が一気に絡み合う。

 ――揺れる。ぶるんと。シグナムのおっぱい――戦闘力G-102。称号マイアミボルケーノ(グリフィス命名)が。

 ――揺れる。ぽよんと。シャマルのおっぱい――戦闘力D-84。称号春風の吹く頃に(グリフィス命名)が。

 ――揺れない。まっ平ら。ヴィータのおっぱいというか絶壁――戦闘力Aー68。称号永遠の孤独(グリフィス命名)が。
 
 凝視する三人。
 正直、バレーボールがどうとかはどうでもいいのだ。帰ってこようと帰ってきまいと。
 大事なのは揺れること。
 おっぱい星人にとって大切なのは何よりもその一点である。 
 現在、揺れている。
 感覚が加速する――多分、それは錯覚だが、何かそんな感じが三人の脳髄を刺激して行く。
 
「くそっ!!」
「駄目だった……。」
「あー、くそったれ!!」

 ボールは帰ってこなかった――あらぬ方向に飛んでいく。レシーブに失敗したのだ。
 砂に塗れたおっぱいが揺れながら、立ち上がる――男たちの歓声が上がった。

「「「いよっしゃああああ!!!」」」

 ハイタッチを行い、またも円陣を組み直し、咆哮。

「続けていくぞ――!!!」
「サー、イエッサー!!!」

 男たちの咆哮は止まらない。
 今度は彼らの攻撃だ。
 スコアは24-24。1セットマッチで、点を取っては取られの繰り返しをここまで続けてきたのだ。 
 共にマッチポイント。
 正直、直ぐに破れるだろうと思っていたシグナムには驚きのことだった。

「……何と言う気合だ。」
「……凄い気合ね。」
「……何か、怖いんだけど。」

 シグナム、シャマル、ヴィータがちょっと引き気味で呟いた。
 そして、その感想は観客も同じだった。

「……き、気合入りまくってるね、三人とも。」
「ど、どうなってるの、あの三人。」
 
 サンオイルを縫ってもらい、テカテカしてる二人の女性――フェイト・T・ハラオウンとギンガ・ナカジマ。
 どっちも引き気味である。
 正直、シンがどうしてあそこまで真剣になっているのかも良く分かっていない――というか男性陣全員の気合の入り具合が意味分からない。
 然りである。
 おっぱい星人の情熱が女性に分かる訳が無いのだ。

「……プラズマテレビに眼がくらんでるの?」
「皆、いつもと違うね。」

 ぶっちゃけかなりどん引き気味のティアナ・ランスター。
 アイスを食べながら、結構冷静なスバル・ナカジマ。

「……ど、どうなってるんだろう。」
「何か……凄いね。」

 無垢なる幼子――エリオ・モンディアルとキャロ・ル・ルシエ。
 引くと言うか意味不明だった。
 だが――エリオとて子供とは言え漢なのだ。いつかは分かる時が来るだろう。
 傍らの幼女はまだ絶壁ゆえに何も分からないであろうが。

「……なあ、何か、この子ら凄く怖いんやけど。」
「ま、まあ、何かあるんですよ、きっと。」

 正直、審判なんてせずに、もう帰りたい気味な八神はやてとシャリオ・フィニーノ。

 だが、そんな女性陣のどん引きなど気にはしない男性陣――いやさ、おっぱい星人。
 
 何故ならば、おっぱい道とは常に孤独なモノ。誰にも理解されない獣道。
 だからこそ、集中し狭窄し周りの声など聞こえない――どん引きなんて気にしません。男の子はその程度で諦められる訳が無いのだ。

 ヴァイスが、サーブを放とうとボールを上げ、自身も前方に向けて走り出す。
 
「狙い――」

 跳躍。空中で腕を振り被る。狙いは前かがみになったシグナム――コード・マイアミボルケーノの両手よりもさらに前。

「撃つぜ―――!!!」

 打ち放つ。
 ぎゅいいいいいいん、とサッカー漫画ならばそんな擬音を出していきそうなドライブサーブ――打点を僅かに変えることで、ボールの弾道を変化させる高等技術だ。

「速い……!!」

 呻きを上げながらもシグナムがそのサーブに反応した/揺れた。ヴァイスは真顔のまま心中でのみ歓喜する。満足する。
 ボールが跳ねあがった。

「シャマル!!」

 ヴィータがその球をシャマルに向けてトスする。
 
「いくわよ、シグナム!!」
「おおお!!!」

 砂を蹴って、ボールへと走り込むシグナム。
 シャマルがトスを上げた――シグナムが跳躍する。振りかぶる。両者ともに胸が揺れた。

(これで決める。)

「必殺――」

 右手を振り被り――
 小細工など無い一撃必殺の技。

「ファイヤアアアアアア!!!!」

 ――振り下ろす。
 一撃必殺がグリフィスに殺到する。

「シュートオオオオオオ!!!」

 必殺の名に恥じない、真実殺人でも出来そうなアタック。
 グリフィスは反応出来ない。正味、文官でしか無い彼にこれに反応するなど酷な話だ――だが、だからと言って、何もしない訳ではない。

(上にあげるとかは無理――だったら……!!)

 グリフィスの決断。そこに至るまでの時間は刹那よりもなお短い。
 ボールの軌道はグリフィスの胸のあたり――トスをするにも、レシーブをするにも微妙な場所だ。
 故に――

「が、顔面レシーブ!?」
「……うわー、私、初めて見たで。」

 シャリオが解説さながらに呟いた。
 はやてが呆れながらも感心して、呟いた。
 そう、間に合わないと知るやグリフィスは手で上げるのを諦め、自ら後方に倒れ込み、ボールのくる場所に、自身の顔を置いたのだ。上向きにして。

「ごぼぶっ」

 おかしな声を上げながらグリフィスが吹き飛ばされた――鼻血が噴き出る、その姿のまま、グリフィスが言い放つ。

「シン、ヴァイスさん……後は、まかせた。こ、これ以上は出来ないから、勝って……勝って終わらせる……ん、だ。」

 ばたり、とグリフィスが砂浜にその顔を埋めた。

「グリフィス――!!!」
「グリフィスさん――!!」

 シンとヴァイスが叫んだ。
 叫びつつも身体は動き、浮き上がったボールの処理に動いている。

「シン、あれをやるぞ!!」
「……あれって?」

 ヴァイスがにやりと呟いた。

「合体技だぁっ!!」

 にこりと呟いたヴァイス――そのヴァイスが浮き上がったボールに向けて走り込む。
 この言葉は事前に決めていたキーワード。
 必殺技。
 このキーワードであれば、使う技など一つしかない。

「了解!!」

 叫びと共に踏み出す。足がもつれる。心臓の鼓動がおかしい。汗が眼に入って前が見えなくなりそうだ――だが、その全てを振り切って、勝たなければいけないのだ。
 グリフィスはもう動けない。
 ヴァイスも同じく――シンだって変わらない。砂浜で走り続けた代償だろう。ふくらはぎは既に膨れ上がって、いつつってもおかしくない。
 決めるならば、ここ。
 ここしかないのだ。
 そうして、シンも走り込む――ヴァイスとは逆方向へと。

「……な、なに?」
「何をする気なの……」
「……いや、お前らも乗せられ過ぎだろ。」

 ヴィータの鋭いツッコミが入るも、シャマルとシグナムは雰囲気に乗せられて、スポ根漫画の主人公みたいなことを言っている。

「スーパー――!!」
 
 ヴァイスが飛び上がり、振りかぶった。
 方向は、シグナム達ではなく“シンに向けて”。

「イナズマ――!!」

 ボールを叩いた――シンに向けて。
 
「「アターーーーッッック!!!」」

 シンがヴァイスが放ったアタックをシグナム達に向けて“叩き返した”。
 
「囮攻撃か……!!」
「そんな高度なことを……!!」
「……だから、乗せられ過ぎだって。」

 囮攻撃――それはある意味では正解だ。
 確かにやっていることは囮攻撃である。だが――だが、違うのだ。この攻撃は囮攻撃に非ず。
 この攻撃は必殺技。スーパーイナズマアタックと言う必殺技なのだ。
 囮攻撃と言う技術では無い。そんな技術を全て駆逐する必殺である。
 
 ヴァイスは、ドライブ回転をかけてシンにアタックし――シンはこれにシュート回転をかけるようにして、叩き返した。

 変化球とは回転軸があるからこそ変化する。回転することによって空気の流れを変化させ、曲がるのだ。
 ならば――その回転軸が二つあればどうなるか。
 簡単な話だ。片方の回転の力が弱まった瞬間、もう一つの回転軸がその牙を剥き――それまでとはまるで別の方向へと曲がりだす。

 そう、稲妻の如く。

 シグナムがその回転を読み切って、レシーブ態勢に入る――受け止めた瞬間、それで全ては終わる。
 見れば、男どもは既に満身創痍。恐らく立っていることすら簡単ではないほどの疲労困憊だ。
 故に、ここを落ちついて処理すれば勝利は揺らがない――完全に雰囲気にのまれ、そんな負けフラグもっさりの思考を行い、シグナムは胸を揺らしながら、レシーブをする。

「終わり……なにぃっ?!」

 ボールの軌道が変化する。
 隼の如く上空から疾駆したバレーボールが、まるで“稲妻”のように突然軌道を変えたのだ。
 無論、シグナムは反応出来ない。
 その変化は人間の反射速度を優に超えている。

「さ、さあ――」

 砂浜に跪きながらヴァイスが呟き――

「あ、あんたのスコアを、数えろ……!!」

 同じく、砂浜に座りこんで立ち上がれないシンが呟いた。
 両者共に指をシグナムの胸に向けて差しながら――おっぱい星人はここに勝利したのだった。
 そこでシンの記憶は途絶する。
 同じくグリフィスも。
 

 気がつけば――既に夜だった。
 満天の星空が見えた。
 いつかオーブで見たような――と、そこで気付く。

(……夜?)

 おかしい。自分はビーチバレーをして、揺れるおっぱいを堪能していたのではなかったか。
 それがどうして、こんなところ――見れば砂浜で大の字になって寝ている――にいるのだろうか。

「……あれ?」

 おかしい。
 何かがおかしい。
 そこに一人の声がかかった。
 
「おー、起きたか。」

 声の方向に振り向く。

「ヴァイス、さん……?」
「ぼくも、いるよ……」
「グリフィスさんも……? いや、ていうか、俺なんでこんなところで寝て……あいたっ!?」

 いきなりの筋肉痛。
 どうやら無理をしすぎたようだ。

「無理すんなよ、シン。グリフィスもな。」

 ヴァイスが砂浜に腰を下ろしたまま、続ける。

「試合終わって、お前とグリフィスが気絶したから、ビーチバレーはあの時点で終了だ。」
「え」
「……」
「そんでもって、八神部隊長が、たまにはいいかってことで、この近くの温泉宿に泊まるって話らしくてな。皆はそこに行っちまった。」

 ふう、と息を吐く。
 ヴァイス自身も相当疲れているのだろう。
 かなりだるそうだった。

「お前ら起きないもんだから、俺がここでお前らの引率をするってことでここにいる――と、まあそういうことだ。」
「……そうですか。」
「……なるほど。」
 
 決勝は――出来なかったのか。
 少し、それが残念だった――嘘です、かなり残念でした。
 グリフィスやヴァイスはそれほどでもなかったが、シンは結構残念だった。
 何せ、決勝はギンガチーム――ギンガ、フェイト、キャロである。
 いつも一緒にいるからこそ結構楽しみにしていたのだ。
 おっぱい的にである。他意は無い。無いったら無い。
 
「……ま、そうショゲるなよ。とりあえず、起きたんなら宿に……その前にラーメンでも食いに行くか。」
「え、奢りですか?」
「ありがとうございます、ヴァイスさん。」

 グリフィスとシンがしれっと呟く。
 ヴァイスは苦笑しつつも――懐から紙幣――日本円にして一万円相当――を取りだす。

「部隊長がこれでどっかで飯でも食って来いって言ってたんだよ。」
「八神さんが?」
「僕らが起き上がれないって分かってたんでしょうね……」
「あの人もこういうところで気が回る人なんだよな……ま、全額使って良い訳じゃねえから飲みに行くとかは無理だが、ラーメン食って帰る分には問題無いだろうよ。」
「あの人、そういう人なんですか……」

 シンが不思議そうに呟く――これまでそういった面を見たことが無いからか、少しだけ驚いた。

「あの年であの階級にいるんだ。気が回らなきゃ無理なんだろうな……と、よし、さっさと行くぞ。いつまでも、こんなところにいても仕方ない。」
「そうですね……ああ、身体中ガタガタだ。明日筋肉痛酷いんだろうなあ……」
「まあ、良いモノ見れたし、満足出来ました。」

 立ち上がるシンとグリフィス。
 ヴァイスはそんな二人に向けて、にやりと微笑んだ――めっぽう邪悪な微笑みで。
 
「……何だ、お前ら、もしかして、これでお終いだとでも思ってるんじゃないだろうな?」
「へ?」
「何かありましたっけ?」
「くっくっく、青いな、青い。青すぎる。海でビーチバレー、温泉宿で宿泊。ここまで来れば決まってるだろ?」

 ――そう、それは。

「もしかして、温泉、覗く、とか?」
「当たり前田のクラッカーだ。」
「……確かにそれは風物詩ですね。」
「だろ!?だろ!?だったら、さっさとラーメン食って宿に行くぞ!!」

 急かすヴァイス。
 グリフィスもどこか忙しなく動き出す――そんな二人の後ろ姿を見て、シンは少しだけ昔を思い出していた。
 ミネルバにいた頃よりもずっと前――アカデミーにいた頃を。
 こうやって、馬鹿なことをやっていた頃を。

「シーーーン!!何やってんだ!!置いてくぞ――!!」
「あ、今行きます――!!」

 叫ぶヴァイス。グリフィスはもう声も出ないくらいに疲れているようだ。
 
 ――こんな日々は続かない。続いてはいけない。
 胸がかき回されるような複雑な気持ち。
 楽しい。けれど――こんな世界に自分はいてはいけないのに。

(……今だけ、今だけだ。)

 胸の中で誰に対してかも分からない言い訳を呟きながら、二人の後を追っていく。
 潮騒が聞こえる海辺。
 月は、綺麗に輝いていた。


「……あのな、お前、奢りだからって遠慮するなって意味じゃないんだぞ」
「ふぇ?」
 
 シンの前にはチャーシューメン特盛オールミックスにニンニク炒飯(特盛)が置いてあった。更にはサイドメニューの類も全て注文し――机の上は一種の魔境が出来あがっていた。
 
「……うえっぷ、僕、何か胸やけしてきた。」
「……食い過ぎだろ、お前。」
「そうですか?」

 そんなこんなで夜は更けていく。
 これは、おっぱいを制覇する為に、己の力を懸けて戦った、三人の馬鹿の物語。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 26.始まりの鼓動(a)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 17:57
「……一体、何があったんだろう。」
 エリオの様子がおかしい。
 キャロ・ル・ルシエは自室のベッドにて、そう感じていた。見上げれば天井。フリードが自分の横で「くー」と喉を
鳴らして鳴いている。そんなフリードを優しく撫でながら、最近のエリオの様子についてキャロは思い悩んでいた。
 あの襲撃の日、自分を“助けて”くれたあの日からエリオの様子はおかしかった。落ち込んでいる、とでもいうのだろうか。
 どこか、翳りが生まれていたのだ。
 話をすればいつものように受け答えを返す。笑いあいながら語り合う。
 けれど、その表情の裏にある思いはいつもとは決して違う。それがどんなココロなのかはわからないのだけれど。
 どうして彼女がエリオのことをここまで気にかけるのか。
 簡単なことだ。キャロ・ル・ルシエにとって、エリオ・モンディアルとは取りも直さず大切な存在である。気にかけるのは当然のことだ。

 だから、彼女はエリオのそれが気になる。
 悩んでいる。それはわかる。
 だが、悩みとは口に出して言わなければ絶対にわからない。
 互いの気持ちを理解し合うことなど絶対に出来はしないのだから。
 ゆえにキャロはエリオに何度も何度も聞いた。何があったのか、と。けれど、エリオの返答はいつも同じ一つの言葉。
 思い出すその返答。

「……何でもない。気にしないで、キャロ。」

 そう、自分に対して“申し訳なさそうに”呟いた。
 どうして、その横顔にそんな申し訳無さが浮かぶのか。
 それがどうしても彼女には分からなかった。

 ――さもありなん。キャロ・ル・ルシエは知らない。彼女には絶対にわからない。予想すら出来ない。彼が――エリオが悩んでいるのが他ならぬ自分のせいだと気づくはずもない。

 エリオ・モンディアルの悩み。キャロ・ル・ルシエを見殺しにしようとしたこと。
 その決定的な瞬間を認識し、自分の意思で選択したことが許せない。そんな選択を許容した自分という人間を信じられない。
 自分を許せないという感情。それは誰かへ、もしくは何かへ行った行為への感情である。
 キャロを殺そうとしたこと――厳密には見殺しにしようとしたことだが――への罪悪感が生み出す感情である。
 
 周りから見れば、それは仕方のないことだ。戦闘において最も大切なことは、敵を倒すことではない。何よりも自分自身が生き残ることである。
 故に生き残る術を選択した彼は何よりも正しい。
 見捨てる選択は正しい。その結果、キャロが死んだとしても、だ。
 極論を言えば、戦場での死とは死んだ当人の責任でしかない。理想ではなくそれが現実だ。戦いにおいて人は自分を守ることが大前提。
 無論、守らねばならない時もある。だが、万事が全てそうではない。
 だが、それを理解したところでエリオがそれに納得できるはずもない。
 幼いが故に純粋であり、その癖、年齢に似合わず真っ当に真っ直ぐに成長しすぎた彼の倫理はそれを許容出来ない。
 倫理の成長に許容の成長が間に合っていないのだ。

 子供であるには理解しすぎ、大人というには理想に傾き過ぎる。
 そんな袋小路に今エリオは陥っていた。
 自室の天井を眺め、キャロは思う。彼女には彼の懊悩は何一つとして分からない。

(エリオ君は何を悩んでいるのだろう?)
 
 分からない。分からないから悩んでいる。聞いても、完全に流されて決して打ち明けてはくれない。
 自分では絶対に打ち明けてはくれない――そう、“自分”では。
 思い浮かぶのは彼の憧れの人であり、自分にとっても憧れ。
 そして自分たちにとってのかけがえの無い恩人フェイト・T・ハラオウン
 もし、彼女に話を聞いてもらえばきっとエリオは必ず悩みを話すに違いない。そんな確信があった。
 どうしてか、そのことを思い至った時に胸がチクリと痛んだ。


 翌日の朝、訓練が終わった時、彼女はフェイトを一人呼び出し、その頼みを伝えた。

「フェイトさんから……エリオ君に話を聞いてもらえませんか?」

 決然とした瞳。真っ直ぐな強い眼光。
 キャロ・ル・ルシエという少女は賢い少女だとフェイトは思っている。
 自身の立ち位置を理解し、自身の行くべき方向を考え、その為に理性的な判断をし、行動する。
 人に頼るよりも自分で解決しようと――これはエリオにも言えることだが――する。
 その彼女がこうまでして、自分に頼む。義理とは言え、母親という関係である自分にとってこれほど嬉しいことも無かった。

「いいよ、私も最近エリオがおかしいなとは思ってたから。」

 そう、答えて自分――フェイト・T・ハラオウンは呟いた。
 頷くキャロ。少しだけ不安げな彼女に笑顔を返した。
 義理の子供と言う続柄。フェイトにとってエリオとキャロは掛け替えの無い家族であることは間違いない。
 疑う余地など無い。今のフェイト・T・ハラオウンがここにいるのは彼らがいたからだと自負できるほどには。
 その内の一人――エリオ・モンディアルの様子がおかしいことにはフェイトも気付いていた。
 翳りを写す横顔。キャロを見る瞳に映る視線はいつものような快活な視線ではなく、どこか怯えが込められた視線。
 それはフェイトが引き取った当初のエリオの目の輝きにも似たものだった。
 
 エリオ・モンディアルの出自は酷く特殊だ。
 プロジェクトF――要するにクローンを作るプロジェクトのことである――によって作られた偽物の人間。
 エリオ・モンディアルのオリジナルではなくコピー。
 本物のエリオ・モンディアルが死んだと言う悲しみを和らげる為だけに彼の両親が作り出した愛玩人形。

「最近のエリオ君……いつも落ち込んでて、笑っていても本当に笑っていない感じがするんです。」

 俯くキャロ。彼女の思いは良く分かる。
 自分も彼女に似たような想いを最近抱くようになってきたからこそ余計に理解できた。痛いほどに。
 キャロにとってのエリオ。それは大切な人間。共に苦しみ、共に悲しみ、共に喜び。
 悲しみを半分に、喜びを二倍にする。そういった関係なのだろう。
 その間にある想いが友情なのか、家族なのか、それともそのどちらとも違うのか。それは未だ彼女自身にも理解出来ていないだろうと思う。
 そんな大事なエリオが苦しんでいる。けれど、その苦しみを隠し、苦しんでいない振りをしている。
 
 キャロ・ル・ルシエは聡明な少女だ。少なくとも誰かの苦しみを察知して、触れるべきか迷うほどには。
 その苦しみ――もしかしたら、悲しみかもしれないが――に触れるべきなのかどうかを迷っているのだろう。
 触れれば、エリオは話すだろう。けれど、それが彼の心の傷を広げないなどと誰が言えよう。
 奇しくも自分がシンに抱く気持ちとそれは似通っていた。
 本当ならば深くその心に触れたい。
 傷だらけだと言うならその傷を癒す――ことは出来ないかもしれないが、分かり合うことくらいは出来る、そう思っていた。
 
 けれど――これはキャロも同じだろうが――それが怖い。嫌われることが。彼の傷を広げるかもしれないことが、何よりも怖い。
 
 踏み込めないのは恐怖の証。傷つけるかもしれないと言う恐怖。それが彼女に一歩を踏み出させない。
 キャロも同じだ。エリオを傷つけたくないから踏み出せない。
 
 彼女達二人は似たもの同士だった。
 大切なモノ。それが大切であればあるほどに大事にしようとする。
 大事にしようとすればするほどに踏み込めなくなる。触れられなくなる。
 
 だから、フェイトにはキャロの気持ちが痛いほどによく分かった。
 義理の娘であるキャロと同じ悩みを自分も抱えていると言う事実に心の内で苦笑しながら。
 
 そして、その日の夜。
 6課隊舎内の食堂。そこに三人の男女がいた。
 長く伸びた赤い髪を後ろで縛った制服姿の女性――ヴォルケンリッター・シグナム。
 長く伸びた金色の髪、赤い瞳が印象的な制服姿の女性――フェイト・T・ハラオウン。
 ぼさぼらに伸ばした黒い髪。どこか幼げな赤い瞳の男――シン・アスカ。
 今朝、キャロ・ル・ルシエに相談された内容。
 そこからフェイトはエリオに話しかけるもエリオの問いは恐らくキャロにしたのと同じような返答だった。
 
 何を聞いても「大丈夫です」「心配いりません。」の一点張り。そのまま埒が明かず、お互いに業務に戻らざるを得なかった。
 本来ならここで隊長権限を駆使して時間の許す限り会話を続けていたも良かったのかもしれないが、最近はそれが出来なかった。
 先日の仕事を他人に任せてシン達三人を追いかけていった一件から、用心の為か最近は部隊長である八神はやての厳密な見回り――主にフェイトとギンガに対してである――が定期的に毎日行われている。
 無論、その状況下でサボリなど出来る筈もない。というか元々サボろうと言う性格の人間もいないのだが。
 
 兎に角そのせいで業務を停止してまでエリオと会話をするなどということが出来なくなっていた。
 そして、彼女自身もそれをする気は無かった。
 生真面目な彼女やギンガにとって「仕事をさぼる」という行為そのものが承服し難い事実である。
 やっている時は気付かなかったが定食屋赤福から6課隊舎に帰宅し、こってりと八神はやてに絞られ、その上、前述した仕事をサボったことへの罪悪感と後悔。
 それらがない交ぜになって二人の勤務態度はその後著しく改善され図らずもティアナの狙っていたように6課内の雰囲気は良くなっていた。
 
 然りである。ギンガとフェイトとシン・アスカ。
 この三角関係が6課の風紀に悪影響を与えていたのならば、その原因が大人しくしていれば雰囲気が良くなるのも道理である。
 災い転じて福と為すとはこのことだ、と後にティアナ・ランスターは語っている――話を戻そう。
 
 その後、これ以上エリオに質問しても返答は変わらないと感じたフェイトは同じ部隊のメンバーである彼ら――つまりシグナムやシンである――とも相談することを考えた。無論、キャロには了承を取ってある。
 当のキャロは今、エリオと共に増加した事務仕事をエリオに手伝ってもらっている。

「最近、様子がおかしいなとは思っていたんですが。」
「……うん。理由は……多分、この間の戦いのことなんだと思う。」

 そう言って、テーブルの上のコーヒーを混ぜるフェイト。
 彼女の目前にいるシンは彼女のそんな様子を見ながら自分のコーヒーを口元に運ぶ。
 そんな二人の様子を見ながら、シグナムが口を開いた。
 此処に来る前はいつもみたいなドタバタ騒ぎにならないか心配していたが、そんな兆候など欠片も見せないので内心ほっとしていた。

「恐らく、お前がテスタロッサを助けに行った後のことが切っ掛けなのだろうな。」

 コーヒーに砂糖とミルクを入れて、混ぜながらシグナムが呟いた。

「あの後?」

 その言葉にシンが反応する。あの後、つまり、自分がトーレとか言うあのナンバーズと戦っていた時に起こったこと。

「ああ。あの後、正体不明の魔導師との戦いの際に、エリオ達は二人だけで戦わなくてはいけなくなった。私とアギトはドローンとの戦いに集中しなくてはならなかったからな。」
「その時に?」

 シンの言葉に頷くシグナム。

「そうだ。その時、エリオは殺されかけた。結果的には死ななかった。だが、殺されかけたのは確かだ。」

 生き残れたのは紛れも無く自分の力だがな、と付け加えコーヒーを口に含む。程よい甘さが苦味を打ち消してくれている。
 彼女は甘党だった。

「……それで、それに怯えてる?」

 その言葉を聞いて、神妙な顔をするフェイト。
 そんな彼女の方に顔を向けると、シグナムはコーヒーをテーブルに置き、首を振ってその言葉を否定する。

「私はそう思っていたんだが……今テスタロッサが言った話を聞いて自信が無くなった。」

 肩を竦め、シグナムがそう呟いた。その言葉を聞いて、フェイトが続きを促す。

「シグナム、それはどういうことですか?」
「何かに怯えているのは確かだろう。だが、お前の話を聞いているとエリオが怯えているのは敵や戦闘そのものではなく、むしろ私達のように思える。」
「ああ、それは俺も思いました。」

 シグナムのその言葉を聞いて、それまで黙っていたシンが口を開いた。
 フェイトとシグナムの視線がそちらに向く。朱い瞳は視線を逸らすことなく受け止める。
 フェイトが口を開いた。

「……エリオが私達に怯えているってこと?」
「端的に言えばな。アスカ、お前はどう思う?」

 シグナムに促され、渋々と言った感じでシンが話し始める。
 それほど乗り気ではないのだろう。
 誰かの内面を語るほどにその誰かを知っている訳ではない。そう、思っているから。

「その時の状況を知らないから何とも言えませんが……エリオが怯えているのはシグナムさんの言う通り、奴らじゃない……むしろ、キャロに怯えているんだと思います。」

 具体的なシンの言葉。フェイトは驚きを顔に張り付かせ、隠そうともしない。キャロ。その言葉はあまりにも意外すぎて。
 シグナムはシンの言葉に何かを感じ取ったのか、目を細め、シンを見つめると、ぼそりと呟いた。

「……お前は、何か分かったようだな。」

 そのシグナムの言葉にフェイトの視線がシンに集中する。
 じっとシンを見つめる彼と同じ紅い瞳。真摯な視線。
 その一途さに気圧されるようにして、シンは瞳を逸らした。
 そして、言葉を吐き出す。力無く、か細く。

「……分かりませんよ、俺は。」

 口から出た言葉を掻き消すようにコーヒーを一気に口に流し込む。
 既に冷め切っていたのか、コーヒーは予想していたよりも熱くなかった。

「シン……」

 フェイトの視線が逸らした瞳に突き刺さる。自分に向けられるその視線から目を逸らし、窓から見える外の風景に目をやった。

「……俺が話しますよ。多分、エリオは話してくれると思います。」

 呟くシンの胸にはある確信が満ちていた。
 エリオが悩んでいること。それはシンにとって何度も何度も感じたことだったからだ。
 それはシグナムなどのヴォルケンリッターであればまだ理解できるかもしれない。
 けれど、フェイトには理解出来ないだろう。そして、恐らく八神はやてにも。

 もしかしたら、この世界の誰にも理解できないかもしれない。
 “怯えた視線”。“殺されかけた”。“エリオとキャロの二人の戦い”。
 与えられたのは断片的なキーワードだけ。それだけで答えを得るなど当てずっぽうもいいところだ。
 だが、確信を持って言えた。恐らくは間違いないと
 
 ソレは人を殺しかけたと言う感触。命を摘み取ろうとしたと言う認識。
 エリオが誰を殺そうとしたのか、それは彼本人に聞いてみなければ分からない。
 だが、断片的な情報からもたらされる予想は、殺されそうになった恐怖ではなく、“殺し”そうになった恐怖を想起させる。
 殺人を肯定する為に誰もが一度は通る一つ目の関門である。
 
 いつの間にか懐のデバイス・デスティニーを握り締めていた自分に気付く。
 その感触が思い出させるのはこのデバイスと同じ名前のモビルスーツに乗った初戦――裏切り者に追いすがり、手を掛けた時の気持ち。
 思えば、その時の気持ちによく似ている。
 上官を、戦友を、殺しそうになった恐怖。あの時は躊躇いつつも殺そうとした。
 押し寄せたのは罪悪感だった。その後の戦乱と混乱の中でそんな罪悪感も押し流されてしまったが。
 そして、最後は殺そうとしたその上官――アスラン・ザラに叩き潰された。
 考えてみればいつも自分の前にはアイツが立ち塞がっていたような気がする。
 気に食わない、いけ好かない奴だった。多分、生理的に合わないのかもしれない。

(アイツ、今頃何してるのかな……やっぱり今も偉そうなままなのかな?)

 当然だ。偉そうじゃないアイツ――アスラン・ザラなどアスラン・ザラではないだろう。
 思わず苦笑する。偉そうにしているアスランのことなら直ぐにでも頭に思い浮かべることが出来たから。
 人間、やはり嫌いな人間のことはいつまでも覚えているものらしい。皮肉なことだ。シンは心中で一人ごちる。

「……いいの、シン?」

 フェイトの弱々しい呟き。振り返って、シンはなるべく愛想よくなる様にと思いながらフェイトに言葉を返した。
 なるべく、“自分を出さないように”、と

「……同じ部隊のメンバーですからね。問題ないですよ。」

 その言葉にシグナムとフェイト、両者共に一瞬表情を強張らせた。
 シンは一瞬首を傾げそうになるも、「まあ、いいか」と考えると財布から料金を取り出し、テーブルの上に紙幣を一枚置いて立ち上がる。

「じゃ、俺行きます。エリオとは今日中に話をしておきますから。」
「……もう行くの?」
「はい。そろそろ日課の時間ですから。」

 日課=訓練。
 その言葉を聞いてフェイトの唇が引くつく――シンはそんなフェイトを気にした様子も無く、会釈をして、出口に向けて歩いていく。
 残される二人。フェイトがシンに手を振っている――彼の姿が出口に消える。

「……はあ。」
「……上手くいかないのだな、テスタロッサ。」
「ほ、ほっといてください、シグナム。」

 この時は誰もが軽く考えていた。エリオの悩み。それが何を引き起こすかなど。
 
 運命とはいつも水面下で動き回り、取り返しがつかない時にならなければ気付かない。
 そんな当たり前のコトを誰もが忘れていた。この時は、まだ。


 夜、屋上。星空が見えた。天に広がる星達の群れ。
 それを見上げながらエリオ・モンディアルは悩んでいた。
 悩み――それは件のキャロを見殺しにしようとしたこともそうだが、それと同時にキャロやフェイトが自分の悩んでいることに気付き始めていることへの悩みだった。

 過保護と言ってもいい彼女――フェイト・T・ハラオウンのことだ。打ち明ければ、きっと優しく諭し、そして道を教えてくれるだろう。
 いつだって、今まではずっとそうだったから。
 キャロも同じ。きっと彼女は自分の悩みをきっと笑って許してくれるに違いない。
 
 だが。だが、それでも打ち明けることは出来なかった。実際、打ち明けようとしたことは何度もあった。
 けれど、打ち明けようとすれども、打ち明けられなかった。
 打ち明けようとすれば心臓の動悸が激しくなる。身体が震える。喉が渇いて上手く喋れなくなる。
 
 フェイト・T・ハラオウン。そして、キャロ・ル・ルシエ。
 彼女達二人はエリオにとって、紛うことなく家族だった。
 家族に捨てられ、愛玩人形でしかなかったことに気付き、絶望という檻の中で停滞していた自分にとっての希望の光そのもの。
 信頼している。命を懸けて信頼している。
 だから、打ち明けることなど怖くは無い。
 打ち明けたとしても彼女たちは自分を受け止めてくれる。
 理性はそう信じている――だが、それでも怖かった。
 理性すら駆逐する本能の部分で。エリオの心にあるトラウマがそうさせていた。
 即ち、“見捨てられることへの恐怖”が。
 
 エリオ・モンディアルにとって見捨てられることとは恐怖の対象である。
 最も大切だと思っていた人。
 自分を守ってくれると思っていた、無条件に信頼するべき両親が彼に与えたのは薄っぺらい人形に向けるような愛と深遠なる絶望である。
 本来、誰もが与えられる無条件の愛という階段を昇り、裏切りという絞首台に乗せられ、絶望という名の地獄へと突き落とされたのだ。
 幼い子供にとってそれがどれほどの傷になるかなど考える必要も無い。
 
 エリオにとってその地獄に手を差し伸べてくれたフェイト・T・ハラオウンとは殆ど神と言ってもいい尊敬の対象であり、畏敬の対象である。
 
 決して裏切ってはいけない。裏切ることなど許されない。そして、何よりも誰よりも裏切りたくない存在である。
 命を懸けて。もし、裏切るなら死んだ方が良いとさえ考えるほどに。その思いは狂信的とも言える一途で苛烈なモノである。
 
 そして、同じ立場であり、自分にとって最も近い存在であるキャロ・ル・ルシエ。
 彼女も同じく決して裏切ってはならない、裏切りたくない存在である。
 
 敬愛するフェイトの引き取ったもう一人の義理の子供であり、それ故に彼にとっては誰よりも何よりも絶対に確実に守らなくてはならない存在である。
 別段、フェイトのことが無くとも、エリオはキャロのことを守るだろう。
 彼女は、少なくともエリオよりも弱い。
 弱気を助け、強気を挫く――騎士足ろうとする彼にとって、少女はその信念を満たす為にも必要な存在なのだ。

 ――彼の、庇護欲を満たす為に
 
 庇護欲。それは、下卑た欲望では無い。むしろ、称賛されるべき欲望である。
 だから、そんな気持ちをエリオが持っていることに誰も気付きはしない。
 同じく、当人同士も気付きはしない。
 
 エリオにとって、キャロはそういった庇護欲を満たすと言う事実以上に――大切な仲間である。
 キャロにとって、エリオとはそういった事柄に関係無く――大切な仲間である。
 
 その関係は永続的に続く関係だ。
 少年は少女を守り、母を守り。
 少女は守られ、母は見守る。
 歯車のように噛み合うことで、稼働する自動的な、美しい親子の似姿。
 いつか、その関係が変化して――例えば、少女が少年に恋をして、或いは少年が少女に恋をして、或いは少年が母に恋をして――歯車はその時、変遷する。
 けれど、その時までは、関係は変わることなく継続する――はずだった。 
 
 自分にとっての母――崇拝の対象とも言えるフェイト・T・ハラオウン。
 自分にとっての家族――弱者の対象であり、守るべき象徴でもあるキャロ・ル・ルシエ。
 
 この二人を守る。これがエリオにとって、最も重いルールだ。 
 このルールは何よりも重い。それが騎士としてのエリオの根幹なのだから。
 
 裏切られたからこそ、決して裏切らない――裏切られることが怖いから。
 裏切られることに慣れ、裏切るも裏切らないもどうでも良いと思う――シンとは似て非なるモノだ。

 彼は、それを壊した――恐らく、そう思っているのは本人だけだろう。
 誰も、エリオがキャロを裏切ったなど思っているはずもない。
 けれど、エリオ本人はそう思っていた。
 裏切った――正確には、裏切ってしまった、か。
 
 殺されそうになったから――見殺しにしようとした。
 
 幼い彼の純情は一途過ぎるほどに、真っ直ぐだ。
 そんな彼にとって見殺し/裏切ると言う行為は禁忌の最たるものである。
 それが彼に与えたストレスが如何ほどか――考えるだけでになるかなど今更語るまでも無い。
 
 だからこそ、打ち明けるのが怖い。
 もし嫌われたら――拒絶されたら。
 それを考えるだけで、吐き気を催し、頭痛が脳裏を引き裂かんばかりに殺到する。
 全身が震え、鼓動が加速し、汗が噴出す。
 吹き出た汗を、風によって乾いていく――冷え込む身体。
 なのに、心は今もずっと恐怖で怯えて震えて熱を持って。
 
「……ボクは。」

 後方で音がする――振り返る。心臓が跳ね踊る。
 階段を上る音。ドアを開ける音。そして、名前を呼ぶ声。
 恐れが湧き上がる。けれど――

「……エリオ、いる……よな?」

 振り向いたエリオの視界に見えた姿。ぼさぼさの黒い髪と赤い瞳の男。
 ――それは、期待/恐怖、していた誰かではなく、

「シンさん……ですか。」
 
 シン・アスカだった。
 名前を口に出した瞬間、エリオの胸がざわついた。
 機動6課と言う日常を変えていく篝火。
 命を懸けてフェイトを救った、エリオがなるべき――ならなければいけない存在。
 シン・アスカがそこに立っていた。どこか、申し訳無さそうに。


「……」
「……」

 シンが屋上に入って既に十分ほどが経過した。
 二人の間に会話はない。揃って空を見上げて、星を見ていた。
 沈黙が痛い。話すべき言葉を持たないのではない。話すべき言葉は決まっている。
 けれど、それを口に出していいのかどうか。
 シンはそれを迷っていた。
 不意に、沈黙を破る声――エリオが口を開いた。

「……どうして、ここに?。」

 視線は空に向けたまま――呟くエリオ。
 
「何となくだよ。何となく、お前が此処にいるような気がしたからさ。」
「そう、ですか。」
 
 沈黙が幕を下ろし――エリオの声が響いた。
 意を決したような彼の声。
 聞きたくない――けれど、聞かなくてはならない。
 そんな決意の声。

「どうしたら……シンさん、みたいに、なれるん、ですか?」
 
 シンは一瞬、質問の意味が分からなかった。再度聞き返す。自分の聞き間違いだと信じて。

「……俺みたいに?」
「シンさんみたいに……強く。」

 迷うことなきエリオの返答。僅かな逡巡。もう一度聞き返す。

「……俺が、強い?」
「はい。」

 エリオの返答に淀みは無い。彼の顔を見る――本気の顔。
 彼は本気で、そんな世迷言を言っている。

「いや、エリオ、俺は別に……」

 その返答を否定しようとするシンの言葉を遮るようにエリオが呟いた。
 小さく――けれど、強く。

「……キャロを見殺しにしようとしてしまったんです。」

 淡々と呟いた。無表情。けれど、その横顔は痛々しい。

 ――キャロを見殺しにした。それがエリオは許せない。

 それはシンの考えていた予想そのものだった。
 当たって欲しく無いとは思っていたが――正直な話それ以外に無い。
 だから、その言葉を聞いたところで驚きはしない。
 むしろ、外れていてくれと願っていたくらいだ。

「……この間の戦闘か。」

 エリオが頷いた。
 彼自身、フェイトやシグナム達には言えなかったのに、どうしてシンには告白しようと思ったのかは分からない。
 多分、それは――衝動的なモノだろう。
 仮に理由があったとしても、それは全てその衝動に対する理由づけに過ぎないし――理由そのものもロクでも無い理由だろう。
 例えば、シン・アスカの戦い方が一番エリオが求めているモノに近いからと言う理由とか。
 命を賭して守る。その戦い方はエリオが一番辿り着きたい姿そのものなのだから。

「……僕はあの時、キャロの命よりも自分の命を優先しました。」

 見上げていた顔を下ろして俯くエリオ。シンは口を開かずにじっとその独白に耳を傾ける。

「僕は……殺されるのが、怖くて、死にたくなくて……キャロに向けられていた砲口を“無視”して、
僕に向けられていた砲口に集中した……見殺しにしようとした……。」

 俯くエリオに向かって言葉をかける。

「……あのな、エリオ。どうして、自分が間違ってるなんて思うんだ?俺にはお前の選択がそんなに間違ってるとは思えない。」
「……見殺しにしようとしたんですよ? それが間違いじゃなきゃ何が間違いだって言うんですか。」

 抑揚無く、無理矢理に感情を押さえつけたような声でエリオは血を吐くようにして続ける。

「僕は、キャロを見殺しにしようとして……助かったのは結果論だ。もしかしたら、キャロは今頃――」

 そう言って両手を見るエリオ。
 幼い、小さな掌。
 今、エリオにはその手が真っ赤に血塗られたモノにでも見えていると言うのだろうか――馬鹿な感傷だ。
 呟く。

「……あのな、自殺志願してどうするんだよ。いいか、エリオ。戦闘で大事なのはとにかく生き残ることだ。自分から死ににいくような戦い方が正しい訳が無い。シグナムさんやフェイトさんだって危険になれば撤退する。」

 それは正論だ。教科書通りの模範的な――シン・アスカに最も似合わない回答。
 彼自身、自分で呟いて、これほど薄っぺらい言葉も無いと自嘲したくなるほどだった。

「……あなたが、それを、言うんですか?」

 ぎりっと奥歯を噛み締めるとエリオは激昂しそうになる自分を自制し、爪が食い込むほどに強く拳を握り締める。

「シンさんは、違うじゃないですか……!!シンさんは命を懸けてフェイトさんを助けようとしたじゃないですか!!?」
「……俺はいいんだよ。別にいつ死んでもいいんだし。」
「何ですか、それは……何で、自分は良くて……僕は駄目だっていうんですか!?」

 ――シン・アスカ。彼はエリオにとって一つの目標であり、憧れであった。
 僅か数ヶ月で魔法を覚え、自分達フォワード陣と渡り合うまでの実力を持つ。
 やや、ぶっきらぼうでありながら物腰は基本的には丁寧でいつも自分やキャロを目にかけてくれる。
 エリオはシンにどこか兄のような感覚すら覚えていた。

 そして同時にエリオにとって、最も大事な女神のような存在――フェイト・T・ハラオウンの心をいとも容易く奪っていた男。
 それも本人――シンはまるで意識することもなく。
 
 エリオがシンに憧れる理由。その強さや才能、努力を惜しまない姿勢。それらも理由の内には含まれている。
 だが、最も大きな理由。
 それはシン・アスカの戦う姿勢――命を捨ててでも誰かを守ると言うその姿勢と、フェイトの心を奪った人間であると言うことだった。
 憧れであり、目標である人間。自分と同じカタチの人間。自分が行き着くべき果て。エリオにとってシン・アスカとはそんな人間である。
 だから、エリオは激昂する。
 自分よりも遥かに命を粗末にしかねないのに――自分の目標なのに、どうして“分かってくれないのか”、と。

「……それは」

 二の句を告げなくなるシン。
 ある程度予想していた回答。そして、予想通りに自分はそれに反論できない。
 何故なら――シンにとって、エリオの言葉はあまりにも正し過ぎるからだ。
 
 そう、本当は痛いほど、その気持ちを理解している。
 エリオが思うことはおかしくはない。
 他の人間はどうか知らないが――少なくともシン・アスカと言う人間はその気持ちを正当だと断じることが出来る。
 自分だって、犠牲になろうとした――フェイトを助ける為に、死のうとした。
 そのことに喜びさえ覚えた。
 誰かの為に死ねるのだから、喜ばない訳が無い。
 だから、

「僕は自分が……許せないんです。」

 握り締めた拳を見つめるエリオ。

 ――そんなエリオの後悔を痛いほどに理解してしまう。

 エリオが握り締めた掌を見つめ、何かを堪えるように奥歯を噛み締めた。
 こんな小さな手では何も守れない――そんな風に思っているのかもしれない。
 少なくとも自分なら、そう思う。心中でそんなことを考えて、エリオに呟いた。
 
「……でも、キャロを守れた。それは喜ぶべきじゃないのか?」

 鼻で笑いそうなほどに薄っぺらい言葉。
 言葉の重みとは、そこに籠る気持ちで決まるのだとすれば――その言葉自体が嘘と感じている自分が言えば薄っぺらくなるのも道理だろう。
 
 それは、いつか自分が彼女に言われた言葉だ。思えば彼女はどんな気持ちでこの言葉を発したのか。
 少なくとも今の自分のような気持ちで言ったのではないのは確かだろう。
 彼女の言葉はシンの胸に届いたのだ。
 その後の彼が、その生き方に縋りつくほどに――だから、それは本気の言葉なのだと思う。少なくともシンはそう信じていた。
 本気だから届いたのだ。
 本気の気持ちだったからこそ――だから、そんな、本気で無い言葉が届くはずも無い。

「結果だけです……もしかしたら、キャロは死んでたかもしれないんですよ!?良い訳無いじゃないですか!!」

 エリオは掴みかからんばかりの形相でシンを睨みつける。
 睨みつける視線を受け止め、シンは――何も言えずに黙り込む。
 隣り合い、屋上に座り込みながら、対峙する二人。
 
 シンがエリオに言えることと言うのは、実はもう何も無い。
 戦う以上は生き残るべき方法を選ぶのは当然だ。
 もし、その結果として誰かを失うことになろうとも、生き残る方法を選ぶ方が何よりも正しい。
 戦いに勝敗などは存在しない。
 死ぬか生きるか。
 与えられる結果はその二つに過ぎないからだ。
 

 だから、シンはエリオが目指そうとする答えにこそ憧れを抱く。
 
 守りたいモノを守ると言う生き方を。
 
 その答えは以前の自分よりもよほど正しく――また、今の自分よりもはるかに正しい答えだから。
 自分を犠牲にして、誰かを生き残らせる。
 しかも、その誰かは別に知り合いでしかない――仲間ではあるが、ただそれだけの関係でしかない。
 誰であろうと関係なく、シンはその方法を選ぶ。
 それは崇高な誓約とかではなく、単なる自己満足の欲求の捌け口に過ぎない。
 
 そんな自己満足に過ぎない、生き方に比べれば、エリオの生き方はあまりにも眩しい。
 守りたいモノを“選択し”、守りたいモノを守る為に命を懸ける。
 葛藤もあるだろう。懊悩もあるだろう。
 けれど、その果てに待っているのは――昔の自分では掴み取れなかったモノ。
 それは――本当に眩しすぎる生き方だった。
 
 エリオは今、それを蔑んでいる。
 どうして、自己犠牲を出来なかったのか、と。
 だが、その葛藤や懊悩こそが――思考する、と言うことこそが大切なのだから。
 それは、過去に自分が放り投げて逃げ出した、生き方だから。
 
 だからこそ、シンはエリオを、どうしていいのか分からない。
 分からないけれど――少なくとも、彼が、その道を選ぶことは勧めない。
 その道――即ち思考停止を行い、簡単に命を投げ捨てられる自己満足の道に。
 それは、エリオが選んではいけない道だ。
 彼の目の前には幾つもの道が開かれている――その中で、最も最低最悪の道をどうして勧めることだろう。
 
 シン・アスカとは違うのだ。
 13の時に家族を失くしてその復讐の為に生きてきた。家族を奪ったフリーダム。そして人々を苦しめる戦争と言う名の理不尽を敵として。
 その時点で、全てが間違っている――そんな選択肢しか選ばなかった、人間とはまるで違う。
 
 それ以外の選択肢はあったはずだった。
 彼が軍人にならずに生きる道はきっとあった。
 
 けれど、それを選ばなかった――何故なら彼は復讐がしたかったから。それ以外の道など思いつきもしなかった。

 復讐という炎に身を焦がすことを望んで、戦場の矢面に立った。
 思春期と言う青春の全てを戦争や鎮圧に明け暮れた。それ以外の生き方など頭から抜け落ちた。
 義務教育すら途中までしか受けていない。勉強など殆ど出来る訳でもない。
 その代わりに得たのは兵士としての技能と知識。
 結果、生まれたのは戦争しか出来ない一人の人間――単なる出来損ないで無学の馬鹿だ。
 
 そして、そこまで全てを懸けたその果てに――彼は何も叶えられなかった。何も叶えられずに死んだ。
 そんな失敗続きの人生が、彼に残したのは、せめて何かを守りたかったと言う欲望。
 その欲望が彼に現在の選択を選ばせた。
 
 別にこの選択を後悔している訳ではない。
 むしろ、喜びさえ感じている――欲望のままに生きることが出来る。それは最高に嬉しいことだ。

 だが、彼は――エリオは違う。
 彼は自分とは違い、最高に輝くける道があり、なおかつ未だ若い――幼いとさえ言って良い。
 この年齢で、高い実力を持ち、努力を怠らない。
 その上、人当たりも良く真っ直ぐな性格。
 輝かしい未来をその身に秘めた明日の担い手。
 
 ――自分のような、戦うことしか出来ない人間とは、まるで違う。
 
 だから、シンはエリオにそんな道を進んで欲しくない。進む必要も無い。
 その道を選ぶしかなかった自分と違って、エリオには輝かしい道(ミライ)が約束されているのだから。
 
 けれど、その価値などエリオにはまだ分からない。
 だからこそ二人の会話は平行線を辿るしか無い。
 エリオにとってはシンが進む道こそが輝かしい未来であり、シンにとってはエリオが選ぶ自身の道以外こそが輝かしい未来である。
 その擦れ違いは平行線。決して出会う事の無い、表裏の如く。

 沈黙。押し黙ったシンを見て、エリオは立ち上がると苛立たしげに呟いた。

「シンさんには分からないですよ……僕の気持ちなんて、何一つ。」

 振り向いて、その場から歩いていく。
 既視感を覚えた――あの時の、記憶が蘇る。あのいけ好かないアイツに殴られた時の記憶が。

『戦争はヒーローごっこじゃない。』

 アスランはそう言って自分を殴った。
 自分の言っていることも同じ――状況は違う。
 あの時の自分はヒーローごっこをしようとして、エリオは今ヒーローごっこをしたくて力を求めている。
 それは――何も手に出来ないまま、自分のような出来損ないに至りたいと願っている。

「エリオ!!!」

 思わず叫んだ。彼は振り返ることなく、歩いていく。
 聞こえていない――聞こえない振りをしている。
 無言の背中が示すモノは拒絶。
 足を踏み出す――けれど、踏み出した足が動かない。

(……俺にそれを言う資格があるのか?)

 自問する。答えは明瞭。資格など無い。あるはずが無い。
 自分が今やっていることはヒーローごっこそのものだ。
 ただの自己満足として戦い続けるだけに過ぎない――エリオの考えも理解できる。理解出来てしまう。
 だから、エリオを“本気”で止めることなど出来ない。
 理性は止めろと叫び、欲望は何も言わず無関心。
 嘘だらけの言葉。
 嘘でしかない言葉。
 そんな人間の言葉がエリオに届くはずが無い。
 先ほどと同じことの繰り返しになるだけだ。
 
 ――また、何も言えないまま、終わるだけだ。
 
 シンの唇が歪み、力のない嘲笑を浮かべる。
 前に出した手が落ちていく。
 自分にエリオを諭すことなど出来るはずが無い。
 あの時の自分が結局アスランには諭されなかったように。
 既にエリオの姿は見えない。もう、行ってしまっていた。
 どこか――恐らくは自室へと。
 追いかけ――

「……馬鹿か、俺は。」

 何を、言えるのか、と心中で再度反芻し、自分の言葉を思い出す。
 
 “……俺が話しますよ。多分、エリオは話してくれると思います。”

 笑わせるな。確かにエリオは理由を話してくれた。
 だが、それだけだ。話してくれただけで、何も解決などしていない。
 自嘲の笑みが再び浮かぶ。
 それこそ笑わせるな、でしかない。
 言葉で何を言い繕うとも何も変わらない――自分如きが何を言おうとも何も変わらない。
 だから、もし自分に出来ることがあるとするならば、それは――

「……変わらない。変わらないさ、いつもと同じで、何も変わらない。」

 守れば良い――そう、守れば良いだけの話だ。
 エリオがその道を選ぶと言うなら、自分がその道ごとエリオを守れば良い。
 変わらない。何一つ変わらない――出来ることなど、それしかない。
 それは何も解決しない、問題の先送りに過ぎない。
 ただ現状維持を繰り返すだけの臆病者の選択。
 それでも、彼の脳髄が思いつかせたのは、そんな逃避でしかなかった。
 それ以外に何も出来る訳がない。そう、自分自身を蔑んで――彼は天を仰ぐ。
 決して届かないと知りながら、夜空に向かって呟いた。

「……アスラン、アンタもあの時、こんな気持ちだったのか。」

 呟きは夜空に吸い込まれて消えていく。
 残るのは静寂。天の光を彩る静寂だけだった。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 27.始まりの鼓動(b)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 17:57
 夜を彷徨う。
 見える色は漆黒ではなく、星の明かりが照らし出すアスファルト舗装。
 エリオは今、隊舎を飛び出し、夜道を歩いていた。

「……なんであんなこと言っちゃったのかな。」

 溜め息を付きながら、肩を落とし呟く。
 夜道は暗く、エリオにとって都合のいいことに周りには誰もいない。
 それは当然の事で、実際時間は既に10時を回っている。
 周辺地域に繁華街などのいわゆる大人が集まる場所は無い。
 つまり、一般の民家がそうであるように殆どの人間は寝るか、家でくつろぐ時間である。
 
 夜道の先には公園があった。
 最初からの目的地はそこ。公園のベンチ。その場所で少し頭を冷やしたい、そう思ったから此処に来た。
 うだるような暑さがあった。
 アスファルトから登る熱気と肌を流れる不快で暑い風に顔をしかめながら、エリオは街路灯の明かりを頼りに公園に設置されているベンチの場所を探す。
 見渡せば直ぐに見つかった。そちらに歩き、腰掛ける。

 ふう、と溜め息。
 そして胸に沈んでいく猛烈な後悔と罪悪感。
 シンの横顔を思い出す。
 何かを言おうとして――言えない、そんな顔。
 後悔と罪悪感が胸に上がる。
 
 確かにキャロを見殺しにしようとしたことは最悪なことだ。
 だが、それをいつまでも引きずった挙句に周りの人々に心配させ、あまつさえ自分を心配し相談に乗ってくれたシンに八つ当たりのように文句を飛ばした。
 ――明言はしていないが恐らくはそうだろう。
 単なる八つ当たりだ、これは。本当に、情けない。

「……でも、シンさんがそれを言う事無いじゃないですか。」

 ベンチの背もたれに寄りかかり、左手の甲で自分の額に押し付ける。
 額から沸き出る汗が左手を濡らしていく――不快感を感じる。
 
 エリオにとってシンは憧れだ。フェイトとはまた違った意味で。

 単純に言えばカッコイイ。複雑に言えば理想。
 
 無論、エリオはシンが誰かを守ることだけを生きがいにしているなどは知らない。
 エリオが知っているシンは、あくまで“目的を手に入れたシン”である。
 それ以前の無気力一辺倒のシン・アスカを彼は知らない。
 
 そのシンを皮きりにあの模擬戦、その後の6課での訓練、そしてついこの間の実戦、その程度にしかエリオはシンを知らない。
 ――だからこそ、エリオは勘違いしているのだが。
 どちらにせよ、その中でエリオはシン・アスカと言う人間に憧れた。

 ああ、この人も騎士なんだ、と。
 
 訓練では何よりも味方が被害を受けることを恐れ、いつ何時でも誰かを守ることを念頭に戦うと言う元軍人と言う経歴からはまるで思いもよらない姿。
 エリオが思い浮かべる軍人と言うのはそれなりに庇いもするが、それなりに見捨てもする。
 作戦行動に支障が起きることを最も留意する軍人はそうなるのが必然だ。
 そして、実際のところ、エリオの思い浮かべる軍人の姿は正しい。
 何もそれは軍人に限った事ではない。
 個人の判断が集団の利益に関係する仕事は殆どそう言った命題を抱えている。
 
 そういった観点から見てシンのやっていることは、愚にも付かない馬鹿な人間のすることだ。
 誰も見捨てられない。目に映る人々を全て守り抜く。
 取捨選択と言う行為をしない人間。

 未だ10歳の子供でしかないエリオにとってそんな人間がどう目に映るかは想像に難くない。
 エリオにとっては正に自分自身が思い描く最高にして最大の“誰をも救うカッコいいヒーロー”である。
 
 エリオ・モンディアル。
 彼はその出自からして“特別”な人間である。
 そして、特別であるが故の嘲りや罵倒、裏切りを受け続けた彼にとって誰かを守ると言う行為は、自分がその誰かに見捨てられない為の大事な行為だ。
 どちらかと言うと助けたいから助ける、ではなく、捨てられたくないから捨てないに近い。
 勿論、それを意識したことはない。これはエリオが彼の養母――フェイトから無意識の内に手に入れた処世術のようなものである。
 
 フェイトは幼い頃に受けた母とのやり取りの中で、エリオは幼い頃に受けた両親からの裏切りによってそういった精神構造を手に入れた。

 フェイトは手に入れた、その精神構造故にシン・アスカに強く惹きつけられた。
 シン・アスカ――つまりは他人の考えなどどうとも思わない強烈なエゴに。
 そのエゴが向かう先は全てを守ると言う馬鹿げた夢想――或いは自己満足。
 どこにも辿り着かない袋小路。それでもシン・アスカと言う男は考え無しに突き進む。
 脱水症状を起こして倒れても、筋肉が痙攣して動けなくなっても――何があっても突き進む。
 圧倒的なエゴ。目的以外はどうでもいいと言いたげな姿。
 その姿に強く強く惹きつけられた――物騒なだけの人間にどうしてそこまで惹きつけられるのか、と彼女自身不思議に思っている。

 だが――恋とはそんなモノだ。
 理由など無い。
 理由が無ければ恋で無いと言うのなら、世の中の恋の半分以上は単なる自意識過剰――恋に恋しているだけと言うことになる。
 だが、それもまた恋だ。
 理由があって始まる恋愛があれば、理由無く始まる恋愛もある。
 事実は小説よりも奇なり――然り、である。
 
 そして、その結果――彼女はそんな彼に守られたいと願う。
 手に入れたいと思った訳ではなく、独占したいと思った。
 これがフェイト・T・ハラオウンの恋の真相である。ギンガ・ナカジマの方も似たような真相である。
 
 同じく――酷似した精神構造をしているエリオもまたシンに強く惹きつけられている。
 勿論、フェイトとは少し違うカタチで。
 
 エリオが惹きつけられたのも同じくシンのエゴではある。
 違うのは、惹きつけられた箇所ではなく、惹きつけられ方。
 エリオはフェイトのように、シンに何かをして欲しいと思わなかった。
 彼はシンのようになりたい、と、そう思った。

 物騒な人間――だが、有事には簡単に自分の命を懸けることの出来る人間。
 苛烈であり、純粋であり、真っ直ぐな――自分以外の他の誰かの事しか考えない。そんな人間になりたいと。
 だからこそ、どうして理解してくれないのかと思った。

 極端なことを言えばシンがいなければエリオはここまで悩まなかった。
 キャロを見殺しにしようとした同時期にシンは自分の命を捨ててフェイトを助けようとした。
 もし、そんな事態が発生していないならば、恐らくはここまで悩む事は無かった。
 
 シンとトーレの戦闘の際の映像は僅かな映像しか見せてもらって居ない。
 だがその僅かな映像からもシンとトーレの間にどれほどの戦力差があったかなど簡単に理解できた。
 それでもシンは恐れずに戦った。目前に迫る死をものともせずに戦った。
 その姿がエリオの目に焼き付いてしまった。
 そして焼き付いた姿はエリオとシンの違いを如実に言い表し、エリオの罪悪感をこれでもかと刺激する。

 結果――少年は男に嫉妬する。
 
 嫉妬の対象は――そうやって命を懸けたと言う事実そのものへと。
 自身には出来ない。なのに、彼は出来た。
 ただ、それだけの理由だ。
 それが悔しい。
 そして、仮に、シンの言う通りにしたならば、シンのようにはなれない。
 シン自身はエリオに自分のようにはなるなと思っているのだから、そこは当然とも言える。
 
 背もたれに身体を預け、エリオは茫洋と空を眺め続ける。
 情けない自分はどうしたら変われるのか。そんな思いを刻みながら。
 ――そんなこと、本当は思う必要など無いのに、彼は何も気付けずにいた。
 この時は、まだ。
 気付くのは――彼が全てを失ってからの話。


 深夜、2,3度もぞもぞっと布団の中で身を動かし、その布団が力任せにどかされる。
 布団の中から現れたのはギンガ・ナカジマ。
 半分、閉じた瞳をぼうっとさせつつ、背筋に鳥肌を感じる。同時に下腹部に感じる違和感。

「……トイレ……」

 ぼそっと呟き、パジャマ姿でそのまま部屋の外に出る――着替えるようなことでもない。そう、思って。
 そしてトイレを追え、自分の部屋に戻る――覚めてしまった意識はしばらく眠らせない程度に眼を冴えさせる。

(眠れるかな。)

 一度目が冴えるとギンガは眠れない。そんな体質だった。
 溜め息を付きながら明日の通常業務に支障が出なければいいな、と思って歩みを進める。

「……?」

 ふと気づくものがあった。
 光だ。その光に気づくとギンガは、そちらに歩いていく。
 光は屋上から差し込む月光。
 多分、誰かがドアを締め忘れたのだろう。
 別に放っておいても良いのだが、見つけてしまった手前、開いたままにしておくのも嫌なので、締めておこうと思ったのだ。
 恐る恐ると言った感じで階段を上り、少しだけ開いていた屋上の扉に手を掛け、思案する。

(どうせ寝れないんだから――空でも眺めてから寝よっと。)

 メルヘンチックな思考を浮かべ、ドアを少し前に押し出す。
 昼間よりは少し下がった空気――それでも未だ熱気と言う感じは消えていない。
 完全に空調管理された隊舎内とは違う空気。夏の夜空の雰囲気を胸一杯に吸い込み、開き切っていないドアを完全に開いた。
 足を進める。空を見上げる。

「……うわあ。」

 感嘆の溜め息が漏れる。手を伸ばせば星が掴めそうな満天の夜空を見て。
 屋上という場所が故に外灯の光が届かないからだろう。
 普段見る夜空とは別格の綺麗さがそこにはあった。

「……綺麗。」

 呟き、屋上のドアを閉める。
 思わずガチャンという音を鳴らしてしまう。
 風で引っ張られ、力の加減を間違えた。

「……起きない、わよ、ね?」

 自問する。数秒間待つ。足音や声は聞こえない。起きていない。
 心中でほっと一息吐くと、回れ右して彼女は屋上の中に進み――声を聞いた。

「ギンガさん?」

 名前を呼ばれ、慌てて声のする方向に目を向ける。
 果たして、そこには彼女の予想外の人間がいた。
 屋上の床に大の字になって眠っていたかのように、瞳は半分閉じたままで眠そうな男。
 朱い瞳。黒いぼさぼさ髪。無地の黒いTシャツに黒いジャージ。味も素っ気もないパジャマ姿――もしくは訓練姿。

「……何やってるんですか、シン。」

 シン・アスカがきょとんとした瞳で彼女を見つめていた。


「こんな時間に何してるんですか?」

 屋上のコンクリート製の床に座り込んだままシンがギンガの方に顔を向けて呟いた。

「いや、トイレの帰りにちょっと寄ってみたんですけど……シンこそどうしてこんなところに?」

 風で流れる髪を左手で抑え付けながら、ギンガが呟く。
 その言葉にシンが少し眼を逸らしつつ、口を開いた。

「……ちょっと考え事してたら、そのまま寝てしまってました。」

 はは、と乾いた笑い。
 ギンガはその様子に何か引っかかりを感じつつも表に出すことなく、溜め息を吐き、瞳を細め、シンを見つめる。

「……風邪引きますよ?」
「大丈夫ですよ、そんなにヤワな身体じゃないですし。」

 シンはギンガの言葉に苦笑しながら返す。

「……そういうこと言う人が一番風邪引くんですけどね。」

 そう、呟きながらトコトコとシンの座り込む方に歩いていく。
 吹き荒ぶ風。空を見上げれば雲が流れていくのが見て取れる。
 風で荒らされそうになる髪を右手でしっかりと押さえつけながら、座り込んだままのシンに近づくと、ギンガが言葉をかけた。

「隣、いいですか?」
「どうぞ。」

 では、と呟き、その隣に腰を下ろすギンガ。布越しに感じるコンクリートの冷たさがに一瞬顔をしかめるも直ぐにそれは消える。
 横を見ればシンはずっと空を眺めている。
 その横顔を眺めながらふとギンガは思った。
 そう言えばこんな風に二人だけでいるなんてことは機動6課に来てからは無かったなと思い――少しだけ嬉しくて浮き足立ちそうな気持ちを抑えこむ。
 シンの横顔を見たからだ。
 その表情は浮かない。その横顔を見れば彼女でなくとも彼が何かに悩んでいることが理解できる。

「何かあったんですか?」
「……」

 沈黙。黙り込むシン。意を決したようにこちらに振り向くと、その口が動いた。

「……ちょっと、言えませんね。」

 申し訳なさそうにシンは苦笑する。頼りなげな笑顔。いつもとは違うシンの表情。

「そうですか。」

 ギンガはその返答に少しだけ落胆して、声を落とす。自分しか分からないほど少しだけ。
 シンは足を広げて両手で身体を支えるようにして空を眺める。
 ギンガは体育座りをしながら彼と同じ方向に目を向けている。

「……」
「……」

 言葉は無かった。
 沈黙だけがその場所に佇んでいた。
 言葉を失った訳ではなく、かける言葉が見つからない。だから、沈黙する二人。

 隣で体育座りをしながら空を眺めているギンガの横顔を見ながら、シンは僅かばかり罪悪感と言うか後ろめたさを感じていた。
 別に隠し事をした――というほどの重大なことではない。
 言ったところで彼女は別に誰にも言いはしないだろうし、別に知られて困るようなことでもない。

 誰かの話を他の誰かに言うということが単純に嫌だったから言わなかった。ただそれだけ。
 部隊の規則ではなく、自分の倫理に従っただけだ。
 
 決して彼女を蔑ろにしている訳ではない。
 そういう訳ではないのだが――何故だか、シンの心には罪悪感が付き纏う。
 彼女の横顔が少しだけ落ち込んでいたように見えたからだ。
 
 俯きそうな自分を無視して、シンは空を見る。
 その心の動きに気を取られる――それに何故か恐怖を感じたからだ。
 自分が“戻ってしまいそうな”そんな恐怖を。
 
 そんなシンとは対照的にギンガの内面は平然としたものだった。
 嵐を飲み込んだ静けさであるのだが。
 つい先日の事件――仕事をサボって追っかけたことである――の後のことだ。
 八神はやてに、こってりと叱責された後のこと。
 自室でベッドに座り、彼女は呆然と自分のしたことを振り返っていた。

 “仕事をサボって、男を追いかけた。”
 
 それを考えて彼女は思った。自分はこれほどに変わったのか、と。
 自分が変わってしまったことは知っていた。
 それも不可逆の変化が起きたことは。
 
 初恋である。人生発の、それも周りから見たら大分と遅い初恋である。
 おたふく風邪や、はしかは大人になってから発症すると洒落にならない事態になりかねないと言う。
 
 それと同じく、遅咲きの初恋も、これまた洒落にならなかったりする。
 なまじ、知識が増えている分、勘違いしやすい――行き着くところまで行かなきゃ駄目と考えるのだ。
 ちなみに行きつくところと言うと、一昔前の少女漫画にありそうな感じの恋愛である。
 つまりは、告白→付き合う→結婚、と言う安直この上無い恋愛である。
 今時の少女漫画だって、もう少し波乱万丈だ――と言うよりも少女漫画は基本的に波乱万丈過ぎるのだが。
 
 何にしろ、溜めに溜めた知識と言う薪は、容易く恋の炎で轟々と燃え上がる。

 故にギンガやフェイトは最近おかしかった。
 ぶっちゃけると加減が分からないので、やれるだけやれ!みたいなノリだった。八神はやてが叱責するのも当然だ。
 
 そして、その叱責を終えた後、脳内で渦巻く多くの事柄に対してギンガはある結論に至った。
 フェイトは少し抑えようと自覚して自制に走った。
 ギンガも基本的にはこれと同じだ。だが、内面はもう少し深い。

 即ち、自然であればいいと。
 
 ギンガ・ナカジマの願いは単純な話、シンが彼自身の願いを叶えられるように守ること――つまり彼を肯定すること。

 決して誰にも彼の邪魔はさせない。
 そうすることでしかシンは生きていられない。
 守ることを剥奪すると言うことはシン自身から生きる意味を剥奪することに他ならないのだから。

 シン・アスカにとってギンガ・ナカジマが唯一の存在になれるかどうかなどは“どうでもいい”のだ。
 無論どうでもいいことではないのだが、前述した彼女の願いに比べればそんな欲望など無視すべき事柄である。
 
 だから自然であろうと思った。
 彼に付き従い、彼に降り掛かる火の粉を払い除ける。
 彼が誰を好きになろうと、彼にどんな大事な人がいようと関係ない。彼女は別にシンに何も望まないのだから。
 
 徹底した黒子。欲望とは真逆の位置に存在する偽善中の偽善――即ち、献身。
 彼女はそれを思い出した。
 自分の初心。その位置取りを。
 
 故に、彼女はシンに何を言われようとも胸に秘めるだけに決めた。
 当然、己の恋慕はひた隠しにする。
 少なくともシンにだけは決して知られてはならない。
 
 今のようにシンが自分に隠し事をするとしても仕方ない。
 彼が何を言おうとも自分は“仕方ない”で済ますことに決めたからだ。
 だから、彼女はシンの言葉に平静だった。シンが自分に言わないのは“仕方ない”のだと。
 
 ――それを本当に平静と言っていいのかどうか。一言「どうして」と聞けばいいだけのことなのに。 
 聞けないのは多分拒絶されることが怖いから。
 「仕方ない」と言う言葉の裏側にあるは「嫌わないで」と言う切実な想い。
 そんなギンガの複雑な気持ちなど知る由も無いシンは自分の内に生まれた恐怖――戻りたくないと言う恐怖である――を押し流すように口を開いた。

「……前に進んでるんですかね、俺は。」

 ぽつり、と呟く。それは誰に言うでも無い独白だった。

「……シン?」
「……いや、すいません。訳分かんないこと言って。」

 その横顔にはいつもの覇気ややる気は無い。
 むしろ、その顔は6課ではギンガとはやてしか知らない、“こうなる”前のシンの表情に近い。
 それが良い兆候なのか悪い兆候なのか、ギンガにはよく分からないが――何故か嬉しかった。
 自分しか知らないシンを自分だけが見ている――独占している。そんな気がして。

 シンから視線を外し、ギンガは夜空を再び見上げ、答えた。

「……きっと進んでますよ。シンは、いつも前しか見ない人ですから」
「前しか見ない、ですか。」

 その言葉にシンが反応する。ギンガはシンの方に振り向くとクスリと笑って、続ける。

「そうですよ? いつもいつも自分より前にいる人しか気にしないじゃないですか。
……うん、あの時も貴方は目の前にいる誰かを助ける為に走って、それで怪我をして入院して……」

 あの時――それはシンが初めて誰かを助けられた日のこと。
 その事実に思い至り、シンは少し恥ずかしそうに苦笑する。

「あ、あはは、いや、あの時は頭に血が上ってて……」
「……上ってましたね、確かに。」

 にやりと人の悪い笑みを浮かべるギンガ。
 シンはその言葉に顔をしかめ赤面させ、顔を逸らした。悪戯をとがめられ、からかわれているような錯覚を覚えて。

「……あの時は本当にすいませんでした。」

 口調は不貞腐れた子供のよう。ギンガはそんなシンの様子にクスクスと苦笑しながら、再び話し始める。

「きっと前に進んでますよ、シンは。あの時よりもずっと強くなりましたし……私にだって勝ったんですし。」
「……そうなんですかね?」

 疑わしげなシンの口調。
 それはギンガを信用していないのではない。
 彼は多分、自分自身を信じられないのだろう。
 
 シン・アスカと言う人間は話してみれば分かるが、驚くほどに自分を否定し、過小評価する。
 自信が無い、とはまた違う――どちらかと言えば、自分自身を誰よりも疑っていると言う状態が近い。
 何を疑っているかと言えば、それはギンガには分からない。
 予想がつくことと言えば、強くなっているのかどうか――或いは迷惑をかけていないかどうか。
 その程度。

「そうですよ。」

 そう、シンに伝えてギンガはもう一度空を眺める。

「……そうなんですかね。」

 そのまま、再び訪れる沈黙。会話が途切れた。
 
 ――そうですよ。
 その言葉を聞いた時、シンの心に何故か波紋が生じた。
 
 眺めた空には天の川。世界は違っても空は同じ。

 この空は、あの宇宙(ソラ)に繋がっていない――そんなこと信じられないほどに同じだとシンは思った。
 
 空。憎悪の空。紅い空。燃える空。
 星。爆発していく命。消えていく誰かの命。自分が殺した数多くの命。
 
 思い出す情景は苦い記憶ばかりだった。
 
 一番古い記憶は守れなかった記憶。
 
 一番新しい記憶は逃げ出した記憶。

『いつも、シンって自分しか見てないよね』
『そうか。』
『……そうよ。』

 いつからか彼女との会話に煩わしさを覚える自分がいた。
 疲れていた。
 彼女とのぬるま湯のような安寧にも、何も選べずにいる自分自身の有り様にも、選ばなければいけない重圧にも。

 あの時――オーブの慰霊碑の前でキラの手を取った。
 その時、自分はあの男に従うことを選んだ―――はずだった。
 けれど、自分はそこから逃げ出した。何もかもが嫌になってそこから逃げ出した。
 
 それから自分は彼女――ルナに逃げた。溺れた。
 何もかも――ラクス・クラインの信じられないような治世。
 平和ではないがその道筋を辿る世界。そんな自分を嘲け笑う全てを忘れようとして。
 
 そんな日が続くこと数ヶ月――実際の月日は覚えていない。
 その頃の記憶は朧気で、生きているのか死んでいるのか分からないほどに不確かだったから。
 
 ある日、ルナはオーブに行くと言った。メイリンに誘われたと言うことらしい。
 彼女は言った。

『シン……休もう?シンはずっと頑張ってきたんだから、もう休もうよ。』

 彼女は自分にそう言った。
 思えば、それは天啓だったのかもしれない。
 
 心臓が高鳴った。鼓動が煩かった。
 頭痛が始まった。流れる血液が“痛かった”。
 
 休む。戦いから離れよう。彼女はそう言った。
 
 その時、胸に覚えたのは安らぎなどではなかった。
 胸にあったのは何よりも激しく厳しい“恐怖”。
 恐ろしいほどの強迫観念を感じた。
 
 戦え、とか、生きろ、とか、死ね、とかそう言った類ではない。

 ――それでいいのか?と。
 
 明確な思いは何一つ無かった。
 多分、あれは「休む」と言う事柄に対する反発なのだろう。
 それから自分はそのココロに従って、ルナに黙って軍に入ることを決めた。

『軍に、戻るの?』
『ああ。』
『……そう。』

 オーブには行かずに軍に入る。それを聞いた時のルナの顔。その顔は彼女を思い出すと明確に思い出せる唯一の顔。
 それは裏切られたことを悲しむ顔では無く、疲れきって諦めて、そして“安堵”した顔だった。
 その顔を見た時――自分も彼女と同じく酷く“安堵”したのを覚えている。
 それは何に対しての安堵だったのか――多分、それは煮え切らない関係に終止符を打てた安堵。

 それを思い出した。そんな自分を思い出した。
 最低の自分。最低の関係。腐り切った人間性。
 自分が、多分一番大切にしなくちゃいけないものから逃げ出したことを。
 
 それを誰かに言った事は今まで一度も無かった。誰にも。一度も。
 言う必要が無かったから。言いたいとも思わなかったから。
 
 今、それを言いたいと思った。隣にいる彼女に言いたいと。
 理由は――分からない。
 ただ、どうしても、この安堵を壊したかった。壊さなければいけないと思った。
 
 胸が、ざわめきだす。
 冷や汗が、流れ出す。
 心臓の鼓動が煩い。
 背筋を這う怖気は、何に対する怖気なのか――それは紛れも無く、この安寧に怯える自分自身の拒否反応。
 このまま、この関係が続けば――もしかしたら、自分は誰かに■をするかもしれない。
 そんな安寧を壊したい――無かったことにしたい。
 突発的な破壊衝動――人間関係と言う大切なモノへの。

「……く。」

 理性は何で言うのかと騒ぎ立てる――けれど、心はどうでもいいとソレを押さえ込む。
 口を、開く。
 言ってはいけないと分かっているのに――言いたいと言う欲求に抗えない。
 この安寧を壊して、安心したい。
 この関係を無かったことにして、誰にも気にして欲しくない。
 ヒエラルキーの下降欲求。
 誰よりも下であれば良い。
 幼稚で馬鹿げた、鬱への依存症。
 吐き出す――下卑た自嘲が微笑んだ。
 
「……昔、傷つけた子がいたんです。」

 ギンガが突然の言葉に驚いたのか、こちらを振り向いた。
 気にせずに続ける――止められない。
 吐き出された言葉は決壊したダムから流れる水のように、止まることなく吐き出ていく。

「俺はその子と一緒に住んでました。男と女で一緒に住んでたから、しっかりやることやってました――彼女に溺れてました。」

 口調は単なる独白。
 自分を卑下しているのでもなく、淡々淡々と、事実だけを紡いでいく。

「多分……彼女に甘えてたんです。優しくしてくれた彼女に甘えて溺れて、それでずっと一緒に生活して―――俺は彼女から逃げました。」

 言葉を切る。ギンガは呆然としている。
 気にせずに続ける――自分は何を言っているのだろうかと思いつつ。

「彼女が別の国に行くと言ったから、俺は軍に入りました。……多分、お互いに疲れてたんでしょうね。無駄を積み上げていくだけの関係に。」

 少しだけ得意げな口調になった――何を得意げに思うのか。心中で苦笑――これは嘲笑か――し、続ける。

「それから、俺は軍に入って、彼女は別の国に行って……それっきりになりました。」

 ギンガは一言も言葉を発さない。それに下卑た喜び――優越感を感じながら、口を開いた。
 紡いだ言葉を締める末尾の言葉を。

「……前になんて、進めてないんですよ、きっと。」

 貴方は俺のことを何も知らない、と、先程とは人格でも変わったように、嘲笑する――それは自嘲であり、他嘲の笑み。

「そんなの俺に出来るはずが無い。ずっと、何も考えたくなかった。」

 声は止まることなく吐き出ていく。

「何かを考えさせようとするルナが嫌だった。軍に入ったのは、彼女から逃げたかったからだった。何も考えたくなんて無い――考えたくなんて無いんです。戦っていたのも何も考えたくなかったから。 誰かを捕えたのも、全部全部……全部、何も考えたくないから。今、此処にいるのだっておんなじだ。俺は、多分――」

 ――多分、誰かを守れる喜びに浸りたいから。
 そう、言い放つ瞬間――いきなり、頬に激痛。次いで月が見えた――吹き飛ばされて転倒した。

「は、ぎゃ!?」
 
 立ち上がり、いきなり殴った彼女に向き直り、声を懸ける。

「な、何するんですか!?」
「何を言いたいのかは知りませんが……こんな夜半に女性に言う話では無いでしょう。それにそんな風にいじけたいだけなら、シャマル先生にでもカウンセリングでもしてもらうべきです。」
「……ギンガ、さん?」

 肩を震わせるギンガ。
 いつの間にか左手にリボルバーナックルが装着されている。
 恐らくあれで殴ったのだろう――全力で。防御したシンの右頬が痺れていた。

 ギンガは、この瞬間少しばかり――いや、かなり怒っていた。
 想い人が彼自身の女性遍歴を語ったことは良い。
 だがそれ以上にいじけている彼が許せなかった。
 そんな程度で、“私”が“彼”を嫌うとでも思っていることが許せなかった。
 
 干渉しない。
 そんな気持ちはこの時消えていた。あるのは怒り。ただただ、ギンガ・ナカジマにすら不信する彼への怒り。

「いじけて、慰められたいんですか? それとも自分はこんなに凄い駄目人間だって蔑まれたいですか?」
「……っ」

 言い返せない。それは的を射た言葉だった。
 拳を握り締める。吐露した情けなさを堪えるようにして。
 けれど、その後に続く言葉はシンの予想を裏切った言葉だった。

「だったら、精々ガッカリしてください――私は絶対に貴方を蔑みませんから。」
「……え?」

 蔑まない。そんな意外な言葉を聞いてシンは間抜けな相槌を打った。

「貴方がどんな人間だろうと、どんな最低人間だろうと……貴方にどんな過去があろうと。」

 紡がれる言葉を締める末尾の言葉。彼女はそれを決然と言い放つ。

「私は、貴方を蔑まない。絶対に。何があろうとも――だから、安心してください。貴方は絶対に前に進んでいる。――私は勝手にそう思ってますから。」

 にこり、と彼女は微笑んだ。綺麗で無邪気で誰もが安心する。そんな太陽のような微笑み。
 夜闇の中の一つきりの輝き。儚い月光の輝きとは違う――自ら輝ける光。
 見蕩れる自分がいた。その絶対の信頼を示す笑顔に見惚れる自分が。

「……どうして」

 その輝き(エガオ)の眩しさに堪え切れずに目を逸らし、呟いた。

「はい?」
「どうして、そんなこと言えるんですか?」
「どうしてって……」
「俺は、多分、ギンガさんが思ってるより、ずっと最低の人間で――だから、俺は……何も、言えなかったのに、どうして」

 繋がらない言葉。胸の奥から沸き出てくる言葉の羅列。
 
 ――シンさんには分からないですよ……僕の気持ちなんて、何一つ。

 その言葉に反論する術を持てなかった。

「俺には、何も、言う資格は無くて――俺は、前になんて進んじゃいない。ずっと後ろ向きで、」

 そうして俯くシンを見て優しげに苦笑するギンガ。
 
 ――駄目。干渉しないなんて無理。
 
 止められない。
 この想いは、きっと止まらない。
 たとえ、この人になんて思われようとも、私はこの人を全身全霊を懸けて“守りたい”。
 溜め息を吐いて――彼女はその想いにココロを委ねた。
 きっと、自分の心は、これからもずっとウシロムキで――心を囚われ続ける乙女はきっといつだってウシロムキなのだから。

「ウシロムキの何が悪いんですか?」
「……ギンガ、さん?」
「マエムキっていう言葉は魅力的ですよ。けど、ウシロムキだって、前には進める。ただ前に向いてないだけで。」

 そんな言葉遊びをギンガが呟いた。
 
「言葉遊びですよ、それ。」
「報われない可能性に負けない、強い気持ち――ウシロムキって、そんな気持ちでもあるんですよ?」

 ギンガが一歩近づいた。
 月光が彼女を照らす。

「私も、ずっとウシロムキだから。」

 優しく微笑む――シンはその笑顔に見とれる。
 眼が離せない。
 青い瞳。青い髪。白い肌。
 いつも自分の傍にいてくれる女性――どうして、彼女はこんなにも自分を肯定するのか、分からない。
 考えたくもない。考えて、気付けば――多分、自分は拒絶するしか無くなるから。
 だから――気付いているはずなのに、気付けない振りをしている。
 それは多分――もう一人の女性に対しても。
 そんな反吐がでるような鬱屈が胸に渦巻く。

「……そういえばシンにはまだ言ってませんでしたね。私の身体のこと。」
「……ギンガ、さん?」

 そう言っておもむろにシンに彼女が近づき――彼女がシンの手を取って、自分の胸の中心にその手を触れさせた。

「ギ、ギンガさん、アンタ、何して……」
「音、聞こえますか?」

 シンの手に伝わる体温と震動――心臓の鼓動。命の音。
 同時に――あり得ない音が聞こえた。

「……これ、って。」

 シンの胸の鼓動が激しく高鳴る――さっきまでとは違う拍動(リズム)で。
 開けてはいけない扉を開くような、或いは開けなくてはならない扉に手をかけたような。
 彼女の顔が少しだけ悲しそうに――

「シンは、この中に何があると思いますか?」
「何って、そんなの、人間なんだから……」

 質問の意味を計りかねるシン――胸がドクドクと鼓動する。
 何があるかなど明白だ。その中には心臓や骨、筋肉など人体を構成する様々な器官があるはずだ。
 
 ならば、聞こえてくる、この音は何だ?
 心臓の音では無い、機械の駆動の震動は何だ?
 
 薄々と気付きだす。
 何かが、違う。ギンガ・ナカジマは――

「……この中には機械が詰まっています。心臓や筋肉以外に、ね。」

 ――その時、自分の耳を疑った。聞き間違いであってくれと願った。

「え。」

 間抜けな返答。言葉など出てこなかった。
 
 ――機械。それは一体何を意味するのか。
 
 シンは愕然とする自分に気づく。足元が揺れている――足が震えている。
 次にギンガが放つ言葉。それを“半ば”予想して。

「私――人間じゃないんです。」
「……何を言ってるんですか」
「……戦闘機人タイプゼロファースト。それが私です。」

 真剣な眼差し。ギンガのその瞳からシンは目を離せない。
 逸らしたいのに――逸らせない。
 魅入られたように、見つめている。
 
「シンが以前戦った女性、覚えてますか?」
「……フェイトさんと戦った、あいつ、ですか?」
「はい。あの女性と私は基本的に同じ。機械仕掛けの人間です。……人間じゃありません。」

 シンは何も口に出せない。
 
 ――なんだ、何を言っている。
 
 混乱する思考。錯綜する情報。重なる誰かと彼女。

「スバル、も……?」
「……そうです。私達はある一人の人間の遺伝子から作られた戦闘機人と言う人間を超えた存在の雛形。」

 人間を超えた存在――それはどこかで聞いた言葉だ。
 
 待て、待て、待て。
 気付くな。気付くな。気付くな。

「……何だ、それ。」
 
 記憶が逆流する。
 あの寒さを、あの寝顔を、あの憤怒を、あの――悲しみを。
 何もかもを思い出し、何もかもがおかしくなる。
  
 エクステンデッド。
 守れなかった少女。ステラ・ルーシェ。
 
 ――またなのか。
 
 言葉が閃いた。
 
 ――同じなのか。
 
 閃きは収まらない。
 彼の脳裏の思考をかき乱していく。

「どうして、そんなことを……俺、に……?」
「……シンには知っていて欲しかったから、です。」
「知っていて、欲しかった、から……?」

 意味が分からなかった。
 どうして自分なのか。どうして、“よりによって”自分にそれを言うのか。
 
 ――嘘を吐け。お前は知っている。知っていて尚そんな風にボケたことを言っている。
 気付けば、向かい合わなければいけなくなるから。
 何も知らないままでいれば、何もしなくていいから。
 
 けれど、彼女の言葉は、放たれた矢のようにして――

「私、貴方が好きだから。」
 
 ――狙い違わず、シンの耳朶を叩いた。
 衝撃が奔る。
 眼球が、心臓が、背筋が、心が震えた。
 予想もしていなかった言葉。予想などしてはいけない言葉。
 ――気付いてはいけない、その事実。それが、走り抜けた。

「――そんな、の」

 間抜けな相槌が夜空に響く。

「知っていて、欲しいんです。私を――貴方を信じる私を。」

 想いは強く、誰にも止められない。きっと、それは自分自身にも止められない切なる想い。
 シンに返す言葉は何も無い。
 何も――何かを返せるはずもない。
 だから、呟いた。
 最悪の言葉だと知っていて――いや、何も分からずに、無知のまま呟いた。
 
「何で、俺を……どう、して……?」

 茫然と呟いた。
 ギンガはその返答を予想していたのだろう。
 一歩離れて、微笑んだ。
 こんな月明かりの下では無く、太陽の下で見れば、きっと映えるであろう微笑み――それを伴って、彼女が言葉を紡いだ。
 
「その理由(ワケ)は言えません。」

 あまりにも対照的な二人。
 蒼白な表情のシン・アスカと輝く笑顔のギンガ・ナカジマ。
 告白の返答すら求めずに、その告白が終わっていく。

「じゃあ、私、行きますね、シン。」

 笑顔で話を終えるギンガ。
 シンは――声を返すことすら出来ずに、佇んでいた。

 物語は走りだす。
 走り出したその物語は――きっと、誰にも止められない。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 28.始まりの鼓動(c)改訂版
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/06/03 11:41
 思い出す光景はいつも暗闇。
 誰も救ってくれなかった。
 誰もが自分に背を向けた。
 向けられた背に伸ばした手は届かない。
 手を伸ばしても何も掴めない。その手に残るのはいつも空っぽの空虚だけ。

 ――初めて、手を指し伸ばされた。迷うことなくソレを掴んだ。
 
 そして、掴んでからはソレを指針として決して離すものかと握り締めた。
 当然のことだった。
 だって、自分にはそれしかない。それ以外には何も無い。
 伸ばされた手は自分に“自分”を与えてくれた。
 指針となった。憧れとなった。絶対となった。尊敬や親愛などという生温い感情ではなかった。
 崇める。神を見上げるが如く。
 その手は、自分にとっては神と言う存在と同じだった。
 
 ――悲しい気持ちで人を傷つけたりしないで。
 
 その言葉にどれほど救われたと思っている。
 その手の温もりにどれほど温められたと思っている。
 悪意の目。好奇の目。嘲笑の目。
 自分を見つめる人間の瞳。
 人間じゃない。作り物だ。出来そこないだ。
 裏切られたことが悲しかった。自分を作り出した誰かが憎かった。期待に応えられなかった自分が悔しかった。
 そんな暗闇の中で、差し伸べられた手を、だからこそ崇めた。その手は紛れもなく自分を救ってくれた手だからだ。 
 その神が初めて恋をした男に逆らった。
 その神が手を差し伸べたもう一人を見殺しにしようとした。
 暗い深遠に自らを落とすような行為。見捨てられるかもしれないと言う恐怖。絶望。
 
 ――たんだ。
 
 声が聞こえる。
 
 ――は獲られたんだ
 
 声が聞こえる。
 
 ――そんなだからフェイトさんは獲られたんだ
 
 そうだ、認めよう。
 エリオ・モンディアルはフェイト・T・ハラオウンが誰かに恋をしたことが認められないだけだ。

 だからシン・アスカを許せない。
 シン・アスカに負けていることを認められない。
 
 自分の延長線上にいながら、自分の大事な人間を奪っていくあの男が、誰よりも許せない認められない。
 
 瞼の裏に写り込む幻視。
 シンとフェイトが肩を並べて歩いてく光景。慈しみ合い幸せそうに言葉を掛け合う光景。
 そして、その光景をただ眺めるしかない自分。
 
 それが、悲しくて、悔しくて、歯噛みした。
 唇を噛み切った。口内に流れる鉄の味。
 そして、その痛みが引き金となったのか、エリオの意識が覚醒する。
 薄ぼんやりとした暗闇から真っ黒な夜空へと。

「……僕、寝てたのか。」

 鼻を突く汗の匂い。いつの間にかベンチで寝ていたらしい。身体中が汗でぐっしょりと濡れていた。
 夢見は最悪だった。
 夢の内容は詳細には覚えていない。けれど、胸に残る感覚はそれがロクな夢ではなかったことを教えてくれる。
 最悪な感覚。
 胸の奥が重く圧されるような気持ち。星が輝く空とは対照的にどす黒い雷雨の雲のよう。
 はあ、と溜め息を吐いた。胸の中の重苦しい感じを少しでも外に出すようにして。
 ベンチにもたれかかり、ぼうっと空を見上げる。
 映る夜空は綺麗だった。だが、そんなものでは自分の気持ちはまるで晴れ渡らない。
 
 夢の中の断片的なイメージ。
 暗闇とそこで寝転がる自分とそれを嘲笑し観察する最悪な人間共がいた。
 笑いかけてくれるフェイトさんが見えた。
 手を差し伸べてくれたフェイトさんが見えた。
 そして、そうやって浮かび上がる幾つものフェイトさんの隙間にサブリミナルのように割り込んでくる男の姿。シン・アスカ。

「……どうして、フェイトさんは……」

 それはきっと意味の無い問答だ。
 だって、答えは分かりきったことだから。
 フェイトにとってシン・アスカと言う人間はこれまで彼女の周りにはいなかった類の人間である。
 
 彼女の周りだけではなく、機動6課にはまるでいなかった人間である。
 だから、彼女は惹かれた。

 ただ、周りにはいなかったタイプだから――そんな理由だろうとエリオは思っていた。
 実際は少々違っている。
 フェイトがシンに惹かれたのは何の事は無い、エゴの塊のような部分に惹かれた。
 何よりも自分を優先し、突き通す強靭な我。
 正しい、正しくないなどを超えた部分に存在する信念と言うべきものだろうか。
 彼女はシンにそれを見た。そしてそれに惹かれていった。
 それは彼女には無いモノだったから。
 
 酷な話ではあるが、フェイトがエリオに惹かれることは決して無い。
 エリオやキャロの考え方はフェイトに近い。
 境遇が似ており、養母であるフェイトの考え方に感銘を受け、それを指標として成長して来たのだから当然とも言える。
 
 似たもの同士の間に生まれるのは親愛であって恋愛ではない――道理である。
 エリオにはそれが分からないし、分かっていたとしても認めないだろう。

 エリオはフェイトを崇めている。
 エリオにとってフェイトは人間ではない。自分を救ってくれた神のような存在――殆ど神と言って良い。
 そんな彼女と自分が似ているなど恐れ多いと認めはしない――本当はそこを潜り抜けることで彼は成長出来ると言うのに。
 だから、これほどに動揺し、今日のような暴挙に出る――そして、今自分がどんな状況にいるのかさえ認識できない。
 若さとは――幼さとは無知なことだから。
 
 ――バツン、と何かが破裂したような音が聞こえた。鼓膜を叩き割らんばかりに巨大な音。
 
 それが何の音か気づく前に腹部に熱を感じた。身体が吹き飛ばされた。
 気が付けば目の前に壁があった。ひんやりとした感触。アスファルトの感触――それは壁ではなく地面だった。

「……あ、え?」

 か細い呟き。異常なほどに。次の瞬間、腹部に熱さを感じた。
 じわり、と広がっていく熱さ――深く身体の奥にまで。何かと思って手をそちらに動かす。
 ぬめりとした液体。何か零したのだろうか――それとも、地面が濡れていたのだろうか。
 嫌な予感がする――それを理性が遮ろうとする。
 手を、見た。ぬめりとした液体。それが何なのか、知ろうとして――知るべきではないと理性が言う。見るな、と。
 手を、見た。年頃の子供と同じような大きさの小さな手。その手が、紅く染まっていた。

「……紅い……これ、って……血?」

 途切れる言葉。思考が停止する。
 
 ――嫌な予感がする。
 
 顔を手から腹部に向けようとして、視線を手から外した――瞬間、さっきと同じ音が響いた。
 ばん、と冗談のように大きな音が。鼓膜に衝撃。そして、今度は“手に”熱を感じた。
 手があらぬ方向に持って行かれる――身体も同じくそちらへと引っ張られるように。
 ゴロゴロと転がる身体。無力に、流されるように――うつ伏せになって止まる。
 意味も分からずに右手に力を込めようとして、何か違和感を感じた。
 うつ伏せのまま、それを見た。
 そして、絶句した――いや、理解出来なかった。

「……ない。」

 自分の指がいつもとは違う、信じられないような姿をしていたから。
 見えるモノはピンク色の綺麗な肉とそこから流れる紅い血液と、白い骨。
 人差し指と中指が無い。あるのはその残骸。そこから面白いほどに血液が流れている――あふれ出ていく。

「指が無い……ゆび、が……ない…?」

 繰り返す。壊れた蓄音機のように。呟くごとに開いていく瞳孔。荒くなる呼吸。荒れていく平静。

「手がっ……手が……!?」

 声を枯らすほどの叫び
 身をよじった。動かした。
 次の瞬間、一瞬で腹部に熱した鉄棒を差し込まれたような凄まじい激痛が生まれた。
 形容出来ない痛み。神経に響き、生理的嫌悪を呼び起こす。ズキン、と言う類ではない。まるで包丁で腹を貫かれたような激痛。

「あ、ああ……!?」

 激痛。言葉にならない。誰にも伝えられない激痛。

「あああ……あああ!!!」

 うめき声を上げながら、無事な方の手で目の前にある壁――地面に爪を立てた。
 その行為に意味は無い。痛みを抑えようとして行った無意識の行為。
 爪の隙間にアスファルトのカケラが食い込んだ。指が無い左手にアスファルトが触った。
 ズキンと走り抜ける激痛。背骨や脊髄を侵食するような激しい痛み。
 痛いなどと言う表現が追いつかないほどの痛み――言葉が出ない。

「は……あ、あ、ひ、はぁ……!!!」

 喘ぐようなか細い声。声が出ない。
 何があったのか、何が起こったのか、まるで理解できない。
 痛みが自分の中から叫ぶ以外のコトを奪っていったように、声が、出ない。
 叫んでいるのに喘ぐ。痛みを訴えているのに喘ぐ。汗が吹き出る。脂汗――もはや冷や汗。
 意味が分からなかった。今、何があったのか。何が起きたのか。
 目前には理解しがたい光景――中指と人差し指の存在しない右腕。

「……手が、ゆび、が……」
「――油断しすぎだね、キミは。」

 聞き覚えのある声。四つんばいでアスファルトに突っ伏したまま視線だけをそちらに向ける。刻一刻と背筋を激痛が走る。
 一瞬一瞬ごとに痛みで意識が断絶する――なのに、その痛みで再び意識を取り戻す。
 気絶と覚醒を延々と繰り返す痛みと痛みの無限地獄。

「お、ま……え」

 見たことのある顔。けれど、霞がかって千々に乱れた思考ではそれが誰であるのか、容易に想像出来ない。
 けれど、怖い。恐怖があった。
 殺される、そういう類の恐ろしさではない。
 嬲られる――玩具にされる、そんな怖さ。
 ウェーブがかった金髪。目元を覆う仮面。
 よく通る綺麗な声――その声が何よりも恐ろしくて。

「流石はミッドチルダ、と言うべきかな。銃で撃たれたことも理解出来ていないようだ。」
「じゅ、う」

 男が右手に持った黒い固まり。
 資料では見た事があった。だが、現実にそれを見た事など一度も無かった。
 当然だ。それはこの世界から消えて久しい隔絶武装。簡単に人を殺すと言う一点を突き詰めた結果、生まれた人殺しの鋼。

「質量、兵器。」

 拳銃。男が持つそれはオートマチックと呼ばれる類の拳銃――質量兵器だった。
 今、自分はそれで撃たれたのだ。

「ああ、殺す気は無いから安心したまえ。今日はキミにプレゼントをあげたいと思って馳せ参じただけでね。
弾丸は土産のようなものだ。あと今動かれると面倒なので、そのまま動かないでいてくれないかね?」

 そんな言葉を聞く道理は無い。
 と言うよりもエリオは本能的にその場を離れようと身体を動かした。
 いも虫のように、満足に動かない身体を必死に動かして。
 痛みも、指が無い事も頭の中に無い。今、彼の頭の中にあるのは一つだけのことだ。

(殺される。)

 拳銃などと言う人殺しの道具の圧倒的な暴力に晒されているのだ。
 魔法を使って逃げることすら頭に浮かばないほどに彼は今怯えていた。
 以前、感じた死の恐怖など比較にならない、痛みと共に押し寄せる死の奔流の前で。

「……動くなと言ったんだがね。」

 呆れたような呟き。かちり、と音がした。
 一瞬の間。破裂音。三度。

「……あ……ぁ」

 もう、喘ぐことすら出来ない。
 身体中を激痛が走り抜けた。どこが痛いのかなど理解できないほどに全身を駆け巡る激痛――涙が毀れた。
 タスケテと口が勝手に動く。歯と歯がガチガチと鳴り合わせ大合唱を始めた。
 痛い痛い痛い。助けて助けて助けて。
 意識が霞んでいく。視界がぼやけていく。

「寝てもらっては、困るな……起きたまえ。」

 男はそう淡々と呟きながら、エリオの腹部に自分の靴のつま先を当てる――無論、傷跡に当たるようにして。そして、力を込めて、ひっくり返した。

「はぐぁっ!!」

 少年の絶叫――男の微笑。

「……クルーゼ、殺すなら早くしてくれませんこと?嬲り殺しとか趣味が悪すぎますわ。」

 女の声。
 エリオにとっては聞き覚えのある、仮面の男――ラウ・ル・クルーゼにとっては現在の仲間――と言うよりも手駒に近い。
 互いに利用し、利用されあう関係なのだから。面白くなさそうに呟いたその声にクルーゼが答えた。

「ふふ、キミに言われたくは無いがね。なに、殺しはしないよ。急所は外している。処置が終わる頃には元通りになっているさ。」
「……だったら、さっさと終わらせてくれません?封鎖幻惑ってとっても疲れるんですわよ?」

 そう、心底面白くなさそうにその声の主は呟いた。

「ああ、分かったよ、“クアットロ”。」

 そう言って、クルーゼは右手に持ったオートマチック型の拳銃――姿形はベレッタと呼ばれるモノに近い――の銃把の部分から弾倉を取り出し、懐に忍ばせていたもう一つの弾倉と入れ替えた。
 かちり、と音がして弾倉が拳銃に納まる。

「さて……では、処置を始めようか。」

 言葉。そして、右手の銃を自身の左手に向ける――引き金を引いた。
 破裂音。そして、舞い上がる血飛沫。
 先ほど入れ替えた弾倉の中身はホローポイントと言う弾丸――詳細は省くが要するに物質を破壊する為の弾丸である。
 破壊。つまり自身の左手を容易に破壊する為に。
 けれど不思議なことに破裂した肉片や血飛沫は一切クルーゼやクアットロと呼ばれた女性の方向には飛び散らない。
 まるで、それ自体が意思を持っているかのように。
 そして、何よりも不思議なのは、左手が欠損したと言うのに呻きすら上げないラウ・ル・クルーゼだった。

「……便利なものだな。痛みを感じないと言うことも。」

 仮面に隠された顔――その先で、クルーゼの視線が噴水のように夥しい血を吹き出させている左手を注視している。
 見ているだけで痛みを覚えるほどの光景――けれど痛みは無い。奇妙なモノだ、とクルーゼは呟き、歩き出した。
 四つん這いで蹲り、虚ろな表情のエリオに向かって。
 未だ健在な右手が掴んでいた拳銃を地面に置く。そして、その右手でエリオの髪を引っ張り、持ち上げた。
 頭皮が剥ぎ取られそうになる痛み。虚ろなエリオの瞳に僅かな意思の光が戻る――クルーゼの顔が歪んだ。亀裂のような笑みを浮かべて。

「あの男はキミの大切なものばかり奪っていく。この世界の人間では無い――余所者の癖に。そう思ったことはないかな?」

 心底、楽しそうにクルーゼがエリオの耳元で囁いた。

「奪われた大切なものを取り戻したくは無いかね? 自分の望みを叶えたくはないかね?」

 声は悪魔の囁き。
 狡猾で残忍で薄汚い、人を人とは思わぬ、人類最低の男の生み出す甘言。
 それが、エリオの脳裏に流れ込んでいく。
 その言葉が言い終わると共にクルーゼが夥しい血を流し続ける自分の左手――銃弾で破壊され既に原型を留めていないのでむしろ手首と呼んだ方がいい――をエリオの口元に近づける。

「――キミに力を与えよう。全てを覆す青き自由の翼――その力を。」

 言葉と共にクルーゼが自身の左手首をエリオの口腔に突っ込んだ。
 エリオの目が見開いた。血が流れ込んでくる。鉄の味。喉に絡み付く目前の男の血液。
 意識が覚醒する。発狂しそうなほどのおぞましさを覚えた。

「――!!!?があああはっひぎゅああああ!!!!!」

 言葉にならない、喚くようなエリオの言葉。顔を振り、その手首から逃れようとする。
 だが、クルーゼの左手首が、絶対に抜けないように更にエリオの口腔内に侵入する――吐き気。胃が生理反応として内容物を全て吐き出させようとする――だが、

「飲み干したまえ。反吐など私の血液と共に、全て飲み込んでしまうんだ。」

 淡々とした口調。そして、そこに隠しきれない愉悦。苦しむエリオを見て歓んでいる。
 それは凡そ数分の時間だった。
 だが、当事者であるエリオにとっては数時間にも感じられた。
 喉に張り付く血液と反吐の鬩ぎ合い。吐き出すことも出来ずに飲み込むしかなかった。
 他人の血液を飲むと言う常識外の行為。身体中を流れる痛みを忘れるほどのおぞましさ。
 涙を零し、涎を垂らし、それでもエリオは飲み干した。いっそ殺された方がいい、殺してくれと願いながら。

 クルーゼの左手首がエリオの口から抜かれる――涎が糸を引いた。
 呆然とエリオがその光景を眺めていた。
 そのエリオの表情を満足げに眺めながら、クルーゼが嗤う――同時に左手が再生を始めた。
 魔法による治癒などとは決して違う。
 粘土細工が盛り上がり、形作るように、左手がその姿を取り戻して行く。

(……化け物だ。)
 
 もはや彼に抵抗する気など無かった。眼前で起こる常識を外れた光景の数々と全身を苛む痛み。それらが彼の精神を著しく削り取っていた。
 クルーゼが呟いた。熱の篭った口調で――狂気さえ伴わして。

「夜明けには定着しているだろう。いいかい、キミには期待しているんだ……私の目がくらむような素晴らしい覚悟を見せてくれたまえ。」

 そんな二人を眺めながらクアットロが汚らしげに呟いた。

「……ほんっとに悪趣味ですこと。」

 その言葉と共にエリオが糸を無くした操り人形のように倒れた――同時に彼の身体が紅く輝き始める。
 曲線じみた直線を描き紅く輝く肉体。
 輝いているのは血管だ。
 血管が紅く輝き、その輝きが全身に行き渡った直後、その血管を蟲が進むように盛り上がり蠢き始める。
 血管の中を何かが通り抜けている――恐らくは先ほどクルーゼが飲ませた彼の血液が。

 そして、血管の蠢きが落ち着きだした時、弾丸で穿たれた彼の身体に変化が起きた。
 それは先ほどのクルーゼの左手の再生を髣髴とさせる光景だった。
 穴が塞がっていく。肉が盛り上がり、弾丸で穿たれた穴を塞いでいく。
 中指と人差し指も同じく、“再生”する。肉が盛り上がり、粘土細工が成長するようにして、指が生えていく。
 立ち昇る蒸気――通常では在り得ないほどの速度で新陳代謝を活性化した結果。
 盛り上がった肉の勢いに押し出され、紅い血に塗れた弾丸がエリオの身体から飛び出て、外気に晒される。
 そして――

「流石はプロジェクトFの申し子。問題なく“適応”したようだな。」

 言葉と共に、変化が始まった。
 エリオの全身を流れる、幾何学模様の蒼い光――あの日、シンに流れた朱い光と同種にしか見えない光。
 ドクン、ドクンと鼓動のように光が奔り抜けていく。

「けれど、私分かりませんわ。確かにこの子なら適応すると思いますけど、本当にこの子が自分からこちらに来るとは思えないのですけど。」

 間延びした嫌みったらしい口調でクアットロがクルーゼを見る。視線には少し非難めいたものが混じっている。

「……必ず来るさ。彼は、自分から彼女達の元を離れてね。裏切るのではない、彼の正義の為に。」

 そう言ってクルーゼが嗤った。ぞくり、とクアットロの背に怖気が走った。
 それは自身を残忍と評する彼女をして、邪悪と呼べるような笑みだったからだ。

 他人を自分の掌の上で踊らせ、苦しめ、のた打ち回る様を喜ぶ嗤い。
 世界が燃える様を見て喜ぶ、高潔で純粋な邪悪の微笑み。
 この男もまた純粋なのだ。純粋に逆恨みを貫き続ける最凶にして最大の“小悪党”。
 
 二人の姿が消えていく――同時に世界が変質する。
 
 封鎖幻惑――実在を捻じ曲げる幻想を作り出す結界。
 周囲から見てもそこには何も無く、仮に誰かが寝転ぶエリオの上を歩いたとしても“その存在に気付かない”。
 電子機器や人間の五感に留まらず、それを包括する全てを騙す絶対虚偽発生能力。
 クアットロの持つISの発展型――“詐欺師(フラウド)”。
 エリオがどれだけ苦しもうと叫ぼうと彼の存在には誰も気付かない、そんな悪辣な結界が解かれ、公園は現実に舞い戻る。
 
 されど、夜の世界でそこを誰かが通ることなどある訳も無く。
 夜が堕ちていく。誰もエリオの元には現われない――彼がここにいることなど誰も知らない。
 そして、夜明け前の暗闇の中、エリオの目が覚めた。

「……寝てたのか、僕は。」

 周囲には誰もいない。
 自分はここで寝てしまっていたのだろう。
 夢見は最悪だ。内容は覚えていないが、怖い、とても怖い夢を見ていたような気がする。
 それもこれも、シンと言い争いをしてしまったせいだろう。
 だから、あんな怖い夢を見た。
 覚えているのは拳銃で撃たれたこと。最悪の夢だ。
 
 まるで“現実のような痛みを味わって、それでも起きなかったのだから“。よほど疲れていたのだろう。
 起き上がり、6課へと歩き出す。早朝訓練の前には帰っておきたいからだ。
 少しだけ歩いて気付く。身体が軽いことに。
 そして、何故か右手の指があるところを見てほっとする――何故ほっとするのかは分からない。
 ただ、そうしなければいけない。そんな違和感に首を傾げながらもエリオは気にすることも無く歩いていった。

 ――今も彼の体の奥深く。肉体という名の世界が侵食され、作りかえられていっていることなど何一つ知らずに。

 昨晩と今の間の記憶が抜け落ちたことなど何一つ忘れて。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 29.決別の時(a)改訂版
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/06/03 11:40
 ――私、貴方が好きだから。
 
 反響する言葉。
 少しだけ申し訳なさそうな顔。
 自分を見る瞳。
 意味が、分からなかった。

「……なんで、俺なんだよ。」

 そう、言って彼はもう一度右手に魔力を集め始めた。
 周りの風景はいつもと同じ訓練風景。
 基礎を重視する機動6課において、魔法を使い始めて日が浅いシンには今も基礎訓練が義務付けられている。
 魔力の収束と開放などの魔力を操作する技術。
 エリオやキャロ共に高速移動の訓練――現在は殆どフィオキーナの訓練になっている。

 そして実戦形式での模擬戦。模擬戦の相手はシグナムやヴィータ。
 もしくはギンガやスバルなどの近距離型のフロントアタッカーを主に相手取る。
 時にはフェイトやエリオも参戦する――未だフェイトには勝ててはいないが。
 これが大まかな流れである。
 
 シンの教育方針は基本的にギンガやはやての考えと同じである。
 即ち、全距離に対応出来る万能型。
 同じ万能型であるフェイトよりもどちらかというとヴィータ、もしくはシグナムに近い。
 遠距離・中距離での戦いよりも近距離での戦いを好むと言う点で、だが。
 
 エリオやキャロから離れ、シンは一人黙々と訓練を続ける。
 基礎訓練の際に彼は誰かと組んで訓練をすることは基本的に無い。
 指導という意味でフェイトやシグナムがつくことはあっても、組むと言うことは無い。
 
 シンの基礎のレベルはお世辞にも高いとは言えないレベルだからだ。
 魔法を使い始めて未だ一年も経っていないシンにとって基礎の反復とは非常に重要なモノである。
 その時のシンは常に周囲になど眼もくれないほどに集中している。
 元来、一つのことに集中すると周りが見えなくなる単純な男である。
 周りには眼も暮れず嬉々として何度も何度も反復を繰り返しているのだが――今日に限って少し違っていた。

(……ギンガの方を、見てる?)

 スバルやティアナと話しながら訓練をするギンガ。
 彼女を時折見つめては、視線を逸らす――。
 それはこれまでのシンは決してやらなかったことだ。
 フェイトの直感――と言うよりも見れば分かる。
 何かがあったのだろう。シンとギンガの二人の間に。

「あ、アスカ!! 大丈夫か!?」

 シグナムの叫び声――何事かとそちらを振り向く。
 先ほどの場所から遠く離れた場所で倒れているシンの姿があった。
 
 パルマフィオキーナ。集束し変換したた魔力を部分的に開放し撃ち放つ近接射撃魔法。
 魔法としてはそれほど難しいことはしていない。
 射撃系の魔法としては初歩とも言える技術の集大成と言った魔法である。
 
 それでも魔力の集束と変換と開放を同時に最大威力で行うと言うのは難度が高く、使いこなすにはそれなりに訓練を必要とする。
 制御に成功したならば任意方向に向かって槍のように伸びていく魔力砲。
 その制御に失敗したならば――今、シンが吹き飛んだようにしてあらぬ方向に吹き飛ばされてしまう。
 呆然とするシン。これまでそんな失敗などしたことが無いからだ。

(……シンがあんな失敗するなんて)

 思わず、唖然とするフェイト。
 信じられないのも当然だ。
 彼が、こんなことを失敗する訳が無いのだから。

 シン・アスカ。彼は未だに基礎的な魔法しか使えず、高度な魔法などは一切使うことは出来ない。
 だが、そんな状況であっても、彼の戦闘力はシグナムですら一目置くほどに高い。
 それは――単純な話、絶対に一つ一つの技術の練度と使い方が上手いのだ。
 シンが出来ることは、それほど多くは無い――少なくとも平均的な魔導師が使えるような魔法を彼は使えない。
 
 だからこそ、いつ如何なる時でも絶対に失敗しないように、彼は自分に出来る数少ない技術の練度を高め続けてきた。
 短期間で実力の向上を願う方法としては至極真っ当な方法だろう。
 必要となる技術の練度を高めていき、その限られた技術をどう活かすか。
 シン・アスカの強さとはそこにある。
 魔法という引き出しが絶対的に少ない彼は引き出しの数ではなく、引き出しの中にあるモノで勝負しなければならない。

 だから、フェイトは驚いた。
 引き出しの中にあるモノで勝負しなければいけない彼にとって、引き出しの中にあるモノ――つまり、自分が使える魔法を失敗するなどあり得るはずがない。
 
 事実、これまでにそんな失敗をしたことは一度も無かった。
 シンが驚くのも無理は無い――自分でも信じられないくらいだろう。
 
 しばしの後、顔を振り、気を取り直して再び訓練に励む。
 そんなシンを不安げに見つめ――けれど振り返って自らの訓練に没頭するギンガ。

(……何があったのかな。)

 フェイトの胸に生まれるのは、不安と羨望。何故か先を越された――そんな気持ちがそこにあった。


「……何かあったの?」

 午後、フェイトはシンを呼び出していた――場所は会議室。

「……何も無いです。」
「そんな悩んでますって顔して言っても説得力はどこにも無いんだけどね……相談した方が気が楽になるよ?」
「……別に。」

 渋い顔。見るからに、「放っておいてくれ」と言いたげな。
 嘆息するフェイト――その頑固な様子に、そして、自分に何も言ってくれないことに。
 黙り込む二人。沈黙が痛い。
 シンがフェイトに何も言わない理由は簡単なことだ――と言うよりも当然とも言える。
 
 ――私、貴方が好きだから。
 
 ギンガの目。青い瞳に嘘は無かった。本気の目だった。
 シンはその目に気圧され、何も答えられなかった。
 考えたこともなかったからだ。自分をそういう対象として見る人間がいるなどと。
 
 異性から見た自分――守ること、戦うこと以外に興味のない人間だと思っていたからだ。
 だから自分に好意――それも異性としての好意を抱く人間がいるなど想像も付かなかった。

 だが、ギンガは自分のことを好きだと言った。
 ギンガが何かと自分に目をかけてくれた理由もこれで理解できる。
 
 そんなことはない、とは思えるほど、シン・アスカという馬鹿でも無い。
 朴念仁ではある。
 だが、気付かなかったのではなく、気付きたくなかった、と言う想いが作用していたと言うのも、また事実。
 そして、それは――彼女だけのことでもない。
 
 6課においてシンに目をかけている人間は二人。
 ギンガ・ナカジマ。そしてフェイト・T・ハラオウンの二人である。

 その内の一人は自分を好きだと言う。
 ならば、彼女と競うようにして自分に目をかけてくれていた、もう一人はどうなるのか。
 
 ――考えるまでも無い。そのもう一人も自分を好いているのだろう。
 
 本当に、出来るなら、それは自惚れであって欲しい――そう思う。
 彼の内面に今、満ちているのは、喜びや驚愕では無く“恐怖”である。
 自分を特別と見る誰かの存在――それが何よりも怖い。

 楽しい人生。幸せな人生。恋愛の果てにある結末。
 そんなモノは自分以外の誰かが得るべきモノだ。
 自分は守れればそれでいい。それ以外はいらない。
 そう願ったからこそ此処にいる――此処で戦い続けることを選んだ。
 
 誰かの想いに応える。それは選択すること。
 選択は責任を生み出す。誰かを背負う責任を。
 普通ならそれは力になる。
 背負うことで命の重みを教え、その重みが力に変わる――“普通”なら。
 
 だが、シン・アスカは違う。
 普通では無い。
 大切な家族を、友人を、守らなければいけなかった『特定個人』を、奪われ続けた結果、彼にとって『特定個人の喪失』とは二度と味わいたくは無い絶望そのものにまで昇華している。

 彼にとって特定個人――身内とはすべからく奪われるモノだった。
 両親、マユ、ステラ、レイ。
 全て奪われた。
 奪われる度に二度と奪わせないと誓った。
 誓う度に誓いは裏切られた。
 奪われ続けた。
 誰も守れなかった。
 
 “だから”シンはこの世界で守ることを選んだ。
 誰も自分を知る事の無い世界で、自分だけで生きていけば誰にも奪われることは無い。
 奪われるようなモノが存在しないから。
 
 シンが以前、自分自身を負け犬と呼んだのは自嘲ではなく、それが事実だと理解しているからだ。
 シン・アスカと言う男は、大切な何かを奪われる恐怖から逃げ出して、今も向き合えないまま逃げ続ける臆病者の負け犬なのだと。
 
 選択の恐怖とは、即ち奪われる恐怖に直結する。
 だからこそ、何も選ばない。
 彼の行動原理でもある、守るコト――その中心に位置するのは、挫折と喪失の恐怖。
 
 それに向き合うことが怖いから彼は前も後ろも見ずに、とにかく走り続けるしかない。
 立ち止まり、考えれば選択の恐怖に襲われる。
 その恐怖から逃れる為に、彼は此処まで走り続けた。それはこれからも変わらない。

 身内を決して作らない。そのルールに遵守している限り彼は二度と奪われることがないのだから。
 人間は安心を得る為に生きる。同じくシンも安心を得る為に身内を作らないことを望んだのだ。

 彼がエリオに自分のようになって欲しくないと思うのも当然のことだろう。
 誰が前途有望な年下の人間を、こんな負け犬にしたいなどと思うだろうか?
 思うはずが無い。
 当事者だからこそ、良く分かる――エリオは負け犬になどなる必要は無いのだ。
 
 だから、シンはフェイトの問いに答えられない。
 答えられる訳が無い。
 もし、彼女もシンのことを好きだとするなら、それは藪をつつく事に他ならない――選択を突き付けられるかもしれないと、怯えているのだ。
 
 別に――解決策が無い訳ではない。
 断ればいい。
 自分は誰の事も好きでは無いと断ればいい。
 突っぱねればそれでいい。何も恐れる事は無い。
 独りで生きていくならば、それが最も正しい処置の方法なのだ。

(……そうだ、断ればいい。何を言われても関係ない。俺はただ断ればいいんだ。)

 ――けれど、それは誰かを“裏切る”ことだ。
 
 シンは自身の内から滲み出たその反論に思わず拳を握り締めた。
 
 信じた国に裏切られた。
 信じた正義に裏切られた。
 縋り付いた国に裏切られた。
 
 裏切り――シンにとって喪失と同じくらいに忌避するモノ。
 それがシンを縛り付ける。呪いのように、雁字搦めに。
 
 ――結局のところ、覚悟が出来ていない。そういう問題でしかない。
 
 選択と裏切りは表裏一体。何かを選べば何かを裏切ることになる。
 何も選ばなければ何も裏切らない――けれど、それは単なる宙ぶらりんでしかない。
 切り捨てる覚悟。裏切る覚悟。選ぶ覚悟――或いは何も選ばない覚悟。
 何の覚悟も無い彼には選べる答え――断ること、応えること、逃げること――は存在しない。
 彼に選べるのは、ただ一つ。
 告白に応えないまま、彼女たちが忘れて、風化して消滅すること。それだけだった。
 最低の結論。けれど結論がそれしか無い以上どうしようも無い――そんな思考停止を肯定する。
 シンがフェイトを見た。
 口を開く――話を逸らす為に。
 聞きたいことも幾つかある。
 多分、彼女なら知っているだろうから。

「……戦闘機人って何ですか?」
「……いきなりどうしたの?」
「あの時の敵とかはそういう奴らなんですよね?」
 
 何も話す気は無いと言う意思表示――話を変える気がありありと見てとれる。
 溜め息一つ。フェイトは口を開いた。話すことで、シンの気が変わる事を僅かに期待して。

「……そうだね。あの時私と戦っていた敵――トーレはナンバーズって言われる戦闘機人集団の一人だよ。」

 そうしてフェイトは戦闘機人について語り始める。
 ゆっくりと、噛み締めるように。
 その話題はフェイトにとっても他人事の話題ではなかったから。

 ――戦闘機人。
 
 人体と機械を融合させることで常人を超える力を得る為に生まれた存在。
 天賦の才や地道な訓練に頼らなければならない「人間」とは異なり、人為的に生まれた存在である。
 その為、才能の有無に左右されることなく、訓練に長大な時間を必要とすることもなく、短期間で安定した数の戦力を揃えることの出来る先進技術の集大成。
 人為的に作られた存在であり、その技術は現在では違法となっている。

 この技術が生まれた背景にあったもの。それは持つ者と持たざる者の差の存在。
 才能に恵まれた魔導師と才能に恵まれなかった魔導師には天と地と言う言葉すら生温いほどの差が存在する。
 また魔法を使える者と使えない者の差自体が既に天地以上の差であることは明白である。

 決して努力では埋まらない絶対的過ぎる能力差。
 その能力差を埋める為に誰かがこんなことを考えた――それは想像だに難くない。
 誰だって、自分よりも優れている誰かのことを羨ましがるのは当然だから。
 
 時空管理局が管理する世界にはすべからくそういった差が存在する。
 魔法を全面的に肯定し、質量兵器を全面的に否定する以上は仕方の無い話ではあるが。
 兎にも角にもこの技術はそういった持つ者と持たざる者の希望として生まれたのが発端だった。
 誰でも魔法を使えるようにする――それをコンセプトとして。
 その後、この技術は様々な紆余曲折に遭う事になる。
 魔法とは人体が発する力――魔力素をリンカーコアが吸収し変換し出力する現象である。
 それを機械でサポートする。
 つまり、人体の内部に機械装置を設置し、魔法を使えるようにする――リンカーコアの機能を模倣するのだ。
 
 平たく言えば、人体改造である。
 倫理的な側面からこの技術は糾弾され、非難され、否定された。
 皮肉にもこの技術の発展の為にと人体実験を繰り返せば繰り返すほど、魔導師による管理は推奨されていくことになる。

 情報操作は当然あった。
 だがその情報操作よりも人々がその技術を否定したのは、人体実験という言葉に隠された狂気である。
 狂気を前にした時、人は同調するか否定するかのどちらかしか出来ない。
 
 別にこの実験を行っていた者が狂っていたと言う訳ではない。
 人体実験という行為そのものがその時代の人間の目には狂っているようにしか映らなかっただけだ。
 その結果として、この技術はスカリエッティが技術協力するまで完成することはなかった。
 
 彼が「ヒトをあらかじめ機械を受け入れる為の素体として調整し生み出す」手段を作り出すまでは。
 それまではいわゆるサイボーグ――つまり人間を改造することである。
 それに対してこれはアンドロイド――いわゆる人造人間である。
 ゼロから――とは言え基本となる人間が存在するのだが――作られた彼らは“拒絶反応”や“長期使用時における機械部分の調整”と言った問題を完全に解決していたからだ。
 その技術利用によって最終的には魔法を使えない人間にも魔法を使えるようにすると言う遺伝子改良も考えられていたのだが――スカリエッティが消えた今となってはその技術がどこに行ったのかも分からない。
 様々な紆余曲折を経て、人体に無害な戦闘機人技術が確立されようとしていた時にその技術が闇に消えたのは皮肉としか言いようが無いが。

「……ということ。この技術の集大成があのナンバーズ達。」
「それが……戦闘機人、ですか。」

 シンの呟き。落胆したような声。
 フェイトは椅子から立ち上がると、会議室の隣の湯沸し室に向かっていく――コーヒーでも入れようと思ったからだ。

「シンもコーヒー飲むよね?」
「……そうですね、飲みます。」
「なら少しそこで待ってて。今入れるから。」

 そう言って隣の部屋に行くフェイト。
 その背中を見送って、シンは力無く椅子に腰をかけた。
 背もたれに体重をかけて仰け反るような姿勢で座る。
 視線は壁の一点に集中し、睨みつけているように見える――実際は睨みつけているのではなく、ただ見ているだけだ。
 シンがフェイトの話から最も気になったところ。それは持つ者と持たざる者という部分だった。
 ナチュラルとコーディネイター。自分が生まれて、そして生きてきた世界に存在する確固とした差と同じモノ。

(似てる……いや、似てて当然か。世界は違っても人間は同じなんだから。)

 自分の世界に置き換えてみれば分かり易い。
 元々自分が生きてきた世界――こちらをCE世界とでも略そう。
 そして今自分が生きている世界――こちらはミッドチルダという名前がある。
 
 ミッドチルダにおける魔導師はCE世界ではコーディネイター。
 ミッドチルダにおける魔導師以外の人間はCE世界ではナチュラル。
 ミッドチルダにおける戦闘機人は、CE世界では――エクステンデッドとなるのだろう。

 世界が違ってもそこに住む人は同じ。だから似たような存在がいてもおかしいことなどは無い。
 自分があの時拘った少女と同じような存在がいても、何もおかしくはない。
 ステラ・ルーシェと同じような存在が。

「……ステラと同じ、か。」

 性格や見た目、口調、何もかもが違い過ぎて意識しづらいが、ギンガとステラは同じようなものなのだ――人間が人間以外に勝つ為に作られた存在という一点において。
 皮肉といえばこれ以上無いほどに皮肉だった。苦笑する――声をかけられた。そちらに振り向く。

「……ステラ?」

 そこには両手にコーヒーカップを持ってこちらに歩いて生きているフェイトの姿があった。

「……いえ、気にしないでください。単なる独り言です。」

 フェイトはそう呟いて俯くシンを見て苦笑すると、彼の前にコーヒーを置いていく。

「シンは本当に自分のことを言いたがらないね。どうしてかな?」

 優しく、諭すように話すフェイト。
 その一挙手一動に胸がざわめくのをやめられない。
 シンにしてみれば、これまではただのお人よしだと思っていた彼女のそんな態度に内心で一喜一憂していた。
 自惚れであってくれればそれでいい。
 けれど、もし本当に彼女が自分のことを好いているのならば――胸が恐怖で埋め尽くされていく。
 出来ることと言えば気付かない振りをして過ごすことだけだ。

 都合のいいことだけを見て、他の都合の悪いことは見ない振りをして過ごしていく。
 解決ではなく風化。
 シンにはそんな手段しか思いつかない。
 だから、エリオへの答えも見つからない。
 元々答えるようなモノなど彼の中には存在していない。
 答えるモノなど何も無い。

「フェイトさんには……関係ないことです。」
「……シン、私はライトニングの隊長で貴方の上司なんだよ?少しくらい頼ってくれてもいいと思うんだけど?」

 そう言って彼女は真剣な瞳でこちらを覗き込んで来る。気がつけばその距離は近い。
 彼女もギンガと同じで無防備に距離を詰めてくることが多い――思い返せば共通点は多いんだな、とシンは思った。
 奥歯を噛み締めて、自分の馬鹿さ加減に苛立ちが募っていく。
 どうして、こうなったのか。
 自分は一体どこで何を“間違えた”のか。
 目前の彼女への罪悪感。想いを告げた彼女への罪悪感。何も答える気の無い自分への自己嫌悪。
 様々な鬱屈が混ざり込んで、胸中がおかしくなっていく。
 俯き、前髪で顔が隠れるシン――フェイトが声をかける。
 
「言ってくれたからって力になれるとは限らない。けど、言ってくれればもしかしたら力になれるかもしれない……話してみなきゃ分からないんだよ?」

 的外れなようで鋭い言葉。
 ステラという言葉が自分の中の淀みに直結していることを理解してい――違う。多分、彼女は、ただ心配してくれているだけだ。
 だからこそ、その笑顔が――その心配が、“痛い”。
 
 自分の脳裏にある馬鹿げた予想を後押ししているようで――期待ではない苦痛が胸に広がる。
 傍に寄られることで、意識してしまう、自分が憎い。
 声を聞くことで、意識してしまう、自分を殺したい。
 なりたいはずのモノではなく、なりたくないヒトになろうとする自分が――どうしようもなく、苛立たせる。

「何でも、無いです……何でも、無いんです。」
「……シン。」

 笑顔が陰りを見せた――少しだけ、その陰りに安堵する自分。そんな最低な自分を憎悪する。

 ――本当に、心の中はグチャグチャで、何をするべきか、何をしたいのかも、定まらない。

「俺は……何でも無いですから。」

 前髪で瞳が隠れるように。顔を俯かせた。
 彼女の姿が視界にあることに耐えられない。
 気がつけば――何事かを言ってしまいそうな自分が嫌だ。
 
 フェイト・T・ハラオウン。
 彼女に対するシンの感情は――上司へのソレである。
 それは当然のことで、彼はフェイトに対して何かを思っている訳でもない。
 はっきりと言えば、興味そのものが無かった。
 あるとしても彼女の命令の内容に興味がある程度で――けれど、その状況は、シンが6課に来た数カ月の日々で変化する。
 
 切っ掛けは何だったのか。
 それは正直分からない。
 気がつけば――彼女とギンガの二人と一緒にいることが多くなった。
 毎日行われる訓練も、食事も、何かの買い出しに行く時も――彼女ら二人が一緒にいるようになった。
 
 一緒にいるのだから、それに気付かなかった訳は無い。
 ただ、気にはしなかったし、気にもならなかった。
 思えば――楽しい、とさえ思っていた部分があった。
 彼女らと共にいるのが楽しい、と。
 そんな想いが彼の中に――無いとは言えなかった。
 
 だから、今の彼の彼女への感情は――当初のソレとはまるで違うモノに成り果てている。
 求めたモノとはかけ離れたモノへと。
 彼は、まだ、それに気付いていないが。
 
 ――ふと、彼女の顔が視界一杯に広がった。

「なっ……ふぇ、フェイトさん!?」
「……何でも無いなら、そんな顔しないよ、シン。」

 彼女が跪き、俯いたシンと眼を合わせるようにして、前にいた。
 胸の鼓動が大きくなる――それはどこか熱を持った鼓動。

「……そんな、聞いてくれって態度されると凄く気になって仕方ないよ。」
「お、俺は別に」
「……言って。全部聞かせてくれないかな?」
 
 彼女が息を吸い込む。
 その紅色の唇が歪み――吐息がかかる。

「――私だって、力になれるかもしれないんだから。」
 
 吐息が紡いだ言葉が耳に届いた。
 眼と眼があった。
 彼女の瞳には真剣な輝きがある――本当に、心の底から親身になっているだけなのだろう。
 
「……」

 無言のまま、見つめ合う。
 彼女の吐息が自分の――そして、彼女自身の髪を揺らした。
 紅い瞳が自分を射抜き続ける。
 真っ直ぐ――揺らがない光を輝かせて。
 瞳を逸らそうとして、逸らせない。
 威圧感を感じている訳ではないのに、その眼光に呑み込まれていく自分を自覚する。

(……くそったれ。)
 
 心中で毒づき、口を開いた。
 
「……昔、助けられなかった子ですよ。」

 口を開き、理由を話し始める。
 どうして話す気になったのかは分からない――もしかしたら、ギンガにルナマリアのことを話したのと同じように自分を蔑みたかっただけなのかもしれない。
 訥々と話し続ける。
 
「戦場で出会った、子です。守るって約束して――そのまま」

 背筋を逸らせて、椅子の背もたれに体重をかけた――フェイトから眼を逸らした。
 その紅い瞳を見ていたままだと、口を開くことが出来なくなってしまいそうだったから。
 彼女が立ち上がり、椅子を自分の近くにまで動かし、腰を下ろした。
 天井で回るシーリングファンが眼に入る。
 彼女は口を開かない。
 先を促されているような錯覚を覚えた――実際は、そんなことは無いだろう。
 彼女はきっとこちらが口を開くまで待っているに違いない。
 そんな、まるでフェイトを信頼しているような感情を持っていた自分に驚きと共に苛立ちを感じた。
 言葉を続ける。
 彼女の瞳に流されるままに。
 
「そのまま、死にました。殺されて……いや、俺が殺したようなもんか。」

 正確には違うが――大した違いは無い。
 結局、シン・アスカと言う役立たずが馬鹿なことをしなければ、ステラは死ぬことも無かった。
 今、考えてみると、すんなりとそんな考えが思い浮かぶ。

「シンが……その子を?」

 フェイトの眼に映り込む怯え――或いは警戒。
 その色に胸が切り刻まれるような痛みを覚え――心のどこかで歓喜する自分を自覚する。
 切り刻まれているのは、自分の心かもしれない。
 幾つもの断片に切り離されて――相反する考えが幾つも胸の中で木霊していた。
 
「あの子を……ステラがどんなものだったのか訳も分からないまま助けようとして、命令違反繰り返して……今思えばよく銃殺刑にならなかったなって思います。」
「……どういうこと?」
「その子は幼い頃から薬物投与や特殊な訓練を受けていて、薬無しでは生きていけなかった。」

 ステラは初めから壊されていた。
 シン・アスカはそんなこと知らなかった。

「俺はあの子を助けたかった。けど、俺じゃ、あの子を助けられなかった。」

 一拍を置いて、言葉(オモイデ)を吐き出していく。

「あの子が生きていく為に必要な薬や装置を俺たちは持ってなかったから。」

 だから、自分は彼女を死なせない為に、敵軍に返した。
 彼女を二度と戦争に関わらせないと約束して――そんな約束が守られると本気で信じて。
 思い返せば、思い返すほどに馬鹿とした言いようが無い。

「結局、ステラは最後の最後まで壊されたままだった。俺はステラが殺されるのを眺めてることしか出来なかった。」

 今でもその時のことは鮮明に思い出せる。
 振るわれたビームサーベル。爆発していく機体。何も出来ない自分。無様な自分。無力な自分。

「随分昔の――もう、何年も前の話ですよ。」
「……シンは、その子が好きだったの?」

 フェイトの言葉。少し切羽詰った口調。
 シンの心臓がドクンと鼓動する。
 それまでとは趣向の違う質問――それに反応して。

「そんなんじゃなくて――俺、その子と約束してたんです。」
「約束って……」
「守る、って。」

 彼女は覚えてもいない、自分だけに刻み込まれた勝手な約束。

「だから、好きとか嫌いとかじゃなくて――俺はステラを守りたかっただけだった。」
「その子は最後に、何て……?」
 
 繰り返される質問。
 滑らかに受け答えをする自分――本当に、どうしてこんなことを喋っているのだろう。
 気がつけば、その言葉を自分は吐き出していた。
 ステラが最後に言った言葉。多分、二度と忘れられない言葉を。

「……シン、好き、だったかな。」

 沈黙が、二人を覆う。
 喋り続けたせいか、口内が渇いていた。
 コーヒーを含み潤す――フェイトが口を開いた。
 何故か、少しだけ彼女は微笑んでいた。

「……フェイトさん?」
「うん、そっか……そうだね。」

 一人で納得しているフェイト。
 何がどうだと言うのだろう――ここまでの話で、そんな嬉しそうに出来る話など無いはずだ。
 彼女がこちらを見る。
 微笑みが消えて、真剣な眼差しに変わっていた。

「シンはその、ステラって言う女の子、幸せだったと思う?」

 殆ど反射的に返答していた。
 多分、それは何度も何度も自問自答を繰り返した質問だったから。

「全然、思いませんね。あの子は――ステラは何も出来ないまま死んだんです。」

 何も出来なかった。
 何もさせてあげられなかった。

「戦争に弄ばれて、死んでいった、あの子が……幸せだった訳が無いじゃないですか。」

 身体を、心を――何もかもを戦争で壊されて、弄ばれて、切り刻まれて。
 あの子が幸せだった訳が無い。
 そう、心中で断定する。
 けれど、フェイトは、自分の返答を聞いて、苦笑していた。

「……何か、おかしいんですか?」
「シンは勘違いしてるよ……うん、きっと、それは違うと思う。」

 彼女の声に苛立ちを覚える。
 どうして、そこまで自信満々な物言いが出来るのか。

「多分幸せだったと思うよ、そのステラって言う子は。」
「……何で、そう、思うんですか?」

 一瞬の沈黙――逡巡では無い。
 躊躇っている訳でも無ければ、嘲笑っている訳でもない。
 彼女は、ただ、真実を――少なくとも彼女にとっての真実を話している。

「人間って好きな人に見取ってもらえただけで、十分すぎるくらいに幸せになったりできるの。」

 瞳を逸らし、苛立ちを募らせる――そんなことがあってたまるか、と。
 殺されて、幸せになれる訳が無い。
 死ねば全て終わり。
 何も出来ない――自分のようにどうでもいいと思っているのなら、ともかく、ステラはそんなことを思うことさえ出来なかったはずだから。

「……俺にはさっぱりわかりませんね。」
「そうかな?……シンはきっと分かってると思うよ。その子が最後に幸せになれたことを。」

 ――シン、好き。
 ――守、る?
 
 瞼の裏にフラッシュバックする幾つかの記憶。
 彼女の――フェイトの言葉が酷く癇に障る。苛立ちが募っていく。
 シンの瞳が鋭くなり、危険な色合いを帯びていく。
 
 どんな世界であっても――英雄と言うのは、何であろうと理解出来ると勘違いするらしい。
 
 管理局の誇る最高の逸材。
 八神はやて。フェイト・T・ハラオウン。高町なのは――シンは未だ会ったことも無いので記録でしか知らないが。
 三人揃えば世界ですら救ってみせると称えられる英雄共。そして実際に彼女たちは世界を救い、今に至る。
 
 英雄――吐き気がするほどにシンはその言葉が嫌いだった。
 その英雄の手でシンは自身の願いを打ち砕かれた。
 
 英雄。
 打ち砕かれる誰かの意思など英雄の行進の前では無意味。
 それ以外の端役など無意味と押し潰す最高の主役達。
 目前の女は、会ったことも見たことも無いステラが幸せだと言った。

 “会ったことも、見たことも無いのに”、だ。
 
 想像の言葉。都合のいい甘言。その言葉の全てが癇に障る。
 気に入らない。本当に、その何もかもが気に入らなかった。

「……何も知らない癖に。」

 俯いたままシンは呟いた。低く低く、重苦しい声で。

「シン……?」

 突然、声の調子が変わったシンに少しだけ驚くフェイト。

「……何が、分かるっていうんですか、アンタに。」

 顔をそちらに向け、彼女を睨みつける。
 鋭い瞳は刃の如き鋭さでフェイトを刺し貫く。
 フェイトの心臓が跳ねた――けれど、怖くは無かった。悲しくはあったけれど。
 朱い瞳が示す感情は明確な拒絶。
 彼は今、彼女を拒絶していた――自身の胸の内に土足で踏み込んできたことに憤怒を覚えて。
 
 無言でシンがコーヒーを手にとった。
 まだ、口をつけてもいないコーヒーを一気に流し込む――口内に裂傷のような痛み。
 熱いコーヒーを一気に流し込んだのだ。火傷するのは当然のことだ。
 けれど、そんな痛みなどどうでもいい。
 
 シンは兎に角この場にいたくなかった。
 同じ場所にいたくなかった――自分の近くにいる、この英雄様と。
 一秒でも早く彼女の視界から自分を消し去りたかった。

「シン……。」
「……俺、行きます。」

 何かを言おうとするフェイトを尻目にシンは出口に向かおうとする――瞬間、手が掴まれた。
 自分の動きを阻害するその手を睨みつける――フェイトの手。
 小さく、少しだけささくれ立った女性の手。
 訓練の結果なのだろうか。
 その手は華奢な割りにゴツゴツと歪に硬くなっている――指の付け根にタコが出来ているのだ。
 何度も何度も潰れ、その上に再度生まれ、また潰れ――飽くなき訓練を示すその副産物。
 一般的な女性よりもその手はかなりゴツゴツとしていた。
 
 努力の証。英雄には似合わない、支払った代償の証明。
 
 ――その手が更に彼の癇に障る。

「シン、待って。」
 
 シンの手を掴み、フェイトは真剣な眼差しで彼を見つめていた――或いは睨みつけていた。
 睨みつけられていることに更に激昂し、奥歯を噛み締め、掴んだ手に力を込めた。
 ――それでも彼女は手を離さない。
 
「……話を、聞いて。シン、お願い。」

 凛とした居住まい。その態度に気圧されそうになるも――構うことなく、手を振り払う。

「シン……」

 手を振り払われたことで、彼女の顔に少しだけ悲哀が混じる――同じく悲哀を覚え出しそうな自分。
 苛々する。
 どうして、自分はこんなことを話しているのか。
 その苛立ちがシンの中に沈殿し、燻っていた何かに火をつける。
 コールタールのように黒く粘りつく怨念と言ってもいい怒り。
 その怒りのまま彼が口を開いた。

「……何話したって、フェイトさんには――」

 言葉を切って、“言い直す”。
 知らず、視線が鋭く尖っていく。
 
「――アンタには何も分かりませんよ。」
 
 鋭く、淀んだ、何もかもを拒絶する朱い眼がフェイトを射抜いた。

「……シン、私は」
「……うるさいな、もう黙ってくださいよ。」

 煩わしげに、シンがフェイトの手を払い除けようとする――彼女の手がシンの手を更に強く握り締めた。

「お願い、私の話を聞いて、シン。」

 いつか、友達に言われた言葉――あの時と重ねるつもりは無い。
 似たような言葉になったのは単なる偶然だ。
 けれど、懸ける想いはあの時の彼女にも匹敵する――少なくともフェイトはそう、信じている。
 今、この手を離してはいけない。そんな漠然とした不安と――その寂しそうな姿を見て、彼をどこかに行かせるつもりは毛頭無かった。
 そうして、睨みあうこと数秒。
 不意に、彼の唇が釣り上がり、邪悪な微笑みを形成する。
 悪魔のように薄ら寒さすら感じられる微笑み。

「シ、ン……?」
「フェイトさんって、挫折したことありますか?」

 呆けたように呟くフェイトに構うことなくシンが話し出した。
 明瞭な口調。血走った瞳。けれど表情だけは微笑んでいる。
 何か――何かが、ちぐはぐな表情。
 収まるべきところに収まらないピース。掛け違えたボタン。
 そんな印象を与えるつくりものめいた顔。

「え……?」

 突然の質問にフェイトが一瞬戸惑った。
 
「……一度も勝てたことが無い奴の気持ちってフェイトさんに分かりますか?」

 釣りあがった唇と血走った瞳が織り成す微笑みがフェイトに近づく。
 先ほど立ち上がったシンを止める為にフェイトも椅子から立ち上がり、シンの手を掴んでいた。
 彼は自分の手を掴む彼女の手を掴むと、無理矢理、彼女の身体ごと、壁に押し付けた。
 覆いかぶさるように、彼と彼女のシルエットが近づいていく。

「シ、シン……?」

 コンクリート製の壁がひんやりと彼女を冷やす。
 朱い瞳に写り込む女――フェイト・T・ハラオウン。
 紅い瞳に写り込む男――シン・アスカ。

「……俺は一度も勝ったことがないんですよ。挫折しかしたことがないんです。そんな俺の気持ち、分かりますか?」
「挫折の経験くらいは私にも……」

 シンがフェイトの右手を離す――その手が今度は彼女の顔に向かった。

「きゃっ!?」

 瞬間、目を瞑るフェイト。
 数瞬の間隙。衝撃は来ない。瞳を開く。
 シンは両手をフェイトの顔の横に突きつけるように目の前に立っていた。
 顔は俯き、彼女からは、彼の瞳は髪に隠れて見えない。
 どんな表情をしているのかも、どんな眼をしているのかも、何も分からない。

「……生きるとか死ぬとか、どうでもよくなるような挫折ですよ。本当に、死んじまいたいって思うような――そんな挫折を味わったことあるんですか?」

 声の調子はどこか楽しげだった。
 嗤っている――何を?
 多分自分自身を。

「俺は……そんなんばっかりでした。」

 熱っぽく、楽しげに彼は語り続ける。
 フェイトはその声に耳を傾けた。荒々しい彼に少しだけ恐怖を感じはしたけれど――耳を傾けないわけにはいかなかった。
 楽しげな口調――なのに、その声はフェイトには泣いている子供のようにしか聞こえなかったから。

「ずっと思ってた。どうして、俺ばっかりこんな目にあうのかって。どうして、俺の大事な人はいつもいつも死んでいくんだって。」

 お笑いでしょう?とシンは嗤う。顔は俯いたまま。
 言葉の意味は彼女には伝わらない。
 伝わるのは意味ではなく、籠められた感情――悲哀と憤怒。
 その身体に溜めこんでいた鬱屈そのもの。

「何しても上手く行かないんですよ。」

 呟く――悲しげに。
 
「努力しても殺した筈の相手は生きてて、どんなに努力しても守りたかった人は帰ってこなかった。」

 呟く――悔しげに。
 
「……どんなに努力しても、俺がやりたかったことは何一つ上手く行かなかった。」

 呟く――寂しげに。
 
 彼が顔を上げた。視線が絡み合う――朱い瞳に映りこむ紅い瞳の自分。
 彼は泣いてはいない――けれど、哭いていた。
 流れ出す言葉。
 涙を流すように、血を吐くように。

「だから、もう、考えるのをやめたんです。何かを選ぶのも、何かを考えるのももうたくさんだから。」

 釣り上がった唇。歪んだ頬。醜い、誰かを嘲笑する顔――誰でもない彼自身を嘲笑する顔。

「俺はずっと戦っていられれば、それでいいんです。戦ってれば、何も考えなくていいから。」

 言葉を切った――沈黙。一気に語り抜いたからか、息が切れていた。
 沈黙が続く――荒く息を吐く彼。それを眺める自分。彼を見下ろすカタチになっている。
 自分の瞳が潤んで行くのを理解する――それが悲しいからなのか、怖いからなのか、もう判別出来ない。
 多分どちらも混ざり合ってしまって、そのどちらでもあるのだろう。

「……俺はね、フェイトさん、アンタらが誰で何であろうと本当はどうだっていいんだ。守らせてくれるなら……生きててくれるならそれでいいんだ。」

 独白が終わりを告げる――彼がその手を壁から離し、振り返った。
 彼女はその手を掴んだ。しっかりと、今度こそ離さないように。

「……分かるよ、私には、私にはその子の気持ち、絶対に分かる。」

 その言葉にシンの目が再度危険な色合いを帯び出す。
 瞳に映るのは敵意。フェイトの心が軋みを上げる――思い人に敵意を抱かれる痛みで。

「……何だと?」
 
 荒々しい口調。それはフェイトが知るシンの態度ではなかった。彼は無愛想ではあるもののいつも礼儀正しい青年だったからだ。
 それは昔の――今から2年以上前のシン・アスカだった。
 振りまくものは敵意と怒り。復讐と言う安寧に身を浸し、自分には力があると自惚れていた頃のシン・アスカそのものだった。

「アンタに……ステラの何が分かるって言うんだ。」

 その言葉に、彼女が息を呑んだ。
 数瞬の逡巡――沈黙。けれど、言葉は滑らかに流れ出す。遅滞無く、流れる水の如く。

「私も、作り物の人間だから。私にも分かるんだ。」
「…………何?」

「お母さんには嫌われてた。本物と似てるのに、似つかない偽者だって。」

 その独白は彼にとっては意外過ぎたものだった。

「何度も思った。頑張ればお母さんは私を見てくれるって。」

 フェイト・T・ハラオウン。彼が最も忌み嫌う英雄と言う人種の一人。
 人生に成功した人間。挫折など知らぬ女神。

 ――少なくともこんな涙目で自分自身を偽者だと蔑むような人間ではないと思っていた。

「でも見てくれなかった。お母さんにとっては最後まで私は偽者のままだった。」

 潤んだ瞳と裏腹な凛とした声音。
 彼女の手に力が篭る――思っていたよりもずっと強い力。
 けれど、その何よりもシンを戸惑わせるのはその言葉の意味だった。
 “偽者”
 “作り物”
 どこかで聞いた言葉。過去、親友と信じて守れなかった人間――レイ・ザ・バレル。

「……アンタは、まさか」

 シンの手から力が抜ける。表情に色が無くなる――紅潮していた頬が蒼白を帯びる。
 瞳が棘を無くし、見開いた。ごくり、と唾を飲み込む。
 瞳の色は違う。違えども、彼の目前にいる金髪の少女。
 その姿が自分のよく知る“彼”と重なる。金髪の少年――失敗作。先の無い人生。誰かに未来を託すしかなかった少年に。

「シンに私の気持ちが分かる?私はずっと偽者で……多分これからもずっと偽者としてしか生きていけない私の気持ちが。私を本物にしてくれるはずの人が消えた私の気持ちが。」
「……なに、を。」

 足元に力が入らない。
 よろめくシン。机に身体が当たる。椅子につまずく足がもつれる膝が折れた――転んだ。
 がたん、と大きな音を立てて、シンが地面に腰を落とす。
 見上げるシン。フェイトの紅い瞳は潤んだまま。けれど強い光を失わず。

「だから、断言出来る。その子はきっと幸せだったって。最後にその子は本物になれたんだから。」

 決然とした言葉。けれどシンの耳には入らない――聞いた先から抜けていく。頭に残るのは大事な幾つかの言葉だけ。

 ――偽者。
 ――作り物。
 
 悪い冗談だった。性質の悪い皮肉だった。

「……は、はは」

 口元に浮かぶのは乾いた笑い。

「なんだよ、それ。」

 ステラと同じ人間に告白され。
 レイと同じ人間に心情を吐露され。
 現実と過去が混じり出す。
 呪いのように艶やかに、班目模様に混ざり合う昔と今。

「……シン?」
「ギンガさんは人間じゃない?フェイトさんはクローン?」

 繰り返している。
 自分はもう一度同じことを繰り返している。

「シン……」
「……俺は。」

 ぶつぶつと呟くシンにフェイトは告げる。

「ギンガはシンに告白したんだね?」

 びくり、と身体を震わせるシン。

「何で……そう思うんですか?」
「……分かっちゃうよ。だって、シンがそんな風に衝撃を受けるなんておかしいから……私達を守れているのに。」

 涙目でフェイトは呟く。台本を読むようにすらすらと出てくる言葉――多分、何度も何度も心の中で思っていたことなのだろう。
 いつだって、彼女はもう一人の彼女と一緒に彼を見ていたから。

「……違う、俺は」
「……私ね、好きな人がいるんだ。」

 頬に一筋、涙が流れた。

「その人は私達のことなんてまるで見てないの。きっとどうでもいいって思ってる。酷いよね。私達はこんなにその人のことが好きなのに。」

 本当は言いたくなかった。けど、言わずにはいられない。
 
 ――ギンガもこんな気持ちだったのかな。

 共に彼に恋したもう一人の強敵(とも)を思い出して。

「フェイト……さん。」
「でもね、私達は目が離せないの。その人からもう目が離せないの。呪いだよ、これじゃ。」

 俯く顔。長い髪が表情を隠す――けれど声は隠せない。隠せないから彼女のココロは丸見えで。

「守ることしか頭に無いその人が私達を見てくれるなんてきっと無い。だから、せめて守って欲しい、せめて守りたい……“私達”はそう思ってた。」

 言葉を切って顔を上げる、フェイト。

 ――私、馬鹿だな。

 心中で呟く。
 或いはここで、この恋は終わりを告げるかもしれない。それでも言わずにはいられない。言わなければいけない。
 止まっている事は出来ない。結果がどうあれ、自分たちは“選んだ”のだから。

「……私も同じなんだ。貴方から目が離せないの。」
「……フェイト、さん。」

 そう言ってフェイトはシンに向かって近づいて行く。シンは呆然と呆けたまま動けないでいる。
 フェイトが次にするコト。それが何なのか、理解できなくて――理解したくなくて――理解してしまって。

「ごめん、シン。」

 しゃがみ込むフェイト。
 
 ――唾液で濡れた唇と唇が触れ合う。触れるだけのフレンチキス。
 身体はこれまでに無いほどに近づいて――それでもココロはこんなに遠くて。近づけないことが悲しくて。

「貴方が好き。」

 そう言って、フェイトは立ち上がると走り去っていった。毀れる涙。溢れる涙。
 何が悲しいのか、何が辛いのか。
 何もかもが分からないまま、走った。自分の部屋に入る――ベッドに倒れこむようにして寝転んだ。

「……ずるいよ、ギンガ。」

 涙が止まらない。嗚咽するでもなく、叫ぶでもなく、静かに流れる涙は止まらず毀れ続ける。

 その時、俺は呆然と座り込んでいた。
 
 ――私、貴方が好きだから。
 ――貴方が好き。
 
 何で、こうなった?
 どうして、俺のことを?
 俺は一体何をしたんだ?
 ステラと同じような女(ヒト)
 レイと同じような女(ヒト)

「……なんなんだよ、一体」

 座り込んだ自分がやけに惨めに思えた。
 見えない答え。舞い降りた恋。けれど、それに対処する方法など何も思いつかないまま。

「俺に、どうしろって言うんだよ……何で、何で、俺なんだよ。」

 答えるものなどどこにもいない。それが分かっていながら俺は呟いた。
 呟いて死にたくなった。
 どれだけ最低で吐き気を催すような下種なことを今呟いたのか理解してしまって。

「……くそったれ。」

 その通りだった。
 何よりも自分自身が――嘲笑することも出来ないほどに、最悪過ぎた。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 30.決別の時(b)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 17:57
 ベッドに身を投げ出し、天井を見た。
 部屋の中は暗い。
 電灯をつけて灯りを得ようとする――やめる。暗い部屋の中が良いと思い直したからだ。
 まぶたの裏にある光景が焼き付いていた。消えない――残像のようにこびり付いて離れない。
 走り去る女性。フェイト・T・ハラオウン。自分の憧れ。
 泣いていた。涙を零しながら走って行った。それを見ていた。見ているしかなかった。
 偶然だった。ただ、彼女に聞くことがあったから、そこに行っただけだった。
 彼女は彼の横を走り去っていった――まるで自分には気づかなかった。
 涙で前が見えなかったのだろう。
 それくらいにその時の彼女は何かしら衝撃を受けていた。
 衝撃――何故?
 ズキン、と頭痛。疼くように。
 ドクン、と鼓動。蠢くように。

「……どうして、泣いているんですか。」

 呟きは虚空へと消えていく。
 大切な人――それこそ世界全てと引き換えにしても良いとさえ思えるほどに大切な人。
 そんな彼女が泣いている。けれど、自分にはその理由すら分からない。
 どうして泣いているのか。どうしてそれほどの衝撃を受けたのか。何も分からない。

「……どうして、何も言ってくれないんですか。」

 彼女は何も言わない。何も言わずに己が奥へと全てを沈殿させていく。
 泣いていたその次の日、彼女はいつも通りだった――少なくとも自分の前では。
 いつも通りに笑顔で、いつも通りの彼女で。
 その笑顔がどうしてもあの泣き顔に繋がらなかった――シンに出会うまでは。
 彼と視線が合った時、彼女の態度は一瞬硬直した。
 一瞬――本当に僅かな一瞬だった。その一瞬の表情。それは今にも泣きそうで辛そう、あの泣き顔と繋がる表情だった。
 シン・アスカ。エリオにとっての理想であり、恐らく6課内で誰よりも騎士を体現する男。

「……っ」

 ぎしりと奥歯を噛み締める。
 つまり、そういうことだ。
 フェイトが悩んでいる理由は何の事は無い。“色恋沙汰”だと言うことだった。
 色恋沙汰。それはフェイトを神格化するほどに崇めているエリオにとっては看過出来ない事実である。
 神格化するほどに崇める。つまり偶像化しているということ。
 狂信的な思考を導く地盤。
 人の心を最も容易く救い、そして最も容易く壊す、純粋な想い。信仰と呼ばれる類の気持ち。
 女神は誰にも恋をしない――偶像だから。
 そんなふざけた理屈。エリオに刻み込まれた気持ち。
 エリオ自身、フェイトが恋をしなければ決して気づかなかった――風化するはずだったその気持ち。
 それが鎌首をもたげエリオに囁きかけていく。
 
 ――奪われる。また、お前は奪われる。大事なモノを。

「……フェイトさんの人生はフェイトさんのモノだ。」

 呟き。虚空に消える――その言葉の軽さにぞっとしながら。
 
 ――取り戻せ。じゃないとお前はまた壊される。

「僕はもう大丈夫。もう、二度と壊されはしない。」

 ――嘘ばかり。お前はそんなに強くない。“キミ”は誰かに依存しなければ立っていられない。
 
 幻滅する自分――幻滅したくない自分。その鬩ぎ合い。
 
 聞こえる声に“自分”以外が混じり出す――それが誰なのか、不思議にも思わない自分に気づかずに。
 フェイト・T・ハラオウンは完全無欠。完璧な女性。そんな在り得ない仮定を本気で信じている自分。
 彼女にココロを開いた、その時からずっと――今も、そしてこれからも。

 それがどれだけ馬鹿馬鹿しく、彼女のココロを無視した仮定であろうとも、エリオ・モンディアルのココロはそれを真実だとして騒ぎ立てる。
 
 心臓がドクン、と蠢いている。止まない頭痛と止まない動悸。
 彼女の泣き顔を消し去りたかった。彼女の涙を止めたかった。
 
 その為なら自分がどうなっても構わない。
 
 けれど、自分にはその力が無い――止められる位置にいないのだ。自分は。そこには既に別の人間が居座っているのだから。

「……僕なら絶対に泣かせないのに。」

 言葉が漏れた。それは紛れも無く彼の本心。
 自分ならもっと上手くやれる、自分に力があれば決して泣かせることはない。
 けれど、それは誰にも届かない――暗い部屋の中で呟いたところで届くはずも無い。
 言葉は誰かに届けなければ意味を成さないものだから。

「……フェイト、さん。」

 瞼が落ち始める――身体が重い。
 
 ――キミはどうしたい?
 
 内から沸き出る自分以外の誰かの言葉。それが何なのか、疑問にも思わずにエリオは呟いた。

「……強く、なりたい。」

 呟きと共に意識が遠のいていく。意識が落ちる――寸前、自分の手を見た。
 蒼く輝く光が走り出す。まるで、エリオが眠りにつくのを見計らったように。
 それが何を意味するのか、既に眠りにつき始めた頭では理解できない。
 否、それを不思議に思うことも今の彼には無い。“そういう風”に作り変えられていっているのだから。エリオ・モンディアルは眠りについた。
 
 暗い部屋の中、彼の身体が蒼い光が回路のような幾何学模様を描きながら奔り抜ける。
 薄ら寒さを感じさせるその光景とは裏腹に――エリオの寝顔は穏やかだった。
 
 ――さて、惨劇を始めよう。
 
 どこかでそんな声が聞こえた。


 おかしなメールだった。
 機動6課の業務の中には当然の如く事務が存在する。
 事務が存在する以上は各部署への連絡なども必要となる。
 一昔前までは書類を作って、そこまで持っていくと言うことが主流だったが、現在では各職員が使っている端末にメールアドレスが設定され、メールによって打ち合せをする――もしくは連絡を取り合うことが多い。
 基本的に外部から送信されてくるメールの内容――もしくは送信者は検閲を受け、選別された上で受信することになる。
 故にスパムメール等は決して届くことは無い。

 だが、その日、彼――エリオ・モンディアルがメールボックスを開くと見慣れないおかしなメールが届いていた。
 差出人不明のメールである。届かないはずのスパムメールが何かの拍子で届いた。
 彼はそう思った。そして、それを削除し、業務に舞い戻ろうとした時――彼は手を止めた。
 メールの文面は一言。そして、その文面がそのメールが単なるスパムメールではないことを彼に教えていた。
 
 “シン・アスカについて知りたければ→○○○○○○○○”
 
 そう、矢印と共にそっけなくアドレスが書き込まれていた。
 胡散臭い。何よりも“胡散臭い”その画面。明らかな誘い。
 普通はクリックしない――その先に在る危険を回避する為に。
 
 ドクン、と心臓が蠢いた。
 
 喉がゴクリと鳴る。唾を飲み込んだ。顔が強張る。マウスを握る右手に僅かな震え――逡巡の証。

「……っ」

 ドクン、と心臓が蠢いた。
 マウスを持つ右手に力がこもる――誰かが囁く。
 
 “誰も見ていない”
 “見ないことで不安になるよりも見ることで不安を蹴散らした方が建設的だ”
 
 言葉は悪魔の囁きのように彼の心に響いていく。確固とした言葉ではなく、漠然とした欲求として。
 
 “見るべきだ”
 “見なければいけない。”
 
 自分の中から湧き出るその言葉に幾分か戸惑いを持ちながらも――彼はそのURLにカーソルを合わせ、クリックした。
 ちなみに――その漠然とした要求が無かったとしても、変わらず彼はそのURLをクリックしていたことだろう。
 何故ならその文面は彼が一番知りたかったことなのだから。
 ディスプレイに現れる画面が変化する。
 それは、いわゆるアップローダーという類のサイトだった。
 様々なファイルをそのサイトにアップロード――つまりは送信し、パスワードを知る特定個人がダウンロード――受信すると言うモノである。
 だが、不思議なことに、そのURLに導かれて現われたサイトには、パスワードを打ち込む箇所などどこにも無かった。
 あるのは“ダウンロード”と小さく書かれているだけ。
 彼は不審に思い、ダウンロード、と書かれた部分にカーソルを合わせクリックする――こうなるともう歯止めは効かない。
 不審に思いつつ、怪訝に思いつつ、一度大丈夫だと人間というモノは安心して脅威を安く見るモノだからだ。

「……これは。」

 ダウンロードされてきたのは二つのファイル。
 一つは文章データ。
 一つは動画データ。

「エリオ君?」

 声がした。彼は即座にその二つのファイルを保存するとその画面をウィンドウごと閉じる――現れるのはメールボックスの画面。消すことなく裏面に出したままにしておいたようだ。

「……怖い顔してたけど、大丈夫?」

 優しい同僚の言葉に安心して、彼は笑顔を作って大丈夫だよと返事を返す。
 その笑顔に安心したのか、優しい同僚はそのまま自分の机に戻っていった――作り出した笑顔に反して内面では心臓が荒れ狂っていたが。
 そして、彼は周囲に警戒しつつ――それでも外面はいつもと変わらない仕事用の顔で――その二つのファイルを自身の小型端末に保存する。
 保存中を伝える画面が現れる――消える。保存終了。
 心臓の鼓動が蠢きを強めた――何食わぬ顔で彼はそれを端末から抜き去ると懐に収め、仕事に戻る。


 数時間後、エリオは自室に戻るとすぐに自分用の端末を立ち上げ、ファイルを開いた。

「……」

 彼の表情は変わらない。変わらない表情―-何も映し出さない無表情。
 電気一つ点けずに作業に没頭する――顔をディスプレイの光が照らし出す。
 動画データを再生する。
 映し出される映像―-朱い炎と紅い翼の描く軌跡。自分は未だ辿り着かない高み。神速など生温い高速戦闘。
 殆ど線と線にしか見えない斬り合い――何十合なのか、数えることすら出来ない。
 奥歯を更に噛み締める――その強さに嫉妬して。
 画面が切り替わる。瞬間、エリオは絶句した。
 シンが、朱い炎を纏った異邦人が、倒れ、血を吐いたからだ。
 それも致死量とも言えるほど、膨大な量を。
 唾をごくりと飲み込んだ。その異常性に目を奪われて――だが、本当の異変はその後だった。
 そんな致死量の吐血など、その後の“異常”に比べれば、絶句するようなモノではなかったのだから。

「……なんだ、これ。」

 シンの肉体から蒸気が上がり出す。それに伴い彼の身体に向かって伸びていくモノがあった。
 画像を見ているエリオ自身、“ソレ”が何なのか理解できなかった――当然だ。“ソレ”は本来眼に見えるモノではないのだから。
 “ソレ”は一言で言えば蜘蛛の吐き出す糸が一番近い形状だった。
 シンの肉体に繋がっていく数十、数百、数千の糸。数十、数百、数千と絡み合い、交ざり合い、紡がれていく、糸の群れ。
 
 画面が動く――映し出す方向が変わる。
 
 シンに向かって伸びていく糸の先―-そこにはフェイト・T・ハラオウンがいた。
 
 “ソレ”は彼女の身体から“抜け出ていっている”。
 
 それだけではない。よく見れば糸は周辺の空間や草木、瓦礫――そこに存在するありとあらゆる物質から伸びており、彼女と同じく“抜け出ていっている”

 そして、その全ての糸が彼に流れ込む。
 流れ込んだ糸は彼の身体のカタチを紡ぐようにして彼の身体の輪郭をなぞり、そして、彼の身体に刻み込まれた幾何学模様――それはまるで朱い電気回路のように――に融けていく。

 無色透明だった糸は彼の身体に触れると粉雪のようにして消えていく。
 
 同時に流れ込めば流れ込むほどに今にも死にそうだった彼の呼吸が少しずつ穏やかになっていく――対照的にフェイトの顔色が青白くなっていく。
 周辺の瓦礫のヒビが少しずつ大きくなっていく。僅かに伸びていた雑草がしおれていく。

「……回復してるの、か。」

 在り得ない光景だった。
 周囲一体に存在する無機物有機物を問わず全ての存在から生命力を奪い取り、肉体を回復する――そんな魔法など聞いたコトがない。
 フェイトの顔色が異常な速度で青白くなっていく――画像で見るエリオにはその変化がよく分かる。
 今、シンはフェイトの命を吸っているのだ。
 それこそ吸血鬼の如く、無作為に――誰かの命を奪い取り、自身の延命を行っている。
 しかも、彼にとって最も大事な人間の命を、奪い取って

「……ふざけるな。」

 ギシリ、ときつく奥歯を噛み締めた。言葉に篭るのは憤怒。
 何が守る、だ。
 彼は守ってなどいない――奪っているのだ
 シン・アスカは周りの誰かを犠牲にして、自分自身を助けている――それは彼が信じる騎士の姿からはもっともかけ離れた姿。
 彼にとっては吐き気を催す邪悪そのもの。
 
 動画が終わる――エリオは無言でマウスを操作し、今度は文章データを開いた。
 それは幾つかの文章ファイルを纏めたモノ――何かの報告書のようだった。
 
 しばし読み込む――そして、加速する。スクロールを動かす速度が。クリックの間隔が短くなる。
 そこに記されているのは彼の予想を後押しする記述と、彼がまるで予想していなかった記述だった。
 一つはこの魔法について。この魔法――エクストリームブラストは動画の通り強大な戦闘力を与える――反面、肉体がそれについていけないと言う常軌を逸した副作用が存在する。
 先ほどシンが吐血したように、場合によっては死に至る可能性すら高い。
 
 そしてそれを補完するリジェネレーションと言う魔法――問題はむしろこちらだった。
 この魔法はエクストリームブラストで破壊される肉体を回復する魔法である。
 崩壊寸前の肉体を即座に修復すると言う規格外の回復魔法。規格外であるが故にその消費は膨大である。

 だが、この魔法は通常の魔法と違い使用者の魔力を使って、肉体を修復する訳ではない。
 使用するのは“使用者以外の全て”。
 無機物有機物の一切合切を問わずに周辺にある全ての存在から生命を奪い取る。
 そして奪い取った生命力を魔力に変換し、修復に使用する。フェイトの顔色が休息に青白くなっていたのはそのせいなのだろう。

 そして、まるで予想して居なかった記述――それはシンの過去について、だった。
 オーブで家族を失くした時から、彼が信じた国に裏切られ殺されるまでの記述。
 この世界において禁断の質量兵器を用いて数限りない人間を殺した男。
 数十、数百などモノの数ではない――実に数千、数万とも言える人数を殺した大虐殺者。
 記述はただ淡々と彼が参加した戦いのことだけが記されている。
 そこには、現実と結果だけが記され、そこで彼が何を考え、何を思っていたかなどは書かれていない――客観的な視点で見れば個人の主張などは省かれて然るべきである。
 現実として、シン・アスカは数え切れないほど多くの人間を殺しているのだ。
 何を思おうとも、何を考えていようとも、殺された誰かにとっては関係ない事柄だ。

 シン・アスカの顔が思い浮かぶ。
 苛烈で不器用で優しい朴念仁――だが、その裏に潜んでいるのは、何万という人間をも殺して、まだ生きている悪魔。
 そして、その悪魔は今も確かに彼の中に生きているのだ――他人の命を奪い取って自分のモノにすると言う吐き気を催す邪悪として。
 
 怒りがあった。大切なモノを奪われたと言う怒りと裏切られたと言う怒りが。
 自分にとって大切な家族を奪おうとしたシン・アスカが憎い。
 守ると言って自分に憧れを抱かせたと言うのに裏では単なる邪悪でしかなかったシン・アスカが憎い。
 それはエリオ・モンディアルが抱くべき“正しき怒り”であり――彼ならば決して抱かないであろう“歪められた怒り”でもあった。

「……僕は。」

 呟きながら、胸が蠢いているのを感じる。いつもよりも強く白熱しているのが。
 胸の響きはまるでそこだけが独立した生物にでもなったように強く敵を求めている。
 ドクン、ドクン、と――何かが胎動している。今にも“弾けて”何かが飛び出しそうなほどに。
 敵――シン・アスカを含む彼から何かを“奪う”存在全てを■■しろと。

《穢れきったシン・アスカはフェイト・T・ハラオウンには相応しくない。》

 ――言葉が溢れ出る。胸の奥に仕舞えなかった幾つもの言葉たちが。

《フェイト・T・ハラオウンに相応しいのは本当の騎士。強く凛々しく誇り高く高潔な最高の騎士――シン・アスカのような男ではない。》

「……そうだ、シンさんじゃないんだ。」

 だが、ソレはエリオ・モンディアルでもない。
 エリオ・モンディアルもまた穢れきっている。
 その出自からして、卑しい生まれであり、彼女のように卑しい生まれでありながらあそこまでの輝きを得るなど出来はしないのだ。
 彼女は、“特別”なのだ。
 “特別”な彼女には“特別”な誰かが相応しい――少なくとも、自分やシン・アスカではない。
 文章の末尾にはこうも書かれていた。

 ――彼にエクストリームブラストの使用を制限する様子は見られない。
 
 シンがそれを知っているのか知らないのか。
 それは分からない。分からないけれど、少なくとも、『使用を制限しない』ということは、誰かを、機動6課の皆を“殺そう”とすることに他ならない。
 エリオ・モンディアルにとって家族に最も近い存在を、全て、シン・アスカは奪い尽くそうとしているのだ。許せることではない。

「……シンさんに近づいちゃいけないんだ、皆……シンさんから離れなきゃいけないんだ。」

 殺されない為に。
 死なない為に。
 生き延びる為に。
 シン・アスカを6課から放逐しなければならないのだ――“自分自身が”。
 その結果、たとえ全てを失うことになろうとも。
 覚悟が必要だ――6課や家族を守る為ならば、自分自身ですら切って捨てるような“覚悟”が。

「……覚悟は、ある。」

 呟く。意識の奥。知覚の最果て――そこで音がした。
 ビキリ、と。何かにヒビが入るイメージ。
 目の焦点が消える。虚ろな瞳。何かが目覚めた――それが何かは分からないけれど。

「僕は」
 
 呆然とした呟き。
 自分自身に向けた宣言。
 そうだ、エリオ・モンディアルには覚悟がある。
 機動6課を守る為。フェイトやキャロなどの家族を守る為。自身にとっての大切なモノを守る為。

「戦うんだ。」

 ――たとえそれが欺瞞に満ちた偽りの覚悟であろうともエリオ・モンディアルはもう止まらない。彼の身体の奥深く“種”は成長を止めはしないのだから。


 言葉が棘になる。
 今ほどその言葉を噛み締めた時はない――八神はやてはそう思っていた。

「シンさんは別の部隊に異動させるべきです。」

 目前には部下であるエリオ・モンディアル。
 強い口調――これまでにないほどに。

「……いきなりやな、エリオ。」

 胸に広がるのは驚きと困惑だった。
 嫌な予感はしていた――エリオが自分を呼び止めた時のその瞳。
 そこに危険な輝きがあったから。彼を自身の執務室に呼んだのはその為だ。
 他の誰にも聞かせるべきではない話になる。そう感じ取ったからだった。
 
 どうしてエリオがシンをここまで拒絶しているのか。二人の間に何があったのだろうなどは分からない。
 大体にしてはやては元々エリオがはやてに「話がある」と言った時、彼女が予想したのはまるで別のことだったからだ。
 この間の襲撃とその際の事故。――エリオ・モンディアルはキャロ・ル・ルシエを殺しかけた。
 そのことについてだと思っていたのだ。
 
 無論、それは自身の命を守る為の仕方ない処置だったはずだ――それを彼自身が良しとしないのも分かっている。
 だが、はやてはあえて、それを放置しておいた。
 そういった問題は戦っていく上で誰もが乗り越えていかなければいけない問題であり、そこに自分が入り込むことに意味はない、と半ば捨て置いた。

 だから彼女はエリオからの話をこう予測していた――“自分を機動6課から外してくれ”と言う話なのだと。彼女はそれを説得する気で此処に彼を呼んだのだ。
 
 だが、実際はその話とはまるで関係の無い、シン・アスカを外す“べき”だと言っている。
 
 まるで関係の無い話。彼の性格を考えてみれば予想外の言葉だった。
 確かに彼女の親友フェイト・T・ハラオウンの養子であるエリオやキャロはシン・アスカに対してそれほど良い感情を持ちはしないだろうとはやては思っていた。
 子供など当然持った事がない彼女ではあったが、漠然と理解できることはある。

 自分には親がいない。けれどその代わり家族――ヴォルケンリッターがいる。
 もし、その家族を奪うような輩がいるのなら……自分はそれを許さないだろう。そんな気持ちは理解できる。
 
 だから、シンにエリオとキャロの仲が上手くいかない可能性――それを考慮して彼らを同じ部隊に配置した。
 それが功を奏したのか――少なくとも、少し前までは兄と弟、もしくは妹と言う感じで仲良くしていた。
 
 それが自分の主観で濁った贔屓目だとしても、彼らの仲は悪くは無かった。そう断言できた。
 だから、はやては困惑していた。何があったのか、と。
 何よりも未だに子供と言って良い年齢の彼がこれほどまでに明確に誰かを拒絶すると言うことが俄かには信じがたかったからだ。

「……理由は何や?」

 エリオがその問いに少しだけ瞳を尖らせる――まるで、自分にソレを言わせるのか。そう言っているような瞳だった。
 暫しの逡巡。
 背中に隠すように持っていた鞄――エリオはそこから一つの封筒を取り出した。

「……何や、これは?」
「……昨日、僕の元にこの資料がメールで届きました。送信者は不明です。誰かは分かりませんが恐らくここの内情に詳しい人間なのは間違い有りません。」

 俯いた角度からは彼の表情は窺い知れない。
 はやては彼が手渡した封筒を受け取ると、その中から十枚ほどの紙を取り出した――そして、驚愕する。そこに書かれている“見覚え”のある内容に。

「……送信者は不明になっとったんやな?」
「はい。」

 言葉に震えは無い。けれどはやての内面、その中に驚きと動揺が渦巻き始める。

(ジェイル・スカリエッティ……か? けど何でこんなもんを。)

 それは報告書だった――勿論、はやてが作ったものではない。
 そして6課の誰かが作ったものでもない――いや、6課のメンバーでは作れないのだ、これは。
 何故ならそこには、“あの時あの場所”にいた者以外には決して知り得ない情報が詳細に記されていたから。
 
 シン・アスカも、フェイト・T・ハラオウンも、敵であるトーレですら恐らくは知り得ない事柄。
 書かれている内容はエクストリームブラストについての詳細な記述。そしてその魔法が引き起こす副作用。その時の情景や状況。

「……これは、この時の映像なんか?」
「はい。」

 頷くエリオ。その赤いフラッシュメモリの中に入っていたデータを再生する。
 画質はそれほど良くは無いが悪くも無い。内容は報告書の中で書かれている事実ばかり。一度目を通している以上驚きはそれほどでもない。
 青白くなっていくフェイトの顔が映る――エリオの顔が強張るのが見えた。
 
 同時に自分の顔も強張っていく。
 それははやてですら知り得なかった事柄ばかりだった。
 エクストリームブラスト。それは人体だけでなく、周辺の地形や自然にすら影響を与える魔法。
 ぞっとする。この情報がもし外部に漏れていたなら、今度こそ6課は存続の危機を迎えかねないからだ。

 時空管理局と言うのは殊更に人の命を重視する。
 味方の命だけではない――敵の命すらも。
 非殺傷設定がその良い例だ。敵の命を保護し、逮捕するという名目上、基本的に殺すことは許されないのだ。
 
 だが、これはその名目に著しく反している。
 魔法。魔力を通して世界を変える物理。
 クリーンで被害の出ないという触れ込みがあればこそ質量兵器を廃し、世界における中心となったモノ。
 そこに人体や周辺の自然などを含めた存在全ての生命を奪い取る魔法が存在し、それを躊躇い無く使う人間がいるなどと誰が言えるだろうか。
 ましてや、既に人を一人殺しかけているのだ。糾弾は免れないに違いない。

「……これ、他にもう言うてしもたかな?」
「……いえ、まだです。」

 その返答に幾分かほっとするはやて。
 ならば大丈夫だ。まだ、“隠し通せる”。
 ジェイル・スカリエッティが送ってきたと仮定する――理由は分からないが、もしそうならば少なくとも6課を離散させるようなそんな絡め手をやるような男ではないからだ。
 では、あの男はどのような理由でこれを送ってきたのか、と聞かれれば――分からないし、分かる必要もない。
 狂人の考えなど理解することは出来ない。理解する方が危険だ――はやてはそう思っていた。

「けど、見て分かる通り、コレは――シンさんは危険です。このままだと確実に誰かを“殺し”ます。」
「……」

 はっきりとした口調。真剣な瞳。何を言うべきかをも迷ってしまう。自身の言葉がどれほどの棘になるのかを認識して。

「シンさんはもうこの部隊にいるべきじゃない――違う。もう戦うべきじゃない。戦っちゃいけない人です。」

 ――その通りだろう。現状、このままシン・アスカを使い続けると言うのは得る事の出来るリターンに対してリスクが大きすぎる。
 
 彼一人を庇うことで誰かが死ぬようなことになれば――良くて解散。下手をすれば犯罪者扱いすら在り得る話だ。
 そこまでリスクを支払って、それでもシン・アスカを使い続けることへの見返りはあまりにも少ない。
 精々が強力な手駒が増えるくらい――ただ、それだけだ。

「いつかシンさんは、アレを使って人を殺します。」
「……そうならん為に私がおる。私が、シン・アスカを止める……それでええやろ?」

 良いとか悪いとかではない。
 その返答そのものがズレている――エリオは、そんな思いを抱いて訝しげにはやてを睨みつけた――本人に睨んだつもりは無い。
 だが、エリオがはやてに向けた視線には微かに憎悪が混じりこみ、はやてから見ればそれは睨んでいるようにしか見えなかった。
 
 僅かに苛立ちを覚える。
 次から次へと舞い込んでくる“問題”。それを持ち込んでくる部下は全体を見ることなく、問題の解決を急げと言う。
 苛立ちを覚えないはずが無い――それを表に出すのは言語道断ではあるが。

「……シンのことは私が直ぐに解決する。せやから……せやから、皆にはもうちょい黙っといてくれへんかな?」
「……八神部隊長は誰かが死んでも良いって言うんですか?」

 エリオの言葉がはやての耳に届いた。
 唾を飲む。漂白する思考。破裂寸前の風船のようにはやての脳裏が混乱する。
 今、コイツは何を言った?

『誰かが死んでも良いって言うんですか?』

 苛立ちが頂点に達した。
 八神はやての限界が悲鳴を上げて、仮面を破り捨てる――思わず、机を力任せに叩いた。机が揺れた。重ねられていた何冊かの本が倒れる。

「エリオ、今、そんな事一回でも私、言うたか……!?」
「……言ってません……ですが、」
 
 苛立ちを隠そうともしていない、いつものような柔和な感じなどどこにもない感情的なはやての言葉。
 その言葉を受けてエリオの瞳に憤怒と憎悪が灯り出す。
 その脳裏に浮かぶのは死に様だ。
 血に塗れボロボロになって死んでいくフェイトの姿。四肢を引き裂かれ、同じく血塗れで息を引き取るキャロの姿。
 
 ――それは空想ではない。推測に従って追跡され出来上がった確固たる予想である。
 
 エクストリームブラストを使わなければ良いと言う話では無いのだ。
 シン・アスカとフェイト・T・ハラオウン――それに限らず彼と共に居る誰かは常に死と隣合わせを強いられる。
 何故ならシン・アスカは自分以外の誰かのことしか考えない。自分の命を守ろうなどとは一切合切思っていないのだ。
 そんな人間の隣に誰かがいるとしよう。
 隣に居ると言うことは親しい間柄――もしくは家族のような間柄だろう。
 そんな人間が自分を蔑ろにするシン・アスカをどう思うだろうか?

(……庇って死ぬさ。それ以外に無いだろう。)

 エリオが心中でのみ呟く。
 そして、その呟きは恐らく正しい。
 末路は決まっているのだ。シン・アスカを庇って死ぬか、一緒に死ぬか、そのどちらかに。
 どちらにせよ待っているのは無残な死。それ以外に無いのだ。
 シン・アスカがこれまで通り、自分の事しか考えずに守り続けるとすれば、傍にいるフェイトとギンガは文字通り、いつ死んでもおかしくはない。
 
 だから、エリオは言ったのだ。戦わせるべきではないと。
 起こってからでは遅いのだ。
 死んでから守れなかったと後悔するなど愚の骨頂。避けれるべき悲劇は避ける。それこそが指揮官の当然の責務ではないのか。
 現状維持はありえない。目前に迫る危険がある以上は。
 だから、はやてはズレている。エリオはそう判断していた――子供ながらに、推測を立ててまで。

「いや……そうやな。言うてないな。……ごめんな、エリオ。私も大人げなかった……子供に癇癪起こしても意味無いことやもんな。」

 子供。癇癪。意味が無い。

(僕は……)

 それは上司が部下に対する言い放つ言葉では無い。
 それはまるで悪戯をした子供を叱り付ける大人の言葉――少なくとも対等に扱っていれば表に出てくるような言葉では無い。
 つまり、八神はやてはこう言っているのだ。

(子供だから……信用されてない。子供だから……子供だから。)

 八神はやて。その本質は慈愛であり、庇護である。
 自分が誰にも守られなかった経験があるから誰かを守ろうと言う傲慢な人間である。
 
 彼女にとって子供とは庇護の対象である。守るべき対象――聞こえは良いが、それはただ下に見ているだけだ。
 対等の立場――上司や部下という階級ではなくその信用において――であれば、こんなことを言うことはない。
 彼女は全てを下に見る。下に見るから守りたい。自分の手で。
 フェイト・T・ハラオウンと同じである。守られた経験が無いから守りたい。自分の手で。

 裏を返せば信用していないだけでしかない。
 元より彼女はエリオやキャロを魔導師として言うよりもどこか庇護する対象――つまり世間一般の子供への対応――として見ている部分があった。彼女自身気付いてはいない、潜在的なレベルの話であるが。
 今、エリオの心に芽生えた不信感は繋いでいたはずの絆――信頼を確実に揺らがせている。

 ――あれ程の激戦を共に潜り抜けたことによって得られたはずの得難い絆。その裏に隠れていたモノに気付かされて。
 
 拳が震えた。奥歯を痛いほどに噛み締める。心臓の音が煩い――鼓動の蠢きが活性化する。
 俯いたエリオ。
 見ればその変化は分かり易く隠すことなど一切していない。
 なのに、はやてそんなエリオの心の変化に気付く事すらない――彼女もまた余裕が無いのだ。エリオに最も突かれたくない部分を突かれたから。

「……そうや。誰かが死んでいいはずなんて、ないんや。」

 独白するように呟く。誰かに――自分に言い聞かせるようにして
 捨て駒。そんな方法を八神はやてが選ぶはずも無い。
 選んではいけない――自分はそれを覆す為にここにいるのだから。
 だが、それを今、彼に語ったところで意味は無いだろう。自分がやっていることはそれと同じだ。
 一緒にいれば危険な男がいる。そいつと一緒にいれば死ぬ可能性は飛躍的に増大する。
 それを分かっていながら、何もかも隠し通してそいつと一緒に戦わせるなど死ねと言うよりも尚酷い。詐欺でしかない。

 だが――だからこそ、言えない。
 
 言えばシン・アスカを“見捨てる”ことになる。
 けれど、それは6課を裏切ることになるのではないのか。
 ならばシン・アスカを――思考の堂々巡り。同じことばかりの繰り返し。
 
 けれど、それが限界だ。
 八神はやてでは、ここで悩んで結論を出して、“割り切る”しかない。神ならぬ彼女にはその方法しか思いつかないのだから。

 ――本来は違う。組織の上部に位置する者は、場合によっては切り捨てることすら視野にいれなければならない。
 それは組織を扱う者であれば当然の考え。組織とは個が寄り集まって出来るモノ。
 故に組織を統べる者はそんな考えを抱くべきではない。
 割り切るのではなく、飲み込まなければならないのだ。
 清濁のその全てを。その上で最良の選択肢を常に選び抜く。
 
 頭を下げればいい、篭絡すればいい。
 そんな短絡的な考えではその組織は直ぐに潰えるだろう。大切なのは決断すること。
 そして、その決断に自分自身を乗せるだけの自信を持つこと。勿論、その決断が間違っていないことが前提ではあるが。

 八神はやてにはそれがないのだ。決断力と言うものが。
 判断力はあるだろう。的確な思考も可能だろう。だが、それを決意し覚悟するまでが“遅い”のだ。
 
 時間が過ぎる度に判断は変わる。その時その時で最適な判断をすること。それによって組織は生きながらえていく。
 
 これまではフェイト・T・ハラオウンや高町なのはなどの最高の人材であり、親友がいた。
 
 だが、その親友の一人は今はいない。肉体の休息と子供の為に部隊を離れたからだ。
 
 割り切れないはやてを割り切らせるのは常に周りの後押しだ。
 結局誰かの言葉無くして彼女は決断一つ出来はしない――今のようにエリオを突っぱねることすら、上手く出来ない。
 だから、エリオの信頼を著しく揺らがせる。
 
 エリオ・モンディアルは八神はやてにとっては、同格ではないれっきとした部下である。
 部下が上司に進言するのはおかしくはないだろう――だが、強要してどうするのか。
 上死の命令には基本的には服従する。これがトップダウンの組織の基本である。

 だから、はやてはここでエリオに長々と言い訳をするのではなく、「誰に口聞いとるんや、エリオ」でよかった。
 その後、彼の直属の上司であるフェイトや最も近しい距離にいるキャロにフォローをさせる。
 そういった部下のフォローなど本来は、はやてではなくフェイトや他の誰かにやらせるべきなのだ。女々しくはやてが言い訳を言う必要はどこにもない。

 トップとは嫌われることが前提。
 例え嫌われたとしても、見返りとして与えられるリターン――例えるなら給料など――があれば、最終的に丸く収まるものなのだから。
  それが出来なかった時点で彼女は指揮官失格である――もっと言えばそれに彼女自身が気付いていないことが更に致命的であった。

「……ええか、シンがアレを使わんとけば、問題は無い。だから、エリオも黙っといてくれんかな?」
「……フェイトさんは殺されかけたんですよ?」
 
 努めて笑顔。シンに見せるような鉄面皮はそこには無い。子供の扱いに困る大人
 
 ――そんな風にしか見えない八神はやて。愚者にしか見えない、最悪の大人。

「……フェイトちゃんは死んでない。繰り返すけどシンのアレは使わんとけば問題ない類の魔法や。そうやろ?」

 失望がエリオを覆いだす――全身から力が抜けていく。
 自分が信じていたモノの正体に気付かされて。そんなモノを信じていた自分自身に嫌気が刺して。

「……そうですね。」
 
 エリオが呟き、顔を上げた。
 そこには――何も無かった。
 先ほどまで見えていた憤怒も悲哀も失望も何も無かった。
 そこにあったのは失望。彼の目は既に自分を見ていない――違う。
 自分には何も望んでいないのだ。貴女には期待しない。そう言っているような瞳。

「――っ」

 弁解したくなる。今のは嘘だと。自分は本当はそんな事を考えていないのだと。
 だが、言えない。言える訳も無い。

「……失礼します」
「待ちや、エリオ!」

 そのはやての言葉を無視して、エリオは振り返って歩き出す。止める間も無く、彼の姿が消える。

「エリオ……?」

 はやての困惑が混ざりこんだ声。それが室内に空しく響く――溜め息を一つすると革張りの椅子に腰を下ろし、背もたれに体重を預けた。
 ――瞬間、どっと疲れが沸いてきた。

「……っ。」

 腹部が痛む――ギシギシと。のたうち回るような痛みではない。沈み込んでいくような静かな痛み。
 座り込んだまま、机の中から白い錠剤の入ったケースとミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出す。
 ケースから錠剤を3つ取り出し、口内に放り込み、水で流し込んだ。
 ごくり、と喉が鳴って嚥下する。そのまま息を吐き出す。

「……ほんま、情けないな。」

 最近は胃薬と睡眠薬が必需品になってしまっている自分。
 八神はやては椅子に深く座り込みながらそんな自分を情けなく思った――ほとほと指揮官の器ではない自分自身を。
 沈んだ自分の気持ちを代弁するように、ギシリとスプリングが深く軋む。
 ペットボトルの中のミネラルウォーター。その水面が揺れていた。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 31.決別の時(c)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 17:58

 いつだって世界は残酷だった。
 世界は最初から私を裏切っていたし、信じていた人達すらも私のことを裏切っていった。
 度重なる裏切り。けれど、私には信じられる友達がいた。その子がいたから私は自分であれた。壊れなくて済んだ。
 そして、時が過ぎ、私を引き取ってくれると言う人が現われた。
 金色の髪の女の人だった。
 女の人は優しく自分を連れ出して、助けてくれた。
 女の人は忙しい人だったらしく毎日一緒にはいられなかったけど、一緒に居られる時はいつも一緒に居てくれた。

 思えば、その女の人――フェイト・T・ハラオウンが私を引き取ってくれなかったら、私はどうなっていたか分からない。
 少なくともまともな人生というモノにはたどり着けなかったと思う。
 一人と一匹が自分達の力だけで生きていくことは厳しい世界だ。
 だから、フェイトさんには感謝している。
 家族として愛している。出来るなら彼女の望みにはなんだって応えたいと思っている。

 けれど、フェイトさんの今の願いに私は関わるべきじゃない――そう、思う。
 フェイトさんとギンガさんを見ていると、女性は恋をすると綺麗になる、ということが本当なのだと理解できる。
 
 それくらいに二人は変わった。綺麗になった。
 多分、それはいつだって必死に頑張っているから――好きな人の為に。
 
 綺麗なその姿は多分誰の手も借りずに自分の力だけで頑張ろうと言う気持ちの現れ。
 だから、誰かが手を貸したらいけない。あの二人は共にフェアな勝負しか望んでいない。
 
 いつか私が誰かに恋をすることになったとしても――多分、私もそう望むから。
 誰かに誰かが恋をする。その恋は一つきり。
 一つだけのその恋を巡って乙女は恋に殉じるのだ。
 たとえ、その恋が叶わないとしても――きっとその想いはホンモノだから。

「きゅう?」

 友達――フリードが私に問いかける。どうかしたのか、と。
 
「……しっ、静かにしてね、フリード。」

 目前でその恋について語り合う二人。
 ギンガさんとフェイトさん。
 楽しげに――まるで旧知の友のようにして二人は、二人にとっての共通の話題であり、共通の懸案事項であるシン・アスカさんについて語っている。

 シン・アスカ。自分と同じくライトニング分隊に所属する魔導師である。
 目前でシンについて語る二人の女性。
 現在彼女らにとっての心の中心にして、原型さえ失いかねないほどに変化させた男。
 
 キャロ・ル・ルシエは彼のことが不思議だった。
 自分を初めとして機動6課にはそれぞれ曰くつきの人間が多い。
 
 スバル・ナカジマやギンガ・ナカジマは戦闘機人。
 キャロ・ル・ルシエは他の次元世界から、フェイト・T・ハラオウンに引き取られた孤児のようなモノである。
 そのフェイトやエリオ・モンディアルはプロジェクトFという計画によって生み出された人間――クローン。
 八神はやてやヴォルケンリッター。彼女らも曰くつきである。
 その曰くつきの只中にあって、シン・アスカという男は際立って変わっていた。

 簡単に言えば度が過ぎるのだ。
 誰かを守ろうとする気持ち。
 それ自体は悪いモノではない。むしろ褒めて然るべき物だ――度が過ぎて居なければ、だが。
 シン・アスカは訓練であっても誰かが傷つくのを良しとしない。
 それが作戦なのだと分かっていても尚、彼は庇おうとする――殆ど条件反射と言っていい。
 そうして、訓練自体が上手く行かないことも多々あった。当初など繰り返されるシンの暴走のせいで、いつまで経っても訓練が終わらずに彼だけ別メニューを消化させたことすらあった。
 その後、ギンガから説教を受けているシン・アスカを見て、思った。
 
 この人は良い人なのだ、と。
 
 度が過ぎるほどの優しさと誰かに向ける笑顔。
 キャロ・ル・ルシエにとってシン・アスカとはその時から頼れる兄、という位置となった――恐らくエリオにとっても。
 
 そうして訓練の合間に彼と話すことは増えていった。
 同じ分隊だったからか、スバルやティアナよりも話す機会は多かったのだろう。
 当然、その傍らには常にエリオもいた。彼自身もシンのことを兄のようにして慕っていたように見えた。
 キャロとエリオはそうしてシンと仲を深めていった――それこそ本当の兄弟のように。
 
 色んな話をした。
 シンには妹がいたこと。その妹に色々とご飯を作ってあげたりしていたので、彼も一通りの料理が出来ていたとか。
 昔の友達は馬鹿だけど気の良い奴が一杯いたこと。
 そうして、彼女達と話すシンは、気の良いどこにでもいる青年だった。
 
 エリオにとっては憧れにさえなっていたかもしれない。
 だから、そんな彼に恋をしたのはいいことだと思っていた。
 フェイトを慕うキャロにとってフェイトの恋路の行方は自分の恋路の行方――彼女は未だ恋がどんなものかも自覚していないが――よりも余程大事だったから。
 正直、煮え切らない――と言うよりも異常に鈍感なシンを見ているとわざとやっているんじゃないかと勘ぐりたくなる時もある。
 フェイトやギンガの態度を見れば一目瞭然だろうに、と。
 
 けれど、そうやってシンとじゃれ合っている二人を見ているとそんな鈍さなど関係無しに楽しそうだった。
 ずっとこのままが続けばいい。彼女はそう思っていたし、多分二人も、そしてシンもそうだったのかもしれない。
 
 ――けれど、それはある日崩れた。
 
 ある日からエリオの様子がおかしかった。
 いつ話しかけても上の空で、何事にも集中できていないような感じだった。
 そして何よりも変わったのは自分を見る瞳。
 何があったと聞いても彼は何も言わなかった。
 だから、キャロはフェイトやシンに頼むことにした。
 
 本当に歯車が狂いだしたと思ったのはそこからだった。
 翌日、今度はシンの様子がおかしかった。浮かない顔で落ち着きが無い様子。
 終いには魔法の発動に失敗して暴発させてしまうと言う有様だった。明らかにおかしかった。
 それまでのシンにはそんなこと一度も無かったから。
 おかしかったのは彼だけではなかった。

 ギンガもまたおかしかった。
 シンの方を見て彼と目が合いそうになれば目を逸らし、決して顔を合わせないようにしていた――いつもフェイトと共に彼を奪い合っていた彼女が、だ。
 フェイト自身もそれに気付いたのか、怪訝な顔で彼らを見ていた。何があったのか、と。
 その翌日、今度はフェイトまでおかしかった。
 ギンガと同じようにしてシンの方を見ている――かと、思えば直ぐに視線を逸らし、うな垂れている、かと思えば元に戻って平静を装う。
 
 キャロ・ル・ルシエはそれが気になって、二人を追いかけたのだ。
 ちょうど、ギンガがフェイトを呼び止めたのが見えたから。
 
 気配を殺す――と言うようなことは彼女には無理だが、他の事に集中している誰かを除き見るようなことは可能だ――と言うよりは誰だって可能だろう。
 何しろ、あの二人はシン・アスカのことになると途端に周りが見えなくなるのだから。
 
 会話の内容は、予想通りと言って良い内容だった。
 つまり、最近彼ら三人が様子のおかしい理由について――彼女達が何をしたのか、それについての会話だった。


「……じゃあ、フェイトさんもしちゃったんですか?」

 頬を歪め苦笑気味のギンガと俯き落ち込んだフェイト。
 場所は6課隊舎内にある自動販売機の近くの休憩所である――今は誰もいない。
 誰かがいるような時間帯ではない。彼女たちはそういった時間帯を狙ってここに来ている。
 
「……うん。」

 俯いたまま酷く申し訳無さそうにフェイトは頷く。
 ギンガはコーヒーを口元に運びながら歪めた頬を震わせ苦笑している。
 目の前のテーブルに置いてあるのは紙コップに入ったコーヒーと紅茶。
 未だ湯気が立ち昇っていることから察するに話し始めてからそれほど時間は経っていないのだろう。

「……それで返事もらったんですか?」

 そのギンガの問いにフェイトはぶるんぶるんと顔を振って否定する。金髪の長髪がその動きに合わせてなびく。

「言ってくれなかったんですか?」

 数秒の沈黙――首を振って否定するフェイト。
 シンはフェイトの告白に対して返事をしなかったのではない。
 彼女自身返事を貰うことが怖かったから彼の元から消えたのだ。

「もしかして、逃げてきた?」
「……うん。」
 
 予想を口に出してみたら大当たりだった――と言うかその予想自体殆ど確信を伴った予想だったが。
 冒頭で「フェイトさんも」と言っている通り、ギンガが告白したことをフェイトは予想していた。
 恋敵が先んじて告白して、想い人が動揺して――実際そういった状況なら自分はどうしただろうか、という予想である。
 大体当たっているだろう、とは思っていた。

「……私、シンの前で泣いちゃった。」

 はあ、と溜め息を吐くフェイト。
 彼女にしてもまさか自分が泣くとは思っていなかったからだ。
 今でも鮮明に思い出すことが出来る告白の瞬間。
 言葉を放った瞬間、胸が苦しくなって、どうしたらいいのか分からなくなった。
 瞬間、目の前にシンの唇が見えた。発作のようなモノだったのだろう。自分は彼の唇に自分の唇を触れ合わせた。

 ――触れるだけのフレンチキス。身体はあんなに近づけるのにココロはまるで近づけない。
 
 応えてくれないこと、自分を選んでくれないことが怖かったのではなく、その事実が悲しかったのかもしれない。

(……そういや私キスしちゃったんだよね。)

 今更ながらにその事実にドクン、と胸が大きく跳ねた。
 頬が熱い。思わず唇を右の掌で覆うようにして触れる――その掌を見る。

「……う、うふふ」
「……なんか怪しいですね。まさか、キスでもしたんじゃないでしょうね?」
「な、何でわかっ……そ、そんなことする訳無いよ、ギンガ。私を誰だと思ってるの?」

 胡散臭い。物凄く胡散臭いと言うか隠せてない。むしろ隠すつもりがあるのだろうか、このド天然金髪娘は。
 ギンガはそんなフェイトを見つめていた。鷹の様に鋭い瞳で――フェイトが目を逸らした。瞬間、ギンガの口が開く。

「ちなみにどんな味でした?」
「えーとね、ファーストキスはママの味って言うけどちょっとしょっぱかっ……」

 沈黙。硬直。フェイトの身体が固まった。

「……ちなみにママの味はミ○キーです。」

 痛かった。ギンガのツッコミが果てしなく痛かった。
 フェイト・T・ハラオウンは自分の迂闊さを呪った。物凄く呪った。


「……恋する乙女って馬鹿になるんですね。」

 辛らつなキャロの突っ込み。
 ギンガの誘導尋問にすらなっていない簡単な誘いに乗らされ――と言うかむしろ自分から飛び乗って暴露したフェイトを見れば、大抵の人間がそう思うだろう。
 自分から見ればかなりのしっかり者であるフェイト・T・ハラオウンも“恋”の前ではこれほどに無力なのだ。
 ちなみに彼女がいるのは自動販売機の近くの曲がり角である。
 傍から見れば不審者であるが、周りに誰もいないので彼女が咎められるようなことはない。今はそういう時間である。
 「休憩時間以外にこんなところに来るなんて痴情の縺れか、相談話くらいよ。」、と、ティアナ・ランスターが言っていた。
 そして、実際その通りだった。ここは殆ど無人。密室と言っても良いほどに。

「……」

 キャロの視線が再び二人に向けられる。いつの間にか、二人の硬直が終わり会話が再開していた。
 再び、キャロ・ル・ルシエはその会話に聞き入ることに集中する――。


「まあ、予想通りというか……多分、フェイトさんは泣くんだろうなあって思ってました。」
「……ギンガは?」

 誘導尋問されたのが悔しいのか、少しだけ表情が強張ったフェイトがギンガに質問した。
 対するギンガの返答は爽やかなモノだった。

「私ですか?……スッキリしましたね。」
「スッキリ、したの?」

 その返答にフェイトは眉根を寄せた。
 自分とはあまりに違う感想の言葉だったからだ。

「……私、我慢出来なくて言っちゃったんです。どうしても今言っておきたいって。今言わなきゃ、多分一生言えない……そう、思ったんです。」

 今思えばそんなことは無かった――けれど、何故か彼女はあの時そんな気持ちを抱いた。
 多分、それは感情的になっていたシンに充てられたせいかも知れない。

「だったら……私もそうかな。すっきりしてるのかも。」

 彼女の胸にもやもやした気持ちはもはやない。
 胸に抱いていた想いを吐露したのだ。結果がどうあれ、やるべきことをやった――そんな満足感は確かにあった。
 無論、それと同じかそれ以上に怖さはあったが。

「二人揃って告白して……どうなるんですかね?」
「……私はちょっと怖いな。ギンガは……強いね。全然怖く無さそうだ。」
 
 俯き、フェイトの声に翳りが宿る。顔に映るのは力無き微笑――苦笑。その表情はギンガも同じだった。

「……怖いですよ。私も。」
「選んでくれないと思うと?」

 首を振る。そうではない、と。

「ううん、結果は分かってるんです。……きっとシンは選んでくれないって。」

 微笑む――苦笑ではない。諦観でもない。
 彼女はその結果を受け入れている。
 この恋の末路はきっとそうなるのだと。
 初めから“そういうモノ”だと受け入れている。

「……だよね。」

 頷き、フェイトはテーブルの上の紅茶に手をつける。
 椅子の背もたれに体重をかける――自動販売機特有の甘い紅茶が喉を流れていく。

「だから、告白したのは私の勝手な衝動です。シンには責任なんて何も無い。私は私の気持ちの為に告白した――フェイトさんもそうでしょう?」
「うん、私も……そうだね。」

 ギンガに同意するフェイト。
 彼女もまた理解している。理解してこの恋の炎に身を焦がしている。
 この想いが遂げられることは無い。
 シンはきっと拒絶する――そう知っていて、尚それを受け入れているのだ――この恋はどこにも繋がらない、そんな末路を。
 フェイトの返答を受けて、ギンガが次の言葉を捜す――顔を歪める。痛みに耐えるように。
 その表情を見て、フェイトは次の言葉がどんなモノか、おおよそ理解する。

「怖いのは……シンが辛く感じる、そこだけです。」
「……そだね。」

 同意の頷き。
 彼女達にとって、一番の恐怖。それはシンへの影響だった。
 別に自分達は良いのだ。
 自分達は彼がそんな反応しかしないと知っていて好きになった。
 報われない恋であることに悲しみなんて無い。
 報われないことなど初めから織り込み済みで好きになったのだ。
 
 仮に断られることで胸がどんなに苦しくなろうともそれは全て自分の責任なのだ、と。
 だから、怖いのは一つ。
 シンが彼女達の想いに引き摺られて苦しまないかどうか――それだけなのだ。

「でも。」

 沈黙が破れる。ギンガが口を開いた。瞳に決意が混じりこむ。既に決めてある一つの決意が。

「そうなったら……振られていようとどうなっていようと関係ないですよ。私はあの人を守るだけですから。」

 シンを守る。彼があの道をいつまでも進めるように自分は彼を守り続ける。彼が変わらないことを望む限り、自分はそれを肯定する。
 必要ならば何であろうと行おう。彼を守る為ならば――そんな無償の恋。それがギンガ・ナカジマの恋慕だった。
 対するフェイトの答えは真逆だった。

「……私は、シンを変えたいな。」
「変えたい?」
「シンは今までずっと大変だったんだよね?だから……もっと楽しい世界に行って欲しい。それで私を守って欲しい。」

 シンに守られたい。彼があの道を行こうと行くまいと、彼と共に楽しく過ごし、その上で自分を守って欲しい。
 その為ならば何であろうと与えよう。彼が望むならば何であろうと。
 根幹にあるのはギンガと同じく完全の肯定――そんな無償の恋。それがフェイトの恋慕。
 それはどちらも通常の恋慕とは懸け離れ、歪んでいる――けれど、それは当然だ。
 その恋慕の対象となる男からして歪んでいるのだ。真っ当な恋愛に行き着く方がどうかしている。
 
 二人の視線が合わさる――途端に上がる笑い声。
 それまでのような緊張感はそこにはない。あるのは、爽やかさすら感じさせる笑い声だけだった。

「うわあ、凄い我侭ですね、フェイトさん。」
「ギンガだって十分我侭だと思うよ?だってシンの気持ちなんて関係ないんだし。」

 互いに互いを見合わせる。共に笑顔。漏れ出す声は笑い声だけ。

「――約束、しませんか?」

 笑顔のまま、ギンガが呟いた――現れる真剣な表情。決意の瞳。

「もし、私達二人のどちらかにこれから先何かあったとしたら……残った方がシンを支える、もしくは変えるって。」

 それは約束、と言うよりもむしろ誓い――誓約の色合いが強い。
 決して違えてはならない一つの誓い。
 互いの想いを知るが故に。彼の末路を知るが故に。
 ギンガ・ナカジマは、この恋に自身の命を懸けると言っている。
 そして、それをフェイト・T・ハラオウンにも懸けてくれないか、とそう言っているのだ。
 一拍の間。言葉の意味を理解する為の間隔。逡巡は無かった。フェイトはその問いへの答えを一つしか持っていなかったから。
 ――答えなど決まっているのだから。

「……うん。いいよ。」

 恐れることなく、気負うことなく、彼女は当然のこととして、誓約を胸に刻みつける。
 ――命を懸ける。その誓いに嬉しさすら感じながら。

「……」
 
 無言。言葉は無い。
 彼女――キャロ・ル・ルシエは二人の気持ちの強さに驚きを通り越して感銘すら受けていた。
 目前の二人は――多分、本当に恋に命を懸けるつもりなのだろう。
 
 その姿は正直言って子供であるキャロから見ても馬鹿だった。
 間違えようが無いほどに、狂気すら伴った大馬鹿だ。
 だが、それは馬鹿は馬鹿でも爽やかな馬鹿――そう言って良いモノだった。

 彼女達がやっていることは至極単純なこと。
 自分の気持ちに嘘を吐かない。ただ、それだけ。
 たとえ失敗しても誰かが後を継いでくれる――羨ましくなるほどに爽やかで晴れやかな強敵(とも)。

 狂気すら伴って、というのはそこに懸ける重みのことだ。
 自分の気持ちに嘘を吐かない。その為に命すら懸ける――捨てることさえ厭わない。狂っているといっても過言ではない。
 だが、それは含んでいるはずの狂気すら飲み込んで、ただただ綺麗で美しかった。
 目前で彼女達を見つめるキャロが付近への注意を怠る程度には。

「……そう、なんだ」
 
 背後で声。振り向いた。そこには見知った顔。

「エリオ、君」

 エリオ・モンディアルがそこにいた。顔は引き攣り、泣き笑いのような表情を浮かべている。
 多分、今の二人のやり取りを聞いたのだろう。
 “シン・アスカの為に命を懸ける”、と言うそのやり取りを。

「……エリ、オ、君?」

 引き攣った表情と小さく震える手足。瞳孔の開いた目。
 それはいつものエリオ・モンディアルからかけ離れた姿だった。

「…やっぱり、そう、なるん、だ。」

 途切れ途切れの言葉。
 キャロ・ル・ルシエとエリオ・モンディアル。二人は同じくフェイトの養子である。同じように愛情を受け、同じように育ち、そして出会った二人の子供。
 けれど、彼らには絶対的な違いが存在している。
 即ち、性別だ。

 キャロ・ル・ルシエにとってフェイトは母であり、姉であり、安心できる存在であり――1人の人間である。
 同姓であるが故に、共感出来るからだ。
 同じくエリオ・モンディアルにとってフェイト・T・ハラオウンとは、母である――だが、女性と男性では同じ母と言う概念であっても受け取り方が違ってくる。

 エディプスコンプレックスと言うものがある。
 男児が自身の母親を自身のモノにしようと強い感情を抱き、父親――母が受け入れる男性と言う概念である――に対して、強い対抗心を抱く心理状態の事である。

 エリオの心理状態は言うなればコレに近い。
 親を奪われる恐怖。彼にとっては世界で最も大事な神と言ってもいい母親。
 ギンガとフェイト、二人のやり取りはソレが奪われる――奪われたと確信できる瞬間だった。

「う、そ、だ。」

 エリオはキャロの呼びかけにすら答えない――答える余裕など無い。あるはずが無い。
 母が母をやめる瞬間――そんな場に立ちあってマトモでいられる子供などどこにいるだろうか。

「だ、大丈夫、エリオ君?」

 キャロがエリオを心配して、彼の元に駆け寄る――後方の二人は気づいていない。話に熱中しているから。

「……あ。」

 音がした――パリン、と割れる音。
 鼓動が蠢きをやめた――侵食が終わる。
 内部でナニカが目覚めた――閉じられていた扉が開く。
 フラッシュバック。記憶の逆流。流れる記憶は一瞬。
 けれど嘔吐しそうなほどの情報量がその一瞬に込められている――凄まじい密度。
 思い出すというそれだけの行為で意識を喪失しかねないほどに。
 世界が逆転する。けれど、エリオ・モンディアルは変わること無く。
 
 ――記憶の扉が開かれる。
 
 失った指。穴だらけの身体。涙を流して生を望んだ浅ましい自分。

「――あ」

 飲まされた血液――否、血液ではない。ソレによく似ただけのナニカ。
 体内で定着し、増殖し、侵食し、刻み込まれていったソレ――『レリックブラッド』。
 聞いたことも無いはずの単語が脳裏に浮かび上がる。
 聞いたことも無いはずの知識。なのに昔から知っているように感じられる言葉。
 その事実をおかしいと思う暇すらなく、エリオの変革は止まらない。
 力が抜けていく――力が入らなくなっていく。
 膝が落ちる。糸を切られた操り人形のようにして崩れ落ちていく。

「――エリオ君!!エリオ君!!」

 叫び声。キャロの声が遠く聞こえる。遠雷のように遠く遠く最果てから届くような声。
 それで気づく。意識が遠のいていっていることに。

「――!!――!!」

 もう、声は聞こえない。聞こえるのはナニカが叫んでいると言う事実だけ。
 落ちていく意識。
 声が、聞こえた。
 
 ――あの男はキミの大切なものばかり奪っていく。この世界の人間では無い――余所者の癖に。そう思ったことはないかな?
 ――奪われた大切なものを取り戻したくは無いかね?自分の望みを叶えたくはないかね?
 ――キミに力を与えよう。全てを覆す青き自由の翼。その力を。
 
 目に映る世界が変化していく。
 ぼやけていた景色がはっきりと見える。文字通り、視力そのものが変化していく。
 脳髄に“情報”が雪崩れ込んでくる。
 エリオ・モンディアルに抵触することなく雪崩れ込んだ情報は彼の中に沈み込む――世界が塗り変わる。

(力が、欲しい。)
 
 エリオの口に出すことすら出来ない呟き――紛うことなき彼の本音。そこで意識は断ち切れた。
 ――その時、キャロ・ル・ルシエはおかしな幻影を見た。エリオが意識を失って、倒れようとする瞬間。
 その姿が一瞬だけ柔和で綺麗な顔立ちの“別人”に見えた幻影を。


 薬品臭い匂いが立ち込める部屋――何かの実験室とでも言うべき場所。中央に置かれた椅子に座る男と女。
 仮面の男。ラウ・ル・クルーゼ。
 眼鏡の女。クアットロ。

「……シン・アスカに最高の絶望を与える、か。キミ達の主人は中々エグイことを考えるものだ。」
「目的の為には仕方ないことですわよ?」

 仕方ない。その言葉の通りに彼女にはまるで罪悪感は感じられない。
 目前に座る女――彼にとってのパートナーとでも言うべき“監視役”。
 ナンバーズ・クアットロは本心からそう思っている。
 シン・アスカという一人の人間に徹底的に苦しみを与え、壊し尽くすことに何の感情も持っていないのだろう。

「ククク……その通りだろうが、キミが言うと別の意味が込められているように聞こえるな。」

 そう言うと心外だとばかりに彼女は、瞳を光らせクルーゼを睨みつけてきた。

「人聞きの悪いこと言わないで欲しいですわ。あんなに回りくどい手管でシン・アスカを陥れようとしてる貴方が言います?」

 クルーゼは肩を竦めて、反論する。彼の方にも罪悪感は感じられない――纏う雰囲気は愉しげな雰囲気。今の状況が愉しくて仕方ないのかもしれない。

「それこそ、仕方ない。何せそちらのクライアントからのたっての要望なのだからね。“シン・アスカに最高の絶望を与える”というのは。大体、羽鯨の餌として彼を完成させる為には仕方ないことなのだろう?」
「ええ。その通りですわ。」
「ふふん……なんとも愉快な話しじゃないか。自分の世界を救う為に別の世界を犠牲にするとは。」

 本当に愉しそうにクルーゼは薄く笑い――そして、周囲を見渡す。部屋の隅に追いやられているベッドと診察台。
 それが彼の愉悦を更に加速させる。それこそが全ての始まり。現在のラウ・ル・クルーゼの始まりの記憶だった。


 気が付けばそこにいた。最後の記憶は敗北の記憶。そのまま死んだ。そう思っていた。
 彼の前には一人の男が立っていた。
 男は呟いた。唐突に。

「キミ達の世界と私達の世界。この二つの世界を繋ぐ存在について知っているかね?」

 そう言って白衣の男は人差し指と親指をパチンと弾く。
 瞬間、空間に投影される画面――そこには羽根の生えた鯨の姿がある。
 ワイヤーアートのように網目状の線で構成されているそれを手で示し、話を続ける。

「次元を呼吸し、世界を喰らい、螺旋模様に時空を回遊する高次生命種。かのアルハザードそのもの、である獣。それがエヴィデンス01――羽鯨だ。」

 羽鯨。エヴィデンス01。
 その言葉を聞いても白衣の男の前で死んだように横たわっていた男――ラウ・ル・クルーゼは微動だにしない。
 その姿は無残なものだった。

 上半身は裸で下半身にはシーツを巻きつけている。長くウェーブがかった金髪。
 そして何よりも目を引くのは身体の所々から突き出している突起の数々。
 
 それは灰色の装甲板であったり、黒い銃身のようであったり、灰色の砲口であったり――まるで統制の取れていない機械達の群れ。
 白人特有の白い肌と機械のコントラスト。異形と言う言葉以外に形容できない身体。

「キミ達の世界に居る羽鯨は眠っているだけに過ぎない。大体、アレが死んでいると言う考えの方が私に言わせればおかしい。死という概念などアレには通用しない。アレはこの世界の法則とは一線を画す存在――ある意味では神と呼んで然るべき存在だ。キミら如きの低俗な物理で解析できるはずもあるまい。……そういう意味では彼――ギルバート・デュランダルには先見の明があったと言わざるを得ないな。」

 金髪の男――ラウ・ル・クルーゼは聞いているのかいないのか、反応しようともしない。
 その目は虚ろ。眼窩は窪み、髑髏のような様相を呈している。

「あの男はアレが生きていることを知ったからこそ、デスティニープランなどという馬鹿げたプランを強行したのだろう。“次元外生命体”などというバケモノの存在を認めた上で、行動した――世界を救う為にね。まあ、キミの嫌いな英雄共に駆逐されたようだが。」

 英雄――その言葉にピクリ、とクルーゼの身体が動いた。

「そして、あの男は今もこの世界で抗い続けている。自分の世界を救う為にだ。全くもって度し難いほどに、素晴らしいほどに大馬鹿だ。」
 
 そして白衣の男の語りが加熱する――芝居がかった動作を伴って。聞いている聞いていないは最早関係無い。
 話したいから話す。そんな好き勝手な言葉なのだろう、それは。

「羽鯨は世界を喰らう。アレにとっては“世界”というモノは単なる餌に過ぎない――厳密には、そこに生きる人間の感情を栄養とする。そう、強い感情をこそ羽鯨は求める。彼らの栄養源は即ち人間の感情そのもの。奴らは人間の感情――その中でも最も強い“欲望”に惹かれて、世界に固着し、“現れる”のを待つのさ。その世界に必ず生まれる“無限の欲望(アンリミテッドデザイア)”を。」

 クルーゼは虚ろな瞳で白衣の男を眺める。少しだけ開いた口から漏れるのは吐息のみ。意思が発露されることは無い。

「この世界で言えば私であり……キミらの世界で言えばシン・アスカという少年がそれに当たる。」

 クルーゼにとっては聞いた事の無い名前――当然だ。その男は彼の死後にザフトに現れた。出会う要素などあるはずも無い。

「だが、キミらの世界は少々イレギュラーでね。その少年は“無限の欲望(アンリミテッドデザイア)となる前に“壊された”。結果として、キミらの世界は羽鯨の狙いから外れた――そしてこの世界が選ばれた。私を“的”にしてね。」

 『的』。その言葉を放った瞬間――白衣の男の瞳に狂気が滲み出す。同時に彼の左の目におかしな模様が現れる。
 同心円状に散りばめられた極彩色。
 外周部から中心へ向かう毎に色が変わる。
 見る人によってはそれは七色であったり、六色であったり、五色であったりするだろう。
 虹色の瞳。その瞳を一言で言い表すならばそれが最も適当な表現だった。

「これがその証だ。この目はありとあらゆる世界を見通す目でね。羽鯨が目をつけた餌に現れる証だ。」

 中心に位置する色――赤色。それが通常の黒目のようにぐるりと動く。

「これは、ありとあらゆる世界全てを見通す。“縁”が存在するならば、過去であろうと未来であろうと、その全てを。この目を手に入れたことで私はキミらの世界の技術を学び、その結果としてキミらのような存在を生み出すことが出来た。」

 クルーゼの身体から突き出る突起を嘗め回すようにして眺める――声色が変わる。熱気を伴いつつもあくまで愉悦を突き詰めるだけだった言葉に憎悪が篭り出す――その男に最も似つかわしくない憎悪が。

「だが、それでこの世界が喰われては困る。このくだらなくも美しい世界が私以外の原因で蹂躙されるなど許し難い。」

 白衣の男が芝居がかった動作で手を振るう――空間に投影されていた画面が掻き消え、新たな画面が現れた。
 そこに映るのは映像だった。これまでのような羽鯨の映像ではない。
 クルーゼにとっては馴染み深い機械の巨人――モビルスーツの姿。
 赤いモビルスーツ――アスラン・ザラの搭乗機ジャスティスにどこか似ている――と、頭部のカメラアイの部分から朱い涙を流しているような意匠のトリコロールカラーのモビルスーツの戦いだった。
 
 戦いの結末は無残なものだった。トリコロールカラーの機体は一瞬で破壊され、敗北した。

 ――何故かその光景を見て、クルーゼのココロが動いた。
 全てを失い何も出来ないまま死んだ負け犬のココロに響いた。
 
 白衣の男はそんなクルーゼの僅かな変化に気づいているのかいないのか、話を続ける。

「だから、私は世界を救うことにした――シン・アスカを“無限の欲望(アンリミテッドデザイア)”として完成させ、羽鯨の餌として完成させる。そして、彼を羽鯨に“与える”。そうなれば羽鯨は彼を喰らい、十二分の満足と共にキミ達の世界を蹂躙して終わりにするだろう。」
 
 再び、男がパチンと指を鳴らす。瞬間、画面が消える。室内に暗闇が舞い戻る。計器の輝きだけが部屋を照らし出す。

「では、改めて自己紹介をしよう。私の名前はスカリエッティ。ジェイル・スカリエッティだ。ラウ・ル・クルーゼ――いや、ウェポンデバイス・プロヴィデンス。私に力を貸してもらえないかな?その命の代価として。」

 有無を言わさぬ口調。白衣の男――ジェイル・スカリエッティはそう言って手を差し伸べてきた。
 何もかもがどうでもよかった。
 手を、掴んだ。
 生きていたかった訳ではなかった。――死ぬほどの気力も無かっただけだった


「最高の絶望によって肥大した欲望――それを羽鯨に送り届ける。それでこの世界は救われる……どちらにせよ、あちらの世界は滅びる、か。」
「……クルーゼ、貴方何かよからぬこと考えてるんじゃなくって?」
「いいや、何も。私にしてみればあの世界が消えてなくなるなら問題は無い。」
「……まぁ、いいですわ。」

 その時、電子音が室内に響く。
 ピピピと言う電子音。端末を操作する――メールが届いている。

「……ようやく、来たか。」

 メールボックスを開き、メールを読む。その文面は簡潔なモノだった。
 『貴方達の元へ連れて行け。』
 文面の最後には誰からのメールかを識別する為にイニシャルが打ち込んであった。
 書いてあったイニシャルは『E・M』。

「あら、貴方の計画通りですわね?」

 そのクアットロの言葉と共にクルーゼが微笑んだ。ニヤリ、と邪悪そのものと言った微笑みを。

「……駒は揃った。さあ、のた打ち回って苦しんでもらおうか、シン・アスカ。」

 性格の悪い男だ――自分も人のことは言えないが。
 柄にも無くクアットロはそんなことを思った。
 目前で嗤うラウ・ル・クルーゼ。彼の邪悪な微笑みにゾクゾクしたモノを感じながら。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 32.慟哭の雨(a)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 17:58
 これは運命に裏切られ続けた一人の男の物語。

 守りたかった者を守れず、
 守らなければいけない者から逃げ出し、
 そしてその選択の重みから逃げ出した一人の男。

 辿り着いた別の世界で男が見つけた一つの答え。
 守ること。誰かを。目に映る全てを。

 それは誰かの為ではない。ただ自分の為だけのその行為。
 それが自己満足だと理解して尚、男はその願いを諦めはしなかった。
 男が願うのはただその道を走り続けること。命の有無は問題ではない。大切なのはその過程。それのみなのだから。

 男の前に、今、運命がその姿を現した。
 赤い髪。青い瞳。年齢は恐らくシンと同程度。忘れられない容貌。シン・アスカの記憶に刻み込まれた怨嗟そのもの。
 何を懸けてでも殺したかった人間。世界で最も優れたコーディネイター。
 シン・アスカという男の今に至る全ての開始地点(ストートライン)。
 越えるべき壁。そして、超えられなかった壁。髪と瞳の色は違えどもソレは紛れも無くキラ・ヤマトそのもの。
 けれど、そこから漏れ出る声は、見た目にまるでそぐわない子供の声で。
 
「フェイトさんやキャロは僕が守ります。……貴方はそこで跪いていてください。ああ、いいですよ。答えは聞いていませんから。」

 赤い髪のスーパーコーディネイターが握り締めた巨大な大剣型のデバイス。
 ストラーダのような姿形でありながら、より大きく、より鋭く。羽根のような装飾。
 色合いは青と白のコントラスト。
 どこか機械的な――それもこの世界の機械には無い意匠――冷たさとでも言うべきものをありありと浮き出させるその大剣。

 その名を“ウェポンデバイス・ストライクフリーダム”。
 大剣という極小空間にモビルスーツ・ストライクフリーダムとしての全てを押し込めた最強にして最高のウェポンデバイス。
 ジェイル・スカリエッティの作り出した数々の技術の集大成にして最高傑作。

 人間サイズのモビルスーツなどと言う生易しいものではない。
 モビルスーツと言う巨大機動兵器を魔力によって完全に支配し、制御したデバイスという技術の一つの究極。
 モビルスーツを蹂躙する魔導師を作り出すデバイスである。
 
 振るう魔法は全てモビルスーツを屠る威力と規模を誇りながらも、その精度は正確無比。 
 このデバイスとそのスーパーコーディネイターの前ではシン・アスカ程度の魔導師など塵芥に過ぎない。
 いや、殆ど全ての魔導師を塵(ゴミ)同然だと言ってのけられるほどに、それは強大だった。

 シンはソイツが生み出した“災害”に眼を向ける。
 一振り。ただそのデバイスを一振りしただけで世界の全てが激変した。
 高熱によって融解し、ガラス状に変化した地面。
 倒壊し崩壊したビル郡――ミッドチルダ首都クラナガンの面影など、もはやどこにも残ってはいない。
 そこにあるのはただの瓦礫の山だ。
 見えるモノは
 
「エ、リオ……?」
「じゃあ、さよならです。シンさん。」

 呆然とするシンを尻目にウェポンデバイス・ストライクフリーダム/エリオ・モンディアルが、右手に持った羽金/大剣を掲げた。
 寄り集まり、光輝く羽金の群れ。黄金を撒き散らし世界を破壊する白金の翼。
 
「貴方はもう必要ない。」

 ――男の運命が、今、加速する。



 その日は雨だった。
 昼間だと言うのに真っ暗な空。振りしきる激しい雷雨。稲光が何度も何度も輝き、暴風が吹き荒れていた。
 MBC(ザ・ミッドチルダ・ブロードキャスティング・カンパニー)のニュースによると大型の台風が近づいて
いると言うことらしい。住人の皆様はご注意ください――そんな無責任なアナウンスが流れていた。
 今回の台風において、何よりも特筆すべきはその規模よりも進行速度の遅さ、だとか。
 ある意味、それは予兆だったのかもしれない。その日、起きたコトへの――絶望の予兆。
 その日、蜜月は終わりを告げ、物語は破滅へ向けて加速する。


「予想通りやな。」
「はいです。」

 そこは八神はやての執務室。
 中にいるのはリインフォースⅡとその主である八神はやて。
 彼らの前には広大な地図が置いてあり、中には数限りない×印、そして△印。
 
「けど、はやてちゃん、これはどういうことですか?」
「せやなあ……この図を見る限りでは何とも分からん。分からんけど……今までの襲撃が単なる示威行為とか管理局への反抗とかそういう類やないことくらいは分かる。」

 机の上に置かれたミッドチルダ全域の地図。所々に赤文字で×印がついているのは襲撃箇所だ。
 これまでに襲撃された場所を記している――その中には規模の小さい襲撃も全て含まれている。
 そして、そこに記されているのは襲撃箇所だけではない。
 
 昨今、世界各地で多発していた死者の出現――それが特に多かった場所も列記してある。
 襲撃箇所だけを×印で結んでも単なる散発的な襲撃としか思えないのだ……だが、そこに死者の出現記録を重ねると……驚くことに全てが“繋がった”。
 それは二重の同心円だった。
 ミッドチルダ全域を覆うようにして描かれた同心円である。
 そして、それが完全な円を描く為にはもう1箇所、襲撃を行う必要があった。
 また規模の小さい襲撃も含めると襲撃のスパンは凡そ10日――殆ど外れることはない。
 あるとしても一日程度の遅れである――ごとに行われている。
 記録によればミッドチルダにおける一番最近のガジェットとの交戦記録は一週間前、ということだった。

「……どちらにせよ、3日後には此処に敵が来る、と思っといた方がええ。リイン、カリムに連絡して出動許可を頼んどいてくれへんか?私はその間に全員に連絡を済ませておく。」
「連絡、ですか?」
「そうや。ようやく後手やなく先手を打てるんや。連絡は……必要やろ?」

 その横顔は少しだけ疲労を見せていた――リインフォースⅡはそんな主を悲しく思い、そしてそんな主に頼られることのない自分自身に情けなさすら感じていた。


 次の襲撃の日取りと場所が判明した――この事実ははやてにとってそれなりに収穫のある事実だった。
 度重なる襲撃。それに対して時空管理局は常に後手に回り続けるしかなかったからだ。
 そして、後手に回ると言うことはこちらは何の手立ても用意出来ないと言うことを意味する。
 その上、後手に回る以上襲われている人々の救助や警護で人員をそちらに割かなくてはならない状態となり、必然的に戦力というモノは減少する――少なくとも全力を出す、という訳にはいかない。
 全力を出せない状況であっても、6課のメンバーは結果を示してくれるかもしれない。だが、それでは駄目なのだ。
 少しでも6課メンバーの生存率を引き上げる為には全力を出せない状況を作る訳にはいかないのだ。
 
 ――甘さは時として判断を鈍らせるが、時として有効に働く場合も多々ある。これはそういった例である。
 
 兎にも角にも八神はやてはそういった思惑で、エルセアでの襲撃以降、次回の襲撃箇所と日時を調査していたのだった。
 
 無論、直ぐに分かった訳ではない。機動6課に揃っている戦力。それは非常に規格外の能力である。
 部隊のランク制限など御構い無しに揃えられたエース級の宝庫と言ってもいい。
 そして、そのような部隊が出動する戦闘となれば、自ずと規模の大きいモノに限られてくる。
 その結果はやては当初規模の大きい戦闘にのみ的を絞っていた――自分達の出動していない戦闘にはジェイル・スカリエッティは関係していないだろうと思い込んで。
 ……結果としてそれは間違いであったのだが。
 
 規模の大きい戦闘は散発的と言わざるを得ないタイミングで発生していた。まるで気まぐれに襲い掛かっているようなそんな印象を受けるほどに。
 ジェイル・スカリエッティを狂人と判断していたはやてはその結果にも納得していたのだが――ある時、彼女は気付いた。
 
 ある時、確認した他の小規模の戦闘記録――恐らくスカリエッティとは関係の無い戦闘を含む――の位置と時期に“何か”を感じ取ったのだ。
 そして、その予感は正解だった。
 規模の大きい戦闘は散発的に起きていた。勿論、小規模の戦闘も散発的に起きていた。

 だが、規模の大小に限らず戦闘は戦闘である。そこに違いは無い――戦闘という類で言えば同じなのだ。どちらにも命の危険があるのだから。
 そして、その結果、ジェイル・スカリエッティの狙いが判明した。
 前述したような同心円。彼らはそれを描くようにして襲撃を繰り広げていたのだ。
 時にガジェットドローンやナンバーズ、そしてウェポンデバイス。時にはぐれ魔導師やテロ組織などなど。
 手を変え、品を変え、スカリエッティは誰にも気付かれないように襲撃を繰り返していたということだった。
 以前ならば絶対に手を組まなかったであろう自分達以外の組織とコネクションを作り、利用すると言う狡猾さを発揮して。

 後手を踏み続けたのはそのせいだ――だが、今は違う。
 相手の本拠地がまるで判明していない現状で取れる最も有効とも言える対応策――待ち伏せた上での一網打尽。それが出来るのだ。
 
 ふう、と溜め息。
 会議室の扉の前で深呼吸――出来るなら、これを最後にしたい。痛切なほどにそう思い、はやては扉に手をかけた。
 扉が開く。
 椅子に座り居並ぶ面々。
 
 スターズ分隊――ヴィータを筆頭に、ギンガ・ナカジマ、スバル・ナカジマ、ティアナ・ランスター。
 強固な前衛と援護に優れた後衛によって構成される火力・防御力に優れる小隊。
 ライトニング分隊――フェイト・T・ハラオウンを筆頭に、シグナム、キャロ・ル・ルシエ、エリオ・モンディアル、シン・アスカ。
 攻撃力に特化した完全な突破型の小隊。
 彼らの視線がはやてに集まる。

「……既に通達されてると思うけど、三日後に襲撃がある。それも恐らくはこれまでと同じ程度の敵が出張ってくると思ってええ。」

 緊張が走る。彼らの脳裏に浮かぶ敵の姿。
 鎧騎士。ガジェットドローン。ナンバーズ。スカリエッティ。

「既に避難勧告は出されとる。住民の避難は明日には終了する予定や。今回、機動6課に与えられる任務は一つ。敵を倒す。これだけや。」

 はやての言葉が示す意味。避難や救助。そんな雑多なことは何も気にしなくて良い。ただ、倒せ、と彼女はそう言っている。

「……襲撃の規模はどのくらいなんですか?」

 ティアナが口を開いた。

「正確なところはわからんが、恐らく前回のエルセアと同程度――つまり、ガジェットドローンが数百、ナンバーズに、あの鎧人間、というところやな。」

 走り出す緊張――中央部、全員の視線が移動し、映像が映し出される。映像の内容は以前の襲撃における敵。
 鎧騎士。ウェポンデバイス――未だ機動6課はその名前すら知らないが――である。

「前回、こいつらと戦闘したスターズは分かってると思うけど、こいつらの強さは折り紙つきや。特に防御力。ギンガとスバルの一撃受けて、まだ戦えるって言うことか考えても突出しとると言って良い――恐らく、単純な戦闘能力だけで言えば今ここにいる誰よりも上や。」

 息を切る。言葉を紡ぐ。

「同じくナンバーズもや。何をどうしたのか知らんが以前よりもはるかにナンバーズは強なってると思ってええ。……そやろ、フェイトちゃん?」

 こくり、と頷くフェイト。
 その言葉に押し黙る面々――当然だ。
 この場に居る誰よりも強い。その言葉が示す意味は限りなく重い。
 個人の能力で言えば管理局でも有数の人材が揃いも揃った機動6課という異常部隊。
 そんな異常部隊よりも強いと言われれば黙る方が普通だろう。

「そやさかいに今回の戦いはこれまで以上にチームワークが要求されることになる。一人に対して複数で攻撃を行う、これを徹底する。そして大規模魔法を使える魔導師は優先してガジェット掃討に回ってもらう。」

 言葉を切り、映像を消す。はやてに向けて視線が集まる。
 受け止める視線――エリオの視線が少しだけ鋭い。
 胃が軋む。気にしない――思考の隅に追いやる。
 指揮官は弱音を吐いてはならない。弱みを見せてはならない。上に立つものとして当然のこと――使う側の常識。
 鉄面皮を被り、言葉を続ける。

「よって、今回はこれまでとは違う編成で挑んでもらうことになる。前述した通り、対ガジェット、対ナンバーズ、と言う具合にや。」

 一旦、そこで話を切って皆の目を見る。
 そこに怯えや恐れは無い。
 その視線に後押しされるようにして八神はやては口を開く。

「まず、対ガジェット部隊。シグナム、ザフィーラ。ヴォルケンリッター全員にアギト。ヴァイス君もこっちになる。そして、私、八神はやてとリイン曹長もこちら側や。そして、残りのフェイトちゃん、ギンガ、シン・アスカ、キャロ、エリオ、そしてティアナとスバル。この7人で対ナンバーズ戦をやってもらう。……以上、質問は?」
「主はやても前線に出られるのですか?」

 口を開いたのはシグナムだった。
 はやてが前線に出る――そんな必要は無いと言いたげな口調。

「そうや。現在、管理局の方で出動できる部隊を3小隊ほど貸してもらう手筈はついてるんやが、多分私も前線に出ることになると思う――まあ、ガジェットの数にもよるんやけどね。空士部隊を借りることになってるけど、全員ガジェット掃討に回ってもらうやろうし、前回と同等のガジェットが来るとするなら、それでもまだ少ないくらいやからな。」

 前回と同等――単純に考えて数百というガジェットの大群。
 そして、それは単なる予想である。実際はそれよりも多いかもしれないし少ないかもしれない。
 どちらか分からないと言うのなら、どちらにも対応出来るように準備しておく。正しい選択である。
 シグナムははやての言葉を聞いて黙り込んだ。確かにその通りだからだ。理解はしている。
 だが納得したかどうかと問われれば否だろう――それは騎士としての矜持でしかない。
 それが分かっているからシグナムは口を閉じた。
 はやてが続ける。
 
「基本的な方針としてはヴァイス君にはストームレイダーによる狙撃、シグナムは以前のようにアギトとユニゾンしてもらってガジェットの掃討――私も同じ役回りになると思うわ。そしてシャマルはそのサポート。ヴィータとザフィーラには遊撃として私達が取りこぼしたガジェットを全て撃破してもらうことになる。」

 異論は無いなという風に対ガジェット部隊に視線を向けるはやて。反論や意見は無い。その反応に、はやては心中でほっと息を吐き、次に残りの部隊――対ナンバーズ部隊に視線を向けた。

「次に対ナンバーズ部隊の方やが、こちらはフェイトちゃん、キャロ、エリオとスバル、ティアナ、ギンガの2小隊編成で戦ってもらう。」

 シンの赤い瞳が揺れ動いた。そこに自分の名前が無かったからだ。
 揺れ動く瞳――そこに八神はやての視線が合わさる。突き刺すような視線。
 シンはそれを受け止め、言葉を待つ――その内容に期待して。

「そして、残りのシン・アスカ。キミには囮になってもらう。」

 全員の視線がシンに集中する。
 視線の種類は様々だ。疑問、困惑、動揺。
 何を気負うでもない。当然のように彼は邪悪な笑いを浮かべた。
 ぞくり、と皆の背筋を怖気が走った。その笑みに充てられて。
 正確にはその微笑みが醸しだす虚無――これまでは八神はやて、シャマル、ギンガ・ナカジマ、フェイト・T・ハラオウンにしか見せていなかったソレ――に充てられて、だった。

 劇的な変化と言ってもいい。これまでは柔和で朴訥として不器用な青年――無愛想ではあるものの――だったというのに、だ。
 エリオからの問いに何も答えられなかったこと。ギンガの告白。フェイトの告白。
 数日という短期間の内に起きた幾つもの事柄。これは、それらが起こした変化――シンの心から余裕というモノを奪ったのだ。

 元々、シン・アスカとは純粋な人間である。単純と言っても良い。
 デスティニープランなどと言う無茶な政策を支持したのもその単純さがあればこそ。
 疑問はあっても代替案が思いつかなかった以上はそれに従う――兵士は何も考えない。思考の停止である。
 
 その傾向は今も同じで変わっていない。守る。その願いの為に全てを捧げて鍛えぬく。強く、誰よりも強くなる。
 そうしていれば、悩んでいる必要など無いからだ。
 迷いや悩みは彼にとって不要だった。思考することすら不要だと思っている。
 自身はただ守る為に戦うモノであればいい。悩みや迷いは自分を使う者――この場合は八神はやて――がすればいい。
 そんなシンにとって此度の数件は彼に多大な悩みを抱かせた。

 エリオからの質問――自分は答えるべきモノが無い。
 ギンガからの告白――応えるべきか否か。
 フェイトからの告白――応えるべきか否か。
 
 立て続けに放たれた、雪崩のような言葉の群れ。
 モノであろうとするシンに答えるべき言葉などあるはずが無いのに、だ。
 ギンガとフェイトからの問いへはどうすることも出来ない。
 その想いに応えるなどという応えは初めからシンの中には存在しない。
 自分にそんなモノは必要ないと理解しているからだ。
 
 ならば、何故悩むのか。簡単なことだ。
 
 怖いのだ。彼女達を裏切ることが。裏切られ続けたシンにとって誰かを裏切ると言う行為は恐怖の対象でしかないのだから。
 手に入れた大切な人を失うことよりも、何よりも誰かを裏切ると言うことが怖いのだ――それが、どれだけ彼女達に失礼なことなのか、分からないまま。
 エリオに対しても同じことが言える。シンの中に彼に応える答えなど存在しない。するはずがない。
 思考を停止して逃げ続けるだけの人間が誰かに何かを教えられるはずが無いのだ。
 
 だから――今、シンは嬉しいのだ。戦えるから。守れるから。そうしていれば、何も考えなくて済むから。

「囮、ですか。」

 口調は穏やか。言葉の意味にもさしたる棘は無い――けれど、その言葉はそれまでのどんな言葉よりも毒々しさに満ちていた。
 空気が変わる。空間が侵食する。顔色が変わる――その場にいる全ての人々の。

「そうや。キミを的にして動くであろうナンバーズやあの鎧人間の的になって、生き延びる。それがキミの任務や。」
「俺を狙ってくる敵をフェイトさんやギンガさん達が挟撃するってことですか。」

 “嬉しそう”にシンは言葉を返した。
 その返答にシグナムとヴィータが顔をしかめ、シャマルは少しだけ悲しげに、ザフィーラもどことなく悲しげだった――恐らく彼らはこういった人間を知っているのかもしれない。

 ギンガとフェイトに関してはただ見つめていた。彼女たちはそんなシン・アスカを知っている。知っていて好きになった。
 
 だから、彼女達にとってシンの価値は変わらない――変わるはずも無い。
 
 ティアナとスバル、そしてキャロは唖然としていた。シン・アスカという人間にこんな一面があったことに驚いて。
 そして、エリオはただ“見ていた”。シンの醸しだす狂気にも似た虚無を。
 
 視線は静かに。言葉は生まれない。
 はやての話が続く。
「そうや。ナンバーズやあの鎧人間はこの場にいる誰よりも個人の能力は高い……格上の敵や。格上に格下が勝とうと思うなら、このくらいの無茶は必要やろ?」
 
 その言葉に二人の声が放たれる――ティアナ・ランスター。スバル・ナカジマ。キャロ・ル・ルシエ。シン・アスカの本質を知らぬ少女三人。

「八神部隊長、幾らなんでも危険すぎます!」
「そうですよ!シン君一人で囮なんて絶対に無茶です!!」
「八神部隊長、何でそんな、囮なんて……」

 三人が反論した。
 はやての視線がそちらに向く。

「どうして、そう思うんや?」

 その言葉に三人は言葉を失った。
 “どうして”。そんな言葉が返ってくるとは思わなかったからだ。
 場が静まる。誰も言葉を発さない。
 数秒の沈黙――誰かが口を開いた。

「……はやて、そいつらはシンが死ぬ危険性のことを言ってるんだ。私も聞きたい。何でシン一人なんだ?」

 言葉を発したのはヴィータ――鉄槌の騎士である。

「安全だからだろう。」

 傍らのヴィータに向けて、シグナムが呟いた。

「安全?」
「そうだ。アスカの能力を考えてみれば分かる。下手に小隊を組ませるよりもよほど単騎の方が強いに決まっている。」

 万能の単騎。小隊の組ませ方によっては力を発揮することもなく燻り続けなければいけない資質。逆に言えば単騎で戦うことに適した資質である。

「そりゃ、確かにそうだけど。」

 釈然としないヴィータ。シグナムの言葉は正しいとヴィータ自身理解している――だが、ならば、何故“シン”なのか。
 それがヴィータには納得出来ない。わざわざシンを選んだ理由が分からない。機動6課に在籍する万能型の魔導師とはシンだけではないからだ。
 ヴィータやフェイト。アギトとユニゾンした場合はシグナムもその範疇に入るだろう。

 能力という点で言えばシンよりもその三人の方が上なのも間違いない。
 だからこそ、分からない。何故主である八神はやてはシン・アスカをわざわざ選んだのか。
 
 瞳を動かし、シンの方に目をやる――椅子に座り、じっと静かにはやてを見据えている。
 滲み出した虚無を隠そうともしていない。これまではまるで感じさせなかったと言うことは、隠していたのだろう。

 隠さなくなった理由。
 隠す必要が無くなったのか、それとも隠すことにまで“気が回らない”のか。
 それともそのどちらかでもない何かしらの理由か。何にしてもロクな理由ではないだろう。

(……はやては、何考えてんだよ。)

 ヴィータは正直な所、シンを単騎で囮になどするべきではないと思っていた。
 能力という面から言えば適当な判断かもしれない。
 だが、それ以上に今、彼の中から滲み出した虚無がどうしても彼女の目を引き付けるのだ。
 それは過去に犯した失敗を思い起こさせるからなのかもしれないが。

(……気持ちは分かるが。)

 シンを訝しげに見つめるヴィータを横目で見ながらシグナムは内心で嘆息していた。
 ヴィータがシンに感じている嫌な予感。シグナムにもそれは理解できる。

 模擬戦の時であれ、日常業務の時であれ、このような虚無――端的に言っておぞましさすら感じさせる怖さとでも言うべきか。
 何をするか分からない怖さである――を秘めているようには見えなかったからだ。
 これだけの虚無――それも外界を侵食するほどの――を隠し続けるとすれば、それ相応の精神力が必要となる。

 なのに彼は今、軽々とドアを開けるようにしてこの虚無を滲ませた。軽々と、何も考えずに、だ。
 つまり彼は隠すことを当然と考え、ストレスなど感じていないことを意味する。
 それに思い当たった瞬間、シグナムの背筋を寒気が走り抜けた。
 眼前の男。シン・アスカ。自分はこの男を見誤っていたのかもしれない。そう思って。
 
 彼女にとってシン・アスカとは単純一途で自分に似ている存在だと思っていた。
 主を守ること。戦うこと。その二つの為に生きる、と。
 恐らくシン・アスカは違う。
 それが何かは分からないけれども、シグナムもまたヴィータと同じく嫌な予感を抑え切れなかった。
 だが、彼女はシンを囮にすることに関しては基本的に賛成である。
 
 彼女はシンの魔法。エクストリームブラストを僅かながらに知っているから。その効果も副作用も朧気に。
 それがあるからこそ、組ませるよりは単騎で戦うべきだと考えていた。

「異論は無いようやね。」

 はやての言葉が会議室に響き渡る。
 誰かが何かを言わなければこれで終了――そうなる。
 沈黙が続く。ティアナ達3人は何かしらまだ言いたいことがあるのだろう。
 だが、ヴィータとシグナムのやり取りを聞いて、それに反論する言葉が浮かんでこないのだ。
 彼女達もシグナムの言葉には頷くしかなかったからということもあるが。
 
 何よりも張本人であるシン・アスカに否定する気配が一切無い。むしろ、喜んでいるような感じさえしている。
 そして、彼をこの場にいる誰よりも大切に思っているはずの二人――ギンガとフェイトが一言も発しないまま、静かに佇んでいるのだ。
 張本人とも言える彼らが何も言わない以上は何もいえない。そう思って。

「……」

 そんな皆のやり取りを他所にエリオは一人シンを見つめ続けた。
 言葉を発することも無く、ただ静かに。


「エリオ君……!!」

 走る。言葉に籠る想いはただただ心配で心配で仕方ないと言う思い。
 彼が心配だった。
 どこか様子のおかしかった彼――エリオ・モンディアルが。
 キャロ・ル・ルシエは自らが使役する竜フリードの背に乗って駆け抜ける。
 後ろを見れば、既に戦いを始めている仲間たちが見えた。
 焦燥。振り返って戻りたい衝動に駆られる――それを自制し、彼女は彼女自身のすべきことの為にフリードを奔らせる。
 フリードの赤い瞳がこちらを向いているのに気付く。彼もまた不安なのだ。後方の仲間たちと、彼の主の相棒たる少年が。

「大丈夫。大丈夫だよ、フリード。」

 根拠もなく、不安を消し去るように繰り返す言葉。
 
 ――彼女は今、エリオ・モンディアルを探している。
 
 付近を見れば、既に避難は終了し、人の気配など存在しない街があった。
 普段なら子供達が遊んでいるであろう広場。今は閑散として誰もいない。
 それに寂寥感と罪悪感を覚えつつ、キャロ・ル・ルシエはフリードを飛ばす。上空からエリオを探し、見つける。
 
 それが今彼女に課せられた指示だった。
 彼女の本分である後方支援という役割を破棄した上で、行われた指示だった。
 本来なら了承されるはずが無い命令である。今回の作戦においても彼女の持つ役割は重要なのだから。
 彼女自身は劇的な存在ではない。戦闘力は絶無とまでは行かないものの相対的に見れば皆無に近い。
 その上、彼女の使う魔法――補助魔法というのは戦闘には直接関与しないものだからだ。けれど、その魔法は重要な存在ではあった。
 
 補助魔法。それはいわば“個人能力の水増し”である。
 本来、戦闘とは個人の能力だけではなく、地形に気象、時間などの環境要素も関係し、さらには敵の状況――個人能力や得意な分野、苦手な分野――などすべての要素が密接に絡み合うのが常識である。戦闘とは自分だけで行うものではないからだ。

 だが、非殺傷設定が横行し、世界から質量兵器が消された管理世界においてはその常識は当てはまらない。
 比喩でも何でもなく突出した能力を持つ個人の力が戦局を左右するからだ。
 自身の能力を向上させる為の“兵器”と言うものが存在しない管理世界は、皮肉なことに戦闘の内容を騎士や侍が武勲を立てる為に自身の腕を磨いていた時代にまで遡らせることになったのだ。

 そんな世界の戦いにおいて個人の能力を底上げする“補助魔法”の効果が大きいことは言うまでもない。
 故に――彼女の存在は重要なのだ。
 如何に策を弄したとしても最終的に明暗を分けるのは個人の能力でしかない魔導師戦闘において個人の能力を底上げするキャロ・ル・ルシエとはそれだけで重宝されると言っても良い。
 
 ――ならば、何故彼女は戦闘に参加せずにフリードに乗って空を翔け、エリオを探しているのか。
 
 エリオの存在が重要だから?
 ある意味では正しいが、間違いだ。彼の戦力は高いが戦況を左右するほどではない。
 問題なのは、彼が姿を消した場所に残された“血塗れ”のストラーダだ。
 前触れも何もなく、まるで消えるようにして彼は姿を消した――血まみれのソレだけを残して。
 通信は届かない。念話を送っても返事は無い。
 彼がどこにいるのか――その痕跡すら誰にも分からない。
 異常事態だった。
 故に、彼女は探すことを懇願した。
 血塗れとは言え、その量は致死量には程遠い。

 だが、だからと言って、それを黙殺出来るような人間は6課には存在していない。
 血に塗れると言うことは少なくとも負傷しているのだ。
 戦闘によるものか、それともそれ以外によるものかは分からない。
 けれど、血を流すほどの負傷となれば、下手をすれば重傷の恐れもあり得る。
 
 シン・アスカは当然のことながら、フェイトもギンガもスバルもティアナも、勿論キャロ自身も、黙殺など出来るはずが無い。
 だから、彼らは不利となることを承知でエリオの捜索をキャロに任せた。
 単体での戦闘力が最も低く、機動力が大きい彼女に。
 
 ――本当はそんなことは建て前で、ただエリオのことを一番心配し、探させてくれとキャロが懇願したからだろうけど。
 
 そして、現在に至る。
 彼女が皆に懇願したのはキャロにとってエリオが大切な存在だと言う以上に彼女の胸に嫌な予感が渦巻いていたからだ。
 つい最近エリオが倒れた時からずっと彼女の胸にはそんな予感が佇んでいた。このまま、エリオがどこか遠くに行ってしまう――そんな予感が。
 ありえないことだと理性は言っている。
 だが、本能がざわめいているのだ。
 
 竜召喚の巫女として培われた鋭い感受性――それが何かを感じ取っているのかもしれない。
 エリオが倒れたあの時、ギンガとフェイトは直ぐに彼らに気付くと、エリオを医務室にまで運んでくれた。
 予感がしたのはその後からだった。
 何がどうと言う訳ではないが、何か違和感があった。
 彼と一番長い時間を過ごしたはずのフェイトが気付かないのに自分が気付くのはおかしなことかもしれない――けれど、それでもおかしなことは一杯あった。
 時折見せる横顔がエリオではない別の誰かに見えることがあった。
 普段の所作――それこそ食器の持ち方や歩き方のその全てがそれまでとは何か“違っていた”。
 それが何を意味するのかは分からない。けれど、それが嫌な予感の原因であるのは間違いの無いことだろう。
 
「……エリオ君。どこにいるの……?」
 
 小さな呟き。兎にも角にも彼女の使命はエリオを探して見つけ出した上で保護することだった。
 焦燥は不安に変わる。
 彼女の小さな手が震えていた。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 33.慟哭の雨(b)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 17:58
「くそったれ……!!」

 毒づきながら飛び回るシン。その表情にはありありと焦りが浮かんでいる。後方から迫る赤色の光――その数3条。
 それらを全て紙一重で回避し、一旦距離を取り、体勢を立て直す――そんな余裕を潰すように先に放たれた3条の光に遅れて現れる曲進する二条の赤い光。
 それをアロンダイトを盾にして防ぐ。咄嗟のことで回避する間は無かった。
 爆煙。視界が一瞬遮られる――眼前に現れる鉄球。背筋を駆け上る悪寒。

「――っ!?」

 両肩前面からフィオキーナを発射。瞬間、身体を仰け反るようにしそれを回避する。
 崩れた体勢。その隙を狙って放たれる赤い光。

「う、お、おおおおお!!!」

 雄叫びの如く叫びながら、加速する。
 今度は紙一重ではなく思いっきり回避する――反撃や距離を取るなど頭には浮かばなかった。
 垂直落下するような勢いで下方に向かって落下する――その落下地点目掛けて放たれる光を視認。命中は即ち死を意味する。悪寒が走る――死の予感。
 再び、フィオキーナを発動。今度は左肩と左腰から。
 激痛が走った――無理な軌道の反動。それを意思の力を総動員して、忘却する。

「ぎっ……!」

 うめき声を上げて、吹き飛ばされるような勢いで転進。目前を光が過ぎていく――回避に成功。
 シンが落下するはずだった場所から蒸気が上がる――赤い光が地面を抉り焦がしきった証だ。
 非殺傷設定など当然かけられていない。当たれば一瞬で自分は蒸発するに違いない。

「はあ、はあ、はあ……!!」
 
 息を切らしながら油断無く眼前の3人組から目を離さないシン。
 デスティニーを握りこむ右手は既に汗ばんでいる。額から止め処なく汗が流れ落ちる。

(……どうする。)

 敵は以前エリオとキャロとシグナムの前に立ち塞がった三人組だった。
 個人個人の戦闘能力もさることながら、それ以上に眼前の三人組の連携は彼がこれまで見たことが無いほど――ザフトでモビルスーツパイロットをしていた時も含めて――に卓越した連携だった。
 
 密接に絡み合いながら、決して阻害しない連携。
 攻撃を回避し、反撃の隙間を与えない。機械の如く冷静且つ効率的に、こちらに襲い来る。
 状況はどんなに少なく見積もっても悪化の一途を辿っている。

 当初のはやてが計画した通りならば、これで問題は無かった。
 自分は今と同じようにギリギリの状況で回避を繰り返し、敵を引き付け、そこを別働隊が挟撃すると言う流れだったからだ。
 こちらが待ち伏せているなど向こうは知る由も無い。だから、この作戦は確実に成功するはずだったのだ。
 
 だが、現実は違う。あろうことか、敵はまるでこちらの作戦を予め知っていたようにして、別働隊を強襲し、逆に分断されたのはこちらだった。
 
 結果、シンは一人で三人を相手取ることになり、別働隊――フェイト達も同じようにして個別に敵と相対することになっている。
 状況は完全に乱戦模様を呈している。

 こちらは強襲を前提に組まれた班編成であり、単純な人数という点でもあちらに負けているのだ。
 
 ――絶望的とは言わないまでも良くは無い。天秤はこちらではなくあちらに傾いているのは明白だった。
 
 作戦を立案したはやてを責めることは出来ない。敵がこちらが待ち伏せていることを知っているなど誰が予想できよう。
 こんな、まるで誰かが情報をリークでもしたかのように。味方にスパイでもいるかのように――脳裏に最近様子のおかしかった赤い髪の少年が浮かぶ。

「ありえないだろ。」

 頭を振って、脳内に沸いた馬鹿で突飛過ぎる考えを一蹴する。
 そんなことは在り得ない。何があろうとも在り得ない例えだ。
 一瞬とは言えそんなくだらないことに意識を削いだ自分に嫌悪を感じ、直ぐにその予感を振り払う。
 背筋を焦がす焦燥。

「……やるしかないか。」

 ちらりと視線を動かす。光と爆発が見て取れた。

(フェイトさんとギンガさんは……大丈夫なんだな。)

 戦闘が続いている――つまりはまだ生きている。まだ、“守る”ことは出来る。間に合うことは出来る。
 同じく爆発音と閃光。スバルとティアナ達だろう。こちらもまだ“生きている”。
 先ほどエリオを捜す為に別れたキャロからは逐次情報が入る――彼女もまだ生きている。
 つまり、目前の奴らを倒せば――自分はさっさと守りに行ける。本分を果たしに行ける。

 息を吐き、深く吸う。瞳に力を込める。意識を切り替える。
 背筋を這い回る悪寒――嫌な予感。それが意味するのは自身の命の危険性だろうと予測し、意識の外に置く。

 死にたい訳ではない。
 だが、生きたい訳でもない。
 自分はただ守りたいだけだ。
 その結果としての死なら十二分に納得のいく死なのだから。
 
 意識を切り替える。逃げ回り、一秒でも長く生存しなければならないと言う作戦上必要と成る意識から、通常の戦闘――何を賭してでも敵を倒すと言う意識へと。

 瞳孔が開く。構えを僅かに前傾に。
 作戦行動は失敗した。状況は悪い。このままでは悪化の一途を辿るだろう。
 だから、仕方ない。そう、自分がこの力を使うくらいは仕方ない。そう、“仕方ないのだ”。
 言葉と共に胸中でその焦りを振り払い、シンはデスティニーを握る手に力を込める。
 
 ――エクストリームブラストを使え。
 
 脳内から滲み出る言葉。自らが手に入れた最強の力。
 あれを使えば、目前の敵を一蹴することは出来ないにしても天秤をこちらに傾けさせることは可能だろう――その傾きは僅かなものかもしれないが。
 なら、迷うことなど何も無い。使うべき時に力を使わない。
 それこそが最も唾棄すべき事柄であるが故に――シンは胸中に渦巻く欲望に身を傾け、脳内から滲み出る言葉に身を任せる――守る為に。誰も死なせない為に。

「デスティニー。」

 以心伝心。その一言でデスティニーは行動を開始する。

『Mode Extreme Blast.Gear 4th ready.』

 デスティニーの電子音の呟き。声音は女性の艶やかさとどこか懐かしさを感じさせる。

「行くぞ。」

 小さな呟き。それと同時にシンの全身を朱い光が駆け巡る。
 幾何学模様の朱い光は一瞬でシンの全身を炎の如く朱く染め上げ、そして身体を覆うようにして湧き上がる朱い炎。
 その炎を前にして、三人の鎧騎士が身構える。
 加速する感覚。解き放たれていく暴虐。
 光と共に全身を痛みが駆け巡る――力と引き換えに得る痛み。
 力の実感そのものとも言える激痛。それに“嬉しさ”すら感じながら、シンは、動いた。

 ――天秤を僅かに傾けるだけ、と彼は自身の能力を断じていた。だが、それは過小評価だ。
 何故ならエクストリームブラストとは高速活動魔法――それも2倍、3倍、4倍と。増加ではなく倍加。
 その意味を彼はこれから痛感することになる。
 
 加速する肉体。意識は明瞭。動作は最適。
 踏み出す。跳躍――地面と平行になるようにして。
 敵が動き出す。だが、遅い。先ほどまでの速度よりもちょうど4倍と言う加速を果たしたシン・アスカの高速活動の前ではその動作は遅すぎた。

「はああああ!!!!」

 咆哮と共に振るう。刃が鎧と激突する。
 吹き跳ぶ緑の鎧騎士――フォビドゥン。商店街の中の一店舗に弾け跳ぶように凄まじい勢いで、店舗を破壊しながら吹き飛んでいく。
 間髪入れずに次の敵へと標的を変更する。反応する暇は与えない。
 
 黒い鎧騎士――レイダーの懐に入り込む。右腕に持った鉄球をフック気味に振り回すレイダー。与れば即死は免れない。
 だが、遅い。遅すぎる。加速した世界の中でその動きはあまりにも緩慢すぎる。
 鉄球の下方に滑り込むようにして身体ごと懐に入り込む。
 右腕を自身の身体の内側に向かって振り抜いている為にシンのいる場所はレイダーからは死角となり、本来右腕で守るべき右腹部ががら空き。
 駆け抜ける身体中の痛みを堪え、右手をデスティニーから外す。
 動きは流麗に。停滞など在り得ない。右掌底を倒れこむような勢いでがら空きの腹部に叩きつける。
 同時に魔力集中。朱い魔力の流れが右手に集い、渦を巻き収束し、朱い半球を作り出す。

「吹き、飛べえええ!!!」

 咆哮と共に朱い魔力が吹き上がる。
 収束された魔力は朱い杭の如き炎となってレイダーの腹部に接触。
 衝き出された間欠泉の勢いは全く衰えることなくレイダーの肉体を吹き飛ばす。
 レイダーが既に誰もいない廃墟と化しているビルに向かって吹き飛んで行った。
 爆発。轟音。爆音と共に砕け散るガラスとコンクリートの欠片。
 直後、背後から放たれた熱量を放たれるよりも一瞬早く感知する。
 
 朱い炎が掻き消える。
 地面に頭をこすりつけるほどに前傾し、飛行の魔法で駆け抜ける――否。滑空する。
 人の視神経は左右の動きには強いものの急激な上下運動には極端に弱い。そこを突いた戦術――閃き。
 
 フラッシュエッジを引き抜き、自身から見て右側。
 残された青い鎧騎士――カラミティより見て左側に弧を描くように投擲。
 そして、自身はそれとは逆側に回りこむようにして、加速。

「ッ!?」

 カラミティがフラッシュエッジに反応し防御する。
 弾かれるフラッシュエッジ。
 だが、そんなことはどうでもいい。それは単なる囮に過ぎない。
 カラミティの動作に困惑が見えた
 フラッシュエッジを防御した先には誰もいない。
 当然だ。シン・アスカはフラッシュエッジとは逆の方向――つまりカラミティの背面に地を這うようにして移動しているのだ。

「――うおおおおお!!!」

 裂帛の咆哮と共に左足を踏み込んだ。加速した勢いそのままに全身全霊の一撃をカラミティの右脇腹に向かって撃ちこむ。
 手に伝わる硬い感触。気にすることなく振り抜いた。
 それまでの二人と同じように建物を破壊し、吹き飛んで行くカラミティ。
 冷徹に稼動する思考。冷酷に肉体を酷使する意識。悲鳴を上げる肉体を無視し、没頭する。
 熱さはない。没頭することで余計なこと――本当は大切なコト――を頭の中から追い出す。

「……どうだ。」

 噴煙を上げる幾多の建物。シンは油断無くそちらを睨みつける。
 本来なら今の一撃で終わるはずだ。非殺傷設定は継続している。
 だが、バリアジャケットを装備した魔導師が病院送りになる程度には威力がある一撃を不意打ち気味に当てたのだ。意識が残るはずもない。

 だが、シンはそれでも構えを解くことなく、エクストリームブラストを継続する。
 振り払ったはずの焦りが再び蠢き出す。今の一連の一撃。それらは全く以って効いていない――そんな確信があったから。
 胸中の不安。両の手に残る手応え。まるで分厚い鉄の塊にハンマーを叩き付けたような痺れが残っている。
 確信の理由はそれだ。その手応えは、非殺傷設定時に手に残る手応えとはまるで違っていたから。

 非殺傷設定とは魔法という現象によって発生する物理衝撃を変換し敵の魔力にのみ作用するように変化させる、一種の魔法である。
 原理は単純で人間――亜人を含む――同士の魔力であれば少なからず同調現象――同じ種類の生物の魔力は波長が似通っていくので同調し易い――を利用し、魔力と魔力をぶつけ合うと言う状況を作り出す。これによる物理力による生命活動の停止を避け、あくまで意識の喪失のみに留めるのだ。

 では、物理力として放たれる魔法の反作用――つまり手応えはどうなるのか?これも同じく魔力に対する手応えとなる。
 その手応えは現実の肉を切り裂く手応えとは違い、あくまで“叩く”のみに近い。
 決して切り裂くような手応えはあり得ない。

 故に、今シンの手に残るのはハンマーで何かを殴ったような感触のみが残るはずだった。
 だが、現実は違う。彼の手に残っている感触はそんなものではなく、痛みすら伴う痺れ。
 分厚い鉄を叩いただけの感触。
 
 それが導く答えは一つ。恐らく今、自分が放った斬撃はまるで効果が無かったのだろう、と。
 
 ――瓦礫が動いた。噴煙が晴れていく。ごくり、と唾を飲み込む。粟立つ背筋。
 
 そこに、鎧騎士が立っていた。身体を覆う鎧は埃だらけとなりながら、傷一つ付いていない。

「……」
「……」
「……」

 言葉は無い。歩いてくる動作からダメージを予想する――まるで歩みに遅れは無い。予想通りに、ダメージなど食らってはいないのだろう。

(だったら、何度だって倒してやるさ……!!!)

 そう、心中で呟き、シンはデスティニーを握り締める。

「行くぞ、デスティニー!!」
「All right,brother.」

 返答に答えるように敵に向かって突っ込んでいくシン。様子見など無い。
 エクストリームブラストの効果が切れた時、肉体は崩壊し、その崩壊を食い止める為にリジェネレーションが発動する。
 そしてその間は無防備を晒すことになる。そうなれば終わりだ。

 だから、ここで決める。ここで全戦力を投入し目前の敵を撃ち倒す。
 少なくとも今回の襲撃の間は身動き一つ取れない程度に倒さなければならないのだ――皆を守りに行く為には此処でグズグズしている暇などありはしないのだから。
 高速の炎弾と化し、突進するシン。
 その周囲で変化が起きる――無論、彼は気づかないし、誰も気づかない。そんな些細な変化。
 草木が枯れていく。誰も触れていないのに建物の壁に亀裂が入っていく。付近一体が崩壊していく――そんな些細な変化。
 シンの目には映らない。そんな変化は彼にとっては関係ない事柄だから。
 エクストリームブラストと言う力に曇った目には何も映らない。願いの成就だけを追い求める今の彼に届くはずもなかった。


 相対する二組の女性たち。
 フェイト・T・ハラオウン、ギンガ・ナカジマの二人一組(ツーマンセル)。当初の予定とはズレた組み合わせだがスペック的に言えばそれほど悪くはない組み合わせだった。
 高速万能型のフェイトと近接特化補助型のギンガ。
 最速の矛と最硬の盾の組み合わせ。
 悪くはないどころか最もバランスが良いとも言える組み合わせだ――同じ人間に恋をして告白したと言う内容さえ除けば、の話だが。

「……キャロはエリオを探しに行けたようだね。」
「ええ。とりあえず、エリオのことはキャロに任せて……」
 
 瞳を動かす。眼前には血のように紅い昆虫の羽根を広げたナンバーズ・トーレと血のように紅い瞳を爛々と輝かせているナンバーズ・クアットロがいた。

「私達は私達の職務を果たしましょう……どうやら手加減できる相手じゃ無いようですし、ね。」

 ギンガの瞳が金色に変化する――戦闘機人としての能力を開放する。彼女にはスバルのようにI・Sが存在しない。
 最も初期の試作型である彼女には初めから設定されていないのだ。故に戦闘能力と言う点で言えばそれほどに変化は無い。
 肉体の高速化と打撃力・防御力の増加。要するに単純な能力の底上げ程度である。それに伴い肉体にも大きく負荷がかかる。
 能力の底上げに伴い、反動もまた増加するから。だから、普段は使わない。使う必要がないから。
 シューティングアーツが培わせた洞察力は底上げを補って余りあるからだ。
 
 ――彼女が戦闘機人としての力を発動させたのは、クアットロの能力を知っているからだった。
 
 幻影を作るI・S「幻惑の銀幕(シルバーカーテン)」。それがクアットロの能力である。
 攻撃・防御といった単純な戦闘能力を殆ど持たないクアットロはこの能力を駆使し、“戦わずして勝つ”ことを基本戦術としている。
 いわば、その幻影そのものが彼女にとっての攻撃であり防御なのだ。故にその詐称能力は折り紙付き。その騙す対象は人のみならず、レーダーや電子システムにも及ぶ。
 ギンガはクアットロのその能力の対抗手段として戦闘機人としての能力を発動させたのだ。
 その瞳に備わる“機能”を用いる為に。彼女の瞳には熱源感知や魔力感知、光学ズームによる拡大機能等の索敵システムが設置されている。
 無論、クアットロの能力はこの“眼”すら騙すかもしれない。
 だが、多種機能を備えたこの瞳を騙し切るのは彼女であっても至難の技であるのは間違い無い。

「……うん。今度はこの前みたいになる訳にはいかないんだしね。」

 フェイトが苦々しげに呟く。以前のトーレとの戦闘――胸中の迷いを指摘され、生まれた一瞬の隙を突かれ、敗北した事実を思い出す。
 あの時はシンが助けてくれた。だが、今彼はいない。
 負ける訳にはいかないのだ。
 自分が死ねば彼は悲しむどころか奈落の底に落ちていく――それは自分で無くても同じことだが。それは少しだけ寂しいことではあるけれど。

(私は……死ねないんだ。私だけじゃない。シンの前にいる人間は絶対に死んじゃいけない。)
 
 傍らの恋敵を見る。彼女の思いもまた同じだろう。
 彼女の言う“彼を守る”と言う言葉には彼女自身を守り抜くことも意味しているだろうから。

「バルディッシュ……今度は勝とう。」
『Yes, sir.』
 
 バルディッシュから放たれる電子音の呟きと同時に彼女の身体が輝く。
 フェイトの姿が変化する。
 それまでの黒い外套を羽織った姿から、その艶やかな肢体を拘束する黒い水着のような姿へと。
 その手に携えていた武装も変化する。大鎌から双剣へ。
 真ソニックフォームと呼ばれるその出で立ち。それを見たギンガが半眼で呟いた。

「……相変わらず露出の多い格好ですね。」
「そういうギンガも似たようなモノだと思うけど。」

 彼女の言う通りギンガの姿はその瑞々しい肢体のラインを浮かび上げるレオタードのような姿である。人によってはこちらの方が好みの人もいるだろう。
 自分の姿を見るギンガ。
 レオタードに近いバリアジャケット。
 扇情的と言えば扇情的かもしれないが――傍らの彼女のように素肌を晒しまくっている訳ではないのでそんな気はしないのだが。

「……そうですか?」
「そうだよ。」

 互いに互いの姿を見る。
 互いに扇情的な姿。けれど、最もその姿を見て欲しい人はきっと見てくれない。
 そんな当然の事実。少しだけ寂しさが湧いてくる。けれど、それでいいのだ。
 だって、この恋は叶うはずの無い恋慕。無償の恋――そんな馬鹿な想いのなれの果てでしかないのだから。

「……まあ、シンは気にしてくれませんけどね。困ったものです。」
「うん、そうだね。」

 そう言って視線を合わせ、二人して溜め息を吐き、くすりと笑う。
 想い人の馬鹿さ加減と、この恋の不毛さに溜め息の一つくらいは吐きたくなる――そんな思いを共有する恋敵と共に戦うと言う事実が少しだけ“嬉しくて”。
 惚れた方が負けと言う言葉があるが、事実その通りだった。
 彼女達はシン・アスカに恋をした時点できっと負けることは決まっていたのだ。
 その敗北を、喜びこそすれ悲しみはしないけれど。
 くすくすと笑い合う二人――そんな二人を呆れた顔で見るトーレとクアットロ。

「貴様ら戦う気があるのか?」
「……色ボケですわね。全くあんな男の何処がいいのか……理解に苦しみますわ。」

 呆れ果てた二人の声。
 色ボケ――確かにその通りなのだろう。
 彼女達はシン・アスカとの恋と言う色に惚けている。
 何せ、戦闘の真っ最中にお互いの戦闘服について文句を言って――それも露出が多いなどと言い合い、想い人が気にしてくれないと溜め息を吐く。
 色ボケで無い方がおかしい。
 笑いが止む――柔らかな微笑みは、頬を歪ませた笑顔へと変化する。好戦的な女豹の笑顔へと。

「……余計なお世話よ、ナンバーズ。」
「……うん、そうだね。」

 その言葉に反応するようにして構える二人。
 切り替わる意識。恋する乙女から戦う乙女へと。
 エリオのことを心配することはない。キャロがいる。
 彼女が探しに行っている以上自分たちがそれを気にする必要はない――否、気にしてはいけない。
 脇を締め右腕を折り畳み、右足を前に、左拳は口元に。
 僅かに前傾した姿勢。右足に体重がかかるのを感じる。攻撃・速度重視の構え。
 構えるはギンガ・ナカジマ。蒼い髪の弾丸乙女。
 左手に握る一刀を前に、右手に握る一刀を後方に。
 左肩を前に出すように構える――奇しくもそれはギンガと対象と成る構え。
 構えるはフェイト・T・ハラオウン。金色の髪の黒衣の乙女。

「……行きますよ、フェイトさん。」
「ギンガこそ。」

 二人の言葉の掛け合いを聞いてトーレの唇が釣り上がり獣めいた笑みが浮かぶ。

「……クアットロ。先に行かせてもらうぞ。」

 トーレの背面の羽根が紅く輝く。増大する戦意。膨張する筋肉とそれを拘束するラバースーツ。
 胸のレリックが紅く輝く――血のように爛々と。

「……逸り過ぎですわよ、トーレ姉様?」

 そう言って、クアットロが懐から小刀を取り出し、自身の左手首に当て、切り裂く。
 一瞬だけ顔が歪む――恐らくは痛みの為。それはいわゆるリストカット。
 飛沫を上げ、辺りに舞い散っていく血液。手首を切っただけにしては異常なほどの勢いで吹きあがり続ける血液。

「……!?」
「な……!」

 ギンガとフェイトの顔に驚愕が浮かぶ。当然だ。いきなり目の前で手首を切ったのだ――驚かないほうがどうかしている。
 だが、クアットロはそんな二人の様子などどうでもいいのか、真っ赤な血液を拭き出し続ける左手首を眺め続け――そして、呟いた。

「“閉じなさい”。」

 言霊の発露。言葉に反応し、吹きあがる血液が輝く/蠢く/分裂する/爆発する。変質する世界/舞い散る血液。
 廃墟だった風景が一瞬毎に変化を繰り返す/終わらない→悪夢のように/万華鏡のように。
 深い森/雪山/深海。そして、再び廃墟。朱い空。破壊され尽くした瓦礫の山。
 滅び行く世界/既に滅んだ世界。

「これ、は……」

 その風景にギンガは見覚えがあった。当然だ。忘れるはずもない。忘れられるはずが無い。何故なら、そこは――

「あの時の……!?」

 フェイトも思い出す。そこは陸士108部隊の隊舎周辺の田舎町――シンが初めて戦った場所。そして、彼女が敗れた場所。

「始まりの場所で終わる――中々良い趣向でしょう?」

 得意げに語るクアットロ。この光景は全て彼女のI・Sが発展することで生まれた能力“詐欺師(フラウド)”によるものだった。
 封鎖幻惑――実在を捻じ曲げる幻想。
 電子機器や人間の五感に留まらず、それを包括する全てを騙す絶対虚偽発生能力。
 ギンガとフェイトは戦慄する。
 その幻術の異常さに。視界を騙す――数を誤魔化すことなどとは訳が違う幻術――否、幻想。
 これまでの世界の内面に一つの新たな世界を創り出すかの如き幻惑。
 クアットロの、紅色に染まった口が開く。
 謡うように、軽やかに。けれど、言葉の意味は残酷で。

「――のた打ち回って、死になさい。」

 殺意が放たれた。フェイトとギンガの身体が思わず身構える。
 トーレのような戦意によって、ではない。純粋な殺意に対する反応――人の生存本能の発露。
 此処に、乙女達の闘いが始まった。
 そして絶望は回り出す。螺旋模様に、狂狂(クルクル)と。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 34.慟哭の雨(c)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 17:58
 爆音。
 スバル・ナカジマとティアナ・ランスター。スターズ分隊の前衛と後衛。
 普段から訓練も共にしている以上彼らの連携は完璧と言っても良い。
 だが、彼らの顔色は思わしくない。
 
 彼らの敵は一人。ナンバーズ・セッテのみである。
 数的有利というメリットさえある以上は能力で言えば決して負けるはずが無いのだ。
 だが、今戦闘している者の中で一番苦しんでいるのもまた彼らであった。
 ナンバーズ・セッテ。その異能の前に。

「……」

 無言/虚ろな瞳。
 人でありながら機械めいた動作。感情を感じられない冷徹さ。
 右手を伸ばす――何も無い虚空に。
 ずぶり、と入り込む。空間に生まれる波紋/同心円状に広がっていく。
 
 ――引き抜くと、右手には大振りの剣。そして、彼女はそれを投擲する。
 
 同じように左手を伸ばして虚空から武器を引き抜く――今度は小型のナイフ。銘は無い。投擲する。
 淡々と繰り返される動作。流れ作業のように淀みなく淡々と進む行動/攻撃。
 ただ、引き抜いて投げると言うそれだけの攻撃。
 本来ならそんなものは戦力にすらならない。
 戦闘における行動にはすべからく意味がある。
 
 “ただ、引き抜いて、投げる”と言うだけの攻撃にどれほどの意味があるのか。
 普通ならそんな攻撃は全て避けられて終わりである――普通なら。

 だが、彼女の投擲は違っていた。
 投げた――どん、と空気を突破する爆音。爆風が生まれる――音の壁を越えた衝撃波(ソニックブーム)。
 彼女の髪が揺れる――表情は変わらない。機械の如く冷徹にただ対峙する敵に狙いを定める。
 音速で迫るその投擲。
 
 その一撃はまるで戦車の砲弾の如き威力を伴い、間を置くことなく何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も――繰り返されている。
 あたりの地面は既にクレーターのように抉り取られている。
 それまであった街の原型などもはや無い。あるのはただ瓦礫の山だけだ。

「行きなさい。」

 ぼそり、と呟き投げる。

「行きなさい。」

 投げる。投げる。投げる。
 呟きながら間髪いれずに何度も何度も。
 呟きは命令。支配した対象の全てを決定出来る絶対強制権――無機物であるなら、何であろうと支配する力。
 
 それが彼女のI・Sだった。
 本来なら移動しながらの攻撃がセオリーである。サポートも無い状況で止まり続けるなど場海外の何者でもないからだ。

 だが、彼女の能力はそれを可能にする。
 元々彼女のI・Sは単純なモノだった。投擲したものを操作すると言うただそれだけのI・S。
 希少価値もなければ、利用方法も戦闘くらいしかないと言う使い道の少ないもの。
 
 スローターアームズ。
 本来は固有武装ブーメランブレードの扱いと制御をする為の能力である。
 この為、ブレードを投擲し使用した際に軌道を自由に変化させる程度の能力である。
 使用の際にブーメランブレードを手元に転送すると言う簡易転送も含まれているのだが。
 本来、その能力はあくまでもブーメランブレードありきの能力だ。
 
 だが――それは違っていた。彼女の能力は、そんな生易しいものではない。
 投擲したものを操作する。そこに武装の種別は無い。つまり、“どんな武器であろうと投擲しさえすれば操作できる”のだ。
 もっと言えば、投擲とは“狙う”と言う意思を武器に込めて投げることを言う――つまり意思を込めるのは投げる前だ。
 
 握り締めたモノ――無機物であるならば何であろうと“支配”する。
 己が握り締めたと認識出来るなら何であろう彼女は支配する。
 ビルを握ったと認識すればビルを支配し、ミサイルを握り締めたと認識したならミサイルを支配し、世界を握ったと認識すれば世界ですらも支配する。

 それこそが“支配”の能力。彼女のI・Sが発展した能力。「支配者(オーナー)」である。
 その能力の前で移動する必要などない。
 移動する、というのは相手からの攻撃を警戒して。
 だから、サポート無しで戦う場合には相手に的を絞らせない回避行動が必要となるのだ。
 だが、彼女にはそんな回避は必要ない。敵に攻撃を行わせる間など与えない連続投擲の嵐。
 その一撃一撃は差こそあれども全て一撃必殺の威力を有しており、その速度は音速の領域に到達している。
 その弾数は無限では無いが、小規模次元世界を利用することにより、限りなく無限に近い数量――凡そ2000を越える物量である。
 連携や人数を完膚なきまでに押し潰す圧倒的な物量と威力。

 ナンバーズ・セッテ。
 その前にティアナとスバルは満足に戦うことすら出来ないでいた。

「……悔しいけど強いわね。」

 冷静に、ティアナは呟く。
 凍るような冷徹さ。ティアナ・ランスターの生命線にして、最大の武器。

「ティア!!このままじゃ負けちゃうよ!!」

 迷いの無い瞳でスバルが呟く。
 僅かに焦りが見て取れる――だが、そんなものはいつものことだ。
 この相棒が冷静沈着で戦うなんて考えたこともない――

「相棒、か。」

 その考えに思い至り、ティアナの頬に笑みが浮かぶ。自然と相棒と言う言葉が出てきたことが嬉しくて。
 スバルとのコンビがいつまで続くのかは定かではない。だが、そう遠くない未来自分達は別々の道を歩むことになる。
 それは間違いないことだ。
 だが、今は相棒なのだ。自分にとって掛け替えの無い相棒――決して面と向かっては言わないけれど。

『ティア!!どうしたらいい!?』

 その声が現実に引き戻す。顔から笑みが消える。切り替わる思考――戦士から司令官へ。

「……能力面では絶望的に負けてる。」

 見れば分かる通りに絶望的だ。
 音速を超える投擲など聞いたことも無い。
 道路を抉り取って生まれたクレーターを見て、その威力に背筋が寒くなるのを感じる。

「こちらが勝っているのは人数だけ。」

 ティアナは今、幻術を用いて身を隠している。
 セッテの周りに存在する多数の影――ティアナ・ランスターのフェイクシルエット、その劣化版である。
 完全なフェイクを作れば、如何なナンバーズの索敵システムといえど、今のティアナならば騙し通す自信はあった。
 だが――
 爆音。再びクレーターが生まれた。瓦礫が舞い飛んだ。

「……こんな威力の攻撃をバカスカ撃てるなら幻術なんて真面目にやるだけ無駄よね。」

 その通り。
 相手は殆どタイムラグ無しで必殺の一撃を連続で放ち続けられる。その前で幻術などまともにやるだけ無駄。
 故にティアナは魔力消費を押さえ込む為にフェイクシルエットを劣化させ、一目でそれと分かるようにぼやけさせていた――存在と言う気配だけを感じ取れる程度には存在密度を維持したままで。
 結果的にこの策は功を奏している。でなければ今頃スバルもティアナも瓦礫の一部になっていたことだろう。

 だが、このままではジリ貧もいいところ。自分達の役目は囮となって単身戦っているあの男――シン・アスカと戦っている敵を挟撃することだ。
 曲がり間違ってもここで敵に倒されるなどあってはならない。

「スバル、アンタ、調子はどう?」
「て、ティア!?いきなり何!?」
「調子はどうって聞いてるのよ。“いつもみたいに走れるのか”ってね。」

 “いつもみたいに”。
 その言葉を受けて――スバルの顔に花が咲く。満面の向日葵のような笑顔が。

「うん!!」

 即座に返される返事。
 そのやり取りで次に自分が何をするのか、理解したのだろう――スバルが構える。

(相棒ってのはこういう時、楽よね。)

 心中で呟き、ティアナも準備を始める――この逆境を跳ね返す準備を。

「行くよ、マッハキャリバ――!!!」
『All right buddy.』

 言葉と共に急停止。そして、螺旋状に、次々と生まれて伸びていくウイングロード。
 捻じれ、曲がり、上下左右の全ての空間――三次元を囲い込んでは伸びていく無数の路。
 瞳を閉じる――彼女自身のデバイスの言葉を待って。

『Ignition!!!』

 開く瞳。金色の色――戦闘機人の色。切り替わる視界。切り替わる肉体。
 生命活動をする為の器から、戦闘行動をする為の器へと。

「ギア!!!エクセリオン!!!」
『A.C.S. Stand by!!』

 マッハキャリバーの両脇から生まれ出でる二枚の羽根。爆発的に増加する魔力。
 セッテの顔色が変わる――敵に変化が起きたためだ。
 それまでのような逃げ続けるのではなく、あろうことかこちらに向かってくるような気配を見せる。

「来る。」

 抑揚の無い声。それでも声に滲み出した緊張は拭い去れない――両の手を虚空に突き刺す。引き抜く。
 現われ出でる自身が最も親しんでおり、最も強力な得物。
 ブーメンランブレード。味も素っ気も無い見たままの通りの名前の武器。
 意識を徹す――それまでのような“支配”ではなく、馴染んだ武装とのみ出来る“協力”へと。
 これより彼女が放つ一撃は最速にして最強。音速を突破し、空気を切り裂いて、射線上の全てを断ち切る刃。
 仮に回避されたとしても、彼女はその軌道を変化させて、追尾できる。
 音速で追尾するミサイルのような武装――それがブーメランブレード。
 それを宙空に固定し、再び引き抜く。現れるは小刀。刃が煌めく。大きさなど関係なく殺傷能力は問題ない――音速を突破するというそれだけで十分すぎる。
 投擲のタイミングを計るセッテ――少しだけ前傾する構え。
 
 そこから遠く離れた場所。瓦礫の影。構えるセッテと構えるスバル。
 ごくり、と唾を飲み込む。相棒の命を天秤に賭ける勝負――祈るように、願うように、瞳を閉じる――開く。
 桜色の唇が動く。

「――フェイクシルエット。行くわよ。」

 ティアナが呟く――反撃の狼煙。クロスミラージュのディスプレイが輝く。
 次瞬、スバルの周辺に出現する数限りないスバルの姿――それは先ほどと同じくぼやけた姿で。

『……スバル、いいわよ。』

 伝わる念話/信頼。スバルが叫ぶ/セッテが身構える――突貫開始/投擲開始。

「うおおおお!!!!」

 絶叫。突貫するスバル。マッハキャリバーが唸りを上げる。

「喰らえ。」

 抑揚の無い声で、セッテが投擲を繰り返す。一つだけだったソレは瞬く間にその数を増やしていく。
 1,2,3,4,5……そこでスバルは数えるのを止める。そして、覚悟を決める。
 ティアナが、相棒がやろうとしていることは単純明快な一つのこと。

 ――幻術でサポートするから近づいてぶん殴ってこい。

 それだけのこと。
 だから、自分は余計なことを考える必要は無い。考えるべきは一つだけ。

(一度も当たらないで、一発当てる!!)

 加速する。螺旋模様に縦横無尽に世界を拓く翼の路(ウイングロード)。それに身を乗せ、第一陣を回避し、続いて第二陣。
 考えている暇など無い。考えていれば、その瞬間、死に至る音速の投擲が自身を殺す。だからそれを避ける。
 先読みでもなんでも無い。当てずっぽうの直感で。

「うおおおおおおお!!!!!」

 絶叫と共に、それまで奔っていた路から飛び降りる――ウイングロード展開。地面まで一気に加速――もはや落下。
 がつん、と言う鈍い音と共にアスファルトにローラーが切れ目を入れる。膝に多大な負荷――膝を曲げて衝撃を逃す。
 加速する。
 
 迫り来る衝撃すら伴った超高速の武装の数々。槍、小刀、剣、大剣……etcetc。彼女にはそれを見る暇すらない。
 だが、そんなものは必要ない。見る必要など無い。予測など必要無い。ティアナがいいわよ、と言ったのだ。
 準備は出来ているから、行って来い、と。
 こめられた言葉の意味。それを取り違えるはずなどない。取り違える訳が無い。
 何故ならば――

(だってねえ。)
(あったりまえじゃん!)
((相棒なんだし))

 ――そう。それゆえに相棒と一緒に戦うのは楽で良いのだ。言わなくても分かるのだから。
 ティアナとスバルが胸中で同時に同じ言葉を呟く。

「……当たらない。」

 回避されている。音の壁をも突破する投擲が。
 それも何発も連続で。
 その様子に不思議なモノを感じながらも、セッテは投擲を止めない。
 彼女の能力「支配者(オーナ-)」とはその名の通りに最強。攻撃こそ最大の防御を具象化したような能力である。
 故に彼女は投擲を止めない。止めないことが一番の防御だと知っているからだ。

 ――何故スバルがここまで回避に成功しているのか。
 その秘密はティアナの行った幻術にあった。ティアナが使ったのはフェイクシルエット。
 それも高速移動用に調整した結果、見事なまでに劣化した、本来なら使い物にもならないような幻影である。
 スバルと幻影の差は目を凝らせば分かる程度の差異。
 
 通常なら既にスバルは死んでいる――だが、彼女は突貫を止めない。生きているからだ。
 ティアナは、本物のスバルにも幻術をかけているのだ――偽物だと偽装する為に。
 走るスバルの身体。本人は気付かないが傍から見ると他の幻影と同じく、ぼやけている。
 木を隠すなら森の中。それと同じように幻影の中にスバルを紛れ込ませている。
 ご丁寧に輪郭のはっきりしたスバルを僅かな数だけ作り出し、走らせている。
 
 その結果がこれだった。目論見は成功している。この方法ならば本物のスバルに向かう攻撃の数はかなりの確率で減らしていける。
 彼女達の距離は既に50mを既に切っている。当初は200m以上はあったことを考えると既に3/4ほど近づいたことになる。

(行ける……!!!)

 胸中で歓声を上げるティアナ。だが、それはまだ早い。

「……幻影に紛れ込ませているのか。」

 目論見を看破するセッテ。ここまで破壊した幻影の内、本物と思わしきものは全て破壊した。
 だが、それでも突進を止めない――生きている。
 ならば、本体は幻影の中に紛れ込んでいる。そういうことだ。
 セッテは迷わない。躊躇わない。驚かない。冷静沈着が彼女の自負であり、彼女にはそれしか“無い”。
 だからこそ彼女は自身の判断に絶対の自信を持っている。

「なら、幻影を全て破壊する。」

 当然の判断――最良の判断。
 投擲を行う。先ほどよりも投げる速度を速める。精度ではなく速度――撃ち続ければいつか死ぬ。そんな消去法。
 
 ――投擲される武装の数が増えたように感じた。
 
 弾幕が目前に現れる。頭を地面にこすりつけるようにしてその下に滑り込み、突破する――残る距離は凡そ30m。
 スバルの脳裏でアラームが鳴り響く。避けろ避けろ避けろ避けろ、と。
 だが、スバルはその全て一切合切を無視する――何故ならば、

「ティアが、行けって言ったんだ……絶対に私は死なないに決まってる……!!!」

 静かな叫び。
 躊躇いなど一切無く加速。
 その様を見て、ティアナがにやりと笑う。その加速を当然のように受け入れ、その上でその信頼が心地よくて。
 彼女にとってこの状況は予測済み。それゆえに危惧していたのはこの状況。
 つまり“状況が変わった瞬間”が最も危険だったのだ。ティアナ自身が幻術でそれに対応出来ないからだ。
 だが、あの相棒はそんな難関をいとも簡単に乗り切った上に更に加速した。
 
 通常ならば狂気の沙汰とも思える所業。だが、ティアナにだけはその意図が理解できる。
 彼女は、スバルはただティアナを信じているのだ。行けと言ったならば必ず何かしらの策がある。
 なら、自分はそれを信じるだけだと、余計なことを考える必要は無いのだと。
 だから、胸中で彼女は叫んだ。

(それに応えなきゃどうするのよ!!)

 ティアナが物陰から飛び出す――クロスミラージュを構え、叫ぶ。

「――弾けろ!!!」

 瞬間、それまでいた全てのスバルの幻影が爆散する。

「くっ……!?」

 閃光と爆煙。セッテの身体が一瞬硬直する。
 
 ――ティアナはそれまで作り出した全ての幻影の中に魔力球を仕込んでいた。最後の瞬間にセッテの注意を一瞬だけ引き付ける――そう、ただそれだけの為に。

「……っ!?」

 硬直は一瞬。だが、それほどの高速域において、一瞬の硬直とは致命的と=で繋がれる。

「――振動、集束。」

 左腕/左足を突き出す――右手を弓を引き絞るように溜め込む
 左足を踏み込む。連動する下半身。腰を回し切る。
 突き出した左腕を“引き込む”/右腕を“突き出す”/滑車のように連結して同時に稼動する両の腕/同時に重心の移動。平行四辺形が崩れる動き/拳はただひたすらに前へ前へと突き抜けることを意識――拳がそのまま跳んでいくような錯覚。

「……ハアアアアアッ!!!」

 叫びと共に右拳が“発射”される。
 振動破砕というナンバーズの天敵を纏った拳。そこに加速の勢いとスバル自身の筋力と全身の動きを捻じり込んで、突き出す一撃。

 ――振動拳。
 
 右ストレートという打撃を極限にまで強化した一撃が、今、到達する。

「くっ……ぎ、ああ!!!」
 
 セッテらしからぬ叫び――両手に既に握り締められていたブーメランブレードによって振動拳の軌道を無理矢理逸らす。
 接触は一瞬。だが、それは致命的な一瞬。

「あ……が」

 全身に伝わる振動。骨格が軋む/全身が啼き喚く=膝が折れそうになる→胸のレリックが加速する。
 全身を流れる高純度の魔力を纏った血液――レリックブラッドが沸騰する。
 ナンバーズの劇的な成長――進化の原因。血液状に変換したレリックを肉体に流し込み、肉体を作り変えると言う狂気の業。
 いわば、彼らは戦闘機人でありながら、既に戦闘機人の域を超えている。
 ジェイル・スカリエッティ曰く――名をつけるとするならば次世代型戦闘機人(ネクストナンバーズ)。
 言葉そのままの意味の名称。無論、リスクはある。多大な力の行使にはそれに伴う責任が付き纏うのと同じように、強大な力の行使は、それに見合った負荷が必要となる。

 レリックブラッドが全身を駆け巡る。
 アドレナリンの分泌。赤血球の増大に伴い、臓器に送られる空気量が増加。意識が無理矢理覚醒する。
 覚醒する意識。全身の痛みは治まらない。痛い。痛い。意識が覚醒したことで痛みまでも覚醒したかのように痛みが走り抜ける。
 一瞬ごとに意識が途切れそうになる。起きていることが“痛い”。だが――

「ああああああああ!!!」

 その痛みを渾身の意思によって“捻じ伏せた”。そして、スバルの拳を受け流し、逆の手に持ったブーメランブレードを振りかぶる。

「くっ……!!!」

 当たれば死ぬ一撃。それを回避する為にこちらもその時点で放てる最大の威力の一撃を放つ。

「うおおおお!!!」
「はああああ!!!」

 ブーメランブレードとディバインバスターがぶつかり合う。
 爆発。立ち昇る爆煙。

(外れた。)

 心中で呟くスバル。

(外した。)

 心中で呟くセッテ。
 互いが互いの必殺の一撃を至近距離で放った。唸る豪腕と喚く轟刃。その間隙はおよそ紙一重――恐らく髪一本ほどの距離でしかない。
 放った体勢のまま互いに硬直する二人。硬直は一瞬。
 錯綜する思考と展開予測。スバルは直感で、セッテは予測で。
 両者、同時にその場から離れる――彼我の距離は約3m。互いに一足の間合いである。

「……」
「……」

 硬直状態。どちらも動けない――否、スバルが動いた。その直感が叫ぶ――行け、と。
 その気配を感じ取り、セッテもまたブーメランブレードに力を込める。こと此処に至れば余裕など一切無い。
 セッテが瞳を閉じる――開く。金色は血色の紅へと変化する。スバルの動きが止まる。それまでとは比較にならないほどの危険信号が鳴り響いた。

「……これは。」

 声には僅かに恐れ。それはあの時味わった感覚――鎧騎士との戦いで感じた畏れ。
 増大するプレッシャー。
 セッテの口から紅い蒸気が昇っていく。
 魔力の残滓。
 レリックブラッドの活性化の証拠。
 強大な力が更に強大な力へと変貌する。野犬が孤老となる――そんな変化。

「離れなさい、スバル!!」

 声に反応し、弾かれるようにして、その場を飛び退くスバル。
 瞬間、地面が“崩壊”した。

「!?」

 スバルの顔に驚愕が浮かぶ。
 崩壊に驚いてではない――崩壊させたモノに驚いて、だ。
 曲線めいたライン。刃の煌き――重さと鋭さを兼ね備えた質量兵器。それは、紛れも無くブーメランブレード。
 先ほど自分の一撃を捌いたセッテの得物だった。違いが、あるとすれば、ただ一つ。

「紅い……」

 スバルの呟きの通り、ソレは紅く輝いていた。刃を奔る炎の曲線。そして、その周囲を覆う空気の揺らめき――陽炎。
 空気を侵すほどの高熱が、刃から迸っているのだ。
 それは一本だけではない。彼女の周囲を漂う、4本の紅い刃――ブーメランブレード。
 セッテの血色の如き紅の瞳と同じ色。それが刃から迸り、周囲を侵しているのだ。
 彼女の髪が暴風に揺れる――高温によって生まれる上昇気流。その只中にあって、彼女の身動きは平静そのもの。
 周囲に浮かぶ紅の刃と相まって、神々しささえ感じさせる姿。
 スバルの脳裏に警告が浮かぶ――本能の奥底。魂の底から。
 
 ――死ぬ。
 
 まず、間違いなく。

「……っ。」

 それでも構えたのは殆ど反射行動に近い。
 勇気も度胸も何も無い――ただ、彼女はそれまでの練習通りに構えただけに過ぎない。意思など篭らぬ反射行動。
 
 ――セッテが動く。浮かぶ四本の剣の内、二本を掴み――踏み出す、瞬間、声がした。

『セッテ。それはいけないな。』
「……ドクター?」

 声の主は、彼女達の造物主にして、父親でもあるジェイル・スカリエッティ――無限の欲望。

『それを使えばキミが死ぬ。それは、いただけない……キミはまだ死ぬには何も知らない。』

 優しく、強い声。彼女達にとっての絶対の声――安心するココロ/周囲の陽炎が消えていく。瞳の色が、紅から金色へ。
 ずぶり、ずぶり、と空間に“落ちていく”四本のブーメランブレード。

『そう、それでいい。帰って来るんだ、セッテ……無限の欲望はもう生まれる寸前だ。キミは役割を果たした――十分だ。』
「……そうですか。」

 その言葉を聞いて、顔を歪め、微笑む――安心した笑顔。まるで親に褒められたことを嬉しがる無邪気な子供のように。

「ドクター、門(ゲート)を開きます。」
『ああ、待っているよ。』

 スカリエッティの返答。
 その言葉を聞くと、セッテはしゃがみ地面に手を当てる――右手を中心に生まれる転送魔法陣――黒い孔が開く。
 黒い孔――世界を繋ぐ暝い孔。
 そこに“落ちていく”セッテ――まるで、その黒い闇に引きこまれるように。
 後には何も残らない。
 影も形も、気配も匂いも、何もかも。
 誰かがそこにいたと言う存在証明全てを消し去って、セッテはその場を去った。
 あとに残されたのはスバルのみ。
 
 ――背中を伝う嫌な汗を止められなかった。
 
 彼女の背後からティアナの声が聞こえる――その声に少しだけ安堵を感じながら、彼女は前を向く。
 何にしてもこれでシンの元へいける――無茶ばかりする同僚のことを思い出しながら、彼女は思考を切り替えた。
 闘いは、まだ、終わらない。
 
 ――そして絶望は回り出す。螺旋模様に、狂狂(クルクル)と。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 35.慟哭の雨(d)
Name: spam◆93e659da ID:17f428f0
Date: 2010/05/29 17:58
 無限の欲望と呼ばれる存在がある。
 その時代――もしくは世界――に一人だけに現れる、その世界で最も欲深き人間である。
 別に何かしら特別な力を持つと言う訳ではない。

 ただ世界中の誰よりも欲深いだけと言う“だけ”で、普通の人間と何ら変わり無いただ人間である。
 当然のことだろう。
 欲深さと能力や才能には何の関係も無いのだから――通常ならば。
 
 羽鯨という存在がある。
 次元を呼吸し、時空を回遊する、次元外生命体。
 一つの次元の中でしか生活出来ない人間から見た場合掛け値無しの高次生命体――否、神とも言える高次存在である。
 過去、ミッドチルダにおいてアルハザードと呼ばれた都とは彼らの眠る場所。
 ジュエルシードとは彼らの生み出す高次組成魔力結晶である。
 
 彼らは螺旋構造の時空を泳ぎ、一つの時空で栄養を補給しては、別の時空で眠りに付き、何処かの時空で再び栄養を補給する。
 鰹や秋刀魚などの回遊魚と同じように、一定のルートを辿って栄養を補給するのだ――回遊魚との違いは、海ではなく時空を泳ぐと言うことだが。

 彼らが好む“餌”とは人の意思――それも強い欲望を何よりも好む。
 偶然にも無限の欲望とは彼らにとって極上の餌となる。
 彼らに狙われた時空――次元世界を包括する時空と言う概念そのもの――は例外なく、崩壊する。
 時空崩壊と言う未曾有の危機によって『世界』はその在り様を変え、欲望だけに限らない多種多様な感情を含ませ、熟しきった果実の如き獲物となる。
 
 ――羽鯨はそれを求める。その行為は羽鯨にとっては栄養補給と言うよりも、肉体を補給すると言った意味合いが強い。

 高次存在である彼らには生命という概念が存在しない。
 生と死という概念すら存在しない。
 何故なら、彼らは肉体を持たない純粋なエネルギー生命体だからだ。
 
 肉体という檻から解き放たれた彼らは高次世界――時空を回遊する力を得た。
 そして、その代償として彼らはただ生きているだけで存在そのものを消費し続けなければならないことになった。
 
 生物であれば栄養を補給する必要がある。
 だが、肉体という生命力生産炉を持つ生命は、少なからず消滅し難い特性を持つ。
 
 彼らは違う。
 彼らは、ただそこに在るだけで“存在情報”を消費する。
 そして、失った“存在情報”を埋めるのもまた同じ“存在情報”。
 存在情報――つまりは人の生きた証。感情である。

 故に彼らは永遠に無限の欲望を求め続け、時空を破壊し続ける。
 存在する為には――活動し続ける為に必要だからだ。
 
 彼らは常に全ての時空を観測し、無限の欲望を探し続ける。
 そして無限の欲望を見つけ出した時、彼らはその無限の欲望に印をする。
 
 無限の欲望となったものはすべからく、その印を持つことになる。羽鯨に餌として認識されるが故に。
 餌となった無限の欲望は、その印によって、高次存在『羽鯨』の力の一部を取得する。
 
 ジェイル・スカリエッティの左目――虹色の瞳。次元世界、並列世界に限らず過去も未来も観測する虹色の眼。
 知識を求め、観測と探求と言う行為を求め続けるスカリエッティの欲望を具象化した印。
 虹色の瞳はその証――世界が滅びに近づいていると言う証である。
 少なくともスカリエッティが死ぬまでには、必ず世界は滅びると言う証だ。
 羽鯨に魅入られし者。無限の欲望。彼らは例外なくそういった力を有する。その身に秘めた欲望を表すかのごとく。
 
 前述した通りスカリエッティは観測と探求を求めた。
 ならば、シン・アスカは何なのか。
 彼が望むことは守ることだ。眼に映る全てを。
 誰であろうと、何であろうと全てを守る。
 その為に彼が欲するのは力だ。それも全てを超える絶対足る力。
 それが本当に彼の望んだ力なのかどうか――それは誰にも分からない。


 嫌な予感が止まらない。
 昔、味わった感覚。
 マユや両親が死んだ時。ステラを守れなかった時。
 レイが死んだ時。誰かが死ぬ度に味わった、胸の奥でじっとりと冷たいモノが這い上がってくるような感覚。
 ドクン、と心臓が跳ねる。焦燥が背筋を駆け上る――早く目前の敵を倒せ、と。
 
 目前の敵――レイダー、カラミティ、フォビドゥン。
 シンは知る由も無いが彼が家族を失くすことの切っ掛けとなった戦争において戦場を蹂躙したモビルスーツを元に作られたウェポンデバイスである。
「っ!?」
 
 閃光がシンの頬を焼く。頬に鋭い痛み。直ぐにその場から離れる――次瞬、それまでシンが立っていた場所が爆発する。立ち昇る爆煙。
 間髪射れずに黒い鎧騎士――レイダーの砲撃。先ほどの砲撃は緑の鎧騎士――フォビドゥンのモノだろう。
 それに続くようにして、放たれようとしている青い鎧騎士――カラミティの砲撃。

「……ちっ!」

 即座に発射される前に砲撃が当たらない位置へ移動――エクストリームブラストによって彼我の反射速度の差は、考えるのも馬鹿馬鹿しいほどに開いている。
 相手が攻撃を行おうとするなら、それに先んじた行動が出来るくらいには。
 なのに、

「くそっ!!」

 届かない。近づこうとすれば下がり、別方向からの砲撃が始まる。
 三方より襲い来る砲撃の雨。
 同時に、或いはタイミングをずらして放たれるソレをそれを捌きながらも近づけに自分に苛立ちを覚える。
 間断の無い弾幕はそれだけで厄介だった。何より近づく“隙間”が無い。下手に近づこうとすれば一瞬で致命傷を負うに違いない。
 
 速度差がどれだけあろうと関係ない。大規模攻撃もしくは殲滅攻撃の前では高速などまるで意味が無い。
 歯噛みするシン。焦燥が止まらない――嫌な予感が止まらない。
 間断なく放たれる攻撃。
 一瞬足りとも静止することなく駆け抜ける。
 デスティニーの柄に手を掛ける。
 フラッシュエッジを引き抜く/投擲。弧を描く軌道――フォビドゥンへ向かって行く。
 更にもう一本――上空を疾駆するフラッシュエッジとは対極に地面スレスレを疾駆する。
 三者の意識が分裂する。回避する意識と迎撃する意識に。

「いっけえええっ!」

 とにかく狙いを外す。こちらに来る攻撃の数を減らす。

「……対象の接近を確認。」

 フォビドゥンが呟く。

「上空から飛来する武装を確認。」

 レイダーが呟く。

「破壊する。」

 カラミティが呟く。
 無機質な言葉。その直後に放たれる光――赤と緑と赤。
 狙いが逸れる――シンに向かう光は二条。フラッシュエッジが消し飛ぶ。

(早く。)

 心中で呟く。デスティニーを変形させケルベロスに移行する。
 刀身の先端に現れる砲口から放たれる進行方向とは真逆の方向に光。
 加速する肉体。
 ケルベロスを追加ブースター代わりに更に加速する。
 空気が壁と成って襲い掛かるが、握り締めた手は決して離さない。離せばそこで終わってしまうから。

 急激な加速によって著しく移動速度が速くなるが――その代償として回避の幅が大きく狭まる。
 諸刃の剣どころか自殺行為に近い。だが、構っている暇は無い。
 多少の怪我はリジェネレーションが勝手に直してくれるのだから。――逡巡などしている暇は無いのだ。
 早く助けに行かなければ、守れない。それだけは嫌だ。この身を焼く熱量よりも、守れない後悔の方がはるかに痛い。

 脳裏にマユの左手とステラの死に顔とレイの顔が映った。
 守れなければ、同じようにして死ぬだろう。
 ステラと似た彼女も、レイと似た彼女も、マユと重なってしまう二人の子供達も。
 この世界に来て良くしてくれる仲間達も全て。あの時守れた子供も、家を奪われた人々も、クラナガンで休日を謳歌する人々も。
 その、何もかもが。

「ふざけるなっ……!!」

 全身を焦がす光条。身体を捻りながら、その隙間に身体を滑り込ませ、近づく――両肩と腰、膝にフィオキーナを更に待機させる。
 彼我の距離。およそ数十m。
 接触までは4秒/レイダーが砲口を向け直すまでには約1秒必要。
 その4秒で近づく。勝負を決める。冷徹な思考に身を浸す。モビルスーツに乗っているような錯覚を覚える。
 自身が人間ではなく、一つの機械になったかのようなデバイスとの一体感。

 紅い光条――熱量が前髪を焦がす。接触寸前で左肩からフィオキーナを発射。回避。
 続いて紅い光条。フォビドゥンが放った熱線――シンから見て左斜め上から抉り込むようにして迫る。
 握り締めた手は離さない。加速した速度も減速しない。左に回避しても曲がり込む光の軌道上になる為逃れられない。
 右側――回避する前に接触の可能性が高い。
 上空へ回避――重力と言う枷がある以上、上空への移動は減速の危険性がある。却下。
 故に、

(……本当、落ちてばっかりだな、俺。)

 そんな益体も無い事柄が思い浮かぶ――地面との差は僅かに数m。
 「ひゅっ」と息を吸い込むとシンは自身の両肩背面、背中、腰背面から、同時にフィオキーナ――総数6発――を放つ。

「ぐっ……ぎっ……!!」

 無理矢理の方向転換。身体にかかる重力。地面が迫る。
 膝が地面に当たる。痛みが走る――感覚が加速しようとも痛覚は消える訳ではない。

「っ……!」

 奥歯を力の限り噛み締め、肉体に掛かる重力と地面との接触の痛みを堪える。
 フィオキーナの発射によって左斜め上を抉り込むように飛来する紅い光を回避――接触圏内へ突入。
 直ぐさま、デスティニーを変形。ケルベロス(砲撃形態)からアロンダイト(斬撃形態)へ。
 
 腰溜めに突き出すように構える――ヤクザがナイフを突き出すような構え。
 身体ごとぶつかる、その体勢は相対した場合驚くほど回避が難しい――アロンダイトの柄を右手で握りこむ。
 ケルベロスからは完全変形させない。
 刀身に現れた取っ手は収納せずにそのまま左手で、ビリヤードのキューでボールを突く様に握り締める。
 加速された速度。シン・アスカの体重。デスティニーの重量。全身の筋肉。フィオキーナによる加速。
 それら全てが混ざり合い、絡み合い――全霊を込めて衝き破る。今のシンに出来る最高の一撃。

「くらえ……!!」

 カラミティが反応する――だが、もう遅い。
 あちらの攻撃はもう間に合わない。こちらの攻撃は確実に当たる。その絶対の距離。約4m。
 接触する/激突する=破壊/貫入――魔力圏内を侵し、衝撃がダメージへと変換。
 手ごたえは変わらず硬い。気にすること無くそのまま、突き破らん勢いで身体ごとアロンダイトを押し込む。

「うおおおおおお!!」

 絶叫。カラミティの鎧――TPS装甲を貫こうとする。手を震わす手応え――鋼の感触。硬い。まるで効いていない実感。

(だったら――!!!)

 背部に追加したフィオキーナを再度精製――発射方向を全て後方に固定。発射。更に加速。
 背部から自身の身体を押し潰そうとするフィオキーナと両手が握り締め支えるアロンダイトの鬩ぎ合い――その勢いに負けて握り締めた手が外れそうになる。

「……っ!!」

 瞬間、アロンダイトの柄を肩と腰で支えるように抱き締め、身体ごと支持する。
 先ほどまでと違い、手を介さない直接接触――振動がそのまま身体に伝わる。
 視界が揺れるどころではなく定まらない。自分がどこに向かっているのかも分からない。

「――!!!」

 言葉に出来ないほど――絶叫。
 身体中の力を全て使ってアロンダイトを抑え込み、敵を穿ち貫く為に。振り落とされそうになる自分を鼓舞する為に。
 だが、貫けない。
 シンは知らないがその装甲は彼が大戦時に使用していたモビルスーツ・デスティニーのVPS装甲と性能面については互角とも言えるTPS(トランスフェイズシフト)装甲である。
 物理衝撃については殊更に強い――人の手で破壊出来る代物ではない。
 
 ――刃は1mm足りとてその鎧には押し込めない。
 だが、その勢いを押さえつけられないカラミティは弾丸と化したアロンダイトによって押し通されていく――両足は既に地面から離れ、為す術無く後方に持っていかれる。
 加速する二人。弾丸の如く、流星の如く――地面に激突する。爆発。塵煙が舞い昇る。
 それでも1mm足りとも刃は鎧に入り込んではいない。
 その結果を気にすることなく、シンはカラミティの首元にアロンダイトの刀身を振り下ろした。
 
 ガチン、と硬い金属を叩いたような手応え――予想通りの感触。元より首を断ち切るようなつもりはない。
 そのまま刀身の峰を左足で踏みつけ押さえ込む――カラミティの首元で固定されたアロンダイト。
 即席の拘束。バインドを使えない以上は物理的に動きを止めるしかない。

「デスティニー!!」

 デスティニーに意思を伝える――情報展開。
 アロンダイトがケルベロスへと変形。左足でデスティニーを踏みつけ押さえ込んだまま、左手で取っ手を掴み、右手で柄を握り締め――。

『……Vajra.get set』
 
 “彼女”の判断は了承。
 再度変形。ケルベロスの砲口が“閉じる”。
 デスティニーのどこか拗ねたような声――その反応も当然と言えば当然の反応だった。
 何故なら、今しがたの指示は彼女自身を“分解”すると言うことだ。不機嫌にもなろうというものだ。
 
 その言葉と共に、ケルベロスの砲身が輝く――内部から溢れる朱い光。
 ケルベロスによって発射されるべき魔力が砲口を閉じることによって砲身内部に“閉じ込める”。
 内圧が膨れ上がり破裂しそうなほどに圧縮されていく朱い魔力光。
 制御不能なほどに高密度に圧縮されてゆく魔力――開放させろと言わんばかりに砲身が震え出し、膂力によってそれを押さえ込む。
 速く速く速く――焦り始める意識。
 内圧によっていつ爆発するか分からないと言う焦りと、押さえ込んだカラミティがいつ反撃するか分からないと言う焦り。
 一秒にも満たない――体感時間ではおよそ数秒にも匹敵する焦燥。

『Mode change.Form Alondite“incomplete”.』

 デスティニーの電子音による呟きと同時にデスティニーが再び変形する。
 柄が伸びる――当初数十cmほどしかなかった柄は一瞬で1.5mほどにまで伸張する。
 その柄を両手で握り締め、一息で“引き抜く”。
 砲身内部で圧縮し加速し固定されたケルベロスの砲撃。砲身/鞘より出でしは陽炎のように揺らぐ朱い炎の大剣。

「あああああああああああっ!!」

 発狂したかのような絶叫。その絶叫そのままの勢いで“更に”魔力を注ぎ込む/流し込む/収束展開/限界突破。
 刀身が更に具象化する。天に向かって伸びて行く朱い光。
 同時にシンの全身を覆っていた朱い光がその柄に吸い込まれるようにして、消えていく。
 そして、シン自身気付いていないが、周囲の瓦礫の崩壊が加速していく。
 瓦礫は見る間に罅割れ風化し、アスファルトには亀裂が入り、ボロボロと崩れ、空気は淀み、草木は枯れて、水は濁りを深めていく。
 文字通り、全てを貪り、“ソレ”は姿を現した。
 
 ――“ソレ”は一言で言ってあまりにも巨大だった。
 
 形状は肉屋が肉を解体する時に使用する肉切り包丁のような装飾の無い形状――まるでシンの心象を表したかのような刀身。
 色はシンの瞳と同じ燃える炎の朱。目に映る全て――それは自分自身さえも含めた全てを燃やし尽くさん
とする破滅の火。
 
 展開するだけで全身の魔力と言わず全ての力――生命そのものを吸い取られているように感じられる凄まじい魔力消費。
 無理矢理に魔力を奪われていく反動で全身の神経を激痛が走りぬける――奥歯を砕かんばかりに噛み締め耐え抜く。
 絶叫で自身を鼓舞することでしか堪えられない。
 発現させた全長約10mほどの炎の剣。その名をアロンダイト・インコンプリート。
 デスティニーに登録されている、“ある機能”の劣化版である。
 だが、劣化版とは言え、その威力は凄まじい。
 少なくとも付近一帯を薙ぎ払う程度はやってのけるであろう、規格外の“巨大斬撃武装”である。

「……」

 シンに言葉を紡ぐ余裕はもはや無い。
 一撃で終わらせる。後のコトなど考えるな。
 身体がどうなったとしてもリジェネレーションは全てを癒す――その先に何が待っているかなど考えるな。
 今、この時、敵を駆逐する以外のことを考えるな。自分はただ守るだけのモノ。
 それ以上のことを考える必要は無い。そんな機能はいらない。
 だから――振り下ろせ。そして、終わらせろ。
 彼の内面の暗い部分が呟いた。
 その囁きそのままに振り下ろそうとし――
 その時、爆音が起きた。まるで気にしていなかった方向が爆発した――何かが弾け飛んだような爆発だった。
 思わずそちらを振り向く。
 吹き飛ばされた――“何が?”

(まさか――)

 思い至った事実に焦燥が加速する――思考が肉体を止め、一瞬の硬直が生まれる。致命的な瞬間。

「げふっ!?」

 腹部に衝撃。カラミティが右足で蹴りを放ち、つま先がシンの左脇腹にめり込んでいた。
 痛みを感じ取る暇もなく、成す術無くシンの身体が吹き飛ばされる――吹き飛ばされた衝撃で爆発が起きる。
 空気を揺らす震動。消失する朱い炎の巨大包丁。
 立ち上る噴煙。しばしの静寂――それを破る言葉。

「……まさか、ウェポンデバイス3体相手に渡り合った挙句に斃しかけるとはな。貴様には驚かされるよ、シン・アスカ。」

 瓦礫の中に埋もれたシンの焦点を失くした朱い瞳がそちらに向けられる。
 そこにはトーレ――以前、戦ったナンバーズがいた。
 その傍らには見た事の無い眼鏡をかけ、ラバースーツを来た女――恐らくナンバーズ。事前に聞いた情報に照らし合わせれば、クアットロという幻術使い。

 瓦礫をどかし、立ち上がろうとして、身体が動かないことに気付く。
 全身――特に今しがた蹴りこまれた左脇腹から蒸気が上がっていることに。
 リジェネレーションによる高速再生である。
 恐らく、アロンダイト・インコンプリートの使用による反作用だろう。
 動けるようになるまでには少なくとも十数秒の時間が必要となる――デスティニーからの“情報展開”による連絡。

「……今の、爆発……。」

 無理矢理に身体を動かして、爆発があった方向に目を向けようとする――真横、直ぐ近くから音がした。何かをこちらに向ける音。

「……ちっ」

 舌打ちし、そちらに眼をやる。予想通りにこちらに砲身をむけるカラミティがそこにいた。
 至近距離のその間合いでは万が一、億が一にも外すことはあるまい。対してこちらは満足に身動きも出来ない――手詰まりを感じた。死ぬ。
 砲口を睨みつけばながら、迫り来る死と対峙する。
 だが、死ぬ訳にはいかない。瞳だけを爆発が起きた方向に向ける――誰かが吹き飛ばされてきた。
 誰が吹き飛ばされたのか――決まっている。機動6課の誰かだろう。

(……早く、あそこに行かなきゃいけない。)

 守る為に。死なせない為に。
 その為には目前の敵――カラミティに殺される訳にはいかないのだ。今はまだ。
 そう考え、睨みつける。そして、砲口に光が灯る――死がその姿を現す。覚悟を決めて身体を動かそうとする。

(いく、ぞっ……!!)

 胸中で叫び、動いた。カラミティの砲口が光った。
 その砲撃に先んじて射線上から肉体をどかす。
 一撃目を回避。頬が焼ける。鋭い痛みが走った。痛覚を無視し、進む。
 手に持っているのはデスティニーの柄の部分だけ。刀身などは先ほどの場所に放置されたままだ。
 引き寄せる暇は無い。そこに行く暇も無い。
 だから、魔力を先ほどと同じように流し込こみ、魔力による刀身を形成しようとし――不意に、“ソレ”に気付いた。
 
 ソレは奇妙な光景だった。
 瓦礫が風化したように崩れていっているのだ、それも自分を中心にして。さながら、それは流砂のように。
 風化し、崩壊し、砂と成り果てていく瓦礫の山。ありえない光景だった。
 瓦礫の素材は殆どがコンクリート。コンクリートとは少なく見積もって数十年という単位で強度を維持する。
 コンクリートによって作られた構造物とは作成された時点よりも数週間後の方が強度が高くなる。
 たとえ、目前にあるように瓦礫の山と化しても風化し崩壊するなどありえない話だ。

 ならば、これは何故起きている?
 目前の鎧騎士の魔法かと思い、そちらを見る。
 が、カラミティの足元で崩壊は起きていない――それどころか、崩壊は自身に近づけば近づくほど顕著になっていっている。
 つまり――

(俺の魔法……?)

 周囲を崩壊させる魔法。そんなものを起動した覚えは無い。
 大体、今使っている魔法は、エクストリームブラストとパルマフィオキーナ。
 そんな効果の魔法はない。

(いや、もう一つ、ある。)

 リジェネレーション。肉体を高速再生する魔法。その効果は規格外。死ぬ寸前の肉体ですら再生させる。
 後遺症は無い。
 そして、驚くことに、この魔法は魔力を消費しない――するにはするものの、最上と言ってもいい効果とは逆に非常に魔力の消費は少ないのだ。それこそ消費しないと言っても良いほどに。

 何かが頭の中で過ぎる――今まで考えようとしなかったこと。考える必要もなかったこと。
 戦って、誰かを倒して、誰かを守る。それだけを考えていればそれでよかったから。
 
 魔法の論理。魔法とは荒唐無稽のようであっても、そこには確かな術理が存在する。
 無から有を生み出しているように見えても、魔法は無から有を生み出さない。
 魔力を消費し、現象として現実に影響を与える。
 それが魔法であり、根幹となるのは魔力と、発生させる現象。それらを理解してこそ魔法は正しく在るのだ。
 奇跡ではなく、技術。魔法を使うにはそれなりの対価――魔力が必要となる。
 ならば、リジェネレーションほどの効果の魔法の魔力の消費が少ないと言うのは異常な話だ。そう、原理として在りえないほどに。

 ――フェイト・T・ハラオウンは衰弱していた。魔力を消費し、骨折しただけにしてはありえないほどに。
 
 まるで、“何かに命を吸い取られたかのように”。
 奇妙に思ったが自分は気にしなかった。気にする必要はなかったから。守れていること――それだけが大事なのであり、他の事は雑多なのだから。
 
 だから、知らない。何も知らない。
 言葉が反芻される。喉が痛い。頭が痛い。嫌な予感がする。
 開けてはならない扉。それを開けると言う嫌な予感――戻れなくなると言う確信/戻りたくないと言う願望。
 
 “肉体を高速再生する。死ぬ寸前の肉体ですら再生させる”。
 
 “何かに命を吸い取られたかのように”。
 
 魔法とは全て術理であり、荒唐無稽に見えてもその内実は法則性に則っている。
 世界の全てがそうであるように、魔法もまた同じ原理に則って存在する――即ち、“等価交換”の法則は万理に共通なのだから。

 なら、エクストリームブラストやリジェネレーションという魔法の消費は――どこから来ているのだろうか。
 明らかに魔力消費で言えば自分自身の魔力量を大きく超えているのは間違いない。
 なら、ソレはどこから来ているのだろう?
 
(……まさか……)
 
 そして、正解に突き当たる一瞬前。そこで全てが終わった。

「え」

 そうやって、モノ思いに耽っていたのが悪かったのだろう。
 
 ――時間にして、それは刹那にも満たない逡巡かもしれない。
 だが、戦闘における刹那とは人生における永遠にも等しい。
 闘い――殺し合いとは永遠と永遠の鬩ぎ合いに他ならない。
 
 “だから”こうなるのだ。こんな“死ぬような致命傷”を得る羽目に。

「……か、は」

 漏れる吐息。痛みは無かった――ただ、熱さがあるだけだった。
 焦げた肉の匂い。人の脂の焦げた匂い。思わず鼻をつまみたくなるほどに醜悪な匂い。
 何が起こったのか、理解は出来なかった。来たモノ自体は昔から――2年以上前からずっと覚悟していたこと。
 一度目は訳も分からずに逃れ、二度目は鍛えた力で凌駕し、三度目は裏切られた。
 
 死。生命の終わり。
 今、それがここに在る。死の実感は脂の匂いと焦げた匂いと上がる煙。
 膝を突いた。力が入らない。激痛は無いが、その代わりに熱さがあった。
 腹部に感じる熱さ。暖かな死の実感。
 向こうを見れば、カラミティの方向から煙が出ている――撃たれた。

「……あ」

 ――脇腹がゴッソリと無い。
 綺麗な円を描くようにして抉り取られていた。
 内臓が見えた。ピンク色の内臓と真っ白い骨。
 溢れ出す血液と共にそれは病的な美しさで、ただ蠢いていた。失ったモノを嘆くように。

「あ、あ……」

 か細い吐息は無力な虫と同じく、耳障りで心を落ち着かせない。
 意識があるのが奇跡に近い致命傷。
 死ぬ。あと数分で。
 如何にリジェネレーションと言えど、治せる怪我ではない――当然だ。
 腹に直径30cmほどの大穴が開いているのだ。死ぬに決まっている。
 自分が死ぬことを考えたことがなかった訳ではなかった。むしろ考えすぎるほどに考えてきた。
 いつだって彼の人生は死と隣り合わせだったから。
 右を向けば誰かが死んでいて、左を向いても誰かが死んでいて、前を向けば既に自分が殺していて。
 戦時中は自らの意思で。戦後は極力殺さないようにして、仕方の無い場合以外は殺さなかった。
 それでも殺した人間の数は両手の指の100倍では効かないだろう。
 殺した人間の数など数え上げれば切りが無い。それくらいに殺した。殺し続けてきた。
 そんな自分がずっと生きていられる訳がないと思っていた。
 死んだ方が世のためかも知れない――そう、思ってきた。
 だから終わりは唐突にやってくる。そんな確信はずっとあった――まさか、この瞬間に来るとは予想外もいいところだったが。

「は……あ……」

 そんな中で、自分自身にさえ死んだ方が良いと思われているシン・アスカは、それでも“願った”。
 守らせろ、と。
 死ぬのは良い。問題ない。だが、直ぐ近くに傷つけられた誰かがいるのだ。
 それが誰かは分からない。腹部の熱で壊れた自分の馬鹿な頭ではそれが誰かすら思いつかない。
 けれど、その誰かは、まだ死んでいないかもしれない。生きているかもしれない。生死を確認出来ていない。

(だったら――守れ。)

 生きているか死んでいるか分からないのなら、守り抜いて確認しなければならない。
 願いの成就の為に生きる彼は、その願い(ノロイ)に縛られることで、息をして、心臓を動かして、身体を動かしているのだ。
 だから。

「です、てぃ、にー……」
『All right,brother.Let's grant a wish.(ええ。願いを叶えてあげましょう。)』

 嬉しそうに、笑うようにして、デスティニーは言霊を紡いだ。

『The wish that is fascinating like the curse(その呪いのように艶やかな願いを。)』

 紡ぐ声は穏やかな調子で、声色は女性の声。電子音であることに変わりは無いが――前よりも声としての輪郭がはっきりしている。
 デバイスの本分とは即ち主を助けること――端的に言えば願いを叶えることだ。
 だから、デスティニーは願いを叶える。主の望む結果を引き寄せる為に。

『Mode Extreme Blast.Gear Maximum――get set.』

 その言葉を皮切りに瓦礫に埋もれたデスティニーの刀身が青い輝きを放ち始める。
 その光を受けた瓦礫が瞬時に砂になって崩壊し、次の瓦礫も崩壊し、その次の瓦礫も崩壊し、デスティニーの周りに存在した全ての瓦礫が全て砂となって崩壊し――そして、デスティニーが浮かび上がった。青い光は輝きを弱めるどころか更に強めていく。
 ひゅん、と風を切る音がした。デスティニーがシンに向かって弾丸もかくやという速度で飛び去っていく。
 彼らの間にあった距離――数十mと言う距離が一瞬にして零になり、シンが右手に握り締めた柄と合体し、一つになる。
 
 ――そして世界がその色を変えた。
 
 周囲に存在する“全て”から糸が伸びていく。
 瓦礫や地面や草木だけではなく、空気や砂や――勿論近くにいるカラミティ自身からも。
 そして伸びていく糸は全てシンの身体に接続されていく。
 糸は蝶や蜂が蜜を吸うように、どくんどくんと鼓動を刻むように蠢きながら、何かを吸い上げる――それと並行するように時間が巻き戻るようにしてシンの腹部の致命傷が塞がっていく/消えていく。
 新陳代謝を活性化した上での再生よりも尚早く、致命傷を負ったと言う事実そのものを修正するような“復元”ともいえる回復速度。
 死に掛けている人間を治すどころではなく、死人も同然の人間を引き戻しているのだ――三途の川の此方の側へと。
 輝きは消えない。そして、消えかけていたシンの全身を覆う朱い光が輝きを強めていく。
 青い光を放つデスティニーと朱く燃えるシン・アスカ。

「……ぅ、ぁ。」

 虚ろな瞳と開いた口。白痴のように呆けた顔。
 頭に浮かぶ思考は一つだけの純粋な願い。
 
 “守れ”。
 
 その願いに従い、彼は立ち上がった。
 そして――唇を吊り上げて微笑んだ。
 意識とは無関係のその微笑み。
 それは多分願いを叶えることの満足感が嗤わせた、亀裂の入ったような微笑み――強欲な微笑み。
 蹂躙が始まる――血で血を洗う蹂躙が。
 足を踏み出す。未だに意識は戻らない。けれど、身体は守護を求めて亡者のように彷徨い動く――願いを叶える為に。
 
 ――こうして絶望は揃い出す。螺旋のように狂狂(クルクル)と。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 36.慟哭の雨(e)
Name: spam◆93e659da ID:17f428f0
Date: 2010/05/29 17:59

 絶望と言うモノが突然やってくるものだと知ったのはいつのことだろう。
 多分、あの時、母が死んだ事を聞かされた時のことだ。
 父から母が死んだ事を告げられた時――正直理解出来なかった。
 その数日前まではいつも通りに生活していたのだ。話もしたし、一緒に寝たし、お風呂にも入れ――はしなかった。
 私はもう子供じゃないからと母と一緒に入らずスバルだけが一緒に入った。
 ――ギンガはもう子供じゃないからね。
 そう言った母の顔に少しだけさびしさがあったのを覚えている。
 後悔があった。そして、それ以上に悲しかった。
 数日後、母が死ぬなど知らないのだから仕方ないことだけれど――それでも、その時自分はそれを悔やんだ。
 悔やんで悔やんで悔やんで――そして、自分は母と同じ道を歩む事を決めた。
 母と同じ技を磨き、母の夢を継いで――それがはなむけになるのだと信じていた。
 まさか、自分の人生の終わりが、母と同じになりそうだとは思いも寄らなかったけど。
 

 全身が痛い。
 掠り傷程度の怪我も何十と重なれば甚大な痛みをもたらす怪我に変貌する――そんな事実を今さらながらに確認する。
 嵐の如き、クアットロとトーレの攻撃から逃れ、ギンガとフェイトは一息をついていた。
 周辺を警戒しつつも、荒く乱れた息を整えていく。
 体力には自信があったギンガだが、今回ばかりはその体力にも翳りが見えていた。
 隣を見る。コンクリートの壁に背中を預け、自分と同じように息を整えるフェイトを見やる。

「フェイトさん……どうですか?」

 どうですか、と聞く自分自身の語彙の少なさに泣けてくる。この期に及んで気の効く言葉も言えない自分が情けなかった。

「……ちょっとまずいかな。」

 答える彼女の言葉にも力が無い。
 シンやスバル、ティアナと分断され、個別に戦わざるを得なくなった起動6課のフォワード陣。
 その中で彼女達二人――フェイトとギンガはナンバーズ・トーレとクアットロと戦っていた。
 戦力で言えばフェイトとギンガの相性は悪くは無い――むしろ最高とも言える。
 味方に合わせることが上手いギンガと単身での戦闘能力であれば6課随一とも言えるフェイト。
 どちらも近接型であることも絡み合い、この二人がペアを組んだ場合の戦闘能力は6課どころか管理局でも有数の近接魔導師の組み合わせとも言える。
 だが――現状はそんなスペックとは裏腹に芳しくない。むしろ、絶体絶命とさえ言えた。

「……トーレはともかく、クアットロがね。」

 そう言ってフェイトは周囲の空間を見た――まるで装いを変えた“世界”を。
 同じくギンガも周りを見る。金色の瞳――戦闘機人としての力を発揮した彼女の目には様々な索敵能力が備わっている。
 それこそ赤外線など様々な視覚では認識できない可視光線までも認識できるような。
 
 だが――その“眼”を持ってしてもこの“世界”を看破することが出来なかった。
 そこは、あの場所――シンが蒼い鎧騎士に殺されかけ、フェイトが白い鎧騎士に完膚なきまでに敗北した場所。
 陸士108部隊の一地方都市――アルセストと言う西方の都市である。
 
 無論、現在の場所は違う。
 彼女達が今いるのはミッドチルダ北部の一地方都市――アーテルスと言うまるで別の場所である。
 だが、彼女達の視界にはその街は映らない。
 空も、家も、道も――空気ですらも違うのだ。
 台風の影響で本来なら曇天であったはずの空。それが今は朱く染まっている。

「これが、全部幻影なんて……信じられませんね。」
「うん。こんな幻影、私も見たこと無いよ。」

 クアットロの能力とは幻術である。それは感覚すら騙す高度な幻影を発生させる能力である。
 けれど、彼女の能力はそれだけだ。
 こんな在り得ないほど巨大な規模で幻術による世界を作り出す能力など無かったはずだ――大体、そんな幻術など聞いた事がない。
 それに彼女達を悩ますのはそれだけではない。
 フェイトの上空の空間が歪んだ――波紋が広がる、同心円状に。

「……フェイトさん!!」

 背筋を走る悪寒。一瞬早くソレに気付いたギンガが声を発した。

「もう、見つかったの……!?」

 即座にその場から飛びのく二人。跳躍――左方に移動。
 次瞬、何も無い空間から、間欠泉のようにして紅い光が発射――その数は軽く数十を超える。

「くっ……!」
「ギンガ、直ぐに動こう。ここはもう知られてる……!!」
「はい!」

 掛け声と共に走る二人――ギンガやフェイトの身体には幾つもの火傷のような紅い傷痕があった。
 バリアジャケットは所々が破れ、傷だらけになっている。
 先ほど発射された紅い光――何度も何度も放たれたソレを避け切れなかったからだ。
 一瞬前に空間が歪むと言う前兆現象が発生し、その直後に発射される数十の紅い光――熱線。
 単発の威力はそれほどでもないのでバリアジャケットがあるならば防ぎきれない訳ではない。単発なら。
 
 だが、クアットロはこれを間髪入れずに豪雨のような発射を繰り返す。それこそ避ける隙間など無いほどに。
 フェイト・T・ハラオウンにとっては最も相性が悪いと言って良い相手である。
 元々彼女は回避を前提とした近接型である。 攻撃力・速度重視の果てに防御力を削り取っていったのだ。
 長所を伸ばすと言う彼女自身の方針に従って。
 
 普通なら掠り傷一つ追う事は無いだろう。当たらないのだから。
 当たったとしてもたいした怪我をすることもない。

 だが、クアットロのその熱線は全方位から放たれる豪雨の如き攻撃。
 避けようにも避ける隙間が存在しない――故に耐えることしか出来ない。
 装甲を削った弊害――防御力の絶対的な低下という弱点。
 通常ならば大した怪我にもならない攻撃は、彼女に対してのみ致命的な攻撃になりかねない。
 故に今、彼女は先ほどまでのような水着もかくやと言う出で立ち――真・ソニックフォームではなく通常のバリアジャケット――ライトニングフォームを着込んでいる。苦肉の策ともいえる延命案である。

 そして、ギンガもまた苦しんでいた。彼女もフェイトと同じく、クアットロと相性が悪いのだ。
 彼女の使う魔法――シューティングアーツとは先読みによる戦闘構築を主とする武術である。

 敵が次にどうしたいのか、どうしようと考えるのか、等の戦闘情報を取得することでそれは成り立っている。
 砲撃魔導師であれば、砲撃の方向・種類・弾速・連射速度・精度・特定の状況における判断などから判断する。
 近接魔導師であれば、攻撃の種類・武装・速度・精度・攻撃の傾向・距離などから判断する。
 
 ここに共通するのはどちらも相手を観察すると言う行動が必要となることだ。
 観察の結果、情報を取得し、取捨選択する。これがシューティングアーツの基本的な流れなのだから。
 だが、クアットロの攻撃はそれが出来ない。
 何故なら彼女は“姿を隠してただ撃っている”だけで狙ってなどいない。
 狙う必要も無いのだろう――大規模に雨のように降り注ぐ魔法ならば狙いをつける必要など無いのだから。
 
 クアットロは狙わない。
 大体の場所さえ分かれば、そこらへんに向けて適当に攻撃を放てば良いだけなのだ。
 当たる当たらないは、問題ですらない。
 ただ、ギンガとフェイトの動きを阻害するというそれだけの意味合いしか、そこには存在していない。
 故に避けられないし予想できない――する必要も無い。
 狙わず適当に撃つ――逆を返せば決して予想されないように徹底しているのだ。
 攻撃に対する対処法も見つけていないギンガが情報取得など出来ないように。
 敵の姿は見えない。熱線の出所は分からない。
 その上、狙いをつけることも無い徹底した無差別射撃。
 情報を取得しようにも取得できない状況――シューティングアーツにとっての鬼門である。
 問題はこれだけではない――こんなものはまだ序の口だ。
 
「はあぁっ!!」
 
 裂帛の気合と共に振り下ろされた紅い大剣――インパルスブレード。
 全身を紅く染め上げ、目にも映らぬ速度で追い縋る――猟犬の如く。
 一撃の威力はそれこそフェイトのライオットザンバーにすら比肩するほどの威力である。
 ナンバーズ・トーレ。紅い翼の魔人。
 
 幻惑から放たれる熱線による無差別攻撃と超高速から放たれる必殺の一撃。
 数の暴力と威力の暴力。組み合わせとしては最高――彼女達にしてみれば最悪――だった。
 どちらか一人だけなら対処も出来たかもしれないが、現実はそれほどに甘くは無い。絶体絶命――既に終わりは見えていると言っても良い。
 紅い刃が迫る――狙いはフェイトの首筋。一息で彼女の首を撥ねるつもりなのだろう。

(諦めるな……諦めたらそこで終わる。)

 大剣の姿となったバルディッシュアサルトを握り締め、その一撃を受け止める。

「くっ……ああっ!!」
「ちいっ……!」

 紫電が走る。焔と雷の鬩ぎ合い。
 全身の筋力を総動員して、インパルスブレードを受け止める。両者の体勢は鍔迫り合い――好機到来。その一瞬を逃すことなくギンガの足が動いた。
「ナックル――」
 
 唸る刃金。回転するリボルバーナックル。土煙を上げて加速するブリッツキャリバー。一瞬で最高速に到達。
 魔力を集中し、全面に展開。正拳突き――穿ち貫く。

「バンカーッ!!」

 叫びと共に左拳の一撃が放たれる。前傾姿勢となって、全体重を込めた全力の一撃。
 必殺の一撃とはいかないまでも、必倒程度の威力は込められている。
 鍔迫り合いに集中するトーレはそれを避けられない。
 ギンガの一撃を避ければフェイトがすかさず攻撃するだろう。フェイトとの鍔迫り合いに集中したならばギンガの一撃が届くだろう。
 手詰まりの状況――だが、トーレはギンガを気にすること無く鍔迫り合いに集中する。ギンガの攻撃を気にする必要など、無いからだ。
 何故なら――

「……私のこと、忘れてません?」

 ギンガの背後から放たれた声。視界に映りこむ熱量の反応。
 1,2,3,4,5,6……瞬き一つの間で視界全てを埋め尽くす熱量反応――紅い光の雨。

「っ!?」

 瞬時に転進し、右前方に向かって力の限り跳躍――瓦礫だらけの道路に突っ込むようにして着地、瞬間後方で小さな爆発。
 振り返れば、それまで自分がいた場所から煙が上がっていた。

「あら、残念です。もう少しで命中するところでしたのに。」

 残念そうに、笑いながら呟くクアットロ――それまではその場所に彼女の姿などなかった。隠れていたのか、それともこれも幻影なのか。
 どちらにしろ、誘われたと言うこと。ぎりっと奥歯を噛み締め、ギンガはクアットロに突進する。
 加速するギンガ――十数m先ではフェイトとトーレが未だ鍔迫り合い/膠着状態の様相を呈している。
 クアットロは攻撃をしない――もしかしたら、そこにいるのは本物ではなく幻影なのかもしれない。
 だが、それでいい。
 それで十分だった。猶予が欲しかった――必殺を行うだけの猶予が。

「ブリッツキャリバー……!」

 背負い投げの如く身体を前傾させ、カートリッジを連続で3発リロード。跳ね上がる魔力量。
 彼女の考えていることは簡単なこと。
 I・Sであろうとなんだろうとそこに魔力が絡んでいるのは間違いない。
 原理や構造は違えども、この幻影は魔法に近い側面を持っているのだ――現に魔力素の気配だけは消せていない。
 だから、この幻影が、魔法に近い構造なのだとすれば――壊せるかもしれない。

(幻影ごと――衝き破るっ!)
「リボルビング――!!!」

 左手に魔力が集中し、渦を巻く。
 左腕から張り出した翼の如き積層型トライシールドが、回転し、集束し、螺旋じれていく。
 形状変化――翼は杭へと変わる。撃ち貫く最適の姿へと。

「ステ――クッ!!」

 左腕を突き出す。クアットロに命中――その姿が消える。予想通りに幻影。気にしない。
 構わずにそのままリボルビングステークを撃ち放つ。
 放たれる“魔法殺し”の杭――それが魔力素を使用した技術であるなら、魔法であろうとI・Sであろうと関係ない。
 魔力の螺旋が食い荒らすのは魔力素が構成していると言う骨組みそのもの。
 幻影が魔力素を使用しているなら、必ず破壊出来る――コレはそういう魔法なのだから。
 “手応え”が届く。予想通りにこの幻影は魔力を使用している――手応えは魔力破壊の手応え。
 
 ――空間が割れた。閉じられた箱庭である幻影が壊れる。

「壊せた……!」

 壊れた幻影のその先――現実の世界。そこに、朱く燃え上がる炎が見えた。
 3対1と言う圧倒的に不利な状況であっても構わずに突っ込んでいく朱い炎を纏った戦士。
 見覚えのある姿。その出で立ちを見間違えるはずがない――彼女がそれを間違えるなど絶対にありえない。
 例え100m先の人ごみの中にいようとも絶対に見つけ出す確信があるのだ――間違える訳が無い。

(シン。)

 シン・アスカがそこにいた。こちらのことなど関係無しに戦っている。

「この“詐欺師(フラッドロ)”の結界を壊せすなんて……ゼロ・ファースト、貴女一体どんな手品を使いましたの?」
(クアットロ!?)

 背後から聞こえた声に即座に振り向く。
 知覚出来なかった。気配など皆無。動いた様子も無い――否、初めからこちらの五感は完全に捻じ曲げられているということを考える
 視界一杯に広がるクアットロの右手。避ける暇すらなく、その右手がギンガの額を掴んだ。
 ぞくりと背筋を震わす悪寒/恐怖。
 身体を反り返らせるようにして後退――クアットロの瞳と眼が合う。
 爛々と輝く朱い瞳。その瞳の中心に浮かび上がる戦闘機人の証――金色。知覚出来たのはそこまでだった。

「がっ!?」

 頭が後方に吹き跳んだ――衝撃。
 視界が定まらない。湧き上がる吐き気。抑えられない。足元もおぼつか無い。
 膝を突いた。胃が軋む。凄まじい胸焼け――堪らず嘔吐。黄色い胃液が吐き出された。

「は……あ……あ。」

 屈辱や恥辱を感じる以前に湧き上がる疑問。理解できない。

「あらあら、吐き出すなんて汚いですわね……それとも、ゼロファーストにはそういう趣味でもお有りですこと?」

 軽い侮蔑の口調――酷く楽しげに。

「あな、たは……つっ!?」

 頭を踏みつけられた――地面にギンガの顔がぶつかる。埃が口の中に入った。胃液の匂いが鼻に付く。頬に触れる吐瀉物。

「そういうのが好きなら……協力してあげましてよ。こういう風に……ねっ!!」

 足に体重が掛かる。顔が潰されそうになる。骨が軋む。

「く、そっ……!!!」

 全身の力を振り絞って足元から顔を外す。地面と頬が擦れる。頬から流れる血。刺すような痛み。
 そのままの勢いで身体を回転させ、右足を跳ね上げる。
 逆立ちするような体勢でクアットロの顎目掛けて突貫する右踵。
 それを予想済みだと言わんばかりにクアットロは身体ごと後退することで回避――背中を晒し無防備なギンガに右手を向ける。

「爆ぜなさい。」

 呟き。空間に浮き出る波紋の如き同心円上の歪み――朱い光が輝き出す。

「あ、が……!?」

 咄嗟に背中にトライシールドを展開――重要な臓器などの致命的な箇所だけを防御。
 代償として四肢などの末端に痛みが走る。爆発。衝撃。
 吹き跳ぶ――着地しようとして、失敗。足がもつれた。体力が削り取られている。
 転がりながら、着地。肘と膝から血が流れ出る。

「……う、ぁ……」

 力無い呟き――声にも力が入らない。膝が笑っている。砕けそうになる腰。
 全身に力が入らない――終わりが見えている。かつて無いほどに明確な終わりが。

(死ぬ、のかな。)

 折れそうになる心――絶望が肩に圧し掛かる。
 母が任務で死亡した時の状況は数の暴力で攻め抜かれた挙句だとか。同じようにして、自分も此処で死ぬ。

(……何を弱気になってるのよ。)

 痛む身体に鞭を打ち、ギンガは立ち上がる――その様を見てクアットロが更に微笑むのが見えた。
 嬲り甲斐があるとでも思っているのかも知れない。

(この、ドS……頭腐ってるわよ、本当に。)

 心中はまだまだ元気に毒づいている――殆ど空元気でしかないが。

『ギンガ、大丈夫!?』

 念話が届く。その方向に視線を向ける。フェイトとトーレの剣戟が見えた。

(やっぱり、フェイトさんは……強い。)

 隙を突かれたとは言え一瞬で打ちのめされた挙句に嬲られた自分と違い、フェイトは未だトーレほどの手練れと剣戟を繰り返している。
 ギンガの見たところ二人の間に実力差は無い――何らかの処置か、訓練によって依然とは比べることすらおこがましいほどに強くなったトーレとフェイトは互角――直前のミーティングでは、上と言っていたが、そんなことはまるでない。
 やはり自分よりも格上なのだ、フェイト・T・ハラオウンは。
 そんな恋敵に悔しさと誇らしさの入り混じった複雑な気持ちを抱きつつ、彼女は笑う膝に力を込めて、腰を下ろすことを断固として拒否し、思考を開始する。
 問題点の抽出――現況の把握。
 結末は決まっている。ギンガ・ナカジマは此処で死ぬ。
 そして、自分が死んだ場合はフェイト・T・ハラオウンも死ぬだろう。
 現在、トーレと互角なら、クアットロが加勢したなら確実に殺される。
 考えるまでもない。それが現実だ――それだけは避けなけねばならない。でなければ、“彼”が苦しむことになるのだから。

(せめて……フェイトさんだけでも生き残れるように。)

 悲壮な決意/自己犠牲。
 それすら視野に含めて、ギンガは思考を進める。
 フェイトを生き残らせるためにはどうするべきか――その自己犠牲を。
 現在、予想される最も最悪な未来。
 それはクアットロの幻術で惑わされた上で、放たれるトーレの必殺必中の一撃。
 目にも映らぬ動きから放たれるその一撃は回避など絶無の文字通りの必殺となるだろう。
 現在、フェイトが渡り合えているのは1対1だからであり、2対1になればその時点で勝負は決まる。間違いなく二人とも死ぬ。

(クアットロの幻術さえ破れば――刺し違えることが出来れば、少なくともソレでフェイトさんは逃げられる。)

 然り。
 この状況を打破する為には、“可能な限り早く幻術に対する対抗手段”を見つける必要がある。
 少なくとも彼らが連携を始める前に、だ。
 それが大前提であるのだが――
 目前でこちらをニヤニヤと眺めるクアットロを見る。

(……今、あそこにいるクアットロは間違いなく本物。あの性格ならトドメは必ず自分でするに違いない。)

 サディスティックな人間は総じて“自分が嬲る”ことにこそ快感を覚える。
 自分以外に任せて終わらせることなど決してしない。
 
 だから、あそこでこちらを眺めるクアットロはまず間違いなく本物なのだ。
 ナンバーズとはいえ戦闘型でない彼女の肉体強度はそれほど強くは無い。
 はっきりいってギンガならば一撃で彼女を昏倒させることが可能である。
 けれど、既に彼女の身体は見るまでも無いほどに傷つき疲弊しきっている――その一撃を撃ち込む力が最早存在していない。
 だが、“だからこそ”映える策もある――そう、一つだけあるのだ。
 脳裏に浮かんだ策は、策とも言えない行き当たりばったりのモノだった。

 それは八神はやてがシンにやらせようとしていたことと似て非なること――自らを囮にし、クアットロに近づかせ、倒す。それだけ。
 
 近づく力は無い。だからあえて近づかせ残された力を用いて相撃ち覚悟で攻撃する。
 通常のギンガならば決して考えないであろう策にもならない策。
 むしろ、こういった策はギンガではなくシンが望んでやるようなことだろう。
 惚れた男と似たようなことをして死ぬ――そんな皮肉めいた運命に苦笑したくなる。
 
 馬鹿げた話、それを思い出すと少しだけ嬉しい。シンの気持ちをもっと深く理解できる――そんな気持ちを覚えて。

(……シン、ごめんなさい。)

 決意を胸に乙女は顔を上げた。瞳には決意と言う名の焔が灯っている。

『フェイトさん――あと頼みますね。』

 念話による通信。相手には聞かれないように――振り向くことなく伝えた。

『ギンガ……駄目だよ、ギンガ。』

 瞳だけをそちらに向ける。こちらを見る彼女の視線と合う――瞬時にこちらの意図を理解したのだろう。
 と言うかこの状況ではそれくらいしか打開策が無い状況なのだから当然と言えば当然か――もしかしたら、彼女の冷静な部分は自分と同じ結論に達したのかもしれない。彼女はそれを決してやらせないだろうけど。

『ギンガ、絶対に駄目だよ!そんな、そんなのは、絶対に……!』

 念話の向こうでフェイトが叫んでいる――それをギンガは優しげに微笑んで、返事を返す。

『……死ぬつもりはありませんよ。だって――』

 それは明らかな死の旋律。自分自身でさえ嘘だと思えるような、お粗末な嘘。

『この戦いが終わったら、シンに返事もらわなきゃならないんですから。』

 そこで通信は途切れた。
 フェイトは何も言えないまま、トーレとの剣戟に集中し――そして後悔する。

 ――それはあまりにも呆気ない、まるで嘘のような展開だった。

 クアットロがギンガに近づき、トドメを刺そうとするのが見えた――その時、ギンガが動いた。
 恐らくは最後の力を振り絞っての突撃。
 左腕に現れる積層型トライシールドが形状変化し、杭となり、現れるはリボルビングステーク。放たれるその必殺。
 近づきすぎたクアットロには回避する術など無い――いや、クアットロには回避する必要など初めから無かった。
 クアットロの右手に集まる一際大きな朱い光。先ほどまでの熱線を収束したのだろう。見るだけで威力の程が理解出来るほどに。
 そして――閃光。爆発。昇る塵煙。

 フェイトが確認出来たのはそこまでだった。
 次の瞬間、そこには――クアットロしかいなかったから。
 ギンガ・ナカジマは、跡形も無く、消え去っていた。そこに彼女がいたと言う事実さえ無かったかのように。
 “嘘”みたいに彼女は綺麗に消え去った。

「……ギン、ガ。」
「……終わりだ。」

 インパルスブレードに力が込められる――呆けた一瞬その隙を突いて。

「くぅっ!!」

 思わずその一撃を捌ききれずに吹き飛ばされる。彼我の距離が開いた。その距離凡そ10m。

 ――トーレの瞳が紅く輝く。そして、クアットロがこちらを見た。その紅の中に金色を隠し持った瞳で。

 それを見て、フェイトは確信する――間違いなく自分“も”此処で終わるのだと。

「……フェイト・テスタロッサ。ここがお前の終焉だ。」

 言葉にされるまでもなく彼女はソレを理解する――が、身体はその事実を裏切って突進した。思考は漂白し、何も考えられない。
 ただ、自分の恋敵がいなくなったことが信じられなくて、悔しくて――果たすべき約束さえ忘れて彼女は突撃する。
 金色の閃光と紅い翼が激突する。
 
 ――こうして、絶望は揃い終わり、時計のように廻り出す。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 37.慟哭の雨(f)
Name: spam◆93e659da ID:17f428f0
Date: 2010/05/29 17:59
 アームドデバイス・デスティニー。
 基本設計は聖王教会治安維持部第9課。
 製作は古代遺物管理部機動六課。通称機動六課。

 このデバイスには製作した機動六課にさえ理解できない部分が多々あった。
 中核を成すコアユニット――機動六課メカニックであるシャリオ・フィニーノはただそこにパーツを繋げただけに過ぎない。
 
 無論、コアユニット内部にアクセスして、術式の解析等は行ったのだが――幾つかどうしても解析できない部分も存在していた。
 通常はデバイスのコアユニットと術式は連動しており、それに伴って武装として組み上げられる。
 使用者の性格、体型、戦法などから導き出されたカタチとなると言うことだ。
 構成素材も必然的に決まってくる訳であり、何を使っても構わないと言うモノではないのだ。
 
 だが、デスティニーは違う。これはツギハギだ。
 エリオ・モンディアルのストラーダの予備パーツで構成されており、デスティニーの為だけに製造された部品は実はコアユニットくらいしかなかった。
 とりあえず組んでみたら問題なく動いたと言う代物である。異常である。異常でないはずが無い。

 だが、シャリオ・フィニーノが聖王教会治安維持部第9課にそれを聞いたところ――グラディスと名乗った責任者は問題無いと言った。

『そのデバイスは新技術の塊でね。メンテナンスフリーの実験機なのだよ。』

 メンテナンスフリー。つまり整備不要のデバイスということである。
 設計者がそう言った以上問題無いと言うことで処理をする――疑念が尽きたわけではなかったが。
 八神はやてにも連絡はしてある。その後、彼女の指示で性能検査を行うこと数十回。

 ツギハギでありながら、そのデバイスは“予想通り”の数字を出し続けた。
 その結果からシャリオ・フィニーノは安心した。誰だって安心する。
 性能検査とは、実用に足りうるかという検査である。
 通常の使用と同等かそれ以上の条件下で検査を行うのだ。
 そこで平均的な数字が出れば安心するものだ。
 
 だから、彼女は安心した。このデバイスは問題ないと。
 デスティニーの解析不能のブラックボックス部分――コアユニット。そこに内蔵されているモノが何かを見落として。

 今、デスティニーは蒼く輝いている――こぼれ出すのはシン自身の魔力光とは似ても似つかない蒼。
 フェイト・T・ハラオウンがいたならば、或いは気づいたかもしれない――その輝きがなんの輝きなのかを。
 
 その輝きが意味するモノ――ジュエルシード。願いを叶える宝石。デスティニーのコアユニットにジュエルシードが内蔵されている。
 無論、これは製作者である聖王教会治安維持部第九課のみが知る事実であり、機動六課は知らない。
 そこに格納されているのがエクストリームブラストやリジェネレーション等の術式であり――ソレは倉庫としての役割のみを期待されて、内蔵されている。
 だが、シンとギンガの模擬戦の際に生まれたAIによってデスティニーは開発者が予想しなかった側面を手に入れることになる。
 
 ジュエルシードは願いを叶える宝石――それは何も人の願い、生物の願いとは決まっていない。
 そう、“AI”の願いを叶えたとしても何らおかしなことはないのだ。
 デバイスとは、主の期待を成就させることこそが本分。故に、デスティニーが願ったのは「主の願いの成就」を願った。
 そして、この時デスティニーは主の意思を離れて暴走の危険性を常に孕み続けることになったと言える。
 
 ――願いを叶える、というのはあまりにも曖昧だ。
 
 願いがハッキリしていれば問題は無い。誰かを殺したい、誰かを倒したい、などの特定の誰か――もしくは何か――に対して、特定の行動をしたい、という願いならば。

 だが、通常願いとは
 もっと大規模で曖昧である。
 幸せになりたい、誰よりも強くなりたい、何もかもを守りたい、などなど。
 ジュエルシードは願いを叶える――その力の許す範囲で、出来る限りにその願いを“再現”しようとする。
 
 幸せになりたいのならば脳内物質の分泌量を操作し、常に多幸感を感じ取れるようにする。幸せを感じられれば良いのなら、この方法が確実だ。何があろうと“幸せしか感じられない”のだから。
 
 強くなりたいのならば肉体を改造し――鍛えるのでは時間がかかりすぎる――即座に最強とする。その際に主の身体に掛かる負荷は気にしない。願いには生きていたいとは記されていないのだから。

 そして、シン・アスカの場合は「誰よりも強くなって何もかもを守り続けたい」という願い。
 強くなりたいと言う願いと守り続けたいと言う願い。
 前者はエクストリームブラストと肉体改造によって、後者はリジェネレーションによって。
 
 眼に映る全てを守る狂戦士(バーサーカー)。狂戦士は救えない。戦って斃すと言う行為を主とする狂戦士に誰かを救うなど出来るはずもない。
 “だから”守るのだ。守るとは生命活動の存続――要するに生きていればそれで守っていることになるのだから。
 
 デスティニーはその願いを読み取ってリジェネレーションを“人が死なない程度に”使用している。
 あの時、フェイトが死ななかったのは一重にその願いを再現したからだ。
 リジェネレーションによる生命の搾取を全開にした場合、本来なら生命など一瞬で干乾び風化する
 たかだか“命に関わる程度の衰弱”で抑えられていたことこそデスティニーが搾取の規模を意図的に抑えていたことの証と言える。
 ――ウェポンデバイスについては例外である。彼らは既に“死んでいる”――死人からは如何にデスティニーと言えど命を奪えない。

『アアアアアアアッ!!!!』

 フィルターがかかったような常とは明らかに違う声色。
 獣の如く咆哮し、疾駆するシン・アスカ。
 何も無い空間をまるで足場があるようにして蹴り出す、同時にフィオキーナを蹴り出す方向に発射。
 擬似的に空間に足場が作られ跳躍。飛行では在り得ない稲妻の如き軌道と速度でカラミティに近づく。
 カラミティが砲身を向ける。その砲身の下に滑り込み、身体ごと叩き付けるようにアロンダイトを一振り。
 刃先が音速を突破し、パァンッと音が鳴る=空気の壁を突き破った証明――衝撃と爆風が発生した。
 カラミティが為す術無く吹き飛ぶ。
 鎧に傷はついていない――だが、音速を超えた斬撃の衝撃を吸収しきれるはずもない。
 立ち上がろうとして立ち上がれない。身体に力が入らないのだ。
 
 同時にシンの両手から夥しいほどの血液がぷしゅっと噴き出した。
 掌の皮が全てめくれ上がりその下の筋肉が露出している。
 両手の爪は捻じ曲がり全て剥ぎ飛んでいる。
 眼を覆いたくなるような惨状――直ぐに蒸気を上げながらそれらの傷が塞がっていく。
 
 朱い瞳は何も認識しない。守る為に倒すと言う矛盾。それらを具現する為に、戦いを繰り返す。
 血に塗れた身体と顔。
 口元からは常に血が溢れ続け、バリアジャケットは所々が破れて、煤塗れになり朱色に黒が混じっている。
 全身から蒸気が立ち昇り、血走った瞳は焦点を失い、開いた口から漏れる声は声帯が潰れたようなしゃがれたダミ声。
 その様はもはや人間ではない。人外や化生の類――化け物と呼んで差し支えが無い。目を背けたくなるほどだった。
 
 ――シン自身の意識がなくなったことで、デスティニーはその力を極限にまで高めていく。
 
 焦点を失った瞳は意識を取り戻していない証拠。
 全身を覆う魔力は濁流の如くシンの肉体を取り囲み、それまでの4倍という生存限界を飛び越えて、7倍――人の反射神経の極限にまで加速させていく。
 7倍の速度。それは、目にも映らぬ、目にも留まらぬ、という類ではない。“理解できない”速度領域。認識することすら出来ない認知負荷領域。人間の稼動限界。
 その状態で限界を超えて斬撃を行なえば――刃は音速を超えた速度を生み出し、数tという重量を斬撃に付与する。
 無論、その反動は凄まじく、デスティニーのみならずシンの肉体を即座に破壊してしまうだろう。
 例えば、剣を握り締めた両手の複雑骨折や関節の崩壊、下手をすれば頚椎損傷となって半身不随にも成りかねない――リジェネレーションがなければ、の話である。
 リジェネレーションによってそれらは全て復元される――それによって問題は何も無くなる。死ぬこと無く戦い続けることになるからだ。

「――。」

 無言でレイダーが鉄球を放つ。同じくフォビドゥンから放たれ曲進する紅い光。
 振るわれる鉄球の重さは致命的。放たれた光の温度も致命的。
 当たれば肉片もしくは焦げ屑に成り下がる必殺――シンの姿が掻き消える。
 レイダーの眼前に、突如として出現する朱い瞳のヒトガタ――シン・アスカ。
 血塗れの右手を迷うことなくレイダーの口元にぶつけ、朱い魔力を収束する――同時にレイダーの口元に収束される熱量。

『ぐ、ぎっ』
 
 炭化し吹き飛ぶ右手――咆哮/朱い光がワイヤーアートのように虚空を奔る。
 魔力展開。無限回復。右腕が即座に復元――常識外れの回復。
 予想外の状況にレイダーは反応出来ない。
 右腕を口元に突っ込む。魔力収束射出――パルマフィオキーナ。
 意識を失いケモノの如く“堕ちて”も刻み込まれた技能に陰りは無く。

『アアアアアアアアアアアッッ!!』

 咆哮。
 レイダーが咄嗟に身体を後ろに反り返らせシンの右手から離れる――顔面を守る両腕。
 構わず発射――防御しているかどうかを理解出来ているかどうかすら怪しい。
 爆発。レイダーの両腕には傷が無い――それでも吹き飛ぶ。衝撃までは殺せない。成す術無く吹き飛ぶ。
 断絶する意識。口元から吐き出る夥しい吐血。内臓を傷つけたのだろう。
 その光景を気にすることなく――気にするほど思考できない――間髪入れずにアロンダイトに魔力を流し込む。
 膨れ上がる朱い炎/収束展開/限界突破――朱い刀身が巨大化する。

『ハアッ……ハアッ……ハアアアアアア!!!』

 天に向かって咆哮――威嚇するように、嘆くように――劫火の刀身を振るった。

「――」

 声を放つ暇など作りはしない。
 
 ――薙ぎ払え。
 
 爆音が鳴り響く。轟音に鼓膜が破れそうになる。舞い上がる埃と瓦礫の山。そこかしこで炎が上がる。
 一面瓦礫の山。満遍なく、眼に映る全てをシン・アスカは薙ぎ払った――己の願いの為に。

『ア……ア……ア』

 それでも、まだ、意識は戻らない。だから蹂躙は終わらない。目の前に在る物全てを壊し尽くすまで。

「――□□□□□。」

 呟きが届く。言葉の内容は分からない。何かが弾けるような音がした。爆発する閃光。額を撃ち抜かれたような衝撃。

『――ガッ!?』

 言葉を発する暇など無い――反応出来ただけで僥倖とも言える。
 眼が眩む。シンの頭部で爆発が起きる。
 額が割れ、脳漿が吹き出す――致命傷/リジェネレーションによる干渉=再生――その激痛が意識を引き戻す。
 瞳に焦点が戻る。世界が色を持つ。胡乱な意識が世界に舞い戻り、ヒトガタが人間へと変化する。

(なん、だ……これ……!?)

 周辺に生まれた、瓦礫の山を見て、心中で呟く。現状が理解出来ない――フラッシュバック。

「あ、ぎぃ……!」
 
 ずきん、と凄まじい頭痛。
 頭の中で何かが這い回っているような、脳髄が締め上げられ脊髄が捻り取られるような激痛。
 意識が文字通りに白濁する。一瞬一瞬毎に切り替わる映像。切り替わる度に痛みが走る――痛みで記憶という名のフィルムにその映像が刻み付けられているように。
 記憶が刻み付けられる――視界にある光景が何かを理解する。

(俺が……やったのか。)

 シンが蹂躙したのは敵だけではなく、その眼に映る全て。
 リジェネレーションによって全てから搾取し。
 エクストリームブラストによって全てを破壊し。
 アロンダイトインコンプリートによって全てを薙ぎ払った。
 倒れ伏し、今にも死にそうになっている3人の鎧騎士。
 そして瓦礫だらけではなく、瓦礫のみで構成されるオブジェ――もはや元々の街の原型などそこには無い。
 一切合切全てを平等に、慈悲なく容赦なく満遍なく、破壊し尽くされた町並み。
 その光景は――力の証だ。この身に宿ったリジェネレーションとエクストリームブラストと言う力がどれだけ強大かを指し示す証明。
 願ったはずだ。この力を手に入れたい、と何度も何度も――それこそ数え上げれば切りが無いほどに願ったはずだった。
 
 だが――どうしたことか、感慨はまるで沸かない。
 まるで嬉しくない。それどころか、何かとんでもない間違いを犯しているような罪悪感さえ――

 “ソレは奇妙な光景だった。瓦礫が風化したように崩れていっているのだ、それも自分を中心にして。さながら、それは流砂のように。”
 
 迸る記憶の激流。その記憶が導く一つの事実。先ほど辿り着きかけた事実。
 ざざざ。脳裏にノイズが走る。記憶が混濁する――思い出すのは蒼白な顔。持ち上げると見た目以上に軽かった。

「殺し……掛けた……?」

 フェイト・テスタロッサ・ハラオウンを、自分に好意を向けてくれた女性を。

「俺が、フェイトさんを……?」

 呟く――全身に巨大な剣が打ち込まれた。
 肘が千切れる。膝が千切れる。首が飛んだ。心臓が破裂する。眼球が飛び出た。胴体が真っ二つになる。

「――ッ!?」

 “在り得ない展開”。
 顕在化するほどに濃縮された殺意が全身を貫き、一瞬、自分が死んだかと錯覚したのだ。
 今、シンが知覚した光景は全て幻影――殺意によって錯覚を起こすなど戦場でも一度も無かった。
 それは命と命の鬩ぎ合いの際に生まれる緊張をはるかに超える異質の――絶望に身構えする本能の緊張。
 全身を怖気が奔る――それは“あの時”、あの蒼穹の鎧騎士に感じた畏れと同じモノ。

「誰だ……!!」

 叫び、周辺を警戒するシン――声が届く。

「……それが貴方の真実なんですよ、シンさん。」

 天空から落とされた声。声の調子は清廉潔白。まるで神が罪人を断罪するかの如く、迷いの無い声。
 顔を、上げた。
 まるで予想もしなかった人間が、そこにいた。

「なん、で……?」

 赤い髪。青い瞳。年齢は恐らくシンと同程度。忘れられない容貌。シン・アスカの記憶に刻み込まれた怨嗟そのもの。
 何を懸けてでも殺したかった人間。世界で最も優れたコーディネイター。
 シン・アスカという男の今に至る全ての開始地点(スタートライン)。
 越えるべき壁。そして、超えられなかった壁。髪と瞳の色は違えどもソレは紛れも無くキラ・ヤマトそのもの。

「なんで……なんで、アンタがここにいるんだ、キラ・ヤマト!!!」

 理解できない。彼は“あの世界”で英雄として、ラクス・クラインと共に世界の平和を追求しているはずなのだ。
 “だから”自分はあそこにいられないと思った。いる必要がないと思った。
 彼らがいるなら世界の平和は作られる――そう、痛感させられたから。
 なのにどうして、ここにいるのか。そう、思った瞬間、違和感に気付いた。
 先ほど聞こえた声が違うことに。
 そこから漏れ出る声は、見た目にまるでそぐわない子供の声だった。
 幼い声――そう、声変わりもしていない、まだ子供と呼べる年代の声。
 聞き慣れた、声。

「……いえ、違いますよ、シンさん。ボクが誰か分からないんですか?」

 それは聞き慣れた声だ。自分を慕ってくれた後輩の口調だ。
 聞き間違えるはずが無い。聞き損じるはずが無い。
 だからこそ――信じられない。

「エリオ……?」

 声色も喋り方も発音も――その全てがその男がエリオ・モンディアルだと告げている。

「ええ。そうですよ、シンさん。ボクはエリオ・モンディアルです……見た目は随分と変わりましたけどね。」
「うそ、だろ……?」

 言葉にならない――何を言葉にして良いのか分からない。
 理解できない――理解したくも無い。ガチガチと震える身体。困惑が表に出て恐慌に昇華する寸前だ。
 訳が分からない。何がどうなってこうなったのか。
 理解できない。何も理解できない。何も分からない。
 そうやって口を開けて、呆けたように立ち尽くすシンにキラ・ヤマト/エリオ・モンディアルが呟いた。

「どうしたんですか?何をそんなに……怯えているのですか?」

 歩みを止めないエリオ。
 赤い前髪に隠れて表情は上手く窺えない――けれど、何となく笑っていることだけは理解できた。

「……え、エリオ……?」

 逃げ出したかった。その顔を見た瞬間に一刻も早くその場から逃げ出した衝動に駆られた。
 恐怖、と言うよりは戦慄。シン・アスカの根底を覆す――もしくは織り成す衝動。
 刻み込まれた敗北の道理。“絶対に逆らうな。”
 恐慌しないだけマシなのだろう。シン・アスカにとってキラ・ヤマトとは絶対に勝てない存在そのものなのだから。

「世界は僕が守ります。……貴方はそこで跪いていてください。ああ、いいですよ。答えは聞いていませんから。」

 赤い髪のスーパーコーディネイターが握り締めた巨大な大剣型のデバイス。
 ストラーダのような姿形でありながら、より大きく、より鋭く。羽根のような装飾。色合いは青と白のコントラスト。どこか機械的な――それもこの世界の機械には無い意匠――冷たさとでも言うべきものをありありと浮き出させるその大剣。
 その名を“ウェポンデバイス・ストライクフリーダム”。
 大剣という極小空間にモビルスーツ・ストライクフリーダムとしての全てを押し込めた最強にして最高のウェポンデバイス。
 ジェイル・スカリエッティの作り出した数々の技術の集大成にして最高傑作。
 人間サイズのモビルスーツなどと言う生易しいものではない。
 モビルスーツと言う巨大機動兵器を魔力によって完全に支配し、制御したデバイスという技術の一つの究極。
 モビルスーツサイズの魔導師を作り出すデバイスである。
 振るう魔法は全てモビルスーツを屠る威力と規模を誇りながらも、その精度は正確無比。
 このデバイスとそのスーパーコーディネイターの前ではシン・アスカ程度の魔導師など塵芥に過ぎない――いや、殆ど全ての魔導師を塵(ゴミ)同然だと言ってのけられるほどに、それは強大だった。

「エ、リオ……?」
「じゃあ、さよならです。シンさん。」

 呆然とするシンを尻目にウェポンデバイス・ストライクフリーダム/エリオ・モンディアルが、右手に持った羽金/大剣を掲げた。
 寄り集まり、光輝く羽金の群れ。黄金を撒き散らし世界を破壊する白金の翼。

「貴方はもう必要ない。」

 エリオ・モンディアルがその鳥の翼のような大剣を振りかぶる。

「――ドラグーン・フルバースト。」

 刀身の峰に装着されていた数百枚の羽根が輝き始める。
 エリオの周囲の空間が歪み、空間を“折り畳む”ようにして、無色透明の砲身が形成される――その数、16基。
 突撃槍(スピア)の先端に穴が開いたような形状。16基という数に意味は無い。ただ瞬間的に展開出来る全ての戦力というそれだけの意味。
 それが蒼く輝き、内部で光が回転し集束しているのが見て取れる――振り下ろした。
 
 ――怖気が加速する。

「……っ!!」

 恥も外聞も金繰り捨てて、シンはその場から跳躍した。全身全霊、エクストリームブラストによって引き出せる最大速度を用いて逃避。
 砲身から朱い光と黄色い光が発射。羽根が疾駆し駆け巡り激突する。
 世界を蹂躙する光と光と光。轟音爆音粉塵爆炎――殲滅。
 冗談のような爆風が衝撃となってシンの身体を殴りつける。

「あ……あ……」

 シンはソイツが生み出した“災害”に眼を向ける。
 一振り。ただそのデバイスを一振りしただけで世界の全てが激変した。高熱によって融解し、ガラス状に変化した地面。泥も瓦礫も煉瓦もコンクリートも、目に映るすべてが消え去った。
 もはや街などどこにも残ってはいない。シンが蹂躙した時点で瓦礫の山以外の何者でもなかったのだ――これは廃墟どころかゴミ山よりも尚酷い。

「今のを回避するなんて……やっぱり、シンさんは凄いですね。」

 振り下ろした姿勢そのままにエリオはシンを見た。
 蒼い瞳がシンを射抜く。瞳に映る感情は憐憫と悲哀。
 何を悲しんでいるのか、何を憐れんでいるのか。
 そして――どうしてシン・アスカはこれほどまでにエリオ・モンディアルが怖いのか。

「……流石は猟犬。いや、むしろ虐殺者と呼ぶべきなのかな?」

 猟犬。虐殺者。聞き慣れた名前――最近は誰も自分をそうは呼ばなくなった。
 だから、驚いた。どうして、エリオがその名前を知っているのか、と。

「お前、どうしてその名前を……」
「シンさんの過去の記録、見ました。」
「……なに?」
「クラインの猟犬、虐殺者……初めは目を疑いました。だって、信じられるはずが無いじゃないですか。何万人も殺した人間が自分の傍にいるなんて信じられる訳が無かった。」
「見た……のか。」

 口を開こうとも開かない。喉がカラカラに渇いていく。
 足を動かそうとも動けない。膝が震え始める。

「何人殺したんですか?何人見捨てたんですか?」

 そんなもの数え上げれば切りが無い。殺した数は数千を超える。見捨てた数は数千を超える。
 直接、間接問わず、シン・アスカがその死に関わった人間は軽く万を超えると言っていい。

「殺して殺して、それで此処に来て今度は全部忘れて守る、ですか?」

 言い返せない――元々言い返す術を持っていない。
 それらは全て事実だ。確かにそこには様々な理由があった。
 守ろうとして守れなかった人。殺したくなかったのに殺さなくてはならなかった人。
 別にその全てを殺したくて殺した訳ではない――けれど、殺したくて殺した人間がいるのも事実。
 だから、シンはギンガやフェイトに全てを打ち明けた。
 彼女達には自分の全てを知っていて欲しかったから?
 違う。彼女達にこれ以上気付かれたくなかったから。
 気付かれる前に自分で話せば傷は浅い。裏切られる前に裏切ってしまえ――そんな最低の行為でしかない。
 だから――反論出来るはずが無かった。

「ふざけないでください。あなたは誰も守れてない。迷惑しかかけてない。あなたはただ自分勝手に全てを壊すだけの破壊者だ。」
「……ちがう、違うんだ、エリオ。」

 声に力は無い。虚ろになることも、攻撃的になることも出来ず、シンはただそれを甘受するしかない。

「違わない。貴方はこれからも今までと同じように誰かを踏み台にして犠牲にして生きていくだけだ。その証拠に、貴方はフェイトさんを殺しかけた。」
「それは」

 身体に力が入らない。痛みや激痛ならばどれだけでも耐えることは出来る――だが、断罪がもたらす虚脱感には耐えられない。

「エクストリームブラスト、でしたっけ。あれの副作用シンさんは知ってますか?」
「……さっき、分かった。」

 か細く小さな声。俯いて、シンは何も言えない。頭の中をグルグルと回るのは自身の犯した数々の罪。

「周りの人間の魔力を奪い取って自分のモノにする――フェイトさんの衰弱、おかしいと思いませんでしたか?」

 シンの声を遮って放たれるエリオの言葉。
 言い返せない。反論できない。事実だから。今の言葉が言い訳に過ぎないことを誰よりも理解しているのはシンだから。

「あの力がなければ誰も守れないとでも思っているんですか?」

 肩が震えた。言葉の通りシンはそう思っている。
 強大な力で一度叩き潰されたシン・アスカにとって守る手段とは力以外に存在しない。
 だから、エクストリームブラストは天啓だった。けれど――それは正しいのだろうか?
 力があれば全てを守れる。その結果が先ほどの瓦礫の山――エリオがそれを消し去ってしまったが、それでもアレは忘れられるものではなかった。

「……あの力があってもなくても関係ないですよ。貴方は誰も守れない。大体、守るって何を守るんですか。シンさんは誰も守れてないじゃないですか。」
「……」
「シンさんが守ってるのは結局自分だけじゃないですか。全部が全部シンさんの都合の良いモノしか守ってない。」

 宣告するようにしてエリオの言葉は淀み無く紡がれていく。どこか演技がかった口調――けれどシンは気付かない。
 何故ならそこに込められた想いは紛れも無く本物だったからだ。シン・アスカを断罪すると言う思いだけは正真正銘の本物なのだ。

「建物は?そこで生活している人達のこれからは?誰も守ってないですよ、シンさんは自分で勝手に決めた自分だけのルールで勝手に守って勝手に優越感に浸ってるだけじゃないですか。」
「俺は……」

 言葉を放とうとして――口を噤む。何を言おうとも言い訳にしかならない。
 だって、その全ては真実だ。優越感に浸りたかっただけ――それを否定出来るはずが無い。

「今の俺は……」

 それでも、言葉を放とうとした。その言葉(ダンザイ)から逃れるだけの言葉(イイワケ)を。
 けれど、

「その先を言えるんですか?今は、違う。今の自分は違う、と。」

 遮られる。口を噤む。

 大剣をシンに向けて、蒼い瞳を輝かせ、エリオは言い放つ。
「そんなはずが無い。そんな訳無いじゃないですか。だって……それならどうして、“フェイトさんとギンガさんは死んだんですか?”」
「……な……に?」
「……気付いていないんですか?それとも気付かない振りをしてるんですか?」

 エリオが大剣をシンから逸らす――向ける方向は先ほど何かが、吹き飛んできた場所。
 
 ――心臓がざわつく。背筋が凍る。喉が渇く。歯がガチガチと鳴り出す。
 
 頭痛。頭痛が酷い。ガンガンガンと脳髄を叩いて締め上げる。
 耳鳴り。耳鳴りが酷い。ジジジジと虫の羽音のようにやかましく、脳裏を染め上げていく。
 聞きたくない。その先の言葉を。
 聞けば終わる。何かが終わる。
 築き上げてきた大切なナニカが終わりを告げる――聞きたくない見たくない認めたくない。
 だけど、そんなことお構い無しに彼は言い放つ。
 何でも無い事のように淡々と――

「フェイトさんとギンガさんは死にましたよ。今も、そこにいるんですから。」

 死んだ、と。まるで道端にモノを落としたような気軽さで。

「――」

 瞬間、矢も盾も無く飛び出すシン。後方にいるエリオのことなど気にしない。そんなことを気にする余裕は無い。
 絶好の好機――けれど、エリオは狙わない。追わない。
 冷たい眼差し――何の感慨も沸かない冷たい視線でそれを追うだけだった。
 そうして走るシンの後ろ姿。魔法を使うことすら忘れ、ただただ走る姿。
 その直向きな姿にエリオは――憤怒を覚えて、顔をしかめた。

「はあっ、はあっ、はあっ……!!!」

 走る。走る。走る走る走る走る。走る走る走る走る走る走る走る――。
 思考は漂白し、何も思いつかない。

〔私、貴方が好きだから。〕
 
 そう言ってくれた女性がいた。
 時に頑固で、いつも自分のことを考えてくれていた大切な人。
 自分はその人に何もしなかったと言うのに、その人はいつだって自分の為に何かをしてくれた。甘えていたのかもしれない。

〔貴方が好き。〕

 そう言ってくれた女性がいた。
 いつも笑顔で朗らかで、とにかく笑っている女性だった。
 何がそんなに楽しいのか、自分はまったく理解出来なかったけど、それを不思議と嫌に思わなかった。
 本当の笑顔は無条件に人を癒す――そんな言葉が思い浮かぶ。

「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ……!!」
 
 狂ったように繰り返す。呟く呟く呟く呟く。
 守りたい人なんていない。
 守りたいモノなんて、どこにもない。
 だから、守るのは目に映る全て。失ったモノが重すぎたから代償として全てを求めた。
 
 “誰か”で良かった。“貴女”は求めなかった。
 
 だから、耐えられるはずだ。そう思っていた。
 シン・アスカが失うのはいつだって“誰か”で“貴女”じゃない。そう、決め付けて。

「死んでるなんて……嘘だ……嘘だ……!!!」

 言葉遣いは子供のようにたどたどしく。
 あの日のように無力感しか生まれない。
 焼け焦げた丘。手に入れたのは右腕と携帯電話。他は全て失って、カラッポになった。
 守りたい人などいない。そう、思っていたのに。
 守りたいのはいつだって目に映る全てで、心に住まう誰かなどでは決して無いのに。
 
 ――けれど、現実は残酷で。

「……うそ、だ。」
 
 虚ろな瞳。自分をいつも気遣って、いつも自分を見てくれていたギンガの瞳はもうそこには無い。
 瓦礫に腰掛けるようにして、彼女は佇んでいる。
 手はだらりとぶら下がり、瞳は虚ろ。口元からは一筋の血を垂らして――胸から一本の剣を生やしていた。

「うそ、だろ。」
 
 虚ろな瞳。いつも自分に笑いかけて楽しそうにしていたフェイトの瞳はもうそこにはない。
 ギンガと同じく瓦礫に腰掛けるようにして、佇んでいた。手に力は無い。瞳は虚ろで力は無い。
 口元からは紅い血が流れ、胸から生える一本の剣。

「これ、は……。」
 
 呆然と呟く。二人の胸に刺さっている剣に見覚えがあったからだ。
 それはエクスカリバーと呼ばれる剣――シンが昔乗っていたソードインパルスと呼ばれるモビルスーツの武装を模した剣。

「なん、で。」
 
 綺麗な姿だった。見蕩れてしまいそうなほどに美しく、綺麗な姿。
 胸元を染める血色の紅が無ければ、ぼうっとしているだけにすら見える。
 けれど、理解出来てしまう。そこにいるのは、“抜け殻”だ。
 自分を慕ってくれたギンガはそこにいない。
 自分に笑い掛けてくれたフェイトはそこにいない。
 そこにいるのはただの肉の固まり――死体だ。

「なんで……?」
 
 膝を折って、腕を地面につけた。頭を垂れる――力が出ない。身体中の力が抜け出ていくような虚脱感。
 ポタ、ポタ、雨が降り始める――ニュースで台風が近づいていると言っていたような気がする。
 雨は徐々にその勢いを強め、空はその雲に閉ざされ暗くなる。
 パラパラと振る雨は豪雨と変わる。身体が濡れる――冷たい。

「――貴方が殺したんですよ。」

 声が届いた――誰の声か分からない。

「フェイトさんとギンガさんは、貴方のせいで死んだ。」
 
 雷光。世界が白く染め上がる――轟音。横殴りの風が吹き荒び、目前でこちらを見下ろす彼を、そして自分を濡らしていく。

「お前が、殺したのか。」
「殺してはいません――関わりはしましたけど。」
 
 当然のことのように呟くエリオ。

「そうか。」
 
 その返答を聞いた時、シンの中で何かが“砕け散った”。
 世界を掌握する。自分を中心に付近一体全てを俯瞰するような感覚。
 迸るような怒りがあるはずなのに、怒りが湧き上がらない。
 歯車が噛み合わない感触。感情を篭めようとしてもまるで篭らない。

「お前は、俺から奪ったんだな。」
 
 だが、それがどうしたと言うのだろう。
 怒りは無い。悲しみは無い。感情が湧き上がらない。
 何もかもがどうでもいい――キラ・ヤマトの顔が気に食わない。
 ソレがココに在ることが許し難い。

 ――奪われたなら、
 
「――だったら、もう話す事は無い。」
 
 風が吹いた。殺気と言う名の、悲哀と言う名の、鬼気と言う名の、疾風が。

「……あなたは。」

 エリオの顔色が変わる――余裕が消え、戦士の顔に。そこだけエリオの面影が残っていることに苛立ちを覚える。

「殺してやるさ、エリオ・モンディアル。」

 ――二度と奪えないように殺してしまえ。

 心は水面の如く平静に。されど奥深くに燃え上がる虚無の劫火。
 憤怒と冷静と言う相反する二極を内面に組み上げて――ここに無限の欲望(シン・アスカ)が完成する。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 38.慟哭の雨(g)改訂版
Name: spam◆93e659da ID:17f428f0
Date: 2010/06/03 11:41

「デスティニー。」

 抑揚の無い声――顔を上げることなく、シンは呟く。

『了解しました。』

 デスティニーから流れる電子音。それまでよりもはるかに流暢な電子音と言うよりは電話越しに誰かと喋っているような感じさえする。懐かしい声――誰の声か分からない。聞いたことのある声が幾重にも重なっているかのように感じる。
 言葉と共にデスティニーの青い輝きが更に増す。
 中心で輝き、付近一帯を染め上げる蒼蒼蒼――ジュエルシードの輝き。

「ただし、あの二人にだけは絶対に手を出すな。」
『……兄さん、ここには誰も居ませんが。』
「……ああ、いないな。」

 “いません”と言う言葉に反応して顔をしかめる。デスティニーがそう言う理由は分かる。既に死んでいる人間は居ないのも同じ――そういうことだろう。
 だが、それでもこれ以上彼女達を苦しめるのは嫌だった。それが単なる感傷に過ぎないと理解はしていても、尚――それは度し難い。

「それでもだ。絶対にそこからは“奪うな”。」
『……了解しました。』

 搾取が始まる――世界が変質する。
 糸が伸びる/接続する――流れ込む甚大な生命力。魔力変換。魔力が寄り集まり、ヒトガタを取っていく。
 シン・アスカの全身を焔が覆っていく。
 朱い瞳は既に焦点を失っている――虚ろな瞳は虚ろな顔と相まって幽鬼の如き様相を見せ始めている。

「あなたは……やっぱりその力を使うんですね。」

 悲しむように――嘆くように、エリオ・モンディアルは呟く。

「エリオ、最後に一つだけ聞いておく。」

 飄々と話すシン。酷薄ささえ漂わせたその様子はいつものシン・アスカではない。

「何ですか……?」
「何で、フェイトさんを殺した?」

 シンにはそれだけが理解できなかった。
 エリオ・モンディアルにはフェイト・T・ハラオウンを殺す道理が無い――自分を殺そうとするのならば、まだ理解出来る。
 ギンガを殺すのも――理解出来ないが納得は出来る。
 だが、フェイトを殺すことだけは理解できない。
 何故なら彼は彼女を慕っていたからだ。家族として、親として、姉として。

「――必要だったからです。」

 呟き、そして沈黙。エリオの表情に翳りが出る。それは悲しみを堪えたような翳りではなく――どちらかというと苦しさを伴わせた翳り。まるで言いたくないことを言わなければならない、子供のような表情。

「そうか。」

 デスティニーの輝きが増していく。シンの周辺が陥没し、右手が虹色に輝き出す。

「必要だったから――殺したのか。」

 エリオの背筋を怖気が走る。肌が粟立つ。戦えば絶対に“勝利する”と分かっていても尚、恐怖を感じる――虚無に気圧される。
 そこにいるのはただのヒトガタ。蓄積された膨大な虚無が人の形を取っているだけの人外の化生。

「だったら、お前は“要らない”。」

 朱い炎が猛り出す。淡々とした口調とは裏腹に、劫火となって燃え上がる。
 全てを燃やし尽くす為に。
 全てを守る為に。
 二度と何も奪われない為に。
 奪われた代償として――全てを奪い返す為に。
 緋が、走る――姿が掻き消える。
 交錯――続けて交錯。接触。交錯。鍔迫り。接触。弾く。弾かれる――交錯。
 剣戟が舞う。
 朱い炎のシン・アスカと蒼い光のエリオ・モンディアルの剣戟。
 共に常人の七倍の速度と言う知覚不可領域での攻防。
 縦横無尽に曇天の空を駆け巡る朱と蒼。
 剣戟の余波で瓦礫が吹き飛ぶ。地上が抉られる。樹木が弾け飛ぶ。

「……」
「……」

 言葉は無い――無言。
 既に言葉を交わす意味は無い。殺し合いにそんなものは要らない。雑多だ。
 再び交錯――鍔迫り合い。互いに互いの得物を弾いて、僅かな距離が開く。
 裂帛の気合。最大威力の攻撃。剣と剣の激突――大気が魔力の余波に耐え切れずに歪み、爆風を生み出す――距離が離れる。20mほど。

「砲身精製(バレルオープン)。」

 エリオの呟きに応えて、彼の周囲に言葉通りに砲身が精製される。
 青みがかったガラスの如く透き通った砲身――発射。赤い光の奔流。その数3基。
 無言でそれを回避するシン。
 それまでのように速度で強引に回避するのではなく予め知っていたかのように砲撃の直前に場所を移動する。
 それに構わず砲撃は止まない。雨となって降り注ぐ。一撃必死。当たれば消し飛ぶ――無視。

「ドラグーン。」

 刀身の峰に再度精製された羽金が蠢く。蒼白い輝き。同時に周囲に砲身が更に精製されていく――合計16基。

「フルバースト。」

 呟きと同時に放たれる光の奔流。赤と黄の光――その16基の砲身が火を吹いた。膨大な羽金が峰から飛び出し、渦を巻いて虚空を駆け抜ける。
 先ほどシンに向けて放たれたストライクフリーダム最大の砲撃魔法。ドラグーンフルバースト。

 ――当たれば消し飛ぶ、その威力はもはや砲撃というよりは殲滅という表現が正しい。

「――」

 対するシン・アスカはあろうことか静止している。
 表情は変わらない――死の恐怖などどうでもいい。冷静な判断が後退を告げる――無視。

「行くぞ。」

 呟き。加速――両肩、両腰、両膝、そして背中。総計5つのフィオキーナ――短距離高速移動魔法――を精製する。
 エクストリームブラストの起動は止めない。全身を覆う朱い炎を模した魔力は出力を最大で固定したまま。
 本来なら、受けることすらままならない無数の羽金と空間に投影された魔力によって精製される16の砲身による一斉掃射。

「……」

 無言で後方に飛行――わき目も振らずに後退し、曇天の空に向かって急上昇。風が荒い。体勢が崩れる――無視。
 砲身から放たれた砲撃はそれで回避できた。追尾性能は無いことを確認。
 だが、無数の羽金はこちらを追って上昇――風によって軌道が変化するも、逆にその風に乗るようにして、前進する。
 風に乗ったせいで密集した弾丸のようだった羽金は散り散りとなり、シンの全方位を覆うようにして狙い撃つつもりなのだろう。
 
 羽金の攻撃手段は砲撃ではなく突撃。一番分かり易いイメージはミサイル。
 その軌道はエリオの意思に従ってなのだろう――今もエリオがその場を動かずにこちらを見つめているのがその証拠だ。
 避ける隙間は無い――デスティニーを腰のベルトのホルダーに固定し、両手を左右に伸ばし、魔力を収束する。
 掌を覆うようにして朱い魔力が浮かび上がり、半球を模して輝き始める。
 
 途端に朱い光がレンズのように形状変化。
 それはギンガの用いたトライシールドを模した魔法である。
 無論、能力はトライシールドに及ぶべくも無い。
 性能という点ではプロテクションやシールドを使った方がいい。
 利点といえば、詠唱無しで使用できると言う点と魔力消費が小さいと言うくらいである。
 
 別にソレで受ける気も無ければ弾く気も無い。
 僅かでも隙間があれば回避は可能なのだ。だから――隙間が無ければ、作ればいい。
 羽金の弾幕は先ほどと違い全方位に散らばった――つまり、密度は下がっている。
 
 砲撃の内、一発に狙いをつけて受け止め、その勢いを逃がし方向を変える。
 出来た隙間に身体を滑り込ませる。弾幕に突入する。
 動きは最小限。
 弾幕を読むのではなく、ただ単純に弾幕に反射して避ける。
 圧倒的な反射速度によって、もたらされるその回避はさながら未来予測に匹敵しているかのごとく。
 
 頬が焼けた。穴が開く。口内に入り込む風――無視。
 脇腹を掠める砲撃。貫かれ痛みが走る――無視。
 肩を貫く羽金。爆発。肉が抉られ、噴出す出血。動脈から出血――無視。
 耳が弾けた。耳の中に違和感。血が流れ込む。よく聞こえない――無視。
 太股を抉る羽金。ぼきん、と音がした。骨折。奇跡的に動脈は外れていた――無視。
 
 捌くことで生まれた隙間に身体を滑り込ませる。
 繰り返される、精密でありながらも大胆な動作。
 
 前に、右に、左に、上に、下に、後方以外全ての方向に身体ごと回避し、致命傷――即死する類の損傷――を回避する。
 止まらない。止まることを知らないのではなく、止まることを否定する。

 開かれた未来は前方のみ。振り返る必要は無い――守るモノなどもはや無い。
 弾幕を抜けた。爆煙の中から朱い炎を纏ったシン・アスカが現れる――アロンダイトに魔力を徹す。顕現する業火の包丁――アロンダイトインコンプリート。業火の包丁が巨大化する。

「アロンダイト。」

 宣言の如く呟く。途端、焔の朱が増す。
 右手でソレを振りぬいた。
 エリオの足元に生まれる二つの砲身――ガラスのように透明。発射/刀身に着弾――爆発。
 軌道が変化し、エリオ達を切り裂くことは出来なかった。瞬間、焔の刀身からアロンダイトを切り離し、突進する。
 フラッシュエッジを引き抜き、大剣と短剣の二刀流。エリオも同じく羽金の大剣――ストライクフリーダムを握り締め突進。ドラグーンを射出。
 
 羽金と刃金がぶつかる。
 シンの後方から彼を狙い撃つ無数にも近い羽金の群れ――ドラグーンの突撃。
 そちらを視認することも無く動くシン。ドラグーンの狙いの反対側に常に位置取るように。
 至近距離ゆえにある程度の安全距離を確保しているエリオ。シンはその安全距離に踏み込み続ける――エリオの直ぐ近く、砲撃されてもおかしくない距離に向かって。
 カリドゥスとパラエーナ。エリオが顕現することの出来る幾つもの砲身には顕現に際するルールなどは一切無い。
 魔力のある限り無限に作り出せる上にその作成時間は一瞬にも満たないほど。魔力の溜めも一瞬で済む上に、コンクリートをガラス状に融解させるほどの威力を持つ。
 チリチリと髪が焦げる。全身に軽度の火傷。回避したとしてもその高温は肌を焼く。疼くような痛みが全身を苛む――無視。
 シンは再び踏み込む。エリオにとっては安全で、自身にとっては最も危険な距離に。

 剣戟を繰り返す。
 何度も幾度も、無限とも思える鬩ぎ合いが続く。
 ドラグーンの狙いと突撃のタイミングが“何故か”理解できる。
 後方に目がついているのではないのかという捌きと移動。歯噛みするエリオ。
 能力――攻撃力、防御力の全てで僅かずつエリオが勝っている。速度のみ僅かにシンが勝っている。
 武装面でも然り。射程距離や反動、起動時間、弾数などの全てにおいてエリオが上である。
 なのに、当たらない。発射の瞬間、突撃の瞬間を“感じて”回避する。
 高度の殺陣のような、立ち回り。互いに示し合わせたかのようにして、絡み合う二人の魔導師。
 二刀と一刀の応酬。速度で勝るシンと手数で勝るエリオ。
 剣戟の交錯。
 エクストリームブラストによる搾取は続く――エリオには通用しない。
 理由は分からない。何らかの魔法が働いているのかもしれない――無視。
 どんなに常識外れの速度といえどエリオの瞳はソレを捉えている――彼も同じく常識外れの速度の世界に住んでいるからだ。

 それでも当たらない。当たるはずなのに当たらない。
 けれど、エリオは慌てない。この結果は予想通り。事前に情報展開によって知らされていたことなのだから。

 スカリエッティがこの光景を見ればほくそ笑んだことだろう。
 シン・アスカ――無限の欲望は完成した、と。その肉体が、ではなく、その根底が。
 果てとなる願い。支えとなる力。だが、これではまだ足りない。
 無限の欲望として完成するにはまだ不足しているものがある。
 
 それは、絶望だ。自身の無力を呪い、周囲の全てを雑多と断絶する絶望。
 最高の絶望とは、絶望と絶望と絶望と……ほんの少しの希望によって彩られる。
 
 絶頂から奈落へ叩き落されても人は絶望することはない。奈落は奈落。その下は無い。
 故にそこからは這い登るのみだから――けれど、這い登る最中に、奈落よりも深いところに突き落とされたらどうなる?

 絶望はその色を深めて熟成するだろう。心を暗雲が覆っていくだろう。
 それを幾度も幾度も繰り返すうちに絶望は芳醇な香りと色合いを以って熟成していく。
 ワインが熟成と言う名の腐敗を経験していく中で、培われるように、絶望もそうして腐敗することで熟成する。
 そう、絶望とは、腐敗することで熟成する。
 一度や二度絶望したからと言って、熟成などしない――腐敗し、熟成した絶望とは、そんな簡単なモノではない。
 
  
 ――シン・アスカは哀れな人間だ。
 
 一度目の戦争で家族を失った。絶望した。奈落に落ちた。
 その奈落から立ち上がる為に彼は“オーブ”という敵を想定して這い登ることになる。
 オーブが悪い。オーブが裏切った。奴らが憎い――復讐と言う最も簡単な目的を設定して。
 その結果、二度目の戦争で彼は力を手に入れ、そして守るべき者を得た。
 圧倒的弱者――ステラ・ルーシェ。
 敵でありながら、シンが守らなければならないと感じた少女。
 あてがわれた悲劇を回避する為にシンは手を尽くした。
 傍から見ればお粗末な手管ばかりで馬鹿としか思えない行為の数々。
 けれど、彼は必死だった――必死にもなろう。それは彼にとって絶望から脱出する好機だったからだ。
 代償行為――今度こそ守ると言う誓い。
 それを果たした時、自分は絶望から抜け出せる。そう、感じたのかもしれない。
 だが彼は再び奪われる。ステラ・ルーシェは彼の目の前で死んだ。出来ることは無かった。絶望した。
 その後、彼はステラを殺したフリーダムを復讐の相手として認識し、研鑽を積み重ね復讐を完遂する。絶望によって彼は強くなったのだ。
 
 そして、専用機であるデスティニーを受領し、フェイスとしての特権も得て、彼はザフトのスーパーエースとして君臨する――アスラン・ザラの裏切りが彼の心に影を落としてはいたが――人生の絶頂であろう。奪われ尽くした少年は栄誉と力を得て、絶頂に返り咲いた。
 一種のサクセスストーリーとして考えれば問題は無いストーリーだった――ここで終わるなら。

 だが、運命はそんな絶頂を許しはしなかった。
 英雄が現われた。
 キラ・ヤマトとラクス・クラインがオーブの旗印の元、人類の自由という謳い文句を背に戦いが挑んできたのだ。
 その中には死んだはずのアスラン・ザラの姿もあった。
 
 心は千々に乱れ、それでも力に溺れたシン・アスカはザフトを――平和を作り出すと言うデスティニープランを守る為に戦い、そして完膚なきまでに敗れた。最後は味方であるはずのザフトが反旗を翻し、ラクス・クラインはザフトの英雄、新たな議長として迎え入れられる。

 絶望である。自分の信じたモノが打ち砕かれた挙句に再び全てを奪われたのだ。絶望しないはずが無い。
 或いは――真に絶望していたのなら、彼は幸せになれたのかもしれない。何もかも忘れて生きていけたかもしれない。
 けれど、忘れてしまうには思い出は尊すぎて、生きていくには現実は辛すぎて。

 ――彼は軍に舞い戻った。力無い人々を守る為。苦しむ人々を守る為。けれど、本当はそうしなければ生きていけない自分自身の為に。
 
 ――そして、その果てに彼はミッドチルダに来た。そこで生きる理由を見つける。誰かを守ると言う前と全く変わらない理由を。

 そうして、今に至る。
 幾度も繰り返された絶望と腐敗の結果、シン・アスカという人間の心根は壊れ、砕け散る寸前にまで圧縮されていく。
 守ると言う行為によってのみ発散される極大なストレス。自身が絶望しているということにすら、気づかない精神。
 そこに与えられた、大切な者を殺されると言う絶望――ステラの時と同じか、もしくはそれ以上。同じ部隊で共に戦い、想いを寄せられた乙女達を殺された。
 極大化したストレスは弾け飛び、シン・アスカという名の器を破壊する――内から溢れる虚無の内圧が全てを侵したのだ。
 結果、シン・アスカは完成した。完全なる絶望を手に入れて。
 無限の欲望として目覚め、シン・アスカは全てを燃やし尽くす劫火となるのだ。
 スカリエッティとは違い、右手に彼が手に入れし“証”が浮かび上がっている――瞳のようなカタチをした虹色の紋様が。
 それはスカリエッティのように全てを見通す眼ではなく、全てと繋がる搾取の手。
 デスティニーに格納されていたリジェネレーションとエクストリームブラストの二つの魔法。
 その根幹となる周囲からの魔力吸収。それが顕在化した姿である。
 普通の人間ならばそんな無作為に魔力を所構わず吸い上げても自身に還元などできない。
 リンカーコアによる魔力精製よりも遥かに強大な魔力濃度をその身に宿すのだ。
 下手をすれば死ぬ。死にはしないにしても魔力に溺れて廃人に成りかねない。

 だが、シン・アスカは違う。
 彼には元々そういった素養があった。
 死んだはずのステラ・ルーシェと戦場で邂逅した。
 異常なほどにマユ・アスカに拘った。
 レイ・ザ・バレルを忘れられなかった。
 
 ――蒐集行使。八神はやての用いるソレとはまるで異なるモノであるが、他者の魔力――この場合は魂を含む――を吸収し、己のものとする能力。

 彼には生まれ付きその素養があった。全ての次元世界においても稀に見る希少技能である。
 その結果、彼には多くの死者が身を寄せることになる。
 それらが取り込まれ分解されていく内に本来存在しないはずのリンカーコアが精製され、膨大な潜在魔力量を得ることになる。
 シン・アスカは喰らう。他者の魔力――魂を。霊魂を己がモノとして取り込むのだ。

「くっ……!!」

 呻きと共にエリオが吹き飛ぶ――姿勢制御を行い、後退。
 その隙を逃さず、アロンダイトを振り被って、シンが接近する。
 刀身には朱い炎。主の意思に従い、非殺傷設定はデスティニーが“勝手”に解除している。
 当たれば――死ぬ。

「死ね。」

 振り下ろす――エリオが唇を吊り上げた。愉悦に歪んだ微笑みを。

「――集え。」

 呟きに従い、散らばっていた羽金が収束する――収まっていた剣の峰ではなく、シン・アスカに向かって。

「――ちっ。」

 エリオの思惑に気付き舌打ち。今、エリオはあえてシンに攻撃させる隙を作って、誘い込んだのだ。
 攻撃が当たらないのならば当たる瞬間を作れば良い。最も攻撃し易い瞬間。それは攻撃する瞬間そのものという基本に従って。
 アロンダイトをケルベロスに変形させ、下方に向けて発射――ドラグーンの包囲網に穴が開く。
 そこに向けて落下する。重力加速度も加味された降下は常の飛行よりも尚速い――墜落と言ってもいいほどの速度。
 地面が迫る。全方位から狙い来る羽金の群れ。周囲を見る――逃げ場は無い。

 先ほどの様子を見る限りは手動による追尾。
 ならば弱点は操作している大元を叩くことに限るのだが――その為にはまずこの包囲網を抜ける必要がある。
 先ほどのような捌きながらの突進はこの状況では使えない。
 先ほどは弾幕の密度が薄かったから可能だった。
 目前にある羽金の群れの密度に先ほどのように突っ込んでいけば身体中穴だらけになって終わりだ。
 地面が近づく。その距離もはや数mほど。時間は無い。

「――パルマ」

 右手に魔力を収束させる――朱い魔力光が輝き出す。
 放つは近接射撃魔法“パルマフィオキーナ”。狙うは目前に迫り来る“地面”。
 落下する身体を更に加速させる。このままでは激突することは必至――けれど、シンの顔に焦りは無い。焦る必要も無い。
 澄み切った思考と全能感。拡張した知覚は世界全てを自身のモノと錯覚させるほど。

「……。」

 地面との間、残り5m――加速。シン・アスカは動かない。魔力光に揺らぎは無い。
 地面との間、残り4m――加速。後方から迫る羽金も同じく加速し追い縋る。
 地面との間、残り3m――加速。激突したならば死ぬ。それでも止まらない。
 地面との間、残り2m――加速。更に加速。右腕を伸ばし、魔力を更に圧縮する。
 残り1mを切る――後方から追い縋る羽金の速度に陰りはない。シンは右手を地面に叩き付けるようにして振りかぶり――

「フィオキーナ!!」

 咆哮の如く詠唱。
 
 ――放つ。振り抜いた。
 
 朱い魔力の間欠泉が地面と接触し爆発――瞬間、爆発の反動で地面と平行に"跳躍“して方向転換。
 その方向転換に対応し切れなかった羽金が次々と地面に激突する。
 連鎖爆発/舞い上がる粉塵――着火/爆発。爆風に吹き飛ばされる。

「くっ……!!」

 舞い上がる爆煙――視界が遮られる。
 右肘の間接部分に激痛。
 間接が外れた――地面に叩きつけて無理矢理“はめる”。

 激痛――動かないよりは良い――無視。
 距離が離れる――残りの羽金が追い縋る。
 デスティニーをケルベロスⅡに変形――魔力弾の高速連射。移動しながら弾幕を張る。
 
 着弾――爆発。羽金が次々と消し飛んで行く。
 羽金はミサイルと同じような性質を持っている――着弾後、爆発する。
 つまり、着弾させてしまえば“必ず”爆発する。
 右手のケルベロスⅡを見る――デスティニーからの声。

『兄さん、来ます。』
「――。」

 再度、羽金がこちらに向かっているのが見える。弾数は無尽蔵。回避し続けることは困難――無視。
 デスティニーの言葉には答えず、ケルベロスⅡを右手に構え、左手に先ほどと同じトライシールドを模した防御魔法を構え――再度、全速で後退する。
 エリオから付かず離れずの距離を飛び回るように――決して、この場から逃げ出すことはない。離脱など頭の中には存在しない。
 羽金が迫る。砲撃が迫る。
 羽金を回避する――その方向目掛けて砲撃が放たれる。あらかじめ回避方向を予測し放たれた偏差砲撃。
 身体を捻り、それを間一髪で回避――髪が焦げる。バリアジャケットの一部が焦げる。
 間隙無く羽金が迫り来るのが見える――ケルベロスⅡを弾幕に向かって連射。狙いをつけずとも密度の濃い弾幕ならば命中する――爆発。連鎖。誘爆。
 上がる爆煙。その煙を切り裂いて迫り来る残りの羽金――割合で言えば未だ9割ほどまでにしか減っていない。上空に向かって飛行。足元にパルマフィオキーナを精製。
 羽金が光の軌跡を放ちながら、追い縋る。
 軌跡の種類は多種多様。
 弧を描く羽金、真っ直ぐに迫る羽金、こちらの視界から離れていく羽金――その後に急旋回をかけて視界外から迫る羽金、螺旋を描き迫る羽金に、蛇の体躯如き軌跡を描く羽金――機械化する思考と拡大した知覚が、その全ての軌道を把握する。
 武装はケルベロスⅡのまま変形させない。何よりもあの弾幕を回避しなくては攻撃もままならない。

「デスティニー。サポートしろ。」
『了解しました。』

 以心伝心。言葉は少なくとも意味は伝わる。
 朱い瞳に僅かばかりの感情が浮かぶ――覚悟の輝き。
 視線を後方に向ける。迫る弾幕。青い軌跡を描き、迫る――弾幕に向けて突進し、直前で急上昇。
 追い縋る羽金の軌跡が変化する。デスティニーがリアルタイムで、その全ての軌跡を更新し続ける。
 
 デスティニーによる状況分析/軌道予測――各部に精製されたフィオキーナがシンの動きに合わせて角度と威力を精緻に調整されていく。
 シンがこれからどう動くかを分析し予測し、彼が脳裏に描く動きを再現する為にデスティニーがサポートを行う。
 上昇しながら、下方より迫る羽金にケルベロスⅡを最大掃射――連射速度は最大。
 これまでと同じく爆発。そして誘爆。
 弾幕が煙に爆煙に包まれる――その煙を切り裂いて、羽金が爆煙を突き抜けて現れる。
 躊躇うことなく、追い縋る羽金から全力で後退/方向は下方へ向けて――弧を描く何百もの羽金の軌跡が見えた――まるでミサイルのような軌跡。
 右腕のケルベロスⅡを握りしめ、脇の挟み込み、確実に保持。
 密に密に高速で迫る弾幕――足元、腰、肩、背中にフィオキーナを精製し“弾幕”を舐めるようにエリオに向けて突撃する。
 羽金が迫る。軌道を変化し、全てが迫る。
 右手に保持したケルベロスⅡを発射。羽金に着弾。誘爆――連鎖的に周囲も爆発。更に残りの羽金が迫る――足元のフィオキーナを全力で上空に向けて発射。
 落下の速度で降下。左手を羽金に向けて、魔力収束炎熱発射――分散。ショットガンのような散弾が弾幕に接触し、爆発。
 更に爆発。弾幕は姿を変えない――まるで減った様子が見えない。

「あぁぁぁぁぁ!!!!」

 咆哮と共に、ケルベロスⅡ及び散弾式のパルマフィオキーナを発射。
 周囲が羽金に取り囲まれていく――思考を全て位置取りに集中。
 全身に設置したフィオキーナで無理矢理に羽金を回避し、ケルベロスⅡで誘爆させ、散弾を放つことで連鎖爆発させ――振り返り、回転し、転身し、旋回し、弾幕を削り取るように弾幕を抉り取るように回避回避攻撃回避攻撃回避回避――終わりの無い空中円舞。
 無茶苦茶な機動を繰り返したせいで、肋骨が、胸骨が、両足が、両腕が軋みを上げる――キミの身体は未だ弱い――グラディスの言葉が蘇る/全て無視。
 一瞬ごとに視界がブラックアウトし、その度に視界が仮想視界に切り替わる――現実と仮想の区別すら曖昧になっていく。
 実感のある現実は握り締めたデスティニーと、いつの間にか皮が剥げ落ちた左拳。そして、全身の痛みだけ。
 痛みに縋りつくように、撃ち続け、回避を繰り返す。
 一瞬足りとも止まらない――咆哮と共に攻防が繰り返されていく。
 曖昧になっていく意識。
 自分が一つのパーツになっていく錯覚。
 反射速度は未来予測の如く。
 行動速度もそれに追随し、現在(イマ)に先んじて未来(サキ)を撃つ。
 撃つ/回避――移動。撃つ/回避――移動。撃つ/回避――移動。
 目まぐるしく方向を変えるフィオキーナ。
 上下が逆転し、左右が逆転し、それがまた逆転し――方向感覚は既に訳が分からない。
 天頂がどこなのか、太陽がどこなのか、地面がどこなのか――その感覚が既に存在しない。
 それでも撃つ。
 射線が合えば撃つ。射線がずれても撃つ。
 狙おうとも狙わずとも、当たることは数量の違いから明白――故に撃つ。撃ち続ける。
 撃ち続けることで密度が下がる――弾幕に隙間が生まれる。
 咄嗟に体を捻りこませる。
 全身を刺し貫き爆発する羽金――突き抜けろ、その向こうのアイツにまで。

「ぎ、あ」
 
 馬鹿みたな呻き声。沸騰するような憤怒のまま、自殺行為を敢行。
 身体中に設置したフィオキーナをスラスターにジグザグに稲妻のような軌道――重力など関係無いと言いたげな軌道で全力特攻。
 左手に魔力を収束し、盾のような姿に――形状を設定する暇すら無く、盾どころか、ただの塊を先端に頭部と臓器と得物を握り締めた右手を守る。
 痛い痛い痛いふざけるな激突血が目に入る激痛鈍痛頬の肉が剥げ落ちた五指が削げ落ちて見えるモノはただの白い塊/拳の骨格だけが残る――弾幕を突破。
 弾幕を突破――全身から煙が上がる。
 避けきれず命中した羽金による損傷――リジェネレーションによる急速再生。蒸気を上げて傷が塞がっていく。
 ケルベロスⅡをアロンダイトに変形。
 接近し、攻撃――シンの眼前にエリオ・モンディアルのストライクフリーダム/羽金の大剣が横薙ぎに振り抜かれている。

「・…っ!」

 両肩と両足のフィオキーナを急速発射。
 両肩は前面から、両足は踵部分から。
 ぐるり、と身体を急速に回転させ、大剣の一撃を避ける――攻撃に移ろうとした一瞬を突かれた奇襲。
 攻撃に使うはずの時間的余裕を回避に用いた――致命的な隙が生まれる。
 後方から迫り来る羽金。それを避ける暇が無い。

「――。」

 言葉を放つ暇は無い。シンは亀のように身体を丸くし、両腕で顔面を防御。膝を折り畳んで腹部を防御。
 フィオキーナは全て解除し、その瞬間に注ぎ込める全魔力を使って、プロテクションとシールドを最大威力で同時発動させる。
 羽金が着弾する。爆発する。瞬間何百発という数量の爆発――爆発の圧力がプロテクションを壊していく。シールドに亀裂を入れていく。防ぎきれない。
 びしり、とシールドに巨大な亀裂。限界が近い。爆発は終わらない。
 閃光が弾けた。シールドはもはや限界を超えた。爆発が起きる。
 ふと、下を見た。
 ギンガとフェイトの死体が見える――俯いて虚ろな瞳であらぬ方向を見つめる二人の死体。

(こいつは俺から奪った。)

 奪われた。大切な――大切になるかもしれなかった人を。

(理由は、“必要だった”から。)

 ふざけた理由だ。
 認められるはずがない――どんな理由があったとしても認めることは出来ないだろうが。

(許さない。)

 そう、許せない。奪われた代償は対価を以って支払わせる。
 そうだ、奪われたなら――二度と奪えないように殺してやる。
 
 ――右掌を開いて、向ける。


「……そうだ、アスカ君。」

 空間に投影された画面にシンが写る――そこはジェイル・スカリエッティの私室。
 虹色の瞳がギラギラと輝いている。

「無限の欲望ならば“この程度”で死んでどうする。」

 “右手”を画面に向けて突き出す。

「さあ、魅せてくれ、アスカ君。無限の欲望の証を……この眼と同じ、“羽鯨の眷属(エヴィデンス)”の力を……!!」



 ――右掌を開いて、向ける。
 それは、恐らくは無意識の行動なのだろう。
 別にシン自身はソレが何を起こすか理解していた訳ではない。ただ、感情の赴くままに伸ばしただけに過ぎない。
 だが、“力”とは感情に呼応して発言するのが世の常だ。激しい感情はそれだけで自身を変革する。

 ――突き出した右手に朱い光が走り抜ける。それまでのような幾何学模様ではなく、亀裂のように無秩序な線形が描かれていく。

『存在搾取発動(エヴィデンス)開始――確定。』

 デスティニーの呟き――同時に右掌が朱く輝いた。
 痛み。右腕を同時に数百回貫かれたような激痛――激痛という言葉すら生温い。血管が脈動するだけで気絶する。心臓の鼓動に震えただけで気絶する。空気に触れただけで気絶する。一瞬で気絶と覚醒を何百回も繰り返される。
 声を上げるほどの時間ではない――ただ一瞬を凄絶なほどに長く感じる。痛みによって時間の感覚が歪んでいく。

「お、れ、の……」

 シールドが破壊されていく。波濤の如く押し寄せる羽金の群れ。
 プロテクションももはや消えている。身体を守るモノはバリアジャケットのみ。

「邪魔を……!!」

 右掌の中心にある虹色の瞳のカタチをした紋様が、“虹色の瞳”が――

「するなあっ……!!!」

 ――開いた。
 瞬間、全てが激震した。
 シンの右手の中心――虹色の瞳の紋様が全てを“観た”。
 
 羽金が壊れる。
 皹割れ、風化し、崩れていく。一瞬で何千年と言う年月を経たかのように全てが崩れていく。
 それはシン・アスカ――と言うよりもデスティニーがこれまでも行ってきた生命の搾取と同じ現象。
 だが、これはそれまでとは桁が――否、格が違う。
 
 これまではある程度の時間を経て、全てが風化し崩れて行った――だが、これは全てが一瞬だ。
 前列の羽金から順番に、虹色の瞳が観た順番に全てが一瞬で風化し、曇天の空の下、そこかしこでシャボン玉のように砂が弾けて跳んでいく。
 その前では羽金も砲身も砲撃も全てが関係無い。
 魔力で精製されたモノであろうと自然が作り出したものであろうと、何であろう――“在る”ならば全てが消えていく。
 残っているのは唯一エリオ・モンディアルとウェポンデバイス・ストライクフリーダム。

 エヴィデンス――無限の欲望が手に入れる高次存在『羽鯨』の眷属としての力。
 スカリエッティであれば、全てを見通す、“無限の眼”。これはスカリエッティの欲望が探求・観測に特化していたことに影響され顕現したのだ。
 シン・アスカは、全てを奪う“搾取の眼”。シン・アスカの願い――全てを守る為には全てを超える力が要ると言う結論が顕現させた力である。
 その眼が睨んだモノは存在情報という生命の根幹となる情報を奪われ、風化し、崩壊し、最も単純な情報しか持たない物質――砂塵となって消えていく。

 空に砂塵が舞い踊る――暴風によって舞い踊る膨大な砂塵は、砂の雨となって辺りを覆い隠す。
 視界は不良。1m先すら見えないほどに世界は閉ざされる――エリオ・モンディアルが油断なく羽金の大剣を構えた。先ほどシンが見せた不可解な力に気を取られることなく、恐らくこの視界の悪さに乗じて襲い来るであろうシン・アスカを警戒して。
 羽金が蠢き、周囲に待機する――羽金による結界。羽金に意識を徹すことで、エリオはその全てを自身の一部の如く知覚できる。その羽金が織り成すネットワークに僅かでも触れれば即座にエリオ・モンディアルはシン・アスカの居場所を察知する――そして、今度こそ致命的な一撃を喰らうことになる。
 つまり、攻撃した瞬間、シン・アスカは死ぬ。それは、確定事項だった。
 羽金の一機が吹き飛んだ――方向は真正面。

「……真っ直ぐ、ボクを殺しに来る、ですか。」

 ストライクフリーダムを高く掲げる。エリオ・モンディアルは次の一撃に全霊を込める為に魔力を再度込めていく。
 同時に精製される16基の砲身――最大展開砲身数。

「……これで、終わりです。」

 裂帛の気合。シンに姿は未だに見えない――けれど、突き進んでいることだけは間違いなく感じている。
 その位置、速度、態勢、全てを把握している。把握した上で、その一撃が到達する前に、彼を消滅させる。

「ドラグーンフルバースト。」

 三度目の最大掃射。砂塵ごと全てを吹き飛ばし、殲滅する光と羽金の奔流。
 世界が塗り替えられていく――シン・アスカが殲滅されていく。
 ――エリオ・モンディアルのココロに安堵が浮かぶ。彼はこれで使命を果たしたのだ。このたかだか一戦の為に彼はこれまでの全てを投げ売ったのだ。
 この場で無限の欲望と化したシン・アスカを殺す――その為に。
 ストライクフリーダムを握る手から僅かに力が抜ける。全身の緊張がほぐれていく。

「これで、終わったん……」
「――死ね。」

 背後から声。反応――する暇も無く、熱く硬い白い何かで頬を殴られた。

「え――がっ!?」

 再び。衝撃。殴打。鳩尾を貫く衝撃。蹴られた。
 空中から地面に落下する――朱い瞳の男が落下する自分を追いながら魔力を込めた左拳で何度も何度も殴りつけていく――激突。衝撃が全身を襲う。

「がはっ!!」

 呻きを上げて、呆然とするエリオ――そんな暇など与えない。
 ひゅん、と風を切って、朱い瞳の男の手に焼け焦げ、傷だらけとなった得物が舞い降りる――未だ五指も存在していない壊れ切った左手で、大剣の柄を、停滞無く、エリオ・モンディアルの左胸に向けて、突き込んだ。
 ずぶり、と胸に刃が食い込み――貫く。地面に突き刺さる感触。肉体を貫通する。地面を広がって行く紅い液体――血液。
 突き込んだ激痛で男の顔が大きく歪んだ。

「かはっ」

 咳き込んで、見上げた先――そこにシン・アスカがいた。手には、この胸を貫く焼け焦げ、傷だらけとなったデスティニー。

「……なん、で。」

 呆然とするエリオ。何が起こったのか理解できない。
 砂塵によって塞がれた視界――それをドラグーンによって作った結界にて克服し、全霊の一撃を叩き込んだ。
 シン・アスカはその一撃の前では無力。消滅し、その存在はこの世界から消滅したはずなのに――そこで、エリオは気付く。焼け焦げ、傷だらけとなったデスティニーに。

「そ、うか。」

 今、シンはデスティニーをエリオに向かって投擲したのだ。
 本人はその砂嵐に潜み、エリオ・モンディアルが必殺の攻撃を放つ瞬間――つまり、最大の隙を作る瞬間を待ちながら。
 シン・アスカはそうして、エリオが攻撃するように誘導し、後ろから奇襲した。
 魔力を込めた左拳――白い骨だけしか残っていないアレで殴り、かろうじて無事な右足で蹴り突けた。
 そして、空中で何度もそんな馬鹿げた殴打と蹴りを繰り返し、地面に叩きつけ、アロンダイトを突き刺した。
 貫かれたのは心臓。
 人体急所――生命の急所。ここを狙えばどんな人間であろうとも生き残ることは無い。

「……」

 無表情でか細く息をするエリオを見つめるシン――右腕からは夥しい出血が今も流れている。
 エヴィデンスの反動。リジェネレーションによって再生を行っているものの復旧までには未だ時間がかかる――しばらくは動かすこともままならない。
 それどころか全身を動かすことも、ままならない。
 左手の指は今ようやく肉が盛り上がり、修復の兆しが見えている。
 シン・アスカの勝因。そして、エリオ・モンディアルの敗因。
 近接攻撃力、速度等の性能は両者共に互角であり、射程距離と火力という点では圧倒的にエリオが優勢だった。
 シン・アスカにあって、エリオ・モンディアルに存在しないモノ。
 それは蓄積された戦闘経験の量である。
 シン・アスカはインパルスに乗って戦争に従事し始めた時から現在に至るまで、何度も何度も戦闘を行い続けた。特に戦争終結後、ザフトに復帰してからはそれこそ毎日戦闘を繰り返した。
 2年間、実戦という極度のストレス下で毎日戦い続けたシン・アスカはベテランの兵士でさえ舌を巻くほどの濃密な戦闘経験を自らに刻み込んでいる。
 けれど、それは殺し合いの蓄積であり――ミッドチルダのような非殺傷戦闘ではない。
 今、シン・アスカはエリオ・モンディアルを最初から殺すつもりで戦い、殺した。殺し合いに慣れた彼にとっては非殺傷戦闘よりも余程慣れ親しんだ戦闘である。そして、エリオ・モンディアルは殺し合いなどしたことが無い――非殺傷設定が絶対とされるミッドチルダに生きる以上は当然のことだ。
 つまり、明暗を分けたモノ。それは――殺した人間の数量。その絶対的な数字の違い。それだけだった。

 無言でデスティニーを引き抜く。先端にエリオの血が付いている――殺した証。命の残滓。
 空を見上げる。曇天の空。雨は止まない。嘆きのように降り続ける。

「……。」

 じゃり、と瓦礫を踏む足音。朱い双眸がそちらを睨む。

「……だから言ったろう?まだ、敵わないと。」

 金髪の男――顔には仮面。着ている服はザフトの白服。見たことが無い――いや、映像でなら見たことはある。
 それは、以前に機動六課ライトニング分隊を単騎で打ち倒した男――あの白い鎧を纏った人間。

「……お前、誰だ。」
「……初めまして、だな。シン・アスカ君。」

 男の顔に笑みが浮かぶ。醜悪な微笑みが。シンの全身に湧き上がる殺意――理由は無い。意味は無い。ただ、“何となく”目前の男に殺意が湧いた。
 生理的に合わないなどという問題ではない。その男がそこに存在していることが許せない――そう思えるほどの嫌悪。

「誰だと、聞いたんだ。」

 朱い双眸に殺意が混じる――この場に現れた以上目前の男が敵なのは明白。
 シンの瞳が釣り上がるのは当然だ。
 だが、仮面の男――ラウ・ル・クルーゼはシン・アスカのその殺意など気にした様子など無く、軽い調子で話し出す。

「……そんなことよりも、トドメは刺さないのか?」
「……トドメ、だと?」
「そうだ。もし、戦いが終わったとでも思っているのなら、一つ忠告だ。その男に施された身体改造は、この世界の魔法などよりもはるかに先の世代の技術によって為されている。」

 持って回ったような口調――苛々する。この男と同じ場所で空気を吸うこと事態が気に入らない。何故かは分からない。分からないけれど――本能が告げているのだ。
 コイツは、“天敵”だと。殺し合わなければ気が済まないのだろう、と。

「……何が言いたいんだ。」

 だから、自然と口調も荒くなる。それはコイツが間違いなく敵であることにも起因しているのだろう。

「――死に難いと言うことだ。そんな心臓を潰した程度で死ぬことは無い。潰すなら頭を潰すことだ。“それで”ようやくだ。ようやく止まる。それ以外の致命傷などは全て――」

 言葉の意味に気付いて、シンが振り向く。そこには――

「――死ぬよりも前に生き返ってしまうのさ。」

 ――既に大剣を振り下ろしたエリオ・モンディアルがいた。
 ばさり、と羽根が舞う。ばちり、と紫電が流れる。

 ――吹き出る出血。左肩から、右脇腹を抜けるようにして振り下ろされた袈裟斬り。
 
 僅かに後方に下がっていたことが良かったのだろう――重要な臓器は斬られていない。けれど、斬撃の衝撃と流し込まれた電撃が肉体の自由を奪う。
 膝を付いた。糸の切れた操り人形のように、頭を地面に突っ伏す。
 身体が、動かない。
「……クルーゼ、どうして、ここに……。」
「勝手に時計の針を進めようと言う魂胆が見えていたからな……キミはもう少し、嘘を学んだ方がいい。」
「……」

 悔しそうに歯噛みするエリオ。キラ・ヤマトの顔となっても、そこには彼の面影が浮かんでいる。

「では、私達は行くとしよう、シン・アスカ君。」
「……お、まえ、ら。」
「大切なモノが奪われた絶望を噛み締めて――精々のた打ち回って足掻き抜くがいい。」

 ――その言葉を最後に、シン・アスカの意識は途切れた。


 ――初めは嘘だと思いました。

 静かに立ち尽くすシン・アスカ。“ソレ”に触れようとして触れられないでいる。
 空から雨。曇天より降り注ぐは土砂降りの雨。
 地面も、瓦礫も、自分自身も全てが塗れていた――勿論、シン・アスカも。
 ――人の死を見るのは初めてじゃない。だけど、そんなこと思いも寄らなかった。仲間が死ぬことあるなんて、考えたこともなかったから。
 彼の前には二人の女性が瞳を閉じて、瓦礫に腰掛けるようにして寝そべっていた――瞳はシンが閉じたらしい。
 初めは眠っているのかと思った――そして、その胸から映えるモノを見て絶句した。
 一本ずつ一人一人の胸から映える半ばオブジェと化している剣――それが無ければ、ソレが死体だなどと気付かなっただろう。

「……キャロか。」

 そう、そこに在るのは“死体”だった。
 フェイト・T・ハラオウンとギンガ・ナカジマの死体。
 それは本当に綺麗で死んでいるのが嘘みたいに思えて――けれど、服を染める“紅”がその事実を裏付けていて。

「う、そ。」

 膝が折れた――立ってなどいられなかった。呆然として、訳が分からなくて、力なんてまるで入らなくて、すとん、と地面に腰を落とした。
 涙は、出なかった。その事実が理解できないから――そんな、あまりにも“突飛”な展開に思考が付いていかない。
 泳ぐように視線を動かす――シンは天を見上げて、その場に立ち尽くしていた。

「ギンガさんとフェイトさんは、死んだ。……俺が“守れなかった”。」

 淡々と呟くシン――その言葉で、涙が溢れ出した。嗚咽するでもなく、叫ぶでもなく、ただ涙が頬を伝っていく。

「うそ、でしょ。」

 雨が酷い。土砂降りの雨は止む気配などまるで無い。
 シン・アスカは涙を流さない――土砂降りのせいで泣いているのかどうかも分からない。表情からは何も伺えない。

「シン、さん……」

 キャロの声が耳に届く――振り向かない。見上げたまま視線は空に固定。
 澄み切った思考も、全能感も、右手の痛みも、未だ変わらず。
 悲しみも怒りも湧き上がらない――感情は凍ったように穏やかで、
 ギンガとフェイトの死体を見る――それでも奥底で燃える何かは今も燃えている。
 朱い瞳の焦点は戻らない。砕け散った何かは未だそのまま。虚無の劫火はその火を消すことなく、冷え切った心に熱が戻ることはない。

「ステラ……俺、また、守れなかったよ。」

 瞳を閉じた――ギンガとフェイトが死んだ事実を受け入れる。
 自分は何も出来なかった。役立たずだった――涙が、毀れた、気がした。
 天を見上げる瞳から血が垂れる――血の涙。
 キャロ・ル・ルシエは呆然と、それを見ているしか出来なかった。
 表情は淡々と、悲しんでいるようにすら見えないのに――彼が哭いているのが分かってしまったから。
 二人には何も出来ない。何も分からない。何でこうなったのか、そんな理由はサッパリ分かりもしない。
 
 分かっていることは唯一つ。
 シン・アスカは今も変わらず――相変わらずの負け犬だった。
 それだけだった。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 39.Sin in the Other World(a)
Name: spam◆93e659da ID:17f428f0
Date: 2010/05/29 17:59
 旧い結晶と無限の欲望が交わる地。
 死せる王の下、聖地より彼の翼が蘇る。
 死者達は踊り、中つ大地の法の塔は虚しく焼け落ち、
 それを先駆けに数多の海を守る法の船は砕け落ちる。
 だが、心せよ。朱い炎だけがそれを止める。
 狂った炎は羽金を切り裂く刃となるだろう。

 そして、運命は駆け昇る。
 世界の全てを踏破して、世界全てを超えていく。
 二人の乙女と共に。二人の女と共に。
 ――これは運命に敗北し、それでも意地汚く足掻き続ける一人の男の物語。


 ――真っ白な世界。そこには何も無い。ただ虚無のみがそこにあった。
 
 見えるモノは地平線――ただ、白のみが支配する世界にあるソレが本当に地平線なのかどうかは怪しいものだが。
 そこには何も無い。星もなければ月もない太陽もない――既視感を覚える。何度も何度もココに来たと言う錯覚――もしかしたら錯覚ではないのかもしれない。
 そこで思い出した。錯覚ではない。自分は何度も何度も何度も何度も、ココに“来ている”。
 閉じられたセカイ。箱庭。メビウスの円環。始まりも終わりもそこにはない。それはただ“在る”だけのセカイ。
 
 ――そう、思い至った時、そこに人がいた。
 
 白磁の如き美しい銀髪と、紅玉のような赤い瞳の女性。このセカイの主――冷たい印象の中に暖かさを感じられる、どこか母性を感じさせる瞳。
 彼女の口が開く。

「また、会ったな。」
「……アンタか。」

 そっけない言葉。言葉に感情が篭らない。篭めようとも思わない。
 沈黙――会話が続かない。口を開く。気まずさを払うように。

「ココは、なんなんだ?」

 質問に意味はない。ただ、場を取り繕うだけの質問―-―夢の中なのに気遣いなどおかしな話かもしれないが。
 彼女が答える。

「ここは狭間の世界だ。世界と世界を繋ぐ楔そのもの――世界の境界面だ。」
「……え、と。」

 さっぱり意味が分からない。思わず、言葉を失う。
 彼女はそんなこちらの動揺などどうでもいいのか、喋り出す。

「お前は無限の欲望となり、エヴィデンスを得た。それは羽鯨――神の力だ。人の手で扱いきれるものではない。」
「エヴィ、デンス……?」
「その右の掌だよ、シン・アスカ。」

 言葉に促されるようにして、掌を見る――中心に在る虹色の瞳。今は閉じている。

「それは全てを“奪う”強欲の手だ。」

 奪う――そうだ。確かに自分は奪った。あの羽金と砲身を全て砂に変えた。
 絶対たる力。目前に存在する全ての邪魔を駆逐する最高の武器。
 唇が知らず釣り上がる――彼女はそんな自分の様子に溜め息を付きながら言葉を続ける。

「存在を奪うその手は確かに最高の力となる――だが、大きな力には代価が必要だ。……お前も、分かっているんだろう?」
「……何のことだ?」
「奪い取った存在情報を捌ききれるほど人と言う器は大きくない。無限の欲望であってもそれは変わらない。制御し切れないほどに存在を搾取するその手が導くモノは即ち破滅しかない――それを使い続ければ、お前は死ぬ。」
 死ぬ――その言葉が静かに全身に染み渡る。衝撃は無い。まるで、何も感じることはない。
 その言葉は嘘ではないのだろう。言っていることが嘘かどうかを判別する程度には人生を経験している。
 だが、別に問題は無い。シン・アスカの心は死ぬくらいのことで波立つことは無い。

「別に、いいさ。」

 言葉の通り、問題などどこにもない。
 何十年も生きて、幸せに死んでいくような人生を望んでいる訳でも無い。
 それに、この先の人生に幸せを望んでいる訳でもない――そんな人生はいらない。
 求めているのは落とし所だ。この人生の終着点と言う名の落とし所を。
 だから、

「俺は守れればいい――力を使い切って死ねるなんて、十分過ぎる。」

 呟く――淡々と。

「死ぬのが怖くはないんだな。」

 頷く。
 死ぬコトは怖くない。怖いのは守れないまま死ぬコト。守れない絶望を味わうくらいなら、死んだ方がよほどマシだ。

「誰かを守る為に死んでも構わないのか。」

 頷く。
 そうして死ねると言うのなら、十全だ。

「……お前はもう揺らがないんだな。」

 ――頷く。
 守れなかった。ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウンを。自分に好意を抱かせて“しまった”人達を。
 自分は彼女達を死なせるつもりなど微塵もなかった。けれど、ならば何故彼女達は死んだ?
 決まっている。自分と関わったから――自分に好意を抱いたからだ。

 ならば、結論は簡単だ。彼女達が死んだのは誰のせいだ?
 自分のせいだ。自分が殺したようなモノだ。
 揺らがない、と彼女は言う――違う。もう、揺らぐモノなど何も無い。
 
 守りたかった人は死んだ。守らなくてはならなかった人を守れなかった。挙句の果てに、守るコトに執着し、力に溺れて、守れなかった。
 残ったのは後悔だけ。あの時、こうしておけば良かったと言うだけの無駄な思考。
 だから、揺らげない。
 この身はただ守る為に。
 
 誰かを――目に映る全てを。
 ただ、それだけのチカラであればそれでいい。
 だから、頷いた。揺らがない、と。
 それを見て、少しだけ彼女は悲しげに俯いて――口を開いた。瞳に映りこむのは決意の光。

「……お前が目覚めたことで、彼女もまた目覚めた――お前の願いを叶える為に。」

 “彼女”――それが誰かを思考する暇もなく、彼女の口が動き続ける。

「それは奴らの準備が整ったことをも意味する。次の満月の夜――世界に魔力が満ちる時、奴らは世界を奪い(スクイ)に来るだろう。世界の中心、クラナガンへと。そして、」

 言葉を切る――そして、噛み締めるようにして呟いた。

「お前は消える。」

 一陣の風が吹いたような錯覚。彼女は息を吸い込む。言葉を切って、そして続けた。

「……生き延びようとするのか、それとも戦おうとするのか。恐らく、それだけがお前に許された最後の自由だ。」

 彼女はただ事実だけを紡いでいく。まるで、既に運命は決まっているとでも言いたげに――いや、恐らく決まっているのだろう。その事実を何気なく受け止める。
 そして、彼女は申し訳なさそうに――苦しげに呟いた。

「だから――戦ってくれ、シン・アスカ。我が主を守る為に。」

 瞳に映るのは決意の輝き。
 主――初めて聞いたはずなのに、何故か、ソレが誰のことを指しているのか、理解する。

「……あの人を死なせなければいいんだな。」
「ああ……その為に、私はお前を導いたのだから。」

 苦しさと決意と厳しさが篭められた言葉が放たれる――身勝手な言い草だ。そう、思ったが別に構わない。
 そんな“死”を得ることが出来るなら、問題なんてどこにもない。
 バリン、とセカイにヒビが入る。

「時間、だな。」

 頷き、振り向こうとする――彼女が声を掛けようとする気配。振り向くのを止め、彼女を見た。

「……いや、いい。私は、お前に、何を言う資格も無いしな。」

 苦笑して、彼女は嗤う――自分自身を。多分、自身のあまりの身勝手さに吐き気でも催したのかもしれない。
 別に構わないのに――そう、思い、笑いながら呟いた。

「俺は、感謝してる。こうなれたのは間違いなくアンタのおかげだ。」

 それは真実だ。目の前にいる女性が何を思おうと関係無い。
 彼女がいなければ自分はただ犬死して終わりだったはずだから。
 だから――命の使いどころをくれたのは本当にありがたかった。
 おかげで、自分は“こうなれた”のだから。

「一つだけ聞かせてくれ、シン・アスカ。お前は、今、幸せか……?」

 震える声で彼女は呟く。
 それは毅然とした彼女には似つかわしくない――不安げな子供のような表情。

「……ああ。俺は、今、“満足”だ。」

 そう言って、彼は振り向いた――これ以上語ることは無い。そう、言いたげに。
 振り向いたその先に、悲しげにこちらを見ている二人の男女がいた。
 どこかで見たことのある女性と、金髪の少年――レイ・ザ・バレル。

「……もう直ぐ、そっちに行くよ、レイ。」

 満足げに笑うシン――レイの顔は浮かない。

「……アンタにも、もう少しだけ……力を貸りるよ。」

 優しげな言葉。シンの満足げな笑みを見て、少女も微笑んだ――悲しそうに。
 金色の髪と朱い瞳。服装は黒い服――喪服のように見える姿。
 その金髪と横顔はステラ・ルーシェのようで、悲しげな表情はマユ・アスカの泣き顔そのもので――その女性は要するに二人に似ていた。
 見た目はまるで違うのに、雰囲気がどこかしら似ている。
 二人の横を通り過ぎて、歩き続ける――ふと、立ち止まり、振り返ることなく、呟いた。

「そういや、アンタ、名前は何て言うんだ?」

 銀髪の彼女は少しだけ、思案して、口を開く――セカイが幕を下ろしていく。音が消えていく。何も聞こえない。

「■■■■■■■」

 色を失っていくセカイ。意識の幕が下りていく。
 “彼女”の声が聞こえない。その桃色の唇に眼を向けて、口の動きだけで言葉を読む。
 紡がれる名前。唯一無二のモノ。聞いたことの在る名前だった。それは同じ部隊に生きる少女と同じ名前。その事実に僅かに驚きつつ――シンは瞳を閉じた。
 閉じる一瞬前に見えたもの。
 悲しげに笑う“彼女”。
 悲しみ――もしくは悔しさ――を堪えるレイ・ザ・バレル。
 悲しげに笑う名前を知らない少女。
 自分を見る全ての瞳が悲しみに染められていて――悲しむ必要なんて無いのに。
 そう思い、けれど言葉にするには遅すぎて――暗闇が舞い降りる。
 暗転。落下。
 落ちていく。自分が落ちていく。境界線から此方へと。セカイから世界へと落ちていく。

 そして――目を開けた。
 
 夢を見たような気がする。夢の内容は……“覚えている”。
 目に映るのは見慣れた天井。そこに悲しげに笑った“彼女”の顔が思い浮かんだ。
 咄嗟に“彼女”の名前を呟いた。

「……リイン、フォース。」

 それは、既に死んだはずのヴォルケンリッターの名前。
 シン・アスカは“彼女”の願いを思い出す。

「八神さんを、守れ、か。」

 彼は嬉しそうに笑った。


 雨が止まない。
 ざあざあと雨が降り続ける。
 耳に届くのはその残響音と、周りの人間の涙声。
 棺桶があった――その数は二つ。
 一つ一つ花を入れられ、金髪が花でうずめられていく――フェイト・T・ハラオウンの“死体”。
 防腐処理が施されたその姿は死んでいるのが信じられないほどに綺麗で、涙が出るほどに綺麗だった。

「……フェイトちゃん……ギンガ……どうして。」

 目を赤く腫らし、涙を流す栗色の髪の女性――高町なのは。管理局のエースオブエースとまで呼ばれた彼女にその面影は無い。
 そこにいるのはただの女だった。親友を失ったことを悲しむどこにでもいる女でしかなかった。

「なのはママ……フェイトママは、死んじゃったの?」

 たどたどしい声――両の目で色が違う希少なオッドアイの少女。年のころは恐らく10にも満たないであろう。
 高町なのはの養女にしてJ・S事件という災禍の中心にいた少女――高町ヴィヴィオ。その外見に似合わない「死んじゃったの」という言葉。
 それを聞いて、なのはは思わず我が子を抱き締める。涙で汚れた顔を隠すように。

「ヴィヴィオ……」

 続く言葉は無い。彼女自身、何を言っていいのかなどさっぱり分からないのだろう。
 数日前までは元気にしていたはずの親友が死んだなど、易々と信じられるものではない。

「ギン姉………」
 
 呆然とギンガの墓の前で涙を流す少女。
 スバル・ナカジマ。ギンガの妹である。
 彼女の目前に掘られた穴に設置された棺桶の中に、青い髪の女性がいた。
 ギンガ・ナカジマ――彼女もまた“死体”だ。
 蒼い髪。白い、本当に透き通るような肌。命の感触を感じ取れない肌。
 フェイトと同じく防腐処理を施され、彼女もまたこれから眠りにつくのだ――永久に。

「スバル……」

 掛ける言葉など何も無い――無言でスバルの背中を抱き締める少女。ティアナ・ランスター。
 彼女の瞳には涙は無い。目は信じられないコトを見るかのように二人の遺体に釘付けになっている。

「……。」

 違和感があった。何故二人が死んでいるのかと言う違和感が――死体を見た時、脳裏に電流の如くそんな違和感が弾け――けれど、今はそんなことを語る場では無いだろう。
 悲しみに塗れた、この場でそんなことを言うのは失礼どころか侮辱に値する――常識的な判断がティアナにその決断をさせる。彼女は口を噤み、二人の死体を注視する。
 その後ろにはシグナム、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ達ヴォルケンリッターと彼らに囲まれるようにして呆けたようにして八神はやてが椅子に座っている。
「……」

 信じられなかった。フェイト・T・ハラオウンとギンガ・ナカジマ――自分の親友と自身の部下が死ぬことになるなど想像もしていなかったから。

(……フェイトちゃんが死んで、ギンガも死んで……)

 呆然と二人が眠る棺を見つめる。
 涙は出ない。既に枯れ果てるほどに泣いたからだ。
 もう、力は出ない。
 椅子に座れていることが奇跡に思えるほどはやては憔悴しきっていた――管理局からの叱責はどうとも思わなかった。
 そんなことよりも何よりも、二人を死なせたと言うことが最も辛かった。
 判断が甘かった。情報が漏れていた。
 今回の失敗には幾つもの機動六課にとって不利となる状況が揃っていた――けれど如何なる理由があろうとも二人が死んだことに変わりはない。
 何も考えられない。気持ちが奮い立たない。正直――何もかも手放して逃げ出したい、とそう思うほどに。
 
 ギンガ・ナカジマ、フェイト・T・ハラオウン、二人の葬式には多くの人々が出席し、多くの人々が涙を流している。
 
 流れた涙の数だけ人の命には価値があると言う。
 前述した論理に従えば、彼女たちの命は殊更に価値があったのだろう――本来の意味においても、そして管理局という組織にとっても。
 
 葬式は大々的に行われた。
 殉職した他の管理局員と比べれば比較にならないほど豪奢であり、その出席者の数もはるかに多い。
 居並ぶ面々は管理局の中でも有数の――権力という意味で――実力者達ばかり。
 中にはまるで関係のない一般人までいる。流石にテレビ中継とまではいかないが、それでも通常の殉職者の葬儀と比べれば雲泥の差だ。

 管理局にとって、ミッドチルダにとってはフェイト・T・ハラオウンとは下手なアイドルよりも知名度が高い。
 その結果といえば妥当かもしれない。
 死んで尚プロパガンダとして利用されることが家族につける傷痕はどれほどのモノか――それを想像するのは難くない。
 
 悲痛な表情で――けれど、涙は流さずにしているリンディ・ハラオウンに肩を抱かれ、キャロ・ル・ルシエは言葉も無く呆然と、自身の“家族”が巻き起こした所業を目に焼き付けている。

 瞳は虚ろであり、窪んだ眼窩は髑髏を連想させるほどに隈が出来ている――眠れないのだろう。
 胸を占めるモノは罪悪感と孤独感と、そしてそれらが織り成す絶望感。
 家族を同時に二人も失い――しかも片方は敵になってしまったのだ。膨れ上がった絶望はキャロ・ル・ルシエという器を壊し尽くそうとしている。
 
 シン・アスカはそんな彼女を見て――眼が合った。

 彼女の瞳が助けを求めて潤み、そして助けを拒絶して光が戻る。
 
 一瞬、動揺がシンの顔を走り抜け、次の瞬間には消えさった。
 何故ならそれは当然のことだからだ。
 キャロ・ル・ルシエ、スバル・ナカジマ、そしてこの場にいる全ての人間にとってシン・アスカとは“憎悪”の対象なのだ。
 少なくともシン自身はそう思っていた。
 
 彼はフェイトとギンガを死んだ原因は自分にある、と考えている。
 勿論、それが全てではない。
 殺したのは紛れも無く彼とは別の誰かでシン・アスカではないのだから――けれど、少なくとも彼女たちがシンと出会わなければ彼女たちは死ななかった。
 
 少なくともシンがもっと“強ければ”彼女たちは死ななかった。
 
 それは誰が何と言おうと紛れも無い事実であり、既にシン・アスカにとっては真実として定着している。
 だから、どれだけ憎まれようとも構わない。そう思っていて――けれど、キャロ・ル・ルシエはそんなことをまるで思っていなかった。
 彼女のココロにあるのは、“どうして”。この言葉のみだった。

「……エリオ、くん」

 呟きながらキャロはあの日を思い出す。あの日の記憶――彼女に絶望を与えた一幕を。
 あの日、呆然と二人の死体の前で立ち尽くすシンと出会う前、キャロはエリオ・モンディアルと出会っていた。


 それはフリードに乗ってエリオを探していた時のことだ。
 大きな爆発が起きた方向にとにかく向かった。散乱していたガジェットドローンの網を潜り抜け、とにかくその爆発に向けてフリードを走らせた。
 何故かそこに、行かなければいけない――そんなざわつきを覚えて。
 そこで二人の男と鉢合わせすることになった。
 金髪の仮面の男と、優しげな容貌に反して陰鬱な眼をした赤い髪の男。

 ――その時のことは忘れようも無い。

「……キャロ。」

 赤い髪の男が呟いた。
 その声を聞いた瞬間、キャロの心臓が一際強く鼓動した。

(え……?)

 見た目はまるで違う。
 何故なら目の前にいる赤い髪の男の年齢はどんなに少なく見積もっても15歳程度。エリオ・モンディアルの年齢は未だ10歳を過ぎた程度。
 ありえるはずが無い。なのに、雰囲気と声が彼がエリオなのだと告げている。
 だから、その男はチグハグしている。見た目と中身が一致しない――そんなありえない感覚を覚える。

「……仲間かい?」

 仮面の男がこちらを見た。ゴミでも見るような視線が怖かった。

「いや……もう、違う。」

 赤い髪の男から放たれた声は、その見た目にまるでそぐわない聞き慣れた子供の声。

「……エリオ、君?」

 赤い髪の男は、苦しげな顔で顔を逸らし――そして、呟いた。

「早く、皆の元に戻るんだ、キャロ。」

 キャロ、と呼ぶ声。見た目がまるで変わってしまっても、そこだけはまるで変わらない。
 キャロ・ル・ルシエの胸に灯る確信――目前の赤い髪の男がエリオ・モンディアルなのだと。

「……エリオ君、何で、なに、してるの……?」

 震える声を自覚する。

「ボクは、ソコにはいられない。……ボクにはやらなきゃいけないことがあるんだ。」

 ソコがどこなのか、やらなきゃいけないことが何なのか。
 そんなことは彼女にはサッパリ分からない。
 分かっているのは一つだけ――家族がいなくなると言うその事実だけ。

「え、エリオ君……な、何を、言ってるの?」

 動揺――むしろ、恐慌寸前のキャロ・ル・ルシエを見て、エリオ・モンディアルは苦しそうに顔をしかめる。
 だが、それだけだ。彼は目を逸らさずにキャロを見る。瞳には澄み切った決意が浮かぶ――理解できない。何故、そんな清廉とした想いを持てるのか。何も分からない。

「彼はキミたちよりも私達を選んだのさ。」

 仮面の男がそう嗤いながら呟いた。

「わ、たし、たち?」
「キミたちの敵だよ……分かっているんだろう?」

 何が面白いのか、ニヤニヤと醜悪な笑みを浮かべながら仮面の男は話し続ける。

「エリオ・モンディアルは裏切ったのさ、キミたちを。」

 男はそう言って右手をキャロに向ける――右手が変質する。白い袖に包まれた人間から黒光りする鋼へと変質/変容――右手に巨大なライフルが現れる。

「あ」

 呆けたように口を開いて、キャロはソレを見た――反応できない。
 一条の光が輝いた――キャロ・ル・ルシエに向かって伸びていく。

「ひっ」

 目前に迫る熱量を感じて、ようやく気づく――死ぬ。死ぬ。呆気なく簡単に自分は死ぬ。
 熱が自分を焦がす――焼失する。髪がチリチリと、皮膚がジリジリと、口内がカラカラと。乾いていく焦げていく燃えていく。
 恐怖から瞳を閉じる――唐突な展開に思考が追いつかないのだ。
 爆発。黙々と上がる煙――違和感を覚える。自分の身体が残っている――意識がある。生きている。傷が無い。

「エリオ……君。」

 目前に立つ人影。エリオ・モンディアルが羽根の様な大剣を構え、キャロを守るようにして立っていた。

「……クルーゼ。」

 放たれる殺意――空間を揺さぶるほど。けれど、ラウ・ル・クルーゼは揺らがない。むしろ愉しげだ――自分を殺した男と同じ顔の人間が苦しむ姿を楽しんでいるのだろう。

「怖い顔だ。本当に殺すと思ったのかい?」
「……」

 エリオ・モンディアルは答えない。油断無くクルーゼを睨みつける。

「…ようやく、幕が上がったんだ……これ以上、役者を減らす道理も無い。それにキミはどうせその子を守るだろう?」
「そうだ、ボクは、“その為”にこうなった。決して、貴方たちの仲間になる為じゃない。」
「なら、分かるだろう……スーパーコーディネイターであり、最強のウェポンデバイスであるキミを私程度が殺せるはずもない。」

 沈黙が場を覆う――緊張が走る。張り詰めていく空気。キャロ・ル・ルシエは失禁しそうなほどに恐怖を覚える。
 目前で繰り広げられている殺意と殺意の応酬に充てられ、そして自分の良く知っているはずの家族が今までに見せたことも無いような顔を見せていることに驚いて。
 表情は違う。
 けれど、その内実にエリオ・モンディアルを感じて彼女は彼がエリオだと感じ取り――けれど、今はもはや、その面影すらない。そこにいるのはただの修羅。戦鬼という名の修羅しかいない。
 ガタガタと身体が震える――死の恐怖ではなく、未知への恐怖。置いていかれる恐怖。

「クルーゼ、先に行って下さい。」
「どういうつもりだね?」
「……僕も直ぐに後を追います。必ず、そちらに行きます。だから、今は……」

 言葉に篭る必死な響き――苦しげに吐き出した言葉にソレが篭る。前髪に隠れて瞳は見えないが――恐らくは泣きそうな顔をしているのだろう。
 クルーゼは、喉を鳴らして、くくく、と笑うと答えた。

「……弁解などしなくともキミが私達を裏切ったりはしないことは知ってるよ。キミは望んでコチラに来たんだ……それくらいは信用するさ。」

 信用。そう、彼には絶対に似合わない台詞をぼやいて、ラウ・ル・クルーゼは右手を掲げた。現われ出でる黒色の魔法陣――転移魔法陣だ。

「なら、私は先に帰らせてもらうとするか……エリオ・モンディアル。キミのこれからに期待させてもらうよ。」
「……ええ。」
 
 転移魔法陣が輝き、回転し、稼動を始める――ラウ・ル・クルーゼの身体がその黒い魔法陣に溶け込むようにして消えて良く――空間転移。
 怯えて、固まっているキャロ・ル・ルシエなど気にも止めない。心底どうでもいいのだろう。生きていようと死んでいようと、彼に取ってキャロ・ル・ルシエなどという一介の魔導師は八つ当たりの対象にもならない。
 必要でなければ殺すことも面倒だと断じれるほどに。

「…エリオ君……うそ、だよね?裏切った、って……そんなの。」
「――本当だよ。僕はこれからキミたちの、機動六課の……時空管理局の敵になる。」

 血を吐くような声で彼はそう言って、右手でキャロが向かっていた方向――爆発が合った方向を指し示す。

「あそこに行くといい……そこで僕が裏切った、“その証”が待っている。」

 呟いて、エリオ・モンディアルが左手で握り締める大剣が輝き出し、黒い魔力(ヒカリ)が溢れ出し、魔法陣を形作る――エリオ・モンディアルがその魔法陣に飲み込まれていく。

「エリオ君!?待って!待っ……つっ!?」

 手を伸ばす、黒い魔力に手が触れる――バチリ、と手に痺れが走る。黒い魔力を覆うようにして、紫電が流れている。

「大丈夫……皆、僕が守るから。だから、心配しなくていいよ……僕が皆を守るから。」

 微笑む――エリオとは違う顔で、エリオと同じように、エリオと同じ声で。
 涙を流しそうなほどに悲しそうに笑っていて。

「エリオ君!!」
「だから、今は……」

 手を伸ばし――

「さよなら、キャロ。」

 ――手は届かない。
 
 そして、初めから何も無かったかのように彼は消えた。


 キャロは未だに理解出来なかった。何故、エリオが二人を殺したのか。そして、最後の言葉。

 ――僕が皆を守るから。
 
 それがどうしても理解出来なかった。それが繋がらないのだ。フェイトとギンガを殺したことがどうして、守ることに繋がるのか。
 そして、最後に見たエリオの顔。泣きそうな笑顔――“悲しんで”いた。
 何故、悲しむのか。その必要がどこにあるのか。
 その疑問に呼応するようにして、キャロ・ル・ルシエの瞳に力が戻り――リンディから声を掛けられる。

「…キャロ、あなたも棺に花を。」
「リンディさん……」

 フェイトの死に顔を見ればそんな力は全てどこかに消えていく。疑問は霧散し、悲しみで全てが染められる。
 そうして、キャロ・ル・ルシエは悲嘆に沈む。

「……もう、いいな。」

 ――悲しみに暮れるキャロを尻目に、シンは皆が立ち並ぶ墓に背を向ける――もう、ここに居る必要はない。そう、思って。
 
 葬式は既に終わりの様相を見せている。あとは棺を埋めて、牧師が喋って終わる。
 彼がここにいる必要はもう無くなっている。だから、ここにいる必要は無い。
 背後で牧師が何かを喋っている――そんなもの耳には入らない。
 周りが彼を見ている。
 聞こえてくる声は小さくか細い。
 だが、耳には届く。

「…あれが、シン・アスカ?」
「何で、もう帰ろうとしてるのよ……アイツのせいで死んだんじゃ……」

 針の様な憎悪の視線が突き刺さる――どうでもいい。

「…何で、あの男が帰ろうとしてるのよ。」
「お養母さん……。」
「フェイトは……フェイトは……この子を置いて、どうして……」

 言葉の内容はどれも似たようなものだ。
 そして、そのどれもがシン・アスカにとってはどうでもよかった。
 本当はどうでもよくは無いのだろう。
 けれど、純然たる事実として、二人は死んだ。もうここにはいない。
 葬式に出たからと言って彼女たちが喜ぶことは無い。生き返る訳でもない。死人は死人――それは生命ではなく既にモノだ。
 
 葬式などどうでもいいことだった。
 少なくとも、シンにとって二人の葬式など弔いにもならない。
 二人の弔い。即ちそれは二人の仇討ちを行う時くらいだろう、とシンはそう考えていた。
 
 その為に直ぐにでも訓練を始めなくてはならない。
 敵は強い。感傷に浸り、鈍っているようではどうにもならないほどに。
 
 脳裏を巡るのは自身を如何にして強化するか。
 肉体の訓練。魔法の訓練。傷つき崩壊寸前となった自身のデバイスの強化。
 今回の戦いで得た強大な力。エクストリームブラストとリジェネレーションの使い道。エヴィデンスの使用方法。
 考えるべきこともやるべきことも山のように在る。
 時間は、幾らあっても足りないのだ。そんなこの場に不釣合いすぎる思考が脳裏を支配していく。
 
 ――それがどれほど間違っているかを理解して、それでもシンはそう生きるしかない。
 
 焦点を失った瞳は今も元には戻らない――この身を覆う全能感もまるで消えていない。
 
 あの日、エリオと戦った時から、シン・アスカは変質した。
 無限の欲望としての目覚め――夢の中で“彼女”はそう言った。
 結果として、シン・アスカは以前と違い、虚無を隠すことは無くなった。今の彼は人間ではなく、怪物そのもの。
 彼の精神状態は今も戦闘時の精神状態のまま――瞳の焦点が失われたままなのはその為だ。
 
 ――どうでもいいのだ。誰に嫌われるとか嫌われないとか、そんな全てが本当にどうでもいい。
 
 そして、歩き続け――彼は声を掛けられた。

「シンじゃないか。キミも葬儀に来たのかね?」
「ああ。アンタも来たのか。」

 声の主はギルバート・グラディス。相も変わらずその仮面は胡散臭い。

「ああ、そうだ。知らない訳ではないからね……しかし、これは凄い人数だな。」
「そうだな。」

 振り返るシン。確かに一介の魔導師が二人死んだ程度にしてはその葬儀の規模は大きすぎるほどに大きい――出席する人間の数もソレに伴いありえないほどに多い。

「ま、キミも辛いだろうが…頑張りたまえ。」

 グラディスの声。それを聞いて再度振り返る――彼の後方にいる一人の女性と一人の男性が見えた。男性は帽子を被っているせいか、誰か分からない。
 女性の方は――見覚えがあった。

「こんにちは、シン。」
「フェスラ……か。」

 ステラのような容貌とルナのような性格の女性――フェスラ・リコルディ。
 定食屋赤福に連れて行ってくれた女性。ギンガとフェイトとはそれなりに話をしていたから、もしかしたらあの後も連絡を取ったりしていたのかもしれない。
 涙は、流れていない――けれど、その横顔は泣きそうなほどに悲しんでいた。

「……本当は来ようかどうか迷ったんだけど……ね。やっぱり来ちゃった。けど、辛いわね。こういう……知ってる人の葬式って。」

 辛そうに言葉を紡ぐフェスラ――その姿はステラによく似ていて、シンの心根を揺さぶり、少しだけ、感傷が蘇る。
 彼女は、もしかしたらこういった葬儀の場は初めてなのかもしれない。目はうろうろと周りを見つめて――どこか視線を漂わせて、戸惑っている。
 それが友達を亡くした辛さから来るものだろう、とシンはあたりをつける…それ以外の理由があるはずもない。

「そうだな…辛いよな。」

 その感傷に引っ張られて、彼の瞳の焦点が、少しだけ滲み出す――けれど、

「俺は…もう、行くよ。」
「え? だって、まだお葬式は終わってないんじゃ…」
「…俺、行かなきゃならなくてさ。ごめん。」
 
 自身の言葉で彼は滲み出した焦点を再び虚無の中に押し戻した。
 これ以上、彼女と話し続けるのは、“良くない”ことだ、とそう思って。
 雨が降っていた。シンは傘も差さずにその場を歩いていく。
 髪を滴り落ちる雨。肌を冷す雨。
 
 ――雨でこの感傷が流れて行けばいいのに。
 
 そんな馬鹿な言葉が流れていった。


 埋葬している最中――少し離れた場所。会場の近くのベンチにいる男二人。雨は少し小降りになってきている。
 一人はクロノ・ハラオウン。フェイト・T・ハラオウンの義兄である。
 一人はゲンヤ・ナカジマ。ギンガ・ナカジマの実父である。
 二人とも、本来ならばこんな場所にいるべきではない――だが、二人は別に何を言うでもなく、葬儀の場を去り、ここでその光景を遠くから見つめていた。

「……ナカジマ三佐、君はあそこに行かないのか?」
「クロノ提督こそ、行かないので?」

 そう言って、ベンチに座り、紙コップに注がれたコーヒーに口を付けるゲンヤ・ナカジマ。

「……正直、辛くてね。」
「ま、気持ちは分かります。」

 そう言って、懐から真新しい煙草を取り出し、口に咥え、ライターで火をつける。

「……やめたんじゃなかったのか?」
「ああ、本当は一度やめたんですがね…まあ、吸わなきゃやってられないってことで。」

 息を吸い込み――吐き出す。紫煙が立ち昇る。
 曇天の空から降り続ける雨に消えていく紫煙。
 ゲンヤ自身、煙草を吸ったからと言って何が変るとも思っていない。
 本当は吸う気など無かった。ただ、あの日――クイントが死んだ日もこんな風に煙草を吸っていたことを思い出し、ゲンヤは煙草を買ってきたのだ。
 単なる感傷だろう。まるで意味の無い感傷。
 十数年ぶりに吸う煙草の味は以前と変わらず、苦く、決して美味くは無い。それどころか久しぶりに吸ったせいか、頭がクラクラとしてきそうにさえなる――だが、今はその苦さとか辛さがありがたかった。

「……僕ももらっていいかい?」
「……こいつは驚いた。クロノ提督も煙草吸われるんですか?」

 ゲンヤがクロノに向けて煙草の箱を差し出す――その中から一本を取り出して、クロノは口に咥える。

「吸ったことは無い。けど……君と同じだ。吸わなきゃやってられない……そんな感じなんだよ。」
「…そうですか。」

 ゲンヤがクロノに向けてライターを差し出し、火を点ける。着火した火がクロノが咥える煙草の先端を燃やし出す――じじじ、と音を立てて煙草を包む紙に火が点き出す。

「…ここで、吸えばいいんだったね。」
「ええ。そのまま息を吸い込んでください。」
「げほっ、げほっ…!!」
「ま、初めてならそんなもんでしょうねえ。」

 咳き込むクロノを横目にゲンヤは再び煙草を吸い込む――じじじ、と煙草が先端から灰になっていく。紫煙を吐き出し、灰を落とす。
 空にたゆたう紫煙。それをぼんやりと眺めるゲンヤ。
 その横でクロノが再び、煙草を口にしようとしている。

「クロノ提督、無理してまで吸うもんじゃ……」

 そんなゲンヤの忠告を聞く間もなく、クロノは咳き込みながら、紫煙を吐き出す。
 ベンチに腰掛け、頭を下げて俯ているせいか、髪に隠れて顔が見えない。クロノが口を開いた。

「……ナカジマ三佐、これは…苦いな。」
「ええ、苦いですね。」
「……ああ、本当に……涙が出そうなほどに、苦い。」

 そう言って彼は再び口元に煙草を持って行く。
 吸えないから吸う――やりきれない気持ちを煙草の苦さで紛らわす為に。
 こうしていれば、例え涙を流しても……煙のせいだと誤魔化せるから。

「…アスカ?」

 ゲンヤが彼らの前を通り過ぎていく男に声を掛ける。

「…ナカジマ、さん、ですか。」

 ゲンヤの顔を見た瞬間、その青年は身体を強張らせる――シン・アスカ。朱い瞳の異邦人。

「お前…帰るのか?」
「…はい」

 罰が悪そうに、シンはそう言った。

「…そうか。」

 ゲンヤは何も言わない。なまじシン・アスカを知っているが故に、彼が受けた衝撃を考えると何も言えない。
 彼自身、クイントが死んだ時がそうだったから――今のシンの精神状態がどういったモノか理解してしまえるから。
 
 どうして、ギンガを守れなかったのか、と言いたい気持ちは当然ある。だが、シンにそれを求めるのは酷なことだ。
 守れなかったことは罪ではなく、結果でしかない。
 彼の性格からして、二人を見捨てたなどあるはずも無い以上――決して、責めて良いものでは無いのだ。

「君がシン・アスカ、か。」
「アンタは?」
「クロノ・ハラオウン――フェイトの義兄だ。」

 その言葉を聞いて――シンの瞳が歪んだ。

「……フェイトさんの家族、ですか。」
「君に、聞きたかったんだ。」
「なんですか?」

 虚無に塗れた朱い瞳を覗き込み、クロノ・ハラオウンは静かに呟いた。

「…フェイトとギンガ君を殺したのは…ナンバーズなのか?」

 その言葉を聞いて、シンは黙り込む――恐らく彼はただ事実を知りたいだけなのだろう。
 シンは彼女たちを殺したのがナンバーズなのかどうか、実際には知らない。状況証拠と結果だけを知るのみだ。
 管理局からの事情聴取にもそれだけを伝えてある――エリオにもついても包む隠すことなく。

 誰が彼女達を殺したのか。
 どうして、彼女達は死ななければならなかったのか。
 シン・アスカはそんなことを何も知らないのだ――けれど、わかることはある。

(死ぬ必要なんて、無かった。)

 虚ろな瞳で横たわるギンガとフェイトを思い出す。
 あの時、自分は呆然と立ち尽くし、ただ涙を流し続けるキャロを傍に座らせると、二人の胸に突き刺さっている剣――ソードインパルスの大剣に酷似した――を引き抜いた。
 そして、瞳を閉じさせて、横たわらせ、連絡を行い、彼女達を運んだ。
 冷静に、本当に冷静に滞り無く作業を繰り返した。

 身体は冷たかった。身体は硬かった。表情は変わらない。眠っているように静かで、二人とも、死んでいるなどと信じられないくらいに綺麗な死に様だった。

 彼女達に死ぬ必要など無かった。
 別に彼女達は何の罪も犯してはいない。殺されるようなコトは何もしていない。
 なら、どうして彼女達は殺されたのだろう?
 疑問に思った。その事実を考えた。けれど――

(……どうでもいいさ。)

 疑問を考えるような余地など無い。そんなことはどうでもいい。
 
 彼女達は死んだ。もうここにはいない。どこにもいない。
 
 笑いかけてくれることはない。朝起こしてくれることも無い。朝起きたら布団の中に潜り込んでいることもない。

 朝食を共に食べることも無ければ、共に訓練をすることも、訓練を眺めることも、カードゲームをすることも、テレビを見るコトも、買い物をすることも、一緒に食事をすることも――何も無い。
 
 走馬灯のように彼女達と過ごした僅かな年月を思い出す――巡る記憶と思い出。
 思考は明瞭に、記憶は鮮やかに。
 けど、その記憶は幻だ。もう、届かない果てなく遠い夢のような幻に過ぎない。
 だから、こう思った。

(俺は、守れなかった。俺が守れていれば死ななかった。)

 虚無が、廻り出す。回路のように円環し、脳裏を回り続ける。
 無意識に言葉を吐き出した。

「俺ですよ。」

 ――吐き出してから、その言葉が真実であることに確信を抱く。

「……何?」

 怪訝な顔のクロノ。そんなクロノを気にせずにシン・アスカは話を続ける。
 無機質で焦点を失った瞳が虚ろに蠢いている。

「ギンガさんとフェイトさんを殺したのは……俺なんですよ。」

 そう言って、シンは歩き出す。クロノの声を気にすることも無く――何事も無かったように、淡々と。

「君は、何を……おい、ちょっと待て!!おい!!」

 追いかけようとするクロノ――それを引き止めるゲンヤ。

「ナカジマ三佐!アイツは、何を言ってるんだ!どうして、あんな馬鹿げたことを…」
「……守れなかった自分の責任って言いたいんでしょうよ。」

 静かに、シン・アスカを見つめるゲンヤ。
 懐かしさと寂寥と悲哀を込めた瞳――大切なモノを失った人間が同じ種類の人間に抱く瞳。

「…全て自分のせいだと?」

 苦虫を潰したように、クロノの表情は冴えない。
 ゲンヤが言いたいことが何か分かったからだ。

「アイツは、多分そういう風にしか思えないんでしょうね、もう。」
(…心配していたことが現実になっちまった、か。)

 歩き続けるシン・アスカを見ながら、紫煙を吐き出し、空を見る。
 未だに空は曇天。変わりは無い。雨は止まない。空も晴れない――雨足が強くなる。小降りから本降りへ。
 雨が当たり、じゅっと音を立てて、煙草の火が消えた。
 口元から煙草を離す――どうやらもう吸えそうにもない。携帯灰皿を懐から取り出し、吸殻を入れて――ゲンヤはおどけるようにして、呟いた。

「世の中ってのは上手く行かないことばっかりですねえ、提督。」
「……そうだな。」

 応えるクロノの声に力は無かった。
 シン・アスカという存在に哀れみを向けることも、怒りを向けることも出来ず――善人である彼はただただうな垂れていた。



 “どうでもいい”
 シンにとって全ての事柄は即ちこれに帰結する。
 大切なモノを幾度も幾度も奪われて失った。
 大切になるかもしれなかったモノ――そう思っている時点で既に大切なモノ――を奪われて失った。
 度重なる略奪によって、そのココロは閉鎖した。
 
 自閉症――ある意味ではそうなのかもしれない。実際のそれよりは遥かに易しい症状ではあったが。
 
 世界に遍く全ての事象をどうでもいいと切り捨て、望むのは守ると言う行為の果てに死ぬこと。
 壊れてはいない――けれど、壊れかけている。
 
 正常と異常。その境界線にシン・アスカは生きている。
 そんな彼にとってココロを揺らすモノは限られている。
 
 例えば、ゲンヤ・ナカジマとかスバル・ナカジマ――大切になるかもしれなかった女性の家族とか。
 例えば、クロノ・ハラオウンとかキャロ・ル・ルシエ――大切になるかもしれなかった女性の家族とか。
 そして、例えば――

「……少しは元気出したらどうなの?」

 自分が失った少女によく似ていて、

「そりゃ、落ち込むのも分かるけど…そんな暗い顔しても何にもならないと思うんだけど。」

 自分が捨てた女性によく似ている女性である。
 何故か、自分を追いかけて来たと言う彼女―-フェスラ・リコルディに付き纏われること数十分。

 無作為に歩き続けてきたせいか、既にかなりの距離を歩いていた。
 墓地からは既に相当の距離が離れている。そして、機動六課隊舎からもかなりの距離が離れている。

「…別にいいだろ。アンタには関係ない話だ。」

 そう言って、彼女の前から立ち去ろうとする。
 正直に言って話をしたい気分ではなかった。特に彼女とは。

「そんな落ち込んだ顔して何言ってるの?あ、ちょっと待ちなさいよ!」

 そして、直ぐに追いつかれる。先ほどから延々とこの繰り返しだった。どれだけ歩いても歩いても彼女は着いて来る。

(こんなことしてる場合じゃないんだ。)

 葬儀があったからと言って訓練を休むようなココロで勝てるほどに敵は易しくは無い。
 本当なら直ぐにでも訓練を始めなければいけないのだ。なのに、彼女が付いて来る。
 無視してさっさと隊舎に帰るべきだった、と今更ながらに後悔する。

 ――そんな風に無用な気遣いをしている時点で、自身が“おかしくなっている”ことになど気づかないまま。
 
 増していく苛立ち――彼女の容貌が余計にソレに拍車をかけていく。
 歩く――けれど、まるで彼女は離れる様子がない。
 
 いい加減、我慢の限界だった。
 既に彼女の住んでいる場所からは遠く離れている――それ以前に彼女は自分があの場を去った直後に葬儀に出席したはずだ。
 だから、彼女が此処にいるということは、葬儀に出席せずに自分を追いかけてきたと言うこと。

「……わざわざ何がしたいんだ、アンタは?」
「何って?」
「さっきから、ずっと俺に付き纏って…一体、何がしたいんだ?大体、アンタ、ギンガさんとフェイトさんの葬式に出たんじゃないのか?何で、こんなところに…」
「……シンは苦しくないの?」
「苦しい?」
「ギンガとフェイトが死んで……苦しくないの?」

 その言葉を聞いた瞬間、背筋が総毛だった。

 ――ふざけるな、と思った。

「うるさい。もう、黙っててくれ。」
「苦しいんだ?」

 フェスラの顔色が変わる――恐慌ではなく、微笑み。唇を吊り上げた、強欲の微笑みを。
 苛立ちも消えない。
 ステラの顔で嗤う彼女が気に食わない。

「苦しくない。俺は全然、何にも思っちゃいない。」
「そんな辛そうにして、苦しくないとか馬鹿じゃないの?」
「――」

 デバイスを限定開放/アロンダイトのみを現出。首筋に向けて、振り抜き――止める。首を刈り取る寸前で。

「……へえ。」

 言葉に驚きは無い。嗤いは消えない。あまりにも場慣れした反応――まるで殺し合いの中で生きてきたように。
 皮膚と刃の隙間は殆ど無いに等しい。髪一本分も無いだろう。

「黙れよ。」

 完全に感情の篭らない声――底冷えするほどに冷たい。溢れ出す虚無。まるでそこだけ光の差さない深海にでもなったかのように空気が変質する。
「……“殺せる”の?」
 
 フェスラの瞳にはまるで、死の恐怖は感じられない。
 シン・アスカと言う人間を完全に読み切っているとでも言いたげに、彼女はシン・アスカが自分を殺すなど露ほども思っていない。

「そんなに辛そうな顔してさ、どうして、自分は辛くないって言えるのかしらね?」
 
 彼女がアロンダイトに手を掛ける。ゆっくりとアロンダイトを自分の首筋から離していく。

「辛いなら辛いって言えばいいのよ。そうしたら、誰かがきっと助けて……」

 アロンダイトが消える――限定開放解除。デスティニーが元の姿――フェイスバッジにその姿を戻し、シンはフェスラに背を向ける。

「……いらない。」
「え?」
「一人でいい。」

 振り向いた顔は後方からはまるで見えない。
 笑っているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか、怒っているのか、それとも…泣いているのか。そんなこと何も分からない。
 ただ、その背中は小さかった。
 先ほど、自分に向けて剣を振るった人間と同じとは思えないほどに頼りなくて、小さくて――まるで、誰かの帰りを待つ子供のようで。

「俺は……一人で、いいんだ。」
 
 小さな呟きは風に消え、シン・アスカの心は再び閉鎖する。
 黙々と歩き続けるシン・アスカ――もはやフェスラのことすら眼には入っていないのかもしれない。
 歩く方向はこれまで違って明確に機動六課隊舎の方向を向いている。
 彼女を放って、彼は歩いていく。表情は恐らく無表情のまま――背中は頼りない小さな子供のまま。
 フェスラ・リコルディはそんなシン・アスカを見つめる――ただ、見つめ続け、呟いた。

「自分で自分を苦しめるなんて――本当に馬鹿な男。」

 それはどこまでも正論でフェスラ=■■■■は悲しげに呟いた。
 口調はそれまでと違ってどこか優美さと艶やかさを伴わせる女性の口調だった。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 40.Sin in the Other World(b)
Name: spam◆93e659da ID:17f428f0
Date: 2010/05/29 17:59
 機動六課部隊長八神はやての執務室。
 机に座ったまま、渡された書類をじっと見つめる茶色の髪の女性――八神はやて。
 書類を机に置き、来客用のソファーに腰をかける緑色の髪の偉丈夫――ヴェロッサ・アコース。
 はやてはヴェロッサに渡された書類を読み込んでいく。
 数枚の紙切れ。書いてあることの内容――機動六課部隊長八神はやての解任とその異動先、そして今後の彼女が行うべき仕事といつまでにそこに行かねばならないか。
 つまり、更迭である。左遷と言い換えてもいい。

「……まあ、部隊で死人が出てるんやもんな。これだけの処分でも軽いくらいや……ロッサが動いてくれん?」

 ヴェロッサ・アコースは首を振って、否定する。

「僕じゃないさ。カリム――姉さんが動いたようだ。」
「そっか……それで、私の後釜にロッサが来ることになるんや?」
「そういうことになるね。まあ、君はしばらくゆっくりしていればいい。機動六課も悪いようにはしない…それくらいには信用してくれてるだろう?」
「……そうやね。私よりもよっぽど上手く扱えるやろうしね。」

 力無く嗤うはやて――それを見て苦笑するヴェロッサ。恐らくこんな反応をするだろうとは思っていたが、ここまで予想通りだといっそ清々しいほどだった。

「はやての今後の仕事の内容はどういった内容なんだい?」
「……ミッドチルダ北部の小都市ケールで、窓口、やるらしいわ。階級も現在から降格して…本当、分かり易い左遷やな。」

 苦笑する。相変わらず笑みには力が無い。

「…まあ、これで、ええのかもね。」

 そう言って、はやては椅子に背を預けた。
 疲れていた。心は奮い立つどころか、既に折れている――もう、このまま何もかも忘れて生きていけたらどれほどいいだろうか。
 ギンガとフェイトを殺した。その一因に紛れもなく自分がいる。
 自分なりに頑張ってきたつもりだった。考えられることは全て手を打ったし、必要と思えば汚いことにも手を染めた。
 けれど、それでも彼女は、見殺しだけは容認できない。
 自分の為に死んだリインフォース。彼女は自らの意思で自らの主の未来の為に死んでいった。彼女は幸せだった、と、周りは言った――だが、彼女はそれを本当に望んでいたのだろうか?
 そんなはずが無い。

 彼女にも未来があった。命があった。意思があった。
 なのに、彼女は死んだ。八神はやての為に、自分で自分を切り捨てた。
 主の為に自身の命を消費することを望んだ――逆に言えば自分が彼女の未来を奪ったのだ。見捨てたのだ――それを自分が望んでいるいないに限らず。

 だから、八神はやてが誰かを“見捨てる”など絶対に在り得ない。
 見捨てることの痛さを知っているから。
 見捨てることの悲しさを知っているから。
 見捨てることの苦しさを知っているから。
 
 ――だから、八神はやては、絶対に切り捨てることが出来ない。切り捨てること――即ち見捨てることが。
 
 指揮官としては致命的だとは自分自身思っていた。だが、それでも“問題は無い”と思っていた。
 部隊のスペックを引き上げ、最良の作戦と物量があれば、“切捨て”などということはしなくてもいい、そう思って。
 
 ――けれど、それは間違いだった。大間違いもいいところだ。
 
 見捨てられない自分は、今の敵には絶対に届かない。
 ギンガとフェイトの死に顔――安らかで、まるで眠っているようで、死んでいるなど思えないあの姿を見た時、それを痛感させられたから。

「……私の実力は、まだまだ全然足りてなかった……井の中の蛙もええとこやったんやね。」
「そう、思うかい?」
「…うん。ロッサは…どう思う?」
「君がそう思うのならそうなんだろうね。」

 ヴェロッサは素っ気無い。愚痴に付き合うほど暇ではない――そう、言いたいのだろう。
 確かにこれは愚痴だ――ただ、誰かに慰めてもらいたいだけの愚痴。情けない、本当にそう思った。

「……そうやね。」

 返すはやての言葉に力は無い――周囲を見渡して、立ち上がる。

「……私、片付けるわ。」
「この部屋をかい?」

 頷くはやて。
 ヴェロッサから渡された紙を読みながら口を開く。

「この部屋もそうやけど、私物とか色々と片付けて準備せんと間に合わんようやし。」

 書類に書いてある、異動予定日までおよそ4日間。
 普通はもう少し時間があるのだが、今回は非常に早かった――何かしらの理由があるのだろう。
 いつもなら、その理由が何かを考える程度の余裕は残されているのだが、今回はそんなことは無い。
 
 そうしてはやては黙々と部屋を片付け始めた――ヴェロッサが立ち上がる。

「じゃあ、はやて。一度お暇させてもらうよ。」
「あ…ああ、そやね。じゃあ、ロッサ。後は、頼む、わ。」
「ああ、了解しておくよ。」

 ヴェロッサ・アコースはそう言って部屋を出る――八神はやてはその背中を見つめながら、彼が部屋の外へ出た時、溜め息を吐いた。

「……もう、駄目やな、私。」

 毀れ出す言葉は弱気そのもの。
 溢れる微笑は力無く、自分自身を嘲ることにすら疲れ切った老女のような微笑みだった。


「……やれやれ、損な役回りだ。」

 ヴェロッサ・アコースははやての執務室――直に自分の執務室となる部屋を後にすると、屋上に佇んでいた。
 空は気が遠くなるような青い色――綺麗と言わざるを得ないそんな空だった。

「この空が直に真っ赤に染め上がる……ぞっとしないな。」
『あら、貴方らしくも無い弱気ね、ロッサ。』
「…姉さんか。」

 懐に忍ばせている簡易デバイスから声が漏れる――声の主はカリム・グラシア。今回の指示の発端にして、張本人。
 ヴェロッサは簡易デバイスを手に取り、操作――空間に画面が投影される。
 この映像は彼にしか見えないように暗号化されており、たとえこの場所に誰が入ってこようとも、ヴェロッサが一人で喋っているようにしか見えない。
 屋上の墜落防止柵を背もたれにしながら、ヴェロッサは口を開いた。

「……姉さん、これで良かったのかい?」
『ええ。上出来よ。』

 答えるカリムの声は明瞭だ。
 顔はいつも通りに柔和な顔つき――食えない女になったものだ。ヴェロッサは心中でそう呟く。
 けれど、その心根は変わっていないのだろう。恐らく、昔と同じ心優しいまま――彼は今もそう思っている。
 カリム・グラシアの“真実”に気付いている一人であるが故に。
 故に、こんな茶番に手を貸すことを承諾したのだ。八神はやてを左遷させる、などという茶番に。

「しかし、はやては怒り狂うだろうね。今回の異動が左遷ではなくて疎開だってことに気付いたら。」
『まあ、仕方のないことよ。あの子にはまだ役割がある――死んでもらっては困るもの。』

 顔色一つ変えず、動作にもまるで変化は無いまま、彼女は話す。
 ヴェロッサ・アコースの瞳が妖しく輝く――その奥に潜む彼女の真意を覗き見るように。

「けど、過保護が過ぎないかな?はやても、もう20歳を過ぎてるんだよ?」
『あら、女はいつまでも少女なものよ?』

 いけしゃあしゃあとそんな冗談を飛ばすカリム。是が非でも喋る気は無いのだろう。
 ヴェロッサ・アコースは思考を転換。真意を問いただすことが出来ないなら今はこの茶番を演じるのみ。

「そういう人もいるにはいるけどね……まあ、いいさ。僕だって可愛い妹分が、死ぬかもしれないのをみすみす見逃す気は無いし、文句を言うつもりもない。」

 肩を竦めながら、やれやれとでも言いたげにヴェロッサはカリムに質問する。瞳が僅かに鋭くなる――本題はこれからだと言いたげに。

「…それで、今度の襲撃はいつなんだい?」

 その鋭さを受けて、カリム・グラシアもまた少しだけ瞳を変えた。柔和な仮面の上から被せられる女傑の仮面――切り捨てることを容認できる指揮官の瞳へ。

『10日後。クラナガンに攻め入ると言う話よ。ジェイル・スカリエッティ直々の通信で入ってきたのだから、間違いないわ。』

 10日後――その言葉を聞いて、ヴェロッサは納得したように頷いた。
 八神はやてが異動するまでに残された日数4日と言うのはその襲撃のスケジュールから生まれたものなのだろう。

「……映像を見せてもらえるかい?」
『今、送るわ。』

 画面が暗転する。ぶつん、とテレビのチャンネルが切り替わるようにして画面が切り替わる。
 現れたのは紫色の髪と金色の瞳の男――ジェイル・スカリエッティ。


【あー、あー、テステス……ウーノ、ちょっとこれ音が…何?もう録画始まってるだと?ふむ、ならば、始めようか。】
「……ジェイル・スカリエッティ。」

 瞳が鋭く尖り、睨みつける。彼自身は別にスカリエッティに私怨などは無いが――大事な妹分の敵であり、親友の妹を殺した存在と言うだけで嫌う理由としては十分過ぎる。
 画面の中、スカリエッティは落ち着き払った態度で机に置かれているマイクに向かって話し始めた。

【時空管理局の諸君、今更自己紹介の必要は無いと思うが…ジェイル・スカリエッティだ。これまではいつもいつも不意打ちのように襲撃していたからね。今回くらいは君たちにも情報をあげようと思ってこんな通信をさせてもらっている。】
「……」

 対峙するヴェロッサの顔は変わらない。険しい視線のまま画面を見つめ続ける。

【次回の襲撃が最後の襲撃だ。場所はクラナガン。日時は10日後の満月の夜――つまり8月17日。ニホンで言うお盆の頃だ。】
「ニホン?」
『第97管理外世界にある国の名前よ。』
【今回の襲撃の目的はこれまでと同じく“破壊”だ。よってクラナガンを徹底的に破壊する。こちらの戦力はガジェットドローンが1000体に魔導師が8人、そしてナンバーズが5人だ。】

 それまで眉一つ動かなかった顔色に変化――1000と言うこれまで考えたことも無い数字を耳にして。
 瞳が険しくなる。

「……1000?」
『これが本当なら、これまでとは桁違いの規模の襲撃ね。』
【……だが、安心したまえ。避難民には決して手は出さない。私達が破壊するのはあくまでクラナガンと言う都市そのものだ。無用の蹂躙はこちらも望むところではない。そして、君らが避難民を間違えて私達の襲撃方向に配置などしないように、襲撃箇所も教えておこう。クラナガンの西側から中心に向けて私達は攻め上がる。】

 画面の中でスカリエッティは唇を吊り上げて微笑んだ。亀裂の入ったような強欲の微笑みを。

【さて……では必死に守ってくれたまえ、時空管理局。10日後を楽しみにしているよ。】

 ぶつん、と画面が暗闇に舞い戻る。
 屋上を沈黙が支配する――ヴェロッサが口を開いた。

「1000のガジェットドローン……なるほど、これははやてには任せられないな。」
『…あの子では無理よ。能力がどうとかじゃない。数が違い過ぎるわ。』

 カリムの言葉に頷くヴェロッサ。
 数量の違い。それが一番の問題だった。
 単純な話だ。10日と言う限られた時間で集められる管理局の魔導師の数は1000などには遠く及ばない。
 精々が200と言ったところだろう。それですら集められるかどうかは定かではない。
 ガジェットドローンは単機で凡そ一般の魔導師が3人がかりで倒せるかどうかと言うレベルである。
 単純に考えて一般の魔導師――それもBランク相当の実力を持った魔導師が3000人は必要となる計算だ。完全に戦力差で圧し負けると言って良い――ならばどうする?
 戦力差で完全に負けている場合は、それ以外の部分で補うか、もしくは策に絡めるか、だ。

『こちらでも既に手は回しているわ…それでも集められる人数はBランク以上の魔導師170人程度が限界。』
「内訳は?」
『Bランクが110名。Aランクが30名、AAが20名、AAAランクが10名。Sランクが一名。』
「機動六課のフォワード陣が含まれて、その数字なんだね?」
『ええ。“私達”が8月17日までに召集できる全ての戦力よ。』

 ふう、と嘆息するヴェロッサ・アコース。

(全くもって厄介だね。)

 口調は軽いものの心持ちは限りなく重く、顔色は非常に暗い。
 暗くもなろうと言うものだ。はっきり言ってこの襲撃に勝てる要素は無い。
 戦力不足もそうだが、組織としての連携も恐らくは望めまい。10日という期間ではそれだけの連帯意識を植え付けるなどは不可能だ。
 元々、慢性的な人手不足に悩まされる時空管理局は個の能力に頼りすぎる傾向がある。
 絶対足る個人の魔導師は凡夫たる個人の魔導師数百人以上の働きをするからだ。
 故に才能有る魔導師は前線で重用されるのだが…それは裏を返せば慢性的な人手不足という問題を先送りしているだけに過ぎない。

 今回の襲撃は完全にその問題を突かれている。圧倒的な数の暴力によって絶対足る個を駆逐すると言う単純明快な戦法。だが、それを覆す術は正直なところ存在しない。
 正攻法では無理だ。真っ当な戦い方では何をしようとも勝ちは無い。

『お悩みのようね。』

 くすくすと笑いながらカリム・グラシアが口を開いた。ヴェロッサはそれを見て少しだけ苛立ちながらも律儀に返事を返す。

「ああ、お悩みだね。これは全くもって…正直どうするべきかも検討がつかないんだから。」

 彼には似つかわしくない焦りを表情に浮かべ、ヴェロッサは思考に没頭する。
 ぶつぶつと小さく呟きながら頭の中に叩き込んであるクラナガンの地図を思い返し、侵入経路、目標地点、敵勢力の分布等、考えられ得る全ての方策を脳内に取りまとめていく。

『一つ、提案があるのだけど。』
「…なんだい?」

 思考を途中で遮られた為か、ヴェロッサの声音は常よりも大分と低い。

『シン・アスカの運用……私の言うようにしてもらえるかしら?』
「シン・アスカ……ああ、あの青年か。」
『もう、調べてあるの?』
「勿論さ…6課における一番の危険人物じゃないか。調べない方がおかしい。」
『彼の戦闘能力についても?』
「……本人も分かっていると思うけど、あの能力はおいそれと使うべきものじゃない。そうだろう?」

 エクストリームブラストのことを言っているのだろう。
 あの能力は周り全てを犠牲にすることで使用者を極限にまで強化する。その戦力は単騎でガジェットドローン数百機分には匹敵するだろう。
 既に先日のエリオ・モンディアルとシン・アスカの戦闘記録を見ていたヴェロッサはそう判断していた。
 戦力という意味ではあまりにも規格外すぎる――その特性からも。

「周辺の生命力を魔力に変換するあの力は戦局を変えるかもしれないが……リスクが大きすぎるよ、敵を倒す前に周辺の戦力を減少させる可能性の方がよほど高い。」

 カリム・グラシアの目が細められる。その瞳は値踏みをするようにヴェロッサを見る。

『なら、どう使えばもっとも効果的なのかしら?』

 カリムの返答はその使い道は何か、と来た――つまり、使え、と言うことだ。自分に、シン・アスカを。
 溜め息を吐く――だが、それは例の如くのポーズだ。
 元より先ほどのビデオメールを見た瞬間彼の頭に浮かんだプランは一つだけ。
 恐らく誰であっても思いつき――そして、誰であっても実行に躊躇うであろうプラン。だからこそ、そのプランを外した。

「スカリエッティの言葉を信用するなら……敵陣が最も厚くなる部分、そこにシン・アスカを突撃させる――つまり単身での突撃を行い、味方に影響が出ない場所まで切り込んだ上でエクストリームブラストの発動。後衛の味方はシン・アスカが崩した陣形目掛けて砲撃魔法の一斉掃射。これが最も理想的な使用方法だろうね。」

 にやり、と口元を歪めるカリム。合格だ、とでも言いたげに。

『ええ、そうね。それが最も理想的な判断ね。』
「確かに理想的だろうね……ある一つの問題を除けば。」
『あら、それは何かしら?』
「……姉さんも気づいてるんだろう?これはシン・アスカを殺すことに他ならない。」

 敵陣深くに単騎で強襲を行い、強襲によって生まれる崩れた陣形を後衛の砲撃魔法で攻撃する。
 1000機以上の敵の中に単騎で突っ込み、更には後方からは味方による無差別射撃――敵も味方も無い一斉掃射。誤射の可能性どころか誤射しない方が難しい。
 敵と味方に常に挟撃される位置に陣取りながら戦い続ける。
 単純な話、敵味方が互いに張る弾幕だけで十二分に人間は死ぬ。原形が残るかどうかすら怪しい――下手をすればミンチの出来上がりだ。

 エクストリームブラストという規格外の魔法があるからこそ成立する強襲――シン・アスカの持つ異常な再生能力だけが頼りと言う荒業。
 破損する肉体を搾取した生命力で常に常に復元を繰り返すことでしか作戦が実行出来ないと考えて良い。
 作戦と言うのもおこがましい、特攻と言う言葉こそが似合うプラン。

「こんなプランを彼が承諾すると思うかい?」
『思うわ。』

 即答――カリム・グラシアの瞳が歪む。ヴェロッサは見逃さない。その歪みを。自身の義姉から滲み出る本質を。

『大切な人を失って、大切なモノを奪われて……もう、彼には何も無い。』

 慈しむようにしてカリムが話し出す。会ったことも無いはずのシン・アスカを。

『だから、彼は承諾する。だって、彼にはそれしかない。多分、そう思っているはずよ、シン・アスカは。』

 そして、言葉を切って息を吸って、瞳を閉じて付け加える。

『だからこそ――世界を救う英雄になれるのはシン・アスカしかいない。彼だけがこの世界を救えるのだから。』

 真剣な眼差し――ギンガのように恋する乙女ではなく、フェイトのように恋する女神ではなく、はやてのように迷い惑う女ではなく、カリム・グラシアは清廉潔白な聖女として声を発する。
 言葉の根底より感じ取れるは揺らげないのではなく決して揺らがない鉄の意志。如何なる障害があろうとも必ず貫く、“世界を救う”という鉄の意志。

「預言の話かい。」
『旧い結晶と無限の欲望が交わる地。』

 ヴェロッサの言葉に頷きを返すとカリムは呟き始める。

『死せる王の下、聖地より彼の翼が蘇る。』

 それは彼女の能力「預言者の著書」によって紡がれた“預言”。

『死者達は踊り、中つ大地の法の塔は虚しく焼け落ち、それを先駆けに数多の海を守る法の船は砕け落ちる。』

 シン・アスカが来るまで預言は此処で終わりだった。故に彼女たちはこの預言がJ・S事件のことを指し示しているのだと考えていた――だが。

『だが、心せよ。朱い炎だけがそれを止める。』

 預言が追加されたことで事態は一変する。預言に記された事件は未だ“起こっていない”のではないかと。

『狂った炎は羽金を切り裂く刃となるだろう。』

 追加された預言はそれはそれまでとはどこか受ける印象が変化していた――それまでのように無機質な羅列ではなく、どこか想いの籠った――まるで誰かからのメッセージのような印象を与える。

『そして、運命は駆け昇る。』

 そして、此処からが更に“追加”された部分だった。
 追加されたのはつい最近――ちょうど、シン・アスカが全てを“また失った”あの日。ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウンが死んだその日。

『世界の全てを踏破して、世界全てを超えていく。』

 それは預言と言うよりも、御伽噺の語りのような印象――そこにどんな意味があるのかは分からないが。

『二人の乙女と共に。二人の女と共に。』

 預言は此処で終わっている。

「それが新たな預言かい?」
『ええ。これで終わりなのか、それともまだ“途中”なのかは分からないけれど……。』

 そう言って、カリム・グラシアは物憂げに横を向いた――窓でも見ているのかも知れない。
 机に肩肘をついて外を見ている彼女はそれまでのような“怖さ”は無かった。そこには年相応の落ち着きと柔和な雰囲気が現れていて――それはヴェロッサやはやてがよく知るカリム・グラシアそのもの。
 物憂げな表情――何を物憂げに思っているのかは分からない。それが分かるのは本人だけでしかないから――悲しんでいるのか、苦しんでいるのか、喜んでいるのか、怒っているのか――傍観者であるヴェロッサにはそんな感情が理解できるはずも無い。

 彼はいつだって傍観者だ。
 ただ、全てを俯瞰する。だから彼に出来るのは推測し、それに合わせるだけ――傍観者は見ることしか出来ない。常に輪の外側にいる傍観者は結果に対して無力だから。
 カリム・グラシアが変わった――と感じたのはいつからだろうか。ヴェロッサが知る限り、カリム・グラシアと言う女性は何かを犠牲になど出来るような人間ではなかった。少なくとも、誰かを殺すことを容認など出来ない、と。それが変わり出したのはいつから――思い返せば、そんなタイミングなど一つしかない。

 ジェイル・スカリエッティとナンバーズの脱獄、そして新たな預言が書きこまれたその日だろう、とヴェロッサはあたりをつけていた――確認はしていないので定かではないが。
 もっともそのタイミング以外にカリム・グラシアの転機など存在しないのもまた真実。
 預言が新たなに追加される――これは前代未聞の出来事である。
 
 「預言者の著書」とは未来予知などの“予言”ではなく、文字通りの預言――つまりは託宣に近い。
 世界に遍く様々な基礎情報を抽出し、統括し、検討し、それらの事柄から予想される事実を導き出す――要するに予知では無く予想。
 それを詩文として書き記す――「預言者の著書」とはそれだけの能力である。予想である以上、当然的中しないことも当然の如く存在する。
 何故なら、この預言とは“現時点での情報を元にした未来予測”であり、“情報の変化については”はあくまで状況から予測するのみ。
 
 単純な例を言えば、AとBが恋人関係にあり、Cが横恋慕していたとする。
 この場合、“現在”AとBの関係が極めて良好であり傍から見ていても仲睦まじい関係であれば、Cは入り込む隙間が無い。
 
 よって「預言者の著書」は数年後――もしくは数十年後を予測し詩文形式で描き出す。
 二人は別れない。幸せになる、と言う結果を。
 
 だが――これが一年後、もし、AとBの仲が険悪であったら、結果は逆になるだろう。Cの入り込む余地があり、気持ちが相互に向いていないと言う条件が確定されるからだ。
 
 「預言者の著書」とは極論するとこれと同じ理屈である。
 預言を行った時点での未来を予測するだけで、その状況変化には対応出来ない――無論、それすらも加味して予想してはいるのだろうが、精度と言う意味では望むべくも無い。
 災害などの予測の確率が高いのも当然だ――災害は状況を変えない。意思によって関係が変わることなど無いからだ。
 
 故に、「預言者の著書」に“追加”などは在り得ない。
 
 預言は始まった時点で終了していなければおかしい――それが「預言者の著書」の原理なのだから。
 それが覆された。それも自身の半身とも言える能力が、だ。
 そこで同時に起こる大犯罪者の脱獄と次元漂流者の出現、そして世界中で起こっていた時限漂流者――その殆どが死人ではあったが――の出現の停止。関連性があると考えるのが当然だ。

 カリム・グラシアは変わった――その事件を契機にして。
 ヴェロッサがカリムの本質は変わっていない、あれは仮面だ、と考えたのもそこに起因する。
 世界に危機が迫っている、と考えたのだろう。回避したと思った滅びは未だ回避していなかった。そして、そこに現われた恐らくは“特別”な時限漂流者。その後の経緯からも彼が預言にある“朱い炎”、“狂った炎”であると確信しているのかもしれない。
 何にしてもそれが彼女に変革を促した。切り捨てることを容認できるほどに――元の彼女を知っていれば文字通り豹変したとしか思えないほどの変革を。
 ヴェロッサ・アコースは予測する――カリム・グラシアの深奥を。
 彼女の本質は変わっていない。変わっているなら、これほど熱心に世界救済の為に動きはしないだろうし、誰かを犠牲にすることを容認もしないだろう。
 
 それを哀れに思った。
 変わってしまえば、彼女はそんなコトをする必要もなかった。
 怯えて震えているだけなら彼女はこんな女傑じみたことなどしなくても良かっただろうに――彼女自身にこんな女傑の如き才知が備わっていなければ彼女はそんな風に自分自身を変革させることなどなかったのだ。
 
 彼女は、“変わっていない”からこそ“変わらざるを得なかった”。
 無論、これが真実かどうかは分からない。これはヴェロッサ・アコースの予想に過ぎない――多分に直感と、そして彼自身の願望――“変わっていて欲しくない”と言う想いも混じっている以上ははっきり言えば当てずっぽうだ。
 何にしろ、現在のカリムにおいそれとそんなことを聞く訳にもいかない――下手なことをすれば自分自身の命すら危ういのだから。

(…実際、どうなんだろうね。)

 ぼんやりとそんなことを考えた矢先、カリムが何かを思い出したようにこちらを振り向いた。

『ところで……一ついいかしら?』
「…何だい?」

 ぼんやりとした瞳を向けて、ヴェロッサは答えた。ここまで来れば何があっても心の準備は出来ている。

『治安維持部第9課――時期はいつになるか分からないけれど、機動六課に出向させることにしたから。』
「治安維持部第9課……あの最近新設された部隊のことかい?」
『ええ。貴方も見たことがあるでしょう?ギルバート・デュランダル、それと彼の傘下の部下2名を出向させるわ。』

 聖王教会治安維持部第9課。カリム・グラシア子飼いの部隊であり、管理局でも極少数の人間しか知らない。出来たのはつい最近。少なくともJ・S事件後に“いつの間にか”出来ていた――ヴェロッサ自身その存在を確認したのはつい最近だった。
 だが、懸念があった。
 ギルバート・デュランダルとはヴェロッサ自身、一度話をしたことはあったが、その時の彼はとても戦えるような人間には見えなかった。どちらかと言えば前線では無く後衛――むしろ指揮官としての雰囲気が漂っていたからだ。

「…戦力になるのかい?言っては何だけど、ギルバート・デュランダルはとても戦闘が出来るようには……」

 訝しげなヴェロッサの呟き――それを遮るようにしてカリムが短く呟いた。

『10分よ。』
「10分?」
『シャッハがデュランダルに負けるまでのね。』
「…え?」

 間抜けな声を上げるヴェロッサ――その声はまるで自分のものとは思えなかった。
 それ以上に、カリムの口から飛び出した言葉が信じられなかった。

「シャッハが…10分で負けた?」
 シャッハ・ヌエラ――ヴェロッサやカリムにとっては幼馴染と言っても良いほどの間柄の修道女である。
 実力は折り紙つき。陸戦AAAランクという魔導師ランクからもその実力は容易に推察できる。
 その彼女が負けた。しかも10分という僅かな時間で。

『実力だけで言えば、恐らくオーバーSランクは確実よ。そして、二人の部下の実力も同じレベルだと思っていいわ。』

 呆気に取られるヴェロッサ。カリムの言葉が信じられない。
 傍観者という自身が知らない、オーバーSランクがそこにいる――その事実が信じられないのだ。

「…それはまた、大盤振る舞いだね。」
『ええ。何と言ってもこれが最後の襲撃になるんですもの。“禍根”は残しておくと“災い”の元になる――そうでしょう?』

 微笑むカリム――その微笑みにぞっとするほど冷たいものを感じ取る。
 微笑みの奥にある真意は読み取れない。
 けれど、それが仮面だと願って、尚――彼は彼女に畏れを感じた。
 仮面であれ、仮面だろう、と言う自分自身の心に疑いを持つほどに、その微笑みは怖かった。
 それなりに修羅場を潜って来たはずのヴェロッサの掌が汗ばむ程度には。
 
 言葉を選び、ヴェロッサは呟く。
 今のカリム・グラシアに告げる言葉は慎重に慎重を期して選ばなくてはならない――最悪の場合は死に至る――殺される可能性すらあるのだから。

「……僕は行くよ。はやてからの引継ぎが残っているんでね。」
『あら、仕事嫌いのロッサにしては珍しいこと。』
「ま、そういう時もあるってことさ。」

 引継ぎが残っていると言うのは本当のことだった。
 けれど、同時にこの場にいたく無いと言うのも本心ではあった。下手なことを言ってしまいかねない。そんな嫌な予感を覚えて。

「それじゃ、行くよ。」

 振り返って、彼は歩き出す。手を振りながら、その場を去る――背後から彼女の声が掛かる。

『ロッサ。』

 声の調子が変化している――それは子供の頃に良く聞いた姉の弱音を思い出す。

「……何かな?」

 ヴェロッサは振り返ることなく、声を返す。
 多分、彼女も振り返って欲しくは無い、そう思っているだろうから――それは彼の願望でしかないのかもしれないけれど。

『私を…見捨てないでね?』
「当然さ。家族を見捨てるような男に育てられた覚えは無い。」

 即答する――当然のことだ。彼女が育てた自分は、そんな人間では無いのだから。

『うん……そうね。』

 どこか安心したようなカリムの声が届く――ヴェロッサは少しだけ微笑んで、言葉を返した。

「ああ。」

 扉を閉じる――屋上を後にする。カリムの姿もそこで消える。
 後に残るのは誰もいない屋上だけだった。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 41.Sin in the Other World(c)
Name: spam◆93e659da ID:17f428f0
Date: 2010/05/29 17:59

 暗い部屋。薬臭い空気に満たされた部屋――むしろ実験室というべきだろう。
 テーブルを挟んで二人の男が向かい合っている。サングラスをかけた白衣の男――ジェイル・スカリエッティ。赤い髪の所々が黒ずんでいる青年――エリオ・モンディアル。
 テーブルにおいてあるビーカーの中からは褐色の液体―-コーヒーが湯気を放っている。
 
「……今度の襲撃で、羽鯨はこの世界から狙いを外すんですね?」

 エリオはくすんだビーカーを手にとって美味しそうにコーヒーを飲むスカリエッティを訝しげに見つめる。
 ところどころについている赤色や青色が気になるが――気にしない方がいい。そう、自分に言い聞かせる。
 
「その通りだ、エリオ・モンディアル――いや、スーパーコーディネイターと言った方がいいかな?」

 ニヤニヤと酷く愉しそうにスカリエッティは話し始める。
 その笑顔に苛立ちを覚えるもののエリオはそれを無視して、静かに佇む。苛立ちならばこの“身体”になった時からずっと在る。
 むしろ消えないし、大きくなるばかりだ――今更苛立ちを飲み込めない訳ではない。
 そんなエリオの内心の苛立ちを知ることもなく――この男なら知っていても気になどしないだろうが――スカリエッティの話は続く。
 
「私達がこれまでに打ち込んだ楔。そして、次の襲撃で中心に掲げる生贄。これによってミッドチルダに満ちた魔力を利用した時空間転移魔法陣が発動する。“ミッドチルダ”という世界そのものを利用したこの魔法によってシン・アスカは羽鯨に捧げられ、世界を救う生贄となる。」

 一拍の沈黙。エリオ・モンディアルがその端正な――元の面影をどこにも残さない顔を俯かせ、口を開いた。
 
「そして、世界は救われる?」

 スカリエッティがその問いに答える。
 
「然り、だな、エリオ・モンディアル。そうなれば君と私達は再び敵同士だ。管理局なりどこへなりと戻るがいいさ。」

 突き放すでもなく、擁護するでもなく、彼はただ淡々と答える。彼にとってエリオ・モンディアルが彼の側になるかどうかなどは、正直どうでもいい類のことだから。
 淡々と答えるスカリエッティ。その答えの淡白さがエリオを更に苛立たせる。
 
「……戻れると、思っているんですか?」

 重い声。腹部の奥底から呪詛のようにして吐き出したような声だった。俯いていた顔を上げる。
 彼の瞳が濁っていた――絶望と悲しみに塗れて。
 ふむ、とスカリエッティはエリオを品定めでもするかのように舐めつけるように視線を飛ばし、次の瞬間、既に興味を失ったのか、テーブルの上においてあるビーカーを手に取り、口元に運ぶ。ビーカーの中には珈琲が入っている。最高級とはいかないまでもその香りや酸味は彼にとってつかある楽しみの内の一つだ。
 ごくり、と口に含む。口内に広がる苦味と酸味、鼻腔をくすぐる香りを楽しみ――スカリエッティはエリオに向けて、口を開く。彼の瞳の濁りは未だ消えていない。

「思っているよ。ただ、戻ったところで君はこれから生涯、日の目を見ることの無い生活を行うことになるだろうね。顔を変え、名前を変え、残るのはエリオ・モンディアルと言う人間の残滓だけだ。」

 それは当然のことだ。エリオ・モンディアルは管理局を“裏切った”。如何なる理由があろうともその事実は覆らない。
 濁りは消えない。むしろ、更に濁りは増していく。濁った泥水のように底など見えないほどに。

「管理局というのはあれで潔癖症の傾向があってね。非合法を合法として押し通すようなことがある……こちらの論理に従えば非合法。だが、あちらの論理で言えばそれは合法。ロストロギアだからと言って画一的に奪っては保管する――そんな連中が君を生かしておくとは思わない。だが、君の能力自体は非常に魅力的だ。何しろ……」

 ビーカーをテーブルの上に置いた。既にビーカーの中は空っぽだ。

「この世界で最高の魔導師と言ってもいいほどの力だからね。」

 スカリエッティが放った言葉を聞いて、エリオは自分の右の掌を開いた。
 既に元の自分とは似ても似つかぬ“誰か”の身体――その右手の中心から、“紅い結晶”が生まれていた。
 手を握り締める――ぱきん、と音を立て結晶は粉々に砕け散った。痛みは無い。既にそこに紅い結晶は無い。“何か”を振り払うようにエリオは顔を上げ、スカリエッティを睨みつける。

「…使えば使うほどに命を削るような魔導師にそれほどの価値があるとでも?」
「あるさ。私が管理局の重鎮なら、君を整形させてでも使うね。確かに君は牙を向けるかもしれないが――牙の無い飼い犬よりはよほど使えるだろう?」

 スカリエッティの返答――簡潔にして明快。単純にして正解。
 事実、その通りだ。管理局は強い“力”を殊更に重用する。
 エリオ・モンディアルほどの“力”があれば、彼らは必ず使おうとするだろう。人材不足甚だしい時空管理局にとって強力な魔導師というのは喉から手が出るほどに欲しいモノなのだから。

「……この身体はいつまで持つんです?」
「“結晶化”は既に始まっているようだからね……そうだな、あと5回ほど全力で戦闘したらじゃないかな?」
「その5回を過ぎれば、僕は…」
「ああ、高純度のレリックと化して、キミは終わる。」

 砕け散った紅い結晶が床の上で爛々と血のように紅く輝く。
 室内に満ちるのは沈黙だけだ。
 スカリエッティが今呟いたのは当然のことだ。強大な力にはそれ相応の代償が付き纏う――そんな至極当然のことでしかない。
 恐怖はある。死ぬことへの恐怖。失うことへの恐怖。誰かに罵倒される恐怖。けれど、その恐怖を押し切ってエリオ・モンディアルは“覚悟”を決めていた。
 救う為に。彼が守りたいと思える人々を――彼の家族を。
 シン・アスカと言う“世界”を壊す要因から世界を救う為に、彼は自分自身すら裏切って此処にいる。その後の人生全てを投げ売ってでも行う価値がある行為なのだ、と彼は確信していたから。

「怖いのかい?」
「……問題、無いですよ。」

 呟きにジェイル・スカリエッティは応えない。元より応えることを期待しての言葉ではなく――自分自身に対する確認のようなものだったから。

「覚悟は…ありますから。」
 震える声にどこか子供っぽさを感じ取って――ジェイル・スカリエッティは微笑んだ。清廉で純粋で綺麗な無邪気な微笑みで。



 夢。夢を見る。
 夢の内容は凄惨だ。誰にも理解されることなく、誰にも守られることなく、誰をも守れることなく、終わっていった一人の馬鹿な男の夢。
 守りたかった誰かを喪って、守りたかった人を守れなくて、守るべきだった人から逃げ出した。
 それは無限の欲望――シン・アスカの記憶。
 流れ込んでくる記憶は濁流のようで方向性の定まらない乱雑した映像。混沌そのものであるかのように刻一刻と映像が切り替わる。
 出来の悪い映画を見ているような感覚――しかも退出は出来ないと言う最悪の仕様だ。
 その“物語”は凡そ今から5年前を起点として始まる。


 家族を失くした――焼け焦げた丘。散らばった肉体。残されたのは妹の右腕。物言わぬ物体に成り下がった家族。
 二度と繰り返したくは無い光景――記憶に篭められた想いは彼のココロだろう。


 復讐の為に力を得た。その力で自分を助けてくれた人を殺した。海に沈んでいく機械の群れ。
 そこに静かに佇む見覚えのある誰か――知ろうともしなかった事柄。


 少女を守れなかった。冷たい白と青の中に沈んでいく金髪の少女。
 戦争という時代に翻弄され、戦いしか知らなかった心と身体を壊された彼女。
 もう誰にも傷つけられないようにと沈めた少女。彼女は今もあの湖の底でただ眠り続ける――永久に。


 仇討ちの為に力を得た。
 殺そうとした。殺そうとした。全身全霊を掛けて殺そうとした。復讐を完遂した。
 毀れた涙は誰の為の涙だったのか。


 仲間に裏切られた。
 多分どこかで信じていた。けれど、裏切られた。
 訳が分からなかった。手に入れた力で仲間を殺そうとし。任務だからと殺した。思考を止めた。


 守るべき人が出来た――傷の舐め合い。
 病んだ心と身体に面白いように馴染んでいくその行為。
 思考することはその頃から止めた。
 考えれば自分は壊れてしまう。壊れてしまうくらいなら何も考えない方が良い。そう思った。

 
 殺したはずの仲間が自分を倒しに来た。
 訳が分からなかった。
 けれど、身体は止まることを選ばない。乱れる心とは対照的に動作は変わらない。


 信じた親友の命を託された。守るべき理想を得た。
 戦いの中、全てが反転する。
 自分達の信じた理想は間違いなのだと断罪されるようにして、理想が壊れていく。
 砕けそうになる心――砕け散って壊れてしまえばどれほど良かったかと思う。
 けれど、心は砕けない。壊れることも出来ない。信じた親友が死んだ。守るべき理想を砕かれた。


 あの時、無言で差し出された“英雄”の手を取った。
 心に染み渡るのは諦観と言う名の安心。自分は負け犬なのだと言う烙印。
 何かが――自分の中の大切な何かがその時“終った”。


 そして、世界は暗転する。
 暗闇の部屋。
 そこで手足を絡ませ、“行為”に没頭する二人の男女。
 女に溺れた――甘えさせてくれる女に溺れた。
 溺れている間は何も考えなくて良かった。
 悦楽だけを頭に刻み込んで繰り返される行為。
 何も考えることなく――考えることを恐れるように、ただただその肢体を貪った。溺れ続けた。

 
 蜜月が――本当に蜜月と言っていいのか分からないが――終わる。
 唐突な始まりと同じく、唐突に終わりは訪れた。多分その終わりは初めから定まっていた予定調和。
 幸せになろう、と。全てを忘れようと、と女は言った――自分は、ソレから逃げ出した。
 
 
 幸せになると言う言葉――選択の重さから逃げる為に、今度は“守ると言う自己満足”に溺れた。
 戦い続けた。思考の停止した2年間。言われるままに戦い続けた2年間。記憶もそこは朧気だ。
 殆ど毎日が戦うか寝るかだけの日々。記憶が残るはずもない。そして、その果てに殺された――けど、死ねなかった。
 
 
 機体の中で、男に向けて手を伸ばす銀糸の如き髪の色と紅玉のように紅い瞳の女性。胸に走る凄まじい激痛。世界が変転する。


 死んだはずの男は死ぬこと無く、別の世界に現出する。
 男はそこで願いを得た――全てを守ると言う実現など決して出来ないであろう“願い”を。
 願いの為に男は生きる。力を求めた。全てを守る為には、全てを超える力が必要だと言う結論から。


 ――その過程で新たに得た大切な誰か。青い髪の女性と金髪の女性。ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウンが思い浮かぶ。そして、更に浮かび上がる幾つかの人間たちとの記憶。

 繋がる絆。生まれる想い。そしてその想いが辿り着くのは――選択を求めると言う彼女達の決意。吐露された言葉には選択など一言も入ってはいない。けれど、男のココロはそんな不誠実を許さない。
 だから、逃げ出した。その想いに応えてはいけないから。
 
 ――自分に誰かを選ぶなど許されないとうそぶいて。本当は誰かを選ぶことがたまらなく怖かったから。
 
 或いは、彼女達がその思いを吐露しなければ、とも考える。
 けれどそれは在り得ない仮定。恋とはいつか愛に昇格することを夢見る熱情である。
 故にその想いはいつか吐露されたのだろう――遅いか早いかの違いでしかない。
 そして、それと同じように――彼女達が死ぬことも確定されていたのだろう。
 
 力を求め、力を手に入れ、力に溺れ――二人は死んだ。守れなかった。
 
 二人の死体を見た時、大切な何かが砕け散った。砕け散って、ようやく、自分が何を求めているかを知った。
 求めていたのは落とし所。華々しく誰かを守って死ぬと言う人生の終着点。
 
 銀髪の女にそれを望まれた。“彼女の為に死んでくれ”と。
 生まれた感情は悲しみでも怒りでもなく喜び。誰かに望まれて、誰かを守って、死んでいけるという喜びのみだった。
 
 世界は残酷だ。けれど、残酷な世界の只中で誰かを守って、華々しく散っていけると言うのは幸せな死に様では無いだろうか。
 
 夢が終わる。帳が下りる。
 落ちる。墜ちる。堕ちる。
 現実へ。苦境へ。絶望へと。

「……そっか。」

 目が、醒める。即座に覚醒する意識――まるで眠ったと言う意識が無い。徹夜明けのように頭は胡乱で、けれど意識は澄み切った水のように明瞭で。

「全部、リインの仕業やったんか。」

 夢の中でみたある光景――胸を貫く女。そして、その直前に見えた泣き叫ぶ子供。
 
 それはあの日の光景――八神はやてに刻み込まれた癒えない傷跡。リインフォースが死んだ日の映像。
 どうして、彼女がこんなことをしたのか。
 どうして、シン・アスカだったのか。
 どうして、あの時言ってくれなかったのか。
 そして、もし、彼女が全ての元凶ならば――どうして、彼女はこんな夢を見せるのか。
 
 理由は分からない。分かりたくも無い。折れた心は思考を鈍らせ、何かを考えることを拒否させる。

「……別に、もう、どうでもいいんや。」

 瞳を閉じる――私室の片付けは終わっている。業務の引継ぎは全て終わっている。後は移動するだけだ。逃げ出すだけだ。
 ベッドの上のシーツをもう一度被り、身を包ませる。

「どうでも…いいんや。」

 自分には関係ない。そう、うそぶいて。
 八神はやては眠りに落ちていく。何も知りたくないし関係ない。
 彼女の心はこの時折れていた――絶望だけが彼女の心にあった全てだった。


 時刻は10時を過ぎた頃。夜空は暗闇。
 既に寝ていなければいけない時間帯――シン・アスカは一人、自動販売機の前に設置されたベンチに佇んでいた。
 場所は訓練所近くの休憩所。以前、フェイトとギンガがシンについて語り合っていた場所。
 
 手に握るのはスポーツ飲料。つい、先ほどまで延々と訓練を繰り返していた。
 通常業務終了後から数時間に渡る訓練。訓練内容はこれまでと同じく基礎の繰り返し。
 そして、シミュレータによる一対多数の訓練だった。
 
 エクストリームブラストの力を最大限に発揮する為には敵陣に切り込むことが必要となる。
 それもエクストリームブラストを使わずに、だ。
 
 エクストリームブラストを使えば、デスティニーは奪う。無作為に全てから。
 殺しはしないだろう――だが殺さないだけだ。瀕死まで、枯渇する寸前まで奪い取る。
 それでは意味が無い。自分が死ぬのは問題ないが、付近にいる味方に迷惑をかけるのでは意味が無い。

 幾度と無く繰り返される一対多数の訓練はシンの体力を殊更に奪っていった。
 全方位から狙われ、背後を取られ、避ける隙間も無い弾幕を避け――そして、敵陣の中腹にまで辿り着く。
 全身にかかるストレスの大きさはそれまでの訓練とはまるで違う。
 
 全身が鉛のように重い。額から流れ落ちる汗。
 最近は眠ることも億劫に思い、毎日寝ることも無く訓練をしていたせいか、瞼が重い。
 このままここで眠りにつきたい衝動に駆られる――それもいいかと思い、ベンチに横になった。
 見えるのは所々シミで黒ずんだ天井。
 寝転がった状態で右手を顔の前にまでゆっくりと上げる。
 小さく“震える”右の手の指を“ゆっくり”と力を込めて開き、掌を見る。
 その中心に虹色の瞳――今は閉じている――があった。

「……エヴィデンス。」

 エヴィデンス――虹色の瞳。
 夢で見たリインフォースと言う名の女性はそう言った。これは全てを奪う“力”だと。
 
 あの時、この瞳が開き、見たモノは全て砂塵となって、崩壊した。
 エリオには通じなかった。だが、あれは圧倒的とも言える力だ。戦局を一瞬で打破するに相応しい力。
 リインフォースの言葉を思い出す。
 
 ――それを使い続ければ、お前は死ぬ。
 
 それは力の代償として命を求めると言うことを意味する――逆に言えば、命を代償にすれば強大な力が手に入るということだ。
 手に入る力は強大無比。命を代償にしたくらいでそれだけの力が手に入ると言うのなら安いものだと思った。
 そうだ。命なんて安いものだ。こんな自分のような人間の命は特に。
 
「シンさん……」
 
 声。たどたどしく、怯えが含まれた声。
 起き上がり、右側を振り向く。そこには、こちらを申し訳なさそうに見つめる一人の少女とオレンジ色の髪を二つに纏めた少女がいた。
 キャロ・ル・ルシエとティアナ・ランスター。

「キャロとティアナか。こんな時間にどうしたんだ?」
「どうしたんだって……あんたが言うことじゃないでしょうに。」
「?どういう意味だ?」

 シンの返答に呆れるティアナ。ティアナが呆れる理由が分からないのか、怪訝な顔をするシン。
 はあ、と溜め息を吐いてティアナは口を開いた。

「……いつまで訓練するのかと思って見に来たのよ。キャロとはそこで会って、一緒に来たの。あんたに聞きたいことがあるそうよ。」

 溜め息を吐きながら喋るティアナ。

「ああ、そういうことか」
「そういうことかって、あんたね……」
「訓練は、まだ続ける。少なくとももう3時間はやることになると思う。」

 時刻を見る。今から三時間後といえば少なくとも1時だ。

「3時間って、あんたいつ寝るつもりなの?」
「それから、かな?流石にシャワーくらいは浴びるつもりだから……2時くらいだと思う。」
「…私が言えた義理じゃないかもしれないけど……そんなことしてたら、その内、身体壊すわよ?」
「かもな。」

 淡々と呟く。口調に淀みは無い――生まれるはずもない。閉鎖したシン・アスカは外界に目を向けることは無い。
 重い沈黙がその場を包み込む。
 シン・アスカは話すことを失ったように自分の右手を見つめ、ティアナはそんなシンに掛ける言葉を捜すように視線を彷徨わせる。

「シンさん……」
 
 幼い、どこか怯えたキャロ・ル・ルシエの声――その中に少しだけ強い気持ちが混じりこむ。

「シンさんは、エリオ君と、戦ったんですよね。」
「ああ、戦って――殺した。何でか、まだ生きてるけどな。」

 “殺した”。その言葉にキャロが全身をビクリと震わせ、ティアナがきつくシンを睨みつける。余計なことを言うなとでもばかりに。
 一瞬、それに対して謝ろうかとも思うが――馬鹿馬鹿しくなってやめた。
 事実は事実だ。自分が言おうと言わんまいと関係なく、それは遠からず知れる事実である。今更、それを隠すことの方が馬鹿馬鹿しい。
 
 これで怯えた彼女はどこかに消えるだろう。平然と自分の大事な人間を殺した男と話が出来るほど強くは無い。そう思って。
 
 時計を見る。休憩時間は既に過ぎている。また、訓練の時間だ――そう、思って、立ち上がろうとした矢先、少女が口を開いた。
 今度はさっきよりも強い口調で。

「どうして、エリオ君はあんなことをしたんでしょうか。」

 疑問の吐露。少女の疑問は誰もが思うことだ。
 エリオ・モンディアルはフェイト・T・ハラオウンを慕っていた。まるで本当の母親や姉のように。
 傍にいたキャロ・ル・ルシエが時折嫉妬するほどにエリオはフェイトを慕っていたのだ。
 なのに、彼はフェイトを殺した。間接的に、手を下さなかったとは言え――それがどうしても信じられないことだったから。

「私には分からないんです…エリオ君がどうしてあんなことをしたのか。」
「アイツは、“必要だった”と言ってた。」
「必要…?」

 記憶を掘り返す――心の奥底で炎が燃えるのを感じ取る。

「……何の為に、どうして、とかは分からないけど、あいつはそう言ってた。」

 エリオ・モンディアルは必要だったから殺したと言った。
 何の為に。何故。そう言った疑問は当然湧いて然るべきものだ。
 だが、あの時の自分は――今もそうだが――そんな疑問など浮かばなかった。

 敵は殺す。それだけしか頭に無かったから。
 虚無が、滲んでいく。疑問が虚無を薄めていく。シン・アスカの虚無は未だ強固な虚ろではなく、揺らいでいる。

「……そうだな、キャロ。聞いとくべきだった。」

 申し訳なさそうに、シンは俯き呟いた。
 罪悪感が降り積もる。戦うことしか考えなかった自分はどれだけ馬鹿なのかと。
 共に沈黙する二人。ティアナ・ランスターはそんな二人を見て、溜め息を吐き、口を開く。

「…あのね、何でもかんでも自分のせいだと思うの止めなさいよね?今回のことは…あんただけのせいじゃないんだから。それに」

 ティアナがその顔をキャロに向ける。

「キャロもよ。エリオが裏切った理由なんて本人に聞かなきゃ分からないもの。ここでシンに聞いても意味が無いわ。」

 鋭い視線――ティアナ・ランスターの視線にキャロ・ル・ルシエが居竦まる。
 けれど、それでもキャロ・ル・ルシエは知りたかった。どうして、こんなことが起きたのか。

「ティアナさん…でも、私は…」
 
 キャロの頭に手を添える――昔、兄が自分の頭を撫でたようにして。

「いい?」

 ティアナの顔がキャロに近づく。頬は緩み、微笑んでいる。

「アンタが今やるのは疑問をエリオにぶつけること。それとエリオと戦う覚悟をすること。」

 戦う、と聞いてキャロの顔が悲しみに歪む。

「……家族なのに……戦わなきゃいけないんですか?」
「家族だからこそよ。」

 俯こうとするキャロの瞳。ティアナの手が彼女の顔を挟み込むようにして、無理矢理、上に向かせる。
 瞳と瞳が絡み合う――ティアナは瞳を逸らさない。

「家族だから、あんたはエリオと戦わなきゃいけない。戦って、しっかり、叱ってあげるの。家族ってそういうものでしょ?」
「私が、エリオ君を?」
「…エリオが何を考えて、裏切ったかなんて誰にもわからない。だから、聞いて、戦うしかない。じゃなきゃあんたの言葉はきっとエリオに届かない。」
「たた、かう…」

 自分の手を見る――小さな手。誰かを守るには小さすぎるし、自分自身さえ守れない惰弱な手。涙が毀れそうなほどに弱い子供の手。

(エリオ君と戦う…?私が…?)

 想像もつかない言葉。出来るはずが無い。今や強大な敵となったエリオをキャロ・ル・ルシエが倒すなど不可能だ――理性は正確に現実を認識する。
 ティアナもそれは分かっている。分かっていて、そう言っているのだ。
 エリオ・モンディアルと戦うことなど、恐らく――シン・アスカ以外誰にも出来ないであろうことは。

 ティアナ達はその戦闘記録を垣間見ただけだ。視界も悪い、偶然映っていた程度の代物。
 それだけでその戦闘力を正確に推し量ることは出来ないだろうが――それでもその一瞬だけ見えたシンとエリオのその戦いは彼らが想像する“戦闘”とは一線を画していた。
 速度、威力、肉体強度。その全ての部分において、二人の戦いは常軌を逸している。
 
 
 千切れた腕を再生し、巨大な剣を生成し、目にも映らぬ高速移動で攻撃の雨を掻い潜り、致命傷を負いながらも敵に喰らいつくシン・アスカ。
 
 
 膨大な数の魔力によって制御された質量兵器と思しき魔法、目にも映らない高速移動、砲手と言うよりは戦艦と言った方が正しい桁違いの威力を撃ち放ち続けるエリオ・モンディアル。
 
 あれは異常だ。異常すぎる戦闘力である。
 あれほどの戦闘力を有したエリオ・モンディアルにキャロ・ル・ルシエが戦えばどうなるか。
 キャロは召喚を主とした補助が専門の魔導師。
 エリオは単独で戦局を変えるほどの力を持つ魔導師。
 戦えば、その勝敗は火を見るよりも明らかだ。一瞬で彼女は死ぬだろう。

(死ぬ…殺される?エリオ君に?)
 
 空想が現実味を帯びてキャロの脳裏で展開される。
 フリードを開放したならば、恐らく一瞬でフリードは殺される。
 ヴォルテールを召喚したところで同じだ。エリオ・モンディアルの放つ魔法はヴォルテールの放つ一撃と同程度。速度は比較にならない。連射速度も同じく。

「……」

 押し黙るキャロ。ティアナは何も言わない。別に、彼女が単独で勝つ必要などどこにも無い。
 だが、これはキャロ・ル・ルシエが自分の力で乗り越えなければならない問題だ。家族の問題は、家族にしか解決出来ない。
 キャロ・ル・ルシエが今、胸に秘めた言葉と想いを届ける為にはどうしてもそれが必要になる。
 出来る出来ないを論じる段階は当に過ぎている。
 詰まる所、気持ちの問題でしかない。やるかやらないか、それだけなのだ。
 何を言うべきか定まらず押し黙るキャロを庇うようにシンがティアナに向けて口を開いた。

「ティアナ、言いすぎだ。」
「…アンタはどうなの?」
「俺?」
「エリオをどうにかできるとしたら、この子以外に適任っていると思う?」

 ――いるはずがない。家族の心を動かせるのは同じく家族――もしくは家族ほどに近しい誰かだけ。そんな人間は機動六課にはキャロ・ル・ルシエ以外にはありえない。
 
 だが、
 
 ――シンの瞳の焦点が再び消えていく。舞い戻る虚無。焦点を失った瞳は暗い穴のように髑髏を連想させる窪みとなる。朱い瞳が爛々と彼女を見つめる。

「かもな。けど、それは駄目だ。キャロじゃあいつに殺される。」

 何でもないことのように話す――目前にいる少女は家族に殺される、と。
 淀み無く、事実だけを繋げるようにして紡がれた言葉。
 
 ティアナの瞳が鋭く、キャロの瞳が潤み出す。
 
 けれど、そんな視線は彼には“見えない”。
 閉鎖した彼の心は他人の心の機微に対して、あまりにも無力だ。
 シン・アスカが話すのは事実だけ。述べる言葉は事実のみ。個人個人の真実など知ったことではない。

「だから、」

 シンが答えを言い終えるよりも前にティアナがその言葉を遮って、答えた。

「だから……アンタが殺すって?」

 殺す――その言葉にびくり、と身体を震わせるキャロ。

「ああ。」

 停滞の無い返答。定められた答えを返すように。

「俺が殺す。」

 自動販売機の明かりに照らされて、朱い瞳が暗闇に輝く。

「……。」

 その言葉の前でティアナ・ランスターには何も言えない。
 殺す、と言うシンの気持ちも分かる。
 彼にしてみれば目の前で大切な――少なくともティアナから見ればそうとしか思えないものを殺されているのだ。
 
 目には目を。刃には刃を。命には命を。
 
 殺されたならば殺す。奪われたならば奪い返す。
 大切な者を喪った人間にしかその道理は分からない。ティアナはなまじその気持ちが分かる以上は、何も言えない。

 肯定することも否定することも出来ず、ただ沈黙する以外に無い。
 否定は彼女の人生を否定することになり、肯定も同じく彼女の人生を否定することになるのだから。
 大切な人を喪ったその時から彼女の夢は生まれたのだから。

「……。」

 ティアナと同じく――内面的な意味ではまるで違うが――キャロ・ル・ルシエも何も言えない。
 彼女の心に在るのは疑問と悲哀、絶望。それだけだ。
 疑問は裏切られたことへの。悲哀は失ったことへの。絶望は孤独になったことへの。
 元々キャロ・ル・ルシエの一生とは碌な人生ではなかった。
 力があったから里を追われ、孤独を強制され、そしてフェイト・T・ハラオウンに保護された――彼女に保護されていなければ幼い少女などどうなっていたか分かったものではない。
 人買いに売られ、苦界で心と身体を壊していたとしても驚きはしない。世界はそれなりに苦しみに満ちている。
 そこから連れ出してくれた家族が奪われた。それは絶望だろう。
 
 そして、それを奪ったのもまた家族。それも自分と同じように苦しみを背負っていたはずの家族だ。
 疑問に思うのは当然だ。
 エリオ・モンディアルがやったことはキャロが今感じている悲哀と絶望全てを背負い込むことが前提の行為である。
 “自分ならば絶対にしない”。その確信があった。
 なのに、エリオ・モンディアルはその行為――裏切りを行った。
 繋がらない。疑問は膨らむばかりで解答にまで辿り着かない。

(エリオ君は…どうして。)

 キャロ・ル・ルシエが沈黙するのはそうやって思考の海に溺れているからだ。そうしていれば、少なくとも悲哀と絶望を忘れられる――それが分かっているから。
 彼女は未だエリオに届ける言葉を見つけられない。
 
 ――そんなものがあるのかどうか定かではないが。

「……これ、渡しとくわ。」

 沈黙を破るようにして、ティアナが呟いた。
 手に持っていた鞄からピンク色の蓋のタッパーを取り出す。
 中に入っているのはサンドイッチ。恐らくティアナが作ったのだろう。この時間になれば既に食堂は閉じている。

「あんた、最近まともに食べてないでしょ?」
「…悪い。」

 呟いて、申し訳なさそうにシンの体の右側から手渡されるそのタッパーを左手で掴んだ。その様子にどこか違和感を覚えながらも――ティアナはそれを振り切って口を開いた。

「……正直、エリオのことは私には何も言えない。それはあんたの問題だし、実際エリオと戦えるのはあんただけだと思う。」

 タッパーを掴んでいた手を離す。シンの左手がタッパーを掴み、ベンチの上に置いた。

「けど、誰もあんたを責めてなんていない。あれはあんたのせいじゃないんだから…少なくとも私はそう思ってる。」

 ティアナは俯き、シンと瞳を合わせない。見ていられないからだ。痛々しさしかない今のシン・アスカは。

「…悪いな。気を使わせて。」

 ティアナの言葉にシンは力無く苦笑する。人生に疲れた老人のような嗤いだった。けれど、俯いていたティアナはそんな嗤いを目にすることもなく。

「……行こっか、キャロ。シン、あんまり……無理するんじゃないわよ?」
「――そうだな。」

 僅かな沈黙の後の返答。ティアナはその呟きに少しだけ安堵し、この場から去るしかない自分に嫌悪を感じて、逃げるようにして歩き出す。
 キャロはその後をただ付いていき、そして、振り返った。

「シンさん。」
「なんだ?」
「…私じゃエリオ君に、殺されますか?」

 意を決した――否、ある種の覚悟を宿らせた瞳。キャロ・ル・ルシエがシン・アスカに向けて口を開く。
 二人の間に走る緊張感。

「ああ。間違いなく殺される。キャロじゃ絶対に勝てない。」
「……そうです、か。」

 キャロはそう言って、シンに背を向けた。そうして興味を失ったようにシンもまた彼女から眼を外す。
 時折、シンの方を振り返るも、言葉を放つことはない。
 彼女もまた違和感を感じている――だが、今の彼女にソレを考える余裕などあるはずもなく、彼女はただティアナの後をついていく。
 丸まった背中が、か弱さを強調する。その後ろ姿はあまりにも弱々しい
 シンはしばしそんな二人を見つめ――その姿が見えなくなってから、タッパーから“左手”でサンドイッチを取り出した。

「……。」

 サンドイッチを物憂げに見つめる。そして、一瞬瞳を閉じると“意を決する”ようにして、口の中に放り込んだ。
 ハムとパンが咀嚼されていく。本来ならパンに塗られたマヨネーズとハムの塩気が丁度いい塩加減を演出するのだが――今のシン・アスカはそうではなかった。

「……やっぱ、きついな。」

 口の中に入り込んだサンドイッチが食物ではなく異物――例えるなら紙やゴムにしか思えない。
 口から脳に伝わる信号は、“感触”だけ。口内の粘膜に伝わる触覚と歯がサンドイッチを噛み切る歯応えだけ。

「……」

 無言でそれを咀嚼し無理矢理飲み込む。タッパーの中のサンドイッチを無造作に掴むと再び口の中に放り込む。

「……う、ぷ。」

 呻きと共に吐き気が走り抜ける。
 口内にある物質は食物ではないと脳が誤動作し、身体が勝手に異物を吐き出させようと胃と食道をぜん動させた結果だろう――先ほど買っておいたスポーツドリンクで無理矢理に流し込む。
 胸の中心に冷たさを感じる。食道を通り抜けるスポーツドリンクの冷気だ。少しだけ吐き気が沈静化する。
 ふう、と溜め息を吐き、再びサンドイッチを口に含む。
 よく咀嚼してはスポーツドリンクで流し込む。
 作業のような食事。味がしない食物を食べることはそれだけで肉体に負荷を与えるのだ。
 
 ――シンの肉体には今二つの異常が起きている。吐き気の理由。そして先ほどから左手を多用する理由。
 
 一つ目は味覚が潰れたこと。
 シンが今感じ取れる味覚は無い。
 凡そ全ての味覚が失われ、それに伴って、舌触り、温度などの口内の触覚が感じ取れる刺激すらもそれまでとは違う類に成り果てている。
 何を食べようとも紙やゴムでも食しているかのようにしか感じ取れない。
 無理に食べれば、先ほどのように吐き気を催すことも多々ある。ティアナが言ったようにシンはまともに食べていない。
 だが、それは食べていないのではなく“食べられない”のだ。
 
 二つ目は――こちらはまだ深刻な領域ではないが――右手が“まともに”動かないこと。
 身体の右側から手渡されたものを掴むなら普通は右手で掴むのが道理だ。
 自然、人間の感覚とは距離が近い方を優先する。
 だと言うのに左手を多用し、右手は殆ど動かさないようにしている。
 右手をまともに動かせないのだから当然といえば当然だろう。
 正確にはまともに動かせないと言うよりも、動作が異常に鈍くなっている、というのが正しい。
 本を掴もうとすれば、掴むことなくその少し前の場所を掴んでいる。
 フォークを持とうとすれば手が震えて掴めない。それに伴い握力も以前よりも減っている。
 
 それらはエヴィデンスを使った後遺症なのか、それともこの身を覆う全能感の副作用なのか、それは分からない。
 けれど、“力”を手にした時を境に異常をきたしたのは間違いがない。
 強大な力の代償なのだろう。夢の中で、あの女――リインフォースもそう言っていた。
 だが、

「……デスティニー。」

 懐からデバイスを取り出し、呟く。デスティニー。フェイスバッジと同じ形をしたアームドデバイス――今ではインテリジェントデバイスとも言える――を起動する。
 手の震えが止まった。握力が戻る。
 同時に全身に漂っていた倦怠感――恐らくオーバーワークによるもの――も消える。
 肉体が覚醒する。正常に動き出す。

「どうなるんだろうな、この身体は。」

 淡々と他人事のように呟く。
 デバイスを起動した時、身体の機能は十全となる――なのに味覚は戻らない。
 戻るのは戦闘において必要となる機能だけ。手の異常は戦闘において致命的とも言える問題を引き起こすから、戻されたのだろう。
 人間として生きる為の命から、戦う為だけの命として変革されていっているのだ。
 デスティニーは何も言わない。こちらから聞かない限り何を言う気は無いのかもしれない――もしかしたら言う必要が無いと考えているのかもしれない。
 仮にそうだとするなら、それは全く以って正しい判断だと言える。
 シン・アスカはそんな終わりをこそ望んでいる。
 主の願いを叶えることがデバイスの本分だとするなら、それ以上に正しい判断などありはしない。

「壊すわよ、か。」

 ティアナの言葉を思い出し、苦笑する。壊すわよ、ではなく、既に壊れ始めているのだ――夢の中で女が言ったように、終わりは、近い。
 死んで終わるのか。それとも壊れて終わるのか。それは分からないけれど。

「……精々派手に散ってやるさ。」

 喜びに笑いながら、シン・アスカは呟いた。


 夜の食堂。夜空には月がある。
 そのテーブルに突っ伏すようにして座る一人の女――スバル・ナカジマ。

「……シン君。」

 呟きは行き場の無い感情――ギンガを殺された憎悪の在り処を指し示す。
 シン・アスカ。機動六課における自身の同僚であり、そして――既に死んだ姉の思い人。

「ギン姉……」

 もう、どこにもいない姉の名を呟く。
 食堂の窓から空を見る。覗く月は少しだけ欠けていて、どうしてか胸に悲しみが込み上げて来る。
 幼い頃から一緒だった。母のいない自分にとって姉は、母でもあり姉でもあり、大切な家族だった。堅物だった姉。自分を心配していた姉。
 以前、ギンガが洗脳され、敵となった時よりもはるかに強く――悲しみがあった。あの時はこの手で取り戻すと言う意思を持てた。
 けれど、もう姉はいない。どこにもいない。取り戻そうにも、存在しない。

「……」

 嗚咽するでもなく静かに涙が毀れる。枯れることの無い悲哀の雫。テーブルに出来る水溜り。
 このまま、この涙で溺れてしまえばいいのに――そう、思った時、がちゃり、と扉が開く音がした。

「全く…こんな夜中に食堂にいるなんてね。おばさんに怒られるわよ?」

 女性の声。それが誰なのかなど振り向かずとも分かる。

「……ティア。」

 彼女の、相棒の名前を呟く。

「……どうしたの?」

 テーブルに投げ出した身体は戻さない。戻しようもない。力が入らない。

「別に。あんたがどうしてるのかと思ってね。」
「……そう。」

 他人の心に敏感な相棒の心配りなのだろう。
 彼女はリーダーだ。
 それとなく周囲を見回っては心のケアくらいはやってのける――そんな配慮も今は鬱陶しいとさえ思う。
 
 恐らく、気付かれているのだろう。自分が此処最近まともに寝ていないことを。
 眠ろうとしても思い浮かぶのは姉との思い出ばかり。そして、いつもいつも心にあるのはシン・アスカのことばかり。
 彼とどう接すればいいのか、分からない。

 先ほど呟いた憎悪の在り処――シン・アスカ。彼はギンガ達を殺したのは自分だとゲンヤに伝えたらしい。
 別に、本当に殺した訳ではない。守れなかった自分の責任と言いたいのだと、ゲンヤはそう言っていた。
 その言葉が無ければスバルはシンを糾弾していただろう、と思う。
 確かに見方を変えれば殺したのは彼だ。シン・アスカが守っていればギンガは死ななかった。同じくフェイトも。
 
 守れていれば死ななかった。そういう意味で言えば殺したのはシンだろう――けれど、その考えは間違いだ。
 守れなかった=殺したと繋げることは逆恨みでしかない。
 そんな想いに身を任せるのは行き場の無い感情を鬱屈させた挙句に壊れた、己が憎悪で身を焼く狂人だけだ。
 それが正解だ。正しい解答である。
 だが、だからと言って、その想いが全て間違っていないことも今なら理解できる。
 出来るなら、いっそシンを憎んで、この感情をぶつけたい。そんな想いがスバルの中には存在していたから。
 
 人の心とは憎悪を常に持ち続けられるほどに強くない。
 憎悪を維持し続けると言うのはそれだけで精神をすり減らす。だから、人は容易く与えられた“憎悪の在り処”に憎悪をぶつける。
 それが何の意味も無い憎悪の発散に過ぎないとしても、憎悪を抱え続けることに耐えられないからだ。

 二律背反。同じ心で背を向けあう二つの想い。
 
 奪われたことを憎めばいいのか、奪われた彼を憐れめばいいのか。
 恐らく、そのどちらを選んだところで何かが変わる訳では無いだろう。
 どちらに傾いたところでココロに残るのは後悔だけだ。それ以外は何も無い。
 室内には静寂が満ちてい。言葉を発することもはばかられるような雰囲気――その中で言葉を放つティアナ。沈黙が乱れる。

「シンにさっきのサンドイッチ渡したわ。」

 口調は少しだけ楽しげだった。悪戯を仕掛けた子供のように。

「さっきの…ああ、そういえばティア作ってたね。」

 物憂げに呟く。答えることが既に億劫だ。
 対するティアナはスバルの物憂げな態度など気にしないのか、構わず楽しげに話し続ける。

「実はね、あの中に一つだけ当たり入れといたの。」
「当たり?」
「そ。ハバネロソース入りの特製サンドイッチをね。」
「……へ?」

 ティアナ・ランスターの唇がニヤリと歪む。
 ハバネロ――唐辛子の一種である。
 市販されているタバスコに比してハバネロの辛さはおよそ140倍。
 辛さの単位スコヴィル値で言えばハバネロが300000スコヴィルに対してタバスコは2140スコヴィルである。
 そんなもの食べた瞬間に吐き出すような代物だ。

「な、何で、そんなこと?」

 呆気にとられるスバル。何故ティアナがそんなことをしたのか、理解出来ないのだ。

「悪戯よ。これでアイツも少しは眼が覚めないかってね。……まあ、意味があるかって言われるとどうかは分からないけど。」

 ぶっきらぼうな物言い――彼女なりにシンを心配したと言うことなのだろう。
 悪戯で少しだけでもシンの心が正常に戻るように――その表現方法は彼女らしく全く以って素直じゃない。意地っ張りなのだ、彼女は。
 そう思うと、つい頬が綻ぶのを止められなかった。

「……ティアって結構馬鹿だよね。」
「う…確かにちょっとソース入れすぎたかも……ま、まあ、一応、辛味消しに牛乳とヨーグルトは準備してあるから大丈夫よ。」

 辛味消しとかそういう問題ではないだろうが――と、考えた矢先、食堂の前をシンが通っていった。
 “何事”も無かったかのようにいつも通りに。
 スバルの瞳の色が変化する。濁る――憎悪と悲哀が交じり合って。
 その変化に気付いたティアナは後ろを振り向き、そして彼女もまた気付く。

「……シン?」

 ティアナの呟き。それに気付いたのか、シンが彼女達の方へ振り向いた。

「ティアナとスバルか。」
「どうしたのよ?」
「これ、返そうと思ってさ。」

 そう言ってタッパーを持った左手を掲げる。

「あ、それ食べたんだ?」

 口元を歪ませ、嫌らしい笑みを浮かべるティアナ。
 空になったタッパーを見る限り、どうやら彼女の“悪戯”は成功したらしい。
 ――だが、シンの表情はそんな彼女の思惑とは違い、あまりにも普通だった。そう、いつも通りだった。

「ああ。美味かったよ。ありがとうな。」

 ――美味かった。
 
 ティアナの顔が強張る――言葉は残酷だ。あまりにも簡単に人の内腑を抉り抜く。
 スバルの顔が強張る――悲哀が重なる。言葉の意味を理解などしたくない。
 二人の強張った顔――シンが怪訝に二人を見つめる。

「…どうかしたのか?」
「あんた……それ全部、食べたの?」

 その言葉は殆ど反射的に放たれた。考えるよりも前に放たれた言葉。
 その言葉に頷くシン。

「ああ。そのタッパー見れば分かるだろ。全部食べたし、一応洗っといた。」

 そう言ってタッパーを見せつけるシン。二人の顔の強張りはそれでも取れない――むしろ強くなる。
 その表情の強張りが気にはなったが、別に気にすることでもないだろう――そう、思い、タッパーをティアナの前のテーブルに置いた。

「じゃあ、俺、行くよ。」

 そう言って、歩き出すシン――ティアナとスバルはその背中に声を掛けることが出来ない。
 食べることの出来ない代物を食べて、平然としている。
 
 “美味かった”
 
 在り得ない、言うはずの無い言葉。
 喉が渇き、心臓が早鐘を打ち、ココロの奥底がざわめき立てる。
 事の真偽を正すことも出来ず、ティアナとスバルはただ呆然とシンを見つめていた。
 自分達が何か開けてはならないものの中身を覗いたようなそんな錯覚を覚える。
 二人は静かにその場で彼を見つめ続けた。声を発することも出来ずに呆然と。

 壊れていく日常。それは始まりに過ぎない。当たり前にそこにあったものが次々と壊れていく。
 ――八神はやてが機動六課部隊長を解任され更迭される知らせが届いたのは翌日だった。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 42.Sin in the Other World(d)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 18:00

 8月10日。
 一週間後の8月17日においてミッドチルダ首都クラナガンに向けてこれまでにない規模の襲撃を行うとジェイル・スカリエッティから通信があったことがミッドチルダに在籍する管理局員全てに通達された。 目的地は首都クラナガン。そこに1000機のガジェットドローンが投入される総力戦――1000のガジェットドローンとの戦闘。それはもはや戦闘ではなく戦争だろう。
 機動六課部隊長八神はやてはその通達の前日にはその任を解かれ、後任としてヴェロッサ・アコースが着任していた。
 最も反発するだろうと予想されていたヴォルケンリッターは反論すること無く、それに従った――八神はやてが前もって彼らに言っていたのだ。そして、主の意に従い、彼らは機動六課にて襲撃に備える。
 他の面々も同じく、襲撃への準備――と言うよりも避難誘導と言った方が正しい――を始める。
 クラナガンの都市機能をそのまま他の都市に委譲し、都市に住む人々を避難場所へ誘導し、迎撃の準備を行い、戦力を揃える。
 ミッドチルダ首都クラナガン。眠らない街。喧騒の光と闇が巡る首都――その面影はもはや無い。
 武装した魔導師達が立ち並ぶ。物々しい雰囲気が街を覆う。そこに生きる人々は全て時空管理局に所属する――もしくはそれに類する組織に属する――人々。

 戦争が始まる――最初で最後の戦争が。血で血を洗う戦争が。殺し殺される戦争が。


 8月11日。
 それは襲撃まで一週間を切った日。シンが“ある場所”に出かける時のことだった。

「シン……シン・アスカか?」

 後方から呼びとめられる――振り返ればそこに見慣れない男がいた。朱い瞳が知らず男を睨み付けるようになる。
 屈強な体躯。ボディビルダーの如く盛り上がった筋肉が示す彼の肉体の頑強さ。
 顎に髭を生やし、身長もシンより一回りは大きい。同じく肩幅もシンよりも遥かに大きい。
 年齢も恐らくは10ほどは上に見える厳しい顔立ち。
 髪は短かく刈り上げ、あご髭とモミアゲ、そして太い眉毛、釣り上がった瞳と相まって、厳しい容貌を更に強調する。
 どこかプロレスラーのような――と言うよりもゴリラのように厳しい――印象。それほど体格の大きい人間がいない機動六課の中では異彩を放つ見た目。
 そのあご鬚の男の顔には見覚えがある。ここではない場所。陸士108部隊にいた時に何度か話をしたことがある男――名前は知らない。
 あの時、確か自分とギンガに特訓マニアとその鬼嫁などとあだ名をつけた男だ。

「アンタは……確か陸士108部隊の……えーと、名前は…」
「何だ、忘れちまったのか?」

 そう言って、男は厳しい容貌を歪ませ笑いながら自分の名前を呟き、右手を差し出す。

「リチャード・アーミティッジ。今回の作戦に参加することになってる。よろしく頼む。」
「…そっか、よろしくな。」

 呟き、左手を差し出すシン。
 右手は下ろしたまま動かさない――リチャードは少しだけ不審に思いつつも、気にすること無く、左手を差し出し直す。
 別に礼儀がどうとか言うようなことも無い。
 
 シンの左手を握り締める――ゴツゴツとした手。
 その手は歴戦の兵士のように掌の皮膚は硬く厚くなっている。
 手の形は度重なる訓練によるものか、タコが出来上がり変形している――見れば、その眼の下には隈が浮かび上がり、顔色も良くは無い――むしろ悪い。
 夥しいほどの修練――恐らく、寝る間も惜しんで鍛え上げたのだろう。
 元々、陸士108部隊にいた頃からシン・アスカにはその傾向があったのだから。
 リチャードは、ギンガの話を思い出す。
 
 彼女曰く――異常だと。

 曰く、倒れるまで訓練を続ける。
 意識を喪失し、死ぬ寸前まで止まらない。暴走特急。
 そんな言葉が似合う男だ、と彼女は言っていた――実際、リチャードもそう思っていた。

 だが目前のシンはそれよりも尚、酷い。
 あの時は、ここまで酷くはなかった――倒れるまで訓練はしていたが、倒れてしまえば後は気を失いながらも休んでいた。
 何をしているのかは分からないが――少なくともその時よりも酷い訓練をしているのだろう。
 でなければ、ここまで酷い顔をする理屈が見当たらない。
 それは、やはりあの青い髪の少女が関係しているのだろうか。

「……ギンガのことは気にするな、とは言わないが、お前だけのせいじゃない。」

 だから、そう言った。
 どうにもやりきれないモノを感じて。

「かもな。」

 それでもシンの瞳は浮かない――違う。
 何も感じていない。
 焦点の無い虚ろな瞳が映すものは虚無だけ。
 悲哀も絶望も何もそこには無い。
 隈が眼窩を窪ませているように演出し、髑髏のようにすら見える。

(…こいつは。)

 リチャードはその瞳を何度か見たことがあった。
 魔導師――軍に生きていれば誰でも通る通過点。
 大切な誰かを理不尽に奪われること。
 それに耐えられず壊されていく者の瞳。
 悲しさも、怒りも全てがない交ぜになった虚無。
 何人も見た事があった。そういった、壊れた人間と言うものを。

(ギンガがいなくなったから…そういや、こいつは他にも別の女に好かれてたんだっけか。)

 心中で呟き、その噂を思い出す――シン・アスカと言う男の噂を。
 まことしやかに囁かれる噂。シン・アスカと言う男は二人の女性を弄んだ挙句に殺したと言う噂。

 無論、噂は噂だ。リチャードらを初めとする陸士108部隊の人間はその噂を信じてはいなかった。
 何せ、“あの”ゲンヤ・ナカジマの娘――ギンガ・ナカジマだ。
 そんな易々と二股を掛けさせるようなか弱い女ではない。
 そんな状況になれば殴ってでも自分の方に振り向かせようとするような女だ。
 
 もう一人の女――フェイト・T・ハラオウンと言うのも、“あの”リンディ・ハラオウンの娘であり、クロノ・ハラオウンの妹だとか。
 会ったことも話したことも無いが、“あの”親の娘と言うのならギンガに負けず劣らず屈強な女だろう。その程度には、ハラオウンの名前は有名だ。

 見る者が見れば、今のシンがそんな噂の通りに弄んだなど在り得ない仮定だと分かる。
 その瞳に映るのは虚無。後悔でも無く、恐怖でも無く、悲しみでもない。
 ただ、虚無だ――“何も無い”。
 
 それは経験則からの判断ではあったが――こういった人間と言うのは基本的に後悔も悲しみも恐怖も絶望も全てを通り抜けた上でこうなる。
 幾つもの感情を経験した上で、様々なモノを“放棄”するのだ。
 
 それを知るからこそ、リチャードはやりきれない。
 ギンガは彼ら陸士108部隊にとって可愛い後輩でもあり、部隊に生きる皆の妹のようなものだ。
 それが死んで、こんな傷跡を遺している――それがどうしようもなくやりきれない。
 何も遺せないのは悲しい。けれど、遺したものが傷跡だけだとしたら、それはどれほどに悲しいのだろう。
 知らず握り締めた手に力が篭る。

「……今度の戦いはアイツの仇討ちだ。」

 仇討ち。その言葉にシンの唇が釣り上がり、微笑みを形成する。

「ああ…仇討ちだ。」

 瞳に混じる虚無以外の感情――喜び。敵を殺す喜び。仇を討てる喜び。その手を“血”で染める喜び。

「…殺してやるさ、全員。俺の命を懸けて。」

 ぞくり、とリチャードの背筋が震えた。
 歴戦を潜り抜けた戦士――少なくともキャリアはシンよりも10年は上だろうと言う自負がある――が、身を竦めるほどの膨大な――これまでそれがどこに隠れていたのかと疑うほどに、それは膨大な虚無だった。
 目前で自分の手を握る青年が虚無が形作ったヒトガタにしか見えないほどに。

 恐怖があった――得体の知れない何かへの恐怖が。けれど、その恐怖を押し込めてリチャードは呟いた。

「…死ぬな、とは言わない。だが、命を無駄に使うのはやめておけ。お前が死んでどうかなることでもない。」

 その言葉を聞いてシンの顔が俯く。前髪が表情を隠す。
 シンよりも上背のあるリチャードからは彼の顔は見えない――見えるのは口元の笑いだけ。

「ああ――“無駄”に使う気は無いさ。」

 手を離す。二人の左手が離れる――シンは俯いたまま、小さく呟く。

「使いどころは……分かってるつもりだから。」
「…そうか。」

 呟きに答えを返す。予想通りの返答。
 近しくも無い者の言葉など届きはしないだろう、と。
 そんなことは予想済みで放った言葉なのだから。
 シンがその顔を上げた。
 溢れ出した虚無はそこには無い。全て己の内に押し込んでいた。
 その横顔は、壊れていることなど、まるで気付かせない仮面だった。

「それじゃ、またな。」
「ああ。」

 歩き出すシンの背中。それがドンドンと小さくなっていく。
 その背中にどこか“楽しげ”な雰囲気を感じる――その理由を理解してしまい、リチャードはあご髭を触りながら、小さく溜め息を吐き、ボソリと呟いた。

「……壊れた、か。」

 シン・アスカは既に壊れている。そんな、壊れた人間の末路の種類など、そう幾つも存在するものではない。
 
 死んで楽になるか、それともそれすら耐えて苦しみながら生き抜くのか。
 その二つに一つだ。

 けれど、と、リチャードは思った。
 無責任な思いに過ぎないかもしれない。
 そんな結末などどこにも用意されていないのかもしれない。
 行きつく先は絶望の果ての孤独な死だけなのかもしれない。
 願うならば悔い無く生きて、そして死んでいくことこそを望むべきかもしれない――だが。

「せめて……お前だけでも幸福になれないもんかよ。なあ、シン・アスカ。」

 小さくなって、消えていく背中に向けた定例句に過ぎない言葉。
 そんなくだらないことしか言えない自分を嘲笑し、リチャードもまた歩き出す。シンとは逆の方向に向けて。



 真夏だと言うのに風が冷たく感じる。それはその場所の雰囲気がそうさせるのかもしれない。

「リチャードってやつが来てましたよ。ギンガさんのこと知ってるみたいでした。」

 声の調子は何よりも優しく、表情は“微笑んでいるよう”に見える――実際は微笑んでいない。単なる無表情だ。
 無機質な朱い瞳が見つめる二つの墓標――ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウンの二人の墓。

「…仇は必ず討ちます。」

 その場所に立ち尽くすシン。墓標の前に膝をつき、一人誰に伝える訳でも無く呟き続ける。幽鬼の如き表情で。

「だから……もう少しだけ待ってて下さい。俺もそっちに行きますから。」

 呟いて、背後に誰かの気配を感じる。
 息遣い。足音。雰囲気。その身を覆う全能感が教える身体的特徴。
 一致する人間――思い浮かぶのは一人の女。

「フェスラか。」
「……凄いわね。見もせずに分かる訳?」

 振り向く――予想通りにそこには一人の金髪の女性がいた。
 フェスラ・リコルディ。金髪の容貌と朱い瞳の女。

「お前も墓参りか?」
「……どうだかね、何となく、来ておこうかなって思って。私、そろそろこの街出て行くから。」

 サバサバとした口調。どこかいつもとは違う気がする――気のせいだろう。気にすることでも無い。
 そう、判断して、シンは再び墓標を見つめる。

「そうか。」
「アンタは、墓参り?」

 視線は墓標に固定したまま振り向かずに答える。

「どっちかって言うと挨拶だな。多分、ここに来るのは俺も最後だから。」

 言外に死ぬ覚悟を仄めかしつつシンは言い放つ。それを分かるのは自分だけだろうと思って。
 その言葉の意味を聞くこと無く、フェスラは口を閉じた。
 街を離れる――疎開や避難と思ったのかもしれない。
 恐らく彼女はそうなのだろう。一般人の避難は既に始まっている。
 その前に知り合いの墓を見舞う――知り合いと言うにはそれほど親しくもないことに違和感を感じるが、別に無視しても良い事柄。感傷がそうさせているのかもしれない。
 風が吹く。雲が流れていく。沈黙が満ちていく。
 話をしないことに気まずさを感じる沈黙では無く、言葉を交わす必要のない心地良い沈黙。

 シンがここに来たのは、言葉通りに挨拶だった。
 シン・アスカの中に未だ残るなけなしの感情――虚無に侵食されていないココロのカケラ。二人の笑顔と泣き顔。それが彼の足を此処へ進ませた。
 墓標の下には棺がある。その棺の中には既に動作を停止して、モノになり下がった二人がいる。

 そんなモノには興味が無い――その気持ちは真実だ。それは今も変わりは無い。
 けれど、それでも感傷は消えない。彼女達に“何も出来なかった”と言う後悔と言う名の感傷が。
 想いを告げられた。彼女達は別に自分に答えを求めはしなかった。けれど、本当は断るべきだった。
 言葉で求められずとも、きっと心は求めていたはずなのだから。
 それをしなかったのは何故だろうか――結局甘えていたのだろう。結論を出さないまま、ぬるま湯のような関係を持続したかっただけなのかもしれない。
 最低だ。死んだ方が良い。不誠実にも程がある。心底、そう思った。

「死ぬつもり?」
「え?」

 唐突に投げかけられた言葉に一瞬、何を言われてるのか理解出来なかった。

「シンって今度の襲撃で戦うんでしょ?」

 瞳が鋭くなる。どうしてそれを知っているのか。自分が管理局所属の魔導師だと言っていないのに――

「お前、誰からそれを……」
「こないだ、私にデバイス突き付けたじゃない。それと今度の襲撃。普通分かるわよ、それくらいは。」

 呆れたように溜め息。
 言われて見ればその通りだ。
 自分はあの時感情に任せて、デスティニーを起動している――考えてみれば分からないほうがおかしいかもしれない。

「分からないわね。そんなことして誰かが喜ぶと思ってるの?」

 フェスラの顔が近づく。瞳の朱色が輝き、こちらを覗きこむ――同じく自分もその瞳を覗き込む。
 朱色の瞳に映るのは死なないで欲しい、生きて欲しいと言う願いはまるで違う純粋な疑問だった。
 どうして、そんなことをするのか、本気で分からない――そんな類の気持ち。
 そこに同情や悲哀はまるで無い。そのことに少しだけ驚きつつも、シンは動じずに口を開いた――同情や悲哀なら、多分答えはしなかっただろうが。
 瞳を逸らし、空を見る。黒い空。今にも雨が降り出してきそうな曇天の空。

「自分だよ。少なくとも俺は満足出来る。」

 言葉が走る。心に残った願いを乗せて淡々と。
 自己満足。その為だけの戦いをやっているのだと。素直に胸の内を吐露する。
 その言葉を受けてフェスラが笑った。無邪気で綺麗な微笑みで。
 ステラに似た顔の微笑みは閉鎖したシンの心を簡単に開かせようとする――それを必死に塞ぎ込むことで否定する。
 ふざけるな、と。そんな代替行為をまた繰り返すつもりなのか、と。
 唇を噛み締め、シンは押し黙り――フェスラが再び口を開く。笑顔のまま、優しい口調で。

「そう……じゃあさ、もう一つだけ聞かせて。」
「……なんだ?」
「シンは何を信じてるの?」
「信じる…?」

 言葉の意味が理解できず問い返す。
 何を信じているか。それはつまり、自分の根幹となるモノは何なのかと言うことだろう。

「……俺は」

 信じる――思えば、自分は何を信じて戦ってきたのだろうか。
 昔は理想や信念など色々なことを信じてきた。戦争の無い世界。
 それが正しいのだと信じて――今もソレは変わらない。
 何をどう言おうとも自分を形作る一つにその理想があることは間違い無いのだから。
 その理想――全てを守り続けること。そんな馬鹿げた願い。
 信じているとすれば、その願いだ。正義や悪はどうでもいい。
 自分は目に映る人々を守り続けることが出来ればそれでいいのだから。
 
 だが――心の中で誰かが呟く。本当にそうなのか、と。
 その願いは既に打ち破られた。二人の乙女の死を以って。
 力があれば守れると思って、そして力に溺れたせいで誰も守れなかった。
 だから、だったら、自分は一体何を信じているのだろうか。

「俺は、守りたいんだ。」
「守る…何を?」
「全部だよ。全部、守りたいんだ。そこに在るなら何であろうと。」

 全てを。目に映り、そこに在る全ての存在を。全ての生存を維持し続ける。
 今までこの手で守れたモノなど殆ど存在しない――そんなものはどこにも無い。何も守れなかった。
 何を信じているのかなど分からない。考えても答えは出ない。
 分からない――多分答えそのものが存在していない。
 自分は、何にも信じていない――あるとすれば自分自身だ。
 自分自身の心が折れないことだけを信じている。
 
 ――心が折れる前に全てが終わる。その確信があるから。

「それだけ、でいいんだ。」

 守れるモノなど自分には何も無い。“だから”自分は何であろうと守る。
 
 本当に――心の中のどこをどう探してみても、それくらいしか無かった。
 
 それは閉鎖したシン・アスカにとっての唯一の拘り――守れなかった人達への贖罪だ。
 
 守れなかったから死んだ。
 ならば、それは誰のせいか――守れなかった自分が悪い。
 守れたならば、死ななかったのだから、当然だ。
 
 そんな馬鹿みたいな真実。
 だから、自分は守り続けなければいけない。
 守れなかった誰かを二度と作ってはいけない。
 だから、この身体は誰かを守る為に使われなければいけない。
 仮に終わりが近いとしても――それでも、守り続けて、終わらなければいけないのだから。
 死ぬのならば守りながら。
 
 その真実があるが故に、シン・アスカは揺らがないモノとなる。
 
「ギンガとフェイトがそんなこと望んでいないとしても?」
「望んでるさ――少なくとも俺だけはな。」

 確信に満ちたシン・アスカの言葉。飾りの無い彼自身の真実だった。

「そう…あんた、馬鹿ね。」
「俺もそう思う。」

 言葉の受け答えには無駄が無い。
 別にこの言葉のやり取りが何かを左右することなどありはしない。
 これはただの確認。シン・アスカと言う人間の“終わり方”の確認に過ぎない。

 だが、そう知っていて、尚彼女は不思議に思った――自分自身を。
 彼女にとって今日の墓参りと、そして以前の葬式への出席は“指示”もなければ“予定”も無い突発的な行動だ。
 彼女自身ここに来るつもりなどなかった。
 理由を説明しろと言われれば誰よりも彼女が困るだろう――言葉の通りに“何となく”でしかない。

 イレギュラーな行動。イレギュラーな思考。

 ――引っ張られすぎないことね。

 どこかで聞いた聖女の言葉が耳から離れない。
 眼前の男の為に胸の中で燃える想いを感じ取る。
 この身を維持し続ける誰かの面影が“自分”を変えていっているのかもしれない。
 僅かに数度の逢瀬でそんな想いが出来上がるかどうかなど信じられない事柄だ。
 
 真実は分からない。恐怖を感じる――同時に喜びも感じる。
 自分はニセモノなのかホンモノなのかと言う恐怖と、自分が自分以外のモノになれるかもしれないと言う喜び。
 ニセモノだとすれば、それは誰にとってのニセモノなのか、そして誰にとってのホンモノなのか。
 何を以って、ニセモノとするのかホンモノとするのか。

 ――誰がその境界を作り出すのか。境目は曖昧だ。決めるのは人の意思と言う融通無碍でしかない。

 そして――その問いが導く“真逆”の喜び。変革の喜び。
 自分が自分以外のナニカになれる喜び。人ならば誰であろうと持ち得る変革の喜び。
 ならば、それを持ち得なかった自分は何なのか。それは果たして人間と呼べるのだろうか。
 分からない。分からない。生まれて初めて持ち得た疑問(オモイ)は滞ること無くその身を焦がし続ける。
 
 フェスラ・リコルディは思い悩む。
 自身のココロと言う不確定事象を前に彼女は何をどう演じればいいのかも分からないただ一人の人間でしかなかった。
 
 シン・アスカが去っていく。無言で佇むフェスラをその場に置いて。話すことが無くなったのだろう――閉鎖した人間は意味の無い行動を行わないものだ。
 程無くその背中が見えなくなる。
 フェスラは二人の墓に向き直り、彼女達の顔を思い出し――呟く。

「あんた達がいたらこの気持ちが何か答えてくれるのかしらね。」

 言葉に篭められた想いは恐らく棺の中の彼女達を変えたモノと同じ類――そんな幻想を自分が抱いていることがまるで信じられない。許せない。
 嘘でしか無い自分が、嘘から取得した変化がよりにもよってそれだなどと認められるはずもない。

「……いっそ私も壊れちゃいたいわ…いや、もう壊れてるのかしらね。」

 力無く、か弱く、小さな呟き。傷ついた子供そのもののような声音。
 そんな自分自身に存在しない思い出を考えて、自らの今の“名前”と合致し過ぎている、と自分自身が嫌になった。



 8月17日。
 曇天の空を埋める灰色の機械――ガジェットドローンの群れ。見ただけで分かるほどにその数は凄まじい。情報に寄れば1000機と言うことらしいが、目にすればそれ以上に見える

「まったく……馬鹿みたいに多いな。」

 言葉の内容とは裏腹に呟きにはどこか嬉しそうに聞こえる――その言葉は誰よりも前線に立つ一人の男の唇から放たれている。背後には200人弱の魔導師が立ち並ぶ。

 男の名はシン・アスカ。朱い瞳の異邦人。
 朱い瞳――感情の映さない二つの眼が膨大な敵を見つめる。空を埋める敵はある意味雄大な入道雲を想起させる――機械仕掛けの積乱雲。
 敵襲は宣告通りにクラナガンの西方から。あまりにも情報通り過ぎて伏兵が存在しているのではないかと疑いたくなるほどに。
 
 だが、その心配は無いだろう、と言うことだった。
 ジェイル・スカリエッティにはそういった類の権謀術数は必要無いのだから。
 勝つ為に手段を選ばない人間ではあるが、必要以上に勝つことに拘る人間でも無い――それが管理局の見解である。
 故に伏兵に対する備えは無い。と言うよりも出来ないと言ったほうが正しいかもしれない。
 元よりそんな余裕は魔導師の人数的にも、能力的にも無いと言っていいのだから。

「デスティニー。行くぞ。」
『了解しました、兄さん』

 男の手に握られた大剣から放たれる言葉。
 その形状はこれまでとは違い少しばかり変化――と言うよりも装備が追加されている。
 
 右手には直径凡そ30cmほどの巨大な回転式拳銃の弾倉――ギンガ・ナカジマのリボルバーナックル。
 その弾倉部分だけが右手首に装備されている。
 そして、彼の身体を覆うバリアジャケットも大きくその姿を変えている。
 黒いバリアジャケット。服と言うよりはむしろ外套と言っていいデザイン――フェイト・T・ハラオウンのバリアジャケット。
 白だった色は加工され黒色になっている。外套の隙間から見える色はこれまで通りの朱。恐らく今までのバリアジャケットの上から重ね着をしているだけだろう。
 
 改造と言うのもおこがましい、単なる“追加”。
 右手の馬鹿げた大きさの弾倉は見た目と同じく馬鹿げた重量――軽く20kgを超えているだろう。
 
 構築したバリアジャケットに注ぎ込む魔力はこれまでの倍を超える数量。止め処なく魔力が消費されていく。
 黒い外套はまるで喪服のような居住まいすら思わせる――ある意味それは正しい。
 自分自身の感傷を整理する行為が葬儀ならば、この“戦争”は彼にとっては葬送だ。
 二人を送り出す為に自分自身に納得をつけさせる、そんな行為なのだから。

【じゃあ……始めようか、シン。】

 念話が伝える声。声の調子は少しだけ投げ槍な声。
 新しい主。更迭された八神はやての代わりに機動六課部隊長の座に就任した男。
 ヴェロッサ・アコースの声。
 彼の声の調子が、投げ槍な理由を他人事のように把握し、少しだけ彼に同情する――閉鎖。余分な感情は必要ない。

 空気を吸い込む。慣れ親しんだ空気。戦場の空気。

 結局自分は何も変わらなかった。
 いつまで経っても向こうにいた時と同じく戦ってばかりで――不意に、何故か、あの時を思い出す。あの、向こうの世界で殺された時を。

(……今、向こうはどうなったのかな。)

 利用されて殺された。今頃向こうの平和は滞り無く整備されているのだろうか。
 だとすれば嬉しい――そして、今日自分は死ぬ。
 それに一抹の寂しさよりも、一握の嬉しさ――命の使いどころを与えられたことへの嬉しさを感じる。
 
 ――顔を上げた。ヴェロッサの言葉に答える。

「了解。」

 デバイスを握り締める――形態変化。大砲――ケルベロスへと。
 同時に右手の回転式弾倉が二度ガコン、と言う音を出して回転する。カートリッジが飛び出す。
 瞬間、増加する魔力量。吹き出す蒸気――溢れ出した魔力の残滓。
 膨れ上がった魔力を残らず全てデスティニーに注ぎ込む。
 
 ケルベロスの砲身内部で魔力が螺旋軌道に回転し、収束し、内圧を高めて行く。
 解放の時を待つ獣の顎のように獰猛な魔力――朱い魔力光が砲身の先端を染め上げる。

『ケルベロス』

 デバイスから漏れる簡潔な声。
 同時に砲身からあふれ出る朱い色/魔力の本流/炎熱変換――全てを薙ぎ払う破壊の朱。

「――薙ぎ払え。」

 言葉を引き全身に力を篭めてその衝撃に備える。デスティニーに衝撃が走る――左手で取っ手を、右手で引き金を。
 柄の部分の肩を当て、震動で両手が痺れる。身体が震える。視界が揺れる。歯を食いしばってその全てを押さえ込む。

 一閃。
 セカイが朱く染まる。
 放たれた朱光――炎熱変換し、カートリッジによって増加した膨大な魔力は熱量の奔流となって空を覆う機械の群れの中心を貫いた。
 爆発。誘爆。連鎖し、数珠繋ぎに爆発が増加する。
 円形に機械の群れの中心に穴が開く。
 魔力の放出は未だ終わりを告げていない。酸素を飲み込み、その焔を拡大して行く。
 そして、朱い光が途切れる前に、続けて弾倉が再び回転――残存するカートリッジを全て使用。
 魔力増加/収束。注ぎ込まれる魔力――朱光が更に太く強く輝く。

「……っ。」

 巨大化する衝撃。折れそうなほどに奥歯を噛み締める。握り潰すつもりでデスティニーを押さえ込む。

 ――震動が収まる。視線を向ける。朱光が貫いた光景。機械の群れは何も変わらない。

「どれだけ撃墜できた。」
『約30機です。侵攻は止まりません。』
「だろうな。」

 予想通り、当然の結果。
 あれだけの量の敵に威力の高い一撃を篭めた程度で殲滅出来るなどと都合の良い事は考えていない。
 今のはあくまで様子見の一撃――本命はこの手による撃滅でしかない。

「……来たな。」

 赤、青、黄、白――様々な光の奔流。機械――ガジェットドローンの群れが放つ弾幕だ。
 ミサイル、熱線、砲弾、弾丸。種類など考えるだけ無駄だ。その全てがこちらを停止させるには申し分の無い威力。
 ミサイルがシンの眼前に着弾する。地面が破裂した。吹き飛ぶ地面。地盤を構成する全てが霧散し、弾け飛んだ。

「――トライシールド。」

 三角形の魔法陣がシンの左手前方に展開する――ギンガの使っていた魔法。トライシールド。
 左手を前に出し、張り出したシールドでそれらを防ぐ。土砂降りの雨のようにシールドを叩く地面のなれの果て。石、土、草、岩。その全て。
 それらが顔に当たるのを防ぐためだけの盾――弾幕に関しては無視する。
 どうせこれからその渦中に身を投じるのだ。防ぐ意味はあまり無い。
 
 シールドを張ったまま、姿勢を僅かに前傾させ、大剣を握り締める。どこか肉食獣の捕食を連想させる体勢。膝を曲げ、右手に握り締めたデスティニーを再び形態変化させる。
 変化した姿は今では何よりも手に馴染んだ大剣アロンダイト。
 同時に全身に朱い焔――高速移動魔法フィオキーナを展開。両肩、両腰、背中、足元。計8つ。

「デスティニー。サポートを頼む。」
『了解。』

 フィオキーナの角度・出力調整を全てデスティニーに委譲する。
 余計なことを考える余地は無い。考えるべきは一つ。敵を倒し、任務を遂行する。それだけである。

「……行くぞ。」

 呟きと共にシン・アスカの身体が弾け飛ぶような速度で跳躍。飛行の魔法――速度は異常。姿勢制御も何も考えない文字通りの特攻。
 
 駆け抜ける。ガジェットの群れが光った。弾幕の第2波。それをしっかりと確認し、速度を“上げた”。
 
 任務の内容を反芻する。
 文字通り特攻としか言いようの無い“任務”を。


 飛び去るシン・アスカ。その背中はどこか楽しげな雰囲気すら感じさせる。
 そんな彼の背中を空間に投影されたディスプレイ越しに見据えながら、ヴェロッサ・アコースは数日前のことを思い出していた。


 数日前のことだ。
 シン・アスカはヴェロッサ・アコースから呼び出された。
 基本的に機動六課のメンバーは現在の機動六課部隊長ヴェロッサ・アコースをそれほど良くは思っていない。
 一つの事実として八神はやてと言う人間は致命的なほどに指揮官に向いていない。
 指揮官とは如何様な状況にあろうとも“最悪の仮定”と“最良の仮定”を想定しながら行動しなければならない。
 最悪の仮定はそうなった場合にどう打開するか。最良の仮定はそうなった場合どう維持するか。
 二つの相反する仮定を常に持ち続けなければならない。
 時には切り捨てることも考える。残すべきは戦力であり命では無い。数字にのみ支配された思考。それが必要となる。
 彼女はこれが出来ない。数字よりも感情を優先する。人間としては優秀ではあるが、指揮官としては劣悪だ。
 だが、それゆえに彼女は慕われる。人柄と言うものは能力及び資質とはまるで別次元の話だからだ。
 
 そんな慕われた彼女が“切られ”新たな人間がその場所に居座る――それを面白いと思うはずが無い。
 だが、八神はやてが更迭される――シン・アスカはそれを聞いても然程何を思うことも無かった。
 自分を使う相手が変わる。それだけの話でしかない。

 目前に存在する人間。ヴェロッサ・アコース。
 シンにとってはその名前が示す意味は一つだけだ。
 新たな部隊長。新たな主――使う側。それだけの意味合いの記号(ナマエ)である。
 柔和な微笑みが形作る裏では何かを常に考えているような食えない人間。
 そんな印象――別に何を考えていようと問題は無い。自分の邪魔をしないなら誰であっても構わない。

「いらっしゃい、シン・アスカ。」

 そこはヴェロッサ・アコースの執務室だ。元々は八神はやての部屋――つまり、部隊長室。

「失礼します。ヴェロッサ・アコース部隊長。」

 部屋に入る。直立不動。両手を後ろに回し腰に当て、背筋を伸ばす。模範的な軍人と言う言葉が似合う姿で、シンがヴェロッサの前に立った。
 そんなシンのあまりにも“模範的な”姿にヴェロッサは苦笑しつつ、机に肘を突き、彼に向かって口を開く。

「ヴェロッサでいいよ。堅苦しいのは無しにしよう。今日、キミを此処に呼んだ理由――聞いてるかな?」
「今後の作戦についての話だと。」
「まあ…そうなるかな。」

 ヴェロッサはそう言って一枚の紙を机に置き、シンに向けて差し出した。

「今度の襲撃の際にキミに任された“任務”だ。それの承諾を得ておこうと思ってね。…読めば分かるが、内容が内容だ。キミには拒否する権利も存在している。」

 差し出された紙を手に取り眺める――読むほどにシンの雰囲気が変わっていく。無表情に亀裂が入る。喜びが表に出てくる。
 その紙に書いてある内容――次回の襲撃において、単騎にて敵陣への襲撃を行う。その際に後方より援護射撃が行われる。それを“回避”しつつ、襲撃を敢行する。
 
 これの意味するところは一つ。
 目前の男、ヴェロッサ・アコースはシン・アスカに死ねと言っているのだ。馬鹿げた内容だ。拒否する権利などあって然るべきだろう。

 そう、それは、あまりにも――あまりにも今の自分にとって“都合の良い”命令だった。

 唇が釣り上がるのを止められない。
 喜びが顔に流れ込む。頬が歪むのが分かる。笑っている。
 どこにこれだけの感情があったのかと感心するほどに頬が緩むのが止められない。

「問題…ありません。ただ、」
「ただ?」
「これを。」

 右手に持ったデバイス――フェイスバッジの姿をしたデバイス、デスティニーをヴェロッサに向けて差し出す。

「これに二人の遺品を埋め込んで欲しいんです。」

 二人の遺品――そう言われて思いつくのは一つしかない。
 あの時、二人が死んだ時に遺されたモノ。
 ギンガ・ナカジマのリボルバーナックルの残骸と黒いバリアジャケット。

「…リボルバーナックルとフェイト執務官のバリアジャケットをかい?別に構わないが……それは僕の管轄じゃない。そういうのはシャリオ・フィニーノにでも頼むべきじゃないかな。キミがどうしてもと言うなら許可は出しておくが。」
「いえ、一度シャリオさんに頼んだところ、やる意味が無いと言われて。」
「やる意味がない…?」
「はい。ですから」

 言葉を切って、机に両手を当てる――朱い瞳が濁り出す。閉鎖した今では在り得ないほどの感情の吐露。それだけシン・アスカにとってその行為は重要だった。

「部隊長から、シャリオさんに“命令”して欲しいんです。デスティニーに二人の武器を埋め込んでくれって。」

 瞳に滲み出すは虚無では無く“狂気”とも呼べる感情。開いた瞳孔と釣り上がった唇が畏れを抱かせる微笑み。

「……それがキミがこの任務を受ける、“条件”か?」
「はい。」

 暫し、睨み合う二人。沈黙と緊張が張り詰めていく――ヴェロッサが執務室内の電話機に手を掛けた。

「……あ、シャリオ君かい?僕の部屋に来てもらえないかな?ああ、今すぐに頼むよ。」

 電話の相手は少しだけ、戸惑っていたようだが…上司の呼び出しだ。基本的に拒む理由は無い。受話器を戻し、ヴェロッサはシンを見た。

「……これでいいんだね?」
「……ありがとうございます。」

 シンは笑った。


 机の前に立ち並ぶシン・アスカとシャリオ・フィニーニ。
 ヴェロッサ・アコースはこれから自分がやることを考えると正直なところ憂鬱だった。
 仕事をすると言う点で言えば彼は有能だ。与えられた仕事は問題なくこなす。むしろそれ以上のことをやる自信もある――その程度には有能だ、と自己評価をしている。
 だが、それでも彼がこれからすることは憂鬱だ。
 他人の自殺に手を貸せ、などと言う命令を行う――憂鬱にならないはずがない。命令している自分自身が嫌なのだ。それを強要された側にとってはそれ以上に嫌な話だろう。

「……それで、やる意味が無いと言うのは?」
「言葉通りの意味です、アコース部隊長。」

 シャリオ・フィニーニがヴェロッサに向けて口を開く――シンが望むプランの無意味さを説明する為に。

「デスティニーはこれまでの調整と戦闘における成長を含めて、改良をする余地が無いデバイスです。こちらからそういった後付けの処置による追加武装をしたならば、性能は確実に下がります。」

 ふむ、と頷き、ヴェロッサは机に両肘を付き、顎の前で両手を組む。
 瞳はシャリオから逸らさない――気が乗らないが今の自分は、期限付きとは言え“使う側”だ。使う側が使われる側におかしな態度を取るのはあまり良いことでは無い。それも自分のように望まれずに入ってきたような輩は特に。

(辛いね、どうにも。)

 心中でひっそりと溜め息を吐きながら、ヴェロッサはシャリオの話に耳を傾ける。
 ヴェロッサの視線に少しだけ気圧されながらも、シャリオ・フィニーニは自身の職務の為に説明を続ける。

「……リボルバーナックルはデスティニーに入れるには重すぎます。フェイトさんのバリアジャケットはシンが使うには魔力消費が大きくなり過ぎます。単純なスペックで言うなら、向上するでしょうけど……まるで意味が無いんです。威力を上げて速度を殺して、防御力を上げて消費を大きくして…」
「確かに……シン・アスカとしての戦闘能力は落ちるだろうね。」

 口を開く。確かに彼女の言う通りその改造ではデスティニーの能力は向上するかもしれないが、シン・アスカとしての能力は落ちるのは間違いない。
 シン・アスカという魔導師の生命線とも言える“速度”を阻害する威力の向上など害悪以外の何者でも無いのだから。

「はい。だから、私は……」

 俯いて、シンを見やるシャリオ・フィニーニ。表情に疲れが見える。彼女もまた疲れているのだろう。あまりにも目まぐるしく変動する周囲の状況。更にはこれまでに無い規模の襲撃。疲れないはずが無い。
 沈黙。二人の瞳と瞳がぶつかる――シン・アスカとシャリオ・フィニーノの二つの瞳。
 シンの朱い瞳がシャリオを覗き込む。無機質で虚ろな朱い瞳に狂気は無い。昆虫のように無機質で純粋な光だけが残っている。

「それで、構わないんです。」

 沈黙を破るようにして、それまで黙っていたシンが口を開いた。

「シン…だから、それは…」
「お願いします。」

 頭を下げるシン。その様子は必死、と言うよりは頑固と言った方がいい。意味が無い、と何度説明されても彼は恐らく納得はしないだろう。彼が望む改造に意味など無い――そんなこと初めから全て知っているのかもしれない。
 彼がここまでその改造に固執する理由。考えるまでもなく、それは、

「……形見分けのつもりかい?」

 思わず、脳裏に生まれた言葉を呟いた。誰が何を言おうと、理由は恐らくそれだ。
 ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウンの遺品と共に在る――感傷以外の何者でもない。
 自分が放った言葉を受けて、僅かな驚きがシンの顔に浮かび上がる。
 言われて初めて気付いた――そんな様子だった。
 本人は気付いていなかったのかもしれないが、その様子は大切な人の形見を求める様そのものだ。

「……そんなんじゃないですよ。強くなるには一番手っ取り早い方法だからです。」

 溜め息を吐く。

「それって、どういうこと……?」

 シンの言葉を理解できないシャリオ。

「簡単なことさ。シンにはエクストリームブラストがある。君が気にしているデメリットはエクストリームブラストを使えば、関係が無くなるのさ。」

 エクストリームブラスト。シン・アスカの使う魔法の一種だ。その魔法がもたらす効果はベルカ、ミッドチルダなどのあらゆる魔法体系の中でも稀に見るほどに特殊かつ強力で、何よりも危険な魔法。
 周囲からの命の搾取を行い、魔力に変換――それによって得た膨大な魔力によって得られる絶大な戦闘力と異常な肉体再生能力。目にも映らぬ速度、膨大な出力に絶大な威力を伴う各種魔法、吹き飛んだ腕が即座に復元するほどの異常再生。
 これらの前では今シャリオが言ったデメリットなど大した問題にはならない。
 どんなに重かろうとエクストリームブラストが発動したならば気には無くなる。どんなに魔力消費が多かろうと周囲から魔力を搾取し続けるならば、気には無くなる。
 むしろ、エクストリームブラストを発動したならば“威力が上がる”“防御力が上がる”と言うメリットのみが残り、デメリットは消えうせるのだ。
 シン・アスカという魔導師の価値がエクストリームブラストにある以上、その改造はそれほど問題の在るプランではない。

「そういうことだろう、シン?」
「はい。」
「……」

 シャリオ・フィニーニは何も喋らない。不満を隠そうともせずにこちらを睨んでいる――当然だろう。自分が彼女の立場でも同じことをするに違い無い。

「…そういうことだ。シャリオ君、悪いがやってもらえないかな?」

 彼女が小さく呟く。

「……それは命令ですか?」

 心中で溜め息。この後言う言葉への自分自身への嘲笑と気苦労を思って。

「ああ。これは命令だ。」

 一拍の沈黙。それは彼女自身の葛藤の長さをそのまま表している。奥歯を噛み締め、拳を握りこむ。爆発しそうな感情を押さえ込む為に。

「……分かりました。次の襲撃までに…間に合わせればいいんですね?」
「ああ、その通りだ。」
「……了解しました。」

 そう言って、彼女は振り返って、出口にまで歩いていく――呟く。

「……シンも来てくれますか?貴方の意見無しでは私も改造なんて出来ない。」
「…ええ、お願いします。」

 笑うシン・アスカ――嬉しそうに笑っている。
 これから死地に向かうとはとても思えない笑顔。その笑顔が綺麗であればあるほどに、痛々しさは募るばかりだった。
 二人が出ていった室内で、誰とも無しに毒づいた。

「…まったく、カリムもとんだ役目を押し付けてくれる。」

 椅子の背もたれに背中を押し付けて天井を見る。思い浮かぶのはあの笑顔――シン・アスカについてだった。
 恐らく、あの男に生きて帰って来る気は無い。死ぬつもり――と言うよりもむしろ、死にたがっているような伏しさえ感じる。
 本人は気づいていないかもしれないが、彼にとってあの二人がどれだけ大切だったのか、それがよく理解出来る。
 大切でなければ失ったことであれほどに“壊れ”はしない。大切でなければ今頃過去は忘れようと努力していることだろう。

「もう少し、マエムキに……は無理か。あれはそういう男じゃない。いつまで経っても過去を振り切れずに過去に振り回される男だ。」

 ヴェロッサ・アコースのシン・アスカと言う男の見立てはそれだった。いつまでもいつまでも過去に囚われ続ける馬鹿な男。
 ギンガ・ナカジマの提出した報告書にはそれこそその見立てを裏付ける事実が幾つも書かれていた。
 そして、その後の事実をカリムから口頭で伝えられた事実や八神はやての報告書等もそれらを裏付ける。
 シン・アスカと言う男は、まるで過去に囚われることを義務だとでも思っているかのように生きている。
 戦争によって失われた家族――それを振り払うように戦争に没頭する。それからずっと彼は没頭し続けている。戦争に。平和に。突き詰めて行けば守る事に。彼は過去を振り切れないでいる――むしろ彼は過去に依存している。
 過去がなければ人は生きていけない。けれど過去に依存する人間は未来を見れない。後ろばかりを振り返っていれば、足元の花を踏み潰しても気づかない。前だけを見つめる人間が足元の花を踏み潰しても気づかないのと同じように。

 哀れな男だ――ヴェロッサ・アコースはそうシン・アスカを哀れんだ。
 彼にしてみれば、そう思われることは心外かもしれない。彼自身はきっと自分を哀れになど思っていない。
 だが、それこそが哀れなのだ。

「何が哀れかって……彼自身がそれを哀れだと思っていないことだろうね。」

 呟きが漏れる。懐から飴玉を取り出し、口に含む。甘い。砂糖の甘さが下の上で転がっていく。

「終わりが近いことすら喜んでいる……哀れでないはずが無い、か。」

 無限の猟犬(ウンエントリヒ・ヤークト)――彼自身の希少技能。魔力で生み出した猟犬によって探索・捜索を行う魔法である。
 ヴェロッサ・アコースは現在これを機動六課隊舎に幾つか放っている。無論プライベートは覗かない――覗くのはあくまでも仕事に必要な情報だ。ティアナの作ったサンドイッチを食べていたシン・アスカの様子、そしてその後の二人とのやり取りを彼はひっそりと見ていた。それにより知ったある事実――彼は恐らく味覚を失っている。力の後遺症なのかもしれない。違う理由なのかもしれない。けれど、どちらにしても同じ事だ。既に彼の“終わり”は近いのだろう。
 そんなシン・アスカを思うと――口に含んだ飴の甘さがやけに胸に痛い。その癖その甘さを楽しむ自分がいる。そして、それを“覗いて”まで知ったのに何もしようとしない自分もいる。
 感情と職務。切り離して当然の行為。それを当然の如く切り離せる自分。
 やりきれない感情があるのに、身体はそれとは別に動いていく。
 飴を舌の上で転がす――それを止めようとも思わない。止めたとしても意味の無い行為だ。
 何よりその思考そのものが意味が無い。使う側が使われる側を気にする――それも程ほどにだろう。

「……果たして彼は壊れて終わるのか、死んで終わるのか……一体どちらが幸せなんだろうね。」

 言葉はどこにも届かない。ただ空気に溶け込んで消えて行った。


 そうして、数日前の事柄を思い出し、ヴェロッサ・アコースはシャリオ・フィニーニの杞憂がまさしく杞憂に終わったことを確認していた。

「……獅子奮迅とはこのことだね。」

 呆れたような声――ヴェロッサ・アコースの声。
 誰もその軽口に答えない。答える余裕は無い。喧騒が支配している司令室――と言うよりも屯所と言った方がいい。即席で作られた野営地。そんな印象が強い。
 画面の中ではシン・アスカがガジェットドローン相手に猛威を振るっている。
 一振り毎に断ち切られていく機械。一撃毎に弾けていく機械。
 周囲から放たれるガジェットドローンの攻撃――流石にミサイル等による攻撃は全て回避するかケルベロスⅡによって破壊しているがそれ以外の熱線などの攻撃は全て黒いバリアジャケットが滑らせていく。元々は表裏共に白色だが、その色は今は黒色に変わっている。これはシャリオ・フィニーニがフェイトのバリアジャケットにある加工を施した結果だった。

 施されている加工は簡単なモノだ。魔力を流すことで外面部分の耐熱温度が上がるというそれだけの簡単な術式。ただ、そこに流れ込む魔力の量だけが通常のバリアジャケットよりも遥かに大きい。結果として通常ならば燃え尽きてしまうような温度であってもその外套は耐え抜いている。外套の所々から煙が上がっている。焦げ付き出しているのだ。引っ切り無しに周辺から撃たれる攻撃を受け続けることで。
 回避の隙間などそこには無い。だから受け止めるしか無い。
 そうして、シンはずっと戦い続けている。彼の肉体を覆う朱い炎――エクストリームブラストは既に使用されている。既に彼と味方との距離は大分と離れている。エクストリームブラストを使っても影響が出ない程度には。
 それを確認し、ヴェロッサが呟いた。

「……砲撃開始。その後、フォワード陣は敵陣に向けて突破を始めようか。その際に絶対にシン・アスカには近づくな。あくまで彼の単騎を維持することを最優先しろ。」

 緊張が走る。それは初めから予定されていた行動。今回の作戦において、最も重要な部分であり、そして最も馬鹿げた部分。この作戦は初めからシン・アスカの犠牲を前提として立てられている。そんな馬鹿げた事実。
 無論、ティアナ・ランスター、スバル・ナカジマ、キャロ・ル・ルシエ、ヴォルケンリッター等一部の人間はこれに反論したがそんな僅かな人数の反論で作戦内容が覆るわけも無い。大体にして殆ど全ての人間がこの作戦が倫理として馬鹿げていても、方法としては最適だと分かっていたのだから。
 一人の犠牲によって多くの犠牲が無くなるのだ。誰であってもそれを選ぶのが世の常だ。
 砲撃が始まる。色取り取りの魔力光が敵陣に向けて――その中で戦い続けるシン・アスカをも巻き込んで――放たれる。
 色を変える世界。燃える世界。

「……さて、生き残ってくれよ、シン・アスカ。」
 無責任な言葉だ。心底思っていない言葉を口にする――ヴェロッサ・アコースはそんな自分を酷く滑稽に思った。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 43.Sin in the Other World(e)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 18:00

「……っ」

 腕を振るう。右腕の痺れは既に無い。戦っているのだから当然だ。
 上下左右前後。移動する隙間も無いほどに、文字通り逃げ場の無い戦場。
 背後から放たれるガジェットドローンⅡ型の砲撃を向きを変えること無く身体を捻って回避――見ている暇は無い。視認してから回避しているのでは間に合わない。
 背中から高速移動魔法――フィオキーナを背部方向に向けて発射/足元のフィオキーナを同時に発射――前進。後方からの砲撃は気にしない。気にしたところで仕方が無い。運が悪ければ死ぬ。それだけのこと。
 両手で握り締めたアロンダイトを袈裟懸けに振り下ろす/ガジェットドローンⅡ型の装甲を紙のように引き裂いた。直後、左方向から攻撃を狙っていたⅡ型に向けて左手をアロンダイトの柄から離し突き出す。朱い光が収束する、膨れ上がる半円状の溶岩――パルマフィキーナ。発射。赤熱した朱い光がそのⅡ型を突き抜ける/爆発。左手から発射したパルマフィオキーナの反動を利用して右方向に跳躍。振り下ろしたアロンダイトをそちらに向ける。アロンダイトの刀身には高密度に圧縮し炎熱変換された魔力が刃のように展開している――右側にいたⅡ型の装甲に突き刺さり、内部を即座に融解/白熱するⅡ型。爆発。
 
 続いて上方向より砲撃が発射される。敵は同士撃ちを厭うような種類ではない。射線が被った程度で攻撃を躊躇うような機能を持ち合わせてはいない/確認。
 デスティニーに情報送信/即座にデスティニーが形状変化。大剣(アロンダイト)が大砲(ケルベロス)へと変化する。下方向に向けてケルベロスを発射。幾つかのガジェットドローンがシールドを展開していた――新型かもしれない/確認。砲撃が開けた穴に向けて全速で落下する。抜けた先にも機械が見える――地上に展開するガジェットドローンⅠ型の群れ。
 全身に裂傷、火傷、打撲、骨折――全て無視。放っておけば再生する。
 狙い済ましたように砲撃が始まる。放たれたのはミサイル/確認。
 落下速度を上げる。加速する――大砲(ケルベロス)を大剣(アロンダイト)に形状変化。
 ミサイルの群れに向けてパルマフィオキーナを発射。威力は度外視し、射程のみを重視――細い糸のように朱い光が伸びていく/ミサイルの群れに接触。爆発。爆発に巻き込まれなかったミサイルが爆煙を突き抜けて迫り来る。左肩、左腰からフィオキーナを最大威力で発射した。視界が暗転する。ブラックアウト。急激な加速と方向転換によって身体に掛かる重力が脳に血液を送れなくなったのだ。視界が消える寸前の光景はデスティニーからの情報展開で照合出来る。どの道直ぐに視界は戻る。問題は無い。
 パルマフィオキーナとの接触でミサイルを誘爆させ、残りのミサイルを急激な方向転換で回避し、ミサイルの第一波を回避。直ぐに第二波が来る。

「デスティニー。視界を寄越せ。」
『はい。』

 脳裏に映る情報。三次元的に描かれたワイヤーアートが脳裏に生まれた。
 それは自分が視界を失うまでの視界記録。視界は未だに黒一色。回復はもう少し掛かる。デスティニーのセンサーと直結。当初の視界との照合、全身を覆う全能感が振動、空気の流れ、音などの数多の要因が脳裏に視界を形作る。天上から戦場を俯瞰しているような錯覚。
 何も見えてはいない。だが、全てが“観える”。

「第二波の方向は?」
『現在から見て左下方向から。上空のⅡ型もこちらに狙いをつけています。』
「下に敵はいるな。」

 脳裏に映る擬似的な視界との照合。

『はい。』

 確認。問題は無い。

「下から潰す。サポートしろ。」
『了解しました。兄さん。』

 会話に逡巡は無い。全て高速域での会話――通常の感覚の中では甲高い金きり声にしか聞こえない言葉の羅列。
 落下速度を速める。真下に落下し、左下方向からの砲撃だけを回避する。今砲撃されれば避けられない/アロンダイトを地面と垂直に突き立てるように構える/顔と心臓だけを構えることで真下からは攻撃出来ない程度に防御――加速。
 フィオキーナの方向を地面と水平方向に調整する。地面に突き刺した瞬間に、今度は地面と水平に飛ぶ為に。

「接触後、水平方向に加速。全力だ。」
『了解。』

 言い終わった瞬間、地面にアロンダイトが突き刺さった。鋼を貫く感触。一体破壊した。瞬間、交通事故にでもあったかのように身体が吹き飛んだ。巨大な電動ノコギリで巨木を数十本纏めて切ったような轟音。鼓膜が潰れた。両手が痺れる。全身が震える――喪失しそうな意識を唇を噛み切ることで繋ぎ止める。

 ――その衝撃の終わり際、黒一色だった視界に色が戻る。

 見える光景は無残なものだった。地面がおよそ1mの幅で20m程度抉られ、断ち切られている。その直線状にあったガジェットドローンⅠ型は全て見るも無残に機械から残骸になり果てていた。
 今、行った攻撃は単純なものだ。
 アロンダイトを地面に突き立てる。そのまま全力のパルマフィオキーナを全身から発射。水平方向に無理矢理移動したことで突き立てたアロンダイトはそのまま移動方向状のガジェットドローンを切断、破壊する。身体中から感じる熱さは制御せずに放ったパルマフィオキーナの反作用だ。火傷くらいはしているだろう――無視。
 
 周辺を見る。天蓋のように機械の群れがこちらを睨みつけ、砲撃の瞬間を待っている。
 相当の数を減らしたはずだが、元々の数量が多すぎる為にまるで変わっていない印象を受ける。
 全身に倦怠感。開戦から既に20分。敵の数は減らない。その上、機械である以上疲れると言う機能が存在しない――人であることが恨めしい/無駄な思考を消去。即座にその場を飛び立つ。リジェネレーションによって供給される魔力の量は今も変わりは無い。周辺の瓦礫がどんどん砂塵と化しているのが見える――それら一つ一つが自分の中に入ってきているのだ。少なくともクラナガン全てが砂漠にでもならない限りは自分は戦い続けられるだろう。

「デスティニー、“アロンダイト”だ。」
『了解。』

 砲撃を回避しながら距離を取る――弾幕から出来る限りの距離を取る/魔力の収束を開始。リジェネレーションが蒐集する魔力を全て刀身に直結。身体を覆う朱い炎も同じく刀身に向かって流れ込んで行く。
 弾幕を回避しながら刀身が形成されていく。朱く巨大な刀身――アロンダイト・インコンプリート。
シン・アスカにとって現時点での最大威力、最大規模の攻撃手段。目標は上空で群れを成すガジェットドローンⅡ型。

「……食らえ。」

 呟く。同時に形成された巨大な炎の刀身を振り上げて――薙ぎ払った。
 轟音。爆発。機械の群れに穴が開く。手に残る手応えは鋼を切るような感触では無く、何も無い空間を切り裂いたような感触――刀身の熱量によってガジェットドローンⅡ型の装甲が融解し切断されていく。
 続けて第二撃。一撃目で出来た“穴”に向けて、アロンダイトインコンプリートを突き立てるようにして突進。前方で夥しいほどの爆発が起きる。そこを突き抜けて更に上空へ直進。爆発は止まない。その更に上空へ直進。破壊された残骸が地面に落ちていく――身体を叩き、引き裂いていく幾つかの残骸。肩の肉が抉られた。額から血が流れている。無視して更に上空へ直進。身体中を引き裂かれるような痛み。爆発の度に頭蓋を叩き割られたような衝撃が響く。鼓膜は破れた。気にしない。どうせ直ぐに直る。更に上空へ――空が見えた。黒い曇天の空が。そのまま、上空へ向けて突き抜けた
 
 ――下が見えた。蟻のように蠢く機械の群れと人の群れ。次に自分はどこに行くべきか思案する――瞬間、身体が動かないことに気づいた。

「……はぁっ……あっ……ぎ。」

 言葉が出ない。喘ぐように呼吸する。吐き気すら伴う激痛。全身の皮膚を全て剥がされたような錯覚。全身を駆け巡る激痛のせいで身動きが取れない――けれど、それを無視して目は動く。状況を俯瞰する。アロンダイトインコンプリートは既に解除されている。全身から上がる蒸気――肉体の修復に魔力を回している為に、維持出来なかったのだ。
 今の一撃が功を奏したのか、敵陣が分断され、小隊が確固撃破を行い始めていた――戦況は白兵戦の様相を呈している。砲撃による攻撃も功を奏しているのだろう。敵陣の中心にいる時は気づかなかったが、当初よりも敵の数ははるかに減っている。均衡は既に崩れ、こちら側へと傾いている。

「……なんとか、なって、るか。」

 言葉は途切れ途切れ。耐え難い痛みによって全身が動かない――死ぬ訳では無い。奥歯を割れんばかりに噛み締め、堪える。
 放っておけば痛みは勝手に消えていく。見れば先ほどまでピンク色の肉が覗いていた右腕に既に皮膚が張られている。それでも痛みは消えない――耐えるしか無い。
 リジェネレーションの“再生”には二つの種類が存在する。
 文字通り、肉体を再生することであって、“蘇生”ではない“再生”。そして、以前シンの吹き飛んだ右腕が瞬時に再生した“復元”。
 再生は単純に肉体の持つ自己再生能力を活性化したモノであり、いわば再生能力の早送り、対して復元とはそれとは一線を画すモノでありどちらかというと“蘇生”に近い――つまり、肉体の巻き戻しである。
 膨大な魔力を必要としない代わりに常に魔力供給を行わなければいけない再生と膨大な魔力を必要とする代わりに一瞬で修復した挙句に魔力供給は一度で済む復元。

 通常使うのは再生のみである。復元とは四肢の損失などの重大な“障害”が発生した場合、且つ膨大な魔力が内在している時のみに使用されている。
 度重なる猛攻を繰り返し、幾多のガジェットドローンを破壊してきたことでシンの内在魔力量は減少している――この現状では復元を使用する必要はない。魔力消費を抑制し、体内に魔力を蓄積する必要があるからだ。
 呼吸を少しずつ整え、肉体の修復に全神経を集中する。
 ここまでシンが倒したガジェットドローンの数は凡そ300を少し切る程度。およそ全体の3分の1。その中に、“人間”は一人としていなかった。

「……まだアイツらが残ってる。」

 今の戦いはあくまで前座に過ぎない。本当の敵――真打はこの後だ。
 8人。ジェイル・スカリエッティがこちらに伝えてきた魔導師の数だ。
 エリオ・モンディアル、あの鎧騎士共が三人、金髪の白服を着た男。つまり自分の知らない敵がまだいるということだ。

(いつだ。いつ来る……。)

 鷹の様に地上を俯瞰しながら、傷が言えるのを待つ。徐々に、ではあるが痛みが引いていっている。

(もう少し……あと少し。)

 蒸気の出る速度が緩まっていく。肉体の再生が完了しようとしている。折れた骨は接合し、裂けた皮膚は新たな皮膚に成り代わり、断裂した筋肉が繋がっていく。
 息が少しずつ整っていく。痛みが引いていく。

(あと…少し。)

 肉体の修復が終わる――全身の痛みが消える。呼吸が整った。準備が完了する。
 瞬間、周囲におかしな気配を感じた。

「…っ!?」

 落下。加速。地面に向けて――同時にそれまでいた場所を何条もの光が貫いていった。見えたものは馬鹿げた造形。そして、ありえない存在。
 突撃槍(スピア)のような姿。そして、平らな板のような姿。色は黒ずんだ灰色。それが幾つも存在していた。見えるだけでその数は2つ。全て同じ長さで凡そ6mほど。
 それは、ドラグーンシステム。量子通信によって無線による操作を実現した“あちら”の世界におけるモビルスーツの武装の一種。
 あの鎧騎士が使用したモノとは色も、そして形状も違う。あちらは純白の白だった。だが、これは黒ずんだ灰色。
 その色と形状は――ある機体を思い出させる。

「……まさか。」

 呆然と口から漏れる言葉。
 背後から更に複数の気配を感じる。振り向いた。更に4基の灰色のドラグーンがこちらを狙っている。

「ちっ…!」

 舌打ちし、頭を切り替えるとその射撃の雨を潜り抜けて、下方に落下する。空中でドラグーンと戦うのは自殺行為だ。戦うなら地上――少なくとも障害物があることが絶対条件だ。
 落下しつつ、デスティニーを形状変化。大剣(アロンダイト)から大砲(ケルベロス)へ。ドラグーンに砲身を向ける/魔力収束/発射。朱い光が空を貫く。狙いはドラグーン。破壊は出来ないだろうが足止めくらいにはなる。命中するかどうかに関しては気にしない。あれは特殊な資質か長期間の習熟が必要な武装。付近一帯にドラグーンを使っている敵の気配は無い――つまり長距離から操作していることを意味する。そんな長距離からドラグーンを操作し命中させ敵の攻撃を回避させられるような人間などシン・アスカは一人くらいしか思い浮かばない――彼は既に死んだ。いるはずが
無い。攻撃は命中する。
 だが、

「なっ!?」

 ――砲撃はシンの予想とは裏腹に回避される。そして、ドラグーンより放たれる砲撃の雨。エクストリームブラストを発動し、即座にその場を撤退。速度は圧倒的にこちらが上――距離が開く。

「……あれじゃ、まるで」

 脳裏に思い起こすのは既に死んだある男のモビルスーツ。だが、その男は死んだ。自分が守りきれずに死んだ。自分に未来を託して死んだはずだ――例え生きていたとしてもここは、あの世界ではない、別の世界だ。
 そんな在りえるはずの無い仮定が脳裏を掠めた。

「嘘だ…がっ!?」

 後方から砲撃を喰らう。一瞬、気を抜いた隙を突かれた。背中が焼けた。フェイト・T・ハラオウンのバリアジャケットが焦げ付き、消滅しようとしている。
 焦燥――叫ぶ。

「デスティニー、バリアジャケット収納!今すぐだ!」
『了解しました。』

 シンを覆う黒い外套が消え去る。残るのは以前と同じ朱い服。ザフトの赤服に酷似したバリアジャケット。

「囲まれたかっ。」

 周辺には青、緑、黒の鎧騎士――シンは知らないがその名をウェポンデバイス・カラミティ、フォビドゥン、レイダー。
 レイダーが鉄球を投擲/カラミティが両肩の砲身より砲撃/フォビドゥンが手元の鎌を振るった。
 鉄球と鎌は即座に巨大化/元のサイズへ。

「ちっ」

 全方位より襲い掛かる巨大な質量と熱量。咄嗟にプロテクションとシールドを精製――魔力消費を度外視した瞬間最大構築数。その数、各5枚。積層型の防御魔法が一瞬で弾け飛んだ。ガラスが割れる音。勢いを緩めることもままならない――辛うじて鎌はその軌道を僅かにずらす。砲撃も同じく。鉄球は変わらず――軌道を変更してシンに向かってくる。

「パルマ――」

 両手を突き出す。声帯を潰さんばかりに絶叫――言葉を紡ぐ。

「フィオキーナアアアアッ!!」

 瞬間的に吐き出せる全ての魔力を放出。巨大化した鉄球。その直径少なく見積もっても5mは下らない。同時に重量は10tを下回ることは無いだろう。単純に考えて自動車10台分にも匹敵する質量。速度は高速。時速300kmを超えている。それらが生み出す衝撃/運動エネルギーは考えるまでもなく凶悪。人一人など軽く肉片(ミンチ)にする。
 それを、両手から放つパルマフィオキーナで受け止める――その魔力の奔流を押し潰す鉄球。膨大な熱量と勢いは巨大な質量の前で無力に過ぎた。
 それでも放出をやめない。やめればその瞬間、この身体は肉片になり下がる。リジェネレーションは傷ついた肉体を再生し復元する――けれど、消滅し、死んだ肉体を蘇生するコトは出来ない。肉片からの蘇生など不可能である。シン・アスカは“非常に死に難い”だけであって、“死なない”訳ではないのだ。

「ああああああ!!!!」

 魔力の放出と共に絶叫は途切れない。同時に自らの肉体を後方に向かって飛ばす。少しでも鉄球の勢いを殺す為。生存率を少しでも上げる為。無駄死にを回避する為に。
 自身の肉体の後退方向、及びパルマフィオキーナの発射方向、それらを精妙に操作し、鉄球を後方に受け流す――両手の肉が剥げ落ちた。骨が見えた――無視。気を取られれば死ぬ。全身全霊でその致命傷を無視する。
 一瞬足りとも止まること無く、全力で上空に飛び立つ。速度はこちらが上。3人の鎧騎士との距離を離す。両手を修復する為に。復元は使えない。余剰魔力が無い現状で使えば戦闘に支障が現われかねない。

「デスティニー、両手の修復を最優先。再生次第エヴィデンスを使う。いけるか。」
『了解。右手の再生を最優先。――エヴィデンスは現在使用不可能です。』

 両手から蒸気が上がり出す。異常な再生速度。失った細胞を補填する為に細胞分裂が加速する。同時に血小板の集積速度が加速し出血を即座に停止。煮え滾る溶岩のように両手から吹き上がる幾つもの気泡。それは高速の細胞分裂が生み出す細胞分裂の余剰分(オーバーロード)。

「使えない……どれくらいの間だ。」
『――分かりません。少なくとも現在は使用不可。今後使用出来る可能性も不明です。』
「なんだと…!?」

 動き続けながら自身のデバイスに向けて、毒づいた。デスティニーはそれ以上答えない。意味の無い回答はしない。
 遠くで爆発の音。続いて別の箇所で爆発。また別の場所でも爆発――戦況に変化が起きている。

「……状況はどうなってるんだ。」

 声を抑える。湧き上がる焦燥を押さえ込み、状況の整理に執心する。胸の奥に向けて落ちていく寒気。脳裏で頭痛が鳴り出している。不安と焦りが心を支配し、理性が必死にそれらを抑制する。

『現在、2時方向にて現在交戦している魔導師と同じタイプの魔導師2人とスターズ分隊スバル・ナカジマ、ティアナ・ランスター、キャロ・ル・ルシエが交戦中。4時方向にてヴォルケンリッター・ヴィータ、ヴォルケンリッター・シグナムもナンバーズ二人と交戦中。8時方向でナンバーズ1人と陸士108部隊が交戦中。』

 焦燥。右腕の修復が終了している。立ち昇る蒸気が消えていた。目に映るのはこちらに向かって高速で接近する3人の鎧騎士。

(どうする)

 予定が破綻した。最悪、エヴィデンスによる力押しで押し通すことを視野に含めていたのが失敗だったのかもしれない――そんなことを今考えても何にもならない。必要なのは現状を打破する為の策の模索。失敗したことなど今は棚に上げて仕舞い込んでしまえ。
 アロンダイトインコンプリートではあの3人を倒せない。あの硬い装甲を貫くには熱量と速度だけでは不十分だ。人間の“力”ではどれだけの速度を篭めたところで“貫けない”。以前の戦闘でそれを良く理解している。

(どうする。)

 力に溺れた。力に酔った。手に入れたあやふやな力を視野に入れて戦うなど言語道断。
 失う。
 喪う。
 また。
 目に映るナニカを。
 守らなくてはならない全てを。
 自分が贖罪したと言う証明(ヒトビト)を。
 迫る鎧騎士。武装が再び巨大化している。放たれる攻撃は必滅の一撃。
 鎧騎士に倒されることは在り得ない。あの程度の攻撃は全て捌き切る確信が今の自分にはある――だが、それだけだ。それで生き残るのは自分だけ。他の誰を守ることなど出来はしない。
 迫る敵を倒せないとするなら、攻防を繰り返せばその分だけ死んでいく。
 この作戦に参加した人々が、見たコトもない人々が、声を交わした人々が、自分を心配してくれた仲間も、全てが――死んでいく。
 心臓が跳ねた。脳裏に思い描いた空想が現実を塗り潰す。喪失の恐怖。全身が粟立った。
 デスティニーを握り締める――自身の“力”が足りないことに憎悪を感じて。

『力が、欲しいのですか?』

 甘い囁き。悪魔のように。

『この期に及んで、まだ力を求めるのですか?』

 胸の奥に簡単に忍び寄る声。

『力に溺れて、力に酔って、全部喪って、それでもまだ力が欲しいのですか?』

 ドクン、ドクン、と胸が大きく鼓動する。

「欲しい。」

 静かに答えた。
 迫る敵。彼我の距離は凡そ数十m。接敵まで十秒も無い。エクトリームブラストによって引き伸ばされた時間は言葉を損なうことなく吐き出させる。

「“力”があれば全部守れる。だから、力が欲しい。少なくとも――」

 朱い瞳に力を篭めて、睨みつけた。自分の“願い”の邪魔をする敵を。決して叶わない、そんな願いすら邪魔をする敵共を。
 憎悪と怨嗟と憤怒を篭めて――呟く。

「奴らを、薙ぎ払うくらいの力が。」
『…与えましょう。兄さんが全てを薙ぎ払う力を。その綺麗な願いを叶えることの出来る“力”を。』

 快楽すら感じているのではないかと思えるほどに陶酔した声。
 続いて紡がれる電子音。それまでのように“人の”声では無い機械の声。
『Form Alondite appearance. Sealing open lock――Bigining.(巨大斬撃武装現出準備。封印開錠――開始。)』

 デスティニーから朱い光が走り出す。それはあの模擬戦の日シン・アスカを“作り変えた”光。
 水面に落ちた水滴が広げる波紋のように、ぐにゃりと彼の眼前の世界が歪んだ。朱い光が空間を伝い、ナニカを形作る――巨大な、巨大すぎるナニカを。

『There is not power without the intention in the world. (意思無き力などこの世には存在しない。)』

 唄う。それは呪文。魔力と言う魔力が流れ込んでいく。喪っていく多くの命――同時に感じる満たされたような感覚。探し続けたパズルのピースが合った、そんな感覚。

『There is not feeble intention in the world.(力無き意思などこの世には存在しない。)』

 謳う。人が手に持つには、“文字通り”手に余る力を開く為の呪文。魔力の流出は止め処なく、濁流の如く流れていく。

『Both are one with two. A list and the back of the same card.(両者は二つで一つ。同じカードの表と裏。)』

 謡う。力が欲しいという意思が導く巨大な力。命が終わろうとも、何もかもが終わろうとも魔力の流出は止むことは無い。

『The power without the intention is that is to say powerless. The feeble intention is that is to say powerless.(意思無き力は即ち無力。力無き意思も即ち無力。)』

 詠う。それは全てを切り開く運命の大剣。呪文が続くに従い魔力の流出が加速する。

『Intention leads power, and power draws intention.(意思が力を導き、力が意思を引き出す。)』

 歌う――デスティニーをその捻じ曲がった空間に向けて、突き出し、扉を開く為に鍵を開けるかの如く捻る。同時にデスティニーの柄が一瞬で1mほど伸びていく――接敵まであと5秒。

『Demand power.Demand power.Demand power.(力を求めよ。力を求めよ。力を求めよ。)』

 引き抜く――現出するは巨大な刃金。この世界のどこにも存在しない、存在するはずの無い武装。何千と言う命をその手で奪い去った象徴とも言える武器。

『You betray all, and to betray even the fate.(全てを裏切り、その運命すら裏切る為に)』

 引き抜く/振り上げる――巨大すぎる武装はその見た目とは裏腹に何も持っていないと錯覚するほどに重さを感じさせない。

『――Demand thou, power (――汝、力を求めよ。)』

 言霊が紡がれた。現出が完了する。現われ出でしは文字通り人の手に余る巨大な――巨大すぎる大剣。

『Form Alondite appearance――Complete.(巨大斬撃武装(アロンダイト)現出――完了。)』

 脳裏に響く、その手に握り締めた“彼女達”の声。

『Cut it down(薙ぎ払え。)』
「――消えろ。」

 うっすらと微笑み、その声に答えるかのように呟き、その刃金を“振り抜いた”。
 軌跡は鮮やかな横一線。斬撃が世界を塗り替える――人の視界から放たれたその斬撃は世界全てが塗り変わったかのような錯覚すら与える。
 振るった瞬間、その見た目通りの致命的なほどの重さが全身に襲い掛かる。その刃金をエクストリームブラストの朱い炎で覆い尽くす。全身の筋肉を総動員し、刃金の周囲全てを待機状態のパルマフィオキーナで制動を掛けて、剣の軌道そのものを維持した――振るうだけの動作。それだけで自らが死にかねない悪魔じみた衝撃。
 手応えは三つ。爆発も三つ。再び衝撃で視界がブラックアウト。視界が漆黒に覆われる寸前、同時に三度、空に花が咲いた――鎧騎士の肉体が爆発したのだ。
 鎌がその刃ごと叩き折られた/鉄球が弾かれ鋼ごと断ち切られた/砲身が断ち割られ溜め込まれていた砲撃ごと爆発した。
 鎧の胴体部分が枯れ木を折るように真っ二つに折れていく――素体(フレーム)が折れた。
 消えていく視界が一瞬、白い骨を捉えたような気がした/血液が弾け飛ぶのを捉えたような気がした。
 呼吸が荒い。ブラックアウトの影響だ。身体中に鉛のような重さを感じる。
 その手に握り締める威容を感じて、くくっと、シンは小さく自嘲するように笑いながら呟いた。

「…なんで、これがあるんだかな。」

 力を求めて、誘惑に飛び込んだ。けれど、現われたのは予想外の代物だった――閉鎖したココロは驚愕すら取り去って、喜びに変換する。力を得たと言う喜びへと。
 それは巨大な剣だった。少なくとも人の手で扱うようなものではない。
 デバイス・デスティニーの先から伸びている冗談のように巨大な物質――昔、見慣れていたはずのモノ。けれど、こうして人の手で持つとそれがどれだけ巨大で危険な代物なのか、よく分かる。
 それは巨大斬撃武装アロンダイト――モビルスーツ・デスティニーに装備されていた『対艦刀MMI-714 アロンダイトビームソード』“そのもの”である。
 全長15mを超える威容。刀身の幅は少なくとも3mを超える。赤い光が刃のように輝き、その先端に鈍く輝く希少鉱石(レアメタル)。本来人間の手で持つ為の代物ではない。それは鋼の巨人――モビルスーツの為の装備。先ほどの呪文詠唱は此方側に呼び出す為だけの儀式呪文。呼び出してしまえば後は通常の武装と同じように使えばいい、ただ“巨大な”だけの武器。“完成”に近づいたデスティニーが自身の秘匿されていた情報にアクセスし開放した、コズミックイラにおいて当代最強を争った近接兵器。
 どうして、これが、此処にあるのか。何故、こんな装備が用意されているのか。シンの疑問も最もだ。もう、これはどこにも存在していないはずなのだから。
 何故ならこれは2年前戦争が終わった時に廃棄され、処分されている。
 ならば、何故――

「……気にするな。力が手に入ったんだ。気にすることじゃない。」

 静かに呟き、敵が居た方向を眺める――爆煙が風に流れていくのをデスティニーのセンサーが感じ取る/視界は未だに修復しない。吐き気が酷い。呼吸は荒いまま――全て無視。放っておけば回復する。鎧の破片や敵の破片が地面に落ちていくのが脳内に情報として伝わる。全てを俯瞰したような錯覚は消えていない。振動が、音が、衝撃が、情報が、擬似的な視界を構築する。
 握り締めた手に伝わった命を奪う感触。この世界に来て、二度目の殺害の手触り。エリオ・モンディアルを殺そうとした時が一度目――二度目が今。
 その強大な見た目通りにこの“アロンダイト”に非殺傷設定など存在しない。あるはずも無い。これは禁忌中の禁忌とも言える質量兵器そのもの。どんな熱量や速度、運動エネルギーであろうとも魔力に変換し、命を保護する非殺傷設定も、存在の証明とも言える質量だけは変換できない。
 故に――この手で、殺したのだ。何の為でもなく、ただ殺さなければいけないと言う理由で。
 頭痛と吐き気が酷い。泥のような疲労が全身に漂っている。視界が徐々に徐々に戻っていく――なのに、頭痛と吐き気が収まらない。
 何故か蒼い髪の女性と金髪の女性の笑顔が脳裏にちらつく。別に、殺すことなど慣れているはずなのに、初めて人を殺した時のようにココロの深奥に澱が溜まっていく。
 もうどこにも二人はいないのに、二度と自分には微笑んでくれないのに――二人はどこかで今の自分を見て泣いている。そんな気がした――それも多分錯覚だろうけど。

(今更だ。)

 心中で毒づき、デスティニーに向かって呟く。

「……ヴェロッサ部隊長に通信開け。戦況を確認する。」
『了解しました。』

 ――通信を開いた。会話が始まる。声の調子は変わらず虚ろ。虚無は未だ晴れることなく、彼の瞳を朱く染めていた。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 44.Sin in the Other World(f)
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Date: 2010/05/29 18:00

 瓦礫に隠れ、息を潜める。
 自分の身体はそこかしこに傷だらけ。見えはしないが、皆似たようなものだろう。

『スバル…生きてる?』

 敵に気づかれないように念話を伝える。返ってくる声はいつものように快活な声では無く――最近はいつもこんな感じではあったが――疲れ切った老婆のような声。

『……何とか。』

 まだ、生きていることにほっと息を吐き、別の仲間へと念話を伝える。

『キャロは?』
『……正直、厳しいです。』

 こちらも同じく疲れ切った声。疲労困憊――彼女の場合はこの戦い以外にも考えなければいけないことがある以上、その疲れは尋常では無いのかもしれない。

『…私も正直辛いわね。』

 最後に自分――全身が気怠い。敵――自分たちが受け持っている相手はこれまで確認したことの無い鎧騎士。青と緑――意匠はまるで違う。攻撃方法もまるで違う。そして、何よりも明らかに以前、相手取った敵よりも強い。
 ティアナ・ランスターは推察する。彼女の戦闘とはいわば“組み立てる”こと。これに尽きる。彼女自身、自分の能力が特筆するべきものではないと理解している。
 彼女は使う側だ。味方に指示を与え、自分自身が組み立てた戦闘に味方も敵も巻きこんでいかなければならない。
 だからこそ、彼女は常に推察を止めない。考えることを止めない。彼女自身の戦闘における存在意義とは味方を活かす為に頭を使うことに他ならないからだ。
 これまでは、それで問題は無かった――だが、今回はまるで勝手が違っていた。
 火力に特化した近接型と、速度と火力のどちらをも持ち合わせた近接型のコンビネーション。
 特筆するような強さはどこにも無い。それでも、以前戦ったナンバーズよりも“はるかに”強い。

 単純な理由だ――単純なたった一つの理由。
 サイズが違うのだ。大きさに差がありすぎると言うその事実。
 敵の攻撃は全て十m以上の巨大な武器を用いて行われる。間合い、そして攻撃力における決定的な差。加えて異常なほどのあの防御力。シンの一撃ですらヒビ一つ入れられなかったと言うほどに硬い装甲。
 何度攻撃してもまるで効いた様子が無い――その癖、こちらは一度でも攻撃を受ければ致命傷は確実。何度も何度も紙一重で攻撃を回避し続け、隙を突いて攻撃――まるで効いた様子が無い。そして、また攻撃を回避し続け、隙を突いて攻撃を繰り返す。
 そんな堂々巡りを既に何度繰り返したのか。時間を見ればまだ十数分程度しか経過していない――だが、その十数分は数時間にも感じられる程に長く感じられた。
 打破しようの無い展開。それを覆す為に一度距離を取ったのだ。
 けれど、それで分かったことは全員体力が既に底を突き、心が折れそうになっていると言う事実だけ。

(……どうしたらいいのかしらね。)

 敵は別にこちらを狙って戦っているという雰囲気ではなかった。あくまで攻撃を加えたモノへの自動迎撃。
 本来なら此処で撤退するのが良策だ。倒せない敵を無理矢理にでも倒す――部下を殺す愚の骨頂とも言える。

(けど、ここで下がれば絶対にシンが無茶をする。)

 それは確信。あの男はその無茶を喜んでやるだろう。それこそ率先して。
 
 ――美味かった。
 
 在り得ない言葉を聞いた。確認は出来なかったが、恐らくあの男は本当にそう思っていたのだろう。
 自分がやった悪戯など知ることも無く――味覚を失ってしまったから。
 大切な人を喪って、そのせいで周りから疎まれ出して、味覚を失って――五感の一つに出る障害。重大な障害で無いはずが無い。
 けれど、あの男にそんな気持ち――恐怖は無い。逃避しようと言う感情も無い。あるはずが無い。
 大切な人を失った。その責任を全て自分のせいだと抱え込んで、苦しむコトすら出来ずに戦いに没頭する。それでもあの男はそれを喜ぶだろう。
 利用されることを――殺されることを。
 それを、どうしても許したくなかった。あの日、高町なのはに打ち落とされたこと――あの日の出来事の全てが自分の非だとは思わない。
 けれど、歩み寄ることもなくあのまま訓練に没頭していたなら、自分もああなっていたかもしれない――その可能性は十二分にあった。
 シン・アスカはティアナ・ランスターにとって、ありえたはずの可能性の一つ――だ
 とすれば、そんな自分を認めたくない。この気持ちの根幹はそんな気持ちなのかもしれない。

「……スバル、あんたまだ動ける?」
『…ちょっとはね。』

 一番間近で攻撃を回避しながら敵の攻撃を引きつけ、その上で攻撃を繰り返していた彼女の消耗は自分の比では無いだろう。

 ――それでも戦う以上は彼女に頼る以外に方法は無い。
 
 自分とキャロのサポートがあったとは言え、彼女でなければ、あの鎧騎士の二人を相手に拮抗した上で生き延びることなど出来はしない。

「そろそろ来るわよ……フェイクシルエット、今潰されたから。」

 二人が身構える気配が念話から伝わる。
 近くの瓦礫が弾け飛ぶ。

(来た。)

 視界の端に現れる敵の武装――高町なのはのブラスタービットに酷似した武装。例えて言うならバケツのような筒――ティアナ・ランスターは知らないがドラグーンと呼ばれる技術によって無線誘導されている武装である。大きさはおよそ1mにも満たない――サイズが抑えられている。色は緑。光が灯る――緑色の光が。
 即座にその場から飛び退き、移動。フェイクシルエット生成。続いて、敵の武装に向けて、魔力弾を生成し、放つ。
 衝撃。弾かれたように吹き飛ぶ緑色の筒。大した損害は与えられない。

「キャロ、援護お願い!スバル、そっちは任せた!!」

 口頭で指示。相手に聞かれていようと関係ない。そんな余裕は無い。
 最優先するべき目的は生存――歯軋りしながら、その事実を認める。目前の敵は自分達よりも“強い”。足りないのは純粋に力。力が圧倒的に足りていない。

(だからって…)

 思考を加速。即座に弾き出される回答。自身の能力は戦闘するには物足りない。キャロ・ル・ルシエも同じく。戦闘と言える戦闘を行うには少なくともスバル程度の近接能力は必須だ。事実、ここまでの戦闘では自分は一切前に出ていない。出る事は自殺行為。あくまで後方支援が己の責務。

(諦める訳にはいかないのよ…!)

 心中で自身を叱咤し、魔法を発動。クロスミラージュが魔力を編み上げる。
 幻影生成――フェイクシルエット。その数を更に増やす。魔力は度外視。今度は存在濃度を高め、人体と認識できるほどに。生成された幻影の数は5つ。全てを同時に動かし、散開。狙いを散らし、生存率を少しでも高める。
 その場から移動する――ほどなく幻影が一体消えた。攻撃を食らったのだろう。その攻撃を受けた位置と攻撃が当たった箇所を確認し、敵の現在位置を確認。瓦礫を盾に
壁を伝うようにして走る。敵の死角に回りこむ為に。
 走りながら、クロスミラージュにカートリッジを装填。魔力の底上げ。フェイクシルエットの数を更に増やし、散開。更に間髪いれずの魔力装填。両手のクロスミラ
ージュに魔力を収束し、魔力弾を放てるように待機。
 瓦礫の山――以前は家だったのだろう。クマの人形などが見えた――を抜け、緑の鎧騎士――ウェポンデバイス・カオスの後方に移動する。死角からの射撃。ティアナ
・ランスターが力不足を補う為にはそれしかない。少しでも防御力の少ない箇所を攻撃する以外に無い。

(食らえ…!)

 瓦礫の山を抜けた。ウェポンデバイス・カオスの背中が見える。カートリッジを五連続装填。膨れ上がる魔力。両手に持ったクロスミラージュを構える。放つ魔法はクロス
ファイヤーシュート。攻撃力は彼女の使用する魔法の中で最も高い。

「クロスファイヤ――」

 魔力球が空中に浮かび上がる。一つ、二つと浮かび上がり、瞬く間に現出して行く光球。総数二十五個。現在のティアナ・ランスターにとっての最大放出数。

「シュート…!!!」

 静かに呟く。光球は狙い違わず緑色の異形――ウェポンデバイス・カオスに向けて加速して行く。
 カオスは未だ気づかない。あの鎧がバリアジャケットの亜種だと言うなら少なくともこれで打撃を与えられるはずだ。バリアジャケットは意識方向に対して最もその防御を
硬くする。逆に言えば死角――意識方向と真逆部分は非常に弱い。
 光球がその背中に接触。爆発が起きた。続けて残る二十四個の光球がその背中に吸い込まれるように着弾し、立て続けに爆発が起きる。

「まだ…よ!!」

 更なるカートリッジ装填。これ以上は自身の肉体への負荷が大きい。クロスミラージュからの警告。同時に肉体が悲鳴を上げる。
 カートリッジによる魔力の底上げとは自身の魔力を無理矢理に上昇させること――つまり、自身の魔力量以上の魔力制御を要求される。幻術のような繊細さを必要とする魔法であれば特にその難度は跳ね上がる。
 だが、今はそんな技術は度外視だ。やるべきことは撃ち込むこと。この一瞬で全精力を込めて撃って撃って撃ちまくる――!
 光球を更に生成――発射。続けて五発。加速し、狙い違わず爆発に向けて吸い込まれていく。銃口に魔力を集中。魔力弾を作成。

「キャロ!!」
「はい!」

 後方より届く声。キャロ・ル・ルシエが魔法を発動する。ティアナ・ランスターが収束した魔力弾にブーストアップ・バレットパワー。射撃の威力――この場合は貫通力を“強化”
する魔法。片側5発。総計10発の魔力弾が放たれた。

「ヴァリアブルシュート…!!」

 ヴァリアブル・シュート。魔力弾の外殻を膜状バリアで包んだ多重弾殻射撃魔法。
 以前はAMFを突破する為に使用した――今回は使用方法が違う。
 外部の膜状バリアが相手の装甲に接触したその運動エネルギーを全て破壊力に変換――つまり外側は柔らかく、内部の魔力弾はキャロ・ル・ルシエの使用したブーストアップ・バレットパワーによって貫通力を強化――つまり内側は硬く。破壊と貫通の二重の意味合いで相手の装甲を穿つ為の弾丸。
 全身から魔力が抜けていく――力が抜けていく。折れそうになる膝を意思の力を総動員して、食い止める。

(お願い、これで倒れて……!!)

 外殻が着弾。運動エネルギーを全て破壊力に変換。刹那の差で内部が着弾。装甲を貫通しようと暴虐的な程に唸りを上げる。
 連続する破壊と貫通。
 塵煙が舞い上がる――敵の姿が隠れた。僅かに緩んだ緊張。思わず膝を付く。

「はぁ……は……は、あ」

 喘ぐように呼吸。額から汗が流れていく――頬を通り、首筋を通って服にしみこんで行く汗。
 呼吸が荒いのは限界以上の魔力行使の影響だ。心臓が唸りを上げて鼓動し、全身に酸素を送り込む。

「……これで、一人。」

 塵煙が収まっていく。反応は無い。非殺傷設定は継続――気絶しているのだろう。もしかしたら、何かしらの怪我をしているのかもしれないが、そんなことを気にする余裕は無い。
 まだ、一人、残っている。
 重い身体を立ち上がらせる。出来れば、このままここで寝てしまいたいほどに身体は疲弊している、だが、スバルを一人で戦わせ続ける訳にはいかない。

「…キャロ、スバルはどうなってる?」
『何とか、食い下がってます……けど、あとどれだけ持つか。』

 念話による通信。既に彼女はスバルの元へと向かっている。

「わかった。私も直ぐに援護に……」

 呟いた瞬間、緑色の光が一瞬光った。

「まだ、動けた……!?」

 敵を視認する為にそちらに瞳を向ける。瞬間――熱さを感じた。ばつん、と言う何かが弾け飛んだような音。
 顔に液体が降りかかる。降りかかる方法は右側――咄嗟にそちらを見て、見えた光景は理解を超えていた。

「え?」

 紅。出血。血が吹き出る。
 
 ――右手が無い。

「え。」

 思考が止まる。手が痛い。手が痛い。神経を焼かれるような激痛。右手を動かそうとする――無い。神経が伝達する先に何も無い。手が無い。指が無い。
 手首から血が流れている――全部、弾け飛んだ。

「う、そ。」

 噴煙が晴れる――緑色の鎧騎士が何事も無いようにして立ちながら、銃口を向けていた。
 銃身の長い拳銃というよりは狙撃銃の見た目。それが自分に狙いをつけている。

(死ぬ。)

 咄嗟に構える――思考を再開。腕の痛みを忘れる/痛覚が神経を刺激。痛みが理性を駆逐する。痛みが本能に訴えかける。
 経験したことの無い痛み。思わず跪きそうになる――残り少ない理性をかき集めて全身全霊で抵抗する。

「……あ……く……。」

 叫び出さないだけマシなのだろう。
 耳に聞こえてくるココロは“痛い”と言うそれだけ。風に触れる。ナカミが大気に触れる。それだけで身悶えするような痛み。知らず涙が毀れる。堪える痛みの強さが肉体を侵していく。
 喘ぐように吐息。呼吸を整える為では無い。痛みに折れそうになる自分を抑制する為に。
 死が怖いのではない。痛いことが怖い。
 この痛みが、自分自身の大事なモノさえ折ってしまいそうで、それが例えようも無く怖い。

「……くろ、す…ミラージュ……」

 折れそうになるココロを押さえつけ、左手に握り締めた銃身を敵に向けた。そうしていなければ、涙を零して、子供のように蹲ってしまいそうだった。
 先ほどまで開いていた両者の距離は気づけば、既に触れ合うほどの距離にまで近づいていた。ティアナの瞳の先には銃口。
 彼女はその銃口を見つめた――“死”が見えた。

「……」

 受け入れるでもなく、死がそこに押し付けられている。
 夢、希望、いつか辿り着く場所。兄と過ごした幸せな日々。失って、失ったからこそ、駆け抜けてきた。その全てが終わる。巡る走馬灯。スローモーションのように世界がゆっくりと稼動して、自分の命を失う瞬間を認識させる。
 ココロが諦観に落ちて行こうとする――それを痛みで削り取られていく理性で引き戻す。
 
 たとえ、死ぬことになろうとも絶対に諦めたくはない。
 かちり、と音がした。引き金に手を掛ける音。
 同じタイミングで彼女も銃口を向ける。眼前の緑の鎧騎士(ウェポンデバイス・カオス)へ。

(死んで、たまるか。)

 憤怒と克己で自身を奮い立たせ、折れそうになるココロを叱咤する。けれど、銃口が定まらない。右手を失った痛みに震える左手。肉体は既に痛みに屈服しようとしているのだ。
 引き金を絞る瞬間すら認識出来そうなほど引き伸ばされていく感覚。死への覚悟と現状を打破するための思考――無駄。世界はそんなにご都合主義では無い。

「……くそ…ったれ。」

 彼女には似つかわしく無い毒のような呪詛を吐いた。こちらが魔法を放つよりも相手が引き金を絞る方が遥かに早い。言葉だけでも相手に届けと言い放った負け惜しみ。
 引き金を絞る音がした――秒を待たずに自分は死ぬ。

(ごめん、スバル、キャロ。)

 心中で諦観を呟いた。せめて、死ぬその瞬間であっても瞳は逸らさない、と相手を睨みつけ――瞬間、爆音と震動で身体が震えた。
 視界に飛び込んでくる朱い炎のヒトガタ。
 振り下ろされた大剣の一撃を受け止めることも出来ず、緑の鎧騎士(ウェポンデバイス・カオス)が吹き飛んだ。

 轟音。震動。衝撃――朱い炎が棚引いた。世界全てを朱く染め上げる劫火。焦点を失った無機質な朱い瞳。右手に握り締める大剣。朱いバリアジャケットの所々から上がる煙。口元を汚す紅い血。白い肌は煤で汚れて黒く染まっていく。
 朱い瞳の異邦人。シン・アスカが、そこにいた。

「……シ、ン。」
「直ぐに治す。だから、死ぬな。俺の前で“だけ”は絶対死ぬな。」

 少しだけ焦燥の混じりこんだ傲慢な言葉。
 けれど、声の調子は以前のように優しげな声――それともそう演じているだけなのか、それは分からないけれど。
 表情は渋面――そして笑顔を形作る。おかしな笑顔。笑おうとして笑えない。そんな、どこか機械じみた。

「寝てるんだ。起きたら……全部終わってるから。」

 その言葉が染み渡る。息を吐く――知らず口から安堵の吐息が漏れた。全身の力が抜けていく。さっきまであれほど煩かった鼓動が収まっていく。頭を撫でられる――昔、兄がそ
うしてくれたように。
 硬い手の感触。暖かい、温もりを感じ取る。同時に右手の痛みが消えていく。代わりに全身に“注ぎ込まれる”暖かさ。急速に眠気が襲い掛かって来る。
 その眠気に“反抗”するようにして、瞳に力を込めた。

「……どう、し…て」

 声を出そうとして出せない。眠気に襲われた肉体が急速に閉鎖していこうとする。

(なんで…あんたは……笑ってるのよ。)

 声は言葉にならずに霧散する。意識が消失する――子供のような寝顔。穏やかな眠りへと落ちていく。
 疑問は届かない。届くはずも無く彼女の意識は闇に閉ざされた。

 ――シンの右手がティアナの額に添えられている。朱い魔力光が輝く。彼女の身体を朱い魔力光が幾何学模様に走り抜ける。数瞬後、彼女の右手を朱い光の軌跡が再現していく。
 初めに形作られるのは枠組み――ワイヤーアートのような朱い軌跡。それがどんどんと数を多くし、骨格を形成し、神経を形成し、血管を形成し、接続を形成していく。

「デスティニー。あとどれくらいだ。」
『残り5秒です。』

 デスティニーに格納されている魔法。リジェネレーション。その力の一端――復元。失った四肢を文字通り復元する魔法だ。膨大な魔力によって消滅部位を即座に直す――だが、今回
は自分では無くティアナ――他人の身体だ。彼女の身体情報を解析し、その上で再現し、復元し、“治す”。必要となる魔法が増える分だけ使用する魔力は自身に使用するよりも更に大きい。
 敵を見る――緑色の鎧騎士。見たことも無い新たな敵。残り五人の魔導師の内の一人。

「キャロ、ティアナを保護してくれ。気を失ってる。それとスバルに合流しろって伝えてくれ。」
『え?…あ、はい!』

 ティアナの治療が終了/右手は既に元通りに復元。
 
 ――クロスミラージュの片割れは復元しなかった。元よりシンはクロスミラージュが破壊されたことを知らない。知らないのだから復元することも出来ない。

 デスティニーを眠るティアナの傍から引き抜き、ウェポンデバイス・カオスに向けて視線を飛ばす。
 スバルに自分で指示を出さないのは彼女に煩わしい思いをして欲しく無いと言う考えから――姉を殺した男と共闘するなど普通は嫌なものだろう。彼女達姉妹は仲が良かったから余計に。
 感傷が生まれる――閉鎖。余計な思考は必要ない。
 状況把握――後方にティアナ・ランスターがいる。エクストリームブラストは使用できない。ティアナ・ランスターに行った復元が相当量の魔力を使用した為に現在は休止している。

「デスティニー、エクストリームブラスト再開まであと何秒いる?」
『10分です。』
「使用可能になったら直ぐに始めろ。ただしティアナ、スバル、キャロ、それに“味方”からは“奪う”な。」
『了解しました。』

 デスティニーを大剣(アロンダイト)に固定。
 立ち上がったウェポンデバイス・カオスに向けて突進。
 巨大斬撃武装(アロンダイト)は使わない。
 ティアナが気を失った現状で使用すれば彼女を確実に巻きこむ――それにたった一人の敵に使うにはあの武器は消費が大きすぎる/スバルとの位置関係を把握。徐々にこちらに向けて移動を始めている――誘導を開始したのだ/移動目標をスバルの移動方向に向けて設定。
 彼我の距離が近づく。接敵。袈裟懸けに振り下ろす――がきん、と刃金と光刃がぶつかった。アロンダイトで敵の光刃――ビームサーベルに酷似した武装――を押さえつけながら、腰を落とし重心を下げる/足を踏み出す――懐に入り込んで、右手をアロンダイトの柄から離し、押し当てる。至近距離――零距離において最も効果を生み出す近接射撃魔法。魔力収束/朱い魔力光が破裂寸前の溶岩のように半円形を模して精製。弾けて放たれる朱い光の槍。

「パルマフィオキーナ。」

 小さく呟く。肩にパルマフィオキーナの反動。肘を伸ばし身体を固定して、その反動を受け止めた。ウェポンデバイス・カオスが後方に吹き飛んだ。

「くっ…!!」

 ウェポンデバイス・カオスが呻きを上げながら、その一撃を自ら後方に後退して和らげ、受け止めた。損傷は軽微。既にドラグーンが戻っている――それをバーニア代わりにして速度を上げて後退したのだ。

 ――シンはその“呻き”に少しだけ違和感を感じた/無視。敵への違和感など気にするな。殺せ/思考を閉鎖。

 損傷は軽微、とは言えウェポンデバイス・カオスはその体勢を崩している――隙がある。高速移動魔法フィオキーナを背中と足元に生成――その数4つ。大地を蹴って跳躍。地面と水平に加速。大剣(アロンダイト)を振りかぶる/振り下ろす。ビームサーベルで受け止められた。再び鍔迫り合い。

「良い気に、なるなよ…!!」

 ウェポンデバイスが言葉を発した。溢れる人間味。これまでとは何かが違う/無視。
 下から押し上げるようにしてビームサーベルを大剣(アロンダイト)で弾き上げる。懐が開いた。振り下ろす大剣と光刃がぶつかり合う。ウェポンデバイス・カオスが右手から光爪を発して腹部に向けて突きだす。予想外の攻撃に反応が一瞬遅れた。肉体の動きでは回避出来ない。右肩、右腰からフィオキーナを発射し、緊急回避。距離が開いた。敵は爪のようにして手からも光刃を生み出せる。
 もしかしたら身体の各部に同じような武装があるのかもしれない――向こうの世界で戦った、緑色のモビルスーツを連想させる。武装類は全て酷似している。もしかしたら同じ武装を持っているのかもしれない/裏付けの無い想定は無意味だ。考えるな。
 フラッシュエッジを引き抜き投擲。右側から一刀、続いて左側から一刀。二つ共に違う軌道で弧を描きながら両脇から同じタイミングで迫る。

「ケルベロス。」
『了解しました。』

 以心伝心。大剣(アロンダイト)から大砲(ケルベロス)へ形状変化。ケルベロスを発射――朱い光が放たれた。
 その反動を利用して数mほど後退。緑色の円筒――ドラグーンが緑色の光を発射するのが見て取れた。撃たれる前に移動することでそれを紙一重で回避。それまでいた場所を緑色の光が付き抜けていく。放たれるよりも前に知覚出来る――全てを俯瞰したような感覚は今も消えない。
 ドラグーンからの砲撃を回避した瞬間、即座に前進。背中にフィオキーナを生成。地面を頭にこすりつけるほどに前傾し、加速。僅かでも敵の視界から自分の身体を外す為に。
 大剣(アロンダイト)を握り締める。
 敵が気づくのが見えた。だが、遅い。間合いには既に入り、攻撃態勢に入っている。
 その勢いのまま、下から切り上げた。手応えは硬い鋼の感触――鎧自体にはまるでダメージを与えていない。与えているとすれば衝撃によるダメージくらい/問題ない。今するべきことは倒すことではなく、この場から離れることだ――気絶したティアナから離れ、スバルと合流。そして、鎧騎士をなるべく早く倒す。巨大斬撃武装(アロンダイト)があればそれは容易い。あれはその為の――大剣(アロンダイト)が穿つことの出来ない敵を倒す為の武装なのだから。
 再度ウェポンデバイスが吹き飛んだ。吹き飛んだ方向を見定め――エクストリームブラスト“限定解除”。倍率は2倍――ギアセカンド。リジェネレーションは発動しない単なる“高速行動”。跳躍し、敵に向けて突進。デスティニーは腰のホルダーに固定。
 突然、朱い炎に覆われ加速したシン・アスカは眼が慣れていないウェポンデバイス・カオスから見れば消えたようにすら見えたかもしれない――吹き飛んだカオスの腰を両手でラクビーのタックルをするように抱え込み、加速。方向は目標地点――スバルの戦闘箇所へと。

「てめえ……離しやがれ!!!」

 ウェポンデバイス・カオスが叫びならが背中を殴る。違和感――と言うよりも明らかな違い。
 コイツはこれまで戦ってきた鎧騎士とは“違う”モノだ。今までは喋ることはおろか、呻きや悲鳴すら上げなかった――死ぬその瞬間まで。ならばこいつらは――無視。気にするな。敵は殺す。それだけだ。
 加速。勢いは収まらない。朱い弾丸と化して加速するシンとウェポンデバイス・カオス。

「こ……の!!!」

 叫ぶウェポンデバイス・カオス。直感が離れろと叫ぶ/肉体はそれに追従。それまでシンがしがみついていた場所を紅い光が突き抜けていく。バリアジャケットが焦げた。一瞬遅れていれば死んでいた――背筋に怖気/無視。
 ウェポンデバイス・カオスの背後に回るように移動。大剣(アロンダイト)を腰のホルダーから引き抜き、敵に向けて叩きつける。
 鈍い金属音を発して、ウェポンデバイス・カオスが地面に向けて、垂直落下。間髪入れずデスティニーを大砲(ケルベロス)に形状変化――地面に向けて落下した相手に向ける/魔力収束。

「寝てろ。」

 呟き、発射。朱い光がウェポンデバイス・カオスを目標地点に向けて、文字通り叩きつけた。
 爆発。噴煙が上がる。
 これでしばらくは動けないと予想――たとえ動けても関係無い。これだけ攻撃した以上は、奴の攻撃対象は自分になる。ティアナ・ランスターを攻撃対象にはしないだろう。
 上空から戦場を俯瞰。戦況は膠着状態の様相を呈してきている。先ほどヴェロッサとの通信を行った際に彼からの通達によって彼女達を援護しにきたのだが――立ち込める空気に顔をしかめる。
 嫌な予感がするのだ。何がどうという訳では無い。漠然とした言葉に出来ない予感――不安と言い換えても良い。それが戦場に立ち込めている。

「……デスティニー、スバルは…」

 言い終わる前に、直ぐ近くで爆発が起きた。確認することも無く即座にそちらに向かう。
 焦燥が立ちこめて行く。嫌な予感が収まらない――その全てを断絶してシン・アスカは戦い続ける。

 ――そして、絶望の宴の幕が開く。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 45.Sin in the Other World(f)
Name: spam◆93e659da ID:17f428f0
Date: 2010/05/29 18:01

「っ…!!」

 どれほどの打撃を与えても敵は立ち上がる。
 キャロ・ル・ルシエのブーストを受けた上での震動拳はまるで効果は無い。
 同じく単純な打撃はまるで駄目。唯一ディバインバスターのみが僅かに相手の身体を揺らがせた――本当に僅かだったが。
 こちらの放つ全ての攻撃手段がまるで効かない。
 敵の姿。一言で言えばそれは青い鎧武者と言う形が一番似合う、出で立ちだった。
 先端から赤い光刃が伸びる槍。胸の中心から放つ赤い光。そして、何よりも特徴的な巨大な肩当て――むしろ、それは盾と言っても良いほどの大きさだった。そしてその肩当てから放たれ
る幾条もの緑色の光。
 先ほどまではこれに加えてもう一人の緑色の鎧騎士がいた。故に現状は僅かばかりは楽になったとも言える――実際はそれほど変わらないが。
 青い鎧武者――ウェポンデバイス・アビスが両手に握り締めた槍を振り下ろす。
 敵が振り下ろした槍を左手で捌き、右後方に受け流す。同時に足元のローラーブーツを動かし、右手のリボルバーナックルを起動――左足を踏み込む。

「リボルバアアア!!!」

 右拳の先端に水色の輝く魔力光。
 背筋に悪寒。一拍遅れて敵の胸の中心で赤い光が輝き出す。
 ――呼びこまれた。
 今更、攻撃を止められない。

「シュートオオオ!!!」

 裂帛の叫びと共に右拳を突き出す。放たれる魔力の衝撃波。敵がその体勢を崩す。

「あああああああ!!!」

 絶叫と共に魔力を更に引き出し衝撃波として叩きつける。彼我の距離が開く。赤い光が狙いを逸れて上空へ放たれる。ビルを掠める――吹き飛ぶ。どこかで爆発が起きた。髪が焦げた。
 吹き飛んでいく相手を見つめる。
 冷や汗が背中を流れていく――生きていることに安堵する。身体に疲労感が溜まっていく。
 生と死の境目で続けられる綱渡り。何か一つでも間違えれば確実に死ぬ。
 自身の体力には自信があった――だが、こんな攻防を続けていれば肉体はともかく精神に掛かる疲労は凄まじいものとなる。
 何よりも、

「……まだ、立ってくるんだよね。」

 防御力。そこに圧倒的な差が存在しているのだ。
 攻撃力は比較するでも無く敵が上。
 所々で冗談のように巨大化する光刃と槍。
 近づくことすらままならない――けれど、その攻撃は当たらない。
 捌くこと、回避することに徹し続ければ永遠とはいかないまでも、それなりに続けられる。
 だが、如何に体力があろうとも永遠に戦い続けられる訳では無い。
 攻撃を繰り返す度に、攻撃を回避する度に、体力は確実に削られていく。
 鉛のように重い身体。あと何度これを繰り返せばいいのか――何度繰り返せるのか。
 唯一の救いは念話で伝えられる状況だろう。
 キャロ・ル・ルシエから伝えられてきた通信ではシンがもう一人の鎧騎士を倒した、と。そして、現在こちらに向かっていると言う。

 ――それが余計に彼女を疲弊させる。

 別にシンに対して恨みがある訳では無い。
 ただ、どう接すればいいか分からないだけ。無論、そんなことを今思うべきことでも無いことを理解している。
 けれど、理解して、それで納得出来る訳でも無い。
 シン・アスカが姉を助けられなかったと言う事実は消えない。彼自身に責任が無いことも、彼が守ろうとしたことも理解できる。
 納得出来るはずも無い――どうして、姉は死んだのか。死ななければならなかったのか。
死ぬ理由はあったのか。どうして、助けられなかったのか。
 気を抜けば直ぐにそんな取りとめの無い思考が脳裏を覆う。戦闘に没頭している今は考えないでいい――それが少しだけ救いだった。
 けれど、シン・アスカとの共闘はその条件を崩す。没頭できなくなる。
 出来るなら、シンが来る前に戦闘を終わらせたいとさえ思う――それが絶対に無理なことだと理解はしているが。
 ウェポンデバイス・アビスの両腕の肩当てが開く――その裏側から現れる幾つもの砲口。同時に胸の中心で赤い光が収束する。光条の太さはそれまでの比では無く太い。当たれば人間など一瞬で焼失するほど。

「くっ…!!」

 ウイングロードを展開。上空に離脱――それまでスバルがいた場所で爆発。昇る噴煙。生まれるクレーター。砲口がこちらに狙いを定めている。続けて放たれる、赤と緑の光。
 それを回避して敵を中心に円を描くようにして空を駆け抜ける。放つと同時に鎧武者が追い縋る――槍が突き込まれる/巨大化。直径凡そ3m、長さは十数mを軽く超える巨大な朱い光の刃を取り付けた槍へと。

「っ――!!」

 突き込まれる槍をウイングロードで右側に駆け抜けることで回避。その槍が自身の移動方向に向けて薙ぎ払われた。
 咄嗟にウイングロードから“飛び降りた”。巨大な槍によって破壊されるウイングロード。
マッハキャリバーがウイングロードを自動生成――空に道が拓かれる。
 そこに狙い済ました砲撃。幾筋もの光条――敵にこちらの回避方向と攻撃方向を悟らせない為に階段状に更にウイングロードを展開。駆け抜けながら、回避しながら、距離を僅かでも詰める。

(近づけ――!!)

 心中で叫び、全力で敵に向けて走り抜ける。ローラーブーツを全力稼動。一瞬足りとも止まる訳にはいかない。止まれば死ぬ。
 目前の青い鎧武者の最大の利点は武器の間合いと威力。単純な話、戦闘距離と言う点では圧倒的にあちらに利点があるのだ。如何なる原理か敵は巨大な武装を即座に生み出し、収納すると言うことをする。巨大な見た目通りに威力は一撃でビルを破壊し、地面に亀裂を作るほど。
 それに対してこちらの利点は速度のみ――距離が離れた状況ではどうしようともスバルは不利でしか無い。逆に言えば攻撃の射程と言う問題もあるがそれ以上に近づけば近づくほどにスバル・ナカジマの生存率は伸びていく。ここまでの戦闘で、敵は近接距離においてはあの巨大な武器を使わない。恐らく距離によって使い分けているのかもしれない。
 故に近づく。近づかなければ勝機どころか、生存すらままならない。

「うおおおおおお!!!!」

 絶叫と共に駆け抜けるスバル。砲撃を放つウェポンデバイス・アビス。
 先ほどから何度も飽きるほどに繰り返された攻防――そこに“変化”が加わる。
 何の前触れもなく、突然に。

「え。」

 巨大な――それこそ馬鹿みたいに巨大な物体がそこにあった。空中に、浮かんでいる。
 突撃槍(スピア)のような姿。そして、平らな板のような姿――どこか剣を連想させる。その平らさと相まって処刑刀のような印象。色は黒ずんだ灰色。全て同じ長さで凡そ6mほど。
 光が、放たれた。

(やばい。)

 即座にウイングロードを展開――遥かに下方。そこに向けて地面と垂直にウイングロードを展開。落下――むしろ滑空に近い。加速する速度。重力加速度に加えて、ローラーブーツによる加速を追加。速度はそれまでで一番速い。
 それに追い縋る巨大な物体――速度は音速とまでは言わないが時速で言えば300kmを軽く超える速度。それに簡単に追い縋ってきた。

(早い。)

 対面にウイングロードを展開――その数六つ。上空から見れば正六角形に見えるような配置。そして、垂直に伸びるウイングロードを足場に“跳躍”。
 突撃槍(スピア)に光が収束する――放たれる。それまで駆け抜けていた場所を突きぬける光。
 続けて総数8つの突撃槍(スピア)と処刑刀から放たれる光の嵐。それをウイングロードからウイングロードへの跳躍で回避し続ける。
 言葉を放つ余裕は無い。必死に死に物狂いに回避を繰り返し続ける。
 徐々に近づく地面。そして、そこでこちらに狙いを定める青い鎧武者――ウェポンデバイス・アビス。灯る緑と赤の光。

「あ。」

 手詰まり。前方より放たれる赤と緑の光。そして後方から放たれる光の嵐。“死”が見えた。
 思わず、瞳を閉じた――突然身体に“衝撃”を感じた。
 身体に感じる誰かの身体の感触。突然の加速――身体が空中に放り投げられたように感じる。
 誰かが身体を抱き締めていることに気づく――突然の減速。同時に肉体にかかる衝撃/惰性=抱き締められる力が強くなる――痛みも熱さもまるで感じられない。その温もりに安心すら感じる。
 ――瞳を開ける。

「シン君……?」

 自分を抱き締めるようにして、シン・アスカがそこにいた。彼が自分の身体を地面に横たわらせた。

 ――ココロがざわつく。助けられたことへの感謝を伝えるべきなのに、口が動かない。

「……あ、ありが……。」

 けれど、スバルの口はそれ以上動くことはなかった。
 目前のシン・アスカの表情――それがあまりにも強張っていたから。

「……スバル、すぐにここから離れろ。」

 声の調子はこれまでよりもはるかに重い。無表情でしかなかった顔に映りこむ表情――憤怒。
空気が張り詰めていく。

「……ここは俺一人でいい。お前は早くティアナのところに行くんだ、スバル。」

 その言葉を受けてスバルの瞳にも剣呑な光が混じり出す。

「……シン君、一人で戦うつもり?」
「ああ、ここは俺だけでいい。」

 剣呑な光が輝きを強める。この男はどこまで自分勝手なのだ、と。

「……それなら、わたしもここにいる。ここで戦うよ。一人より二人の方が良いに決まってる。」

 彼の朱い瞳が彼女を覗き込んでいた――その目を見れば何か言ってはいけないことを言っ
てしまいそうで彼女は目を逸らした。

「…それに、シン君にはギン姉のことで話をしなきゃいけない。わたし、まだ何にも聞いてないから。」
「……ゲンヤさんから聞かなかったのか?俺が守れなかったから死んだんだ。俺が殺したんだよ。」
「…そんなのシン君の勝手な言い草だよ。わたしはただ……」
「……いいから、直ぐに逃げるんだ、スバル。」

 シンが睨み付ける方向――はるかな上を見た。
 何かが見えた。色だけが見えた――黒ずんだ灰色。先ほどまで自分を追い縋った“モノ”と同じ色。

(さっきと同じ、敵……?)

 鎧騎士――ウェポンデバイス。全身を鎧で覆っている。
 十中八九間違いないだろう――彼女は、そう思っていた。
 だから、シンの表情が理解出来なかった。
 危険なのは分かる。だが、それほどに焦る必要も無い。スバル・ナカジマが一人で渡り合える相手である。脅威には違いないだろうが――絶体絶命ではないはずだ。

「聞こえなかったのか…!?早く逃げろって言ったんだ!!」
「シン君、何を……」
「いいから、逃げろ!!殺されたいのか!?」

 シンの瞳に映りこむ怒り――違う。それは“苛立ち”。強大すぎる敵と戦う際に、誰もが表す焦燥。
 あれほどに、常識外れの力を手にしたシン・アスカが畏れるほどの――頭に思いつくのはシンと同じく常識外れの力を得て、その姿すら変えてしまった赤い髪の少年エリオ・モンディアル。

(エリオ……!?)

 視界を制御。戦闘機人としての性能――視覚を強化。最初は点でしかなかったモノが徐々に徐々にその輪郭をはっきりとしていく。見えるモノは“ヒトガタ”。そして、全身を鋼の鎧で覆っている――違う、エリオではない。少しばかりの安堵――同時に脳裏に湧き上がる言葉。

 “何かがおかしい”。

 ヒトガタであるのは間違いない。鎧騎士であるのも間違いない。
 スバル・ナカジマの視覚は通常の人間とは一線を画す戦闘機人の瞳。彼我の距離を測定する空間認識能力などはヒトよりもはるかに優れている――それこそミリ単位で数値化できるほどに。
 その彼女が生まれて初めて、自身の視覚が計測し弾き出した数値――それに疑念を持った。

(なに、これ…?)

 現われた数値が示す意味。それが信じられない。あまりにも馬鹿げている数値。背筋に悪寒が走る。この数値がもし、現実ならば――。

(そんなこと無い、こんなの在り得る訳ない…!)

 徐々に近づいてくる“ヒトガタ”――胸を埋め尽くそうとする、得体の知れない感情を消すために何度も何度も計測を重ねる。
 計測/算出=変わらない。
 計測/算出=変わらない。
 計測/算出=変わらない。
 計測/算出=変わらない。
 何度も、何度も、何度も計測と算出を繰り返し続ける――弾き出される数値は常に同じ。
 そんな数字が出るはずが無い。そんなモノが存在するはずが無い。そんな――20mを超えるような巨大な“ヒトガタ”などいるはずが無い。
 だから、こんな数値は間違いだ。
 きっと自分の“眼”は壊れているのだ――そんな“恐怖”に囚われた思考を遮って地面を覆うアスファルトが、コンクリートが、土が、石が――その重量に震えた/陥没した。
 陥没した場所にいた全ての存在――瓦礫と化した廃墟、残骸と成り果てたガジェットドローン、その上で群れを成して隊列を組んでいた未だ稼働中のガジェットドローン、その一切合切が象が蟻を踏み潰すように瓦解した。

 震える身体。その威容を前にすれば自分(ニンゲン)がどれだけ矮小な存在なのか理解出来る。
 見上げなければ全体を視認出来ないほど――機動六課隊舎よりも確実に大きいと言える巨体。20mを軽く超え、30mに届かんばかりの巨体。
 右手に持った黒く巨大な銃――建物よりも巨大な銃など想像もつかなかったが現実に見れば、その存在の凶悪さはガジェットドローンが子供の玩具に思えるほどに筆舌に尽くし難い。
 先ほどスバルを攻撃した、突撃槍(スピア)と処刑刀がその背中に戻っていく。
 その身体は突撃槍(スピア)と処刑刀と同じく黒ずんだ灰色。背中に背負った二つの巨大な半円状の機械――それだけで10mを楽に超えている。
 素体は完全な人型。細身と言うよりは太みのある体躯は屈強さを感じさせる意匠――それに反抗するかのように背中に背負った半円状の機械の塊が全体の意匠を破壊している。どこか噛み合わない出で立ち。それが余計に恐怖を加速させる。
 在り得ない存在。見た事も無いモノ。漫画やコミックの中にだけ存在する、幻想(ファンタジー)そのものとも言えるその“巨大さ”。

「……う、そ。」

 笑えるほどに巨大な――巨大な“ヒトガタ”。
 所々装甲に亀裂が入り、そこかしこからケーブルが飛び出し、火花が飛び散っている。見るまでも無く半壊しているその姿。
 頭部のカメラアイは片方が割れて、火花を常に散らしている――傷だらけの姿は一目で機
械だと分かる姿なのに、どこかイキモノじみた印象を与えて余計に恐怖を加速させる。

「なに、これ……?」

 呆然としたスバルの呟きと同時に巨大な人型の半壊した各部からケーブルが伸びていく――黄褐色のオイルを滴らし伸びていく姿はどこか単細胞生物の触手を思わせて、おぞましさを増大させていく。
 “触手(ケーブル)”が地面を埋め尽くすガジェットドローンに触れた。
 火花を散らす触手(ケーブル)の先端部から内部に敷き詰められた蚯蚓(ミミズ)の如き無数の導線が外皮を切り裂いて、ガジェットドローンの残骸に蛭(ヒル)のように吸い付き――“食い漁った”。

 ――ぎち、ぎち、ぎち、ぎち
 蛇が卵を咀嚼するように導線が膨らんでは縮み、残骸を飲み込んでいく。

 ――ぼぎ、ぼぎ、ぼぎ、ぼぎ
 飲み込んだ残骸が触手(ケーブル)の体内で噛み砕かれ、分解(ショウカ)されていく。

「ガジェットを…食べ、てる…?」

 悪夢のような目前の光景に惧れを抱いて知らず、言葉が、吐き出された。
 卵を飲み込んだ蛇のように触手(ケーブル)が膨らんでいく。
 導線(ミミズ)が食い漁る残骸は既に触手(ケーブル)の内容量をはるかに超えている――風船のように膨らむ外皮。際限無く膨らみ続ける触手(ケーブル)。
 ずぶり、と、その所々を分解(ショウカ)し切れなかった残骸(ナカミ)が突き破り始めた頃――卵を飲み込んだ蛇だった触手(ケーブル)の外皮が単細胞生物(アメーバ)のように蠢き、姿を変え始める。その触手(ケーブル)が繋がる大元――巨大なヒトガタの背中に突き刺さる処刑刀へと。一つではない。地面に散らばる数多のガジェットドローンの残骸、それを食い漁り処刑刀へと、そして突撃槍(スピア)へと、生まれ変わっていく残骸達。
 処刑刀、そして、突撃槍。それらの正式名称――ドラグーン。コズミックイラにおいて最強を誇った武装の一つ。そして、それを生み出すヒトガタ――レジェンドと呼ばれるモビルスーツ。

 誰もが――その戦場にいる全ての人間が、その威容に釘付けとなった。
 全長20mを大きく超える人型兵器。戦場が“停止”した。誰もがその巨体に眼を奪われて――だが、それも数瞬のことだ。
 この場にいる魔導師は皆、歴戦の勇士達ばかり。無論、そうでない者も中にはいるが――その全てが敵が見たことも無い“兵器”だからというくらいで怖気づくような臆病者は誰一人としていない。
 
 ――本来なら、“怖気づく”べきだった。常識の埒外から現われたバケモノを相手に怖気づくのは臆病ではなく賢明だからだ。
 だが、それを悟れと言うのは酷な話でもある。シン・アスカのようにモビルスーツという存在が“常識”の世界に生きる人間ならばともかく、彼らにとってはこの光景は現実味の無い幻想でしかない。
 だから、彼らは恐れない。魔法という存在が“常識”の世界に生きる彼らはモビルスーツという存在の“常識”など知る訳が無いのだから。
 だから、彼らは怯まない。自らの培ってきた実績と経験にモビルスーツの存在など記されていないのだから。
 だから、彼らは――

「砲撃魔法……?」

 遠方で一際強く輝く閃光を見てスバルが呟いた。シンもそちらを見た。
 目に入ってくるのは色鮮やかな光の群れ――魔力を物理衝撃に変換し放つ砲撃の雨。
 非殺傷設定は解除してある――人型兵器という化け物相手に遠慮はいらない。
 その砲撃の嵐は、たとえAMFが張られていようと関係無しに装甲を抉って、穿って、残骸にするには十二分の威力の“物理衝撃”。
 幾度も幾度も砲撃魔法が当たる度に爆発が起きる。粉塵を巻き上げて、その巨体が見えないほどに塵煙が立ち昇る。
 シンの瞳がそれまでに無く、“吊り上がった”。
 自分を抱き締める腕に痛いほどに力が籠った。

「……ろ。」

 ガタガタと手が震えている。

「……めろ。」

 呟く声は誰のものかも分からないほどに震えている。

「……や、め、ろ。」

 近くにいる自分にも聞こえてくるシンの奥歯がガチガチと何度も噛み合う音。極寒の寒さに耐えるように、シン・アスカの肉体が震えている。

「やめろ」

 絶叫――同時に朱い炎がシンの全身を覆った。即座に弾丸と化して、砲撃を放った陸士部隊に向かっていこうと飛び立とうとする――瞬間、立ち昇る噴煙の中で、レジェンドがその隻眼
を輝かせた。禍々しいほどに紅い高密度魔力結晶(レリック)の輝きを。

「やめ……」

 爆音によって掻き消された呟きは誰のものか。
 噴煙を引き裂くようにして現われた光が視界を染め上げた。思わず、眼を閉じる二人。甲高い音――シンにとって聞きなれた音。ビームライフルの発射音。
 光の色は血色の紅。紅光は一撃でコンクリートを融解させガラス化させるほどの高温。
 陸士部隊の一小隊が集団で精製した対魔力障壁に紅光が迫る――亀裂が入る/ガラスのように粉々に/霧散する――業火に包まれた。
 空を赤く染め上げ、立ち昇る焔の柱。灼熱の高温が瓦礫に着火し、柱を大きくしていく。
 噴煙が晴れていく。
 巨大なヒトガタ――レジェンドには傷一つ付いていない。先ほどまでと何ら変わりない姿――全体の配色だけが明確に変化している。色合いは漆黒の黒と深遠の蒼。色合いの濃淡がそのまま防御力を示すVPS装甲において、それは砲撃に対して防御力を高めるだけの意味合いでしか無い――けれど、まるで御伽噺に出てくる悪魔のようにその色合いは禍々しさを
感じさせる。
 ソイツが、歩き出した。
 一歩踏み出すたびに地面が震動し、踏み込んだ地面のアスファルト舗装がその重量に耐え切れずに陥没する。木々を薙ぎ倒し、一歩一歩ゆっくりと歩を進める――実際はそれほど遅くは無い。モビルスーツの一歩とは少なく見積もっても数mの距離。ゆっくりなのは見た目だけだ。実際は車よりもよほど早い。

 べちゃ。
 逃げ遅れた誰かが踏み潰された。

 べちゃ。
 向かっていった誰かが踏み潰された。
 
 べちゃ。
 建物に隠れた誰かが建物ごと潰された。

 レジェンドの足の裏にゼリー状の紅い何かが張り付き、足を持ち上げる度にそれが垂れ下がり、また潰され、垂れ下がり――臓物、皮、骨、眼球、人体のありとあらゆる部分が混じり合って、融け合って別物のナニカに変化していく。
 誰かがまた向かっていく。今度は多数の人間。放たれる砲撃魔法。
 レジェンドの側頭部に作られている穴から轟音の連鎖/鋼の弾丸が秒間数十発と言う速度で弾丸が放たれた。射線はオレンジ色の軌跡を描く――高速で射出される弾丸はさながら光線の如く。

 人が弾け飛んだ。肩が吹き飛んだ。膝が消えた。顔が抉られた。目が飛んだ。
 
 シン・アスカはただそれを呆然と見ていた。
 身体が動かなかった。震えが止まらない。その身を包む朱い炎が揺らめき出す。右手を腰のホルダーに固定してあるデスティニーに伸ばした。右手が震えて、上手く掴めない/無視して
掴む――手が震えて、デスティニーを地面に落とす。“慌てて”それを握り締めようとする――掴めない。
 焦点の無い無機質の瞳が歪み出す――守れなかったことへの後悔と守れなかったことへの憤怒と守れなかったことへの悲哀と、そして胸の奥から湧き上がってくるある“記憶”のせいで。

 ――その紅は思い出してはならないモノを思い出す/無理矢理ソレを奥底に封じ込めた。
 
 力が入らない。震える手でデスティニーを掴む。手が震えて持っていることすら難しい。震えていない左手で無理矢理、右手にソレを掴ませる。
 焦点の無い無機質の瞳が歪み出す。
 守れなかった=殺した。
 シン・アスカの中で明確化したその事実。
 自身が守れなかったモノは全て自分の責任で死んでいった。いつも通りのその思考。彼の根幹を成す方向性――それで全てを押し流す。

 ガチガチと鳴り響く歯と歯が打ち鳴らす音が煩い。ズキズキと頭が痛い。サイレンのような耳鳴りが鳴り出す。心臓の鼓動が不規則だ。冷や汗が酷い。胸をせり上がる胃液。胸焼けと吐き気が酷い。息が荒い。思考が纏まらない。
 自分の内側からナニカが浮かび上がってくる――多分、知らない方がいいだろうモノが。思い出してはいけないモノが。

「シン君!!」
「…あ、え?」

 スバルの声に間抜けに返事をした――瞬間、スバルに腕を思いっきり引っ張られた。痛みが走る。力が入らない。人形のように彼女の力のままに振り回された――爆発。吹き飛ばされた。
 続いて、それまでいた場所を巨大な槍が貫いた――上空からは緑色の円筒が見えていた。緑色の光を発射。
 上空と前面からの二連攻撃。
 “敵”だ――思った瞬間、震えが止まった。浮き上がり出したモノが沈降する。瞳に虚無が舞い戻る。絶望が心の奥のモノを覆い尽くしていく――問題ない。戦える。
 朱い炎がシンを包む/エクストリームブラスト発動。
 自分の左手を握り締めるスバルの左手を力強く握り締める。
 上空の緑色の円筒から発射される緑色の光と巨大な槍を左肩と左腰から発射したフィオキーナで同時に回避。
 視界の端に緑色の鎧騎士。緋色の光を放つ剣――ビームサーベルに酷似している――を振り被っている。

 ――誘い込まれた。

「死ね…!」

 どこかで聞いたことがある声――思考が纏まらない/無視。左手で大剣(アロンダイト)をビームサーベルにぶつける。火花が飛び散る。鍔迫り合い――片手が塞がった。
 背後からこちらを狙う気配。恐らくは先ほどの槍。サイズは変わらず通常通り――スバルを咄嗟に突き飛ばす。空いた左手でフラッシュエッジを引き抜く。槍の場所など分からない。直感に任せて振り抜いた。刃と刃が激突――単なる偶然。槍と剣を大剣(アロンダイト)と短剣(フラッシュエッジ)で受け止める。均衡は一瞬。崩れる――フラッシュエッジが左手から弾かれる。槍で払われた。
 返す刀で喉元を突き抜こうと迫る槍。
 首を捻ってその一撃を回避。首筋から血が流れる――同時に背筋に悪寒。緑の鎧騎士の胸部が紅く輝いている。フィオキーナを両肩両腰に展開し全速で後退。紅い光が放たれる。前髪が焼け焦げた――距離が開く。
 攻撃が収まらない。突き飛ばしたスバルに意識を向かせないように回避と攻撃を繰り返す。
 遠くを見れば――レジェンドの蹂躙が見えた。それに立ち向かう勇敢な――けれど決して正しくは無い魔導師達も。
 頭痛は消えない。吐き気も消えない。けれど、時間は、無い。一刻も早くあそこに向かわなければ、戦いだけはやめるわけにはいかない。“守れない”。

「くそっ…!!」

 毒づき、デスティニーに搭載されているもう一本のフラッシュエッジを引き抜き応戦する。
 一撃一撃の威力は小さくなるが、一本の得物では捌ききることは難しい。敵の防御力は先ほど殺した奴らと同じく凄まじく硬い。通常の攻撃では掠り傷一つ与えられない――それこそ巨大斬撃武装(アロンダイト)でなければ斃せない。
 だが、アレは使えない。

 スバル・ナカジマが未だにそこにいる。援護の機会を窺っている――そんな彼女を巻きこみ、殺すことになる。
 基本的にシン・アスカの戦いとはチームプレイではなくスタンドプレイである。
 圧倒的な火力と機動力と回復力で敵を倒す。
 シン・アスカはそんな周辺一帯を根こそぎ殲滅するような戦い方しか出来ない――彼にとっての戦いとはそれが本分である。
 縦横無尽に動き回り、圧倒的な暴力で以って敵を屠るというそれだけ。シン・アスカが単騎なのは、それ以外の運用法が無いからだとも言える。

 だが、今その本分を果たす訳にはいかない。不可能だ。ギンガ・ナカジマの妹を殺してしまう――出来る訳が無い、絶対に。

『シン君、どいて。』

 念話による通信。相手はスバル・ナカジマ。一瞬、視界に彼女が入る――構えている。右腕を振り被ったシューティングアーツ独特の突撃の構え。

(あの、馬鹿…!!)

 彼女の足元のローラーブーツが唸りを上げ、土煙が舞い上がる。身体を前傾。

 ――駆け抜ける。距離は僅かに数m。その程度の距離、スバル・ナカジマにとっては一足の間合いと言っていい。振り被った拳から迸る震動。全身を連動し、拳の一点にその全てを収束し、肉体にかかる反動を限りなくゼロにし、そして――敵を穿ち貫く。

「――震動拳。」

 右腕を突き出す。迸る震動。
 ウェポンデバイス・アビスの胸に突き刺さるスバルの右拳――その間にアビスの右手が挟まれている。直撃ではない。だが構わない。二撃三撃と追撃する――目前でシンが闘っているのに、自分だけが蚊帳の外の如く、眺めているだけなど出来はしない。
 何よりも――目前の敵は、彼女にとっては仇なのだ。殺したのが誰なのかは分からない。だから憎悪は拡散し、収束先を探している。シンに話を聞きたかったのもそのせいだ。

 彼女は、自分が誰に復讐をするべきなのか分からない。
 ナンバーズなのか、鎧騎士なのか、ジェイル・スカリエッティなのか、それとも――シン・アスカなのか。
 
 彼女は、復讐したいのだ。誰に、とは言わない。その相手が分からない。
 だから、逃げろと言われれば逃げる訳にはいかない――それは復讐の放棄になるのだから。

 ――アビスの槍の一薙ぎを頭を屈めることで回避、同時に左足を踏み込む。踏み込んだ左足を中心に身体全体を巻きこみ、左脇腹を左拳を突きあげる/拳に返ってくるのは硬い感触。効いていないことを実感――吹き出す始める憎悪がその無力感を掻き消す。

「はあああああ!!!!」

 任務で戦っていた先ほどとは違う、迸る感情そのままに身体を動かす。衝撃で相手の反応が一瞬遅れる。構わず右拳を右脇腹に向けて突きあげる。拳に返る硬い感触。
 ――気にしない。

「あああああああ!!!」
 絶叫。撃つ。避ける。撃つ。避ける。撃つ。避ける。
 繰り返されるルーチンワーク。超近距離での高速戦闘。ステップはローラーブーツの機動によって確保。
 狭窄した半径2mにも満たない範囲を駆け抜ける。
 拳に乗せる威力は足元のローラーブーツが生み出す速度を下半身と上半身の連動で伝える――拳と敵の距離僅か10cmにも満たない距離を重さを纏った拳が貫き続ける。
 硬い感触しか返ってこない。幾度繰り返しても鎧を突きぬけることは出来ない。効いていない確信――こんな程度の憎悪しか生み出せない自分自身が恨めしい。

「ギン姉を……!!」

 左手を突き出す。収束する青白い魔力――右手を突き出す。抑制などしない。この手が千切れても構わない。ただ、その憎悪が全てを突き抜けることだけを願って――放つ。近接砲撃魔法ディバインバスター。

「返せええええ!!!!!」

 絶叫――或いは慟哭。
 非殺傷設定だとか殺傷設定などは関係無い。ただ、撃った。膨れ上がった憎悪のままに、突き出す――けれど、憎悪は届かない。スバル・ナカジマの憎悪では“届かない”。
 彼女の憎悪は燃え盛る炎でしかない――そこに冷静さは無い。対するウェポンデバイス・アビスは機械と同じく怜悧冷徹冷酷無比。
 燃え盛る炎は冷え切った錬鉄を焼き切ることなど出来はしない。
 出来るとすれば、それこそ全てを――自分自身ですら燃やし尽くすほどの業火とならなければ、意味が無い。そうでなくては、感情が技を振り回すのだ。
 今の彼女のように炎が技に勢いを与え、その炎が技を振り回す。攻撃は規則正しいなリズムで、規則正しい場所を打ち続ける――つまりは単調極まりない攻撃へと。

(避けられた……!?)

 スバルの右手が突き出した場所には既に誰もいない。
 どんなに全身の力を連動したところで至近距離での一撃の威力は通常の一撃に比べて下がるのは道理である。
 物質の運動エネルギーは速度によって増加する。
 至近距離での一撃はどうやったところでその速度を生み出す為の射程距離が足りないのだ。
 先ほどの高速の連打に込められた威力も、下半身の筋力を上半身の筋肉に伝えた程度――通常の魔導師ならばこれで昏倒する。ガジェットドローンも同じく。
 だが――目前の鎧騎士にはそれでは足りない。
 何故なら、彼らはモビルスーツそのもの。少なく共厚さ数十cmにもなる鋼の装甲を人程度が貫けるなどおこがましいにも程がある――更にスバルは知る由も無いが彼らの鎧に見える装甲はCEという時代において開発された実体弾――つまり物理攻撃を無効化すると言うVPS装甲である。人の筋肉が生み出す程度の威力で貫けるはずがない。
 故に、ウェポンデバイス・アビスは冷静にスバルの一撃を見極めることが出来た。
 通常の打撃ならば避ける必要も無く、避けるべきは通常でない打撃――つまり必殺の一撃となる。
 いつもの彼女ならば気付いたであろう、その誘い。アビスの身体は向きを変えて、攻撃をしていただけで防御など初めからしていなかったのだから。
 必殺の一撃はそれに見合うだけの行動――つまり、大きなモーションを必要とする。大きなモーションは敵に攻撃を読まれやすいという問題点と、もう一つ重大な問題点を内
に秘めている。
 即ち――回避された場合は最大の隙を敵に与えてしまうと言うことだ。

「――っ」

 刹那、スバルが歯を食いしばった。
 自身の左横に既に移動していたアビスが槍を振りかぶっているのが見えた。
 避けられない。前傾した姿勢はそのままに、身体が泳ぐようにバランスを崩している。
 右手を引き戻し防御する。
 身体を捻って回避する。
 地面に倒れこんで回避する。
 
 ――その全てが間に合わない。
 
 スバル・ナカジマの神経の反応速度と肉体の反射速度では決して“間に合わない”。
 覚悟を決める。

(一撃だけ、一撃くらいなら、耐えてみせる…!)

 心中で自身を鼓舞。敵が狙ってくるのは恐らく腹部。近すぎる間合いが、槍を巨大化させる一撃も、槍の先端の刃の一撃も、封じ込めている――故に狙われるとすれば腹部への柄の部分での打撃が最も可能性が高い。
 息を止めた。腹筋に力を入れた。魔力をその部分に集中――咄嗟にシールドとプロテクションを展開する。
 ひゅん、と音がした。狙いは予想通りに腹部。筋肉を締め上げて激突に備えた――そして、意識が喪失した。
 喪失した意識が辛うじて感じ取ったのは浮遊感。次に地面との激突。身体中が痛い。瓦礫に身体が当たったような気がする――気がつけば、目の前に地面。理解出来ない光景。すぐさま身体を動かす――動かない。声を出そうとする――声が出ない。動くのは瞳だけ。それですら動かすだけで激痛が走る。
 距離が開いている。あの鎧騎士が槍を“振りぬいた状態”でこちらを見ている。
 ようやく、そこで理解する。
 スバル・ナカジマはウェポンデバイス・アビスから20mほど離れた場所にまで“吹き飛ばされていた”のだと。

「……ぅえ…が、ひ…ぎぃ…」

 呼吸が、か細い。意識が戻っても身体が動かない。
 涎が垂れていく――黄色い胃液が飛び出ている。
 脳髄が勝手に痛覚を断線したのかもしれない。意識はあるのに、痛みはない。同時に身体がまるで動かない。
 咄嗟に展開したシールドとプロテクション。更には鍛え上げた腹筋と戦闘機人として強化された骨格。その全てが僅か一撃で、破壊された。
 肋骨が骨折、吐血していない様子からして内臓は破裂していない、呼吸が出来ることから、折れた肋骨は肺に刺さらなかったようだ――シールドとプロテクションを展開し、可能な限りの防御を試みた上で、コレだ。つまり、防御していなかったら確実に死んでいた。生き残ったことは恐らく奇跡に近い。
 そこでスバルは気付く。目前の敵の“恐ろしさ”に。

(……そっか、あの姿って…見た目だけなんだ。)

 然り。ウェポンデバイスとは小規模次元世界作成という技術によって作られた、人間サイズのモビルスーツ――モビルスーツと人間の融合体とも言える。サイズの違いすぎる二つを融合させるならば、本来ならサイズをあわせる必要がある。モビルスーツを小さくするのか、それとも人間を巨大化させるのか――冷静に考えれば前者だ。後者はそれこそ新たなヒトを作らなければならない。

 だが、小規模次元世界という技術は、それを覆す。
 サイズを維持したまま、融合させ――人間サイズの武装にモビルスーツの重さを与えることが出来る――今、スバルが喰らったようにして。
 デスティニーの巨大斬撃武装(アロンダイト)もこの技術によって現在は格納されている。
 先ほどデスティニーが詠唱した“呪文”は小規模次元世界――彼方側から此方側への“扉を開く為”だけの術式。
 ウェポンデバイス――彼らはその肉体そのものが此方と彼方の中間に座している。
 見れば――青い鎧騎士の足元が30cmほど“陥没”している。唐突に現われた重さに地面が耐え切れなかったのだろう。
 声が出ない。憎悪が湧き上がらない。眠い。音が聞こえない。無音の静寂――眠い。
 青い鎧騎士が槍を振り上げた――反応出来ない。眠い。このまま眠りにつけば死ぬだろう。

「…ぁ……ぅ」

 槍が振り下ろされる。
 スバル・ナカジマは死ぬ。彼女自身はそれを受け入れる訳でも、跳ね除けるわけでもなく、ただ動けないでいる。
 どの道、終わる。彼女は今度こそ死ぬ。
 絶叫が聞こえた気がした。その方向を見ればシン・アスカがこちらに向けて朱い炎を身に纏い弾丸の如く飛んでくるのが見えた。
 その叫びに反応し、青い鎧騎士は彼の方向に振り返り距離を確認――そして彼を“無視”してスバルに向けて槍を振り下ろした/巨大化――掠れば吹き飛ぶ超重量。まともに下敷きになれば肉片というのもおこがましい液体の出来上がりだ。

(もう、いいや。)

 痛みが、眠気が、無力が、悲しみが、彼女の身体から根こそぎ気力を奪っていく。思考することも億劫なほどの疲労と感じた瞬間に死んでしまうであろう程の激痛。
 その二つがスバルのココロに諦めを促していく。

 ――それは痛みから逃れる為の生命の本能が持つ機能。
 
 彼女自身は死にたくない――けれど、本能という人の持つ機能には逆らえない。
 瞳を閉じて、それを受け入れようとした時、“やめろ”と叫ぶシンの声が聞こえた。
 思わず瞳だけをそちらに向ける。そこにこちらに向かっているシン・アスカが見えた。
 身体はボロボロで傷だらけ――後方から緑の鎧騎士が放つ赤い光を避け損なって何度も何度も傷ついたのだろう。自分が死んでしまいそうな状況でも他人のことしか考えない馬鹿な男。姉は彼のそんな姿に惹かれたのかもしれない。確かにそんな馬鹿は好意に値するのだから。
 考えてみれば、いつも彼は姉と話してばかりで、自分はあまり話をしたことは無いような気がする。

(……もうちょっと話しておけばよかったかな。)

 少しだけ後悔――けれど、後の祭りでしかない。気にしない――忘れよう。
 今度こそ、瞳を閉じた――けれど、そこに、

「――諦めるには、少しばかり早いんじゃないのかな?」

 声がした。思わず瞳を開いた――そして、スバルは、“見た”。
 想像を絶する――想像することなど不可能な常識外れの“極限”を。
 彼女の前に男が立っていた。
 それはどこかで見たことがある男――恐らく一度会えば決して忘れない類の男。
 顔の半分以上を覆う鉛色の仮面。ウェーブがかった長髪――背中の中腹まで伸びている。
 服装は黒いトレンチコート。手元には黒い傘。足元には黒い革靴――まるで戦場に相応しくない姿。
 無造作に髪をかき上げて、男は右手を伸ばし、呟く。

「……女性はもう少し優しく扱うものなんだがね。」

 振り下ろされた“巨大な槍”に触れる。感触は硬い鋼の感触。重量は人間の持つ重量を大きく越えている。持ち上げることも、弾くこともままならない。
 
 故に、受け流し、滑らせる。
 まるで、それはお伽噺の魔法だった。
 
 
 力とは流れである――川や海が悠久の時の中でそのカタチを大きく変えていくように、流れは不変では無い。だが、それは“悠久”の時があるからこそ出来るのだ。
 変えるべき流れが大きくなればなるほど、勢いが強くなればなるほど、流れとは不変に近づく。
 巨大な川の流れを人の手で修正しようとすれば、必然として求められる力や時間は等比級的に増加する。
 故に、直径3m、全長20m超と言う人から見ればあまりにも巨大な“質量”と言う流れを変えるなど不可能である。

 ――だが、世界には往々にして例外と言うものは存在する。太古より人類が培って来た技術とはそれら自然の理を制する為にこそ存在するのだから。

 科学然り。魔法然り。――そして、武術然り。
 ここからの動きはスバル・ナカジマの戦闘機人としての眼だけが取得した“情報”だ。
 時間は刹那にも満たない瞬きの如く。
 
 男の右掌の左部分が巨大な槍に触れる。
 そのまま彼から見て右下方向――つまり振り下ろす方向と同一方向である――へ向けて振り下ろされる槍と同じ速度で動かし、右掌を“槍の重心”の上に配置する。これらは全て右半身の動きである。右手と右足を動かし右半身を“槍の重心”の上に移動させている。

 そしてこれと並行して男の身体はもう一つの動作を行っている――即ち残った左半身を用いた動作である。
 振り下ろす動作と連動した右半身。
 それとは逆に左半身が連動するのは振り“上げる”動作。
 先端が降りるのなら、掴んでいる部分は必ず昇ろうとする。
 シーソーのように支点を中心にして、昇り降りを行う。槍を振り下ろすと言う動作の中に内在する振り上げる動作への連動である。
 左掌の中央を“槍”に当てる。そのまま彼から見て右上方向へ――即ち振り上げる動作と同一方向へ同じ速度で動かし、左掌を“槍の重心”の下に配置する。
 この時点で“槍の重心”は真逆の方向に移動する独立した二つの力を受けている――通常ならばこんなことをしても意味は無い。
 投げの基本とは重心を中心にして二方向に力を掛けること。直立している人間ならば、頭に右方向、足元に左方向の力を掛ければ転ぶ。
 仮面の男がしたこともそれと同じだ。だが、どれだけ力学として正しいとしても、目前の槍にはまるで意味が無い。
 何故なら仮面の男は人間だ。
 蟻が象を投げることが出来ないように、人間が数十tもの重量――例えるなら通常の電柱の10倍以上の円柱を投げられるのかと言うと、考えるまでもなく不可能だ。

 ――普通の人間ならば。

 ナイチンゲールが赤い輝きを強め、幾何学模様に変化し、仮面の男の肉体へと伝わって走り抜ける。
 黒いトレンチコートの内側で筋肉が膨張し、体表に血管が浮き上がる。
 ひゅっと言う鋭い呼気と共に、仮面の男の身体が真っ赤に染め上がる。胸の中心で一際紅く輝く光。それが心臓のように明滅している。

(……レリック?)

 スバルの胸中で疑問が湧き上がる――けれど、その疑問は次の瞬間、消え失せた。

 ――仮面の男の両の掌が円を描いた。そして、仮面の男の描いた円の軌道を沿うようにして、“槍”が、ぐるり、と回転した。それを握り締めていた青の鎧騎士も巻きこまれるようにして吹き飛んでいった。
 耳鳴りのように地響きが鳴り渡る。凄まじく巨大な槍が回転した挙句に倒れた。その様は巨木が倒れる様を連想させる。
 吹き飛んだ方向を油断無く睨みつけながら、仮面の男は背後を振り向いた。
 身体中を傷だらけにしたシン・アスカがそこにいた。
 驚愕と言った表情――それはそうだ。誰だってあんな光景を見ればそうなるに決まっている。

「ぐ、グラディス……なの、か?」

 シンにグラディスと呼ばれた仮面の男は、その問いに答えることなく呟く。

「遅いぞ、シン。キミの大事な仲間が死に掛けている。」
「あ、ああ……デスティニー。」
『了解しました。』

 デスティニーから先ほどティアナにしたようにして、朱い光が流れ込んでいく。
 輝きは幾何学模様に変化し全身へと伝わっていく。
 口元から溢れる吐血をバリアジャケットの袖で拭う。

「……生きてる、か…スバ、ル。」
「…ぅ…ん」

 出来る限り優しく呟いた。彼女の頬に触れる――暖かい。生きていると言うその事実にホっとする。ギンガ・ナカジマの妹を“殺さなくて”済んだことが何よりも嬉しい。

「さて、早めに頼むよ、シン。遠からず、奴らはまたこちらに来るだろうからね。」

 後方から聞こえてくるグラディスの声。飄々としたその口調とは裏腹に先ほど彼が行った“投げ”はシンの常識をはるかに凌駕していた。
 デバイスの助けがあったのか、何なのかは分からない。けれど仮に助けがあったとしても、人間がモビルスーツサイズの武器を“投げる”など常識外れもいいところだ。
 疑念、というよりも困惑があった。恐らく、この男は“味方”なのだろう――そう言えば、ヴェロッサが出撃前に援軍のことを言っていたような気がする。
 自分には関係の無いことと気にはしていなかったが――だが、それでもこの男がその“味方”などとはとても信じられない。
 彼の知る――とは言えそれほど知る訳でもないが――ギルバート・グラディスという男はお世辞にも戦闘など出来るようには思えなかったからだ。
 一度だけ、彼に懐に入られたこともあるにはあった。だが、それだけで彼の戦闘能力を推し量るような真似がシンに出来る筈も無い。

「……あんた、何者だ。」

 仮面の位置を手で直しながら、グラディスはこれまでと同じく飄々と呟く。

「なに、ただの通りすがりの店長さ……喫茶店のね。」

 胡散臭い、あまりにも胡散臭い態度だった。どこの世界にモビルスーツサイズの槍の一撃を投げ飛ばすことの出来る喫茶店の店長がいると言うのか。
 怪訝な瞳でシンはグラディスを一瞥し――その視線を受けて、彼は親指を立ててレジェンドを指し示す。

「終われば、直ぐにアレに向かえ。今のアレを止められるのは君しかいない。」
「他の奴らは、どうするんだ。」
「既に私の部下が援護に向かっている。そちらは任せておきたまえ。」

 スバルの呼吸が徐々に徐々に寝息のように優しく、規則正しくなっていく。リジェネレーションによって全身の怪我が癒されていく。

「……信じていいんだな?」
「勿論だ。」

 シンはスバルから手を離す。同時に彼女の身体を覆っていた朱い光がデスティニーに溶け込むようにして戻っていく。
 立ち上がり、振り返ってレジェンドが蹂躙する方角を見つめる。

「そこにいる子……ギンガさんの妹なんだ。絶対に、」
「死なせるな、だろう?分かっているよ。」

 グラディスの返答を聞いて、シンは、頷いた。
 次いで、爆発音――シン・アスカが飛び去った音。血走った焦点を失った瞳と傷だらけの朱いバリアジャケットと同じく傷だらけの肉体。それらを全て朱い炎で覆い尽して。
 グラディスはどこか“懐かしげ”に彼が飛び去った方向を見つめる。そして、後方で漏れた声に気付き、振り返った。

「…シン、君…」

 スバルが瞳を開いていた。地面に寝転がったまま、呆然として。
 シンが飛び立った瞬間の音で起きたのかもしれない。

「気がついたのかね?」
「シン君は……」

 グラディスがシンの飛び去った方向――その先のレジェンドに左手の人差し指を向けた。

「もう、行ってしまったよ。」
「……」

 押し黙り、スバルはじっと自分の頬――シンの手が触れた頬に触れた。
 暖かい手だった。決して、自分を害そうとする手ではなかった。……少なくとも、憎んでいいような手ではなかった。

「…シン・アスカという男はね、哀れな男なんだよ。」

 グラディスが唐突に口を開いた。

「一度も成功したことが無い上に、今までずっと他人に利用されて生きてきた。その上でその全てに失敗して、落ち毀れて、その上で今ここにいる。」

 独白のように呟く。
 スバルの耳に不思議と入り込む、誰かに聞かせることに慣れきった声。

「彼は二人を守れなかった。別に彼が悪い訳じゃない。守れなかったんだ。守らなかった訳じゃない――けれど、あの男にはそんなことまるで関係ない。守れなかった以上は自分が悪いと、力が足りないからだと自分を追い詰める。」

 その通りだった。彼は自分が二人を――ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウンが殺したと言っていた。
 自分が殺した。自分が守れなかったから二人は死んだ。だから、二人を殺したのは自分なのだと。
 そんな責任を彼が負う必要はどこにも無い。守れたかどうかは結果でしかなく、その過程において彼は二人を守ろうとしていた“はず”なのだ。なのに、彼は頑なに自分自身の非を貫き通そうとしている。

「そうして、追い詰められたあの男は極端に走るだろう。それこそ、常人では信じられないほどに極端な方向に。全ての責任を背負えるほど、あの男は強くない。だから、どこかで言い訳を――極端で格好の良い“落とし所”を探す。」

 グラディスが何を言いたいのか分からない。
 どうして、突然、こんなことを自分に言い聞かせているのか、分からない。
 なのに、言葉は勝手に自分の思考を遮って、脳裏の中心に座していく。染み渡る言葉というのは正にこれだろう。
 知らず知らずの内にその言葉に耳を傾けることを自然に思う自分が生まれていく。

「……それって」

 知らず、スバルは呟いた。言い訳。落とし処。グラディスはそう言った。
 人間ならば、それは当然だ。溜まりこんだストレスは崩落する地面のように脆い箇所(ココロ)を求めて彷徨い歩き、最後はどこかで破裂する。
 なら、シン・アスカはその落とし処を何だと設定しているのだろうか。
 全ての諸悪の元凶は自分だと思うシン・アスカ。
 自分と出会わなければ二人は死ななかった。自分がいたせいで二人は死んだとさえ思っているのかもしれない――否、間違いなくそう思っている。
 
 それと同時に不思議に思った。
 どうして、目前の男はこんなことを知っていて、自分にそれを話しているのだろうかと。
 シンの過去など調査すれば容易に手に入る情報だろう――けれど、一般人がそんな情報を持っているはずが無い。それこそ管理局の中から情報でも引き出せるような情報網でもない限り。
 そんなスバルの疑問に気付いているのかいないのか、それともそんなことはどうでもいいのか――グラディスは話を続ける。

「あの男の落とし処とは何だと思う?逃避かそれとも恭順か、もしくは反逆か。」

 言葉を切って、グラディスは末尾を紡ぐ。

「あの男が望んでいるのは、“終了”だ。そこで全てが終わる死。最後は派手に散ってやろうと言うその程度のモノだ。」

 ――ああ、美味かった、とシンは言った。

 血走った瞳。声を掛けることも出来ないほどに焦燥したその表情。
 それを見て、その言葉を思い出した。

 あの時――そんな言葉は生まれるはずの無いことだった。あの時、シンが言うべきだった言葉は、“ティアナに対しての叱責”以外には無かったのだ。何てものを食わせてくれたんだ、と。
それ以外の言葉は生まれる訳が無い。よしんば、そういった特殊な味覚を持っていたとして、その場合であっても彼はその事実について言及するはずだ。
 だから、その言葉を聞いてスバルとティアナはシンが味覚を失ったのだと確信した。
 グラディスが今言った言葉が正しいとすれば――味覚を失ったことは彼にとってはなんでもないことだろう。何故なら、それはシン・アスカにとって非常に都合の良い“罰”だ。
 自分に与えられた責め苦に苦しむどころか喜んでその責め苦に身を投じるような人間――そんな人間が行き着く先など一つだけ。
 それはグラディスの言うように、派手に散って見せようと言う自堕落な死以外にありえない。
 シン・アスカはこの戦いで死のうとしている――もしくは、それに近しい状態に自らを落とし込もうとしている。

「そんな、の……」

 その“結論”に至った瞬間、スバルも同じく走り出そうとして――グラディスが彼女の前に立ち塞がる。

「君も行くのかね?」
「……行きます。」

 先ほどの痛みはまだ完全に消え去っていない。本調子には程遠い――立ち上がれたのが奇跡に近い。なのに、どうして行こうとするのか。その理由は分からない。
 言葉で言い表そうとしても、上手く纏まらない。ただ、何か“納得”出来ないのだ。“何”が納得できないのかは分からない。それは漠然とした、“何か”でしかないけれど。
 震える身体を押さえつけて立ち上がるスバルを見て、グラディスは満足げに頷きながら話を続ける。

「行けば君は死ぬかもしれない。そして、もし君が死ねばあの男は強くなる。君だけではない。見知った人間が一人でも死ねばあの男は今度こそ誰の手も届かない強さを手に入れる。」
「…あなたはシン君を何だと思ってるんですか?」

 自分の声に憤怒が籠るのを感じ取る。人を人とも思わないその言葉が酷く癇に障る。

「――道具だよ。あの男は、ずっと私にとって最高の剣であってもらわければいけない。だから、君にこんな話をしたのさ。スバル・ナカジマはこんな話を聞いた以上は彼の元に行かなければいけない――そうだろう?」

 ぎりっと奥歯を強く噛み締めた。それは自分自身を読みきられた怒りから。
 その通りだ。スバル・ナカジマはそんな話を聞いた以上は見過ごす訳にはいかなくなる。
 彼女の本分は、あの日、高町なのはに救われた時から定まっているのだから。
 即ち――

「……私はシン君を守ります。貴方なんかの言うようになんてさせない。……ギン姉が守りきれなかったって言うなら、私が代わりに守ってみせます……!!」

 言い終えるのを待たずにスバルは右拳を地面に叩き付けた――空に伸びる青い道。ウイングロードを展開する。
 方向は、シンの飛び去った方向へ向けて――その先には巨大なヒトガタの織り成す蹂躙が見えている。肉体を破裂させそうなほどの恐怖。それを押さえ込んでスバル・ナカジマは痛む身体を動かして駆け抜ける。その先で自分に何が出来るのか、何をしたいのかなどまるで考えないまま。
 走り出す瞬間、小さく呟く。

「私が、見届けるんだ……ギン姉の分まで……!」

 そのままスバルは駆け抜けていく。グラディスの横を通り際に鋭い一瞥を向けて――後は振り返らない。シンが飛び去った方向に向けて一直線に駆け抜けていく。

「……ふん、焚き付けすぎたか?」

 グラディスの顔――仮面で隠れているので口元くらいしか分からないが――が変わった。それまでのような扇動者の如き厭らしい微笑みではない、威風堂々とした王の微笑みで。

「彼の何を“見届けたい”のかは知らないが――それなら、君は全てを見届けるがいいさ。」

 そう、誰ともなく呟いて、後方に振り返った。そこには予想通りに投げ飛ばした青い鎧騎士とようやくこちらに追いついた緑の鎧騎士がこちらを睨んでいた。

「てめえ、いきなり出てきて…!?」

 グラディスの“仮面”を見た時、ウェポンデバイス・カオスの声に困惑が混じり出す。

「おま、え……?」

 その問いに答えず、傘を地面に突き刺し、グラディスは呟きながら構えた。

「……まあ、君らウェポンデバイスにあの程度が効くとは思ってないがね。」

 両の掌を広げ、軽く握り込み、右の掌を口元に、左の掌を鳩尾に配置。両足を広げ、腰を落とす。掌を包むナイチンゲールの赤い輝きが強まっていく。

「…お前は……なんで、おまえが、“そっち”に……いや、おまえ…じゃ、ない…?」
「……。」

 目前の存在に困惑したように構える緑の鎧騎士――ウェポンデバイス・カオス。
 無言で静かに突き進む青い鎧騎士――ウェポンデバイス・アビス。

「…私と戦って、生き残れたら教えてあげよう。君ら、ウェポンデバイスについて、ね。」

 対峙するは、ギルバート・グラディス。難攻不落の武術の極み。

「カオス、行くぞ。」

 身体を震わせ、困惑するカオスを促すようにアビスが初めて口を開いた。鎧武者という厳しい見た目にそぐわない、少年の声だった。

「あ、ああ……分かったよ、“アウル”。」

 カオスが返事を返した。その返事に含まれていた名前――それが何を意味するのかも分からないまま。

「ハイネ、ティーダ、そちらの調子はどうだ?」
【問題はありません、議長。】
【問題は無い。】

 声が二つ、グラディスの脳裏に響く。
 実直な声の男はヴォルケンリッターの援護へ。もう一人の機械のように人間味の無い声音の男は陸士108部隊の援護へ――先ほどシンに言った彼の部下たちの声だ。

「戦闘に移る前に、一つ命令を追加する。」
【……議長?】

 実直な声が困惑気味に返事を返した。

【……】

 機械じみた声が押し黙る。

「死ぬな。これは決戦ではなく前哨戦でしかない。君らが命を捨てるべき場所は今ではなく、まだ先だ。」
【…了解しました、議長。】
【了解した。ティーダ・ランスター、これより援護を開始する。】

 二つの声が同時に届いた。それを確認すると通信を切り、心中で呟く。

(死ぬ訳にはいかないのさ……まだ、ね。)

 踏み出す一歩。それを合図に、彼らの戦いが始まった。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 46.Sin in the Other World(g)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/05/29 18:01
 対魔働兵器戦闘用13㎜“自動式拳銃”「オルトロス」
 全長410mm。重量18kg。装弾数6発。使用する弾丸は専用弾である13㎜炸裂徹鋼弾。
 装薬に関してはミッドチルダでは作られていないので第97管理外世界にて製作されているものを元にスカリエッティが作成。
 銃身の下部に取り付けられている厚さ3cmほどの刃は肝心の刃を潰され切ると言うよりも殴る用途を想定して作られている。剣、というよりは鉈、もしくは鈍器に近い。
 色は黒色。見た目の印象は、黒い棍棒。
 長すぎる銃身とそれに不釣合いな――それでも通常よりは大きい――銃把と銃身のバランスの悪さが銃というよりも棍棒のような印象を与える。
 
 対魔働兵器戦闘用16mm“回転式拳銃”「スキュラ」
 全長501mm。重量24kg。装弾数5発。使用する弾丸は「オルトロス」と同じく専用弾である16mm炸裂徹鋼弾。
 装薬も「オルトロス」と同じくスカリエッティが作成。
 銃把に添って真下に向かって伸びるように取り付けられた刃は「オルトロス」と違い、“突き刺す”用途を想定している。
 色は銀色。こちらの印象も同じく銀色の棍棒と言った印象。
 
 口径で言えば、かたやオルトロスが50口径、スキュラが60口径という常識外れの弾丸を、初速846.3m/sという常識外れの速度で撃つ為“だけ”に作られた拳銃である。
 どちらも魔力を使用しない質量兵器。
 だが、質量兵器が禁止された理由――即ち誰でも使える兵器という側面はそこには無い。
 むしろ、この二挺の銃は“人間には使えない”兵器だと断言できる。
 
 通常の拳銃の重さはどんなに重くもとも3kg程度。
 オルトロスはその6倍。
 スキュラに至ってはその8倍。
 対戦車ライフルクラスの威力を実現する為に巨大化した拳銃である。
 轟音と衝撃は人間の身体に損傷を残すだろうし、下手をすれば撃った本人が吹き飛ぶような代物だ。とても実戦で使用できる兵器ではない。
 
 だが――そんなことは“彼”には関係ない。彼はただ与えられた武器だからという理由でそれを使う。
 主武装はオルトロスとスキュラ。そして、身体中に仕込まれた数々の質量兵器。
 単身で拠点に潜入し、制圧することを目的として装備されている。
 胸に埋め込まれている高密度魔力結晶(レリック)は彼に魔力を供給するのではなく、魔法を掛け続ける――即ち、“動け”、と。

 彼の名は、ティーダ・ランスター。
 既に廃棄された第2世代戦闘機人(ネクストナンバーズ)の試作型であり、ジェイル・スカリエッティが死体から蘇らせた“元魔導師”であり、脳髄以外の全てを機械で補う改造人間(パーフェクトサイボーグ)である。
 その中に蠢く機械の量はモビルスーツ一機分に匹敵するほどに膨大。小規模次元世界を体内に展開することで無理矢理に人間のカラダに詰め込んだツギハギのカラダ。
 その姿はウェポンデバイスの如く鎧――というよりも角張った装甲版に覆われ、顔は仮面で覆われている。
 その仮面の中腹で瞳のように吊り上がった二つのカメラアイが青く輝く。一歩歩く度に地面に足がめり込む――重量を地面が支えられないのだ。

 右手に握り締めたオルトルスを無造作に発射。発射時の音は轟音というよりも鼓膜を叩き潰すほど。
 十数m離れた距離でこの轟音なら撃っている当人の鼓膜は既に破れていてもおかしくはない――訂正。鼓膜は無かった。
 衝撃が左手を走った。肩でそれを受け止める。地面に足元が食い込んだ。命中したガジェットドローンⅠ型が爆発。
 
 今度はスキュラ。別のガジェットドローンⅠ型に命中――爆発。
 残骸を観測/装甲は思っていたよりも薄い。AMFを展開していることを考えれば、魔法防御に特化している以上は質量兵器への対策はそれほど取っていないのだろう。

 ガジェットドローン一体に付き弾丸一発の判断/“肯定”。
 
 オルトロスの残弾は5発。スキュラの残弾は4発。
 一度に制圧出来る機体は9機。
 見えるガジェットの数は視認出来るだけで数十機。弾薬の補給が必要/“承認”。

「……あ、あんた、一体何者なんだ…?」
 
 屈強な筋肉とアゴヒゲが特徴的な大柄な男を視認――質問には答えなければいけない。

「ティーダ・ランスター。お前達の援護を行う為に来た。」

 喋りながら上空から急降下し襲い来るガジェットドローンⅡ型――その数4機に向けて連射。
 シリンダーが回転する音を、鼓膜を破りかねない轟音が掻き消すこと4回。
 60口径という常識外れに巨大な弾丸はガジェットドローンの装甲など存在しないかの如く貫いていく。スキュラの残弾が無くなった。
 間髪いれずに地上部隊であるガジェットドローンⅠ型が自身に向けて接近。
 機銃を展開する個体/確認、ミサイルを展開する個体/確認、熱線を放つ個体/確認。
 襲い来る数は十を越える。残弾が足りない。補給開始/“開始”。
 
 右手のオルトロスを敵の群れに向けて発射。轟音。空気が振動する。
 同時に左手のスキュラを操作し、シリンダーを開放。蒸気を上げる空薬莢が排出される/“弾丸補給”。
 空間がぐにゃりと歪み、そこに車のシガレットの先端に弾丸が円形に配置された物体――スピードローダーが顕現する。

「リロード。」

 ティーダの呟きを合図に、スピードローダーからスキュラのシリンダーに向けて16mm炸裂徹鋼弾が吸い込まれるようにして、納まっていく。
 弾丸の長さは約6cm。弾頭が2cm、炸薬が4cm。明らかに拳銃で使用する弾丸ではない。
 再び、轟音。ガジェットが吹き飛んだ。男が耳を塞ぎながら、小さく呟く。

「ティーダ・ランスター……?」

 呆然とした呟き。聞こえていないだろうと言う予想――確かにティーダ・ランスターに鼓膜は無い。
 だが、機械の身体の各部に設置されている索敵機能は鼓膜の代わりを最大限に果たしている。
 顔をそちらに向けたまま、通信を念話に切り替える。

『こちらを知っているのか。』
 
 そちらを見る――アゴヒゲの男。記憶との照合/存在しない。記録との照合/リチャード・アーミティッジ。陸士108部隊所属。
 期待――自身の記憶の在り処かもしれないと言う予想。
 会話しながらも発砲はやめない。会話と同程度のレベルで行われる乱射/轟音の連鎖――地響きのように。

『い、いや、俺は会った事は無いんだが……同僚の後輩の兄貴がそんな名前だったから、な。』
『そうか。』

 その会話の隙を突いて、甲殻類のようなガジェットドローン――ガジェットドローンⅢ型が突撃してくる/足裏から刀身の長さ40cmほどのナイフを飛び出させ、足裏に固定したまま蹴り上げた――バターを裂くナイフのようにⅢ型の装甲を切り裂く。刀身は赤熱し、切れ味を大幅に上昇させている/自身が稼動する際の発熱を利用した機構。そのまま左側に足を伸ばし赤熱したナイフを射出/射線上のガジェットに接触。装甲を食い破り、内部に突入――爆発。

 後方から音声を受信/後部カメラから視界情報を取得。
 
 後方にガジェットが展開している/残弾を確認――オルトロス/3発+スキュラ/2発=弾薬の補給を要求/“承認”。
 膝を曲げ、体重を後方に掛ける。
 先ほどナイフを射出した足裏の“穴”から圧縮空気を発射――後方へと跳躍。
 魔力ではなく、機械による跳躍。
 空中で両手を回し身体を回転させ後方へと振り向いた/視認。
 視界の中央に位置する陸士108部隊の集団を円を描くように取り囲むガジェットドローンⅢ型。19機。
 弾丸が不足している/それ以外の戦闘手段を全て使用しリロードの間隙を作る必要性――確認。
 機銃及び刃による攻撃の角度・間合いを算定/射角の割り出し――完了。

 接敵。発射。轟音が両脇から/陸士108部隊の上空で――皆が自身の耳を塞いだ。撃発轟音。襲い掛かろうとしていた2体のⅢ型が吹き飛んだ。
 着地と同時に発射/Ⅲ型が2体吹き飛んだ。
 残弾を確認――オルトロス/1発+スキュラ/0発。
 全方位から機銃及び刃、熱線による攻撃が開始される/回避行動開始。
 コンマ5秒ごとに変化する射角を予測演算し、歩き、飛び、回転し、転び、縦・横・高さ/三次元空間全てを使い切って敵の射角から身を外す。
 両手の拳銃の内、スキュラを腰のホルダーに納め、右肘に取り付けられている黒い円盤を左手で掴み取る。
 残存するⅢ型の数量――15機。右側前方に固まる4機に向けて、黒い円盤を“投擲”/視界に現れる二重の四角形のレティクル――精密射撃モード。レティクルの中心は黒い円盤。右手を
伸ばし、オルトロスを構える。
 画像を拡大し、タイミングを計る/身体は停滞することなく、射角を避けて踊り続ける。
 オルトロスの角度を微調整/残弾は1発。

「……」

 コンマ1秒程度の誤差で想定通りにオルトロスを発射/狙いはガジェットドローンⅢ型の直ぐ上空の黒い円盤――超小型ナパーム弾。
 轟音の一瞬後に着弾/爆発――弾殻の中に押し込められていた焼夷薬に着火。着火した焼夷薬は一瞬で2000℃の高温にまで駆け登り、ガジェットドローンⅢ型に向けて“降り注ぐ”。小さな姿と同様に炎は小さく、Ⅲ型の装甲全てを融解させるほどではない――だが、2000℃という高温はⅢ型の装甲を簡単に食い破り、内部機構にまで浸透/超高温は内部の機構を融解し、破壊し尽くしていく――4機ともが程なく爆発/確認。
 スキュラをホルダーから引き抜き、今破壊した4機の射線に身体を移動する。

「リロード。」
 
 呟きと共にマガジンとスピードローダーが顕現。
 オルトロスが銃把の下部からマガジンを排出/手首を返し、上空から落ちてくるマガジンを内部に挿入――完了。
 スキュラのシリンダーを開放/空薬莢排出――スピードローダーから弾丸が挿入されていく/完了。
 Ⅲ型の残存数量=11機。
 射角が自身に集中する/足裏から圧縮空気を噴射し地面を“滑る”ようにして跳躍――あるいは滑降。射角を外す。
 両腕に設置されているFCS(射撃管制装置)が自動追尾。両腕が交差するように動き、滑降の勢いを殺すことなく跳躍し回転する/フィギュアスケートのジャンプと同じ動作――けれどまるで似ても似つかぬ暴虐そのもの。
 予め定められたタイミングで唸りを上げる二挺の拳銃。オルトロスを6連射。スキュラを5連射。残弾はゼロ。Ⅲ型を11機撃破――Ⅲ型の群れを滑降しながら駆け抜けた――殲滅。

「……なん、なんだ。」

 リチャードの声が、身体が震えている。同じように小隊全員の身体も震えている――幸いなことに誰も死んでいない。負傷程度はあるものの、死に至る致命傷などは誰も負っていない。
 彼らが震えているのは一重に安堵によるものだった。生き残ったことへの安堵、と、そして、“巻き込まれなかった”ことへの安堵。
 質量兵器という存在はミッドチルダにおいて禁忌であり、それが故に質量兵器は彼らの目に触れることは極端に少ない。彼らにしてみれば、今しがたティーダ・ランスターが使った武器の数々はその全てが理解を超えたものに見えたことだろう。
 ティーダ・ランスターの瞳が何も無い虚空に向けられる。

「リロード。」
 
 再度、マガジンとスピードローダーが現れる。
 両手に握り銃にそれらを挿入――弾薬の補充を完了/確認。
 そして、その呟きと同時に、空間が歪む。ぐにゃり、と湖面に波紋が広がるようにして、同心円を生み出しながら、女性の足が、何も無い空間から現われた――透明なドアを通るようにして、女性が現われてくる。
 現われたのは眼鏡を掛けた栗色の髪の女性――ナンバーズの一人。青紫色のラバースーツの上から白いケープを羽織っている。

「何者かと思っていましたら……貴方でしたのね、ティーダ。」
「クアットロか。」

 小さく名前を呟くと、クアットロは忌々しげに返答を返した。瞳に映るのは侮蔑の色。

「……出来損ないが今更何の用なのかしら?」
 
 右手に握るオルトロスをクアットロに向ける。

「命令だ。お前達を倒せ、と。」
「貴方にそれが出来ると思っているんですの?“人殺し”が出来ないって言う致命的な欠陥品の貴方如きが。」

 “欠陥品”。その言葉が、唯一つ残された脳髄(ニンゲン)を震わせる。
 エラーメッセージが繰り返し鳴り響く。エラーの原因は不明。
 延々と繰り返されるエラー。原因は不明。考えるだけ意味が無い/“肯定”。

 クアットロの瞳を見た。金色が紅く染まった血色の目。こちらを侮蔑する嗜虐思考(サディスト)の瞳。

 ――エラーを無視する。問題は無い。

「……問題は無い。お前たち第2世代型戦闘機人(ネクスト)は“人間”ではない。」

 オルトロスの銃口を向けたまま呟く。クアットロは避けるそぶりすら見せようとしない/違和感。
 如何に彼女達が人間を超えた力を持っているとしても肉体強度にそれほど変化がある訳では無い。オルトロスの一撃は彼女を易々と肉片(ミンチ)に変える/記録を検索――クアットロの能力を確認。彼女の能力は、自身の血液を原材料とした“霧”による幻影作成。その精度は精巧な機械であろうと騙す完全虚偽作成能力。
 
 ――“詐欺師”というその能力は文字通り、全てを騙す。有機無機を問わない文字通りそこに存在する全ての現実を。体内を流れるレリックブラッド――微細なナノマシンサイズのレリッ
クを溶かし込まれた血液である――を体外に放ち、大気と混ぜ合わせ、血霧とし、空間に溶け込ませる。映る光景そのものを完全に騙す、血霧の結界。機械による索敵ですら彼女の位置を測ることは出来ない。視覚だけでなく、聴覚嗅覚触覚等の五感そのものを血霧の結界によって騙すのだ。
 彼女がそこにいるのかどうかなど“定か”ではない。身体各部のセンサーを稼動し、文字通り、周囲を索敵する。熱、音、振動――確認。彼女は視覚通りにその場所にいる。
 けれど、それすらも信憑性がある情報では無い。彼女の能力が未だこの身体を騙していないなどと言う保障は無い/“肯定”。

「言ってくれますわね。」

 クアットロが右手をティーダに向ける。赤い光が収束する/熱線の発射の兆候。
 拳ほどの太さの熱線――光を操り収束した熱線。
 支配した空間を利用して彼女は武器を作り出す――がその胸を貫こうと輝く。オルトロスの引き金を引いた。大気を震わす轟音。
 クアットロの胸を貫く――すり抜ける/幻影であることを確認。
 身体中のセンサーが恐らくは騙されている。彼女の血液による霧はこの付近全て――少なくとも、この身体の索敵範囲全てを覆っている。
 索敵機能が全て使用不可/危険性が高い――意識領域の開放を要求/“限定承認。展開限界の50%を最大値に設定”。

「……躊躇い無く撃ちましたわね。」

 少しだけ驚いた調子――クアットロが今度はティーダから見て左側に現れた。そちらに向けてスキュラを引き抜き構える。

「問題はないといった。」

 答えを返しながら、後方でこちらを見続けるリチャード達、陸士108部隊へ念話による通信。

『そこから動くな。』
『ど、どういうことだ?』
『お前達が今見ている地形が幻影では無いと言う保証が無い。死にたくなければその場を動かず障壁を張り続けろ。』

 死にたくなければ――その言葉に彼らが身構える気配を感じた。即座に魔力障壁を展開。
 緊張が彼らの間に満ちていく。修羅場を潜りぬけてきているのだろう。こういった場で迂闊に動くことがどれだけ危険か理解しているのだ。
 スキュラの銃口を外すこと無く、静かに構える。クアットロが口を開く。唇を吊り上げて、薄く笑う。朱色の唇が淫靡に嗤う。

「そんな時代遅れの武器でこのクアットロを殺せますこと?」

 ティーダ・ランスターはその言葉に答えることなく、引き金に掛けた指に力を掛けた。
 世界が歪んだ/前面に向かって飛び込んだ――瞬間、それまでいた場所を紅い熱線が貫く。地面に穴が開き、煙が上がった。
 自らが生み出した血霧をレンズとして光の角度を操作し収束した熱線――平たく言うとレーザー。
 状況を確認。
 索敵は不可能。ティーダ・ランスターの身体に備わる全ての索敵機能は“騙されている”。
 攻撃は不可能。索敵が不可能である以上は当然。
 防御も可能。ただし、相手にとっては“彼我の距離”などは関係無しに攻撃が可能である以上回避は不可能。
 導き出される結論/“現在の状況”では戦闘行動は出来ない。現状では戦闘ではなく蹂躙されることしか出来ない――状況の打破を思考/“推奨”。

「……クアットロ、だと。テメエが、ナンバーズって奴か…?」

 障壁から抜け出る男――リチャード・アーミティッジ。アゴヒゲを生やした屈強な大男。どこかゴリラのような印象――その顔が怒りに歪む。クアットロの顔が盛大に歪む。嗤う。亀裂のよ
うな微笑み/醜悪。

「あら、私のこと知ってるんですの?」

 妖艶に薄く嗤いながら、挑発するように口を開くクアットロ/恐らくは幻影。攻撃する意味が無い――リチャードにはそんなことはどうでもいい。
 デバイス――俗にスタッフ(杖)と呼ばれる類のデバイスが向けられる。
 その姿はスタッフという名前が似合わないほどに機械的で攻撃的な外観――どこかチェーンソーを思わせる厳しい外見/彼の屈強な体格によく似合う武装。

「テメエが、ギンガを、殺した奴か……?」

 リチャードが踏み出す。スタッフの先端に収束する魔力。色は青。それが彼の魔力光なのだろう――周辺の“自分自身”への“接続”を開始。

「…ああ、あの色ボケ女のことを言っているのでしたら……その通りですわよ?“私”が“この手”で消し炭にしてやりましたわ。」

 くすくす、と人差し指を唇にくっつけながら笑うクアットロ/花のような笑顔――食虫花の如き毒々しい毒婦の笑み。

「ぶっ殺す。」
「やれるものなら。」

 リチャードが魔力弾を放つ――収束された多重弾殻魔力弾による砲撃。その威力は彼が歴戦の勇士であることを示すように、速く、重く、強い砲撃。
 続いて跳躍。彼自身その一撃が当たるとも思っていない。デバイスの先から魔力刃が突き出て行く/収束された魔力刃はガジェットの装甲を易々と切り裂いていくだろう。事実、先ほどまでの戦いは劣勢ではなく互角だった――差があったのは数の差のみだ。如何に個人の力が強かろうとも数の暴力の前では無力に過ぎない。
 クアットロがその砲撃を“防御した”。そこに“いる”という事実/即座に彼女が行おうとしていることを看破――左手のスキュラを構える。視界に四角形のレティクルが出現――精密
射撃モード。引き金に手を掛ける。狙いはリチャードの展開した魔力刃。撃鉄を落とす。

「らあああああっ!!!!」

 リチャード、渾身の一撃――それを、スキュラで撃ち抜く。発射/銃口を抜けて弾丸が螺旋の回転を受けて、直進する――空気を切り裂き、魔力刃に到達する。時間にして刹那。
 リチャードの手からデバイスが弾き飛ぶ。その場から一息で10mほど後方に下がり、デバイスを取り落とし、膝を付くリチャード。凄まじい衝撃を受けた手が痺れているのだろう――クアットロの顔が嗤っていた。
 リチャードはそれに気付いていない。

「てめえ、何しやが……」
「死にたいのか。」
 
 言葉を遮って、銃口をクアットロに向ける/発射――クアットロの身体をすり抜けていく弾丸/同時に爆発。
 地面が半球状に抉られる――クレーター。煙が黙々と上がる。
 クアットロは変わらずにそこにいる

「な、に……?」
「あぁら、残念。死んでくれると思ったのに。」

 呆然と、その爆発を眺めるリチャード。死の実感――今、銃で撃たれなければ自分は死んでいた。

「……動くなと言ったはずだ。この場の全てがこの女の支配下である以上は五感など飾りに過ぎない。」
「あ、あんたは……」
「それが分かっていて、貴方は私を殺せると言うのかしら、出来損ない(スクラップ)?」

 呆れたように呟くクアットロ。

「肯定だ、毒婦(ヴァンプ)。」

 何事もないように呟き、両手の拳銃を声に向けて発射/マガジンに残っていた弾丸を全て消費。間髪いれずのリロード。そして連射――マガジン全てを消費するそれはむしろ掃射だ。続けてリロード。そして、同じく掃射。再びリロード。そして掃射。延々と繰り返される銃撃の輪舞。自身を中心にしてありとあらゆる箇所――地面、壁、瓦礫、樹木、全てを抉り、砕き、引き千切る銃弾の蹂躙――陵辱。狂ったように掃射し、狂ったように破壊する。上下左右前後、全ての方向に向けて掃射し蹂躙し陵辱する――だが、クアットロは変わらずそこにいる。つまり、当たっていない。

「…ふん。当てずっぽうの乱射で命中するような、馬鹿だと思っているのかしら?」

 クアットロの呟きと同時に熱線が膝を貫く。虚空から挙動無しで放たれる焦点温度、数千度のレーザー。続いてそれが連射/身体を僅かに後方に動かす――右腕上腕部が抉られた。左下腹部を掠めた。右肩が貫かれた。
 バランスを崩して膝を付く/そこを更にレーザーが狙い来る。咄嗟に前方に身体を動かす――今度は全て掠めただけで一発も当たらなかった。

「あら。」

 クアットロはその程度、気にも留めない。自身が圧倒的有利であることを疑いもしない。
 熱線が掃射――今度は全方位から。右手の中腹が貫かれ、孔が開いた。咄嗟にオルトロスを弾き飛ばし、武装を保護する/それ以外の部位に命中しなかった。掠めることもない。オルトロスは既に自身から数mの距離に離れていた。

「……ティーダ・ランスター、貴方、今……」
「肯定、と言った。」

 周囲の空間が歪む。これまでに無い規模の掃射と予想。

「戦闘行動を開始する。」
 
 独白と共に回避を開始し、戦闘を開始する。
 付近に散りばめた“自分自身の欠片”――弾丸の破片から情報抽出/転送――取得。
 地面に散らばった弾丸から情報取得/X-Y座標軸構築――完了。
 建物の壁、瓦礫に食い込んだ弾丸から情報取得/Z座標軸構築――完了。
 三次元座標構築開始――完了。
 データ取得開始――変化を観測/先ほど記録したレーザー発射時の気流変化と温度変化のデータと照合――射角演算開始。

 視界に予想されるレーザーの射角、速度、場所が表示される。全身のセンサーをそれに連動。機械仕掛けの身体が動き出す。無造作にすら見えるその動きは予想されるレーザーの発射を最小限の損傷で回避し続ける精密行動。
 全身を掠める熱線。時に抉り、時に掠め、時に外れる。戦闘行動が不可能なほどの損傷はそこには無い。
 
 全てを騙す虚偽発生能力――それがクアットロの能力である。それに対してティーダ・ランスターが行ったコトは単純なコトだった。
 
 ティーダ・ランスターにとって、自身の核ともいえる“脳髄”以外は全て同一同位の存在である。指も手も足も全身のありとあらゆる部位や各種センサー、そして、その“武装”に至るまで、その全てが“ティーダ・ランスターの身体”であり、“ティーダ・ランスターそのもの”と言ってもいい。

 無論、弾丸とて例外ではない。
 地面に散らばった弾丸の破片から上空を俯瞰し、壁にめり込んだ弾丸の破片から地上を俯瞰する。その他あらゆる場所に打ち込んだ弾丸の破片から全てを俯瞰する。
 地上の弾丸から平面座標を取得し、壁にめり込んだ弾丸の破片から立体座標を取得し、あらゆる場所から平面、立体を問わず座標を取得し続ける。
 これによって狂わされた距離の精度を校正し、同時に、レーザー発射時における、気流の乱れ、温度変化、音、振動等のの変化を観測し記録する。

 絶対的な虚偽を絶対的な現実で塗り潰す。
 
 どんなにクアットロが全てを騙そうとも“レーザー”を発射することだけは騙せない。レーザーを射出すると言う事実には変化が無いのだから。
 クアットロのレーザーを致命的な損傷だけを避けながら回避し続ける――その様を見て、彼女の顔に微笑みが浮かんだ。

「なんだ、避けるだけですのね。」

 くすくすと嗤いながら彼女が掃射の度合いを強めていく。
 状況は劣勢。現状は彼女の攻撃を回避し続けることが可能だがこれ以上損傷を押し留めることは難しい――だが、どれだけ自身の身体が損傷しようともティーダ・ランスターにとってクアットロの攻撃は“必要不可欠”なものだった。
 レーザーを回避する度に、レーザーが命中する度に、その発射地点を記録していく。
 視界とは別に脳内に作られた黒い画面――画面には赤線でドームが形作られており、その中心点の赤い点が示すもの――ティーダ・ランスターを表している。この画面は彼が今しがた取得した座標によって作り出した画像である――に立体的にレーザーの発射地点が白い点として描画(プロット)されていく。
 
 初めは単なる点が幾つかあるだけでしかなかった画面は、秒を追うごとにその数を増やしていく。
 攻撃が加速する。身体中が削られていく。繰り返される回避。描画(プロット)が進む。その内に目に見えて変化が現われてくる。
 画面の中に描画される点の位置が、“偏っていく”。
 黒い画面と白点によって染められた部分が明確に別れていく。
 秒を追うごとに明確化する黒と白のコントラスト。
 黒はティーダの左前面に集中している。
 無論、白点は全体的に満遍なく分布しているのだが――それでも、明確にティーダの右背面に集中している。
 恐らく、クアットロすら分からないであろう自身が無意識に集中し狙っている部分――それがティーダの右背面。

 描画(プロット)は止まらない。より明確に、鮮やかに画面を白に染め上げていく。
 
 ――射角記録と照合/ティーダ・ランスターの左背面から右前面に抜けるようにして放たれている。
 左背面から右前面に抜けていくように発射している――着弾箇所が偏ると言うことは着弾箇所が視覚的に見やすい場所であることを意味する/位置情報を特定開始。
 情報が不足している。位置を特定できない/回避行動に専念する――情報の取得を繰り返す。着弾箇所と声の位置、地面に散らばった破片の位置。ありとあらゆる情報を取得し、演算し、位置関係を修正していく。

「大体、あなたがどうしてデュランダルに与しているのかしら?出来損ない(スクラップ)で廃棄されるだけの貴方にとってはどうでもいいことでしょう?」

 情報の取得に肉体を専念/会話によって情報を引き出す――“推奨”。描画(プロット)が更に加速する。位置情報が絞り込まれていく。

「記憶が無いからだ。」
「記憶?貴方にそんなものが必要ですの?」
 
 一際大きなレーザーの発射。太股が貫かれた/回避行動に支障。足裏から圧縮空気を噴射し、その場を離脱/レーザーを回避――回避行動の継続が難しい/情報の取得を繰り返す。描画(プロット)が加速する。絞り込まれていく位置情報――殲滅可能範囲が近い。

「確かに必要は無いだろう。記憶を消失した現状がこの身体の行動を妨げることは無い。だが、」

 ――浮かび上がる涙を流すオレンジ色の少女の幻影。人を殺そうとした時に必ず生まれる幻影。その幻影が彼を欠陥品に貶める。
 
 ――にいさん。

 エラーメッセージが繰り返し鳴り響く。エラーの原因は不明。

 ――にいさん。
 
 エラーメッセージが繰り返し鳴り響く。エラーの原因は不明。
 
 ――にいさん。
 
 エラーメッセージが繰り返し鳴り響く。エラーの原因は不明。
 
 その子の涙が、消えない。

「“ティーダ・ランスター”はそれを“看過”しない。」

 唯一残った脳髄(ニンゲン)が震えている。
 少女の涙に震えている。

「少女が、涙を、流すからだ。」
「……少女?涙?……訳が分かりませんわね。」

 呆れたように呟き、クアットロは再びレーザーを照射/身体中を貫く。膝が地面に付いた。これ以上の回避行動は不可能/同時に情報取得完了――クアットロの位置を特定/殲滅可能。
 瓦礫塗れのコンクリート舗装の地面に転がったままのオルトロスから情報伝達――その距離およそ5m/内部機構に異常は見当たらない――攻撃可能/殲滅開始。

「それについては同意見だ、毒婦(ヴァンプ)。」
「――っ!!」

 クアットロの声に緊張が混じり込む。
 右手をオルトロスに向ける。右手の甲部分が変形。小さな四角形上の穴が開く/ガコン、と言う音を出して、圧縮空気が噴射する。右手と右手首が“分離”し、右手がオルトロスにむけて、“発射”された。
 右手と右手首を結ぶモノは太さ3cmほどの炭素鋼繊維を配合し編みこまれた特殊なワイヤー――オルトロスを掴んだ。右腕内部で稼動する歯車(ギア)がワイヤーを高速で引き戻す。がちん、と音を立てて、右手と右手首が“結合”する――オルトロスの引き金に手を掛け、何も無い虚空――クアットロがいると予想される地点――に向けて狙いをつける/誤差は大きい。命中率は恐らく5割程度――虱潰しに連射すれば問題ない/即ち殲滅。

 ――現実(ダンガン)が虚偽(セカイ)を塗り潰す。

 オルトロスを構える。スキュラを構える。即時リロードの準備/“承認”

「喰らえ。」

 抑揚の無い声/引き金を引く。掃射掃射掃射。
(ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ。)

 全く同じ場所ではなく1cm刻みで移動、文字通り虱潰しに蹂躙陵辱薙ぎ払い
(ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ。)

 リロードを繰り返しながら間断無く撃ち続け撃ち続け撃ち続け撃ち続け撃ち続け
(ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ。)

 一発ごとにその場にあった何もかもの原形が無くなり抉り取って喰らって千切って粉微塵になるまで、
(ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ。)

 撃って撃って撃って撃って撃って撃って撃って撃って撃って撃って撃って撃って撃って撃って撃って、
(ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ。)

 撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ。
(ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ。)

 掃射が終わる/殲滅が完了する。
 ティーダの足元には夥しい数の空薬莢が散らばっている。

「……そ、そこまでやるのか。」
 
 リチャードが唖然とした顔でティーダが掃射した場所を見ていた。
 その視線の先、クアットロがいたと思われる場所には文字通り、“何も無かった”。
 建物。コンクリート舗装。アスファルト舗装。ガードパイプ。縁石。排水溝。マンホール。およそ都市に存在するであろう、ありとあらゆる建造物、構造物、その全てが弾丸によって抉られ、削り取られていた――クアットロが存在すると予想される地点全てを文字通り虱潰しに薙ぎ払った。

「逃げられた、か。」

 撃った弾丸から伝わる情報にはクアットロの肉体情報は無い――恐らく、掃射を始める寸前に逃げられたのだろう。戦果は乏しい――だが、こちらは誰も“死んで”いない/任務完了――問題は無い。

「どうやら始まったな。」

 その甲殻で覆われた仮面が今クラナガンで最も燃え盛る場所を見る――黒と青の巨大な悪魔のような巨人がそこにいる。そして、そこに向けて突進する朱い炎に包まれた“巨大な剣”。それが真っ直ぐ、巨人に向けて突き抜けていく。

「……なんなんだ、あれは。」

 訳が分からない事態が立て続けに起こり、リチャードの顔が困惑に歪む。後方で立ち尽くす陸士108部隊の隊員も似たようなものだ。
 これまで全く想像したことも無い状況に困惑し、恐慌しているのだ。

「死にたくなければアレに近づくな。」

 そんな彼らに構うことなく、ティーダ・ランスターは相変わらずの抑揚の無い声で呟き、立ち上がった。いつの間にか、傷だらけになっていた彼の身体が復元している。

「……あ、あんたら、一体何するつもりなんだ……?」

 リチャードが声を掛けた。
 その問いは、出撃前に仮面の男――デュランダルが予想していた問いだった。
 その言葉には必ず、この言葉で答えるように、と彼は敵を倒す、死ぬなという以外にもう一つ“命令”を受けている――意味は分からないが、問題ない。命令は実行する。それが彼の機能なのだから。
 だから、答えた。命令通りに――人差し指と中指を立てて、抑揚の無い声で。

「“誰も死なせるな(ラブアンドピース)”だ。」

 その威容にまるで似合わない言葉を。
 呆気に取られるリチャードを尻目にティーダは足裏から圧縮空気を噴射し、その場から跳躍し、離脱する。
 戦いは終わらない。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 47.Sin in the Other World(h)
Name: spam◆93e659da ID:08e6d9e9
Date: 2010/05/29 18:01
 剣戟が鳴り響く。4つの刃が上下左右所構わず打ち合い続ける。鳴り響く甲高い金属音。
 オレンジ色の髪に黒いトレンチコートに、革靴という出で立ち――ギルバート・グラディスの着ているモノと同じモノである。
 長剣の色は白銀。太く真っ直ぐな刀身でありながら、幾重にも矢じりが重なったような特徴的な刀身――スレイプニルと呼ばれる双剣。彼の“特異性”を最も強く引き出す武装である。男の名はハイネ・ヴェステンフェルス。シン・アスカと同じ世界で生まれ育ち、そして死んだ一人の男。

 対するはナンバーズ・セッテ。彼女も両手に双剣――刀身の長さはハイネの持つ長剣と同じく1mほど――がきん、と金属音。両者の双剣のよる鍔迫り合い。
 力は互角――戦闘機人と互角なほどに強化された肉体。

「……流石と言えばいいのか、あんた強いね。」
「貴方も十分な強さです、ハイネ・ヴェステンフェルス。失敗作だと言うのにこれほどの戦闘能力を手に入れるとは。」

 失敗作――その言葉にハイネが犬歯を覗かせ、獰猛な笑みを形作る/両腕がまるで独立した生物であるかの如く動き出す――セッテも同じく。
 左手のスレイプニルの連結を解除。先端の刃がガコンと回転し出す。
 刃と刃の間が開く――それを結ぶのは太さ1cmほどのワイヤー。シグナムのレヴァンティン・シュランゲフォルムに酷似した鞭状連結刃へと変形。左手を振るった。大気を切り裂き、曲進するスレイプニル残っている片方も同じく連結解除。鞭状連結刃へと移行。
 
「ひゅっ――。」

 鋭い呼気と共に鞭状連結刃(スレイプニル)が蛇のようにくねり這いながら迫っていく。

「行きなさい。」

 支配の呟き――長剣に命令/飛べ。両手を振るう。その手から放たれ弾丸の如く直進する二本の長剣。速度は亜音速。攻撃力は絶大。効果は致命。
 ぶつかり合う高速の曲進と音速の直進――比較することすらおこがましい速度差。
 鞭状連結刃(スレイプニル)から手を離すことなく、自身から見て右側に飛びのくハイネ――爆音、噴煙、衝撃、振動――それまで自分がいた場所に穿たれたクレーター。
 死の感触。戦場の感触。ハイネ・ヴェステンフェルスの中に眠る“兵士”が目を覚ましていく。
 撃ち放った直後の隙を狙って、鞭状連結刃(スレイプニル)を振るった――弾かれる。既にセッテの両手には先ほどと同じようなデザインの長剣が握られている。
 武装は数限りなく、弾数に限りは無い。対してこちらの武器は両手に二本。威力は比べ物にならないほどに差がある。
 その思考を読んだのか、それとも単純にその事実に突き当たったのか、握り締めるデバイス――スレイプニルが淡々と呟いた。
 口調は流麗。それほど使い込んでいない為に聞きなれていない言葉。

『マスター、一旦撤退を。戦力差は歴然です。』
「言ってみろよ、どのくらいだ?」
『大体、こちらが1なら、あっちは9くらいです。』
「……いい加減な奴だな、お前。なんだよ、くらいって。」
『いや、何となく。』
「機械の言うことじゃ無いだろ、それ。……まあ、まだまだ、全然大丈夫ってところか。」

 呟き、唇を吊りあがらせる。足を踏み出し突進。距離を詰める。同時にセッテが後退する。
 彼女にとっての必殺距離とは即ち遠距離。本来なら後方からの砲台に徹するべきだろうに――近接距離にもそれなりの自信があるのだろう。
 だが、“それなり”だ。それなり程度の自信で抑えきれるほど、自身の能力は低くは無い。

「はああぁっ!!!」

 裂帛の咆哮と共にスレイプニルを振るう。地面が抉れ、コンクリートの破片が宙に舞う。
 踊るように、軽やかに後退していくセッテ。そこに両腕の鞭を奮いながら突進する。
 タン、タン、タン、タン。心の中でリズムを刻み続ける自分自身。
 テンションが上昇し、リズムに乗っていく。獰猛な感情に支配されていく肉体。
 それと同時に頭の片隅で淡々と叩かれる単調なリズム――セッテの基本鼓動(リズム)。それを読んで攻撃を回避する。

「行きなさい。」

 二本の長剣の発射。回避する。
 次いで二本の長剣の発射。回避する。
 更に二本の長剣の発射。回避する。
 ミサイルの如き威力の長剣が二発ずつ撃ち放たれ続ける。避ける度に後方で爆発音の連鎖。粉塵が舞い散る――突き進む。
 幾たびも繰り返される同じ同じ展開。
 互いに互いの戦闘距離を維持することに終始する陣取りゲームをやっているようなものだ。
 決定打になる“切っ掛け”が掴めない限りは 恐らく永遠にこれをやり続けていることだろう。

(どうする。)

 身体は一切止めずに心中で呟く。
 視線を向ければ、元々この場で彼女達と戦っていた魔導師たち――資料ではヴォルケンリッターと呼ばれている存在――がもう一人のナンバーズ・トーレと戦っている。
 トーレの能力は完全な近接特化高速型。攻撃、防御に死角は無く、速度においてはこの場の誰よりも上――劣勢になるのも当然だ。
 速度と言うアドバンテージを活かせる彼女はヴォルケンリッターを手玉に取り、確固撃破を即座に行えるだろう。
 ――だが、一目で分かるくらいに彼女らは疲弊していると言うのに未だ戦いを終わらせない。渡り合っている――どころか場合によっては勝っている。
 セッテの攻撃を回避し、スレイプニルを振るう――回避され、また攻撃。幾度も繰り返される単純作業。膠着状態に陥る二人――その膠着を利用してハイネは意識を眼前のセッテではなく、
ヴォルケンリッターに少しばかり向ける。
 性能で言えば既に勝負が付いていも何らおかしくはない。なのに、戦いはまだ続いている――その理由が気になったからだ。

(……なるほど。)

 視線の先で彼女達ヴォルケンリッターの行っている戦い方は非常に理に適ったものだった。それこそ、本当ならば戦場で自分達がやらなければいけなかったこと――即ち集団戦。
 前述した通り、トーレの総合能力というのはこの場の誰よりも高い。攻撃力はユニゾンしたシグナム、ヴィータ――彼女らは今それぞれ、アギト、リインフォースⅡとユニゾンを行っている――と同等。防御力はザフィーラと同等。シャマルのような援護能力は無いものの速度はこの場の誰よりも遥かに上。

 まともに戦えば、シグナムやヴィータですら負ける可能性が高い――否、確実に負ける。
 トーレという高速域での近接戦闘のスペシャリストと戦うには相性が悪すぎるのだ。速度が違えばどれほど攻撃力があろうとも回避される。当たらない一撃の威力などゼロと何ら変わらない。対して、速度で勝る側は攻撃を確実に当てることが出来る。
 本来、こういう手合いは同じ高速域での戦いを得意とするタイプか、速度そのものが意味を成さないタイプが潰すのが一番良いのだが――生憎と彼女らはそのどちらでもない。
 彼ら自身、それを痛感している。だからこそ、彼女達はこの“集団戦”に持ち込んだのだ。能力差を人数で補う為に。
 
 トーレの防御を貫くだけの攻撃力を持つ前衛のシグナムとヴィータが攻撃を行い、トーレの攻撃を防ぐだけの防御力を持つ中衛のザフィーラが全員の防御を受け持ち、トーレの持ち得ない能力を多様に持つ後衛のシャマルがトーレの速度を殺す為に撹乱を行う。
 
 一人一人が役割を分担し、その役割を遂げる為に各々が個人で行動する。理に適った戦い。
 一人を集団で倒すことに慣れた猟犬の戦法――だが、それでも渡り合っているだけだ。彼らは戦いを五分にまで持ち込んでいるに過ぎない。

 ――放たれる得物の軌道が変化した。直進ではなく揺らぐような曲進――ブーメランブレード。

「くっ…!」

 鞭状連結刃(スレイプニル)を限界まで伸張――地面に突き刺し、即座に収縮。その方向に身体を無理矢理引き寄せ、紙一重で回避。
 冷然とセッテが呟く。

「よそ見している暇があるのですか?」
「……。」

 彼女の言う通り、余裕は無い。あちらに意識を向けただけでこの結果。余裕など欠片も無いに決まっている。
 何かの切っ掛けがあれば一瞬で均衡は崩れ、その時点で勝敗は決するだろう。だが、それでも自分にはまだ“隠し玉”がある。目前のセッテを一蹴することは出来ないだろうが、それでも撤退する隙くらいは作れる。
 だが、ヴォルケンリッターは違う。彼女達は現在自身の生み出せる最大威力で渡り合っている。彼女達には隠し玉など無い――あったとしても、“単純に強力な攻撃”程度では回避されて終わりだ。
 実際、このまま戦い続けていれば、遠からずヴォルケンリッターの内の誰かは戦闘不能に陥る。そうして、均衡が崩れればお終いだ。彼女達がトーレと渡り合う術は無い。
 鞭状連結刃(スレイプニル)の切っ先を地面から引き抜き、再び構える。向かい合うセッテもまた同じく。

 ――別段、ヴォルケンリッターとハイネの間に実力差がある訳ではない。
 ハイネ・ヴェステンフェルスの身体はレリックブラッドの注入とギルバート・デュランダルのナイチンゲールによって、目前の戦闘機人と互角かそれ以上に強化され、そこにグフイグナイテッドのモーションパターンを組み合わせた結果、単純な戦闘能力と言う点では彼は第二世代型戦闘機人に勝るとも劣らない能力を持っている――あくまで単純な能力での話だ。戦闘経験というものを全く加味していない。実際、ハイネとシグナムが戦えば十中八九ハイネは負けるだろう――どれほどモビルスーツによる戦闘経験があろうとも対人戦の経験でシグナムには敵わない。当然のことだ。肉体を使った戦闘とモビルスーツを使った戦闘はまるで別物なのだから。
 
 今のハイネの実力とはあくまで性能通りの能力を発揮しているだけ。
 機械が自身の性能以上の能力を発揮することが出来ないように、彼はセッテと渡り合うことは出来ても打破することは出来ない。

(…任務を遂行しつつ、誰も死なせない。どちらもクリアするのが、一番なんだが……)

 その両立はそれほど難しいことではない。
 両手に握るスレイプニルとこの身体に秘められた機能を使用すれば問題なく両立出来る。
 ただ、その機能はいわば弾薬を補充出来ない拳銃。使い切ればその時点でハイネ・ヴェステンフェルスを消滅させる。
 
 ――それが嫌な訳ではない。この後に残る戦いの為にも出来る限り回数は残しておきたいから、踏ん切りがつかないだけだ。

 ハイネ・ヴェステンフェルス。彼もまたジェイル・スカリエッティによって作られた第2世代戦闘機人(ネクストナンバーズ)の試作型――その失敗作だ。

 ギルバート・デュランダルは魔法によって肉体に無理矢理コーディネイトを行い、その機能を人間の限界にまで向上させることを主として作られた強化人間。
 
 ティーダ・ランスターは魔法と機械の純粋な融合によって次世代の戦闘機人の雛形として作られた改造人間。
 
 ハイネ・ヴェステンフェルスはそのどちらでもない。
 肉体に機械部分など無いし、ギルバート・デュランダルによってコーディネイトを施されなければ彼の肉体機能は単なるコーディネイター程度の能力に過ぎない。痛覚が遮断している訳でもなければ、強力な力を持っている訳でもないし、魔法を使える訳でもない。

 はっきり言って単純な戦闘能力で言えばハイネ・ヴェステンフェルスは他の二人とは比較にならないほど“弱い”。その身体は普通の人間の延長線上にしかいない。

 ――セッテが動いた。こちらもスレイプニルを握り締め、懐に飛び込む準備をする。筋肉が張り詰めて行く――飛び出す。鞭と剣が飛び交う戦場が再び現出する。

 ――その時、視界の端を朱い炎が掠めていった。

(…シン・アスカ、か。)
 攻防を繰り返しながら心中で小さく呟く。かつての同僚の名前を。
 繰り返される攻防。その中で過去をハイネの思考は肉体と分離したかのように訥々と思考を紡いでいく。
 シン・アスカ。懐かしい名前。死ぬ前に僅かばかり喋ったことがある程度の少年。
 ハイネにとっては、単なる新人兵士に過ぎなかったその少年は、あの後――自分が死んだ後に急成長をし、ザフトのトップエースにまで登り詰めたと言う。
 難攻不落の無敵の存在――“フリーダム”を倒して。
 既にその時死んでいたハイネがそのことを知っているのは、デュランダルから話を聞いたからであり――そのデュランダルも死んでしまった戦後のことを彼は知らない。
 ただ、敗残兵の末路などそれほどいいものであるはずが無い。それが、“あの”ラクス・クラインだというのならまず間違いなく。

 あの男はそれで壊れたのかもしれない――否、壊れたのだろう。
 あの日、ギンガ・ナカジマ、フェイト・T・ハラオウンの葬式に出かけたギルバート・デュランダルに付き添ったハイネはシン・アスカと話こそしていないものの、出会っている。
 そして、自分にまるで“気づかなかった”シンを見た。
 
 焦点の定まらない虚ろに曇った朱い瞳。
 無機質な昆虫のような眼。
 疲労によるものか、眼の下に生まれた隈と痩せこけた頬が、その肌の青白さと相まって、屍鬼のような雰囲気さえ伴わせていた。

 その眼を見た時、確信した。この男は、もう救われない、と。

 仮に――だ。仮に、あの男を壊した最も大きな理由である二人の女が“生き返った”としよう。
 生き返ってしまえばあの男を壊し続ける原因は消える。けれど、仮にそうだとして、それが何になる?
 死んだと言う事実は消えない。守れなかったという事実だけは確実に残り続ける。
 むしろ、そんなことになれば余計にこう思うだろう――守れなかった、と。“実は生きていた”という事実は彼を苦しめるだけだ。
 そういった人間の行きつく道は一つだけ。自分は害悪に過ぎない、と。自分は彼女達と一緒にいてはならない、と。
 己の撒き散らす毒に酔って、潰れて死んでいく。それだけだ。

 吐き気を催す自己犠牲。その自己犠牲に酔い潰れることでシン・アスカはこの人生から逃れようとしている。
 無論、二人が生き返ることなど在り得ないことだが――二人が生きていようと死んでいようと彼の末路にそれほど差は無い。
 どちらにしても、あの男は壊れて、終わっていく。
 
 救いようなどどこにも無い。あるとすれば――それはシン・アスカが自分自身の目的を手に入れた時だろう。
 他の誰の為でも無い、自分自身の為の目的を。
 ――ただ、それこそ在り得ない話ではあるが。

「余所見をするなと……!!」

 思考していた時間はそれこそ十秒にも満たない時間。致命的と言う訳でも無い、僅かな隙を突いて、叫びと同時にセッテが長剣を投擲する――それをスレイプニルで捌き、回避/その直ぐ後ろにもう一本長剣が投擲されている。
 これまでに無いパターンの投擲。身体を無理矢理捻ってそれも回避――体勢が崩れるもの構わずにスレイプニルを伸張しながら振るい、地面を抉り、地面に突き刺す/スレイプニルを収縮――柄を握り締める。飛び跳ねる自身の身体。
 間一髪、難を逃れた。だが、徐々に回避が困難になってきている。セッテがこちらの動きのパターンを読んできているのかもしれない。遠からず捉えられる可能性が高い。

「…仕方ないな。」

 逡巡は一瞬。
 今後のことに思いを巡らせて、ここで死んでは意味が無い。

 何故なら、無茶で無謀で馬鹿げた“願い”であろうと、この身はその無茶を通す為に、ここにいるのだ。
 生き返ったのは主の無茶を通す為。
 戦っているのは主の無謀を叶える為。
 自分は、ただ、その為だけにここにいる。

「忠実な騎士ってのも中々大変でね。」

 打ち合いながら苦笑する。本当に死んでまで主への忠義を貫くと言う自分は本当に大馬鹿なのだろう。

「いきなり、何を…」
「邪魔するなよって言ってるんだよ!!」

 裂帛の気合と共にセッテが放った長剣を払い除ける。残ったもう一本のスレイプニルを伸張し振り回した。

「くっ…!?」

 セッテがその間合いから離れるのが見て取れた。
 頃合だ――4対1で戦い続けるヴォルケンリッターに向けて念話による通信を繋ぐ。

【…メロ…じゃなかった、シグナム…だったっけ?】
【…お前、今何言いかけた!!】

 くすんだ金色の髪の女。
 背中から羽の如く炎が揺らめいている――アギトとユニゾンしたシグナムがトーレと鍔迫り合いをしながら叫んだ。
 劣勢と言うのは訂正――どうやら、まだまだ眼は死んでいない。

【あと、そこのちっちゃいの。】
【ちっちゃいってなんだ!!テメエ、ぶっ飛ばすぞ!?】

 白い服でオレンジ髪のちびっ子――リインフォースⅡとユニゾンしたヴィータが同じくトーレに向けて鉄槌を振り下ろしながら叫ぶ。こちらも同じく眼は死んでいない。疲弊しているようだが、まだまだ戦えると言う気概が見て取れる。

【それと犬と綺麗なお姉さん。】
【……犬じゃない、狼だ。】
【……綺麗なお姉さん?】

 犬が悲しそうに呟く。緑の服を着た綺麗な女性――シャマルが訝しげに呟いた。
 彼らは周囲で援護――攻撃、防御補助及び撹乱――のタイミングを計りながら、トーレから目を離さずに動き続ける。
 彼らの瞳に諦観は無い。情報では彼らは自分たちの主が更迭されたことを受けて、落ち込んでいると言う話だったが――どうやらそれは杞憂のようだ。

【これから俺が仕掛ける。お前らは全力でそれを避けてくれ。全力で、だ。】
【……何か手があるのか?】

 共に紙一重の攻防を繰り返しながら、シグナムが返答を返した。

【一発、でかいのをぶち込むのさ。タイミングはこっちから伝える――それまでそいつを引き付けといてくれないか?】
【……了解した。】

 念話を切る。同時にスレイプニルへと通信を開く。

「全力であと何回使える?」
『残存数量860/1000。一撃の瞬間最大使用数70。最大威力で残り12回使えます。』
「12回ってのは両方合わせての回数か?」
『はい。』
「二つとも最大威力で稼動。一気に薙ぎ払う。」
『了解。』

 通信を切る。同時にその場を飛び退く。
 距離が離れたことで移動する必要がなくなったからか、延々と付近を荒らし尽くして行く長剣の嵐。
 それを回避しながら、彼女らヴォルケンリッターが戦っている方向を見る。
 先ほどと同じく彼らも今だ戦闘中――だが、先ほどよりも劣勢では無くなっている。
 恐らく、自分の言葉を信じて、渡り合う為の戦闘――隙あらば大威力の攻撃を打ち込み倒す為の戦闘――から、生き残る為の戦闘――相手の攻撃を食らわないことを前提とした長引かせる為だけの戦闘――に移行したのだろう。

(素直というか何と言うか)

 殆ど面識が無いと言うのにこうやって直ぐに信じてしまう部分に彼女達の美徳があるのだろう――反面、そういった部分に疎ましさを感じる自分は捻くれているのかもしれない。

(死人の思うことじゃないな。)

 益体も無い考えを切り捨て、セッテからの攻撃を回避しながら、スイッチを切り替える。
 兵士としての自分から、兵器としての自分へと。

「――イグニション。」

 小さな呟きと同時に意識の“裏側”にある、空想の撃鉄を落とす。
 かちり、と音がした。
 “命”が燃えた――血液の中の魂(レリック)が燃焼する。
 両手合わせて140の命が炎となって燃えていく。
 
 ばちっと肉体のどこかでヒューズが飛んだ。
 身体中に張り巡らされた回路から火花が飛び散った。
 身体ではなく、意識が痛い。
 脊髄に熱した鉄棒を差し込まれていくような激痛。
 口元から紅い呼気が漏れていく。全身から立ち昇る紅い蒸気。
 細胞と細胞の隙間から漏れ出すレリックブラッドが燃焼している証。

「フルブースト!!!」

 叫びと同時に意識に空白が生まれる。“力”が放たれる前兆。
 その空白によって怨嗟と憎悪と悲哀と憤怒と歓喜と悦楽と情愛――ハイネの身体に流し込まれているレリックブラッドの“原材料”である140名の人間の喜怒哀楽全ての感情の奔流が無理矢理に作られた空白を通り抜けていく。
 そうして空白を作って通り抜けさせていくことで、魂が消え去る時に解き放つ凄まじい記憶や感情の奔流から自身を守るのだ。
 ハイネ・ヴェステンフェルスの能力。それは至極単純なモノだ。

 “点火(イグニション)”。
 レリックブラッドというものがある。不安定で高密度の魔力の塊――要するにいつ爆発するか分からないレリックという物体を安定させる為にスカリエッティが生み出したモノ。それに火を付け点火させ、燃焼させると言うだけの能力である。
 レリックとは、蒐集行使――八神はやての用いるものではなく、シン・アスカのような魔力搾取の方である――を持った人間の成れの果て。
 多数の生命――と言うよりも存在しようとしている結合力――を奪う魔力搾取は通常の魔導師ではありえない強力な力を与える。
 そして、その代償として、魔力搾取を行った魔導師は自我を保てなくなっていく。
 入り込んでくる多くの存在の記憶や意思が個としての意思を揺らがせていくからだ。人の脳にはそれだけの処理能力は存在しない。
 一人や二人ならばまだしも、数十、数百という人間や動物、無機物の存在を処理し切れるはずがない。
 そして、魔力搾取を行い続けたその結果、自分そのものを魔力の塊にしてしまう。
 結晶化というその現象――レリックとはそうやって作られたモノだ。
 レリックが不安定なのは、多数の雑多な意思がその中に入り込んでいると言うのに制御する意思という方向性を持たないから。

 シン・アスカの右手が動かなくなってきているのもこれの影響でもある――だが、彼は結晶化することは無い。
 デバイスという媒介を通しての搾取である以上、結晶化の危険はかなり減少している――それ以前に魔力搾取や威力も抑えられているのだから。

 話を戻そう。
 レリックブラッドとはこれを、人体もしくは戦闘機人の血液とすることによって、意思という方向性を与え安定させたモノである。
 無論、この代償として被験者には結晶化という末路が待っている。
 過去、魔力蒐集という力を持っていた魔導師と同じくレリックブラッドの中の意思に飲み込まれていくからだ。そして、被験者はいつかレリックになっていく。
 ギルバード・デュランダル、全てのウェポンデバイス、ウーノ、ドゥーエ、トーレ、クアットロ、セッテのナンバーズ、モビルスーツ・レジェンド、そしてエリオ・モンディアル。彼らは皆同じく最後はレリックと化していく。その力を解放すればした分だけ結晶化が促進する。
 
 以前、スバルとティアナと戦っていたセッテをスカリエッティが止めたのはこの為だ。
 セッテはあの時“結晶化”を自身の意思で推し進めることで爆発的に身体能力及び魔力などの全ての力を上げようとしたのだ。
 ウェポンデバイス・イグナイテッド。これが、ハイネ・ヴェステンフェルスの兵器としての名前である。その能力の名を“点火(イグニション)”という。

 それは、ハイネ自身の中に存在するレリックブラッド内の魂を燃やすことで爆発的に魔力を増加させる力である。
 スレイプニルというデバイスはその力を最大限に引き出すこと“のみ”を目的として作られた彼専用のデバイス。
 シグナムのレヴァンティン・シュランゲフォルムに似ているのは鞭から剣へ変形という機能が彼の能力の方向性に合っていた為。
 ハイネが声を上げた。同時に同じ台詞を念話でシグナム達に繋げる。

「始めるぞ!!!!」

 その言葉に即座に反応するシグナム。カートリッジロード。空薬莢が排出する。

「紫電一閃!!」

 裂帛の気合と共に魔力を篭めた斬撃を“地面”に向けて打ち込んだ。

「……くっ!!」

 立ち昇る噴煙。そして四方よりトーレを縛り付ける紐の拘束――シャマルのクラールヴィントによるバインドだ。
 これ単体で捕縛できるほどトーレは楽な敵ではない――だが、少なくとも一瞬だけでも動きは止められる。こちら全員が、撤退は無理として僅かに移動する程度の一瞬は。
 その一瞬で4人はその場から飛び去った――離れた距離は10mほど。
 トーレならば一瞬で追いつける距離だ――そう思って追い縋ろうとした瞬間、悪寒が走った。
 “あり得ない”ほどの魔力の放出量を感じ取って。咄嗟にその方向を見た。
 
 ――両の手に持っていた鞭を柄と柄を纏め、一本の鞭のように連結させ、振りかぶっているハイネ・ヴェステンフェルスがそこにいた。


「セッテ!!」
「…トーレ?」
 
 命が燃えていく。二つ合わせて140人分の命が消えて、スレイプニルに注ぎ込まれていく。
 燃焼する命。響いていく怨嗟。全身を迸る激痛。気を抜けば、右手に掴んだスレイプニルに自分自身すら奪われかねない圧倒的な力の奔流。

『モードギガンティック』

 スレイプニルの小さな呟きと同時に意識の“裏側”にある、空想の引き金に指をかけ――引いた。

「……逃がすと思うか?」

 右手に掴み、振りかぶったスレイプニルを、力任せに振り下ろす。
 狙いなど付けないし付ける必要もない。
 周囲一帯少なくとも400mほどの範囲を薙ぎ払えば、狙いを付ける必要などどこにもない。
 
 瞬間、スレイプニルが巨大化した。それもウェポンデバイスのような巨大化ではない。
 あれは、巨大化というよりも、“元の大きさに戻る”というもの。故にそのサイズは最大でもモビルスーツサイズが限度である。
 それに対してこちらは、蛇の成長を早送りさせたようにそのサイズを変えていく。“成長させていく”。

 際限なく鞭状連結刃を更正する刃の数が増えていく。
 本来、どんなに長くとも10~20mというその鞭のサイズは既に300mを軽く突破。
 それに合わせて“成長していく” 矢じりの大きさは全長4mを優に越え、それらを繋ぐワイヤーの太さは直径2mに迫らんばかり。
 成長は止まらない。双頭の大蛇となって辺り一体を蹂躙していく。

「死にたくないなら、近づくなよ!!」

 叫びながら、ハイネがその鞭を“振り回した”。
 地面を蹂躙する巨大鞭状連結刃。
 その様は一言で表せば、童話や神話に出てくる大蛇が暴れていると言う様が正しい。
 のたうち回るたびに地面が揺れ動き、崩れていた瓦礫が押し潰されては砕けていく。

「はっはああぁっ!!!」

 身体中を駆け巡る熱に浮かれるようにして高笑いじみた咆哮を上げた。
 スレイプニルを更に振り回す。
 地面が陥没し、コンクリートの破片が宙に舞い、建物を押しつぶし、付近全てを薙ぎ払う。範囲は自分を中心とした半径200m。
 武器を振るっていると言うよりも、地震を起こしているような感覚。一振りごとに地鳴りと地響きが鳴り響く。

「セッテ、退くぞ!!」

 暴れ回る双頭の大蛇から逃れようと上空へ回避したトーレが叫んだ。
 それを捉えると大蛇の身体がうねり、上空のトーレに向けてその巨体を近づけた。

「トーレ…!!」

 小さく呟き、投擲によって攻撃の方向をずらし、トーレに迫る攻撃を弾くセッテ。
 彼女がその場を跳躍した――ハイネの唇が吊りあがる。

「そう簡単に――」

 魔力を流し込み、巨大鞭状連結刃を操作。

「逃がすと思うか!!」

 双頭の大蛇の顎――鞭状連結刃の先端を二人に向けて、突進させる。確実に当たる確信。トーレに肩を貸すセッテの姿が見えた。
 その身体を全長4mの矢じりが、押しつぶす――はずだった。

「――ドラグーン。」

 矢じりに向けて打ち放たれた数十の光条。
 スレイプニルの先端の質量など物ともせず、先端どころか大蛇の如き体躯の矢じり全てが、羽金とガラス細工の砲身が生み出す砲撃によって撃って撃って撃って圧し戻されていく削られていく消滅していく。
 
「ちっ」
 
 スレイプニルを引き戻す――時間が巻き戻るようにして、大蛇が鞭へと姿を変えて行く。
 引き戻しながら油断無く、現れた“敵”を見つめる。
 翼のような大剣と赤い髪の“青年”。
 ハイネ・ヴェステンフェルスはその男を知っている。彼が命を落とす原因となった男。コズミックイラにおいて、最強と詠われた男――キラ・ヤマト。その似姿。
 エリオ・モンディアルと呼ばれた少年――恐らくは、ジェイル・スカリエッティが作り出した最高の魔導師。ウェポンデバイス・ストライクフリーダム。
 肩から血を流し抑えているトーレとそれを支えるセッテを守るように、彼がそこにいた。
 いつ現れたか、定かではない。
 超高速――或いはそれ以外の何かで、突如として現れていた。

「……現れたか。」

 引き戻っていくスレイプニル。

「お前ら、逃げろ。」
【馬鹿なことを言うな、エリオが相手だと言うなら、私たちこそが相手を…】
「いいから、逃げろ。死にたくないならな。」

 冷静に、呟くと通信を閉じた。

「セッテ、トーレ。行きましょう。“時間”です。」
「……分かった。」

 トーレが呟き、セッテが頷いた。
 空中に現れる魔法陣――二人の姿がそこに溶け込んでいく。
 赤い髪のキラ・ヤマトがこちらを見た。
 身体中の全神経を目前の敵に向ける。
 そうしなければ、立っていられないほどに、目前の敵から感じ取れる強さは圧倒的だった。
 
 隙が無い。
 そうやって、ただ立っているだけだというのに攻め込む隙が無い――否、攻撃が成功するイメージが湧かないと言う方が正しい。
 何をどうやってもこちらの攻撃は当たること無く、敵の攻撃は確実に当たる。
 湧き上がるイメージは全て敗北に直結している。
 
 彼がその手に握る翼のような大剣を動かした。
 身体が動く。
 いつでもイグニションを発動出来るように――エリオの瞳がこちらを見た。
 こちらに何の感情も“認めない”無機質な焦点を失った瞳で。
 歯向かえば殺されると言う確信が胸に浮かぶ。この男の前では誰であろうと敵わない――そんな確信を。

「……スレイプニル、やるぞ。」
『死にますよ。』
「こいつを議長の元にいかせるわけには――」
「やめてください。」
 
 言い終わる前に声が背後から聞こえた。首に触れる感触――人の手の暖かさ。

(何だと。)

 心臓が止まったように感じた。
 視線は一瞬足りとも外していない。
 一瞬足りとも、だ。
 なのに、それまでいたはずの場所に赤い髪の青年はいない――いつ消えたのか。
 いつ動いたのか。そんな予兆すら感じ取れなかった。
 それ以前に、背後にいる男が、“その場所からいなくなったこと”さえ“知覚”出来なかった。

「……僕の標的は貴方じゃない。余計な戦いはしたくないんです……お願いします。」

 首を掴む手に少しだけ力が篭る。
 このまま、首を引きちぎられる――そう思って、身体を動かそうとして、動かない。
 全身に僅かに痺れ。何かしらの魔法の効果なのか、身体の自由を奪われた。出せるものは声だけ。口だけが僅かに動いた。込められるだけの呪詛を込めて呟いた。

「ふ、ざ…ける、なよ…お前。」
「そうですか。」

 悲しそうに呟き――首を掴む手に更に力が篭った。皮膚に食い込む指。
 全身の自由は奪われている。デバイスの操作も出来ない。声すらも出せない。

「かっ…あ」

 ハイネの全身を駆け巡る痺れ。それはエリオが生み出している電流である。
 エリオはハイネの首から脊髄に直接電気を流し込み、その身体の自由を奪っているのだ。
 肉体は脳から放たれる電気信号によって操作されている。
 故に電気を操り、脊髄からの直接干渉ならば、人体の自由を奪うなど容易い。魔力変換資質による応用だ。

 先ほどのハイネの背後を取ったのも高速移動というよりも、スレイプニルに接触させておいたドラグーンを媒介に電流を流し込み、意識の連続に強制的な空白(ブランク)を作り出したのだ。ハイネがエリオが“動いた”瞬間も“消えた”瞬間も見えなかったのは、何のことは無い、“見ていない”のだから当然だ。

 羽根状のドラグーン――フェザードラグーンという見た目そのままのその武器は一枚一枚がエリオ・モンディアルの意識と繋がっている。
 ティーダ・ランスターの肉体と同じく、その一枚一枚がエリオ・モンディアルの目であり、手であり、身体なのだから。
 故にその一枚一枚にも彼と同じ“魔力変換資質”が備わっている。意識に空白を作る程度ならドラグーンで事足りる。

「……なら、死んでください。」

 エリオの右手の爪がハイネの首に食い込む。
 流れる血。止められた呼吸。彼の足が地面から離れた。
 エリオがハイネを持ち上げて、その左手に握った翼のような形の大剣を振り被り、ハイネの胴体に向けて振り抜いた。
 その瞬間、金属と金属の衝突音が鳴り響く。
 ストライクフリーダムの刃を縛りつけ、動きを封じる鞭状連結刃レヴァンティン・シュランゲフォルム。

 同時にエリオの肉体を縛り付ける紐。先ほどと同じシャマルのクラールヴィントによるバインド。
 彼に向けて鉄槌を振り被るヴィータ。エリオがいつ魔法を使ってもいいように、ヴィータの隣で魔力を高め待機するザフィーラ。
 円を描くように少し距離を置きながらエリオを取り囲む。

「シグナムさんにヴィータさん……シャマルさんにザフィーラですか。」
「……エリオ、なのか。」
「ええ。見た目はまるで変わってしまいましたけどね。」

 肩を竦めながら話すエリオ。顔と体躯はまるで違うものの口調も声色もその仕草の節々がエリオ・モンディアルだと告げている。

「……その手を離せ。」
「……分かりました。」

 ハイネの首を掴んでいた右手を開いた。エリオの手と言う支えを失ったハイネの身体が崩れるようにして、地面に落ちた。
 膝を付き、呼吸を再開するハイネ。おぼつか無い足取りで立ち上がり、エリオから距離を取る。

「…エリオ、お前、自分が何をしているか、分かっているのか?」
「裏切ったことですか?」
「何故だ、何故裏切った…?」

 シグナムがエリオに向けて呟く。怒りの篭った声。裏切られたことに憤怒しているのだろう。
 彼と最も訓練を繰り返したシグナムにとってエリオの裏切りは信じられないような事実だったから。
 レヴァンティンを握る手が震える。駆け巡る憤怒が肉体を震わせている。エリオが口を開いた。

「必要だったからです。必要だったから、僕は、“この身体”になったんです。」

 淡々と、事実だけを組み上げるように呟いた。どことなく、その口調は“今”のシン・アスカを髣髴とさせるような、無機質な口調。
 シグナムらの背筋に悪寒。その無機質への衝動的な恐れ――理解出来ないモノに対して人は用意に恐れを抱く。

「フェイトとギンガを殺したのも、“必要”だったからか?」

 目尻を釣りあがらせ、ヴィータが睨み付けた。その視線を受け流し、バインドで拘束された自身の身体を眺め、口を開いた。

「それは……そうですね。ヴィータさん達から“見れば”そうなります。」
「…私らから見たら?どういうことだ、エリオ…お前一体何を考えてんだ・・?」

 エリオの発した言葉に困惑の視線を向けるヴィータ。
 エリオがその言葉を受けて、笑う。優しげに悲しげに、昔と同じ微笑みで。

「皆は知らなくてもいいことです――ソレは僕が引き受けるべきコトですから。」

 瞬間、右手に握り締めたままのストライクフリーダムが蒼く輝く。同時に付近に現れる砲身。
 吹き荒れる魔力の奔流にシャマルが施したバインドが切り裂かれ、解けていく。
 エリオの瞳が、“紅く”輝いた。
 刀身の峰から放たれる夥しい数の羽のようなドラグーン。
 羽虫のように飛び周り、シグナムらの視界を覆い、奪い尽くす。
 エリオ・モンディアルが浮かび上がる。体躯から発する魔力光は彼自身とは違う蒼穹の青。

「……お願いだから、“巻き込まれ”ないでください。」

 呟いて、そのまま飛行――向かう先は先ほどシン・アスカが向かった方向。
 モビルスーツ・レジェンドが暴虐を尽くす方向だった。

「エリオ、待て!!」

 シグナムがレヴァンティン・シュランゲフォルムを力任せに振るった。
 その瞬間、蝗の大群のように飛び回る羽の如きドラグーンが、突然一つところに集中していく。
 数千、数億とも取れる羽虫の群れが視界を奪う。
 それほどの量が纏まり、日を遮る雲のように密度が濃くなれば、紛うことなくそれは武器そのもの。
 速度と重さでこの身を穿つ、質量兵器そのものだ。
 
 咄嗟に身体を強張らせた。攻撃の隙を突かれた。避けられない――だが、どれほど待っても攻撃は来ない。
 無造作に振るったレヴァンティン・シュランゲフォルムが空を切った――すでにそれまでドラグーンが寄り集まっていた場所には“何も”無かった。
 羽虫の群れは既にそこにはいない――エリオ・モンディアルを追いかけて飛び去っている。
 緊張が途切れ、全身の筋肉の強張りが緩んでいく――安堵の溜め息。死ななかったことへの。

(……何を、考えている、エリオ…?)

 あまりにもあっけない幕切れにシグナムの顔に困惑が浮かんだ。
 エリオ・モンディアル――果たして姿形が変わった彼のことを未だにそう呼んでいいのか分からないが――彼の強さはまるで異常だ。
 対峙して見て分かった。あれは異常だ。少なくとも自分では倒せない――恐らく機動六課の誰が戦っても同じことだ。あの姿をしたエリオには敵う者などいない。
 理屈ではなく彼女の直感がそう言っている。
 強い、弱いではない。
 戦えば負ける。
 どう戦って、どう負けるか、は分からない。そんなものは戦ってみない限りは分からない、というのに、ただ幾多の死線を潜り抜けてきた戦闘経験がと告げるのだ。
 決してエリオ・モンディアルには勝てないと。理屈ではなく直感がそう告げている。
 
 それほどにエリオ・モンディアルの強さは常軌を逸している――だからこそ違和感を感じた。
 こちらを殺さなかったことはまだいい。裏切ったとは言え、彼はまだ子供なのだ。敵に情けをかけることもあるだろう――理解出来ないのは殺さなかったことではなく自分達を見る目だ。
 裏切ったのならば敵。それは当然のことだ――だが、あの男の瞳はこちらを敵と見ていない。今も変わらず“仲間だった時と同じ”なのだ。
 そこがまるで理解出来ない。こちらを仲間だと信じている――なのに、シンやフェイト、ギンガには敵対し、殺した。

 ――違和感がある。
 
 シグナムはエリオは完全に裏切ったと考えていた。
 恐らくは洗脳されているのだろうと。
 だが、あの目にはそんな兆候は無かった。
 あれはエリオ・モンディアルの意識そのものだ。
 確かにあの姿になったことで何かしらの影響はあったのかもしれない。
 けれど、そんな“影響”程度で、エリオ・モンディアルのフェイト・T・ハラオウンに対する思慕を断ち切れるはずも無い。
 自分達の主への想いと同等程度にはエリオはフェイトを慕っていたのだから。

(…何か目的があった、のは間違いない。なら、その目的はなんだ?)

 目的――そう、目的だ。その目的が、見えてこない。
 何かを見落としていると言う確信。回答への道が見つからないのではなく、道そのものが無いと言う感覚。

(…何を、見落としている?)

 息を整えながら、思考に没頭するシグナム。そこにオレンジ髪の男から声がかかった。

「悪いな、助かった。」

 右手を差し出しながら、その男は呟いた。

「…お互い様だ。」

 その手を握り、立ち上がるシグナム――朱い炎の大剣が視界の端に映った。
 そちらに目をやる。おかしな光景。
 巨大な黒と青のカラーリングの巨人に突っ込んでいく巨大な朱い炎を纏った大剣。

「あれは……」
「時間か」

 オレンジ色の髪の男が呟く。懐かしそうにその光景を見つめながら。

「時間?」
「ん?ああ、こっちの話さ。」

 男が一本に纏めていたスレイプニルを再び二本に分割する。

「あいつが言ったように此処から先へは絶対に近づくな。巻き込まれたくないならな。」
「……どういう意味だ?」
「文字通りの意味だ。あそこはここ以上に戦場だ。誰が死ぬかなんてもう誰にも分からん。だから死にたくないなら近づくな。“誰も死なせるな(ラブアンドピース)”って命令が聞けなくなる。」

 聞きなれない言葉にシグナム――と言うよりヴォルケンリッター全員が眉を潜めた。
 
「ラブアンドピース…?」
「誰も死なせるなって意味でね。忠義の士ってのはそういう無茶な命令も聞かなきゃならんのさ。」

 何度か軽く振ってスレイプニルの動作を確認しながら、男が誰に聞かせるでもなく漏らす。
 独り言――もしくは自分に言い聞かせているのかもしれない。死地に向かう兵士は時折そういった愚痴を漏らしたくなるものだから。

「…忠告は受け取っておこう。」

 厳かにシグナムが呟く。
 オレンジ髪の男――ハイネ・ヴェステンフェルスはそんな彼女ら4人組に少しだけ苦笑するも、何も言わず、スレイプニルを振るった。
 釣り針が突き刺さるようにして遠方にスレイプニルの先端が突き刺さる。

「じゃあな。」

 伸張したスレイプニルを伸縮――ハイネの身体が跳躍した。
 そのまま、着地する寸前にもう片方のスレイプニルを振るう。繰り返される鞭による高速移動。その姿は既に見えない。
 
 言うべきことは言った。というか言いたいことは言った、が近いか。
 あれだけ言った上でまだ来ると言うのなら、自分は何も言わない。
 主に対しての言い訳も立つし、ここからは自己責任の問題だ。
 そこまで付き合っていられるほどハイネ・ヴェステンフェルスは暇でもない。死ぬも生きるも自分次第、そういうことだ。

 残りの残存数量――720/1000。
 全力で10回使えば、終わる自分の命。今のように両方同時に使用した場合は5回で終わり。
 カウントダウンは既に始まっている。その数量がゼロになった時、自分は死ぬ。
 
 恐怖を感じない訳ではない。生きている以上死ぬのはやはり怖い。
 痛みとか苦しみとかも嫌ではあったが、それ以上にあの真っ暗闇に潜っていく感覚が嫌だった。
 恐らくはあの感覚が死そのもの。無へ向かうという現実そのもの――二度と味わいたくは無いものだった。
 だが、

「ま、仕方ないか。」

 ハイネ・ヴェステンフェルスは笑う。それは仕方ないのだと割り切って。
 死人が死を恐れることほど滑稽なことも無い。
 だから、仕方ない。死人が死ぬのは当然のことだから――無言でハイネは駆け抜ける。
 この後の戦いへの緊張を高めていきながら。
 戦いは、終わらない。


「…あの男、何者なんだろうな。」

 跳んでいくハイネの後ろ姿を眺めながらシグナムが何の気なしに呟いた。
 彼女達ヴォルケンリッターはまだそこにいた。今も、その場を動かずに。彼女達には彼女達の思惑があったからだ。
 元々彼女達ヴォルケンリッターとは、夜天の王の為の魔法プログラム。他の誰の為でもなく、主の為にだけ存在する。
 そんな彼女達にとって八神はやて――主の更迭がどれほど看過出来ない事柄かは想像に難くない。
 その報は彼女達の主である八神はやてから直接伝えられた。悔しそうに、悲しそうに、力無く、笑いながら彼女は、呟いた。

「私、転勤することになってな。皆は今大変な時やからまだここにおらなあかんけど……元気でおってな。私は、ちょっと…疲れてもうてな。」

 何も言わない。愚痴ることもなく、文句を言うことも無く、彼女はただ疲れたように呟いた。
 部隊の敗北。そして、親友と隊員の死、と、部隊員の裏切り。
 本来なら20歳の女性が背負うべき問題ではない――元々、この規模の部隊の管理職を20歳の女性が背負う時点で問題なのだが、…無論、それは言い訳に過ぎない。
 その役職に就くと決めた時点でいつかは直面しなくてはいけなかった問題なのだから。

 
 八神はやての人生は、ある意味で言えば上手く行き過ぎていた――これは彼女だけではなく、フェイト・T・ハラオウンにも言えることではあったが。
 彼女の人生には、“徹底的な挫折”というものが存在しない。
 幼い頃には挫折があった。彼女は元々身寄りのいない身体障害者だ。
 誰にも助けてもらえず、誰とも話すことも出来ずに、死を待つだけの人間。
 
 だが、その人生は奇跡のようにして改善されていく。
 彼女にも家族が出来た。親友も出来た。更には身体も治っていった。
 そして、その希少であり貴重であり強大な力を管理局にて使うことを彼女は選び、管理局に入局するとその希少技能と魔力量もあって、昇進に昇進を重ね、僅か19歳で一部隊のトップとなる。
 しかも部隊の戦力はエース級ばかりが集まったエリート部隊。自身の魔導師ランクも19歳では異例のSSクラス。
 先のJ・S事件においても機動六課からの死者は出すことなく、無事集結。
 無論、努力はそれこそ人の何倍ではきかないほどに繰り返してきた。持ちえた才能だけではなく、徹底した努力によってこそ今の彼女がある。
 だが、だからこそ、“上手くいく”という認識があったのも否めない。
 簡単に言えば、彼女達は失敗することに慣れていないのだ。

 本来なら、それなりに長い年月をかけて、喪失と取得を繰り返し、心は強靭さを持ち得ていく。彼女にはソレが無かった。
 少なくとも“長い年月”というほどに彼女は生きていないのだから。
 悲劇といえば彼女自身の才能と努力が悲劇の元なのだろう。長い年月を掛けることもなく、彼女は今の地位を得た。
 それがどれだけ凄まじいことなのか言うまでも無い――それが原因なのは皮肉と言わざるを得ないが。

 シグナムらヴォルケンリッターはそれを知っている。八神はやての家族であると同時に八神はやては彼らにとっても家族なのだから。
 だから、彼女達は八神はやてがどんなことになろうとも付いていくつもりだったが――八神はやてはそれを頑として譲らなかった。

 “今、ヴォルケンリッターの皆が抜けたら、クラナガンは大変なことになる”
 
 そう言って。
 八神はやてならばそう言うだろう――折れてしまった八神はやてでもそれは変わらない。
 彼女は相も変わらず愚者でありながらも、高潔な人間であり、彼女らヴォルケンリッターの主なのだ。

 だから、彼らヴォルケンリッターは一つの賭け――と言っても殆ど当たると思っていい賭けではあったが――をすることにした。
 変わってしまった八神はやてならば行動予測は難しい。けれど、変わっていない八神はやてなら行動予測は容易い。
 彼女を奮い立たせ、彼女の望む道を歩いてもらう為の“賭け”。

 ――勝利条件は三つ。彼女達が此処まで生き延びることがその賭けの勝利条件の一つ。そして、二つ目の勝利条件、それは、

「シグナム、来たわよ。」

 ――待ち人が来ることだ。

「そうか……来てもらえたか。」

 シャマルの言葉にシグナムが嬉しそうに微笑んだ。
 それは、慈愛の笑み――姉が妹に抱くような微笑み。

「…迎えに行かなくちゃな。引退決めるんなら、せめて私達の進退決めてからにして欲しいってもんだ。」

 ふて腐れたように“その”方向を見つめながらヴィータも微笑んだ。子供のように無邪気な微笑みで。

「囲まれたぞ。」

 冷静なザフィーラの声。気がつけばその周辺をガジェットドローンが囲んでいる。
 先ほどの巨大な鞭による蹂躙で倒しきれなかった残りの機体だろう。

「……まずはここを突破しする。全員、遅れを取るなよ?」

 獰猛な女豹の微笑みを浮かべてシグナムが全員に促す。

『おおよ!!』

 シグナムにユニゾンしたままのアギトが叫んだ。

「…あのな、あたしを誰だと思ってるんだ、シグナム?お前の方こそついてこれんのかよ?」

 こちらもまた獰猛な女獅子の笑いを浮かべて、返事を返す。

『そうです!ヴィータちゃんとリインが遅れる訳ないです!!』

 ヴィータとユニゾンしたままのリインⅡが声を張り上げた。

「…とりあえず、前衛は任せますね。」
「…私は中衛で援護をしよう。」

 シャマルとザフィーラはいつも通り。
 一番槍と二番槍の競い合いに参加する気は無いらしい。

「…上等だ。では、始めるぞ、ヴィータ、シャマル、ザフィーラ、アギト、リイン。我らの“主”を迎えに行くぞ。」

 レヴァンティンをシュランゲフォルムに変形――付近は既に瓦礫の山。この状態なら遠慮は要らない。薙ぎ払ってしまえばいい。

「――ヴォルケンリッター、烈火の将シグナム……推して参る。」

 静かな宣言。それを皮切りに戦いが始まった。
 三つ目の勝利条件。それは主自身の問題だ。
 彼女達の主が自身の意思で立ち上がること――それが勝利条件であり最終目標。
 それは今だ確定していない。だが、シグナムは心配などしていなかった。
 彼女の主への信頼は、もはや確信の域に達している。心配など杞憂と言うものだ。
 
 ――そうして、戦いは加速する。




[18692] 第二部機動6課怒濤篇 48.Sin in the Other World(i)
Name: spam◆93e659da ID:08e6d9e9
Date: 2010/05/29 18:01

 黒と青の二色で配色されたレジェンドが右手に持ったビームジャベリンを振り被り、振り下ろす。
 シンはその一撃が振り下ろすタイミングに合わせて右に回避。目前を光刃が通り過ぎた。その熱量は人一人を消し炭にする程度は容易い。
 振り下ろされたビームジャベリンの先端が跳ね上がり、シンが回避した方向目掛けて軌道を変えた。
 咄嗟に朱い間欠泉――高速移動魔法(フィオキーナ)がシンの右肩から発射され、左方向に無理矢理、移動し、ビームジャベリンの一撃を回避。間髪いれずに叫ぶ。
 
「デスティニー!!」
『ケルベロス。』

 デスティニーを大剣(アロンダイト)から大砲(ケルベロス)へ変形。
 ビームジャベリンを振り抜いて生まれた隙――右脇腹に向けてケルベロスを構える。
 右腕のリボルバーナックルからカートリッジが排出され、蒸気が吹き上がった。
 迸る朱い魔力光を砲身の先端に収束し、放つ。
 衝撃を左手が掴む刀身部分の取っ手で受け止める。次瞬、着弾――爆発。装甲に傷は付いていない。まるで効果は無い。
 
「ちっ」

 舌打ちし、その場から移動。
 一瞬後に、それまでいた場所を打ち抜く赤い光――ドラグーンの放つ熱線(ビーム)。
 そのまま、的を絞らせないようにしてレジェンドの周りを飛び回る。
 吹きすさぶ風は荒く、淀んだ空は黒く染まっていく。
 周囲に広がる光景は正に煉獄。紅く染まった瓦礫の群れ。それを掻き分けるようにして歩き続ける黒青の巨人。そして、その巨人とたった一人で戦うシン・アスカ。
 巨人の悪魔と人の悪魔の戦い。それはそんな光景だった。
 装甲の節々に亀裂が入り、内部のフレームや計器類が見えているレジェンド。
 黒と青という配色は禍々しさを連想させてやまない――それは単純に装甲に回す電力を下げ、ドラグーンなどに電力を回した結果でしか無いのだろう。
 全身を朱い炎で覆い、その周りを飛び回りながら散発的に攻撃を繰り返すシン・アスカ。虚ろな朱い瞳と表情を失った顔が彼自身を余計に禍々しく見せている。

(レジェンド…レイの機体)

 飛び回りながら思考は死んだ友を思い出させていた。彼の乗っていた機体――レジェンド。
 色合いは違うし、恐らくは持っている機能もまるで違う。少なくともレジェンドに破壊された機械を再構成してドラグーンにするような機能は無かった。
 恐らくそれを模して作られたガジェットドローンの亜種――シンはそう当たりをつけていた。

(多分、こいつが、“8人目”。)

 ジェイル・スカリエッティの伝えてきた情報。
 魔導師は8人。ラウ・ル・クルーゼ。エリオ・モンディアル。自分が殺した3人。先ほど戦っていた2人。そして――モビルスーツ・レジェンド。
 モビルスーツを魔導師と呼ぶなど理解できないが、そう考えると人数の辻褄が合うからだ。

「本当にこんなものを作る奴がいるなんて、な…!」

 ビームライフルから放たれた赤い光熱波を回避しながら、呟いた。
 シン自身、こういったモビルスーツのことを考えない訳ではなかった。
 モビルスーツの機能を全て維持したまま純粋に魔法の恩恵に預かることが出来れば、それは現行――シンがミッドチルダに来る時点での話だが――のモビルスーツの性能を大きく凌駕したものが出来るだろう、と。

 飛行の魔法を使わずとも重力緩和の魔法を使えば地上では使えないはずのドラグーンも使用できるようになるし、積載できる武装の種類も増加する。
 推進剤を殆ど消耗することなく無重力の宇宙空間と同じような機動を地上で行えるということだ。
 恐らく数え上げれば切りがないほどのメリットの数々。
 無論デメリットもあるだろうが――思いつく限りではメリットの方があまりにも多すぎる。
 管理局が質量兵器を禁止したと言うのも妥当な措置だ。少なくとも質量兵器と魔法という技術の相性はあまりにも“良すぎる”。
 
 更に最悪なことにこの場にいるモビルスーツは恐らくレジェンドのコピー。
 つまり、あれがもしシンの知るレジェンドを模して作られた機体だと言うなら動力源はデスティニーと同じくハイパーデュートリオン。つまり核動力機だ。エネルギー切れで行動不能になるということは期待できない。
 それ以前に下手に破壊すれば放射能を撒き散らし、クラナガンを真実、死の街に変えかねない。無論それは極稀に、程度の可能性ではあるが。

 そして、装甲はVPS装甲――対衝撃性能、耐熱性能に関しては折り紙つき。少なくともシン・アスカの放つ砲撃魔法程度で打ち破れるようなものではない。
 これが核動力機でなければ、何百回でも攻撃を繰り返してフェイズシフトダウンを狙うことも出来るのだが、エネルギー切れを核動力機に期待するのは間違いだ。
 最後に魔力についてだが――リンカーコアも無い機械の固まりがどうやって魔力を生産しているのかは分からないが魔力切れなどという甘い期待はするべきではない――それこそ中に乗っている“かもしれない”パイロットが生産しているのかもしれない。

(どうする…どうする)

 焦燥を押さえ込み、レジェンドの周辺を飛び回りながら、射程の長いケルベロスによる砲撃を繰り返している。
 アロンダイト、ケルベロスⅡによる攻撃はこちらに危険があるだけで、効果は期待出来ない。
 ケルベロスも同じく足止め程度の攻撃だ。あの装甲を貫く攻撃手段が無い以上、どれだけの攻撃を繰り返しても意味はない。
 もし、シンが予想した通りの性能を眼前のレジェンドが保有していると言うならば、倒す方法は皆無に近い。
 攻防の面で魔導師を大きく上回る性能。あまりにも違いすぎるサイズと重量。
 モビルスーツが一機でもあれば、答えは違うのかもしれないが、彼が今いる場所はコズミックイラではなくミッドチルダなのだ。存在するはずがない。

(だったら、どうする…?)

 実際、方法が無い訳ではない。モビルスーツとて無敵では無いのだ。付け入る隙は必ずある。
 そして付け入る隙があるのならば倒す方法はそれこそ無限に存在する――付け入る隙を“確実に突けるのなら”。
 
 シン自身、既に一つの方法を思い浮かべ、迷っているのだ。その方法とは――

「……あれは。」
 
 ――視界の端に傷ついた魔導師の集団が見えた。
 恐らく今回召集された陸士部隊だ。その場所はレジェンドの進行方向に固まり、砲撃魔法の準備をしている――逃げるつもりではなく彼らは戦うつもりなのだ。
 無言で、飛行の速度を速める。
 エクストリームブラストは現在も継続中――というよりもこの速度でなければ、戦闘することすらままならない。
 通常の速度では既に十を越える数量にまでなったドラグーンによる攻撃に捉えられてしまう。

「デスティニー、逃げろと伝えろ!」

 声に少しだけ焦りが混じり出す。あのままでは確実に殺される。予想ではなく確信だ。
 
『了解。通信を開始します――前方より攻撃。回避してください。』
「くっ」

 レジェンドの側頭部から放たれる銃弾の雨を右手からパルマフィオキーナを放つことで無理矢理に回避。
 内臓が揺さぶられ、胃液がせり上がってくる――無理矢理それを飲み込む。
 口内に胃液の酸味と苦味が広がる――味覚が潰れている以上、そんなものを感じ取ることはない/その事実に安堵――戦闘に集中する。

「お前の相手はこっちだ…!!」

 右手からのパルマフィオキーナで回避しざまに、左手に持ち替えたデスティニーを操作/ケルベロスに変形し構える。
 砲口に収束する朱い魔力が発射された。朱い炎熱が大気を切り裂く。
 レジェンドのカメラアイの部分に着弾。レジェンドの頭部で爆発が起き、一瞬レジェンドがよろめいた。
 一瞬の間隙。そこに砲撃と“同時に”突進しているシン・アスカが迫っていく。
 ドラグーンが彼を覆うようにして飛来する。その先端に灯る 赤い光。

『回避行動を開始します。』

 デスティニーの呟き。ドラグーンが周囲から自分を狙っていることを連絡する。
 ドラグーンから放たれる赤色の砲撃の雨――全身にフィオキーナを生成し、その砲撃の雨の隙間に身体をねじりこませる。
 繰り返される回避は全て紙一重。全身を掠める熱線。
 掠めるごとに身体中が削り取られ、同時に再生していく――致命傷さえ受けなければ自分は戦える。自分の後方で構えている陸士部隊が逃げ出す程度の足止めにはなる。
 デスティニーに念話を繋げる。

【アロンダイト起動、ここで食い止める!】
『後方の陸士部隊については?』
「…っ。」

 掠める熱線。直前で回避。

【通信を継続。それとヴェロッサ部隊長にも連絡して部隊長権限で撤退させてもらえ!】
『了解。』

 視界にはドラグーンが今だ十数機――先程よりも増えている。ガジェットドローンの残骸がある限り増加するのだろう。最終的にどれだけの数になるのかは見当もつかないが、長引けば長引いた分だけ彼我の戦力差は開き続ける。

(だったら、これ以上増える前に倒す。)

 逡巡は無い。このまま、砲撃の雨を突き抜けて、レジェンドにまで突貫する。
 デスティニーを大鍵(アロンダイト)に変形。門は既に開き、此方と彼方は繋がれている――あとはそれを顕すだけ。

『Form Alondite appearance――Wait.(巨大斬撃武装(アロンダイト)現出――待機。)』

 大剣の先端から半透明の巨大な剣が浮かび上がる。小規模次元世界に格納していた巨大斬撃武装(アロンダイト)を“待機”させる。
 存在濃度は重さが顕在化しない限界で停止。
 要するにただ“見えているだけ”の状態――小規模次元世界という彼方とこの世界という此方の中間に位置している。

「攻撃時のみこっちに引き出す――出来るか!?」
『問題なく。』

 ジグザク模様に稲妻の如き軌道と速度でレジェンドに近づく――先端から半透明に巨大な剣が伸びる大剣を構えた。
 シンが今やろうと思っていることは単純明快。
 懐に入り込み、巨大斬撃武装(アロンダイト)による一撃を当てること。

 モビルスーツとは、モビルスーツもしくは戦闘機、ヘリ、戦艦、戦車、歩兵等との戦闘の為に生み出された。当然のことながら魔導師――高速で飛行する人間との戦闘などモビルスーツは想定していない。
 魔導師がモビルスーツに対して勝っている部分があるとすればそこだけだ。
 即ち、小ささ。小回りが利くと言う利点だ。
 攻撃力、防御力は比較する必要もないほどに差がある。
 戦闘速度で飛来する戦闘機と速度で渡り合えるモビルスーツに対して速度のアドバンテージは無いと言っていい。
 
 だから、利点があるとすればそこだけ。
 巨人と言えるほどに大きいモビルスーツは巨体であることが武器であり、同時に小回りが利かないと言う弱点ともなる。
 ただし、あくまで人間と比較した場合の話だ。
 “空を飛ぶ”人間がいないコズミックイラで造られた兵器だからこその弱点とも言える。
 実際、通常の兵器に比べればモビルスーツは非常に小回りの利く兵器なのだから。
 
 ――レジェンドの懐に入り込み、右脇腹の横をすり抜けるようにして背後へ回り込む。バックパック――黒色のドラグーンユニットが見える。

 全身を覆う朱い炎が巨大斬撃武装(アロンダイト)を覆い尽し、同時にはっきりと実体化していく。

「食らえ……!!」

 知らず
 抑揚の無い声に少しだけ硬さが混じりこむ――友の機体を模した敵への怒りなのか、それとも人が戦うべきではないモビルスーツと戦うことへの恐れなのか。その両方なのかもしれない。
 巨大斬撃武装(アロンダイト)が顕現する。重量を取り戻した巨大斬撃武装(アロンダイト)は重力に従いレジェンドに向かって弧を描きながら振り下ろされた。

「ぐ、ぎ……!!!」

 重量と衝撃で意識が何度も途切れそうになる。
 規格外中の規格外とも言える武装――巨大斬撃武装(アロンダイト)。振るうだけで使用者に致命的な障害を与える欠陥兵器である。
 振るった際の衝撃は使用者の血流を破壊して、脳に酸素が行き渡らない事態を引き起こし、ブラックアウトの果てに意識を喪失する。
 たった一撃の為に消費する魔力も絶大。シン・アスカのエクストリームブラストのように自分自身のリンカーコア以外の魔力供給が無ければ使用すること事態が不可能とも言える。
 燃費の悪さは劣悪を通り越して最悪。
 
 ただ、最悪の燃費に反してもたらされる攻撃力は絶大だった。
 何故なら20m超の大剣――十数tを軽く超える一撃が通常の剣戟の速度――時速で言えば数百kmで激突するのだ。
 人間――否、生物が耐え切れるものではない。
 “だが”、それがモビルスーツに通用するかというと答えは恐らく否だ。
 人間がモビルスーツの武器を使って人間を攻撃するから強い威力になるだけで、人間がモビルスーツにモビルスーツの武器を使って真正面から挑んだところで一蹴される。
 故に不意打ちが最も適当な方法となる。それも誰かを囮にした上での最大威力の強襲以外にありえない。
 シンが先ほど思いついたのもその方法だった。だからこそ彼はその案を迷った末に破棄した。
 誰かを守ることが願いのシン・アスカにとって、誰かを囮に使うなど認められることではないのだから。
 
 そう――だから、こんな真正面からの攻撃は“通用する訳がない”。
 背後からとは言え、レジェンドのカメラアイがシンを捉えている以上、この一撃はレジェンドに予想されているのだから。

「くっそ…!!」

 毒づく。振り返ったレジェンドの右手のビームジャベリンと巨大斬撃武装(アロンダイト)が接触し、光刃と光刃が拮抗している――レジェンドのビームが魔力と混ざり合い、本来のモノとは異質となった影響だった。
 予想はしていた。ビームと魔力が混ざり合っている以上、鍔迫り合い程度は出来るかもしれない程度には。
 即座に巨大斬撃武装(アロンダイト)の顕現を解除しようとするシン――だが、遅い。
 デスティニーに通達し、彼女からの命令によって巨大斬撃武装(アロンダイト)の顕現と収納を行っているのでは遅すぎる。
 レジェンドの右手が力任せに真横に向かって振りぬかれた。“顕現”していた巨大斬撃武装(アロンダイト)ごと。その振りぬいた勢いそのままに巨大斬撃武装(アロンダイト)が吹き飛ばされる。

「だったら――!!」

 叫びと共に全身の魔力を最大放出。巨大斬撃武装(アロンダイト)を覆う朱い光をレジェンドの力の向きに合わせて発射させる。

「これで……!!」

 最大放出しながらも精妙に向きを変えていく朱い炎の魔力。
 そうして巨大斬撃武装(アロンダイト)はシンを中心に反時計回りに回転していく。
 レジェンドのビームジャベリンに弾かれた衝撃を利用して今度はレジェンドの左半身に向けて叩き付けた。
 激突――今度はレジェンドの左手のビームシールドで受け止められる。
 白熱する火花。
 即座に顕現を解除し、上空へ向けて飛び立ち、振り被る。
 構えは大上段。上空から――重力と共に叩き付ける。

「うおおおおお!!」

 刻一刻と加速し、速度を増して、巨大斬撃武装(アロンダイト)がその威容をレジェンドに近づけていく――ビームジャベリンで受け止められた。火花が散った。
 弾かれる前に顕現を再び解除。後方へ撤退――巨大斬撃武装を格納/大砲(ケルベロス)に変形――魔力収束。炎熱変換。発射。
迸る朱い赤熱。レジェンドの胸部に命中。煙が少し上がるだけでまるで意味が無い――それでいい。砲撃はただレジェンドの注意をこちらに向けるだけのモノだ。

「デスティニー!!」
『了解しました。』

 通信展開――今だ砲撃の構えを解かない陸士部隊に向けて。

【さっさと、逃げろ!!】
【だ、誰だ!?】
【頼む、早く逃げてくれ、そんなに長くは持たない!!】

 そう叫びながらシンは縦横無尽に飛び回り、砲撃を繰り返しレジェンドの攻撃を回避する。
 頭部のバルカン。背部のドラグーン。手に持つビームライフル。空を飛ぶ“ガジェットから生まれたドラグーン”。レジェンドの武装がシンの周囲の建物を蹂躙していく。
 身体を掠める物体はビルの破片やガラスの欠片。落下物を回避し、攻撃を回避し、後方へ移動――速度は緩めない。緩めた瞬間消し炭だ。

「ちっ……!!」

 ドラグーンが上空からシンを狙い撃とうとしている。
 両肩前面からフィオキーナを発射/後方へ移動――ドラグーンをケルベロスで砲撃。砲口に狙いを定めた一撃は狙い違わずドラグーンを串刺しに貫いた。爆発――その後方から新たなドラグーン。
 視界の端では今、破壊したはずのドラグーンの破片から這い出たケーブルが破片同士を繋ぎ、再び寄り集まって一つのカタチを形成しようとしている。

(再生してるのか…!?)

 思考する暇は一瞬あれば上等だった。
 今しがた現れた新たなドラグーンから砲撃が放たれた。色は赤。当たれば焼失。

 左肩からフィオキーナを発射し右方に移動することで回避――フィオキーナを使用し続けたせいか身体中が痛い/無視――放っておけば直る。
 全身からフィオキーナを発射し、分刻みで放たれる砲撃の雨を回避し、ケルベロスによる砲撃を繰り返す。
 どれほど攻撃してもドラグーンの数は減らない。減ったかと思えば即座に復活し、気付けば先程よりも数は増えている。
 恐らくレジェンドはガジェットドローンの残骸を手当たり次第に自分のモノとしているのだろう。
 1000のガジェットドローンとの戦いで消耗しきった後に、レジェンドによるガジェットドローンの再利用。幾つものガジェットドローンが寄り集まって出来たモノである以上、1000という数量には決してならないだろうが――放っておけば100を越えてもおかしくは無い。

(ドラグーンをやっても切りがないってことか…っ!)

 後退から転進し、ビルの物陰に入り込みレジェンドから姿を隠す。

「デスティニー、もう一度だ!」
『了解しました。』

 更に加速する速度――ビルの隙間を縫うように動き、レジェンドの右側へ移動。
 巨大斬撃武装(アロンダイト)を再び顕現。半透明だった朱く巨大な大剣が実体化しレジェンドに向かって振り下ろされる――そこに金髪の女性が見えた。
 空に浮かび、こちらを見上げている――まるで、レジェンドを守るようにして。
 金色の髪。服装は“あの日”と同じくキャミソール。露出の多い服だとギンガが怒っていた。同じくフェイトも。浮かび上がる名前――今頃はどこかに、“疎開”しているはずの女性。

「フェスラ…!?」
「……だから、馬鹿だって言ったのよ。」

 女の右手が開いた。そこに灯る朱い光――砲撃魔法の光。シンの魔力光に酷似した色。

「お前、まさか――」
「諦めた方が良い事の方がこの世界には多いんだから……適当にしてれば良かったっていうのにね。」

 瞳が、金色に染まり、そして紅色に染まっていく。
 同時にその姿が、“揺らいでいく”。幻のように、陽炎のように。彼女の姿が本来の姿に舞い戻る。
 くすんだ茶色の髪の毛。艶かしい体つき――それを覆うラバースーツが余計にその艶かしさを強調する。右手には爪――40cmほどの長さの爪が伸びている。

「さよなら――シン・アスカ。」

 朱い光が放たれた。咄嗟に身を翻してそれを避けるシン――そして、それが致命的な隙となる。巨大斬撃武装(アロンダイト)の一撃は、難なくレジェンドの左手のビームシールドに阻まれた。

「しまっ……」

 一瞬の驚愕。その一瞬で、レジェンドは無造作に力任せにビームシールドを“払った”。
 巨大斬撃武装(アロンダイト)のバランスが崩れた。続いて、レジェンドの巨大な右足が槍の如く巨大斬撃武装(アロンダイト)を蹴り抜いた。

「がっ――!?」

 初めに感じたのは衝撃。その一瞬、意識が断絶した。気を失っていたのは僅かに数秒。だが、その数秒が致命的だった。
 意識を取り戻すと同時に反射的にフィオキーナを全て吹き飛ばされる方向と逆に設定し、全力で放出。
 顕現を解除/遅すぎる――意識を取り戻した瞬間、今だ原型を残しているビルの二階と一階の中間に向かって、背中から突き刺さるようにして激突した。

 ばき、ばき。
 ごき、ごき。

 身体中から、嫌な音がした。
 頭の中で、ばき、と音がした。
 視界が赤く染まった。

「……あ…か」

 視界が紅く染まった。
 どくどく、と血液が頬を伝って落ちていく。
 後頭部に熱と、そして異物感―― “何か”が頭に突き刺さっているような――を感じる。
 瞳を動かした。
 全身がコンクリートにめり込み、ビルの表面に深さ1mほどのクレーターを作っていることを視認する。
 吹き飛ばされる瞬間にフィオキーナで減速したせいか、即死ではない――それほど違いはないかもしれないが。
 身体中の力が抜けていく。指を動かそうにも、神経が断線してしまったのか言うことを聞かない。
 めり込んだコンクリートから、滑り落ちていく身体――抗うことが出来ない。
 意識が朦朧としている。視界が霞んでいる。頭を強く打ち付けたのが拙かったのかもしれない。めり込んだコンクリートから頭が外れた。

 ずぶずぶ、という音が聞こえた。刺さっていた何かが抜けた音。
 コンクリートの欠片、もしくは鉄筋か。どちらかは分からないがそれが刺さっていたのだろう――頭蓋骨を砕く程度に深く。
 ずる、と身体が滑り落ちた。

「あ、ぎ」

 衝撃。視界で火花が飛んだ。
 額が硬いものと激突――それが地面だと気付くまでに数瞬かかった。
 目の前には黒いヒビだらけのアスファルト。

「…うぶ……あ。」

 喉元からせり上がってくる、どす黒い血液を吐き出した。
 鼻からも血が流れていく。通常の鼻血とは違うどす黒い色合いで。
 
 眼が痛い。眼から何か涙以外のモノが流れていく。
 落ちていく雫の色は同じく赤。血の涙が流れている。
 顔中がどす黒い血液で汚れた。
 
 何も考えられない。
 地面が揺れた。地響き――巨大なモノが動く振動/レジェンドが近づいている。
 身体が動かない。視界が赤い。吐血は続く。
 脳や内臓に致命的な損傷があったのかもしれない。
 朦朧とした意識に介入するデスティニーの声。

『修復まで数分かかります。』

 淡々とした声にどこか焦りが混じっているのは気のせいだろうか。
 ここまでの致命傷を負ったのは初めてだった。死ぬか生きるかの寸前。身動き一つ取れない虫の息。
 死の息遣いを感じ取る。視界には何も映らない。暗い真っ暗闇。
 意識が白い――何も無い。

「あ、あ…?」

 何も考えられない。意識が残っているのに脳に致命傷が与えられたからか何も考えることが出来ない。
 地響き。レジェンドが近づく。
 身体が動かない。瞳が閉じる。瞳を開けておく力がまるで無い。目を開けているのさえ億劫だ。
 瞳が閉じていく。落ちていく瞼――瞳があるモノを捉えた。
 それは――ある女性の姿。もう、いないはずの彼女。
 この朦朧とした意識の中であってさえ、その姿だけは決して間違えることはない。

「……ぎ、んが…さ、ん…?」

 青い長髪と気の強そうな瞳。
 殺されたはずの、ギンガ・ナカジマがこちらに歩いてきている。

「な、ん…で」
「シン。」

 嗤いながら歩いてくる。亀裂のような微笑み――彼女が、ギンガ・ナカジマは決して浮かべない嘲笑。
 揺らぐ――顔どころか姿形が一変する。金髪の女性――フェイト・T・ハラオウンへと。
 嗤いながら歩いてくる。同じく亀裂のような微笑み。フェイト・T・ハラオウンの微笑みを穢す嘲笑。

「シン。」
「フェイ、ト…さ、ん。」

 呆然と、シンはただそれを眺めていた。
 刻一刻と変化する。
 ギンガからフェイト、フェスラ、そして先ほどの女性へと。
 顔だけではない。雰囲気や姿、体型――それこそ、存在そのものが変化している。
 冗談にしか思えない。幻覚にしか思えない。

「この姿では、はじめまして、ね。シン・アスカ。そして――」

 顔が先ほどの女性へと再び変化した。右手をシンに向ける。先ほどと同じ朱い光が輝き出す。

「ここが貴方の終点よ。」

 ――女の右手が朱く輝いた。


 ――見えたものは暗闇だった。それが床だと気づくまで数秒かかった。
 
 殺されたと気付いた時には遅かった――全てが終わっていた。
 全身の感覚が消えていくのを感じる。
 死ぬ。
 私は死ぬ。
 浮かんだ感情に恐怖や怒り、悲しみは無かった。無論、喜びも無いけれど。
 ただ、くだらない世の中だと思った。
 諜報活動が主であり、私の身体が女である以上、方法の一つとして篭絡があるのは当然だ。
 自然、私の方向性もそちらへと向いていく。
 
 初めての男は60を過ぎた老人だった。慣れていない身体にそういった“行為”は辛く、声を上げれば喜んだ。下種な男だった。
 女のよがる様よりも痛がる様を喜ぶような――そいつらが瞳を見開いて私を見つめた瞬間、私は何かの衝動に動かされるようにして眼球に指を突き立て捻った。
 呻き声を上げて驚くそいつを嗤いながら今度は指を無理やり奥に押し込んで手首ごと頭蓋に突き込んだ。
 戦闘機人としての肉体は頭蓋を突き破る程度簡単に実現し老人は死んだ。
 同時に股間に熱い物を感じた――男が射精したのだろう。殺されても生殖機能というものは活動するものらしい。
 その後、老人の死体を丁寧に始末した後、“能力”で偽って、その場を去った。
 初めての殺人は予定通り――殺害方法こそ違ったが――終了した。
 吐き気を催すとか、死に際の瞳がちらつくなどと聞いていたがそんなことは無かった。
 大体死に際の瞳など自分の指が潰してしまって無かったのだから当然だろう。
 他者の死に対して思うことは何も無かった。ただ胸に在ったのはこんなものかという程度のあっけなさ。
 “行為”は痛かったがそんなものは慣れでしかないと思っていたし、実際予定通りではあった――我慢できずに殺したのは多分向こうが下手糞だったから。そう思うことにした。

 それからはその繰り返しだった。
 
 顔と身体を自在に変化できると言う能力は男を篭絡するには非常に都合のいい能力だった。
 何せ、その男の好みさえ分かってしまえば後はスルだけだ。

 男共は勝手に私を誘い、こちらから誘う必要も無い――仮に誘わなければいけないような堅物がいたとしても、そんな男ほど誘うのは簡単だった。
 身体(エサ)をちらつかせ、情報を得る。時に殺しもあれば、骨抜きにするまで囲われておくこともあった。
 爽快感など一度も無かった。快楽を感じたことはあったけれど、それで我を失うことも無かった。
 私は全てを自制してきたから――当然、そんなコトに溺れることも無かった。
 
 男を篭絡することはそれほど楽しくもなかったから余計にそうなったのかもしれない。
 どの男も落としてしまえば同じ反応しかしないし、落とすまでもそれほど差は無かった。
 くだらないルーチンワーク。流れ作業は何度も何度も繰り返す内に飽きてくる。
 他の方法も使えば良い――そんな考えも浮かんだ。
 無論、篭絡以外の方法は幾度も使った。
 けれど、篭絡が最も簡単且つ確実な方法である以上、それを繰り返すのは当然だ。
 成功率の低い方法をわざわざ選ぶと言う無駄を行う必要は無いのだ。

 だけど、私は飽きていた。その繰り返しに。
 
 虚無、と言えばいいのだろうか。いつからか私の胸にはそんな穴が開いていた。
 まだ見ぬ妹たちに会うのを楽しみにしていたのも多分に彼女達に期待していたからだろう。
 もしかしたら、この穴を埋めてくれるかもしれないという淡い期待が――それが叶う前に死んだのは不運としか言いようが無いが。

 くだらない。本当にくだらない世の中だった。
 自分の運命が憎いなどと初心な乙女のようなことを言うつもりは無い。ただ有り体に言って詰まらない人生だった。
恋だの愛だのというモノにはさして興味が沸かなかったが……一度くらいはしておくべきだったかなとも思う。死に際に思い出すことが、こんな詰まらない人生のことだと言うのはあまりにも悲惨すぎる。

(……別に、いいか。)

 諦観、というよりも心底どうでも良かった。
 生きることには飽きていたし、それなら死んだ方が少しはマシかもしれないとさえ思った。
 瞼が重い。死が近いのだろう――痛みはあるが、問題ない。
 そう、思って、瞼を閉じた――その時、声がした。
 人の声ではない。動物の鳴き声。イルカや鯨の鳴き声に近い。
 声はいつまでもいつまでも響き続ける。
 瞳だけを動かし、私を殺した槍の騎士を見る。
 彼はこの声に気付いていない。つまり、コレは私にしか届いていない声。
 鳴き声は響き続ける。どこか悲しげに寂しげに聞こえるその声。

(……うるさいわね。)

 心中で毒づいた。途端、声の質が変わった。
 哀愁を帯びた悲しげな鳴き声から、反応に喜ぶ嬉しげな鳴き声に。

(……聞こえてるの?)

 鳴き声が大きくなる。
 徐々に徐々に徐々に徐々に――どこかから近づいてくるように大きくなってくる。
 瞳を動かし周りを見れば、既に私を殺した騎士はいない。声が大きくなっていることを確認出来ない。
 鳴き声はそんな私の逡巡を気にすることもなくどんどん大きくなっていく。
 か細い声だったのが、今では耳元で叫ばれているようにすら聞こえる。
 そして、世界が白く染まった。一際大きい鳴き声が私の“中”から聞こえた。
 
 ――そうして、私は変容した。嘘しか吐けない女から嘘でしか無い存在へと。
 
 嘘で塗り固められた人生。
 嘘であることを望まれた人生。
 嘘そのものである人生。
 
 ――なら、私はいつかホンモノになれるのだろうか?
 
 いつか、そんな言葉が私の中に生まれていた。


 紅い光が光った瞬間、シンは無理矢理身をよじって逃げに徹した。
 シンが寝転がっている横で地面から煙が上がっている――当たっていれば確実に身体の一部が消し飛んでいてだろう。

「……よく避けたわね。」

 女は静かに告げた。至極詰まらなそうに――それは自分の知るフェスラ・リコルディとはあまりにもかけ離れた顔だった。
 爛々と輝く紅い瞳が女が人外のモノだと告げている。

「おま、え……は……」

 吐く息はか細く弱々しい。その様を瞳を細めて見つめるドゥーエと名乗った女。

「て…き…だった、のか。」
「ええ、そうよ。」
「…そ…か」

 全身から立ち昇る蒸気は肉体が回復していく証だ。少しずつ朦朧とした意識が正常に戻されていく。
 取り戻していく意識と思考の中で全てが繋がっていく。
 内通者がいたのは初めから予想していた。
 でなければエリオとスカリエッティが連絡を取り合うなど出来る訳が無い。エリオにはそういった技術は無いからだ。
 時空管理局の中でも特に高ランクな魔道師が集中する機動6課には厳しいセキュリティレベルが求められる。
 特にネットワークのセキュリティなどはコーディネイターであるシンですら易々とそれを突破することは出来ない。
 と言うよりも普通の人間にそんなことが出来る筈も無い。
 それこそ、キラ・ヤマトのような人間ならば別だろうが――少なくとも以前のエリオにそんな技術は無かった。あれば彼はそれを素直に見せていたことだろう。
 だから、エリオ以外に内通者がいるだろうことは当初から分かっていたことだった。
 
 ――最もその内通者が姿形を自由自在に変化できるなど想像の埒外だったが。

「貴方も可哀想な男よね。」

 ドゥーエの左手がシンの頬に触れた。優しく撫で回す。

「大事な人間殺されて、そこまで壊されて……今、どんな気分?」
「……うる…さい。」

 唇を歪めた厭らしい嘲笑を浮かべるドゥーエ=フェスラ。
 少なからず、そんな女を信じていたことが情けない。それでショックを受けている自分が何よりも情けない。

「答えてくれる訳も無いわね。……だったら、この姿ならどうかしら?」

 ――ドゥーエが揺らぐ。陽炎のように歪み、瞬き一つの刹那で、彼女はギンガへと変化する。

「――どんな気分ですか、シン?」

 ギンガの顔で、ギンガの声で、けれど表情だけがギンガとは違う。彼女はこんな笑い方をしない。

「おま…え…」
「……やっぱり私には教えてくれないんですね、シン。じゃあ、これなら“どうかな”?」

 ――言葉の最中、言い終える前にドゥーエが揺らぎ口調が変化した。揺らぐ陽炎の中でギンガは消え去り、金髪の女性――フェイトが現れる。

「シンは、今、どんな気分?」
「……やめ、ろ。」

 朱い瞳に力が籠る。満身創痍の身体。今にも死にそうな姿――なのに、その目に籠る憤怒が際限なく高まっていく。

「ふふ……壊れちゃったね、シン。あ、私のこの姿ホンモノじゃないの。これはね、模倣(エミュレイト)っていう“私”の能力。フェスラ・リコルディって言うのもそうやって、貴方の心象世界(オモイデ)から“もらって”カタチにしたものなんだよ?」
 嗤うフェイト。邪悪で醜悪で見るに堪えない表情――シンの右手が動いた。
 伸びた右手は即座にフェイトの首を掴み、締め上げる。

「おもい、で……だと。」
「“そうですよ?”」

 ――揺らぎ、そして次瞬ギンガに変化する。

「Fessura・Ricordi(フェスラ・リコルディ)――ある世界の言葉で「思い出の傷」って言う意味です。」

 嗤う。彼女の声で、彼女の顔で、彼女に在り得ない表情で。

「思い出の、傷、だと。」
「貴方の思い出から私がもらったモノです――“そう”、シンにとって傷跡でしかない思い出からね?」

 話しながら揺らぐ――再びフェイトへ。
 奥歯をきつく噛み締める。彼女達の顔で嗤うことが“何故か”許せない。

「……・嗤、う…な。」
「……私を殺せるの?」

 クスクスと嘲るように嗤う。罵倒するように嗤う。断罪するように嗤う。
 嗤うたびにシンのココロの中に残っていた彼女達が汚されていく。
 思い出の中にだけ存在する笑い合う彼女達の顔。それが泥に塗れて消えていく。

「嗤、う、な…!!」

 クスクスと“フェイト”はシンの手を払いのける。そのまま地面に倒れ込むシン。
 致命傷は未だ癒えていない。瀕死の身体は今も変わらず意識をはっきりとさせない。
 揺れる視界。
 胸焼けが酷い。
 頭痛は気絶すら許さない。
 再生を強制されていく肉体が悲鳴を上げている――それでも、それでも、その嗤いだけは許せない。

「嗤う、な……その、顔で…そんな、かお、で……!!」

 ぎりっと奥歯を力強く噛み締めた。
 許せない。
 裏切られたことなどどうでもいい。
 そんなものどうだっていい。

 信じていれば裏切られるのは当たり前だ。自分はずっとそうやって生きてきた。
 信じたモノは全て自分を裏切った。
 だから、裏切られることは別にどうだって良い。そんなものだと納得出来る――だけど、
 
 ――シンの右手が再びドゥーエの首に伸び、その細い首を掴んだ。

「……おれ、をしんじた、二人を…わら、うな……!!」

 自分を信じた二人を、自分を好きだと言った二人を――もう思い出にしかならないとしても――汚されるのは、馬鹿にされるのは、嗤うことだけは、許せない。
 その言葉を聞いて、目の前の女が笑った。

「ふ、ふふ、あはは、あはははははははは!!!!」

 狂ったように笑い出す。
 首を掴まれ、今にも折られそうなのに――如何に満身創痍と言えど、その細い首を折るくらいの力は残っている、はずだ。
 エクストリームブラストは、デスティニーはその程度の無茶を可能にする。
 だけど、その笑いが、その無茶を躊躇わせる。
 フェイトの顔で、狂ったように嗤う女――姿が元の姿に舞い戻る。ドゥーエと言うナンバーズへと。

「笑わせるじゃない、シン・アスカ。貴方、そんなこと、本当に信じてるの?」

 言葉が、冷たかった。嘲笑が何故か胸に痛い。

 ――聞くな。

「な、に」
「あの二人が本当に貴方のこと、好きだったって、本当にそう思ってるの?」

 ――耳を塞げ。

「おかしいと思わなかった?どうして、あの二人が貴方のことを“好き”になんてなったのか?不思議だと思わなかった?」
「……な、に、を。」

 漏れる声はか細く途切れ途切れ。
 肉体は未だ修復していない。

 だが、それとは関係無しに力が入らない。まるで力が入らない。
 疲れでも無い。痛みでも無い。
 ただ、怖くて――手の震えが止まらない。

「おかしいでしょう?ギンガ・ナカジマは出会って直ぐに貴方に好意を持った。フェイト・テスタロッサは出会って僅かな間で貴方に恋をした。」

 嗤いながら話す。心底愉しそうに。

「ねえ、シン・アスカ。そんな風にして、貴方に恋するの、おかしいと思わない?二人が自分を好きになるなんて、“おかしい”って。」
「そ、れは…」

 ――そうだ、おかしい。自分は誰かに好きになってもらえるような人間では無い。
 
 だから、戸惑った。
 今まで生きてきて、そんな風に言われたことは――そうだ、一人だけいた。
 
 ルナマリア・ホーク。
 シン・アスカが溺れた女。溺れた理由は甘えさせてくれたから。
 甘えさせてくれたから溺れた。始まりは多分――いや、間違いなく同情だ。
 だから、今でも断言出来る。自分とルナマリアには恋愛感情など“欠片も無かった”と。
 彼女はシン・アスカに同情した。
 シン・アスカはその同情に付け込んで溺れさせてもらった。
 
 ――同情に付け込んで甘えて溺れて忘れて捨てた。
 ――それはどこかで聞いたような光景ではなかったか。

「気づいてるわよね?思い出してるはずよね?そう、貴方、ルナマリア・ホークに溺れたものね?」

 彼女達二人の心に同情は確実にあった。でなければ自分に興味を持つなどありえない。
 そして、自分はそれを“知らない”と言いつつ、享受していた。

「……」
「自覚はあったみたいね……いえ、それとも初めから分かってたのかしらね?」

 クスクスと嗤い、ドゥーエの姿が揺らぐ――ギンガ・ナカジマへと変わる。

「そうです、シン。私は貴方に恋をしていた訳じゃありません。」

 クスクスと嗤い、“ギンガ”の姿が揺らぐ――フェイト・T・ハラオウンへと変わる。

「そうだよ、シン。私は別にシンに恋をしていた訳じゃ無いもの。」

 クスクスと嗤い、“フェイト”の姿が揺らぐ――二人の姿が混ざり合う。
 二人のどちらにも似ていて、けれど別個の新たな誰か。二人の声が重なり“事実”を告げる。
 客観的な事実――当事者には決して分からない真実。

「「私たちは貴方に同情していただけ――貴方が可哀想だから、慰めていただけ。」」
 
 手から、力が抜ける――否定できない。いや、否定する理由が見つからない。
 熱に浮かされていたような脳が急速に冷えていく。
 狭窄していた視界が広がったような気がした。
 心臓の鼓動が落ち着いた。
 “女”の手が優しく、自分の頭を撫でた――揺らぐ。ナンバーズ・ドゥーエがそこにいた。

「……自分がどれだけ、道化だって分かったかしら?」

 クスクスと嗤う――そこで気づく。シン・アスカの手がまだ自分の首から離れていないことに。
 シン・アスカの瞳を見る――そこに焔を見た。爛々と燃える焔を。
 憎悪も憤怒も悲哀もそこにはない。ただ、静かに焔(イシ)が佇んでいる。
 ドゥーエの唇が歪んだ。嬉しそうに、邪悪に微笑んだ。

「……へえ、流石は無限の欲望。この程度じゃ、“壊れない”のね。」

 そう言って、ドゥーエがシンの手を払い、即座に後退する――シン・アスカはそれを追いもしない。
 ただ、小さく呟いた。

「デスティニー。」
『エクストリームブラスト、ギアマキシマム。』

 付近の全てが一瞬で崩れ落ちた。
 目で見えるほどに強固に存在を誇示する搾取の糸――付近に存在する全てに繋がり、その全てを搾取する。
 
 建物に穴が開く。地面に穴が開く。瓦礫が消し飛んだ。全てが塵となって芥となってシン・アスカに搾取されていく。
 
 千切れかかっていた足が繋がった。切り裂かれ内臓が露出していた腹部が塞がった。
 復元――それも最高速度の。使用される魔力の量は膨大を突き抜けて絶大。
 周辺の建物は既に無い。道路は所々にクレーターのような穴が穿たれている。
 そしてそこら中を流れていく砂塵の渦――周辺にあった建物の成れの果て。

 死者が生者に舞い戻る――血塗れた顔と血走った瞳、未だ再生を続け蠢く肉体は目を背けたくなるほどにおぞましい。
 背筋を伸ばし、シン・アスカは立ち上がった。

 長く無造作に伸びた髪に隠れ、瞳は見えない――気負う様子は其処には無い。
 男の雰囲気が僅かに変わる――ルナマリア・ホークとステラ・ルーシェ、ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウン。彼の心に住み着く幾つもの心象世界(オモイデ)を模倣したドゥーエにしかわからない程度の微妙な変化。
 
 ――シン・アスカは変わっていない。まるで先ほどまでの彼が異常だったとでも言うように、今の彼は先程よりもよほど落ち着いている。

 微妙な変化とはつまり落ち着いているということ。
 静かな雰囲気を身に纏い彼はそこにいた。
 少なからず、その事実にドゥーエは驚いた。自身を道化と暴かれ蔑まれ嘲笑されて、“落ち着いた”人間などこれまで出会ったことが無かったから。
「……まるで、変わらないのね、貴方は。」
「何がだ?」
「自分が道化だって気づいて、それでも変わらないって言ってるのよ。」

 巨大斬撃武装(アロンダイト)との接続は既に切れている――同時に繋がれていたはずのラインも。もしかしたら、既に折れているのかもしれない。レジェンドの蹴りをまともに食らっていたことから察するにそれくらいはありえてもおかしくはない。

「いつものことさ。」

 淡々と呟く――心が冷え込んで行く。
 そうだ。いつも通りのことだった。道化であるのはいつものこと。
 彼は今までそうやって生きてきた。
 今更、道化だと言われたくらいで、何かを思うようなことは無い。
 むしろ――疑問が氷解して良かったとすら思っている。
 
 ――ああ、そうだ。道化であることには慣れている。
 
 確かに胸は痛い。泣き出したくなるほどに胸が痛い。けれど――湧き上がる言葉はいつも通りの単純な言葉。

「守れなかったんだよ。」

 その言葉を放つと言う事は、自分を好きだと言った彼女達二人を裏切ることになる――思えば、初めから自分のことを好きだなどと信じていないのだから裏切っているといえば初めから裏切っているのだが。
 ドゥーエのその言葉はシンの奥底の部分にすんなりと入っていく――それが多分真実なのだと彼は初めから分かっていたから。
 呟きながら、瞼を閉じる――瞼の暗闇に映るのは二人の最後の光景。

「俺はあの二人を守れなかった。」

 ――ソードインパルスの武器を模した剣が胸に突き刺さったギンガ。紅い血が流れていく。
 彼女の顔を思い出す。
 モノと成り果てた彼女の呆然とした青白い顔――心臓が痛かった。
 亀裂が入ったのかと思うほどに痛かった。
 彼女はもう笑わない。怒らない。悲しまない。
 何もしない。

「俺が殺したんだ。」

 “あんな思いを”

「俺が殺したんだ……だから、勘違いでも何でも俺はあの二人の死を忘れちゃいけないんだよ。」

 ――ソードインパルスの武器を模した剣が胸に突き刺さったフェイト。紅い血が流れていく。
 モノと成り果てた彼女の顔。青白く呆然とした能面のような表情。
 年齢に似合わない無邪気な笑顔はもう見られない。胸が痛かった。
 冷たい身体がイキモノではなくただのモノだと突きつけてくる。

「死人はもう喋らない。あの二人は、俺なんかに構わなかったらあんなことにはならなかったんだ。」

 “もう二度としたくはない。”

「あの二人は死んだ。俺が殺した。だから、俺はお前らを倒す。」

 “だから――それで良い。”

 巨大斬撃武装(アロンダイト)は呼び出せない。エヴィデンスは使えない。
 状況は良くは無い。レジェンドが近づいてくる。
 同時にそれに伴うように複数の人間がその周りを浮遊している――ナンバーズが3人。鎧騎士はいない。
 グラディスがまだ足止めしてくれているのだろう。
 3もしかしたら倒したのかもしれな/どちらでも構わない――澄み切った湖面のように思考が鮮明になっていく。
 
 そうだ。
 あの女と夢で誓ったように、この命は“誰か”の為に。誰かを守り続けることで自分の命は価値を持つ。
 どこにも行き場の無い自分の命はその為にここにいる。
 唇を吊り上げて笑顔を形作る。

 ――薙ぎ払ってやるさ。俺が、全て。
 
 額から流れる二筋の血が流れていく。それは血涙のようにシンの瞳を通って垂れ堕ちる。

「デスティニー。」
『了解しました。』

 シン・アスカを朱い炎が覆った。淡々とした口調――本当に落ち着いて、冷静沈着な態度。それこそ機械のように。
 何も握り締めていない左手を開いて――握り締めた。

「俺は最初からずっと……力が手に入ればよかったんだ。だから、これでいいんだ。」

 静かに呟く――自分に言い聞かせるように。

「……どこまでも馬鹿なのね、貴方は。」
「俺はそれでいい。」

 デスティニーを構えた。
 ドゥーエがその両手にライオットザンバー・スティンガーを具現化する――自分以外の心象世界(オモイデ)の具現化。
 故にそのココロに仕舞いこんだ“誰か”の武装――偽物の武装。
 地響き。既にレジェンドは眼と鼻の先にまで近づいている。同時にその付近を飛んでいたナンバーズも。
 絶体絶命と言ってもいい状況――なのに、やけにココロに余裕があった。

「……ったく、散々だったな、俺の人生も。」

 苦笑しながら、デスティニーから情報を確認する。
 
 ――先ほどの陸士部隊は撤退に成功したらしい。近隣中の敵は全てこちらに向かっている。
 
 脳裏に展開したマップに示される赤い光点が中心――即ちシンに向かって近づいてきているのが見て取れる。

『後悔は無いのですか?』
「誰かを守って死ねるんだ。後悔なんて……あるはず無いさ。」

 ――あるとすれば一つだけ。

 あの二人はシン・アスカに幻想を抱いて恋に恋して死んでいった。
 そして、自分も恐らく同じなのだろう。
 自分も彼女達に幻想を抱いていた。ルナマリアの時と同じように――だって自分は彼女達のことなど何も知らない。同じように彼女達も自分のことを何も知らない。
 もしかしたら、恋していたのかもしれない――けど互いに互いのことを何も知らないのにそれが恋だと言うならそれこそ本末転倒だ。
 それを恋だと言うのなら…そんな恋などしたくもない。
 失くしてから気付くのも馬鹿な話だ。けれど、人生なんていつだってそんなものだ。

 だから、後悔があるとすれば一つだけ。
 あの二人ともっと話したかった。
 出来るなら、もっとちゃんと接したかった。
 こんな偽物のような恋じゃなく、本当の恋がしたかった。
 
 ――ただ、それだけ。

「行くぞ、デスティニー。これが最後の戦いだ。」
『……了解しました、兄さん。』

 絶望にしか辿り着かない戦いが始まる。
 その只中――シン・アスカは無邪気に微笑んだ。焦点を失い血走った瞳と不釣合いな笑顔。
 嬉しそうに、楽しそうに、花の様に――彼女達が好きだった“かもしれない”笑顔で。



[18692] 第二部機動6課怒濤篇 49.Sin in the Other World(j)
Name: spam◆93e659da ID:08e6d9e9
Date: 2010/05/29 18:01
 電車から出て、真っ先見えたのは真っ赤な空。
 遠方の空が赤く染まっていた。
 避難警報が出て以来クラナガンには関係者以外は立ち入り禁止となっている。
 当然だ。危険区域に一般人が近づかないようにするのは当然の措置だ。
 この電車に乗る時、周りの人々は自分のことを哀れむような目で見ていた。
 その電車は物資等搬入用の電車だったから。管理局の事務員の制服を着た自分はさぞや浮いていたことだろう。
 どうして、乗ったのか。どうして、ここにいるのか。
 自分でも分からない。

「……なんで、来たんやろな、私。」

 避難警報が流れている。管理局員が避難場所へと誘導しているのが見えた。
 
 ――襲撃があることは知っていた。けれど、自分は逃げ出した。
 
 友達を失くした。
 部下を失くした。

 死なせたのは初めてだった。それが身近な人間だったのが良い事なのか悪い事なのかはさっぱりわからない。
 二人の死体を見て、自分はただ泣くことしか出来なかった。
 枯れ果てるほどに泣いて、泣いて、泣いて、その後はただ、呆然と言われるがまま、指示に従った。
 意識が考えることを拒否していたのだろう。気がつけば、更迭され、辺境で管理局の窓口をやっていた。
 仕事の引継ぎ等は完璧にしていたらしい。ヴェロッサからそういった旨のメールが来ていた。
 呆然とした思考のままでも仕事は完遂する。そんな自分に苦笑することもなかった。どうでもよかった。

 それから一週間。
 若くして二等陸佐となって、そこからの左遷。左遷先はそれまでとはまるで意味合いの違う部署。

 単なる各次元世界からの意見の窓口程度。平たく言えば、単なる駐在と変わらない。
 周囲からのやっかみも当然あった。
 仲間外れと言うほどでは無いが、空気そのものはそれに近かった。
 けれど、それは初めての経験ではなかったから別に何も思わなかった。
 似たような経験は何度もあった。機動六課と言う一つの組織のトップに20の小娘が立とうというのだ。その程度の経験は無い方がおかしい。

 ――辛いのは目の前の仕事が“どこにも通じていない”と言う事実だけだった。
 
 自分がやっている仕事ははっきり言って、やらなくても良い仕事だ。
 時空管理局は慢性的な人手不足に悩まされている。
 管理世界の住人一人一人の悩み相談などをやっている人員も時間も存在しない。
 つまり、これは単なる意見の吐き捨て場。ここで集計された意見は管理局本局に送られ、“握り潰される”。
 実際、それで十分なのだ。時空管理局は管理世界の内政の全てを管理している訳ではない。
 よって、ここに集計されたような意見はただ現地政府に任せればそれでいい。やる必要が無い職務。つまり、体の良い窓際そのものだ。

 10年。幼い頃から数えれば10年と言う歳月を管理局で過ごしてきた。
 見た目の若さとは逆に八神はやてのキャリアは決して短い物では無い。
 
 その結末がこれだった。
 左遷先で仕事を懸命に頑張ったとしても、その先には何も無い。ただ、ここで飼い殺しにされるだけ。
 元次元犯罪者には似合いの末路なのかもしれない。そう思った時、何もかもがどうでも良くなった。だから、仕事に没頭した。
 幸いなことに仕事は十二分に溜まっていた。
 ここに“流されてきた”人間はこの場所の意義を十人分に理解していたらしく、まともに仕事などしていなかった。
 溜め込まれた書類はそれこそ十数年を軽く超える量だった。
 八神はやて一人がどれだけ頑張ったところでどうにもならない量だ。

 夜の12時を超えるまで書類整理に没頭した。誰もそれを止めなかった。
 同僚は言った。ここに来た当初は誰もがそうすると。そして、いつか諦めて流されていくのだ、と。
 その通りだと思う。やがて自分もいつかは流されていくのだろうと思った。
 寮に帰れば倒れ込むようにして眠った。シャワーを浴びない日もあった。
 泥のように眠って、起きては仕事を繰り返す。おかげで余計な雑音は耳に入らなかった。
 毎晩毎晩見る夢の内容は無視した。どうでもいいことだと、そう思ったから。

 夢の内容はシン・アスカの夢。
 彼をここに誘った誰か――リインフォースが見えた。彼が見た映像は彼女が自分たちの前からいなくなった時のこと。
 繋がるはずの無い点と点。
 恐らく、シン・アスカと言う人間がミッドチルダに来たことも、ジェイル・スカリエッティが脱獄したことも全ては無関係では無い。
 全て、あの日から――リインフォースが絡んでいることは“間違いない”。
 リインフォースは消えた。それは間違いない。だが、ならばどうして――どうでもいい、と思った。
 その夢がたとえ誰の記憶であろうと、それが全ての始まりだとしても、自分はもう関わりたくなかったから。それがもっと早くに見えていれば、そう思うこともあった。
 けれど、全ては遅すぎた。二人は死んだ。自分は失敗した。
 
 そのまま、そこに埋もれて行く事を望んだ。だから、左遷を受け入れた。それまでのキャリアに泥を塗ることを望んだ。逃げ出したかった。
 それだけしか考えられなかった。それが、どうしてここにいるのだろうか。

 襲撃があることは知っていた。けれど、その内容は知らなかった。言われなかったし聞かなかった。しがらみに縛られる前に逃げ出したから。
 それで良かった、はずなのに。
 メールが届いた。差出人は分からない。
 内容は襲撃の規模とその内容。恐らく今回出撃する誰かでなくては分からないような内容ばかりがそこには羅列してあった。
 
 自分は、それを見た時、すぐに走り出した。
 衝動的なものだろう。きっと行けば後悔する。役立たずで何も出来ない自分はきっと後悔する。
 そう分かっていて、そんな確信を抱いていながらも自分は走り出した。
 メールの文面の最後にはこう記されていた。
 “主役が来ないでどうする?君が壊したシン・アスカはまだ折れていないぞ?”と。
 誰からのメールかは分からない。けれど、それがどうしても看過出来なかった。
 “シン・アスカは折れていない”と言うその言葉が。

「……大体、来てどうするつもりやったんや、私は。」

 足早に避難所に向かいながら、はやては紅く染まる空を見た。
 出来ることなど何も無い。そう、思いながら。


 拳戟と剣戟が鳴り響く。砲撃が鳴り響く。轟音が鳴り響く。
 大剣(アロンダイト)と大剣(インパルスブレード)がぶつかり合う。
 そのまま鍔迫り合いに移行しようと力を込めてくるトーレ。力任せにインパルスブレードを弾き、その場から離れる。
 シンがそれまでいた場所を貫く音速で放たれた長剣。セッテの攻撃だ。放たれる瞬間に移動することで回避しているが、実際いつまで続けられるかは分からない。
 周囲の空間が歪んだ。移動速度を加速し、一気に歪んだ箇所を突き抜ける。次瞬、雨の如く降り注ぐ赤いレーザー。クアットロの攻撃。
 前方にドラグーンが接近。デスティニーを大砲(ケルベロス)に変形。砲口を狙って発射。
 同時にドラグーンもビームを発射する。発射と同時に互いに回避。すれ違い様に大剣(アロンダイト)の一撃を叩き込むが、装甲に弾かれた。
 貫けなかったと言う事実に舌打ちをしつつ、下方から迫るドゥーエの一撃に備える。彼女がフェイトのライオットザンバー・スティンガーそのものと言っていいカタチの双剣を振るわせた。
 大剣でその一撃を受け止め、弾く。開いた懐に向けて突進。ドゥーエの左膝がギンガを思わせるが如く跳ね上がった。咄嗟に身を逸らし回避。続いて左足のつま先がシンの顎目掛けて駆け上がる。後方に倒れこむ勢いで更に身を逸らし回避。 跳ね上がったドゥーエの左足が一気に落下する。更に後方に下がり回避。いつに間にか彼女の両の手に得物が無い――弾丸のような踏み込み。足元にウイングロードを精製し、空中で足場を作っていた。

「――っ」

 左肩を前に出し右腕を引き絞った構えは即ち右ストレートの構え。彼女の“右手”を中心に魔力が螺旋模様に渦を巻く。
 全速で後退する。その瞬間、ドゥーエのリボルビングステークに酷似した右ストレートがシンに向かって突き進むも、後退が間に合い回避に成功。
 息を吐く暇は無い。右方から再びトーレが迫っている。インパルスブレードが巨大な爪へと変化した。大剣(アロンダイト)をケルベロスⅡへと変形し、魔力弾の連続掃射を放つ。
 こちらの行動に反応しインパルスブレードが再び変化。今度は盾。両の手に1.5mほどの高さと1mほどの幅を持つ紅い魔力で精製された盾が現れ防がれた――が、構うことなく掃射。動きを止める。トーレの動きはこちらの動きに追随するほどに速い。反応速度にそれほど差は無い――纏わり付かれると最も厄介だった。

 上空から迫り来る何かをデスティニーのセンサーが感知する。
 視線を上に向ければレジェンドのドラグーンがこちらを狙っていた。
 ケルベロスⅡの掃射を止めて、大砲へと変形。
 左手で取っ手を掴み、一気に上空のドラグーンへと疾走。すれ違う寸前でドラグーンに向けてケルベロスを発射。
 朱い光が立ち昇り、導かれるようにしてドラグーンの砲口を貫いた。爆発。
 ドラグーンが破片を撒き散らしながら墜落していく。

「これで……がっ!?」

 瞬間、背中に衝撃――次いで熱さと痛みを感じた。
 何が起こったのか、一瞬理解出来ずにそのまま吹き飛ばされ、空中を溺れるようにして、落ちていく。
 痛みの質は切り裂かれた裂傷――歯を食いしばってその痛みを堪えた。
 落ちていく自分に追い縋り、大剣状に変化したインパルスブレードを振り被るトーレがそこにいた。
 インパルスブレードがシンの背中を十文字に切り裂いたのだ。
 魔力消費を度外視して防御を固めていたおかげで、肋骨か背骨のどちらかが折れた程度で済んだらしい。
 修復を開始。痛みはあるが無視。痛覚があるのがもどかしい。

「私たち4人相手に渡り合いながら、レジェンドを気にする余裕があるとはな。」

 大剣(アロンダイト)と大剣(インパルスブレード)が激突した。
 鍔迫り合いに持ち込もうとするトーレ。
 インパルスブレードの刃を大剣で滑らせ、後方に受け流し、身体を入れ替え、見えた背中を力任せに蹴り抜く。

「くっ……!!」

 呻くトーレ。先程の彼女の言葉は無視。答える必要は無いし、そんな余裕は無い。戦闘に没頭する。

「行きなさい。」
 
 セッテの呟きが耳に入る――目前に見えるだけで10本の長剣が見えた。全てこちらに向けて放たれた連続投擲の嵐。
 一撃必殺の威力を持つソレを受け止めるだけの力はバリアジャケットには存在せず、回避するならその群れごと回避するしかない。
 無理矢理、下方に加速しながら落下する。
 急激な加速で脳への血流が阻害された。視界が黒く染まり、全身に倦怠感が生まれる――ブラックアウト。気にすることなく戦闘を継続。
 
「デスティニー。」
『了解。』

 デスティニーのセンサーが取得した情報によって形成される擬似的な視覚に移行する。
 同時に酷い頭痛と吐き気が込み上げて来るが無視。
 頭痛は放っておけば治るし、吐きながらでも戦いは出来る。
 どの道、何も食べて無いのだから吐き出すものなど胃液くらいだ。それすら敵の顔にかかれば目潰し程度にはなる。
 
 連続で放たれた長剣の群れを回避するも、二の矢、三の矢が続けて放たれていた。
 落下速度を速め、地面に向けて突撃し、二の矢、三の矢も回避する。

 落下予想箇所の空間が歪んだ。
 それを確認した瞬間、考えるよりも早く反射的に自らの軌道を変更。

 落下予想箇所で放たれた熱線(レーザー)の雨を横目に攻撃の主であるクアットロを探し出す。
 眼では彼女の場所は分からないのでデスティニーのセンサーも使用しているがまるで確認が出来ない。
 遠方でドゥーエが右手を突き出すようにシンに向けて構えているのが見えた。掌が紅く輝き、光熱波が放たれた――回避。

 何度も何度も繰り返される光景。
 トーレの接近戦を中心とした徹底した一撃離脱が彼女達の主たる戦法だった。
 恐らく誰かが状況を俯瞰した上で指示を出しているのだろう。でなければ、こんな全ての状況を理解したかのような連携、出来はしない。
 巨大斬撃武装(アロンダイト)が無いことが悔やまれた。
 この状況をシンは何度か味わっている。
 これは先ほどシンが殺したウェポンデバイス達との戦闘に酷似しているのだ。
 違いがあるとすればそこにレジェンドと言うモビルスーツが入っていることくらいだ。
 
 それゆえ状況を変える為に、巨大斬撃武装(アロンダイト)ほど適当な武器は無い。
 どんな相手であろうと当たれば殺す、あの武器は状況を打破するには最適な武装だからだ。そして、シンの右手に眠る全てを砂塵に変える搾取の眼(エヴィデンス)も。

(巨大斬撃武装はもう使えない。エヴィデンスも使えない。使える武器はデスティニーのみ。)
 
 思考に沈み込む。そして澄み切った思考とは裏腹に肉体は冷静に冷徹に稼動する。戦闘を継続する。

(どうする。)

 戦力差は圧倒的とまでは言わないが良くは無い。むしろ、こちらが悪い。
 レジェンドが敵である以上こちらが確実に勝っているのは速度と致命傷を回復出来ることのみと言って良い。
 またレジェンドがいることによって前提条件も変わっている――勝利条件と言うよりも、戦闘の継続条件と言った方が正しい。
 
 ナンバーズはシンの動きを止めればその時点で勝利なのだ。
 何故ならシンの動きが止まった所を狙ってビームライフル、ドラグーン、バルカン等のレジェンドの持っている武装で落とせば、それで終わる。
 それらは人間一人を肉片や消し炭に変えることなど造作も無い武装なのだから。

 ならばどうすればいいか。簡単なことだ。
 攻撃を受けないこと。ドラグーンにロックオンされないこと。この二つを常に行い続ければいい。それだけの話だ。

 それで戦闘は継続する。それで彼女達とレジェンドは延々とシンとの戦闘に付き合うことになる。
 シンの目的は自分以外の誰かに被害を出させないことだ。これは初めから変わらない。
 それを完遂しようと言うのなら、このままで良い。
 はっきり言えばこの膠着を長引かせれば長引かせた分だけ味方は撤退していくのだから。
 それだけに集中すれば、たとえ攻撃を受け致命傷を受けたとしても戦闘を長引かせるくらいのことは出来る。少なくとも味方が全て撤退するまでは。

 既にヴェロッサへの通信は終えてあり、今頃は全局員に撤退命令が出ているはずだ。
 
 シンがやっていることは単なる時間稼ぎであり、決して勝利しようなどとは思っていない。大体、そんなことは不可能だ。

 勝てるはずが無い。きっと、ではなく、確実に、シン・アスカはここで死ぬ。それは間違いない。
 実際、死ぬのは良いのだ。むしろ、誰かを守って死ねるなら願い通りだから感謝したいくらいだ。
 だが、死ぬのなら全て片付けて綺麗に死んでいかねばならない。
 死に綺麗も糞も無いだろうが、そうでなくては、自分が死んだ後に誰かが死ぬ。
 自分の死後に誰が死のうと関係ないといえば関係ないだろう。だが、やはり“守れない”のは嫌なのだ。それがたとえ、自分の死後のことであろうとも。

 そして、それゆえにシン・アスカは考える。戦闘を継続し、味方の撤退を待つのは一歩目でしかない。
 理想、というか、絶対にこの場にいる敵には自分と刺し違えて死んでもらわなければならない。
 仮に、あのレジェンドの中にレイ・ザ・バレルが乗っていたとしても、それは変わらない――胸に刺が差し込まれるのを感じる/無視。

(だったら、どうする。)

 トーレと空中で交錯しながら剣戟を繰り返す。
 爪と大剣を織り交ぜた連撃の嵐。
 それを回避し、けれど離れることなく、トーレをドゥーエやセッテからの砲撃や投擲の盾にするように位置取りを繰り返し、交錯を繰り返す。
 
 刺し違える為の最も簡単な方法はレジェンドに乗り込み自爆させることだ。
 どんなに強力と言えどモビルスーツはモビルスーツ。兵器であることに変わりは無い。
 だから、あのコックピットに誰が乗っていようとそいつを殺して、自分が操縦し自爆させる。
 あのレジェンドに自爆シークエンスが備えられているかは分からないが試してみる価値はある。
 
 無論、それはナンバーズの連携を全て掻い潜り、レジェンドの懐に踏み込むことが出来ればの話だ。
 回避に徹し、攻撃を最小限に留めることで、戦闘を継続していると言うのにそれとは真逆の方法を取らなければいけない。
 動きを止めることなく、確実に回避を行い、敵機に近づく。それを5対1で行わなければいけない。
 後退しながらの回避と前進しながらの回避では危険度に雲泥の差があるのだ。このまま突進したならば確実にレジェンドの攻撃を受けて死ぬ。

 死ぬこと自体は、問題では無い。
 死にたい訳ではないが生きていたい訳でもないので恐怖は無い。どうでもいいと言うのが本音だった。
 元々、この世界に来る際にシン・アスカは一度死んでいる。それが何を間違ったか、ここまで生き延びただけ。
 シンにとって、“あの戦争”が終わってからの闘いは全て、いつ、どこで、終わってもいい戦いでしかない。
 死んでないから生きていた。願いがあったから必死に戦った。叶え続けたいから懸命に戦った。生き延びたのはその結果。
 だから、死ぬのは怖くない。
 いや、むしろ、目的を達成する為に“死ぬこと”が必要ならば、死ぬことにすら没頭するだろう。
 
 シン・アスカにとって自分の命など消耗品の一つに過ぎないのだから。
 問題なのは刺し違えないまま死ぬことだ。そんな考えを持っていたからか、自然と思考の向きは刺し違える方向に向けて進んでいく。

 一つ目。ナンバーズを撃破後、レジェンドとの戦いに持ち込む。
 これは不可能だ。ナンバーズとの戦闘に集中した場合、確実にレジェンドからの奇襲に対応しきれない。
 
 二つ目。この状況を限界まで続け、相手が疲弊するのを待つ。愚の骨頂だ。
 思いついた自分を殴りたくなってくる。相手が疲弊して集中力を切らす前にこちらの集中力が切れて殺されるのが関の山だ。
 1対5という状況は敵よりもこちらの集中力を多大に削る。
 こちらが勝っている点は「速度」と「回復力」だけ。
 極論を言えば、シン・アスカは致命傷を食らっても動きを止めなければ問題ない。
 それがシン・アスカの持ち得る最大のメリットであり、武器ともいえる。
 
 故にその二点を突き詰めて考えていけば、正解は自ずと一つしか残らない。
 無論、その正解も十二分に愚策だ。
 だが、現状でそれ以外の方法は思いつかないし、何よりもその正解は自分自身の性にあっている。
 デスティニーに念話を繋げる。

【デスティニー、あいつらの攻撃何発までなら耐えられる?バリアジャケットの強度を最大に設定してだ。】

 その問いにデスティニーが一瞬言いよどむ雰囲気を感じ取る。

『……空間から発射されるレーザーに関しては同一箇所につき4発。ビーム兵器と投擲に関しては当たれば終わりです。大剣は1回。それ以上はバリアジャケットが耐え切れません』

 投擲とビーム兵器は当たれば終わり。トーレの大剣に関しては1回だけ耐えることが出来る。クアットロの熱線に関しては同一箇所にさえ当たらなければ最も長く耐えられる。

【耐え切れなくなった場合バリアジャケットの修復にかかる時間は?】
『……3分あれば。ただし完全な修復ではなく応急処置程度です。その場合先ほどの数値を大幅に下回ります。』
【具体的にはどのくらいだ。】
『……レーザーが2発。ビーム兵器、投擲、大剣は防ぐことは出来ません。』
【分かった。】

 耐えられる回数を頭に叩き込む。
 目前に迫っていたドゥーエの一撃。
 ライオットザンバー・カラミティに酷似した双剣を大剣(アロンダイト)で力任せに弾き飛ばす。
 続いてセッテが狙いをつけるのを確認。その前方でトーレが構えた。
 
 トーレに向かって、最高速度で突進。大剣を振り被る。
 トーレもまた両手を組んで一本の大剣状に変化したインパルスブレードを振り被る。大剣にぶつけるつもりなのだろう。気にせず突進。速度は緩めない。

「はあああ!!!」

 トーレがインパルスブレードを振り下ろす――大剣は振り被ったまま。
 そのまま突撃。トーレからの一撃を完全に無視する。
 バリアジャケットに流している魔力を、トーレからの予想斬撃箇所のみ高める。彼女の斬撃が、がら空きの胴を、右から左へ抜けていく。
 激痛。ごきっという鈍い音。肋骨が折れた。顔をしかめる。トーレの表情に驚愕が浮かぶ。
 そのまま、こちらの大剣を振り下ろした。
 がきん、という鈍い金属音。咄嗟に彼女の左手の紅い光が盾状に変形していた。そのまま、振り切った。
 折れたであろう肋骨に激痛が走るが奥歯を食いしばって堪えた。奥歯が軋む音が聞こえた。

「ぁあ!」

 呻き声のような意味の無い叫びごとトーレを吹き飛ばす。そのまま弾丸の如き速度で地面に激突。爆発。噴煙で彼女の姿が見えなくなった。
 防御されたことを考えれば殺すことは出来なかったが少なくともしばらくは戦闘不能だろう。

 自身の腹部を見ればバリアジャケットの腹部は大きく切り裂かれ、細く赤くミミズ腫れしているのが分かる。ズキズキと痛みが走る。
 バリアジャケットの修復には少なくとも3分はかかるとデスティニーは言った。被弾回数を脳裏で確認し、下に向けていた視線を前に戻す。

「お前…!!」

 静かに憤怒を込めてセッテが呟いた。
 振り被って虚空に手を差し込む。空間に波紋が生まれ、そこから指と指の間に長剣を挟んで引き抜き、放つ。同時に8本。時間を置けば数量は更に増えていく。
 同時に胸の中心、心臓のある部分が紅く輝き出している。

 ――何かをしようとしている。ならばその前に倒す。

 投擲は一撃必殺。当たれば致命。
 嵐の如く放たれた長剣が襲い掛かる。
 フラッシュエッジを引き抜き、セッテに向けて二本とも投擲。
 弧を描き、僅かな時間差でセッテに迫る二刀の曲剣。同時に大剣を大砲に変形させ、魔力収束発射。炎熱変換された朱い魔力がセッテを突き破らんと大気を焼きながら突き進む。

「……舐めるな。」

 小さく呟き、セッテが手に持ったブーメラン型の双剣。
 本来の彼女の得物であるブーメランブレードでフラッシュエッジを打ち払う。
 同時に前方より迫る朱色の砲撃を身を翻して回避――そこに大剣を振り被ったシン・アスカが迫っていた。

「な…くぁ!!」

 驚愕の呟きを上げる暇すら与えず、大剣を叩き付ける。ブーメランブレードで受け止められた。構うことなくそのまま振り抜く。
 トーレと同じく吹き飛ぶセッテ。地面に激突し昇る噴煙。フラッシュエッジが、デスティニーへと舞い戻り、収まっていく。

 残るは二人。クアットロとドゥーエ。どちらも致命傷になるような一撃は放てない。捨て置いても構わない類だ。
 そう思いドゥーエに眼を向けた。
 彼女はこちらに向けて右手を突き出している。
 それは砲撃魔法の構え。紅い魔力が収束する。シンのケルベロスと同じ炎熱変換された魔力砲が放たれた。
 射線から身をずらし回避。周囲の空間が歪む。クアットロの熱線が放たれる予兆だ。付近を視認し、デスティニーのセンサーで索敵を行うも彼女の場所は分からない。
 シンの移動先を予測してさながら、アーチの如く移動方向の先で空間が歪み出す。
 歪んだ後に熱線が放たれると言うならば、歪んだ瞬間その場所を突き抜ければ問題は無い。よしんば当たっても一度では死なない。連続4発までは耐えられるとデスティニーは言った。逆に言えば5回目までは回避しなくて良いと言うコトだ。
 一瞬の思考の後にクアットロの熱線を無視することに決め、そのままレジェンドに突撃する。

 風が頬を流れていく。髪がなびく。世界が流れていく。一瞬でも眼を瞑ればどこに突き刺さっているかも定かでは無い超高速の世界。
 後方からドゥーエが迫り来るのを感じ取る。

 それら全てを無視。攻撃されるよりも、追いつかれるよりも、何よりも早くレジェンドに取り付きコックピットを破壊する。速度は圧倒的にこちらが上だ。
 歪みから放たれる熱線がシンの腹部を貫き、穴が開いたが、無視して加速。

「……っ」

 大剣を握り締める手に力を込める。
 レジェンドまでは僅かに数百m。コックピットハッチを力ずくで抉じ開けて、中のパイロットを殺して自爆させる。
 出来るかどうかなど知らない。やるだけだ。もし、自爆シークエンスが無いならその時はその時に考えれば良い。雑多な考えは捨てろ。

(これで終わりだ。)

 炎熱変換した魔力を刀身の先端に収束し、高密度に圧縮していく。
 レジェンドの装甲はVPS装甲。対衝撃、耐熱性能に関しては折り紙つき。
 少なくともシン・アスカの放つ砲撃魔法程度で打ち破れるようなものではない。
 
 だが――ビーム兵器程度の熱量を生み出すことがもし出来るとしたら話は別だ。
 
 数万度と言う熱量。それを人間の手で生み出すことは不可能だ。
 だが、人外の力ならばそれも可能かもしれない。そこに一縷の望みを賭けて突進する。

「デスティニー。」

 静かに呟く。

『アロンダイトインコンプリート。最大圧縮開始。』

 大剣の刀身が朱く輝く。際限なく、何度も何度も何度も、輝いては先端に収束し、輝いては先端に収束する。

 焔が収束する。寄り集まる。刀身の先端ただ一点にアロンダイトインコンプリートを構成する熱量を全て収束する。
 熱量が上昇する。大剣の温度が上昇する。持ち手を握り締める手の皮膚が焼けていく。近づくだけで全てを燃やす焔。
 構えるシンの髪が焦げていく――更に圧縮を加速。温度そのものを刀身の先端に収束する。
 朱い光だけが淡く漏れていく。それは爆発寸前の恒星の如く。

 レジェンドのコックピットハッチが近づく。
 制御限界を遥かに超えた魔力の圧縮。いつ爆発してもおかしくない熱量の高まり。主である彼自身がもっとも危険に晒されている――無視。

「食らえ……!!」

 叫びと共に大剣ごと激突する。温度を開放する。白熱する先端と赤熱する刀身。
 熱したナイフでバターを切るように装甲に刃が入り込む。装甲が赤熱化し、蒸気が立ち昇り、切れ目を入れていく。
 そのまま右に向けて横薙ぎ。
 技術も何も無く力任せに全体重と全筋力を込めて振り抜いた。装甲に横一文字に切れ目が出来た。
 
 だが、まだだ。まだ、コックピットハッチは破壊出来ていない。
 再度、装甲に突き刺す。
 温度を開放し白熱の先端と赤熱の刀身が装甲を食い破り、蒸気を上げながら切れ目が入っていく。
 今度は左に向けて横薙ぎ。身体ごと大剣(アロンダイト)を抱え込むようにして、振りぬく。切り裂かれた装甲。内部の様子が僅かに見て取れる。熱量が持つまではあと僅か。
 熱が消え去る前にもう一度刃を振るった。コックピットハッチの一部が三角形型に切れ目が出来た。その隙間に左手を差し入れる。
 じゅうっ、という音を出して手が焦げる。皮膚が燃え出し、肉の焦げる臭気が溢れ出る。構わず掴んだ。

「ぎ、ぃ」

 呻きながら装甲を掴む左手に力を込める。筋肉が膨れ上がり、血管がハッキリとカタチが分かるほどに隆起する。

「あああああ――!」

 裂帛の叫び――もはや絶叫。
 力任せに左腕を動かし、コックピットハッチを“こじ開けた”。
 コックピットハッチの隙間が拡大していく。
 左腕の毛細血管が筋肉の膨張とそれに伴う血流の上昇に耐え切れずに破裂していく。
 時間は無い。後方からはドゥーエやクアットロが迫ってきている。同じくレジェンド本体の攻撃も迫り来る。

 内部から漏れる強烈な薬品臭を嗅ぎ取る――疑問が浮かぶ。何があるかなどどうでもいい。
 今、この一瞬を逃せば全てが無意味になる。大剣(アロンダイト)を構えた。赤熱は全て消えている。
 全身に倦怠感を感じる。限界を超えた魔法の行使の反動かそれとも別の原因か。どの道、先の無い自分には関係の無い話だ。

「これで」

 こじ開けたコックピットに眼を向けた。明かりが差し込んでいく。コックピットが露になっていく。大剣を振り被った。

「終わ…」

 言葉が止まった。心臓が止まったようにすら感じた。瞳孔が開いた。焦点が舞い戻る。ごくり、と唾を飲み込んだ。
 時間が無い、と急いていたと言うのに身体が動かない。だが、そんなことはどうでもいい。それよりも、何よりも、そこに、信じられない人間を見つけた。いるはずの無い人間を。
 長く伸ばした金髪。端正な顔立ち。シン・アスカの戦友。彼に未来を託した男、レイ・ザ・バレルがそこにいた。
 服装は重度の精神病患者が着る拘束服。両腕が繋がり、普通の人生を送っていれば、まず縁の無い代物だ。
 だが、それ以上に信じられないのは、彼の口元や背骨の辺り、そして腹部や足、太股――人体にとって重要な内蔵がある各部から伸び、コックピット内部に繋がっている赤色のチューブだった。
 眼にはアイマスクのような目隠しをされ、電気椅子に座る死刑囚の如く。

『ごぼっ。』

 口元から伸びるチューブに気泡が混じった。赤色に気泡が混じり昇る。色だけは綺麗な赤色だ。光景は目を背けたくなるような無残なモノだが。

「…レイ?」

 呆然と、そう呟いた。
 そこにいるのは紛れもなくレイ・ザ・バレルだ。シンが知っている彼とはあまりにも違い過ぎる姿ではあるが。

『あ゙』

 声にもならない声を上げながらレイが呻いた。

『あ゙、あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙』

 呻きを上げるとチューブをごぼごぼっと気泡が通っていく。
 蝶が蜜を啜るようにして肉体に繋げられたチューブを紅い液体が流れていく。

「なん、で。」

 見れば手足の末端は紅い水晶で覆われており、床は粉々になった紅い結晶が散らばっている。

『あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙』

 ごぼごぼっとチューブを気泡が通り過ぎていく。その速度が加速した。
 しゃがれたダミ声。本来の彼とは似ても似つかない。なのに、それが彼だと認識出来る程度に見知ってしまっている声。親友(トモ)の声。
 ぱきぱき、と何かが崩れていく。

「は、はは……」

 思わず、笑いが漏れた。
 これは何だ?何の冗談だ?
 その笑いに反応してコックピット内に散乱している触手が蠢き出した。触手がシンに伸びていく。
 反応することなど出来ない。

「なんだよ、これ。」

 足元に触手が絡まっていく。朱い炎がそれら全てを勝手に燃やし、触れることを許さない。

「何で……何で、レイがここに」

 唇が歪む。
 頬が歪む。
 歯を何度も何度も噛み合わせ、ガチガチと音が鳴り響く。
 意味が分からない。訳が分からない。
 なんだろう、これは。
 何があったのだろう、これは。
 どうしたというのだろう、これは。

「何で、だよ。」

 触手がシンに向かって寄り集まる。
 紅い液体を纏い濡れたソレはどこか臓物を想起させて醜悪なことこの上ない。
 いわんや、それが自分の友達に絡み付いて犯しているなど、醜悪を通り越して最悪だ。
 
「何で、だよ……何で……何で……!!」

 触手(ケーブル)が、レイの全身を這いながら、何かを探していた。
 びちびちと皮膚を食い破り、中に入り込もうとしているのが見えた――シンの目から光が消えた。

「……。」

 右手を掲げ、魔力を収束し、炎熱変換を施す。
 放つ魔法はパルマフィオキーナ。近接射撃魔法。静かに無言のまま、解き放つ。

「……。」

 朱い光が着弾した計器類が爆発した。
 自爆シークエンスがどうとか、内部のパイロットを殺すとか、そんなことはもうどうでもいい。

「……。」

 朱い光が着弾した触手が爆発した。中から紅い液体が飛び出してくる。

「……。」

 無言のまま、計器に向けてパルマフィオキーナを放ち続ける。
 連続して爆発する計器類。
 大剣を計器に向かって突き刺す。
 触手(ケーブル)を一つ一つ断ち切っていく。大剣を振り回すには狭い室内――関係ない。構わず振り回す。
 右足を計器類に向けて、突き出した。ばき、と音を出して、計器類に足がめり込む。

「……なに、人の友達に勝手に、手出してんだよ。」

 足元から炎が立ち昇る。
 制御などしていない炎熱変換した魔力の垂れ流し。
 計器類が燃え上がり、爆発。
 破裂した計器類の破片が足に刺さり、血が流れていく。破片を引き抜き、目の前に存在する壁に向けて突き刺した。
 大剣を振り回す。レイに繋がる触手を一本一本断ち切っていく。

「ふざけるなよ。」

 壁に右手を押し付ける。炎熱変換、集束爆破――手ごと。
 爆発。手が焼けて甲から骨が見えた。

「なんで、こんなことしてんだよ。」

 蒸気を上げて、皮膚が骨を覆っていく右手で拳を握り、そのままディスプレイに叩きつけた。ガラスが割れて、頬を裂いた。一筋の血が垂れる。

「何で、こんなことしてんだよ。」

 大剣を振り被る、振り回し、蹴って、殴って、次々と計器をぶち壊していく。
 レイを縛り付ける全てを断ち切っていく。瞬時に再生し、繋がっていく触手達。
 苛立ちまぎれに唇を噛み千切って、もう一度それを破壊していく――程なく、レイの束縛を全て断ち切った。
 ごぼっとレイの口元から紅い液体が漏れた。
 顔をしかめ、レイの胴体を左腕で抱え込むようにして抱き上げる。軽い――触って見てわかったが、レイの身体はこれが本当に自分と同じ年齢の人間なのかと疑いたくなるほどに軽かった。昔、抱いたルナマリアよりもはるかに軽い。
 多分、もう死んだ二人よりもはるかに軽い。

「……へえ、貴方もそんな風に切れることあるんだ。」

 声がした。そちらを振り向く。ドゥーエだ。

「……お前ら、何勝手に人の友達、ここまでぶっ壊してるんだ?」

 言いながら右手を向けた。魔力を収束する。手加減などいらない。殺す/放つ。避けられた。舌打ち/くそったれ。

「躊躇いなく撃った――わね。」
「だから、なんだ?」

 笑いなど無い。表情は変わらない。
 頭の中が真っ赤だ。何も考えられない。今、こうして喋っていることが奇跡に近い。沸騰どころか蒸発寸前の脳髄。
 大剣を握り締めた。刃に朱い炎が灯る。レイを静かに床に下ろし、大剣をドゥーエに向けて突きつける。

「アンタ、殺せるかって聞いたよな?」
「――ええ。そうね。」
「殺せるよ。ずっと殺してきたんだ。それに、さ。」

 唇を吊り上げて笑みを浮かべた。自分が怒っているのか、悲しんでいるのか、どうかすら分からない。
 ギンガ・ナカジマを失った。
 フェイト・T・ハラオウンを失った。
 味覚を失った。
 身体中の感覚がおかしくなっていく。
 恐らくいずれ命も失われる。
 納得してきた。その全てを受け入れて、自分が道化であることも、最低な人間であることも、全て受け入れて、今ここにいる。
 そして、今また失った。大事な、大事な親友。胸を張って大切だと言える本当に大事な親友。

 耳鳴りが聞こえる。あの日からずっと聞こえる耳鳴り。
 この世界に来る前。全部失くしたあの日からずっと聞こえる耳鳴りが。

「……お前らは俺の大事なモノをこれだけ、奪ったんだ。だったら――」

 嗤う。

「俺がお前らから何を奪っても、お互い様だよな?」

 言い終えた瞬間、シンは身体を沈み込ませた。全身のバネを総動員して一気に加速。
 朱い炎が掻き消える。瞬間、ドゥーエの視界からシン・アスカが消えた。
 腹部に衝撃。彼女はそれが鳩尾に打ち込まれた膝だと気付くのに一瞬遅れた。

「うぶっ…!?」

 ドゥーエが呻きを上げて、その身体が折れ曲がった。
 間髪入れずに後頭部に向けて、大剣の柄を力任せに当てる。間一髪、防御される。柄と彼女の右手が接触していた。
 残念/口元が釣り上がる。そう簡単に意識を失ってもらっても面白くない。下卑た喜び。サディストの衝動に身を任せる。
 ドゥーエがその手にライオットザンバー・スティンガーを作り出した。
 応戦するつもりなのだろう――嬲り殺しにでもされたいようだ。
 唇が再度歪み、蹂躙する喜びに身を任せようとする――瞬間、上空に気配を感じ取った。

「――ちっ」

 舌打ちし、彼女が動く前にその胸に足の裏を当て、まっすぐ前に突き出した。二人の距離が離れる。
 ここで死んでもらっても困る。そんな簡単に死んでもらっても意味が無い。

「…くっ!?」

 後方に吹き飛ぶドゥーエ。同時にその反動を使って自分も後退。
 一瞬遅れて上空から撃ち放たれる緑色の光。太さは直径1mほど。恐らく、ドゥーエごと自分を焼き殺そうとした光。
 上空を見上げた。
 一人の男がそこに佇んでいた。

「……あんたか。」
「――楽に殺せると思ったんだが、そうでもないようだな、シン・アスカ。」

 クルーゼ、と言う名前の男がそこにいた。
 両の手だけを白い装甲で覆った恐らくは最も初めに出てきた鎧騎士の本体。白い仮面を被り愉快そうに顔を歪めている。
 それは、以前、エリオを“迎え”に来た男だ――酷く楽しそうな表情。唇が釣り上がり、愉悦が隠しきれていない。

 大剣(アロンダイト)を握る手に自然と力が籠った。
 その声を聞いただけで、その顔を見ただけで、殺したくなる衝動が湧き上がる。
 気を抜けば直ぐにでも飛び掛りそうな憎悪――いや、嫌悪、か。
 生理的な殺人衝動とでも言うモノがシンの中を駆け巡るも、それを必死に押さえ込む。震える左手を右手で押さえつける。
 まだ、早い。まだ、聞かなければいけないことがある。
 口を開こうとした時、こちらの言葉を遮って放たれる言葉があった。

「……クルーゼ、貴方、今、私ごと殺そうとしたわね。」

 ドゥーエがクルーゼを睨みつけながら呟いた。

「ああ、君はもう用済みだ。」
「……クルーゼ、貴方何を言ってるか分かっているの?」
「ああ、フェスラ・リコルディ――いや、ギルバート・グラディスの子飼いとでも言えばいいのかな?」
「……。」

 押し黙るドゥーエ。返答しないことから考えるに図星なのだろうか――シンにとってはどうでもいいことだが。

「キミが情報を流していることに気付いていないとでも思っていたのか?ジェイル・スカリエッティともあろう者がそんな迂闊なはずがないだろう。」

 息を吐くドゥーエ。薄っすらと笑いを浮かべている。それは多分自分自身への嘲笑。

「キミは私達を泳がしていたつもりなのかもしれないがね、キミは泳がされていたんだよ。カリム・グラシアと私達――私の目的の為にね。スカリエッティは放っておけと言っていたが、引き
込まれる兆候が見えていた以上は裏切られる前に殺すのは当然だろう?」

 “引き込まれる”。その言葉を聞いた瞬間ドゥーエの瞳が吊り上がった。

「…私が、引き込まれてるって言いたいの?」

 視線に殺意を乗せて、ドゥーエはクルーゼを睨みつける。だが、彼は意に介さずに口を開く。

「始まりはギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウンの葬式だよ。キミはあの時、自分の意思であそこに行ったな?」
「…私はただ、監視を続けていただけよ。」
「おかしな話だ。あの時点で、シン・アスカは完成していた。監視はあの時終わっているはずだ。」

 言葉を切って、男が続ける。

「そして、カリム・グラシアの伝言と――キミを監視していた“モノ”からの報告でね。キミは排除対象として確定した。……フェスラ・リコルディとしての気持ちに引っ張られているキミは
用済みだとね。まあ、スカリエッティはキミを処分すると言うと最後まで渋っていたがね。」

「……そう。私はもう用済みって訳?」
「そうだな。シン・アスカ共々、ここで――」

 その言葉を言い終わる前に朱い光熱波が迫っていた。
 咄嗟にその光熱波を回避し、砲撃の方向を見る。シン・アスカが大砲(ケルベロス)を構え、睨みつけている。

「キミは少し我慢を覚えた方がいいな、シン・アスカ。」

 微笑みながらクルーゼはその殺意を受け流す。
 シンの瞳が更に釣り上がる。僅かに大砲の先端が震えている。苛立ちと憤怒と嫌悪を抑圧しているのだ。
 それら全ての感情を押し殺し、静かに呟く。

「……黙れ。仲間割れの前に俺の質問に答えろ。」
「ふん、なんだね?」
「俺が聞きたいのは一つだけだ。何でレイにこんなことしたんだ?」

 上空を睨み付けながら呟いた。

「こんなこと?」
「アンタ、レイの家族みたいなものなんだろう?」

 そう、記録では知っていた。
 レイとそんな話をしたことがあったから。
 思い出すには至らないほど、シンは過去を切り捨てていたから気づかなかったがクルーゼというその名前には聞き覚えがあったのだ。
 解せないのはその一点だ。
 
 家族も同然の関係の仲間。
 しかも、レイの話ではこの男もレイと同じく未来が無いことを嘆いたはず。
 それがどうして、同じ境遇のレイにあんなことをしたのか。

「ああ、その通りだが?」
「なら何でレイをあんな風にした?」

 コックピットの中で横たわるレイを親指で指し示し、問いかけた。
 その問いにクルーゼは何を今更と言いたげな顔をして、

「キミを絶望させる為に決まってるだろう?」

 当たり前のことのように呟いた。

「……へえ。」

 絶望。そんなくだらないことの為に、レイをあんな風に壊したと言うことらしい。
 脳髄に熱が篭っていく。拳を握り締める。爪が手に食い込んでいく。心臓の鼓動が煩い。

「いいかい、シン・アスカ。本当の絶望とは何だと思う?」
「デスティニー。」

 耳に届く声が耳障りで仕方が無い。大砲を放つ。直進する朱い光熱波。クルーゼが射線から身体をずらし回避する。
 構わずもう一発砲撃を放つ。朱い光が大気を焼き焦がしながら突き進む。大砲を大剣に変形させる。
 柄に収まっていたフラッシュエッジに手を掛け、引き抜き、クルーゼに向けて投擲する。軌道は最短距離を駆け抜ける一直線。同時にもう一本残っているフラッシュエッジも引き抜き、初め
に投擲したフラッシュエッジを追うようにして突撃する。

「絶望して、絶望して、絶望して、絶望して、絶望したその先で得た希望を踏み潰された時。本当の絶望とはそういうものだと思わないか?」

 戯れ言を延々と垂れ流す仮面の男。ラウ・ル・クルーゼ。何が面白いのか、楽しそうに笑っている。
 その戯れ言が耳障りで、その顔が目障りだった。見ているだけで吐き気がする。だから、黙らせる。
 
 エクストリームブラストの速度を最大に設定。制御出来る限界。視界が流れていく。
 一本目のフラッシュエッジをクルーゼが弾き、二本目の迎撃を行おうとしている。
 大剣を大砲に変形し最大威力で発射。朱い光が突き進む。その光に身を隠すように僅かに身体を移動し、二本目のフラッシュエッジを投擲する。山なりの軌道で疾走するフラッシュエッジ。そして、二本目のフラッシュエッジとは“逆”の方向で自分自身を更に加速。朱い光熱波を境に線対称に突き進む二本目のフラッシ
ュエッジとシン・アスカ。デスティニーを大剣に変形させ、振り被る。
 狙いは首筋。鎧で覆われていないその部分を真っ二つに切り裂く。どれほどのバケモノだろうと首を刈り取られて生きていられる訳が無い。

(死ね。)

 声を出す必要はない。雑多だ。皆殺しにする以上、いちいち宣言する必要は無い。だから自分自身への確認の意味で、心中で呟いた。

 ――そして、そこからのクルーゼの動きはシンにはまるで信じられない動きだった。
 
 一本目のフラッシュエッジが鎧を纏った左手で弾かれた。朱い光熱波は身体を移動して回避された。
 そして、二本目のフラッシュエッジを1mほどの大きさのドラグーンで弾き返し、二本目のフラッシュエッジと同時に迫るシン・アスカの振るう大剣(アロンダイト)に関しては手に現れたビームサーベル
で受け止めた。余裕すら感じ取れる動きだった。

「――!」

 怖気が走る。目の前の敵の動きは決して早くは無い。速度で言えばトーレの方がはるかに速い。そのトーレをも凌ぐ速度を叩き出すこちらの動きを確実に見切っていた。まるで初めからシンが
何をするか分かっていたように。
 それこそどこに、どんな攻撃を、どのタイミングで、どの程度の強さで、というそんな詳細を理解しているかのように。

「今からキミに本当の絶望を教えてあげよう。」

 小型のドラグーンの先端から緑色の光のロープのようなモノが射出される。
 それ自体が意思を持っているかのように、シンの全身に巻きつき、その肉体を拘束していく光のロープ。バインド魔法だ。

「なっ」

 全身の力を篭めるも動かない。だが、それは一瞬のこと。緑色のバインドはエクストリームブラストの炎に燃やされて、次々と解れていく――こんなもの数秒もすれば動けるようになる。
 こんな戒めはシン・アスカには無意味なモノだ。効果がない訳ではない。だが、捕縛すると言う通常の意味とは違い、ただ数秒間動きを止めるだけに過ぎない。
 困惑する。バインドを使用して捕縛する暇があるなら、ドラグーンを放ち手傷を負わせた方がはるかに効率的だ。
 だが、相手にこちらを攻撃する気配は無い。
 なら、どうして、この男はわざわざこんな手間をかけるのか。
 怒りよりも困惑をその表に出したシン・アスカを見て、ラウ・ル・クルーゼはにこりと笑い、呟いた。

「レイ。」

『あ゙あ゙あ゙ああ゙あ゙あ゙あ゙あ゙』

 ドラグーンが動いた。即座に20機を超えるドラグーン――今は既に30にすら手が届こうかというドラグーンの群れ。それらが一瞬で上空へと動いた。そして、方々へと散っていく。

「なにを…?」

 シンに見せ付けるようにクルーゼは人差し指を一本立てた。

「10分だ。」

 歌うように、軽やかに、ラウ・ル・クルーゼの奏でる悪夢が始まる。

「この10分で私を倒せなければ、レイに彼女達を殺すように指示をした。」

 ――今、この男は何と言った。

 こちらに近づいている“彼女達”とは誰のことを言っている――撤退したはずだ。伝達は送られているはずだ。この戦場にはシンの味方などもはやいないはずだ。

 なら、どうして、クルーゼは彼女達などと、性別を特定するような言葉を吐いたのか。
 この戦場で「彼女達」という言葉が示すモノは基本的に一つだけ。女性の比率が異常に多く、その癖能力は一級品揃いの時空管理局の中でも異常なほどに力が集中した部隊。機動六課以外に無い。

「ま、さ、か。」

 言葉が詰まった。

「バインドはレイに指示を出す間が欲しかっただけさ。私が自分の目的を話した時に気付くべきだったね。ああ、間違わないように言っておくが彼女達と言うのはキミのよく知る彼女達だ。ス
バル・ナカジマやティアナ・ランスター、ヴォルケンリッターを始めとする、機動六課だ。」

 クルーゼの右手に紅色の光熱波で束ねられた剣――ビームサーベルが現出する。振り下ろした。咄嗟に大剣でそれを受け止めた。
 迸る魔力の奔流――互いの身体を叩く嵐。

「……さあ、暴いてあげよう、シン・アスカ。キミの全てを。キミが戦う本当の理由を。時間は10分。敵は私一人。」

 彼の両腕と両足だけが鎧に覆われていく。装甲は曇り一つ無い純白(ピュアホワイト)。それはラウ・ル・クルーゼというニンゲンを端的に、不可分なく表している。

 ――純粋な、無垢なる憎悪という側面を。

「カウント、スタートだ。」




[18692] 第二部機動6課怒濤篇 50.Sin in the Other World(k)
Name: spam◆93e659da ID:08e6d9e9
Date: 2010/05/29 18:01
 八神はやてはクラナガンを走る。
 手には騎士杖のデバイス――シュベルトクロイツ。
 服装は事務服のまま。足元のパンプスはスニーカーに変えた。
 彼女達には先に行けと言った。

「は、くそ、飛べたら楽なんやけどな。」

 呟き、走る。
 息を切らし、足を動かし、一心不乱に“目的地”に向けて走り続ける。
 瞳に迷いは無い――無論、それがただの強がりであることなど、誰よりも自分自身が分かっている。
 ヴォルケンリッターは自分についてこようとしたが別れることを選択した。
 彼女達には他にやってもらうことがあるからだ。
 停滞していたこの十数日間が嘘のように頭が冴えていく。
 ガジェットドローンⅠ型が見えた。

「……まだ、残りがおったんか。」

 瓦礫の影に身を隠し、ガジェットドローンⅠ型が行き過ぎるのを確認する。
 
 ――八神はやてと言う魔導師は非常に特殊且つ強力な、“脆弱”な魔導師だ。
 
 蒐集行使。夜天の魔導書に記録された魔法の使い方と魔力運用を伝える能力である。
 理論上、彼女は夜天の魔導書に記録された全ての魔法を使用できる。
 だが、どれほど多くの魔法を保有していても、その使い方がお粗末なら真っ当な効果は期待できない。
 名刀を持った素人が凡百の剣を持った達人に敵わないように、どれほど強力な魔法を多く持っていたとしても、結果的には使い手の技術に依存する。
 要は魔法一つ一つに対する習熟の問題である。

 八神はやてが単純な戦闘能力ならキャロ・ル・ルシエにも負けるというのはこの一点があるからだ。

 彼女が自分自身の手で覚えた魔法は軒並み後方からの援護を想定した魔法――全て大規模の殲滅魔法のみ。
 少なくともガジェットドローン1体を葬り去る為に使うような魔法ではない。
 現在、シャマルが全戦域に向けて放ったジャミングにより、八神はやての生体反応は隠蔽され、そういった大規模な魔法や継続的な魔力放出を行わない限りは彼女の居場所が敵にバレることは無い。
 無論、幻術魔法によって姿を隠している訳ではないので目視されればその時点で終わりだが。

【シャマル、ガジェットはあの一体だけやな?】
【ええ。今、ガジェットのいないルートを検索しています……転送します。】

 空間にディスプレイが投影される。
 念話等の使用は魔力の波長の偽装によって問題なく使用出来る。
 投影されたディスプレイに映し出されたルートを頭に叩き込む。
 如何に見つからないとは言え、道に迷う度にルートを確認している暇など無い。
 
 遠くを見据える。視線の先、あの巨人のいる場所まではまだ遠い。
 敵に移動を察知される危険性から魔法は使えない。使えばあの巨人やその他の敵に見つかる可能性が高いからだ。
 こちらが狙うのは不意を突き一撃で相手の命ごと刈り取る最大威力の殲滅魔法。
 この現状を打破する一手。その為にシグナムらヴォルケンリッターは今、現在暴れ回りながら、あの巨人に向けて近づいているのだ。
 八神はやてが懐に入り込むまでの囮として。
 
 別にその一撃を加える役目が彼女である必要は無い。
 本来、彼女は文官だ。後方支援すらする立場ではない。指揮を行い、指示を与える役目である。
 そんなことは彼女自身分かっている。自分以外の人間が行うべきことだろうとも。

「……そんなこと関係ないんや。」

 頭の中に生まれた呟きを振り払う。
 目には炎。意思という名の青い炎。
 彼女は指揮官としては最低クラスの人間だ。決して上等な指揮官ではない。
 作戦を立案しても大抵は後手に回られて現場サイドの能力任せ。
 なまじ自分自身や現場サイドの人間――自らの友人や仲間の実力に自信があるものだから、そこに甘えることも多々あった。
 最低だ。最低という言葉すら生温い。おかげで大事なモノを失った。
 そうだ――八神はやては、誰が何と言おうと最低の役立たずだ。
 
 けれど、それで良かったのだ。それで十分対処できる問題ばかりだったから。
 けれど、それでは届かない場所がある。届かない声がある。掴めないモノがあることを教えられた。叩き付けられた。

 ――貴方も知っているはずよ。平和以上に大切なものは無いと言うことを。
 ふざけるなと思った。

 ――キミにはまだ出来ることがあるんじゃないのか?
 その通りだと思った。

「まだ、遠い、な。」

 ガジェットと鉢合わせしないルートを走りながら、目的の場所を見た。
 巨人が立つその場所。何故か巨人はその動きを止めている。その上空に新たに敵が現れている。
 その下方に佇む二人の男女。シン・アスカと、もう一人は――服装からして恐らくはナンバーズだろう。
 
 夢を思い出す。打ち捨てて、自分とは関係ないと忘れようとした夢を。
 シン・アスカが世界と世界を渡ったのは誰かに召喚されたからなのだと思っていた。
 
 だが、恐らく、事実は違う。彼は、“喚び出された”のではなく、“送り込まれた”のだ。
 
 リインフォースという一人の魔導書によって。
 
 彼女がどうしてそんなことをしたのか。
 夢で見たシン・アスカがこちらに跳んだ時の光景が“あの日”なのは何故なのか。考えるべきことは幾つもあった。
 だが、それを考えるのは後で良い。今は残存するガジェットの群れを潜り抜けて、巨人の元に急ぐだけだ。
 それが自分に出来ることだから。

「……出来ること、か。」

 先刻のやり取りを思い出す。
 走りながら思考を過去に巡らせていく――


 避難所に入ったのは初めてだった。
 当然だろう。自分はいつも“ここ”を守る側に立っていたのだから知るはずも無い。
 避難所というものがどんな空間で、そこにいる人間がどんな人間で、どんな思いでそこにいるかなど、想像をしたことはあっても実感したことなど無かった。
 その想像とて自身を鼓舞する為の想像でしかないのだから、都合のいい脚色が混じっていたことは否めない。
 だから、知らなかった。忘れていた。

 無力で、ただ守られるだけという立場がどれほど恐怖を生み出すモノなのかということを。
 
 涙を流し泣き叫ぶ子供。
 うろうろと世話しなく避難所――むしろシェルターと言った方が適当な地下施設だ――を歩く男。
 ただうな垂れる女。
 ヒステリックに喚き散らす男と女。
 酒に溺れる男と女達。
 
 ここにあるのは誰かを信じて明日を待つというような希望ではない。
 ただ巻き込まれた不運を嘆いて明日をも信じられない絶望だった。
 
 守る側にずっと立っていた。守られる側を守りたかった。ただ守られるだけは絶対に嫌だった。
 根幹となる想いはそんなもの。
 そしてその想いだけで走り続け、取り零してきたモノが幾つもあるとは思っていた。
 けど、こんなモノを取り零していたとは思わなかった。取り零していたことすら気付かなかった。

(私は……何も知らなかったんやな。)

 心中で呟き、両足を両腕で抱え込んだ姿勢で座って、俯いた。
 機動六課として何度も戦ってきた。避難の誘導も行ってきた。
 けれど、こんな風な絶望が起きているなど一度も考えたことはなかった。頭の端に上ることすら無かった。
 一生懸命に仕事して守っている。そんな矜持は恐らく傲慢だった。こんな絶望を自分は忘れていたのだから。

 ふと、頭の端に上る顔があった。朱い瞳とボサボサの黒髪の男。シン・アスカ。別に会いたい訳でない。
 むしろ、逆だ。二度と会いたくないとさえ思っていた。
 
 フェイトとギンガの死体の第一発見者はあの男だった。
 事情聴取にも素直に答え、動じる様子は無かったらしい。まるでその態度は普段と変わらなかったとも。
 
 そして、あの男はそれから更に訓練に励むようになったらしい。
 これも全部人づてに聞いた話だ。その頃の自分は異動の準備で彼の様子に構っている暇など無かったから。
 
 動じる様子が無かった。
 普段と変わらなかった。
 ――あの男らしい、と思う。
 
 そんなに深く知っている訳ではない。あの男の過去は知っているが、それが全てという訳でも無いのが人間だ。
 シン・アスカは自分から何も語らない。語りたくないのではなく、語らない。語るとすれば誰かに聞かれた時くらいだ。
 
 それは、誰にも本当の自分を見せていないことを意味する。
 実際、どうでもいいのだろう。あの男の過去は悲惨な過去だから。
 
 信じた祖国に裏切られ、信じた仲間に裏切られ、信じた国に裏切られた。
 
 そして今度は仲間の裏切りによって自分と親しかった――或いは大切な人間を殺された。
 それでもあの男は動じなかった。変わらなかった。
 憎悪の塊になる訳でもなく、復讐の鬼になる訳でもなく、ただその虚無を深くしただけ。

 シン・アスカという人間は別に特別な人間ではない。
 それこそ歴史上に出てくる英雄達とは一線を画すほどにその精神構造は一般人に近い。
 特別なカリスマ性がある訳でもなければ、際立った魅力がある訳でもない。
 本当に、どこにでもいる普通の人々と何ら変わりない。

 ただ、壊れている――壊れかけているというだけで。
 
 そのただ一点が多分、自分との違い。動じなかった、変わらなかったという事実の理由。

 無論、それは誇るべきことではないし、そうなりたいという訳では無いが――嫉妬、なのだろう。
 そんな風に自分は生きられない。希望を捨てて、願いに縋り付いて生きていこうと思うほどに、八神はやては絶望など出来ないから。
 避難所(ココ)にあるのは彼女達が誰かを守る側になった時に背を向けた、諦観と絶望だ。
 もっと上手く部隊を運用出来るようになりたい。どんなことに対応出来る経験を積みたい。
 
 ――自分は馬鹿だ。そんなことの前にするべきことはあったはずなのだ。
 
 少なくとも、手に入れた二等陸佐と言う地位はそれを何とかする程度のことは出来たはずなのに。
 
 クラナガンはもはや焼け野原だ。戦場に選ばれた時点でこの結果は予想できていたはずだ。
 なら、どうしてこの結果を回避しようとしなかった?
 後悔が、あった。久しく感じたことの無い無力感があった。

(……あいつは、ずっとこんな思いを抱いて生きてきたんやな。)

 無力感と背中合わせで、特別に憧れながら、特別になり切れず。
 特別になれたと思ったら、“本当の特別”に叩き落されて。
 
 道化のように踊り続ける馬鹿な男。
 けれど、馬鹿は馬鹿なりに踊り続けることを止めはしない。
 馬鹿だから、蔑まれようと殺されようと、それをやめることは無い。
 
 ――悔しかった。

「……本当、私、ここに何しにきたんやろ……」

 小さな呟きを遮って爆発音が大きく木霊した。
 室内に沈黙が満ちた。

「……」

 その場の誰もが息を潜めた。
 音が再び鳴った。残響する。徐々に大きくなる。避難所の中の人間が全員身を竦ませる。電灯が瞬いた。一瞬ごとに闇と光が繰り返す。

「……」

 しん、と静まり返る室内。
 その時、避難所の天井を突き破り、ソレが姿を現した。
 誰もが言葉を失っていた。信じられないモノ、理解出来ないモノを目にした時、人は言葉を失い押し黙る。

「お、おい、なんだよ、あれは!?」
「……ば、バケモノだ。」

 悲鳴。怒号。
 はやてがそこを見た。天井。そこに僅かな隙間――幅2mほどの――が出来ている。
 そして、その隙間の先に曇天の空と、一体の蜘蛛のような機械がいた。

「ガジェット、ドローン。」

 ガジェットドローンⅣ型の姿があった。一体だけだった蜘蛛は瞬く間にその姿を2,3と増やし、一気にその数を増やしていく。
 考えるよりも早く咄嗟に身体が動いた。

 詠唱する時間は無い/飛び降りる蜘蛛蜘蛛蜘蛛――。
 瞬間的に引き出せる最大出力を無理矢理構築。
 
 一瞬、周囲を見た。どうするか――決まっている。“守る”のだ。
 
 脳裏に思いついた魔法を考えるよりも早く構成する――選んだ魔法は自動誘導型高速射撃魔法ブラッディダガー。名前通りに血の色をした鋼の短剣を組成し放ち着弾地点を爆破する魔法。

 詠唱は破棄。そんな暇は無い。一度に組成出来る限界数を構成/数は10本。
 構わず放つ――甘い構成は実体化に綻びを作り、射出された瞬間10本の内3本が壊れた。
 狙い違わず、7機のガジェットドローンに命中し、短剣の刃が内部に食い込み爆破――咄嗟に魔力障壁を展開。
 展開したシールド――パンツァーシルトが蜘蛛の降下を防ぐ。
 蜘蛛――Ⅳ型の足が刃となって、障壁を切りつける。その後方から現れるⅢ型。ブラッディダガーで攻撃をする暇が無い。

 砲撃が放たれる。数は一機では無い。
 見えるだけで3機。恐らくは10機を下らない。
 砲撃が命中した瞬間ヒビ割れていく障壁。甘い魔法構成。砕け散らなかったのが奇跡に近い。

「くっ――!!」

 息を吸い込み更に魔法を展開。ひび割れていく障壁。
 それを湯水の如く流し込む魔力で誤魔化し再構築を開始/ヒビ割れた障壁の内側に再度障壁を展開。
 砲撃は収まらない。ヒビ割れていく隙間から次々とⅣ型が降下してくる。
 室内を見渡し、奥にある通路を見つける――出入り口だ。そこしかない。

「皆、あそこに向かって逃げるんや!!」

 その言葉で皆の目の色が変わった。
 うおお、と怒号を上げて室内にいた全ての人間がそこに向かって走っていく。
 後方からはガジェットドローンⅣ型が人間に向かって、ガシガシと走り出していく――右手を向ける。ブラッディダガーは使えない。攻撃の為に、照準している暇は無い。

「させへん!」

 叫びと同時に再度、シールドを展開。
 避難所の人間とガジェットを分断するように、境界を作るようにして薄い白色の障壁が展開される。

「ギギギギギギギ」

 駆動音を上げて、Ⅳ型と上空から降下してきた巨大なⅢ型がAMFを展開し、シールドにぶつかり、ガリガリと削り取っていく。構わずはやても皆が向かった通路に向けて走り出す。瞬間、AMFによってシールドが砕け散った。
 殺到する蜘蛛と球体の群れ。砲撃が、爪が、足が、触手(ケーブル)が――

「は、ああああ!!」

 飛び込んだ――扉に手を掛けた。力の限り、直ぐ後ろにまで迫っていたⅣ型にドアを叩き付ける。

「ギギギギギギギ」

 機械が叫ぶ。駆動音が声のように耳朶を叩いた/声は不気味で醜悪。
 どこかバケモノじみた――脳髄が沸騰する。右手を向ける。脳裏に思い描くは「氷結の息吹(アーテム・デス・エイセス)」。
 詠唱を全て破棄して、拙い構成のまま、その右手の先に向けて放つ――寸前、彼女は直ぐに右手を引っ込めて、魔法の発動を解除した。
 そのまま、後ろに右足を振り上げ、ドアに向かって力強く、突き出した。

「くそったれええぁあぁあああ!!!」

 叫びながら、ガラスがサッシとぶつかって音を立てた。事務服のまま蹴り抜いたせいで、スカートの側面に切れ目が入り、ビリビリと破れた。白い下着が見えたが気にするな。そんなものよりも何よりも生存を優先しろ。

「はあああああ!!!」

 魔力全力開放。障壁展開。ひび割れる壊れる砲撃を受け止められない、その全てを無尽蔵の魔力で押し戻し、ドアを完全に固定する。Ⅳ型がその足で障壁を貫こうと攻撃するも、まるでドアは動かない――同時に砲撃が行われた。ドアの前にいたⅣ型ごと扉を穿とうとするⅢ型の一撃――Ⅳ型の
褐色のオイルが扉にぶちまけられた。Ⅳ型は粉々に――扉はびくともしない。

 通常、数mの範囲を完全に防御する魔力障壁を一点に無理矢理集中させ、定着したのだ。その密度足るやあの鎧騎士の攻撃でもない限り貫ける訳もない。
 がんがんと何度も何度もドアを叩くⅣ型。Ⅲ型の砲撃が避難所を破壊していく。障壁越しに見える光景。

「……はぁ、はぁ、はぁ……」

 息を切らして膝をついた。身体中から汗が酷い。ここまで必死になって走ったことなど何年ぶりだろうか。同時に全身に倦怠感を感じる。慣れない状況での魔法行使を惜しみなく魔力を使うことでやり遂げた代償かもしれない。

「……何とか、なったか。」

 油断無く前――障壁で完全に固定した扉を見た。
 間断なく続く砲撃と打撃と斬撃の嵐。障壁で完全に固定した扉はまるで壊れる気配が無い――完全に塞いだ。
 こうなれば、この施設そのものを破壊でもしない限り――とは言え地下に作られた施設である以上は周辺地盤の崩落を起こすほどの大規模破壊でもない限りは、こちらの安全は保障されたようなものだ。
 その事実を確認し、心の底から安堵して、溜め息を吐いた。

(……危なかった。)

 ギリギリだった。今、生き残っているのが本当に奇跡のように思えるほどに死ぬか生きるかの瀬戸際だった。

 ――総合SSランク。それが八神はやての魔導師ランクである。これは、フェイト・T・ハラオウンや高町なのはやシグナムよりも更に上の位階であり、魔導師としては最上位とも言っていいほどの位階だ。

 だが、それは個人の強さに直結する位階ではない。少なくとも八神はやてのSSというランクは彼女がその身に持つ希少技能によるものが大きく、戦闘能力を評価されてのランクではない。

 そして、その事実が示す通り、彼女の戦闘能力は脆弱だ。
 最も戦闘能力が低いと思われるキャロ・ル・ルシエでさえ、ガジェットの大群に対して防壁を張り続けること“しか”出来ないなどということはないだろう。少なくとも、攻撃を行い、ガジェットの数を減らすなり、フリードによる殲滅を行うなど何かしら出来ることがあった。
 
 だが、彼女はそれが出来ない。
 無論、彼女にも攻撃の手立てはある。その全てが大規模攻撃魔法しかないと言う致命的な大問題があるだけで。
 
 恐らく使えば倒せるだろう。AMFがあろうとなかろうと八神はやての攻撃魔法は関係無しに破壊する。
 だが、その代償としてこの避難所は破壊、もしくは中の人々は死ぬ。先ほど彼女が魔法の発動を取りやめ、右手を引っ込めたのはその為だ。

 あのまま、撃っていたら、術者である彼女共々この避難所の全ての人間が死んでいた。その確信がある。
 リインフォースⅡと言うユニゾンデバイスがいてこそ彼女は魔法を制御できる。逆に言えば、リインフォースⅡのいない状態では完全な制御なぞ望むべくもない。

 ぎりっと奥歯を噛み締め、彼女が無理矢理締め切った扉を見た。扉からこちらを覗くガジェットの大軍――蠢く様は巨大な虫が獲物を求めて彷徨っているようにすら見える。正直、見慣れているとは言え、生理的な嫌悪感が無い訳ではない。
 視線を扉に向けたまま、思考を巡らせていく――この後の展開について。
 本当なら、この出入り口から避難所を脱出して別の場所に行く。そうするべきなのだろう。だが――

(後ろは、もうふさがっとる。)

 崩れ落ちた瓦礫によって後方に繋がっているはずの出入り口は細長い個室と化している。
 目算で、長さが凡そ6mほど。天井までの高さは2mも無いくらい。そして、幅も同じく2mは無いだろう。
 身長150cmしかないはやての両手を伸ばしても、僅かに届かないくらいなのだから。

(……どうする。)

 後方から抜け出ることが出来ないとなれば、それ以外の脱出方法が必要となる。
 一つは正面突破。
 並み居るガジェットドローンの群れに単身突撃し、その群れを駆逐し、この場にいる皆がこの部屋を脱出する為の間を作る――出来れば既にやっている。
 
 もう一つはこのまま、ここで待つこと。これだけ避難所が破壊されているのだ。畏れずともその内に異常に気付いた管理局の局員が必ずやってくる。そうなれば、少なくともこの場を脱出する程度の時間は稼げる。現実的に考えればこちらが正解だろう。ある一つの問題――助けが来るまで障壁が持
つかどうかという問題さえ除けば。

 実際、甚だ不本意ではあるが、選べるのは後者しかない。
 デバイスの一つも持ち出さなかったことを今更ながらに悔やむ――それも今更だ。
 彼女は更迭された時にデバイスは全て没収されている。あの剣十字の紋章も、夜天の書も全て。
 事務には必要ない。そういう理由で。自分はまるで抗わなかった。それでいいと思ったからだ。

 周りを見る。皆の視線が自分に集中しているのを感じる。
 魔導師としての特異性への疎外感。どうしてこんなところにいるのかと、そう言いたげな。

(……まあ、そら、そうやな。)

 本来なら、クラナガンに配属される魔導師は全て出払っているはずだ。
 だから、こんな避難所にいるのはどういうことだ、と。そんなところだろう。
 室内に立ち込める雰囲気は暗く、重い。
 誰も言葉を発さないのは現在の状況が最悪ではないだけで、最悪の一歩手前だと知っているからだろう。

 再び衝撃。迷わず障壁に魔力を込める。
 魔力消費は度外視。十重二十重に重ねられた魔力障壁は今しばらくの間、この場に彼女達を留めることを許してくれるだろう。
 けれど――それもはやての魔力が持つまでだ。
 敵にAMFと言う魔法の天敵がある以上、どう足掻いてもこちらの分が悪すぎる。その上、敵の数は見えるだけで20を軽く越えている。
 唇を歪める。全身に倦怠感を感じる。彼女の魔力が尽きるのも、そう早くは無い。時間は無い。

(……どうする。)

 扉を睨み付け、息を整えることに専心する――その時、声がした。沈黙を破る“泣き声”。

「うっ、ひっく、えぐっ……!!」

 声。泣き声。
 沈黙で固められた室内を砕く子供の声。
 硬い空気に僅かにヒビが入る。はやてが少女の方に近づいた。
 近寄る寸前に一瞬扉を見る――障壁はまだ壊れていない。壊れる様子も無い。それを確認し、少女の元に歩み寄り、しゃがみ込んだ。

「……どないしたん?」

 泣いていたのは少女――年齢は恐らく10にも届かないほど。僅かに子供の嗚咽が小さくなる。

「うっ、ひぐ、う、うううう」

 答えを返さずに涙を流す少女の頭を優しく撫でた。

「……ふ、あ……?」

 少女の瞳に映った警戒心が少し薄れた。こういった時、人の温かみは安心をもたらす――経験上、自分がそうだった。

「お母さんは?」
「……ひなんのときに、うっ、えぎっ、はぐれて……わ、わたしだけで……」
「そか。」

 よくある話だ。避難する際に親子共々一緒に避難所に入れないことは。
 少女と眼が合う。どこか、その少女に昔の自分を思い出す。
 何も出来ず、何も無く、ただ独りあの家で孤独に堪えていた自分を。
 撫でながら、呟いた。撫でる毎に少女の顔に安心が生まれていく。

「お嬢ちゃん、名前はなんて言うん?」
「……ま、マイ、だよ。ひっく……マイ・アサギっていうの。」

 嗚咽しながら少女は懸命に名を呟いた。瞳には不安があった。当たり前だ。
 子供が親と逸れ、こんな避難所で一人ぼっちでいるのだ。
 むしろ、今まで泣かずに我慢していたことが凄いと思った。この年頃の自分ならきっと泣いていた。そんな確信を思い出して。

「マイちゃんか……よう、頑張ったな。こっからお母さんと会うまで、私が一緒にいたる。どうや?」
「……おねえちゃんって……まどうしさんなの……?」

 恐る恐る尋ねるマイ。
 魔導師、ではある。随分と不完全な状態ではあるが。
 苦笑しつつ、返事を返した。

「そうや。私は、魔導師や。」

 ごくり、と周りが息を呑み、その内に一人が口を開いた。

「な、何でこんなところにいるんだ、あんた……い、いやそんなことはどうでもいい!!魔導師だって言うなら、アレを何とかしてくれよ!!」

 立ち上がり、問いかけてきた男に向かって、言い放つ――絶望を。

「……残念ながら何ともなりません。私の力ではあれが限界です。」

 自分で言いながら情けなくなってくる。

「な、何でだ!?魔導師なんだろ!?管理局なんだろ!?」

 男はすがる様にしてはやてに向かって叫び続ける。薄明かりの通路の中に男の声がよく響いた。

「魔導師とは言え、出来ることと出来ないことがあります。……申し訳ありませんが、ここで誰かの助けを待つ以外に出来ることはありません。」

 淡々と呟く。出来るだけ冷静に、落ち着いて。それだけを胸に言葉を放ち続ける。
 男の眼が見開いた。すがりつけるはずの希望に裏切られた――そんな顔。

「……は、はは……じゃあ、何か……俺達このままここにいるしかないって言うのか!?なんだよ、それ!!」

 男が叫んだ。はやては、その問いに頷き返し、続ける。

「……このまま、障壁を張り続けることは出来ます。誰かがきっと助けに来てくれると思います。……通信は今も送り続けています。せやから、信じて待っててください。お願いします。」

 そう言って頭を下げるはやて。
 一人、また一人と力が抜けたように腰を落としていく。
 薄暗くて、よく見えないが、その顔に映るのは総じて諦観と絶望だ。どうしようも無い現実に屈する無力。
 唇を噛んで、拳を強く握り締めた。

(……嘘まで吐いて、本当に何してるんやろな、私は。)

 通信などしていない。と言うよりも出来ない。
 この実際、先ほどから何度も何度もヴォルケンリッターに念話を送っているものの返答は未だに無い。恐らく、この施設全体を高濃度のAMFが覆っているのだろう。
 念話と言えど魔法である以上は魔力素を結合し、現象として顕現させていると言う原理に違いは無い。
 ならば、その原理に食い込むAMFの影響を受けないはずが無い。

 ――念話は誰にも届かない。だが、はやてはそれを言わなかった。
 避難民達は既に苛立ち始めている。この状況で悪い情報を与えるのは得策では無い――そうなれば自分でどうしようもなくなる。
 
 情けない。不甲斐ない。悔しい。
 憤怒――もはや殺意にもなりかねない自身への怒りが彼女の心を軋ませる。
 周りからの失望の視線が痛い。そして自分自身の弱さが憎い。
 
 何が、夜天の書の主だ。
 何が総合SSランクの魔導師だ。
 何も出来ない、何も、自分は何もすることが出来ない。
 弱いから、弱いから、弱いから――力が、無いから。
 
 その時――涙すら毀れそうなほどに心の内圧が高まった時、ふと右手に暖かさを感じた。

「……おねえちゃん、わたし、しぬの?」

 涙を堪え、少女が――マイが呟いた。

「……きっと、助けが来るから。それまで、待ってれば……」

 言葉を言い終える前に少女の目に涙が溜まって行く。あ、と思った時は遅かった。

「……う、うう……ううっ…うわああああああん!!」

 涙がこぼれ出した。絶叫のように、これまで溜め込んでいた涙を解放したかのように、マイは大声で泣き出した。
 続いて巻き怒る怒号。うるさい、黙れ、ふざけるな、何で俺がこんな目に――繰り返される怒号と罵倒。少女の泣き声を皮きりに室内がそれだけに満ちていく。諦観と絶望と憐憫に。
 その時、衝撃と轟音が室内を揺らした。一度や二度では無く、ごん、ごん、と断続的に衝撃と音が鳴り響く。
 室内に再び沈黙が舞い戻る。まぎれも無い死の恐怖だ。通常に生きていれば決して感じることの無い感情。

 震動と衝撃が無機的に繰り返されていく。
 その音が耳朶を叩く度、一人、また一人と嗚咽を始める。
 絶望を重ねていく。
 
 一人の絶望は伝播し、二人の絶望を呼び込んで、二人の絶望は三人の絶望を呼び覚まし、三人の絶望は四人の――。
 連鎖する絶望。覚醒する自己憐憫。
 そうして、いずれは確信し、絶望と諦観は恐慌を導き出す。
 その果てに彼らは知る。
 自分達は助からないのだと言うことを、世界は優しく無いことを、命とは何よりも軽いものだと言うことを、自分達はここで死ぬのだと。
 救助は来ない。戦闘中にこんなところに助けに来るような暇な人間はどこにもいないだろう。
 
 死ぬ――自分は誰も守れずに死ぬ。
 
 現実とは厳しいものだ。理想論で誰かを救えることは無い。
 漫画やコミックのように、ここで新たな力にでも目覚めて、扉を開けてあの醜悪な機械の群れを駆逐できれば――そんな力などどこにもない。子供の世迷言と同じだ。
 意味の無い思考――どこにも届かない夢想だ。

(……なんで私は、無力なんやろうな。)

 悔しかった。
 何も出来ないことが、無力なことが――自分は本当はこんな少女を泣かせない為に頑張っていたはずなのに。
 確かに自分は逃げ出した。
 親友を失ったから、後輩を失ったから――それも自分のせいで。
 逃げ出したのはそれと向き合うことが辛かったから。向き合えば自分を責めることになるから。
 手が震える。胸の奥でどくんどくんと鼓動が大きくなっていく。胸のざわめきが収まらない。

(……何が、悔しいや。シンが認められない、や。)

 単に自分は怖かったのだ。フェイトとギンガを“殺した”ことが認められなかっただけなのだ。
 唇を噛んだ。噛み切った。口内に広がる鉄の味。血の味。痛みと共にそれを飲み下して、それでもまだ震えが収まらない。
 逃げるべきではなかったと思う。確かにここにいて何か出来たかと言われれば分からない。
 役立たずの自分では何も出来なかったかもしれない。
 けれど、何も出来なかったかもしれないと言うのは、逆に言えば――何か、出来たかもしれないことを意味している。
 
 逃げ出した時、自分はその可能性を握りつぶした。
 馬鹿だ。本当に大馬鹿だ。そんな馬鹿な自分に憎悪すら感じる――不意に、右手に暖かさを感じた。右手を、小さな手が握り締めていた。

「……おねえちゃん……どうしたの……?」

 マイは不安げに呟き、はやての手を握る力を強めた。
 暖かい――そう思って、扉に視線を向けた。ヒビ割れて、いつ壊れるか分からない扉を。それは後悔だらけの人生そのものの象徴に思えて、笑い出したくなる。

 断続的な衝撃と轟音。何度も何度も何度も繰り返し続いていく。終わりは近い。震える少女の手を強く握り返し呟いた。

「……なんで、私はヒーローやないんやろうなって思ってな。」
「……ひーろー?」

 おうむ返しに聞き返すマイ。
 彼女の姿とこの状況はどうしようも無いほどに、自分を思い出させる――あの、何も出来ずに無力だった頃の自分を。


 ――昔、一人の少女がいた。
 
 父母を亡くし、身寄りを失い、誰もいない孤独の家にいた独りの少女が。
 少女は家族が欲しかった。
 誰かが欲しかった。
 そして、運命は少女に家族をくれた。
 けれど、運命は残酷で。家族はまた奪われる。
 
 その果てに、彼女が望んだモノ。
 それは、御伽噺に出てくるような、漫画やコミックの世界の中にだけいる、ヒーローだった。
 
 リインフォースのことを思い出す。彼女が、そんな風に誰かを助ける側でありたいと望ませた原因を。
 正義とか悪で割り切れないモノだった。闇の書は悪かもしれない。
 けれど、その中にいる彼女は決して悪でなかった――少なくとも、自分にとっては。

 だから、ヒーローになりたかった。
 
 世を救う救世主としての英雄では誰も救えない。その意味の通りに世界を救うだけ。

 信念を救う正義の味方では誰も救えない。その名の通りに正義を救うだけ。
 
 ヒーローは何も救わない。ただ、誰かを救うだけ。
 
 リインフォースを救いたかった。
 誰かが犠牲になることで誰かを救う、そんな正義を容認したくなかったから――だから、思い描くのはこんな絶望を砕いて壊して、突き破るヒーローだった。

 ぼうっと見上げながら、悔しそうに彼女は呟いた。

「……私がヒーロー、やったらなあ……こんなのきっと何とかしたるのになあ」

 夢だった。時空管理局に入ったことにもそれは関係しているだろう。
 誰かを助けたかった。自分もなりたかった。自分を助けてくれた少女――高町なのはや、フェイト・T・ハラオウンのようなヒーローに。
 自分にとっては二人はヒーローだった。憧れだった。自分もそこに並びたいと思った。
 だから、頑張った。頑張って、頑張って、頑張って――力を得た。
 けれど、その代償として自分は気づいてしまった。
 自分は、ヒーローにはなれないことを。

「……へんなの。ヒーローっておとこのひとのことだよ?」

 そう言ってマイは怪訝な顔ではやてを見た。はやては儚げに微笑み、再び天井を見上げ、呟いた。

「そやね。けど、多分そうなりたかった。」

 ヒーローになりたかった。けれど、ヒーローにはなれなかった。
 単独の戦闘能力が低い自分は、高町なのはやフェイト・T・ハラオウンのように前線で戦うことはまるで向いていない。
 当然だろう。9歳の頃まで自分は満足に歩くことも出来なかったのだ。単純に考えて、運動神経などは皆無、と言うよりもそういった概念を持つだけで精一杯だった。

 だから、自分は自分が望んだ“ヒーローの側”から“ヒーローを支える側”になることを選んだ。ヒーローになれなかった。
 だから、自分は戦力を集めた。
 ヒーローを、コミックやマンガの中だけにいるヒーローになれるかもしれない人間達を集めた。

 誰をも救おうとして、誰をも救えずとも、決して諦めずに戦い続けるヒーローの可能性をもった人間を。
 
 そうやって、彼女はいつもヒーローを求めていた。
 自分の為に動いてくれる無敵のヒーローを。

「……そういや、あいつはそれになりたかったんやな。」

 多分、シン・アスカはそんなヒーローになりたかった。
 
 ――あの世界に戻ったところで、もう誰も“守れない”。だから、俺は、ここにいたい。
 
 あの男はそう言った。自分はそれが許せなかった。

 互いに掛け替えの無い「喪失」を経験し、その為に力を求めたシン・アスカと八神はやて。
 方向は違えども、二人の本質はよく似ている。そして至った道は真逆の道。
 シン・アスカは守る為に全てを捨て、八神はやては守る為に全てを欲した。
 それゆえに、全てを欲する彼女にとって自分の命に欠片も意味を見出せない彼の言葉、それが彼女には許せない。犠牲を許さない、彼女にはそんなシン・アスカが看過出来なかった。

 ――けれど、その思いの裏にあるのは、嫉妬だ。自分はどう足掻いてもシン・アスカと同じ選択は出来ない。

 もしかしたら、と言う想いがあった。もしかしたら、この男はそうなれるのではないかと。

 年を重ねるごとに、現実を知って子供じみた世迷言は減っていく。
 夢はいつか醒める。21歳と言う年齢は彼女の心からヒーローになろう、と言う気持ちを消していく。
 ヒーローは子供が憧れるモノで大人が憧れるモノではないから。
 現実を知った大人にはヒーローと言う存在がどれだけ“狂って壊れた”存在なのかを理解出来てしまうから。

 だから、もしヒーローになる人間がいるとしたら、そいつはきっと馬鹿なのだろう。現実を見ない大馬鹿野郎。
 現実に存在しないことを理解して、それでもそうなろうと、現実を無視して走り続ける大馬鹿だけがヒーローになれる。
 ヒーローとはそんな人種だ。そして、偶然にもあの異邦人はそうだった。
 
 20歳にもなって、全てを守るだの誰も死なせ無いだの、そんな夢見がちなことを言い続けていたから。
 戦争に従事し、クソッタレな現実に何度も何度も煮え湯を飲まされて、仕舞いには殺されて、それでも諦めずに走り続けて、生き延びて、ここまで来た。

 はっきり言って馬鹿だ。普通はそうなる前に諦める。なのにあの男は諦め切れずに今も尚、戦い続けている。

 ――子供の頃に憧れたヒーローはシン・アスカが属する側にいる。自分は本当はそうなりたかった。けれど、自分が選んだのはその側ではなく真逆の側。

 ギンガやフェイトがあんなに早くおかしくなったのも道理なのかもしれない。

 ギンガ・ナカジマは幼い頃に母を亡くし、そのせいで早熟せざるを得なかった。大人であることを強要され、子供であることを置き去りにしてきた。
 だからシン・アスカに惚れたのは簡単なことだ。
 哀れだったからだ。傷だらけになって、泣きそうになっても頑張り続けるシンの姿が可哀想でならなかったからだ。
 だから、発端は同情。これは間違いない――だけど、恐らく彼女が本当に惚れたのは“そこ”ではない。彼女が気づいていたのかどうかは知らないが、恐らく、ギンガはずっと誰かに“守られたかった”。

 置き去りにしてきた子供心はずっと誰かに守られることを望んでいて、だからそんな彼女はシン・アスカに守られることに安堵した。情熱ではなく安堵によって彼女はシン・アスカと言う男に惚れたのだ。

 フェイト・T・ハラオウンはクローンと言うその特殊な出自からか、早熟する必要があった。
 母に認められたいから。褒めてもらいたいから。
 純粋な子供ならば誰であろうと与えられる当然のモノを彼女は与えられず、結果としてそれは彼女に“従順さ”を植え付けた。
 自分を絶対に裏切らない誰か――それを造る為に彼女自身が絶対に誰も裏切らない存在でなければならないから。
 シン・アスカに惹かれたのはその影響だ。
 彼は誰かに裏切られ続けた存在だ。
 その結果、男は従順な獣として生きることを選んだ。
 自分と同じだと思ったのかもしれない。人生と言う鎖に雁字搦めに縛り付けられた哀れな男だと。
 つまり、発端はギンガと同じく“哀れみ”。彼女も初めはただ哀れみから惹かれたのだろう。そこに間違いは無い。
 
 だが、彼女はギンガと同じく守られたいと思ってシンに惚れた――のではなく、そんな鎖や哀れみとか、そんなもの全て関係無しに好き勝手に暴れて守ろうとするエゴに惚れたのだ。
 フェイトが本当に望んでいたのはそんな愚直なまでの我の強さ。絶対に何があっても自分を張り続けるその心根の強さ。そこに彼女は“期待”したのだ。この人はどこまで自分を変えてくれるのか、と。
 
 ギンガ・ナカジマはシン・アスカを綺麗な存在として、自分を守ってくれる、彼といると安堵するから惚れた。
 フェイト・T・ハラオウンはシン・アスカが醜悪なエゴの塊として、彼に期待したからこそ惚れた。
 
 とどのつまり、二人は惚れ方こそ違えどシン・アスカがヒーローになろうと足掻き続ける大馬鹿野郎だから惚れたのだ、と思う。
 これらは全てもう確認のしようも無い推測でしか無いし、考えても意味の無いことではあるけれど――多分、そんなに外れてはいない。
 二人とはそれなりに付き合いの長い――片方は親友だから付き合いが長いという問題ですらないが――はやてはそう確信していた。
 要約すると、どこにでもある単なる初心な初恋。それが答えだ。
 特別なモノなど何も無い――中学校にでも行けば氾濫している思春期の恋模様。
 
(……考えてみれば、私も、同じか。)
 
 彼女は思い至る。自分自身の根幹に根差した衝動に。彼に拘る意味に。自分がここにいる理由に。
 初めて会った時、八神はやてはシン・アスカを見て懐かしいと思った。
 考えてみればそれは至極当然の話だ。
 何故なら、シン・アスカは家族(リインフォース)を失った日の八神はやてに――ヒーローになりたいと願ったあの日の自分に似ていたのだから。
 その想いは決して恋ではない。恋というよりもそれはむしろ、執着に近い。

 シン・アスカは八神はやての夢を叶えてくれるのではないかという、夢への執着に。
 
 ――だから、許せなかったのだ。ヒーローになることが出来る“かもしれない”のに命なんてどうでもいいと言わんばかりのシン・アスカが。自分の夢に泥を塗られたような気さえして、彼女は憤慨した。
 
 そして、それは――そのまま此処(クラナガン)に来た理由に当てはまる。自分は、あの男を死なせたくないから、ここにいる。シン・アスカがどうだとかは関係ないのだ。ただ、八神はやては自分の夢が壊れることが許せなかったから。
 だから、ここに来た。何が出来るのか、何がしたいのか、そんなこと一切分からないままこの無力で在ることしか出来ない戦場へと。

 ――その事実を確認すると、少しだけ視界が開いた気がした。
 
 不思議そうな眼でマイが自分を見ていた。いきなり黙り込んだからだろう。
 しゃがみ込み、少女と同じ目線で、少女に笑いかけた。
 出来る限り、明るく朗らかな笑顔を意識して。

「大丈夫や。きっと助けはくる。だから、安心するんや。」

 少女の顔はまだ晴れない――当然か。
 そんな簡単に安心するほど子供の心の隙間に入り込んだ恐怖は拭えない。
 だから、今度は抱きしめた。包み込むように優しく、少しだけ力強く。

「……大丈夫や。」
「……う、うん。」

 その言葉と抱擁でマイの表情が少しだけ和らいだ。
 轟音と衝撃。さっきよりも大きくなっている。終わりが近づいている。
 全員の表情が強張る。少女の、マイ・アサギの表情も強張った――はやては再び微笑んで、少女の小さく震える身体を抱きしめた。

「――皆、私が守ったげるから。だから、信じてくれんかな?」
「……おねえ、ちゃん……」
「おねえちゃんやない。はやてや。八神はやて。」
「やがみ、はや、て……?」
「ああ、そうや。」

 少女を抱きしめていた手を放し、前に進み出る。
 武器は無い。デバイスの一つも無ければ、自分の力を制御する術の要でもあるリインフォースⅡもいない。
 戦えば敗北は必至。そして敗北はそのまま死に直結する。
 なら、何故自分は戦おうとするのか。

 ――そんなこと知るか。守るのに理由がいるんか。
 
 心が紡ぐ。言葉を紡ぐ。“覚悟”を紡ぐ。
 きっと自分はヒーローにはなれない。今までなれなかったのだから、これから先も同じことだろう。
 けど、それでいい。自分はヒーローを支える側で在ることを選んで此処まで来た。
 ユメを誰かに叶えさせる為に此処まで来た。
 今更、それが間違いだったなどと訂正するつもりなど毛頭無い。
 だから――今はもう少しだけ頑張ってみよう。
 あの大馬鹿野郎をヒーローにする為には自分だって諦めている訳にはいかない。
 ココロが壊れたと言うのなら、繋いで叩いて直せば良い。
 良い男を育てるのは、良い女だと相場は決まっているのだ。

「そうや。私の名前は……八神はやてや。」

 上着を脱いで丸めて放り投げた。上半身を覆うのは白いワイシャツ。下半身を覆うのは紺色の側面が破れ、スリットが入ったスカート。

「ヒーローになり損ねた、ただの女や。」

 少女にその言葉の意味はわからない。多分、はやて以外誰もその言葉の意味などわかりはしない。
 だが、それでいい。
 自分さえ分かっていればそれでいい。決意なんてそんなものだ。覚悟なんてそんなものだ。人生なんて――そんなものでいいのだ。

 前に進み出た。俯き、押し黙る避難民に声をかける。

「全員、私の後ろにいてもらえますか。」
「……あんた、何を言ってんだよ」
「何が出来るんだよ、あんたみたいな女一人で。」

 皆が口を開いた。放たれる言葉は罵倒と失望と諦観ばかり。予想通りの反応。
 すう、と息を吸い――不敵に微笑み、叫んだ。

「――はよ、下がれ言うとるんや、このアホンダラぁっ!!!」

 ビリビリと空気が震動したと勘違いするほどの怒号。密室空間で放たれたその声は鼓膜を突き破らんばかり大きかった。
 皆が呆気に取られて彼女を見た。マイがいきなり大声を出した自分を見て驚いている――少女に微笑み返した。心配するな。大丈夫だと。
 そんなヒーローの真似事を、柄にも無くしてしまう。
 すう、と息を吸い込み、眼前の避難民を見つめる。

「ええか。ここは私が、必ず守る。せやから――せやから、あんたらは私を信じて欲しい。」

 皆がはやてを見た。突然、態度を豹変した露出の多いワイシャツの女を。

「みんな家族とかおるやろ?帰りたいやろ?……こんなところで死ぬとか話にならんくらいにムカつくやろ?」

 視線が集まる。

「さっきの言葉の通り、誰かが来ないと駄目なんは事実や。それは変えようがない。……せやから、それまでは必ず私が守ったる。必ず、みんなを家に帰したる。」

 皆の目を見る。呆気にとられている者がいる。笑っている者がいる。泣いている者がいる。
 その目の全てに絶望があった。その絶望の全てを安堵の吐息に変える為に。

「今は私の指示に従って欲しい。こんな小娘で頼り無いかもしれんけどな。」
「……」
「……」

 一人、また一人とはやての後方に集まって行く避難民たち。
 別に今の言葉に納得した訳でも無ければ、感銘を受けた訳でも無い。
 死ぬかもしれない恐怖を、そんな言葉だけでどうにか出来る訳が無い。
 彼らの瞳が語る事実は一つだけ――こんな小娘に何が出来る。それだけだ。
 
 足を前に踏み出す。避難民は全て自分の後方に下がっていった。扉と自分の距離は約5m。自分と避難民との距離は3mほど。
 自分の前には誰もいない。ここからは自分の魔力と障壁、ガジェットのAMFと攻撃との単純な鬩ぎ合い。
 扉にヒビが入った。壊れるまでもう数秒も無い――構うことは無い。まだまだ魔力は残っている。両手を突き出し、魔力障壁を再構成。

「はぁぁぁぁぁっ!!!」

 ヒビの隙間に入り込む白い魔力。それを抉り攻め立てる高濃度AMFとⅢ型の砲撃とⅣ型の斬撃。
 ヒビ割れる。注ぎ込む。ヒビ割れる。注ぎ込む。
 均衡は即座に崩れた。
 ぱりん、とガラスが割れるような音を立てて、障壁が砕け散った。

「――っ、まだやっ!!」

 ガジェットが入り込んでくる前に再度障壁を展開。魔力注入。構成の甘さを膨大な魔力量で誤魔化し揉み消し、食い止める。

「ぬ……ぎぃぃぃいいいい!!!」

 腕に血管が浮き出る。汗が吹き出た。
 ヒビ割れていく障壁/閉じて行く隙間――鬩ぎ合い/終わらない。
 障壁に向けて放たれる何発もの砲撃。障壁の直ぐ近くで斬撃を繰り返すⅣ型ごと砲撃が障壁に食い込んで行く。

「まだ……まだ……!!」

 呟き、自身に叱咤。障壁が崩れることは後方にいる彼らの死を意味する。あの少女が死ぬことを意味する。

 ――ふざけるな。
 
 まだだ、と更に魔力を集中。輝き。白く、そして熱く。
 AMFによって結合を解かれていく魔力。その綻びに乗じて刻み、貫く斬撃と砲撃――構うな。続けろ。
 切り裂かれていく障壁。抉られヒビ割れていく障壁。

「まだ、や……!!」

 ぱりん、と割れた。粉々に砕け散った。その間隙を狙って、放たれたⅢ型の砲撃。咄嗟に魔力障壁を自身の直ぐ前方に張り出すことで防御。
「くそ……たれぇっ!!!」

 Ⅳ型がその隙に近づく――障壁を食い破る為に斬撃を振るう。目前で障壁が削り取られていくのが視認出来る。
 後ろから悲鳴が聞こえる。ざわめきが聞こえる。けれど、少女の声は聞こえない。ふと、後ろを見た。

「……。」

 少女が見ていた――自分を見ていた。
 
 “だから――もう少しだけ頑張ろう”。
 
 言葉を紡ぐ。決意を紡ぐ。覚悟を紡ぐ。
 命を賭けるほどの魔力行使は自分には出来ない。
 だから、命を懸けて何かを遂げることなど出来はしない。
 自分は、自分の命を抱えたままでしか何かを遂げることしか出来ない。
 
 思考を加速。魔力を収束。意識を集中し、現状取れる全ての手を考えろ。
 ぴき、と障壁の亀裂が大きくなっていく。

「ぎ、がぁぁぁっ!!!!」

 もう少しでいい。もう少しだけでいい。もう少しだけ、もう少しだけ、お願いだから、もう少しだけ――

「く……そ……!!!」

 障壁に大きな亀裂。割れる。終わる。死ぬ。守れない。少女が死ぬ。これで、終わる――

「――あ。」

 今度こそ、割れた。砕け散った。再度障壁を張ることを試みる/間に合え――間に合わない。守れない。自分はやっぱり、役立たずで、

「くそ。」

 呟きは一瞬。思ったことはただ一つ。

(悔しいなあ。)

 思考が途切れる。意識が漂泊する。今、終わる。終わってしま――

「――はやては」

 その体躯に見合ったような小さな呟き。白いバリアジャケットを纏った鉄槌少女(ハンマーガール)が、

「死なせ――」

 その小さな身体と可憐な容貌に不釣り合いどころか、まるで似合わない出鱈目で刺々しく、何よりも巨大な鉄槌を――

「ねええぇぇぇえええええっっ!!!」

 渾身の力で振り回し、暴れる/猛る/ぶち抜く/ぶち壊す/ぶちのめす/ぶっ潰れろ――!!!
(ドカバキグシャバキバキバキドゴゴゴゴゴゴガガガガギギギゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ――!!!)

 轟音と衝撃が耳朶を貫いた。ついで激突音。そし粉微塵になったガジェットドローンの破片がはやてが一瞬遅れて展開した障壁を叩いた。

「だぁあらぁあああああぁぁっっ!!!!」

 一機と言わず、二機と言わず、三機を四機を、目前に迫る全てのガジェットドローンを蹂躙していく鉄槌少女(ハンマーガール)。

「は、はは……」

 思わず、唇を歪めて笑ってしまった。
 暴れているのは誰あろう、夜天の王の――否、八神はやての騎士ヴォルケンリッター・ヴィータ。
 そして、

「貴様ら全員ぶち壊してくれる……!!!」

 血走った眼でガジェットを切り伏せて、蹴っ飛ばして、踏み潰す烈火の将シグナムが、

「……もう何でもいいからぶちまけちゃってくださいね。」

 瞳孔の開いた眼をしたままぶつぶつと呟き、ガジェットを糸(バインド)で束縛し、次々と輪切りにしていく湖の騎士シャマルが、

「あ、犬がいる!!」
「犬が、闘ってるだと…!?」
「あの犬すげえ、魔法使ってるぞ……」
「わんちゃん、かっこいい!!」

 咆哮とともに上空から降り注ぐ岩の雨――盾の騎士ザフィーラが。
 どこか釈然としない声で吼えた。

「わ、わおおおおおおん!!!」
「……なんつー、不憫なんや。」

 瞬く間に葬り去られていくガジェットドローンの群れ。
 これまで苦しんでいたことが嘘のように、圧倒的に、無慈悲に、蹂躙して行くヴォルケンリッター。
 僅か十分も経たない内に蹂躙は終わる。残るは執拗に壊され尽くしたガジェットの破片の群れ。よほど、はやてを殺そうとしていたことが腹に据えかねたのだろう。機能停止しているガジェットをそこから更に細かく砕き、粉微塵にしていった。
 苦笑しながらその光景を眺めながら、はやてがぼそりと呟いた。

「……皆、何でここやって分かったん?」
【ボクが教えたのさ……主を助けに行けってね。】

 通信が繋がる。脳裏に突然届く念話――聞きなれた声。
 ガジェットが殆ど掃討されたことで、AMF濃度が下がったのだろう。先ほどまでのようなノイズは無く、澄み切った声が届く。

【どうやら、生きていたようで安心したよ、はやて。】
(よう言うわ。)

 心中で毒づく。
 まるで慌てていないその口調――八神はやての知るヴェロッサ・アコースとは飄々として、心中では何を考えているか分からない男である。だが、長い付き合いだからか、冷静沈着ではあっても怜悧冷徹な男ではないのだ。
 少なくとも、近しい人間が死んだり、死ぬような状況に陥って尚何も思わない。そんな男ではないことを。

 恐らく、ヴェロッサははやてがこの場にいることを察知し、すぐにヴォルケンリッターに指示を出したに違いない。この避難所が襲撃を受けてから、救助に彼女たちが来るまでに、数十分しか経っていないことがその証だ。
 それでありながら、こうやって、そんな素振りは全く見せない。

(……自慢の兄貴分やとは絶対に言わんけどな。)

 心の中でだけそう呟き、口を開いた。

「ロッサ……直ぐにここに救助をよこしてくれへんか?それとマイ・アサギって子の親御さん探したってくれ。」
【お安い御用だ。今すぐに手配しよう。】
「それと、」
【何かな?】
「何で、今回の襲撃のこと詳しく教えてくれんかったんや?」

 一瞬、彼の声が途切れた。沈黙は数秒。それは後ろめたさの表れ――言うべきではないことを言い放つための逡巡なのだろう。

【キミじゃ役に立たないからだ。キミではどうしようもない。1000機のガジェットの大群にキミは何が出来た?」
「……1000機?」

 口から出た言葉は間の抜けた呆けた声。言葉の意味を一瞬理解出来なかった。

【ああ。今回の襲撃は1000機のガジェットとナンバーズとこれまで現れた鎧騎士達。それとエリオ・モンディアル。そして君は知らないが、終いには巨大な人型兵器が蹂躙している。はっきり言ってキミではどうしようもないだろう?】
「……」

 押し黙るはやて。その通りだ。1000機のガジェットドローンに加えて、あの鎧騎士に、強化されたナンバーズ。その上、異常なほどの戦闘能力を持ったエリオ・モンディアル。そして、極めつけに巨大な人型兵器がいるという。
 どうしようもない、と言われても仕方は無いだろう。

 ――犠牲を許容出来ない彼女に、そんな絶望的な戦闘を前にして出来ることなど何も無いのだから。

【だから、外れてもらったのさ。キミに出来ることではないとカリムが判断したのでね。だが――。】

 口調が変わる。それまでのような厳しい事務的な口調ではなく、優しい彼女の兄貴分の声へと。

【――僕はキミにはまだ出来ることがあるんじゃないのか、って思ってね。だから、あんなメールを送らせてもらった。】

 緑色の魔力で編まれた犬――ヴェロッサ・アコースの希少技能“無限の猟犬”が、そこにいた。口にくわえているのは剣十字の紋章。騎士杖のデバイス――シュベルトクロイツ。

【僕はカリムよりももう少し君のことを買い被っているのさ。カリムには可愛い妹分を死なせるのは忍びないと言ったけど……可愛い子には旅をさせろとも言うだろう?それと同じさ。】

 近づいてきた猟犬から剣十字の紋章を受け取る。手に馴染む使い慣れた感触。思わず、笑みが浮かぶ。

【確かに君はここで死ぬかもしれない。けど、あそこにいても君は生きながらに死んでいくだけだー――それなら、同じことだろう?守りたかったモノを守り切れなかったっていうのは酷く辛い話なんだから。】

 言葉に少しだけ悔恨が滲む。
 そこに何が秘められているのかはわからない。念話による通信では言葉は繋がっても心までもを繋げるのは無理なのだから。

「……あのメールは、ロッサが送ったんか……まるで気づかんかったわ。」
【君は主役さ。誰が何と言おうとね。……っと、これで通信は終わりのようだ。積もる話はまた今度にしておくとして――はやて。】

 言葉を切って、息を吸い込む音がした。
 開けられたのは数瞬の間。
 
【君は君の思うようにしたらいい。君の願いは、君にしか叶えられないんだから。】

 ――そして、通信は途切れた。接続を切ったのだろう。どれほど念話を繋げようとしても聞こえてくるのはノイズばかり。
 
「……わかってるよ、ロッサ。私は、」

 剣十字の紋章を杖状態に解放。現れ出でしは騎士杖シュベルトクロイツ。
 ガジェットはすべて掃討され、これ以上、この場を脅かす存在はそこにないことを確認し、跳躍。飛行――空中へ。

「私の夢を守りに行く。それが私がここにいる意味や。」

 はやての瞳が捉えた遠方。そこに遠方からでもはっきりと視認できるほどに巨大な黒色の巨人がいた。
 そこに割り込んでくる新たな念話――空間にディスプレイが投影された。

【はやて?そこにいるのかしら。】

 ――声の主はカリム・グラシア。
 聖王教会の重鎮にして、はやての後見人。そして、彼女が姉と慕う女性。

「カリム、か。」
【戻りなさい、はやて。その戦場はもうすぐ“終わる”。巻き込まれるような愚を犯しては駄目よ。】

 映像に映し出されたカリム・グラシアの姿はいつも通りに優美で穏やか――だが、どこかいつもと違う気がするのは気のせいだろうか。

「終わる……カリム、それどういう意味や?」
【言葉通りの意味よ。その“戦場”はもうすぐ終わる。】

 言葉の意味が理解できない。
 戦場が終わる――確かに戦闘というものはいつか終わる。どちらかが倒れるか敗北を認めればその時点で戦闘は終了する。それ自体に異論はない。
 だが、カリムは戦闘ではなく“戦場”と言った。
 何か、何かがおかしい。

「戦場が終わる……?どういう、ことや?」

 その言葉を聞いてカリムが溜め息を吐いた。覚えの悪い子供を諭す親のような溜息を。

【言葉通りよ、はやて。その戦場は、あの男を熟成させ、餌とする為に作られた。熟成がすでに円熟にまで至った以上、これ以上の戦力の浪費はまるで意味が無いわ。】

 ――待て、待て、待て
 今、この女は何と言った?
 
 “その戦場は、あの男を熟成させ、餌とする為に作られた。”
 
 はやての胸がズキンと痛んだ。脳裏にある男の顔が思い浮かんだ。朱い瞳の異邦人。シン・アスカの横顔が。

「……まさ、か」
【……貴方には知られたくなかったんだけどね……まあ、いいわ。傀儡なら心当たりはまだまだいるもの。】
 
 声色は同じ。口調も同じ。なのに、なぜかその声を別物に感じる。

【シン・アスカはこれから世界を救う生贄となるのよ。この世界の平和の為に。】

 声の調子に淀みはない。同時にその声の調子はいつも通りの柔和な声音。狂気など欠片もなければ、壊れた様子などまるで無い――正気そのものにしか見えない。
 なのに、何故この声が怖い、と思うのだろう。

「生、贄……やて?」
【エヴィデンス01――羽鯨って聞いたことがあるかしら?】

 聞き覚えの無い名前。聞いたことも無い言葉。理解が追いつかない。
 そんな自分を見て、カリムは溜め息を吐いた――嘲るようにして、嗤いながら。

【……そうね。あなた達はまだそこまで“到達できてない”から、知る由も無いか。】

 言葉が続く。放たれた言葉は理解の外に在るものだった。

【時間の流れを川とすると、次元世界というのは川の中に浮かぶいくつもの船よ。私たちは同じ川の中で生きるからこそ、世界間の移動なんていうものが出来ている。羽鯨というものは、その川を食料とする生命体――むしろ、世界とでも言った方が正しいのかもしれないわね。】

 耳に届く言葉。あまりといえばあまりの内容にカリム・グラシアの正気を疑う――目は正常。雰囲気も、ただ笑顔だけが異常で――けれどその異常がその言葉は嘘では無いと信じさせる。

【羽鯨がその川を食らうということは、ミッドチルダだけではない全ての次元世界が消滅する。それこそまだ確認されていない世界も、確認されている世界もすべて、ね。】
 
 口を閉じて、彼女がこちらを見た。瞳孔が開くのを感じた。彼女の目の奥に在る正気と言う名の狂気に怖気が走る。

 羽鯨?エヴィデンス?在り得ない話だ。そんなことは絶対に在り得ない。世界を食料とする生物など存在するはずが無い――通常ならばそう思っただろう。
 だが、八神はやては違う。彼女は知っているからだ。常識がどれほど脆く壊れやすいかを。
 幼い頃に魔法と言う非常識によって常識を破壊された経験がある彼女は、壊れない常識など“在り得ない”と知っているのだから。
 だから、彼女はそれを真実だと受け入れてしまう。

【羽鯨が求めるモノは純粋な感情。強い感情――たとえば絶望とか憎悪とか、“何かを守りたいという欲望”とか。】

 にやり、口元が歪む。微笑みが嗤いとなった。

【……この戦場はその為の戦場よ。全次元世界が、平和を手に入れる為にシン・アスカは生贄として選ばれた。】
「シンを、この世界に呼んだのは、その為なんか……?」

 途切れ途切れの言葉。口内が乾いて、上手く話せない。知らず、呼び名が変わる――シン・アスカではなく、シンへと。
 
【いいえ。それは偶然よ。誰もあの男を呼んではいない――けれど、それを利用させてもらったのも事実ね。】
 
 くすくすと楽しそうに笑うカリム。いつも通りの笑顔。いつも通りの態度。
 なのに、その言葉だけがいつもとは違いすぎて――頭のどこかでかちりと音がした。

「……初めから、仕組まれていたってことなんか?」
【違うわ、はやて。初めから“そうなるよう”に仕向けていただけよ。別に計画はこれひとつだけという訳では無いのだから。これは、その中で一番確実な計画なのよ。】

 カリムの瞳がはやてを見た。うっすらと微笑みながら、呟く。
 息を吸って、吐く。息を吸って――吐く。ふつふつと煮え滾るモノがあった。この話を聞き出した当初から煮え滾るナニカ。

【喜びなさいな、はやて。シン・アスカはこれで、生贄(英雄)になれ――】
「……カリム、それ本気で言うとるんか?」

 知らず、言葉が出た。
 瞳が鋭くなるのを感じ取る。奥歯を噛み締める音がする。心臓が跳ね上がる。

【私は本気よ。いつだってね。世界は全て、自己の平和の為に動くものなのよ。……貴方も知っているはずよ。平和以上に大切なものは無いと言うことを。】

 胸がざわざわする。身体の震えが止まらない。

「……くそ食らえやな。誰かの犠牲を前提にしてしか成り立たん平和なんかに何の意味がある? 誰かが犠牲になるのはええ。何も犠牲にせずに平和にしようなんて、単なる子供の駄々と同じ理想論や。やけどな、」

 彼女の目を見据えて、言った。

「……せやけど、それを前提条件にしてどうするんや。誰かが犠牲になるのは結果であるべきやろ?そうさせない為の時空管理局やないんか?」

 僅かな沈黙。一瞬か、ソレとも数秒か。本当に僅かな沈黙。その間、彼女が瞳を閉じた――開いた。

【ええ、そうね……けれど――平和は全てに優先されるものよ。世界を救う為ならばどれほどの人間を犠牲にしても私はそれを実行する。】

 居住まいを正し、彼女はカリム・グラシアではなく、“カリム・グラシア中将”として、口を開く。

【これはお願いではなく命令です。八神はやて二等陸佐。】

 瞳が鋭くなった。返答次第では誰であろうと敵とみなす。そんな覚悟の篭った瞳へと変化した。

【貴女はそこにいてはならない。その戦場にはもうシン・アスカ以外いてはいけない。だから、早く下がりなさい。貴女にはもっと相応しい席を用意してあるわ。】

 ――それが引き鉄となる。
 
 頭の後ろで撃鉄が落ちた。
 覚悟、決意、信念――そんな聞こえのいい言葉ではない、撃鉄(憤怒)が。
 空を見た。服は破れ、心は敗れ――それでもココロの奥で叫ぶ何かだけは変わること無く。
 言葉を放つ。

「……言いたいことは、それで終いか?」

 しがらみがあった。枷があった。
 この身を縛る幾つもの大切なしがらみ。大事な枷。
 
 だが、もう――そんなものはどうでもいい。
 左手で騎士杖――シュベルトクロイツを“構えて突きつける”。魔力を収束する。脳髄が沸騰した。抑える気などサラサラ無い。

「刃以て、血に染めよ。」

 “しっかりと確実に”詠唱を行い、魔法を展開する。紅色の刃金が周囲に精製され、射出を今か今かと待ち続ける――狙いは一つ。空間に投影されたディスプレイに映るカリム・グラシア。

「――穿て、鮮血の刃金(ブラッディダガー)……そこの金髪女をなぁっ!!」

 放たれる合計10本の鮮血の刃金(ブラッディダガー)がカリムの幻影を貫き、すり抜けた。カリムの眼が見開いた。まさか、いきなり幻影に向けて攻撃するとは思わなかったらしい。彼女の顔に似合わない狼狽が浮かんだ。胸の奥がスッキリする。

【……はやて、今のは明確な敵対行為になると分かってやったのかしら?】

 地面に向けて、口の中に溜まった唾を吐き捨てた。唇を吊り上げ、瞳を見開く。顎を上げて、視線は見下ろすように。

「敵対行為?上等や……あんたが、この戦場を終わらせて、あいつを生贄にするってんならな、私がアイツを引き戻す。アレは私のや。誰と恋してようとぶっ壊れてようとな、アレは私のモノや。勝手に殺すとか、そっちこそふざけたこと抜かしてるんやないで、カリム・グラシア中将殿?」
【はやて、それは本気で言っているのかしら?】
「本気や。本気やからこんなこと言っとるんや……そんなことも分からんくらいに耄碌しとるんか?」

 腹の底から、心の底から、八神はやての全てをぶちまける。
 睨み付ける――カリム・グラシアを。

「私からの返答はな――」

 画面に向けて、右拳を握りこみ中指を天に向けて突き立てるを立てる――第97管理外世界において最もポピュラーな罵倒方法。ファックユー(クソッタレ)。

「――クソッタレや、カリム・グラシアァッ!! 私はな、誰かを見捨てるとかそういうんが一番、嫌いなんや!! 世界の平和の為なら誰か見捨てろって言うのが管理局の正義なんやったらな、そんなくそったれな管理局はこっちから願い下げやッ!!」
【……はやて、あな……】

 通信を無理矢理切った。これ以上会話を続けていれば、フレースヴェルグ辺りを放っていたかもしれない。

【皆、頼みがあるんやけど……ええか?】

 念話を繋げる。カリム・グラシアとの回線とは独立した八神はやてとヴォルケンリッターだけを繋ぐ特殊回線。

【……はやてちゃん?】

 シャマルの怪訝な声――自分の声の調子に違和感を覚えたのかもしれない。震えを抑えられている気はしなかったからだ。この、ココロの震えを。
 そして、他の面々もそれに気づいて上を見上げ、主が怒りに震える姿に気づいた。

【……今から私はあの馬鹿連れ戻す。そんでもって、あのクソッタレな巨人を背後からぶっ潰す。】
【……主はやて、それは危険すぎます。】

 シグナムの声。不安げな調子を隠そうともしていない。
 同じくヴィータからも動揺の気配。彼女もシグナムと意見は同じなのだろう。

【主はやて……。】
【……はやてちゃん。】

 ザフィーラとシャマルの呟き。恐らく、二人ともがシグナムと同じ意見だ。

【そ、そんなの無理に決まってるです、はやてちゃん!!】

 リインの叫び。アギトは沈黙したまま――答えかねている。
 瞳を閉じて、口を開いた。

【……せやから、私が危険にならないように皆は暴れ回って、囮になって欲しいんや。それとこの戦場一帯にジャミングかけて、ついでに私の生体反応だけ隠して欲しい。それとあそこまでのルート検索も。】

 一息で言い放ち、返答を待つ――言葉が返ってこない。
 沈黙は十秒ほど。口を開いたのはシグナムではなく、シャマルだった。

【はやてちゃん、それでもはやてちゃんが危険なことには変わりないんですよ?それにそういった不意打ちこそ私たちがやるべきことです。】

 シャマルの諭すような言葉。
 息を吸い込む。震えている。怒りで――そう、怒りでだ。自分と、カリムと、そして、このクソッタレな現実への怒りで腹の中が煮えくり返って、全身の血管から鼓動する音が聞こえる。

 シャマルの言い分は最もだ。自分がそんなことをする道理はどこにもない。適材適所と言う言葉とはまるで真逆――これは愚の骨頂とも言っていい我が儘に過ぎない。

【――シャマル、それでもや。それでも、これは私にやらせて“欲しい”んや。】

 それでも、そうしたかった。
 別に自分が行く必要は無い。自分は後方で彼女達に指示を出していればそれで良い。
 けれど、これは自分の“夢”を守りにいくと言う酷く個人的な願いなのだ。
 それを他人任せにしたくはない――全て、自分でやらなければ納得できないと言うだけ。

【……死ぬ気は無いんですね?】
【死ぬつもりはさらさら無い。私は、私の願いを叶える為にあそこに行って、私のユメを連れ戻す。】

 ふう、と溜め息一つ――シャマルが呟いた。

【……ヴォルケンリッターは主の願いを叶えることが使命です。だから、】

 彼女の声に不敵な調子。

【はやてちゃんが、そうするって言うなら、私たちに異論なんてある訳無い。】

 優しく呟くシャマル。その声は今はもう思い出すことも出来ない母親のようだった。

【シャマル、だが、それでは……】
【主が決意して、覚悟してるんです。私たちが何を言うことがありますか、シグナム?】

 シグナムが押し黙る気配を感じた。同時にヴィータとザフィーラ、アギトと、リインフォースⅡも。

【はやてちゃん――貴女が何をしようと私たちは貴女の仲間です。だから……】

 言葉が紡がれた。

【こっちは私たちに任せてください。必ず、貴女の願いを叶える手助けをしますから。】

 通信が閉じる。心の熱量が、今の言葉で更に内圧を高めていく。
 地面に降りる。先ほどの場所から遠く離れた場所――出来る限り、巨人の近くへと。
 シュベルトクロイツを待機状態へ移行し、魔力の痕跡を全て消す。
 
 ――巨人は遠い。

「……絶対に認めへんからな。そんな解決方法は。」

 呟いて、走り出した。




[18692] 第二部機動6課怒濤篇 51.Sin in the Other World(l)
Name: spam◆93e659da ID:08e6d9e9
Date: 2010/05/29 18:01
 大剣を振るう。一息で四刃。通常ならば視認することも敵わない高速の四連撃。
 袈裟、逆袈裟、脳天、刺突――上半身に集中させた斬撃。それに続けて今度は足首への五撃目。そして、金的への切り上げ。
 それを、仮面の男はこともなげに捌き、弾いて、避けていく。
 鎧を纏う気配は未だに無い。
 両腕に纏った鎧とビームサーベルで全ての攻撃を弾かれる。

「あああああ!!!」

 言葉は無い。そんなものを放つ暇は無い。あるのは叫びだけ――命を燃やす叫び
のみ。

(早く。)

 刺突/弾かれた。
 こちらの首元を狙う光刃を僅かに首を逸らすことで“死なない程度”に回避。
 首筋に激痛。首が焼かれる。痛みで一瞬身体が止まる――エクストリームブラストによって無理矢理それを動かし、肉体の停滞を無視(キャンセル)する。
 剣戟を繰り返す。一撃、二撃、三撃、四撃、五撃、六撃――六を越えた時点で数えるのをやめた。続ける。続ける。続ける――全て、弾かれ、捌かれ、落とされる。
 募る焦燥。停滞無く動く身体。焦る思考とは裏腹に肉体の動作は淀みなく通常通りの稼動を施し続ける。

「もう、一分経ってしまったな。」

 軽い調子で呟くクルーゼ。残り9分。
 どこを見て、どう時間を計ったのかは知らない。こちらは計ってなどいない――そんなことを考える暇があるなら、攻撃しろ。目の前のこいつを殺せ。全身全て、血の一滴に至るまで集中しろ。目前のこいつを殺すことにこの身の全てを集中させろ。
 後方のドゥーエは呆然としてこの戦いを見ている/攻撃の意思は見当たらない――切り捨てられたのだから当然か=無視。
 光刃(ビームサーベル)と大剣(アロンダイト)がぶつかり合う。白と朱が鬩ぎ合う――鍔迫り合い。クルーゼの口元が緩んだ。至極楽しそうで、癪に障る。

 クルーゼが、くく、と嗤いながら、一歩離れる――斬撃の間合い。
 大剣を振るった。威力は度外視。追求するは速度のみ。
 視界が揺れる。
 制御域を大きく超えた速度に知覚がまるで追いついていない――けれど、斬撃は停滞することなく振るわれ続ける。日々の研鑽の賜物――身体に刻み込まれた技術を脳髄に染み込むまで繰り返された常識外の反復練習。それらが制御域を
超えた速度での斬撃を可能としている。
 シグナムですら、その剣戟を見れば目を見張ったことだろう。
 何せ、エクストリームブラストによって加速したシン自身が捉えられないほどの速度の剣戟。
 誰であろうと、例えエリオ・モンディアルであろうとその斬撃を捉えることなど出来はしないだろう。
 だが――

(なんで…なんでだ……!?)

 心中に渦巻く困惑。これまで味わったことの無い感覚。
 1分が経過した、とクルーゼは言っていた。
 その一分間でシンはおよそ数百回という斬撃をありとあらゆる角度、方向から振い続けている。
 無論、攻撃は斬撃だけではない。それに交えて蹴り、殴打、魔法等の思いつく全てを投じて攻撃を繰り返している。
 だが、一撃足りとも当たらない。
 暖簾に腕押し――そんな程度ではない。まるで吸い込まれるようにしてシンの攻撃は全てクルーゼの腕や足、光刃に命中してしまうのだ。
 防いでいるのは光刃と鎧を展開している両足。顔や胴体等の部分は未だに生身だ。
 当然、シンの攻撃は生身部分に集中していく。10分という限られた時間内に殺さなければいけないのだから、攻撃箇所は自ずと限定されていく。
 確かに、そうやって攻撃箇所をあえて晒すことで心理的に攻撃箇所を限定させ、先読みの精度を上げるという方法は存在する。
 けれど、それであっても確実に被弾しないと言う訳ではない。
 先読みの精度が上がるだけで、未来が見える訳ではないからだ。
 だが、この男のやっていることは先読みというレベルではない。殆ど未来予知に近いと言ってもいい。

 再び鍔迫り合い――フィオキーナの出力を最大に設定。身体ごと大剣に体重を掛けるようにして光刃をクルーゼに向けて押し込む。

「はああああ!!!!」
「おっと。」

 クルーゼが更に一歩下がり、下方へ降下――地面へ。

(逃がすか。)

 加速。大剣(アロンダイト)をケルベロスⅡに変形。クルーゼの脚元に向けて最大掃射。抉り取られていく地面。同時に噴煙が立ち上る。その噴煙に突進し、フラッシュエッジを二本とも投擲。
 狙いはクルーゼの頚動脈。左右から迫り来る二刀と下方から鳩尾に向けて突き込む刺突。
 その全てが同じタイミングでクルーゼに到達するように調整――煙に身を隠し、三方より同時に到達する同時三撃。左右から迫る二刀に反応すれば大剣による刺突に、刺突に反応すれば二刀に、その全てに反応し“後退”したとしても、刺突から砲撃を行い確実に仕留める。巨大斬撃武装(アロンダイト)の無い現在のシンに出来る最高の攻撃。

 ――この攻撃を捌こうと思えば、後退してはいけない。前進し、その上で噴煙に紛れ“どこを狙ってどんな角度で来るのかも分からない”刺突を回避する必要がある。故に回避は不可。それこそ未来でも見えない限り絶対に回避はおろか受け止めることもままならない。

 ――噴煙を突き抜ける。容赦はしない。そのまま速度を緩めることなく目前の男の腹部を串刺しに、

「確かに私を殺すならその方法が最も確実だろうな。だが、」

 クルーゼの声がした。立ち昇った噴煙は未だシンの視界を隠し、同じくクルーゼの視界も隠しているはず、なのに、

「まだ、遅い」
「――っ」

 背筋に悪寒を感じた。
 考えるよりも速く、殆ど反射的に右半身全てからフィオキーナを全力発射。
 瞬間、交通事故にでもあったかのように左側に無理矢理“吹き飛んだ”。
 天と地が入れ替わる。
 無茶な体勢から放った制御度外視のフィオキーナ――姿勢維持など考えている訳も無い。
 そして、吹き飛ばされる瞬間、シンの朱い眼が捉えた。自分の首筋にクルーゼの光刃が追いすがっている様を。
 全身から朱い炎がモビルスーツのスラスターのように吹き上がり、姿勢を制御し、着地――心臓がドクドクと跳ね上がっていた。憎悪や闘志、憤怒ではない。久しく、感じたことの無かった、麻痺していた感情――■■によって。

「避けた、か。流石はクラインの猟犬だな、シン・アスカ。生き残ることだけならキラ・ヤマトやアスラン・ザラなど歯牙にも欠けないか。」

 淡々と呟きながら、クルーゼがゆっくりとシンに向かって歩き出す。
 奥歯を噛み締め、震える手を握り締め、■■を堪え、構えた。動き出そうとしない足に指令を送り、クルーゼをにらみ付ける――返答は薄い嗤い。

「来ないのか?時間は残り少ないぞ?」
「うぉぁぁぁああああああ!!!!」

 その嗤いが気に食わない――その憤怒で■■を消し去って、■■を振り払うように絶叫――突撃。

「そうだ。立ち止まっている暇はまるで無いんだぞ、シン・アスカ。」

 煩い、黙れ。淡々と呟き続けられるクルーゼの言葉がいちいち癇に障る。
 焦燥し、荒れる心そのままに剣を振るう。剣を振るう。剣を振るう。剣を振るう――。

「そう、その意気だ、シン・アスカ…これがキミの物語の終焉なんだ。もっとスベテを出し切って暴れてみせたらどうだ。」

 言葉を無視。答える必要は無い。思考を切り替え、心を尖らせる。
 血管が、神経が、脳髄が、心臓が、肝臓が、胃が肺が腸が脾臓が五臓六腑の全てが“戦闘”と言う一つの目的に向かって収束していく。
 自分が何か、別のモノに“変わって”いく錯覚。
 剣戟が咆哮する――鳴り響く金属音。大剣は届かない。吸い寄せられるように光刃とぶつかり合う。

「そんなものか?」

 クルーゼの声だけがこちらに届く。
 届かない/大剣を振るう。受け止められた。

「そんなモノでは何一つ守れないまま、終わってしまうぞ、シン?」

 レイの如き口調。噛み締めた奥歯がミシミシと悲鳴を上げた。

「……守るんだよ……俺は!!アンタをここで倒して!!」

 受け止められた大剣を引き戻し、再度剣戟に没頭する――瞬間、腹部に叩き込まれた槍の如き蹴り。

「は、がっ…!?」

 メキメキ、と肋骨が軋んだ。後方に吹き飛んだ。
 後方の瓦礫にぶつかる寸前、全身を覆う朱い炎によって姿勢を制御し、そのまま着地――シン・アスカの瞳孔が開いた。
 それまで淡々としていたラウ・ル・クルーゼが豹変する。

「――く」

 壊れた、亀裂の微笑みが。

「――くくく」

 醜悪な汚物の如き微笑みが。

「――キミが守る、だと?」

 無邪気で純粋な悪意(ホホエミ)が――男の全てを変換する。

「っ……!」

 叩き込まれた蹴りの痛みは数秒もしない内に消えていき、その代わりに消失していたはずの■■が鎌首をもたげてくる。
 唾をごくりと飲み込む。知らず、口の中が渇いていた。
 疲労では無く、“緊張”からの渇き。男の醸し出す雰囲気に呑まれたように、シンは大剣を構え、その一挙手一投足から目を離せない。
 目を離すな。一瞬でも目を離せば、その瞬間、得体のしれない何かに飲み込まれるように感じる。瞬間、クルーゼの身体がわずかに前傾した。来る。

「ふっ――」

 鋭く息を吐き、クルーゼが動いた。
 速くはない、けれど意識の隙間に滑り込むような動き。
 気がつけば、シンの眼前に白い仮面があった――懐に、入り込まれた。完全に動きは捉えていた。なのに、気がつけば見落としていた。

「なっ……!?」

 咄嗟に剣を振るった。
 男は僅かに身体を動かし、その斬撃を避ける――仮面を切り裂いた。露になるその顔は予想通りにレイと瓜二つ。恐らく、彼が正常に成長したならばこんな顔だろうと言う予測そのものの顔――男の何も持っていない右手が拳を作り、右足が地面を叩いた。武術で言う震脚。足元で生まれた衝撃は膝を通り、腰を通り、背中を通り、全身の連動によって一切の損失無く、軽く固められた右拳に到達し――シンの腹部を貫く。

「かはっ。」

 肋骨が折れた。内臓が潰れた。口元から溢れ出るどす黒い血液。

「がぶっ……か」

 その白い鎧を汚す黒。血液と、それ以外にも何か混じっている――破裂した内臓かもしれない。

「笑わせるじゃないか、シン・アスカ。」

 軽い口調でラウ・ル・クルーゼはそう言って、こちらを見下ろす――レイと同じ顔で、似たような動作で。
 血を吐いた一瞬を突かれ、頭を掴まれる。そのまま地面に向けて、叩きつけられた。

「あがっ…!」

 瞼の裏で火花が散った。
 口内に入り込む違和感――ゴツゴツとしたコンクリートの欠片が口に入り込んだ。生理的な反射として吐き出そうとして、吐き出すような力すら入らないことに気づく。再生が追いついていない。ここまでどんな致命傷であろうと即座に復元、再生してきたエクストリームブラストがその効果を明らかに減少させている。

(な、ん、で、ぜんぶ、あたらな)

 思考をする暇すらなく、顔面を無造作に蹴られた。再び火花――抵抗する力が無い。蹂躙されるままに身を任せる。
 胸に重み――鎧の感触。目を開ければ、クルーゼが自分の胸を踏んでいた。
 視界が霞む。雨が降り出していた。冷たい雨が頬を叩く。霞んだ意識が少しだけ自我を戻す。

「聞くが――君は自分が本当にそんなことを願っているとでも思っているのか?」

 その右手に光刃が現れた――右手を貫かれた。
 眼が見開いた。
 熱量が走り抜ける。
 激痛。痛覚が脳髄を犯す。
 痛みが■■を掘り起こす。
 憤怒が消える。激痛が消し去っていく。■■が瞳を開く。
 これまで何度もこんな痛みは味わってきた。痛みなんて我慢出来るものだ。そう思ってきた。
 なのに、なんで、どうして――

「……戦争を失くしたかったんだろう?自分みたいな人間が増えるのが嫌だったんだろう?」
「ぐっ、ぎ、あ……!!」

 ――この男の与える痛みは■■を呼び起こそうとするのか。
 ニヤつきながら光刃を抉るように動かすクルーゼ。上がる声は自動的な呻き声。

(まだ、だ)

 心中でのみ呟いた。
 左手は動く。両足は動く。まだ、動く。まだ、身体は動く。
 動け。動かせ。ここから飛び出ろ。

「あああああ――!!」

 絶叫と共に身体を起き上がらせ、左手に魔力を収束変換解放発射――近接射撃魔法パルマフィオキーナ。
 朱い光が左手に集う。朱い炎の槍がクルーゼの顔面を貫く、その一瞬前にクルーゼが後退していた。
 彼我の距離が開く。
 右手は焼け爛れ、焦げ付き炭化し掛けていた――蒸気が昇り、炭化した皮膚の下から新しい肉が盛り上がり、再生が始まっている。
 左手で大剣を握り締める。右手は使えない。手どころか腕全体に力が入らない。再生の弊害かもしれない――その存在を頭の中から追い出す。
 朱い炎が大剣を覆っていく。動作の補助の為のエクストリームブラスト――待機状態のフィオキーナ。

「はぁ、あ、あああああああ!!!」

 絶叫と共に突撃。
 ■■で脳髄が萎縮する前に、自分が自分で無くなってしまう前に――頭の中から守らなければいけない誰かのことが消えていく。

(殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ)

 心中で放たれる言葉はソレ一色。
 思考が黒く濁っていく。
 朱い憤怒ではなく、漆黒の殺意ではなく、純白の覚悟でもない。■■と焦燥の混じり合った濁った黒色に。

「不思議に思わないのか、シン・アスカ。戦争を失くしたい、苦しむ人間を失くしたい。誰かを救いたい――キミは、そう言ったな?」

 殺せ。あの口を閉じろ。身体を動かせ。何も考えるな。
 突進。それまでのような策を伴った攻撃では無くただの突撃。フェイントも、何も無い単なる猪突猛進。
 朱刃と光刃が煌いた。
 剣を振るう。剣を振るう。剣を振るう

「くくく、必死になったな、シン・アスカ。」

 剣を振るう/弾かれた。剣を振るう/捌かれた。剣を振るう/避けられた

「そんな願いを持つのなら、君はどうして、ザフトになんか入ったのだろうな。」

 光刃によって大剣が弾かれた。右手に力が入る/両の手で大剣を握り締める。再生完了。思考を消せ。殺せ。考えるな。耳を塞げ。
 光刃が大剣を弾いた。クルーゼの嗤いが亀裂の度合いを深めていく。

「ザフトに入って戦争を失くす――おかしな話だ。」

 光刃が肩を切り裂いた。明らかにこちらの動きの“先”を読んでいる。
 どれほどの速度で動こうと、どれほどのフェイントを絡めたとしても、どんな目くらましを行ったとしても、その全てが読まれているという確信。
 諦めろと囁く自分を引き裂いて、斬撃を振るい続ける。

「君が家族を失くした戦争は、ザフトが始めた戦争だ。当のザフトを憎むならともかく、そこに所属して戦争を失くせると本気で思っていたのか?」

 硝子(ココロ)に亀裂が入った/構わず大剣を振るった。身体が自動的に斬撃を繰り返す。弾かれ合う朱と白。加速する剣戟。

「だ、まれ…!!」

 出せた言葉はそれだけ。黙らせる。これ以上喋らせるな。こいつの言葉をこれ以上聞き入れるな。

「黙れ…!!!」

 ■■をねじ伏せろ。何も考えるな。何も聞くな。

「正直に言ったらどうだ?本当に平和を願うなら、戦争になど参加する必要はどこにも無い。君はただ、復讐する力が欲しかった」

 光刃を弾いた。懐に向けて、力任せの斬撃を叩きこむ/身体を僅かに逸らし、皮一枚の距離で避けられた。

「黙れ、黙れ、黙れ、黙れ……!!!」
「――八つ当たりがしたかったんだよ、君は。不幸な自分を認めたくなくてね。」

 背筋が総毛立つ。■■が更に大きくなる。心臓が跳ね上がる。■■で、震えて、硝子(ココロ)が勝手に言葉を紡ぐ。
 それは何を意味する■■なのか。決まっている。自分が、隠してきたモノ。目を背けてきたモノに目を向ける■■。置き去りにしてきた自分自身と向き合う■■。
 それら全てから目を“背け”、守ると言う妄執に縋り付き、大剣を振るった。

「俺は守ってる…全部、これからも…俺は、俺は……!!」

 三度目の光刃と大剣の鬩ぎ合い――鍔迫り合い。息遣いが聞こえてくるほどの近距離。金髪の偉丈夫が自分に嗤いかけた。

「力があれば守れる……本当に?」

 その言葉をこそ待っていたかのように、ラウ・ル・クルーゼは唇を歪めて微笑む。
 吐き出される言葉は毒素のように耳を侵食して、硝子(ココロ)に亀裂を入れていく。
 耳を塞ぎたい。けれど自動的に斬撃を繰り返す身体が耳を塞ぐことを許さない。
 千切れていく。心と身体が千切れて、裂かれて別々になっていく。
 ココロは言葉から耳を塞ぎたい、なのに身体は戦いを求めて動き続ける。

「そうやって力を求めて戦って、君は何を手に入れた?家族?仲間?友人?」

 縋り付く“願い”。守ること。全てを――そして、自分は今も守り続けている。自分は全てを守り続けている。力を手に入れて、自分は全てを――記憶が逆流する。


 ――紅く染まった瓦礫の山。紅は人の血と炎によって。夥しいほどの肉片が瓦礫の山にこびり付いている。それを彩る黒――炎によって焦げ付いた瓦礫の煤

 脳髄に雑音が混じり出す。
 身体は勝手に剣戟を繰り返す。

 ――胸に突き刺さる剣。それは過去自分が奪い去ってきた証。恩を仇で返した証。それが彼女達の胸に突き刺さっていた。流れる血は鮮やかで、その部分を見なければ死んでいないようにしか見えないほど綺麗な死体。

 弾かれ合う刃金と光刃。

「……れ。」

 何を守ったのだろう。何が守れたのだろう。
 記憶を手繰っても、見えてくるのは零れ落ちていくモノばかり。失敗した記憶ばかり。
 ■■がココロを染めていく。
 鬩ぎ合う朱と白。入り乱れる刃の軌跡。

「……ほうら、君は何も手に入れてない。何も“守れてない”。」

 胸に突き刺さる言葉は臓腑を抉り、心臓を引き裂いていく。
 否定しろ、という言葉が、その通りだ、という言葉に押し流されるのを止められない。
 勝手に繰り返される斬撃とそれを受け止め弾き捌く悪意の光刃。

「力があれば守れるなんて言うのは君の勝手な思い込みだ」

 喋りながらも互いの身体が止まらない。
 虚ろな朱刃と純潔の光刃が互いに喰らい合う。

「君はそれを言い訳にして今まで戦ってきたのさ。守る為に戦うなんていう聞こえの良い言葉に陶酔しながらね。」

 黙れ、と叫ぼうとして、声が出ない。乾ききった口内。お構い無しに眼前の男は言葉(ノロイ)を紡いでいく。

「君はねえ、シン・アスカ。本当は憧れたのさ。君の家族を薙ぎ払ったモノに。」

 黙れ。
 黙れ。
 その口を閉じろ。
 その先を言うな。

「フリーダムに、キラ・ヤマトに、家族を薙ぎ払った忌むべき存在に憧れを抱いた。あんな力があれば自分も復讐できる。世界を蹂躙できる。――八つ当たりが出来る。」

 呪いが完成していく。
 開かれていく扉から出て行くのは、おぞましい何か。
 眼を背けたい。耳を塞ぎたい。身体が動かない。
 ココロがそれを受け止めることへの■■で死んだように全てを停止していく。
 ブレーカーが落ちた。切り離されていく思考と身体。勝手に斬撃を繰り返す肉体に身を任せる。

「守るだなんて気取ってどうする?君はただ八つ当たりがしたいだけだ。あのフリーダムみたいに世界を好き勝手に荒らしたいだけだ。だから、許せなかったんだろう?自分が出来ないこ
とをやってのけるキラ・ヤマトが。アスラン・ザラが。」

 黙れ。黙れ。黙れ。

「…まれ」

 口元を吐いて出た言葉で少しだけココロを取り戻す。必死に呟く。呟くことでその呪いが届かないようにと。

「住む場所を追われたことは?戦争の原因だと蔑まれたことは?何度、石を投げられた?何度、脅かされた?何度、涙を呑んだ?何度、殺そうと思った?」

 思い出すな思い出すな思い出すな。
 あの頃の記憶を掘り起こすな。
 俺は幸せだった。俺は幸せだったんだ。
 余計なことには気を回すな。
 斬撃を繰り返せ。斬撃に没頭しろ。何も考えるな。思い出すな。
 その言葉に耳を貸すな。
 斬撃が止められた。勝手に放ち続けられた斬撃が、クルーゼの光刃(ビームサーベル)で受け止められた。
 眼と眼が合った――濁り切った瞳(碧)と澄み切った瞳(朱)。
 瞳を逸らしたい、なのに魅入ったように眼が離せない。
 ■■が――“恐怖”が、全てを濁った黒に染め上げる。

「マユ・アスカとの思い出だろう……しっかりと、思い出すんだ、シン・アスカ。」

 その名前が閉じられた最後の扉に亀裂を生む。
 記憶が逆流する。火花が散った。

 ――いたいよ、おにいちゃん
 剣を振るえ。

 ――おにいちゃん、どうして、みんなわたしたちをいじめるの?
 剣を振るえ。
 
 ――おにいちゃん、びょうきってわたしたちが起こしたの?
 剣を振るえ。
 
 ――どうして、みんな、わたしたちが、きらいなの?
 記憶の奔流が始まる。閉じていた、無かったことにしていた記憶が流れ出る/剣を振るえ。

「エイプリルフールクライシス。人類が引き起こした未曾有の大災害。世界全てを巻き込んだ戦争が“加熱した”原因の一つだ。よく、覚えているだろう?君はそれからずっと辛い思いをしていたのだから。」

 我武者羅に振るわれた大剣を軽く、受け止められた。その口調はまるで、その頃の自分を知っているかの如く。
 そして、その言葉の通り、自分たちはずっと辛い思いをしてきた。コーディネイターは全ての場所で災厄を受けていたから。

 ――他の国と違ってその法と理念さえ守れば僕たちコーディネイターでもちゃんと受け入れてくれるからであって、父さんも母さんもそこが気に入ってこの国に来た。
 そう、他の国ではコーディネイターを受け入れてはくれなかった。
 C.E.54年に発生したS型インフルエンザの突然変異――S2型インフルエンザウイルスは従来のワクチンがまるで効かない悪夢のような疫病だった。世界各地で多数の死者を出た。け
れどナチュラルには多数の死者が出たのに対して、コーディネイターに死者はいなかった。
 世界中が疑った。S2型インフルエンザウイルスの蔓延はコーディネイターが行った、ジョージ・グレン暗殺に対する報復及びナチュラル殲滅のために行った作戦ではないのかと。
 疑念は消えない。
 コーディネイターであると言うだけで自分達はどこに行っても迫害された――思えば、子供の迫害というのは無邪気な分、大人よりも酷いのだろう。
 無視された。ノートをカッターで破り捨てられた。内履きを捨てられた。水を掛けられた。石を投げられた。両親に助けを求めた。両親も疲れていた。マユが虐められていた。殴り返したら、大人がやってきて殴り返された。数え上げれば切りがないほどに何度も何度も虐められた。どこに行っても同じだった。学校や友達、先生は自分とマユにとっては恐怖の対象でしかなかった。

「何度蔑まれた?何度嗤われた?何度殴られた?そうだ、思い出せ、シン・アスカ。君は“迫害”されていた――嫌われ者だっただろう?」

 返す言葉はどこにもない。事実だから、一から十まで全てが事実で否定しようがない。
 怖かった。周りが、大人が、自分たちを囲む世界が。
 いつも二人でいた。両親は仕事で帰りが遅かった。両親も疲れていた。

 一緒に料理を食べた――マユが泣かないようにと頑張れた。
 一緒に学校に行った――マユを泣かされないようにと頑張れた。
 いつも一緒にいた――いつもマユだけを気にしていた。
 
 そうやって生きてきた。
 周りからは異常なほどに仲の良い兄妹に見えていたかもしれない――半分は正解で半分は間違いだ。
 お互いに、お互いしかいなかった。家族愛というよりも依存に近い関係だったのだと思う。それが鬱陶しくなかったかと言われると嘘だ。
 だけど、仕方なかった。
 自分は兄で、マユには自分しかいなくて、周りは敵だらけで、だから――オーブの話を聞いた時、信じられなかった。そんな“天国”がこの世にあるなんて思わなかったから。

「その果てに君達、家族はオーブに住むことになった。思い出すんだ、シン・アスカ。君は確かにその時、幸せだった。」

 オーブは良い国だった。コーディネイターを差別しない、それだけで本当に素晴らしかった。
 初めて友達が出来た。恐怖することは無くなった。
 先生とも話をするようになった。大人は怖いものではないと知った。
 学校に行くのが楽しかった。学校が怖くなくなった。

 ――マユにも友達が出来た。学校が楽しいと言っていた。ようやく離れることが出来た――少しだけそれが嬉しかった。
 けれど、現実は残酷で、自分達は無力で。

「けれど、君は奪われた。全てを。――君の幸せは一年も保たなかった。思い出せ、シン・アスカ。君はその時、何を見た?」

 右手しか、見えなかった。
 胴体しか、見えなかった。
 左足しか、見えなかった。
 肉片しか、見えなかった。
 原型など、何処にも無かった

『……マ、ユ…?』

 呪いの言葉。
 死んだ。死んだ。死んだ。
 守れなかった――盾になることも出来なかった。
 離れたせいで、自分が“一人”でいることを喜んだせいで。
 妹(マユ)は、父は、母は、家族が肉片に成り下がった。
 焼け焦げた丘。地面から伸びる数多の死体。
 空には蒼穹の鎧騎士(モビルスーツ)。
 憎悪と共に気付くことがあった。それは――“力”だった。
 全てを一瞬で激変させ、覆す自由の翼。
 コーディネイターやナチュラルという枠組みなど簡単に吹き飛ばす暴虐とも言える圧倒的な“力”。

 ――欲しい、と思った。あんな力が、欲しいと。
 
 自分達を苦しめる奴ら。
 自分達を殺した奴ら。
 自分達を嗤う奴ら。
 自分達を捨てた奴ら。
 その全てが憎かった。
 
 そいつらがいなければオーブになど来なかった。
 そいつらがいなければオーブは攻められなかった。
 そいつらがいなければ自分達は苦しまなかった。
 そいつらがいなければ理念の為に民を見殺しにするなんてことはなかった。

 力が、欲しい、と思った。
 その全てを覆す圧倒的で究極の絶対足る力。
 世界全てを焦土に導いても、お釣りが来るような悪魔じみた力。
 そんな圧倒的な力が欲しかった。
 そう、あの蒼穹の鎧騎士(モビルスーツ)のような――

 ――剣戟が止まる。勝手に動いていた身体が止まった。
 “思い出した”から。
 シン・アスカが、今のシン・アスカになった本当の原点を。

「……ようやく、思い出したかい?君はね、そういう人間なのさ。守りたいんじゃない……君は、“仕返し”したいのさ。」
「……れ」
「そんな君が何かを守ることなど出来る訳が無い。君は英雄でもなければ正義の味方でもない。君はね、シン・アスカ。復讐も失敗して、仕返しも出来ずに、ただ言われるままに餌
をもらって生き続ける――負け犬だ。」

 硝子(ココロ)が割れた。大切な何かが砕け散った。
 全身から力が抜ける――寸前、で、硝子(ココロ)の奥底で“何か”が、膝を付くことを拒否した。
 自分でも理解出来ない得体の知れない奥底で――何かが抗い続けていた。
 その何かが何なのか、それは自分には一切理解できない事柄だけど。

「――ま、れ」
 
 剣を振るった。

「黙れ……!!」

 身体は自動的に斬撃を繰り返す。

「守ると嘯いて、本当は仕返しがしたいだけなんだろう?」
 
 弾かれた。構うな。繰り返す。

「黙れ、黙れ…!!」

 斬撃を繰り返す。

「誰かを守るだと?キミが?守ると言う意味をも知らぬキミが?ザフトを私欲で利用した私と同じキミが?」

 斬撃を繰り返す。その全てを弾き返される。

「黙れええええ!!!!」

 斬撃を繰り返す。繰り返す。繰り返す。繰り返す、繰り返す繰り返す繰り返す繰り返す繰り返す繰り返す繰り返す――。

「エリオ・モンディアルが言ったろう、君は何も守れないと。」

 クルーゼが手に持つ太鼓の撥(バチ)のような柄、その両端から光刃が現れる。
 ココロが疼く。自分から全てを奪った、自分の価値を叩き潰した――インフィニットジャスティスやストライクフリーダムも用いていたカタチ。
 一方が大剣を弾き、残ったもう一方が左脇腹から右肩を一直線に切り裂いた。
 膝が折れ、地面に付こうとする。死なないはずの身体が死に近づいていくのを感じる。先ほどの打撃の影響なのか――朦朧とした意識では何も考えられない。
 糸が切れた操り人形のように身体が倒れていく。

「寝るには、まだ早いぞ、シン・アスカ?」
「だ、ま……れええええぇえええ!!!!」

 声を枯らすほどに、命を全て吐き出すように絶叫。弾かれた大剣を再度振り被った。
 がきん、と刃金が弾かれた。その事実に唇を噛み切って不甲斐なさを堪える。
 ここまで、何百、下手をすれば千にも届かんばかりの勢いで斬撃を繰り返した。非殺傷設定を伴わない斬撃の威力は人一人を殺すには十分過ぎるほどの威力であり、速度は目にも映らな
い程の超高速。
 なのに、その一撃は一度足りとも届かない。

(何で、何で、何で、何で……!?)

 恐慌する心。
 全ての攻撃がクルーゼの光刃に吸い込まれていく。どこをどう狙って、どんなフェイントを掛けようと、全ての攻撃をクルーゼに受け止められる。
 ココロを覆う恐怖は自分自身と向き合う恐怖とは別にもう一つ。

 これまで、シン・アスカと言う人間は戦闘において一度足りとも恐怖と言うものをしたことはなかった。
 それはCEにいた頃からずっとだ。
 恐怖する間など一度も無かった。
 吹き上がる憤怒がそれら全てを押し流し、恐怖を感じると言う機能を“殺して”いたのだから。
 
 初めての実戦――恐怖を感じる前に戦争への怒りが在った。それから先の実戦はアスハへの怒りと自分自身への情けなさへの怒りが在った。
 憤怒は消えることなく続いた。
 
 ステラ・ルーシェを殺されたことへの怒り。
 アスラン・ザラが自分自身を裏切ったことへの怒り。
 戦争を食い物にすると言うロゴスと言う存在そのものへの怒り。
 訳の分からないことを言って自分達に敵対するラクス・クライン一派への怒り。
 そして、戦後は何も出来なかった自分自身の無力への怒り。
 
 憤怒は恐怖をかき消した。これは紛うこともない事実だ。
 だが――通常はそうなったとしてもどこかで恐怖を取り戻す。圧倒的な実力差、戦力差。そういった圧倒的な外的要因を前にすることで。
 だが、不運なことに彼にはそんな機会が一度も無かった。

 シン・アスカの戦闘能力とはそれほどに卓越していたからだ。
 確かにシン・アスカはアスラン・ザラに完膚なきまでに、無様に敗北した。
 だが、それは圧倒的な実力差によって何をすることも出来ずに敗北した訳ではなく、順当な実力差の結果としての敗北だった。
 少なくとも、こんな全ての攻撃と言う攻撃を簡単に受け止められ、嘲られ、“遊ばれる”ようなことは一度も無かった。そんなことが出来る人間はどこにもいなかった。

 憤怒がシンから恐怖を奪い、その結果彼から恐怖を乗り越えると言うことを失わせた。
 だから、シンはクルーゼに恐怖する。
 これまで経験したことの無い圧倒的な差を感じて。何をしても意味が無い。何をしたとしても届かない諦観に身を委ねてしまいそうで。

「そんな程度では何も守れないなあ、シン・アスカ。」
「うわぁぁああぁあああああああ!!!」

 再度絶叫。ただ恐怖に抗う為だけに自身を鼓舞する雄叫び。そうでもしなければ、その青い瞳に飲み込まれてしまいそうだった。
 身体が軋む。一撃を振るう度に肉体が壊れていく。鈍化した身体再生。

「痛いだろう?苦しいだろう?」

 呟きとともにクルーゼの左足が跳ね上り、シンの左腹部に命中――左回し蹴り。全身を遅滞なく連動させた一撃。血を吐き出しながら吹き飛んだ。地面に手をつき直ぐに立ち上がり、
斬撃に縋りつく。

「どうして再生しないか不思議かね?」

 聞こえてくる声はもう頭に入らない。ただ、思考を停止して自動的に斬撃に縋りつく――それが決して届かないと知りつつ。

「キミの力は全てを奪い自分のモノとする力だ……だが、その力の根幹には何がある?これまで君が何度も何度も何度も化け物のように再生してきた陰には何があった?」

 斬撃に縋りつく。そうしなければ恐怖に飲み込まれて二度と立ち上がれない気がする。

「キミの力は、キミの意思に呼応して、キミを戦わせてきた。キミの願いを叶えるという“本質”の通りに。」

 何も聞こえない。耳はすでに機能していない。斬れ、斬れ、斬れ。

「だが、今、身体の再生が鈍化した。何故か?キミ自身、気付いているからさ。そんな願いは初めから嘘だったと。」

 縋り付いた斬撃を弾かれた。
 クルーゼの右拳が唸る。殴られた――後方に吹き飛んだ。
 地面を転がりながらも立ち上がり、即座に斬撃を繰り返す。何度も何度も、無駄だと知りつつ繰り返す。心はとうの昔に折れている。闘っている理由などすでに分からない。

「嘘で固められた願い。借り物の力、偽物の力。嘘で塗り潰されたキミの人生。さて、ならばキミの真実(ホントウ)はどこにある?」

 こちらの斬撃を潜り抜け、クルーゼの右掌が再度、腹部に添えられた。
 ――背筋に怖気。先ほどの衝撃が脳裏を巡る。咄嗟に身体を捻って、その一撃を避けようとする。だが、間に合わない。

 銃弾の発射のような音を放つ踏み込み。身体を貫く砲弾の衝撃。
 成す術なく吹き飛び、ゴロゴロと地面を転がり、再度立ち上がる。
 膝は笑い、全身は傷だらけ、損傷のない個所などどこにもない。口から血が毀れている。
 痛む身体を無視して――違う。痛みを感じる機能は全てトンでいる。何も分からない。ただ斬撃を振るうことだけに縋りつく。

「…これも、キミと同じく借り物の力だ。自分自身の力ではない……実際、便利だと思わないか、シン・アスカ?魔法はキミや私のような凡人を天才に変えてくれる。」

 聞こえない。何を言っているのかわからない。だから、斬撃を振るう為に動く。自分に出来ることをただやり続ける。

「達人の技能を肉体に定着させる……正規の魔法ではないが、キミや私のような白兵戦の素人を達人に変えるのだからな。大したものだ。借り物とはいえ、こんな力が手に入るのならば夢を見るのも道理だろうさ。」

 意識が朦朧とする。身体に力が入らない。弾丸のようだった斬撃はすでに見る影もない。ただ振るった。振るい続けた。

「もう一つ、教えておこう。私にキミの一撃は届かない。」

 斬撃を弾かれ、無造作に蹴られた。力の入らない身体は堪えることもなく、地面を転がる。大剣を杖に立ち上がった。
 口は開きっぱなし。口から毀れる粘性の液体が涎なのか、血なのかすら定かではない。
 気にすることなく、剣を振るう。ただ、それだけの機能をもった機械のように。

「キミが初めて誰かを守ろうとしたあの日からずっと私はキミを見てきた。ギンガ・ナカジマとの模擬戦も、機動六課での模擬戦も、トーレとの戦いも、エリオ・モンディアルとの戦いも、
その全てを何度も何度も何度も何度も何度も見てきた。キミとの殺し合いを願わない日はなかった。どんな時でも私は頭の片隅でキミとの殺し合いを想ってきた。殺し合うことになっ
た時どうしたら愉しめるか、どうしたら殺せるか。それだけを考えて――あの日からずっと夢の中でも殺し合いをするほどにね。」

 クルーゼが続ける。光刃を振るってこちらの斬撃を弾くのも忘れはしない。

「実際、エリオと私が戦えば確実にエリオが勝つだろう。そして私よりも強いあのことキミが戦えばいい勝負をするだろう。」

 弾かれる。立ち上がる。弾かれる。立ち上がる。繰り返される反復作業。

「私の性能はキミら二人には遠く及ばない。けれど、私はキミになら勝てる。キミの攻撃は全て読み切れるし、その速度も威力も角度もタイミングも全てが感じ取れる。どんな早く動こうとも同じことだ。絶対にキミの攻撃が私に届くことはない。」

 再度鍔迫り合い。距離が近い。息がかかる距離。
 霞んだ視界はそんな全てを虚ろに変える。何も聞こえない。そんな余裕は一つもない。
 聴覚を切って、触覚を切って、痛覚を切って、思考を切って、視覚と斬撃にだけ肉体が連結する。

「……聞こえていないか。だが、人の助言は聞いておくものだぞ、シン・アスカ。」

 剣戟が再開する――もはや剣戟と言う言葉など似合わないただの刃のぶつけ合い。
 達人の域にまで達した足さばきも身体操法も全てが剥げ落ち、斬撃を振るうのはシン・アスカの力と技術だけ。
 借り物が剥げ落ち残されたのは無様でみっともない素人じみた斬撃。
 その斬撃を微笑みながら捌いて、クルーゼは言葉を続ける。

「これから何度も私はキミの前に立ち塞がる……いや、キミが私の前に立ち塞がることになるとも言えるのか?どちらにしろ、今のキミでは何をどうしようとも私には届かない。そして、今と同じような成長をしたところで同じだ。そんな誤差など初めから織り込み済みだ。」


 斬撃を弾き、こちらの胸倉を掴み、周りを見渡し、手近な瓦礫を見つける――鉄筋の突き出たコンクリートの欠片。激突すれば死ぬ。もしくは致命傷は確実。
 クルーゼが愉しげに口を開いた。


「だから、私を殺したいのならな、シン・アスカ……今のキミなど歯牙にもかけない真実(ホントウ)を見つけて、劇的な変化をすることだ。私が想像もつかないような変化をな。」


 力がかかった。ぶん、と風を切る音。
 力の入らない身体は塵芥のようにして吹き飛んでいく――身体が回転し、こちらに突き出た鉄筋を見た。
 頭蓋骨を突き破り、貫通し、確実な死を約束する。回避しようにも身体は動かない。魔法を使おうにもそんな力は既に無い。
 脳漿をぶちまけて死ぬ。血反吐を吐いて死ぬ。
 そう思うと、すんなりと諦めて、瞳を閉じた。
 恐らく即座に来るであろう痛みを堪える為に――けれど、次瞬感じたのは鉄筋の尖った感触ではなく柔らかくて暖かいヒトの感触。その次に衝撃。
 衝撃は柔らかな感触のせいか、それほど大きくは感じない――まるで誰かに抱き締められているかのように。昔、抱いた彼女(ルナマリア)を思い出させる。
 怪訝に思って、瞳を開けた。
 見えたのは、青ざめた顔をして、自分を抱き締める女。
 ドゥーエ――フェスラ・リコルディとして、信じていた女の顔。

「……な…んで…?」

 見える表情は青ざめて、彼女の肩が震えている。

「……わ、た、し…どう、して……」
「く、くくくく……どうやら、とうとう、乖離できなくなってしまったようだな、ドゥーエ?」

 カツカツと歩きながらクルーゼが近づく。
 ドゥーエがそちらを見た。瞳に映るのは困惑と恐慌。

「その男が死ぬのを見て、我慢出来なかったのだろう?キミが侵されている証じゃないか。」

 嗤いながら、クルーゼが近づく。歩くごとに全身を甲冑が覆っていく。それまでのような半人半機ではない、純白の鎧騎士へと。
 クルーゼがこちらを、“見下ろした”。優しく、ゆっくりと、そしてしっかり自分の耳に届くように。

「順番が変わるが…まあ、いい。では、始めようか、レイ。始まりの終わりを。」

 クルーゼが、言葉を放った。

『あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙。』

 レイの顔は見えない。口に差し込まれていくチューブ。紅い液体が流れ込む。
 レジェンドが動く。
 方々に散って行ったドラグーンが瞬く間に戻り、その数を増やしていく――砲口は全てこちらに向いている。灯る光は紅色。全てを焼き尽くす業火の紅。
 クルーゼが右手に銃を顕現した――恐らくはビームライフル。人一人を消し炭にするには十分過ぎるほどの兵器。
 優しく、笑顔で呟いた。

「――まずはそこのドゥーエを殺し、次に機動六課の人間。最後はキミ自身だ。」
『あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙。』

 クルーゼのビームライフルに紅い光が灯る。
 身体はそれを見ても動かない。
 ドゥーエはただただ呆然と自分を抱き締めたまま動かない。
 炎が、光が、紅が、視界を染め上げ、顔を照らし、全てを隠し――熱量を感じた。
 ビームで焼かれたことは一度も無いが、少なくとも生きていられることはない。死ぬことは間違いない。
 クルーゼの照準はおそらくドゥーエの顔面――構えている態勢から当てずっぽうで読み取った。

 ……ココロの中に何かがあった。
 
 守りたい人間などここにはいない――だけど、自分を守ってくれた人間がここにいる。
 呪いのようにこの身を縛り付ける鎖(ネガイ)。
 光が放たれる。

「…し、ん…?」

 ドゥーエの胸から顔を離し、デスティニーを杖代わりに立ち上がると目前で輝く紅い光を見た。
 足に力は入らない。腕も同じく、それどころか身体中のどこにも力は入らない。
 なのに、どうして立ち上がったのか。
 分からない。胡乱な頭はそんなことを考える余裕を許さない。

「ぱ、るま――」

 立ち上がった右手に魔力を集中。この世界に来て、ただ一つ得た魔法。
 魔力を収束し、炎に変換し、放つ、ただそれだけの単純な魔法。
 瞳は虚ろ。本当は自分が何を撃とうとしているのかなんて理解出来ていない。
 だから、他の魔法は使えない。デスティニーへ放つ意思が無くては魔法を使用することなど出来はしない。
 だから、撃てるのは借り物ではない、自分自身が得たこの魔法だけ。

「まるで病気だな、キミの願いは。」

 クルーゼの呟き。辛辣な言葉に比べて口調はどこか憐れみすら忍ばせている。

「ならば、諸共に終われ、シン・アスカ。キミを殺しては計画は上手くいかなくなるが、それは、それで愉しめるだろうからな。」

 呟きと共に紅い閃光が放たれた。
 タイミングはこちらが魔法を放つ一瞬前――光が全てを掻き消していく。紅く染まる視界。焼けていく地面。数瞬後には髪一つ残らない自分。
 膝が折れた。右手を突き出した態勢のまま、前のめりに倒れていく。

 ――守れない。最悪だった。最低だった。無力だった。無様だった。
 
 せめて、最後まで抗い続けよう。
 そう思って、瞳だけは逸らさずに折れた膝に力を込めて、倒れることを拒否した。意味は無い。あったのは意地だけだった。

「……ご、めん……ふた、りとも。」

 口を吐いて出た言葉。その二人が誰なのか――考えるまでもない。
 それはもうどこにもいない彼女たちへの謝罪。謝罪の意味は分からない。
 守れなかったことへの謝罪なのか、それとも自分が関わってしまったことへの謝罪なのか――それとも告白に返事をしなかったことへの謝罪なのか。
 多分、その全てになのだろう。発作のように放たれた言葉に意味は無い。
 
 終りが迫る。
 3秒経った/終わらない。
 6秒経った/終わらない。
 9秒経った/終わらない。
 
 ――意識がある。死んだことは無いから、わからないが……死ぬ寸前の苦しみというのは死んでも継続するモノなのだろうか。
 だとしたら、ふざけた話だ。
 死んでも楽になれないなんていうのは――

「――勝手に死ぬな。それと男が簡単に謝るな。」

 声が、した。それはシン・アスカの想像の外側。絶対にこの場にはいない人。いるはずのない女。
 空耳だ。そう思って、瞳を閉じ――

「キミは何にも悪くない――キミには謝る必要なんてないんや。」

 “声が”した。今度ははっきりと、確実に。
 目を向けた。そこに――信じられない人を見つけた。茶色い髪の女が右手に杖を持って、自分を守るようにして立ち塞がっていた。

「八神…はや、て……?」

 顔が見えない。背中だけをこちらに向けている。
 迫り来る紅い光に向けて、杖を伸ばし――その先には白く輝く障壁。鬩ぎ合う白と紅。
 スカートは切れ目が入って太股が露になり、来ているワイシャツは既に傷だらけで汗まみれの泥まみれ。
 みすぼらしさすら漂わせる、その姿。いつも通りの凛とした風体はそこにない。
 意味が分からない。
 なんで、この女がここにいるのか。
 ここにはいないはずなのに、だから自分は安心して死ねると思って、ここにいるのに。
 顔は見えない。見えるのは背中だけ。
 小柄な彼女の体躯と同じく小さな背中――けれど、何故かその背中を大きく感じた。
 これまで見てきた誰よりも、何よりも、大きな背中に見えた。

「……あの時の借りを返しに来たのかな、八神はやて?」
「私は私のモノを取り戻しに来ただけや……こいつをここで死なせる訳にはいかんからなあ!!」

 叫びと共に魔力集中。
 障壁の輝きが増していく。
 白く、大きく、強く。クルーゼの放ったビームライフルの輝きを掻き消し飲み込んでいく白い輝き――それを見て、クルーゼが嗤った。呟く。

「レイ、撃て。」
『あ゙』

 パキン、とレイの身体から生える紅い結晶――レリック。
 ドラグーンがその砲口を全て彼女に向けた。灯る光は全てを焼き尽くす滅びの紅。

『あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!』
「――さて、今度はあの時よりも楽しませてくれよ、八神はやて?」

 クルーゼの呟きと共に放たれる紅い光条――数は23。威力は全て地面を融解させるほどの熱量とビルを吹き飛ばすほどの衝撃。障壁に迫る。

「に、げろ。」

 掠れた声しか出ない。声帯が死に掛けてまともな声など出そうに無い。
 彼女が振り返った。微笑みながら呟く。

「……大丈夫、安心するんや。」

 声の調子は優しげで、けれどもその声音は力強さを感じさせる。
 目前に立つ敵は強大だ。人が敵う道理は無い。魔導師と言う規格外とてその理からは逃れられない。
 ましてや彼女は戦闘に長けてはいない。こんな戦闘の矢面にいるべき人間では無い。
 ならば、どうして、そんな声を出せるのか。どうして、そんな風に力強く笑えるのか。

「――キミは必ず私が守ったげるから。」

 ドクン、と心臓が鼓動した。血流が加速した。胡乱な意識がはっきりとしていく。
 彼女が前を見た。顔が見えなくなった。見えるものは背中だけ――彼女は自分を守ろうとしている。
 
 ドゥーエに守られた。
 自分を騙し続けた彼女が自分を守った理由は理解出来ない。むしろ、そんな理由に至るほど思考は出来ない。

 八神はやてに守られた。
 勝手に死ぬなという言葉の意味はよく理解出来ないが、理解など想像の埒外だ。
 自分を利用し続けた彼女が身を張って守ろうとする理由など理解できるはずもない。

(だ、めだ)


 障壁にヒビが入る。壊れていく。
 八神はやてが叫んだ。魔力が注ぎ込まれ、障壁が再び形作られていく。
 それを見て、身体が動いた。大剣を杖に笑う膝に全霊の力を込めて立ち上がる。


「まだまだ……終わりには程遠いぞ、八神はやて?」


 嗤う仮面の男。その声を聞くだけで身体が止まる。ココロが折れる。
 怖い。怖い。どうしようも無いほどに怖い。
 何をしても無駄だと、何をしても意味が無いと。
 ココロは既に折れている。
 このまま、ここで寝ていればいい。別に抗う必要はどこにも無い。シン・アスカはそれでいい。そうやって死んでしまっても構わない――だけど、

「……まも、らなく、ちゃ」

 ――守られた。だから、お返しとして守らなくっちゃならない。
 そこにどんな理由があろうと守られたことは事実なのだから。
 だから、守ろう。守りたいモノなどもう在りはしないけれど――守れなかった後悔だけはしたくないから。
 
 だから、この二人を死なせる訳にはいかない。
 届かないなら――振り絞るだけだ。せめて一度くらいは届くことを願って。
 
 一歩一歩歩きながら、障壁を張り続ける彼女に近づき、彼女のワイシャツの首根っこを掴み、思いっきり、残った力を振り絞って、後方に投げ飛ばす。

「なっ!?シン…!?」

 はやてが声を上げた。答える余裕は無い。右手に魔力を収束。全力全開。命を込めろ。

「パルマ――」

 意識は未だに胡乱なまま。自分が何をしているかはよく分かっていない。分かっているのは唯一つ。守ること。少なくとも目に映る誰かを――この手が届く誰かを。

「フィオ」

 デスティニーが蒼く輝く。
 その中に内蔵された“願いを叶える宝石(ジュエルシード)”の本質の通りに。
 
 ――願い(ノロイ)を叶える為に。

「キーナアアアアアアア!!!!!」

 命を込めた絶叫。後先など考えるな。
 朱い光が迸る――これまでで最も朱く、強く、大きく、禍々しく。

「ああああああああ!!!!」

 障壁が消える――ぱりん、と音がした/光条が、熱量が、衝撃が、全てを染め上げる。
 左手に掴んだデスティニーの輝きが更に強まる。糸が伸びる。周辺に存在する全てに群がり、繋がり、搾取し、砂塵に変えて、右手に全てが流れ込んでいく。
 光条が迫る。熱量が増加する。右手から迸る朱い光の奔流――足りない。もっと、もっと、もっと。

「そんなものか?」

 クルーゼが嗤い呟く。その嗤いだけでココロが折れそうになる――何も考えるな。後先を考えるな。
 周辺一帯からの搾取では足りない――なら、どうする。後方にいる八神はやてが何事か叫んでいる。ドゥーエはただ茫然とこちらを見ている。

 死なせない。守る。
 キミを守ったげる、とあの女は言った。
 違う。守るのは自分だ。守って死んでいくのは自分であるべきだ。
 だから、全部投げ捨てろ。
 自分の命などどうなっても構わない。
 ここで死ぬのは初めからの予定通り。誰かを守って死ねるなら――そんな本望は無い。

「ああああああああ!!!!」

 放つ魔力量が限界を超えて、右手の血管が千切れていく。
 熱量が迫る。
 自分の放つ魔法では押し留められない。
 意味がない。無意味だ。死ぬ。全部死ぬ。守れずに死ぬ。無様に死ぬ。
 奥歯を噛み締めた。杖にした大剣の柄を強く握り締める。
 青い輝きを放つ大剣(アロンダイト)の輝きは鈍らない。むしろ先ほどよりも輝きは強まっている。
 それでも光熱波は止まらない。全てを焼き尽くすために突き進む。

「終わりだ。」
「ああああああああああ!!!!」

 絶叫は止まらない。声が掠れる。喉が潰れた。
 お構いなしに絶叫は続く。パルマフィオキーナの勢いが加速し、巨大化していく。周囲では足りない。だから自分の命を注ぎ込む。

「が、ぶ」

 吐血した。
 胸の奥から何かが右腕に注ぎ込まれていく錯覚――恐らくは現実。右腕の感覚が充実していく――命が注ぎ込まれていく。
 吹き飛ばされないようにと大剣を強く握り締めた。輝きが強くなる。
 鬩ぎ合う朱と紅。そして朱に寄り添う青。
 青い輝きが握りしめるシンの左手に移っていく。
 曲線を用いない直線のみの文様――電気回路の如く左手を侵食し、腕を染め上げ、肩、身体、右腕へと伸びていき、そして、右掌へと到達する。右掌の中心が疼き始める。
 放ち続ける炎熱波に陰りは無い。それでもレジェンドとクルーゼの放った光熱波は止まらない。
 どの道、人一人でどうにかできるようなものではない――そんなことを考える余裕は当の昔に消えている。頭の中にあるのは守ること。ただ、それだけ。

 それでも止められない。押し込まれていく。光熱波との距離は既に2mもない。
 指先に熱を感じる。爪が剥がれ、皮が焼け爛れていく。光熱波が近づいた影響だ。
 押し込まれる速度は秒間に10cmほど。あと20秒もしない内に身体は焼失し、シン・アスカはそこで終わる。

(ちく、しょお。)

 声を出す力も無い。膝が落ちる。肉体が動きを止める。
 その時、気づいた。デスティニーから伸びる青い輝きが右手に寄り集まっていることに。

(こ、れは)
「……どうやら、始まったようだな。」

 クルーゼの呟き。思案するようにこちらを――否、右手を見る。
 パキパキと音を出して右手に朱い結晶が生えていく。
 生えるたびに自分が何か別のモノになっていくのを感じ取る。
 皮膚の表面に現れると言うよりも、目に見えないほど微細な皮膚の隙間から生えていくという感覚。レイの身体――その足から生えていた紅い結晶と同じモノ。

「な、ん……だ?」

 変化はそれだけに留まらない――それだけで終わるはずもない。これは“始まり”だからだ。本当の変化はここからなのだから。

 無限の欲望と呼ばれる存在。羽鯨にとって最良の餌であり、餌場への道標でもある存在。
 彼らはその身に羽鯨の力を宿す。ジェイル・スカリエッティであれば目に、シン・アスカであれば右掌に。
 その力は比類ないほどに絶大だ。そして、その力の使用条件も強大すぎる力に反して非常に緩い。
 力を使うためのただ一つの条件――それは渇望だ。力が欲しい、と願うこと。ただそれだけ。
 つい先ほどまでのシン・アスカは“満足”していた。手に入れた力に満足し、その条件を満たしていなかった。
 だが――今のシン・アスカは違う。彼は、今、力を渇望している。目前に迫り来る脅威。それを打破する為に。
 その渇望はこれまでよりもはるかに大きく、そして遥かに切実だ。

 すでに死んでしまった誰かの復讐ではなく、これから誰かが死にゆくことへの反逆なのだから当然とも言える。
 そして、渇望が大きければ大きいほど引き出される力は強大となり、その身に宿る羽鯨の力も大きくなり、羽鯨との繋がりが強くなっていく――その身に、羽鯨を顕現させるほどに。
 右腕に“金色の眼”が開いた。
 結晶の隙間から外側を覗くように、腕の肉のさらに内側からまるで初めから眼が合ったようにして。
 そしてそれに伴って腕から“金色の羽”が生え出した。
 翼という類ではなく単なる羽。羽は樹木の枝のようにして腕を苗床に伸びていく。
 同時にパルマフィオキーナの熱量と大きさが加速度的に高まっていく。
 高まった威力に釣られて空気が帯電し、暴風が吹き荒れる。光熱波を掻き消していく炎熱。

 訳が分からないことは幾つもあった。
 自分がこの世界に来たこと。
 自分に与えられた不可思議で強大な力。
 無意味に死んでいった二人の女性。
 姿かたちを変えられて自分たちを裏切った少年。
 壊されて原型を失くした親友。
 親友と同じ顔をした仮面の男。
 
 けれど、これはそれまでの何よりも訳が分からなかった。
 そして、変化はそれに留まらない。今度は外界の変化――自分の右腕が呼び水となってその変化を促し出す。
 朱い結晶が全て砕け散った――風が吹いた。上空の一点に向かって朱い結晶の塵が吸い込まれていく。
 そして、その一点から金色の雪――それが雪なのかは定かでは無い。
 だが、主観的に言えばそれは雪だった。
 少なくとも形状は雪そのもの。
 はらはらと、舞い落ちる金色の雪。異界に迷い込んでしまったのかと錯覚するほどに幻想的な風景。

【おおおおおおおおおおおん】
「あがっ!?」

 耳に届く巨大な声。空気が震動し、魂に直接叩きつけられるような巨大な声。声が収まる。

「ようやく、現れたな、羽鯨。」

 クルーゼが呟き、空を見上げた。
 八神はやての視線も、シン・アスカの視線も釣られてそちらに向かった。呆然とした二人。
 その後方でドゥーエは悲しげにそれを見ていた。


 その光景を一言で表すなら、“空が、割れた”とでも言うべきなのだろう。
 曇天の空。そこに蜘蛛の巣のように張り巡らされていく“ヒビ”。
 そして、罅割れた先からポロポロと崩れ落ちていく“曇天の空の欠片”。
 あろうことか落ちていく欠片の中では雲が動いている。次元世界間の移動とは根本的に異なる現象。
 
 割れた空。そして、その裂け目から見えるモノ――金色の眼。
 シン・アスカの右腕に現れたモノと同質のモノ。
 大きさは少なく見積もっても数百mをくだらない――下手をすれば数kmあってもおかしくはないほどの大きさ。
 もし、それが生物ならば一体どれほどの大きさなのか。
 目だけで数km。
 どんな生物なのか、どんな形状なのかは定かでは無いがどんなに少なく見積もってもその100倍を下ることは無い――つまり、単純に考えて数百kmと言う途方も無い大きさの生物。
 その生物の瞳と眼があった――何故か、あれは自分を見ているのだと確信があった。胸の奥に沈み込む暗い澱。何も考えられない。

「――。」

 言葉を失っていた。何もかもが理解不能すぎて、思考がオーバーフローを起こしている。
 腕が壊れた。
 自分が何か別のモノになっていった。
 次いで空が割れた。
 現れたのは巨大な眼。
 自分の腕に現れた眼と同じモノ。
 確証はない。そんな証明など誰もやってくれることはない。ただ、漠然と感覚が告げている。アレは同じだと。

 明らかに人間ではない――それどころか本当に生物なのかも疑わしい存在。
 それと同じだと感じ取る自分――ならば自分はいつの間にか人間ですらなくなっていた、ということなのだろうか。

「…なん、や、あれは。」

 八神はやての呆然とした声。光熱波は今も変わらずこちらに向かって突き進み、朱い炎と鬩ぎ合いを続けている。
 瞳を閉じて――開く。

 ――別に自分が人間じゃないとかそんなことはどうだっていいことだ。
 
 守れるなら、その為の力をくれるのなら――悪魔だろうと何だろう構わない。
 シン・アスカがシン・アスカ以外のモノになっていく程度、問題はない。
 右手から噴き出す魔力が跳ね上がる。光熱波を押し返していく炎熱――もはや、それが魔法なのかどうかすら分からない。
 痛みはない。
 痛みの代わりにあるのは自分の中に何かが入り込んでくる快感すら伴う一体感。
 それがおぞましさを更に加速させる。肌が粟立つ。気持ちが悪い。吐き気が酷い。その全てをどうでもいいという虚無だけが押し留める。

「スカリエッティ、準備は整ったぞ。」

 クルーゼの呟きが聞こえた――この期に及んで嗤っている。その事実にはっきりと恐怖を覚えた。


「――了解した。では、ウーノ。始めようか。」

 空の上――成層圏近く。
 蒼い鎧騎士がそこにいた。
 その鎧を纏っているのはジェイル・スカリエッティ。
 ウェポンデバイス・フリーダム――それまでのウェポンデバイスのように融合型ではない、装着型。
 デバイスというよりも強化外骨格という名称が相応しい武装。
 その内部に声が響く。電子の声――彼にとって聞きなれた声。
 
『時空間転移魔法陣起動。対象をシン・アスカの周囲200mに固定――ドゥーエも巻き込まれますが、よろしいのですか?』

 一瞬、間が空いたのは彼女の意思表示の現れだろう。無論、自分とてやりたくはない。親殺しはともかく子殺しというのは後味の悪いものだから。
 だが、それも目的の為に、

 ――犠牲にするさ。当然だろう?
 
 必要だというのならば、

「……仕方ないだろうね。」
『術式起動――時空間転移魔法陣稼動開始』


 その右手に持った撥(バチ)の先から伸びる光刃を中心に魔法陣が広がっていく。
 魔法陣の表面を紫電が走る。紋様は複雑怪奇。ミッド式でもあるようで、ベルカ式でもあるようで――平面的な紋様ではなく、立体的な紋様。
 文字が寄り集まって立体となり、一つの球形の魔方陣を作り上げる。
 その球が寄り集まって更に一つの球形の魔方陣を作り上げ、それが寄り集まり更に――連鎖し、連結して行く球形魔方陣。
 理路整然とした魔法術式ではなく、無造作そのものの支離滅裂とさえ言える術式の姿。
 明らかに現行の魔法とは一線を画している。それはスカリエッティがこの時の為だけに太古から蘇らせた術式。
 
 帯電し、紫に輝く、球形魔法陣によって彩られた螺旋の渦――広がる。広がる。広がる。際限なく広がっていく。
 広がる速度は秒を置いて等比級的に加速する。
 一秒で10m広がっていく速度が、次の一秒では100mに、次の一秒では1000mに、次の一秒では10000mに――ほどなく、それはミッドチルダそのものを覆い尽くすほどの広さへと。

「ウーノ。」
『了解しました。』

 以心伝心。光刃を振り下ろす――魔法陣が降下する。地面まで数秒も掛からず降下。そして、光の柱がミッドチルダの方々で上がり出す。
 ミッドチルダ全域でスカリエッティが行った、もしくは扇動した襲撃、及び突然現れた死者の出現箇所。
 その全てを繋ぐと現れる二重の同心円――魔法陣はそれをなぞっている。

『接続開始。魔力蒐集及び結合開始――終了。』

 光の柱が分解し、砕け散り、光の粒へと変化し、流れていく。

「アクセス。」

 上空から俯瞰するスカリエッティには“その光景”がよく見えていた。
 魔法陣を走る光。それは砕け散り、空を走る光の柱のなれの果て。ミッドチルダに充満する憎悪、悲哀と言った怨念――つまりは負の想念。
 それらが世界を走り、加速し、螺旋を描き、一つところに向けて収束して行く。

『時空間接続開始――座標軸固定。プラス方向7978608000sec。』

 言葉の意味は彼ら以外には誰も知りえない事実。どうして、CEと言う次元世界が見つからないかと言う理由。
 光が収束する。螺旋を描き、世界を満たし、一つところ――シン・アスカに向かって、閉じていく。
 仮面の下の表情は窺い知れない。スカリエッティが何を思い、何を考えているかは誰にも分からない。

「クジラビトはもはや不要だな。」

 放たれた言葉だけが空に消えていった。


 目前で鬩ぎ合う朱と白。そして、上空から降り注ぐ金色の雪と、空を割って現れた巨大な瞳。
 理解出来ない状況には数多く出会ってきたが、これはその中でも極め付けだった。
 無言で魔法を放ち、自分達の前に立ち続けるシン・アスカ。そして、嗤いながら手元の銃から光熱波を放ち続ける仮面の鎧騎士と後方の巨人。

「……ふふ、もう、終わりね。」

 自分の後方でドゥーエが力なく笑う――自嘲の微笑み。全てを諦めた、昔の自分のような微笑み。

「……違うな。これからや。」

 吹き荒れる暴風。紫電が飛び回り地面を抉る。杖を両手で握り締め、地面に突き刺した。風や紫電に吹き飛ばされないように。

「まだ、何にも終わってないんや。」

 そう、呟き、一歩一歩歩き出す――シン・アスカの元へと。
 守る、と言ったのだ。あの男がどう思って、何を考えていようと関係無い。大方、守られてはいけないとかそんなことを考えたのだろう。
 あの男にそういった釘を打ち込んだのは他でも無い自分なのだ――その程度、手に取るように分かる。
 だから、歩く。走れば転んで立ち上がれない。この風の中で一度倒れれば自分立ち上がることなど出来そうにない。
 本来ならこんな状況にはならないはずだった。こんな矢面に立って戦うなど自分の領分では無いからだ。
 予定では背後に辿り着き次第、フレースベルグの全力掃射を相手に気づかれる前に放ち叩き潰す予定だったのだが――殺されそうになっているシン・アスカを見た瞬間、全てが吹き飛んだ。
 守らなければならない、とそう思った。

 ヒーローになれるかもしれない、もしかしたら誰よりもそれに近づけるかもしれない。自分の夢を叶えてくれるかもしれない。そんな男を死なせたくなかったから。
 その結果がこの体たらくだ――だが、だから諦めていい道理にはならない。そんな程度の障害で諦めるような覚悟は既に無い。

「……諦めたらな、そこで終わりなんや。」

 それが見栄だと分かりきっていても、歩みは止めない。死ぬことになっても諦めたくは無い。
 杖を地面に突き刺しながら歩く。近づき、シンの手助けをする為に。ユメを守る為に。絶対に諦めない為に――前に立つ人影。シン・アスカとは違う人影。前を見た。

 ――“元凶”がそこにいた。
 
 全ての始まりの女。自分にとっても、そして恐らくはシンにとっても。

『――そうですね。主は、そういう人だから、私を救ってくれた。』

 声の調子は穏やかで、それはあの時聞いた声とまるで同じ、どこか悲しげで、満足して――

「り、いん……っ!?」

 凄まじい爆音。気がつけば空が白く光っている。周囲を駆け巡る巨大な光。

「今度は、なんや…!?」
『時空間転移です。主はやて。この魔法の完成の為にスカリエッティはシン・アスカを利用した――私が送り込んだシン・アスカを。』

 輝きが更に強くなる。耳をつんざく爆音。その中でリインフォースの声だけが不思議に耳に届く。

『そして、この転移によってこの場にいる人間は全て跳ばされる。シン・アスカの“時代”――コズミックイラへと。そして、羽鯨の餌として彼は消える。』

 輝きが強くなっていく。白で染められた世界。何も見えないほどに、周囲の光景が全て分からない。

『けれど、その結果としてこの場にいる貴方は死んでしまう。私はそれが嫌で変えようとしたと言うのに……因果なものです。貴女がそんな思いを許さない人だってことを失念していました。……だから、私は私の不手際を拭います。』

 悲しげな声。顔は見えない。瞳を閉じても白に染め上げられて何も見えない。

『――生きて、そして此処に帰ってきて、夢を叶えてください。私は貴女の幸せを願っています。』

 輝きの中でリインフォースの魔力が膨れ上がる。

「リイン!?どういうことや、リイン!!リイ……」

 輝きが強まる。意識を押しつぶす光の圧迫感。どこか遠くに飛ばされる――。



『それは、お前には過ぎた力だ。』

 それは不思議な声だった。
 視界は純白に染められ、耳は爆音に埋められ、感じ取れる現実は未だに魔力を放ち続け、快感にも似た一体感を生み出し続ける右手だけ。
 そんな、誰かの声など聞こえるはずもない場所で、“静かに”耳に届く声。
 どこかで聞いたことがある女の声――今の自分にはそれが誰かを思い出すような余裕はない。
 クルーゼの声がした。爆音に遮られて何も聞こえない――はずなのにその声もまた耳に届く。内容はよく理解出来ないけれど。

『――なるほど。キミが来たか。』
『私のことを知っている……なるほど、羽鯨の遺伝子を身体の中に入れたのか。』

 女が呟く。吹き荒れる魔力の奔流、白く染まる輝き、耳を壊す爆音など意にも介さず淡々と。

『ふふ……流石は夜天の書の意思。その程度は見抜けるか。ならば、どうする?場所を変えるか?だが、それではキミの望みとは違い世界は滅ぶぞ?』
『……我が主はそれほど脆弱ではない。同じく、この男もな。』

 右腕に何かが触れた。温かい感触――恐らくは女の手。右腕から生み出され続ける一体感が消えていく。

『――主を頼むぞ、シン・アスカ。』

 声がした。光が輝く。全てが掻き消える。意識が途切れる――。


 立ち昇る光の柱。割れた空の中心に位置する“眼”に向かって伸び、吸い込まれていく。
 輝き、そして――世界が、白く染まった。


 輝きが消え、曇天が空に舞い戻る。
 眼は既に無い。同時に世界は既にいつも通りを取り戻している。
 クルーゼの前には誰もいない。
 シン・アスカも、八神はやても、ドゥーエも、そして――

「……クルーゼ、よろしかったんですの?」

 声。クルーゼのよく知る声。
 振り向く――紫のラバースーツに身を包んだ眼鏡をかけた女性。ナンバーズ・クアットロ。

「よろしいも何も、あの状況では私にやりようなどは無いさ。あの女と戦って勝てるなどと思えるほど私は自分を過大評価は出来ないよ。」

 肩を竦めながら、クルーゼは笑いながら呟く。鎧は既に消している――後方を振り向く。

「…それにレイはあちらについていったようだしね。これはこれで良しとしようじゃないか。」

 後方には既にレジェンドはいない。“彼”の使っていたドラグーン――ガジェットドローンを再構成したモノの残骸だけがあちらこちらに散らばっている。

「帰ってくると思います?」

 クアットロが右手を差し出す。その手に握られているのは先ほど取れた仮面――ラウ・ル・クルーゼがラウ・ル・クルーゼである為の境界線。

「……当然だ。でなければ面白くはないさ。」

 呟きながら、それを手に取り、再び顔につける。
 前を見る――口元に亀裂のような醜悪で邪悪で優美な笑いを浮かべたクアットロがいた。

「それで、これからどうするのかしら?」

 答えなど決まっている。そして、それを知った上で聞いているのだろう。
 滅びにしか辿り着かないこの身体がどんな滅びを生み出すのかが愉しみで堪らない――そんな暝い欲望。

「クジラビトを起動し、“彼女”に対する処置を早める…そして、“準備”を始めよう。」

 言葉を口にした瞬間、胸の奥から湧き上がる情動――胸が熱い。身体が熱い。

「見たいだろう…?この世界が終わる様を、全てが終わる様を、世界が滅びに嘆く様を――キミも見たいだろう?」

 クアットロの金色の瞳と視線が絡まる。刺す様な、それでいて絡みつく蛇のような視線。艶かしさを感じさせる瞳。

「――当然ですわぁ、ディアフレンド。」

 二人の姿が霞んでいく――空気に溶け込んでいくかのように程なく、消えていく。

 ――こうして、物語は“一旦”幕を閉じる。
 
 滅びの幕が上がるまではあと少し。
 月が落ちるまではあと少し。


/預言


 ――その日、預言が新たに記された。
 これはその預言の一節である。


 英雄達は死した王の元に集い、死した王は英雄と死者達と共に戦いに赴く。


 嘆きの雨はそれでも止まない。世界は虚しく崩れ落ち、終末の鯨が世界を喰らい尽くす。


 されど、朱い炎は消えはしない。運命を否定し、その全てを破壊する。


 ――物語は終わらない。その全てを救うまで、物語は終わらない。


/幕間

 そこで、“私”は眼を覚ました。
 起きて直ぐに思ったことは“寂しい”だった。
 何か、頭の奥から大切なモノが抜け落ちたような感覚。
 眼を開けてまず見えたのは瓦礫の山。そして、自分を見下ろす仮面の男。
 どこか、“彼”と似た雰囲気を持つ――そこで首を傾げる。“彼”とは誰だろう。すんなりとその言葉が出てくるのに、それが誰なのか、分からない。

「……起きたようだね。」

 言葉は柔らかく、どこかに刺々しさ――を感じさせる。警戒しているのだろうか。
 無論、そう言っている男の風体も怪しいと言えば怪しすぎる。
 黒いトレンチコートに銀色の仮面。そして、男が背負う蒼い髪の一人の少女――それは見覚えがある少女だった。

「…スバル!?」

 少女の名前はスバル・ナカジマ。機動六課スターズ分隊の一員にして、“自分”の仲間。
 男は笑いながら呟く。

「何、死んではいない……約束でね。彼女を絶対に死なせないようにと預かっているのさ。このまま、安全なところまで連れていこうと思っているんだが……さて、何でキミがここにいるのか、教えてくれないかな、フェイト・T・ハラオウン?」

 仮面の男がどうして自分の名前を知っているのか、怪訝に思った。

 ――その事実に何故か喪失感を覚える。
 
 私の名前はフェイト・T・ハラオウン。
 機動六課ライトニング分隊の隊長にして――未だ、“恋”をしたこともない一人の女だ。



 右腕が痛い。頭が痛い。胸が痛い。右腕がどうしようも無いほどに痛い。
 夢を見た。
 夢の類は悪夢。この身を蝕む悪意そのもの。

 ――君はねえ、シン・アスカ。本当は憧れたのさ。君の家族を薙ぎ払ったモノに。
 黙れ。

 ――エリオ・モンディアルが言ったろう、君は何も守れないと。
 黙れ。
 
 ――だから、私を殺したいのならな、シン・アスカ……今のキミなど歯牙にもかけない真実(ホントウ)を見つけて、劇的な変化をすることだ。私が想像もつかないような変化をな。

 耳を塞いで、もっと深い眠りに落ちる。二度と起きないほどに深い眠りの中へ。
 もう、十分だろう。楽になればいい。
 誰も守れなかった。
 ギンガさんもフェイトさんも八神さんもフェスラも、自分の周りにいた誰かを全て死なせた。守れなかった。
 そうして、最後は自分も死んだ。

 何も出来ずに、誰を守ることも出来ずに、無駄死にした。
 その結果には満足出来ない。
 だけど、それで十分だ。誰かを守って死ねる。
 それだけで十分過ぎる――本当に?

 心のどこかで誰かが呟いた。
 眼を開けた――どこか知らない場所で眠る自分がいた。
 眠る場所はベッド。そこに眠る自分を見下ろしている三人の人間――レイ・ザ・バレル。マユ・アスカ。ステラ・ルーシェ。
 手術台でこれから手術を待つ患者と医者のように彼らは自分を見下ろしている。
 
 自分の罪の具現――守れなかった誰かそのもの。
 彼らは一様に自分を見下ろしている。
 悲しそうに見下ろしている。
 レイが口を開いた。何かを言おうとしているのだろう――けれど、耳が壊れてしまったのか、聞こえない。彼が何を話しているのかも聞こえない。

「――。」

 返事を返そうにも身体はまるで動かない。口も、腕も、足も、どこも動かない。

「――。」

 レイが口を閉じて、瞳を閉じて――開く。ステラとマユに眼を向けた。二人は、悲しそうに、けれどどこか納得したように笑って、頷いた。

「……まだ、何も終わってはいない。“彼女達”はまだ死んではいないのだからな、シン。」

 そんな声が聞こえた――。


 眼が、醒めた。
 起きて直ぐに目に入ったのは桃色の髪の毛――それは、決して忘れられない色合い。

「……あらあら、お目覚めですね、シン?キラ、シンが起きましたわよ……キラ?」

 眠そうな眼をこすりながら現れる、“エリオ・モンディアル”と同じ顔をした男。

「……ああ、シン、起きたんだ。」
「……キラ…ヤマト…?」

 意味が、分からなかった。




[18692] 第三部コズミックイラ飛翔篇 52.始まりはいつも残酷で(a)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/05/30 23:18
 誰も守れないと言われた。
 その言葉に抗って、そして敗れた。
 完膚なきまでに、何をどうしようとも決して勝てないと思い知らされた。
 そして――結果として何も守れなかった。
 あの蒼い長髪の少女も、あの金髪の女性も、茶髪の女性も、自分を騙した女も――自分に関わった全ての人を守れなかった。

 ――守りたいんじゃない……君は、“仕返し”したいのさ。

 その言葉に言い返すことは出来なかった。

 ――そんな君が何かを守ることなど出来る訳が無い。君は英雄でもなければ正義の味方でもない。

 その通りだ。自分が英雄であるはずが無い。正義の味方であるはずがない。

 ――君はね、シン・アスカ。復讐も失敗して、仕返しも出来ずに、ただ言われるままに餌をもらって生き続ける――負け犬だ。

 そうだ。
 だって自分はただの負け犬でしかない。自分はあの日から、ずっと、ただの一度も、誰にも勝ったことの無い負け犬なのだから。

 だが、それでも戦い続けたのは何故なのか。答えを突きつけられて、それでも抗い続けたのは何故なのか。
 ココロは折れて、身体は限界を超えて――それでも、戦い続けたのは一体何のためなのか。

 心の中で燻り続けるモノがあった。
 胸の奥でちらつき続ける二人の笑顔――それがどうしようも無くココロを掻き毟る。それが何を意味するのか、今はまだ分からないけれど。
 それでも、男は走り続ける。昨日を切り捨てられずに前へ前へと駆け抜ける。

 ――これは、己の運命に抗い続ける、一人の男の物語。



 オーブ首長国連邦。
 シン・アスカにとっての故郷――と言うには少しばかり複雑なモノである。
 今の彼にとって全ての始まりの地でもあり、“それまでの彼”にとっては全ての終わりの地でもある場所。
 透き通るような海。茜色の夕日。見慣れた光景――二度と眼にしたくもなかった光景。

「……くそったれ。」

 ふと、向こうを見る。
 凡そ8歳から10歳くらいの子供達――ちょうどマユと同じくらいの年齢――と円を描くように床に座りながら、談笑している青年――キラ・ヤマト。その後ろで柔らかな笑顔で編み物を続ける女性――ラクス・クライン。
 それは信じられない光景だった。少なくとも自分にとっては。
 キラ・ヤマト。そしてラクス・クライン。
 二人はプラントにとって――いや、世界にとって無くてはならない人物だった。少なくとも自分がまだこの世界にいた頃は。
 “あの”戦争で、疲弊し切った世界を導く救世主。実際、この二人の働きは素晴らしいものだった、と思う。


 疲弊し切った世界の舵を取り、世界を復興し、平和への道筋を立て、それを実行した。
 口で言うのは容易い――だが、実際にそれを実行できる人間がどれほどいるだろうか。

 同じくアスラン・ザラやカガリ・ユラ・アスハについてもだ。
 窓から見えるオーブの光景は戦火に見舞われた都市とは思えないほどに復興され、戦前の様子を取り戻している。
 その陰にどれほどの努力が支払われたかは想像に難くない。

 ――その光景自体は予想通りの光景だった。驚いているのはそれほどの結果を導き出した人間が、こんなところに逗留しているという事実にだ。

「……くそったれだな。」
「シン。」

 後方で声――顔だけそちらへ向けた。

「助けてもらっといて、その態度はあかんやろ?」

 優しげで、けれど厳しげな口調――茶色の髪の女性。八神はやて。
 自分の知る彼女とはあまりにも違う口調に少し違和感を感じる。
 本当にこの人が八神はやてという人間なのかすら疑わしい――八神はやてとはもっと硬い人だったから。
 微笑みながら林檎の皮を剥く彼女――これが本当にあの八神はやてなのか、疑いたくなる。
 自分を手駒にするといったあの女と同一人物なのか、と。

「……八神、さん。」

 起き上がろうとする自分の口元に押し当てられる八等分に切り分けられた林檎の一切れ。

「…キミはまだ病み上がりどころか怪我人そのものなんや。今は厚意に甘えて休んどく。ええな?」
「……はい。」

 言い返す言葉はない。暫しの沈黙――黙り込む自分に苦笑しつつ、はやてが自分の元を離れ、向こうに歩いていく。扉が開いた。
 開いた扉の向こうからこちらを見る金色の瞳――フェスラ=ドゥーエ。

「……何、眼、醒めたの。」
「…フェスラ?」

 そこにいたのはナンバーズ・ドゥーエ。自在に顔どころか姿そのものを変化させ、自分を騙し続けた女。
 何故か、その顔は見慣れた顔――ステラ・ルーシェに酷似した顔になっている。
 もう自分を騙す必要などどこにもないというのに。

「…お前、何で。」
「…さあね。此処に来てからずっとこのままよ。」

 そっけなく呟き、彼女は扉を締めた。
 扉を閉める前に見えた背中が小さく見えた――多分それは気のせいでは無いだろう。
 沈黙。閉まった扉。誰もいない。誰も自分を見る人はいない。キラもラクスも子供達もドゥーエもはやてもあの老人も――ここには自分一人だけがいるのみだ。

 視線を落とす。
 包帯で雁字搦めにされた右腕。
 身体の方はそれほど損傷は無かった――不思議なことに死ぬ寸前にまで破壊された身体は勝手に修復していた。
 
 シン達がキラやラクスに拾われてすでに五日間が経過していた。
 はやてから聞いた話によるとそこで四日間シンは眠り続けたらしい。
 全身には細かい裂傷があり、右腕の表面には大きな裂傷、腹部には痣が残り、傷ついていない場所を探す方が難しいような状態だったとか。
 その癖、怪我の多さの割には一つ一つの怪我は深刻なものではなかったとか。

(…刺し違えられなかったんだな、俺は。)

 ラウ・ル・クルーゼとの戦いにおいて、自分が負った怪我は覚えているだけでも重傷は幾つもあった。
 全身の裂傷は言うに及ばず、肋骨の骨折、右掌は焼け爛れ、腹部は光刃で穴を穿たれて、内臓破裂もしていたはずだった。
 考えるまでもないその全てが致命傷だ。
 それが全て修復され、少なくとも生命活動を問題なく行えるレベルになっている。
 
 誰かが、直したと考えるのが自然だろう――それが誰かは分からない。
 だが、予想はつく。あの時、自分の右手に触れた女――夢で出会ったあの女。それ以外には無い。
 そして、あの時の会話からここに送ったのも、あの女だろう、とシンは考えていた。

 胸にあるのは空虚だ。
 自分はあの戦いで死ぬはずだった。なのに、今も死ぬことなく生きている。
 ミッドチルダに来た時と同じ感覚。死ぬべき時を奪われた、そんな気持ち。
 ラウ・ル・クルーゼ。エリオ・モンディアル。鎧騎士二人に、ナンバーズ。そしてモビルスーツ・レジェンド。その内の誰も死んでいない。

 彼らはまだ向こうにいる――問題は何も解決していない。
 願いは誰かを守ること。だからこそ本当はその内の一人だけでも刺し違えたかった。
 敵の数を減らす――それは誰かを守るという願いに繋がると考えて。
 だが、結局はその誰とも刺し違えることも出来ずにここに逃がされ生き延びた。
 無様なものだと思う。そして申し訳ないとも思う。
 刺し違えることも出来ずに生き延びてしまった罪悪感が強く胸を抉る。
 だが、それとは別に湧き上がる気持ちはもう一つあった
 それは――

「…考えるな。」

 小さな呟き。左手を握りしめて拳を作る。
 記憶を閉じろ。思い出すな。思い出せば、恐怖に呑まれて戦えなくなる。
 あの嗤う顔が怖い。
 あの優しげな声が怖い。
 レイと同じ顔が怖い。

 ベッドの横に置いていたフェイスバッジに似たデバイス――デスティニーを左手で握りしめた。
 震える身体を抑え込む為に、自分にとって最も信頼できるモノ。
 そこに“在る筈”の力に縋り付くために。

「……デス、ティニー。」

 祈るように、小さく、呟いた。
 答える声は聞こえない。
 これまでどんな時でも自分の声には必ず反応してきた“彼女”の声が聞こえない。
 もう一度呟いた。

 答える様子は無い。
 まるで、初めからそんな声など発しはしないとでも言いたげにデスティニーからの返答はない。
 
 震えが止まらない。
 それはラウ・ル・クルーゼとの戦いで植えつけられた恐怖によるもの。
 そして、デスティニーからの答えが無い意味を薄々理解し出しているから。
 眼が覚めてから、この部屋で一人になった時に何度となく繰り返した動作。
 ギンガに魔法を習い出した時に何度も何度も繰り返してやってきた反復動作。
 今では考えずとも出来る魔法――デバイスの起動。

「デスティニー。」

 答えはない。
 起きだしてから繰り返すことこれで352回目。
 何度も起動しようとしても答えはない。
 瞳孔が開いていくのを感じる。
 胸の奥にじわっと広がる昏い闇。口内がカラカラに乾燥していく。胸の鼓動が収まらない。焦燥が収まらない。

「デスティニー。」

 353回目の呼びかけ。

「デスティニー。」

 354回目。

「デスティニー。」

 355回目。
 答えはない。
 繰り返す。何度も何度も機械のように。
 眼は見開くと共に充血し、表情は強張っている。肩は震え、奥歯がガチガチと鳴り出していた。

「……デス、ティニー。」

 答える声はどこにもいない。

「……デ、ス、ティニー。」

 か細く、今にも崩れ落ちそうなほどに弱々しい声音。
 声は届かない――全身から失われている慣れ親しんだ“はず”の力が失われている。
 どれほど意識の糸を伸ばしてもあれほど身近に感じた魔力を感じ取れない。

「……デス、ティ…ニー。」

 答えは無い。
 それでも繰り返す。いつか届くことを願って――その時点で決して届かないことを確信して、それでも繰り返す。


「……あいつ、起きたんだ。」
「……なんや、気になるんか?」

 ドゥーエ=フェスラはその言葉に顔を背ける。

「別に。……どうでもいいわ。」

 そう言って床に腰を下ろし、両足を両腕で抱え込むようにして座り込む。
 はやてはそんなドゥーエを眺めながら、その隣に腰を下ろした。
 両足を伸ばして座り込む姿は傍らのドゥーエとは違い、非常にリラックスしたように感じられる。
 傍らには先ほど剥いた林檎が置かれている皿を置いている。

「……何よ、言いたいことでもあるの。」
「一つええか?」

 淡々とキラやラクスを眺め、林檎を齧りながら、呟く。
 子供と談笑しながらラクスは編み物、キラはパソコン――画面を見る限りはどう見てもゲームにしか思えない。
 激しく動く画面を見る限りは何かしらのシューティングゲームだろうか。ゲームに疎い自分にはよく分からない。

「何よ。」

 そっけなくドゥーエが呟く。

「……なんで、あいつ騙したんや?」

 暫しの沈黙。しゃくしゃく、と言うはやてが林檎を齧る音だけが耳に届く。

「……言われたから、ね。ソレ以外に理由は無いわ。」
「そか。」

 はやてが林檎を齧る。
 抱え込んだ両足の間を見つめるようにして俯き、ドゥーエは思考に沈み込む。
 はやては何も言わない。言うつもりも無いだろう。何しろ敵である。
 別の世界に来てまで拘ることではないかもしれないが――それでも敵は敵だ。
 こうして、肩を並べて話をしていることが既におかしいのだ。

(……引っ張られちゃった、か。)

 心中で呟く。その口調すら引っ張られていることを感じ取って、彼女は奥歯を噛み締めた。

 模倣(エミュレイト)。
 ドゥーエが元々持っていたI・S「偽りの仮面(ライアーズマスク)」の発展系とも言える能力である。
 自身の体を変化させる変身偽装能力でしかない「偽りの仮面(ライアーズマスク)」と違い、この能力は存在そのものを模倣し、擬態する。
 そして、模倣するのは各個人の心象世界に存在する各個人。
 他人の心象世界そのものを自分自身に映し込む。発動条件は対象に触れること。
 絶大な能力に比してあまりにも容易い発動条件。
 それ故にこの能力が使用者に求める代償は非常大きい――映しこんだ心象世界の影響を少なからず受けてしまうのだ。

 フェスラ・リコルディとはシン・アスカの心象世界に映りこんだ“ルナマリア・ホーク”と“ステラ・ルーシェ”から作り出した架空存在。
 クルーゼとシンの戦いの際にドゥーエがシンを助けたのもそのせいだ。
 映しこんだ存在に引っ張られ、彼女のココロは彼を助けろと命令した――少なくとも、ドゥーエと言う個人の意思を無視して。

(……あの時、私は、少なくともドゥーエじゃなかった。)

 だからこそシンを助けた。
 思えば、その少し前からその兆候はあった。
 ギンガとフェイトの葬式に出席したこと。
 もしかしたらシン・アスカと出会ったその瞬間から、引っ張られていた。

 彼の心象世界を探る為にスカリエッティと偶然出会ったシン・アスカに触れた。
 流れ込んできたその心象は私ですら眼を背けるようなおぞましいモノだった。

 その内容自体はどこにでもあるような、よく聞く話だ。
 おぞましかったのは、それに対するシン・アスカの反応――始まりは憤怒。
 そして、憤怒は憎悪に代わって、増長し、ぶち壊された。おぞましかったのはその後。
 自分と言う存在を隠すでもなく、ただ静かにそこにいる。周りからの声が聞こえない訳では無い。
 本人が知らなかった、もしくは気づかなかっただけで、何度蔑まれたか、殺されかけたか、分かった物では無い。
 逃げ出すだろう、普通は。
 だがあの男はそれを全て享受した。
 自分の命を軽く見ている訳では無い。あの男は自分が生きていることに価値を感じていない。
 唯一、誰かを守ると言う行為に従事することでのみ、あの男は自分に価値が生まれると確信している。
 死んでも誰も悲しまない、ではない。死ぬのが当然なのだ。
 悲しむとか悲しまないとかではなく、あの男にとっては自分が生きている方がおかしいのだから。
 
 そして、その心象世界に生きる“彼女”達は、そのおぞましさとは対照的にあまりにも綺麗だった。
 それこそ、ソレをそのまま現実に当てはめれば存在しないほどに清純で純粋で無邪気で綺麗だった。
 美化された偶像の集合体――それがフェスラ・リコルディと言う架空存在の正体。
 それほどに美化された偶像を映しこみ――そして、侵された、

 ――おかしな自分。ありえない行為。
 
 何もおかしくはない。ありえなくもない。
 懐から手鏡を取り出し、自分の顔を見る。
 その顔のベースはステラ・ルーシェ。シン・アスカが守れなかった女。彼にとっての罪の具現そのもの。

 この顔と性格にした目的は簡単なことだ。
 
 ――シン・アスカに絶望を与える為。
 
 ただ、それだけ。守れなかった罪と守らなかった罪を突きつける。その為だけに彼女は生まれた。

(私は……)
「ドゥーエさん?ちょっとよろしいですか?」

 声に反応して顔を上げる。
 桃色の髪が特徴的な女――ラクス・クラインがそこにいた。

「……何よ。」
「夕飯の準備したいと思ったんですけれど、ちょっと人手が必要なんですの。それで手を貸してもらえないかと思いまして。」

 水色の瞳がこちらを覗き込む。
 料理の手伝いをする――そんな気分で無いのは見て分からないのだろうか。

「…悪いけど、そういう気分じゃないの。」

 そっけなく呟いた。
 少し、ラクスの雰囲気が変わった気がした。表情に変化は無い。
 だが、何かがおかしい。遠くを見れば茶色い髪の優男――キラ・ヤマトと言う男が苦笑いしながらこちらを見ている。
 ラクス・クラインがこちらから眼を外し、子供達に向けられる。

「そうですか…なら、仕方ありませんわね。皆、よろしいですか?」
「はーい!!」

 ドタドタと床を鳴らしながら子供達が我先にとこちらに走ってくる。
 ラクス・クラインがこちらに再び瞳を向ける。
 その唇がつりあがって、にやりと微笑みを形作る。

「では、ドゥーエさんには子供達のお世話をお願いしますわ。」
「は?なんで、私がそんな…」

 人差し指を立ててラクス・クラインが笑顔で呟いた。

「働かざるもの食うべからず、ですわよ?さ、皆さんドゥーエさんと遊んでなさい。私とはやてさんはその間に夕飯を作っておきますので。あ、シンの部屋に行ってはいけませんよ?」
「はーい!」

 子供達の元気な声。手に色々な道具を持ってこっちに来る。絵本、トランプ、ミニカー……etc。

「ちょ、ちょっと待って、な、何で私が子供の相手なんて……」
「この家のルールです。働かざるもの食うべからず。ああ、シンは除外ですわよ?怪我人を働かせるほど私たちも困窮してはおりませんし。」

 腕を組み笑顔で呟く。有無を言わせぬ口調――どことなく威圧感を感じるのは何故だろうか。
 ぽん、と肩が叩かれる。八神はやてが苦笑しながら呟いた。

「まあ、気晴らしにはなるんと違う?」
「あ、あなたね、他人事だと思って…」

 手を引っ張られた。
 そこに暖かさを感じる――これまで感じたことの無い暖かさ。男の肌とは違う暖かさ。
 そちらを見れば、クマの人形を抱きかかえた少女が自分を見ていた。

「…な、何よ。」
「お姉ちゃん……私たちと遊ぶの嫌……?」
「う」

 目尻には涙。見れば、その場にいる子供が全員そんな顔をしている。
 沈黙――目尻の涙が引く様子は無い。

「チェックメイトってところやな。」

 八神はやてがにやけながら呟く――その通りだ。
 泣く子供には敵わないと言うのは古今東西どこでも同じ理屈なのだから。

「……分かったわよ。」

 渋々と頷く。
 瞬間、ぱっと顔を輝かせる少女。同じように残りの子供達も笑顔に変わる。
 コロコロと変わる表情。
 まるでもう壊れたあの男のように――ぴしり、と意識にヒビ。
 表に出すことは無く隠す。これも自分の一部なのだという自己欺瞞を呟いて。
 沈み込む心。見つからない。自分が見つからない。一体、私の心はどこにあるのか。
 
 ――今も自分自身が見つからない。


「気遣いしてもろてありがとうございます。」

 料理の準備をしながら、はやてが呟いた。

「あら、気遣いなんてしておりませんわ。言葉通りの意味ですわよ?」

 そんな彼女の方に振り向くことなくラクスが返答する。
 桃色の長髪を一つに纏めている。
 身につけているものは白いエプロン。手には銀色のボウルと包丁。切り分けた野菜をその中にいれておくつもりなのだろう。

「……そういうことにしときますね。」

 苦笑しつつ自分も作業に戻る。ラクスから聞いた夕飯のメニューはシチュー。
 別にホワイトソースから作る訳でも無く市販のルーを使うらしい――自分にとっては懐かしい味だ。
 自炊などもう何年もしていない自分にとっては。

「……ドゥーエさんはそんなに悪い人には見えませんもの。子供と遊んでいれば元気も出ますわ。」

 とんとん、と音を立てて野菜が切られていく。所帯じみてない見た目と違って、包丁の使い方はそれなりだ。
 同じく自分も野菜を切る。
 何せ、人数が多い。これまで一人でこの量を作っていたのであれば、頭が下がる。

 ドゥーエ=フェスラ。シンを騙していた女。本来なら許すような類では無い。
 正直、ここに来て直ぐは憎悪しか感じ取れなかった。
 だが、無抵抗どころかあまりにも無気力なあの女を見て、そんな気はまるで無くなった。

 ――自分が見つからない。
 
 あの女はそう言って、フェスラのままの自分を見て、呆然としていた。
 それを気の毒に思ってしまった以上、何をすることも出来ない――自分は甘いな、と思った。

「ああいうのに限って、案外、子煩悩って言うのもありますしね。」
「ええ…まあ、私の節穴みたいな眼の感じたことですから確証はありませんけれど。」

 少しだけ自嘲めいた陰りのある口調が一瞬だけそこに混じった。
 けれどトントンとまな板を叩き続ける音に陰りは無い。

(……思ってたよりも普通の人やな。)

 以前、ギンガがはやてに提出したシン・アスカの報告書。そこに書かれていた彼の過去。そして、以前夢で見た彼の記憶。
 八神はやてが知るラクス・クラインとはあくまでシン・アスカから見た姿に限られる。

 彼の思うラクス・クラインとは平和の女神。歌姫とも称される、この時代の“王”だ。
 本来、火薬庫同然であった地球圏を平和へと導いていた女性。その伴侶のキラ・ヤマトも同じく。
 その他のもう二人も同じく王と騎士と言う間柄で世界を救おう、守ろうとしている。。
 
 ――シン・アスカは彼らがいるからこそ、この世界への未練を失った。
 
 ここにいても自分の役目は無いと断定して。
 実際、彼の記憶を見る限り、その断定は正しいと言わざるをえない。
 
 彼の眼を通して見た記憶とは言え、その手腕は惚れ惚れするほどに見事と言えるものだった。
 それこそ、戦時中と戦後直ぐに行った無茶苦茶な行動が別人なのではないかと思うほどに。

「……ラクスさんは、今、休暇とかなんですか?」
「…ええ。本当はここにいるような暇は無いのですけれど……」

 トントンと言う包丁の音が途絶えた。ふとそれが気になって自分も作業を止めて、彼女の方に振り向いた。
 彼女の水色の瞳が捉える先に子供達がいた。
 ドゥーエが困った顔をして、泣いている少女をあやしている――その光景の微笑ましさに苦笑する。

「あの子たちに会いたくて。」

 穏やかで優しくて暖かい瞳。
 どこにでもいるような母親の瞳。
 それがどうしてもシンの記憶の“彼女”と重ならない――そう思った。


「……」

 八神はやてはカタカタとキーボードを叩きながら、画面に眼を通す。
 窓の外の夜空は晴れ渡り、満月が輝いている――クラナガンや海鳴では決して見れないような輝かしい月。

 マウスを操作し、目当てのデータを呼び出す。
 時刻は深夜2時を過ぎている。
 使っているパソコンはキラがいつも使っているパソコン。
 ネット接続完備のハイエンドモデル――光だから早いとかキラは言っていたが、よく分からないので気にしない。
 性能や回線速度等は正直どうでもいい。
 恐らくここにあるどんなパソコンも、はやてが知るどんなパソコンよりも“高性能”だろうから。
 
 目まぐるしく縦方向にスクロールしていく画面。
 呼び出されている画面には色々な出来事が羅列されている――要は歴史年表や世界地図だ。
 キラに目当てのホームページを教えてもらい、はやては夕飯の片付けが終わってからずっとそのホームページを見ていた。

 そこに記されている内容はそれこそ学校の教科書を見れば簡単に分かるような内容ばかり。
 昨日まではシンの看病に付きっ切りだったのと“確信”が持てなかったのでやらなかったが、シンの眼が醒めたことで看病は一旦切り上げて、この作業を始めた。
 二人には未だ自分達の詳しい素性は伝えていない。
 シンの記憶を見る限り、この世界で魔法が認識されていないことは確認済みだったので黙っておくことにしている。

「……っと、あったあった。」

 画面に見えているのは2015年における世界各国の地名。
 見慣れた地形。見慣れた国名。

 ――唾をごくりと飲み込む。
 
 シン・アスカのいた次元世界は管理局が探しても見つからなかった。
 ずっと探してはいたのだ。それこそシンが転移して来た当初からこれまでずっと。

 普通はそれで見つかる。見つからないということは、未探索領域に位置する次元世界ということになる――だが、考えてみればそれはおかしい。
 
 シンが次元転移をしてきたのは、何のことは無い。リインフォースの力によるものだ。
 あの日、海鳴でリインフォースがシンの世界に干渉し、彼はミッドチルダにやってきた。
 
 リインフォース――夜天の書。
 その主である彼女は誰よりもその力の強大さを知っている。
 確かにリインフォースには個人を次元転移させるくらいの力はあの時存在していたと思う。
 だが、だからと言って、未探索領域から個人を特定し転移させることが出来たかと言えばそれは無理だろう。

 未探索領域の次元世界とは単純に既知の次元世界から“遠い”のだ。
 
 第一管理世界――ミッドチルダ。そこは最も魔法文化が発達した世界である。
 そして管理世界とはミッドチルダに隣接する、もしくは近隣の世界ほど若い管理番号が振ってある。
 最も魔法文化が発達した――つまりは次元世界と言う概念の発祥の場所。

 つまり、未探索領域からは最も離れた場所。
 単純に距離の問題と未だ未知の世界から移動させるなど、恐らくどれほどの魔力があろうとも不可能だろう。

 ――逆に考えれば、リインフォースがシン・アスカを移動させたと言うなら既知の次元世界からでしか在り得ない。でなければ夜天の書の能力を大きく越えてしまう。
 
 ならば、彼は“どこ”から来た?
 彼のいた“コズミックイラ”とは“どの”世界のことを言っているのか?
 
 この考えに至ったのは、この世界に来てからだ。それまでは悲嘆に沈んで思考など回りようが無かったから。

 ここでシンの看病をしながら考えて得た結論。
 それが今やっていることへと繋がる――この世界、コズミックイラは時空管理局がどれだけ探しても見つからなかった世界。
 それは何故か。簡単な話だ。
 
 見つからなかったのではなく、既に見つけていたにもかかわらず“気づかなかった”だけなのだから。

「……やっぱり、ここは、別の次元世界なんかやない。」

 現れた画面。そこにあるのは海鳴。自分が知っている海鳴――“今”から253年前の海鳴市。

「未来やっていうんか。」

 言葉に篭るのは恐れと不安――本当に未知なる現象に対峙した人間が抱く原始的な不安。
 月は、何も語る事無くただ輝いていた。


 気がつけば自分はベンチに座っていた。
 夜空に月は無く、星も無い。空というよりも天井といった感じの暗闇。雲一つ無い黒空。
 そこはどこにでもあるような公園だった。
 ジャングルジムや滑り台に砂場、水飲み場、ブランコ。ありふれた遊具の数々。

 暗闇であるからか、そこには誰もいなかった。
 それも当然か。子供は暗闇ではなく太陽の下で遊ぶモノだ。
 余程、特殊な事情でも無い限り暗闇の公園に来る子供などいるはずもない。
 
 見れば、子供がいた。
 後ろ姿から想像できる年齢は10歳くらい。暗がりで横顔は見えない。
 ただ、肩を震わせて泣いている。

(……夢だな、これ。)

 淡々とその事実を受け入れる。
 子供の後ろ姿や格好には覚えがあった。
 何かのキャラクターが描かれたTシャツ。髑髏細工が施され歩くと真っ赤に光るサンダル。
 それらに見覚えがあったから判別は容易かった。

 ――あれは、自分だ。あの服は全てマユが勝手に選んで自分に着せた物だ。

 喜んでいたマユの笑顔の前で不本意ながらも、彼女を泣かせたくなかったし、その笑顔を崩したくなかったから我慢して着ていたのだ。

 その光景を見て、改めて思い出す。
 
 シン・アスカは元々よく泣く子だった。
 眼が朱いという事実で馬鹿にされ、女のような顔立ちだと馬鹿にされるとすぐに泣いていた。
 
 それが泣かなくなったのはいつからか――泣いてはいたのだ。
 ただ、人前では決して泣かなくなっただけで。
 
 切っ掛けは――よく覚えていない。その頃の記憶は幼すぎて曖昧だったから。
 ただどうして泣かなくなったかは覚えている。
 マユがいたから。彼女に悲しい顔を見せると彼女も一緒になって泣いてしまうから。
 だから、自分は泣かなかった。少なくともマユの前でだけは絶対に泣かなくなった。

 その代わり、よく一人の時に泣くようになった。
 マユの前で堪えた分の帳尻あわせをするようにして、一人で泣き続けた。
 そして、誰かに慰められることを望んでいた。頑張ったなと誰かに言って欲しかった。

 そんなくだらない思い出が呼び起こされた。
 これは夢だ。だから何をしても現実になど繋がらない――だけど夢ならあの時、自分が望んだことをしてやってもいいはずだ。
 だから、その涙を拭おう、と思い、ベンチから起き上がろうとする。

(動かない…?)

 どれほど力を込めても指の一本すら動かない――いや、それ以前に力を込めれて
いるのかすら分からない。

「……」

 口を開こうとして開かない。声を出そうとしても出せない。
 金縛りにでもあったように身体が一つも動かない。

「……僕は」

 呟きに気づき、目をそちらに動かす。少年が振り返っていた。目の色は自分と同じ朱い瞳。
 子供の――忘れていた、置き去りにしてきた過去(シン・アスカ)の口が動く。

「僕はいつまで泣いていればいいの?」

 ――心臓が掴まれたような気がした。

 過去が一歩近づいた。
 喉がからっからに渇いていく。
 恐怖とは違う。焦燥、でもない。
 強いて言うなれば後ろめたさ――何に対する後ろめたさかは分からない。

「僕はいつまでここにいればいいの?」

 朱い瞳から流れる一筋の涙――それまでの子供の泣き顔とは違う、年月を経て流される涙。

(なんで、泣いて……)
「僕はいつまで、待ち続ければいいの?」

 黒い空が、割れた。
 意識が浮上する。
 公園が消失する。過去が悲しそうに、寂しそうな顔をしていた。
 暗闇が、純白に染められた――。


 ドゥーエ――フェスラとはやてが話をしている。

「じゃあ、ミッドチルダに戻る方法は分からないってこと?」
「そや。念話はずっと送ってるから、その内見つかるとは思うんやけど……直ぐって訳にはいかんやろうね。」

 そこは自室――与えられた三人の寝室。
 男女が同じ部屋に泊まると言うのはまずいとは思ったが、別にそんな関係では無いし、キラやラクスがそんなことを気にするような輩でも無い以上気にするだけ無駄だ。

「ただ、念話の内容がな……どうにもノイズ交じりで分からんのよ。混線してる感じで、まともな反応は一切出来んかった。」

 困り顔で話すはやて。ドゥーエも同じく。

(……どうでもいい。)

 心中で呟き、視線を右腕に向ける。
 昨日までされていた右腕の大仰な包帯は既に解かれている。
 痛みはまだあるものの怪我は既に無い。厳密にはその“痕”だけが残っていた。

 あの時、“眼”が開いた場所にはその名残――真っ直ぐに線が伸びている。
 その数は5つ。つまり、あの時5つの眼が開いたということ。
 結晶の痕は無かった。同じく羽根の痕も。

 右手を閉じて、開く。問題なく、動く――この右手は自分のものだと確信出来る。
 おぞましささえ感じる自分の右腕。
 自分が何か人間以外のモノへと変化していった感覚を思い出す。
 だが、今はそれも感じられない。

(それでも)

 力を失った今はその感覚すら愛おしい。
 力が欲しい。力が欲しい。
 右腕を凝視する。この腕が、この身体が人間でなくなってしまったとしても、それでも力が――

「シン。」
「……なんですか。」

 はやてからの声に答える。
 彼女の話を上の空で聞いていたからだろう――実際、耳には殆ど入っていなかった。

「……一応、帰るのはまだまだ先になりそうや。」

 溜め息を吐きながら彼女が呟く。

「そうですか。」

 立ち上がって、ラクス達から与えられた服――パーカーに袖を通す。

「どこ、行くんや?」
「……ちょっと海でも見てきます。」

 ドアノブに手を掛ける。一瞬、ドゥーエと眼があった。無視してそのまま通り過ぎる。
 扉を開けると、キラやラクスが子供達と談笑している。幸せそうに。
 ぎりっと奥歯を強く噛み締め、その光景から目を外し、近場の扉に手を掛け、すぐに開いた。

「あ、シン」

 キラの声が聞こえた。
 聞こえない。何も聞こえない。そう、心中で呟いて、無視して扉を通り抜ける。
 外は既に夕暮れ。潮騒が聞こえる方にただ歩いていく。
 風が冷たい。朱い夕日が目に染みる。
 パーカーのポケットからフェイスバッジ――デスティニーを取り出した。

「……デスティニー。」

 答えはない。返答は返ってこない。
 風が、冷たかった。


「……アル、どうしてこんなことしたの?」

 子供が女の前で俯いている。その前には壊された玩具があった。

「……だって、ジェシーが僕の砂山崩したから。」

 子供は頬に怪我をしていた――男の子。

「ジェシー。」

 ジェシーと呼ばれた少女が壊された玩具の前で目をこすりながら彼女に振り向いた。泣いていたのだろう。涙は既に引いているが。

「……だって」

 決して目を合わせようとしないジェシーとアル。女は腕を組んで溜め息一つ、口を開いた。

「二人とも謝りなさい。」
「……うう」

 その言葉に、アルとジェシーの眼があった。
 けれど、直ぐに視線を逸らそうとする――女が二人の手を掴んで、引っ張った。

「どっちが悪いとも言わないわ。悪いのはどっちも。だから、二人共謝って、それで終わりにしましょう?喧嘩なんて続けたって面白くも何とも無いでしょ?」

 女から視線を逸らす二人の子供。
 女は抱き締めたまま話を続ける。顔には笑顔。信じられないほど朗らかな笑顔。

「…せんせい、だけど。」
「そうねえ、今謝れば、ホットケーキ作ってあげるわよ。」

 その言葉に子供の表情が歪んだ。迷っている。

「……う。」
「……せんせい、汚いよ。」
「ついでに、フルーツの盛り合わせもつけてケーキみたいにしてあげる。どう?謝った方がお得でしょ?」
「……ずるい、ドゥーエ先生はずるい。」
「……ホットケーキは捨てがたいのよね。」
「それじゃ決定!じゃあ、早くこれ片付けて、皆で調理実習するわよ!!」

 上がる歓声。二人の子供の顔に浮かぶ笑顔。
 周りで成り行きを見ていた子供も笑う。その後ろで優しげにキラとラクスも笑っている。

 ――八神はやてはその光景を見ていると頭痛がしてきた。

「……適応しすぎやろ。」

 ドゥーエ先生は子供達に大人気でした。


「……案外、子供好きなんやな。」

 夕飯のシチューを食べながら呟くはやて。
 シンが目を覚ましてから既に一週間が経過していた。
 はやては毎日家事を手伝い、空いた時間でこの世界の調査を繰り返し、ドゥーエは毎日毎日子供の世話――平たく言えば先生をしていた。

「う、うるさいわね。仕方無いじゃない、私の仕事らしいんだから。」

 頬を赤く染めながら、スプーンを口に運ぶドゥーエ。既に5杯目だ。
 横にあるフランスパンは既に3本目。対してはやては未だ1杯目すら食べ追えていない。フランスパンだって一切れ程度。
 というか、フランスパンを本単位で食べる人間を見たのは初めてだった。

「そんだけ食べて、そのスタイルを維持する……まるでどこぞのポケットみたいな身体やな。」
「言ったでしょ?これ、この力のせいだって。」

 フランスパンをバキ、と二つに折って片方をシチューにつけて口に運ぶ。
 左手のスプーンは常に稼動。パンをシチューにつけて食べる。
 左手がシチューを口に運ぶ。
 繰り返される動作。
 シチューがなくなれば自分で鍋まで行ってよそってくる。基本的に大盛。そしてまた食べる。

 ドゥーエが言うにはこの旺盛すぎる食欲とその食欲にも関わらず変わらない体型は彼女の能力“模倣”の副作用であるらしい。
 模倣した肉体は“変化している”のではなく、どちらかというと“重なっている”と言った方が正しい。
 自分の肉体の上にもう一つ肉体を重ね着し、維持している。単純に考えて、肉体をもう一つ維持する以上必要となるエネルギーは2倍になり、その上、本来は存在しないモノを1から作り出すのだから、その想像にもエネル
ギーを必要とし、結果としてこの旺盛な食欲を作り出す。消費するエネルギーが大きすぎる以上は当然だろう。

 殆ど病気に近い副作用――だが当のドゥーエに悲壮感は見当たらない。
 食べても食べても太らないというのは女性にとって理想とも言える状態だからかもしれないが。

「羨ましいもんやな。」
「まあね。こんな能力持ったけど、この副作用だけは感謝してるわ。」

 そう言って手に残っているフランスパンを口に収めると、先ほど半分に折ったフランスパンの残り半分に手をつける。

「美味しいモノをずっと食べ続けられるし、全然太らないしね。食費は半端じゃなくかかるけどね?」

 スプーンを口に運び、笑顔を見せて、またパクつき始めるドゥーエ。
 そんな彼女から少し離れた場所――テーブルの端辺りで無言でシチューを口にするシンに視線を向けた。
 視線は虚ろ。目はどこを見ているのかも分からないくらいに呆けている。目の下には隈があり、頬も少しこけている。
 恐らく、一睡もしていないのだろう。

(……もうずっと寝てないんと違うか。)

 最近のシンの様子を思い起こす。彼が眠っていない――眠れない原因を。


 毎晩毎晩、夜遅くにベッドを抜け出し、どこかに行っている。
 はやて自身寝るのがいつも遅い為にそれに気づいて、後をつけた。そして、それを見た。
 黙々と今まで通りの日課を繰り替えすシン・アスカを。
 眼は血走り、身体は汗まみれ。やっていることは単なる素振りだ。

 シン・アスカの日課――つまり基礎訓練。
 ギンガに師事し出してから彼は毎日欠かさずにそういった――彼にとってなくてはならない剣術と魔法の基礎訓練を繰り返していた。
 ギンガの教えが基礎を疎かにしないことを念頭に置いていたからか、それとも彼自身の性分なのか、それは分からないが、シン・アスカは基本を何度も何度も反復する。異常なほどにだ。
 陸士108部隊にいた時にギンガが書いた報告書によると意識を失い死ぬ寸前まで繰り返していたらしい。
 無論、今ではそんなこともやらなくなったが。
 
 魔法に限らず何であろうと基本は大事だ。基本がなくては大成しない。これは全てに共通する。
 だが、基本はあくまで基本――つまりは基礎、土台でしかない。
 強靭な基礎が作られれば次は建物――すなわち応用に時間を割いていくものだ。
 そうして、人間は自らのレベルを上げていく。基本を軸に新たな技術を覚え、その新たな技術を元に、また新たな技術を覚える。
 そうやって連鎖するようにして人はレベルを上げていく。
 
 だが、ギンガの教えはそれとは一線を画していた。
 兎にも角にも基礎を反復する。
 通常100回なら1000回繰り返し、通常10セット繰り返すなら100セット繰り返す。
 そんな訓練方針を貫いたからか、シン・アスカという魔導師は異常なほどに歪な魔導師となっている。
 基本的な魔法は並よりも上。それこそ現役のAAAランクに匹敵するほどの技術を持っている。
 なのに、それ以外の応用技術はCランクどころか、素人に毛が生えた程度。
 出来ることと出来ないことの落差があまりにも激し過ぎる為に、応用性が非常に低い。

 簡単に言えばシン・アスカという魔導師は戦闘以外に使い道がない。
 どうしてギンガがそんな育成方針にしたのか。
 彼女は彼をどのような魔導師に育てようと思っていたのか、それはもう誰にも分からない。
 彼女が死んだ今となっては全ては闇の中だ。
 それでも予想するとすれば――恐らくは死なせない為だろう。
 
 短期間で叩き込める技術には限りがある。それ故に必要と思われる技術だけに特化させ、それだけを繰り返した。
 机の引き出しの数を増やすのではなく、引き出しの中にあるものの質を上げることだけに集中した。
 
 そんな方針にギンガがした理由は――答えは一つだけだ。自分が突き付けた要求が原因だろう。
 Bランク試験に合格することを自分はシンに強要した。6課で戦いたければ、守りたければ合格しろと。
 無論、素人同然の人間がたった数ヶ月の訓練で受かるような試験ではない。
 だが、ギンガはそれでもシンを育て上げた。
 そして幾つかのイレギュラーは存在したモノの素人同然のシン・アスカはBランクどころかAAAランクにすら匹敵するギンガ・ナカジマを打ち倒すほどに成長した。
 それは、ただ戦闘に特化させその他の技術を全て覚えさせなかったからこその成長だ。
 そして、彼女の思惑通り――それが本当に彼女が考えていたことかどうかは分からないが――彼はここまで生き延びた。

 肉体的にも、そして精神的にも。
 そうやって生き延びていく中で、魔法は彼にとって無くてはならない拠り所――“力”となった。
 シンが異常なほど基礎を繰り返すのも道理と言える。何しろ、結果がついてきている。基礎を繰り返すことで彼はここまで強くなった。
 何を失おうとも、敵に勝てずとも、力を得て生き延びた、という結果がある以上はソレに縋り付くことは当然だろう――もしくは没頭することで全て忘れようとしているのか、どちらにせよ、それは真っ当な精神状態ではない。
 しばらくして素振りが終わった。木の棒を砂浜に置き、懐からデバイスを取り出し、口を動かした。声は聞こえない。潮騒に邪魔され、そうでなくとも遠くからシンを眺めるはやてにその呟きが届くはずもない。

「……デバイスを起動してるんか?」

 何度も何度も、シンはデスティニーに向けて口を動かしている。恐らく呼びかけているのだろう。
 だが、おかしい。はやてが知る限り、あのデスティニーというデバイスはシンの呼びかけには何よりも早く応じるデバイスだ。
 人格など搭載されていない癖に勝手に人格を作りあげ、シンの身体を作りかえ、常識外れの魔法を幾つもシンに与えた、危険すぎるデバイス。
 以心伝心などというものではなく、勝手に主の意を汲み取って動くモノ。道具の域を逸脱した存在。
 それが、一度も姿を変えない。

「……どういう、ことや。」

 何故か胸がざわざわと騒ぎ出す。嫌な予感が背筋を登る。
 自分はもしかして見てはいけないものを見ているんじゃないのか――そんな思いすらせり上がってくる。
 奥歯を噛み締めた、悔しげで今にも泣きそうな表情でシンはデスティニーを懐に収めた。
 瞳を閉じて、座り込む。
 いつもの訓練――恐らく高速移動魔法(フィオキーナ)の訓練だ。
 彼はいつもそうやって全身を朱く輝かせていた――はずだった。
 何十秒、何分そのままの体勢でいたのだろう。
 以前は朱く輝かせていた全身がまるで輝かない。まるで、魔法を使えなかった頃のように。

 シンが右手を天に向けて伸ばし、拳を作りあげ、そして砂浜に向けて振り下ろした。
 そのまま、俯いたまま身動き一つしない。
 動けないのだろう。悔しさを、情けなさを堪えているしか出来ないのだ。

「……そういうことか。」

 シンがどうして此処に来てあんなに打ちひしがれていたのか、それを理解する。理解できてしまう。
 シン・アスカは魔法を使えない。彼は拠り所であったはずの力までも失った。


 思考を今に戻し、シチューに口をつける。
 横目でちらりとシンを見る。あれほどに憔悴しきっている理由は間違いなくソレだ。

 毎日毎日――恐らくはソレに気づいてからずっとだろう。
 砂浜でその日課を彼は繰り返している。
 一睡もしないで縋り付くようにして訓練を繰り返しているのだろう。
 だが、何度繰り返そうとも結果は同じく、彼が魔法を使えるようになることはまず無い。
 シンには直接聞いてはいないから分からないが、夜中の訓練の様子からして恐らく全ての魔法が使えなくなっていることは間違い無い。
 だが、それは、本当ならばおかしい。
 はやては現在のシンから魔力を感じ取っている。
 つまり、魔力素の魔力への変換は“出来ている”のに、本人はそれに気づいていない。知覚出来ていない。
 そんな事例はこれまで聞いた事が無い。
 魔力を感知できないなら、まだしも感知できているはずなのに感知できないなど、前代未聞のことだろう。
 
 何が理由でそうなったのかは分からないが――恐らくそこにデスティニーが絡んでいるのは間違い無い。
 以前、シン・アスカの身体を作り変えたように、彼の肉体に干渉出来る以上はデスティニーがシンに気づかせていないと考えるのが妥当だろう。
 ならば何故そんなことをしているのか。その理由がさっぱり見えてこない。
 あのデバイスはこれまでシンを強くする方向にのみ傾倒していた。
 それが今になって彼から力を奪うなど意味が分からない――無論、これすら推測に推測を重ねただけの仮定に過ぎない。

 結局、シンが魔法を使えなくなった理由に関しては何も分からない――それがどうにも歯痒く思う。
 別に、シンに誰よりも強くなって欲しいなどと思っている訳ではない。
 ただ、拠り所が無くなるのは辛いだろう、とそう思って。

(……どうしたらええんやろうなあ。)


 器の中に残っているニンジンをスプーンでかちゃかちゃと弄びながら、俯くシンを眺める。俯く彼の胸中は分からない。彼はただ呆然とシチューを啜っていた。

「……あ、シン、夜、僕の部屋に来てくれないかな?」

 キラ・ヤマトがシンに声をかけた。

「……ええ、分かりました。」

 声の調子は陰鬱そのもの。
 キラはシンのそんな様子を大して気にした様子もなく、自分の器を洗い場に持っていき片づけるとすでに食事を終えた子供たちの談笑に加わっていく。
 その様子はどこにでもいるような年若い父親そのものでしかない。
 
 シンの表情が曇っていく。その光景を見れば見るほどに曇りが強くなっていく。
 その時、彼が顔をあげた。

(……シン?)

 シチューの器を手に取るとドゥーエに向かって差し出す。

「…フェス…じゃないドゥーエ、これ食べないか?」

 殆ど手が付けられていないシチューを見て、ドゥーエが怪訝な――あるいは心配そうに呟いた。

「……いいけど、貴方、大丈夫なの?」
「……ちょっと、食欲無くてさ。」

 そう言ってシンは水の入ったコップを口元に運んで一息で飲み干し、立ち上がる。
 はやてとシンの眼があった。
 絡み合う二つの視線――彼が呟いた。

「俺、部屋に戻ってます。」
「……ああ、わかったよ。」

 そう言って部屋に戻るシンの後ろ姿を見続ける。
 丸まったその背中。子供のように小さく不安げな背中だった。


 暖かな風景。
 羨ましくて、あまりにも羨ましくて殺意を覚える光景。
 殺意を覚える――誰にだろうか。
 
 このくそったれな現実に対してか、それとも暖かな光景を享受するあの二人へか、もしくは役立たずに成り下がったこの自分に対してか。

 その全てがどうでもよくて、気に食わないのかもしれない。
 右手を眺める。傷だらけの右手――右腕は今は既にまともに動いている。
 以前のように反応が鈍いと言うことも無い。味覚も既に戻っている。
 皮肉にも、力を失ったことで、肉体は正常に活動しているのだ。
 
 その事実にただただ落胆する。湧き上がるのはどうでもいいという気持ちと胸の奥に沈殿していく殺意と言う名の衝動だけ。

「幸せ、なんだな。」

 ラクス・クライン。キラ・ヤマト。
 この世界の英雄――世界を救い、平和に導く世界の英雄。
 英雄が幸せになるのは当然だ。
 
 世界を救った英雄様は、その対価として栄光と幸せを約束され、その結果として英雄に敗北した自分は不幸になる。

 幸福は定量で、全ての人間が幸せになれる訳では無いから当然だ。
 あの時――慰霊碑の前で全てを砕かれたあの日、理解したこと。
 自分が負けたのは“力”にだ。強大な力はより強大な力によって淘汰されると言う、ただそれだけの常識。
 理想も理念も関係なく、存在するのはただ単純な力の鬩ぎ合い――強い方が正しいと言う単純明快なルールに過ぎない。
 だから、彼らが幸せになるのは当然だ。
 だって、彼らは強い。
 この世界の誰よりも、何よりも。
 こうやって、自分を保護しているのも、力があるからだ。力があれば、力があれば自分も――

「……何考えてんだよ、くそったれ。」

 頭に浮かんだ下らない考えに顔をしかめ、ベッドに身体を預け、そのまま身体の力を抜いていく。
 見えるものは天井。どこかで見た事があるような天井――昔、オーブに住んでいたことへの郷愁なのかもしれない。
 がちゃ、とドアノブが回された。入ってきたのは八神はやて。

「シン、お客さん来たから一応挨拶しとき。」
「……お客さん?」

 彼女はそう言って、ドアを閉める。どこか、母親のような物言い――懐かしいとさえ思う感覚。
 はあ、と溜め息を吐いて、立ち上がる。

「……なんか、あの人こっち来てから変わったよな。」

 ぽつりとそう呟き、ドアに向けて歩き出した。
 お客さんが誰かなどどうでもよかった。

 ――数分後、それを後悔することになるのだが。



[18692] 第三部コズミックイラ飛翔篇 53.始まりはいつも残酷で(b)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/05/31 16:52
 SEEDと呼ばれるモノがある。
 Superior Evolutionary Element Destined-factor(優れた種への進化の要素であることを運命付けられた因子)の略称であり、C.E.において一度だけ学会誌に発表され議論を呼んだ概念である。

 優れた種への進化の要素という大仰な名前とは裏腹に、その効果は空間把握能力の向上と極度の集中力の維持――いわゆるスポーツにおける“ゾーン”と呼ばれる状態に意識を強制移行させるという、肉体能力の単なる向上に過ぎない。
 
 キラ・ヤマトがスーパーコーディネイターと言われる由縁はこのSEEDを自らの意思で発動させることが出来るからだ。
 SEEDを発動させている状態は、極度の集中状態――“ゾーン”と同様に動作のミスというものを限りなく減少させ、肉体が本来発揮できる能力を安定して完全に発揮させる。
 優れた種というものが単に身体能力において人類を超越した者を指すのならば――なるほど、このSEEDは確かに人類の進歩の切っ掛けとなるだろう。
 だが、それは進歩であって、進化ではない。
 進歩と進化には大きな違いがある。進歩とは現在の状態からの“向上”であり、進化とは現在の状態からの“脱却”である。

 似ているようでこの違いは絶大だ。
 生物は地球環境の変化に合わせて肉体を変えてきた。海から陸へ、空へと環境の変化に対して進化してきた。
 環境の変化が起こった当初、生物にとって変化した環境とは苦境であり、逆境であり、地獄のようなものである。
 魚が陸で生きられないように、鳥が水の中で生きられないように。進化とはつまり、その逆境からの脱却。苦境からの離脱。それまで持っていた能力をかなぐり捨てて新たな環境に適応していくことを指し示す。

 ならば、SEEDによってもたらされる変化とは何か。
 優れた種への進化の要素と言うのならば、何に対して“優れて”いるのか。
 男はそれを人類という種を導くコトだと考えた。
 優れた種を、優れた進化に導くのは優れた人類であるはずだから――そんな馬鹿げた仮定。普通なら笑い話に過ぎない。だが、今となっては笑い話にもならない、と男は思う。
 実際、男の思った通りに世界は動いた。
 SEEDを持つ歌姫の歌は世界を平和に導き、SEEDを持つ最強の男は誰にも負けることなく最強の存在となった。
 男は善良な人間だった。世界を裏から操ろうなどと思ったことは一度も無い。
 彼はただ平和な世界を求めただけだ。男は平和な世界を、最高の存在に導かれる世界だと定義した。
 勿論、最高の存在とて何も知らなければ何も出来ない。

 男は頭の良い人間だった。そして、誰かを育てることに非常に長けていた。
 男はその存在が自分の意思で力を発揮し、世界を平和へと導いていくように誘導した。

 一つは弱者の存在。彼らを疎む者が弱者の側であることを知らしめた。
 そして、彼らが強者の側に位置し、搾取している側であることを自覚させる。

 もう一つは強者の存在。闘いの強さではなく、謀略の強さ。世界を平和に導く為に必要な謀略の意味を自覚させ、それを実行させる。
 その結果、平和――戦争の無い平和な世界が作られていった。
 それらは自身の能力を如何なく発揮し、平和という名の世界を積み上げていく。

 それらは人々に英雄と崇められた。そして英雄は英雄として在ることを強制されていく。
 
 ――それらの意思とは裏腹に、無関係に。
 
 男は善良な人間だった。だから、その最高の存在にも苦しみがあることに気づいてしまった。
 けれど、すでに彼らは英雄という名の歯車として世界に組み込まれている。もはや彼らを抜いた平和な世界など存在しなかった。
 だから、男は彼らと取引をした。
 平和な世界を積み上げて、完成したならば、英雄でなくなっても構わないと。
 それがいつになるかは分からない。

 第一に平和な世界というものがそんな簡単に完成するはずもない。
 世界は導火線に火が点いた火薬庫ではなくなったものの、依然として火薬庫であることに変わりは無かったのだから。
 けれど、彼らはそれでも承諾した。彼らは彼らで欲しいモノがあったから。
 それは男の求めた平和とはまるで相反する酷く個人的な願い――それでも構わない。

 英雄で無いならどんな願いを持とうと口を出す事柄では無いのだから。
 そうして、世界は平和に向かって加速する。
 英雄という生贄を内側に取り込んで。
 生贄の名はキラ・ヤマトとラクス・クライン。世を救う英雄――即ち、救世主である。
 

「しかし、今回は早かったですね。」
「そうですわね、お客様の食事の量が予想外に多かったもので。」

 微笑みながら呟くラクス・クラインと談笑する男――盲目の優男。マルキオ導師。

「お客様……ふむ、彼らですか?」
「ええ、紹介いたしますわ。」

 閉じた瞳がこちらに向けられた。
 居住まいを正し、答えた。

「はじめまして。八神はやてと言います。」
「……ドゥーエって言うわ。よろしく。」

 傍らのドゥーエは見えないのを良いことにいつも通りにぶっきらぼうに答えると子供達の方へと歩いて行く。
 そして、

「……シン・アスカです。」

 陰鬱な声と表情。目前の男にまるで興味が無いのだろう――実際、彼はそれどころではないのだから当然かもしれないが。
 男の閉じた瞳がシンの前で一瞬止まり、表情が僅かに変化する。注視していなければ気付かないほどの僅かな変化。シンはそれに気付かない。元々その盲目の男に向けて目を向けていないのだから当然だ。
 その対峙は一瞬で終わり、男はすぐに顔を元の柔和な表情に戻し、口を開いた。
 
「はじめまして。マルキオと申します。」
 
 そう言って、軽く会釈する。こちらも釣られて会釈する――シンはそんなことにも気づいていない。

「シン。」

 呟く。その声でようやく状況が分かったのか、シンも慌てて頭を下げた。

「……あ、よろしくお願いします。」
「いえ、こちらこそよろしくお願いします。」

 マルキオ、と名乗った男はシンのそんな反応にも気を悪くした様子も無く、言葉を返す。

「はやてさんとシンはマルキオさんと一緒に食料を下ろすのを手伝ってもらえませんか?私はその間にお茶の用意をしておきますので。」

 そう言って、こちらの返答も聞かずにラクスは台所へと戻っていく。
 マルキオがこちらに向けて微笑みながら呟く。
 柔和で穏やかで――だからこそ、何かを感じてしまうような微笑み。多分、自分が捻くれているからだろうけど。

「それでは、お二人ともお願い致します。」
「……はあ。」

 生返事を返して、扉の外に出ていくマルキオを追いかける。
 盲目とは思えないほどにその足取りはしっかりしていることに少し驚く。
 後ろを振り返るとシンが心底怠そうについてきていた。
 背筋を曲げて、瞳は虚ろ。まるで、あちらで初めて会った時と同じように。

(気晴らしにでも……ならんわなあ。)

 心中で呟き、溜息を吐く。
 そんな程度で気晴らしになるのなら、シン・アスカはこんなに落ち込んではいない。
 頬を引っ叩いたり、思いっきり励ます――色々な方法を思いついた。身体を使って籠絡するべきかまで考えが及んだこともあった。
 無論、そんなことは絶対にやらないし、やる気もない。あくまで考えてみただけだ。
 シン・アスカが立ち直るには何をしたらいいのか、と。
 シン・アスカの全てをはやては知っている訳ではない。
 けれど、彼がそんなことで立ち直るような人間でないことくらいはわかる。
 そんな身体を使った籠絡で立ち直るような人間ならフェイトやギンガと既に“そういう関係”になっているだろうから。
 マルキオの足が止まる。そこには車があった。俗に言う軽トラだ。
 荷台には茶色いダンボール箱がいくつも置かれている。恐らくこれがその食料だろう。

「では、お願いします。」

 呟いてマルキオは孤児院に向かって戻っていった。妥当な話だ。彼のように盲目の人間がこの場にいたとて別に運び出せる訳でもない。

「ほんなら、やろか、シン。」
「はあ。」
 生返事を返して、シンがジャガイモが入ったダンボール箱を持ち上げる。
 自分もそれにならって手近なダンボールを持ち上げる。

「……う」

 重い。思っていたよりもはるかに重かった。

「ふん……!」

 一歩一歩足を踏み出していく。
 重い。一瞬でも気を抜けばダンボールの中のジャガイモを毀れ落とす確信がある。
 元々、八神はやてという人間は肉体労働向きではない。
 幼い頃は足が動かず、それが治ってから魔導師として働いていた。
 現場勤めと言っても、彼女は指揮する側であり、事務所に戻れば書類整理。
 はっきり言って運動能力という点で言えば孤児院にいる子供たち以下と言ってもいい。肉体年齢は確実に実年齢よりも上だろう。

(……あかん。こんなに、私持ってけるやろか。)

 不安に駆られてシンを見る――気がつけば、あの男の姿はない。
 すでに孤児院に向かった後なのだろう。らしいと言えばらしいが、もう少しこっちが女だということを考えるものではないのだろうか、普通は。そこまで考えて、思い至る。
 自分がこれまでシンをどういう風に扱ってきたかを。

 八神はやてはシン・アスカを駒として扱ってきた。別に無碍に扱った訳でもないが、機動6課の他のメンバーと比べれば扱いはよくは無い。
 そして、そういった対応しかしてこなかったからか、はやてはシンとまともに話をしたことなどないのだ。
 カリム・グラシアに面と向かって啖呵を切った。シンにとってはどうなのか、ということはまるで考えていなかった。
 
 シン・アスカは彼女の夢だ。
 彼女がなれなかった夢の具現――それになれるかもしれない男だ。
 彼に対する感情は恋愛や友情というよりも、師弟における弟子や、兄弟における弟に対するそれに近い。

 ならば、シンにとってはどうか。
 シン・アスカにとっては八神はやてとは良くも悪くも雇用主だ。力を使う場を与えてくれる偉い人――おそらく、そんな程度だろう。
 実際今まで彼に対する対応はそれに準じたものだった。
 それを今更、師弟や兄弟の感情だ、などと言ったところで、通じるはずが無いし、意味が分からないだろう。

「……実際、私はシンに何を求めてるんやろうな。」

 小さな声で呟いた。
 正直なところ、それははやて自身にもそれは分からない。
 恋とか愛とかだと言うのなら、まだ話は早い。
 相手を口説いて押し倒して――もしくは押し倒されて、終わりだ。
 
 ならば、シンとそういう関係になりたいのかと言われると、それは違う。
 確実に違うと言っていい。
 願いは一つ。シン・アスカが自分にとってのヒーローになること。それだけは間違いない。
 だから、多分シン・アスカに求めているモノがあるとすれば、それは――

「……私の前からいなくならないこと、くらいなんかなあ……っと!?」

 足が、何か――多分石だろう――に躓いた。

「きゃっ!?」

 バランスが崩れる。
 ジャガイモが入ったダンボールの重さに引っ張られるようにして、身体が前のめりになっていく――はずが、止まった。

「……へ?」
「何ぼうっとしてるんですか。さっさと運びますよ。」

 シンがそこにいた。
 自分が持っていたダンボールの箱を軽々と持ち上げ、肩に乗せると軽トラまで歩いていき、同じくらいの大きさのダンボールをもう一つ肩に乗せる。
「……何ですか?」
「あ、いや、力あるなあって。」
「別に……そんなにある訳でも無いです。」

 そう言って、シンが顔を背ける。
 褒められることに慣れていないからか、どんな顔をしていいのか分からないのかもしれない。僅かに頬が紅潮している――その横顔を少しだけ可愛いと思った。

「はは、まあ、そういうことにしとくよ。それじゃ、それ、お願いするで、シン。」
「はい。」

 ぶっきらぼうにそう言うとシンは無言で孤児院に向かって歩いて行く。
 歩く速度は早足といってもいいくらいの速度――まだ、軽トラに荷物が残っているから急いでいるのだろう。

「……さて、と。私はどれを……あれ?」

 ふと見れば、先ほどのダンボールを最後に大きなダンボールはなくなっていた。
 残っているのは大きいことは大きいが、先ほどのダンボールよりも小さめのものばかり。
 多分、初めにシンが全部持っていったのだろう。
 気遣っていた様子は無かったから、恐らく自然とそうなるように持っていたのだろう。
 はやてにはなるべく軽いものだけを持たせようと。
 
 別に不思議なことでも無い。男が女を気遣うことは珍しくも無い。
 だが、自然とそれをする男が少ないのも事実である。普通は下心や打算あってのものなのだから。

「……あいつ、案外、気が利く男なんやな。」

 ギンガとフェイトもこんなさりげない気遣いにやられたのかもしれない。そんな益体も無い事柄が頭に浮かび、はやてもダンボールに手をつけた。ぼうっとしている暇があるなら身体を動かそう、と。

「よし、と。」

 呟き、ダンボールを運び出す。中に入っているのは玉ねぎ。
 シンが戻ってきた。また二箱のダンボールを担ぎ、はやての横を通り過ぎていく。

(早いなあ。)

 呟き、彼女も作業に集中する。
 そうして、時間が過ぎていく。
 気がつけばダンボールは全て運び終わり、先ほどまで軽トラの荷台の全てを占拠していたダンボールはそこには無かった。

「……終わった。」
「案外、早く終わりましたね。」

 それほど疲れた様子もなく――多少息は乱れてはいるようだが――シンは軽トラを眺めながら呟いた。
 陰鬱な雰囲気が少しだけ薄らいでいるような気がした。身体を動かすことで何かしら発散出来ているのかもしれない。
 それに対して、こちらは満身創痍だった。
 元々運動が苦手な上に、普段から身体を動かしなれていない自分にとって、この作業は相当の重労働だった。
 はっきり言って膝が笑う一歩手前だ。
 あの時、シンの元まで走り抜けたのも多分その場の勢いとか盛り上がったテンションとかのせいに違いない。

「どうやら、終わったようですね。」

 後方から声がした。
 振り返るとマルキオがこちらを見ている。
 閉じた瞳は開いていない。確実に見えていないだろうに、彼はこちらの様子を知っているかのように話す。

「ええ。」
「では、戻りましょうか。ラクス様がお茶を用意してお待ちです。」

 微笑みながらそれだけを伝えると、マルキオは振り向いて孤児院に向かって歩いていく。
 右手に持った杖を地面に当てて、前方の障害物が無いことを確認して歩む
その様はどう見ても盲目の人間だ――先ほどの疑惑を打ち棄てる。もしかしたら、
この人は見えているんじゃないだろうかという疑念を。

「ほな、戻ろか、シン。」
「……はあ。」

 溜め息なのか、返事なのか、分からない呟きを放ちながらシンが歩き出した。自分も歩き出す。
 しばらく歩き続けると、孤児院の庭にテーブルを用意しているドゥーエと子供たちが見えた。
 お茶の準備をしているのだろう。
 どっさりと通常ありえないほどのお茶菓子が用意されているところを見れば、ドゥーエも参加するのは間違いない。彼女の食欲はどんなに少なく見積もっても常人の4,5倍は確実にあるだろうし。
 扉の前に二人並びながらそれを微笑ましく眺めるキラとラクス。
 その瞳は親が子を見つめるそれだった――結婚も恋愛もまともにしていない上に、両親のいない自分に分かる感覚でも無いだろうけれど、そう思った。

「本当に仲ええんやね、あの二人。本当の親子みたいや。」

 知らず口から勝手に言葉が放たれている。
 シンはその言葉に返答することなく押し黙り、視線をキラやラクス、子供たち、ドゥーエから逸らす。左拳を強く握り締め、身体が震えている。

「……またしばらく戻ってこれなくなるからでしょうね。」

 マルキオが呟いた。

「プラントに戻るからですか?」

 ここまでの調査と見せられたシン・アスカの記憶からおおよその事情は把握している。
 キラ・ヤマトとラクス・クラインはあの若さですでに国家元首なのだ。
 それも戦争によって混乱したこの世界を平和な世界として平定していくという難解極まりない命題を追い続ける、この世界で最も重要な人間である。
 本来ならば、この二人がここにいて普通に生活していること自体がおかしいのだ。
 彼ら二人はプラントという国にとっては必要不可欠なはずだから。
 この世界に来たばかりのはやてでも理解できる。それくらいにそれは至極当然のことだった。

「ええ。お二人は一年の内、数週間だけここに逗留なされるのです。そして、その間だけ、子供たちと語らい、親としての責務を果たそうとしています。」
「親としての、責務?」
「あの孤児達は私が引き取った孤児なのですが……いつの間にやら私よりもラクス様やキラ様に懐き……今はあの子供たちはお二人の子供なのです。」
「養子、いうことですか?」
「ええ。あの子供達は、お二人の拠り所なんでしょうね。」
「拠り所……?」

 マルキオがシンに向けて顔を向けた。瞳は閉じているのにその仕草にはまるで淀みが無い。

「……そこのシン・アスカ君は知っているでしょう?あの二人がどれだけ信じられないほどの治世をしたのか。」
「……ええ、知ってますよ。」

 奥歯を噛み締め、苦々しげにシンがその顔を歪めた。
 マルキオはそれに微笑みを返しながら続ける。

「あの戦争で大打撃を受けたプラント経済の立て直し。人口流出に歯止めをかけ、プラントを戦前までとまで言わずとも、レクイエムによる虐殺以前の状態にまで近づけ、そして外交においては対等の講和条約を地球連合と結び、プラントに一時とは言え平和を取り戻した。」

 言葉は止まらず、歌うように流れていく。

「経済だけではなく、プラントの治安状態や、インフラ整備まで、ありとあらゆる全てをレクイエムによる虐殺以前の状態に戻した――信じられますか?ほとんど敗残国同然の国を、数年間で戦前のレベルにまで引き戻すなど、ほとんど不可能といってもいい所業です。」

 そこで一度言葉を区切り、一呼吸――続ける。

「ですが、それにも始まりがあった。プラントの議長に就任した時、ラクス様はお世辞にも政治のことを知っている訳ではなかった。」

 聞こえてくる声が酷く耳障りだった。
 ラクス・クラインの治世の始まり。
 その頃のことはよく知らない。
 それはちょうど自分が自暴自棄になって何もかもがどうでもよくて、ただただ差し出された獲物(ルナマリア)を貪って享楽におぼれていた時期だ。

「よくある話です。」

 マルキオはそう言って、話し始めた。

 ――石を投げられたという。
 
 そして、その石を投げた人間が連行されるのをラクス・クラインは偶然見たとか。
 連行された男の行く先は収容所だ。
 政治犯を収容し、矯正し、まともなプラント市民として生きれるように修正するのだ。
 矯正の内容は基本的に拷問という名のストレス発散。殺された人間は数多くいただろう。売られた人間も同じ程度はいただろう
 ラクスは、偶然にもそれを見た。
 人間の善なる部分の粋を集めたような彼女が見たものは、人間の悪なる部分の粋を集めたような煉獄。

 許しを請い、靴を舐め、それでも助けられることなく、銃殺された男。
 服をはぎ取られ、人間としての尊厳を失うまで犯され続けて売られた少女。
 邪魔だからという理由で宇宙にノーマルスーツも無しで放り出された人間たち。
 
 そこは地獄すら生温い狂気の苗床。
 ラクス・クラインは偶然にもその事実を知ってしまった。
 彼女が行おうとした政策ははっきり言ってお粗末なものだった。
 すでに開いていた貧富の格差を更に開かせるというもの。
 一部の者が甘い汁を吸い続ける腐敗の仕組みだった。
 彼女は臣下に進められるまま、よく意味を分かりもしない書類にサインをして、街頭で演説する。
 そんな毎日を繰り返した。誰も彼もが彼女を称賛した。
 そして、その最中彼女はそれを知ってしまう。

 偶然――そう、本当にただの偶然。
 彼女は偶然、その収容所に入り込んでしまい、誰に捕まえられることもなく収容所内を歩き回り、人間の悪なる部分をこれでもかというほどに見せつけられた。
 そうして、知ったのだ。自分がどれだけうわべだけで生きてきたのかを。どれだけ周りの人間に踊らされてきたのかを。
 ギルバート・デュランダルが推し進めていたデスティニープラン。
 彼女はデスティニープランが未来を殺すと立ち上がった。人類の未来を守る為に今一度剣を取らねばならないと。
 だが、その結果がこれなら、自分のやったことこそが未来を殺しているのではないだろうか。

 彼女は恐れた。全てを放り出して逃げ出してしまいたかった。
 彼女が本当に大事だったのは人類の未来ではなく、傍らに共にいる伴侶の幸せ。
 突出した力を持ちながら穏やかに生きたいと望む彼女の伴侶の為にデスティニープランを潰しただけでしかなかった。
 けれど、彼女はそこで全てを放りだせるほど弱くも無かった。

「昔はお化粧などされなかったのですが、今ではお化粧を必ずされるようになりました。瞳の下、わかりますか?」

 はやての視線がラクスを捉える。

「……ここからやとよく見えませんけど……隈とかあるいうことですか?」
「毎日毎日、政治について勉強をされたようです。プラントだけでは資料が足りないと私に資料を請求したことも一度や二度ではありませんでした。実際、その頃のラクス様がいつ寝ていらっしゃるか、伴侶であるキラ様もご存知無かったそうです。」

 マルキオはまるで自分のことのように嬉しそうに話していく。
 その声を聞く度に不快感が募っていく。あの時のように――ラウ・ル・クルーゼと初めて話をした時のように胸の奥に黒い何かがうず高く積み上げられていく。

「あの方々は自ら先陣を切って世界の平和を具体的な手段で作り出した。そして、その結果としての今があります。」

 言葉の意味はよく分かる。ラクスやキラが精一杯頑張っていたのも知っている。そして、結果を出してきたことも、皆知っている。
 自分はザフトでその手駒として戦い続けたからだ。誰よりも最前線でその事実を知らされてきた。

「世界は未だ平和にはほど遠い……ですが、毎日毎日世界は本当の意味での平和へと向かっているのです。戦争の無い、誰も泣く必要の無い世界へと。」
「……なんか、凄いことやってはるんですね。ああしてるとどこにでもいる新婚夫婦にしか見えへんのに。」
「あの二人が、互いを互いの伴侶としてから既に数年経っています。なのに、キラ様とラクス様の間に子供はいない――この意味が分かりますか?」

 はやてが一瞬言葉の意味を考えて黙り込む。知らず言葉が口を吐いて出た。

「コーディネイターだから、ですよね。あの二人に子供がいない理由は。」
「……ええ、仰る通り、あの二人から子供が生まれる確率は限りなく低い。だから――」
「その代わりにあの子供達の世話してるって訳ですか。」

 口調が少しだけ刺々しくなっていくのが分かる。他の誰にも分からない微々たる変化。

「……有り体に言えばそういうことでしょうね。もし、世界が平和になって、彼らを誰も必要としなくなるその日が来たら――あの二人はここで静かに子供達と暮らしたい、そう言っていました。」

 彼らを誰も必要としない世界――それは誰もが笑って暮らせる平和な世界のことだろう。
 戦争の無い平和な世界。誰も涙を流さない世界。誰もが笑って生きていける、そんな当たり前を享受出来る世界。
 自分が求めた世界も同じく、それだ。

 ――貴方は守ったんです。あの子供を。もうちょっと喜びましょうよ。
 ――“守りたい”なら、倒してみなさい、私を。
 ――貴方の勝ちです、シン。
 ――私、貴方が好きだから
 
 青い髪の彼女の幻影がちらつく。
 もうどこにもいないというのに思い出の中の彼女は今も自分に微笑んでくれている。

 ――元の世界には、もう、戻りたくないの?
 ――私も、作り物の人間だから。私にも分かるんだ。
 ――その人は私達のことなんてまるで見てないの。きっとどうでもいいって思ってる。酷いよね。私達はこんなにその人のことが好きなのに。
 ――貴方が好き。

 金色の髪の彼女が笑っている。いつも嬉しそうに笑っていた、思い出の中の彼女の通りに、彼女は自分に微笑みかけてくれている。
 どくん、と胸が鳴った。

 胸が痛い。心臓の鼓動が煩い。震える右の掌を見た。今もそこには、閉じたままの“瞳”がある。
 圧倒的な力を引き出す癖に、いざここぞという時にはまるで役に立たなかった、搾取の眼(エヴィデンス)。
 残ったモノは守れなかった後悔だけ。守ることで得られるはずの達成感はどこへいったのだろう。

 彼女たちの死に様を思い出す。
 突き刺さった剣。紅い血を流す肢体。守りたかった女たちのなれの果て。自分が守れなかった証明。
 自分は何も出来なかった。
 返事を返すことも――断ることも、嫌われることも、拒絶することも、何も出来ずに、ぬるま湯のような関係を続けようとした。何かを決めることが怖かった。

 そして、何も守れずに、何もかもを失った。守りたかった誰かを、守る為の力も、縋りついていた目的も、何もかも。
 自分は全てを失って、生きる意味さえ失ったのに、大切になったかもしれない誰かをも失ったのに、彼らは何も失っていない。
 だから、その言葉に、苛立ちを覚えた。

「……自業自得、じゃないですか。」

 口から出た言葉は胸の奥に押し留めておこうと思った言葉。

「それは、あのお二人のことを言っているのですか、シン・アスカ。」

 マルキオの口調が変化する。柔和で穏やかな言葉が消えた。低く重苦しい声。
 八神はやてが自分に目配せしつつ口を開いた。

「シン。」

 胸の奥で朱い炎が燃え上がる。

「全部、自業自得じゃないですか。勝手に戦争に紛れ込んで、勝手に世界救おうとして、誰も頼んでないのに好き勝手やった結果でしょう?世界救ったから、重荷背負わされて、大変な目にあって……それ、全部自業自得じゃないですか。」
 
 言葉が止まらない。津波のように胸の奥から言葉が勝手に押し出されていく。

「なのに、裏にそんな事情があったから、許せとか尊敬しろとでも言いたいんですか?」
「シン!」

 八神はやてが、自分の左手を掴んで握りしめる。僅かな痛苦。
 けれど気にもならない。そんな痛みよりもこの男の言葉が癇に障って仕方がない。
 一歩、マルキオに向かって足を踏み出した。口を開こうとしたら、それに先んじてマルキオが話し出す。

「世界は正しい者が導かなければならない。キラ様とラクス様は正しく人類の導き手。それ故に彼らには世界を導く責務がある。個人としての責務や欲望を放棄して、世界の為に、英雄として生きてもらわなければならない。それが正しい世界のあり方です。」
 
 苛立ちが募る。ラウ・ル・クルーゼに感じた嫌悪感。それと同じモノを目前の男から感じ取る。

「……だから、尊敬しろって言ってるのか、あんたは?」

 口調から敬語が消えた。眼が釣り上がるのが自分でも分かる。

「ええ、そう言っているのですよ、“クラインの猟犬”シン・アスカ。」

 唇を噛み切った。マルキオの服の襟を掴み、力任せに引き寄せる。

「……あんたらは、全部持ってるじゃないか。」

 堰き止められていた言葉が溢れ出て行く。

「家族も、友達も、大切な人も……幸せに、生きてるじゃないか――俺は、全部失くしたんだぞ?」

 二人の顔が思い浮かぶ。もう絶対に取り戻せない二人との思い出が。

「ギンガさんやフェイトさんはもう戻ってこない。」

 吐き出す言葉は目前の男には決して届かない。“あっち”の世界のことなど決して届くはずも無い。

「俺の力もどっかに消えて、あんたらみたいに生きてく意味なんて、全部失くして、なのに、何で……!!」
「シン!!」

 知らず両手に力が篭っていたらしい――マルキオの首を締めるようになっていた。
 はやてに後ろから羽交い絞めにされ、力任せに引っ張られた。瞳孔が開いているのが分かる。瞳は限界まで釣り上がり、呼吸が荒くなっていく。

「……なんで……俺は……!!」

 視界にちらつくのはフェイトとギンガの笑顔。
 もうどこにもいない二人。ちらつく二人が余計に呼吸を荒くさせ、胸の鼓動が大きくなる。
 ずきんと頭の奥で痛みが走る。

 視界が真っ赤に染まる幻影。胸の奥に暗く冷たいナニカが落ちていく。腐った水のように奥底に溜まり続けるナニカ。多分、後悔だ。
 何も取り戻せない。失った。無くなった。どこにも無い。
 
 お前のせいだと誰かが呟いた。頭が痛い。
 お前のせいだと誰かが呟いた。吐き気が酷い。
 お前のせいだと誰かが呟いた。全身の力が抜けていく。
 
 マルキオを見る。どうでも良さそうに、自分を見下している。
 その視線に言い返す言葉は何も無い。
 生きる価値が無いのは当然だ。力しか取り得の無い自分。
 そんな自分から力が失われた。戦うことも出来ず、逃げることも出来ず、ただ同じ場所をぐるぐると回るだけの自分自身。
 屑と呼ばれ、蔑まれるのが当然の自分――悔しさが湧き上がることが不思議だった。
 自分は自分に何を期待しているのだろうか。

「なんで……」

 ――自分は生きているのだろう?死んだ方が良い自分。こんなに不幸で惨めで不様でくそったれな自分はどうして、幸せにもなれないのに生きているのだろう?

「シン!!」

 瞼が落ちる。はやてが叫んだのが聞こえた。膝が折れていく。口から何かが毀れていく。血なのか、胃の中の内容物なのか、分からない。
 顔が粘液に塗れた。吐き出したものに頭から突っ込んだのだ。惨めで不様でみっともない。
 もう耳には何も届かない。何も聞こえない。静寂だけが耳に届く。眠っている時とは違う、本当の静寂は耳に痛い。自分がどこにいるのか、何なのか、その全てが曖昧になっていくから。

 ――私、貴方が好きだから
 ――貴方が好き。
 
 二人の言葉が蘇る。暗い視界の中でその言葉が胸を抉っていく。二人の視線がどこまでも自分を縛り付ける。後悔だけが胸に残る。
 頭のどこかで誰かが囁く。

『それでいいのですか?』

 誰の声だろう。聞きなれているはずなのに誰の声なのか分からない。

『貴方はそれで終わっていいのですか?』

 それでいい。自分はその為だけに生きてきた。誰かを守って死ねるならそれは十分すぎ――

『なら、貴方はまだ死んではいけない。生きていたくないなんて言っては駄目です。だって、貴方はまだ何も守れていない。』

 ……何も言い返せない。腹立だしいけどその通りだ。自分は何も守れていない。

『だけど、貴方はまだ生きている。だったら、精一杯生きなくてはいけない。そうだろう?』

 言葉の途中から口調が変わった。声は変わらないのに、聞き覚えのある口調へと。

『出来なかったなら、何度だって繰り返せば良い。お前はずっとそうやってきたんだ。気にするな。俺は気にしない。』
(……守れなかったんだ。気にするに決まってるだろ。)

 何かを忘れているような感覚がした――だけど、そのふざけた言葉がそんな感覚を全て吹き飛ばす。
 出来るはずがない。そんな風に割り切って、切り捨てて、前に進むなんて出来るはずもない。
 
 意識が落ちていく。もう、どうでもいい。自分は何も出来ずにこの汚泥の中に沈み込んでいくだけだ。
 胸の奥に棘が刺さったような不快感。けれど、それが何を意味するのかも分からずに、意識が閉じる。

 ――もう、何もかもがどうでもよかった。


 瞳を開ければ薄暗い。遠くに光が見える。
 起き上がってそちらに顔を向ければ、八神はやてがパソコンを開いて何か作業をしている。
 寝汗をかいていたせいか、肌にシャツがくっ付いて気持ちが悪い。
 隣のベッドではドゥーエが既に眠りについていた。枕元に置かれた時計を手にとって時間を確認する。
 時刻はすでに1時を示している。

「起きたんか……いきなり、倒れるから皆心配しとったで?」
「……俺、あれからずっと寝てたんですか。」
「過呼吸みたいな感じになったかと思うといきなりバタンキュー。ほんで、ドゥーエとキラさんがキミをここまで運んで寝かせて……そうやな、9時間くらい寝とったんやない?キミ、最近寝不足気味やったやろ?それもあったんやと思うわ。」
「……そうですか。」

 呟いて、立ち上がる。眠ったせいか頭がすっきりしている。

「ちょっと外、出てきます。」
「はいよー、あんまり、遅くなったらあかんで?」
「……ええ、わかってますよ。」

 くすくす、と笑う声が聞こえた。
 はやてが笑っているのだろう。
 どうにも気恥ずかしくなり、昼間に感じた母親――或いは姉――に注意されるような感覚のせいだろう。口調に粗さが交っていく。
 扉を開けて、居間へ行く。
 喉が渇いてカラカラだった。倒れる前に吐いたせいかもしれない。

(……八神さんが、拭いたのか)

 頬に手をやる。顔から胃液のような臭いはしない。あの時自分は吐瀉物の中に顔をうずめたというのに――彼女が拭いたのだろう。どうして、彼女はこれほどに甲斐甲斐しく世話をしてくれているのか。こんな役立たずの自分を。

「シン、起きたのかい?」

 声がした。顔をそちらに向ける。キラ・ヤマトが窓際に椅子を立てて、座っていた。月を見ている。

「ええ。あんたは、まだ寝ないんですか。」
「……眼が冴えてね。ちょっと月でも見てるんだ。」
「……そうですか。」

 呟き、彼の横を通り過ぎて台所へ。食器棚からコップを取り出し、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに注ぎ、一息で呑み込む。
 喉を通る水の冷気が胡乱な頭を少しだけはっきりさせる。コップを流しに置いて、キラを見る。今も変わらず窓を眺めている。
 あまりにも無防備な背中。自分を信用している訳ではなく単にそういう人なのだろう。無防備で無自覚で無用心。
 でなければ、こんな訳も分からない人間を匿った挙句に警備もつけずに逗留したりなどしないだろう――実際は敷地内どこかに警備の人間が一人くらいはいるだろうが――屋敷内にはいない。

 台所の蛇口の上の棚に収められている金属が目に入った。
 包丁。食材を切るモノ。野菜を、肉を切るモノ。転じて刃金。鋭く尖ったその刃金を突き込めば人の命など簡単に尽きる。
 キラの背中を見る――不用意で無用心で無自覚。“そんな状況”などきっと想像もしていない。
 殺せる。今なら多分殺せる。
 そんな囁きが聞こえた。
 雑音交じりの言葉が脳裏を飛び交っていく。

 どうして殺すのか――八つ当たりだ。こんなに不幸な自分はあれほど幸福な人間を殺してもいいだろうという八つ当たり。逆恨み。意味の無い行為。
 もし、そうなれば脳裏にちらつく彼女達は多分二度と笑わない。
 思い出にすら見捨てられて――今度こそ自分は全てを失う。
 唇が歪む。自嘲めいた微笑み。
 そうしたら、自分はきっと誰かに殺される。

 自分で死ぬことは出来ない。
 手首を切ろうかと言う想いはここに来て何度かあった。
 深夜の海岸は殆ど無人で、自殺するための道具などそこら中に転がっている。なのに死ななかった――“死ねなかった”。
 自殺をする際に人は何も考えない。無心だ。気づいてしまえば恐れを抱く。
 だから、基本的に心は虚無。つまり空っぽだ。この現実から逃れたいと言う本能が身体を動かして殺すだけ。文字通り、自分(カラダ)が自分(ココロ)を殺すのだ。
 けれど、それを遮ったのは、コマ送りのように視界に入り込む、二人の笑顔と死に様。網膜に焼き付いて離れない思い出(フラッシュバック)。

 それを見る度に死ねなくなった。死のうとすれば吐いた。胃の中には何も無いと言うのに身体が勝手に吐こうとする。だから、諦めた。死ぬことを――けれど、今、目前には自分を殺してくれる誰かがいる。
 殺そうとすれば、キラはきっと自分を殺す。インパルスでフリーダムを落とした時もそうだった。優勢であるからこそ、キラ・ヤマトは不殺などということを行った。
 あの時、自分が優勢に立ち出した時、彼が劣勢にさらされ出した時、それまでの不殺などと言う行為を取りやめて、コックピットを狙った。
 だから、今だって同じだ。本当の命の危機に相対すれば彼は反抗しこちらを殺すだろう。仮に殺してしまっても、その後に世界の英雄を殺した自分を生かしておく必要などある訳も無い。可及的速やかに世界はきっと自分を殺してくれる。

「……」

 包丁を手に取り、右手で握り締める。
 ごくり、と唾を飲み込んだ。
 水を飲んだばかりだと言うのに喉がカラカラに渇いて仕方ない。
 停止する思考/自動的になっていく身体――元々自分の意思などなく、ただ流されるままに生きた命。
 だから、どこで終わっても本当は良かったのだ。落とし所を探していただけだから。
 けど、その落とし所で死ぬことは出来なかった。だから、どうでもいいところで殺されよう。

「……ちょうどいいや。少し、話をしないか?」

 キラが呟いた。包丁を彼からは見えない位置に隠し、答える。

「…ええ、いいですよ。」
「昼間、キミを呼んだのはさ、話がしたかったんだ。キミとは何にも話しとかしたことなかったしね。」
 
 その通りだ。話などする必要も無かったし、どうでも良かった。
 モビルスーツに乗って戦い続ければソレでよかった。
 思考を放棄し、選択を忌避して、ただ戦い続けることに没頭していたから。

「色々と言いたいこともあるだろうし…あ、それと敬語はやめてくれないかな? キミとはそんな風に話をしたくない。一応、キミのことはアスランから色々聞いてて知ってるけど……キミも言いたいことは色々あるだろう?」
「……黙れよ。俺の気持ちなんて何も分からないだろ、アンタは。」

 知らず、呟いた。包丁を隠し持つ右手が震え出した。虚無だったココロに朱いモノが混じり出す。憤怒と言う名の朱が。
 我慢が出来ない。このまま、その首筋にこの刃を突き立てようと身体を緊張させる。
 だが、キラはそんなこちらの様子になど気づいていないのか、何の気無しにいつも通りに呟いた。言葉の内容はあまりにも予想に反していたが。

「――まあ、そうだよね。分かる訳無いさ、そんなのは。」
「え?」

 思わず、声を発した。返答があまりにも意外な返答だったから。

「分かる訳無いって言ったのさ。キミの気持ちなんて僕に理解出来るはずがない。僕の気持ちをキミが理解できないようにね。普通そうだろう?」

 そう、キラは月を見つめ続ける瞳をこちらに向けて呟いた。

「そ、そうだな。」

 小さく返答を返した。

(これは、誰だ?)

 シンの予想していた返答は「キミはどうして、分かってくれないんだ?僕たちは素直にならなきゃいけないのに。」と言うもの。なのに、返ってきたのは、「分かる訳が無い」と言う極普通の言葉。
 シンは、そんなキラ・ヤマトを見た事が無かった。シンの見てきたキラ・ヤマトは理解出来ない存在――自分の意見を押し付け、他人の意見はまるで聞かない、そんな人間だった。いつも笑いながら、理想を詠い、世界を壊す、ならず者。同じ人間なのかすら疑うような存在だった。
 なのに、今のキラ・ヤマトは、まるでどこにでもいる人間のようで、自分の知るキラ・ヤマトとまるで重ならない。
 これは、一体誰なのか。

「とりあえず、座ったらどうだい?立ったままじゃ落ち着いて話も出来そうに無い。」
「あ、ああ。」

 促されるまま、椅子に腰を掛けた。
 右手には包丁を隠し持つように握ったまま――ココロの中に渦巻いていた、自分は正しい、殺すべきだ、殺されるべきだ、と言う感情が薄らいでいく。気を抜くと――気を抜けば、即座に許してしまいそうなことに恐怖を感じる。
 椅子に座り、キラを睨み付けた。そうしていなければ、自分が何をしようとしているのかさえ忘れてしまいそうだった。
 キラが口を開いた。

「君は、変わったね。昔はもっと無気力な人間だったのに。」
「…知るか。俺は何にも変わってない。」
「そうかな?ラクスも言ってたけど、今のキミにはまだ生気がある。僕らの元にいた頃の君にはそんなのは無かったから、そう思ったんだけど。」

 当然だ。あの頃の自分には何も無かった。
 だから、言われるままに誰でも捕まえた。殺しは極力しなかったが、それもキラやラクスに“言われた”から。言われなかったら簡単に殺していた。

「……目的が出来ただけだ。」

 意識せずに言葉が吐き出されていく。

「目的?」
「……守ってみたかったんだよ。今まで一度も守れなかったから。」
「守れなかった?」

 キラがこちらに顔を向けて問い返してくる。その顔から目を逸らし、呟く。

「“こっち”では一度も守れなかった。だから、あっちならって思ったけど、結局誰も守れなかった。」
「あっち?」
「……ああ、何にも聞いてないんだな。」

 はやては何も言っていない――隠しているのだろう。
 確かにこの世界には魔法は無い。同じく管理局の存在も知られていない。そんなものがあるとさえ思われていないだろう。
 ましてや別世界にいて、魔法を使って戦っていた――御伽噺のネタにもならない陳腐な妄想と嗤われて終わりだ。

(…それもいいか。)

 そう、思って口を開いた。

「……簡単に言えば、別の世界に行ってたんだよ、俺は。そこはモビルスーツとかは無くてあるのは御伽噺に出てくるような魔法とかしかなくて、八神さんやドゥーエはそこの世界の人で、俺はずっとそこで戦ってた。」

 一息でまくし立てるようにして話す――目前のキラは何を言っているのか、理解できない、そんな顔をしている。当然の反応だ。
 発狂したとでも思われているのかもしれない。別にそれでも構わない。むしろ、それが普通の反応だ。
 そう、思っていたのに――

「……予想の斜め上を行ってくれるね、キミの人生は。…しかし別世界か…まさか、本当にそんなことになってとは。」

 キラ・ヤマトは予想と違い、信じやがった。その与太話としか思えないような真実を。

「……信じてるのか、この話。」

 思わず呆気に取られる自分。話していた自分自身が一番信じられないような事柄なのに、目前の男は信じてる。

「え、嘘だったの?」
「いや、本当だけど……そんな簡単に信じてもらえるとは思わなかったから。」
「ああ、確かにね。信じられないって言ったら確かに、そうだけど…キミはそういう人じゃないしさ。」
「なんで、そう思う?」
「勘とか、アスランから聞いてる話とか……あと、そうだね。君らが隠し事してるのは分かってたから、何かあるなとは思ってたし。」
「……そうか。」

 言葉を交わす内に胸の奥にあった苛立ちが消えていく。その事実に恐怖を感じる。思わず“許して”しまいそうで。
 包丁を再度握り締める――自分でも分かるほどに気持ちが揺らいでいる。それを握り締めること自体が間違いなのでは無いかと自身を戒める言葉すら浮かび上がる。

(俺は……)
「それで、僕を殺すの?」

 息が止まった、ような気がした。初めと同じくキラは身体を窓に向けて空を見ている。
 こちらを見もせずに呟いていた。

「え。」
「…幾ら僕でも君の様子がおかしいことくらいは分かるさ。それに隠してるようだけど、窓に映ってバレバレだよ、その包丁。」

 窓を見る。椅子に座って包丁を握り締める自分が映っている――醜い姿、だと思った。

「……気づいてたなら、何で」
「君が僕を殺したいなら、殺せばいい。そう、思ったからね。」

 まるで他人事のようにキラは呟く。

「あんた、死にたい、のか?」
「そういう訳じゃ無い。ただ、殺される覚悟くらいはあるってことさ。僕は君の大事なモノを幾つか奪ってるはずだから。」

 その言葉に背筋が総毛立って、幾つもの記憶が浮かび上がる。
 憤怒が蘇る。包丁を握り締めた。醜い姿の自分。だが、それがどうした。自分はいつもそうだった。醜悪で惨めで不様で、今更そんな程度で躊躇するような人間ではなかったはずだ。
 瞳から憤怒が消え、冷たい光が立ち昇る。椅子から立ち上がり、流れるような動作でキラの背後に回り込み、彼の首筋に包丁を突きつける。
 ミッドチルダで培われた戦闘技術――白兵戦の技術は今もシンの中に根付いている。
 モビルスーツに乗っていない人間など殺せない訳が無い。

「……殺されたいのか、キラ・ヤマト。」
「どうだろうね。」

 突きつけられた包丁に慌てる様子も無く、キラは呟いた。

「ただ、僕とラクスはプラント全市民を背負ってる。僕を殺すということはプラントを殺すと言うことになる。君のその包丁はプラントを殺す――それだけは言っておきたかった、くらいかな。」
「脅してのるか、あんた。」
「まさか、確認さ。それを分かってるなら、殺されるのは構わない。」

 そう言って、キラは自分に顔を向ける。触れている包丁に物怖じする様子はまるで無い。殺されないとでも思っているのか――そう思ったが、多分違う。本当に覚悟しているのだ、目の前の男は。

「ただ、ラクスを殺すのは、やめてくれないか?」

 眼と眼があった。ごくりと唾を飲み込む。少しだけ身体が後ずさる。
 
「彼女の罪は僕が背負うと決めたから。勝手なこと言うけどキミに殺されるのは構わないけどキミがラクスを殺すのは許さない。」
 
 包丁を持つ右手が動かない。瞳に映り込む静かな覚悟――それに飲まれているのが自分でも分かる。その瞳に映る自分自身が見えた。
 その顔の醜さと浅ましさに寒気がした。

「……あ」
 
 足が後ずさる。言葉が出ない。
 数歩下がったくらいで椅子に足がぶつかった/崩れるバランス――右手から力が抜ける。身体中から力が抜けていく。からん、と音を立てて包丁が床に落ちた。
 ドアが開いた。思わず視線がそちらに向かう。

「シン、何どたばたしとるん?もう遅いんやから、いい加減に寝んと……シン?」

 声の主は八神はやて――彼女がそこにいた。
 瞬間、矢も盾も無く走り出した。
 扉を開けて、砂浜を必死に走った。
 何故そんなことをしたのは理解出来ないし、したくもない。
 ただ衝動的に走った。
 
 ――見られたくなかったから。八神はやてやドゥーエのような、“あっち”の人間には自分の浅ましさを知られたくない、そう思ったからかもしれない。

 気がつけば砂に足を取られて転んでいた。
 息が荒い。心臓の鼓動が煩い。口の中に砂が混じりこんで、砂交じりの唾を吐き捨てた。

「ちくしょう。」

 惨めだった。
 最高に惨めだった。
 殺そうとして、殺す相手の雰囲気に呑まれて殺せなかった自分。
 死のうとして、手首を切ることすら出来そうにない自分。
 最高に惨めで、最悪に不様だった。

「……ちくしょう。」

 寝そべったまま呟いた。
 しばらく、そのまま砂浜に寝そべっていた。
 戻ろうと言う気は無かった。あそこにいれば自分の惨めさが浮き彫りになるから。これ以上に惨めになるなど在り得ないだろうけど。
 立ち上がり、砂塗れの身体のまま、とぼとぼと歩き出す。
 行き先は――分からない。そんなものどこにも無い。
 自分の住んでいた家はもうここには無い。
 以前、ルナマリアがオーブに行くと言った時に探してはいたのだ。
 もう思い出すことも無くなった家――だけど、そこには思い出くらいはあったから。
 結果は惨敗。既にその家は取り壊され道路になっていた。
 それもルナマリアと一緒にオーブに行かなかった理由の一つだった。
 昔のことを思い出しても、どこにもいない家族。その時、自分は本当に一人ぼっちの天涯孤独なのだと思い知った。
 
 自分はどこにもいる場所は無い。そう、感じたから。だから、オーブには行きたくなかった。
 
 ルナマリアにはそれを伝えなかった。伝えれば余計惨めになると思ったから。そんな思考もその後直ぐに止まったが。

「……」

 無言のまま砂浜を歩く。
 思考は停止。ココロも停止。それはその場にいたくないというだけの行動。
 キラとのやり取りを思い出す。

(……逆恨みだってわかってるさ。)

 あれは戦争だった。キラ・ヤマトは守る為に戦った。その上で失敗しただけだ。
 やっていることはミッドチルダにおける自分と大差はない。
 違いがあるとすれば自分は失敗して、キラ・ヤマトは失敗しなかった。
 ただ、それだけ。
 考えれば考えるほどに自分が情けなく思えていく。

「……もう、いいよ。」

 呟いて、歩き続けた。
 見えるモノは色々だ。
 深夜だと言うのに明かりの消えない町並み。
 明るい場所に行けば、人通りはこの時間でも減っていない。
 活気のある町並み――自分の住んでいた頃のオーブを思い出すほどに。
 溢れんばかりの活気は余計に自分をみじめに感じさせる。
 足並みは重く、身体も重い。
 どこまで歩いてもどこにも行く場所は無い。
 自分には行くあてなどどこにもない。

「……はは。」

 自嘲の微笑みが浮かぶ。同時に、再び二人の笑顔がちらつく。

「最低、だな。」

 返事を返すこともしなかったのに、守ることも出来なかったのに。
 この期に及んで、自分はまだ彼女たちに縋りつこうと言うのだろうか。自分自身の最低さに吐き気がする。
 大体何で二人同時にちらつくのだろう。普通なら一人のはずだ。なのに、いつも現れる幻影は二人同時。
 不誠実にも程がある。これではまるで自分は二人に対して同時に恋をしているようで。

(……死んだ方が良いな。本当に。)

 心中で呟きながら、歩いた。
 そのまま延々と俯きながら歩き続けた。どれくらい歩いたのかは分からない。
 1時間や2時間は確実に歩いたように思う。
 ふと、気がつけばあたりの風景が変わっていた――以前ドクターJに連れられて行ったような歓楽街。ネオンの毒々しい輝きが眩しい。

「……なんだってこんなところに来てるんだ、俺は。」

 溜め息を吐いて振り返った。こんなところにいてもどうしようもない。自分にはまるで関係のない場所だ。
 再び、俯いて歩き出す。人ごみに紛れるようにして、歩く。
 そうして、歩いていれば、この胸にぽっかりと開いた穴が埋まる――そんな気がして。
 人込みは雑多で、色んな人がいる。
 誰もが笑っている、そんな気がする。憂鬱な顔をしているのは、誰あろう自分だけ。
 場違いな感覚に襲われる――自分は、此処にいてはいけないのではないかと。
 
 そうやって、歩く最中、誰かと肩がぶつかった。

「あ、すいま……」
 
 声を出して謝ろうとする前に胸倉を掴んで殴られた。
 
「……なんだ、お前。人にぶつかっといて……」

 吐く息が酒臭い。相当の量を飲んだのだろう。
 見れば目は据わり、明らかな酩酊状態で言葉に呂律も回っていない。
 細身ながらがっちりとした見た目からそういった職業――恐らく軍人か傭兵――だろうと予測をつける。人数は5人。
 何か喋っているものの呂律の回っていない口はまともに言葉を紡がせない。

 それでも酔っぱらった者同士のシンパシーとでも言うのか口々に「そうだそうだ!」などと叫び合ってこちらを殴る勢いを強めていく。
 何が、そうだ、なのかは分からない。
 多分彼らにだけ分かる秘密言語みたいなものだ。
 鼻血が出てアスファルトの黒に染み込んでいく。殴られた頬が熱い。肩や腹が痛みと熱で暴れている。

「……ぁっ……」
 
 あまりにも好き勝手に殴るものだから、こっちの自制心も少しだけ薄れてくる。
 酩酊状態の酔っぱらい5人を殴り返して黙らせることは――無理をすれば、出来ないことも無い。
 右手に力を込めて、苛立ちと共に殴り返す――だが、拳は空回り、当たらずに空を切る。
 拳が空を切ったところを後方にいた酔っ払いに殴られた。
 その後は――馬鹿みたいに殴られ続けた。
 
(……かっこ悪い、な。)
 
 いきなり殴られて、そのままボコボコにされ、殴り返そうすれば、拳は当たらない。
 上手くいかない――何もかもが上手くいかない。
 握り締めた拳から力が抜けていく。
 どうでもいい。どうせ、殴ろうとしても当たらない――そう、思うと、途端に何もかもがどうでもよくなった。
 
 そのままどれくらい殴られ続けただろう。
 気がつけば意識は途絶えていた。

 それが10分か20分か30分か、それとも一時間か。分からない。
 意識を失っていたことに気づいたのは殴られることが終わっていたから。
 
 誰かに優しく額を撫でられている。
 見える顔は青く長い髪の彼女。
 優しく微笑んで、こちらを眺めている。
 眼があった。彼女は起きた自分を見て嬉しそうに微笑んでいる。
 そこに金髪の彼女が現れて、自分を撫でる青い髪の彼女に何か文句を言っている。
 青い髪の彼女はそれを澄まし顔で聞き流し、金髪の彼女は競い合うようにして自分の横へやってくる。
 そして、その後ろから現れる二人の少女――青い髪と金髪の少女。彼女たちの娘なのだろうか。仲が良いのだろう。自分に向かって二人同時に飛び込んできた。
 声は聞こえない。音は無い、真の静寂。
 皆が微笑みながら喋っている。自分も同じく喋っている――声は聞こえない。音は無い、真の静寂にも関わらず。
 夢、というよりは妄想だろう。脳が何かしらの願望とか希望とかを見せているのかもしれない。

(……脳味噌、腐ってるんじゃないのか、俺。)

 だが、だとしたらこれは何を意味するのだろう。これが自分の夢見る未来とでも言うのだろうか。だとしたら、自分の脳味噌は確実に腐ってる。
 二人の左手の薬指には銀色の指輪が光っている――同じく自分の左手にも銀色の指輪が“二本”光っていた。
 要するにこの夢の中での自分は彼女たち二人と結婚して、子供まで作ったらしい。
 それを見る自分は嘲笑する。
 不誠実にも程がある――だけど、どこか納得もしていた。
 
 “どうせ”選べなかったのだ。
 
 どちらかを選ぶことも出来ずに、宙ぶらりんのまま、なし崩しでこうなったに違いない。
 ご都合主義の幸福主義。こんな誰でも妄想するような幸せを自分は求めているとでも言うのだろうか。
 だって、冷静に考えてこれはおかしい。
 二人は死んだ。もういない。だから子供も作れなければ自分と結婚するなどありえない。
 仮にあの時、二人が死ななかったとしよう。それでもこれはおかしい。

 だって二股だ。二股をかけて、それで幸せになる人間なんてどこにいるというのだろう?
 それ以上に二股をして行き着く先は修羅場しかありえない。それがこんな幸せそうな風景に繋がるなんてありえない。
 これが自分がどちらも選べなかった要因から生まれる未来だというのならありえる訳も無い。
 そんな宙ぶらりんしか出来ない男がどうやったら二股をかけて重婚して子供を作って幸せに暮らすなど出来るだろう?
 考えるまでもない。不可能だ。
 
 だから、これは妄想だ。
 大方殴られ続けて熱をもった自分の脳味噌が見せている願望――妄想に過ぎない。二股を望むなど男として最低の願望だというのに。

(……最悪だ。)

 心中で呟き、とにかく何でもいいから夢なら早く覚めて欲しいと、切実に願った。
 こんな妄想をいつまでも見ていると頭がピンクに染まっておかしくなりそうだから。
 その願いが通じたのか、幻影が一瞬で消えた。
 青い髪の彼女も、金髪の彼女も、青い髪の少女も、金髪の少女も、何もかも。それに一抹の寂しさを感じる――だが、どうでもいいことだ。
 どの道あんな未来は存在しない。行きつく訳も無いのに願っても仕方のないことだ。
 夢が醒める。
 現実が押し寄せる

「……あんたねえ、いい加減に起きたらどうなの?」

 声がした。聞き覚えのある声――正直、思い出したくも無い声。頬が軽く優しく叩かれている。
 目を開いた。
 見えたものは思い出よりも大分と伸びた紅い髪と大人びた風貌。

「久しぶりね、シン。……何年ぶりかしらね。」
「……ルナ、か。」

 にこやかに笑うルナマリア・ホーク――世界で一番会いたくない人間がそこにいた。



[18692] 第三部コズミックイラ飛翔篇 54.此処より永遠に(b)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/05/31 18:14
 瞳を閉じれば映る鮮明な思い出。
 ギンガの微笑みとフェイトの微笑み。

 いつだって彼女達は自分に良くしてくれた。

 だから、自分は感謝していた。こんな自分の為にそんなにしてくれるなんて、なんて良い人達なんだろう、と。
 例え、そこにどんな理由があろうと、自分は彼女達を守ると。その他大勢と同じく守ってみせると、そう思っていた。

 理由――彼女達は自分のことを異性として好きだと言った。
 だから、良くしてくれたのだろう。
 
 本当はその場で断るべきだった。
 自分にはそんな気持ちは無いと言うべきだった――なら、どうして自分はそれを言わなかったのか。
 答えは簡単だ。そのぬるま湯のような関係をずっと続けていたかったから。
 “二人を”守っているという達成感をずっと味わい続けたかったから。
 断れば、両方を守れなくなる。縁を切ることに繋がるから。
 受け入れれば、片方を守れなくなる。誰かを選ぶと言うことは誰かを切るということだから。
 どちらをも守るなら、絶対に返事を返してはならない。
 
 それが唯一の答え――そうして、その望み通りに返事を返さなかった。
 そうして今ではもう返事を返すことも出来なくなった。
 
 眼に焼き付いて離れない二人の笑顔。
 それがちらつく度に心は千々に乱れて、平静を保つことを許さない。
 
 その笑顔から逃れたい。強くそう思う。
 その笑顔は自分を苛ませるだけのモノ。その笑顔から得るモノなど何もない。
 
 曖昧な自分のココロ。行き先の見えないこの人生。ココロは死を望み、カラダはそれを許さない。
 終わることも、前に進むことも出来ずに、自分はただ停滞する。
 
 ――これは、自分の運命に抗い続ける一人の男の物語。



 目の前にはにこやかに笑う昔の恋人。未練はない。あれば、こうして何を話すべきかなど悩まない。
 紅い髪の女。ルナマリア・ホーク。自分にとって世界で一番会いたくなかった女。

「久しぶりね、シン。何年ぶりかしらね?」
「……ルナ、か…?」

 見れば、自分はソファに寝かせられていた。
 瞳を動かして、付近を見る――見慣れない場所。ぱっと見た感じ、グラディスの喫茶店によく似ている感じがする。
 ルナマリアと目があった。彼女は椅子に座り、足を組んでこちらを見ている。
 それがやけに様になっていて、不思議な感じがした。自分の知る彼女はここまで大人っぽい女性ではなかったから。


「何よ、昔の彼女の顔忘れちゃったの?」

 落ち着きなくあたりを見回し、最後に彼女を見て不思議そうな顔をする自分にルナマリアはくすくすと笑いながら呟いた。
 忘れる――忘れたことは無かった。
 思い出すことこそ、少なかったものの彼女のことを忘れることなど出来なかった。
 別に今でも好きだとかそういった理由ではなく、ただ単に“捨てた”という負い目と申し訳無さと、そして記憶に残っている彼女の感触からだ。
 彼女との記憶で残っているのはそんなものばかり。
 正直、それはあまり、思い出したい記憶ではなかった。
 
 戸惑っているのはそれ以上に今の彼女が自分の知るルナマリア・ホークとどこか違っていたからだ。
 以前は短く切り揃えていた紅い髪が今では背中の中腹にまで伸びている。顔つきも大人びているせいか、面影はあるものの全く同じという訳ではなかった。
 
 彼女は変わった。見た目もそうだが、恐らくは内面も変わっているのだろう。
 時間の経過を感じさせるその変化。置いていかれた――そんな類の寂しさを感じる。
 置いて行ったのは自分なのに。逃げ出したのは自分なのに。
 そんなことを思う資格なんて自分には無いのに――益体も無い思考に囚われる前に口を開いた。

「……変わったな、お前。」
「そりゃね。あれからもう3年も経ってるんだもの。見た目くらいは変わるわよ……あんたは本当に昔のままだけどね。」

 3年。彼女と別れてからの時間だ。同時に戦争が終わってから過ぎ去った時間のことでもある。

「ここは、どこなんだ?」
「私の店よ。昼間は喫茶店、夜は小さな居酒屋やってるの。」

 室内を見渡せばカウンターと小さなテーブルが幾つか置いてあるだけの簡素な内装。
 窓から見える景色は華やかなネオンの毒々しい雰囲気だと言うのにこの場所だけが静かな雰囲気を保っている。

「お前、家族と暮らしてるんじゃなかったのか。」
「今は一人でここで暮してる。2年半くらい前にメイリンと大喧嘩して出てきたのよ。オーブ軍もその時に辞めたの。アスランはずっと私に行くなとか言ってたけど……正直、もう軍とは関わり合いになりたくなかったし。」

 少しだけ口調が荒くなった。その頃のことを思い出しているのかもしれない。

「…メイリン、それにアスランか」

 懐かしい名前。思い出すことすら久しくなかった昔の仲間――そして、自分達を裏切った仲間。
 今となってはもはやどうでもいい事柄ではあったが。
 以前はその名前を聞いただけで、視界が真っ赤になるほどに激昂したはずだが――今ではそんな気持ちも最早無い。正直、どうでもいいことだ。

「そんなことより、あんたは今まで何してたのよ。」

 ルナマリアの瞳が鋭くなり、声が少しだけ低くなる。
 怒っている、のかもしれない。それなりに彼女とは付き合いが長いから、彼女の考えていることも何となくだが理解できる。

「……色々あったんだよ。」

 それでも、ミッドチルダでのことを言う気にはならなかった。
 キラ・ヤマトに言ったのはどうでも良かったからだ。別に狂人と思われても構わなかったから――そう、思われたいとさえ思ったから。
 けれど、目前の彼女にはそう思われたくなかった。
 何故か――考えるまでも無い。
 彼女は、一度縁を切ったとしても、ルナマリア・ホークはシン・アスカにとって掛け替えの無い“戦友”だからだ。

 共に戦場を潜り抜けた――ミネルバで共に戦った幾人かの内の一人。
 彼らはシンにとって特別なモノだった。
 家族のいないシンにとって戦友とは家族に近いものだった。
 だから――少なくともシンにとって、戦友とは、本当に大切なモノだった。
 狂っていると思われたくは無い。
 彼女達の前では、まともな人間のままでいたかった――彼女を捨てた男が何を言うのか、とも思うけれど。

 ルナマリアの紅い唇が動いた。

「……心配したのよ?1年前に行方不明になったって聞いてたのに、いきなりオーブで傭兵崩れのチンピラにボコボコにされてて……私、自分の目を疑ったわ。そりゃそうよ。死んだと思ってた人間が目の前にいるんだもの。」

 その通りだ。死んだと思っていた人間が生きていれば誰だってそう思う。自分もレイが生きている――と言えるかは分からないが、彼を見た時、自分の目を疑ったから。

 ルナマリア・ホーク。
 彼女は戦友だった。
 恋愛感情などがあろうとなかろうと自分達は戦友で、互いに死んだら悲しむのは間違いない。
 自分だって彼女が死んだら悲しむだろう

「言えないの?」

 テーブル越しに彼女がこちらを睨みつけている。どこで何をしていたのか。それを言わない限りは譲らない。そんな決意が見て取れる。
 はあ、とため息を一つ吐いて呟いた。

「……聞いたら、頭がおかしくなったとか思うぞ。」
「言いなさいよ。あんたがおかしくなったかどうかは私が決めることよ。」

 天井を眺める。木張りの天井。所々に染みがある――ルナマリアの過ごしてきた年月を感じさせる。
 しばらく、黙っているといつのまにか彼女はカウンターの方に回り、冷蔵庫を開け、黒い缶コーヒーを二本取り出し、一本を自分に向かって投げた。
 それは自分の好きなブラックコーヒー。
 あの頃、彼女と一緒に暮らしていた頃は毎日のようにこれを飲んでいたことを思い出す。

 ルナマリアがプルトップを開ける。
 ぷしゅっという音を立てて、缶コーヒーを開けて口をつけ、ごくりと飲み込む。
 同じように自分もプルトップに手をかけて開け、喉に流し込む。懐かしい苦味。まともなコーヒーと比べれば泥水と言っても良いようなモノ。そんな大して旨くも無いものを何故か毎日義務であるかのようにして飲んでいた。
 がた、と音がした。彼女が椅子に腰をおろしていた。座る際に彼女が椅子を引いた音だろう。
 彼女が呟く。

「もう一度言うわよ。おかしくなったかどうかは私が決める。だから、シン、話して。」

 彼女の瞳がまっすぐこちらを貫いた。
 沈黙は数分ほど―ー先に目を逸らしたのは自分だった。
 胸の奥から、先ほどの言葉を覆す思いが湧きあがる。

(……どうでもいいんだったな、俺)
 
 そう、どうでもいいのだ。
 誰が何をとか、何かを気にする理由などもう自分には存在しない。
 どうでもいい。
 本当に――どうでもいいのだ。
 
「……夢じゃないのかって思うような話だ。」

 そうして、黙りこむのを諦めて、自分は語り出した。
 ミッドチルダという世界のことを。
 魔法という世界法則のことを。
 シン・アスカの無様な人生を。


 沈黙が続く。
 10分間ほどの沈黙――ミッドチルダでの話を終えてからの沈黙の時間だ。話自体はそれほど長くはかからなかった。
 教えたのは向こうでの出来事とその経緯。
 ギンガやフェイトのことなどについてはぼかしたまま語った――何となく言いたくなかったから。
 ルナマリアがテーブルに置いてあったままの缶コーヒーを手にとって流し込み飲み込んだ。
 そうして一息をついて、彼女は口を開いた。

「……何と言うか、信じられない話ね。」

 半信半疑――というよりも殆ど信じられないのだろう。
 当然だ。こんな話を聞かされていきなり信じられる方がおかしい。

「……信じるかどうかは任せるさ。おかしくなったって思われるような話だ……魔法、が使えたなんてな。」
 
 魔法、と言う言葉を使うのに僅かに抵抗があった。
 こちらの世界の人間にしてみれば“魔法”など夢物語のようなものだ。
 まるで妄想を語っているような恥ずかしさを感じる――そこまで考えて、ようやく魔法というモノが異常なのだと理解していく。
 ミッドチルダに行ってから当たり前のように傍にあった魔法。
 あることが当然と思っていた。
 空気のように、そこにあることを異常とも思わなかった。
 いつの間にか、自分の中の常識は“あちら”に慣れ切っていたのかもしれない。

「で、あんたはその……魔法が使えなくなったと。」
「……ああ。」

 懐からデスティニーを取り出す。何度呼びかけても答えを返さない自分のデバイス――最高の役立たずを。
 フェイスバッジにも似たソレを見つめる自分を見たルナが口を開いた。
 
「……心当たりはあるの?」
 
 一瞬、何を言っているのか理解出来なかった。
 瞳をそちらに向ける。ルナマリアと眼があった。視線が絡み合う。
 彼女は目を逸らすことなく自分を見ている――瞳に冗談の色は無い。

「お前、信じるのか、この話。」
「正直、信じられないけど……まあ、あの戦争に比べたら信じられる話よ。」

 あの戦争――メサイア攻防戦のことだろう。

「…まあな。」

 その返答に同意する。
 確かにその通りだ。あの戦争――全てが裏返ってひっくり返って何もかもが奪われて壊れたあの戦いに比べれば、こんな与太話の方が信じられるというのも道理かもしれない。

「とりあえず、それ飲んだら今日は泊まってきなさい。もう夜も遅いし、そんなに治安良くないしね、ここは。」
「……悪い。」
「別に気にしなくていいわ。知らない仲じゃないんだし。」
「ルナは何でここに?」
「別に、特に理由はないわ。アスランとかメイリンとかとの口喧嘩に飽きて、軍を辞めて――それから、色々あって、ここで喫茶店始めて……」

 ルナマリアが天井を見上げる。記憶を思い返しているのかもしれない。

「……ねえ、シン。」

 天井を見上げたまま彼女が呟いた。

「あの時、どうして私と一緒にオーブに来なかったの?」

 胸に痛みが走った。
 聞かれるだろうとは思ったこと――答えたくなかった言葉。
 思い出はいつも苦いものばかり。特に、彼女との間の思い出はいつも苦いものばかりだった。

「どうして、か。」

 缶コーヒーに口をつける。口調は平静を保ちつつ、心はまるで平静ではなかった。
 胸の奥の奥――心の深奥の最果て。深く深く閉じ込めていた思い出。それが引っ張り出されてくる。
 今の自分はあの頃の自分に近づいているのかもしれない。何をする気もなく、ただいじけているだけの自分に。

「……怖かったんだよ。」
「怖かった?」
「ああ。」

 彼女は天井を見上げたまま。自分は缶コーヒーに口をつけて天井の染みを見つめ続ける。
 
「誰かを選ぶのが怖かったんだ……今でも怖い。きっと守れないんだろうなって、思うから。俺は、あの時から何かを考えるのが嫌になったから。」

 静かに言葉を紡ぐ。
 紡がれる言葉は偽らざる自分の気持ちだった。

「それに気づいたのがお前がオーブに行こうって言った時だった。」

 ルナマリアは沈黙したまま、天井を見つめている。

「だから、私から逃げたの?」
「……そうだな。」

 情けない独白だった。
 結局、原因は自分なのだ。自分に少しでも誰かを背負う覚悟があれば何とでもなったのだ。
 あの時、彼女を選んで、彼女を背負うという決意が出来ていれば――多分自分はもっと幸せな人生を送れたのだろうと思う。そんな、唯一無二の誰かと共に生きることが出来れば確かに幸せになれたかもしれない。

 けれど、それは無理だ。手にいれば失われる。掴み取れば奪われる。
 選べば失うのだ。必ず。
 胸に刻み込まれた、その鎖は絶対だ。
 水が高きから低きへ流れていくように――他の結末など絶対にあり得ない。

「だから、あの日、軍に戻った。お前から逃げ出した理由なんてそれくらいだよ。」

 椅子の背もたれに体重をかけて、身体の力を抜く。
 彼女(ルナマリア)に問題は無かった。問題があったのは自分だけだ。
 彼女の想いに応えることも、断ることも出来ずただ逃げ出した。
 自分が、その恐怖に耐えられなかった。ただそれだけ。
 
 もう、何かを失うことには耐えられそうも無かったから――実際は違った。自分は“失った”。けれど、まだ生きている。

 二人を守れなくて、失って――それでもまだ生きている。耐えることが出来ている。
 思っていたよりも自分は打たれ強かったのかもしれない。
 もしかしたら、あの世界での出来事が多少なりとも自分に影響を与えているのかもしれない。
 
 答えは分からない。分からないけれど、自分は生きている。

 あの日、自分の中の何かが壊れた。
 壊れた何かの代わりに力を得た。
 代償は味覚の喪失と右手の感覚の鈍化――あのまま戦い続けていたら次は別の何かを失っていたかもしれない。
 別にそれで良かった。
 贖罪というほどに強い気持ちでは無いが、彼女たちを守れなかった責任は全て自分にあると思ったから。

 だから――死を望んでいた。誰かを守って死ねるのならそれで良いと、そう思っていた。今でもその想いは揺らがない。
 けれど、死ねなかった。守ることも出来ず、死ぬことも出来ず。

「……ねえ、こうやって二人でいると、昔思い出さない?」

 不意に彼女の声が聞こえた。
 天井を見る自分の瞳を遮る彼女の顔。
 考え事に耽っていたせいか彼女が椅子から立ち上ったことにも気づかなかった。
 彼女はこちらの瞳を覗きこむようにして見ていた。

 眼と眼があった。その眼は昔を思い出させる――怠惰な快楽に溺れていた昔のことを。
 彼女の手が自分の髪を撫でる。優しい手触り。自分をいつも甘えさせてくれていた掌。
 その感触が、自分をまどろみへ誘っていく。忘却という名のまどろみへと。

「……そうだな。」

 彼女の顔が近づいた。吐息と吐息が触れ合う距離。近づく身体。
 歓楽街の喧噪の中にあって、まるで別世界のように静かなこの空間。

「……シン。」

 彼女が瞳を閉じた――そのまま顔/唇をこちらに近付けてくる。

「……」

 答えは無い。無言のまま、それを他人事のように眺めている自分。
 何でルナマリアがこんなことをしているのかはよく分からない。
 もしかしたら、自分にまだ未練があったのか、単なる気まぐれなのか。
 考えるな。そんなことはどうでもいい。

 ――何もかも忘れて、また溺れてしまえばいい。

 そんな声が聞こえる。

 溺れさせてくれるなら、甘えさせてくれるなら、それでいい。
 流されようと瞳を閉じた――瞬間、瞼の裏に“二人”の幻影が見えた。笑っている二人。彼女ら二人は幻の中で今も自分に向けて微笑んでくれている。

 ――それで、いいのか?

「……あ。」
 
 眼を見開いた。瞳が近い。吐息が絡む。
 ずきん、と胸に痛みが走った。
 
 ――私、貴方が好きだから
 ――貴方が好き。
 
 思い出が駆け巡る。

 一緒にいた。
 何かをする訳でもなく、ただ一緒にいた。
 必ず朝自分を起こしてくれて訓練に付き合ってくれた。

 ずっと一緒にいた。
 色々な話をした。
 話す内容は殺伐としたものから料理についてまで本当に色んな話をしたのだ――何度も何度も、記憶は朧気なのに、その想い出だけはまるで忘れていない。
 
 戦った。
 剣と拳のぶつかり合い。意思と意思のぶつかり合い。
 守る為には避けて通れなかった壁。それを越える為に、打ち砕く為に、断ち切る為に。

 笑い合った。
 別に何が嬉しかった訳でも無いのだろう。ただ一緒に食事を取る。
 そんなことが嬉しかったのかもしれない。その笑顔が翳るのはどうしてか嫌だった。だから自分も二人と同じように笑っていた。
 
 抱き締めて背負った
 細くしなやかな体躯は見た目通りに軽く、壊れ物を扱うかのように大事に背負った。
 歩き続ける最中、妹を思い出した。その軽さを何故か守りたいと思った――きっとそれは自己憐憫の代償行為。

 思い出が駆け巡る度に胸が痛くなる。ルナマリアの顔が近づく――胸が痛い。

 何か――何かを間違えている気がする。
 胸が痛い。鼓動が激しくなる。
 
 迫ってくるルナマリアの顔。凍ったように動かない自分の身体。
 流されてしまえ。そう思ったはずなのに――どうして、こんなに胸が苦しいのか。どうしてこんなに悲しくなるのか。
 二人の声が脳裏に響いて反響する。

(俺は……)

 呟きは声にならずに胸でのみ鳴り響く。
 彼女の顔が近づく。その瞳に自分が見えた。流されることを自嘲するでもなく、喜ぶでもなく、忌避する自分がいた。
 何か、その唇が触れてしまえば何かが――あるいは何もかもが壊れる確信があった。

(やめ……)
「…なんてね。どう?驚いた?」

 触れ合う寸前にルナマリアが顔を離した。距離が開いた。

「…ル、ナ…?」
「冗談よ、冗談。今更、そんなことする訳無いでしょ?」

 冗談――その言葉に安堵を覚える。

(……ほっとした、のか、俺は。)

 心臓の鼓動が荒い。冷や汗が止まらない。それは情事の際に感じる劣情とはまるで似つかない感覚――恐怖だった。
 ルナマリアを選ぶことが怖い訳ではなかった。ならば、何が怖かったのか。ずきん、と頭痛がする。脳髄に無遠慮に手を突っ込んでグチャグチャに掻き乱すような頭痛。
 
 ギンガの顔が浮かんだ/頭痛が走る。
 フェイトの顔が浮かんだ/頭痛が走る。

「……く」

 思わず左手で額を押さえる。あまりの痛みで視界が歪み出す。

「……シン?」

 頭痛が治まらない。吐き気が酷い。冷や汗が止まらない――もしかしたら、熱があるのかもしれない。身体が熱い。喉がからからに渇いている。
 ――同時に幻影が視界から消えない。

「……俺、やっぱり行くよ。」

 椅子の背もたれに手をかけて、立ち上がる。

「シン…どうかしたの?」

 手が触れる――いつも指を絡ませていた手が。
 その感触が記憶を思い出す呼び水になる。
 弄んだ。抱き締めた。貪った。心の中にあった暴虐そのものを叩きつけるようにしてその肢体に溺れた。
 映画のフィルムのように幾つもの記憶が浮かび上がっては消えていく。絡み合う黒髪の男と紅い髪の女。

 二人の幻影が微笑む/過去の記憶が浮かび上がる。
 幻影と過去が交錯する。
 彼女たちの幻影が見える度に、脳が切り刻まれていく。

「くそっ……!!」

 衝動的に走り出した。扉を力任せに開けてそのまま外へ――雨が降っていた。構わずそのまま走り続ける。
 店を出る直前にルナマリアが何かを叫んでいたような気がするが、それに構っている余裕は無かった。
 頭が痛い。壊れそうなくらいに痛い。身体に叩きつけられるような雨の勢いが少しだけそれを和らげる。

「はあ、はあ」

 瞳を開ければ幻影がそこにいる。今も変わらずに笑っている/頭痛が消えない。

「はあ、はあ、はあ……!!」

 走る。道行く人はいない。突然の豪雨――スコールが降っているからか、それとも既に深夜だからか、誰もいない。

『シン。』

 “声”がした。立ち止まって声の方向に眼を向ける。
 ステラがいた。
 悲しそうにこちらを見ていた。

『お兄ちゃん。』

 振り返った。マユがいた。悲しそうに自分を見つめている。
 オレンジ色に淡く輝きこちらを見る二人の少女――守れなかった象徴とも言える二人の少女。

「……は、はは。」

 幻影は消えない。オレンジ色に淡く輝く幻影と陽炎のようにぼやけた幻影がそこにいる。
 幻影にも種類があるのだろうか。それともそれは幻影ではなく、亡霊だとでも言うのだろうか。

「……とうの昔にぶっ壊れてたんだな。」

 雨はやまない。身体を叩く雨の勢いは未だ変わらず全身を濡らしていく。

 暗い街並み。
 真っ黒な空から降る雨が全てを濡らしていく――眼も、耳も、髪も、服も、何もかも。
 
 呆けたように立ち尽くす。
 どこに行けば良いのか分からない。
 
 くすくすと言う笑い声が聞こえた――幻聴。いつかのどこかの光景が脳裡に差し込まれる。
 幻の彼女たちもこちらを見て笑っていた。
 その微笑みは本当に幸せそうだった。

 今にも消えてしまいそうな幻の微笑みを冷たく眺めながら、自分は歩みを進めた。
 無言でただ、歩く。足取りが重い。引きずるようにしか歩が進まない。
 時折周りを見れば幻影はいつも自分を見ていた――オレンジ色に輝く幻影はいつの間にか消えていた。
 残っている二人――ギンガとフェイトの幻影が笑っている。その微笑みが自分を見る度に先ほどのルナマリアにしようとしたことが思い浮かび、心を切り裂く。

 別に、ギンガやフェイトを選んだ訳ではない。ただ後悔しているだけだ。
 大体、恋をした覚えも無い。恋と言うには自分やギンガ、そしてフェイトは互いのことをほとんど知らない。少なくとも自分は知ろうともしなかった。
 そんな関係が恋愛関係のはずがない。
 
 恋とは人生を豊かにする楽しいモノだと人は言う。
 自分はそんな“普通の恋”をしたことなど一度も無いから、経験や実感は無い――けれど互いの表面しか知らないのに、恋をしているなんてことはない。それくらいはわかる。
 それを恋と言うなら、恋なんて滑稽な錯覚以外の何物でもないだろう。
 後悔と言うのはそれだ。恋をするのなら――もっとマトモな恋がしたかった。
 ただそれだけの後悔でしか無い。

 なのに、浮かぶのだ。思い出すのだ。ちらつくのだ。
 二人との思い出が――ミッドチルダでの二人との日々がどうしても忘れられないのだ。

「……。」

 無言のまま、街を歩く。どこに向かっているのか、どこを目指しているのか――そんな“どこ”などある訳がない。
 孤独を怖いと思ったことは一度も無い。
 だから、今のこの状況にも恐怖なんて無い。
 思考は消えており、何かを考えることなど決して出来ない。
 口を開いて、細く息を吐き、背を丸めて、気だるげに足を引きずって歩いていたと思う。
 その間の記憶は殆ど無かった。意識せずに何時間も歩いていた。
 見えたのは、所々にヒビが入り、ヒビの隙間から草が生えているアスファルト舗装と石畳。
 膝が痛い。いつの間にか転んでいた。
 口の中に固いモノ――吐き出せば小さな石だった。転んだ拍子に口の中に入ったのだろう。
 気にせずに、また歩き出す。 
 茫洋としたまま、歩き続ける。
 止まって幻の微笑みを見続けることが何よりも辛い。
 だから、歩いた。歩き続けた。自分がどこに向かっているのかなんて気にもしなかった。
 
 そして――気がつけば、雨は止んで、海と朝日が見えていた。
 それは、思い出の場所だった――始まりの場所とも言って良い場所。

 多分、今の自分のスタート地点。

 ――オーブ戦没者慰霊碑。
 
 そこにシン・アスカはたどり着いた。
 物語が始まった時と同じく、全てを失った姿で。
 ただ、一つ始まった時とは違うことがあった。
 そこには人がいた。朝日が出るか出ないかの早朝――そこで海を眺めて佇む一人の女。

「……奇遇ね、シン。あんたもここに来たの?」

 フェスラ・リコルディ=ナンバーズ・ドゥーエ。ルナマリアに似た口調、ステラに似た姿で彼女は物憂げに海を眺めていた。


 全身雨でずぶ濡れになった自分を見て怪訝な顔をするドゥーエ。
 
「……風邪ひくわよ?」
「……うるさい。あんたの方こそ何でここにいるんだ。」

 彼女の問いには答えずに質問を返した。
 答えたくは無かった。昔の女と再会して逃げてきたなど言いたくも無かった。
 こちらに答える意思がないことを悟ったのか、ドゥーエが一つ息を吐いて呟いた。

「散歩してたらね、ここに来ちゃうのよ、どうしても。」

 そう言って、彼女は慰霊を眺めていた。
 釣られて自分もそちらを見る。

「……ここの“思い出”に引っ張られるのよ。」
「……思い出?」
「ルナマリアっていう子との思い出の始まり――それが、ここでしょ?」

 確かに、その通りだった。
 シン・アスカにとってのルナマリアに溺れた時のことが思い出になるならば、それは確かに此処から始まった――キラ・ヤマトとアスラン・ザラの言葉に打ちのめされ何かを考えることを放棄して、その時甘えさせてくれたルナマリアに縋り付いたことが始まりだったから。

「……ああ、そうだな。」

 ドゥーエと話したことで茫洋としていた意識がはっきりしてきたせいか、思い出したくもない苦々しいモノが込み上げてくる。
 慰霊碑から眼を逸らして、それを意識の外に追いやる。どうでもいいことだと切り捨てて。
 
「……それもあんたの魔法なのか。」

 呟いた。ドゥーエの瞳が自分に向けられた。
 見れば見るほどにステラに酷似しているその姿は自分の心の中の罪悪感を刺激して、思わず瞳を逸らした。
 目を合わせていることがどうしようもなく辛い。
 目を逸らした自分を見て、ドゥーエが口を開いた。

「……もう隠しても仕方ないしね。いいわ、教えてあげる。」

 ドゥーエの瞳が金色から紅色――血色の紅へと変化する。
 
「私は模倣(エミュレイト)っていうこの力であんたの心の中の偶像を演じてるの。思い出の中の偶像をね。だから私はこんな風に姿を変えたりできるの。」
「……目的は、俺を殺す為?」

 表情を変えることなく彼女が続ける。ステラの顔には似合わない表情――冷徹な表情で。

「いいえ。目的はあんたに最高の絶望を与える為――ギンガ・ナカジマやフェイト・T・ハラオウンの姿になったことも、ステラ・ルーシェの身体にルナマリア・ホークの性格を模倣したのもその為。」

 戻れなくなっちゃったけどね、と最後に付け加えて彼女は口を閉じた。
 そのまま自分から視線を外し、慰霊碑を眺め続ける。

「フェイトさんとギンガさんを殺したのも、その為なのか。」
「……私はそれに関わっていないからよく知らないけど、多分そうなんでしょうね。」

 慰霊碑を眺める視線に変化は無い。

「……どう、怒った?」
「別に。今更……どうでもいいさ。」

 そう言ってその場に腰を下ろした。歩き続けていたせいか、酷く身体が疲れていた。
 座り込むと雨で濡れた服が身体に張り付いて気持ちが悪かった。
 言葉の通り、シンにとってドゥーエの目的などはどうでもいいことだった。
 ギンガとフェイトが死んだことに変わりは無い。今更、何が変わる訳でも無い。

「……なんで、戻れなくなったんだ。」
「……さあね。」

 そう言って彼女が慰霊碑に向けていた視線を海へと向ける。見えるものは真一文字の海平線――ふと、あることを思い出して、呟いた。

「助けたのは、どうしてだ?」
「……“身体”が勝手に動いたのよ。あんたを助けろってね。……引っ張られすぎて、行動侵食までされて……お笑いよ。」
「どういうことだ?」
「あんたの思い出に引っ張られて、私の意思もそっちに引っ張られてったのよ。おかげで、私はドクターからは裏切り者扱い、今ではこんなところで何故か子供の面倒見てる。……本当にお笑いよね。」
「……」

 悲しげな声――ドゥーエがどうして、自分を守ったのかは自分にはよく分からない。
 彼女の説明は断片的過ぎて、意味を成さない。精々わかることと言えば彼女が悲しんでいることくらい。
 
 声を掛けるつもりは無かった。
 自分を裏切って騙して絶望の底にまで落とそうとした相手を慰めるような余裕は無い――それ以前に自分に誰かを思いやる余裕などありはしない。
 
 地面に仰向けに寝転がる。これだけの早朝なら誰か来るようなことも無いだろう――そう思って。
 蒼い空。雲が流れていく。さっきまで雨が降っていたことが嘘のように空は晴れていた。
 幻影はいつの間にか消えていた。
 それに少しだけほっとする――微笑みがもたらすものは安寧ではなく胸の痛みだけだから。
 
 懐のデスティニーを取り出す。今もそれは変わらず役立たずのまま。魔法は今も使えない。
 情事にまで雪崩れ込みそうだったと言うのに、当のルナマリアの顔を思い出すことは無い。
 
 思い出すのはそれよりも、ちらつく二人の顔。今は見えない幻影の二人の微笑み。
 
 どうしてこんなにもその笑顔がちらつくのか――分からない。
 もう返事を返すことも出来ないのに――返事を返そうともしなかった癖に、どうして、こんなにちらつくのか。
 ただまどろみの関係を続けようとして守れなかった。それでも未練がましく自分は二人を思い出す。此処に来てから何度も何度も見た幻影として。

 何を期待していた訳でも無いのに、未練だらけの、ちぐはぐな自分。
 それが余計に惨めさを加速させる。
 
 自分は一体あの二人に何を求めているのか。それがどうしても分からない/解りたくない。
 思考を止めて起き上がる。ふと、見ればドゥーエは既にいない――帰ったのだろう。

「……俺も、帰って寝るか。」

 膝に手を突いて立ち上がると、後方で足音がした。
 反射的にそちらに向かって振り返る。眼が、見開いた。身体が硬直した。

「……シン…?」
「…アスラン、か。」
「シン・アスカ、なのか?」

 まるで幽霊でも見るようにアスランは呟いた――幽霊と言えば幽霊で合っているのかもしれない。ルナマリアの話では行方不明――つまりは死亡扱い――だと言っていた。
 キラ・ヤマトやラクス・クラインがアスランに連絡していなかったとすれば、彼にしてみれば自分は幽霊も同然だろう。

「……それ以外の誰に見えるって言うんです?」
「……シン、お前は……お前は、今まで何をしていたんだ!?ルナマリアがどれだけお前のことを心配していたと思っているんだ!!」

 ルナマリア――その言葉を聞いた瞬間、再度胸が疼いた。

「……知りませんよ、そんなこと。」

 いきなり大きな声で叫ぶ目の前の男から眼を逸らし、その場から去ろうと足を動かす――途端、右腕を掴まれた。
 振り向けば、アスランが自分の腕を掴んでいる。

「シン、どこに行くつもりだ。」
「どこって……キラさんのところですよ。」
「キラのところだと!?」

 いちいち声がでかいアスランの態度に顔を歪める。

「……いいか、シン。お前がどれだけキラのことを憎んでいるかは俺もよく知っている!けどな、憎しみに囚われたまま生きるのはもうやめろ!!そんなことをしてもまったく意味は無いんだ!!」
「……は?」
 
 一瞬、何を言っているのか理解出来なかった。

(こいつ、何言ってるんだ?)
「シン、憎しみはいつか身を滅ぼすだけで、その先なんてどこにも無い。」

 話がまったく繋がっていない。
 何がどうなって、自分がキラを憎んでいてキラの元へ行くと言う話になっているんだろうか。

「ちょ、ちょっと待ってください!!何で俺がキラさんを憎む話になってるんですか?」
「お前がキラの元へ行くと言ったからだ!!」

 まったくもって話がかみ合わない。
 かみ合わないどころか勝手にシン・アスカはキラ・ヤマトを憎んでいるという風に仮定して、それを元にシン・アスカがキラの元へ行くということはキラへの憎しみのままに二年間生きてきたとか連想してるのかもしれない。

(……相変わらず面倒臭くて、よく分かんない奴だな。)

 少しだけその事実にほっとする。
 キラ・ヤマトのように劇的な変化はしていない――自分の知っているアスラン・ザラそのものだったから。
 右腕を掴み自分を睨み付けるアスランを見る。正直ため息しか出てこない。この男の中では今もシン・アスカは戦争の時のままなのかもしれない。実際その通りなのかもしれないが。
 呟いた。

「……あんたが俺のことどう思ってるかは知らないけど。俺は別にキラさんをどうしようとかなんて思ってない。行き倒れてるところをあの人達に助けられただけだ。」
「行き倒れてた?お前、一体今まで何を…」
「……別にいいじゃないですか、そんなこと。それよりこの手離してもらえませんか?」

 そう言ってアスランの手を力任せに振り払う。
 思っていたよりも素直にアスランは力を抜いて右手を離した――少しそれが意外だった。少しは融通が利くようになったのかもしれない。

「……わかった。お前を信じよう、シン。」
「信じるとか、そういうことじゃないけど……まあ、いいです。とりあえず、俺はこれで行かせてもらい……」
「シン、俺の元に来い。」
「は?」
「俺と共にオーブで世界の平和の為に戦うんだ。お前にとっても悪い話じゃない。行き倒れて。誰かに心配をかけるようなそんな生活はもうやめるんだ。」

 前言撤回。この男は何も変わっちゃいない。相変わらずのおせっかいの馬鹿野郎だ。

「いいか、シン。お前にとっての正義は力無い人々を守ることのはずだ。」

 真っ直ぐな目でこちらを見るアスラン。その目に曇りは無い――自身にとっての正論を言っているのだ。視線を逸らす理由などこの男には存在しない。

「……だから?」
「お前には力がある。行き倒れている暇があるなら、その力をその正義の為に役立てるべきだと言っているんだ。」
「だから、俺にあんたの元で働けって?」
「俺の元が嫌ならザフトでもどこでも構わない。世界はまだお前の力を必要としているんだ。」

 右手を開く。必要としている――自分の力を、この世界が。
 唇をゆがめて嘲笑する。
 馬鹿げた仮定――ありえない仮定だ。

「…あんたや、キラさんがいれば世界は、平和になるだろ?」
「……個人の力でどうにかなるようなものじゃないんだ、この時代は。」

 苦虫を潰したようなアスランの顔を見る。疲れが見える横顔。少しだけ胸に棘が刺さる。その顔に浮かぶ疲労は、恐らくラクス・クラインやキラ・ヤマトと同じ疲労。
 誰かを守る為に、自身を犠牲にしてでも戦い続けるが故の疲労。
 
 この男はまだ守っているのだ、この世界を。
 奥歯を噛み締めた。その横顔に苛立ち――いや、むしろ劣等感か――を覚えた。

「…俺には関係ない。」

 そう言って、その場から歩き出す。一刻も早くこの男と会話を切り上げて一人になりたかった。
 話せば話すほど自身の矮小さが浮き彫りにされていくようで。
 自分自身の薄汚さを自覚させられていくようで。
 自分の願いの身勝手さを自覚させられていくようで。
 話すことが、苦痛だった。
 
「シン、お前はそれでいいのか!?お前の正義はそんなものだったのか!?」
「っ……!」

 その言葉に今度こそ耐えかねて、走り出した。これ以上その言葉を聞いているのに耐えられなかった。
 後方からアスランの声が聞こえてくる。
 それを全て無視して走り続ける。
 一瞬たりとも止まらない。止まりたくない。
 心臓の鼓動が荒い。走り続けることで心拍数が上がっていく。鼓動の煩さが雑音をかき消していく。
 その事実に安堵して、走り続ける。
 知らず視線が下がり、俯いていく。前を向かずに走り続ける。振り返ることも無い。
 
 どれだけ走ったのか。気がつけばそこは皆のいる孤児院とはまるで別の場所――森の中。
 俯いて走っていたのだから、方向などは滅茶苦茶だ。途中で道を間違えたのか、それとも初めから間違えていたのか――どうでもいいことだ。

「……正義正義って、うるさいんだよ、馬鹿。」

 呟いて、腰を落とす。昨日からまともに眠らずに動き続けたせいか、身体中に疲労が溜まって、息切れが酷い。

「……そんなことの為に戦った経験なんて一度だって無いんだよ、俺は。」

 彼の戦いはいつだって自分の為だ。自分の為に戦って、自分の為に敵を殺して、自分の為に誰かを守って、自分の為に“戦いを求めて”きた。
 戦うことそのものがシンにとっての目的――平和を求めていると嘯いて、求めていたのは戦いなのだ。滑稽なことこの上無いだろう。
 アスランの言葉を思い出す。
 
 ――正義の為に戦ってるんじゃないのか。
 ――それがお前の正義じゃないのか。
 
 その言葉が深く自身の胸を抉り抜く。
 その言葉を聞く度に胸が痛んだのは、それが正論だからだ。自分自身の正義の為に戦う。戦士としては当然のことだ。戦士とは“己が正義の為に戦う者”である。

 金の為、家族の為、祖国の為――様々な正義、様々な“目的”の為に人は戦う。下賎な言い方をすれば、見返りの為だ。
 金と言う見返り、家族と言う見返り、祖国と言う見返り、様々な見返りを得る為に戦う。つまり、結果を求めて、だ。
 求める結果があるからこそ人は戦う。
 
 ――それは、シン・アスカとは違う。彼が求めるモノは“守る”と言う行為そのものだ。つまりは過程。結果など求めたことなど一度も無い。
 傍から見れば、無償の奉仕にすら見えるであろう、その所業。だが、それは裏を返せば守る為に戦いそのものを欲しているのとどう違うと言うのだろう?
 気付いてはいた。初めからそれで良いと戦ってきた。最後に戦いの中で死ぬことになろうとも、それでいいと。
 
 それが本望なのだと、そう思って生きてきた。
 エリオの言葉を思い出す。

「貴方は誰も守れない、か。」

 その通りだ。
 自分は“誰”も守れない。力があるとか無いとか、そんな問題ではない。
 自分は初めから“誰も守ろうとしていない”のだから。
 そんな自分が誰かを守れるはずが無い。
 戦いを求めて、力を求めて、その果てに力を失った。
 守ることなど出来るはずも無い。
 それに――守りたかった誰かはもういない。もういないのだ。
 その事実を冷静に心が受け止めた。

「……もう、何にも無いんだな、俺には。」

 呟いて、それが真実だと気付く――自分には何も無い。
 残されたのは死ぬことも生きることも出来ない矮小な自分自身だけ。
 ――今は、まだ。



[18692] 第三部コズミックイラ飛翔篇 55.此処より永遠に(b)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/05/31 18:14

 ペダルを踏んで回す。
 乗っているのは極普通の自転車――いわゆるママチャリだ。
 普通ならついているであろう変速機も何もない、ブレーキがついたハンドルと前方に買い物カゴがついたどこにでもある何の変哲も無いママチャリ。カラーリングはド派手な赤色。

「……また坂か。」

 前方に見えるのは結構な斜度の坂。車道を車が通って行く。それを横目で眺め、はあ、と溜め息一つ、ペダルに足をかけた。自転車が前に進む。
 だが、斜度が強い坂道――この先18%と書いてある看板が目に入った――を変速機も無いママチャリで昇りきるのは殆ど不可能だ。
 漕ぎながら立ち上がり、体重をかけてペダルを踏み込む。
 そのまま右側に体重をかけて自転車が右側に傾き、左側に体重をかけて今度は左側に自転車が傾く。いわゆる立ち漕ぎだ。
 それを繰り返しながら坂道を登っていく。変速機が無いから息は直ぐに切れるし、ペダルだってずっと重いまま。
 アスファルトに足を置いた。

「……アスランと喧嘩してるよりはずっと良いか。」

 そう呟いて、ペダルを再度踏み込み、自転車を走らせる。

 ――思考を少し前に戻す。
 
 孤児院でのやり取り。数日前アスランと再会して以来、彼は自分にオーブ軍に入れと毎日来ていた。
 いつもいつも何かと理由をつけては門前払いしていたが、今日に限っては腹を割って話すぞ、と孤児院の中に入ってきて、ずっと話――と言うよりも口論を繰り返していた。
 思い出すのはその口論が終わった時のことだった。



「だから、何度言われても俺は嫌だって言ってるんですよ!!」
「シン、何故分からない!!お前にとってはそれが最も良い方法だと言ってるだろう!?」
「だから、それが嫌だって何度言ったら、わかるんだ、あんたは!!」
「お前が分からないから何度も言うんだろう!!」

 二十回目の繰り返し。話は平行線だけを繰り返す。正直、互いに何を言っているのか理解できていない気もする。
 周りで見ているはやてやドゥーエは既にこの繰り返しに飽きて、子供達と遊んでいる。
 キラは苦笑しながらパソコンの前でマウスを操作し、何かしている。ゲームなのだろうか。
 ラクスは一人顔を引き攣らせながら自分達を見ていた。
 ふと、彼女と眼が合った。にっこりと微笑み、自分を手招きしている。

「シン。」

 ラクスが呟いた――アスランが無言で指で「行け」と示しラクスの元へ行くように促す。
 アスランから眼を逸らすとラクスの方にむかって歩いていく。その後ろでキラが、笑いながらこちらを見ていた――正直溜め息しか出てこない。

(八神さんもドゥーエも……いきなり子供達と遊び出すとかどうなんだ、それ。)
「……なんですか?」

 知らず声が低くなった。胸の憂鬱がそのまま声に出たのかもしれない。ラクスはそんな声に構うことなく、一枚の紙と封筒――中には紙幣が数枚入っていた――を自分に渡し、呟いた。

「これとこれとこれを買ってきてくださいな。」

 紙に書いてあるのは日用雑貨と調味料が幾つか。しっかりと地図まで書いてある。

「……俺が行くんですか?」
「シンなら元々住んでた訳ですし、私たちよりもよほど土地勘はあるでしょう?それに……」

 ちらり、とアスランの方を見るラクス。苛々しているのか、机を指で何度も叩きながら右足で床を叩いている。

「…これ以上アスランと口喧嘩するのも嫌でしょう?」

 即座に頷く。
 これ以上あんな平行線の議論を続けたくもない――と言うか、アスランと話をしたくない。言いたくは無いが自分も傍から見ればあれくらいには苛々していただろうから。

「…わかりました。」
「ええ、お願いしますわ、シン。街に行く時はあの自転車で……それとこれ。」

 ラクスがエプロンのポケットから封筒を取り出して渡してきた。

「……これは?」
「アスランからです。彼が管理している貴方の口座から引き出したそうで。」

 一瞬、言葉の意味がわからなかった。
 自分の口座からアスランが引き落とした――何故アスランが自分の口座を管理しているのだろうか。
 まともに金を使うこと自体が少なかったからか、ミッドチルダに来る寸前まで自分の口座に入っていた金額は結構な額だった。それこそ、車の一台や二台は新車で買える程度の金額は楽にあった。

「……何で、俺の口座をアスランが?」

 疑問を口に出した。アスランが自分の口座を管理していると言うその事実に驚いたからだ。

「貴方が行方不明になってる間、貴方の口座を誰が管理するかと言う話になりまして……それでアスランが貴方が戻ってくるまでは自分が管理すると言い出したのです。しっかりと定期も組んであると以前にアスランが言っておりましたわ。」
「……」

 ちらり、とアスランに眼を向けた。今も変わらず落ち着きなく、机をトントンと人差し指で叩いている。
 定期まで組んで、しっかり管理している――実にアスランらしい、と思った。
 恐らく本当に裏表無しで管理してくれているのだろう。
 定期預金まで組んで、一銭も手をつけずに行方不明になった男が帰ってくるまで管理する――確かに、シン・アスカの知るアスラン・ザラならそうする。
 悪い人間では無いのだ。むしろ、人間的に見れば、かなり良い部類に入るだろう。お節介が過ぎるのと、人の話をまるで聞かずに自分で勝手に判断するというだけで。

 正直、どんな顔をすればいいのかわからなかった。感謝するべきなのだろう。けれど、素直にありがとうなどと言える訳も無い。
 金のことなどどうでも良かった。別にアスランがそれを使い込んでいたとしても文句は無い――むしろ、そちらの方が有意義な使い道かも知れないとさえ思う。
 ――アスランはそんなこと絶対にやらないだろうけど。

「……とりあえず、それなら行ってきます。」
「ええ、お願いしますわ、シン。」

 にこやかに微笑みながらラクスが緑色の薄手のカバン――買い物袋だろう――を渡してくる。それを受け取ると、溜め息を吐きながら呟いた。

「……はい。」

 そのまま、扉に向かって歩く。アスランには声をかけない。かければ買い物どころかまた口喧嘩が始まりかねないからだ。
 だが、

「シン。」

 そんなこちらの思惑など知らずにアスランが自分に向かって声をかけてきた。

「…なんですか?」

 脊髄反射のように声が低くなり、瞳が鋭くなるのを出来るだけ抑える。先ほどの口座の件があるからか、アスランに対していつものような態度を取るのが躊躇われた――けれど、

「あまり、使い過ぎるなよ?」
「大きなお世話だ、この薄毛野郎!!」

 そんなものはその一言で吹き飛んだ。
 ラクスとキラが苦笑する。子供達も苦笑する。はやてとドゥーエは呆れている。
 気恥ずかしさに駆られ、扉を開けてその場から足早に去った。
 ――とにかく一言が多い男だ、と、そう思った。


「はぁ、はぁ、はぁ……!!」

 息が切れ、汗が落ちる。
 空は青く、太陽は爛々と照りつけ、肌が焼かれていく。熱を吸収したアスファルトが空気を暖め、太陽からの照り返しが、気温を更に上げている。
 変速機の無いママチャリでの立ち漕ぎと高い気温と湿度――体力がどんどんと奪われていく。
 体力だけは誰にも負けない自信があったが、モビルスーツも魔法も使わずにただ自分の力だけと言うことになれば、一般の人間とどれほど違うと言われれば――それほど違いは無いだろう。
 パイロットと言っても人間であり、魔導師と言っても人間だ。
 “普通”とは違う部分があるから特別なだけで本質が人間である以上はそれほど変わる訳も無い。

「……そうい、や……ギンガさんは、違った…んだっけ。」

 漕ぎながら、思い出す――彼女のことを。

「…フェイト、さんも……そうだったな…!!」

 立ち漕ぎしながら、もう一人の彼女を思い出す。
 思い出すと、胸が騒いでいく。幻影がちらつくことにはもう慣れているが、それでもこの心にとってあの二人は劇薬のようなものだった。
 今はその事実を落ち着いて受け止めることが出来ている――その程度には慣れたのだろう、その幻影にも。
 ルナマリアに溺れそうになったあの日からもう4日が経っていた。
 皆の様子は変わらない。
 キラはあの夜のことを誰にも言っていないらしく、誰も何も言わなかった。彼の自分に対する態度も変わらなかった。それからはずっとそれまで通りでいる。どちらもあの夜のことを口に出すこともなく、触れることも無かった。
 
 八神はやてとドゥーエは変わらずに子供の世話をしたり、家事手伝いをしている。
 はやてはあの夜、何かがあったことくらいは分かっているのだろうが無理にそれを詮索はしてこなかった。他にも彼女はパソコンを用いたり、デバイスを使って通信を行ったりと何かしているようではあったが。
 ドゥーエに至っては子供達の先生稼業を満喫しているようにしか見えないほどに楽しそうだった。
 自分は――シン・アスカは何も変わらない。
 相も変わらず辛気臭い顔をして、黙々と作業に打ち込む毎日――変わったことと言えば、前述したように幻影がちらつくことを受け止めて受け入れたことくらい。
 確かに幻影が見えるほどに自分の心は壊れているのかもしれないが、見えないはずものが見えるだけで日常生活には支障は無い。大体にして心が壊れているのは元々である。別に、今更それに怯えることも無いのだ。

「……はぁ、はぁ、はぁ…!!」

 坂の勾配は今も変わらず18%――要するに1mにつき18cmの落差があると言う勾配だ。
 言葉にすれば僅かに感じられる18cmと言う高さは実際の道路においては非常に急に感じられる。
 歩いて昇ることも躊躇するような勾配である――少なくとも自転車なら大抵は溜め息をついて、押して歩くような勾配だ。
 故に余計なことに気を回している余裕はそれほど無い。
 だから漕ぐことに集中する。
 汗や吐気と一緒にそれまでしていたような雑多な考えを吐き出せとばかりにがむしゃらに漕ぎ続ける。
 その内に思考がスッキリとしていく。
 一つのことに集中することで余計で雑多な考えが記憶の引き出しの中に整理されていく。頭が真っ白になっていく。

 ――気がつけば、坂が終わっていた。どれだけ漕ぎ続けていたかは分からない。時計を見れば数十分ほど経過していた。

 そこは慰霊碑だった。街に向かう為に必ず通らねばならない場所――オーブ戦没者慰霊碑。
 こんなところまで毎日散歩に来ていると言うのであれば、ドゥーエは一体どれだけの距離を毎朝歩いているのだろうか――そこまで考えて思い至る。
 彼女は自分と違って“魔法”を使えるのだ。魔法を使ったとすれば、確かにこの程度の距離は僅かなものに過ぎない。
 自転車を慰霊碑の前まで進ませて、止めた。足を下ろして、自転車をその場に止めて慰霊碑に近づく。
 あの日からまるで変わらない慰霊碑。汚れや小さな傷はあるものの“光景”としてはあの日とまるで変わっていない。
 慰霊碑に向かって歩いていく。

「ここは…あの日のまま、だな。」

 あの日の光景を思い出す――何もかも失ったあの日のことを。
 慰霊碑の前で止まり、その思い出を幻視する。
 うな垂れる自分。笑っているキラ。笑っているアスラン。
 
 恐らく、今ならば違う光景になるだろう。そんな確信がある。
 
 キラ・ヤマトは変わった。以前のように薄っぺらな覚悟ではなく、本物の覚悟――奪うことと奪われることを自覚し、今を生き抜いている。
 アスラン・ザラは――多分変わっていない。今も変わらずに訳の分からないウザったい男――“志は高いが不器用で要領の悪い理想主義の先輩”そのままだった。
 けれど、成長はしているのだろう。自分の為に定期をわざわざ作っている辺りで、そう思った。昔ならそういったことにまるで気付かない男だったから。
 
 そして、自分――シン・アスカはまるで変わっていない。今もあの日のまま、戦い続けているだけ。
 自分だけが変われていない――置いていかれていると言うその事実に少しだけ寂しさを感じる。
 慰霊碑の横を通り過ぎて、崖の近くにまで歩いて行く。見える風景は海平線と蒼い空と金色に輝く太陽。

「俺は、今もあの日のまんま、か。」

 今、その場から一歩踏み出せば、確実に死ねる。
 死にたいならそうしたら良い。そうすれば少なくともこの胸の虚無も疼きも悲哀も憎悪も、全て消えていく。
 幻影がちらつくことも無い。惨めさに苛まされることも無い。
 崖の高さは10mを軽く越える。死ぬには最適だ。けれど――一歩後退した。その崖から離れるようにして。

「今更……死んでも、な。」

 死ねば――自分は楽になれる。
 だが、それでは自分以外の誰かにきっと迷惑が掛かる。
 捜索に出る人間だっているだろうし、ラクスやキラの性格ならもしかしたら葬式くらいはやるかもしれない。
 そして、はやてやドゥーエにもきっと迷惑を掛ける。
 迷惑を掛ける以上は死ぬ意味など無い。
 
 だが、だからと言って生きる意味があるかと言われればそれも無い。力を失った自分に生きる価値などありはしない。
 死であれ、生であれ、それは一つの方向性であり、行きつくべき場所なのだ。
 自分にはソレが無い。だから、死ぬ意味も、生きる意味も、その両方の意味が分からない。

「……行くか。」

 自分は一体、何をしたいのか――何も分からない。
 慰霊碑の周りに敷き詰められた黄色い花――それが風に吹かれて飛んでいくのが見えた。
 
 ――吹き飛ばされた花。それをまた植えればいいと言った男。吹き飛ぶのが嫌だった自分。
 
 あの男は今ならどう答えるのだろう?
 
 自分は――今も花がその場で綺麗に咲くことを望んでいる。
 
 けれど、花は風に吹かれて散ることで種を飛ばす。
 風に吹かれて散っていく花。それが自然の理なのだと風が囁いた気がした。

「……どうしたいのかな、俺は。」

 呟いた途端、幻影がまたちらついた。幻影は今も視界の端で出現と消失を繰り返す――微笑みを繰り返す。
 その微笑みがその答えを握っている。そんな気がした。多分、それは錯覚だろうけど。


「……で、これで終わり、と。」

 呟きながら、買い物カゴに買ってきたモノが入った買い物袋を入れる。
 時間がかかるかと思っていた買い物はスーパーマーケット一店で事足りてしまい、予想よりもはるかに早く手持ち無沙汰になってしまった。
 時刻は既に正午に近い。
 今から真っ直ぐ帰っても恐らくアスランはいるだろう。わざわざそこに真っ直ぐ帰ると思うと憂鬱になってくる自分を感じる。
 買い物カゴを見る。ラクスに頼まれて買ってきたモノは調味料だけだった。生ものでは無いので別に腐る心配は無い。

「……少し、ぶらついてみるか。」

 少し離れたところにアーケード街が見える。自転車を走らせて、アーケード街の近くの自転車置き場に自転車を置いて、買い物かごを手にそちらへと向かった。

「……結構人いるんだな。」

 歩くこと数分。眼の前に広がるアーケード街は予想よりも賑わっていた。
 戦争から二年経った――その戦争の傷跡はそこには無い。
 痕跡――割れたままのガラスやひび割れた道路、崩れ落ちた遠方のビル――は見え隠れするものの、雰囲気がまるで違う。
 この街も前に進んでいるのだ。時間は川の流れの如く、全てに等しく流れていくことを実感する。
 止まったままの自分。同じ場所に留まり続ける自分とは違うのだ――それが余計に寂しさを募らせる。

「とりあえず、何か見てみるか。」

 溜め息を一つ吐いて、頭から余計な考えを消し去る。
 まず、目についたのはエスニック調の建物。
 適当に扉を開けて中に入る木板の壁と幾つかのテーブル。
 壁には何着か女性物の服――確かアオザイと言った民族衣装――がかけられている。
 店内に入って目立っているのは二人組の男女――カップルが多くいた。互い互いに手を握り合って身体を近付けている。
 
 それを見ていると頭の奥底から何か得体の知れない感情が浮かび上がる。
 それは不快な感情ではなく、どちらかというと温かく優しく、そして悲しくて辛くて、でも大切な――そんなイメージの感情。
 どこかで経験した覚えのある、けれどもう思い出せない遠い記憶の中にある感情。

(……なんだ、これ。)

 その得体の知れない感情に戸惑いを感じる。
 彼らから眼を離す。感情の高ぶりは収まらない。どうやらカップルが理由と言う訳でもないらしい。
 
 気を取り直して、店内に置いてある品物に目をやった。
 その店は雑貨屋だった。アジアンテイストの服や鞄、装飾品、それ以外にもパイプや食器等様々な品物が揃えてあった。
 別に何を買うつもりもなく、それをただ眺めていた。
 気に入った品物があれば、手にとって見たり、広げて見たりした。

(案外楽しいもんだな、こういうの。)

 適当に時間を潰すだけのつもりだったが、案外楽しめている自分に驚く。
 そうして品物を眺めながら知らず知らずの内に時間が過ぎていった。
 
 ――この服はあの人に似合いそうだ、この帽子はあの人に似合うな、このネックレスはあの人に合うかな、この鞄はあの人が使えばなあ。
 思い浮かぶ言葉の中心にいるあの人とあの人、と言う存在。それに気づかぬまま、時間は過ぎていき、そして――気づく。

(……何、考えてるんだろな、俺は。)

 シンが思い浮かべていた“あの人”――ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウンの二人。
 知らず知らずの内に、この服が似合いそうだとかこの帽子が似合いそうだとか、そんなことを思っていた。
 自分は、もう、どこにもいない二人にプレゼントでもしようというのだろうか。
 墓前に添えるとでも言うのだろうか――葬式すら途中で切り上げて、帰って訓練に没頭していた自分にそんな資格があるとでも言うのだろうか。

「……はあ。」

 殆ど無意識に吐き出される溜め息――ほぼ習慣に近い。溜め息は吐けば吐いた分だけ幸せを逃していくと言うが、現在自分の幸せはどれくらい残量があるのだろう?そんな馬鹿な考えが浮かんで消える。
 手にとっていた青色のアオザイ――ギンガに似合いそうだと思った――と麦わら帽子――フェイトに似合いそうだと思った――を棚に戻して、店を出る。
 冷やかしだけで帰った自分にも店の主人は「ありがとうございましたー」と叫んでいた。

 正直、何か買って帰ろうかと思ったが、やめた。
 それを買ってどうするつもりなのだろう?
 
 滑稽な話だ。死人は何も喋らない。何も言わない。なのに、自分はコレが似合うだとか馬鹿なことを考えている。
 どうでもいい、と心中で繰り返す。何度も繰り返すことで滑稽な自分を嘲笑出来るように自分の心を整理する。そうでもしなければ、その思い出に引き込まれてしまいそうな自分がいたから。

(どうでもいいことだ。)

 ギンガ・ナカジマのことも。フェイト・T・ハラオウンのことも。
 二人を守れなかったことも。二人に返事を返せなかったことも。
 何もかもがどうでもいいことだ。

「……どうでもいいんだ。」

 小さくつぶやき、心の落ち着きを取り戻す。
 自転車の方を見る。
 帰る前に海にでも寄っていこう――そう思って、自転車に乗った。
 瞬間、偶然、目があった。
 ――恐らく買い物をしているルナマリア・ホークと。

「――っ!!」

 脊髄反射。考えるよりも早くペダルに足を掛けて、思い切り踏み込んだ。

「ちょ、ちょっとシン!?」

 答える必要はない。
 とにかく会いたくなかった。
 あの夜のことを思い出すと、情けないのか、申し訳ないのか、それらが入り混じった気持ちで胸が一杯だった。
 自転車のペダルを踏み込んで一気に速度を上げる。そのまま脱兎の如く全力でその場から逃げ出そうとする。

 ――その時、ルナマリアの絶叫が聞こえた。もう何と言うか、色気もへったくれも無い絶叫が。

「きゃああああ、痴漢があああああ!!!」
 
 言葉の内容を理解した瞬間、眼が勝手に見開いて、同時に身体が動き出した。
 地面に足を押しつけ、両手を力一杯握り締めて全身全霊で急ブレーキ。
 勢いを殺し切れずに自転車が前輪を中心に回転(ターン)する。甲高い耳を貫くタイヤの摩擦音と焦げるゴムの匂いが鼻をつく。
 そのまま、ルナマリアがいた方向に向かって自転車を向けると、再度をペダルを踏み込んだ。
 さっきよりもはるかに強く全力全開で立ち漕ぎ――景色が一瞬で流れていくような錯覚を起こすほどの加速。
 電柱に危うくぶつかりかけながらも何とか停止し、直ぐに降りて、ルナマリアの元に走っていく。彼女は地面に跪いて俯いたまま

「どこだ!?痴漢はどこだ!?」

 辺りを見回してもそれらしい人間はいない。むしろ、大きな声で痴漢痴漢と連呼している自分を見る奇異の視線ばかり――その奇異の視線を睨み付ける。視線が勝手に逸れていく。

「ルナ!!痴漢はどこ行っ……」

 言葉を言い終える前に自分の右手を掴む人肌の感触――彼女の右手に掴まれていた。
 にっこりと笑いながらルナマリアが呟いた。

「はい、捕まえた。」
「……は?」

 掴まれた右腕が痛い――いきなり、力任せに引っ張られた。

「痛っ!?ル、ルナ!?ち、痴漢はどうしたん……あいだだだだ!!!」

 彼女の爪が食い込んだ。マニキュアやネイルアートをする為に程よく伸ばされた女性の爪はある意味凶器のようなものだということを実感する。
 痛みに叫ぶ自分を無視してルナマリアが歩き出した。

「痴漢?そんなのいる訳ないでしょ?いたら、助け呼ぶ前に自分で殴り潰してるわよ。」
「なっ!?じゃ、じゃあ、さっきの悲鳴は……」
「嘘に決まってるじゃない。あんた、馬鹿?さ、行くわよ。」

 爪を食い込ませたまま歩く彼女に引っ張られるようにして、自分も歩いていく――と言うか連行されていく。

「ちょ、ちょっと待て、ルナ!!どこに行く…あいだだだ!!爪が!!爪が!!」
「あのね、シン。」

 ルナマリアがいきなり振り返る。

「私、怒ってるの、分かる?」

 眼と眼が合う。睨み付けられて、身体が自然と後ずさった。

「……ル、ナ?」
「久しぶりに会ってあんなことした私もどうかしてたと思うけど、あんな全力疾走して帰った挙句に、街で会ったらこれでもかっていうくらいに自転車で全力疾走して逃げ出されたら、そりゃ私も怒るわよ。そうでしょ?」
「……ごめん。」

 歩きながら呟いた。
 確かに顔を見た瞬間に逃げ出すのは拙かったのかもしれない。

「……まあ、いいけどさ……せめて何で逃げ出すかくらいは教えてなさいよね…っと、着いたわよ。」

 顔を上げて前を見る。どこにでもあるようなコンクリート造のビルだった。
 その一階部分――そこに喫茶店ミネルバと書かれた看板が上がっている。扉には「CLOSED」と書かれた札がかけられていた。

「ここって……」
「私の店よ。こないだ来たでしょ?」
「……そっか、ここ、あの時の」

 以前来た時は深夜だったせいか、今とは周りの風景がまるで違って見えていた――まるで気付かなかった。

「ほら、行くわよ。」
「あ、ああ。」

 促されるまま中に入る――まだ開店していないからか、店内は薄暗い。
 ルナマリアが自分から手を離して、すたすたとカウンター内に入っていく。

「シンはブラックよね?」
「あ、ああ、ブラックで。」
「じゃ、そのままそこ座ってて……逃げたら承知しないからね?」
「……分かった。」

 こちらが答えるのを確認すると、ルナマリアは棚から出したヤカンにミネラルウォーターを流し込んで火に掛ける。その間に彼女は道具を棚から取り出し準備をしていく。
 てきぱきとした停滞無い動作。慣れているのがよく分かる――彼女と別れてから既に3年が経過しているのだ、と実感する。

「はい、これ。」

 そうして物想いに耽っている内にいつの間にかルナマリアがコーヒーを自分の前に置いてきた。
 透明感のある褐色の液体――いつも自分が飲んでいる缶コーヒーとは比べるのもおこがましい、真っ当なコーヒーだ。香ばしい良い香りが鼻腔をくすぐる。

「ああ……悪い。」

 呟いてコーヒーを手に取り、口をつけた。
 コーヒーが口の中に流れ込む。程よい酸味とコクが口内を走り抜ける。
 一口飲んでみて思わずほうっと息を吐いた。

「……旨いな、これ。」
「ミネルバ特製ブレンドコーヒーよ、中々のもんでしょ?」
「ああ、これは旨い。」

 そのまま二口目。何度飲んでも変わらない旨さ。
 見ればルナマリアもコーヒーを入れていた。自分の分なのだろう。

「……この店、今日は休みなのか?」
「まあね。今日は定休日なの。」

 ルナマリアはそう言ってコーヒーに口をつけた。
 そうして、沈黙が室内に満ちていった。
 コーヒーに口をつけては、呆っと室内を見渡す。片づけられた店内。カウンターの中の冷蔵庫に貼られたメモ。
 そうやって店内を眺めていると、不意に沈黙が破られた。

「それで、あんたは何でさっき私から逃げた訳?」

 コーヒーを飲みながら彼女が呟く。

「こないだ、言ったことと何か関係があるの?……その、あんたがついこないだまでいた別世界とかに。」

 その問いに答えを返そうとして――躊躇する。
 この間、ここから飛び出したのは“堪らなくなった”から――二人の幻影が消えなくなったから。その微笑みが自分を苛み続けるから。
 先ほど、ルナマリアから逃げ出した理由は単純に後ろめたかったから――時折現れる幻影への後ろめたさだった。

「さあ、どうだろうな。」
(……考えてみればおかしな話なんだよな。)

 そう、冷静に考えてみればこれはおかしな話だった。
 二人は、死んだ。守れなかった。その責任は全て自分にある。だから、後悔するのは理解できる。
 死んだ二人はもう何も出来ないのに、自分はおめおめと生きている。そこに後ろめたさを感じるのならばそれで良い。
 けれど、あの時自分はそんな後ろめたさを感じたりはしなかった。
 ルナマリアに溺れる。それで全てを忘れる。自分を蔑むことで自分を保つという最低の行為。
 
 その時、自分は“それでいいのか”、と思った。
 それでいいのか――つまり、その選択肢を選んでいいのか、と。

「……シン、話して。」

 ルナマリアには彼女たち二人のことを話してはいない。
 何となく後ろめたかった――昔の恋人に、誰かから告白されました、なんて話をしたくはなかったから。
 だが――すう、と息を吸い込んで吐き、コーヒーを口元に運び、口をつけ、一口飲んだ。
 ルナマリアに譲る気はないだろう。理由を知るまでは帰さない――そんな気持ちを感じる。
 どうして、そこまでこんな話を聞きたいのか。
 疑問は浮かぶが、心の底から湧き出た一つの言葉がその疑問を掻き消していく。

(どうでもいいか。)

 覚悟ではなく諦念によってシンの判断が確定する。

「理由、か。あるとすれば……」

 口を開いて放たれる言葉は――多分自分の惨めさを酷く加速させるだろう。

「前にも言ったけど、あっちに行った時、初めはさ、正直死にたかったんだ。こっちで殺されたのは多分平和の為だった。俺みたいな人間はこっちにいたんじゃ、ずっと火種でしかないから……俺は納得してた。後悔はあったけど、死んでもいいかなって思った。」

 死にたかった、と口に出した辺りからルナマリアの視線が険しくなる。構わず独白/自嘲を続ける。

「で、向こうに行って、俺は死に場所を奪われたって思った。あそこで死んで終わるつもりが、気がつけば終わることなく続いてたから、余計にそう思った。ゴールしたと思ったら、実はそこはスタートだったって感じだった。」

 知らず視線が天井に向かう。目を閉じた――浮かび上がるその頃の思い出。明瞭に、明確に。まるで夢でも見ているみたいに。

「……それであの人に助けてもらったんだ。」
「あの人?」
「……ギンガっていう女の子だ。その子に俺は助けられて、目的を見つけた。」
「目的……ああ、守ること、だっけ?」
「ああ。今度こそ、こっちじゃ出来なかったことをあっちでやろうって。それで俺は魔法をその、ギンガ――ギンガさんに教えてもらって」

 呼び捨てはどうにもしっくりこなかったので言い直した。それを見てルナマリアが苦笑する。

「……あんた、子供にさんづけしてたの?」
「なんかさ、お節介なお姉さんって感じの子だったんだ。だから、さんづけしてた。年は、俺より一つ下だったんだけどな。」

 話を続ける――不思議なもので話したくないと思っていたのに、語り出すと滑らかに口が動いていく。
 本当は、誰かに語りたかったのかもしれない。何の為に――そんなことは分からないけれど。

「それでフェイトさんと出会って……」

 聞きなれない名前にルナマリアの眼が細まった。

「フェイト?」
「俺の一応直属の上司っていうことになって、一緒に仕事してた。」

 思い出す光景。クラナガンでのフェスラとの出会いの前から彼女は自分に良くしてくれていた。
 どうしてあんなにも自分のことを構ってくれていたのかは分からなかったけど――思い出す笑顔はいつも綺麗で朗らかで。

「その二人は、今も向こうにいるの?」
「死んだよ。殺されて――俺が守れなかったから死んだ。俺が殺したようなもんだった。」

 瞳を開く。二人の顔を思い出す。明確にその思い出は再生される。
 二人の幻影は今も視界の端っこで笑っている。
 その幻影が示す意味は――慰められたいのかもしれない。
 シン・アスカは悪くない。悪くない。誰かを守れなくても仕方ないんだ、と。
 守れなかったことへの言い訳に自分は彼女たちの幻影を使っているということ。

(だとしたら、最低だな。)

 吐き捨てるように心中で呟く。

「理由は、それだよ。二人の顔が消えないんだ。忘れようとすると酷く頭が痛くなる。……消えないんだよ、その二人の幻影が。もうどうでもいいって思ってるのに、消えないんだよ。」

 支離滅裂な言葉の羅列。どこにも繋がらないばらばらの言葉たち。

「それが、原因?」
「……多分。」

 そこまで語り通して、沈黙が満ちていく。
 ルナマリアからの返事は無い。あの日から一歩も前に進まない自分のことを呆れているのかもしれない。
 そう思うと少しだけ気が楽になる。
 正直、誰かに嗤われた方が気が楽だったから。

「あの二人はさ、俺なんかに関わっちゃいけなかったんだ。」

 呟き、唇を歪めて嗤う。

「俺に関わったせいで殺された。俺がいたから殺された。」

 口を開く度に声に力が籠っていく。

「俺がいなかったらあの二人は死ななかった。俺がいなかったら幸せに暮らしてたはずだ。俺がいなかったら――」
「シン、ちょっといい?」

「……え?」

 頬に衝撃/痛みが走る。揺れる視界。ゴキ、と言う音が脳髄に響き渡る――気がつけば目の前に床。鼻から床に突っ込んだ。
 椅子が倒れて、テーブルを巻きこんで、がらがらと音を立てて崩れていった――そこまできてようやく気付く。自分がルナマリアに殴られたことに。彼女が右拳をストレッチでもするように、ぶらぶらと振っていた。

「……いきなり、何するんだよ、ルナ。」

 知らず声が低くなる――胸の奥で湧き上がる苛立ち。
 左頬がずきずきと痛い。
 唇を歪めて自分を見下ろすルナマリア。アカデミーでも、ミネルバでも、溺れていた時も、そんな彼女を見たことはなかった。

「分からないの?」

 こちらを見下ろしながら彼女が呟いた。

「…何が、だよ。」
「いじけて、良い気になってるからわかんないのか、それともそんなことも分からないくらいに、その女達に腑抜けにされちゃったのか。」

 自身を射抜く冷たい瞳――胸の奥の方でギシリ、と音が鳴った。

「おい、お前今何て言った。」
「聞こえなかったの?それなら何度でも言って上げるわ。」

 見下ろしながら、嗤いながら、ルナマリアが口を開いた。

「今のあんたは腑抜けだって言ってんのよ。一人で不幸面して慰めてもらいたいようにしか見えないわね。」

 唇を歪めた嗤いを見て眉間に力が入り、瞳が尖っていくのを感じる。奥歯を噛み締めて、必死に自制する――今にも殴りかかりそうな自分自身を。
 だが、

「大方、その女たちに甘やかされて、そんな腑抜けになっちゃったんじゃないの?」

 ――そんな自制はその言葉で全て吹き飛んだ。
 考えるよりも早く身体が動く/殆ど反射的な動き――肉体に刻み込まれた鍛錬の証。
 左足を踏み込み、右拳を突き出す。目の前の人間が女だとか戦友だとか昔の恋人だとかそんなものは頭の中から掻き消えた。
 脳が肉体に送る指令は厭らしげに歪んだその口を閉じさせることだけ。

「――忘れたの?」

 呟きと同時に今度は右頬に衝撃。拳で殴られた実感/その拳がまるで見えなかった。
 意識が揺らいで消えて地面に頭から突っ伏し、四つん這いのような態勢になった。

「あ、ぎ…!?」

 ずきん、ずきん、と割れそうなほどの頭痛が走る。膝に力を入れて立ち上がる――力が入らずにかくん、と折れて再び四つん這い。
 右腕が何か腕のようなモノに挟まれたような実感があった。打ち込まれた一撃は恐らくクロスカウンター。

「私も赤なのよ?今のアンタに負けるほど落ちぶれて無いわよ。」

 そう言って、ルナマリアは再びこちらを見下ろす――湧き上がる感情は憤怒。殺意すら込めて彼女を睨み付けた。

「……取り、消せ、今の、言、葉……!!!」
「なんで怒ってるの?別にどうだっていいんでしょ?」

 軽い口調で続けるルナマリア。
 加速する苛立ち。憤怒。怒りのあまりに握り締めた手の爪が指に食い込んでいく。痛みすら感じ取れ無いほどに。

「どうでも、いいだ、と…?」

 真っ白な頭が勝手に言葉を紡ぐ。
 脳が勝手に彼女達の微笑み――世界で一番大事で何よりも大切なその微笑みを再生する。

「あんた、さっきそう言ったじゃない。どうでもいいって。」

 床に手を突いて立ち上がる。膝に力が入らない。立ち上がることすら難しい。
 
 そうだ、どうでもいいと自分は言った。
 本当にどうでもいいことだ。
 もう自分には関係ない。関係の無い――ふざけるな。
 どうでもいいと自分は確かに言った。そう言った。
 けれど――そんな訳があるか。
 立ち上がろうとする自分を見下ろすルナマリアの瞳――その口が動いた。
 
「……どうでもいいんでしょ? その女達のことも何もかも。」

 脳髄が沸騰していくのを感じ取る。
 ルナマリアと瞳が合う。真っ向から睨み返す。

 ――立ち上がれ。気合を入れろ。そんな力が入らない程度で、彼女達を汚させるな。

 椅子やカウンターテーブルを掴んでありったけの力で引っ張り、支えにして立ち上がる。
 ぜいぜい、と息を切らしながら立ち上がる。膝は揺れっぱなしで頼りない。生まれたばかりの小鹿でもまだマシだと思えるような挙動の頼りなさ。
 それら全部を頭の中から追い出して、必死に立ち上がる。
 ルナマリアは今も自分を見ている――きつく、睨み付けるようにして。
 どうでもいい、と確かにそう言った。自分はさっきそう言って、自分自身を嘲笑した。けれど、それでもそれを看過する訳にはいかない。自分のことなんてどうだっていい。許せないのはそんなことじゃない。
 唾を飲み込み、逆に睨み返す。絶対逸らさない。何があろうと逸らすのは駄目だ。今ここで逸らせば一生何かを後悔する。一生自分は“幸せ”になんてなれない。
 だから、全身全霊を込めて、睨み付けて、叫んだ――そんな事実を認めたくなかったから。

「――いいわけ、ねぇだろ!!!」

 ルナマリアの表情が僅かに歪んだ――気にする余裕などどこにも無い。
 そんな余裕など沸騰した脳髄のどこにも置いておく場所は無い。

「ああ、そうさ、俺は馬鹿でくそったれで、死んじまった方が良いような人間だ!!」

 放たれる言葉は叫びの如き吐露。鬱屈した心情の奥底の欲望そのもの。

「けどな……それでもなぁ!!」

 腹の底から、心の底から、叫んだ。

「あの二人はそんな馬鹿でくそったれな俺のことを信じてくれたんだよ!!」

 そう叫んで睨み付けた視線を逸らさない――ふっと、ルナマリアがどこか寂しげな感じで“微笑んだ”。

「何よ、全然腑抜けになんかなってないじゃない。そんなに本気で怒れるんだったらさ。」

 嘲笑が消えた。視線から棘が消える。

「ル、ナ…?」
「まだ、わかんないの?……あんたはね、惚れてんのよ、その二人に。失くしたら、頭おかしくなるくらいにね。」

 苦笑しながらこちらを見る――一瞬言葉の意味が理解出来なかった。

「……え?」
 はあ、と溜め息を一つ吐いてルナマリアが話し出す。

「惚れてるって言ったのよ。昔の女の前で今の女の惚気とかちょっとは考えて喋りなさいよね。しかも二股とか……副長が聞いたら、このリア充とか言って血涙流して襲ってくるわよ?…ったく、何で私がこんなこと……」

 そう言ってルナマリアがカウンターの中に戻っていく。

「…俺が、あの、二人、を…?」

 膝から力が抜けて、床に腰を落とした。
 知らない内に自分はいつも彼女達のことを考えていた。
 後ろめたいとか思ってるということは、自覚があった訳で――自分は、当の昔に惚れていた、のだろうか。

「……毎日毎日、思い浮かべてる女がいたら普通は惚れてるって自覚するもんよ?はい、これ。」

 左を見ればルナマリアが新たなコーヒー――アイスコーヒーを自分の傍に置いていく。殴られたせいか、口の中が切れていたので正直アイスコーヒーはありがたかった。

「殴ったお詫びってことで、お昼くらいは作ったげるわ……それまで、それでも飲んでなさい。絶対に逃げんじゃないわよ?」

 ぎろりと、睨み付けられて苦笑する――もう、別に逃げる必要は無い。
 全身の力を抜いて床に寝そべった。見える天井は以前とは違って見える。今が昼間で光があるからか、それとも他の理由なのか――多分両方だろう。

「……とっくの昔に惚れてたってことか。」

 小さく、呟いた。
 失ってからそのことに気がつくのも馬鹿な話しだ。無様な話だ。
 手に入れた返事――答えを伝える相手はもういない。
 悲しい、と思った。悔しい、と思った。
 だけど――胸に生まれたこの気持ちは何なのだろうか。
 辛さと苦さを生み出しながら、同時に暖かさを生み出すこの気持ちは。
 
 ――貴方が好きです、シン。
 ――私、シンが好きだから。

「……二人の女に本気で惚れる、か。確かに馬鹿だな、俺は。」

 薄っすらと微笑んで――もう、届かない答えを呟いた。
 二人のことが好きだった。
 ギンガ・ナカジマに惚れていた。
 フェイト・T・ハラオウンに惚れていた。
 いなくなったことが悲しかった。守れなかったことが悔しかった。
 
 ――好きだから。
 
 たとえ、彼女達のことを何も知らないとしても、上辺だけで惚れたのだとしても、惚れていることに違いは無い。
 別に、そこに間違いなんてなかった。
 誰かを好きになることに間違いなんてないのだから。
 ――それが正解なのかどうかは分からない。多分、そんなことはどうでもいいのだ。
 そうして、瞳を閉じて、意識を落とす。
 ルナマリアの声はまだ聞こえてこない。聞こえてくるのはトントンと包丁を叩く音と何かを煮ている音。

「……ああ、悔しいなあ。」

 そう、呟いて、シン・アスカは一人そこで寝そべっていた。
 涙は――まだ毀れていなかった。毀れそうだけど堪えていた。
 涙を流すにはまだ知らないことが多すぎたから。
 ――涙を流すなら、一人で。そう、決めていたから。


「だから、俺の元で働けと言っているだろう、シン!!」
 どん、とコップを置いた瞬間テーブルが揺れた。
「いいか、俺がどれだけお前のことを待っていたと思っている!!ルナマリアだってな、お前のことをずっと…」

 そう言いつつ、手酌で自分のコップにワインを注ぐアスラン・ザラ――顔は真っ赤で眼もかなり充血している。恐らくそれほど強くないのだろう。コップを煽るスピードはそれほど速くないと言うのに既にふらついてきている。

 その対面辺りで非常にうざったそうにアスランに付き合う男――シン・アスカ。
 
「ああ、もう、キラさん、このうるさいの引き取ってくださいよ!!」

 キラに向かってそう叫び、自分もぐいっとウイスキーを一息で飲み込む。
 アスランにワインを独り占めされたので、仕方無しにウイスキーをコップに注いで“煽っている”。
 アスランに対してシンの飲むペースは異常を通り越して魔的だ――と言うか殆ど馬鹿だ。
 ワインのアルコール度数は凡そ25度程度。それに対してウイスキーのアルコール度数は40度を越える――少なくとも“煽る”ように飲んで大丈夫な代物では無い。

「まあ、観念しなよ、シン。アスランも久しぶりに羽目外してるみたいだし、しばらく付き合ってあげてよ…おっと、そろそろボクの番か……次、どれ切るかなー。」

 パソコンの画面を眺めながらネット麻雀をしている青年――キラ・ヤマト。コップの中には透明な液体――恐らくは日本酒が入っている。
 キーボードの横に置いてある一升瓶のラベルには「大吟醸皇武」と書かれている。それを一口一口味わうように飲んでいる。

 その横ではドゥーエと子供達がジュースとホットケーキミックスを片手にホットケーキパーティをしていた。
 
「皆、美味しい?」
「美味しい!!」
「最高!!」
「ドゥーエせんせい、ボク今度はほっとけーきあらもーどが食べたい!!」
「よし、皆頑張って作るわよ!!」

 そう言って蜜柑と黄桃の缶詰を開けて、ホットケーキミックスを混ぜ始める。
 片や男三人がだらだらと各自酒を持ちながら、各々ダラダラと飲み続け、片や子供と女がホットケーキをこれでもかこれでもかと言わんばかりの枚数を焼き続ける。
 
「……ラクスさん、この家でやる飲み会ってこんなんなんですか。」
「いえ、初めてですわ。この家でこんなパーティなどするのは。」
 
 とんとん、包丁で野菜を細長く切って野菜スティックを作っているラクス。恐らくツマミを作っているのだろう。皿には味噌とマヨネーズが添えられている。

「でも、キラもアスランも楽しんでるようですし……正直、こんなに賑やかだと楽しくて嬉しくなりません?」

 はにかむようにクスクスと笑うラクス。そうしている間にもツマミが一つ一つ出来て行く。
 野菜スティックを作り終えると次はアスパラやネギ、ワケギを薄切り牛肉で巻いていき、一つ一つ皿の上に並べていく。
 ガスコンロの上に置かれた鍋ではポトフと肉じゃが――こちらは自分ガ作った――が煮込まれている。

「…いや、まあ、それはそうなんですけど……」

 はやては唇を引くつかせ苦笑しつつも手を動かす。
 彼女もラクスと同じくツマミ係だ。細切りにしたネギとニンニクの芽を卵と薄力粉と水で解いた生地に絡めて、フライパンで焼き上げている。
 じゅうっと生地が焼ける音がし、香ばしい匂いが漂っていく。
 最後にごま油を鍋肌から回しかけて生地をカリッと仕上げ、フライ返しで仕上がった一枚ずつを更に盛っていく。
 フライパンを空にするとチヂミを乗せた皿を持ってテーブルの前へと移動する。
 ラクスがそれを見て先ほどの野菜を薄切り牛肉で巻いたものを乗せた皿を持ってフライパンの前に移動する。

「…せやけど、シンの奴なんか帰ってきてからサバサバしてますね。」

 チヂミを盛り付け、新たに棚から出した小鉢に醤油とごま油とコチュジャン――チヂミのタレである――を入れて混ぜ合わせながら、ラクスに話しかけた。

「もしかしたら、何か良い事あったのかもしれませんね。随分と明るくなった気がしますし…あ、はやてさん、チヂミが出来たなら一緒にこれも持っていってもらえます?」
「はいな。」

 軽く呟いてチヂミと野菜スティックが乗せられた皿を持って、シンたちが騒いでいる部屋へと向かう。

「……どうする。この局面から…駄目だ、これ絶対に通らないよ。」
「シン!!聞いているのか!?」
「……あんた、何で置き物の熊に向かって喋ってるんだ。」
「…もうグッダグダやな。」

 苦笑しながら、テーブルの上に皿を置いていく。

「ほら、皆ご飯出来たでー!」

 言葉と同時に皆が寄って来て食べ始める。
 キラは一人黙々と野菜スティックを齧りながら、

「……クールだ。クールになるんだ、キラ・ヤマト。よく言うじゃないか。狂気の沙汰ほど面白いって…クク…ククク……」

 どことなくザワザワという擬音が聞こえてきそうな雰囲気でマウスを操作し捨て牌を決めた――その後ろでそれを眺めていた子供――アルが呟いた。

「あ、それ通らないよ、おとーさん……ああ、やっぱり。」
「何で――!?」
(……あれは親子の語らいっていうんやろか。)

 頭を抱えて子供達に笑われているキラ。それを横目に今度はアスランを見る。

「うん、そうだ。分かってくれたか、シン!俺はずっとお前とまともに話をしたかったんだ…なのにお前はいつも俺を見るなり睨みつけては、皮肉を言って……俺は悲しかった、悲しかったんだぞ、シン!」

 ワインをラッパ飲みしつつチヂミを齧り、相変わらず熊の置き物にぶつぶつと語り続けている。
 どう見ても背中がすすけているのは何故だろうか。というかアレがシンに見えている辺り彼の視界も確実に狂ってる。終いには泣きながら熊の置物に肩を絡め、明日に向かってレッツゴーとか言っている。
 流石にこれはやばいんじゃないかとはやてがアスランの看病をしに、近づこうとした時、玄関から外に出ていく人影を見た。

「……シン?」

 出ていったのはシン・アスカ――自分にとって、何よりも期待し、放っておけない相手。自分の傍にいなければ“気が済まない”存在。

(……どこ行くつもりや?)

 彼が飲んでいたコップにはウイスキーは既に残っていない。ボトルを見れば琥珀色の液体は既に残っていなかった。

(こ、これ全部、一人で飲んだんか?)

 自分にしてみれば致死量とも言える酒量である。流石に背筋が寒くなった。酔いというのは人の心を素直にさせる。
 心のタガを外して、壁を消して、本音を話させて、通常ならやりもしないことを行わせる――無論、それが良い方向ならば良いが、得てしてそうとは限らない。
 今日の朝までのシン・アスカを思い出す。陰鬱そのものと言ってもいい彼を。
 
 ――それが嫌な予感を想起させる。酒がタガを外させて、普段なら“思いとどまる”ことを“思い留まらせなかったら”――嫌な、予感がした。

「……行かないの?」

 びくっと振り向く。ドゥーエが背中越しに呟いたのだ。

「な、なんや、いきなり。」
「心配そうにしてたからね……さっさとついていったらって思ってね。」

 そう言って、コップの中にある小麦色の液体――ビールを口に運ぶ。左手にはチヂミとホットケーキが所狭しと並んだ大皿を持っている。

「給仕くらいは私がやっててあげるから、さっさと見てきなさいよ。」
「……あんた、案外ええ奴やな。」
「……それこそ錯覚よ。」

 頬を朱に染めてドゥーエが呟く。その朱はアルコールによるものか、それとも照れくさいからか。
 彼女は皿とビールを持ったまま、台所に入っていく。

「……まあ、そんなアホなこともせんと思うけどな。」

 玄関の扉を開けて、外に出た。
 もし、自分の予想通りならば多少強引な手管――それこそ引っ叩くだけで無理なら、効果の有る無しに限らず考えられる全ての手段を使う必要もあるかもしれない――そう思って。


 月光冴え渡る蒼い夜。月の光が砂浜を照らし、潮騒の音だけが鳴り響く海辺――孤児院から少し離れた砂浜だった。
 シン・アスカはそこで、両手を頭の後ろで組んで枕代わりにし、空を見上げて寝そべっていた。
 服が砂で汚れることも気にしてはいないようだ。
 自分――八神はやては歩きながら近づいた。心配していたこと――入水自殺などと言う馬鹿なことをするつもりは無いようだった。その事実に安堵する。
 もし、そんなつもりならば籠絡や無理矢理な既成事実の作成、その他考えられ得る全ての手管を使って、止めるつもりだったから――流石にそういうコトはしたくは無い。

「……何しとるんや?」
「八神さん、か……いいんですか?向こうにつき合わなくて。」

 寝そべるシンの隣に腰を下ろす。海からの風が心地よく肌を流れていく。多少なりともアルコールを口にしていたからか、僅かに身体は火照っているから余計にそう思う。

「ドゥーエが代わりに手伝ってくれるって言うてね。一休みしに来たんや、私も。」
「…そうですか。」

 その一言を最後にシンは何も言わず、空を眺めていた。
 自分も同じく隣に座って空を見た。
 月明かりが照らしながらも見える星空。
 こちらに来てから何度も見た星空――未だにその空の鮮明な輝きに圧倒される。
 どちらも言葉を発さない。
 話す必要などないくらいに通じ合った仲ではないから、タイミングが掴めないのかもしれない。少なくとも自分はそうだ。
 
 聞きたいことはあった。
 どこが変わったかは分からないが、隣で寝そべっている男は何かが変わったと思う。
 何が違うのかと言われれば即答は出来ないが――以前まであった鬼気迫る雰囲気、もしくは張り詰めた緊張感。そういったモノが和らいだように感じる。
 スッキリした、という感じが一番近いのかもしれない――何がスッキリしたのかは分からないが。
 
 何か良いことがあったのだろう、とラクスは言った。
 仮にそうだとしたら何があったのだろうか。聞きたいことがあるとすればそれだった。
 沈黙――それほど時間は経っていないだろうに、かなり長く感じる。
 たまらず口を開いて声をかけようと思った矢先、それに先んじてシンが口を開いた。

「……二人のこと話してくれませんか?」

 朱い瞳は今も変わらず空を眺めたまま、声を出した。

「シン?」

 戸惑いを感じた。
 自分の知るシン・アスカならば“絶対に”聞かない類の質問――誰かのことを知りたい、と。
 シンが続ける。

「俺、あの二人のこと何にも知らないから……だから、教えてほしいんです。」

 言葉を切って、続ける。視線は今も空を見て――その先に何を見ているのかは分からない。思い出を見ているのかもしれない。

(……これ、は。)
 
 それは、ある意味信じられない変化だった。
 他人への興味を薄れさせ、全てを同一に見て、全てを守ろうとした大馬鹿野郎。その結果として誰も守れずにその責任を背負い込んで、自身を追い詰めていった男。
 口を開くのが躊躇われた。それは、変化などと言う一言で纏めるには信じられないほどに“劇的な変化”だったから。
 シンが起き上がり、自分に目を向けた。朱い瞳に“虚無”が無い。あるのは、真っ直ぐな欲望と静かな意思。

「なんで、知りたい、と思ったんや?」
「あの二人が好きだからです。だから――もう、二度と忘れたく無いから。」

 そう言ってシンは自分を見つめた。まっすぐ、目をそらさずに。

 ――少しだけ寂しくて、そしてそれ以上の嬉しさを感じ取った。

 口元が不敵に歪むのを止められない。胸の奥で沸き立つ熱い何かが生まれていく。心臓の鼓動が大きくなっていくのを実感する。
 何があったのかは知らない。どうしてこうなったのかは分からない。これが待ち望んだ変化なのかどうかは分からない。だが、これは良い。これは最高だ。
 ――男が立ち上がり出す瞬間がこれほどに“痺れる”モノだなんて知らなかった。

(あかんな、惚れそうや。)

 冷静に心の中で呟いて、はやては話し出す。心中の様子など一切外に出すことなく。

「……ええよ。教えたげるよ、あの二人のこと――うん、君が惚れた二人のことを。」

 口を開き、話し始めた。
 自分とフェイトの出会い。そして、彼女の生い立ちや彼女がどう生きてきたか。執務管となる為の努力。そして、ゆりかご戦。それから今に至るまで。
 自分とギンガの出会い。彼女の生い立ちと境遇。両親のこと、彼女自身の存在について、そしてゆりかご戦で敵になって戦ったこと。それから今に至るまで。
 それは彼女たちの全てを表す記憶ではない。
 四六時中一緒にいた訳でも無いので当然ではある。

 それは八神はやての記憶。フェイト・T・ハラオウンという親友とギンガ・ナカジマという後輩の記憶。
 それは、シン・アスカの知らないフェイトとギンガ。彼が知る筈のない思い出。
 シンはじっと静かにそれを聞いていた。十分、二十分。時間はどれだけだろう。気がつけば、シン・アスカは泣いていた。

「……シン。」

 静かに、ではない。泣いて喚いて叫びそうな慟哭を、必死に押さえつけて、嗚咽している。
 ボロボロと涙が落ちていく。鼻水も出ている。かっこ悪い泣き顔。身体を震わせて、叫ぶのを我慢して、それでも涙が止められない。
 そんな子供のような泣き顔。

「……」

 手を差し出し、彼の肩に手を回そうとする。自然な動作。考えてのものではなく、その泣き顔を見ていたら反射的に抱き締めようとしていた――けれど、シンの身体が動いた。自分の手から逃げるようにして離れていく。

「……触らないでください。」
「……シン?」
「今、触られたら……縋りつきそうだから…だから、今は」

 嗚咽しながら、途切れ途切れに言葉を零す。
 何故か、その姿を見ていると胸の奥が締め付けられるように痛くなる。

「泣くだけ泣いたら……元気になるんやで。」
「はい…。」

 言って、立ち上がり、振り返った。
 背中越しに聞こえる嗚咽交じりの泣き声。
 振り返りそうになる自分を必死に抑えて、その場から歩いていく。
 多分、シンはそれをこそ望んでいるから。
 そうして、数百mほど歩いたところだろうか。人影を見つけた。

「……盗み聞きか?」
「……そうね。」

 答えたのはドゥーエ――シンを騙した敵の女。
 彼女はじっとシンの方向を見つめている。戦闘機人という出自から、恐らく彼女にはシンの泣き声や泣いている姿は見えているのだろう――優しげで、寂しげで、少しだけ悲しそうな顔で彼女はシンを見つめていた。

「けど、意外やな。」
「何が?」
「こういう時、嗤うような奴やと思ってた。」
 そう呟いて、ドゥーエはため息を吐いて肩をすくめた。

「……本当は嗤ってやろうと思ったんだけどね、嗤えないのよ。」

 口元が笑おうとして震えている。いや、口元だけではない――彼女の身体中が震えていた。

「……泣いてるアイツを何とかしたいってね。この身体が言ってるのよ。」

 悔しそうにドゥーエは顔を歪め、砂浜に膝を突き、そして呟いた。

「……これは、一体誰の気持ちなのかしらね。」
「それもドゥーエの気持ちやろ?」

 ドゥーエの金色の瞳が八神はやての方を向いた。二人の目と目があう。絡み合う金色と茶色――八神はやてが優しげに微笑んで、呟いた。その微笑みはどこか母親のようで――

「人間だったら、色んな面があるやろ?それと同じや。ドゥーエがどんな人に変わってもドゥーエはドゥーエのままや。そんな不思議なもんやないよ、それも。」
「……これも、私?」
「……自分のことやからって、完璧に把握できるもんやない。皆――私かて、そうや。だから、きっとそれもおんなじや。」

 振り返ってシンの泣いている方向を見る――一瞬だけですぐに振り返って、彼女は再び歩き出す。

「……ほな、私行くわ。」

 八神はやてはそう言って、その場から去っていく。
 ドゥーエはその後ろ姿をしばし見つめて――立ち上がり、彼女もシンの方向をもう一度見た。
 空を見ながら泣いている男。格好悪くて、無様で、惨めで――けれど、何故かその姿は心を騒がせる。

「これも……私の気持ち、なの?」

 声は闇に溶けて消えていく。答える人は誰もいない。当然だ。それは、自分自身の中からしか掴み出せない答えなのだから。
 そうして、彼女もまた歩き出す。今しばらくの仮宿――子供たちのいる場所へと。
 そこに、答えがあるような、そんな気がして。


 ――夜の空、満月が綺麗だった。

 泣いて、喚いて、叫んで、泣いて――どれほど泣いていたのかは分からない。
 一時間は泣いていたように思う。もしかしたら、数十分程度かもしれない。
 仰向けに寝そべって、両手両足を大の字に広げ、空を眺めた。

「……今度そっちに戻ったら、墓参りにでも行きますよ。」

 心の中ではなく外に向かって声を吐きだす。

「……俺は、もう少し生きてみます。あんたらのこと、忘れないように。」

 ――懐でデスティニーが朱く明滅していた。彼はそれに気づかず、手に入れた答えを反芻する。




 同時刻。オーブ洋上。

「くそっ!!こいつは一体何なんだ!!」
「艦長、船がどんどん海の中に引っ張り込まれています!」
「モビルスーツ隊はどうした!?」

 艦長と呼ばれた男が大きく叫んだ。慌てて通信士が通信を送る――通信士の顔が青色に染まる。

「ぜ、全機撃墜されて、います。」
「くそったれ…!!」

 オーブ海軍イージス艦の艦長に就任して以来、こんな経験など彼には無かった。
 いや、そんな経験をした者などは有史以来存在しないだろう。
 モビルスーツとの戦いとも戦艦との戦いともまるで違う、こんな“化け物”がいるなど想像したことも無かった。
 嵐の夜。荒れ狂う海の波間から船を絡め取るようにして、現れる触手(ケーブル)。
 
 昔話に出てくる化け物――大海蛇(シーサーペント)のように、それは船に絡み付き、侵食していく。
 そして、それら触手(ケーブル)の中心で。洋上に浮かび続ける青と黒のカラーリングのモビルスーツ――もはやそれがモビルスーツなのかどうかすら疑わしいものだが。
 モビルスーツが右手に構える巨大な黒い物体――ビームライフルが艦橋に向けられた。砲口に灯る紅い光。

「か、艦長――!!」
「お、面か……」

 言葉を発する前に艦橋を紅い光が貫いた。

 黒煙が上がり、イージス艦の艦橋が爆発。続いて、モビルスーツの身体のそこかしこから生まれた触手(ケーブル)がイージス艦を貫き、内部に侵食して行く。
 まるでミミズが泥を食い破るようにして。

『ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙、ア゙ア゙ア゙ア゙……』

 それは、ヒトガタ。
 それは、科学と魔法が融合した悪魔のようなヒトガタ。
 それは、モビルスーツ・レジェンド。
 それは、ただ一人モビルスーツとして、魔法を使えるようになった最悪の魔導機械(デウスエクスマキナ)。

『ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!!!!』

 それは――レイ・ザ・バレルのなれの果ての姿。


 物語は、今、加速する。
 ――これは、滅びの運命を叩き斬る一人の男の物語。



[18692] 第三部コズミックイラ飛翔篇 56.ハジマリ(a)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/06/01 08:09
 そこは、いつか見た場所。
 世界の狭間。時の最果て。事象の地平面。
 
「世界とは観測されることで決定する。」
 
 声が聞こえる。

「不確定な未来と言う概念は観測されることで現在と言う状況に確定される。」

 声が聞こえる。

「箱の中の猫と同じだ。 箱の中に猫がいる。 猫が生きているか、死んでいるかは誰かが箱を開けるまでは分からない――つまり、箱の中には猫の生と死が混沌と混ざりこんでいる。 現在と言う時間軸から見れば、未来もそれと同じく様々な可能性が混ざりこんだ状態でしかない。」

 声が聞こえる。

「わかりやすく言えば、我々は無限に分岐する未来に背を向けて後方に向かって歩いているようなものだ。 自分の後方から伸びる無限の道――未来、その中から一つの選択肢を選び、無限を一つに纏めて生きている。」

 声が聞こえる。

「だからこそ、未来は誰にも決められない。未来は誰にも分からない。」

 声が聞こえる。

「だが、その理を覆す存在がいる。それが羽鯨。時空という不確定の海を泳ぎ、世界そのものを食らう――“定期的”に世界を滅ぼして行く上位存在。」

 声が、聞こえる。

「ジェイル・スカリエッティの計画とは第97管理外世界に生まれるはずだった“無限の欲望”――シン・アスカを無限の欲望として覚醒させ、生贄として羽鯨に与える。 結果、羽鯨はコズミックイラにて目を覚まし、コズミックイラを食らい、滅ぼす。そうしてミッドチルダに“予定”されていた滅びの未来は回避される。 聖王の末裔の“あの女”が思うように次元世界全てとまではいかない――羽鯨が食らう世界は常に一つ。一つの世界を食らえば羽鯨は再び時空の海を回遊するからだ。 ……世界が滅びると言う意味では間違いはないがな。」

 眼が醒めた。
 青と白が混ざりこんだ空。どこまでも続く草原。風が肌を撫でていく。
 起き上がり彼女を見る。銀糸の髪と紅色の瞳――リインフォースがそこにいた。

「だが、お前は死ななかった――私が殺させなかった。 ……主はやてが誰かを犠牲にするなど容認出来るはずがないと私は気付かなかった。この計画の発端は私だと言うのに、な。」

 声色が変わる。滲み出すのは後悔――いや、悔恨の感情。

「……主はやてを救う為にまったく関係の無いお前を呼び寄せて利用して生贄にして――そんなことを主はやてが許すはずが無いと私は気付かなかった。」

 恐らく悔しいのだろう。主の為と言いつつ、主の為に生きていなかった自分自身の愚かさを呪っているのかもしれない。
 夢の中で会った彼女はいつも八神はやてのことを気に掛けていた――と言うよりもその為に存在しているようにも思えた。

 “だから――戦ってくれ、シン・アスカ。我が主を守る為に。”

 あれは、主の為に死んでくれ、と言っているのと同じことだった。
 別に、自分はそうやって死に場所をくれる相手を求めていたのだから、問題は無かったけれど――冷静に考えてみれば、酷い話だ。
 自嘲めいた呟きは聞きたくなかった。本題に入らせる為に質問を投げかける。
 彼女が自分を此処に呼んだと言うことは、頼みがあるということだろうから。

「前置きは良い。本題を聞かせてくれ。」

 立ち上がり、彼女に向き直り、呟く。

「アンタは俺に何をさせたいんだ?いや、もっと根本的な問題だ。何で俺なんだ?」

 睨む訳ではなく、視線を向けた。瞳は真っ直ぐに紅玉を射抜く。
 初めから、ずっと気になっていたことだった。
 どうして、自分を選んだのか。どうして、魔導師ですらない自分なのか。
 そんな自分を見て、どこか羨ましそうにリインフォースが微笑んだ。

「お前が無限の欲望だからだ。」
「無限の、欲望…?」

 以前に夢の中で聞いた言葉。

「無限の欲望とは羽鯨に見初められた“餌”。世界にたった一人しか生まれない存在。人間でありながら、羽鯨の恩恵を受けられる、ただ欲望が並外れた“だけ”の存在――羽鯨が食らう世界への道標。わかりやすく言えば、ビーコンのようなものだ――お前や、ジェイル・スカリエッティがそれに当たる。」

 右手を開いた。そこには今も閉じられた瞳のような紋様があった。

「俺が?だったら、何でこの世界は…」
「お前は、そうなる前に“諦めただろう”? 絶望して、諦めて、それでも諦め切れずに燻り続けて自分を誤魔化して、挫折し続けた。 その結果、お前は無限の欲望にはならなかった――お前にとっては皮肉な話かもしれないが、その挫折が世界を救った。 ある意味、あの世界はお前に救われたとも言える。」

 苛立ち――否、憤怒が胸に生まれた。知らず、視線が鋭くなる。
 何もかもを失ったあの日、自分は折れた。全てを“諦めた”。どうでもいいと思うのが当然になった。思えば、その日から自分は止まり続けていた。

 ――そうなったからこそ世界は救われた、などと言われても慰めにもならない。
 
 そんなこちらの様子を見て、リインフォースの表情に陰りが――申し訳なさそうに彼女が俯いた。

「…済まない。お前にとっては辛い記憶だった。」
「は?…あ、いや、別に……昔のことだから、いいけど。」

 俯いたまま、彼女が話を続ける。
 その調子の変遷に少し戸惑う――それまでのような仏頂面で強面の美女と言う皮が剥がれ、見えるのは、ただ泣いているだけの幼い子供のような女。

「…私は、人と関わったことが殆ど無い。だからか、周りがどう思っているかを考えられないんだ。」

 彼女は静かに――多分、こちらの顔など見てはいない。多分彼女は自分に向かって言っているのだ。横顔は泣いているようにも見える――涙なんて流していないのに。
 その変遷の唐突さに調子が狂う。

「お前を利用して、お前を生贄にしてでも、主はやてを救いたかった。……私にはもう時間が無いから、誰かに全てを任せる必要があったから。」
「だから、どうして、俺なんだ?無限の欲望って言うのは俺以外にもいるんだろう?俺は元々魔法なんて使えなかった。出来るとしたらモビルスーツの操縦くらいだ。」
 
 そう、不思議だったのだ。自分が特別扱いされていることが。

 “実績の無い個人”へのデバイスの支給。Bランク試験の“実績の無い個人”への実施。
 スバルやギンガ、ティアナ、キャロにエリオらは元々他部署からの移籍組である。理由となる実績が存在している。
 だが、自分は違う。自分は単なる漂流者。魔法も使えない一般人だった。

 誰かが裏にいるとは思っていた。誰かが自分を特別扱いしているのだと。
 それならそれで良いと思って戦っていた。
 戦えればそれで良かったから。特別扱いの結果、力が手に入るのならそれ以上求めるモノなど無かったから。
 だが、今、冷静に考えてみるとおかしいと言わざるを得ない。
 例え無限の欲望というモノに自分がなっていたとしても、他に適任者はいたはずだ。
 俯いていた顔をあげて、リインフォースが呟いた。声色や表情は元の鉄面皮に戻っている。

「……それはお前が第97管理外世界――私が最後に存在していた世界の無限の欲望だからだ。私にはあの世界以外の無限の欲望を検索する余裕などまるで無かった。」

 その言葉に一瞬、耳を疑った。

「…第97管理外世界、だと?」

 聞き覚えのある言葉。そうだ、それは確か八神はやての故郷である管理外世界。
 同じく自分がいたコズミックイラという世界も第97管理外世界だと目の前の女は言っている。
 ――それはおかしい。自分のいた世界に八神さんの言っていたニホンなどという国は存在していなかったし、四六時中戦争ばかり繰り返していたような世界だ。
 そんな世界に八神さん達がいたなど聞いたことも――

「……まさか。」

 ある一つの仮定を思いつく。
 同じ世界、なのに、違う世界。
 そんなことはありえない。世界は常に一つだけ。同じ世界が二つも存在するなどあり得ない。
 そんな事例は誰にも聞いたことが無い。
 もし、仮にそんな世界が存在するとしたら、誰かが自分にそう言ったはずだ。そういう可能性もあり得ると。
 だから、多分同一で違う世界なんて存在しない。別の世界と考えるのが自然だ。ならば――“違う時代”ならばどうだろう?

 同じ世界でも時代が違えばまるで違う世界となる。
 歴史書を見て過去と現在を比較して、同じに見えるだろうか?
 過去では馬に乗って剣を振るう兵士がいた。現在ではモビルスーツに乗ってビームサーベルを振るう時代だ。
 似通っているようでその違いは別世界と言っても過言ではない――むしろ、別世界と言った方がしっくり来るだろう。
 同じように、コズミックイラと八神はやての生まれた第97管理外世界も――

「……ここは、未来の、世界、なのか?」

 リインフォースが頷く。

「この世界、コズミックイラは主はやてのいた時代から253年後の“確定した未来”だ。」
「……確定した、未来?」

 聞きなれない言葉に問い返す。

「未来とは本来、定まっていない可能性だけが渦巻く混沌だ。 先ほども例えを言ったが自分の後方から伸びる無限の道――未来、その中から一つの選択肢を選び、無限を一つに纏めて生きている。 この“纏める”、という行為が観測だ。 未来は現在となることで観測され過去という一つの結果に纏められていく。それ故、未来とは無限の可能性を秘めている。 確定した未来など本来は存在しない。……私だけは例外だがな。」
「例外?」
「闇の書の中には様々な魔法が保存されている。 今はすでに失伝した魔法も数多く、な。 その中に未来を観測し、移動をするモノも存在する――それを用いて私はお前たちの時代を観測し、確定し、私は無限の選択肢を一つの可能性に閉じた――分かるか?」

 知識が追いついていないのが分かる。はっきり言って全容は分からないが――何となく、どういう意味だけかは分かる。分かったような気がする。
 そんなこちらの様子を見て、少しだけ彼女の視線に不安の色が混じり込んでいるのが分かる。
 先ほどの姿を見たせいか、彼女の印象が僅かではあるが変化してきていた。

(……そんなに悪い奴じゃ、ない?)

 どこかザフトに入ったばかりの自分に似ているような気がする。
 周りのことをまるで知らず、知ろうともせず、孤立していった――周りに合わせることをまるで知らなかったあの頃の自分に。

「……ああ、何となく分かった、と思う。 要するに未来は決まってるってこと…だよな?」
「……理解が早くて助かる。 お前の言う通り、第97管理外世界はどんな過程を辿ろうと世界はこの未来に辿り着く。」

 安堵したような溜息をして、彼女が答えた。

「……ただ、それがどうして、八神さんを助けることに繋がるんだ?」
「……ミッドチルダが滅びるからだ。 お前達がこちらの世界に飛んだあの日から2年後に、羽鯨はジェイル・スカリエッティを目印にしてミッドチルダに現れ、そこに住む全ての人々、そして羽鯨撃退の為にミッドチルダに展開した時空管理局の大多数をミッドチルダという世界ごと喰い漁り、結果時空管理局は崩壊する……これを見ろ。」

 そう言って彼女は右手を掲げ、A2サイズ程度の画面を虚空に作り出した。
 それは――多分その時の映像なのだろう。
 空が割れ、その隙間から這い出て来る巨大な鯨――というよりもどこか脳髄を連想させる姿。
 金色に輝く巨大な脳髄と大樹から生える枝のように所狭しとその脳髄から伸びる幾百、幾千、幾万――あるいは幾億の巨大な翼と微細な翼。おぞましさと神々しさを感じさせる矛盾したその姿。
 鯨を模した脳髄。全身を脳髄でのみ構成された鯨。
 脳髄には二つの眼がついている――眼が朱く染まった。
 幾億という稲妻が天地を繋いだ。同時に爆音――空の遠方で大きく光が輝いている。

 太陽が欠けていく/喰われていく。
 月が欠けていく/喰われていく。
 空が欠けていく/喰われていく

 ミッドチルダという次元世界――即ち宇宙が欠けていく/消えていく/喰われていく。

「……」

 言葉が出なかった。これがあの日から2年後の光景――予想していたよりもはるかに早い滅びと、その映像に映る惨状に。
 展開していた時空管理局の全ての職員が、ミッドチルダに住む全ての人間が、欠けていく。
 消えていく。喰われていく。死んでいく。
 見たことのある顔がいた。
 リチャード・アーミティッジが羽に囚われて欠けていく。
 ゲンヤ・ナカジマが、クロノ・ハラオウンが、ヴェロッサ・アコースが、欠けていく。喰われていく。消えていく。死んでいく。

 ――八神はやてを守るようにヴォルケンリッターが羽鯨に向けて剣を向けた。

 シグナムが欠けた。消えた。喰われた。
 次にシャマルが、ヴィータが、ザフィーラが、リインフォースⅡが――欠けた。消えた。喰われた。
 皆死んだ。残るモノは無。何も残らない完全なる無。そこには、正真正銘、何も無い。存在する必要が無い。
 宇宙が一つ消えて無くなっていくのだ。存在している方がおかしい。
 呆然と、その映像を見ていた。
 最後にはやてが見えた。不敵に微笑みながら、背筋を伸ばして、立っていた。堂々と――何も恐れずに。
 欠けていく。足が震えているのが見えた。
 消えていく。悲鳴を上げるのを抑えているのが見えた。
 喰われていく。半ばまで消えているのに意識はあるのか、まだ震えているのが見えた。

「……もうちょい、生きとりたかっ」

 全てを言い切る前に消えた。跡形もなく――まるで、初めからそこには何もいなかったようにして。
 そして画面が暗転した。羽鯨が全てを喰らい終えたのかもしれない。もう、そこには何も残っていない。
 画像が消える。リインフォースが拳を強く握り締めていた。震えている――憤怒と悔恨で。

「これが、私が最後に見た映像だ。」

 俯きながら、呟く。

「主はやてが何度念話を送信しても繋がらないのは当然だ。もう、この時代に魔法と言うモノは存在していない……この時に全ては滅びた。」
「……このまま、あの人だけ、この世界で生きるっていうことは出来ないのか。」
「無理だ。主はやてとあの戦闘機人はこの時代では生きられない――お前やあの巨人のように“元々”この時代の存在ではない異物だからだ。」
「生きられ、ない?」

 予想外の返答に言葉が詰まった。
 リインフォースはその質問を予想していたのか、本を読みあげるように停滞無く答えていく。

「違う時空で存在し続けると言うことは不可能だ。二人は、いずれ、遠からず消えていく。」
「だ、だったら、どうして俺はあの時代で生きていられたんだ?」

 当然の疑問。違う時代で生きることが難しいのなら、どうして自分は生きていられたのか、と。

「お前は……私の代替存在(オルタナティブ)だからだ。」
「……オルタナ、ティブ?」

 聞き慣れない言葉だった。女は怪訝な顔をする自分に構わず話を続ける。

「生命。存在の数は常に変動する。だが、その変動は全て予定調和の中での変動でしかしない。定められた未来ではなく、その予定調和こそが運命であり、それが覆されることは無い。違う時空からの来訪者など運命は許さないからだ。」
 
 こちらを見る瞳が何かを聞いている――恐らく質問は無いのか、とでも言いたいのだろう。

「続き、頼む。」

 返事に頷いて答えると女は話を続けた。

「だが、それを覆す方法は一つだけ存在している。それが代替存在(オルタナティブ)だ。お前と言う存在が抜けた穴を私が埋め、私と言う存在が抜けた穴をお前が埋める。運命は存在の数量には敏感だが、その中身にまでは気にしないからな。」
「……つまり、俺はお前のおかげで生きてて、八神さんやドゥーエはその、代替存在(オルタナティブ)じゃないから……生きられない、ってことか?」
「そういうことだ…お前は理解が早くて助かる。」

 理解――はしていない。多分話していることの半分以上も理解していない。
 元々それほど勉強はしたことが無い。軍で受けた座学程度の教養しかないのだから当然だろう。ただそんな不足した知識と教養でも何とか女の言いたいことだけは理解できた。

「……それで八神さん達を死なせない為に、二人は元の時代に戻らなきゃいけないってことなんだな?」
「そうだ。再び、特異点を中心にして、私とお前の入れ替り(オルタナティブ)が始まり、同時にその周囲を巻き込んで転移が始まり、扉が生まれる。そこに二人を抱えて飛び込んでくれ。」
「特異点…?」

 聞き慣れない言葉のオンパレード。言葉の意味の理解だけでも脳髄が沸騰しそうだった。

「あの黒と青の巨人だ。あの巨人は今と昔の双方の技術によって作られた中間の存在。だからこそ、特異点となった。」

 黒と青の巨人――モビルスーツ・レジェンド。即ちレイ・ザ・バレル。

「レイを、どうしろっていうんだ。」
「……お前の友のことではなく、あの巨人そのものだ。本来なら、殺すのが一番だ……だが、お前にそんなことを頼む訳にはいかない。そうだろう?」
「……ああ、そうだ。」

 返すべき答えはそれだけ。それ以外に返すべき答えは無い。
 どんな理由があろうとも友達を殺すことなど出来るはずがない。

「だから、あの巨人だけでいい。あの巨人を滅ぼすことで特異点は扉となって、時代を繋ぐ。お前たちは、ミッドチルダに舞い戻ることが出来る。」

 ふう、と一息を吐いて、視線を自分に向ける。紅い瞳――紅玉の紅が内包された瞳。
 ここからが本題だと言わんばかりに、リインフォースが口を開いた。

「――そして、お前は再びミッドチルダに戻ることになる。滅びの未来が確定されたミッドチルダへとな。」

 滅びの未来と言われ、先ほどの光景を思い出す。
 全てが欠けて消えて喰われていく世界。
 何もかも例外なく喰われた。
 生物だけでは無く、そこに存在する全て――大気や星や宇宙そのものが。
 怖い、と思った。
 羽鯨という存在と一時とは言え“接続”されたからこそ理解できるのかもしれない。
 あの日、空を割って現れた“眼”。
 あれはあまりにも絶大だった。今でも思い出せば“恐怖”を感じて、身体が震えそうになる。
 あんなものと戦える人間などいない。強いとか弱いの問題ではなく、生物としての位階がまるで違う。
 例えて言うなら地球と銀河。羽鯨と人間との差はそれほどに筆舌に尽くしがたい。
 少なくともシン・アスカにとって、羽鯨とはそう言った存在にしか感じられなかった。
 画像が恐怖を後押しし、身体の震えを加速させる――発狂しなかっただけまだマシかもしれない。

「……く」

 身体中が震え出した。震える唇。ガチガチと歯と歯が鳴り合わさって耳の奥で大合唱を始める。
 いつ死んだって構わないと思って生きてきた。ずっと、そう思って生きてきた。
 けど、今は違う。
 怖い。怖い。怖い。死にたくない。消えたくない。生きていたい。忘れたくない。
 そんな本能に根ざした恐怖。死ねば――消えてしまう。思い出も、この胸に在る想いを。ようやく知ることが出来た真実の一つを。
 それがどうしようもなく怖い。
 彼女達の思い出を失ってしまうことが何よりも怖くて、死にたくないと思った。
 そうやって両腕で自らを抱きかかえるように、震える自分を見て、女が心配そうに呟いた。

「……大丈夫、か。」

 見えるイメージは鎖。この身体を縛り付ける恐怖と言う名の鎖。
 それは13の時に家族を亡くしてから、都合7年間に渡って、憤怒と絶望によって押さえ込まれていた恐怖だった。
 足が動かない。震えが収まらない。動悸が激しい。心臓の鼓動が不規則に乱れ出す。
 それでも無理矢理に声を絞り出して呟いた。話を、聞く必要があったから。

「…大丈夫、だ。話を、続けて、くれ。」
「……分かった。」

 リインフォースはそう言って再び話し始める。

「……主はやてはこの時代では生きられない。だからと言って、ミッドチルダに戻ったとしても遠からず羽鯨に食われて死ぬことになる。」

 逃げ場の無い袋小路――そんな言葉が思い浮かぶ。

「……彼女に逃げ場など、どこにも無いんだ。」

 溜め息を一つ吐いて、自嘲めいた笑みが浮かんでいた。
 嗤っているのは誰のことか――恐らく彼女自身のこと。

「……過去を、変えれば、いいんじゃないのか。」
「……羽鯨の“食事”を止める手立ては無い。出来るとすればジェイル・スカリエッティのように、餌場を与え、その矛先を変えるくらいだ。」

 彼女が俯いて呟く。声が少し低くなる。

「……コズミックイラをミッドチルダという餌場の代わりにさせた場合はミッドチルダは存在し、コズミックイラは滅ぶだろう。逆も同じことだ。ミッドチルダが滅びコズミックイラが残る。……結局は二者択一だ。どちらかが滅び、どちらかが残る。この事実からは逃れられない。」

 話し終えて口を閉じて――そして、顔を上げて、リインフォースが呟いた。酷く、申し訳なさそうに。

「……此処から先はお前の選択肢だ、シン・アスカ。」
「俺の……選択?」

 震える身体を抱きしめたまま、顔を上げる。
 指を二つ立てて、女が言った。

「ミッドチルダを救い、コズミックイラを見捨てるのか。コズミックイラを救いミッドチルダを見捨てるのか。」

 選択肢――見捨てるモノを選べという二者択一。

「……世界はそのどちらかを見捨てることでしか救われない。あの世界の無限の欲望であるジェイル・スカリエッティはミッドチルダを救う為にコズミックイラを見捨てることを選んだ。」

 世界を、そこに生きる人々を、見捨てる――どこかで聞いたことがある言葉。
 どこで話したかは上手く思い出せないが、自分はどこかでそんなことを話していた気がする。
 震える自分の前に女が跪く。顔が近づく。吐息が絡む距離。

「……お前は、どちらを選ぶ、シン・アスカ。」

 紅い瞳が自分を覗きこむ――胸の奥の底まで覗かれそうな紅く澄んだ瞳。
 その瞳は純粋な瞳だ。ある一つの目的の為だけに特化した機能美にも近い純粋な美しさ。
 主を守る。その為だけに彼女は生きている。
 その一つがあればそれで良いというシン・アスカの生き写しのような生き様。守る、という行為――それだけを求めた自分の鏡写し。

「俺が……選ぶ?」

 呆然と、呟いた。
 選択するということ――救うべき世界を、滅ぼすべき世界を、救うべき人々を、滅びるべき人々を。
 英雄でも、正義の味方でも、何でも無い、ただのどこにでもいる自分が、選ぶ。

「……俺、が。」

 声が出ない。胸の奥を圧迫する何か――それは選択の重み。それも、数百億という人間の生殺与奪。
 生まれて生きた世界、コズミックイラ――第97管理外世界。
 本気で惚れた女達が生きた世界――ミッドチルダ。
 何かを選択するという行為から逃げ出して、既に3年が経過した。流されるままに生きてきた。
 ただ楽な方へ、楽な方へと、流れてきた。
 そんな自分が、そんな大多数の命を選ぶ――馬鹿げた、話だ。

「なんで、俺なんだ……?」

 喘ぐように呟く。声が出てこない。
 そんな自分を見て、彼女は沈痛な面持ちで呟いた。

「……お前だけが…無限の欲望だけが未来を変えられるのだから。」
「未来を、変えられる…?」
「…そうだ。無限の欲望となり、羽鯨の眷属となったお前とジェイル・スカリエッティ――すなわち時空の連続性から乖離した存在である、お前達だけは運命の修正から逃れ、
世界を変えられる。だから、ジェイル・スカリエッティはお前という存在を使って未来を変えようとした。」

 それも失敗したがな、と彼女は力なく微笑んで、立ち上がり、女が一歩離れた。

「俺じゃなきゃ、駄目なの、か?」
「……無限の欲望だけが運命の修正を受けずに変化させることが出来る。仮にお前以外の誰かが未来を変えようとしても、必ず何らかの邪魔が入り、それは頓挫する。」

 リインフォースが自分を見つめている。
 目と目があった。瞳に映りこむのは覚悟と、悲哀、そして後悔。

「物語は既に折り返そうとしている。その結末は……お前とスカリエッティにしか変えられない。」

 血を吐くように呟く。
 リインフォースが空を見た。空が割れていく。偽りの世界が解けていく。

「……どうやら、接続が切れるようだな。」

 意識が突然霞んでいく。
 身体中の力が抜けていく。
 膝が折れた。意識の帳が落ちた。暗闇が世界を染め上げる。

「…あ、れ…?」
「主はやてを守ってやってくれ、シン・アスカ。そして――」

 彼女が微笑んで、呟いた。

「お前の願いを叶えてくれ。……恐らく、それが全てを――二つの世界を救う唯一の方法だ。」

 彼女の姿が霞んでいく。
「ま、て……よ…」

 か細く呟いた声。声は届かない。届くはずも無い。
 意識が落ちていく。現実に向かって、落ちていく。
 伸ばしたはずの手が虚空を撫でた。

 ――目が、覚めた。

 記憶は全て残っている。

「……俺の、願い…?」

 呟きは誰にも届かない。
 願いは誰かを守ること。この手で全てを守り続けること。

 ――本当に?

「…何がしたいのか、か。」

 ベッドから起き上がり、隣のベッドを見る。
 そこにはやてやドゥーエの姿は無い――時計を見れば、10時を過ぎていた。いつもよりも大分と寝坊しているようだ。
 昨日の一件――自分が見っとも無く泣いていたこと――を鑑みて、はやて辺りが気を利かせて寝かせてくれていたのかもしれない。

【…こ…だ…シン……】
「っ……!?」

 一瞬、鋭い頭痛が頭を走り抜ける。思わず額を抑えて、俯いた。

「何だ、今の……?」

 これまで経験したことの無い類の痛み。それと同時に何かが聞こえた。
 あまりにも一瞬すぎて何が聞こえたのかはさっぱり分からない。
 胸がざわめき始める。嫌な予感がする。漠然とした嫌な予感。言葉にするにはあまりにも曖昧過ぎてそれが何を指すのかも分からない。
 甲高い、懐かしいという思いを抱かせる轟音が耳を貫いた。昔、何度も何度も嫌になるほど聞いたせいだろう。聞いただけでその音が何の音なのかを看破出来た。
 ドップラー効果によって、その音はどんどんと低く小さくなっていく/遠くなっていく。続いて同じ音がまた二つ。四つ。六つ。際限なく増えていく轟音達。
 思わず、ベッドから起き上がり、窓を開けた。

「……これ、は。」

 距離にしておよそ数十kmほどの場所だろうか。
 空が赤く染まっていた。戦火の炎で赤く染め上げられていた。
 聞こえていた轟音に聞き覚えがあるのは当然だ。何故ならそれはモビルスーツの飛行の際に発生する風切り音。何度も聞いた音だ。聞き慣れていないはずがない。
 次々と飛んでいくモビルスーツ達。その後方に控えるようにして飛んでいく二機の機体。
 青と白のカラーリングを施された“あの戦争”における最強の象徴にして、歌姫の剣の一振り――ストライクフリーダム。
 全体に紅のカラーリングを施された機体。背中のバーニアが特徴的な“あの戦争”における最優の象徴であり、歌姫の剣のもう一振り――インフィニットジャスティス。

「キラさんに、アスランも……?」

 呆然と呟いた。二つの機体は孤児院の上空を飛び去り、そのまま市街地の方向へと、向かっていく。紅く染まった空の元へと。
 その時、突然ドアが開いた。扉から現れたのは茶髪の女――八神はやて。ジーンズとTシャツだけを着た動きやすい服装。ラクス・クラインから借りたものだ。

「八神、さん?」
「……起きたんか……それやったら、早く逃げる準備するんや。」

 表情が強張っている。いつもの彼女の雰囲気と違う――どこか焦っている気がする。

「一体、何があったんですか?キラさんやアスランも向こうに行ったようですけど……」
「あの、黒い巨人が現れたんや。」
「へ?」
「……向こうでキミが戦った、あの黒い巨人。あれがまた出たんや。」

 “黒い巨人”。“キミが戦った”。

 その言葉で、夢から持ち帰った記憶が浮かび上がる。

 ――あの黒と青の巨人だ。あの巨人は今と昔の双方の技術によって作られた中間の存在。だからこそ、特異点となった。
 ――あの巨人を滅ぼすことで特異点は扉となって、時代を繋ぐ。お前たちは、ミッドチルダに舞い戻ることが出来る。

 ごくりと、唾を飲み込んだ。
 戻る。ミッドチルダに。滅び逝く世界へ。数百億と言う命の取捨選択を行う為に。

「……レイ。」

 呟きはただ大気に溶けて消えていく。


 ――これはあり得るはずのない物語。世界のどこにも記されない、予定されていない物語。

 交差するはずの無い未来(アシタ)と過去(キノウ)。
 その中で男は惚れた。二人の女に――出会う筈の無い過去(キノウ)の存在に。
 男の想いは決して届かない。男と女達は決して結ばれる筈が無い――結ばれてはならない。
 何故なら、男と女達の物語は、“別”の物語。物語と物語は交差しない。それこそが理屈であり、道理であり、運命である。

 ――だが、往々にして、理屈や道理、運命は破られる。馬鹿げた無茶と無謀が、理路整然とした道理と理屈を薙ぎ払うのだ。

 二つの物語は交錯し、今、一つの物語として、絡み合う。

 変えられない未来(アシタ)を変える為に男は今、過去(キノウ)に向かって飛翔する。

 ――これは、滅びの未来に支配された宇宙(ソラ)の運命を、真っ二つに叩き切る、大馬鹿野郎の物語。


Struggler of Other World to World 
コズミックイラ飛翔篇最終話「ハジマリ」


 黒と青の巨人が蹂躙する。
 一歩歩くたび、アスファルトで舗装された道路は陥没し砕け散る。そこを走る車は地べたを這いずる毛虫の如く踏み潰される。
 巨人の右手が高層ビル――凡そ100mほどの高さ――にぶつかった。
 鉄筋によって曲げ強度が強化されているにも関わらず、鉄筋コンクリートで作られた高層ビルが、折れ曲がっていく。
 巨人が右手を無造作に振り払った。弓がしなるが如く高層ビルが折れた。
 
「……なんだ、これ。」
 
 冗談のような現実。何かのテレビ番組とでも言われた方がまだ信じられる光景だった。
 黒と青の巨人。それはレジェンド――ミッドチルダでシンが戦ったモビルスーツをそのまま巨大化したような姿だった。巨人の全長は目算で凡そ130m超。
 モビルスーツ・デストロイが全長約50mであることを考えてもその大きさは常識外れ、と言うよりもあり得ない大きさ。
 まず第一に大きすぎる。というよりも重すぎるのだ。

 モビルスーツと言う兵器は人型であり、基本的には二本の足にて自重を支えている。
 モビルスーツの装甲やフレームを構成する材質が革新的な進化を遂げて、強度や重量が変化するなら、ともかく、そういった革新的な変化も無しにこんな機体は作っても意味が無い。
 宇宙空間ならまだしも地球と言う重力に支配された環境では本来そんな機体は立ち上がることすら出来はしない。

 だが、その巨人は動いている――飛行の魔法を使用し、擬似的に重力を緩和でもしているのか、その巨人の動きに淀みはまるで無い。
 まるで、重力など気にもせずに、当然のように歩き続けている。

 そして、巨大化したと言ってもあくまでシルエットがそのままというだけで細部はまるで違う。
 フレームを覆う装甲版は所々が捻じ曲がり、継ぎ目だらけ。よく見れば身体中に継ぎ目があった。
 それどころか身体の各部から突き出ている突起――ミサイルやレーダーや、或いはモビルスーツの足のようなモノ。
 まるで、別の何かを壊して、砕いて、捻じ曲げて、無理矢理ヒトガタに再構成していったような姿。

 巨人の背から突き出た処刑刀(カットスロート)のようなドラグーン――恐らくそれも中身はまるで別物――が、背部のバックパックユニットから離れ、浮かび上がる。
 処刑刀が浮かび上がる――その数、6基。一つ一つの大きさは少なく見積もっても20mを下らないであろうモビルスーツサイズのドラグーン。

 砲口に青白い光が灯っていく。帯電するドラグーン。火花を散らしてドラグーンの表面を走る白雷。
 轟音と共に放たれた青白い光は六本――空気が爆ぜた。地面が融けた。建物が焼失する。大気が震動した。衝撃波で歩道に植えられていた木々が全て吹き飛んだ。
 
 ――次の瞬間、そこには街などなかった。あるのは単なる瓦礫の山が残るだけ。
 
 燃える――燃えている。
 世界が真っ赤に燃えている。
 緋色に染まる画面の真ん中に立ち尽くす巨大なレジェンド。
 
 モビルスーツ――ムラサメやM1アストレイがその周囲を飛び回りながら攻撃を繰り返す。
 だが、その巨躯の前でビームライフルによる射撃など水鉄砲のようなものでしかない――それ以前にどのような攻撃であろうとも、その巨躯の前では攻撃の意味があろうはずもない。
 何故ならば、

「……嘘だろ」
 
 戦慄とともに画面に目が釘付けになる。
 ムラサメやM1アストレイが放ったビームライフルの射撃。
 それが全てレジェンドの装甲に届く直前に不可視の壁に当たったかのようにして在らぬ方向に弾かれていった。
 それはシン・アスカや八神はやてにとって見慣れた光景。

「シールド……いやプロテクション、か?」
「違うな。常時展開してる障壁はプロテクションやない。あれはバリアジャケットや。」
「でも、服なんて、どこにも…」
「……障壁だけ展開してるんか、それとも別の用途で使ってるんかは分からんが、間違いなくあれはバリアジャケットや。それに他にも魔法使ってるな…飛行で擬似的に重力緩和してるんか…?」

 はやてが断言する。
 バリアジャケット。それは魔導師が用いる自動防御魔法。服装とそれに伴って形作られる球形の装甲である。
 通常、それは手榴弾を防ぐ程度――とは言えそれでも十二分な防御性能であるが――の防御力しか持たない。
 
 だが、それはあくまで人間サイズだからだ。
 人間サイズで手榴弾を防ぐ程度の防御力となるならば、これほどの巨躯が生み出すバリアジャケットが“そのまま”巨大化したならば、如何ほどの防御力を有するのか――少なくともモビルスーツの放つビームライフル程度であれば簡単に弾き返すほどなのは間違いない。現実に今ビームは弾かれた。その程度の攻撃では傷どころか攻撃が届くことすらままならない。

「冗談……だろ」

 呆然とそう呟いて、後方に後ずさった。一歩、二歩と後ずさり、椅子に足が当たって、バランスを崩した椅子が、後方に倒れた。
 目が見開いたまま、画面を見つめ続ける。
 恐怖はそこに無かった。ただ信じられなかったということが正しい。
 純粋に信じられなかった――これを倒さなければ、自分達は戻れない。その事実に目眩がしそうだった。

「……キラさんやアスランは、こいつ、と戦いに…?」
「さっきな。オーブ政府からキラさんに対して正式に申し入れがあったようや。力を貸してくれ、言うてな。」
「ラクスさんや、ドゥーエや子供達は……?」
「ここから一番近いシェルターに向かう準備を始めてる。キミも早く準備するんや。」

 ごくり、と唾を飲み込みもう一度画面に目をやる。
 巨人は暴れるでもなく、ただ歩いている。真っ直ぐに、どこかへ向かって。
 視線や足取りに迷いは無い。一心不乱に進路上の全てを破壊しながら、巨人は進む。まっすぐに。
 テレビの中のリポーターが大声で叫んでいる。そんな声も、続いて放たれた砲撃の轟音の前に掻き消された。
 レジェンドの“後方”より放たれた幾つもの光条が“装甲を食い破り”、破壊した。
 装甲が破片となって崩れ落ちる――装甲を構成していたモビルスーツや、鋼の板――船の甲板のようなもの――が落ちていく。

 巨人が――レジェンドが吼えた。
 低く野太い咆哮。痛みに嘆いているようにすら聞こえる。砲撃の方向に向けて画面が動いた。カメラマンが撮る方向を変えたのだ。
 画面中央に現れる紅い機体と蒼い機体。インフィニットジャスティスとストライクフリーダム。
 その後方に展開する多数のムラサメやM1アストレイ。先ほど孤児院の前を飛び去って行った部隊だろう。

 彼らが攻撃を開始する。
 
 リポーターが何事かを喋っている。聞こえない。ヘリのローターの音に掻き消されて聞こえない。
 レジェンドの装甲に突き刺さるビームの群れ――レジェンドの頭部を狙った何発かは“弾かれ”、下半身を狙った何発かは“命中した”。
 命中した箇所と弾かれた箇所が混在する。全てが弾かれる訳でも、命中する訳でも無い。

(今の)

 何故か、その光景が目に焼きついた。いつか、どこかで、誰が話していた話題が脳裏を掠める。

「………」
 
 攻撃を受けようともレジェンドは止まらない。
 全長100mを超える巨体を有するレジェンドの前ではモビルスーツによる砲撃など針で刺される程度の損傷なのかもしれない。事実、そうなのだろう。
 装甲を食い破られたというのに多少遅くはなるもののレジェンドは歩みを止めない。
 ゆっくり、ゆっくりとどこかに向かっていく。
 
 そして――戦いが始まった。
 
 紅いインフィニットジャスティスが先陣を切った。
 地を這うように地面スレスレを飛行し、レジェンドに肉薄する。次いでストライクフリーダムが上空から一定の距離を保ちながら射撃を開始する。

 両者のサイズ差は測るまでもなく圧倒的。
 
 インフィニットジャスティスは後方からのM1アストレイ及びムラサメの援護射撃を受けながら斬り込んでいく。触手(ケーブル)が伸びた。太さはモビルスーツの腕ほどの大きさ――それを
紙一重で避けて、ラケルタビームサーベル――二本のビームサーベルを連結し、その両端から紅い光刃が伸びていく――を振るった。
 同時に両脛部分のビーム発生器グリフォンビームブレイド、左手のシールドに設置されたシャイニングエッジの先端からも紅い光刃を展開し、レジェンドの全身を撫でるように斬り付けながら、その装甲の隙間――あるいは亀裂から伸びてくる触手(ケーブル)を掻い潜り、再度攻撃を繰り返す。
 左足の膝部分に刃を指して、腰まで斬り抜けて、上空に移動――続いて、左型背部から右腰背部に向けて斬り抜ける。
 100mの巨体であるが故にレジェンドの動きは鈍重であり、至近距離で縦横無尽に飛び回り、自身の装甲を切り裂いていくインフィニットジャスティスに対応できていない。
 触手(ケーブル)による迎撃もアスランの操縦の前に功を奏さない。というよりも後方と上空からの砲撃によって思うようにアスランを攻撃できないでいる。
 順調に攻撃と回避を繰り返すアスラン。後方と上空からそれを援護するキラ・ヤマトとオーブ軍。
 ストライクフリーダムはレジェンドと自身の距離を常に誤差数m以内に維持しながら、攻撃を繰り返してながら、時に近付き囮となってインフィニットジャスティスへの攻撃の
タイミングを逸らし、時に離れM1アストレイとムラサメなどのオーブ軍への攻撃を自分の方へと誘導しオーブ軍が攻撃を放つタイミングを作り出し、そして、再度距離を固める。
 共に互いの機体特性を生かし合いながら、連携を繰り返していた。

 数的不利とサイズの不利。巨体が仇となって隙を作っているのだ。
 状況はレジェンドに不利だった――それもアスラン・ザラとキラ・ヤマトというトップエースがいればこそ作り出せた状況ではあったが。
 連携が絡み合う。如何に巨大なモビルスーツといえどたった一体で正確な連携を行う集団には敵わない。
 全身に展開していた、バリアジャケットも幾つもの別方向からの攻撃によって収束箇所を定められず、その穴を大きくしていっている。
 装甲が、どんどんと“剥ぎ落ちていく。地面に落ちたモビルスーツや何かの機械の残骸となり果てて。
 無論、その程度の攻撃はレジェンドの巨体からすれば、決定打にはなり得ないだろう。
 事実、レジェンドの動きに停滞は無い。だが、繰り返されていくことで損傷は蓄積し、致命となる。

「……くそ。」

 どうして自分はあそこにいないのか。何で自分はここでただ見ているだけなのか。
 力が欲しかったのは何の為だったのか。
 力を求めたのは何の為だったのか。
 右手を開く。力が欲しいと願う――胸の奥で、重い何かを感じた。
 心の奥底に沈みこんでいく黒いナニカ。願いを阻害する黒く底冷えするその感情。ラウ・ル・クルーゼとの戦いで認識し、彼女達への想いを自覚することで顕れ出した感情。
 それは――それがどんな感情かを思い描く前にテレビから歓声が響いた。

『み、見てください、あの巨大なモビルスーツが今、倒れ……なに、あれ。』

 興奮していたリポーターの声がいきなり小さくなって素に戻る。
 リポーターという職業から、一個人の声へと。
 カメラがレジェンドの方向を映した。そこに信じられないモノが映っていた。
 
 ――それは一言で言えば、屍だった。
 下半身だけがムラサメで上半身がM1アストレイの機体がいた。その逆もまた然り。
 両腕共に右腕のムラサメが、両足ともが左足のM1アストレイがいた。

 モビルスーツの屍鬼(グール)。例えて言うならそんなバケモノだった。ツギハギだらけの身体と表面を垂れる黒いオイルが、どこか醜悪さを際立たせる。

『……も、モビルスーツが、現れました。あれは、一体、なんなの……』

 その屍鬼(グール)の内の一匹が右手に持ったビームライフル――所々に亀裂が入っている――を掲げ、放った。半壊しているにも関わらず、ビームは滞りなく大気を焼いて、目標に到達する。
『へ?』

 間の抜けた声。呟きはそれでお終い――それでもう語れない。上空を飛びまわる羽虫のようなヘリがうざったらしかったのか、撃ち落としたのだ。否、撃ち落としたのではなく、撃ち消した。焼失した。
 画面の上にはノイズだけが残っていた。
 はやてがリモコンを操作してチャンネルを変える。別のチャンネルのリポーターが興奮気味に何かを話している。

『も、モビルスーツです!!モビルスーツが現れました!!こ、これは一体どういうことなのでしょうか!?』

 カメラがレジェンドの周辺を映し出す。そこには先ほど見えたモビルスーツの屍鬼(グール)がいた。少しだけ前のめりになり、両手をだらんと伸ばして、歩いていく――オーブ軍に向かって。

「……なんだ、これ。」
「取り込んだもんを吐きだした……いや、操ってるのか、これ。」

 呆然とその光景を見て呟くシンとは対照的にはやては現状を冷静に把握している。
 
 シン達は知らないが、レジェンドの装甲に使われている素材は全て“元々は別の用途として使用されていた”機械ばかりである。
 モビルスーツ、そしてイージス艦。それ以外にもそこに来るまでの間で戦った、モビルスーツや戦艦、戦闘機等を破壊し、咀嚼し、自らの構成素材として使用しているのだ。
 今、その装甲が剥がれ落ち、装甲は本来の姿を取り戻した。
 だが、一度咀嚼され利用されたソレはすでに元のソレとは違って、レジェンドからの侵食を受けている。
 レジェンドの触手(ケーブル)はミッドチルダにおいて、ガジェットドローンの残骸を材料にしてドラグーンを作った。ツギハギだらけのドラグーンの偽物を。内部機構はまるで違うのに、ドラグーンの機能を実装した偽物を。今、レジェンドから産み落とされた屍鬼(グール)のようなモビルスーツもそれと同じ理屈で動いている。内部機構はまるで違うどころか、本来なら動くはずが無い。なのに、屍鬼(グール)はモビルスーツと同じような機能を実装し、稼働している。

 原理は簡単だ。バリアジャケットによる強制稼動。
 レリックブラッドによって生み出された膨大な魔力によって、レジェンドはバリアジャケットを作り出し、操り人形の糸の如く咀嚼もしくは侵食した物体を傀儡の如く操作する。
 それがレジェンド――レイ・ザ・バレルの成れの果てに許された唯一の魔法。
 名は無い。
 名前をつける“自分”などその時の彼には既に存在していなかったから――大切な“自分”は大切なトモダチの中に入り込み、残されたのは“ホンモノ”への憎悪に支配された抜け殻の成れの果て。
 
 ――レジェンドから毀れ落ちた装甲。その中から這い出て来た屍鬼(グール)が、展開していたM1アストレイ、ムラサメの部隊に迫っていく。オイルを滴らせながら、一歩踏み出すごとに自身を壊しながら。

 戦闘が始まる。屍鬼の群れとモビルスーツが絡み合い、斬り付け合い、撃ち合いを始めた。
 ストライクフリーダムとインフィニットジャスティがその援護に向かおうとする――その後方から伸びる触手(ケーブル)が二機の動きを阻害する。分断された――互いに互いの援護は受けられない。集団と個の戦いから、個々人の技量に依存した戦いへと変化する。
 均衡は崩れない――今はまだ。
 だが、キラ・ヤマトとアスラン・ザラと言う二人のスーパーエースの存在は少なからず彼らの心に余裕を持たせていたはずだ。分断され、それが失われ、自身の技量にのみ依存する戦いになっていけば――均衡は自ずと崩れていく。
 そして、触手と屍鬼に全てを任せ、レジェンドは歩き続けている。今も変わらずにゆっくりと。

「…どこかに、向かってるのか。」
「ここや。」

 自分の独り言にはやてが返事を返した。振り返って見れば彼女は淡々と逃げる準備――最低限の着替えとラジオ等の道具を鞄に詰め込んでいる。

「……こ、こ?」
「こいつの目的地は、この孤児院や。間違いなくな。」

 断定する口調に迷いは無い。淡々と荷物を詰め込みながら彼女は話を続ける。

「あの機体、今バリアジャケット使ってたやろ? てことは魔力の供給源が無いとおかしいってことや。それも莫大な……キミが全力で放出出来る魔力量の10倍くらいは楽にいるはずや。それを常時供給出来るような魔力源。心当たり、無いか?」

 魔力の供給源――思い当たるモノは一つだけ。
 ナンバーズ・トーレの胸に紅く輝いていた高密度魔力結晶。恐らくそれ以外には無い。
 レジェンドのコックピットルームを思い出す。
 レイの足に生えて、そして砕けた紅い結晶――あれがレリックだとすれば、供給源には事欠かない。

「……レリック。」

 はやてがそうだと頷く。彼女の瞳がテレビに向いた。巨人は今も尚歩みを止めない。一心不乱に直進している。ゆっくり、ゆっくりと。
 インフィニットジャスティスが追い縋り、その侵攻を食い止めようと肉薄する――触手(ケーブル)がそれを遮って、インフィニットジャスティスに襲い掛かる。同時に煩わしい羽虫を落とすようにレジェンドが右腕を振り回す。
 紙一重でそれを避けて距離を取るインフィニットジャスティス――侵攻は止められない。
 アスランの歯噛みが聞こえてきそうだった。

「恐らくな。せやけど、幾らレリックとは言え、あれだけの巨体のバリアジャケットを維持する魔力を放出し続けるのは無理や。その上、 あの巨人はただそこにいるだけで魔力を消費してる。大きすぎる身体を維持する為に。」
 
 あれだけの巨体――モビルスーツの5倍以上、100mを超える巨体を覆いこむ“バリアジャケット”を維持する魔力ともなれば通常のバリアジャケットの数百倍以上の魔力を必要とするだろう。レリックだけでまかなえるような魔力量では無い――ならば、その魔力はどこから供給しているのか。
 脳裏に血を吐き、身体中を紅い結晶へと変えていくレイ・ザ・バレルの姿が浮かび上がった。
 
「…操縦者の命を、削って、供給してるってこと、か…?」
「やろうな。その操縦者の命やっていつまで持つか分からんやろうしな。だから、あの巨人が自分を維持ししようとするなら、新たに魔力源を補充する必要がある。はい、これ。」

 そう言って、鞄の中に荷物を詰め終えて、こちらに向かって鞄を差し出した。
 彼女の表情はいつも通り。何も変わらない。変わってなどいない――なのに、何かが違うと感じる。

「……八神さん?」

 彼女の手がこちらの手に伸びて、無理やり、鞄を掴ませる。
 彼女が顔を上げた。
 下から覗きこむ彼女の目に覚悟の色が灯っているのがわかる――何の覚悟なのか。決まっている。それは、多分、

「あの巨人の狙いは――ま、恐らく私とシンとドゥーエやろうな。」

 軽い口調で、何でも無いことのように彼女が呟いた。

「あの巨人は私らを取り込む為にここに向かってる。」

 呟き/輝き――装着。
 服装は、変わらない。デバイスの起動前と同じくジーンズとTシャツ。右手に先端が十字架の形状の騎士杖を持っただけの姿。
 バリアジャケットは存在しない。
 登録されているはずのそれが現れないということは在り得ないのだが彼女は別に気にしなかった。
 時間移動などと言う初めての経験をしたのだ。何らかの不具合が無い方がおかしいというものだ。

 バリアジャケットがあろうと無かろうとアレの前では関係無い。当たれば死ぬ。その事実はバリアジャケットの有無に限らず、同じことだ。
 そう、思って、息を吸い込み、深呼吸――少し、落ち着く。

「俺たち……?」

 頷く。騎士杖を振るい、感覚を確かめる。
 此処に来てから起動していなかったが――どうやら、壊れてはいないようだった。

「魔法の無いこの世界で、一番大きな魔力持ってるのはキミと私、それとドゥーエ以外におらんからな。やからアイツは……シン?」

 顔をそちらに向ける――顔面を蒼白にしたシンがいた。

「……シン?」

 強張った表情。震える身体。今にも卒倒しそうなほどに顔色が悪い。

「……大丈夫です。」

 震える身体を押さえ込むように両腕で自分自身を抱き締める――怯えているのだ。

「……怖いんか?」
「…怖くなんて、ない、です。」

 沈黙、後に逡巡、そして否定――全て一瞬。
 視線を逸らし、目を合わせようとしない。怯えていることが恥ずかしいのか、悲しいのか、悔しいのか――多分、その全部だろう。
 これまで彼は怯えた様子を見せたことがなかった。
 どこか、死にたがっているようなところすらあったからか、余計にこの男にそういった感情は無いのだろうと思っていた。
 
 だから、怯えている、と言う事実に少しだけ安心した。
 目前の男は恐怖など感じないような人間ではなく、恐怖に怯える人間なのだと――親近感を覚えた。

「……キミは意地っ張りやなあ。」

 呟いて、両手を伸ばして、その身体を抱き閉めた。
 抱き締めて、頭を撫でる。
 ボサボサの髪を梳くようにして優しく撫でた――シンが顔を上げた。ギンガともフェイトとも違う感触の柔らかさ。

「……八神、さん?」
「震えて、ええんやで。」

 震えたまま、シンが顔を上げた。
 小さな背中。思っていたよりもはるかに小さな背中。弱弱しい、どこにでもいる、弱者の背中。
 怯えて、震えて、それでも意地を張って、何かをしようと無理をする背中。
 自分の夢そのもの――いつかヒーローになると信じた男の背中。

「……キミは何にも心配せんでええ。キミは私が守ったげるから。」

 言葉は優しくシンの心に入り込む。
 気を抜けば、その身体に縋り付いてしまいそうなほどに安らぎを感じさせる柔らかさ。
 いつか、どこかで感じた柔らかさ――多分、家族を失うずっと前、マユが生まれる前に感じた母親の柔らかさ。

「どう、して……?」

 抱き締められたまま、呟いた。
 思えば不思議だった。
 彼女はどうして、自分にそこまで優しくしてくれるのか。
 彼女は自分を武器として扱うはずなのに。力を失くした自分など、彼女にとってはどうでもいい人間になるはずのに。

 ……そこまで考えて、一つの事実に突き当たる。
 
 彼女は、自分が魔法を使えなくなったことを“知らない”。自分はそのことを隠していた。
 言うことでもなければ、誰かにそれを伝えるような余裕も無かったから。
 
 だから、彼女は知らない。自分が彼女にとって役立たずの人間になったということを。
 だから――知らないから、彼女は自分に優しくしている。
 
 胸に罪悪感が浮かび上がる。騙していると言う事実への、彼女の優しさに付け込んでいると言う罪悪感が。

(俺は……)

 甘えて、縋りつきたい衝動を湧き上がる。
 その事実に吐き気すら覚えて、シンははやてから離れようと両の手に力を込めて、押し出した。
 離れようとする二つの体温。シンの口が動いて、言葉を紡ごうとする。
 
 魔法を使えない。自分は役立たずなのだ、と。
 けれど、離れようとする自分よりもさらに強い力で、抱き締められた。
 そして、

「……魔法使えなくなったからって、関係無い。」

 口を開こうとする自分に先んじて彼女が呟いた。
 八神はやてが、両手を離す。離れる柔らかさ/寂しさが少しだけ湧き出る――それをぐっと堪えて、伸ばそうとした手を戻した。
 立ち上がった彼女が背中を向けて、呟いた。小さな背中。なのに、その背中が大きく見える。

「キミは英雄でも正義の味方でもない、単なる馬鹿や――私はそんな馬鹿が好きで、守りたい。それだけの話や。」
「……八神、さん?」

 その言葉の意味を問いただす前に、彼女が歩き出す。
 歩き出した事実が言葉の意味を明確に知らせる。
 彼女は、行くつもりなのだ。あの巨大化したレジェンドの元へと。
 手を伸ばして、彼女の手を掴んだ。
 行かせてはならない――行けば、死ぬ。あのレジェンドに敵う者などいない。理性ではなく本能がそう告げている。

「……あそこに行くつもりなんですか?」
「そやな。少なくとも私があそこに行けば、ここにアイツが来るのは止められる。そうやろ?」

 その通りだ。それに間違いなど一つも無い。
 確かにシン、はやて、ドゥーエの内の誰かが囮になればこの場所にレジェンドが来る危険性は低くなる。
 少なくとも孤児院の子供たちを守ることは出来る――この周辺に生きる人間の命は確保できる。
 その上、現在交戦しているオーブ軍にとっても救いとなるだろう。画面に映る映像がオーブ軍の劣勢を伝える。
 キラ・ヤマトとアスラン・ザラという二人のスーパーエースを欠いた上での戦闘。それも敵は異形の巨人と屍じみたモビルスーツの寄せ集め。異形の者どもとの戦闘という状況に気圧されている彼らにとってどれほどの救援になるだろう。
 だが――奥歯を噛み締め、自分を抱き締めていた彼女の背中に目を向け、その後自分の右手に目を向ける。
 開かない瞳の紋様。今もそれはそこにあるまま。懐のデバイスは今も答えない。魔力を感じ取ろうとしても今も魔力を感じることは出来ない。
 役立たずだ。どうしようも無いほどに役立たずでしかない自分――だから、自分が行くべきだ。役立たずだとしても、囮程度にはなれるのだから。

「だったら俺……が?」

 そう思った瞬間、身体が震え出した。
 
 黒い巨人。大切な戦友(レイ・ザ・バレル)のなれの果て。膝が再び折れそうになる。
 
 怖い――怖い。恐怖が脳髄を支配して身体を侵食する。
 行けば、死ぬ。間違いなく。絶対に。八神はやてならば、魔法を使える者ならば、まだ生き延びる可能性はあり得る。
 
 けれど、単なるモビルスーツのパイロットに過ぎない自分では絶対に死ぬ。
 何故なら――シン・アスカのモビルスーツの操縦技術は、既に衰えているのだから。
 一年という歳月を魔法の為に消費した。基礎を覚え、戦闘方法を覚え、来る日も来る日も魔法のことだけを考えて生きてきた。
 それはつまり、モビルスーツから一年間徹底的に身を離したことを意味する。

 確かにシン・アスカの操縦技術は卓越していた。一年前までは。
 戦前、戦中、戦後と殆ど間を置かずに戦い続けた。ルナマリアに溺れた日々以外は全て実戦かモビルスーツのシミュレーターによる訓練を繰り返していた。
 間断無く繰り返される訓練と実戦。
 戦前はシミュレーターや量産機によって基本技術を、戦中は最新鋭機を駆って応用を、戦後は機体性能に依存できない量産機で戦い続ける為に学んだ技術全てを練磨し続け、結果として彼の操縦技術はその世界における最高水準にまで高められていた。

 ――ミッドチルダに、来るまでは。
 
 ミッドチルダという異世界に飛ばされ、シン・アスカはモビルスーツ以外の力を手に入れた。
 魔法という超常の力。特定個人だけが手に入れることの出来る、選ばれし力。彼はそれを手に入れた。そして、それを磨いた。ミッドチルダではモビルスーツ等は質量兵器として禁止されている以上はその力を磨くのはシン・アスカにとっては当然のことだ。無力であることを忌避する彼にとっては力に差異は無い。どんな力であろうと、手に入るなら問題は無い。
 その結果、魔法という力と引き換えに彼のモビルスーツの操縦技術は衰えた。確認はしていない。だが、確実に一年という歳月は、彼のモビルスーツの操縦技術を鈍らせている。そして、今は代償として手に入れたその魔法すら使えない。
 力が、無い。自分はあまりにも無力すぎる。

「……心配せんでもええよ。大丈夫。必ず皆私が守ったる。だからキミはそれまで皆を守っててくれな?」

 優しげな呟きが聞こえた。震える自分の頭を撫でる感触。子供に言うように、兄弟に諭すように、優しく、はやては微笑んでいた。

「あんたは、なんで、そんなに」

 呆然と呟く自分。微笑むはやて。
 無様で惨めな自分と比べて、目前の彼女は強くて綺麗で格好良くて、

「……キミは、私の夢やから。」
「ゆ、め…?」

 言葉の意味は分からない。何が夢なのか、まるで意味が分からない。
 
 ――無論、それは当然だ。その言葉の意味が分かるのはこの世界でただ一人、彼女自身。自分自身にだけ分かる、その言葉。それは強く、激しく、彼女を奮い立たせる誓約の言葉(トリガーヴォイス)。
 
 不敵に笑いながら彼女は一歩後ろに下がった。笑顔に溢れる強い意思と決意。思わず、見とれてしまいそうなほどに。

「お返しは出世払いでええよ。せやから、いつか、私や皆を守れるくらいに強くなってな、シン。」
「……八神、さ…へぶっ!?」

 後頭部に殴られたような衝撃。身体が前のめりになって、倒れこんで、跪く。
 何事かと振り向けば、そこには、ラバースーツに身を包んだ金髪の女性――ドゥーエがいた。眼の色は既に血色の紅。戦うための紅へと変化している。

「ドゥーエ……?」

 全身を覆うラバースーツ。左手に爪のような武装。顔は今もステラに酷似した女性――フェスラのまま。

「さっさと行くわよ。……ったく、いつまでグダグダやってるのよ。」
「…お前、何を」

 金髪の女性――ドゥーエが近づき、自分の顎に手を当てて、上を向かせる。映画で男が女に口付けでもするかのように。
 彼女が、呟いた。

「……あんたは早いとこ、あの子たちと一緒にシェルターに向かいなさい。それであの子たちを守って、待ってなさい。」

 はやてと同じく、不敵に微笑みながら、そう告げるドゥーエ。

「ドゥーエも来るんか?」
「……先生らしいからね、私は。子供と一緒に逃げる訳にもいかないわ。それに――」

 肩を竦めて、溜め息交じりに笑いながら言い放つ。

「たまには“身体”に付き合ってみようと思ってね。そうでしょう?」

 肩を竦めてドゥーエは言い放つ。言葉は軽い。けれど、告げられた言葉に入り込む心は何よりも強く。
 身体に付き合う――それは、彼女の能力の代償を受け入れてみるということ。

 ――人間だったら、色んな面があるやろ?それと同じや。ドゥーエがどんな人に変わってもドゥーエはドゥーエのままや。そんな不思議なもんやないよ、それも。

 そんな彼女の言葉が届いたのか、それとも違う理由なのか。
 それは分からないが――その返答を聞いて、はやては唇を歪めて苦笑する。目前の馬鹿な女を純粋に好ましく思って。

「は、あんた、思ってたより馬鹿なんやな。」
「……いや、アンタには言われたくないから。」

 言葉を言い終えて、どちらからともなく笑いだす。
 互いに馬鹿をやっていると言う自覚はあった。
 八神はやては自身の夢(シン・アスカ)の為に、ドゥーエは――多分、あの子供たちの為に。
 別に、昨夜のはやての言葉だけで、此処に来た訳では無い。そんな程度の言葉で癒されるような安っぽい女では無い。
 けれど、あの子供達が泣いていたのだ――否、泣きそうになって、それでもその恐怖を堪えて、耐えていたのだ。

 それを見て、“ドゥーエ先生”がその場に佇んでいるなど出来るはずが無い。
 気がつけば、子供達を全て抱き締め、笑って、心配ないと告げて、息を切らして此処に来た。
 胸に湧きあがる熱い想い。出会ってまだ一週間ほどしか経っていない。けれど、彼女の心をあの子達は塞いでくれた――のかもしれない。
 まだ、ジェイル・スカリエッティに裏切られたことや、元の姿に戻れないことは悲しいままで振り切ってなどいない。
 だけど――認めたくないけれど、楽しかったのだろう、と思う。子供たちとの日々が。

 自分のような人間が、身体を武器に男を篭絡することを生業にしてきた“ニセモノ”がそんな生活を出来るなど思わなかった。
 確かにそんな日々が永遠に続くとは思っていなかった。だから、いつ終わってもそれは仕方の無いことだと思っていた。
 だけど――けれど、何もせずに終わりにしたくなかった。
 ただ、いつものように影に隠れて、逃げて、何もかもなかったことにして、死なせたくなかった――自分にだって“ホンモノ”の想いはある。そう、思えたから。
 子供達がそう思わせてくれたから。
 だから、

 ――はやてが呟いた。

「そんなら、行こか。」
「ええ。」

 言葉と共に二人が部屋から出て歩き出す。目指す方向はあの紅い空――巨人の元へ。
 シンは、今も震えながら、それを見ていた。力強く、爪が食い込むほどの力で震えを抑えようと腕を掴んだ。
 爪が食い込み、血が垂れる。それでも震えが止まらない。焦燥と、悲哀が胸を埋めていく。

「……どうして、俺は…!!」

 血を吐くような声で、悔しげに呟く。
 死にたくないと言う想いと忘れたくないという想いが織り成す、生きていたいと言う想い。
 それが鎖となって縛りつける。戦いたいのだ。守りたいのだ。ここでじっとなどしていらないのだ。
 なのに、理性はそう願っているのに、本能が怯えて留まることを選択させる。
 悔しかった。悔しくて、悔しくて、涙が出そうなほどに悔しかった。

「止まれよ…止まれよ……!!」
「シン。」

 声が、かけられた。顔を上げる。声の主は八神はやて――夜天の王。
 背を向けたまま、彼女が呟いた。

「キミの力が必ず必要になる時が来る。それまで、絶対に生き延びるんや。ええな?」

 女達の身体が宙に浮かび上がる。
 ドゥーエの瞳が真っ赤に染まり、身体中から血色の羽虫の翼が現れる――ISエミュレイト・ライドインパルス。ナンバーズ・トーレのISライドインパルスの模倣。
 はやての身体から白い光が流れ出る。右手に剣十字の杖(シュベルトクロイツ)。左手には夜天の書。服装はバリアジャケットではない、Tシャツとジーンズのまま。

「さあ、戦いや。行くで、ドゥーエ。」
「誰に物言ってるのかしらね、八神はやて?」

 呟き、飛翔――空を駆け抜ける紅い光と白い光。速度を上げて飛んでいく。
 一人残されたシン・アスカ。彼の懐のデバイスは――まだ、輝きを発しない。
 魔力を感じ取ることもまだ出来ない。

「お、れは……俺は……!!」

 懐のデバイスを取り出して床に向けて、投げ飛ばそうと振り上げた――瞬間、鋭い頭痛と共に声がした。先ほどと同じように。

【……ン…ど…だ…シン…】

 耳鳴りのような声が届いた。
 繰り返される耳鳴り。
 何度も何度も、助けを求めるようにして。
 先ほど聞こえた声が何度も何度も繰り返し聞こえる。
 断片的に、声が聞こえる。
 それは、誰の声なのか――紛うことなど何も無い。
 絶対に聞き間違えない。絶対に忘れない声。

「……レイの、声……?」
【いま、たす……ど……こ…シン…】

 その声はレイ・ザ・バレルの声――戦友の声。
 物語は、今、折り返す。




[18692] 第三部コズミックイラ飛翔篇 57.ハジマリ(b)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/06/01 21:25
 ――死ぬのは怖くない、と思う。
 それがシン・アスカにとって、真実だった。
 家族が死んだ、あの時から、ずっと死は身近に在った。
 携帯を弄るのも多分そのせいなのだと思う。
 マユの携帯電話を弄り続けていれば、家族のことを忘れないと思ったから。
 弄る度に死を実感した。あの日の右手の感触を思い出した。
 柔らかかった右手は見る間に血流を失い固まっていった。指は硬直して動かない。どんどんと温度を失っていく右手。
 自分の右手の暖かさによってより顕著にその冷たさを感じ取った。
 その記憶を思い出していた。何度も何度も。
 
 だから、死は怖くなかった。死にたかった訳では無いけど、死ぬことは怖くなかった。
 家族を感じる為には死を実感しなければならなかったから――携帯を弄っていれば家族を実感出来たから。
 多分、感覚が麻痺していたのだろう。戦争の為に鍛え、戦争の為に眠り、戦争の為に生きてきた。
 実際、それ以外のことを考えていた時間はとても少なかったと思う。

 だから、死は身近だった。身近でなければならなかった。そうでなくては、孤独になってしまうから。
 だから、表面上はどう思っていようと、ずっといつ死んでも良いと心の底では思っていた。
 死んだら死んだでそれは仕方の無いことだ、と。
 ずっと、そう、思っていた。

【ど…こだ……シン……ギル…】

 その声はレイ・ザ・バレルの声――戦友の声。

「な、んで、レイが……?」

 その感覚に彼は覚えがあった――というよりも、自分も“使っていた”モノだから。
 それは魔法。念話と呼ばれる魔法の類だ。
 声はか細く、気を抜けば直ぐにでも切れてしまいそうなほどに頼りない。その上、ノイズ交じりでまともに聞こえるのはわずかに数瞬。
 途切れ途切れに、何度も何度も繰り返される呼び声。
 再び呼び声。
 先ほどとは少し違い、ノイズがわずかに消えている――その代わりに聞こえる声はしゃがれて潰れたレイの声。先ほどとは明らかに“違う”、けれど確実にレイだと分かる声音。

≪ギラ゙……ヤ゙マ゙ド……≫

 レイ・ザ・バレルの声を必死に聞き届け、返事を返す。

「レイ!!俺だ!!シンだ、シン・アスカだ!!」
≪……ジン゙……ル゙ナ゙……ギル゙……≫
「レイ!!レイ!!聞こえてない……くそ、デスティニー!!」

 声を荒げて、念話の術式を起動する――懐のデスティニーは答えない。

「くそ!!」
 
 毒づいて、部屋から飛び出してベランダへ。ベランダから見えたのは紅い空。紅く歪んだ空。
 声が聞こえる。レイ・ザ・バレルの声。今もまだ声は聞こえている。今度は不思議と先ほどよりもハッキリと。

≪ギラ゙・ヤ゙マ゙ド……ギラ゙・ヤ゙マ゙ドオ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙オ゙!!!!≫

 濁って、しゃがれた声音――篭められた怨嗟に心が震える。
 念話による咆哮は心象の内面を浮き彫りにする。
 受信と送信を特定し、声という方法に限定し意思を伝えるからこそ念話における会話は成立する。
 感情そのものをぶつけるようなソレは念話ではなく、単なる感情の垂れ流しにしかならない。
 ノイズ混じりに聞こえるのは、様々な雑念が混じりこんでいるから。
 だから本来なら伝えたい感情などは決して伝わらない。それは言葉という明確なカタチではなく感情と言う濁流だから――けれど、それでも、伝わるほどに明確な怨念が篭っているからこそ今のレイ・ザ・バレルの怨嗟はシンの心中を強く揺さぶる。

「くっそ……!!」

 どうするべきか――決まっている。行くのだ、レイの元へ。
 何が出来るか、など分からない。何も出来ないかもしれない。それでも――それでもだ。
 あんな怨嗟を聞かされて、このままここでじっとしているなどシン・アスカに出来るはずがない。だから――

「く…!?」

 それを、鎖が遮る。

 死にたくないと言う想いと忘れたくないという想いが織り成す生きていたいと言う想い。
 忘れたくない誰か――彼女達にせめて返事を返したいと言う想い。その為には死んではならないと言う制約。それが鎖となってシンを縛りつける。
 震えが止まらない。呼吸がおかしい。鼓動が大きくなって狂っていく。
 ドクン、ドク、ドク、ドクンドクン、ドクドク――心臓の鼓動が刻む拍動が不規則になって、身体の動きを阻害する。

「は…が……」

 膝を付いた。本能(カラダ)が理性(ココロ)を裏切って、逃げろと命じている。
 戦いたいのだ。守りたいのだ。ここでじっとなどしていられない――止まれ。逃げろ。生きろ。死ぬな。
 脳髄が呟く/本能(カラダ)が理性(ココロ)を侵食していく証――言葉の奔流を止められない。
 逃げろ。止まれ。行くな。死ぬな。

「……ぁ…っ…!!」

 喘ぐような咆哮。叫ぶことで、本能(カラダ)のざわめきを否定する。

 ――死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。

 脳の奥で本能(カラダ)が繰り返す。頭痛が酷い。冷汗が流れていく。理性(ココロ)で本能(カラダ)に反逆する反動/頭痛が起きて、不整脈が始まって、全身が痺れて――自律神経が狂っていく。本能(カラダ)に従えと全身が命じている。

 ――死にたくないのだろう?生きていたいのだろう?返事を返したいのだろう?

 聞こえてくる声が、どこかで聞いたような声に変化して行く。

「だ、ま…れ」

 その声はシン・アスカに刻み付けられた恐怖そのもの。
 ラウ・ル・クルーゼが刻みつけた、恐怖――何をしても無駄ではないのか、と言う恐怖。
 レイは助けられない。無駄だ。はやても、ドゥーエも死ぬ。キラも、アスランも、皆死ぬ。だから逃げろ。全てを放り投げて逃げ出せば良い。

「…だ、ま…れ」

 忘れたくないのだろう?二人のことを想って、生きていたいのだろう?どこにも届かない、誰にも届かない、一人ぼっちの想いを背負って生きていたいのだろう?

 ――嘘で固められた願い。借り物の力、偽物の力。嘘で塗り潰されたキミの人生。さて、ならばキミの真実(ホントウ)はどこにある?

 繰り返される恐怖の囁きが、その記憶を想起させる――あの時、自分を叩き潰した言葉を。
 あの時、自分は折れたのだ。諦めたのだ。この男には敵わないと逃げ出したのだ。
 なら、どうして、自分はそれでも戦ったのか。死に場所を――誰かを守って死ぬという落とし所が目の前にあったから?
 守って死ねればそれで良い。その通りだ。それはシン・アスカの根幹を成す現実だ。
 事実、戦争が終わってから今までずっと燻っていたのはそんな気持ちだった。
 ただ、格好の良い死に様が欲しかっただけだった。
 守るとか戦うとか格好良いことを言って、それを誤魔化していただけに過ぎない。
 だから、自分は、

「……は、は……」

 息を切らしながら、少しだけ唇を歪めて、笑う――奥歯を強く強く噛み締めて、顔を“上げた”。
 囁きが消えない。邪魔だ。鎖が縛りつける。邪魔だ。それを消す方法なんて分からない。答えが見えない自分にはどうしようもない。それでも邪魔だ。
 だから、消すとしたら方法なんて一つだけ。邪魔なら全部薙ぎ払え。囁きだろうと鎖だろうと関係なく一切合切全部纏めてぶち壊す。
 方法は単純明快な、誰だって知っている方法――ノイズだらけでテレビが映らないと言うのならば、叩いて、直せ。徹底的に。
 
「だぁぁぁっらっああぁぁあああ!!!」

 上げた頭を、地面に向かって、思い切り叩きつけた。一度ではなく、数度――それこそ徹底的に。
 視界が白く染まった。瞼の裏で火花が散っている。額から後頭部へ抜けていくように痛みが走る。
 その痛みを無視して、太股に力を篭めて、立ち上がる――繰り返した頭突きのせいか、頭がくらくらする。
 板張りの床に思い切り頭を叩きつけたのだ。これくらいの痛みは当然だろう。

「……は、はは……止まっ、た、消えた……。」

 笑いながら、呟き、震えていない両の掌を広げて、その事実を確かめる。
 額を触れば腫れ上がり、熱を持っているのが分かる。触れれば疼くような痛みが走る。その痛みに顔を歪ませる。額から流れ出る液体が口に入る――鉄分の味。血液。頭突きの際にどこか切れたのかもしれない。額から血が一筋流れている。

「……はぁっ……はぁっ」

 囁きが聞こえなくなった。身体はもう自由に動く――鎖はもう身体を縛り付けていない。
 これが一過性のモノなのか、永続的なモノなのかは分からない。どうでもいい。今はただ、この身体が動くようになった事実が大事なのだから。

「……待ってろ、レイ。」

 遠方の赤く染まった空を見つめ、呟く。レイの咆哮は今は聞こえない。既に接続が切れたのかもしれない。
 赤い空を見つめて、目的を定める。これから、自分がやるべきこと――否、やらなければいけないことを。
 ズキズキと痛む額。流れる血を拭って走り出す。目指すは孤児院の地下道からシェルターへと伸びる道。
 行くべき場所はその場所。そこにラクス・クラインと子供たちがいる。
 足を動かす。孤児院の中に入り、地下に繋がる階段へ向かい、二段飛ばしで降りていく。階段は螺旋階段。ぐるぐると回りながら、最下層へ――階段は青白い蛍光灯で照らされたせいか、どこか病院を彷彿とさせる。
 螺旋階段を降り続けていく。どれだけ降りていくのかは分からない。少なくとも地下一階や二階ではないだろう。
 エレベーターがもしかしたら、孤児院のどこかにあったのかもしれない――自分はそんなもの聞いていない。誰か言ったかもしれないが、多分聞き流している。

「……くそ。」

 毒づきながら降りていく。扉が見えた。階段の最下層。そこに陣取る分厚い扉のドアノブを掴み回す。扉が重い――力を込めて開いた。

「暗い、な。」
 蒸し暑い熱気がこもった薄暗い廊下――孤児院からシェルターに繋がる一本道がそこにあった。
壁は白いコンクリート壁。天井を走る幾つもの配線と配管。それほど明るくない電灯。
 深呼吸を一度――走り出す。言葉は無い。一心不乱にただ走り続ける。
 階段を一気に降りてきたからか、足が重い。息が荒い。胸が苦しい。そんな状態で全力で何分間も
走り続けているのだ。酸素を求めて、口が開いてヨダレが飛び散った。喘ぐような呼吸。それでも足
を止めずに走り続ける。
 意識ははっきりとしている。頭痛は今もまだ残っている。
 幻影は――二人の幻影はもう見えない。どこにもいない。それが少しだけ寂しい。
「……馬鹿、か…俺は……!」

 息も絶え絶えになり、全身が悲鳴を上げている。それでも足を止めることを否定する。動け。止まるな。走れ。脳からの指令に疲れで悲鳴を上げる肉体が全力で答える。

「…そうだ、まだ、だ…!!」
 早く、一刻も早く、やらなければいけないことがあった。行かなければいけない場所があった。
 胸が疼いている。声が聞こえる度に疼いている。
 だから、ただ、走る。
 視界が真っ白になりそうなほどになっても足を止めるな、足を前に出せ、息を切らして、意識が途切れても、走って、走って、走り続けろ。
 走りながら、息を紡ぐ。胸が苦しい。肺が酸素を求めて暴れている。酸素不足で目眩すらしそうなど。汗が流れる。膝が笑う。実に数kmの道のりを力の及ぶ限り全力で走ってきた以上は当然のことだ。人間の身体は数kmを全力疾走出来るようには出来ていない。
 それでも走った。今も時折聞こえる声。途切れ途切れの呟き。それを聞いて、足を止めることなど出来はしない。
 だって、胸が疼くのだ。全身が強張るのだ。悔しいとか無力だとかそんなもの全部一切合切置き去りにして、走れと疼くのだ。だから、止まれない。止まらない。止まることなど出来はしない。

 ――そうして、どれほど走り続けたのか、気がつけば扉が見えた。先ほどと同じような扉。ドアノブに手をかけ、掴んだ。

 一瞬、身体が止まった。ごくり、と唾を飲み込む。
 これから、やろうとしていること――その不安が胸を埋めていく。
 ラクス・クライン、キラ・ヤマト、アスラン・ザラ、カガリ・ユラ・アスハ。
 カガリ・ユラ・アスハとは未だ会っていないが、彼らは変わった。以前のような、力で世界を塗りつぶすような、ならず者ではなく、成長していた。恐らくカガリもそうなのだろう、と思う。アスランがそれなりに話を聞くようになっていたのだ。彼が共にいるであろう、あの女が変わっていないとは思えない。
 可能性は低い。変わってしまっていれば、“力を求める人間に力を与え”はしないだろうから。
 だから、これは――見込みの低い分の悪い賭けでしかない。

「そんなの……いつだって、おんなじだ。」

 呟いて、ドアノブを回し、開いた。重量感のある音を出しながら、ギギギと扉が開いていく。
 閃光が目を焼いた。視界が一瞬ホワイトアウトする。薄暗い廊下から明るい室内への明順応。
 数瞬で視界は回復する――瞼をこすって、室内を見渡す。
 視界に映るのは、この一週間共に暮らした女性とその子供たち――ラクス・クラインと孤児院の
子供たちの姿。それ以外にも何人かの人間が見える。中にはマルキオもいた。恐らく彼の付き人だ
ろう。盲目のマルキオが一人で行動することはありえない。誰かが彼の世話をしなくてはならないからだ。

 ――今、そんなことはどうでもいい。

 胸が騒ぐ。ラクス・クラインを目の前にして、緊張が走り抜ける。全身に力が籠っていく。知らず、両の拳を握り締めていた。
 足を踏み出す。止まっている暇なんて一瞬足りとも存在していない。結果はともかく行動するしかない。

「……無事だったのですね、シン。」

 そんな自分を見て、ラクスはほっと息を吐いた。だが、その瞳が曇っていく。この場に来たのが自分だけという事実に気づいて。

「……はやてさんやドゥーエさんは?」

 恐らく彼女は何も知らない。多分、八神はやては、ラクス・クラインに何も告げてはいない。
 当然と言えば、当然だ。魔法のことを知らない人間に、「自分は魔法を使える世界からやってきた魔法使いです」と言ったところで狂人と思われるのが関の山だ。
 ギンガと最初に出会った時、彼女が魔法を使わなければ、魔法の存在を信じることなど出来はしなかったろう。

「二人は、行きました。俺や、皆を守りたいって、そう言って。」

 事実を告げる。

「……あの巨人の元へ行ったのですか?」
「そうです。」

 言葉を放つ。沈黙が場を包み込む。ラクス・クラインの清楚な横顔に悲しみの色が浮かび上がる。
 同じく、子供たちにも。魔法などという規格外を知らないラクス・クラインや子供にしてみれば、はやてとドゥーエがレジェンドの元に向かったなど、自殺行為でしかないのだから――知っていたとしても、それほど変わらないだろうが。

「……」

 両の腕に力を込めて拳を握り締める。
 止められなかった。止める間もなく彼女達は行ってしまった。
 魔法が使えれば確かに戦えるかもしれないが、それがどうしたというのだろう?戦えるだけだ。勝てる訳が無い。
 仮に八神はやての放つ魔法がモビルスーツのビームと比べて、威力と言う面で遜色が無いとしても、あの巨大なレジェンドにモビルスーツの放つビームが効いているという様子は無かった。
 だから、同じく八神はやての魔法だって通用しない。恐らく、確実に。
 ドゥーエに至っては、はやてほどの威力の魔法を撃てない――仮に撃てたとして、それがどうしたと言うのだろう。通用しないのは間違いない。
 八神はやては自分のことを守りたいと言った。ドゥーエは子供達を守りたいと言った。
 力が無い自分はそんな二人を止めることなど出来なかった。
 怯えて、恐怖で身体が動かない自分には何も出来なかった。悔しかった。泣きたいくらいに悔しかった。
 鎖は、今も身体を縛り付けている。今はただ、痛みで無理矢理、消しているだけだ。時間が経てばきっと自分はまた怯えて震えて、動けなくなる。

 だから、その前に――自分は、行かなくてはならないのだ。

 ――顔を上げた。ラクス・クラインが泣きそうになっている子供達を抱き締め、何度も何度も大丈夫だと呟いている。子供たちとて馬鹿ではない。テレビを見ればあの巨人がどれほど危険かなどすぐに分かる。その場に行った、はやてとドゥーエがどれほど危険なのかも、そこで戦っているキラとアスランがどれだけ危険なのかも、全てを分かって、その上で――泣くのを堪えている。
 堪えることが出来ているのは、それでも信じているからだろう。
 キラ・ヤマトを。自分の父親を――例えそれが本物でなかろうとも、信じているのだろうから、だと思う。
 その光景を見ていると、胸の奥でざわつくモノがあった。思い出すモノがあった。

 ――僕はいつまで泣いていればいいの?

 夢の中で見えた自分の子供の頃。泣いていた。ずっと、泣いていた。掻き毟りたくなるココロ。
 涙を流す子供。涙を流す誰か。胸の奥でざわめくモノ――ざわめきは滾りへ、滾りは熱を持ってカラダを駆け巡る。熱が、身体を動かす。緊張が解けて消えていく。

「……ラクス、さん。」

 意を決して、足を一歩前に――口を開いた。

「頼みがあるんです。」
「頼み?」

 不思議そうに問い返すラクス。彼女の水色の瞳が自分を見ている。その瞳で見据えられると身体が緊張する――別に彼女の瞳だからとかは関係ない。多分、誰の瞳でも同じこと。こんなこと、頼んだことは一度も無いのだから。自分はいつも一人で勝手に突っ走っていって、誰かに助けを求めたことなど無かったから。
息を整えながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。

「俺に――」

 自身の全てを見透かすような水色の瞳を見据えて呟く。思えば、こうやって面と向かって話をするのは初めてだった。逡巡は一瞬。呟きは、一言で終わる。長くは無い。短いたった一言の“懇願”。

「――俺に、モビルスーツを貸してください。」

 ――その一言で周囲の雰囲気が激変する。視線が自分に集中する。

 ほぐれていたはずの緊張が再び高まり出す。
 子供を抱き締めていたラクス・クラインが立ち上がって、自分に近づいてきた。かつん、かつんと足音を立てて、彼女が近づく。雰囲気が変わっている。そこにいるのは、母としてのラクス・クラインではなく、プラント議長としてのラクス・クライン。

「モビルスーツを、貸して、それでどうなさるおつもりですか?」

 水色の瞳が、自分を見据えた。後ずさりそうになる自分を必死に抑え、その視線を受け止めた。眼は――逸らさない。絶対に。
 逸らせば、願いは叶わない。やらなければいけないことがある。行かなければいけない場所があるのだ。
 腹筋に力を込めて、唾をゴクリと飲み込む、口内が知らず乾いている。気を抜けば視線を逸らしてしまいそうな自分を自覚する――プラント議長ラクス・クラインの視線はそれほどに苛烈だった。
 瞳に、力を篭めて見つめ返す。睨みつける訳ではない。こちらが本気で在ることを示す為に。

「戦う、為です。あの巨人と。」

 ――沈黙が場を満たす。

 子供達は喋らない。
 マルキオは何も言わない。その側近も同じく何も言わない。
 ラクス・クラインだけが自分を見つめている。
 彼女が口を開いた。

「キラとアスランがあなたを起こさなかったのは何故か分かりますか?」
「…足手まといになるから、ですよね。」

 行けば死ぬ。その言葉が湧き上がる。

「ええ、その通りです。あなたがこれまでどこにいたかはわかりませんが――貴方がキラに語った事実が真実なら、あなたの技術は以前よりも錆びついている。だから、二人はあなたを置いていった。無駄死にをさせたくないから。」

 それは正論だった。全く持って間違いのない理論だった。
 わざわざ死地に誰かを連れていくような、そんな人間ではないのだ、二人とも。
 だから、あの二人が、置いていったと言うならそれに従うのが正しいのだろう。最高の技術と戦力があるならまだしも鈍った技術で誰かを守ろうなどおこがましいにも程がある。現実を見ない死にたがりの戯言にしか聞こえないのかも知れない。

 ――けれど、それでも、そこは退いてはいけない。そう、思って口を開いた。

「それでも、です。俺には、ここで誰かの助けを待つなんて出来る訳が無い。」

 視線と視線が交錯する。絡み合う水色の瞳と朱色の瞳。
 ラクスが口を開いた。紡がれる言葉は、歌うように滑らかで。

「――問いましょう、シン・アスカ。貴方は戦いの先に何を見ているのですか?」

 いつの間にか、焦点を失っている水色の瞳が自分を貫いた。何をされた訳でもないのに、威圧感を感じ取る――ぐっと奥歯を噛み締めて、その視線を受け止めた。

「……先?」
「戦ったその先で――貴方は何を為し遂げたいのか、と聞いているのです。答えなさい、シン・アスカ。戦いのその先で、貴方が見つめているモノを。」
「俺が、成し遂げたい、こと……?」

 俯いて、一瞬考える――自分は、この戦いの先に何を見ているのか。
 考えるまでもない。そんなモノは一つしかない。

 ――私、貴方が好きだから
 ――貴方が好き。

 この戦いの先で、命を懸けて、成し遂げたいことがあるとすれば、それだろう。やりたいことがあるなら、それだけだ。

 シン・アスカは、あろうことか二人の女に本気で惚れた。ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウンと言う二人の女に――そして、その事実に気づかないまま、守れずに二人は死んだ。だから、シン・アスカの胸に芽生えたその想いはもうどこにも届かない一人ぼっちの恋でしかない。
 けれど――届かないとしても、それでも口に出したいコトバがある。
 二人は自分を好きになってくれて、自分は二人を好きになった。自分はその事実にまるで気づかなかったけれど――そんな自分に二人は想いを伝えてくれた。二人はもう死んでしまったけれど、伝えてくれた想いは確かにこの胸に息づいている。

 だから――伝わらないとしても、せめて返事をしたかった。
 それは意味の無い行為だ。死人に口無しとは言うが、死人には耳だって無いのだ。言葉なんて絶対に届くはずも無い。想いなんて、届くはずが無いのだ。

 ――だけど、それでも伝えたい。好きでした、と。今でも好きなのだ、と。

 多分それは意地だ。自己満足に過ぎない告白だ。けれど、それでも――最後に会話した、二人の顔が忘れられない。一人は寂しげに笑っていて、もう一人は涙を零していて。
 二人の笑顔が好きだった。幻を見るほどに、その笑顔に焦がれていたのだ。
 なのに、自分はいつも曇らせてばっかりで――あの涙を止めたかった。あの笑顔を取り戻したかった。
 例えそれがもう出来ないことだと分かっていて――それでもだ。
 きっと、それがシン・アスカにとっての真実。

(……そっか。)

 先ほどの子供達や子供の頃の自分が泣いていたのを見て、胸がざわついていたのも同じ理由だ。
 ただ、誰かが泣いているのが嫌だった。毀れる涙を止めたかった。誰かの笑顔を守りたかった。

 思えば、昔から、自分はそんなモノの為に戦っていたのだと思う。
 戦争はヒーローごっこじゃないと言う奴がいた。その通り、戦争はヒーローごっこではない。
 戦争では涙は止められない。戦争で止められるものは命の消費だけで――決して、それは涙を止めることには繋がらない。
 昔はそんなことにも気づかなかった。ただ、力を求めていただけだったから。 
 だから――戦いの先に見ているモノがあるとすれば、そんなモノは一つだけ。
 
「誰かの涙を止めたいんだ。」

 言葉を、放つ。 

「……泣いてる子供がいたら、誰だって助けるだろ? 泣いてる人がいたら、誰だって手を差し伸べる――少なくとも俺にはそれを見過ごすなんて、絶対に無理だ。」

 淡々と紡れていく言葉は単なる心情の発露。

「泣いてる友達がいるんだ。俺の友達が、あそこで泣いてるんだ。…ここで黙って、助けを待つとか出来る訳無いんだ。だから、力がいるんだ。友達、助ける為に――だから、」

 膝を曲げて、両の手を床につけて、頭を地面にこすりつけるほどに低くした。平身低頭――土下座。嗤われても構わない。そんな程度で、望みが叶うなら何度だって頭を下げる。守りたいプライドよりも、成し遂げたいナニカがあるから。

「俺にモビルスーツを貸してください……何でもいい。何だって構わない。」

 顔を上げた。見上げれば焦点を失ったラクス・クラインの瞳が自分を見ていた。

「力がいるんだ。友達を、助けたいんだ……!!だから、頼む。俺にモビルスーツを……」
「……だ、そうですわよ、カガリさん。」

 ラクスが呟いた瞬間、その後方、明かりの灯っていない暗闇から足音が響いた――かつん、かつん、と足音は二つ。誰かが歩いてきている。
 近づく人影には見覚えがあった。戦争初期、シン・アスカが最も認めなかった馬鹿な女。理想だけが先行して現実を見ない大馬鹿女。

「カガリ・ユラ・アスハ……?」
「久しぶりだな、シン・アスカ――それと喜べ、合格だ。」

 女が答えた。
 カガリ・ユラ・アスハ――オーブ首長国連邦代表。“女帝”ラクス・クラインと世界を二分し、治世を収めるもう一人の女――“女王”。世界を平和に導く英雄。

「合格……いや、そんなことよりアンタ、何で……?」

 呆然と呟いた。

「ここは私の国だ。私がいるのは当然だろう?」

 彼女の言う通り、オーブは彼女の収める国である。彼女がここにいることは何ら不思議なことではない。
 だから、シンが驚愕しているのはそのことではなく、それ以外のこと――身に纏う雰囲気の圧倒的な違い、である。
 ラクス・クラインの“瞳”と同等か、それ以上の威圧感を感じる。カガリ・ユラ・アスハは、ただそこにいるだけだというのに、今直ぐにでも背筋を正して、跪きたい衝動に駆られるほどだった。
 笑みは不敵に、唇は精悍に歪み――カガリ・ユラ・アスハが話し出す。

「ふふ…まあ、驚くのも無理はないさ。私がここにいるのは、単にアスランに頼まれたからだ。」
「アスランに……?」
「シン・アスカは必ずモビルスーツを貸してくれとやってくる。だから、“見極めた”上で力を貸してやってくれ、とな。ご丁寧に貸すモビルスーツまで指定して行ったよ、アイツは。」

 苦笑しながら、カガリはパチンと指を鳴らした。後方に控える黒服の女が右手に持っていたリモコンを操作する――部屋の奥の扉が開いた。
 こちらを一瞥し、カガリは親指でその方向を指し示す。

「ついて来い。お前に力を貸してやる。」
「…あんた、一体。」
「いいから、早く付いて来い。モビルスーツが欲しいんだろう?」

 そう言って、こちらを一瞬睨み付けるとそのまま歩いていく。
 呆然と自分はそれを見送る――手に、暖かさを感じる。誰かの手の感触。振り返る。ラクス・クラインが自分の手を握っていた。

「ラクス、さん…?」
「……力無き想いに意味は無く、想い無き力はただ悲しいだけです。」

 瞳を閉じて、祈るように呟く。

「貴方が戦いの先に何を見たのか、私には分かりません。けれど、貴方は貴方の行くべき明日を得たはずです。」

 ――彼女が離れ、微笑んだ。女帝ではなく、母親――子供達を愛し、男を愛するどこにでもいる女のようにして。

「――幸運を。それがたっぷり必要でしょうから。」

 自分の右手を握り締めるラクス・クライン。同じように自分も握り返し――そして、離し、叫ぶ。

「はい!!」

 振り返って子供達に目を向けた。
 子供達の視線が自分に集中する――まともに話したことなど一度も無い。けれど、一言だけ伝えておきたい言葉があった。

「……皆、俺が絶対に守ってみせる。だから、安心するんだ。いいな?」

 そう言って、返事を待たずに走り出した。カガリの姿はもうそこには無い。自分を置いて、自分に貸してくれる機体とやらの元へと行ったのだろう。

「ったく、ちょっとくらいは待ってろよな…!!」

 毒づいて走る速度を上げる――背中越しに子供達の声が聞こえてくる。
 頑張れ、とか、信じる、とか、約束だからな、とかそんな言葉が聞こえてきた。
 声を聞いて顔が自然と笑顔になっていく。唇の端が釣り上がっていくのが分かった。胸には熱いナニカ。
 不安は今も多く、正直まともに戦えるかどうかなど分からない。
 だけど――走りながら、呟いた。

「絶対に、守ってやる。」

 湧き上がるその気持ちは、絶対に真実(ホントウ)なのだから。
 
 ◇
 ――走る。走る。息を切らして、腕を振って、足をのばして、前だけ向いて走り抜ける。
 そうして、走り続け、薄暗かった廊下にも終りが見えた。
 廊下の薄暗さと対照的な明るさ。そこに足を踏み入れた。

「遅いぞ、シン。」
 すでにその場所――恐らくモビルスーツの格納庫で待っていたであろうカガリ・ユラ・アスハだ。
 踏み入れて、顔を上げた。明るさの原因は何も照明のせいだけではない。その明るさは、そこにいる“モビルスーツ”が生み出していた。

「これって……。」

 そこは予想通りにモビルスーツの格納庫。現在は全ての機体が出撃しているのか、がらんとしていた――その伽藍(ガラン)の中心に立ち尽くす一機のモビルスーツ。輝きはそこから。
 “金色の装甲”が照明の光を反射し、キラキラと輝いている。
 全身が身震いする。金色に輝く装甲を纏った機械のヒトガタ。

「…これを、俺に……?」

 その機体の名はアカツキ。ORB-1“アカツキ”という呼称のモビルスーツである。
 光を反射している黄金の装甲はヤタノカガミと呼ばれモビルスーツの放つビームを跳ね返すという、他に類を見ない防御力に特化した――オーブの意思を具現化したという、守ること。それにのみ特化した、馬鹿げた機体――忘れられない機体だった。

「以前はムウ・ラ・フラガ――ネオ・ロアノークがこれに乗っていた。」

 ネオ・ロアノーク。懐かしい名前――胸に残った消せない傷跡。顔が自然と歪むのが分かる。
 カガリはそんな自分に気づいているのか、それとも気付かないでいるのか――反射した光が逆光となって、彼女の表情を隠しているせいでよく分からない。

「お父様は……“ウズミ・ナラ・アスハ”がこれを作ったのは、オーブの意思を具現化したかったから、らしい。お笑い草だ。こんなものを作っている暇と金があるなら、その分を真っ当な軍備補強や避難施設に回せば良かったと言うのにな。」

 ――ウズミ・ナラ・アスハと言い直し、訥々と語る彼女の横顔は辛そうに歪んでいる。
 その歪みは何かを悔いているように見える。何を悔いているのか――恐らくは昔の自分のことを悔いている。

 誰かを盲信し、あの日のオーブを肯定した人間だとは思えないような言葉の羅列。ここまで来れば流石にシンも驚きはしない。予想していたことだった。
 キラ・ヤマトが変わった。ラクス・クラインが変わった。アスラン・ザラも変わっていた。
 ――ならば、そこに加わるべきもう一人であるカガリ・ユラ・アスハが変わっていないはずがないのだ。

 カガリがそのままアカツキに向かって歩き出す。自分もそれに釣られて歩き出す。掛ける言葉は無い――無言。話す内容が見つからない。自分とカガリ・ユラ・アスハの間柄はそんなものかもしれないけれど……何か、言葉を交わしたい、と思った。

「動かせば金を食う。整備するにも金を食う。かと言って廃棄することも出来ない――オーブの象徴とか言い出す馬鹿がまだいるからな。だから、最低限の整備だけを受けて、今じゃコ
イツはここでずっと眠ってる。あの戦争が終わってから3年間、ずっとな。」

 必要が無い、けれど壊すことも出来ずに、ただそこにいるしかない厄介者。それがこの機体、アカツキ。彼女はそう言っている。
 その“厄介者”という境遇が――どこか自分に似ている、と思った。

「他国を侵略せず、他国の侵略を許さず、他国の争いに介入しない。完全中立専守防衛――それがオーブの意思だ、お前が住んでいた頃の、な。これはその頃のオーブそのものなのさ。」

 そう言ってアカツキを見上げるカガリ。
 
 ――お前が住んでいた頃の、な。
 
 それが何故か、皮肉に聞こえた。少しだけ胸に突き刺さる。

「……そんな大事なものを俺に使わせるとか、何考えてるんですかね、アスランも。あんたも…国家元首がなんでこんなところにいるんだか、もっと他に行くべきところが…・」

 知らず、皮肉げに呟く。カガリはそんな自分を見て苦笑する。

「何がおかしいんですか?」
「いや。お前は相変わらずアスランと私が嫌いなんだな。」
「……別に。」

 そうして、黙りこむ。本当はこんな風に会話している暇などないはずなのに、どうして自分はこんな風に黙ってしまうのか。

「他国を侵略せず、他国の侵略を許さず、けれど世界の平和の為に。」

 カガリが口を開いて話し出す。顔はアカツキを見つめて、何かを思い出すようにして、彼女の口から流れる言葉は流麗に紡がれていく。

「何をしたって力は必要になる。力無き想いに意味は無く、想い無き力は悲しみを呼ぶだけだ。大切なモノは平和だ。誰も悲しまない、誰もが涙を流す必要が無い世界だ。世界は手を取り合わなければならない――隣人に銃を付きつけ合ってどうする。隣人に差し伸べるのは自らの右手であるべきだ。」

 誇りと共に静かに詠われていくソレは即ちカガリ・ユラ・アスハの真実。そして、シン・アスカにとっても―――多分、世界中の誰もが思い描く理想と言う名の世迷言。

「それが、今のオーブの理念……というよりも基本だな。」

 そう言って、カガリ・ユラ・アスハが誇らしげに笑う――眩しくて、目を逸らした。

「……理想、ですね。」

 漏れた呟きは単なる心情の吐露。言える言葉は一つも無い。理想を語る女だった彼女が、理想で現実を塗り替えようと、道を選んで走り抜いている。
 それが、あまりにも眩しくて――自分があまりにも矮小な気がして。

 ――シンの知る限り、カガリ・ユラ・アスハが国家元首となってからオーブはそれまでの迷走が嘘のように世界の舵取りを行っていった。ラクス・クラインがプラントで治世を行い、女帝と呼ばれるようになっていったように、カガリ・ユラ・アスハもまたオーブにおいて、信じられないほどの治世――それこそウズミ・ナラ・アスハすら凌ぐほどの――を行い、“女王”、または“獅子王”とまで呼ばれるようになっていった。
 そんな自分の返答にカガリが鼻を鳴らして返答する。微笑みは先ほどと同じ不敵な微笑み。

「ふん、政治家が理想を唄って何が悪い?確かに、現実は厳しく、上手くはいかないなんてことはよく分かってるさ。だがな、理想を語ることも出来ない人間が理想を嗤うなど馬鹿な話だ。」

 カガリが自分に向き直る―――逸らした目が合わせられた。

「お前だって、そう思っているだろう?…・いや、お前こそがそんな理想を信じているはずだ。」

 その“瞳”に見つめられて、息を呑む。それは王の瞳。理想を信じて、突き抜けようと足掻抜く馬鹿女――国を背負って、民を守る王の瞳だ。
 どくん、と胸が鼓動する。眩しさで、押さえ込まれていた“熱”が再び猛り出す。
 ラクス・クラインから受け取った火が、カガリ・ユラ・アスハの言葉で炎となる。

 ――それでも、その炎を肯定したくない。

 今更の話だ。家族を亡くして、オーブを出た。オーブを恨んだ。戦争という現実を知れば知るほどに、自分の家族が死んだのは仕方の無いことだったのだと思い知らされた。
 だからだろう。カガリ・ユラ・アスハには、ラクス・クラインや、キラ・ヤマトに対して感じることの無い感情があった。
 憎悪があった。正当な怒りがあった。誰が何と言おうと、理性が何を叫ぼうと、家族が死んだと言う事実は覆らない。
 あれは戦争だった。あれは運が悪かった。あれは、不幸な事故だった。

(今更だ。気にすることじゃない。そんなことよりも早く行くべきだ。)

 それでも拘ってしまうのは何故か――明確な憎悪の相手がいたからだ。オーブという名の憎み相手が。
 別に、憎んでいない――というよりもどうでも良かった。オーブがそこにあろうと無かろうと、別に自分が守ることには関係ない。そう思っていたから――少し前までなら。

 今のシン・アスカは少し前――ミッドチルダにいた頃のシン・アスカとは“違う”。
 自身の想いを自覚し、生きていたいと言う欲求を取り戻した、今のシン・アスカは違う。
 何もかもをどうでもいいと断じて、守ることそれのみだけで生きていた“謙虚”な化け物はもういない。そこにいるのは“強欲”な―――何よりも“強欲”なただの人間だ。

 だから、ただの人間が、過去に囚われるのは道理であり、当然である。人は過去に囚われることで自身を確立する。
 過去という鋳型によって現在が形作られ、人は生きていく。
 だから、これは当然のことだった。シン・アスカがカガリ・ユラ・アスハに――例え変わったとしても――疎ましさを感じるのは。

「ふふ、何か言いたそうな顔をしているな、シン。」

 不敵に笑うカガリ。その表情が最高に疎ましい。視界から消せるなら消してしまいたい――考えるな。
 自分にはそんなことをやっている暇は無い/尖り出す思考と意識を抑圧する――異常な感覚を覚える。
 抑圧しようとすると胸の奥からせり上がってくる感情がある――炎の代わりに暗い情念が浮かび上がる。

 ――抑えきれない。感情が制御できない。自分の中で生まれる暗い情念に身を任せてしまいたくなる。衝動が破裂しそうになる。

「言いたいことがあるんじゃないのか?例えば――家族を殺したお父様への恨み事とかな。」

 その一言で、意識が切り替わる/動きが加速する。カガリ・ユラ・アスハの着ている黒いスーツ。その襟元を掴んで引き寄せた。

「……喧嘩、売ってるのか、アスハ。俺は行かなきゃいけないんだ。あんたなんかに付き合ってる暇は無いんだ。」

 瞳孔が開き、両の目が釣り上がっていく。
 湧き上がる殺意にも似た憤怒。
 こんなことをやっている場合じゃない。そんなこと理性ではわかっている。けれど、感情が抑えられない。

 カガリ・ユラ・アスハを正しいと思う心があった。
 “アスハ”を嫌う心があった。
 家族を思う心があった。
 レイを思う心があった。
 二人の女性を想う心があった。
 カガリ・ユラ・アスハに反抗したい気持ちがあった。
 自分から全部奪った英雄達に従いたくないと言う欲求があった。
 その奥底にある誰かを助けたいという気持ちがあった。
 そして、その理想に誰よりも共感してしまう自分の気持ちがあった。
 複雑に幾つもの感情が絡み合って、混沌を形作っていく。
 乖離する自分自身。混ざり込む自分の心。
 全ての気持ちが混ざり込んで、全てのココロが同期して、自分の心が分からなくなっていく。
 それでも――

「……あいつが、待ってるんだ。」

 その気持ちが今は一番大事だった。
 ただの人間ならば、絶対に消せない憎悪と拘り。それら全て――無限の憎悪を、憤怒を、悲哀を、全て捻じ曲げて、収束させ、ひとつの想いを成していく。

「あんたと喧嘩してる暇なんて無いんだ。だから、俺を早く……お願いだから、早く、アカツキに乗らせてくれ。」

 優先するべきはレイ・ザ・バレルの元へ向かうこと。この場で暴れることが目的ではないのだ。
 暴れるならば、あの場所で。友達が待っている。友達を助けなければいけない。だから、自分は、一刻も早く、あの場所へ――

「ふん……合格だ。」

 カガリ・ユラ・アスハの右手がシンの両手を掴んだ。彼女の顔が歪む。不敵な微笑みはそのままに、瞳が釣り上がって、唇も同時に――そして、威圧感が噴き上がる。
 瞬時に自分の中の感情が委縮しようとする。

「――誰かの涙を止める。さっき、お前はラクスにそう言ったな。」

 答えられない。掴むことに必死になって、それ以外のことが疎かになる/それでも目を合わせて睨み続ける。

「お前は、その願い(ユメ)を貫きたいんだろう?誰かが泣くのが“我慢ならない”んだろう?」
「……ああ。」
「聞こえんな。そんなものか、お前の気持ちは。」
「……何だと。」

 奥歯を噛み締めて、全身が総毛立つ。カガリの左手が自分の胸倉を掴んだ。首元を圧迫され息苦しさを覚える。

「聞こえないと言ったんだよ、シン・アスカ。お前の本気は、そんな小さなモノなのか?」

 ドクン、と胸が鼓動する。

「違うと言うならな、私が納得する程度には叫んでみせろ。お前の本気の叫びを、聞かせてみせろ!!」

 そう言ってカガリが突き放すようにして、両の手を離した――掴まれていた手が赤く腫れている/疼くようなその痛みすら心地良い。
 胸が鼓動した。
 倒れそうになる両足。力をこめてそれを否定する。上等だ――心の中の、獰猛な何かが目を覚ます。

 欲望そのものと言っていい感情。人間が持つ、欲望そのもの。
 言葉の意味は、言葉通りに、“希(ノゾ)゙み”を“望む”こと。そして、“希(マレ)”を“望む”こと。
 願いが叶うことを望み、僅かな可能性が実現することを望む――そんな欲望。
 怪物となって以来一度も目を覚ますことの無かった、“希望”という名の獣が。

 一つ深呼吸――そうだ、宣言だ。
 さっきはただ単に胸の迸りのまま叫んだだけだ。
 だが、今度は、腹の底から誰かの為にではなく、“自分”の為に叫んでみよう。

(俺が、無限の欲望だって言うんなら……)

 未来を変えることができるというのなら、自分が特別だと信じ抜く為に――さあ、咆哮だ。
 叫んで、喚いて、自分を変えろ。

「……もう、誰も―――」

 思い出が浮かび上がる。
 守れなかった誰か。
 守りたかった誰か。
 守らなくてはいけなかった誰か。
 そして――守りたかったことにも気づけなかった、誰か。

「もう、誰も、死なせない……!!」

 叫ぶコトで、自分の中の何かが目を覚ましていく錯覚――獰猛なほどの“希望”が涎を垂らして、口を開く。

「絶対だ……!!絶対にだ!!」

 叫びと共に浮かび上がる二人の笑顔。その笑顔はもう取り戻せないけれど、

「もう、絶対に誰も死なせないッッッッ!!!死なせて…たまるかアアアァッッッ!!!」

 眼が見開いた。カガリ・ユラ・アスハに目を向ける。邪悪さすら感じられるほどの“自信”と“誇り”に満ちた王が自分を見ていた。
 その右手の人差し指が、動き、自分に向けられた

「――だったら、その理想(ユメ)を貫いてみせろ、徹底的にな。」

 王が、自分に向かって叫ぶ。

「お前があの時、喧嘩を売ったのはこの“アスハ”だ。オーブの国家そのものだ。怖いモノなんて何にもないだろう?」

 不敵に笑うカガリに釣られて、唇が、自然と釣り上がる―――胸の“炎”が大きく、強く、熱く、猛り狂って、“焔”となる。
 燃えていく――猛り狂って、焔となって、矮小な自分を焼き尽くして、変化を確定させていく。

「言われなくても……!!」

 瞳を吊り上げて、カガリを睨み返して、叫ぶ。
 威圧感は感じない。熱が全てを薙ぎ払って、何も感じない。感じるのはただ胸の熱さだけ――瞼を閉じて、浮かび上がる“笑顔(シンジツ)”を幻視する。
 忘れない。ずっと忘れない。きっと忘れない。いつだって、マボロシだろうとそこに在る。
 この身は、ただその為だけに。今もどこかで泣いている“誰か”の涙を止める為に。誰かの笑顔を守る為に。

 ――もう、取り戻せない、二人の笑顔を守る為に。

「――言われなくてもわかってる!!」

 獰猛な感情が胸の中で渦巻いている。震える身体は恐怖ではなく、“熱”の為―――この胸で燃え出した焔の為。

「シン・アスカ。」

 言葉と共に何かが投げられていた。反射的に左手を動かし、顔面目がけて投げられたソレを掴んだ。

「……これは。」

 ソレは、短剣だった。
 獅子とそしてハウメアの紋様が掘り込まれた黄金色の鞘に収められた短剣。
 刃渡りは凡そ35cm。柄の長さは20cmほど。華美な装飾が施された短剣――引き抜く。
 反りの無い直刀―――刃に掘りこんである文字。

“GOD SAVE MY COUNTRY(神よ、守れ、我が故郷)”

 掘りこまれた言葉が、何故か胸に染みる――それは多分郷愁。
 納得は、出来ない。多分、これからもずっと納得なんて出来るはずが無い。

「それがアカツキの起動キーだ。それをコックピットの挿入口に差し込めば、アカツキは起動する。」

 左手が掴んだ短剣を見つめる――見た目以上の重さを感じる。
 それは、“誰か”が託した理想(ユメ)の重さそのもの。
 その誰かは国を守って、民を守らなかった。国としての在り方を貫かなければ、民を守れないとでも考えたのかもしれない。多分、それは順序を間違えていたのだ。

 国があって民があるのではなく、民があって国がある。
 それは為政者の考えではなく、民間人の――どこにでもいる誰かの考えだ。
 為政者が持つべき考えではないのかもしれない。
 けれど、その結果として、国は一度滅びて、もう一度立ち上がった。
 自分は、ただそれに置いていかれただけ。ただそれだけ。それも自分の勝手な錯覚だろうけど。
 短剣を鞘に収める。それを確認して、カガリ・ユラ・アスハが右手を動かし、アカツキに向けて人差し指を突き立てた。

「……ヒーローごっこじゃない、ヒーローになってみせろ、シン・アスカ。」
 
 決意を求める瞳。覚悟を求める瞳。無言でその瞳を睨み返す。
 沈黙は一瞬――カガリ・ユラ・アスハが微笑んだ。

「ウチの馬鹿な男たちをよろしくな。」
「ああ!!」

 叫ぶ。同時にその指の示すアカツキに顔を向ける。前に踏み出す歩き出す走り出す――駆け抜ける走れ走れ前へ前へ。
 ノーマルスーツはいらない。ヘルメットもいらない。着ている暇は無い。準備している暇が惜しい。

 走る走る走る走る――爆音が鳴り響く。
 閉じられていたモビルスーツ発進用のカタパルトデッキの扉が破壊された音。黙々と上がる煙。
 その中から現れるモビルスーツ――ツギハギのムラサメ。ヒビ割れた装甲。その内より現れる触手(ケーブル)。パチパチと火花を散らすカメラアイ。

「……ふん、あそこにいた奴か。」

 カガリ・ユラ・アスハが静かに呟く。
 轟音爆音咆哮咆哮咆哮――ビームライフルの掃射/狙いをつけない乱れ撃ち。方向の定まらない光条が幾つも放たれ、そこら中を破壊して行く。
 天井から落ちる瓦礫と壁の破片。コンクリートの欠片が落ちては砕け、落ちては砕け――アカツキの元に行くことすらままならない。

「くそっ!!」
「止まるな、走れ、シン。」

 言葉を遮って届く静かなカガリの声――今も、同じ場所で動じることなく、こちらを見ていた。

「アス、ハ」

 そうして、彼女はその場に立ち尽くす。

「行け。そして、全てを守ってみせろ、シン・アスカ。」

 動きは無い。決してその場から動かず、ムラサメを見据えるカガリ・ユラ・アスハ――自分が、シン・アスカが絶対に守ると信じているのだ。

 ――上等だ。

「……何度も言わせるな。」

 瓦礫を避けて、破片に転んで、それでも走って走って駆け抜け、アカツキの横に設置されている、昇降用のリフトに飛び乗って、ボタン操作。リフトが上がり、アカツキのコックピットブロックが近づいてくる。
 急く心。焦燥する理性。見れば、カガリはまだ動いていない。同じ場所に立っている――生きている。
 そこから目を離し、アカツキを見据える。
 照明を反射して黄金色にギラギラと輝く装甲。趣味の悪いことと言えば天下一品だ。これをオーブの象徴にしようと考えた人間は頭のねじが一本飛んでいるに違いない。

「全部、守ってみせるさ――俺が、ありったけ、全部なあ!!!」

 叫んで、飛び乗り、アカツキの胸の横の開閉ボタンを押した。金色の装甲が動き、中からコックピットが現れ、その中に乗り込む。
 シートに座り、左手に握りしめていた短剣を差し込む場所を探す――程なく見つかった。シートから見て右側下方――操作の邪魔にならない部分に縦長の穴が開いている。
 懐から短剣を取り出し、引き抜く。

「……本当にこれで起動するのか?」

 呟いて不安になる。けれど、何故か“オーブならば在り得そうだ”、と思った。オーブの理念とやらを詰め込んでこんな馬鹿げた機体を作りあげるような国ならば――常識外れなモビルスーツの起動があってもおかしくはないのかもしれない。

「……オーブだからな。」

 逡巡は一言だけ。そのまま差し込み、かちり、と手ごたえ。
 短剣の柄の部分が輝き、幾何学模様の光が走り抜け、柄の頂点に設置された宝石が紅く輝いた。コックピット内の計器類に光が灯っていく。少しだけほっとする。
 画面が立ち上がり、起動処理が始まる。

「………」

 言葉は無い。そんな余裕はない。
 久し振り――およそ半年以上、一年近く前までは毎日のように乗っていたモノ。
 操縦桿を握って、ココロを落ち着かせていく。
 ディスプレイに映るカガリ・ユラ・アスハ――ムラサメが近づいている。

「早く」

 焦燥。瞳を閉じて、深呼吸。落ち着く為に――違う、戦う為に。冷静とかそんなものは全部無視しろ。焦燥を受け入れる。焦ることを肯定する。

「早く。」

 鎖が、浮かび上がる。自分を縛り付ける恐怖の鎖が舞い戻る。身体中を縛り付ける。恐怖が蘇る。
 死ぬ。カガリが死ぬ。あのビームで貫かれて、あの触手で引き千切られて、あの足で踏み潰されて、あの拳で握りつぶされて――

 はぁ、と深呼吸。続いて右手を操縦桿から外して、握り締めて、振り被る。

「いい加減に――」

 呟いて――見える鎖はクソッタレな自分のココロの具現/それもまた自分――恐怖を認めて、跳ね除け、引き千切れ。

「黙ってろッ!!!」

 振り抜く。眉間を直撃する自分の拳――額が切れた。
 瞼の裏で火花が散った。そのまま、静かに瞳を閉じて、起動を待つ。
 震えは消えた。殴れば震えは消える。問題は無い。

「早く……」

 瞳を閉じて、俯いて、操縦桿を握り締めて、呟き続ける。

 ――懐でデスティニーが朱く明滅する。

「早く………!!」

 閉じた瞳はソレに気付かない。

 ――朱い光がアカツキに伝わっていく。

『Gunnery』

 画面が暗転し、

『United』

 浮かび上がるアルファベットの羅列の群れ。

『Nuclear』

 シン・アスカは気付かない。

『Deuterion』

 瞳を閉じているが故に気付かない。

『Advanced』

 “始まり”がそこにあることに、

『Maneuver』

 “魔法”が、発現していることに。

『System』

 その言葉の羅列が示す意味――即ちOS。モビルスーツ・デスティニーに使用されていたOS。
 そして、彼と共にミッドチルダに跳ばされたモビルスーツ・ザクウォーリアに使用されていたOSの名前。
 起動が終わり、動作の最適化が始まる――プログラムの書き換え/シン・アスカの両手はただ操縦桿を握り締めているだけ。
 デスティニーが朱く明滅しながら、そのパネル部分に文字が浮かび上がって行く。
 声は無く、ただ静かに。
 故に彼は気付かない。

『Renewal completion pro-movement(動作系書換完了)』

 その事実に――自分が今、“取り戻し”始めていることに。

『An optimization start pro-operation---end(操作系最適化開始――終了)』

 ――ORB-01。アカツキ。不遇の機体。金食い虫。理想(ユメ)を具現した馬鹿な機体。
 シン・アスカの瞳が開く。起動処理は終了している/確認。
 操縦桿を倒して、フットペダルを思いっきり踏み込む。

「シン・アスカ、アカツキ―――」

 アカツキの足が動く。踏み出す。昇降用のリフトに左手が接触し、倒れていく。
 背部に設置された空戦用フライトユニット“オオワシ”の4基のジェットエンジンとロケットブースターに火を点す。前傾姿勢――飛び立つ姿勢。
 アカツキを保持していた幾つもの拘束具(フレーム)と動かないようにと機体を縛り付けていた緊縛(ワイヤー)を引き千切って、加速する。
 機体の動きの阻害に失敗しブチブチと引き千切られていく緊縛(ワイヤー)。同時に邪魔だと言わんばかりに折れていく拘束具(フレーム)。
 胸の奥で荒れ狂う希望(ヨクボウ)のままに動き出す。

「行、く――ぞおおおぉぉおお!!!!

 咆哮。加速する視界。加速する機体。暴走するアカツキ――それを身体に刻み込まれた操作で捻じ伏せ、格納庫内を横滑りするようにして、翔け抜ける。
 轟音に反応したのか、それとも室内を震わす衝撃に反応したのか、ムラサメがこちらを見てビームライフルを向けた/発射――滑るように機体表面から弾かれていく光条。黄金色の装甲が反射した。
 攻撃を無効化/その一瞬の間隙で、アカツキがムラサメの懐に入り込む。左腰部に連結してマウントされたビームサーベルを引き抜く。

「らああああっしゃあああああ!!!」

 咆哮と共にビームサーベルを振りぬいた。
 ムラサメの上半身と下半身を分割し、断ち切った。頭部のカメラアイから光が消えていない。
 分たれた上半身と下半身の切断面から、触手(ケーブル)が伸びて倒れそうな自らを保持する/ツギハギだらけの上半身の切断面に見える肌色の小さな物体――誰かの手。
 流れる紅は血液と体液と皮と肉のなれの果て――恐らく、ここに来る前にレジェンドに取り込まれた誰かの肉片。既に死んだという証。

「くそったれ!!!」

 叫びながら、操縦桿を動かし、アカツキの右手に握り込ませたビームサーベルを振り抜いたその姿勢から、今度は上空から振り下ろす。 ムラサメが触手(ケーブル)を使って後方に移動しその一撃を回避。前のめりのような態勢で転びそうになるアカツキ。上半身の動作に下半身が追いついていない。/ブランクのせいで同時操作が甘くなっている。

 ――モビルスーツに限らず、機械というものは常に、複数の操作を同時に行うことで一つの“動作”を形作る。
 車然り。バックホー然り。タイヤショベル然り。レッカー車然り。飛行機然り。
 要するにマニュアル車に対するオートマチック車と考えれば分かり易い。マニュアル車であれば、“カーブを曲がる”という動作一つを取っても、「確認し、ウインカーを上げ、ブレーキを踏んで速度を落とし、ギアを下げてエンジンブレーキをかけて速度を落とし、ハンドルを切って、確認して、曲がる」という操作が存在している。
 オートマチック車の場合は、この動作の内、ギア操作を省略し、ハンドルとブレーキペダルにのみ意識を集中することができる。

 特に行うべき動作の幅が車などに比べて桁違いに膨大なモビルスーツはOSによってその煩雑な複数同時操作を統括し、操作を簡略化し、現在に至る。
 操作が簡略化したならば、その分他の動作の精度が上がる。煩雑な操作が簡略化することで、余計な操作に時間を取られなくてもよいのだから。

 だが、マニュアル操作には、オートマチック操作には無い幾つかの利点がある。
 一つは、対応力。制御を全て自分の手で行えば、オートマチックでは想定されていない操作も可能となるということ。やり方によってはありとあらゆる状況において対応することが出来る。
 そして、もう一つは――精度。機械制御で達することの出来る精度というものはどれほど極まったところで、人の織りなす極致には敵わない。機械の限界が1mm単位の動作だとすれば、人の限界は0.001mmにまで達する。いわゆる職人芸――そして、シン・アスカは以前その域にまで達していた。彼は、OSの自動操作を殆どカットして全てマニュアル操作で行っていたのだ。
 機体性能に依存出来たデスティニーの時とは違い、ザクウォーリアで戦い続ける為には機体性能の限界のその先を引き出す必要があったからだ。

 今、アカツキの上半身の操作と下半身の操作が連動していないのはその弊害だ。以前ならばこの程度の“連動”は考えるよりも早く出来ていた。今はそこに一瞬の戸惑いがある――ブランク
の影響は如実に出ている。

「だったらあああ!!」

 右足でフットペダルを更に踏み込み、右手で操縦桿を握ったまま、肘で出力レバーを思い切りたたき込んで押し倒す。出力は最大。同時に左足のフットペダルを踵で踏み込みながらコックピ
ットの脚元真ん中に存在するもう一つのフットペダルを左足のつま先で同時に押し込む――いわゆるヒール・アンド・トゥ。

 背部のオオワシのバーニアが最大出力で吹き上がり、前のめりになった上半身はそのままオオワシの勢いに引っ張られて急速前進し、さらに前のめりになる――その一瞬前の時点で下半身
は既に膝を曲げて、屈伸の態勢から跳躍/同時に足元のスラスターが全力稼働。
 ――瞬間、アカツキの右手が握るビームサーベルが消失/同時にそれまで光刃を発生させていなかった側の端部から光刃が伸びていく。

 沈み込んだ態勢からムラサメに向かって跳び上がるようにして、アカツキが一直線に“飛翔”する。右手に握ったビームサーベルは発生箇所が変化し、順手から逆手に持ち方が変化。そのま
ま右手を前に突き出し、飛翔の勢いそのままにムラサメの左側を突き抜け上半身を更に両断。ムラサメのカメラアイの光が消えた。

「死なせないって――」

 そのまま、アカツキの左足を地面に叩きつけ、急停止。
 キキキと耳をふさぎたくなるような甲高い音が室内に響き渡る。同時に、足元のスラスターを全開にし、さらに減速を掛ける。
 続いて左腕を前方に回し、右腕を後方に回し、オオワシのバーニアを停止/全身のスラスターを操作し、時計周りに半回転。
 慣性を幾つもの操作で捩じ伏せ、身体にかかる凄まじい重力の痛みを叫ぶことで誤魔化し、右手で逆手に握りしめたビームサーベルで残された下半身を真っ二つに叩き切って――

「――言ってるだろうがああああああ!!!」

 同時に爆発が二つ。斬り裂かれた上半身と真っ二つに叩き斬られた下半身――赤光が黄金を染め上げる。
 炎に照らされるアカツキ。金色の装甲に映し出される朱い炎の揺らめき。炎の影で暗みを帯びる金色――それが禍々しさを演出する。

「ハァッ…!ハアッ…!ハアッ…!」

 息が切れる。汗が酷い。無茶苦茶な機動の代償か身体中が軋むように痛い。
 今すぐにでも眠りにつけるものなら、ついてしまいたい。だが――

『シン・アスカ。』

 カガリ・ユラ・アスハの声が聞こえた――壁にかけられている通信機を耳に当てている。カメラを拡大し、彼女の顔を確認。生きていることに安堵する。

『どうした、声も出ないくらいに疲れたか?』

 ニヤニヤと厭らしげに顔を歪めるカガリ・ユラ・アスハ――唇を歪めて、目を吊り上げる。

「冗談、きついんですよ……アスハ……!!俺はこの後、あのデカブツ倒して来るんだ。こんな、ところで……」

 アカツキを動かし、ムラサメが入ってきたカタパルトに向ける。

「……こんなところで、ヘバってる場合じゃないんですよ!」

 その言葉にカガリの顔が嬉しげに微笑み――言葉が放たれた。
 
『行くのか?』
「行き、ます……!」
 
 そう言って、右手のビームサーベルを左腰部に戻し、右腰部のビームライフルを手に取り、ムラサメが破壊したカタパルトの扉に向ける/3連射。爆発――扉に大穴が開いた。

『……平然と壊していくのはどうかと思うが……まあ、良い。あと数分でここにお前の“同行者”が来る。その“同行者”と落ち合ってから、あの巨人の元へと向かえ。いいな?』
「……同行者?」

『ああ、お前がよく知ってる人間だ。お前のサポートをする手筈になっている。勝手に行くなよ?じゃないと酷い目にあうことになるぞ?』

 そう言って通信が切られた。
 同行者とは誰のことなのか、少しだけ考えて――操縦桿を倒して、フットペダルを踏み込んで、背部のオオワシのバーニアに火を灯す。

「……ま、俺が素直に待つとも思わないだろ、アスハも。」

 呟いて、モビルスーツを進ませる。カガリからの通信が入る――通信を切って無視。恐らく、勝手に行こうとする自分に対する文句だろう。
 同行者をつけるという意味は分かる。
 自分にはブランクがある――先ほどの戦いで十二分にそれは痛感している。
 恐らく、自分の力はアスランやキラには及ばない。機体性能ではなく純粋な操縦技術が及ばない。
 単独で行動出来るほどの力を自分は持っていない。同行者をつけるのはそういった意味合いだろう。シン・アスカを、死なせない為に――その為の処置。
 けれど、それでも――1秒だって待つ気は無かった。
 声が聞こえた以上、待つことなんて出来るはずがない。

「早く、行かな…」
『……へえ、ちょっとはやる気になってるみたいね、あんたも。』

 声がした。
 いつの間にか、通信が開いている。
 前面に展開されたディスプレイの右上に映る小さな四角形のウィンドウ――紅い髪を後ろで纏めた女が映っている。見える瞳は勝ち気な瞳。ずきん、と、右頬が疼く。
 その紅い髪の女が自分に放ったクロスカウンターの痛みを思い出して。

「ル、ナ……?」
『それ以外に誰がいるっていうのよ?』

 呆けたように呟いた自分をクスクスと笑うルナマリア・ホーク。同時に今しがたビームライフルを放って破壊した扉から入り込んでくるモビルスーツ――ムラサメ。
 通信はその機体から送られている。
 つまり、ルナマリアがその機体に乗っているということ――何故なのか。彼女は既にパイロットではなく、単なる喫茶店の店長のはずだ。
 湧き上がる疑問。コンソールを叩き、ルナマリアが映っているディスプレイを大きくする。

「どうして、ここに」
『……声が、聞こえたのよ。』

 見える彼女は俯いたまま――パイロットスーツを着てはいない。見えるものは白いワイシャツ。赤い髪を後方で束ねている――いわゆるポニーテールと呼ばれる髪型。

『レイの声がさ、聞こえたのよ。助けてくれって。』
「……聞こえてたのか、お前も。」

 彼女の言葉の意味。それはレイの念話がルナマリアに届いていたということ。
 ルナマリア・ホークには魔法を使うことは出来ない。けれど、念話を受けることは出来る。指向性を持った念話ならば受信する側には魔法の才は必要ない。
 それは、つまり、あの念話は“指向性”――送り先を指定していたということを意味する。
 送り主は多分、彼が少なからず信用していたであろう人間。

 戦友(トモダチ)、だ。

『やっぱり、あんたも、聞こえてたの?』

 即答――答えなど決まっている。

「だから、ここにいる。あんな声聞いて、黙ってることなんて出来る訳ない――ルナだってそうなんだろう?」

 一拍の沈黙。彼女が、顔を上げた。

『……戦友(トモダチ)が助けてくれって言ってるのよ?聞き間違いかもしれない。単なる幻聴なのかもしれない。だからって、知らない振りして避難するとか出来る訳無い……そんなの、出来るわけ無いじゃない。』

 淡々と、血を吐くようにして呟くルナマリア。彼女の目尻が紅く腫れ上がっている。涙を流していたのかもしれない――あの声は、それくらいには苦しみを想起させるモノだったから

「……く」

 口元に笑みが浮かぶのを止められない。気を抜けば涙を流してしまいそうなほどに、嬉しいのだ。
 多分、レイが念話を送ったのは、戦友(トモダチ)に向けて――レイ・ザ・バレルが少なくとも自分とルナマリアを戦友(トモダチ)だと認識していたという証拠。
 それがどうしようも無く嬉しい――不謹慎だと知りつつも、湧き上がる気持ちを抑え切れない。
 ルナマリアが自分と同じく、レイを戦友(トモダチ)だと今でも思っていることが。
 そして――レイ・ザ・バレルが今も自分達を戦友(トモダチ)だと思っていることが。
 涙が出そうなほどに――否、涙が、零れ出すほにそれが嬉しかった。
 仲間が、ここにいた。それだけが、どうしようも無いくらいに嬉しかった。

『……シン?』

 零れ出した涙を服の袖で拭って、深呼吸――そして、口を開いた。

「――これから、何をするか、分かってるか?』
『……レイを助ける、でしょう?』

 ルナマリアが即答する。以心伝心――多分、彼女も自分と同じ気持ちでここにいる。
 零れる涙は必要ない――どこにも、必要ない。

「違う。レイを助けて、あのデカブツを倒す。」

 操縦桿を握り締めて、倒す。

「いけるよな、ルナ?」
『……上等じゃない。』

 ムラサメが振り返り、入ってきた穴に向けて身体を向ける――背中のバーニアが火を吹いた。ムラサメが動き出す。

『言ったでしょ?やる気になってるって。』

 そう、言って通信が切られた。爆音が鳴り響く――ムラサメが跳び立った。
 コンソールを叩いて操作――カガリに向けて通信を開く。

「ルナに、モビルスーツを与えたのは、あんたか?」
『そうだな。どうしても貸してくれとメイリンに電話がかかってきてな……仕方ないから私の一存でルナマリアにモビルスーツを貸してやった。なんだ、文句でもあるのか?』

 声の調子は楽しげ――どこか悪戯が成功したような子供のように聞こえるのは気のせいではないのだろう。

「言いたくないけど……ありがとう、って言っときます。」

 アカツキの身体が少しずつ前進する。
 脚部のスラスターも点火。膝を曲げて身体を沈みこませる――オオワシが火を噴いた。
 カガリから通信――声が聞こえた。

『シン、頑張れよ。』

 そう言って、通信が切られた――もう、言葉はいらない。フットペダルを思いっきり踏み込んだ。

「行くぞ。」

 呟き、脚部のスラスターの角度を変更。滑るようにして、加速。摩擦で床を削りながら更に加速。跳躍/床は無い。僅かに下降。全身のバーニア及びスラスターが上昇方向に点火し、飛翔――巡行。速度は全速。亜音速と言ってもいい速度。景色が一気に流れていく。コンソールを叩いて、あの巨大なレジェンドの映像を呼び出す。

「……“俺達”が絶対に助けてみせる。だから、待ってろよ、レイ。」

 懐のデスティニーの輝きは今は消えている。だから、彼は気付かない。すれ違っていることに気づかない。

 ――それでも、突き進むことを止めはしない。
 
 瞳に迷いはない。友達を助ける。それだけの為に男は翔け抜ける。




[18692] 第三部コズミックイラ飛翔篇 58.ハジマリ(c)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/06/01 23:54

 シェルター内の私室――そこに設置されている巨大なディスプレイに目をやる一人の女性――カガリ・ユラ・アスハ。
 ソファーに腰を落とし、唇を歪め、酷く嬉しそうに笑っている。

「さて、あいつはどこまでやれるのか・・・・お前は、どう思う、ラクス?」
「……本当にカガリさんもお好きですねえ、こういう趣向を凝らすことが。」

 カガリの隣のソファーに腰をかける桃色の髪の女性――ラクス・クライン。

「子供達は?」
「皆、画面に釘付けですわ……よっぽどカッコよく見えたんでしょうね、さっきのシンが。」
 くすくすと笑いながら、テーブルに置いてあるアイスコーヒーを手に取り、口をつける。

「ヒーロー、か。」

 ソファーの肘掛に肘を付き、カガリがディスプレイを見つめながら呟いた。ディスプレイに映っているのはシェルターから飛び出す寸前のアカツキ――シン・アスカだ。

「……アカツキをどうして、シンに?」

 画面から目を離さずにラクスが呟いた。画面から目を離す必要は無い――自分も同じくそのまま呟いた。

「あれは、アイツが乗るべき機体なんだとさ。」
「……それは、アスランがそう言ったのですか?」
「アスランとフラガがそう言っていたよ。アカツキの生まれた理由は守る為。それが出来るのはシンだけなんだとさ。」

 一拍置いて、話し出す。

「アスランが見極めたかったのはシン・アスカの根幹だ。誰かが苦しんでいるのを止める為にシン・アスカは力を得た。闇雲に力を得て、馬鹿みたいに強くなった。大したコーディネイトもしてないのに、いつの間にかその力はアスランと同等以上と言ってもいいほどの高みにまで駆け上ってきた。」

 肘掛から肘を外し、ソファーに体重をかけて寝そべるような態勢――疲れているのだろう。先ほどのようなモビルスーツを相手に立ち続けると言うことは異常なほどに体力を使うからだ。命の危険を目前にしながら一歩も引くことなく、胸を張って立ち続ける。
 世界を平和で支配する“王”と言う誇りがなければ、彼女とて逃げ出していたに違いない。事実、シンは気付いていなかったが、彼女とて震えていたのだ。
 話を続ける――言葉は止まらない。

「けれど、その発端となるべき想いを見失っていた。原因は全て私たちにある。あいつから全てを奪って恭順させたのは紛れもなく私たちだからな。」
「……そうですわね。」

 沈黙が室内を満たす。カガリは顔色を変えず、ラクスは俯いて――その瞳に去来するのは過去の思い出。

 キラ・ヤマト、アスラン・ザラ、ラクス・クライン、カガリ・ユラ・アスハ。
 この四人をシン・アスカは“変わった”と形容した。
 その通りだ。彼らは変わった。それこそ劇的に、まるで別人のように。

 ――シンがミッドチルダに消えていた一年間。その間、世界はかつて無いほどの混沌に見舞われた。

 起きた事件は焼き回しのようなもの――テロとクーデター。廃棄コロニーを地球へと落下させ、ナチュラルの粛清を行おうとした人間がいた。実行犯はアスランの父親の部下――ザラ派のテロリスト。
 それをアスランが鎮圧した。インフィニットジャスティスと少数の精鋭による強襲によって。

 同時期にプラントでもクーデターが起きた。現政権――ラクス・クラインに反旗を翻した。クーデターの主犯は反クライン派だった。ターミナルがラクス・クラインの為に作り出した巨大モビルアーマーが奪われ、プラントは一時期かつてないほどの危機に見舞われた。
 それをキラとラクスが鎮圧した。ストライクフリーダムと少数の精鋭で。

 同時期に発生したその二つの事件によってプラントはかつてないほどの混乱に見舞われた。同時に地球も――コロニーを落とされると言う未曾有のテロリズムによって。
 彼らは、それを乗り越えた。無論、それ以前から彼らは変わり続けていた。

 自分達が、世界を“奪い取った”のだと自覚し、逃れられない責任を持たされたことに気付き、そしてその責任の遵守の為に彼らは生き――カガリ・ユラ・アスハは女王となり、ラクス・クラインは女帝となった。
 
 キラ・ヤマトはその結果変化した。変化しなければならなかった。愛する伴侶が変わり、その伴侶に自分がやったことを突きつけられた――言葉ではなく行動で。
 
 アスラン・ザラはその結果変化した。変化しなければならなかった。自分が引き起こした結果に気付いてしまったから――シン・アスカを壊したのは自分なのだと自覚したから。

 そうして、彼らは変わった。シンが突然変わったように感じたのは間違いだった。
 彼らは、変わり続けていたのだ――彼はそれに気付くことも出来なかったが。
 それらを乗り越えた結果として今がある――アスラン・ザラがシン・アスカを求めていたのは別に同情でも何でも無い。その力が必要だと考えたからだった。
 勿論、アスラン・ザラは馬鹿だから、シンに“目的”があるのなら、決して無理強いはしないだろうが。
 不意に、カガリが呟いた。

「…昔、守れなかった年下の友達を重ねてるのかもしれないってあいつは言っていた。」

 守れなかった友達――ラクスの顔が少しだけ、苦しげに歪んだ。

「ニコル・アマルフィ、ですか。」

 カガリが頷き、続ける。

「だから、ほっとけないのさ。アスランは。それで余計に嫌われていくっていうのに、それでもあいつは放っておくことが出来ない。」

 息を吐いて、少し微笑み、語る――誇るように、馬鹿にするように、愛しげに。

「アスラン・ザラは融通の利かない馬鹿だからな。良い意味でも悪い意味でも。」
「あら、惚気ですか?」
「自分の旦那のことを惚気るくらいは良いだろう?別に私だけのものでもないんだし。」

 苦笑――と言うよりも呆れるように唇をひくつかせるラクス。

「メ、メイリンも、でしたっけ?」
「ん?ああ。国家元首と一般人との二股なんてするのはあいつくらいだろうさ。」

 今晩の夕食をどれにするか語るように、何でもないことのようにしてカガリが話す。僅かに沈黙が流れ、ラクス・クラインの顔が歪む――もう少しは動揺すると思ったのにまるで動揺しないとはどういうことか。返答に詰まると言うか、どう返答するべきか分からない。返す言葉が見つからない、という奴だった。

(……正直リアクションに困る話題ですわね。)

 基本的に恋愛方面に関しては常識的なラクス・クラインには理解出来ない話題だった。何せ二股である。普通は無い。在り得ない。
 カガリの方を見れば、沈黙するラクスを特にどう思うでもなく、愉しげにシン・アスカの乗るアカツキを見つめている。
 沈黙が辛い――多分自分だけが。
 とりあえず、口を開いてみた。

「……アスランもよく決心したと思いますわ。あの性格だから、一生どっちも選べないと思ってましたのに」
「なに、あれは選んだというよりも、無理やり選ばせたのさ。どっちもな。」
「……ああ。」

 余計にリアクションが取りづらかった。
 選ばせた――そう言えば、以前キラがアスランからの相談を受けていた時のことを思い出す。


「何そのハーレム!?何でキミはいつもそうやって美味しい目にあう訳!?裏切ったんだな!!ラクスの胸と同じように僕を裏切ったんだな!!」
「……いや、カガリが俺にハーレムじゃないから大丈夫だと言ってな。何かメイリンも頷いてて……流されてしまったんだ。」
「流された結果が、この婚姻届に書いてある備考:愛人有りってこと!?」
「……二股だからオッケーとか言われて」
「それ、アウトオオオオオオオオ!!!!」


 無論、その後に失礼極まりないことを言っていたキラを調教……もとい、折檻した訳だが、傍から聞いてる自分も思ったモノだ。

(どう考えてもアウトですよねえ、それ。)

 無論、自分ならそんなことは認められない。
 女であれば自分“だけ”を見て欲しいと思うのは当然のこと。
 故にキラ・ヤマトが自分以外を見るようなことがあれば、きっと自分は悲しくなるだろう――実際、悲しいのだから、本当だ。
 自分“だけ”ではなく、キラは今もどこにもいない誰かを見つめているのだから――それが悲しくて、悔しい。
 彼の心の中にある消せない影は今も消えずに彼の中に残っている。それでも、自分は彼から離れようとは思わない。

(惚れた弱み、なのでしょうかね、これも。)

 画面が切り替わって、あの巨人が映り込む。
 ストライクフリーダムとインフィニットジャスティスが今も戦い続けている。
 満身創痍ながらもオーブ軍の機体も戦っている
 ストライクフリーダムは僅かな手傷を負った程度、インフィニットジャスティスは肩の装甲を抉られてはいるものの、戦闘可能――状況は悪い。
 唇を噛んですぐにでもその場に駆けつけたい衝動を抑え込む――瞬間、天空から巨人を射抜く白い矢。
 画面が動いた。矢が放たれた方向が拡大される――小さな人影。人数は二人。さらに拡大される――見覚えのある人間がそこにいた。この数日間を共に過ごした二人の女性。
 それほど大きくない身長に反して強い意志を秘めた瞳。茶色い髪の毛。白いワイシャツとジーンズで身を包んだ女性――八神はやて。
 金色の髪と捻くれたような瞳。ラバースーツを胸の部分が突き出るように盛り上がる扇情的な姿――ドゥーエ。
 空に浮かび、先端が十字架状になっている杖を巨人に向けて/両の手を前に突き出すようにして、二人の女がそこにいた。

「……まさか、本当に……?」

 深夜の会話にてシンがキラに言い放った「魔法」という言葉。ラクスもそれを聞いていた――元より、何者かも分からない人間を無条件で住まわせるほど、ラクス・クラインは、“女帝”は甘くない。盗聴程度のことはしていたから、彼女も聞いてはいたが――まさか、という思いが先んじて、真実を確かめようなどとは思わなかった。
 本当に、“魔法”というモノが存在してるかなど、確認しようという方がおかしいのだから当然と言えば当然なのだが。

「あれが、魔導師、という奴か。」

 画面を食い入るように見つめるカガリ。
 自分も同じく画面に釘付けになる。
 子供たちのいる部屋から歓声が聞こえる。
 変化が起きた。恐らくCE史上初めての魔法という異常が表舞台に現れた瞬間だった。


「…やっぱり効いてへんなあ。」

 白い矢――氷結の息吹(アーテム・デス・エイテス)による砲撃を終えた八神はやてが呟いた。
 放った気化氷結魔法は4本。その全てが黒と青の巨人のバリアジャケットの前に掻き消されていった。
 本来なら着弾個所から熱を奪い凍結させるのだが、着弾する前に掻き消されてしまえば、意味は無い。仮に氷結出来たとしても、恐らくは意味は無いだろう。
 地層のように幾重にも積み重ねられた、モビルスーツ等の機械によって構成された装甲の中心まで氷結出来るとも思えない。
 故にその結果は予想通りと言ってもいい――だが、精度や制御はともかく威力だけなら誰よりも強いと思っていたが故にこの結果はそれなりに胸に来る光景ではあった。

「あれだけデカいんだから当然じゃない?それとも本当に魔法だけで何とかなるとでも思ってたのかしら?」

 からかうように笑うドゥーエ。次瞬、笑いは消えて、表情が引き締まる。

「……あいつの意識はこっちに向いたようね。」

 巨大なレジェンドの視線がこちらを見ている。視認しているのだろう――自らに刃向う者共を。
 改めて見れば、圧巻と言ってもいい大きさだった。
 ミッドチルダにいた時よりもはるかに大きい――小さな山程度の大きさはあるようにすら思う。
 そんな人型の兵器が街を蹂躙し、世界を燃やし尽くす。悪夢と言わざるを得ない光景だった。
 八神はやての方に視線を向ける。意味は無い。ただ、胸に生まれた不安のやり場がなかったからかもしれない。

「……さあ、行くで、ドゥーエ。」

 はやてを見れば、彼女の表情もまた硬い。けれど、それでも無理矢理彼女は笑っている。
 脅えて震えて倒れてしまいそうな自身を奮い立たせる為に、笑っている。
 釣られて、自分も顔に笑顔が舞い戻る。不敵な微笑み――怖い。巨大、というのはそれだけで人の脳髄に恐怖を刻みつけるモノだからだ。

 だから、笑う。笑うことで恐怖を弾き飛ばす。生身であんな化け物と戦うなんていう世迷言を肯定する。
 子供と、あの馬鹿な男を守る為に。
 身体が求めるあの男との逢瀬。
 そんなモノに縛りつけられる自分自身が疎ましい――けれど、これもまた自分。
 同時に子供たちを守りたいと願う鎖もまた自分自身。今は、その衝動に身を任せたい、そう思った。
 
 ――それが既に自分の中に芽生えた“本物”の思いだと信じて、彼女ははやてに返答する。

「……ええ、始めましょう、八神はやて。」

 ドゥーエの返答を聞いて、はやてが十字杖を握りしめる手に力を込める。
 あの馬鹿の顔を思い出す。脅えて、震えて、それでも戦おうとしたあの馬鹿を。

 守ると決めた――守り抜いて、そしてヒーローになって欲しいと思った。
 自分自身の勝手な夢。現実にいる筈の無い妄想の存在。それにあの男はなろうとして足掻いている。そんな姿が好ましく映っていた。
 今はそれに加えて一つだけ別の想いも混じり込んでいる。

(えらい、かっこよかったからな、あの馬鹿)

 あの劇的な変化――立ち上り出した瞬間を、自分は見た。そして、痺れた。全身に電撃が走る瞬間とはあれなのだろう。
 男が立ち上がろうとする瞬間とはあれほどに痺れるのだ。心を揺さぶるのだ。それこそ、これほどに熱い気持ちになるほどに。
 惚れそうや、ではなくて、既に惚れているのかもしれない。意地っ張りな自分はそんなことを絶対に認めないだろうけど。
 誰であっても良かったという想いは、すでに無い。今、あるのは、あの男をヒーローに“したい”という気持ち。
 だから、死なせたくない――脅えているままで死んでもらっては困るのだ。
 立ち上り出したというのなら、

(しっかり、立ち上がってもらわんとな。)

 見据えるは巨人――レジェンドというモビルスーツのなれの果て。
 十字杖を向けて、厳かに呟く。呟きは宣言。恐らく出来ることは、長距離から砲撃を放つことのみ。近づけば死ぬ。その事実は確定されていると言ってもいい。
 だから、撃ち続ける。撃って撃ち続ける。援護にもならないかもしれない。単なる牽制にしかならないかもしれない。だが、それで十分だ。
 自分はただ魔力の続く限り魔法を撃ち続けるだけなのだから。

「第2ラウンド――」

 呟きは合図。魔力を込める。術式を組み上げる。

「スタートや。」

 言葉と共に魔法を放つ。
 夢を求めた女と名前を忘れた女の戦いが、始まった。


「……ジリ貧か。」

 呟きながら操縦桿を倒し、フットペダルを踏み込んで、巨大なレジェンドに肉薄する。下手に離れれば命取りになる――安全なのは、装甲と装甲が触れ合うほどの超至近距離。
 ディスプレイを見ればキラのストライクフリーダムが幾度も幾度も砲撃を繰り返し、自分に向けられるレジェンドの攻撃を引きつけている。同時に、魔法――と言う力でこちらを援護する二人の女性も。
 インフィニットジャスティスの背部のバーニアを吹かし、触手(ケーブル)を掻い潜ってレジェンドの装甲を切り裂きながら移動/そのまま、背面に回り、一旦離脱――触手(ケーブル)が迫り来る。

「舐めるなっ!!」

 コンソールを操作し、背部のリフター――ファトゥム01との接続を解除/上空へと飛翔するファトゥム01と重力に従い落下するインフィニットジャスティス。
 触手(ケーブル)の動きに戸惑い――目標が突然、二つに分かれたことで停滞する/それも一瞬。
 触手がインフィニットジャスティス目掛けて追いすがる。
 コンソールを再度叩き、ファトゥム01に指示を伝達/上空へ飛び去ったソレが一直線に下降する――両翼の翼に赤刃が灯る。
 翼がこちらに迫り来る触手を背面から切り裂いていく――自機との接触まで数秒。
 瞬間、全身のスラスターを操作し、ファトゥム01の背部に設置されている取っ手を掴む――急加速。

「くっ…!!」

 全身に掛かる重力の負荷を無視し、そのまま移動――離脱。
 アスランの顔が歪む。画面を見れば当初は20にも届かんばかりだった友軍の数は既に10を切っている。

 ――状況ははっきり言って最悪だった。
 
 こちらの攻撃は殆ど効果が無い。どれほど装甲を切り裂こうとも巨人の歩を止めるどころか、緩めることすら出来ていない。
 対してこちらは一撃でもまともに受ければその時点で戦闘不能が確定する。
 再度迫る触手を右手に握ったビームサーベルで切り払いながら、距離を調整/至近距離から離れるのは危険と判断――現在の距離に確定し、維持しながら回避と斬撃を繰り返す。

(どうする。)

 自問する――援軍は来るだけ無駄だ。来た瞬間、先ほどの砲撃を行われて終わりだ。
 けれど、現状でこの巨人を倒すことは難しい――不可能と言っても良い。
 純粋に火力が足りない。
 あの巨人の周囲を覆うようにして目には見えない何か――恐らくバリアとでも言うべきものが張り巡らされている。
 近接戦闘や、死角からの攻撃に対しては発動しないと言う欠点はあるものの、ソレがある限り、ビームライフル等の攻撃はほぼ通用しないと言って良い――現状の戦力では死角を作り出し突く事もその防御を破るほどの攻撃を行うことも出来ない。
 最も大きな火力と言えばストライクフリーダムのドラグーンを交えた最大掃射。
 だが、重力下でそれを行うことはどんな機体であろうと不可能だ。そんな機能は元々存在していない。
 インフィニットジャスティスには元よりそういった火力は装備されていない。近距離戦に特化した機体で在る以上は当然だった。
 現状の延長としての結果は考えるまでもなく死。全滅以外に在り得ない――ならば、どうやってその結果を否定し、目的を達成するべきか。

 ――アスラン・ザラとは正義の士である。自身が設定した正義を貫くことを覚悟した時、如何なる問題、苦難があろうとも彼は必ずやり遂げる。成功させる。成就させる。

 アスラン・ザラは諦めない。諦めることを知らないのではなく、諦めることそれすらも“手段”として、目的を掴み取る。往生際の悪さは天下一と言っても良い。故に煙たがられる。嫌われる。

 手段を選ばないことで嫌われる。
 結果的に成功させることで煙たがられる。
 故に――そんなアスラン・ザラが“保険”を用意していない訳が無いのだ。
 最初からこんな状況を想定していた訳ではないが、アスラン・ザラの状況予測とは最悪の結果を常に想定することからスタートする。
 現在考えられ得る最悪の結果――それは、自身を含めた全機が全滅し、オーブが蹂躙され、カガリ・ユラ・アスハが死ぬこと。
 未だ、その状況には至っていない。故に状況は最悪でも、最悪の結果にはまだ至っていない。
 かけた保険が失敗したという通信は未だ入ってこない。ならば、恐らく保険は成功したということ――まだ間に合っていないと言うだけで。
 その保険が本当に役に立つかどうかなどは分からない。一年近いブランクを挟んだソレが来たところで、即座に落とされるだけかもしれない。

 だが、だがだ。

 自分の知っているソレは――そんな程度で諦めるような潔い人間ではなかったはずだ。
 
 ――視界の端に映るレーダーに新たな何かが見えた。こちらに向かって迫るく二つの光点。

 それを確認し、唇が嬉しげに歪む――瞬間、そこを突くように迫る触手。

「ちっ!」

 それを掻い潜り再度移動。瞬間、眼前にモビルスーツを握り潰せるほどに巨大な手が見えた。
 迫る手。それで叩かれただけでこの機体は終わる。自分は死ぬ。防御は間に合わない。攻撃も間に合わない。
 不意打ち気味に放たれたその一撃に反応することなど出来はしない。どれほど機体に備え付けられたセーフティシャッターが強固であろうと、あれだけの巨大な質量の一撃を受ければセーフティシャッター自体は壊れずとも、中にいる人間は衝撃で昏倒する。
 迫る拳。終わるという実感――だが、不思議と恐怖は無かった。走馬灯も走りはしない。死への恐怖を感じられないほどに戦闘に没頭していたから――違う。死への恐怖を感じる“必要”が無いからだ。
 迫る手を見て、フットペダルを反射的に踏み込み、機体を全速で後退させる。回避は間に合わない。
 だが怖くは無い――見えたからだ。分かったからだ。知ったからだ。
 “保険”が間に合ったことを――シン・アスカが来たことを。

「ようやく、来たか。」

 呟き/上空から降り注ぐ幾つもの緑の光条――続いて、朱い光条。眼前に迫り来る拳の表面で幾つもの爆発。装甲がバラバラと崩れ落ち、拳が動きを止めて後退する。
 上空を見る。ディスプレイに映るモビルスーツ――陽光を反射し、キラキラと輝く太陽の如きモビルスーツ。
 シン・アスカ/アカツキがビームライフルと両脇から伸びる巨大な砲身を構えて、そこにいた。

「遅いぞ、シン。」

 至極当然のようにして、アスラン・ザラが呟いた。


「はああああぁぁぁああっっ!!!」
 咆哮と共に舞い降りる金色の雷――金色のモビルスーツが陽光を反射しながら下方に向かって一切の減速無しで突撃し、振り被ったそのビームサーベルをレジェンドの左拳に向けて叩きつける。拳の中腹までをビームサーベルが切り裂いていく。中腹まで切り込んだ時点で光刃が動きを停止する。間髪入れずにビームサーベルを分割。一本を突き刺したまま、もう一本を左腰部にマウント/背部のバーニア及び全身のスラスターを調整し、上空に飛翔。
 右足を跳ね上げ/振り下ろし/ビームサーベルに向かって踵落とし――ビームサーベルが踏み抜かれ圧壊し、爆発。
 レジェンドが吼える。
 破壊されたことへの痛みか、それとも単なる反射的なモノか――思考を戦闘に引き戻し、即座にコンソールを叩き、背部のオオワシに設置された二挺の砲身――高エネルギービーム砲を操作/同時に右手に握り締めたビームライフルの照準を合わせる。
 狙いは今しがた破壊した左拳。ここで破壊し、追撃を断つ。

「食、」

 レティクルとは関係無しにただディスプレイの中心を撃ち抜く手動照準(マニュアルロック)。至近距離での射撃故に機械の補助は要らない。

「ら、」

 トリガーに指をかける――同時にフットペダルに足をかけて“引き戻す用意”。

「ええええええ!!!」

 咆哮。引き金を引く/フットペダルを引き戻す――同時操作連結動作確定。
 アカツキのスラスターが前方に向けて全力発射。
 脇から突き出る二門の砲身から朱い光条が大気を焼き焦がし左拳を貫く。
 砲撃の反動とスラスターが生み出す推力を利用し、発射と同時に後退――距離を開けて、爆発によって引き起こされる衝撃から身を逃す。左手に握るシールドを突き出し、飛礫(ヒレキ)への防御を準備。
 爆発。左手が弾け飛んで手首までが吹き飛んだ。シールドに激突する飛礫。

『ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!!!!!!』

 レジェンドの咆哮――巨人の左手が完膚なきまでに破壊され、踵を踏んで後退する。
 破壊された左手首から現れる数本の触手(ケーブル)――太さは全てモビルスーツの胴体ほど。

「――くっ。」

 呻きと共に背部のバーニアに火を点し、全速でその場を離脱し、距離を置く――アスランのように至近距離に身を置き攻撃を全て捌ききるような技量は今の自分には無い。だからこその突貫。だからこその一撃離脱。

 ――逃げろ。

 心中の呟きのまま、力任せにその場から離脱撤退し、距離を置く。
 冷や汗が零れ落ちる。全身の疲労が大きくなっていく。
 無茶な機動、力任せの操縦。全身にかかる負担は並では無い――以前ならばこんなことは無かった。少なくとも、これほどに疲れたような記憶は無い。

 荒れ狂う暴風――触手の蹂躙。
 シールドで弾き、ビームライフルで逸らし、後退後退後退離脱――上空から降り注ぐ光条の群れ。ストライクフリーダムの一斉掃射(フルバースト)が迫り来る触手を全て撃ち抜いた。直後、触手が上空のストライクフリーダムに向けて伸びていく/鷹のように飛び回り、それを回避するストライクフリーダム。

「…やっぱ、化け物だな、あの人。」

 上空を飛び回り俯瞰しながら、援護する。言葉で言い表せば簡単だが、それを行う技量は常識の埒外と言っても良い。
 高速で動く複数の標的を、高速で動き回りながら、撃ち抜く。
 恐らく全て手動照準(マニュアルロック)――人外の領域と言うのもあながち冗談では無いのかもしれない。

『シン、やっぱり来たんだな、お前は。ルナマリアも……ありがとう。』

 通信が入る――声の主はアスラン・ザラ。

「……ああ。あそこで待ってるなんて出来そうにありません、からね。」

 自然、声が低くなる――それは置いていかれたことへの悔しさか、それとも自分が来ると信じていたことへの照れなのか――恐らく両方だ。

『いいさ。来てくれれば、それで良い。腕の立つモビルスーツパイロットはどれだけいても足りないくらいなんだ。』

 言葉を切って、再度呟く。

『あの巨大なレジェンドを倒すにはな。』

 倒す――瞳に力が篭る。それでは駄目だ。そうじゃない。それではいけないのだ。

「アスラン、俺は――俺とルナはそんなことの為にここに来たんじゃない。」
『なに?』
「レイが、いるんだ。」
『……何だと?』

 ルナからの通信が入る。

『シン。』
「……分かってる。」

 その一言を聞いて唾を飲み込み、深呼吸――戦うためではなく、誰かを救う為に。友達を救う為に。

「あのレジェンドにはレイがいる。……倒すのは助けてからだ。俺たちは、戦友(トモダチ)助ける為にここに来たんだ。」

 黙り込んだまま、アスラン・ザラはこちらを見つめている。

「……言えた義理じゃないのは分かってる。アンタと俺の関係考えれば当然だと思う。都合のいいこと言ってるって思う。」

 言い訳でしか無い理由付け。言わなきゃいけないのはそんなことじゃない。そう分かっていても心が騒ぐ。言わなきゃいけないことを言わせない―――けれど、

「頼みが、ある。」

 言葉を紡ぐ。

「……力を、貸してくれ。俺とルナだけじゃ、どうしようも無い。」

 言葉に篭るのは悔しさ。自分達だけではどうしようも無いと言う事実を受け入れる辛さ。
 出来るなら、自分だけで助けたい、そう思う。それが本音だった。
 それでも――そんな本音を蹴っ飛ばして、助けたい誰かがいるのなら、

「――アンタとキラさん、皆の力がいるんだ。」

 悔しさなんて、全部投げ捨てる。
 守りたいプライドよりも、救いたい友達がいる。忘れることなんて出来ない。きっとずっとアスラン・ザラに対するわだかまりは消えはしない。けれど、今だけはそれをかなぐり捨てる。

「だから、頼む。アスラン、俺に力を――」

 ――そんな自分の言葉を遮って、アスラン・ザラが口を開いた。

『……方法は?』
「……え?」
『方法はあるのかと聞いているんだ。』
「信じて、くれるのか。」

 その言葉が、信じられなかった。彼の碧の瞳がまっすぐ自分を射抜く――輝きは先ほどよりも柔和で穏やか。口元には優しげな微笑み。
 瞳に、嘘は無い。本当に信じているようにしか見えない。

『お前が、その機体に乗っているということは……あいつが、お前を認めた、信じたということだ。それなら、俺も信じるさ。カガリが信じたお前を俺も信じる。』

 何でも無いことのように――まるで、当然のようにアスラン・ザラはそう言った。

(……そっか。)

 アスラン・ザラという人間がどんな人間だったかを思い出す。
 瞳を見開き、アスランに目を向ける。いけ好かない瞳――けれど、どこか憎めなかった“先輩”。
 お人好しで不器用で馬鹿。その癖、熱くなり易いから余計な気苦労を背負い込んで一人で空回りする。アスラン・ザラとはそんな人間だった。
 だから、馬鹿だからこんな風に簡単に信じ込む。人を疑うことを知らないのではなく、疑うことを抑え込んで信じようとする。

 ――それなら、俺も信じるさ。カガリが信じたお前を俺も信じる。
 
 馬鹿な返答。けれど、少しだけ、その返答が嬉しかった。
 顔を上げる。アスランと目が合った――碧の瞳が真剣な色合いを帯びていく。

「方法は――正直、あの分厚い装甲を引き剥がして、中から無理矢理、レジェンドを引っ張り出すくらいだと思い、ます。突撃は、俺が行きます。だから、アスランやキラさんや他の皆には俺の援護をして欲しいんです。」

 本気の顔――自分を撃墜した男の本気。
 本気の想いには本気で答える。そんなことでも考えているのかもしれない。そんな生真面目な男が今は頼もしい――面と向かってなんて絶対に言ってやらないけど。

「アスランは、そのままあいつの目を引きつけてください。さっきと同じように――出来ますか?」
『わかった。任せろ。』

 呟いて、飛び出すアスラン・ザラ。コンソールを叩いて、通信相手を変更。
 画面に現れるのはキラ・ヤマト――自分から色々なモノを奪った男。ラクス・クラインにも似た微笑みを浮かべている。
 自分とアスランのやり取りを見ていたのかもしれない――少し気恥ずかしい。
 それを振り切って、呟く。

「キラさんも、いいですか?」
『ん?ああ、さっきと同じようにってことかい?』
「はい。」

 自分の声に瞳を吊り上げて、この男らしからぬ獰猛な肉食獣の微笑みを浮かべる――背筋がゾクリとするような威圧。コズミックイラ最強のモビルスーツパイロットの本気の顔。

『愚問だね。あの程度で良いなら、どれだけでも踊ってあげるさ。』

 そうして、通信を切ろうとコンソールに手を掛けた瞬間、キラが呟いた。

『シン。』
「はい?」
『ラクスは、何て言っていた?』

 その呟きにラクス・クラインが伝えた言葉を思い出す。

「――幸運を。それがたっぷり必要だろうって言ってました。」
『ふふ、ラクスらしいね、それ。』

 獰猛な微笑みが一瞬消えて柔和な微笑みに変わる――幸せそうで、強そうな、“漢”の微笑み/獰猛な微笑みがそれに覆いかぶさっていく。
 通信が切れる。向こうで切ったのだろう。ストライクフリーダムがインフィニットジャスティスの突撃に合わせるようにして砲撃を初めていた。
 最後にコンソールを操作。通信相手は――ルナマリア・ホーク。
 昔の恋人で、戦友(トモダチ)で、大切な人。

「ルナは、俺の援護を頼む。俺が突撃するタイミングにあわせて……ルナ?」

 画面に映るルアマリアを見れば、くすくすと嬉しそうに笑っている。

「……何、笑ってるんだ?」
『ああ、ごめんごめん。ちょっと感動しちゃった。』
「感動?」

 意味が分からない。これまでのやり取りのどこにそんな要素があったというのだろう。
 怪訝な顔をする自分を見て、ルナマリアが呟いた。

『だって、あのシンとアスランが仲直りしてるのよ?感動するに決まってるじゃない。』
「…うるさい。」

 小さく、呟く――彼女はそんな自分を見て、微笑んで、眼差しを真剣なモノに変えて、口を開いた。

『照れない照れない。そんじゃやるわよ、シン……レイ、助けようね。』

 優しく呟く/通信が切れる――室内は沈黙に覆われる。
 懐のデスティニーを見れば、今も変わらず沈黙を保ったまま。

「……まあ、いいか。」

 そう言って操縦桿を握る手に力を篭める――瞬間、声が聞こえた。これまでの通信機越しの声ではなく、心に直接響くような声――念話の響き。

【…シン、聞こえるか?】

 声の主は八神はやて――画面の上部に写る二人の人影の内の一人。

「聞こえますよ、八神さん。」
【結局、来たんやな。】
「あそこで待ってるって思ってましたか?」

 笑うような声――多分、自分が来たコトに呆れた返っていることだろう。
 結局、自分は今もまだ魔法を使えない。モビルスーツの技術だって昔には戻っていない。
 先ほどまでと何にも状況は変わっていない――なのに、自分はここに来た。
 死ぬかも知れない。何も出来ないかもしれない。そんな現実を全て、放り投げて此処に来た。呆れ返るのも当然だろう。
 再度念話が伝わる――予想とは違い、声は優しげな声。

【ううん、きっと来るって思ってた。キミは馬鹿やから……あそこで、待ってるなんて出来へんと思ってた。】
【……褒めてるの、それ?】

 別の声が混じり出す。
 どことなく、ルナマリアに似た口調――フェスラ・リコルディ=ドゥーエ。

【……半々かな?】
「ドゥーエも、いるのか。」
【何よ、いたら悪いの?】
「いや、ちょうど良い。二人にも頼みたいことがあったから。」
【頼み?】
「あの巨人の中で一番魔力の反応が大きい場所ってわかりませんか?」

 沈黙が一瞬――はやてが口を開いた。

【……パイロットの場所をまず割り出すつもりなんか。】
「はい。」
【割り出して、それでどうするつもりなんや。】

 受け答えは淡々と。
 別に何でも無いことのように呟く――そう、コレは別に特別なことをやりに行くわけじゃない。

「とりあえず、こじ開けて、呼びかけます。」
【簡単そうに言うてるけど……それで上手くいくんか?】

 怪訝そうなはやての声。その声の調子に苦笑しつつ、返答する。

「わかりません。けど、それが一番良い方法なんです。」
【……理由は?】
「あいつが、俺の友達だからです――だから、俺が呼びかければきっとあいつは答えてくれる。」

 沈黙。押し黙り、言葉が帰って来ない――ちょっと不安になってくる。

「……いや、あの何でいきなり黙…」
【……あんた、思ってたよりもずっと馬鹿だったのね。】
【うん、私も今そう思った。】

 見も蓋も無い言葉。少し恥ずかしくなってくる。

「……あ、あのな!あんたら、人を何だと…」
『ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ガア゙ア゙ア゙ア゙クアア゙ア゙ア゙!!!!!!!』

 空気がビリビリと震動するほどの咆哮。
 レジェンドの背部のドラグーンが浮かび上がり、足を止めて周辺一帯のモビルスーツに向けて、攻撃を開始し出した。

「動き出した、か。」
【しかも、こっちを完全に敵として認識してるようやな。足止めてまで応戦しようとしてる、か。】

 操縦桿を握る手に力を篭め、出力レバーを押し倒し、最大出力に固定/同時にフットペダルを踏み込む
 背部のバーニアが点火。全身のスラスターに火が点る。

「――八神さん、場所分かったら教えてください。」
【いくんか?】
「はい。」
【そか。そんなら分かったら念話送る――援護は、任せとくんや。】

 呟いて、アカツキの前方を塞ぐようにして展開される透明な巨大な壁――装甲手盾(パンツッァーシルト)。
 八神はやての魔法。

「八神さん、これって」
【……ちょっとは、キミの突撃の足しになるやろ?】

 苦しげな声。恐らく展開するだけで、相当量の魔力を消費しているのだろう。サイズはアカツキの上半身と同じほどの大きさ。それほどの魔力障壁を展開すると言うのなら必要な魔力量は砲撃魔法の数倍以上――八神はやての魔力量だからこそ成せる障壁だった。

「駄目だ、八神さん、それじゃ…」
【行きなさい、シン・アスカ。】

 自分の声を遮る声――ドゥーエ。

「ドゥーエ?お前なんでそんな」
【……皆、キミを待ってるんや。】

 苦しげに呻くように呟くはやて。その横でドゥーエが右手に魔力を集中――巨大な魔力砲が形成される。
 ガラス状の砲身/エリオ・モンディアルが展開したものに酷似している――恐らく同一系統の術式の模倣。

【…八神はやては私が責任持って守ってあげる。だから、アンタはさっさと行ってきなさい。】

 呟いて、放つ。放たれる魔力光は赤色。自身の魔法とは違う、恐らくは自分が出会ったことの無いナンバーズの能力の模倣なのだろう。
 放たれた魔力砲がインフィニットジャスティスに迫っていた触手を断ち切っていく。
 そのまま連射――幾つもの光条がドゥーエの掌から伸びては触手を断ち切る。続いてはやての手を引っ張って移動し、放つ。繰り返される挙動。
 援護と守護。そのどちらをも両立させるように近づきすぎず、離れすぎず。
 それに気づいたのか、ストライクフリーダムがドゥーエの砲撃の出どころを“隠す”ように移動しながら砲撃を繰り返していく。

【……シン、機動六課部隊長として、“命令”するで。】

 杖をアカツキに向け、はやてが、自分を睨み付けた――画面越しでも、分かるほどに瞳孔の開いた瞳で。

【さっさと行って、助けてこい。そんで皆で帰るで、ミッドチルダに――私らはまだあっちでやること残ってるんや。】

 その眼を受けて――シン・アスカがアカツキを動かした。

「……行きます。」

 障壁は消えない。ディスプレイに映る八神はやての顔は苦しげに歪んだまま。
 跳躍――飛翔/突撃。

「……ルナ、頼んだ。」
『了解。』

 返答には答えず、加速。心を細くする。戦時中に自分を救い、ミッドチルダにて自分を覆った全能感のような出鱈目な力ではない、ただ集中するだけ。
 景色が流れていく。集中した意識が加速する光景に目を適応させていく。

 ――思えば、こんな気持ちでモビルスーツに乗ったのはいつ以来だろう。

 迫る触手。その数、十数本。後方からの砲撃がその内の幾つかを断ち切り、撃ち抜く。
 ルナマリア・ホークの乗るムラサメのビームライフルとドゥーエの砲撃魔法による援護。間断無く続く砲撃が触手を減らしていく。触手と触手の間に隙間ができた――モビルスーツではそこに滑り込むような真似は出来ない。だから、こじ開ける。
 コンソールを叩き、オオワシに設置された砲身を操作し、操縦桿のトリガーに指を掛ける。続いて、足元のフットペダルを全て押し込み、急加速。
 背部のバーニア及び全身のスラスターは全速全開。スロットルは緩めない。緩めるとすれば、それはレイの元に届いた時のみ。
 引き金を引く。黄金の砲身が朱い光条を吐きだした。その反動をバーニアの推力で押し留め、加速。

 ――ステラが死んでアスランが裏切ってから、ずっと暗い気持ちで操縦桿を握りしめていた気がする。ずっと一人で戦っていた気がする。一人で皆を守るって嘯いて。

 朱い光条が僅かに開いた触手の隙間に着弾/爆発。穴が開いた。
 更に加速。亜音速に到達。瞬き一つの瞬間で触手が眼前に迫りくる。
 触手が数本、前方で何かにぶつかり動きを止める――八神はやての魔力障壁。
 障壁にヒビが入り消滅/左腰部のビームサーベルを引き抜き、触手を斬り裂く。
 砲撃と障壁によって数を減らした触手――それでも片手一本のビームサーベルで捌けるようなモノではない。
 左手のシールドで迫る触手を受け流し、右手のサーベルで迫る触手を振り払い、両手を抜けて迫る触手を、前進することで、掻い潜る。
 一瞬足りとも減速しない。あるのは加速のみ。敵が来ようとぶつかろうと関係ない。
 進むは前方一直線。
 迫る触手。回避不可能のタイミング/上空からそれらを撃ち落とす色取り取りの光条。ストライクフリーダムの一斉掃射。
 続けて、レジェンドの脚元で小爆発。レジェンドの巨体が揺れた。
 インフィニットジャスティスが全身のビーム刃と両手のビームサーベル、ファトゥム01のビームブレイド、全てを用いて、レジェンドの左膝頭を“抉り”取っていた。
 レジェンドの態勢が崩れ、抉り取られた膝頭から内部を埋めていた触手が溢れ出て、インフィニットジャスティスへと向かっていく。
 後退しながら、触手を自身の方向へと引きつけるインフィニットジャスティス=アスラン・ザラ。
 空白が生まれる。アスランが引きつけ、キラがそれを撃ち抜き、前方の触手をルナとドゥーエが薙ぎ払い、それでも迫る触手をはやてが防ぎ、最後に自分が残りの触手を受けて捌いて、大気を引き裂き突撃する。

 ――今は自分以外の誰かがいる。そんな馬鹿げた喜びを胸に僅かな微笑みと共に突っ走る。心は熱く燃えて焔となって、それとは逆に脳髄は冷えて視界を広げていく。多分、それは錯覚に過ぎないんだろうけど。

 レジェンドが近づく。

【シン、魔力反応が一番強いのは胸の中や……多分、あの中に、ミッドで戦ったあの巨人がいる。】

 苦しそうに、そう伝えるはやて――障壁は何度となく割られ、その度に再度展開されている。恐らく無ければ当の昔に死んでいる。

 ――やるべきことは単純だ。単純で誰でもやってる一つのこと。
 
 答えを返す暇は無い。速度を緩めることなく最高速度(フルスロットル)で維持。
 空戦用フライトユニット“オオワシ”の4基のジェットエンジンとロケットブースターが唸りを上げて火を吹いた。
 コンソールを叩き、レジェンドの胸の部分を拡大。
 目標を設定――止まるな、行け。

「レイ」

 接近。近接領域。迫る触手。その数13。目を見開く/確認。突撃する隙間は無い。既にレジェンドとは接近し過ぎて仮に隙間があったとしても、意味は無い。レジェンドに激突して終わるだけだ。
 重心を後方に移動。オオワシに設置された黄金の砲身を触手に向ける。同時にビームライフルを構えて一斉掃射(フルバースト)の構え――放つ/同時に爪先を触手の群れに向けるように回転し背部のオオワシとの接続を解除。
 操作分割/コンソールを叩き“予め組み上げていた”自動操縦プログラムをオオワシに転送――操縦桿を動かし、フットペダルを踏み込んでそのまま飛び蹴りのような格好で、触手からみたこちらの面積を限界まで狭め、オオワシによって得た速度を殺すことなくそのまま突貫――スラスターを全開。

「待ってろよ。」

 一斉掃射によって開いた穴に向けて爪先を先頭にアカツキが滑りこむ。ディスプレイを埋める触手の群れ――機体表面を駆け抜けていく。コックピットに震動轟音揺れる揺れる揺れるアカツキの左腰部にマウントしたビームサーベルを引き抜く/光刃形成――触手の群れを突き抜ける。
 レジェンドの頭部――巨大な威容。モビルスーツサイズの頭部がこちらを見た。その威容に怯むことなく、触手を足場に跳躍。ビームサーベルを振り被って、突撃。

「今、助ける。」

 更に触手が迫る。数は既に数えるのも馬鹿らしい――上空及び後方、そして下方から、放たれた幾筋もの光条がそれらを焼き払う。キラ、ドゥーエ、ルナマリア、アスランの攻撃。
 そして、

【援護は―――】

 知らず念話を繋いでいたのか、はやての声――むしろ叫びが聞こえた。

【任せとけっていったやろうがあっ!!】

 障壁展開。その数3枚。重ね合わせるのではなく僅かにずらして、アカツキへと至る触手の数を少しでも減らすように――瞬く間に砕けていく障壁。八神はやての眼が見開いた。

【行けええええええ!!!】

 絶叫――今や咆哮。迸る魔力が障壁を更に展開/粉砕/展開/粉砕/展開/粉砕/飽きることなく何度も何度も何度も繰り返し続ける。
 間隙が生まれた――現れる一本の道筋。迷うことなく、そこに機体を突っ込ませる。
 跳躍の勢いそのままに、ビームサーベルをレジェンドの装甲に向かって真っ直ぐに突き立て、アカツキの全推力、全体重をかけて押し込む。光刃が刃の中腹まで突き刺さる。
 右腰部にマウントしたビームライフルを右手で握り締め、ビームサーベルに向ける。

「ぶっ壊れろおおおおお!!!!!」

 放つ放つ放つ突き刺さったビームサーベルを中心に爆発。抉り取られるようにして装甲が弾け飛んだ――抉り取られたその奥に、

「レイ……!!!」

 触手(ケーブル)に雁字搦めにされるようにしてレジェンドが――レイ・ザ・バレルが磔にされるようにして、そこにいた。

「待ってろよ!!」

 叫びとともにアカツキを動かし、そちらに移動――接触。コックピットにアカツキの手が触れる。触手(ケーブル)による再生は始まらない。レジェンドを一斉に攻撃し続けるモビルスーツと魔法の砲撃。触手を全てそちらに向けることで一時的にとは言え、再生が遅れているのかもしれない/もしかしたらレイが留めてくれているのかもしれない――都合の良い幻想。
 操縦桿を動かして、アカツキの手でレジェンドのコックピットハッチを剥ぎ取り、そのまま掴んで固定し強制解放――拘束服を着せられ、全身にチューブを繋がれたレイ・ザ・バレルがそこにいた。ミッドチルダの時と同じく。
 瞬間、コックピットハッチを開けて叫んでいた。

「レイイイイイイイイイイ!!!!!!」

 呼びかける――聞こえていないのか、反応が無い。無論、そんなのは予想済みだ。一度や二度呼びかけた程度で応えてくれるなどと思ってはいない。

「助けに来たんだ!!起きろよ、レイ!!レイィィィィィッッ!!!」

 沈黙。返答は無い。届かない――言葉は届かない。それでもその音に反応したのか、拘束服で囚われた、レイの顔が自分を見た。
 流れるようだった金髪はボサボサで伸び放題。所々髪の毛は抜け落ちて、肩や顔を金褐色
の髪が隠す。頬はこけて、眼窩は窪み、虚ろな蒼い目はどこにも焦点を結ばない。
 目と目があっていながら、レイ・ザ・バレルは自分を見ていない。
 レイが、口を開いた。

『……ギル゙ば、お゙れ゙が゙、まも゙、る゙…おれ゙が、お゙れがあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ!!!!』

 叫びと同時に暴れる巨大レジェンド。背部のドラグーンが浮かび上がり全方位、当たり構わず砲撃を開始する。

『どごだギラ゙ヤ゙マ゙ド……ぎら゙や゙゙ま゙どお゙お゙お゙お゙!!!』

 声帯の潰れたしゃがれた声が生み出す言葉――ギルを守る、キラ・ヤマト。
 そして、先ほど聞こえた言葉――シン、ルナ、ギル。
 ギルとはギルバート・デュランダルのことで間違いない。
 だが、彼はもういない。死んだ――レイが、殺したのだ。
 だから、もしレイが“生きていた”のだとしたら、それを知らないはずが無い。
 
 脳裏に疼くものがあった。
 推論に推論を重ね合わせた単なる当てずっぽう。直感と言ってもいい――けれど、何故か合っているという確信があった。
 多分、レイ・ザ・バレルは今も――

「……レイ、お前、まだ、あの日のままなのかよ……!?」

 メサイアが落ちた日のまま、ここにいる。
 彼の心は今もあの日ギルバート・デュランダルを守る為に、自分に未来を託してくれたあの日のままに、あの戦場で戦っている。彼の戦争は、まだ、終わっていない。

『お゙お゙お゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ!!!!』

 咆哮――それは怨嗟ではなく誰かを守ろうとする咆哮。
 咆哮と共に世界が焼かれていく。燃え上がる街。燃え上がる家。その中心で、今も終わらない――既に終わった戦争に従事する戦友(トモダチ)。

「くそっ、レイ!!起きろ、起きろよ!!レイ!!もう、戦争は終わったんだ!!もう戦う必要なんてないんだよ!!」
『あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ!!!!』
「レイっ!!聞こえてないのかよ、レイ!!レェェェェェェェイッッッ!!!」

 届かない。声は届かない。募る無力感と焦燥。今も自分への援護は終わらない。上空からのストライクフリーダムの砲撃は間断無く続き、ドゥーエとルナマリアの砲撃による援護も終わらない。疲れ切ったのか、八神はやての障壁は今は無い――ドゥーエの肩を借りて、荒く息をついている。アスランはアスランで今も近接戦闘を繰り返している。
 時間は無い。この均衡は長く続かない――いつ均衡が崩れてもおかしくはないのだ。
 奥歯を噛み締め、拳を握り締めて、レイに向けて、もう一度声を上げた。

「レイ!!もうやめろ!!戦争は終わったんだ、終わったんだ!!」

 暴れ狂う巨人――声は届かない。
 拳を握り締める――自分は一体、何をしていたのだろう、と。

 考えても意味の無いことなのは分かっている。
 自分は戦争の後に考えることを止めて戦い続けた。何かを選べば失う。それなら初めから何も選ばなければいいと。
 何もかもがどうでも良かったから――だから、何も考えなかった。
 ミッドチルダでもそれは変わらない。いつだって、自分は何も選ばずにただ楽な方へ、楽な方へと流されてきた。

 ――レイが、こんな風に苦しんでいたことなど一つも知らないで。

 気付くはずもない事柄――だけど、それでも胸に湧き上がるのは後悔ばかり。
 何もかもが今更だ。今更後悔しても意味は無い――胸の言葉に憤怒が湧き上がる。

「……何が、今更だ。」

 呟いて、胸の囁きを罵倒する。

「今更だからって諦めていいのかよ…そんな訳、ないだろ、無いに決まってる…!!」

 コックピットの右下のアカツキの起動キーを引き抜く。アカツキの瞳から光が消え、コックピット内部の計器類の光も全て消える――停止。
 コックピットハッチに足をかける。距離はおよそ4m。助走する余裕は無い。飛び移るには厳しい――考えるまでもなく死ぬ。

「それが、どうした。」

 届かないなら――“届かせればいい”。短剣を鞘から引き抜き、握り締める。
 びゅう、と風が吹き、身体が揺れる。高度は凡そ100m。滑り落ちれば死あるのみ。

 ――憤怒が湧き立つ。恐怖する自分。過去の自分。いじけていた自分。全ての自分への憤怒が煮え滾る。

「……聞こえないっていうなら、聞こえるまで怒鳴ってやるよ。」

 呟いて、僅かに後退――助走の為の距離を取る。

「うおおおおおおお!!!!!」

 全力で足を踏み出す。逡巡は無い。憤怒が全てを掻き消していく。
 一歩、二歩、三歩――足を、踏み出した。

「だああああああああ!!!!」

 全力で跳躍――この足が、この身体が届くかどうかなど考えてはいない。殆ど衝動に近い。
 迫る機体/届かない。
 右手で逆手に握り締めた短剣を振り被る――突き出す/弾かれる。身体が装甲に接触。転がる。無理矢理立ち上がろうとして、滑って転ぶ。落下。諦めない/もう一度振り被る。

「だ、か、ら…」

 渾身の力を篭めて、突き立てた。

「何なんだぁっ!!」

 突き刺さる。身体の勢いは止まらず、短剣が装甲から引き抜かれる――全力で押し込み落下を否定。速度が緩まっていく。短剣は折れない――思っていたよりも丈夫な材質なのかもしれない。

「はぁ、はぁ、はぁ……!!!」

 右腕が千切れそうなほどに痛い。身体は転げ落ちた衝撃で全身が痛い。
 左手を動かす――僅かに尖った部分に指をかける。

「……けるな。」

 ここにはいない誰かを守る為に。もうどこにもいない誰かを守る為に。

 ――もう、戦争は終わったことにすら気付かずに、彼は今も戦い続けているのだ。

 左手の中指と人差し指に力をかけて、自分の身体を引っ張り上げる。左足の爪先を見えた隙間に無理矢理突っ込んで態勢を保持し、右手の短剣を引き抜き――突き刺す。

「ふざけるな…!!」

 呟きながら左手の指を装甲の隙間に入り込ませ、力の限り掴む。足をかける場所は見当たらない。気にせず、短剣を引き抜く。全身全霊の力を左手に篭めて、態勢を保持/僅かに身体が落ちそうになる。その前に短剣を突き刺す。

「起きろよ、レイ。」

 呟きながら再度繰り返す。何度も繰り返す。強風が吹けばそれだけで落ちていくと言う確信があった。落ちれば死ぬと言う恐怖も際限無く湧いてくる。
 呟き/咆哮が、それらを全て掻き消していく。

「起きろよ、レイ!!」

 届かないのなら、届くまで繰り返す。何度も何度も、繰り返し続ける。
 声を張り上げて、両手両足、全身を使いきって昇りながら、何度も何度も叫び続ける。
 触手は動かない。少なくとも自分には、襲って来ない――レイが抑えてくれているのかもしれない。根拠は無い。確信も無い。そう信じたいだけの妄想――その妄想が真実なのだと全てを賭けて、昇る。登る。上る。
 レジェンドのコックピットが近づく。再生はしていない。蠢き始める触手――1本、また1本と緩慢な動作で触手がこちらを落とそうとして額を、頬を、肩にぶつかっていく。
 こちらは登るだけで精一杯でそれを防ぐことも避けることも何も出来ない。

 ――だから、凌ぐ。堪える。耐える。諦めるな。
 
 左手が装甲の隙間から外れ、額を掠めて血が流れ――それでも、決して右手を短剣から離さない。絶対に、命の限りで握りこむ。

「起きろ、よ、レイ。」

 荒い息。左目の中に額から流れる血が流れ込んで開けていられず閉じる。狂う遠近感。傷だらけの左手を伸ばす――視界と現実に齟齬が生まれ、装甲の隙間に手が入らない。何度かの失敗の後、ようやく指がかかり、態勢を保持。触手による蹂躙は終わらない。それを気にせず、登る――登り切った。
 コックピットハッチに手を掛けて、その中に身体を滑りこませる。
 全身から熱い汗が流れていく。
 ハッチに身を投げ出して寝そべったまま動けない。疲労と痛み。口から流れる涎と血。左手で額の血を拭う。
 左目を開く。遠近感が徐々に舞い戻る――膝を立てて、立ち上がる。

「レイ、戦争は終わったんだ……俺たちの戦争は終わったんだ。だから、もう戦う必要なんて無いんだ。」

 左足首が痛い。触手に寄るものか、それとも装甲に飛びついた時に打ちつけたのか、ずきずきと疼くように痛い。だから、引きずるようにして、歩いて、近づく。
 短剣を構える。振るう――レイ・ザ・バレルを拘束する触手を断ち切っていく。
 彼の肩に手を掛ける。
 涎塗れで、今がどこでいつ何をしているのかすら判別出来ていない――なのに、それでも彼はあの日のままに戦っていた。
 大切な人を――大切な人“達”を守る為に。

「もう、いいんだ。……もう、いいんだ。」

 レイの身体をそこから引っ張り出す。パキパキと砕けて行く四肢。それを見て、毀れそうになる涙を堪えて、肩を貸してその場から歩き出す。
 瞬間――全周囲に得体の知れない気配を感じる。

「っ――!?」

 コックピットが“蠢き出す”。波打つようにして、揺らめき、そして、触手(ケーブル)が、這い出てくる。
 咄嗟にレイの身体を自分の背中に隠すように前に躍り出る――瞬間、身体が逆に引っ張られた。

 レイ・ザ・バレルに。

「…じゃ、あ…な、シ、ン。」

 反射的にそちらを振り向く。砕け散った足首で無理矢理に立っているレイ・ザ・バレルが、左手で自分を力強く引っ張り、コックピットの外側に向けて放り投げた。

「せ、わが、やけ、る、な、お、まえは。」

 触手から、自分を逃す為に――触手に飲み込まれ、レイが砕けて行く。

「レ、イ。」

 笑って、彼は、砕けて行く。もう、何も見えてはいないのか、視線は明後日の方向を向いていて意識なんて無かったはずなのに、それでも自分を助けて――

「レ、イ……!!」

 顔が割れて、指が割れて、胸が割れて、紅い結晶となって砕け散って――粉々に、消えて行く。

「レェェェェェェイ!!!!」

 粉々になった“紅い”結晶が、外に放り投げられた自分と共にコックピットから外界に向けて流れて行く――“朱い”結晶が、自分の指に触れた。意識が、脳の奥に向かって収束する。視界が自分の中に押し込まれて行く。世界(チャンネル)が切り替わる。


 白い世界。
 無音の静寂だけがそこにある。
「結局、お前は変わらなかったな。いつまでも、俺達に囚われ続けて……今もそれは変わらない。」
 声が聞こえた――守りたかった誰かの声が。
 レイ・ザ・バレル。そして、その後ろにいる霞んで見えないほどに薄くなったマユ・アスカとステラ・ルーシェ。
 笑顔があった。笑っていた。もう、死んでしまって笑うことすら出来なくなったのに、彼らは皆笑っていた。

「お前は、馬鹿な男だ。馬鹿でウシロムキでいつまでも、前を向けない馬鹿な男だ。」

 レイ・ザ・バレルが、微笑む。口を開き、言葉をかける。
 多分、これが最後になるから、大切に――大切に話しかける。

「俺は、ずっとお前らに見守られてた、の、か。」
「……ああ。後ろの二人は半ばお前とひとつになっているがな。」
「……レイも、そうなるのか?」
「俺達は皆、お前を守る為にここにいる。それは俺も例外じゃない。こんな風に話せるのはもうこれで最後だろう……外に出れば、俺やこの二人は混ざり合って、お前の、デバイスの中で生きていく――俺達は、“デスティニー”になる。」

 かける言葉が見つからない。聞きたいこと、話したいことは、それこそ山のようにあるはずなのに、何を話していいのか分からない。
 レイが呟く。

「……俺はずっとお前と一緒にいた。お前と一緒に全てを見てきた。あのレジェンドには俺の身体だけがあったんだ。だから、こびり付いた最後の想いのままに戦っていただけだ。だから、気にするな。俺は気にしない。だから、シン――」

 レイの手が自分の頭に伸びる。自分よりも背が小さいのに、髪の毛をくしゃくしゃにするようにして頭を撫でながら、呟く。

「泣くな。」

 涙が毀れる――単なる感情の発露。顔が歪む。止まらない。涙が止まらない。喘ぐように呻くように涙が毀れる。涎が毀れる。鼻水が毀れる。
「お前は、俺を楽にしてくれたんだ。ずっと、何も分からなかった俺を、最後に人間にしてくれたんだ――だから、泣くな。お前は、俺を助けてくれたんだ。笑って誇っていいんだ。」

 頭を撫でられる度に涙が毀れる。自分でも情けないと思うほどに涙を止められなかった。

「シン。」

 真剣な声音。本気の目。涙を流しながら、そちらを向いた。

「お前はヒーローになるんだろう?」

 その言葉で――ある言葉を思い出す。

 ――ヒーローごっこじゃない。ヒーローになってみせろ、シン・アスカ。

 涙が、止まる――止まる訳も無いけれど、無理矢理に止めようとする。

「だったら、悲しい時に泣くな。泣くくらいなら笑ってくれ……お前にはその方が似合っている」

 ――沈黙。どれほどの長さだったのか。一分なのか、二分なのか――無限のようにも感じられ、瞬間のようにも感じられる沈黙。
 涙は止まった――溢れ出しそうな涙を堪える。レイに背を向けて、小さく、呟く。

「……行くよ、俺。」

 背中越しにレイが微笑んでいるような気がした。そして、もう消えてしまいそうな二人も。

「シン。」
「……なんだ?」

 思わず、振り返る。泣き顔だけは見せないように歯を食い縛って、涙を堪える。

「お前が惚れた二人は生きている。だから、絶対に諦めずに――」

 親指を立てて笑顔で。霞んでいくレイの姿。

「頑張れよ。」
「――ああ。」

 思わず涙ぐむ。けど泣かない。決別する。
 別れは笑顔で。泣き顔での別れはもう沢山だから。
 ――消えて行く。なんとか笑う。それでも笑いながら、この頬を毀れていく涙。

「仕方ないなあ、お兄ちゃんは。」

 苦笑するマユ。懐かしい笑顔。涙が止められない。

「シン……頑張って。」
 
 そう言って、笑うステラ。守れなかった日を思い出して――返された言葉で涙が止められない。
 
 二人が消えて、霞んで、粒子になって消えていく――混ざりこんで融けあって、自分の中に消えて行く。
 そうして、消えて、残されたのは自分だけ。
 寂しさと悲しさは涙となって流し尽くした。
 胸のにあるのは一つだけ。
 もらい受けた希望――“お前が惚れた二人は生きている。”
 ただ、それだけの希望。

「……生きてる、か。」
【……行くの?】

 声が聞こえた。何も無い虚空に目を向ける。

「……そっか、随分と待たせちゃったな。」

 見える幻影――それは子供の頃の“シン・アスカ”。
 少し前に見た、暗闇の中で泣いていたシン・アスカ。
 手を伸ばす――子供の頃の自分も手を伸ばす。
 繋がる手。暖かい、泣いていた頃の自分/置き去りにしてきた過去の象徴。

「俺は、ずっと……自分(オマエ)の涙を止めたかったんだな。」

 自分の涙を止める――それが出来ないから誰かの涙を止める。
 それが自分の願い。歪んで壊れて折れて捩れて、そしてようやく見つけた唯一の願い。
 あの日の自分を助けたかった。
 あの日の誰かを守りたかった。
 明日に向かって邁進するんじゃない。未来が大切だからと今を守る為に戦うんじゃない。
 ウシロムキでいい。何も切り捨てられずに背負い続けるそんな後ろ向きで構わない。

「お前はもう泣かなくていいんだ。これからは――ずっと一緒だ。」

 子供時代の自分/過去(オモイデ)の具現が笑い、そして消えて行く。
 さあ、行こう。
 右手に握り締める短剣――アカツキの起動キーを上空に放り投げる/懐から待機状態のデスティニーを取り出し掲げる。
 世界が――輝く/砕ける/混ざる/融け合う――そして、全てが一つになる。


 脳裏で何かが砕け散る。失われる瞳の焦点。
 舞い降りる全能感/舞い戻る焦点――朱い瞳は今再び、焦点を結ぶ。
 世界全てを俯瞰するような――自身を中心にした半径数十mの空間が自分と同化したような、天を掴むような感覚。
 落ちていく自分――落下の風圧でまともに息をすることも、目を開けていることですら、難しい/問題ない。
 粉々に砕け散った戦友(トモダチ)。そしてこの手には見た事も無い――けれど、何よりも手に馴染む“短剣”。
 刀身は朱。柄は黒色。形状はアカツキの起動キーとしてカガリ・ユラ・アスハに渡された短剣。色合いだけがまるで変わり、見た目の印象が別物のように変化している。
 そして刀身に刻まれた言葉もまた変化している―――“SAVE YOUR LOVERS(愛する者を守れ)”。
 薄ら寒くなるような気障な言葉。こんな言葉を考えた“モノ”の正気を疑いたくなるような―――だが、今だけはそれに同意する。
 実際、自分の心にある言葉もそんなモノに過ぎないのだから。

「ああ、分かってる。」

 笑いながら、短剣に向かって呟く―――まるで既知の友達と話すかのようにして。
 下を見る。地面に接触するまで残りもう5秒も無い。死が刻一刻と迫っている。
 上を見る。夥しい数の触手が迫ってくる。こちらも接触まで5秒も無い――触手の攻撃に寄って黄金の装甲に幾つも傷がついたアカツキが見えた。右腕が触手によって食い破られ、全身の装甲を走る何本もの裂傷。恐らくはまだ動くだろうが、最大の特徴であるヤタノカガミに関してはもはや使用出来ないだろう
 ヤタノカガミがあってこそのアカツキ。無ければ凡百――とまではいかないがオーブの象徴とまでは言われることは無い。即ち、その時点でアカツキは死んだも同然と言って良い。
 対抗するべき力――モビルスーツは無い。敵は巨人―――全長100mと言う途方も無い大きさのモビルスーツ。
 それを前にして、無防備極まりない自分が浮かべるのは、絶望の嘲笑ではなく不敵な微笑み。
 落ちれば死ぬ。戦えば死ぬ。そんな当然の確信―――本来感じるはずの死の恐怖。
 そんなものはどこにも無い。
 短剣を空に向けて突き出す。一瞬、シンの全身を朱い光が駆け抜ける―――流れ込む術式と情報。
 目を開く。澄み切った朱い瞳が、レジェンドを捉えた。

「―――始めるぞ、“デスティニー”。」
『ああ、行くぞ、シン。』

 レイのような口調に乗せられる声音は以前とは違う“女性のような”声。初めて聞いたはずなのに、まるでいつも聞いていたような不思議な声音―――マユのような、ステラのような。
 全身を覆う朱い炎――随分と久しぶりのように感じられる、エクストリームブラストの炎。心臓の鼓動が加速し、一秒という単位が分割され、意識が引き伸ばされて行く。
 同時に短剣が輝き、その姿を瞬く間に変えて行く。短剣の刀身に朱い幾何学模様の光が走る――分割されていく刀身。
 折り畳み梯子が展開されるようにして、刀身が伸びていく。刀身の峰に展開される砲身。
 柄と思しき場所には以前のような双剣は無い―――排気口(マフラー)のように伸びて行く筒のみがそこにある。
 柄の中心には、以前は右手首に装着していたリボルバーナックルの回転式弾層(シリンダー)が埋め込まれている。
 回転式弾層(シリンダー)が連続で3回転し、排出されるカートリッジ。3連続リロード。膨れ上がる“魔力”。

『光速移動術式展開。機能(システム)・光翼(ヴォワチュールリュミエール)顕現―――次元両断跳躍確定。』

 声と同時に展開される新たなパーツ―――シンの背部に現れ、浮かび上がるフラッシュエッジ。朱い光刃が翼のように伸びて行く。刃が向く方向は下方に向けて。
 続いて、朱い光がシンの右腕に伸びて、バリアジャケットを生成して行く。
 赤服のような意匠―――色合いは黒を基本に、朱いラインが裾を走り抜いて、朱と黒のコンラストを描いて行く。その朱の中心を通る金色のライン。シンの服装を塗り替えていく。
 変化は一息で終わる。

「―――俺が全部ぶった切る。その間に、お前はアカツキを遠隔で操縦…出来るか?」
『愚問だな、シン。出来ないとでも思ったか?』

 以心伝心。返答は一言。

「……いいや、思ってないさ。」

 唇が嬉しげに歪んだ。
 背部のフラッシュエッジ―――現在の名称は機能(システム)・光翼(ヴォワチュールリュミエール)。
“次元両断跳躍”を行う為の次元両断武装―――から噴き上がる朱い刃が間欠泉となって吹き上がる。

「行くぞ。」

 呟き。視線の先には巨大なレジェンドと戦うモビルスーツ―――そして、魔法を使う女達。
 均衡が崩れている。自分をレイの元に行かせる為だけに全身全霊を懸けてくれたのだから当然とも言える。

『巨大斬撃武装展開。』

 デスティニーの呟き。空間が揺らめき、そこにデスティニーを突き刺し“解錠”する。
 巨大斬撃武装(アロンダイト)との接続の開始――刀身の先端が巨大斬撃武装(アロンダイト)の柄頭に接触/接続―――引き抜く。
 翼から噴き上がる間欠泉の勢いがさらに強くなる。
 巨大斬撃武装(アロンダイト)を覆い尽くし、朱く染め上げていく。
 全身を覆う全能感は変わることなく―――手に入れた全能感が舞い戻る。
 視界が、“歪む”/機能(システム)・光翼(ヴォワチュールリュミエール)が回転し、空間を両断する―――即ち羽撃たき(ハバタキ)。
 朱い翼の羽撃たきが、次元を両断する。“果て”と“始まり”が一つになり―――世界が塗り替わる。


「……あの馬鹿。」

 落ちていくシン・アスカを見て、八神はやてが呟いた。

「……失敗したって訳?」

 触手に埋もれていくシン・アスカを見て、ドゥーエが呟いた。
 アカツキも同時に落ちていく。触手(ケーブル)が押し寄せ、アカツキの黄金の装甲に亀裂が入る。右腕が砕け散った。そして、自由落下―――重力に従って真っ逆さまに落ちていく。
 シン・アスカの姿は見えない。既に触手に埋もれてどこにもいない。

「くそった、れ……!?」

 毒づいたはやての全身から力が抜けていく。十字の意匠が施された杖――シュベルトクロイツが待機状態へと変化する。次いで、全身を覆っていた魔力が凄まじい勢いで消費されていく。

「魔力が……消え、てく?」

 咄嗟にドゥーエの身体にしがみつく。
 魔法が使えないほどに魔力が消耗していく――違う、魔力が自分が構築した術式以外のどこかに“流れ込んでいく”。ドゥーエが自分を抱き締めながら、移動――触手の群れを回避し、位置を変える。

「……何よ、魔法使えなくなったとか言うつもりじゃないでしょうね?」

 ドゥーエが心配そうに呟く。その問いに、返答を返そうとして―――気づく。この魔力がどこ流れ込んでいるのかを。

「……どんだけ待たせるつもりや」

 ばっと上空に目を向ける―――頬に微笑みが浮かび上がる。
 はやての視線に釣られてドゥーエもそちらを見上げる―――口元が緩み、軽く微笑んで彼女が呟いた。

「……確かに、待たせすぎよね」

 見えるモノはこれまで全く気付かなかった、見覚えのある朱い炎と巨大な剣が、上空からこちらに向かって来ている―――魔力はそこに流れ込んでいる。まるで、ヴォルケンリッターへの魔力供給を行うようにして――量は比較にならないほどに多いが。

『どっけええええええええええ!!!!』

 絶叫の如き咆哮。八神はやてとドゥーエを守るようにして、その眼前に一切の減速無く落下してきた朱い炎を纏った巨大な剣と、それを振るう一人の人間。
 自らの数十倍はあろうかという巨大な剣を顔を歪めながら振るって、触手を、足を、薙ぎ払う。
 朱い瞳の二股野郎――シン・アスカがそこにいた。


 ――状況は先ほどよりも明らかに悪くなっている。
 インフィニットジャスティスの全身のそこかしこから煙が上がり、装甲には幾つもの亀裂が入っている。ビームライフルは破壊され、左足に設置されたビームブレイド発生器も大破。元々の装備が多い為に、戦闘が出来ない、武器が無いというほどの最悪の状況ではないが――それでも満身創痍と言ってもいいような状況だった。
 中破したインフィニットジャスティス。それとは対照的に未だに無傷に近い、ストライクフリーダム。戦闘における役割を考えれば当然なのかもしれない。だが、その無傷はインフィニットジャスティスがいてこその無傷。最も危険な場所で敵の攻撃を引きつけているアスラン・ザラがいるからこそ、ストライクフリーダムは砲撃と回避に専念する余裕があった。均衡はすでに崩れ始めている――アスラン・ザラが撃墜された時、その時完全に均衡は崩れる。

 鋭い視線を戦場に向けながら、キラはそれを冷静に受け止める。
 ストライクフリーダムというモビルスーツは、あくまで戦場を“制圧”する為のモビルスーツである。速度を上げる為に装甲を排除した高速移動砲台であり、攻撃を受けることなく避けることで処理することを余儀なくされている以上、何かを守ると言うことに全くと言っていいほどに向いていないのだ。
 故にストライクフリーダムの行える守護とはあくまで制圧。敵が攻撃する前に攻めて落とす。機体の特性上、そうなるのは必然だった。
 だが、この巨人――レジェンドにはそれが通用しない。如何にストライクフリーダムの火力が優れていようと、それはあくまで通常のモビルスーツを相手にした想定での話。これほどのサイズのモビルスーツなどは想定外もいいところだった。

 そして、現在の場所は地球―――重力の枷がある場所だ。宇宙空間のように無重力であればドラグーンによる攻撃も行えるが、重力がある場所でそんなことは不可能である。またドラグーンを使用出来ない以上、ストライクフリーダムは機体の最高速度を発揮することも出来ない。ストライクフリーダムは、自身のバーニアの排出口に収納されているドラグーンによって最高速度を出せないと言う欠点を持っているが故に。
 元より、宇宙での運用を基本として製造された機体なのだから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないが―――思えば、馬鹿な機体だと思う。いつ如何なる時であろうともフルスペックを引き出せないモビルスーツというのは。

(……だけど、このままじゃいつか均衡は崩れる―――多分、それはもうすぐだ。)

 心中で呟きながら、状況を理解する。

 ―――ドラグーンを使用する方法は無いことも無い。

 “無重力に近い状態”でなければ使用出来ないと言うだけで、“無重力状態でなければならない”訳では無いからだ。
 故に方法はある。
 だが、それは両刃の剣―――使用回数は1回のみ。それ以降はドラグーンを使うことは出来ない。
 だからこそ、キラはソレを行うタイミングを探っていた。
 この巨大なレジェンドには厄介なことに再生能力がある。どれほど攻撃を繰り返しても、しばらくすれば装甲は触手(ケーブル)によって埋められ、新たな装甲として再生する。
 中途半端な攻撃はまるで意味が無いのだ。やるならば、再生する暇を与えない程の圧倒的な火力で一気に殲滅する以外に倒す術は無い。
 ―――だからこそ、彼はソレを行う瞬間を探っていた。殲滅のタイミングを。戦況が変化する一瞬を。
 だが、もはやそれは無いだろう。この巨大なレジェンドを操っている人間をシン・アスカは助けに行き、そして失敗した。落ちていくシン・アスカとアカツキの姿は既に確認している。無論、触手の群れに飲み込まれていくシン・アスカの姿も。

「……やっぱり、そんなコミックみたいに上手くは……」

 誰ともなしに呟いてる最中、通信が入る―――通信者の名前は“シン・アスカ”。

「……これは。」
『キラ、早くそこから離れろ!!』
「アスラン?」
『いいから、早く離れろ、キラ!!“巻き込まれるぞ”!!!』

 巻き込まれる―――瞬間、全身の神経が総毛立つ感触。
 咄嗟にフットペダルを戻し、背部のバーニアを最大稼働。スラスターを全力で噴射し、その場から後方へ向けて全力後退。
 見ればアスランも同じようにして、全速で後退している。

『どっけええええええええええ!!!!』

 咆哮と共に眼前を駆け抜ける物体―――朱い炎を纏ったモビルスーツサイズの大剣を“携えて”、レジェンドの足を、触手を断ち切っていく人間。
 剣が跳ね上がる。一陣の炎風となって、レジェンドの触手を断ち切り、さらには、

『だありゃああああああああああ!!!!!!』

 その右足を“断ち切った”。
 レジェンドが咆哮を上げて、後方に倒れていく。自身の自重を支えるには脚一本では弱すぎるのだろう―――尻餅をついて、既に瓦礫と化した高層ビルに倒れ込む。

『点火(イグニション)』

 機械を通して発せられたくぐもった聞いたことも無い女性の声の呟き。

『多頭焔犬(ケルベロス)――――』

 次いで、男の呟きと共にモビルスーツサイズの大剣から、人間サイズの大剣が引き抜かれる―――大剣の柄が瞬く間に変形して銃把へ、刀身からは男から見て左側に固定用
の取っ手が現れる――刀身は変形しない。先端に朱い炎が収束する。
 男の周囲に浮かんでいた二つの短剣――朱い炎の刃が噴き出している――が刀身の先端に近付き待機。刀身は大剣の先端と同じ方向へ。
 男が纏っていた炎が刀身へと流れ込む。短剣の柄へも同じく流れ込む。炎が男の身体から消えていく。一瞬の静寂――文字通り、嵐の前の静けさ。

『一斉掃射(フルファイア)―――――!!!!』

 叫びを引き金に大剣の刀身の先端から、二つの短剣の刀身から、朱い炎が発射/発射/発射/発射―――視認出来るだけで一瞬で6発。 残像を残して、放たれる何発――否、何百発という炎の魔弾。威力はモビルスーツには及ぶべくもない。故に数で誤魔化す。揉み消す。掻き消す。

『おおおおおおああああああああ!!!!』

 蹂躙し殲滅する掃射/目に映る全てを壊して抉って燃やして消し尽くせ―――!!!!
(ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ―――!!!!)

「……は、はは」

 知らず口元が歪む。笑いが抑えきれない。あまりにも荒唐無稽すぎて、目の前の光景が信じられない。

 ―――確かに聞いてはいた。魔法を使うと。闘っていたと。

 それを疑っていた訳ではない。だが―――聞いていただけではわからないことがある。この目で見なければ分からないこともある。
 大体、こんな光景を見せられたところで、現実に見ている人間以外の誰が信じるだろうか?

 ―――朱い炎を纏ったモビルスーツサイズの大剣を振るい、付近一帯の触手を断ち切り、終いにはその巨大な足を切り付け、身も蓋も遠慮も何も無い砲撃を繰り返して殲滅していくような“人間”がいるなど―――絶対に誰も信じない。

「……そういや、そうだね。君はあの時もそうやって、ボクの予想を超えたんだったね、シン・アスカ!!!」

 朱い瞳と黒い髪。クラインの猟犬。虐殺者とも呼ばれた男。
 再び、現れたモビルスーツサイズの大剣の上に立ち、レジェンドを睨みつけて、シン・アスカがそこにいた。


 巨大斬撃武装(アロンダイト)を大地に突き刺し、柄頭に立ちながら、レジェンドを見る。
 断ち切った左足から再現無しに溢れ出てくる触手(ケーブル)の群れ。糸蚯蚓(ミミズ)のように絡まりながら、断ち切られた左足と肉体を繋げて行く――同じく全身に穿たれた穴を塞いでいく。
 息を一つ吐き、瞳を閉じる。
 風が肌を撫でて飛んで行く――自分がどこまでも広がっていくような全能感。
 周囲に蠢く触手(ケーブル)の状況さえ手に取るように分かる。
 戦時中、そしてミッドチルダにおいて幾度も自分を救った感覚―――僅かな違いは、心に冷静さなど無いこと。
 この感覚が身を包む時、自身の心は常に冷静だった。冷静であることを強制されたかのように、どれほど憤怒に包まれていようと心のどこかで冷え切った自分を自覚していた。
 今はそれが無い。心にあるのはありのままの、泣いて笑って怒る、どこにでもいる普通の自分だけ。
 それが、何を意味するのかは分からないが、今の方がどこか自分らしいとは思う。
 冷静さは必要だろうが―――矯正された冷静さなど欲しくは無いから。

 巨大斬撃武装(アロンダイト)に突き刺したデスティニーを見る。柄の部分にはリボルバーナックルが埋め込まれ、溶け合っている。ギンガを思い出させるその武装―――二度と離さない、そう言いたげに。

 自身が纏う服を見る。朱いラインの入った黒いバリアジャケット。朱いラインの中心には金色のラインが走り抜ける。どこかフェイトを 連想させるその外套――ずっと一緒だ。そう言いたげに。

 刃金の刀身が輝き、黒いバリアジャケットが風にたなびいた。
 瞳を開けたまま、過去(オモイデ)を幻視する。

 あの“右手”を思い出す。妹は死んだ。
 あの“笑顔”を思い出す。妹を重ねた金髪の少女は死んだ。
 あの“言葉”を思い出す。未来を託してくれた戦友は死んだ。
 あの“唇の感触”を思い出す。自分を助けてくれた蒼い髪の少女は死んだ。
 あの“身体の軽さ”を思い出す。自分を慕ってくれた金髪の女性は死んだ。
 
 ――違う。二人は生きている。
 
 湧き上がる思い出が自分自身の想いを浮き彫りにしていく。
 全身に漲る力が、自分が何をしたかったのかを明確に、確定して行く。

(……二人は、生きている、か。)

 心中での静かな呟き。
 二人の幻影はもう見えない。当然だ。レイは言った――生きている、と。
 その言葉で思い出すことがあった。
 あの日、ギンガとフェイトの死体を見て、エリオと戦う直前のことだ。


『……兄さん、ここには誰も居ませんが。』
「……ああ、いないな。」

 “いません”と言う言葉に反応して顔をしかめる。デスティニーがそう言う理由は分かる。既に死んでいる人間は居ないのも同じ―――そういうことだろう。
 だが、それでもこれ以上彼女達を苦しめるのは嫌だった。それが単なる感傷に過ぎないと理解はしていても、尚―――それは度し難い。

「それでもだ。絶対にそこからは“奪うな”。」
『……了解しました。』


 答えはそこにあった。デスティニーが言った言葉―――“誰もいない”。
 それは文字通りの意味だったのだろう。
 つまり、あの死体は魔法、もしくはそれに類する何かによって作られた幻影だ。
 自分は、殺されたことでそんなことにも気づかなかった。
 無論、あそこにあったのが幻影だったからと言って無事だと安心することは出来ない。
 だが、確信があった。
 あの戦いは自分を壊す為のモノだと言った。自分を無限の欲望にする為の戦いなのだと。
 その為に、ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウンは殺された。
 
 ―――そう、思っていた。

 だが、真実は違う。
 如何なる理由があるのかは分からない。だが、あの時点で二人は死んでいなかった。
 わざわざ、幻影を用意してまで、敵は二人を“連れ去った”のだ。そこまでして、敵は二人を欲した。
 理由は分からない。だが、そう考えるとエリオの離反についても辻褄は合ってくる。
 エリオ・モンディアルがフェイト・T・ハラオウンを殺せるハズが無いのだ。慕っていた人間を簡単に殺せるほどエリオ・モンディアルの心は壊れてはいないのだから。
 彼は、自分からフェイトとギンガを引き離す為に、離反した――恐らくはエクストリームブラストで彼女達が殺されることを恐れて。
 彼は、裏切ってなどいない。彼は自身の正義の為に、最も殺される可能性の高かった二人を自分から引き離し、助けようとしていたのだ。
 自分にそれを言えば良かったのに――そんな思いも湧き上がる。だが、あの時の自分は手に入れた力に浮かれ切っていて、そんな言葉に耳を貸さないだろう、という確信がある。
 だからこそ、二人が生きていると言う確信があった。
 敵はそこまでして、二人を生かしておこうとした。殺した方がはるかに簡単だと言うのに。
 エリオは二人を助ける為に殺したように見せかけた。自らの肉体を改造してまで。
 その理由と、エリオが守る為に敵になったことへの理解が、生きていると言う確信へと繋がっていく。
 だから、

「こんなところで、グズグズしてる場合じゃない、か。」

 振り返る――瞳をはやてに向け、念話を繋げる。

「……八神さん、ギンガさんとフェイトさんは死んでない、生きてる。」

 恐怖に震えて、死に脅えていた弱々しげな雰囲気はそこにはない。

 そこにいるのは、一人の男だ。
 ただ、願いだけを求め続け、駆け抜けて。その果てに全てを失って―――

 ―――私、貴方が好きだから。
 ―――私、シンが好き。

 それでも願いを諦めなかった大馬鹿野郎の背中だ。

【生きて、る】
「あんたの言う通り、俺達はこんなところでグズグズしてる場合じゃない。待ってる人がいるんだ。会いたい人がいるんだ。俺達はさっさと帰らなきゃならないんだ……きっと、皆、俺達を待ってるはずだから。」
【……そやな。】

 少しだけ声に陰り。悲しげな響きがそこにあった。怪訝に思って、問い返そうとした時、

『シン、それが、魔法、なのか……?』

 呆然と呟く、アスランの声が“直接”、脳裏に響く。デスティニーによってインフィニットジャスティスとの間に通信が接続されている。
 返答には答えずに呟く。

「……アスラン、アスハが言ってましたよ、ヒーローごっこじゃない、ヒーローになってみせろって。」

 瞳孔が開き、唇が歪む。
 獰猛な肉食獣の頬笑みが口元に浮かんだ。

「ようやく思い出しましたよ、アスラン。俺は―――」

 昔を思い出す。なりたかったモノすら分からずに走り続けたあの頃を。

「―――俺は、英雄でもなけりゃ、正義の味方でもないってことを。」

 世を救う救世主足る英雄が救うのは世界のみ。
 信念を救う正義の味方が救えるのは正義のみ。
 自分はそのどちらでもない―――別に世界を救うことに興味は無い。自分自身の正義が正しいと言う自信なんてまるでない。

 自分は誰かの涙が止めたいだけ。願いがあるとすればそれが願いだ。
 誰かの涙を止めたかった。だから、守ろうとしたのだ。

 ―――力がいるのは守る為だ。
 だから、ずっと力を求めてきた。一度だって諦めずにずっとずっと。

 ―――ここまで来たのは守る為だ。
 だから、湧き目も振らずにここへ来た。守りたい誰かがそこにいて、何もせずに震えているなんて出来そうに無いから。

 ―――生きているのは守る為だ。
 だから、死ねない。守り抜けずに死ぬなどという無責任なことをするくらいならば、全身全霊をかけて生きて守り抜く。

 ―――向こうに戻るのは守る為だ。
 守る―――何を?

 笑顔を。微笑みを。希望を。
 二人の笑顔を守る。二人の涙を止める。
 涙を止めて、笑顔を取り戻す。

「ああ、そうだ。俺は俺だ……アスラン・ザラにも、キラ・ヤマトにもなれない。俺は俺だ。俺は、俺にしかなれないんだ。だから―――ようやく、わかったんですよ。俺が、何になりたいかを。」

 ―――我は、あらゆる笑顔を守る者。
 ―――我は、あらゆる涙を止める者。
 即ち、我は、

「……ヒーローごっこじゃない、俺は、ヒーローになりたいんだって。」
 ―――“全てを守る者(ヒーロー)”なり。

「ア゙ア゙ア゙ア゙ガガガギグガガガガア゙ア゙ア゙ア゙ア゙゙ア゙ア゙ア゙゙ア゙!!!!!!」

 叫び/意味の分からない言葉の羅列――もはや言葉ではなく、単なる音。
 震動する空気/鳴動する大地―――咆哮する巨人。触手が絡まり、足となって再生して行く。同時に表面に出ていた自身の核―――モビルスーツレジェンドもその身の内に隠して行く。
 巨大なドラグーンが浮遊し、辺り構わず砲撃を開始する。同時に触手がそれまでは行っていなかった侵食を始める―――瓦礫がレジェンドに飲み込まれて行く。
 巨大化するレジェンド―――更に大きく、全長130mと言う巨体が更に膨れ上がる。
 本来の制御核である、レイ・ザ・バレルを失って暴走している。侵食し、巨大化する体躯。だが、その巨大化はこれまでのような、ヒトガタを保つための巨大化ではなく、ただただ全てを喰らうだけの巨大化。
 巨大斬撃武装(アロンダイト)を“引き抜き”、構えた。
 異常な光景。荒唐無稽この上無い馬鹿げた姿。
 全長20mを超える巨大な大剣を構える、一人の人間。
 浮かび上がるは悪魔の微笑み。
 人間だから浮かべることの出来る、強欲の微笑み。

「告白されたんだ―――さっさと奪い返して、返事返さなきゃいけないんだよ。」

 口調が、変わる。それまでのような敬語ではなく―――シン・アスカ“らしい”口調へと。

「だから、俺はこんなところで、負けてられないんだよ。止まってる訳にはいかないんだよ!!!」

 短剣が両膝の隣に移動――朱い炎が巨大化する。両足から伸びる巨大化した炎は背部に伸びて、朱い翼を形成する。
 言葉の意味は酷く個人的なモノ―――好きな女が奪われた。だから、奪い返す。ただ、それだけのコト。
 人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ、と言う格言の如く。

「行くぞ――――レジェンドおおおおおおお!!!!!」

 叫びと共に一歩踏み出し、両足の光翼が羽撃たいた。
 両足の光翼―――光速移動術式“機能(システム)・光翼(ヴォワチュールリュミエール)”。
 次元両断跳躍の為だけに存在している武装である。
 その名の通りに、光速―――光速に近似しているというだけで光速ではない――で、移動するそれだけの魔法である。
 SEEDの発動によってもたらされる絶対的な空間認識能力―――つまり、彼我の距離感を視界によってのみ測る能力である―――によってA点とB点という座標を設定し確定し接続、次に通常空間を“両断し”、小規模次元世界への道を“切り開き”、その中に入り込んで、魔力噴射による加速を行うそれだけの魔法。
 本来ならそれだけの加速を行ったところで、重量、重力、空気抵抗等のありとあらゆる要素によって減速するはずが、小規模次元世界へと身を隠し、此方と彼方の中間に自らを置くことでその原因を除外し、亜光速で移動する術である。
 射程は使用者の視力に依存している為、限界はあるものの得られる速度は最速ではなく光速。
 限りなく跳躍――つまり瞬間移動に近い高速移動である。

 デスティニーに不足していたパーツ―――つまり、“レイ・ザ・バレル”そのもの。その不足が今、埋められることでデスティニーは完全となった。
 蒐集行使によって、シン・アスカの中に“いた”幾つかの魂魄―――マユ・アスカ、ステラ・ルーシェ、レイ・ザ・バレル。
 シン・アスカのSEEDが弾ける時、彼らは一人、また一人とデスティニーの中に入り込んでいった。
 SEEDによる影響――原理はわからないが、それを切っ掛けにしてデスティニーはその在り様を変えていった。
 一度目はギンガ・ナカジマとの模擬戦。その際にはマユ・アスカがデスティニーの中に溶け込んで、人格を得て、
 二度目はエリオ・モンディアルとの戦い。その際にステラ・ルーシェがデスティニーの中に解け込んで、朧気な人格がカタチを持って、
 三度目だけは例外で、魂魄の方からシンの中に融け込んでいった。

 レイ・ザ・バレルは肉体がレリックとなって砕け散り、その結果、魂魄が肉体と言う枷から外された。別たれていた魂魄が一つとなったことで、レイ・ザ・バレルは自らシン・アスカの中に融け込んだのだ。
 三つの魂魄が混ざりあうことで生まれた新たな管制人格によってデスティニーは本来の姿を取り戻す。ジュエルシードによって「主の願いを叶える」と言う歪んだ願望器になり果てたデスティニーは本来の用途―――つまりは、単騎による最強を具現するための武装へと。

 視界が、戻る。
 小規模次元世界からの脱出―――周辺の光景ががらりと変わる。瞬き一つの時間でレジェンドの懐に入り込む。
 大剣(アロンダイト)を握り締める。柄の引き金を引く。回転式弾層からカートリッジが排出され、続けてもう一度――連続リロードによる魔力増幅。巨大斬撃武装(アロンダイト)を覆う朱い炎の勢いが更に強く大きくなっていく。
 
 “糸”は既に伸びている。
 瓦礫となり果てた“オーブ”が、魔力となってシン・アスカへと流れ込む。
 そこに染みついた情報が錯綜し、脳裏を埋めていく――家族と共に笑う誰か/恋人と共に笑う誰か/友人と共に笑う誰か―――幾つもの笑顔がそこにある。

 度し難い―――度し難いほどの憤怒を感じる。笑顔が奪われた。誰かが涙を流している。見知らぬ誰かの涙でしかないというのに、見知らぬ誰かの笑顔でしかないと言うのに、それはどこまでも度し難い。
 だから、

「――薙ぎ払ってやるさ、俺が全部なぁっ!!」

 大剣を振るった。




[18692] 第三部コズミックイラ飛翔篇 58.ハジマリ(d)改訂版
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/06/03 11:48

 ―――それはあまりにも常識外れで、あまりにも荒唐無稽で、あまりにも馬鹿馬鹿し過ぎた。
「あああぁあああぁぁ!!!!!」
 絶叫のごとき咆哮。
 振るわれる巨大な斬撃―――デスティニーが携えていた対艦刀そのもの。
 振るうはヒトガタ――紛れも無く人間。
 如何なる技術が働いているのか、自身の数十倍の大きさを誇るその武装を、軽々と操りながら、巨人が生み出す触手を次々と切り裂いていく。
 誰もが目を奪われていた。その常識外れの光景に―――その荒唐無稽な現実に。
 振るう刃は巨刃。放つ炎は魔弾。
 一振りで触手(ケーブル)を薙ぎ払い、一息で触手(ケーブル)を焼き払い、瞬く間にその巨人を押し返していく。巨人の右手が男に向けて振り下ろされた。それを紙一重で回避し、巨大斬撃武装(アロンダイト)を振り下ろす。振り下ろされた右腕が断ち切られ、右腕を構成していた触手(ケーブル)がその中から溢れるように現れた。

「ちっ。」

 触手(ケーブル)が男――シン・アスカに迫る。足元の光翼が羽撃たいた/次元両断跳躍。一瞬、でその場から離れ、一気に巨人の左側へ移動――巨人は気付いていない。サイズのあまりの違いと圧倒的な速度差に巨人の知覚――そんなものがあるか分からないが――が、全く追いついていない。
 移動した瞬間、巨大斬撃武装(アロンダイト)を顕現し、左肩に向けて、横薙ぎ。
 一撃ごとに命を削られるような衝撃を身を襲う。流れこむ膨大な魔力を用いて、衝撃を無理矢理に無効化(キャンセル)する。
 飛行魔法の応用――レジェンドが行っていることと同じく、飛行を行わせることで、体感重量を僅かでも減少させる。慣性や衝撃を殺すことはできないが、それでもやらないよりは余程良い。

「はあっ!!はあっ!!はあっ!!」

 全身から垂れ落ちる汗。限界を軽く超える魔力行使と巨大斬撃武装(アロンダイト)の使用による体力の絶大な消耗。体力が足りない。目が霞む。毀れ落ちる汗が酷い。息は荒く、全身が重い。

「はああああああ!!!!!!!」

 それらを全部無視して攻撃を繰り返す。斬撃を繰り返す。繰り返す。
 押し寄せる無数の触手(ケーブル)と巨大な体躯が繰り出す打撃、そして巨大化したドラグーンによる砲撃。
 こちらは一本。敵は無数―――多勢に無勢。
 高速で動き回りながらの巨大斬撃が肉体に与える負担は通常よりも段違いに大きい。
 更には次元両断跳躍――光速移動も交えて、回避を行っているのだから魔力消費はこれまで感じたことが無いほどに膨大。それでも振るい続ける。こんなところで止まってはいられないのだ。
 ドラグーンによる砲撃に捉えられた。次元両断跳躍開始/魔力が一気に減少する。一瞬で視界が切り替わる。ドラグーンの背後に跳躍/巨大斬撃武装(アロンダイト)を構えた。

「まだ、だああああああ!!!!」

 絶叫と共に振るわれた巨大斬撃武装(アロンダイト)がドラグーンを真っ二つに破断する。
 振るうごとに反動で意識が断絶する/唇を噛み切って、掌に指を喰い込ませ、痛みで意識を無理矢理繋ぐ。

『シン、魔力消費を押さえろ。このままでは枯渇し、予定が狂うぞ。』

 冷静な女性の声――デスティニーからの念話。

「今、退けば一気に押しやられる。」

 汗を流しながら、自分1人を標的と定めたレジェンドが近づいてくる。

「このまま、やれるところまでやり続けるしか……」
『もう少し、周りを信用しろと言っただろう。』

 少し呆れ気味の呟き。空中に浮遊しながら自分に狙いを定めていたドラグーンが一機爆発する。

『お前は相変わらず、突っ込んでいくしか能が無いのか、シン。』

 アスラン・ザラからの通信。
 ドラグーンを破壊し、自分の元へと近づいてくる紅い機体――インフィニットジャスティス。

「はっ、あんただって似たようなもんじゃないですか。」

 こちらに近づいていたレジェンドの頭部が爆発――上空からの砲撃。続いて、触手の群れを断ち切る色取り取りの連続砲撃。

『まあ、それは言えてるね。』
「……気が合いますね、キラさん。」

 キラ・ヤマトの乗る青と白の機体――ストライクフリーダムが上空に接近している。

『シン、“準備”は整った。いつでも、“殲滅”可能だ。』

 デスティニーの小さな呟き―――シンの頬に浮かぶ笑い=獰猛な獣のような/苛烈な悪魔のような/無邪気な子供のような。

「キラさん、アスラン――頼みがあります。」

 通信を繋げて、言葉を掛ける。

「……アイツの眼は今俺だけを見てる。俺に集中してる―――それを何とか、逸らして、あいつの動き止めてもらえませんか?」
『……どうするつもりだ?』
「ぶっ倒すんですよ―――あのデカいレジェンドを。」

 言葉が止まる。沈黙が流れる――当然だろう。モビルスーツにも生身の自分があの巨大なレジェンドを倒すと言って、そんな信じられる人間がいるはずもない。
 けれど―――何故か、絶対信じてくれると言う確信があった。
 今しがたの戦闘を見せた程度で、アスラン・ザラという頑固者は折れない。絶対に、確実に。
 ならば、何故確信があるのか―――多分、先ほどまでのやり取りで、自分が、アスラン・ザラを、信じているからかもしれない。
 返答が返ってくる。

『……何秒だ?』

 予想通りに、全肯定。キラのため息が聞こえる―――大方、呆れ返っているのだろう。内容も聞かずに返答するアスランのことを。
 口元に浮かぶ笑みを抑えることなく、答える。

「2分……いや、1分。それだけ止めてくれれば、あいつを倒せる。」
『……キラもそれでいいか?』

 一拍の間。どんな顔をしているのかは見えないが、溜息を吐くあたり肩を竦めているのかもしれない。

『…信じていいんだね、シン?』
「はい。信じてください―――絶対に、アイツを倒します。」

 声に力を込めて呟く。

『分かったよ。タイミングは任せる。』
「はい。」

 キラとの通信が途絶する―――アスランからの通信。
 先ほどまでと違い、少しだけ悲しげな声。

『……シン、レイは』
「死んだ。けど……俺はあいつを忘れない。だから、あいつはずっとここにいる。」

 握りしめたデスティニーに目を向ける。
 それは、レイ・ザ・バレルではない。マユ・アスカでもない。ステラ・ルーシェでもない。
 けれど、彼らが遺してくれたモノだった。あるいは、彼ら自身とも言えるかもしれない。
 きっと、後悔はある。守れなかったと自分はきっと後悔する。

 ―――だから、それで良いと思う。後悔の無い人生なんてない。人生なんて後悔だらけにしかならないのだから。
 だから、その後悔を大切にして、生きていく―――自分はそれでいい。

「……俺は、それでいい。」
『……分かった。なら、俺から伝えることは一つだけだ。』
「一つだけ?」

 アスランが力強く呟いた。

『―――死ぬな。生き残るぞ、シン。』

 通信が途絶する。

「……ああ、死ぬつもりなんて、まるで無いさ。」

 届かないのを知りつつ返答。
 最後に―――始める前に、話をしておかなければいけない人に念話を繋げる。

「…八神さん、聞こえますか。」
【ああ、聞こえとるよ、シン。】

 声の主は八神はやて。自身の上司にして、自分を守ろうとしてくれた人。

「お願いがありま……」

 自分の声を遮ってはやてが呟いた。

【もっと、持ってってええで。】
「やっぱり、この魔力、八神さんから」
【そうや。今、私の中の魔力はどんどんキミの中に流れ込んでってる……多分、リインの仕業なんやな、これは?】
「多分、そうです。」

 言葉の通り、今、シン・アスカが使用している魔力はエクストリームブラストによって搾取した魔力だけではない。八神はやて自身の魔力が直接流れ込まれている。
 如何なエクストリームブラストと言えど、シン・アスカだけの魔力ではあれほどの膨大な量を供給するなど不可能に近い。
【リインに繋がってたラインが、キミに譲渡されてる。キミは今、ヴォルケンリッターに限りなく近い――違いは、死んだら生き返れんってくらいか。】
「多分、そうですね。俺は今、アンタの一部に近い。……力、借りてもいいですか?」
【当然や。今は、出し惜しみする時やないやろ?持ってけるだけもってくんや。私の魔力、全部キミにくれたるよ。】
「今度、何か奢りますよ。ミッドチルダに戻ってから。」

 くすくすと笑い声が聞こえる。

【ああ、期待しとくで、シン。】

 そこに割り込む念話。

【あ、私もお願いね。】

 ドゥーエの声。その言葉の意味に少しだけ、げんなりする。

「お前、食い過ぎるだろ。」

 然り。彼女の食べる量は常識外れも甚だしい正に怪物(フリークス)と言ってもいいほどだからだ。

【何よ、私には何も無い訳?】
「ったく、おごってやるよ、思いっきりな。その代わり、八神さんのこと頼んだぞ。」
【ふふん、頼まれてあげるわ、シン・アスカ。二度と奢りたくないって思うくらいに食べてあげるからね?】

 念話が切れた。二人の声が聞こえなくなる―――始まりが近い。

「……さて、と。」

 瞳を閉じて、糸を伸ばす。
 周辺に見える瓦礫へ―――砂塵となって思い出と共に魔力が供給されていく。
 八神はやての肉体から魔力が送られてくる。無尽蔵――とまではいかずとも並の魔導師とは比較することさえおこがましい、圧倒的な魔力量。
 ―――沈黙は十秒ほど。瞳を見開いた。デスティニーが呟く。

『―――規定値まで魔力回復。いけるぞ、シン。』

 脳裏に流れ込む情報―――“切り札”の状況を確認/実行。
 アスランとキラに向けて通信を開く。

「二人とも、いいですか?」
『了解。いつでもいいよ。』
『ああ、こっちもいけるぞ。』

 返答は力強く、不安など欠片も感じさせない。
 胸が熱い。焔が燃える。唇が狂喜に歪む。

「―――行きます。」

 叫んで、飛び立つ。速度は高速。巨大斬撃武装(アロンダイト)の顕現は解除したまま――空中に待機している“アカツキへ”と。


「―――それじゃ、始めようか。」

 上空にまで急上昇―――そのまま、スラスターを噴射し、地面と“平行”に機体を傾ける。

「……行くよ。」

 急降下―――否、急速落下。
 慣性力でシートに身体が押しつけられる。奥歯を食いしばり、全身に力を込めることで堪える。
 高度はおよそ500m。地面に到達するのはおよそ25秒後。実際は空気抵抗を受ける為にそれよりも少し遅い。重量にのみ落下速度が 依存する自由落下のままならば。

「くっ……!!」

 迫る地面。コンソールを叩き準備を始める。見れば、同時にアスランも準備を始めている。5秒経過。残り、55秒。

「……一番槍はもらっとくよ、アスラン。」

 不敵に微笑みながら、呟く。背部バーニアに設置されたドラグーンとの接続を解除。ドラグーンが放たれたことで解放された背部バーニアに火を灯す。それまでは出来なかった全力機動。
 加速する。
 重力に従い、機体と共に落下していくドラグーン―――ドラグーン自身も推進・姿勢制御用のスラスターを噴射し、落下の速度を速めていく。
 重力下では“使えない”。これがドラグーンシステムの弱点である。小型化されたドラグーンに備わったバーニアでは、重力下において飛行するだけの推力を得ることは出来ない―――では、どうやって地上においてドラグーンを使用するか。簡単なことだ。無重力下に近い状況を作り出せばいい。
 重力に逆らうから、重力に縛られるのだ。ならば、重力に逆らわずに従えば良い。
 重力に逆らうことなく落下するドラグーン。自身のスラスターによって各機が狙いを定めていく。
 レティクルが狙いを定める―――自動照準(オートロック)。これほどの速度の中でドラグーン全てを操作することはできない。故にあらかじめ組んでおいたプログラムで動かす。

「チャージ無しで連続で撃てるのは4回。」

 抑揚の無い声。確認の為の呟き/脳髄が機械のように冷静に計算を弾いていく。
 瞳からは既に焦点が失われ、機体そのものが自分自身となったかのような錯覚すら感じる。
 両手に携えたビームライフルを構える。腰にマウントしてあるクスィフィアスレール砲、腹部のカリドゥス複層ビーム砲の照準も合わせる。こちらは手動照準(マニュアルロック)。
 彼我の距離はすでに300mほどにまで接近している。
 引き金(トリガー)に指を掛ける。躊躇うことなく引き絞る。一度目の掃射。
 色取り取りの光条が一斉にレジェンドに向かって伸びていく。全弾命中。そこかしこで噴煙が上がる。レジェンドの顔がこちらに向いた/気付かれた――問題無い。
 再度掃射。放つ。レジェンドの意識が向いたからか、今度は全て弾かれた。レジェンドのビームライフルやドラグーンがこちらに向けられる/背筋を走る怖気。死の恐怖。

 ――構うな、放て。

 引き金を引き絞る/レジェンドから放たれる砲撃。
 一斉掃射同士の激突。僅かに機体を動かし、砲撃を回避。ドラグーンが数機消し飛んだ。
 レジェンドを見れば、何発かは命中したのだろう。噴煙があがり、爆発が起きている。攻撃に合わせるようにして、砲撃したからかもしれない。死角からの攻撃に対する防御力はそれほど高くない。

「残り、一発。」

 引き金に指を掛ける。彼我の距離はすでに100mを切っている。狙いを定め、引き金を引く。
 4度めの一斉掃射。全身から放たれる色取り取りの光条が巨人を貫き、そのまま重力によって加速したドラグーンがレジェンドに向けて、“激突”していく。
 爆音。爆発。爆煙に紛れるようにしてそのまま下方に向けて、加速。レジェンドの懐に入り込み、手動照準(マニュアルロック)。引き金を引く。
 ビームライフルを連射し、カリドゥスを放ち、クスィフィアスを連射し、持ちうる全ての火器による、最大掃射(フルバースト)。
 掃射後、直ぐに移動/更に掃射/移動。繰り返される攻撃。一回の掃射ごとに砕けていくレジェンド―――肩と腹部を破壊した。
 即座に再生。同時に付近で蠢く触手(ケーブル)が迫る/移動することで回避――触手の内何本かが、機体の装甲を掠めて行く/気にしない――考える必要は無い。その情報を脳髄の中から追い出し、停止させる。
 現在必要なのは目前の巨人を60秒間止める算段。未だ15秒も経っていない―――未だ蠢く触手が狙いを再びこちらに定める。
 その全てを無視する。何故ならば―――そろそろ、来るタイミングだからだ。あのお節介でお人好しで不器用で馬鹿な戦友(トモダチ)が。

『何をぼうっとしているんだ、キラ!!まだ、30秒以上残っているんだぞ!!』

 咆哮と共にインフィニットジャスティスがその触手の全てを刈り取って行く。右手には左手のシールドに装備されていたグラップルスティンガー。そのアンカー部分を握り締めている。鎖で繋がれ、先端にはビーム刃を発生させたシールドが―――簡易の鎖鎌。左手には柄の両端から光刃を発生させたビームサーベル。
 時計を見る。凡そ残り時間は30秒を切っている。

「……残り30秒、アスラン、いけるよね?」
『当然だ!!』

 叫びながら、鎖鎌と化したシールドを振り回しながら、突撃。脚部前面に取り付けられたビームブレイドを発生させ、触手を切りつけ、宙返り/上下が逆転する―――その状態でフットペダルを踏み込み、操縦桿を操作。同時にコンソールを叩き、全身のスラスターの向きを右回り
に回転するように操作。
 瞬間、踊るように、上下逆の状態で回転しながら触手を断ち切って行く―――鎖鎌を回す反動で、回転の勢いを維持/オーバーヘッドキックの体勢で回転する機体――さながら旋風の如く。
 広げていた両足を上空に向けて突く様にして蹴り抜き機体そのものを“上昇。背部のバーニアを全力噴射。天へと向けてインフィニットジャスティスが触手の群れを突き抜け、攻撃を回避する。紅い装甲版が何枚も吹き飛んでいく。

 残り時間は20秒。
 蠢く触手に対して、高速移動砲台として、撃ち続けるキラ・ヤマト/ストライクフリーダムと、蠢く触手を切り捨てながら突撃を繰り返すアスラン・ザラ/インフィニットジャスティス。
 絡み合う紅と蒼。片方が攻撃に回れば、片方が援護に回り―――繰り返される連携。多勢を二機が押し返す―――触手が迫る。その数を増やしていく。捌ききれなくなっていく。
 ストライクフリーダムの左肩が破壊された。右足が貫かれた。距離を取らずに囮となったことで被弾回数が増加し続けている。同じくインフィニットジャスティスも。

 残り10秒。
 アスランへの通信。キラが叫んだ。

「アスランッッ!!」

 インフィニットジャスティスの背部のリフター――ファトゥム01が背部から飛び立ち、一直線にレジェンドに向かって行く。発生するビーム刃。突撃用の衝角。スーパーフォルテスビーム砲。
 狙うは腹部/ストライクフリーダムも同時に狙いを定める。カリドゥス、両手のビームライフル、腰部のクスィフィアス。

『吹き飛べっ…!!』

 アスラン・ザラの呟き。ファトゥムが全推力を用いて推進する。
 放たれる色とりどりの光条――ストライクフリーダムの砲撃。
 爆発。爆圧を利用して、後退。噴煙を突き抜けて触手が二機に迫る――機体を貫いて行く何本もの触手。
 残り時間2秒。

「―――ここまで、やったんだ。」

 攻撃を繰り返し、回避を繰り返し、最後は機体に攻撃を受けることすら利用して―――その注意を全てこちらに向けて見せた。

「頼むよ、シン。」

 触手に貫かれ、吹き飛ばされながらキラ・ヤマトは呟き、

『大丈夫さ、アイツならな。』

 アスラン・ザラが答えた。
 彼の答えを聞き、キラは思った。
 それは根拠の無い自信でしかない。だが、今は何故かそれを信じたくなる。
 胸がわくわくしているのだ。シン・アスカが次に何をするのか、と。


 右腕は半壊し、空中に待機していたオオワシの無傷な装甲と比べると機体の損傷が、より鮮明になる。
 コックピットハッチにこつんと額を当て、瞳を閉じる。

「……悪い、もうちょっとだけ頑張ってもらうぞ、アカツキ。」

 そこは上空600m―――ストライクフリーダムが攻撃を開始した高度よりも更に上空。
 風が強い。黒いバリアジャケットがたなびき、身体を揺らす。
 眼下を見れば、紅いモビルスーツと青いモビルスーツが約束通りに時間を稼いでくれている。

「デスティニー。」
『了解。』

 右手に握り締めていた大剣(アロンダイト)が待機状態――短剣へと変形する。
 開いたコックピットハッチから内部に入り込み、シートに座り、背もたれに身体を預ける。
 右手に持った短剣を、アカツキの起動キーの部分へと差し込む―――即ち“短剣”が刺さっていた場所へと。
 差し込んだデスティニーが朱く輝き始める。コックピット前面のディスプレイも、コックピット内部の計器類も同じく朱色に輝き出す。
 同時に外部―――装甲の隙間が朱く輝き始める。関節からは朱色の光の粒子が煌き散らばって行く。背部のオオワシの4基のジェットエンジンとロケットブースターからも同じく朱い光の粒子が散らばって行く。
 ある種幻想的な光景――アカツキの胸に向けて朱い糸が繋がって行く。
 自分が二人に指定した時間は60秒。それは――このアカツキを切り札とする為に必要な時間。
 アカツキの起動キーである短剣と一体化し、その構成を取り込んだデスティニーがアカツキを“侵食”していく。魔力的に接続され、アカツキの全ての回路に魔力が徹されていく。
 デスティニーとは単騎による最強を具現するための武装である。この武装が敵として設定していたのは、ウェポンデバイス―――つまり、“モビルスーツを素材として使用した魔導師”である。
 その素材にモビルスーツを使用している以上、レジェンドのようなモビルスーツであることを前面に押し出した存在が敵として現れるのは自明の理。
 デスティニーとは単騎による最強を具現するための武装―――たとえ、モビルスーツであっても、その事実に変わりは無い。

 触手に食い破られ、肘から先を失ったアカツキの右腕に朱い炎が集まり、失った右腕を形作って行く。
 全身から魔力がアカツキに向けて、放出されて行く。膨大な魔力量―――自分がいつも使用していたエクスリームブラストの凡そ数百倍。
 八神はやてから送り込まれる膨大な魔力量と自身が周辺から奪い続ける魔力を総動員した上でも、その量に達するまでに必要な時間は―――少なく見積もっても30秒。ストライクフリーダムとインフィニットジャスティスが戦い出してから15秒。
 自身を一つの魔力炉として見立て、アカツキそのものをエクストリームブラストで加速させる為に、魔力を高め、自身とアカツキを一体化させていく。

 ―――以前、ギンガとの模擬戦の際にデスティニーのモーションパターンを自らの身体にダウンロードしたのとはまるで“逆”の方法。あの時はモビルスーツの動きを最適化し、自分自身のモのとした。今は、自分の動きを最適化し、モビルスーツに“アップロード”する。

「……まだ、か、デスティニー。」

 呟き、下方で戦っている二つの機体に目をやる。二人に稼いでくれと頼んだ時間は60秒。既に30秒が経過している。

『まだだ。』

 事実だけを淡々と告げる女の声。舌打ちしそうになる自分自身を自制し、無言で魔力を送り込む。全てを奪い取る存在搾取(エヴィデンス)とはまるで逆――奪い取った全てを機体に送り込む。

 時間が経過する。沈黙だけコックピットを包み込む。全身から失われて行く魔力。同時に周囲から注ぎ込まれ、全身を満たして行く魔力。
 募る焦燥と裏腹に意識は冷えて冷静になっていく。

『あと5秒。』

 画面に映る二つの機体がレジェンドに攻撃を加え、吹き飛ばされて行く。
 攻撃を繰り返し、回避を繰り返し、最後は機体に攻撃を受けることすら利用して―――その注意を全てこちらから逸らして見せた二機。

『――――侵食終了。高速活動魔法・稼動率限界突破(エクストリームブラスト・ギアマキシマム)―――巨人形式(モード・ギガンティック)―――開始(スタート)。巨大斬撃武装(アロンダイト)顕現。』
「何秒出来る?」
『待機状態で30秒。全力で稼動すれば5秒が限界だ。』
「分かった。」

 答えて、操縦桿を倒す/動きは全て高速活動。
 アカツキの右手が動く。現れるは対艦刀MMI-714 アロンダイト ビームソード。
 上空600mの距離からレジェンドに向けて突貫する。物理法則を無理矢理突破する高速活動。シン・アスカと同じく通常の7倍と言う加速。
 風が切り裂かれた。音速を突破することで起きる衝撃波(ソニックブーム)。
 空気の壁を破る衝撃。機体が揺れる。視界が高速で流れて行く。
 60秒と言う時間はこの状況を作り出すため――つまり、アカツキを侵食し、エクストリームブラストを使う為。
 あの巨大なレジェンドは攻撃力もさることながら、単純に防御力が異常だった。
 全方位に張られたバリアジャケット。認識方向に対して防御力を強めると言うその特性通りに死角からの攻撃に対しては弱いものの、通常に戦えばまず突破は不可能だ。
 その上、あの巨体の奥深くに隠されたモビルスーツ・レジェンド。自身の巨躯によって中心核であるソレ――確証は無いが、恐らくはそうなのだろう。あの機体を中心にして、巨大レジェンドは形作られている――を守っている。
 通常のモビルスーツの攻撃では突破は不可能。
 かと言って魔法を使ったからと言って突破は不可能。
 故に、方法があるとすれば―――魔法とモビルスーツの両方の特性を組み合わせて融合するということ。モビルスーツでエクストリームブラストを使用する、それだけ、だとシン・アスカは考えた。
 高度600mから高速で駆け下りて行く。直線ではなく、レジェンドの視界に捉えられないように螺旋を描くように――朱い炎が空を駆け抜け、速度を更に高めていく。
 アカツキ/デスティニーの背部のバーニアから噴射される炎が更に燃え上がる。
 レジェンドは未だ気づいていない。アスランとキラがレジェンドの狙いを逸らしたが故に、それ以外の全てに対して注意力が散漫になっている―――バリアジャケットが効果を発揮するのはあくまで認識方向に対してのみ。故に死角に近付けば近づくほど、無力に近くなっていく。
 巨大斬撃武装(アロンダイト)を右手で握り締めて、弓を引くようにして、構える――構えは刺突。
 左手のシールドを前に突き出し、突撃態勢。レジェンドがこちらに気づく。予想よりも反応が早い。蠢く触手(ケーブルが浮かび上がり、狙いを定めて突進してくる。その全てを更に“加速する”ことで機体の装甲を抉る触手の群れを突き抜ける。

「―――トライシールド。」

 アカツキの左手に行きわたっている魔力を全て左手に握りしめ、突き出したシールドに集中。その表面を魔法でコーティング――トライシールド。ギンガ・ナカジマの防御魔法を模したモノ。
 火花が散る。一瞬早く、レジェンドのバリアジャケットが展開する方が早かった。

 構うな、突撃。

 背部のバーニアを更に噴射。機体を覆う朱い炎が更に大きくなっていく。
 アカツキの左腕が罅割れて砕けていく。自身のバーニアによる突撃の衝撃を支え切れなくなっている。同時に障壁も罅割れていく―――突破まであと僅か。
 血走った瞳が更に朱く輝く。ガタガタと揺れるコックピットの中にあっても、朱く凶暴に輝くその瞳は一心不乱にレジェンドを見つめたまま動かない。視線に込められる感情は憎悪と憤怒。朱い瞳の中心に金色の輝き―――瞳の色に僅かに金が交る。
 盾を握りしめるアカツキの左手に朱い魔力が集中し凝縮―――結晶化。決して離しはしないとでも言いたげに。同時に操縦桿を握る両手部分にも朱い炎が凝縮し結晶と化してシンとアカツキを“接続”する。

『結晶化が始まっている。シン、それ以上は危険だ。』

 デスティニーの声が聞こえた。
 声すら出せないほどの魔力放出と接続による魔力“循環”。自分が自分で無くなっていく感覚。
 自分が人間以外の何かに作り返されている実感。

(危険だからって、それがどうしたんだ。)

 心中で呟き、デスティニーの制止を無視して、魔力放出と循環を受け入れる。
 視界が朱く染まる。限界を越えた魔力行使の代償―――瞳の金色が強まり、頭痛が酷い。自分自身にも違和感を感じ出す。
 知らず、口元から毀れる紅い液体。吐血している。鼻血も出ている。顔が紅く染まっていく。コックピットを紅く染めていく。
 痛みは当然ある。不安も当然ある。失禁しそうなほどの恐怖と、意識を喪失しそうなほどの憤怒が両立する。
 恐怖は自分が変わっていくことへの恐怖。
 そして、憤怒は自分の邪魔をする目の前の巨人に対する憤怒。

 守れなかった誰かがいた。
 守りたかった誰かがいた。
 その果てに守りたい二人を見つけた。
 殺されたと思いこんで、勝手に壊れて、勝手に死のうとして、何も出来ずにここまで“逃がされた”。

「二人が、待ってる、んだ……」

 魔力障壁が再生され、ひび割れが小さくなっていく。バーニアの噴射が更に大きく、強く吹き上がる。
 壊れそうな左腕を走る亀裂。そこに朱い炎が混ざり込んで、埋め尽くし、再生していく。

「俺を、待って、る、んだ……!!」

 アカツキの盾が“変質”する。流しこまれる魔力によって浸食され、変質していく。イメージは全てを貫くモノ。こんな魔力障壁“如き”では絶対に防げないシン・アスカにとって、何よりも貫くことに特化した姿。それは杭。全てを貫き、風穴を開ける、螺旋杭(ドリル)――リボルビングステークの姿へと。変化はそれだけに終わらない。その盾を覆う炎が硬質化し、剣のようにして、先端が伸びていき、二股の大剣――全てを切り裂く高速の二連刃。ライオットザンバーの刀身へと。
 変質の果てに現れたのは、先端が二つに分かれて伸びた巨大な二重螺旋杭(ダブルドリル)。

 一度きり―――恐らく二度と出来ないモビルスーツに乗っているからこそ出来る芸当。
 魔力によって変質させ、魔力によって強化する。
 操縦者であり、魔導師でもあるシン・アスカにだけ出来ること――彼だけが命を籠めて、出来ること。血を吐きながら、血を流しながら、命を削って、願いを掴むために出来ること。

「だから……!!」

 ガリガリガリと削岩機のようにして二重螺旋杭(ダブルドリル)がレジェンドが生み出した魔力障壁を“削り取っていく”

 回る。回る。回る。回る。回る。回る。回転するごとに障壁を削り取って前に進む。
 (ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ)

 触手(ケーブル)からの攻撃は未だ止まない。それらを全部無視しして障壁を削り取って前に進む。
 (ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ)

 ――何よりも腹が立つのは、いじけていただけの自分自身だった。皆、苦しみながらも前へ進んでいた。進もうとしていた。

 アスラン・ザラも、キラ・ヤマトも、カガリ・ユラ・アスハも、ラクス・クラインも。
 八神はやても、ドゥーエも、それにあの二人も―――ギンガ・ナカジマも、フェイト・T・ハラオウンも。
 自分だけが大甘だった。何が、守るだ。何が、それでいいだ。

(いい訳無いだろ。)

 あの4人に何があったかなんて知らない。知る由もない。
 けれど、あの4人は今も前を向いて頑張って――その上で成長していた。
 八神はやてはいつの間にか劇的に変化していた。何故変わったのかは分からない。けれど、かっこいいと思った。迷いを振り切って、邁進する彼女を格好良いと思ったのだ。
 ドゥーエは変わり果てて、本来ならやりもしないような子供を守る為と言って戦っていた。絶対にそんなことをやりそうにもない彼女だって変わっていた。

 あの二人だってきっと―――苦しんで、想いを告げたはずなのだ。今、自分は同じ想いに支配されているのだから。なのに、肝心の自分は返事を返すこともせずに、彼女達を守れなかった。

 自分は、ただいじけて、下ばかり向いていた。
 腹が立った。心底、腹が立った。誰よりも自分に―――何もしなかった、自分自身に。

「お、れの……」

 血を吐いた。鼻血が止まらない。そんなことどうでもいい。
 死んだくらいで諦めるな。危険だからって諦めるな。

「邪、魔、を……」

 好きな女がいるのなら、

「するなあああああ!!!!」

 絶対に諦めずに奪い返す。叫びとともに二重螺旋杭(ダブルドリル)を更に押し込む。

 ―――魔力障壁に穴が開いた。瞬間、そこを中心にひび割れが広がっていき、穴が更に巨大化する。
 迷わず、そこにアカツキを飛びこませ、加速。咆哮。

「デス、ティニイイイイイイ!!」
『機能(システム)・光翼(ヴォワチュールリュミエール)展開――巨大斬撃武装装填(ソードバレルフルフラット)。光速射出武装“デファイアント”――――詠唱開始(スタート)。』

 デスティニーの呟き。現在デスティニーはアカツキの状態維持に能力の多くを費やしている為に自動詠唱が出来ない。故に口頭詠唱でしか魔法が使えない。
 故に紡ぐ。言葉を――自身への憤怒とともに、大切な人達が定めた、言葉を紡いでいく。
 更に加速。レジェンドの右腕に握りしめられた巨大な光刃――ビームサーベルが振り払われた。
 左手に掴んだままの盾――今は、二条の螺旋杭――で、それを受け止める。受け止めきれずに爆発。左腕が死ぬ。爆発の反動でさらに加速。レジェンドが近づく。
 呪文詠唱開始。
 デスティニーから流れ込む呪文の渦。
 立体的に、平面的に。
 迸る言葉は全て自身の口から流れていくだけの言霊――意味など分からない。
 ただ紡ぐ。
 
 魔法とは紡ぐモノだ。
 世界を、事象を――魔力と言う不可視の存在によって、可視なるモノへと変える術。
 現実を空想で塗り潰す世迷言の究極形。
 故に、“接続の媒介”として、最も音声が適当となる。

 故に紡ぐ。
 詠唱を――魔法と言う存在の最も原初の形を。
 声を放ち、意思を放ち、ソレを放つ。
 裏切りの大剣を打ち放つことで形成される高速の射出――投槍(ジャベリン)を。

『我は炎、割れは憤怒、我は朱――』
(アアアアアアアアアアアア――)

 高速詠唱。通常の7倍で紡がれる言葉は金きり声にしか聞こえない。
 唱えているシン自身、口を動かしていると言う実感は無い。
 彼はただ叫んでいるだけに過ぎない――己の感情の迸りのままに。

『我が翼は全てを燃やす破壊の火。我が剣は全てを裏切る憎悪の剣。法を破り意思を貫く憎悪の証左――』
(アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――)

 人間の可聴域を超えた言葉の紡ぎ。ディスプレイに液晶部分にヒビが入り、声がコックピットを震わしていく。可聴域を超えた大音量が鼓膜を破り、聴覚を潰していく。
 血走った眼。悪鬼羅刹の如く歪み切った顔。その只中において、一心不乱にシン・アスカの瞳は巨人を――友の亡骸に目を向ける。

「憎悪となりて、憤怒となりて、全てを斬り裂け、機能(システム)光翼(ヴォワチュールリュミエール)顕現――」
(アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――)

 次元両断跳躍とはA点とB点という座標を繋ぎ、小規模次元世界を作成し、その中に入り込んで、加速させる術。
 作成された小規模次元世界内においては重量、重力、空気抵抗等のありとあらゆる減速の原因を除外されることで、跳躍する“物体”は亜光速の速度を得る。
 そしてインパクトの瞬間にその除外を解除し、亜光速で激突させたならばモビルスーツ程度―――否、“何であろうと”粉々に食い破る。
 故に跳躍は一瞬。それ以上の跳躍は不要。一瞬の跳躍で十分すぎる。
 触手(ケーブル)を掻い潜りながら、接近。放たれたドラグーンの掃射がオオワシに被弾した。
 コンソールを叩いてオオワシとの接続を解除。一瞬、後に爆発―――爆風を背に受け、そのまま加速し、真っ逆さまにレジェントの頭部に向かって落下―――巨大斬撃武装(アロンダイト)を構え直す。構えは振り被るように――槍投げのようにして。 
 それは手向けでもあり、墓標でもあり、生前の彼に抱いていた信頼そのものでもあり――その全てを超えて、シン・アスカがこれより超える全てへの咆哮でもある。

「ああああああ!!!!!」
(アアアアアアアアアアア)

 咆哮とともに片腕だけのアカツキが、その全重量を込めるように振り被った巨大斬撃武装(アロンダイト)を突き出した。
 機能(システム)・光翼(ヴォワチュールリュミエール)――フラッシュエッジが輝き、羽撃たく。

 ――瞬間、巨大斬撃武装(アロンダイト)が揺らめいた。戦友の剣(デファイアント)の発動準備――光速射出術式発動。
 光を超えて、全てを超えて、運命すらも裏切って――その全てを薙ぎ払う。

「ぶち抜け、デスティニー――――――!!!」
(アアアアアアアアアア―――――――――――!!!)

 言葉と巨大斬撃武装(アロンダイト)を更に押し込む。瞬間掻き消える巨大斬撃武装(アロンダイト)。次元両断跳躍。跳躍は一瞬。加速は一瞬。距離は僅かに数m。
 光速の加速を受けた巨大斬撃武装(アロンダイト)は、その僅か数mの超加速で亜光速に達し、その切っ先の延長線上の全てを“突き穿つ”。
 破裂する顔面。断裂する体躯。爆発する装甲。地面に突き刺さり、地面すら突き破る。爆発が天を突く。凄まじい爆風。アカツキが爆風に吹き飛ばされた。
 次の瞬間、レジェンドのそこかしこで爆発が起きる。右腕が、落ちる。中心に存在していた、黒と青のカラーリングのレジェンドはすでに“存在しない”。
 戦友の剣(デファイアント)によって、文字通り、消滅させられたのだ――その装甲の欠片の一片すら存在しないほどに、徹底的に。

「ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙……」

 一瞬で身も蓋もないほどに徹底的に破壊しつくされたレジェンドの咆哮―――むしろ慟哭。
 巨大斬撃武装(アロンダイト)が突き刺さっていた場所を中心に、レジェンドが真っ二つに断ち切られ、崩れ落ちる。
 右腕が崩れていく。次いで左腕が、両足が、胸が、顔が、背中のバックパックが、その全てが――元々の姿に戻り、崩れていく。
 触手(ケーブル)はケーブルへと。装甲は数多のモビルスーツ及び戦艦、戦闘機へと。
 本来の姿へと還り、瓦礫と化して消えていく。

『シン!!』

 爆発で吹き飛んだアカツキをルナマリアの乗るムラサメが受け止める。
 装甲は原型も残さないほどにボロボロ。頭部は半分以上吹き飛び、左腕は根元から存在していない。背部のオオワシはすでに接続を解除し、切り離している。
 見るまでもなく崩壊寸前と言ってもいい。再生されたはずの右腕は既にそこには無い――元通り食い破られた状態に戻っている。
 コックピット内部も酷いもので、そこかしこから火花が散っており、前面のディスプレイだけが奇跡的に生き残っている。
 衝撃が響き渡る――ムラサメがアカツキを地面に下ろした音。
 身体中が痛い。両手を覆っていた朱い結晶は戦いが終わればすぐに砕け散った。同時に鼻血や吐血も止まっていた―――身体の内部に今も残る疼きは消えない。多分、一生消えない。
 自分が何か別物になっていく恐怖は今も消えない。

「いいさ。ああ、しなきゃどうにもならなかったんだ。」

 呟いて、その事実を受け入れる。
 事実、その通りだ。
 恐らく、他のどんな方法を用いたところで、あの巨大レジェンドは倒せなかった。
 死中に活を見出した訳でもないが―――消去法で考えれば、それ以外に無かった。
 朦朧とした意識のまま、ディスプレイに目をやる。
 レジェンドの残骸が、黒く波打っている。それまでのような触手の蠢きではなく、夜の海面のようにして、波打っている。

 ―――あの巨人を滅ぼすことで特異点は扉となって、時代を繋ぐ。お前たちは、ミッドチルダに舞い戻ることが出来る。

 あの夢の言葉を思い出す。操縦桿を握る手に再度、力を込める。

「……ったく、休む暇くらい、くれよな。」

 呻くように呟き、身体を起き上がらせ、はやてとドゥーエに念話を送る。

「聞こえ、ます、か……八神さん」
【シン!?大丈夫なんか、シン!!】

 声が聞こえたことに安心し、そこにいるはずのもう一人に呼びかける。

「ドゥーエも、聞こえてるか?」
【……いるわ。そんなことよりも貴方大丈夫なの?】

 二人が共に無事でいることに安堵する。それに大丈夫だと声を返しディスプレイ越しにレジェンドを確認する。
 黒く波打つレジェンドの残骸の群れ。先ほどよりも激しく波打ち、まるでそこだけ黒い水たまりのようになってきている。
 転移の瞬間は近い。

「……2人とも、今直ぐこれに乗ってください。」
【シン?】
【……その機体に?】

 怪訝に思っている声音。当然か。残骸寸前のこの機体に乗り込んでくれとい言う方がおかしい。

「……ミッドチルダへの門が、開きます。早くこの機体に乗って、ください。生身で行くのは流石に……怖いでしょ?」
【……シン、なんで、そんなことを知っとるんや。】
「教えてくれた奴がいるんですよ、全部、ね。」

 そう言って、念話を切って全身の力を抜いて、深呼吸を繰り返す。
 起きているだけで気が遠くなるような疲れを感じる。筋肉痛で全身が痛い。正直、出来るなら今すぐにでも眠りにつきたい。
 だが、

「……あの二人は、連れて帰らなきゃな。」

 この時代では生きられないとあの女―――リインフォースはそう言った。ここに置いていく訳にはいかない。死なせるつもりは毛頭ない。
 だから、連れていく。
 あの世界――ミッドチルダへと。
 ハッチをこんこんと叩く音。コンソールを叩いて、ハッチを開ける。差し込む陽光と共にコックピットに聞こえる声。

「……シン、生きとるか?」

 間近から聞こえる声――念話ではない生の声。

「八神、さん……か。」
「……こんな狭いところにどうやって3人乗るつもりなのよ。」

 呆れ気味に呟くドゥーエ。瞳を開いて、二人を確認する。

「……何とか、入ってくれ。流石に、生身で、行くのは怖いからな。」

 二人が入ったことでコックピット内部がかなり狭くなる。
 二人の身体が自分の肘や肩に当たる――いつもなら胸がドキドキするところかもしれないが、生憎、今はその元気すら無い。

「変なところ、触んないでよね。」
「…そんな元気あると思うか?」
「どーだか。」

 ドゥーエの呟きに嘆息しつつ、操縦桿を握りしめ、コンソールを叩く。
 コックピットハッチを締めて、アカツキを支えるムラサメに向けて通信。

『…シン?』
「ルナ、俺行くよ。」
『行くって……その、あんたが飛ばされた世界に?』
「ああ。待ってる人がいるんだ。」

 告げる言葉。僅かな沈黙。答えが返ってこない。
 別に、無言で去っても良かった。けれど、どうしてかそうはしたくなかった。
 昔みたいに済し崩しで別れるのだけはどうしても嫌だったから。

『シン、アカツキ、こっちに向けてコックピット開いて。』
「ルナ?」
『早く。』

 声の調子は強く、絶対に譲らないと言う意思を感じさせる。
 アカツキを立ち上がらせ、ルナマリアの乗るムラサメに向け、言われた通りにコックピットハッチを開ける―――見れば、ムラサメもコックピットハッチを開けている。
 風が吹く。傷ついた身体を引きずるようにして、シートから立ち上り、コックピットハッチに足をかける。ルナマリアが懐から何かを取り出そうとしている。

「忘れ物よ」

 呟きと共に彼女が何かを自分に向けて放り投げた。
 風を切って迫る飛来物。それが何かも視認出来ずに反射的にそれを受け取った。

「……これは」

 手にはいつからか無くしていたフェイスバッジ。あの、戦争の象徴―――思い出の品物。この世界に自分がいたという証。

「ルナ、これって……」

 顔を上げて彼女に向ける。

「ばーか。大事なモノ忘れてんじゃないわよ。」
「……大事なモノ、か。そうだな。貰った時は大事だったんだよな、これ。」

 フェイスバッジを掲げて日光にかざす。
 自分はこれをいつ失くしたかも分かっていなかった―――ルナマリアが持っていったなど考えもしなかった。
 良く見れば傷だらけで、何度も何度も補修された痕があった。
 割れた部分を補修したような傷跡。ルナマリア自身が何度も何度も壊しては補修を繰り返してきたのだろう。自分が持っていた時は一度も壊したことなど無かったのだから。
 もしかしたら、彼女が自分を忘れようとして壊して、けど忘れられなくて直して……そんな彼女の想いの軌跡そのものなのかもしれない。
 そんな風な自惚れが脳裏に浮かんで―――消える。
 多分、それは仕舞い込んでおくべき想いだ。
 自分には―――もう、待たせている人が、二人もいる。
 それにこれを投げたと言うことは、ルナマリア自身、もう、吹っ切れているのだろう。
 フェイスバッジを懐に仕舞い込み、コックピットハッチを締める寸前―――背中越しに呟いた。

「……またな、ルナ。」
「ええ、またね、シン。」

 ハッチが締まる。狭い室内で二人が自分を見つめていた。

「……何ですか?」
「本当に、行ってええんか、シン?」

 はやてが呟く。どこか心配そうに自分を見つめて。

「いいんですよ。」

 笑いながら、呟いて一抹の寂しさが胸を掠めた。
 多分、これは今生の別れだ。
 もう、二度とこの世界には―――この時代には戻ってこないことになる。それはルナマリアも分かっている、と思う。
 なのに、別れの言葉は“また会おう”。
 会えないのに再会を約束して、どうするのだろうかとも思ったが―――絶対に会えないことを覚悟した“さようなら”よりも、少しでも望みを残した“またな”の方が気分が良い。
 自己満足にもならない言葉遊び。中途半端な別れの言葉。
 けれど、胸には寂しさだけでなく、爽やかな満足感があった。これでいいと思える満足感があった。

「俺たちらしくていいんですよ、これで。」

 自分達らしい幕引き――言ってからその通りだと思った。シートに座り、操縦桿を握り締め、フットペダルに足を掛ける。

「……しっかり、掴まっててくださいね。」

 フットペダルを踏み込み、アカツキを動かす。

「ちょ、ちょっとシン、えらい揺れてるんやけど、これ大丈夫なんか!?」
「熱っ!?ちょっと、何か火花散ってるわよ!?」
「多分、少しの間だから我慢しててください!!」

 不安げに呟くはやてと、背中を押さえて熱がるドゥーエ。

「多分って……熱っ!?」
「……うっぷ、何か酔ってきた。」 

 あまりの揺れにはやての顔が青くなり、ドゥーエが背中を計器類から離すようにして背中を逸らす。

『……シン、止まった方がいいんじゃないのか?』

 デスティニーの呟きに一瞬、思案した時、アスランからの通信が入る。

『シン、お前、どこに…』
「……悪い、アスラン。やっぱり、あんたの下で働くこと、出来そうにない。」

 背部のオオワシはすでに存在しない。飛行することは不可能。だから走る。ボロボロのままレジェンドに向けて走り出す。
 はやてとドゥーエの叫びが大きくなる。気にせず加速。

「待ってる人がいる。だから、行ってくる。キラさんや、ラクスさんに子供たち……あとアスハや他の人にもよろしく言っといてくれ。」
『シン!?おい、ちょっと待て、シン!!』
「悪いがこれ以上待たせる訳にもいかない……!」

 言葉とともにフットペダルを踏み込んでアカツキを更に加速させる。目標は、波打つレジェンドの残骸――もはや、黒い海とも呼べる状態になっている。
 そこに向けて跳躍。スラスターを全開。一直線にその海に向けて、落ちていく。
 アカツキの足が黒い海に触れる―――寸前に一言だけ呟いた。

「またな、“先輩”。」

 呟きと同時に黒い海に足が触れた。本来あるであろう衝撃は何も無く、ただ落ちていく。本当に、扉を潜るようにしてアカツキが海に落ちていく。

『……せ、ん……シン、お前今何て言った!!シン!!おい、ちょっと!!シン!!シン!!シ…』

 画面は既に暗闇。光一つ差さない真っ暗闇―――通信が途絶する。同時にレーダーや全ての計器類から反応が“消える”。

『境界面突破―――特異点突入。』

 デスティニーの呟きに安堵する。恐らく、これでミッドチルダに行ける―――どこに行くのか、どうなるのか、などは分からないが。
 デスティニーに声をかける。

「……デスティニー、後、任せていいか?」

 安堵したせいか、瞼が非常に重い。全身に力が入らない――極度の疲労だ。

『問題無い。寝ていろ、シン。起きた頃にはミッドチルダにいるはずだ。』

 デスティニーの声に思わず、全身の力が抜けて行く。シートに体重をかける。瞼を閉じる。

「…わかった、なら、後は……ま、か…せ」

 言葉を全て言う前に意識が落ちていく。
 耳にはやてやドゥーエの慌てる声が聞こえたが、それも一瞬で、すぐに意識は消えていく。

 ―――夢。夢を見た。
 ベッドで眠る自分を起こしに来る青い髪の女性――ギンガ・ナカジマと金髪の女性――フェイト・T・ハラオウン。
 左手の薬指には銀色に輝く指輪。自分の左手には二本の指輪が。
 以前、自分が頭腐ってるんじゃないのかと断じた夢。
 多分、これは自分の願いそのものなのだろう。どうやら、自分の頭は自分で思っているよりもはるかに、桃色に汚染されているらしい。
 そうして、やってくる子供。勝気な青い髪の少女と穏やかな金髪の少女。多分、母親によく似ているのだろう。
 ギンガとフェイトをそのまま小さくしたような子供たち。
 笑いながら、4人ともを抱き締めた。
 ―――夢はそこで終わる。

「……これが、答え、か。」

 呟いて意識が再び眠りへと舞い戻る。
 いつか、自分はそこに辿り着けるのか――分からないけれど、今はそこに届くと信じて生きていこう。
 誰かを幸せにする為に―――自分が幸せになる為に。

 ―――物語は、今、折り返す。
 これは、滅びの運命に支配された宇宙の運命を真っ二つに両断する大馬鹿野郎の物語。


 そうして、物語は終盤を迎える。

「……さあ、始めようか。私たちの反逆を。」

 仮面の偉丈夫が口を開いた。
 紅い髪の美女が頷く。
 金髪の優男が頷く。
 朱い服を着た子供が頷く。
 金髪の柔和な女性が頷く。
 犬が頷く。
 蒼い髪の少女が頷いた。
 その傍らにいる桃色の髪の子供も、金髪を二房に結んだ少女も。
 その後方で、呆然と彼らを見る、金髪の女性だけが震えていた。信じられない現実を目の当たりにしたからだろう。

 ―――彼らが反逆するのはこの世界そのもの。それまで自分達が命を預けていた組織そのもの。

 記憶を失って、流されるままに、この場にいる彼女――フェイト・T・ハラオウンとは前提からして違うのだ。覚悟と決意が。
 仮面の男が呟いた。

「……早く、来いシン。主役無しでは物語は締まらない」

 皆が、その一言に反応する。
 そして、その言葉を聞いて、金髪の女性の震えがピタリと止まった。止まったことに彼女自身、更に辛そうに顔を歪ませている。
 そこは、メゾン・ド・ミネルヴァと呼ばれるビルの地下4階。
 1階には純喫茶・赤福が存在する場所。
 金髪の女性――フェイト・T・ハラオウンはただ瞑目する。失った“記憶”と今の自分がまるで繋がらない事実に困惑と不安を覚えながら。
 自分の知らない内に、壊れてしまった現実に恐怖を覚えながら。
 そして、エリオ・モンディアルが裏切ったと言う事実に―――その理由に“シン・アスカ”という男に自分が持った恋心があったのではないかという恐怖しながら。

(私は、エリオを、裏切ったの……?)

 声は誰にも届かない。
 胸に疼くのはやりきれない怒りと身勝手な悲哀。
 シン・アスカという“見知らぬ”男への行き場の無い感情だけ。
 私は、フェイト・T・ハラオウン。大切なはずの子供を裏切った“かもしれない”駄目な女。

 ―――キャロ・ル・ルシエはそんなフェイトをただ悲しげに見つめる。エリオが敵になったことへの悲しみではない。それは、フェイトが抱いたシン・アスカへの想いが消えてしまったことへの悲哀だった。


 窓は無い。目がさめればここにいた。
 暗い部屋。その中で私は鎮座する。
 胸には暗く、紅く燃える篝火。
 その男のことを思うとそれだけで胸が高鳴る――憎悪にも思える焔が点火する。

 憎悪のように思えるのは、刻み込まれた記憶のせいだ。そして――その男のことだけがどうしても忘れられなかったから。
 ――どうして、その男をそこまで覚えているのかは分からない。
 それでも――こびり着いた幾つもの記憶の残滓が、憎悪のような焔を燃やし始める。

 引き裂かれる父親―――らしき人。
 首を刈り取られた母親―――らしき人。
 潰された妹――らしき人。

 皆の死に様を思い出す度に、心が疼いて憎悪が燃えて――それが本当に憎悪なのかすら分からないのに、私はその感情を愛おしいとすら感じる。
 他には、もう何も無いのだから。
 だから、残された、ただ一片の記憶に私は縋りついて――この胸の空虚を埋めてくれるのだと期待する。
 
 ラウ・ル・クルーゼという男が教えてくれた、家族らしき人を殺していく男の名前。
 ―――シン・アスカ。

 まるで信憑性の無い情報の羅列。信じることも出来ない――けれど、信じるモノなど他に無い。

「……シン・アスカ。」

 その名前を思い出すだけでこんなにも胸がざわめく。
 この空っぽの脳髄に残された唯一の記憶だからこそ、私はその記憶が愛おしい――縋りつくのだ。
 それ以外に、私がここにいたと言う証は無いのだから。

「……ブリッツキャリバー。」

 呟いて、自分の元に大気を“泳いで”近づく一匹の機械仕掛けの外見をした蛇。“彼女”は無言でマフラーを巻くようにして私の首元に絡まっていく。

「……どんな人、なんだろう。」

 愛おしげに呟いて、明かりの無い天井に目をやる。

「早く、会いたいな。」

 小さく呟いて、暗闇に目を向ける。

 私の名前はギンガ・ナカジマ。
 シン・アスカの天敵(アークエネミー)にして、最高の魔導師殺し(カウンターマギウス)。
 シン・アスカという男に家族を殺され、記憶を失くした馬鹿な女。

 ―――失った自分の記憶と引き換えに、復讐を誓った愚かな女。



[18692] 第四部ミッドチルダ風雲篇 59.続く世界(a)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/06/02 17:11
 別に何かが欲しかった訳ではなかった。
 ただ、守りたかっただけだ。
 大切な誰かを、大切な世界を―――大切なあの人を。
 繰り返す世界。巻き戻る時間。摩耗していく思い出。
 輪廻の鎖に捕らわれた私。
 世界は繰り返す。時間は巻き戻る。何度も何度も夢となって霞んでいく。
 摩耗していく思い出。
 これは、そんな馬鹿な女の物語。
 私の名前はカリム・グラシア。
 世界を守る為に、と嘯いて、正常なる死を求める馬鹿な女。

 ―――羽鯨という存在がある。時空を泳ぐ上位存在。アルハザードそのものとも言える私たちの常識では測り切れない“存在”。
 彼らは時空を泳ぎ、世界を食らって、回遊する。 
 彼らにとっては時間も空間も同じモノだ。
 人が歩く時にどちらが前でどちらが後ろかなど気にしないように、彼らもまた過去や未来を気にすることは無い。
 彼らはただ回遊し、そして食らうだけ。それはただの生命の活動の一環しかない。 
 そう、彼らは“世界を喰らう”。
 その世界に生きる全ての人々はそれで終わる。死ぬのではなく、消える。
 初めからその存在が無かったことにされたようにして、消えていく。
 世界という根幹となる概念そのものが喰われることで、この世界から文字通り消えていくのだ。

 ―――私はそれを何度も何度も“繰り返して”きた。
 ジェイル・スカリエッティ脱獄の報を聞き、それから数年後に世界は滅びるという螺旋を何度も何度も繰り返している。

 最初の一回目は何が起こったのかさえ、把握できずに終わった。
 夜空を“割って”現れた巨大な金色の目。奥に見えるの透明な表皮を纏った鯨のようなカタチの脳髄。そして、その裂け目から伸びていく無数の稲妻と触手のような翼。
 自分も当然死んだ。消失した。

 なのに、自分は“生きていた”。
 愕然とした。訳も分からずに死んだかと思えば、今度は訳も分からずに生き返っているのだ。愕然ともしよう。
 日付を見れば、それはジェイル・スカリエッティが脱獄した日。
 夢の内容は覚えていた。身体が消えていく感触。何人もの絶叫と何百人の怨嗟と何千に悲哀と何万人の恐怖。
 それら全ての感情を覚えている。忘れることなど出来はしない―――終末を忘れることなど出来る筈もない。
 だが、現実はそれが夢だと自身に教えていた。胸には漠然と、それでいて強大な不安があった。
 そして、ジェイル・スカリエッティ脱獄の報を聞いて――それは夢なのだと断じた。そこに、夢で見た世界の滅亡は関係しないと思って。
 それから数年後。世界は“やはり”滅びた。夢で見た現実の通りに。

 3回目。
 朝、目が覚めればそこはいつか見た光景。見憶えのある場所。そして、扉を開けて現れるシャッハ・ヌエラ。伝えられる言葉は、ジェイル・スカリエッティの脱獄。
 気が狂いそうだったが、それを堪えて平静を装った。本当なら、その時点で行動を起こしていればよかったのかもしれない。この世界が、既に滅びの淵に立たされていることに、気づいた時点で対策を取っていれば――いや、恐らくは何も変わらなかったろう。
 私では――カリム・グラシアでは、“変えられない”のだから。
 繰り返しは変わらず続く。
 繰り返される日々。そして、繰り返される滅び。
 初めは、夢だと思い、けれど、何度も何度もその数年を繰り返していく内に、自分が本当に正気なのかどうかさえ疑い出した。
 繰り返される数年間。僅かなズレはあるものの大筋では何も変わらない世界。滅亡は避けられないことに気づいた。消失していく自分を見て思った。
 ―――死にたい、と。

 4度目の繰り返し。
 起床する。記憶は消えていない。死にたいと言う思いも同じく消えていない。
 シャッハが来る。その前に、ベッドの横の机の中に入っている護身用の短刀を持ち出し、自分の心臓に向けて力の限り突き刺した。一瞬感じる熱と多大な痛み―――意識が途切れた。真っ暗闇。
 薄く笑った自分がいた。これで、終わる、と。

 5度目の繰り返しも同じだった。起床。絶叫と共に机から短刀を取り出し、胸に向けて突き刺した。終われ、と呪った。

 6度目。
 起きれば、そこは先ほどと同じ天井。場所も何も変わらない。机に入っている短刀の位置も重さも何もかもがまるで変わらない。
 扉を叩く音。返答はしなかった。勝手に扉が開けられた。自分が寝ているとでも思ったのかもしれない。シャッハ・ヌエラがいた。口が開き流れる言葉―――ジェイル・スカリエッティの脱獄。心臓に向けて短刀を突き刺した。

 7度目。
 ―――目が覚めた。
 同じ天井がまず目に入る。

「……そう、終われないのね。」

 呟いて、唇を噛んで、全身を襲う恐怖に耐えた。発狂しそうだった――何度も自決を繰り返している時点で発狂しているのかもしれないが。
 息が荒い。眼球が眼窩から飛び出てきそうなほどに瞼を見開いた。口内が乾く。唾が出ない。心臓の鼓動が不規則に煩い。
 人間は、原因が分からない事象を最も恐れる。理解出来ない事態こそを人は忌避する。どれほどの暴虐も既知であれば耐えることも出来る。諦めることもできる。終りを甘受することもできる。
 だが、これは違う。理解出来ない事実。終りが“無い”という事実。何度死のうとも、何度消えようとも、必ず、此処に戻ってくる。
 恐怖が、自分を侵食していく。
 こんこん、と扉を叩く音。

 ―――シャッハ・ヌエラの来訪。同じ繰り返し。今度はそのままにしていた。
 繰り返されていくシャッハ・ヌエラの報告。自動的にそれに応え言葉を返していく自分。
 そのまま、自動的に過ごしていった。
 諦めた訳ではなかった。ただ、停滞したのだ。考えることを放棄し、外界に対してのみ反応する自動人形(オートマータ)。
 自動的に繰り返される毎日。以前、過ごした時と“殆ど”同じ毎日。
 僅かなズレはあった。世界が滅亡する日が違っていたり、新聞の死亡欄の変化程度の僅かなズレ。
 ――そこに一抹の希望を抱き、自分は消失していった。

 8度目の繰り返しが始まる。
 僅かなズレは何故起こったのか。恐らく、何かしら“違う”ことをしていたのだろう。人間は本能的に変化を求める動物だ。繰り返されていると言う事実を知った自分の脳髄が、知らず変化を与えていき、それがズレを生み出したのだと思う。
 繰り返しの理由については何も分からない。分かる筈もない。大体、これが本当に現実かどうかなのかさえ、曖昧だ。
 8度目の繰り返しはそれまでとまるで違うことを選んだ。
 まず、ジェイル・スカリエッティと接触を行った。自分が繰り返す日々は必ず彼が脱獄する日から始まっている。この繰り返しを抜け出す手がかり―――思いつくものと言えばそれしかなかった。
 接触は簡単だった。脱獄した男を探し出す必要も無かった。
 彼は自分からこちらに接触を図ったからだ/ズレていく。
 ジェイル・スカリエッティとの密談――幾つかの事柄を情報として受け取った。
 羽鯨による滅びが差し迫っていることはジェイル・スカリエッティも気づいていた
 無限の欲望というコードネームの本来の意味――世界に一人だけ存在する羽鯨が世界を食らう目印にして、羽鯨の餌。

 世界が滅びる原因。羽鯨――時空を泳ぎ世界を食らう高次存在。
 無限の欲望が得る“力”―――羽鯨の眷属として、通常ならば在り得ない力を得る。
 ジェイル・スカリエッティならば虹色の瞳。世界全て、時空全てを見通す瞳。
 それら幾つかの恐らくは重要な情報を得て、それでもまだ足りないことに気づく。
 自分が繰り返している原因――恐らくは羽鯨。あの空を割って現れた金色の鯨のようなカタチをした巨大な脳髄。時空を泳ぎ、世界を食らうと言うその化け物ならば、こんな繰返しを発生させることも可能だろう。

 だが、それだけだ。羽鯨が原因だと予想できた。そこまでは良い。
 ならば、その解決法は―――分からない。不明瞭だ。
 得た情報だけでは、解決法には至らない。私はジェイル・スカリエッティとの密談を繰り返した。
 その内に、更に情報は増えていく。本来世界に一人しか存在しない“無限の欲望”。それがもう一人存在すると言う矛盾存在(イレギュラー)。
 名はシン・アスカ。コズミックイラ――現在より253年後の第97管理外世界において無限の欲望となるはずだった、この世界/この時代に、本来は“いない”存在。
 スカリエッティによるこの世界を救済する要となる存在。
 私はその計画を可能な限り支援した。金、施設、人員。それこそありとあらゆる全てに対して。
 もしかしたら、という思いがあった。もしかしたら、この繰り返しから抜け出ることができるのではないのか、と。

 けれど―――シン・アスカは無限の欲望となることはなく、世界は羽鯨に喰われて終わった。
 ジェイル・スカリエッティの計画とは、無限の欲望と化したシン・アスカを生贄にミッドチルダに渦巻く怨念や情念等の感情を一つに纏めあげ、羽鯨に向けて時空間転移を行い、その覚醒を、ミッドチルダではなく、253年後の第97管理外世界―――つまりはコズミックイラで行おうと言うモノ。

 世界一つを守る為に世界一つを生贄にするというのはこの男らしからぬ大雑把な計画だが、仕方が無い。それほどに事態は逼迫していたのだから。
 けれど、それは失敗した。シン・アスカは無限の欲望とはならず、ただの人間としてその生涯を終えた。
 最後に見えた光景。それは二人の女を抱き締めたまま、羽鯨を睨みつけ、朱い瞳を金色に輝かせるシン・アスカの姿だった。

 9度目。
 最後に見た光景が何だったのかは分からない。だが、手がかりと言えば前回の繰り返しで得た情報しかなかった。
 故に更なる情報の収集に勤しむ。シン・アスカが無限の欲望となり生贄となる。間違いなくそれがこの繰り返しを終わらせる近道―――確証はない。殆ど縋り付いたに過ぎない。
 その為に彼に近づいた。
 ―――そして、それが全ての始まり。恐らく私が思い返せる唯一にして最後の幸せな記憶であり、彼を無限の欲望にする為の“繰り返し”の始まりだった。


 ―――きっと、助けに行きますよ。全部放り投げてでも。

 そう言ってくれた彼はもういない。何度繰り返しても、あの時の彼はもういない。
 繰り返すたびに摩耗していく思い出。おぼろげになっていく彼との逢瀬。
 愛を語って、未来を共に歩もうと誓った彼はどこにもいない。
 繰り返しの中で何度も何度も彼に“再会”した。
 彼は何も変わらない―――けれど、私にとって“再会”であっても彼にとっては“出会い”でしかない。
 私の愛した彼はもういない。どこもにいない。必ず助けてくれると言った彼はもういないのだ。
 絶望が胸を覆い、私を終わりへと導いていく。
 求めるモノは終わり。繰り返しの無いたった一つの終わり。
 明けない夜を求めて、私は終わりを求めて繰り返す。

 ―――これは、滅びの未来に支配された宇宙の運命を真っ二つに叩き切る大馬鹿野郎の物語。



 ―――あの日から、半年が経過していた。

 聞こえるのは喧しいエンジン音。ガタガタの道路を陸士部隊用のジープで走りぬけながら、ヴァイス・グランセニックは憂鬱な自分自身を抑えることなく溜め息を吐いた。
 憂鬱なのは今日だけではない。ここ陸士108部隊に“配属”された時からずっと憂鬱だった。

「……はあ」

 溜め息を吐く。正直な話を言えば、こんなどうでもいい哨戒任務など断って、自室で不貞寝を決め込みたいところだった。
 思い出すのはあの日の言葉。

 ――今日は、一人で寝たくないの。
 薄いワイシャツだけを羽織った彼女。ベッドに座ってこちらを見ていた。見につけているものはその白いワイシャツと桃色の下着だけ。
 いつもは横合いで縛っている髪を解き、流れるままにしている――背中の中腹にまで伸びるその髪は月光に照らされて美しく輝いている。
 瞳は怯えた子犬のように自分を見て、愚かにも身体は僅かに震えている。

 口の中が乾いていた。
 心臓が激しく鳴り出して煩い。
 それが緊張によるものか、それとも本来なら絶対に手に入らないモノを“汚す”権利を偶然にも手に入れた興奮なのか―――分からない。
 彼女の瞳はまっすぐに自分を見ていた。
 その瞳に魅入られたのか、目が離せなかった。魔的なほどの、綺麗や可愛いなどを超越した美しさ。
 そして、自分は―――

 頭を振るって、溜め息一つ。呟く。

「・・・ったく、何考えてん・・・ぎゃぶっ!?」

 頭を槍の柄で突かれた。振り返る―――厳しい強面にあご髭をこれでもかと生やしている男。
 リチャード・アーミティッジ。陸士108部隊第二小隊隊長にして、現在のヴァイスの直属の上司である。

「・・・なんすか、アーミティッジ隊長」
「何、ぼうっとしてやがる・・・しっかり前見て運転してろ。」
「はいはい・・・と。」

 小突かれた頭を右手でさすりながら、クラッチを踏んで左手でシフトレバーを操作し、アクセルを踏み込む。速度が上がり、車内の震動が激しくなる。

「今日のこの哨戒も全部教会からの依頼なんですよね?」
「ああ、毎日毎日ご苦労なことだ。」

 そう言って手に持っていたデバイスを待機状態である短杖に戻し、助手席の背もたれを後方に倒し、体重をかける。同時に足を持ち上げてダッシュボードの上に乗せる。
 空を見上げる。舌打ち。苦々しげに唇を歪めるアーミティッジ。

「……廃墟同然になったクラナガンにも行かずに、毎日毎日、俺らはこんなどうでもいいような哨戒任務。教会も何考えてるんだかな。」
「空士部隊も今のクラナガンには入れないらしいですね。」
「……ふざけた話しだ。俺らが行かなくて誰が復興するんだかな。」

 呟いて、リチャードが車載された灰皿を引き出し、懐から煙草を取り出し、オイルライターで火を点ける。
 黄土色のフィルター部分に口をつけ、息を吸い込む。ジジジと煙草の先端が赤く染まり、紫煙が立ち昇る。紫煙を胸に吸い込み、吐き出す。
 ヴァイスが呟いた。

「……教会ってのはあんなに強引な組織だったか、と思うんですが。」

 神妙な顔。その通り、彼の言う通り、教会―――聖王教会と言う組織は、そこまで強引な組織と言う訳ではない。
 無論、管理局の中枢に深く入り込んでいる時点でそれなりに強引な組織ではあるのだが――首都の一部が廃墟と化して、そこへの立ち入りを禁止するような組織ではなかった。
 現在、管理局員がクラナガンへ行こうと思えばそれなりの権限を持った人間の許可や帯同無しではいけなくなっている。
 復興は未だ終わっていない。それどころか、家を失い、行き場を失くした難民は今もそこにいるというのに、だ。
 中にいるのは管理局員よりも圧倒的に少ない人数の聖王教会に所属する人間のみ。噂では一部の管理局員も中にいるらしいが―――噂は噂だ。誰もそれを確認していない以上、それが真実かどうかなど判別しようもない。
 口に煙草を咥えたまま空を見上げ、リチャードが苦々しげに呟いた。

「さあな。少なくとも俺の知る限り、ここまでやるのは初めてだ。」
「やっぱり、あの日に見えた、“アレ”のせいなんですかね。」

 先程よりも少しだけ堅い声でヴァイスが呟く。

「……だろうな。」

 そう言って紫煙を吐き出し、リチャード・アーミティッジは視線を空に向けたまま、あの日の光景を思い出す。

 ――あの日、空が割れた。
 そこから現れた巨大な眼。今、思い出しても身震いするほどの恐怖を感じた。常識外れな巨大な体躯。
 身体中のそこかしこから生えた黄金の翼。あの日、ミッドチルダ中の人間が眼にしたそれ――黄金に輝く透明な鯨のようなカタチをした脳髄。それは、ミッドチルダに住む人間全員に刻み込まれた絶対的恐怖。

 思い出すだけで寒気がして身体が震えてくる。絶対的と言って良い圧倒的な恐怖。
 あれは何なのか。
 ミッドチルダは、次元世界はどうなってしまうのか、様々な噂や憶測が流れ――今でもその熱は冷めていない。人の噂も75日と言うが、そんな格言すら飛び越えるような圧倒的な恐怖がアレにはあった。
 その謎が明かされるまで延々と続くのかもしれない。最も明かされた瞬間が、世界の終りということもあり得る話かもしれないが。
 胸中に浮かんだ馬鹿げた考えを紫煙を吸い込むことで振り払う。
 馬鹿な話だ。世界が滅ぶなど―――あり得るはずもないのだから。

「……本当に、どうなっちまうんだろうな、ここは。」

 苦々しげに呟いて、煙草を灰皿に押し込んで、揉み消す。横目でヴァイスに目を向けて、呟いた。

「グランセニック、家族のところに戻るなら今の内だぞ……と、どうした。」

 車が止まった。振動が消えた。別に前方に何か異常があったようには見えない。
 何事かと思い、ヴァイスに目を向ければ、彼は呆けたように上空を見上げていた。

「……アーミティッジ隊長、あれって、魔法陣、ですか?」

 少し上ずったヴァイスの言葉。呆けた顔に映る感情は驚愕。
 釣られてアーミティッジも顔を上げ―――同じく驚愕を顔に浮かべた。

「……なんだ、ありゃ。」

 上空に浮かでいるのは魔法陣だった。文様はミッド式ともベルカ式とも違う、どこにも分類されない魔方陣。大きさは、正確には分からないが半径10m以上の巨大なモノ。
 ヴァイス・グランセニックの身体が知らず震え出した。彼はその魔方陣に見覚えがあったからだ。
 それは、あの日、ミッドチルダを覆った魔方陣―――戦場に出ていた彼の眼に刻み込まれた、あの“恐怖”が現れる直前に空を染め上げた魔方陣。
 空に、亀裂が入った。あの日の戦場のように。

「空が、割れる……」

 呆然としたヴァイスの呟き。瞬間、空に入った亀裂が魔方陣の全ての範囲に伸びていく。
 空の破片が舞い落ちる。動く雲。青い空などはそのままに、切り取られたようにして、空の破片が落ちていく。
 そして、空に走った縦横に走り抜ける亀裂。その隙間から朱い炎が漏れ出していく。

「あれ、は」

 湧き出るモノはあの日のように金色の光ではなく、朱い炎。
 見憶えるのある色合い―――誰をも守ろうとして死んでいった馬鹿な男の生み出す炎。

(まさか)

 心中の呟きと同時に空が割れる。炎が亀裂を押し上げて広げていく。魔方陣の中心が罅割れた。そこから突き出てくる金色に輝くクチバシのようなモノ――卵から雛が孵るようにして、ソレはどんどんと突き出てくる。
 クチバシのようなモノ。それがつま先だと判別出来た頃には、膝とそしてもう片方の足が、続いて胴体、そして頭部。

「……巨人、だと。」

 穴を突き破り、空間を割って、ソレが現れた。
 現れたのは金色の巨人だった。リチャードに身震いが走る。その威容は色こそ違えどあの日クラナガンを蹂躙した黒と青の巨人に酷似していたからだ。
 身震いが走った。思わず握り締めていた自身のデバイスを起動しようとし―――運転席に座るヴァイスの手が自身のデバイスを抑えていることに気づく。

「グランセニック、お前……?」
「す、すいません。」

 呟いて慌ててリチャードのデバイスから手を話す。
 巨人が全身から炎と推進剤をまき散らしながら落下していく。巨人は両腕を失っており、全身が傷だらけ。金色に輝く装甲もそこかしこにヒビが入り、原形を留めている個所など殆ど無い。見ただけで分かるほどにボロボロの巨人。満身創痍よりもなお酷い、死にかけという形容が最も似合う―――落ちていく巨人を支える朱い炎。
 その色に見覚えがあった。
 まさか、という思いの方が強く、おいそれとそう信じる気にはなれないが―――何故か、確信めいたものを感じる。

 それほど親しい間柄ではない。それどころか、殆ど赤の他人にも近い人間だ。
 同じ場所で共に戦った同僚。本当にただそれだけの関係――何故ならあの男は他人と関わることを全て拒否していたのだから。

 だが、それはありえない――あり得ないはずだ。
 あの男は消えた。跡形も無く焼失したはずだ。映像でもそれは確認されている。
 巨人とあの仮面の男の放った光熱波。それを右手から放つ魔力砲――パルマフィオキーナで迎撃し、あの男は――シン・アスカは、消えたはずなのだ。何故かその場にいた八神はやて、そしてナンバーズの一人と共に。
 だから、それはありえない。死んだ人間が蘇るなどあり得るはずが無い。

(……まさか、な。)

 舞い降りる金色の巨人――それは、CEにてアカツキと呼ばれた“モビルスーツ”の成れの果て。

「……おい、落ちていってるぞ、あれ。」

 リチャードが唖然として呟く。言葉通り、その金色のモビルスーツ――アカツキが、落下速度を緩めることなく、降下――むしろ、落下していく。
 全身のスラスターを小刻みに噴射しながら、方向を少しずつ変えて、落ちる場所を変化させていくアカツキ。

「……まさか、あの森に落とそうってんじゃないだろうな。」

 リチャードの言葉にヴァイスが頷いた。恐らく、いや間違いなくその通りだろう。
 そのまま落下すれば地面との激突によって、あの機体は破壊される。当然、中のパイロットも。
 となれば、自然着陸できる少しでも柔らかい場所――森林が衝撃吸収材代わりになる森などは最適だ。
 しばしの沈黙。そして―――予想通りに激突。と言うか落下。巨人は足元からスライディングでもするようにして森に向かって勢いよく突っ込んでいく。
 ばきばき、と木をへし折る鈍い音が響き渡り、鳥たちが絶望した!いきなり変なの落ちてくるこの世界に絶望した!と言わんばかりに鳴き叫びながら飛んでいく。
 そして―――停止。
 かあ、かあとカラスが鳴いて飛び去っていった。

「……」
「……」

 黙る二人―――どういうリアクションを取ればいいのか分からない。

「……と、とりあえず、いくぞ、グランセニック。」
「あ、は、はい。」

 アクセルを踏んでハンドルを回し、その場に向けて急行する。
 何かが動き始める―――そんな予感が胸にあった。

 ―――まさか、自分が世界を救う一翼を担うことになろうなど、この時のヴァイス・グランセニックは考えもしていなかった。


 画面は漆黒で埋められている。
 ディスプレイから見える光景は全て暗闇――ところどころに見える星のような輝き。星のように見えるがソレは星では無い――恐らくは世界。
 並列世界、多元世界、別時空――本来は認識できない時間の外側世界。
 その中に存在する一筋のトンネルを通り抜ける感覚。
 CEでこの穴に入ってから既に13時間ほどが経過していた。
 コックピットであるが故に室内は狭い。元々3人も搭乗することは想定していないのだから当然だ。
 密着するほどでは無いものの、はやてやドゥーエに至って時折シンの肩に腰掛けている。当のシンはと言えばその殆どの時間を寝ていた。

 限界を超えた魔力行使。その結果としての肉体の結晶化。
 今も両の掌の一部は朱く染まったまま元には戻っていない。両目の金色は消えている――完全に元に戻った部分と言えばそれくらいのものだ。
 命を削ったと言う実感があった。けれど、その命の消費にはどこか清々しさすら感じていた。
 これまでのように、死んでも構わないと思って削るのとは違う。生きる為に、削ろうと思って削ったのだ。自分の意思で。
 清々しさを感じているのはその部分なのかもしれない。多分――というか間違いなく自己満足の錯覚だろうけど。

 ―――そんな風な考えに逃避したくなる程度に現実は無情だった。

『シン、そろそろ、通常空間に復帰するぞ。』

 デスティニーが呟き、ヒリヒリとする頬をさする。

「……ああ、出来れば直ぐにでも復帰して欲しいんだが。」

 呟くシンの頬が微妙に腫れ上がっている。その横で顔を朱く染めて腕を組んでいるはやて。その横で苦笑しているドゥーエ。
 微妙にはやての右掌が紅くなっている――あれで引っ叩かれたのだ。

 コトの発端はこうだ。
 シンが起きれば、はやてとドゥーエがお互いに睨みあって、何かを言い合っていた。それがいつかのギンガとフェイトを思い出させ、ふと呟いたのだ。

『……なんか、そうやってるとギンガさんとフェイトさん、思い出しますね。』
『あら、お望みなら模倣しようかしら?』
『いや、遠慮しとく。どの道、ドゥーエはともかく、八神さんは無理なんだし。』

 誓って言うが、これははやてがドゥーエのような模倣が出来ないと言う意味で言っただけである。
 恐らく、はやてもそう思っていたに違いない。
 次にドゥーエが“嗤い”ながら――ご丁寧に自分の胸とはやての胸を見比べて――呟いた言葉を聞くまでは。

『……ああ、まあ、小さいものね。』

 そして、自分のその後の言葉も拙かった。小さい=身長のことだと思っていた。フェイトやギンガとの真似をするには身長が違うだろう、と思ったからだ。
 大体ドゥーエがそんな風に自分の胸とはやての胸を見比べているなど自分の背後のことなので、見えるはずもない。と言うか振り返ってまでドゥーエの胸を凝視するなど完全に変態の領域である。

『ああ、確かに小さいよな……って、八神さん?』

 肩を叩かれ、振り返ってみればはやての右手が上がっている。
 右手のカタチは紛うことなく平手打ち。いわゆるビンタの姿。

『歯ぁ………食いしばれえええええ!!!』

 咆哮(クライ)。咆哮(クライ)。戦いの咆哮(ウォークライ)―――!!!
 右手が迫ったと思った瞬間には遅かった。スナップの効いた平手打ちが自身の視界を覆い尽くした。

 ―――そうして、今に至る。
 叩かれた頬が凄く痛かった。

「……ちっさくて悪かったな。」

 ぼそり、とはやてが呟いた。あーうーと呻きながら、シンが狭い室内ではやてに顔を向けて口を開いた。

「だから、誰も八神さんの胸が小さいとか言ってないじゃないですか!? 俺が言ったのは、フェイトさんとかギンガさんよりも八神さんは身長小さいって言っただけで…」
「あら、じゃあ、八神はやての胸は大きいって言うの?」

 にやりと笑うドゥーエ。胸を突き出しプルンと揺れる。
 その様を見てはやてが自分の胸を持ち上げ――下ろす。
 ちっさい。ちっさかった。

「……ふ、普通だと思うぞ?」

 ちらちらっと、胸を持ち上げては下げるはやてを視界に入れる。

(……見えてない見えてない見えてない見えてない。)

 現実逃避確定。怖い怖い怖い。
 何で持ち上げて落としてるんですか、それはあれか計量か、計量なのか。揺れるかどうかを確認しているのか。
 ぼそぼそと呟くはやての声。
「貧乳で何が悪いんや……ちっさくてもええやんか……ああ、早く帰りたい。早く帰ってキャロに会いたい。会って安心したい。」

 安心していいのか、判断に困る呟きを徹底的に無視し――そんな自分を見て、くすり、と笑いドゥーエが余計な一言を呟く。

「それでもう5年ほどしたら抜かれるのよね?」
「……キミ、喧嘩売ってるやろ? 売ってるよな? なんや、胸でかいからって調子に乗って!! ええか、でかけりゃでかいほど垂れるのも早いんやで!? そこんとこ分かってるんか!?」

 後方で聞こえるそんな喧騒から目も耳も背けて、必死に聞こえない振りをしながら、前方の画面に目を向け、フットペダルに足をかけるシン。

(……頼む、早く着いてくれ。)

 そう祈るように心中で呟くシン。
 そんな祈りを台無しにするようにデスティニーが呟いた。しれっと。

『控えめと言いたかっただけだろう? 俺はわかっているぞ、シン。 お前がおっぱい星人だと言うことをな。』

 得意げに呟くデスティニー。瞬間背筋が粟立った。

「お前、いきなり何言ってるんだ!?」
『……熱く語っていたじゃないか、ヴァイス・グランセニックとグリフィス・ロウランと一緒に、胸について。』

 海で熱く語っていた。思えば、ヴァイスやグリフィスとはその時、ぶらじゃーと呼び合うような関係になっていたが―――それはまた別の物語である。

「この馬鹿、いきなり何でそんなデタラメ言ってるんだ!! 俺がそんな馬鹿なこと言う訳無いだろ! 鍋敷きにでもされた……ぎゃばらっ!?」

 後頭部に衝撃。見れば、はやての唇が歪んで、目が細まって自分を睨みつけている。

「何がおっぱい星人や、このアホンダラ!! 揺れるモノなき貧しき民ってそういいたいんか?! ちっさいからって何か問題あるんか!?」

 恥ずかしそうというか悔しそうに自分の胸を押さえながら、はやてがシンの頭を叩いた。ついでにドゥーエの胸を揉もうとした。手が届かない。背も小さいのでミニマムです。はやての手がプルプル震え、同時にその手に覆われた胸も――震えない。震えるほど無い。

 ―――ちっさいです。

 見なかったことにしよう。そう、心中で呟いて、操縦桿を握る。

「……と、とりあえず、皆何かに掴まってください! ミッドチルダのどこに落ちるかも分からないんですか……」

 振動が起きる。見れば、画面の中の世界が変化している――中心に白く輝く穴が見えている。

『復帰するぞ』
「いきなりかよ!?」

 言葉と共に即座にフットペダルに足をかける。画面の中心に現れる白く輝く穴。漆黒と純白の境界面。斑模様に混ざりあう時空。
 彼方と此方の境界が近づく。
 操縦桿を倒し、出力レバーを押し倒す。
 デスティニーの呟き。

『出るぞ。』
「……全員、何かに掴まってください!」

 叫びと共に、世界が、塗り変わる―――漆黒の宇宙から純白の輝きへと。
 そして、視界が切り替わる。見えたモノは青空。そして眼下に広がる緑の森。
 空気が変わる。雰囲気が変わる。コックピット内の全員の肉体が強張る。

「デスティニー、座標確認いけるか!?」

 ディスプレイに現れる地図データ。どこからか無理矢理ダウンロードして、現在の地形との照合を行っている。

『ここはミッドチルダ西部エルセアだ。』
「エルセアってことは、」
『陸士108部隊の隊舎の近く―――と言うよりもお前が転移してきた場所だな。』
「あそこか……!!」

 一瞬思い出が頭を掠め、知らず笑みが浮かぶ。
 ギンガと出会った場所――自分にとっての始まり。この世界におけるスタート地点。

「着陸するぞ!」

 叫んで、フットペダルを引き戻し、スラスターを前方に向けて噴射し減速。それでも減速しきれない。フィオキーナも同じく前方に集中し発射。
 落下速度を緩めて、着陸態勢に移行。
 だが、いかんせん背部に設置されていたオオワシは既に無い。機体に据え付けられたスラスターだけでは減速しきれない。
 フィオキーナでも減速しきれない――と言うよりもフィオキーナは元来“加速”する為の魔法であり、減速する為の魔法ではない。用途が違うのだ。

「…ちっ」

 舌打ち。予想していたよりもアカツキの速度が大きい。
 “あの空間”の中ではスラスター等による加速は一切していなかったがそれでも自然落下による速度の増加は予想以上に大きい。
 このままでは安全に着陸できるほど速度域に到達する前に、地面に激突する。
 刻一刻と迫る地面。激突まで残り20秒も無い。

「……」

 言葉は無い。瞳を閉じて、はあ、と深呼吸。深く吸って、吐く。眼を開ける。コックピット右下に差し込まれている短剣―――デスティニーを引き抜く。

「デスティニー、このまま減速するだけで良い。遠隔操作、出来るな?」
『問題無い。』

 以心伝心。本来ならコックピット内の光は全て消えるが――そのまま。デスティニーによるアカツキの遠隔操作。“生前”のような操作は出来ずとも簡単な操作をする分には問題は無い。
 両隣にいる二人の女性――八神はやてとドゥーエに目を向ける。揺れる室内への振動に堪える為にしっかりとコックピットのシートに掴まって、身体を固定している。
 その手を自身の手で握り締めて、引き寄せる。

「へ?」
「え、何?」
「しっかり、掴まっててくださいよ!」

 答えている暇は無い。引き寄せた二人の身体の腰の部分を抱えるようにして両腕で持ち上げる。

「な、何すんの!?」
「ちょっと、どこ触ってるのよ!?」

 途端に喚きだす二人。それを無視して、口を開く。時間が無い。

「デスティニー!」

 相棒への言葉。コックピットハッチが開き、外界が見える。勢いよく空気が入り込み、髪をなびかせ、目が開くのを阻止しようとする。

『いけるぞ、シン。』

 その言葉と共に二人を抱えたまま、外に向けて飛び出す。激突までもう僅か。残り10秒。
 風の勢いが強い。眼を開けていることすら厳しい/問題無い。
 全身に朱い炎――待機状態のフィオキーナ――を展開し、エクストリームブラスト・ギアサード発動。
 体感時間が加速し3倍の速さに到達。即座に全速でコックピットを飛び出す。目前に見える森林。木々が迫る。アカツキは跪くようにして転んでいく。
 アカツキと地面と森に挟み込まれるような錯覚。全身の知覚とデスティニーからの情報展開――周辺の地形情報を、総動員して最も安全なルートを検索――確定。そこに身体を滑り込ませて、加速。
 行先は前方のみ。左右への方向転換不可能。方向を変える際の減速によって押しつぶされるのは明白。故に前方一直線に向けて加速。

「……ま、に……あえ……!!」

 声に余裕はない。加速する。二人を決して離さないとばかりにきつく抱き締める。
 後方から迫るアカツキが森へと突撃していく。減速は続けているが、到底安全な着陸速度ではない為、幾つもの木々を薙ぎ倒して、すっ転び、そのままヘッドスライディングでも決めるような態勢になる。
 アカツキが倒れる。地面とアカツキの距離が狭まっていく――つまり、挟み込まれるまで、あと僅か。

「機能(システム)・光翼(ヴォワチュールリュミエール)いけるか!?」
『一度だけなら。』
「やるぞ!」

 返答は明白。機能(システム)・光翼(ヴォワチュールリュミエール)。シン・アスカにとっての切り札であり、究極の短距離移動魔法である。
 導き出すモノは次元両断跳躍。両脚のフラッシュエッジ―――光翼がぐるりと回転し羽撃たいた。

『機能(システム)・光翼(ヴォワチュールリュミエール)顕現。』

 膨大な魔力が流れ込み、一瞬、視界が暗転する。目標はシンからみて斜め上の上空。切り替わる視界。両手に握る二人の感触はそのまま。
 木々に激突し停止する。衝撃で頭部が背後を剥いて、鈍い音を立てて、外れる――地面に落ちるアカツキの頭部。その金色の装甲が陽光を反射しきらきらと輝きを放つ。

「……あ、危なかった。」

 ぼそりと呟く――視線を下に映すと脇に抱えている二人が自分を見た。

「……もうちょいで死ぬとこやったんやけど。」
「…殺す気?」

 睨みつけるように――というか、睨みつけられている。途端に背筋に冷や汗が流れていくのを感じる。女は怒らせるなと言う長く忘れていた格言を思い出す。

「いや、あはははは」

 苦笑いしか出てこない。言い訳しようにも上手い言い訳が思いつかない。呆れているのか、二人が共に溜め息を吐いて、苦笑している。

「い、今下ろしますね。」

 呟いて降下。二人を下ろして、再度飛び立つ。

「と、とりあえず、ここがどこか、確かめてきますね。」
「思いっきり逃げる気満々やな……まあ、ええわ。行っといで。ほんでなるべく早く帰ってくるんやで。」
「……貴方、もはやお母さんね。」

 呆れたように呟くドゥーエ。友達の家に行く子供見送るように確かにその口調は上司と言うよりも母親と言ったほうが近い。

「私、まだお肌の曲がり角も過ぎとらんのやけど。」

 瞳が鋭くなり、ドゥーエを睨み付けるはやて。二人の視線が絡み合う。

「い、いや、二人ともそんなにキレなく・・・・」

 言葉が止まる。背後に感じる気配。腰に下げていた短剣に手を掛け、引き抜く。

「デスティニー。」

 呟き、短剣の刀身、そして柄に走る朱い幾何学模様の光。
 折り畳み梯子が伸びるように即座に変形/大剣(アロンダイト)へと。フラッシュエッジ――光翼が膝の横に移動し展開。次元両断跳躍の準備が完了する。黒を基調とし朱いラインの入ったバリアジャケットは変わらない。回転式弾層(シリンダー)が回転し、カートリッジを排出。
 全身に満ちていく魔力。全身を覆う全能感は消えない。既に当然のモノとしていつもそこにある。
 意識が鋭く、細く、そして拡散していく。二人から視線を離し、周囲へと目を動かす。

『動くな。』

 念話の声。しゃがれたそれなりに年を取った人間の声。その声に聞き覚えがあるような気がした――記憶を手繰り寄せるも直ぐには出て来ない。

(この声は……)

 心中で呟き、意識を周囲に張り巡らせて行く。気配はする―――しかし、それがどこからの気配なのか分からない。まるで、気配がどこからも湧き出しているような、霧の様な感覚。

「……八神さん、ドゥーエ、その場から動かないでください。」

 周りを見る。いつの間にか霧が辺りを覆っている――日の光すら遮る濃霧。
 大剣を両手で握り締める。高まる緊張。
 ざ、ざ、ざ、と誰かが地面を踏む音。音の方向に目を向ける。

「動くなよ。」

 念話ではない肉声――霧の中から現れた男。
 見えるモノは屈強な体躯男がこちらに向けて構えているのは――恐らくデバイスだ。これまで見たことも無いような物騒な姿――チェーンソーを連想させる大型のデバイスの砲口をこちらに向けている。
 両の手の得物を握る手に力を込める。いつ攻め込まれても対応できるように意識を細くしていく。
 距離が縮まっていく。高まる緊張。同時に霧で見えなかった顔の詳細がはっきりする。綺麗に刈り上げられた黒髪。厳しい風貌とそれを強調するアゴ髭。刈り上げた短髪の髪型。細く射抜くような目つき。
 その顔に、見覚えがあった。

「リチャード・アーミティッジ……?」

 陸士108部隊に所属し、依然シンに声をかけた男――ギンガが死んだと聞いて憤りと悲しみを感じていた男。

「シン…アス、カ……?」

 リチャード・アーミティッジもこちらに気づいたのか、目を見開いて驚いている。そして、その後方から更に声がした。

「やっぱり、お前だったのか。」

 黒い髪と柔和な表情。少し疲れの見える顔色。そして、右肩に担いだ巨大な狙撃銃(ライフル)のカタチをしたデバイス。
 ほんの数週間前までは毎日のように顔を合わせていた“同僚。

「……半年振りだな、シン。」

 ヴァイス・グランセニックがそこにいた。




[18692] 第四部ミッドチルダ風雲篇 60.続く世界(b)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/06/02 17:12

 ミッドチルダ西部地方エルセア。荒涼とした大地と緑に覆われた森林。小麦の生産地としても知られる場所である。
 シートから伝わる振動と耳をつんざくエンジン音。屋根となるシートを取っ払って、オープンカーのように骨組みだけの軍用ジープ。
 助手席に座るアーミティッジはどこか嬉しそうに、運転を続けるヴァイスに話しかけている。
 後部座席に座っているのは3人の人間――シン・アスカ、八神はやて、ドゥーエ。
 シンは右側の席で眠り続けている。ドゥーエとはやてはその横合いで先ほどの胸についての口喧嘩をしばらく続け――途中で飽きたのか、お互いにふんぞり返って、後部座席を占領する。そのせいか、シンの顔は眠りの中だと言うのにそれほど良くはない。冷や汗をかいてどちらかというと、うなされていると言ってもいい。

 彼らが今向かっている場所は、陸士108部隊隊舎。シン・アスカや八神はやてにとっては懐かしい場所であり、ドゥーエにとっては初めての場所。
 特にシン・アスカにとってはある種特別な意味を持つ場所である――ギンガと出会った場所であり、この世界に転移してきた際の始まりの場所なのだから。
 ヴァイスやリチャードと再会した彼らは、あの後、陸士108部隊に身を寄せることになった。
 ミッドチルダ西部地方エルセア――それも陸士108部隊の担当地区の付近と言うのははやてにとって願ったり叶ったりの場所だった。
 ミッドチルダに戻る際に八神はやてが不安に思っていたのは転移した際の出現場所である。
 場所によっては時空管理局との戦闘も考えていたし、最悪自分が囮になってシン達を逃がす算段もしていた。
 少なくとも自分は殺されない程度にはカリム・グラシアに好かれているだろうからだ。

(考えてみれば、とんでもないことしとるんやなあ、私)

 カリム・グラシア。自分は聖王教会の重鎮である彼女に喧嘩を売った。言ってみれば世界そのものに喧嘩を売っているのに近い。
 聖王教会とは全次元世界において最も広く親しまれている宗教である。自分で言う仏教とかキリスト教に近い――規模で言えばそれよりも遥かに大きいのだが。
 その重鎮に喧嘩を売った挙句に幻影とはいえ攻撃しているのだ。指名手配されていてもおかしくはない。
 と言うかそのつもりで彼女はミッドチルダに戻ってきた。
 指名手配であろうと何であろうとやらなければいけないことがあったからだ。

 ――羽鯨による世界の崩壊。それを食い止める為に、彼女はここに戻ってきた。

 時間がどれほど残っているのかは分からないし、どういった手段が必要なのかも分からない。
 現時点でまるで手探りの状態で、手がかりと言えばシンが夢で聞いたリインフォース1の言葉だけ。

 ――お前の願いを叶えてくれ。・・・・・恐らく、それが全てを―――二つの世界を救う唯一の方法だ。

 それが唯一の手がかり――殆ど何も分からないに等しい。
 今、必要なのは情報だった。羽鯨と言う聞いた事もない化け物の情報。
 コレに関してはコズミックイラでも調べていたのだが、わかったことと言えば宇宙を生きる生物であると言うことだけ。それだけだ。
 
 生態、性質、習性等のその本質に至るモノは何も分からない。故に、彼女には行かなければ行けない場所がある。

 ―――無限書庫。時空管理局“本局”内にある、管理世界のデータが全て収められている信じられないほどの規模のデータベース。
 
 曰く、“世界の記憶を収めた場所”。
 恐らく、そこに行けば何かしら手がかりが見つかるだろう。それが、いつになるかは別としてだが。
 あまりにも巨大であるが故に、無限書庫の内部でのデータ検索は困難を極める。それこそチームを組んだ上で年単位で膨大な時間が必要となる。
 今のはやてにそんな時間はない。正直、世界が滅びるまでにどれほどの時間があるのかは分からない。
 だが、“当初”の計画があの戦場だとすれば、それほど先と言うことはないだろう。
 長くとも3年。下手をすれば1年以内と言うことも考えられる。その上、コズミックイラにいた2週間ほどの間に“半年”が経過してしまっている。
 現在(こちら)と未来(あちら)の時間の進み方が違っているということだろう――理由は分からない。理屈も分からない。別に知る必要も無いが。現実に時間が予想以上に過ぎていた。大事なのはそれだ。
 ドゥーエとシンに挟まれる形で座席の背もたれに体重をかけながら、はやては考える。
 
 ―――どうやって、無限書庫に行くか。そしてどうやって探索するかを。
 
 クラナガンではなく、エルセアであることをはやてが喜んだのはこれが理由だった。
 下手にクラナガンにでも落ちようものなら、間違いなく管理局が出張ってきて捕らえようとするだろう。どのような理由があろうと、あのモビルスーツ――アカツキは質量兵器である以上、捕らえられるのが必然であり、その時点で全てが終わる。
 コズミックイラに行く直前に聖王教会に喧嘩を売った。
 別にそれによって引き起こされる免職や処罰が怖い訳ではなく、カリム・グラシアに対して堂々と軟禁の理由が作られてしまっているのだ。
 今、彼女が管理局に自分の生死を告げればほぼ確実に軟禁されるだろう。カリム・グラシアならば、その程度は軽いモノだ。あの時、彼女に喧嘩を売っていなければまだ分からなかったが――喧嘩を売った今となってはすでに遅い。
 故に、アカツキがもしクラナガンの真上に転移しようものなら、戦闘さえも辞さない覚悟があった。同胞である時空管理局に牙を向けるつもりは毛頭無いが、捕まる訳にもいかない。
 行けば恐らく“彼”は力を貸してくれるだろう。“彼”ならば、自分達が単独でやる倍以上の速度で探索を行い、何かしらの結果を出す。
 問題は、どうやって、そこまで行くか、だ。
 前述した通り行けば捕まる。確実――そう、確実に。
 自分以外の誰かに行ってもらう必要がある――それも信用出来る人間に。
 
(……誰に行ってもらうか、やな。)
 
 思い当たる人間はいる。そしてその人物が問題無く無限書庫――クラナガンに入り込む方法も。
 そうして、八神はやては静かに瞑目する。瞳を閉じてゲンヤ・ナカジマとこれから行われる話――その中でどれだけの情報を開示するべきかを考えて、思考の海に沈んでいく。
 

 そこは自室。ヴァイス・グランセニックが寝泊まりしている部屋である。広さはそれほどでもない。本来は相部屋なのだが、現在は空きが出ていて、ヴァイスが一人で使っている。
 部屋の中にいるのは、シン・アスカ、ヴァイス・グランセニック、ドゥーエの3人がテーブルを囲むようにして座っている。
 今、はやては一人、この部隊の長でもあるゲンヤ・ナカジマの元に向かい、話し合いをしている最中で、手持無沙汰になったシンとドゥーエの面倒をヴァイスが見ると言う話だった。
 
 ――まさか、そこでシンに「飲み会しませんか?」などと言われるなどは夢にも思わなかったが。
 
「それじゃ、乾杯。」

 シン・アスカが率先して音頭を取って白い泡と小麦色の液体――ビールが入ったコップを掲げる

「あ、ああ、乾杯。」

 自分もコップを掲げる――同じくビール。

「乾杯……何よ、料理少ないわね。」
 
 ドゥーエが目の前の料理をもしゃもしゃと早速口をつけながら、渋々と言った感じでコップを掲げる。中身は同じくビールだ。
 それなりに大きなテーブルに所狭し並べられた料理の数々を見ると自然と唇がひくついていく。
 スパニッシュオムレツに、豆腐サラダ、フライドポテト、野菜の炒め物に、豚肉の生姜焼きetcetc…その他全部10種類ほどの大皿に乗った料理の数々。
 
「……これ、全部お前が作ったのか?」
「はい、食堂の冷蔵庫の中身、適当に使っときました。」
「……あ、食堂の使ったのか。」
「やっぱ、拙かったですかね?」
「……いいよ、俺から上手いこと言っとくから気にすんな。」
「はは、俺ら、全員オケラだから、助かります。」
 
 そう言って、皆に小皿と箸を配って行くシン――とても、自分が知るシン・アスカと同一人物とは思えない態度だった。
 箸を持って、フライドポテトを口に運ぶ――カリっと小気味良い音。程よい塩気が中身のジャガイモの感触を損なうことなく調和していく。旨い。
 
「旨いな、これ。」

 呟いてもう一つ口に放り込み、ビールを流し込む。ビールの苦味とフライドポテトの塩気が良い塩梅で混ざり合う。旨い。

「昔は結構作ってましたしね。」

 そう言って、ビールを一息に飲み込んで手酌で自分のグラスに注ぎ込むシン。 
 そして、また一息で飲み込む―――ふう、とそっと息を吐いて、ツマミに手を出していく。

「……お前、どんなペースで飲んでるんだ。」
「へ?」

 呆然と呟く自分に対してシンは何事もなかったようにスパニッシュオムレツ――ジャガイモと一緒に焼いてある――を口に運び、ビールを流し込む。
 
「心配しなくていいわよ。コイツ、ザルだから、それ10本飲んだくらいじゃまるで酔わないし。」

 野菜炒めが盛られた大皿を自分の方に持ってきて、直接食べている――既に量は半分以下。食べ方自体は女性らしい綺麗なものなのに、速度だけが違う。通常の数倍と言っても良い速度で口に運ばれていく野菜炒め。
 瞬く間に空になった大皿を自分の横に置いて――見れば既に幾つか作ってあったサラダの皿が二つほど重ねられている。ついでに彼女の後方に置かれたバスケット。その中にフランスパンが6本ほど入っていた。
 それを凝視していると不意にドゥーエが呟いた。
 
「……なによ、あげないわよ?」

 そう言って、フランスパンを切りもせずにそのまま齧りつく。金髪碧眼の美少女がフランスパンにかじりつきながらビールを飲む――シュールな光景だった。
 
「……なあ、シン、あれってナンバーズなんだよな?」
「え? ああ、そうですね。」

 小さな声で呟き、シンが何でも無いことのように返事を返した。
 ナンバーズ。つまりは戦闘機人――それも、ジェイル・スカリエッティ直属の“敵”である。
 数人はゲンヤが引き取り、現在ナカジマ家にて社会復帰――というか更生プログラムに従事しているらしいが、自ら逮捕されることを望んだ者もいる。
 この場にいるドゥーエはそのどちらでもない、“唯一”見つからなかったナンバーズである。それが実は生きていてスカリエッティに与していた。
 ここまでは良い。ここまでは。問題はその後だ。
 どうして、そんな人間がシン・アスカと共にここにいるのか。
 シンは何も話さない。はやてに口止めされているのか、それとも話すべきではないと自分で判断したのか、それは分からないが、彼はまだヴァイスに何も話していない。
 先ほど聞き出そうとしたら、ツマミを作ると言って隊舎食堂の台所に向かって行った。
 飲み会の場であるヴァイスの部屋には台所など無い。せいぜいオーブンレンジが一つあるくらいだ。誤魔化そうとでも思ったのだろう。そうやって、話すことから逃れようと。
 
 そう、“誤魔化した”のだ。あの、シン・アスカが。
 
 正直、それは信じられないことだった。自分――ヴァイス・グランセニックの知るシン・アスカならば、そんなことはしない。単刀直入に事実だけを述べて後は脇目も振らずに訓練を繰り返す。今、ここで料理を作って、“飲み会を企画する”こと自体、シン・アスカならば絶対にしないことだ。
 
(……変わったってレベルじゃねえよな。)
 
 心中で呟き、溜め息を隠すようにビールを煽る。酒は強くも無いが、それほど弱い方でもない。少なくとも“誘われた”飲み会で一滴も飲まないほど下戸と言う訳ではない。
 空になったコップにビールを注いで、視線をシンに向ける。
 シン・アスカ―――彼は、変わった。殆ど別人と言ってもいいほどに。
 無愛想で無表情で陰鬱な男だったはずだ。笑顔を見せることもあった。話をすることもあった。
 だが、その笑いはいつも空虚で、話す話題は――こちらから話題を振れば別だが――大抵が仕事のことばかり。その上、業務が終わって眠る以外の時間は全て訓練に費やす。
 恐らく睡眠時間はかなり少なかったはずだ。そして、訓練の中で意識を失うことも何度かあった。
 明るい向日葵だけが咲いている花園の中に、深海魚が紛れ込んでいるようなそんな人間だった。はっきり言って社会不適合者と言っても過言ではなかった。
 それが、今は違う。
 愛想が良くなった。よく笑うようになった。目にあった虚無が消えていた――その代わりに違うモノが入り込んでいた。それが何かは分からないが。
 端的に言えば明るくなった、もしくは、吹っ切れたと言っていいのだろうが――その理由が分からない。
 半年前、ギンガとフェイトが死んでからのシンはそれまでに輪をかけて陰鬱になった。
 
 たった半年でその傷が癒えるとは到底思えない。仮に目の前にいるドゥーエとシンが“そういう”関係になっていたとしても――それで簡単に忘れられるような男でもない、と思う。
 何かがあったのだろう。ギンガやフェイトの死を乗り越えて忘れ去ってしまうような何かが――そこで、不意に思いつく。
 
(……生きてる、とか?)

 心中で呟き、一瞬の思考の後、ありえないと考え直して、コップの中のビールを一息で飲み干す。
 
 ――あの死体はヴァイスも確認しているのだ。

 下がり切った体温。硬直した肉体。胸から流れる血液――その粘り具合。胸に刺さった剣。そこにベットリと付着した血液。
 触れた。持ちあげた。丁寧に運んだ――淡々とそれを処理するシンをただ見ていることに耐えられなくなってヴァイスはソレを手伝っていたのだ。
 だから、わかる。あの死体は本物だった。これで生き返ったとすれば、死人が蘇ったことに他ならない――在り得ない話だ。
 時間はそれなりに経過し、互いに酔いも回っている頃――聞くなら今が頃合いだ。そう思って呟いた。
 
「なあ、シン。」
「はい?」

 いつの間にかコップの中身がビールからウイスキーに変わっているシン。一息でそれを飲み干す彼に向って正対し、居住まいを正す。
 
「この半年、お前と部隊長と……そこのドゥーエはどこで、何やってたんだ?」

 言葉と共に沈黙と緊張が辺りを包みこむ。
 ドゥーエは黙々と箸を動かし、皿の上の食物――今は焼きソバ――を食べている。
 シンはコップの底に残っているウイスキーを飲み干して、もう一度注ぎこむ。
 無言。ドゥーエは時折シンの方に目をやって、シンはその視線に気づかずにコップの中のウイスキーに目を落とす。氷も何も入っていないストレート。量はコップに一杯――通常のダブルよりも更に多いそれを一気に飲み干す。
 
「お、おい、大丈夫か?」

 その飲みっぷりの勢いが良すぎる為に心配になって声をかけた。
 ウイスキーとは本来もっとゆっくりと飲むもの――と言うよりも、そうしなければ強すぎるアルコール度数ですぐに酔いが回り酩酊する。
 どれほどシンが酒に強いとは言っても、こんな風に飲むのは―― 

「半年、経ってるんですよね。」

 窓から見える半月を見ながら、どこか寂しげに彼が呟いた。

「……シン?」

 自分の呟きに答えることなくコップを傾け褐色の液体を呑みこむシン。彼の朱い瞳がこちらを射抜いた。瞳に籠るモノは虚無ではなく意思。これまでとはまるで違う、確固たる意志がそこに輝いている。
 
「俺が、次元漂流者ってことは聞いてますよね?」
「……ああ。」
「だから、元の世界に戻って――それで、ここに戻ってきた。それだけですよ。」

 そうして、月を眺めながらウイスキーを口に運ぶ。
 質問を続ける――別に聞くべきことではない。そう分かっているのに、どうしても、気になった。
 その変化の理由が――そこに、自分の悩みを踏破する為の言葉があるような、そんな気がして。
 
「……何で、戻って来たんだ? 元の世界戻れたなら、そのままそっちにいればよかったんじゃないのか?」
「戻りたかったんですよ、こっちに。」
「……何でだ?」
「何でって……何ででもですよ。別にいいじゃないですか、そこらへんは。」

 歯切れの悪い言葉。シン自身答えたくないような雰囲気がある。
 後ろめたいのか、それとも恥ずかしいのか―――その両方なのか。
 どちらにせよ、そういった歯切れの悪い雰囲気。
 シン・アスカにそぐわない雰囲気――それとも、本当のシン・アスカは元々こういった人間なのか。
 
 ――海で彼とおっぱいについて語り合った時。その時の雰囲気によく似ている。

 おっぱい星人とは確かに胸について語る時、素の顔が出るのは常識ではあるが……そう考えると確かにこの男は本来もっと明るい朗らかな人間だったのかもしれない。

 そうして、言いださないシンに見切りをつけて話題を変えようかと思った矢先、ドゥーエが呟いた。
 ちょうど自分がビールを口に含んだ瞬間だった。
 
「ギンガとフェイトの二人と二股する為よ。」

 思わずビールを噴きだした。
 同じくシンがウイスキーを噴き出す――小麦色と褐色の液体がドゥーエに向かって伸びていき、瞬間どこから取り出したのか、丸い円形の黒い物体――既に聞かなくなっていたレコードだ――によって彼女にかかることはなく、防がれる。
 
「お、お前、いきなり何言ってるんだ!?」

 血相を変えて、ドゥーエに詰め寄るシン。そんなシンを見て、呆れたようにドゥーエが呟く。
 
「あんた、あっちでそう言ってたじゃない。何よ、今更、照れてんの? かっこ悪いわねえ。そんなんだから、ウジウジ夜中に泣いたりすんのよ」
「な……何でお前、それ知ってるんだ!?」
「盗み見てた。」
「ふざけんなああああ!!!!」

 そんな二人のやり取りを見ながら―――今しがた聞いた言葉をもう一度呟く。
 
「ふ、二股…?」

 呟いた瞬間、シンがこちらに向き直り、詰め寄ってくる。酒臭い息。冷汗すら流している顔――二股と言う言葉の意味を考えればそれも当然かもしれない。
 二股。
 世の中の誰でも知っている最低最悪外道の行為である。
 要するに二人の女と同時に付き合って弄んでよろしくしたいと言うことだが―――どう考えても、目の前のこの男にそれだけの要領の良さがあるとは思えない。
 
「あー、いや、ヴァイスさん、ちょっと待ってください。えーと、俺はね」

 シンが何かを言いかけた瞬間、その懐から電子音が放たれる。
 
『告白されたんだ―――さっさと奪い返して、返事返さなきゃいけないんだよ。』
 
 声の主は紛うことなきシン・アスカ―――朱い瞳の大馬鹿野郎。

「……見事な証拠ね。」

 ドゥーエがにやりと邪悪な微笑みを浮かべながら呟いた。
 その言葉に対して、両手で頭を押さえてブリッジでもするかの如く背筋を逸らすシン。
 
「ノオオオオオオオ!!おい、デスティニー!!お前いきなり何流してるんだ!?」

 懐から豪奢な装いの短剣――刀身は朱く、柄は黒い――を引き抜き、それに向かって叫ぶシン。
 
『素直じゃないことばかり言っているからだ。今更何を恥ずかしがっている。』

 漏れる声は女性の声。けれど、口調は堅い――どこか軍人のような口調。
 
「いや、あのな、俺は別に二股って訳では無くて、二人に対して真剣に……」
『ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウンの二人共に告白するんだろう?それで二人と一緒に暮らしたいんだろう? どちらかというとかなり重婚したいんだろう?』
「いや、だからな」
『いいや、シン、違わない。お前はそう思っているはずだ。重婚したいんだ、二股したい……』
「何、さりげなく洗脳みたいなことやってるんだよ、このくそデバイス!」

 立ち上って部屋の隅に置いてあるオーブンレンジ――両親が無理矢理に送り付けてきた代物――に向かって歩いて行く。
 
『熱っ!? シン、いきなり何をする!!』

 オーブンの中に入っていた暖めていた冷凍ピザ――直径40cmほど――を短剣で引っ掛けるようにして取り出し、そのまま準備していた皿に置き、ピザを切ろうとする。
 
「お前、これからピザ切るナイフな。」
『やめろ、チーズがついてしまうだろうが!?』
「黙れ、このクソデバイス、二股じゃない、純愛だって何回も言ってるだろ!!」
『いや、それ同じ……ああ、やめろ、やめてくれ、シン!!ええい、ならば最終手段だ―――』

 デスティニーが口調を変える――融けあった人格の内の一つへと。
 
『お兄ちゃん、そんなことされるとマユ泣いちゃうよ?』
「ふぐぁっ!?」

 電撃にでも打たれたかのようにビクンッと身体が跳ねるシン。やけにノリが良い―――本当にこれがあのシン・アスカなのか、分からなくなってくる。
 頭痛に耐えるように、額に手を当てながら呟く。
 
「……つまり、お前、二股する為に、ここまで帰ってきたのか?」

 沈黙――場に立ち篭める緊張。

「……あ、うん、そう、で、すね。」

 途切れ途切れの言葉―――沈黙は数分。破ったのは自分だった。

「……お前って、思ったより、バカだったんだな。」

 漏れた声音は思いのほか穏やかなモノで。毀れる溜め息とはまるで正反対の声音。

「あ、あははははは」

 笑い声。シン・アスカの、笑うしかないと言わんばかりの苦笑い――むしろ、泣き笑い。もうどうにもでしてくれと言う笑い。

「気付くの遅いわよ。」
『それがこいつの美徳であり欠点でもあるがな。』
「……言いすぎだろ、お前ら!!」

 ジト目で二人を睨むシン。黙々と食べ続け呑み続けるドゥーエ。時折口調を変えてシンをからかうデバイス・デスティニー。
 ビールを流し込む。苦味が心地良く、アルコールの熱が身体を覆っていく。自然と笑いがこぼれていく。ようやく、滞っていた酔いが身体を包み込む。ベッドを背もたれにして、体重をかける。
 身体から力を抜いて一呼吸――呟く。
 
「……そうか、あの二人……生きてたんだな。」

 思い描く二人――半年と言う時間は二人の輪郭を朧気にするには十分な時間だった。元々、それほど親しい間柄ではないから当然なのかもしれないが。
 今でもあの二人が生きているなど信じられない。あの死体は現実だった。少なくとも自分には現実にしか見えなかった。
 
「…どうして気づいたんだ?」
「こいつが教えてくれたんですよ。」

 そう言って、握りしめるピザを切る為のナイフ――もとい、デバイス・デスティニーを見せる。

「それって、お前のデバイスか。」
「……まあ、今じゃデバイスっていうより、相棒って感じですけどね、こいつは。」

 短剣を懐の鞘に収め、呟く。

「ヴァイスさんは、どうしてここに?」
「どうしてって言ってもなあ・・・・お前ら消えてから、フォワードも全員行方不明になったんだよ。」

 行方不明――その言葉を聞いてシンの顔が歪む。守れなかった責任などと考えているのかもしれない。シン・アスカとは確かにそういう人間だった。そういった根幹の部分はまるで変わっていない。
 その事実に安堵する――自分の知るシン・アスカが残っていることに。
 
「……お前が気にすることじゃない。 あの戦いのこちらの被害は本当に微々たるものだった。死んだ人間だって予想よりもはるかに少なかった。お前が、あれだけ敵を引きつけて破壊しまくったおかげさ。」

 沈黙は続く。顔は髪に隠れて見えない。泣いているのか、それとも笑っているのかも分からない。

「お前がいなかったら、どうしようも無かった―――フォワードの皆が行方不明だっていうのも気にすることでもないさ。どの道あの人達がそんな簡単に死ぬなんて想像も出来ないしな。」
「……そうですね。」
 
 一瞬の沈黙。けれど声の調子は明るい。そのまま口を開いて言葉を紡いでいく。

「ま、おかげで6課は解散した。そりゃ、そうだ。フォワードが全員行方不明となりゃ、そんな部隊存続させてる意味も無いからな。それで俺はここに配属されたって訳だ。」

 そこまで言い切ってコップの中のビールを口に含む。話し続けていたからか、すっかり温くなってしまったビールの味に顔をしかめていると、不意にシンが呟いた。
 
「死んだ人は何人いるんですか?」
「聞いてどうする?」

 返答して空になったコップに新たなビールを注いでいく。小麦色の液体がガラスのコップを埋めて上端に白い泡を形成していく。
 瞳をコップから外し、シンに向ける―――朱い瞳がまっすぐ自分を見ていた。
 
「知っておかなきゃいけないからです。」
「お前が責任を感じることじゃないって言ったはずだ。」

 声の調子が強くなる。それでもシンは変わる事無くこちらを一心不乱に見つめている。
 
「お願いします。」
「あのな、シン……」
「お願いします。」

 呟き、こちらに詰め寄ってくるシン。
 視線が絡み合う。有無を言わせぬ刺し穿つような視線。見詰めると言うよりもむしろ睨みつけると言った方が正しい。気圧されないようにと、朱い瞳を睨みつけ―――溜め息を一つ吐き、視線をシンに向ける。
 
「……」

 朱い瞳は変わることなくこちらを睨み付けている。恐らく言わない限りは絶対に諦めないのだろう。
 ドゥーエを見れば、ビールを見ながらテレビをつけて見ている――シンがこういう人間だと言うことを知っているから止める気も無いのか、別にどちらでもいいのか。それともその両方なのか――多分両方だろう。
 
(……言いたくないんだけどなあ)

 別に言うべきことでも無い。
 言ってはいけないことでもない。
 隠している訳でも無いから当然のことだが――個人的な心情として、何人死んだかなどは言いたくなかった。
 この男は死んだ人間の倍以上の人間を結果的に救っており、死人が何人かなどとシンが重荷に思う必要は無いからだ。
 視線は今も変わらない。睨み合うこと数分――結局、折れたのは自分だった。
 
「……フォワードの皆やお前達を抜けば23人だ。」

 押し黙るシン。顔を歪め、悔しそうに拳を握り締めている。

「……だから、お前のせいじゃないって言っただろ。その人数だってお前がいなけりゃもっと増えてたんだ。お前が責任感じるようなことじゃ―――」
「それでもですよ。それでも、誰かが死ぬのは嫌なんです。」

 小さな、けれどはっきりとした声。
 拳を握るシン。髪に隠れて顔が見えない。右手を開いて深呼吸。握り締めて、呟いた。
 
「責任、感じたいんですよ、俺は。」

 シンの唇が。その頬が、歪み、“微笑んだ”。
 強欲な微笑み。薄ら寒さすら感じさせる化生の微笑み。

「―――もう、誰も死なせないって誓ったから。」

 ぞくり、と背筋が粟立ち、冷や汗が流れていく。
 怖い、と思った。純粋な恐怖を感じる。
 何故、微笑むのか。何故、そんな笑いを浮かべるのか。
 責任を感じて後悔するのなら、まだわかる。だがそれならば笑みは無い――後悔は悔恨。
 悔しがるならば、ともかく笑うことはないだろう。自嘲の笑みならばともかく、“不敵な笑み”など在り得ない。
 
「……シン?」
 狂気に走った人間は何人も見てきた。
 武装隊にいればそういった人間には事欠かない――自分だって似たようなものだった。
 境界線は曖昧で、此方と彼方はコインの表と裏のように簡単に切り替わる。
 だからこそ、分かってしまう。狂気と正気の両方に身を置いていた自分だからこそ分かる。
 目前の男が紛うことなく、狂気に身を染めているのだということを――なのに、それが“どんな”狂気なのかが分からない。
 歯車と歯車が噛み合わない。おかしな話、これだけの狂気を抱くのならば絶望の一つや二つは受け止めて、壊れていなければおかしいのに―――目前の男はあまりにも“普通”に舞い戻っていた。
 だからこそ、怖い。目の前の人間が“何”なのか、分からない。狂っているはずなのに、狂っていないようにしか見えない。
 それが怖い――まるで、いつ爆発するか分からない爆弾が目の前に在るようで。
 シンが口を開いた。同時に室内に満ちていた狂気が一瞬で掻き消える。悪魔が一瞬で人間に戻っていく。
 
「……いや、いいです。ありがとうございます。それだけ聞いときたかったんです。」
「あ、ああ。」

 返答を返せたことが奇跡に近い――それほどの狂気。息を吸うことすら忘れるほどの空気。
 それは理解出来ないモノを目にした際に人間が行う共通の反応。即ち、停滞。
 
(今のは、何だ……?)

 いつの間にか、握り締めていた手の中に汗が溜まりこんでいる。
 粟立った肌が戻らない。心臓の鼓動が煩い。
 再度飲み出したシン。それをからかいながら、次々と食事を続けるドゥーエ。
 変わらない。先ほどの光景と何も変わらない。深海魚はどこにもいない。そこにいるのは、どこにでもいるような、ただの男。
 ―――なのに、その男が発した狂気は自分がこれまで感じた狂気とは比べ物にならないほどに強大で禍々しかった。まるで、悪魔のような狂気だった。
 
「お前……シン・アスカ、だよ……な?」

 知らず唇が動き、言葉を紡いでいた。

「? じゃなかったら、何なんですか?」

「あ、いや……なんか、ちょっと確認したかったんだ、悪い。」

 取り繕うようにして、呟き、会話を切り上げて、ビールで喉を潤そうとコップを傾け“褐色の液体”が口内に流れ込んで行く――苦味と炭酸の代わりに、喉が焼けるように熱くなる。体温も
一気に上昇する。

「あ、それ俺の」

 見れば――慌てたばかりに自分はシンのコップを一気に飲み干していた。
 つまり、中身はウイスキー。
 間違っても一気飲みなどしてはならない酒。少なくとも自分にとっては。
 意識が一気に断絶する。瞼を開けていられない。耳に聞こえる誰かの声が遠くから聞こえるように反響する。残響する。共鳴する。
 意識が落ちていく。真っ逆さまに落ちていく。
 落ちていく意識の中で、ふと思った。
 
(二股する為に故郷放り出してくるとか……“あの人”が聞いたら卒倒するだろうな。)

 心中で吐いたその言葉と共に、“あの人”を思い出す。
 そう、あれは――残暑の厳しい熱帯夜のことだった。
 
 では、物語を折り返そう―――これは、運命に裏切られながらも、己の道を貫き通す“もう一人の男”の物語。
 



[18692] 第四部ミッドチルダ風雲篇 61.続く世界(c)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/06/02 17:14

 ―――高町なのはとは高嶺の花だ。それこそ、一般の管理局員などにしてみれば彼女は殆どアイドルと言ってもいいほどに、手の届かない存在だ。
 その容姿、魔導師としての能力、実績。どれを取っても一般の管理局員などは彼女と釣り合わない。
 無論、ヴァイス・グランセニックの価値基準から見ても、高町なのはという女性は高嶺の花である。
 だから、本来ならこんな状況は在り得ない。
 こんな、ヴァイス・グランセニックを、高町なのはが誘惑するなど在り得ない状況である。

(…い、いや、こ、これはちょっと待て。いいか、落ちつけ。落ち着くんだ、ヴァイス・グランセニック。)

 深呼吸をしようと息を吸う。息を吸う。息を吸う。吐く。
 息を吸う。息を吸う。息を吸う。吐く。
 息を吸う。息を吸う。息を吸う。吐く。
 息を吸う。息を吸う。息を吸う。吐く。

(って、違う!これラマーズ法!!出す方だから!!)

 セルフツッコミが唸りを上げてヴァイス・グランセニックの心を駆け巡る。
 まったくもって、落ち着いていない。落ち着いている人間は自分に向かって落ち着けとは言わない。
 状況を整理しよう。
 誰と共にいるのか――高町なのは。エースオブエースとして名高い“高嶺の花”である。
 場所は高町なのはの部屋―――高層マンションの一角である。
 時刻は深夜0時を過ぎて丑三つ時まであと少し。
 どうやってここまで来たか――居酒屋からタクシーを使って移動した。
 家に送る為であって、やましい思いなど何もない。
 何よりヴァイス・グランセニックにとって高町なのはという人間は高嶺の花であり、そういう関係になりたいような女性ではない。

 ―――では、何故ここにいるのか。

 本来、高町なのはとヴァイス・グランセニックに接点などは無い。
 機動6課という場所で同僚ではあった。だが、それだけだ。
 彼女がゆりかご事件以後に休職し、子育てに専念している間、連絡を取り合うような仲では無い。
 元よりヴァイス・グランセニックにとって高町なのはとは高嶺の花であり、尊敬できる上司ではあるかもしれないが、手を出したい類の女性ではない。
 彼の好みはあくまで普通だ。
 どこにでもいるような普通の女性。面倒なしがらみや肩書きなどまるでない、言ってしまえば花屋にでもいるような、ソバカスのちょっと多い女性である。
 可愛いとか綺麗で言えば、どちらでもない、普通が好きなのだ。
 ならば何故、居酒屋で一緒に飲むような関係になったのか。
 ハッキリ言って偶然である。たまたま居酒屋で居合わせて飲むことになり、それから何とは無しに一緒に飲むような関係になった。それだけの関係である。

 あの日、ジェイル・スカリエッティによる襲撃が起きた日。機動六課は崩壊した。解散ではなく崩壊である。
 元・部隊長である八神はやて、シグナムを初めとする四人のヴォルケンリッター。そしてフォワードの全員―――ティアナ・ランスター、スバル・ナカジマ、キャロ・ル・ルシエ、シン・アスカ。
 彼ら9名がMIA(行方不明)となったからだ。
 前線に出るメンバーが全て消えた以上、部隊としての能力などないに等しい。
 故に崩壊。そして、解散となった。
 当然、機動六課に配属されていた人間は襲撃後に全員別の課に配属されることになる。
 なるのだが、異動と言うのはそれほど簡単に済むものでもない。
 誰をどこに、どういった意味合いで――それを決めるのは簡単なことではない。元より慢性的な人手不足に悩まされている管理局にとって、浮いた人材を配置する場所など幾らでもあるだけに、優秀な人材の配置換えと言うのは簡単にはいかないのだ。
 それ故に解散したからと言ってすぐに転属はしない。常ならば、年の初めに転属が行われると言うことが多い。
 そういった事情から機動6課は、崩壊後もしばらくの間維持されていた。
 自ら配属先を願い出る者。時空管理局そのものを辞める者。ただじっと転属を待つように日々の業務を行い続ける者――先のクラナガンでの戦闘の後始末の為に、仕事だけは幾らでもあった。

 その中でヴァイス・グランセニックは、日々の業務を行い続けていた。
 黙々と言われるがままに業務を繰り返し続けた。
 悲しいとか辛いとか、そういう想いはあった。けれど、それ以上にヴァイス・グランセニックを苛んだのは無力感だった。

 彼の魔導師としての実力はそれほど高くは無い。
 平均以上ではあろうが、だからと言って“特別”な訳でもない。
 遠距離からの魔法による狙撃が出来る。ただ、それだけと言っても良い。
 あの日、空を割って現れたあの化け物。そして、あの巨人。
 何人もの魔導師が死んだ。シン・アスカを囮にすることで、被害を減らすと言う作戦は成功したものの、それでも何人もの人間が死んだのだ。
 人が死ぬことにはそれなりに慣れている――けれど、慣れたからと言って麻痺している訳でもない。
 ましてや、自分の同僚達がその中に含まれているのだ。悲しくない訳が無かった。
 無論、シグナム達ヴォルケンリッターや、ティアナやスバル、キャロなどが簡単に殺されるとも思っていない。彼らは生きている――そんな想いはあった。
 けれど、八神はやてとシン・アスカは違う。彼ら二人は死んだ。ヴァイス・グランセニックはそれを、己が眼で確認しているのだから。
 巨人がその手に握った巨大な銃から放った光熱波とシンの放った近接射撃魔法――パルマフィオキーナ。
 それがぶつかり合い、呼応するように空が割れ、“目”が現れ、そして、全てが焼失した。
 その後に残るのは仮面を被った白い鎧騎士と眼鏡をかけた若い女――恐らくは戦闘機人。

 簡単に呆気なく、あれほど化け物じみた力のシン・アスカが完膚なきまでに殺されたのだ。
 ヴァイス・グランセニックは弱い。いや、弱くは無いかもしれないが、少なくとも強くは無い。
 そんな彼にとってシン・アスカとは嫉妬と驚愕の矛先だった。
 意識を失い、身体を壊すような度を過ぎた訓練によって自らを鍛え上げ、それですら説明出来ないほどの速度で強くなり続けた。単純な強さで言えば6課内では最強とも言えるほどの化け物のような強さ。ある意味、彼にとって、シン・アスカは強さの象徴でもあったのかもしれない。
 別の世界からやってきて、強くなって、何もかもを守ろうとするような馬鹿げた生き方。
 それはどこか、自分がなれなかった“モノ”を想起させたからかもしれない。
 それが―――殺された。完膚なきまでに。
 膨れ上がって、勝手に誰にも知られることなく、託していた夢はその時潰えた。
 彼が感じた無力感とはそれだ。
 化け物じみた――それこそ、本当に人間なのかと疑いたくなるような力を持ったシン・アスカでも敵わない敵――あの白い鎧騎士。そして、空を割って現れた正真正銘の化け物。

 首にかけたストームレイダー。自分自身の相棒であり、自分自身の武器。
 それで、何ができるのかと。ここにいる意味は何なのかと。
 あまりにも強大過ぎる相手を前に人は諦観しか抱かない。
 そして、諦観した人間は、それに従って生きるか、抗って生きるかのどちらかしか選べない。
 彼が選んだのは前者――即ち、諦めて生きることを選んだ。
 元より諦めることが多かった人生である。
 今更それが一つや二つ増えたところで何にも変わらない――そう思ったから。
 その結果、彼は諦めることを選んで、日々に埋没していった。
 そうして――たまたま、飲み会に誘われた。
 武装隊時代の友人が落ち込んでいるヴァイスを元気づけようと合コンを開いてくれたらしい。気分ではないと断ったが、いいから来いと無理矢理に連れてこられた。
 無論、そんな状況で合コンを楽しむことなど出来る筈もなく――結局、合コンの片隅で一人寂しくコップを傾けると言うことになった。

(……俺は何でこんなとこにいるんだろうな。)

 心中で呟き、ビールを流しこむ。長テーブルを囲むように9人の男女が並んでいる。
 既に始まって3時間近く経過しており、雰囲気はすでにお開き――つまり、お目当ての男性、女性に対する携帯電話の番号交換とかそういった流れである。

 皆が携帯電話番号の交換を行っていると言うのに、ヴァイスはまるで動かない。そういう気分では無かった――そういう気分になりたくもなかった。

「……悪い、サム、俺行くわ。」
「へ? おい、ヴァイス! どこ行くんだよ!」

 後方から聞こえる声を無視して、居酒屋の暖簾を潜って、店を出る。代金は少し多めにテーブルの上に置いてきた。
 そのまま、少し小走りにその場から離れること数分。
 立ち止まって、自動販売機に硬貨を入れて缶コーヒーを買って取り出し、開ける。口に流し込む。
 アルコールで火照った身体を覚ます甘すぎる糖分の味。

「ふう……また、空気読めないとか言われてんだろなあ。」

 一息吐いて呟きながらネオンで照らされた歓楽街を歩く。都合よく今日は金曜日。週休二日制が導入されているミッドチルダのサラリーマンにとっては、花の金曜日ともいう日である。
 空気を吸い込む。夏の気配が色濃く残る残暑の空気。
 天気予報では晴天だったが――歓楽街の明るさに紛れて夜空の星は見えない。

「……これからどうすっかな。」

 言葉には誰も答えない。

 ヴァイス・グランセニック。彼は、どこにでもいる普通の人間だ。
 生まれも普通。特殊な稀少技能も無ければ、特別な魔法の才能がある訳でもない、どこにでもいる凡百の魔導師に過ぎない。
 魔導師になろうと思ったのも、子供じみた妄想が始まりであり――“あの日”からは惰性で務めているだけに過ぎないから、余計に性質が悪い。
 普通に生きて、普通に学んで、普通に成長して。
 僅かばかりの才能とも呼べる魔法を使えたから管理局に入って――多分、その頃は夢溢れる少年だったのだろう。
 そして、武装隊に入ってエース――それでも一流には程遠い――の魔導師と呼ばれるようになって。
 そこに行き着くまでに何度かの挫折を繰り返して、諦めて、現実に摺り切れて、それでも頑張って。
 狙撃には自信があった。何百、何千、何万という回数の訓練を繰り返したから当然のことだった。
 それで自信を持てないのなら訓練などする意味が無い。
 けれど、自分は誤射をした。失敗した。あってはならない失敗で傷つけたのは大切な妹。
 そうして――逃げだした。けれど、逃げだした先でも、その傷痕は消えることなく、そこにあった。

 自分は、引き金を引けなかった。
 引けなかった引き金。
 その引き金が重かったのか、軽かったのか今となっては分からない。思い出すこともない。
 挙句の果てには見舞いに来た妹とまともに接することも出来ずに、愚痴を吐く始末。
 情けなくて、悔しくて、嫌になった。
 そして――もう一度、銃を手に取った。
 どれほどの力になったのかは分からない。ただ引き金を引き続けた。
 あの日、妹を誤射した幻影を穿つようにして、何度も何度も撃ち続けた。
 狙撃手として、自分は生きてきた。
 失敗も、成功も、全ては狙撃手としての技量によって解決してきた。克服してきた。

 ――けれど、ふと、思う。
 自分がなりたかったのは何なのだろうか、と。
 あの光景――シン・アスカの敗北する姿。あれを思い出す度に思う。
 何も出来なかったと言う無力感ではなく、何をしても意味など無いのではないかと言う無力感に。

「……管理局、やめるってのもいいかもな。」

 幸い、実家に帰れば手に付ける職くらいはある――彼の実家は酪農をしており、本来なら後継者として期待されていたから。
 妹であるラグナとの関係も改善して、手に付ける職もある。そうして、結婚して落ち着いてもいいかもしれない。
 そんな益体も無い考えが浮かんで、ふと、聞き覚えのある声がした。
 声の方向に振り返り、その声の出どころを探る――程なくして、その“女性”は見つかった。

「……あれって、まさか。」

 にゃはははは、と風変わりな笑い方をする女性。
 髪を横合いで縛りつけ、服装は薄い黄緑色のワンピース。キャバクラやスナックで働いている女性とは違う、薄い化粧、唇を朱に染める口紅。
 それは――本来、こんな場所にいるはずもない女性。
 高町なのは。管理局のエースオブエース――歓楽街に最も似つかわしくない女性だった。
 紅潮した頬が示すとおりに随分と酔っぱらっている――訂正。ゴミ捨て場の横の電柱に寄りかかるようにして、うな垂れている状況が示すように完全に酔い潰れている。足元のパンプスは踵が折れている。バランスを崩して転んで、足を挫いたのかもしれない。
 その前にいる複数の若い男達。染めたのが丸分かりの金髪と耳にあけた幾つものピアス。
 ズボンを腰のあたりまで下げている。馬鹿な子供の群れ。それは、彼女から一番“離れた”位置にいる人間達。
 高町なのはの手が、男達に掴まれた。彼女の身体を引っ張り上げようとしている。
 それに対して駄々っ子のように、電柱の前で座ることを誇示する高町なのは。
 どこにでもあるような、酔い潰れた女とそれをナンパして、どこかに連れて行こうとする男の図。

「………はあ。」

 溜め息を吐いて、足を動かす。記憶を掘り返し、しばらくぶりの彼女のことを思い出す。
 理解出来ないことは幾つもある。彼女がどうしてこんな処にいるのか。彼女がどうして酔っぱらっているのか。
 あの聖王のクローン体である少女と養子縁組を行い、今は一緒に暮らしているはずだ。
 だからこそ、どうして、こんなところにいるのかと考えた。

(……子どもと喧嘩して、勢いあまって飲みにきたとかか?)

 心中で自問し、恐らくそうなのだろうと当たりをつけ――彼女をどこかに連れて行こうとする若者たちに近付いていく。


 胡乱な意識。砕けていく自分。
 聞いたことも無いような名前の酒を、経験したことのないような速度で喉に流し込んでいく。
 飲むほどに自分が壊れていくのを感じる。
 焼けるように熱い身体。薄れていく記憶。消えていく身体の感覚。
 その中で思い出すのは―――あの子が行ってしまった日の記憶。


「くっ!?」
「……大人しくするんだ、なのは。」

 自分の腕を押さえつけ、動けなくしている人間――クロノ・ハラオウン。
 冷たい声。これまで自分には一度も聞かせたことが無いような、底冷えするような声。

「離して!! このっ、離してよ、クロノ君!!」
「それは出来ない。」

 冷たい表情のまま呟いて、彼が右手に携えた杖が輝いた。
 杖の名はS2Uと呼ばれるストレージデバイス。
 輝き/魔法の行使――放たれる魔法は束縛の魔法、チェーンバインド。
 その魔力光と同じ水色の鎖が虚空から現れ、自分の身体を捕縛する。

「な、んで……!!」

 床に押さえつけられ、犯罪者を取り押さえるようにして自分を抑えるクロノ。

「何で……どうして…どうして、何も話してくれないの…・・・!?」

 答えはない。二人共に何も答えない。

「……お願い、話して……!!」

 沈黙。答える必要は無いといわんばかりに、答えがない。沈黙は数秒。その間もヴィヴィオの足は止まらない。この身を縛る拘束も消えはしない。
 魔法を使ってまで、自分を捕縛しようとする――自分の中の危険な部分が鎌首をもたげてくる。

「ユーノ君……!!」
「……君は何も知らなくていい。」

 ――その言葉に自分の中の荒々しい部分が反応する。
 魔力を構築。デバイス・レイジングハートが手元にあることを確認。覚悟を決める。

(ヴィヴィオは……渡さない……!!!)

 心中での絶叫と共に練り上げた魔力を解放。放つ魔法は中距離誘導射撃魔法アクセルシューター。
 その魔法を選んだ意味は無い。殆ど無意識の取捨選択。発生させる数を脳内で形成。数量は6つ。
 狙うは自分を押さえつけるクロノ・ハラオウンとヴィヴィオの手を取って連れて行こうとする“幼馴染”。

「アクセル――」
(みんな、ごめん―――)

 威力の調整と非殺傷設定は行っているものの、距離が近すぎることと態勢の悪さから、まともな誘導は期待出来ない。つまり、いつものように掠めるような軌道を走らせることは出来ない。出来るとすれば直撃、それのみ。
 当たれば死にはしないし、後遺症なども残らないだろうが――意識くらいは確実に刈り取ってしまう。
 そこに一抹の後悔を見出しながら、それでも彼女の魔法は乱れない。
 構成されていく6発の魔力弾。
 そこに意思を込めればそれは一瞬で二人の意識を刈り取り、ヴィヴィオを自分の元に取り戻す。

「……無駄だ。」

 クロノ・ハラオウンがその魔力弾に気づいた。
 だが、遅い。彼が何をするよりも早く、自分の魔力弾は彼らの意識を―――クロノが右手を無造作に“振るった”。瞬間、構築した魔力弾が途端に霧散した。

「え……?」

 呟き。理解が出来なかった。何が起きたのか、何をされたのか、まるで分らない。
 構築し、収束していた魔力弾がいきなり霧散したのだ。
 彼が、ただ、右手を振るっただけで――それこそ、御伽噺にしか出てこない魔法のようにして。
 掌の中に掴んでいた砂が突然消えたというような感触。
 理解出来ない――それでも鍛えられた高町なのはの脳髄は次の展開を模索し勝手に魔法を構築しようとする。
 そこに再びクロノの手が触れた。

「な、ん……で…!?」

 魔力が“霧散”する。初めから魔力など無かったようにして、自身の魔法が霧散する。

「……諦めるんだ、なのは。君では僕を倒すことは出来ない。」

 淡々と静かに呟くクロノ。自分を縛り付けるバインドの強度は変わらない。自分が足掻いていることなどまるで“問題にしていない”。

「ふざ……け、ないで……よ、クロノ君……!!!」

 顎を床に押し付けた。
 そのまま、頷くような動作を行い、身体を前に進ませようとして――動かない。バインドによって捕縛された身体は決して動かない。
 それでも諦めずにそれを繰り返す。

「ヴィ、ヴィ……オ……!!」

 声が掠れていつもの自分の声とは到底思えないような声が漏れた。
 呟きに反応したのか、碧と紅色のオッドアイを持つ幼い少女が振り向いた。

「ヴィヴィ……オは、渡さない…!!」
「世界を救うためだよ、なのは。」

 よく通るソプラノボイス。自分と同年代のはずなのに、その声は今もあの時のまま変わらない。
 幼い頃から共にいた、眼鏡をかけた栗色の髪の青年がそう告げた。

「ユーノ、君……どう、して……!?」

 目前にいるのは、ユーノ・スクライア。自分をこの道に誘った“恩人”であり、大切な、友達。
 自分の声に籠る感情は悲哀と疑問。
 事の発端が何なのか、高町なのはは知らない。知る由もない。

 何故なら彼らは突然現れ、困惑する彼女を余所に彼女の養女――高町ヴィヴィオを連れ去ろうとしているのだ。
 世界を救う生贄にする、とそれだけを、なのはに伝えて。
 意味が分からなかった。理解出来なかった。どういうことかと聞いても、返ってくる答えは一つだけ。
 世界を救う、と。
 彼らはそれだけを呟いて、ヴィヴィオを連れ去ろうとしており――あろうことか、ヴィヴィオですら、それを受け入れて、自ら行こうとしているのだ。
 生贄になると、そう言って。
 そんなこと――認めることができるはずもない。

「う……あ、ぎ………ああ……!!!」

 呻くように叫びながら、少しでも少しでもヴィヴィオに近づこうと足掻く。
 顎の先に痛み。何度も何度も顎を叩きつけるようにして身体を動かそうと足掻いたからか、顎の先から血が漏れている。同時に口内からも。
 口の中に満ちる鉄の味。血液の味が口内を満たしていく。
 諦めない。絶対に諦めない。

「ヴィヴィ……オ……!!」

 もう、前などまともに見えていない。動いているかどうかも分からない。
 それでも我武者羅に、ただ我武者羅に身体を動かそうとする/動かない――知ったことか。
 心中の言葉で自身を鼓舞して、さらに身体を――そこで、声をかけられた。

「……なのはママ、ヴィヴィオ、いくね。」

 思わず顔をあげて、ヴィヴィオを見た。距離はすでに数十cm。
 手を伸ばせば/捕縛され、
 手を伸ばせば/動かない、
 手を伸ばせば/届かない―――届くはずの距離なのに。
 ヴィヴィオは笑っている。“嬉しそう”に笑っている。
 かつん、かつん、と足音。眼鏡の位置を右手で直しながら、こちらに近づていくるユーノ。

「……なのは、ヴィヴィオは、世界を救う生贄にならなければいけない。」

 冷たい声。何の感情も籠らない、淡々とした声色と口調。
 彼との長い付き合いの中で、これほどに冷たい声音を聞いたのは、初めてだった。

「どう、いう……こと、なの…ユーノ、君……!!」
「……ヴィヴィオは死ぬ。そして世界は救われる。これは、ヴィヴィオ自身も望んでいることなんだ。」

 冷たい声。眼鏡の奥の瞳は――いつもの柔らかな輝きとはまるで違う、冷え切った鋼鉄のような硬さと冷たさを見せている。
 睨まれている訳ではない。ただ、見つめられている――それだけで、どうしてこんなにも恐怖が滲み出てくるのか。

「そんな、ことは……」
「……ほんとうだよ。」

 たどたどしい呟きが、身体を凍らせる。彼に怯えていた声すら途中で止まった。

「ヴィヴィ、オ……?」
「……お空がわれた日から、きこえるの。」

 ヴィヴィオが胸の前で手を組んで、瞳を閉じて呟く――まるで、耳を澄ますようにして。

「声が、きこえるの。あのくじらの声が。」

 閉じた瞳。少女が聞こえているモノが何なのか、自分には分からない。
 そんな当然のことが、自分とヴィヴィオの間にある壁のように思えて、胸が苦しくなっていく。

「だから、何で……!!」
「……わたししか、せかいをまもれないの。」

 瞳を開いた。左右で色の違う瞳。聖王という出自を最も色濃く表す瞳。瞳に映る感情は、幼い身体に不釣り合いな覚悟と決意。
 ―――その覚悟と決意が、自分に諦観を促していく。

「ユーノさん」
「……なんだい、ヴィヴィオ。」

 ヴィヴィオの呟きに答えるように、ユーノが少女の前で片膝をつき、視線の高さを同じにする。

「わたしがいけば……なのはママをまもることはできますか。」
「キミが、そう望むのなら。」

 ユーノ・スクライアは高町ヴィヴィオ/聖王の少女に向けて右手を差し出す。

「……ありがとう、ございます。」

 そう言って高町ヴィヴィオは微笑んで、手を掴んだ。

「なん、で……どうして……?」

 呻くような呟き。全身を再度動かそうと思っても、クロノが施したバインドによって身体はまるで動かない。さっきから何度も何度も魔法を発動しようとしているのに、その全てが次から次へと霧散していく。
 困惑する思考。混濁する視界。混迷する意識。
 滲み出てくる自分の黒い部分。
 魔法が“霧散させられる”と言った経験したことも無い状況。
 そして、自分が引き取った義理の娘が“自らの意思”で自分の元から離れていくと言う状況。
 守る――守られる、私が守られる。何故どうしてどうやっていつ誰が――浮き上がる言葉と言葉と言葉。

 守る側として生きてきた。それを誇りに思って生きてきた。
 “もう戦えない”と言われ、休職し、それでも心の奥底で戦いを――守ることを渇望していた。
 守れなかったことなど一度もなかった。望めば守れた。戦えば守れた。それが事実であり結果だった。
 力があったから――力があったから守れた訳ではないのは分かっている。力だけではないのもわかっている。
 けれど、力が“無ければ”守れなかったのは確かだった。

「ヴィ、ヴィ……オ。」

 なのに。
 レイジングハートを起動、セットアップ、行動/魔法が霧散して結果にまで辿り着かない。
 再試行。魔法発動/霧散。
 再試行。魔法発動/霧散。
 再試行。魔法発動/霧散。
 再試行。魔法発動/霧散。
 再試行。魔法発動/霧散。
 再試行。魔法発動/霧散。

 繰り返すトライアンドエラー。視界が真っ赤に染まっていく。鼻腔が血で詰まって息苦しい。
 限界を超えた魔法行使。ギアチェンジに失敗したクラッチ板が焦げ付いていくように、自分の中の傷だらけのリンカーコアが焼き付いて、脳神経が焦げていく。
 クロノ・ハラオウンがナニを行っているのか理解出来ない。
 その手を振るう度、その手が触れるだけで結果(マホウ)が霧散する。
 それでも止めない。止めない。止めない。止めれば、何かを失う。大事なモノを。これまでずっと持ってきた大切なナニカが壊れてしまう。

 ―――強い■■を失ってしまう。

「ああ、あぁぁあ、あぁぁ……!!!!」

 喉に血が張り付く。視界が赤く染まる。全身が動かない。
 諦めるな、諦めるな、諦めるな、諦めるな。
 諦めなければ必ず“何とかなる”。今までずっとそうだった。
 諦めない限り、必ず何かが起きるはずだ。だから諦めるな。絶対に諦めずに――拘束が緩まった。

「っ……あぁっ!!」

 瞬間、渾身の力で、両手で身体を持ち上げ、右足を前に出し、左足で身体をけり出して、前に進み、突き進む。伸びた右手が、ヴィヴィオの手に届いて、そして――
 掴んだ手は暖かく、安堵が胸に宿って、振り返った少女の顔は困ったようにはにかんで、

「……さよなら、なのはママ。」

 願い/右手が無残に振り払われて。

「ヴィ、ヴィオ……」

 後方から拘束(バインド)が全身を捕縛し締め付け、過負荷を掛け過ぎた脳髄はその時点で限界に達して―――意識はそこで途切れた。眼が醒めれば、ご丁寧に鍵を閉められた自分の部屋。
 嘘だと思って、部屋を見回しても少女はいない。
 幻だと信じても、顎に残る傷が真実だと告げて胸が痛い。
 空っぽの部屋。誰もいない。誰もいない。誰もいない。
 押入れの中にも、テーブルの下にも、風呂場にも、トイレにも、洗面所にも、どこにもいない。
 どこにも、いない。
 毀れる涙は寂寥と悲哀と―――後悔から。
 もう誰もいない寂寥と、彼女を守れなかった悲哀と、“守る側”で在れなかった自分への後悔。

 ――その時、私の心は折れた。

 呆然と過ごすだけの毎日。時間にして数日ほど。体感時間はその倍以上に感じた。
 歓楽街に飲みに行こうと思ったのは、何かを期待してではなく―――いや、実際は期待していたのだろう。折れた自分の心を壊してくれる何か。
 諦めてしまった自分へ与える断罪。それを求めて――自分を更に貶めてくれる誰かを求めて。
 飲んだことも無い酒を、経験したこともないような速度で飲み続けて、そして

 ―――眼が醒める。

 見えるものは蛍光灯。明るく、そして騒がしい広い部屋――背中から感じる感触は畳みの感触。
 視線を横にずらせば、見えるものは足の短いテーブルと、騒がしく飲んでいる誰かと誰かと誰かと―――

「あ、起きました?」

 聞き覚えのある声。期待していた光景と違うことに違和感と僅かな“安堵”を覚えて、無言で瞳を上げた。
 見えた顔は、まるで予想していなかった人の顔。

「ヴァイス、君?」

 暇そうに携帯を弄りながらビールを飲むヴァイス・グランセニックがいた。



[18692] 第四部ミッドチルダ風雲篇 62.続く世界(d)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/06/02 17:14

 そうして、ヴァイス・グランセニックと高町なのははその夜を過ごした。
 別に何かあった訳でもない。彼にとっては暇つぶし以上の何者でもない。
 ただ上司が酔い潰れていたから、介抱して、そのついでに飲み足りなかったから飲んだだけ。
 その日、彼は高町なのはと共にタクシーに乗って彼女の部屋まで送り届けそのまま帰宅した。
 これと言って、何も無かった。
 高町なのはに部屋に招かれはしたのだ。だが、彼はその誘いに乗ることなく、すぐに帰宅した。
 明日も仕事があるから、と。
 連絡先は聞いていない。聞く気も無いし、そういう気分ではなかった。

 ――ヴァイス・グランセニックとは堅い男である。
 言動や態度で勘違いされがちだが、彼の貞操観念は非常に堅い。厳格な両親に育てられたことに加え、田舎というそういったモノが崩れ難い場所で育ったせいか、そういう“美味しい事態”を忌避する傾向がある。
 合コンなどをあまり好まないのもそういった部分があるから。
 そんな彼が、酔い潰れた高町なのはに対して自分の部屋に連れて行くとかどこぞのホテルに連れて行くなどとする筈が――否、出来る訳が無い。彼は、据え膳食わぬは男の恥、ではなく、据え膳食わぬが男の誇り、という風に捉えているのだから。

 そして、もう一つ理由があった。むしろ、こちらの理由の方が大きいのかもしれないが。
 彼は面倒な女性が苦手だった。無論、軽い女が好きな訳では無いが――だからと言って重い女が好きな訳でもない。
 至って普通の女性が好きなのである。少なくとも、エースオブエースとか管理局最強とか下手なアイドルよりもアイドルじみているような上司など、彼の女性の好みからすると完全にアウトである。
 その上、規律正しく、周りを導く優等生肌な性格と、才能と経験に裏打ちされた実績。
 面倒かどうかなど考えるまでもなく面倒だった。
 だから、彼が高町なのはに手を出すことなどあり得ない――彼自身そう思っていたし、女性として興味も無かった。
 大体、彼女とは同じ部隊ということで、それなりに付き合いは長いが――それだけだ。
 長く付き合いがあるせいで、顔と名前は一致するし性格もある程度は把握している、ただそれだけ。
 プライベートで一緒に遊んだりするようなことは一度も無い――というか、ある訳が無い。誘おうと言う気も無い。
 それが―――

「…それでね、ヴァイス君、聞いてる?」
「ええ、まあ、はい。」
「はやてちゃんとか酷いんだよ?私のホットケーキ勝手に食べておいて、焼き方が上手くないとか文句ばっかりで……げふっ、聞いてるの、ヴァイス君!?」

 げっぷを吐き、中ジョッキに注がれたビールをグイグイと飲み下しながら、延々としゃべり続ける女性――高町なのは。
 あれから週に一度のペースで彼女――高町なのはと自分――ヴァイス・グランセニックは飲み会をしている。
 毎週の金曜日。待ち合わせをして、居酒屋で飲んで帰る。その繰り返し。

(……何がどうなってんだろな)

 そう、思うこともしばしばあった。
 飲み会は嫌いではない。どちらかと言うと好きな方だ――友達連中と馬鹿な話をしながら、飲むことはヴァイス・グランセニックでなくとも楽しいものだから。酒自体が嫌いではないのも関係しているのだろう。

「聞いてるの、ヴァイス君!?」
「いや、聞いてます、聞いてますって!!」
「……そうやってさっきから相槌ばっかりで、私の話しなんて一つも……」
「いや、聞いてますよ!?ちゃんと聞いてますって!!フェイトさんが、エリオとキャロにチェリーパイ作ろうとして、オーブン爆発させたって話ですよね!?」
「……なんだ……ちゃんと聞いてたの?」
「だから聞いてますって。」

 こちらの返答に暫しの間、黙考すると手元にあるコップを煽るようにして飲み込んでいく。
 中身は褐色の液体――確かジャックダニエルとか言う酒だった。
 ちなみにマトモに飲めていない。ちょびちょびと舐めるように飲みながら、時折今のようにぐいっと煽っては、テーブルに頭をごつんと打って目を覚ましている。
 ごつん。テーブルに額がぶつかった。少しだけ涙ぐんでこちらを見るなのは――無論ヴァイスはビールを飲みながら携帯を弄って見てない振りをする。

 ―――これが今日だけならともかく毎週見せられているのだから、ヴァイスもかなり慣れてきている。
 当初こそ、いちいち反応して慌てていたが現在では無視するのが一番なのだと理解している。
 慌てると大丈夫だ大丈夫だと騒ぎながら余計に機嫌が悪くなる。
 ヴァイス・グランセニックにとっての鬼門中の鬼門。凄まじく面倒な女性だった。

「……お母さんは、お母さんで、私の生活態度に文句ばっかりだし……私だって……」

 愚痴が始まる――まるで、良い子の仮面を被っていた少女が仮面を脱ぎ捨てるようにして、溜めこまれていた愚痴が吐き出されていく。
 延々となのはの愚痴が続く。飲み会は大体時間にしておよそ3時間――なのはが酔い潰れて眠るまでの時間だ。
 その間、ヴァイスは延々となのはの愚痴の聞き役に徹する。
 普通なら、延々と愚痴を聞かされようものなら途中で頭に来て帰るものだが、ヴァイス・グランセニックは割と律儀な男だった。
 簡単に言えば、ノーと言えない日本人に近い。頼まれると断れない。誘われると拒否し切れない。
 曰く――肉食に見えるけど実は草食系。それがヴァイス・グランセニックの自分自身による評価だった。

(奢るって言い出したの俺だけどさ、何で毎週奢ることになってんだか。)

 続く愚痴に耳を傾けながら心中で自分も同じく愚痴る。
 ヴァイス・グランセニックの給料はそれなりに高い。
 時空管理局と言う潰れるはずのない職業――いわゆる公務員である――に勤めているのだから、その給料はそれなりだ。

 だが、世の中の男性と同じようにヴァイスもまた浪費は激しい。
 オートバイの駐車料金、ラジカセが壊れたので買ったばかりのミニコンポ、ノートパソコン。そして、服。
 古来より女は金がかかると言われるが、男も大して変わらない。
 パチンコやスロット、競馬にハマらないだけ、まだマシなのかもしれないが。

「……それで……それでね、ヴィヴィオ、が……」

 続いていた愚痴は途中から養女の自慢話に変化し――いつも、ここで彼女の口は閉じる。
 ヴィヴィオ。
 その言葉を放った瞬間、彼女の瞳はそれまでの輝きが消えて、淀んだ眼に切り替わる。光など何も無い、彼女に似つかわしくない汚泥の瞳に。
 時計を見る――11時。そろそろ、時間だ。そう思って彼女に声をかける。

「なのはさん、そろそろ帰りましょうか?」
「……ん。」

 首を横に振るなのは。酔っ払い特有の帰りたくないと言う動作。
 けれど、それをする時点で酔っ払っている訳で――ヴァイスは、彼女の右手を取って、呟く。

「帰りましょうよ。明日も仕事ですし。」

 そう言うと、こんな酔っ払った状態でも生真面目な彼女は苦々しげな表情を浮かべて、数秒間沈黙し、

「……うん。」

 頷いた。仕事、と言うキーワードに反応したのだろう。
 それは元・上司であることの矜持によるものか、それとも“それ以外”の感情によるものなのか。
 多分、前者だ。当然のように分かりきった事実。
 なのに――その表情を見るたびに少しだけ胸が苦しいのは何故だろうか。
 勘定を済ませ店員にタクシーを頼むこと数分。思っていたよりもはるかに早くタクシーが来た。
 彼女を先に乗せ、彼が隣に座る――そうして、彼女を送り届けて、彼は歩いて駅まで向かい、徒歩で帰る。それがこの飲み会の終わり方。

 タクシーの車窓から見えるクラナガンの光景を眺める。ネオンで輝く世界。あの襲撃によって壊されなかった場所。
 毎回、意識を失くすくらいに飲んで酔い潰れるので、彼女がタクシー代を払ったことは一度も無い。
 大体、いつもヴァイスが払っている。正直、出費の方はかなり大きいが――奢ると言った手前、それを途中で反故にするのも嫌だった。

 それに、実を言うとそれほど、この飲み会は嫌でもなかった。
 高町なのは、とは、管理局員にとって、高嶺の花だ。
 決して届かないと言う象徴。
 空を飛び桜色の砲撃魔法を打ち放ち、悪を倒して正義を唄う英雄――或いは正義の味方。 
 誰が見ても分かるほどの分かり易い英雄。
 その手で世界すら救えてしまう女性。
 世界と言う重さを壊す破壊者。

 高嶺の花と言う名前ですら、彼女の前では霞んでしまう。
 そんな彼女も一人の人間だとこの数週間で知った。
 当たり前のように笑って、当たり前のようにいじけて、当たり前のように酔い潰れて――そんな当たり前を見られた。
 勿論、機動六課で同僚をしていた以上は他の人間よりも彼女に近かったのは間違いない。

 けれど、そこではそんな風な“当たり前”は見られなかった。
 飲み会などをしたことは無い――と言うよりも女性だらけの飲み会に参加したくは無い。
 確かに彼はおっぱい星人だがそれとこれとは話しが別だった。
 女性だらけの飲み会にポツンと男性が一人いる。よくこれをハーレムだ、両手に花だなどと揶揄する人間もいるが実際はそんなに良い物ではない。気まずい。かなり気まずいのだ。
 あの女性同士の話題に男性が入って行く瞬間の気まずさと言ったらかなりのものがある。

 元よりそういったことは無かったが―――前述した理由から、あっても恐らく参加はしなかっただろう。
 だから、彼は――と言うか恐らく近しい人間以外は知らないのだろう。高町なのはが同じ人間なのだと言うことを。
 たとえ英雄でも正義の味方でも、その正体はただの人間――そんな事実、こんな風に一緒に飲まなければ知り得なかったことだ。
 馬鹿だと言われるかもしれないが――それはそれで悪くない気分だった。
 財布が常の何倍の速さで軽くなっているのは間違いないが。

(……ま、悪いことばっかじゃねえさ。)

 肩に暖かな感触。横を見れば、寝息を立てる彼女が自分に寄りかかってきている。
 無防備この上無い、隙だらけの姿。
 それを――ほんの少しだけ、可愛いと思った。

「馬鹿だね、俺も。」

 呟いて、そのままにしておいた。
 こうやって、お目当てでも無い女の愚痴を聞くのも悪くない――そんな馬鹿な自分に苦笑した。
 それが、これから壊れるとも知らずに。


 ――今日は、一人で寝たくないの。
 薄いワイシャツだけを羽織った彼女。ベッドに座ってこちらを見ていた。見につけているものはその白いワイシャツと桃色の下着だけ。
 いつもは横合いで縛っている髪を解き、流れるままにしている――背中の中腹にまで伸びるその髪は月光に照らされて美しく輝いている。

 瞳は怯えた子犬のように自分を見て、愚かにも身体は僅かに震えている。
 口の中が乾いていた。
 心臓が激しく鳴り出して煩い。
 それが緊張によるものか、それとも本来なら絶対に手に入らないモノを“汚す”権利を偶然にも手に入れた興奮なのか―――分からない。
 彼女の瞳はまっすぐに自分を見ていた。
 その瞳に魅入られたのか、目が離せなかった。妖しさすら放ち――常の彼女には決して無いであろう、淫魔の如く綺麗や可愛いなどを超越した、魔に染まった美しさ。
 そして、自分は――

 ――此処に来るまでの軌跡を思い出す。別に、いつも通りのことだった。
 彼女を部屋まで送り届け、そして、彼女に――手を、引かれて。
 その眼に魅入られたように、そのまま寝室に連れられて。
 彼女はただ自分の手を引いて、そして、少しだけ待っててと言って、自分を置き去りにして――そして、ワイシャツと桃色の下着だけに着替えてきた。
 どくん、と胸が高鳴った。
 誘蛾灯に誘われる蛾のようにして、足が勝手にそちらに近づこうとする/踏み込むべきではないと自分のどこかが告げる。

 口内はカラカラに渇いている。心臓の鼓動がどくんどくんと鳴るたびに、耳にまでその振動が届いて鼓膜が破裂しそうに震える。耳だけではない。全身全てが心臓になったかと思うような――土砂降りのような鼓動の音。
 毀れる吐息。彼女の瞳がこちらを見た。
 それに、僅かに身体を身じろぎさせて後ずさる。
 月明かりだけが部屋を照らす。ベッドに座る彼女はただただ綺麗で、綺麗で、綺麗で――

「……お願い、ヴァイス君。」

 そうして、今に至る。
 落ち着かせる為に息を吐けば逆に吸い込むと言う愚行さえ犯す始末。

(落ち着け。いいか、落ち着け。)

 その言葉を吐く時点で落ち着いてなどいない。困惑する思考と混濁する視界。室内は薄暗く、月明かりのみが部屋を照らす。
 いつの間にか、時刻は深夜0時を過ぎて丑三つ時まであと少し。

「……ど、どうしちまったんですか?」

 それだけを零す。意味が分からない。どうして、何故、何で。意味の無い問いが脳裏で渦巻いていく。
 意味が分からないからだ。理解出来ないからだ。
 どうして、自分をここに誘ったのか。
 そう、どうして、自分なのか、だ。
 場にそぐわない感触。自分がここにいるのは“おかしい”と言う曖昧な確信。
 彼女が瞳をこちらに向けた。
 その瞳を濡らすのは期待とわずかばかりの欲情――いや、違う。そんな“正しい”感情ではないモノ。
 もっと、どす黒い何か。

「……ヴァイス君。」

 彼女が自分に近づく。
 ワイシャツの隙間から見える胸の谷間――思っていたよりもあるのかもしれない。
 思わずごくり、と喉を鳴らしつつ――我に返って、後ずさる。

「…じょ、冗談は」
「……冗談なんかじゃ、ないの。」

 手首を掴まれ、引っ張られる――彼女の顔が自分の胸の辺りにぶつかる。

「な、なのはさん……?」

 その二つの手が自分の背中に回される。瞳は見えない。
 鼻腔をくすぐる香り――彼女の髪の匂い。柔らかな身体の感触を感じる。回された腕に力が篭って抱き締められる。

「……もう、一人で寝るのは嫌なの。」

 一人、と言う言葉を聞いてようやく気が付く。

(……ヴィヴィオ、ちゃんがいない?)

 時刻は既に丑三つ時――深夜一時。
 大抵の子供は既に寝ているだろうし、この生真面目な上司であれば、この時間には既に寝かしつけていることだろう。
 なのに、いない。子供がいないのだ。
 ベッドには誰もいない。顔を動かし、部屋を見る。寝室から全てが見える訳ではないが――まず、気配が無い。
 寝ているのならば寝息の一つでもありそうなものなのに、何も聞こえない。
 聞こえてくるのは、彼女と自分の息だけで――
 辺りを見回す自分に気づいたのか、彼女が呟く。

「ヴィヴィオは……いないよ。」
「え?」

 彼女が顔を胸に押し付け、表情を隠す。どんな顔をしているのか。嗤っているのか泣いているのか、今の態勢では何も見えない。

「ヴィヴィオは、もういない―――世界を救うんだって、行っちゃった。」

 言葉は流麗にすらすらと流れていく。予めこんな言葉を準備していたような錯覚すら覚えるほどに滑らかに彼女は語る。

「…どういうことっすか。」

 少しだけ声が上ずっているのが分かる。

「わからないよ。私も……何にも分からないの。」

 彼女の手が自分の服を掴む。胸元が何かで濡れていく――多分、涙。それに気付いて起こそうとすると彼女の両手の自分の服を掴む力がそれを拒否するように強くなる。

「フェイトちゃんは死んで、はやてちゃんも死んで……・ヴィヴィオも生贄になるってどこかに行って……ユーノ君やクロノ君は、ヴィヴィオを連れて行っちゃって。」

 低い声でそう告げる。変わらず顔は見えない。掴む手の力も抜けていない――否、言葉を吐き出すごとに強くなる。

「……もう、誰もいないの。」

 呟きと共に涙がこぼれて、シャツを濡らす。彼女が隠していた気持ちが溢れていく。吐息が胸にかかり、彼女の体温が伝わってくる。
 かける言葉は無い。室内に満ちるのは痛いような沈黙。どちらも口を開かない――どうするべきなのか分からない。
 慰めればそれで良い。別に小難しいことなど何も無い。
 手を彼女の背中に回して抱き締める。それだけで良い―――はずなのに。
 彼女の顔が、重なる。
 あの日――妹を誤射した日。その日から僅かの間、一人の女性に溺れたヴァイス・グランセニックに。

 ―――キミはそういうことが出来ないもんね。

 いつかの女の言葉が蘇る。

 ―――妹さんに会いに行かないの?

 現在と過去が重なる。眼の前で泣いている彼女が、泣いているいつかの女に重なる。

 ―――それじゃ、さよなら。

 もう、思い出の中にしかいない“女”。今はどこにいるのかも分からない“女”。自分が大切にしたかった“女”。
 面倒な女は苦手だった。自分に何かを求めてくる女は苦手だった。そう、こんな風に――誰でも良いから縋りつこうとする女は苦手だった。昔の自分の鏡写しを見ているようで。
 胸の奥にある傷跡が疼く。
 重なるはずの無い肖像。目前の女性とは似ても似つかない女性との思い出。目前の彼女と重なるのは自分の姿。そして立ち尽くす自分に重なるのはいつかの“誰か”。
 手を伸ばそうとして、戻す。繰り返すこと三回。繰り返すごとに震えが酷くなる。脅えと罪悪感で。
 高町なのはを抱き締める。ただそれだけが出来ない。

 彼女がどう思っているにせよ、抱き締めれば、ただ抱き締めるだけで終わる筈も無い――それが、どうしようも無いほどに嫌だった。そんな抱き方は嫌だった。好きでも無い女を慰める為だけに抱くのは嫌だった。
 胸の傷跡が疼く。思い出の中の誰かの肢体が蘇る。
 慰め合った記憶。妹を守れなかった罪悪感の発散。無力感に苛まれ逃げ出した後悔。
 思い出す幾つもの記憶――何故それらを思い出しているのだろうか。
 胸が痛い。抱き締められるだけで冷汗が流れ出て止まらなくなる。
 自己嫌悪が全身を這いまわる。毛虫のように這いまわる。蛇のように絡み付く。

「……今だけでいいの。私と一緒に――」

 過去と現実が交錯する。記憶の中の自分と交錯する。彼女と自分が重なり合う。
 生理的な嫌悪感。吐き気を催す自己嫌悪――同族嫌悪の極みだ。

「……すいません、俺、帰ります。」

 そう言って、彼女の言葉を遮って、その身体を押し退ける。

「……ヴァ、イス、君?」

 間抜けな返答。何を言われているのかすら理解できていない呆けた顔。
 まさか――断られるとは思わなかったのだろう。彼女はいつも人の輪の中心にいたから、そんな発想は生まれてこないのかもしれない。

「……なん、で?」
 ようやく見れた顔は泣いていたせいか、瞼は赤く腫れ上がって眼は充血して、頬は涙で濡れていた。本当にあの時の自分と――今もさして変わらない自分と同じ顔。その顔に無言で背を向けた。
 縋りつくような声音。その声を聞くたびに胸が締め付けられるように痛い。
 血を流す妹の顔が思い浮かび、その後に溺れた誰かの顔が思い浮かび、そして最後に浮かんだのは――そんな誰かを裏切った自分の顔。
 見ているだけで苦々しさに包まれて死にたくなる、そんな顔。

「俺は、あんたとそんな関係になりたくて、飲んでた訳じゃないんです。」

 冷たい声。先程までのように暴れ狂う胸の鼓動は最早無い。心の内が平面になっていく。白濁化して何も見えなかった意識が鮮明に常の光景を取り戻す。
 波打たない平面の心。抉られた傷跡を忘れる為に心が身体を制御する。

「楽しかったから飲んだだけです。だから……困るんですよ、そういうの。」

 口調は出来るだけ平坦に。顔は出来るだけ朗らかに。

「一緒に……いてくれないの?」

 こちらを見上げる彼女の視線は普段ならばありえない儚さすら感じられて――それがどこまでも、昔の自分と重なり合って、胸が疼いて居た堪れなくなる。

「あ、あはは、俺そういうの苦手なんで。」
「……そっか。」

 彼女が俯いて、こちらから意識を逸らした。二の句を告げる前にその場から足早に歩いて、玄関へ。

「いく、の?」

 縋るような声/聞きたくない――誤魔化すように笑いながらその場を離れる。
 玄関に到着する。ドアノブに手をかけ、回して引く。

「それじゃ、俺、行きます。」
「……ま、待ってよ、ヴァイ……」

 彼女が言い終える前に扉を閉めた。扉の前で深呼吸を一つしながら、呟く。

「……なのはさん、悪い。俺やっぱりアンタ無理だわ。」

 一瞬眼を閉じて、気を取り直して全力疾走。目指すは階段。エレベーターで下りるなど面倒なことはしていられない。
 階段に近づくと、階段を二段飛ばしで降りていく。その最中呟いた。

「……嫌な事、思い出しちまったじゃねえか。」

 口調が変わる。上司への口調ではなく、地の口調へと。
 彼女の縋り付くような声が耳障りで仕方が無い。胸の奥から湧き上がる真っ黒な情動。
 階段を降り切って、出口に急ぐ。焦燥感があった。一刻も早くこの場から出ていきたいと言う焦燥が。
 マンションの出口の扉に手を掛ける。視界の隅に郵便受けが見えて、そちらを何の気なしに振り向いた。
 見えたモノは、“高町”と書かれた郵便受け。

「……っ」

 舌打ちと共に扉を叩くようにして開けて走り抜けた。
 耳障りな言葉が反響する。反響する度に思い出したくも無いモノを思い出して、沈黙だけを求めて走り抜ける。

 ―――そうして、自分はその場を去った。その数日後に陸士108部隊へ配属されることが決まったと連絡があった。
 彼女――高町なのはに連絡をしようと電話を手に取った。けれど、いざ連絡をしようとするとどうしても、“別にそこまでする必要があるのか”という思いが浮かび上がった。
 彼女と自分はただの元上司と元部下。

 何の因果か、飲み友達のような関係になったが、それだけだ。それ以上でもそれ以下でも無い。
 そこから先は無い。望んでいないし、求めていない。
 結局、連絡は取らず、自分はクラナガンを出て行った。彼女からの連絡はあったが、もうクラナガンにいないことを告げると寂しそうに「そう」とだけ呟いて電話は切れた。
 胸が少しだけ苦しかった。

 それから、連絡は無い。こちらから連絡を取ることも無い。
 ――部署が変われば、環境も変わる。そこに慣れるだけで結構な時間は必要となる。仕事に溺れることで嫌なことは忘れていった。
 けれど、昔の自分と重なる彼女の泣き顔と寂しそうな声が脳裏から離れない。
 そして、機動六課で共に過ごした仲間達との記憶も――その全てが自分を苛んでいるような気がして離れない。

 ――お前は、そのままでいいのかと。流されて行くだけでいいのか、と。


 眼が醒めた。カーテンで閉められていない窓から差し込む月明かりのせいか、部屋全体が明るい。時計を見れば時刻は1時。結構な時間を寝ていたようだ。
 寝ていた場所は自室のベッド。かけられていたシーツをどかし、身体を起こす――途端、頭痛が走り抜けた。

「……あったま、いてえ。」

 ぼそりと呟きなが身を起こす。コメカミの辺りがズキズキと痛み、胸の中心が熱い――胸焼けだ。テーブルの上に所狭しに置かれていた幾つもの料理は既に全て片付けられており、自分の上にはしっかりとシーツがかけられている。
 恐らくシンやあのナンバーズ――ドゥーエが片付けたのだろう。
 頭痛に顔をしかめながらどういう状況かを思い出す。意識を失っていたのは、シンの酒を一気飲みしたせいだろう。そこから先の記憶がまるでない。
 当然と言えば当然か。舐めるようにして飲むべきウイスキーをコップ一杯分ほど一気飲みしたのだから。
 思い出すと余計に吐き気がこみ上げてきた。

「…・・・吐いてくるか。」

 シーツをどけてベッドから足を下ろして立ち上がる。立ち上がった瞬間、吐きそうになった――それを堪えてそのままトイレに直行する。
 扉を開けた瞬間、冷え切った廊下の空気が室内に入り込む。
 暖房で暖められていた室内に慣れ過ぎて、冷気が身体に染みて一気に眼が醒める。
 醒めた意識に引っ張られて同時に吐き気も酷くなる。

「……うっぷ。」

 吐き気を堪えながら歩く。途中、廊下に全てぶちまけてやろうかとも思ったが、醒めた意識が後のことを考えさせて思い留まらせた。
 数分の歩行。それだけで酷く辛かったが、吐き出してからは楽だった。
 水面に浮かぶ吐瀉物を眺めながら、荒く息を吐いて、トイレのレバーを動かし、流す。
 トイレットペーパーを千切り取って、口元を拭い、トイレに落とす。
 レバーを動かそうとして、もう一度吐き気がこみ上げてくる。

「……ぁっ…!!」

 うめき声を上げながらトイレに口元を向けて肉体の思うままに吐き出させる。食道を通って流れ出てくる酸っぱい匂いのする吐瀉物。中身は酒とツマミと酒とツマミ――胃の中から全てが出ていく。ベッドで吐かなかっただけマシだった。後の処理のことを考えると起きたことは実に良かった。
 ひとしきり吐くと、胸がすっきりして、全身にどっと疲れが押し寄せる。

 トイレットペーパーを引き回し、千切って口元を拭う。それをトイレに放り入れて、レバーを回す。
 ざー、と水が流れる音だけが室内に響く。
 手洗い場で手を荒い、口をすすいで吐き出す。ついでに顔も洗う。冷気で冷された水道水が酔った火照りを更に覚まし、少しだけ気分が改善された。

「……寝るか。」

 ぼそりと呟き、ふらふらと廊下を歩き、部屋を目指す。
 深夜の隊舎は静かだった。既に季節は2月――エルセアは雪は降らないが、それでも寒い。
 吐く息は白く、ぶるっと身体が震えてくる。吐き気で誤魔化されていたが、気温は恐らく5℃以下は確実だ。

「なんか着てくりゃ良かったな。」

 両腕を交差させて身体を抱き締めるように抑え擦る。少しでも暖かくなるように――僅かに暖かくなる。
 ふと、屋上へと続く階段、その先にある扉が開いているのが見えた。月明かりが差し込んでいる。

「……道理で寒い訳だ。」

 入り込んでくる風の冷たさに顔をしかめながら、階段に近付き登って行く。
 開いた扉と扉の隙間から差し込む月明かり――酔いを覚ますには良いかと思い、少しだけその扉を動かした。

「さっむ……と、おお、やっぱ晴れてるのか。」

 扉を開けて屋上に入り込む。空は晴れて冬特有の柔らかい輝きを放つ月が鎮座している。星は月の光に隠れてその姿を隠してしまい、何も見えない。

『動作がずれて来ているぞ、シン。……来客だ。一旦休憩するぞ。』

 声がした。慌てて振り向き、その方向――ヴァイスがいる場所と逆側――入口から離れた奥まった場所から聞こえる声。
 そちらに歩いて行くと、そこに大剣――恐らくはデバイス――を構え、全身を汗で濡らしたシン・アスカがいた。

「……シン、お前、何やってんだ。」

 声に気付いてシンがこちらに振り返った。
 顔は汗まみれで全身からは湯気が上がり、荒く息を吐き、腰を落とす。
 大剣を持つ手は震え、握り締めることなど出来そうにも無い。肩で息をしながら、俯いて、深呼吸を繰り返す。
 膝は既に笑っており、座っていることすら億劫なのか、そのまま屋上に背中を預けて寝そべった。

「は、あ……」

 喋ろうとして喋ることすらままならないでいる。見て分かるほどの疲労困憊。
 それなりに体力には自信があるはずのシンがここまで疲労するとなればどれほどの訓練を繰り返していたのだろうか。

「…お前、まさか俺が寝てからずっとやってたのか?」
「は、はは、日課、ですから。」

 息も絶え絶えにそれだけを呟いた。シンはそのまま瞳を閉じて、呼吸を整えることに集中する。
 ごくり、と唾を飲み込んだ。

(…訓練馬鹿だとは知ってたが。)

 時間は深夜。自分が寝てからずっと続けているのだとすれば、少なくとも4時間以上は確実に訓練していると言うことになる。
 それだけの時間の訓練ならば通常だが――通常の訓練でここまでの疲労は起きない。
 無論、楽な訓練をしても意味が無いが、立ち上がることも出来ないほどの訓練は単なるオーバーワークでしかない。身体を壊すだけだ。

「…日課なのか。」
「約、束…なんですよ。ギンガ、さんから、これだけは……繰り返せって。」

 傍らに置かれているスポーツドリンクが入ったプラスチック製の瓶に口をつける。
 飲みほしている最中も変わらず手は震えている。脱水症状とまではいかないだろうがその一歩手前だ。

「これだけはって……そんなに汗だくになるまで何やってたんだ。」
『基礎訓練だよ、ヴァイス・グランセニック。』
「…基礎、だと?」
『素振りと魔力の収束と変換と解放。それだけを延々と繰り返しただけだ。』
「繰り、返し…続けて、ないと…直ぐに忘れそうで。」

 そう、笑いながら右手を広げ、朱い魔力の輝きが明滅させるシン。
 魔力の収束と変換と解放――いわゆる魔法の基礎の基礎。誰でも一度は通る道だ。
 魔法とは、簡単に言えば、魔力素によって現象――あるいは何らかの作用を起こす技術である。
 起きる作用は、“変化”、“移動”、“幻惑”に大別され、シンが今やっている収束と変換と解放はこの内の“変化”と“移動”の二つの基礎に該当する。それも基礎中の基礎であり、ある程度のレベルに達すれば誰もがやらなくなる反復作業。

「……お前なら基礎なんてもう十分だろうに。」

 漏れる言葉は本音だった。シンの実力は十分に知っている。
 それこそ、自分など歯牙にも欠けない圧倒的な戦闘能力。
 あの巨人と渡り合うほどの化け物じみた――むしろ化け物といった方がいいような圧倒的な力。
 そんな男が今更基礎を繰り返すと言う部分がどうしても腑に落ちない。
 そんな自分にシンが呟いた。

「俺が、デバイス無しで……出来る、ことって、これ以外、ない……ですから。」

 だから愚直に努力する。反復する。何時間もかけて同じことを飽きることなく、何度も何度も繰り返す。
 デバイスが無い状態――普通、その状態に至れば負けは確定だ。
 デバイスがあるのと無いのでは能力にあまりにもはっきりとした差が出るのだから。

 例えば速度。同じ魔法を撃つにしろデバイスの有無によっては構築から発動までに十秒単位で差が出る。

 例えば威力。同じ魔法を撃ったとしてもデバイスの有無で増幅率は大きく変化する。それこそ火と炎と言った程度には。

 例えば戦術の幅の広さ。同じ魔力量で撃てる魔法の幅が圧倒的に広がる。少なくとも瞬間的に引き出せる魔法の数に10種類以上の差が生まれるのは間違いない。

 デバイスが無いと言うことはそれだけで不利となる。中にはデバイスを用いないで魔法を使う者もいるが――大多数がデバイスを用いるこの時代に、それは、“例外中の例外”だ。

 普通はデバイスを奪わせないことを考えて訓練をする。前述した理由により、奪われた時点で敗北は必至なのだから。
 だが―――この男は、奪われることを前提に訓練を繰り返している。不思議と言えば、それが不思議だった。
 どうして、そこまでするのか、と。
 屋上の床に腰を落とし、座り込む。ひんやりとした床の感触に一瞬身が強張るも気にせずにそのまま座り続ける。
 不思議そうにこちらを見つめる朱い瞳に目を合わせ、口を開いた。

「そこまでするのも――あの二人取り戻したいから、なのか?」
「…まあ、そりゃ、そうですね。」

 シンが仰向けに寝そべる。空に見える月は今も柔らかく輝く。
 その輝きを見ながらシン・アスカの脳裏に浮かび上がる二人の女性――ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウン。シン・アスカが返事を返したい二人の女。

「告白されて、それで返事出来ないまま、二人は消えて――だから、言いたいんですよ、好きだって。」

 それは昼間、ドゥーエが言っていたように二股をしたい、ということだ。
 二股――誠実とはかけ離れた行為であり、それ以上に最低という言葉が似合う行為でもある。
 シン自身、自覚はあるのだ。最低なことだという自覚は。
 けれど――それで止まれるなら、ここにはいない、と思う。
 最低だと言われて、もしかしたら二人からも拒絶されて、何もかも失って、無意味なことになる可能性だってあり得る。

 むしろ、その可能性は高い――というか二股など生まれてから一度も彼はしたことは無いし、しようとも思わなかったから、可能性が高いのか低いのかどうかすら分からない。
 大体シン・アスカの恋愛経験などはルナマリア・ホークに溺れたことくらいで、まともな恋愛など一度もしたことが無いと言っていい。
 だから、そんな彼に分かるのは自分の心にあるその気持ちが、普通の恋愛からは著しく乖離したモノだと言う実感だけ。
 けれど――その思考を遮るようにしてヴァイスが口を開いた。

「それは――あの二人の両方が好きだってことなのか?」

 シンは至極当然のようにして、その質問に答える。

「……そうですね。」

 返答が僅かに遅れた。シンの表情が一瞬歪んだ。それは、後ろめたさからによるものか。
 ヴァイスの表情が自然と歪んでいく――というか、歪まざるを得ない。
 ヴァイス・グランセニックは、常識的な人間だ。当たり前の常識――普通の幸せを望む人間。顔が歪むのは理解出来ないからだ。
 二人の女を同時に好きになって、どちらをも選ぶなど正気の沙汰ではないのだから。

「大きなお世話かも知れないが……俺は、お前がどうして、そんなことを考えたのか理解出来ないんだ。普通はどっちかを選んで、どっちかを断る。そういうもんだろ?」

 それは本心からというよりも世間一般の考え方であるが、真実である。
 過去、それも数百年前ならば、いざ知らず、この現代において二人の女性を同時に好きになって、どちらも選ぶなどということが許されるはずが無い。倫理的にも、常識的にも、世間体的にもだ。

「それに相手の都合ってのもある。お前がそう思ってたって、あの二人はそう思わないってこともある――というか普通はそうなるだろうな。」

 シン・アスカが空を見る。その朱い瞳に映るのは柔らかな輝きを発する白い月。静かにただ月を見つめながら、黙りこむ。言い返そうと言う雰囲気は無い。ただ静かに空を眺めて黙している。

「……そうですね。」

 彼の肯定の呟きは静かに空気に融け込んでいく。
 その呟きを聞いてヴァイスは自分自身に悪態を吐きたくなる。
 これはお節介だ。それも大きなお世話に該当するお節介。あまりにも自分の柄ではない。
 常ならば、聞くことなどない。他人の色恋沙汰に首を突っ込むなど厄介事を自ら背負い込むのと同じだから。
 それでも言葉を発した理由は二つ。
 眼前の男が二股をする為に故郷も過去も振り切って、此処に来たと言う、昼間に聞いた事実が信じられなかったから。それが理由の一つ。

 ヴァイス・グランセニックにとってシン・アスカとはそれほど付き合いの深い人間ではないが、それでもそんなことをする人間には思えなかったのだ――故郷も過去も振り切っての部分ではなく、二股という部分が。
 二人の女性から言い寄られ、羨ましい、もしくは大変そうだ、とは思っていたが、そのどちらをも選ぶような人間には思えなかった――むしろ、そのどちらも選ばずに孤独に生きる方が似合う人間だと思っていたから。

 そしてもう一つの理由は――最低なことに、八つ当たりだ。
 高町なのは。彼女のことを考えるとため息ばかりが吐き出される。あの時、どうするべきだったのか、と。
 彼女は養女を連れていかれたと嘆いていて、それを行ったのは彼女の仲間だと言う。連れていかれた理由は世界を救う為。
 あそこから逃げ出した理由はそれとは違う、ただ彼女が昔の自分と同じことを呟いていたことに嫌悪感を感じたから。
 だが――その中に劣等感が無かった訳でも無い。

 世界を救う、などという大それた理由の前で人は無力に諦め、その理由を肯定する。年齢を重ねれば重ねた分だけその傾向は顕著だ。
 成長するごとに限界を知って諦めて流されることを人は覚えていく――今の自分のように。先天的資質に大きく依存する魔導師という職業においてはそれはよりはっきりと表れる。
 高町なのははエースオブエースと言われるように、世界を救ってしまいかねないほどの力を持っている。
 個人の力だけで――無論他者からの協力もあるだろうが――彼女は世界を変えられるのだ。
 彼女がいる世界は、そんな世界だ。そんな世界にいる彼女の悩みは自分にとっては、どうしようもない事柄となる。
 世界を救うという理由を突き付けられて、それでも彼女の娘――義理ではあるが――を助けに行くと言う言葉は出せない。
 それが真実であろうと虚偽であろうと関係ない。

 自分が生きている世界と親しくも無い少女を天秤に賭けて、後者を選ぶ人間などいる訳が無い。在り得ないとさえ思える。
 口を開いて、紡がれていく言葉が一般論という名の刃を吐き出していくのがその証拠だ。
 その胸のモヤモヤ――何のことは無い。単なる劣等感と悔恨。それを一般論という名の刃に乗せて叩きつけているだけに過ぎない。

 言葉は紡がれる。刃となって。話すごとに自分の胸の奥に、澱の様なモノが溜まっていくことを感じる。常識によって非常識を叩き潰していくことへの満足感――酷く下卑た満足感だった。

「……お節介ついでに言っとくが、どちらか選んだ方がお互いに傷も少ないと思うぜ? 二兎を追う者は一兎をも得ずって言うしな。 少なくとも――俺には世の中がそんな都合良く回るとは思えない。」

 そう、したり顔で言いきってから、僅かばかりの満足感を感じ取って――胸に後悔と罪悪感が満ちていく。
 黙りこんだシンの横顔を見て余計にその想いが募っていく。

(……言いすぎたか。)

 胸中に満ちるのは、前述した後悔と罪悪感がないまぜになった苦々しさ。
 何があって、そんなことを考えたのかは知らないが、こうまで劇的に変化したと言うことはそれなりの経緯があり、そしてその経緯を知る者だけが文句を言っていい。
 それを知らない自分の言葉など大きなお世話以外の何物でも無い。
 それなら言い切る前に気づけと言いたいが、感情はそこまで万能ではない。いつだって、後悔するのは何もかもが終わってからだ。
 そうして、謝ろうと口を開いた瞬間、シンが一瞬早く口を開いた。

「……これが、最低なことだって俺も分かってるんです。」

 言葉を遮ってシンが呟いた。

「シン?」

 自分の問いに答えずシンが話し続ける。

「俺はあの二人を好きになって、あの二人は俺を好きになってくれて―――だから、俺はあの二人と一緒にいたい。多分、それだけなんですよ。」
「それだけってのは……」
「二股だってことは知ってました。けど、俺が自分の気持ちに気づいた時には二人とも死んじゃってて……もう、届かないんだなあって思ったら、泣けてきて、気づいたらボロボロ泣いてました…本当に情けないですけど。」

 嗤いながら話し続けるシン。

「それから、あの二人が生きているってことを知って――その時、決めたんです。」
「…何を、決めたんだ?」
「二度と泣かせないって。」

 言葉に詰まる。その言葉は誰もが思うこと。思い人を二度と泣かせないと誓って、そして妥協して――それは自分とて例外ではない。

「あの二人は俺なんかのことを好きだって言ってくれた。最初はどうして俺なんかをって思って訳が分からなかったけど――本当は嬉しかった。二人に告白されて、俺は嬉しかった。だけど、」

 ぎりっと歯噛みする音が聞こえた。シンの瞳が鋭くなり、先ほど死人の数について聞いた時とは違う怒気が空間を侵食する。

「それに気づく前に、あの二人は殺されて――俺は勝手にぶっ壊れた。」

 ぶっ壊れた――ギンガとフェイトの二人が死んでからのシン・アスカはそれまでよりも更に陰鬱で、無愛想で、何よりも無機質な機械の
ような眼をしていたことを思い出す。

「……勝手に死んだって勘違いして、守れなかったってぶっ壊れて――ふざけたガキの論理ですよ。」

 吐き捨てるように呟く。朱い瞳は爛々と輝き、その憤怒を隠そうともしていない。

「だから、守りたいのか? その時の帳尻合わせをしたいから。」
「…そういう気持ちは、やっぱりあります。守れなかったあの二人をもう一回守りたい――そういう気持ちは今も消えてません。」
(こいつにとっちゃ、二股って意識は無い……単なる罪滅ぼしなの、か?)

 言葉から感じ取れる想いは、恋ではなく無償の奉仕。違和感がある。そんな人間があんな風に朗らかに笑えるモノだろうか。
 そう思い至った瞬間、空気を侵食するような怒気が掻き消えた。胸に感じていた圧迫感が消え去り、口調が元に戻る。

「ただ――」

 言葉が紡がれる。

「――今はそれ以上にあの二人の笑顔が見たいんです。」

 シンが立ち上がり、空の満月に向かって瞳を向けた。戦闘している訳でも無いのにバリアジャケットを形成していた――防寒具代わりにしていたのだろう。
 良く見ればデバイスも、バリアジャケットもそのデザインが変化している。
 デバイス・デスティニー。刀身の色は朱。柄の色は黒。片刃の大剣の姿をしたソレの柄の中心にそれまでは無かったモノがあった。

 ギンガ・ナカジマが左手につけていたモノを思いださせる回転式弾倉(シリンダー)。それが埋め込まれ、溶け合っている。

 バリアジャケットのデザインも、まるで違っている。朱いラインの入った黒いバリアジャケット。朱いラインの中心には金色のラインが走り抜ける。
 どこかフェイトを連想させる外套のようなバリアジャケット。デザインが彼女のバリアジャケットの外套に酷似しているからかもしれない――そう言えば、フェイト・T・ハラオウンが死に、シン・アスカのデバイスにその一部が組み込まれていたことを思い出す。

「泣いてたんですよ、あの二人。俺に好きだって言って、泣いてたんです。」

 静かに話は続く。口を挟もうとは思わない。ここはそういう場面ではない――そんな思いが浮かぶ。

「俺は、好きな人を――あの二人を泣かせてばっかりで笑わせようなんて一回も思ってなかった。だから、」

 右手を開いて、閉じて、握りしめる。

「――今度会ったら絶対にあの笑顔を守る。もう二度と泣かせない。」

 淡々と紡がれていく心情の吐露。ヴァイス・グランセニックの知るシン・アスカの本当の素顔――恋に狂った人間の心象風景。

「だから俺は―――」

 瞬間、シンの言葉を遮るようにして、世界が白く染まり、巨大な音が響いた。音は何かの爆発音――それも遠くから響き渡るような。

「こいつは……!?」

 ヴァイスが呟き、付近を見渡す――遠方、ここから凡そ数十kmほどの場所。
 咄嗟にストームレイダーを起動し、スコープを覗きこむ。
 夜闇に隠れて全体像は見えない。見えるモノはシルエット。暗闇の中にあって薄く輝くところどころさび付いた金色が混じり込んだ灰色の装甲。背部に見える翼のようなスラスターと、翼のような突起が突き出た肩の装甲。
 全長は少なくとも20mを超える――それはあの日、クラナガンに現れた、あの巨人と同質のモノ。
 紅い一つ眼が頭部の中心で左右に動く。左手の盾の先から伸びる銃口が火を吹いた。次いで右手に握る巨大な剣を振るう――郊外に建てられていたドーム型の建物が壊された。
 上がる煙と炎。サイレンが鳴り響く。陸士108部隊隊舎に響き渡る緊急警報。

「……あれは。」
『ZGMF-515シグー。モビルスーツだ、シン。』

 デスティニーの冷静な呟き。シンが握り締める手に力を篭める。
 一瞬、瞳を閉じて、開く。開いた瞬間、それまで瞳にあった狂気は掻き消え、冷たい戦意だけを秘めた瞳がそこにあった。

「デスティニー、ここからあそこまで“跳べる”か?」
『昼間に使用したせいで、魔力量が不足している。バックアップにも魔力残量は少ない。実質的に使用不可だ。』
「周辺から搾取した場合は?」
『推奨しない。少なくとも数十分の待機が必要になる上に、お前自身の侵食を早めることになる。』

 侵食、とデスティニーが告げた瞬間、シンの顔が一瞬強張ったが――直ぐに気を取り直して呟いた。

「……じゃあ、こっちで近づくしかないんだな。」
『その通りだ、マイマスター』

 空気が緊張し、肌が粟立っていく。
 シンとデスティニーのやり取りに口を出すことなく眺める。
 飛び交う言葉には意味が分からない単語ばかり――否、分かることはある。言葉の意味は分からずとも、眼前の男がこれから、あの巨人と戦おうとしていることくらいは。

「……わかった。行くぞ、デスティニー」
『了解した。』

 デスティニーの呟きと同時にシンの両膝の外側に現れる朱い炎の刃を発する短剣。炎の刃が外側に翼のように伸びて行く。
 屋上の柵の上に手を掛ける――思わず呼び止めた。

「シン、お前――」

 振り返らずにシンが呟いた。声に隠しきれない熱が浮き出て、僅かに震えている。

「……俺が先に行ってアイツを街の外に誘導します。」
「シン!!ちょっと待て!!お前一人じゃ…」
「……さっさと行かなきゃ人が死ぬ。」

 自分の叫びを遮るようにしてシン・アスカがこちらを見た。
 柵を握り締める手が震えている。こちらを見つめる月明かりで白く染まる顔。
 そこに嵌まり込んだ血走った瞳を見た瞬間、背筋が粟立った。憤怒に狂った悪鬼の如き顔がそこにあった。
 奥歯を噛み締め、その威圧に抗って言葉を放つ。

「……だ、だから、待てよ!!お前一人で行っても…」
「確かに俺一人じゃ無理かもしれないですね。」

 彼はそこで俯いて、一瞬だけ逡巡して――

「だったら――」
「“だから”、さっさと来て下さいね、ヴァイスさん……!!」

 ――憤怒などまるで無い、笑顔でそんなことを言い放った。

「……来てくれって、お前、何…ぷおぁっ!?」

 言い終える前に爆発音。舞い上がる土埃を防ぐようにして右腕で口元と眼元を覆い隠す。
 叫んだ瞬間、既にシンの姿はそこにはない。視界の端を朱い光が掠めた。

「あの、馬鹿野郎……!!」

 直ぐに振り返って、階段に続く扉を力任せに開ける。階段を二段飛ばしで下りて、踊り場を駆け抜けて、自分の部屋に戻り、机の上に置いたままのヘルメットを手に取ると、そのままもう一度振り返って全力疾走。
 見れば隊舎にいる全員が一斉に動き出している――その全てを無視して走り抜ける。途中何人にも呼び止められたが全て無視して走る。
 何で走っているのか、自分も皆と一緒に行けばいい。そんな思いが浮かんで――衝動がそれを掻き消した。
 皆が集合している、格納庫とは逆側にある隊舎出口を叩くようにして開いて飛び出す。
 自転車置き場に止めてある自分のバイクに駆け寄って、エンジンをかける。
 同時にバイクを自転車置き場から引っ張り出して、跨る。

「……ああ、クソ、何で俺はこんなことやってんだろうな!!」

 毒づいてヘルメットを被り、前輪を中心に車体が円を描くようにして旋回させて、方向転換。
 タイヤと地面が擦れる甲高い音とゴムの焦げる匂いが鼻を付く。
 後方から自分を呼ぶ声が聞こえる。そちらに行くべきだと理性が吼えて、衝動がそれを押さえ込む。

 本当に自分は何をやっているのか。
 未だに着替えてさえもいないし、二日酔いの胸焼けは消えていない。酒はまだ確実に残っているし、今警察に捕まれば間違いなく飲酒運転になって一発免停、その上、懲戒免職確定という崖っぷち。
 メリットなどまるで無い。意味など皆無。自分が行ったところで何をすることも出来ない。一瞬の思考だけで現れる幾つものデメリット。
 訳の分からない衝動に突き動かされている。明らかに乗せられている。自分のペースではない。

 ―――“だから”、さっさと来て下さいね、ヴァイスさん……!!

 あの男の言葉を思い出す。それを思い出して唇が歪んでいくのを感じる。

「……ああ、さっさと行ってやるよ、シン・アスカ!!」

 遠方で爆発が起きた。焦燥が駆け抜ける。
 スロットルレバーを回し一気に加速。脳裏に、最短経路を思い浮かべると、そのまま深夜、誰もいない街中を疾走する。


 ――それは巨人だった。
 色は白と灰色。燃え上がる炎の色に染め上げられて世界を壊す巨人。以前、クラナガンに現れ、
ニュースで報道されていた巨人と同じモノ―――意匠に違いはあるが、そんな違いなど子供にとっては関係が無い。

「…ひ、ひっく…おにー、ちゃん……おとーさんとおかーさんは……?」
「……だ、大丈夫だ。きっとお父さんとお母さんが助けに来てくれるよ! だ、だから泣くなって!!」
「ひっ……ひっく、う、お、おかーさん……・おとーさん……」

 どすん、と地面が震えた。妹が身体を震わせて、再び泣き出す。それを見て、少年は妹を抱き締める。それは妹の涙を止める為、というよりも自分自身の震えを止める為でもあった。
 恐怖で身体が竦んで動けない。泣き叫びたいのに、近づく巨人の足音に怯えて泣くことすらままならない。親はいない。転んだ妹を起き上がらせている内にはぐれてしまっていた。
 誰もいない。誰も助けてくれない。逃げられない。助けを呼ぶことも出来ない。

 恐怖に脅える彼に出来ることと言えば、瓦礫の中に身を隠して巨人が行き過ぎるのを待つくらいだった。
 どすん、と地面が震えた。加速する恐怖。怖い。怖い。怖い。怖さを掻き消そうと妹の身体を抱き締める力を強くしようとして――声が聞こえた。背筋を這い回る毛虫の如き不快感を生み出す声。拡声器越しに耳を蝕む汚濁の声。

『ふふふ……どうやら、誰か隠れているようだ。』

 声は朗らかで穏やかだ。
 楽しそうに/その楽しさが怖い、
 嬉しそうに/その嬉しさが怖い、
 喜びに満ちている/その喜びが怖い。
 叫びだしそうな妹の口を手で押さえて声を出させないようにする。同時に自分も口を閉じた。涙は止まらない。本当に怖くて怖くて涙は止まらない。絶対に見つかるものかと必死に口を閉じて、吐き出したい嗚咽を止め続ける。

『……さて、どこに隠れているのかな?』

 優しく囁きながら――拡声器によって音声は周辺に響き囁きなどではないが――その手の剣を振るった。その剣はまるで違う出鱈目な方向へと振り抜かれた――どうやら巨人は正確な場所を知っている訳ではないようだった。
 剣を振るう風切音が鳴り響き、それがビルに激突する。鉄筋コンクリート製のビルが為す術も無くバキバキと巨大で不快な音を立てて崩れていく。
 パリン、とガラスが割れる音がほぼ同時に――僅かにズレながら――連鎖して鳴り響く。
 最後に聞こえてきたのは巨大な物体――ビルの破片が地面に落下する音。
 地面が振動し、身体が揺れる。思わず声を出しそうになる――それを必死にせき止める。

『……外れ、か。ならば、こちらか。』

 今度は左手に掴んだ盾――そこから伸びる巨大な黒色の銃身を手近な建物に向けた。
 間髪入れずに放たれる何十発もの銃弾の雨。弾丸は直径が数十cm以上。弾丸の速度で放たれるのその鉄塊は銃というよりも、光線のように夜闇に火線の軌跡を浮かべて飛んで行く。
 耳を劈く音の群れ。鼓膜が破れそうなほどに痛い。ただただその巨人の蹂躙を見つめ続ける。
 子供ながらにその恐怖に耐えて声を発しなかった少年は類稀なる忍耐力を持っていた。
 だが、

『…いない、か。どうやら、鼠とでも間違えたか……。』

 多分、そのまま口を閉じて黙りこんでいれば巨人は去っていった。
 それは間違いの無い事実だ。そのまま気を緩めずに、沈黙に徹していれば、問題は無かったのだ。
 だが、彼は少年だった。まだ幼い少年だった。
 恐怖を堪えて沈黙に達していたのは、そうする必要があったから。そうしなければ死んでいるから。
 必要があったからそうしているのであり、必要でなくなればそんなことを続けることもない。
 だから、少年は命の危機が去ったことに僅かながら気を緩めた。少なくともこのままこの状態を維持し続ければ自分は助かるのだ、と。
 少年は知らなかった。その気の緩みこそが最も忌避すべきモノであることを。その油断こそが生死を分ける境目だと言うことを。

「ひっく、うっ、ううっ、うわああああ!!!!!!」

 妹が泣きだした――涙が毀れ、嗚咽が毀れ、“声”が毀れた。
 見れば、僅かに気が緩んだことで、右手の位置が僅かに下がり、妹の口元を押さえていない。

「み、ミヤ、泣くな!! 見つかっちゃ…」
『……そこにいたか。』

 どすん、と地面が大きく揺れた。巨人の紅い一つ目が、自分たちを捉えていた。

「あ、あ……」
『……しかも、子供とはな。 どうやら、“私”の趣味に合っているらしい。』

 どすん、と地面が揺れた。一歩こちらに近づいた。

「ひっ…!」

 唇を吐いて出た言葉は、言葉にもならないうめき声。
 妹を抱き締める力を強めた。妹の泣き声が大きくなった。声を出すことも出来ない。

『……“並列化”をする前で良かったよ。君らのような子供の泣き顔を皆と共有するのは惜しい。』

 左手の盾が向けられた。その先端にある銃口と目があった。

『怯えているな……良い顔だ。』

 ガチガチと歯と歯が触れ合う。少年は咄嗟に彼の妹を守るように、巨人に背中を向けて抱き締めた。
 巨人から声が響く。

『――死ね。』

 放たれるその鋼は人間の身体など一発で引き裂き、肉片に変える。
 秒間に数十発という速度で放たれるソレは正に銃弾の雨と言って良い威力を以って、子供達を、肉塊に変えていこうとする。
 ――けれど

「や、ら」

 ――拡声器越しの、くぐもった、醜悪なその声に被せられるように、

「せ、る―――」

 ――朱く燃える、馬鹿みたいに巨大なモビルスーツサイズの“大剣”が、

「かあああああ!!」

 ――彼らの眼前に突き刺さった。

 銃弾の雨が全てその剣によって防がれた。
 材質は何なのか分からないが、銃弾程度ではまるで壊れない巨大な刃金。
 視界を埋め尽くす、朱い炎に覆われた巨大な刃金。
 子供達はいきなり現れたソレに困惑する。
 これは何なのか。どこか来たのか。さっきの声は何だったのか。子供たちの脳裏を飛び交う幾つもの問い。
 だが、そんな問いは次の瞬間見せられた光景で、脳裏から吹き飛んだ。
 朱く燃える巨大な刃金が“動いた”。同じく呆気に取られて銃撃を止めていた巨人に向かって、刃を向けて――まるで、誰かがそれを握りしめているかのようにして――振り抜かれた。

『……なっ、これ、は…!!』

 巨人が後方に跳躍し、その刃金を回避する――瞬間、数十本もの剣と同じ朱い光条。それが大きな曲線を描いて、巨人の360度全てに襲いかかっていく。

「なんとか、間に、あった…!!」

 少年がいきなり聞こえた別種の――どこか幼さを残した声がする方向に振り向いた。同じく妹も。
 そこには、荒く息を吐きながらも無邪気な笑顔を浮かべて、こちらに手を伸ばす、一人の男がいた。

「もう、大丈夫だ…!!」

 朱い瞳と黒い髪。白い肌がそれらを強調し、どこか幽鬼を連想させる面影。普段ならば絶対に脅えるような――けれど、瞳の柔らかさとその笑顔が教えてくれる。
 彼は味方だと。助けてくれる人なのだと。
 少年は妹を抱きしめながら、大粒の涙を零す。妹も同じく涙を零す。
 それは恐怖の涙ではなく、誰かが助けてくれることへの安堵の涙。

『……くっ、これはっ……!!』

 巨人が立ち上がる。今も朱い光条は巨人の周囲を飛び回り羽虫のようにその行動を阻害している。
 視界を阻害し、その動きを喰い止めるただの足止め。
 少なくとも、もう数分程度は動きを止められるだろう。

「いいか、ここは俺が食い止める。君達は直ぐに逃げるんだ!」
「け、けど…」

 少年が脅える。安堵したせいか、足に力が入らないのかもしれない。
 朱い瞳の男が、少年の頭を撫でる。優しく、そして元気づけるようにして。

「泣くな。もうちょっとだけ頑張るんだ。」

 男が諭すようにして声をかけていく。
 それでも少年の震えは消えない。
 当然だろう。その程度の言葉で死の恐怖が消えるはずもない。
 男が続ける。

「……妹、助けようとして頑張ってたんだろう? だったら最後まで頑張らないでどうする?」

 男の朱い瞳が妹を見た。少年も釣られてそちらを見る。

「ひっく、お、おにいちゃん……」

 少年の服の裾をぎゅっと力強く握り締める少女――震えは止まらない。止まらないけれど、涙が毀れ落ちなくなる。

「…妹、守りたいんだろう?」

 少年が頷いた。そして、妹の手を自分の手に重ね合わせ力強く握り締める。絶対に離さないと言わんばかりに。
 男が、再度、無邪気に微笑む。

「良い根性だ――さあ、早く行くんだ。」

 少年が振り返って、妹の手を更に力強く握り締める。
 妹はその腕の強さを頼もしげに思ったのか、笑顔を向けて、少年と共に走っていく。
 走りだして、少年の足が止まり振り向こうとする――恐怖は消えていない。
 振り返るなと言われて、振り返らないだけの強さを、同じ年代の誰もが持たないように少年も、また持っていない。
 振り返れば――朱い瞳の男が、そんな少年に背中を向けて立っていた。
 少年と、その妹を守るようにして。

「大丈夫。君達は、必ず、俺が守るから。」

 少年は妹の手を引いて再度走り出す。何故かはわからないがそうしなければいけないと思った。男の言葉に促されて、少年の心に灯った炎に従って。
 少年は走る。夜の闇を切り裂くようにして――生き抜く為に走り抜く。


『……随分と、不遜な物言いだな。』

 朱い光条――パルマフィオキーナが消えていく。
 先ほど放った拡散型のパルマフィオキーナ――は威力は低いがかく乱には都合が良い。
 デスティニーによる自動操作故にシン自身の狙いとは大幅に違う場所を撃ち抜く可能性もあるが。

「不遜なのはどっちなんだかな。 なあ、ラウ・ル・クルーゼ?」

 男が――シン・アスカが呟いた。
 モビルスーツから聞こえる声は、以前、彼が敗北したあの男と同じ声。
 乗っているのがどうして、旧型のシグーなのかは分からないが。

『…これは驚いた。どうやら、君はあの男を知っているのか。』
「……あの男だと?」
『くくく、どうやら口が滑ってしまったようだ。』
「お前は……ラウ・ル・クルーゼじゃない、のか。」
『違う、とだけ言っておこう……魔導師君。』
「まあ、いいさ。 どっち道、その機体ぶっ壊してコックピットから引きずり出せばいいだけだ。」

 シンのその答えに男が不思議そうに問い返した。

『……おかしな人間だな、君は。このモビルスーツを見ても、まるで怯えた様子が無……』

 言葉を遮って、朱い刃金が下方から上方へと、一直線に跳ね上がった。
 咄嗟に巨人――シグーはその巨体を僅かに後ろへ動かし、巨大斬撃武装(アロンダイト)による斬撃を回避する。

「…ちっ。」

 舌打ちし、その巨大な――人間では絶対に扱わない、モビルスーツサイズの大剣――巨刃を構える。
 長々と喋っている隙を突いて一気に終わらせようと思ったのだが、それほど甘くは無いらしい。
 逃げ去った子供たちについては既にヴァイスのストームレイダーに現在の座標を転送しておいたので遠からず彼が子供たちを保護してくれると思う。
 今、自分にとって大事なのは子供たちを保護することではなく、この巨人をここから出来る限り、離し、その上で倒すこと。
 憤怒の炎が灯る。胸の奥から湧き上がる熱い炎。
 子供たちに見せた笑顔は心の底からのモノだが――それとは別に度し難い憤怒を感じる。

「別にあんたがラウ・ル・クルーゼだろうと、誰だろうと関係ないさ。」

 瓦礫の山に不可視の糸――エクストリームブラストの為の“搾取”の糸を伸ばす。
 右の瞳に何かが入り込んでくる違和感。デスティニーからの警告音。“浸食”が促進する、と脳裏に情報が展開される――全て無視。

「お前は、この街をこんなに壊して、その上、子供を……あの兄妹を殺そうとした。」

 付近は瓦礫だらけでそこかしこから炎が噴き出ている。その全てに糸を伸ばし、自らのモノとして搾取し取り込んでいく。
 炎も、瓦礫も、もう動かない車も、破壊されたモノの全てを。
 巨大斬撃武装(アロンダイト)を握りしめる腕が震える。恐怖でも、寒さでも無い。単純な一つの感情――怒りによって。

 周辺に繋いだ糸から流れ込む幾つもの幻影(ヴィジョン)。
 見えるモノはそこに生きる者を見てきた無機物の記憶。そこに染みついた思い出。
 全身に満ちていく力。同時に身体の中心で違和感が生じる――全て無視。
 歩きながらシグーの正面にまで歩いていく。途中、まだ無事だった玩具屋のショーウインドウに映る自分を見た。
 右眼の色が朱ではなく、金色に変わっている。
 その事実に自嘲の笑みが浮かぶも――それは仕方ないことだと割り切る。
 モビルスーツを相手にする以上、相応のリスクを払わなくては、勝つことなど――渡り合うことすら難しいのだから。

「怯える訳が無いだろう? 俺は怒り狂ってるんだから。」

 警戒心を滲ませた声で男が呟いた。

『……君は、何者だ。』

 何者だ、という問いに一瞬考えこみ――直ぐにそれに相応しい言葉を思い出す。
 自分がなりたいモノ。これからなろうとするモノ。出来る、出来ないではなく、そうなりたいと願う空想の存在。

「シン・アスカ―――これから、その機体をぶち壊して、お前をそこから引きずり出す、ただの“ヒーロー”だ。」



[18692] 第四部ミッドチルダ風雲篇 63.続く世界(e)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/06/02 17:13

 流れて行く視界。
 加速する知覚。
 銃弾の雨が降り注ぐ。掠れば必死の鉄の塊を真正面に捉えて減速することなく加速加速加速、稲妻のようにジグザグの軌道を辿り、加速し接近、構える振るう受け止められる構わず上空に移動、飛行魔法に寄る重量緩和を解除し、地面に向けて――刀身の背から朱い炎を全力発射――叩きつける斬り下ろし。自身の手に持つ大剣の先から伸びる全長20mを超える巨刃―――MMI-714アロンダイトビームソード。

「らぁぁああぁああああ!!!!」

 咆哮と共に巨刃を振るう。回避された。止まることなく動き、再度ソレを振るう。
 振るうごとに全身を襲う、命そのものを吸い取られて行くような虚脱感――膨大な魔力消費の反動。
 攻撃の度に魔力が枯渇寸前に陥る。
 搾取に寄る魔力供給によってそれを否定――シン・アスカの肉体から伸びる不可視の糸が周囲全ての瓦礫へと繋がり、蝶が蜜を吸い取るようにして明滅。吸い取られて行くのは存在を構成する根源的な力――即ち生命を奪い取る。
 高速活動術式(エクストリームブラスト)による魔力搾取。
 瓦礫が砂塵へと変わっていく。
 瓦礫の生命が魔力素という過程をすっ飛ばして魔力に変換され、シン・アスカがその全てを奪いつくす。瞬間、枯渇寸前だった魔力量が急増し魔力の枯渇を回避し、戦闘可能範囲にまで復帰。
 再度振るわれる巨刃。巨大な刃が巻き起こす風に舞い上げられていく砂煙。瓦礫の成れの果て。

 付近に既に瓦礫は存在しない。
 破壊されたモノ全てから“搾取”した結果であり、それだけの量の瓦礫/生命が魔力となっている。
 魔力量にして八神はやての魔力量の凡そ半分ほど――だが、それでも訓練において消費された体力、魔力を完全に補充するほどではない。現在の魔力量は最大時の5割程度。
 更にはバックアップ――八神はやての魔力量は未だ元に戻ってはいない。
 そのため彼女から魔力を受け取ることも出来ない。
 使用出来る攻撃方法は巨大斬撃武装(アロンダイト)による斬撃、砲撃魔法、近接射撃魔法――パルマフィオキーナ。

 その中で効果的な攻撃方法は巨刃――巨大斬撃武装(アロンダイト)による攻撃のみ。威力は絶大。ただし魔力の消費は劣悪を通り越して最悪の攻撃。
 そして、前述している通り、魔力量が不足している為に当然、機能(システム)・光翼(ヴォワチュールリュミエール)は使用不可。よって光速射出による攻撃も不可能。
 機能(システム)・光翼(ヴォワチュールリュミエール)の魔力消費は巨大斬撃武装(アロンダイト)の凡そ2倍。
 万全の状態で2回。
 バックアップ――八神はやて、そして、搾取が出来る状態が維持されている状態で7回。
 魔力が不足している状態で使えば小規模次元世界からの脱出が出来ずに永遠に次元の狭間を彷徨う可能性が発生する。
 故に現在の戦力はコズミックイラに行く直前のシン・アスカ。
 つまりモビルスーツと渡り合える程度。それがデバイス・デスティニーと戦っている本人の見解だった。

『くっ……!!』

 巨人に乗っているであろう人間――それが誰かは分からないが――が、毒づきながら、シグーの左手の銃をシンに向ける。
 即座に巨刃の顕現を解除する/巨刃が小規模次元世界内に格納され、その姿が陽炎の如く歪んだ。右腕、と言うよりも飛行の魔法によって“持ち上げて”いた重さが消失する。顕現前と比べて羽の如く軽くなった肉体を下方に向けて加速し、銃撃を掻い潜る。そのまま巨人の足元に向けて止まることなく疾駆する。
 加速と共に圧力を増した風が口を開くことすら許さない。それ以上に言葉を放つ暇は無い。

 地面が近づく。そのまま地面に激突する寸前で方向を転換し、地面と平行に飛行。巨人の股の間を通り抜け、背後へ移動。巨人の視界はまだ追いついていない/確認する術はない――構うな。行け。心中の呟きに応じて、そのまま上方に向かって翔け上がる。
 右手に握る大剣を虚空に突き刺し鍵を開けるかのように“捻る”。
 小規模次元世界からの開錠――陽炎の如く不確かだった巨刃が実像を伴った確かなモノととして顕現する。瞬間、増大する重量。身体全体が地面に向けて引っ張り込まれていく感覚。飛行の魔法によって、その重量を軽減し、振り被る。

「らあぁあぁぁっっ!!!」

 そのまま袈裟掛けに切り落とす。
 威力は最大時の凡そ半分。それでもモビルスーツの装甲を切り裂くには十分な威力――甲高い金属音が鳴り響く。
 ぶつかり合う光刃と刃金。ビームと刃金がぶつかり合って火花を散らす。
 衝撃が暴風となって髪を揺らす。火花を散らしながらの鍔迫り合い。
 不意打ちが不意打ちにならなかった。
 何か違和感、があった。その違和感が何か――分からない。考えている暇は無い。

『シン。』
「分かってるっ!」

 思考は一瞬――その一瞬で相手が動き、巨刃を弾き返そうとしているのが見て取れた。
 質量差は考えるまでもなくあちらが上。膂力も同じく――アロンダイトの顕現を解除し、後退。シグーが左手の盾、その先端の銃口をシンに向けた。
 放たれる弾丸。加速、上空へと移動。追い縋る弾丸から必死に身を逸らし続け、再度突撃――ただ一発の弾丸の如く。

 シグーが歩を進める。ずしん、ずしんと重量感の音を立てながら進み、シグーの体躯がまだ無事な建物の近くに移動する――建物を盾として使うつもりなのかもしれない。
 ぎりっと奥歯を噛み締め、瞳が更に血走って行く。
 状況が更に悪くなったことへの憤怒――さっさと戦闘を終わらせなかった自分への。
 シグーが移動した時点で、シンが出来る斬撃は斬り下ろしと斬り上げのみに限定された。それ以外の、右薙ぎ、左薙ぎをすれば、左右を取り囲むビル及び商店を確実に破壊してしまう。

 壊すわけにはいかない。そこには人が生きている。全ての人は既に避難しているだろうが、だからと言って、壊して良い訳が無い。
 エクストリームブラストによって周辺の無機物から魔力と、そこにこびり付いた記憶の残滓を搾取していることで見える幾つもの記憶。
 そこに生きる人々の笑顔が。歓談を交わす人々が。壊されてはならない、どこにでもある“日常”が。

 ぎりっと奥歯を噛み締め、過去の自分の“悪行”を憎悪する。
 壊した。壊した。壊した。
 瓦礫、建物、道路、構造物、その全てを関係無しに、砕いた。斬った。破壊した。
 搾取して、自らの力とした――そこに生きる人々がその後にどれだけ苦労するかなど、まるで考えずに、だ。
 悪行とはそれだ。ただ、自分の欲望を満たす為だけに、生きていればそれでいいのだと戦った自分。守るなどと嘯いて、その実守るどころか破壊して回っただけの馬鹿な自分。
 コズミックイラに行く前のシン・アスカと今のシン・アスカの決定的な違いがあるとすれば、それだ。

 全てを守るのではなく、全てを“守り抜く”。
 全ての涙を止めて、全ての笑顔を守ること。
 その上で、二人の涙を止めて、その笑顔を守ること。
 故に、付近への被害を気にせずに戦うなど論外だ。

 同じ理由で光速射出武装“戦友の剣(レイ・ザ・バレル)”も使えない。
 魔力量が足りないこともさることながら、あまりにも威力が大きすぎる。この周辺一体を廃墟に変えかねない。

 アロンダイトを顕現し、上空から速度任せの斬撃を見舞う/シグーが剣を構える――顕現を解除し、シグーの真正面を真下に向かって“通り過ぎる”。速度を一切緩めず地面に激突する勢いで降下。激突の瞬間に地面に向けて左手に既に準備している近接射撃魔法――パルマフィオキーナをぶち当てる。着弾。爆発。その衝撃を逃すことなく、シグーの股の間を潜り抜ける。ぶらん、と垂れ下がる左腕――以前やった時と同じく関節が外れ、地面にぶつけて無理矢理“ハメる”。

 背筋を立ち登る激痛を奥歯を噛み締め堪えて、そのまま急上昇。狙うはシグーの背面からの奇襲。
 速度や威力が不足していると言うのなら、それ以外の方法で埋めればいい。
 振るわれる斬撃。シグーの反応よりもこの一撃の方が確実に早い。

(食らえ)

 心中で呟き、右腕だけで握り締めた巨大な刃金――アロンダイトを振り上げた。

「なっ……!?」

 シグーがその一撃を、“受け止めた”。
 明らかに反応出来ないはずの一撃への反応。それもモビルスーツを使った上で。
 即座にアロンダイトを引き戻し、その場から離脱。
 今の反応はここまでの戦闘で探査した情報に“反している”。
 目の前のモビルスーツのパイロットの技量は依然戦ったレイよりも“低い”。
 そして、レイから伝え聞いたラウ・ル・クルーゼよりも確実に低い。
 通常のモビルスーツパイロットと同程度だ。

 だからこそ、ここまで渡り合えた訳だが――通常のモビルスーツパイロットならば、今しがた行った背後からの奇襲には反応は出来ない。少なくとも、モビルスーツに戦争初期の自分であれば決して反応出来ない一撃だった。人間の視覚と言うものは縦方向の移動に弱い。それも肉眼ではなくモニター越しに見ると言うハンデがあれば、決して捉えられるモノではない。
 モビルスーツの操縦をしているのだ。
 少なくとも、今の動作をする為には“振り返って”、“剣を構える”という動作が必要になる。

 この動作を行う為には更に多くの動作入力が必要となり、必然的に操作は複雑化し、その分動作は遅れる。
 無論、OSの改良によってこの遅れは小さくなって行くが――それでも、機械を操作すると言う行為の宿命として、零にはなり得ない。
 なのに、“反応”した。予測していたのか、単なる勘なのか。
 元々どこかおかしい相手ではあった。
 稚拙とは言わずとも卓越している訳ではない技量――なのに、“時折”その反応は鋭く卓越した技量を予感させる。けれど実際の技量はそこまでではない。
 まるで――コズミックイラでアカツキを操縦していた時の自分のように、長いブランクを開けて再度モビルスーツに乗ったような印象を受ける。

 シグーの左手の銃口が向けられた。
 咄嗟に何も握りしめていない左手を左方に向ける/左手に魔力収束変換解放――近接射撃魔法パルマフィオキーナ。発射。
 視界が左方に向かって一気に流れていく。発射の反動によって強制移動。

「くっ…!」

 呻きが上がる。
 強制的に移動したことによって、頭部への血流が阻害され、視界がブラックアウト。
 デスティニーが取得した三次元空間データ譲渡により補完――脳裏にワイヤーアートのような疑似的な視界が構築される。
 データを取得し視界を構築すると言うプロセスを辿るが故に、視界に映る世界は“今”の世界ではなく僅かに遅れた“過去”の世界が映る。高速戦闘故にその遅れは致命的なモノになりかねない/無視。視界が無いよりは余程良い。

 シグーの銃撃を回避し、斬撃を捌いて、避けて、死角に移動し、攻撃を繰り返す。
 そしてまた弾かれる――先読みか、もしくは常識外の直感か。
 どちらにせよ、死角からの奇襲は奇襲になり得ない。
 奇襲が出来ないならば砲撃魔法によって防御ごと破壊すると言う方法もあるが、前述した周辺への被害を考えれば、使用出来る訳も無い。

(何とか、こいつをここから離して……!!)

 心中で、呟き、一心不乱に攻防を繰り返す。彼らの位置は先ほどの場所からまるで変わっていない。
 シン・アスカは速度を生かして懐に入り込んで攻撃、回避しつつ離脱、再度攻撃のヒットアンドアウェイを繰り返しながら、シグーをその場に釘付けにしている。
 シグーは羽虫を振り払うようにして当たらない――当たれば致命的な――攻撃を繰り返す。
 傍目には一進一退の攻防――だが、その実はシン・アスカの圧倒的不利。
 状況は刻一刻と悪くなって行く。

 ガキンと甲高い金属音を立てて、再度鍔迫り合い。アロンダイトと重斬刀が拮抗する。
 重斬刀が動く。アロンダイトを地面に押し付けるようにして体重をかけてくる。
 見るだけで理解できる圧倒的な質量差によってアロンダイトが地面に向けて、押し込まれていく

「ちっ……!」

 舌打ちし、アロンダイトの顕現を解除。再度、シグーの股の間を潜り抜け、その背後へ移動し、攻撃。
 シンがシグーの股の間を潜り抜けるよりも早く、シグーが振り返り、重斬刀を構えていた。

(読まれてたっ!?)

 学習能力の高さか、単なる勘か。
 どちらにせよ、何も変化を加えずに二度目を行った迂闊な自分を呪いたくなる――それすらも遅すぎる。
 構えは刺突。放たれる。殺される。

「――っ」

 思考するよりも早く右腕がデスティニーを離れ、左手が大剣を握りしめる。
 空になった右手を重斬刀に向ける。右手に魔力を収束し圧縮し――炎熱という現象として解放。
 放たれる朱色の光熱波。
 刺突に反応した時点で、両者の間に存在する距離は20mを切っていた。人一人を貫くには十分な威力を伴った攻撃。当たれば肉体は肉片へと変化する。

 激突する重斬刀の刺突と朱い光熱波。一瞬だけの均衡は、すぐに崩れて朱い光熱波が重斬刀によって切り裂かれた。
 人が即座に放てる“程度”の威力の魔法で重斬刀は止まらない。光熱波によって僅かに速度を緩め、軌道が変わった重斬刀が迫り来る。

「うおおおおおおお!!!!」

 裂帛の咆哮。左手で逆手に握りしめたデスティニーに力を込める。刀身の先には陽炎のように巨大な刃金が虚ろに揺らいでいる。

『顕現。』

 デスティニーの呟きと同時に迫り来る重斬刀に向けて振り抜いた。
 その瞬間、刀身の先端が触れる空間が揺らいで同心円状に波紋を立てる。
 現れるモビルスーツサイズの大剣――MMI-714アロンダイトビームソード。
 重斬刀の刺突とアロンダイトの斬り上げが激突する。空気を揺らす衝撃。シグーの身体が後方にたたらを踏んで後退し倒れ込む。

 同時にシンの身体が後方に向かって吹き飛んで行く――朱い瞳が見開いた。
 建物に激突する瞬間、左半身から一斉に放たれる朱い炎の間欠泉。
 吹き飛ぶようにして彼の身体が、道路に激突する。
 交通事故にでも遭ったかのように肉体が地面を跳ねて転がって、瓦礫に激突して、ようやく止まる。そして、立ち上がる。
 瞳からはまるで力が抜けていない。ギラギラと朱い炎の瞳がしっかりとシグーを捉えていた。
 シグーの一つ眼がその瞬間を見ていた――無理矢理、建物からシン・アスカが自分自身を引き離した瞬間を。

『……く、くく、まさか、この期に及んで、そんな余裕があるとはな。』

 下卑た嘲笑と共にシグーが態勢を立て直す。全身の関節部から火花が散っている――駆動系に無理をさせ過ぎたのだろう。
 限界を超えた挙動を行ったせいで、甚大なダメージが関節部――特に膝に生じている。

(気付かれた、か。)

 心中で呟き、全身の再生に全力を注ぐ。

『他の建物へ被害が及ばないように戦う――素晴らしいよ、キミは。だが、ね?』

 盾の先端の銃口が、未だ無事な建物へと向けられる。銃口が火を吹いた。
 血反吐を吐きながら、シン・アスカが弾け飛ぶように建物に向かって移動。
 建物の前面に着くと迷うことなくまだ無事な右手を突き出し、魔力障壁形成。
 左腕からは夥しい量の血が流れ、口元からも次から次へと血が溢れては落ちていく。
 一見して分かるほどの瀕死。それでも瞳には力がある――全身から立ち昇る蒸気。
 リジェネレーションによる自動再生。
 折れた肋骨が接合し、破裂した内臓が元の姿を取り戻し、千切れ掛かっていた左腕が繋がっていく。

『化け物だな、キミは。』

 呆れたような呟き。放っておけと言おうとして血が毀れて喋ることすらままならない。

『さて、その死に損ないの身体でどこまで防げる? 私の攻撃を防ぎながら……!!』

 愉悦に塗れた声で、ラウ・ル・クルーゼと同じ声色が響き渡る。
 防ぎながら、再生しながら、ただその銃撃を堪えていく。
 障壁が罅割れては、そこに魔力を注ぎ込んで障壁を修復する。

「くそったれっ……!!」

 毒づきながらも思考は止めない。どうすればいいか。どうすれば、この状況を打開できるか。
 考えろ。考えろ。考えろ。
 障壁を展開したままの突撃――却下。魔力消費が大きく、敵に辿り着く前に魔力が枯渇する。
 展開を解除し、回避に徹して懐に入り込み攻撃などは論外。
 目的はあくまで周辺の建物にこれ以上の被害を与えずに、敵を倒す、もしくはこの場から離すこと。被害を与えないことが大前提――倒すことなど二の次だ。

 ならば、障壁を展開したまま、攻撃を行えばどうかと言う考えも浮かぶがすげなく却下。
 敵の攻撃を防ぎ、こちらの攻撃を通すような都合の良い障壁は張れない。
 防御と攻撃は同時に行えないと言う道理の通り、攻撃を行う為には障壁を解除しなければならない。その時点で死ぬ。

(だったら、どうする。)

 思考を止めずに障壁を張り続ける。目減りしていく魔力。
 一発一発が人間を殺すにはあまりある弾丸を受け止め続ける。敵の足が動く。
 こちらに近づく。弾丸が着弾する間隔が狭まる。
 障壁がヒビ割れて砕け散る。魔力を流し込むことでそれを否定。
 狭まっていく距離/着弾の間隔が狭まる/壊れていく障壁/再度構成される障壁。

『さあ、どうする?』

 愉しそうな声。それに迸るような怒りを感じるが出来ることは“防ぐ”以外に何も無い。
 銃口がずれた。次いで鳴り響く音。舞散る火花。
 残響を残して連鎖する破裂音――どこか鐘の音を連想させる音色。
 かん、かん、かん、と音を鳴らして道路に火花が散って、一瞬遅れて銃口がずれていく。

(これ、は)
『ふふふ……返事を返す余裕もないか、それとも既に諦めでもしたのかな?』

 得意げに語る敵は今もその変化に気づかない。銃撃の爆音でその破裂音に気づかない。
 同じ音が再度響く。銃口が僅かに動く。音が響いた。銃身が動く。
 残響/火花=僅かに動く銃身。
 引っ切り無しに続いていく音と火花の連鎖。繰り返すこと更に五度。
 動くこと、即ち銃口の向きがズレることに意味は無い。

 動いたと言っても本当に僅かな動きでしかなく、劇的に狙いが外れた訳ではないのだから。むしろ、狙いが外れシンが展開している障壁から逸れた方が問題だ――被害を増やすことになるのだから。
 だが、この場合は別だ。
 動く方向は左右ではなく縦方向――上へ上へと銃口が上がっていく。
 地面に向けられていた銃口が、徐々に地面と平行になっていく。

『……何だ?』

 ようやく、その変化に気が付いたのか、シグーから声が響いた。
 音に気づいたと言うよりも火花に気づいたのだろう。
 何度も何度も、数秒の間隔を開けて、繰り返し舞い散る火花はカメラのフラッシュの如く辺りを明滅させている。
 火花によって巻き起こった明滅が唐突に止んだ――そして、巨人が左手に持つ銃身がその盾の中腹辺りから炎を出して爆発した。

『がっ!?』

 盾だけではなく固定していた左腕も巻き込まれ、肘から先が砕け散って足元の瓦礫の上に落ちていく。
 呆然とそれを見るシン。銃撃はもう来ない。砕け散って破壊されている。
 シグーがたたらを踏んで後退――しようとして、足元の瓦礫に尻餅をつくようにして転んだ。地面に響く、巨人の体躯の重量が巻き起こす音と振動。

「……これ、は。」
『援護が間に合ったようだな。』

 デスティニーが呟いた。

「援護……って、まさか。」
『……この馬鹿野郎が。』

 念話による通信が届く――不機嫌さを隠そうともしない、低い声。

「その声は……」

 通信先が示す方向を見上げた。
 見えるモノはその周辺で最も大きな高層ビル――高さは少なくとも60mを超えている。
 その屋上――付近全てを俯瞰できるような天の庭。空には満月が輝き、その円の中心にかかる細い影としか思えない人影。
 声の主はヴァイス・グランセニック――自分がさっさと来いと告げた男。


「……何って、戦いだ。」

 それは常識と言うモノを全て駆逐するような化け物と化け物の戦いだった。
 巨大な――全長20mを超える大剣。人間が使うサイズではない。
 キャロ・ル・ルシエが召還するヴォルテールよりも大きいその大剣。
 この世界に生きるどんな生物もあれほどに巨大な大剣は扱えない。
 朱い炎を纏い、灰色の巨人に向けて剣を振るう人間――シン・アスカ。

 ストームレイダーのスコープ越しに見える彼はその巨大な大剣を自身の一部であるかのように振り回しながら、巨人と攻防を繰り返している。
 都市部に入ろうとする巨人。その攻撃を大剣によって防ぎながら、刺突及び魔法による砲撃によって、郊外へと押しやろうとしている。

 ヴァイス・グランセニックはその光景に身震いする。在り得ない光景。
 化け物同士の戦い――そうとしか感じられない。

「……近付ける訳、ねえだろ、これ。」

 何者をも寄せ付けない――そこに近づけば援護する前に巻き込まれる可能性の方がはるかに高い。

「どう、する。」

 呆然と呟くヴァイス。
 先ほど、シンのデバイスから送られてきた座標の付近から逃げていた子供を保護し、親元にまで送り届け、彼はこの場に舞い戻った。
 そこで目にした戦闘に目を奪われて今に至る――目を奪われていたというよりも、信じられなかったという方が正しいかもしれない。
 それほどにその戦闘は常軌を逸していたからだ。

 既に起動し携えていた相棒――ストームレイダーに目をやる。
 バイクからは既に降りている。流石に手放しで片手間で運転するつもりは無かった。
 ストームレイダー。狙撃に特化した自らの武器にして相棒。
 幾多の戦場をこれで潜り抜けてきた。失敗もあったけれど、その度に共に乗り越えてきた。
 乗り越えられないモノは無いなどと言うつもりもないが、どんな相手であっても援護くらいは出来ると言う自負――そんなものは今砕かれた。
 あんな巨大な化け物相手にこの小さな武器で何ができると言うのか。
 それこそ機動6課の隊長、副隊長レベルの力が無ければ、どうすることも出来ない。

 ――彼女がここにいれば、そんな言葉が浮かぶ。

 自分ではない、もっと強い誰かがいれば、何とか出来るかもしれないのに。
 高揚していた気持ちは実際の現実の前で砕かれる。
 ヴァイス・グランセニック。彼は誰が何と言おうとも凡人だ。凡百の魔導師に過ぎない。
 空を飛ぶこともできなければ、大威力の砲撃魔法を撃つこともで出来ない。
 高速で移動することも出来なければ、巨大な竜を召喚することも出来ない。

 目の前で戦い続けるシン・アスカのように巨人と真っ向からやりあえる訳もない。
 彼に出来るのは、ただ撃つことだけ。小さな、直径1cmにも満たない弾丸を当てる、ただそれだけ。
 弾道を曲げることも出来なければ、分厚い装甲を貫くことも出来ない。
 乗せられて、高揚していたせいか、不甲斐なさを強く感じる。

「……此処から、援護する、か?」

 ぽつっとそんなことを口にして、苦笑する。
 出来る訳が無い。あれだけの巨体にこんな豆鉄砲で何をするというのだろう。
 僅かな魔力消費で連射出来るように既に生成した魔力弾を詰め込んだ大型のマガジンを設置してあるとは言え、弾丸は弾丸だ。非殺傷設定を解除してもあの装甲に傷をつけるくらいは出来るだろうが――その前にシンを誤射しないとも限らない。

 その上、遮蔽物だらけの街中での狙撃というものは往々にして入念な下調べを前提として行われる。
 地形データ、風向き、角度、その他諸々のデータ無しで高精度の狙撃などは不可能なのだ。
 だから、ヴァイスはある程度近づいた上での後方援護を考えていたのだが――あの戦闘に混ざり込んで援護するなど、出来る筈もない。
 そうして、ただ茫然と眺めていた――戦況が変わったのはその時だった。

「……なにしてるんだ、あいつは。」

 鍔迫り合いの態勢から互いの得物を弾き合い、互いに後退する。
 吹き飛ばされたシンがどうなったのかは見えなかったが、巨人は僅かにたたらを踏んで後退し、その後、僅かな間が空いてから、態勢を整え、再び銃撃を繰り返す。
 そこまでは同じだった。それまでと同じ攻防の繰り返し――だが、そこから、何故かシンはそこから攻撃を回避することなく、受け止め始めた。

 圧倒的なサイズ差が示す通りに、巨人の攻撃は人間を殺すには十分すぎるモノである。
 それを回避するのではなく受け止めるなどと言うのは自殺行為に他ならない――だからこそ、それまでシンは一瞬たりとも止まることなく接近と離脱を繰り返していた筈なのだ。高速の出入りと的の小ささを利用した回避を徹底して。

 だが、今はその姿が嘘のように銃撃を展開した魔力障壁によって受け止めている。
 スコープ越しにその光景を見る。身体は満身創痍と言ってもいいほどの致命傷。
 額から血を流すどころか、全身から血を流し、左腕などは間違いなく折れている――むしろ、あの腕の曲がり方は千切れかけていると言った方が正しいかもしれない。
 シンに向けて念話を繋げる――繋がらない。回線が閉じられている。

「くそっ、あの馬鹿、何で!!」

 さっさと逃げれば良い。
 子供達が逃げた時点でシンがあそこにいる意味は無い。
 あれほどの致命傷を負ってまで戦う意味などもう無い。
 バイクに跨り、スロットルレバーを思いっきり回す。
 待機状態に切り替えたストームレイダーに向けて口を開く。

「今からあそこに向かうぞ、ストームレイ」
『来るな。』

 言葉を遮るように脳に直接届く声――念話。

「お前……シンの」

 声の主はデバイス・デスティニー。シン・アスカの手にあるデバイス。

『ヴァイス・グランセニック、だな。ウチの主は今戦っている最中で通信する余裕はない。』

 電子音の声――艶やかな女性の声。けれどその声音が辿る口調はどこか軍人のような趣きを感じさせる。

「お前、勝手に回線閉じてるのかよ。」

 ヴァイスの顔に驚愕が浮かぶ――主に黙って、念話の回線を閉じ、あまつさえデバイスが勝手に通信を行っているということに。
 人格を持つインテリジェンスデバイスは年月を経れば確かに相棒と呼ぶに相応しい関係を構築するが、だからと言ってデバイスはデバイスだ。あくまで主の意思に沿って動くものである。その根幹にあるものは主の指示。
 もし、主が意識を失うなどの心神喪失状態に陥っているのならまだ分かるが――主の意向を完全に無視して単独で通信などを行うなど、デバイスの領分を越えている。

『ああ、そうだ。そんなことよりも頼みたいことがある。』
「頼みたい、こと、だと?」
『ああ、頼みだ。』

 言葉と共にストームレイダーがデータ受信を始める。データの内容を空中に投影し閲覧する――嫌な予感がする。

『今送ったデータの通りに狙撃をしてもらえないか? シンからお前は腕の良い狙撃手だと聞いているものでな。』

 予感が的中。次々と彼の前面の空間に投影されていくデータの数々。周辺を埋め尽くすような膨大なデータ――その一つ一つに目を通していく内にヴァイスの顔が青ざめていく。

「……おい、ちょっと待て。何だこれ。」
『何だ、とは?』
「……お前、自分が何を頼んでるのか、わかってるのか。」
『凡そ500m程度の距離から狙撃。連射出来る準備もあるようだしな。可能な限り、連続した狙撃を行ってほしいだけだ。』

 データの内容――それは先ほどヴァイスが必要だと考えていた狙撃に必要となる数々の基礎データである。ご丁寧に狙撃地点からの気温や湿度による誤差まで書いてある。
 ――デスティニーが行おうとしていることは単純な一つのこと。狙撃によって最も厄介な武装――盾に取り付けられた銃を破壊することである。無論通常の方法では不可能だ。
 ヴァイスの狙撃程度の威力では破壊など出来ない――ある一点を除けば。

「――兆弾を利用して、この場所から狙える角度にまで銃口を上げた上で、連続して銃口の中を狙撃。確かに、この方法なら銃口を破壊することだって出来るだろうよ……上手くいけば、な。」
『出来ないか?』
「……こんな精度の高い狙撃を連続して何発……いや、それ以前に兆弾を前提に狙う狙撃なんて出来ると思うのか? 威力だってあんな馬鹿デカイものを持ち上げるほどになるかどうか……」

 然り。兆弾――即ち一度撃ち放った弾丸が物に当たり跳ね返ることである。
 いつ如何なる場合でも起こる訳ではなく、硬質のモノに命中した場合や侵入角が浅い場合に起こり易い現象である。
 兆弾は予想外の方向に飛んでくる。
 一度命中している弾丸は多少なりとも変形を受け、さらには不規則な回転運動が与えられている事もある。
 ソレに加え、一度兆弾しているということは威力が減少しているということだ。
 弱まった威力であれほどの重量を動かすことが出来るのかと言う問題もある。
 それらを予想し都合のいい兆弾を前提に狙撃するなど自殺行為――馬鹿としか言いようが無い。

『出来る。そのカートリッジに収まっている弾丸の弾頭は外殻を真鍮程度には硬質化させているのだろう?』
「お前なんでそれを…」
『何、ここに来る前に少し覗かせてもらっただけだ。気にするな、俺は気にしない。それと威力については心配ない――お前の狙撃に合わせてこちらでもあれを上に動かすように重力緩和を行う。』

 絶句する。このデバイスは何なのか。
 人間臭いデバイスならば幾つも存在する。
 それこそ自分のストームレイダーだって、それなりの年月を共に過ごすことでAIに宿る人間性はかなりのモノだと自負しているが――このデバイスはそんなレベルでは
ない。人間臭いどころか、人間と言っても差支えが無い。
 こちらが絶句していることに気づいているのかいないのか、そのデバイス――デスティニーは勝手に講釈を垂れ始める。

『角度、気温、湿度による誤差修正はこちらで行わせてもらう。リアルタイムでデータを送り続ければ誤差は限界まで減らせるはずだ。』
「ば、馬鹿か、お前!?  そんなことして、もし失敗してシンに命中したらどうするんだ!?」
『どの道、それ以外にこの場から生き残る術は無い。 出来る、出来ないではなく、選ぶ選択肢に余裕が無いだけだ。 でなければ、こんな自殺行為を行いたい訳が無いだろう。』

 淡々と事実だけを告げるデスティニー。その言葉を怪訝に思いヴァイスが聞き返す。

「…選択肢に、余裕がないだと? そこから動けない理由でもあるって言うのか。」
『ああ、周りの家を壊されて住人が悲しむのが気にくわないらしい。』

 再び、絶句。

「……なんっだ、そりゃ。 何でそんなバカなこと……。」
『馬鹿だからな。 それにあいつはそういうことをするためにここに戻ってきたのだから仕方ないとも言えるが。』
「どういう……」

 どこか“得意気”にデスティニーが言い放った言葉。それを聞き返そうとした自分を遮るように、デスティニーが言い放つ。

『そんなことはどうでも良い。 やるのかやらないのかを早く決めてくれ。』

 僅かに声に混じり出す焦燥――選択肢に余裕が無いと言った言葉が現実味を帯びていく。

「…やらなかったらどうなるんだ。」
『あいつは頑固だからな。 自分が死ぬ程度のことでは絶対に譲らない。』

 それは殆ど脅しに近い。シンは何を言っても、あの場を動かない。つまり――自分がやらなければ、シン・アスカは、死ぬ。唾をごくりと飲み込んだ。

「やるしかないってことかよ。」
『すまんな。』

 悪びれもせずにデスティニーが呟いた。
 バイクのスロットルレバーを回す。急激な加速で、タイヤが空転し、白煙が舞い上がる。

「……このくそったれデバイスが。」
『褒め言葉として受け取っておこう、狙撃手(スナイパー)。』

 その返答と同時に走りだす。

「ストームレイダー!! どこに行けばいいか、教えろ!!」
『All right,master.(了解しました)』

 デスティニーとストームレイダーのリンクは未だ繋がったまま。
 ヘルメット越しの空間に投影されるナビゲーションメッセージ。
 距離は近い。全速で飛ばせばものの数十秒で到着するほどの近距離だ。

「何なんだ、あのデバイスは……!!」

 毒づきながら、デスティニーから送られてきた情報を直接脳内に送り込ませる。
 それはスナイプショットと呼ばれる魔法――即ち自身が走査し会得した環境データを元に術者とデバイスの両方の演算機能を全開で活用し狙撃の精度を上げる魔法である。

「出来ると思うか、ストームレイダー。」
『On your and my skill(貴方と私の腕次第かと)』

 その返答に苦笑する。
 腕次第――確かにその通りだった。送られてくるデータをストームレイダーが解析し、ヴァイスの脳裏に伝えてくる。バイクを操縦する思考とは別に脳裏にもう一つの思考を生み出して、イメージを行う。
 狙撃のイメージを――撃ち抜けるイメージを。
 想起するのは失敗する自分ではなく、成功する自分。
 撃ち放つ自分ではなく、撃ち抜く自分。
 自信過剰ではなく、適度な自信を自身に刻みつける簡易的な精神制御。
 出来る。出来るのだ、と。
 心が定める可能性を限りなく100に近付けていく作業。
 その中で乗せられている自分を自覚する、思考が生みだされる――三つ目の並列思考。
 流れていく風景。バイクを走らせ、その場所に向かいながら思考は止まることなく紡がれていく。

 ――どうして、自分はこんなことをしているのだろう、と。

 大体、自分には関係が無い。さっさと後方から援護に来るであろう部隊と合流するべきだ。
 忌避すべきは無駄死に。意味の無い、どこにも届かない死。
 守り続けている建物なんか壊せばいい。
 死ぬよりもよほどいい。それで死んでは無意味過ぎる。そんなモノに付き合ってなどいられない。
 心底、そう思う――なら、何でこんなことをしているのか。
 分からない。分からないから納得など出来るはずもない。

 シン・アスカに感化された?
 まさか自分とシン・アスカに接点などまるでない。精々海で僅かに話したくらいだ。
 だから感化などされるはずもない。
 もし感化されたとすればそれはシン・アスカからの感化などではなく――自分の中の何かが呼応したということ。

 ――気づいているはずだ、その何かに。その理由に。

 バイクを降りて目的の高層ビルに入り込む。
 どういう手管か鍵はすでに開いていた――あのデバイスの仕業か。
 勝手にこの会社のネットワークに入り込みセキュリティの全てを管理下に置いているとでも言うのだろうか。主に黙って通信を行うことと言いつくづく常識外れな存在だ。

 階段を上りながら思い出す。
 時空管理局に入った時、自分は何を思っていたのか――懐かしい話だ。もう、何年前になるのか。
 世界を守るのだと強く信じていた。柄にもなく力無き人々を守る為に、などと息巻いていた。
 魔力量が低く、英雄――オーバーSランクの魔導師にはなれないと気づいても、自分は諦めずに、狙撃ただそれだけに特化してきた。それだけを磨き抜けばいつかはたどり着ける場所があるのだと。

 けれど、現実は違って、一つだけの技能で辿り着ける場所なんてたかが知れていた。
 一つだけの技能はこの世界ではそれほど重要ではなく、大事なのは魔法そのもの――技術ではなく力そのものだった。
 遠距離からなら砲撃魔法の方がよほど強い。空を飛べれば狙撃場所の制限もない。
 遮蔽物があったとしても弾道制御があれば問題なく――理想は高町なのは。
 紛れもなく彼女が自分自身の理想だ。

 けれど、“魔法の才能”という持って生まれたモノが、足りない自分には彼女のようにはなれない。
 初めて彼女に出会った時の胸の内を思い出す――多分、それは何度も繰り返された幾度目かの挫折だ。
 武装隊に入ってシグナムに出会って、彼女の後ろは自分が守ると息巻いて――けど、彼女は自分よりもはるかに凄い誰か=高町なのはを知っていて。
 年若く、自分よりも若く、なのにその力は自分よりもはるかに上で――世界を守るヒーロー。栄雄。正義の味方。救世主。

 そう言った言葉がよく似合うほどの純粋で強い圧倒的な存在。
 そうして、上を見れば自分が追いつけるはずもない人間が何十人もいた。
 下を見れば、彼女のように年若くとも才能あふれる逸材が何十人もいて――そうして自分は悟った。

 ――ああ、俺はここらへんが限界なんだなと。

 自分よりも年若い逸材がどんどんと自分を追い抜いていく。
 悔しさは感じるけれど、それでいいと思った。
 諦めが半分、達観が半分――違う、諦めが全部だった。
 自分は追い抜かれていくどこにでもいる凡人で、諦めたのは凡人だからで、流されたのは凡人だからで。

 けれど――階段を走りながら思い出すのは彼女のこと。彼女のような存在のこと。
 憧れていた何か。手を伸ばし続けた何か。たどり着きたかった場所。
 そこに最も近く――あるいは最も離れた、一人の男。
 シン・アスカ。大真面目にあの男は、そこに住む人間が悲しむから、苦しむからと、自らを盾にして、“建物”を守っている。
 理解出来ない――気持ちは分かる。けれど、それを実行に移してどうするのか。

 馬鹿だ。大馬鹿野郎だった。
 綺麗な戦いじゃなく泥臭い戦いしかやらない。戦っている姿はいつも血まみれで泥まみれで汗まみれ。
 憧れたヒーロー――もっと圧倒的で綺麗で誰もが憧れる英雄には程遠い。
 なのに、どうしてどうして自分はこんなに流されている。
 どうしてあの無様で必死な姿が胸を打つ。
 自分は本当はあんな風に――

(……何、馬鹿なこと、考えてる、ヴァイス・グランセニック。俺にはそんな力はない。分不相応もいいところだ。)

 思考を戻す。余計な考えを排除する。
 やると決めたからやる――どの道死なせるつもりなど毛頭無い。

「着いた……!!」

 階段を昇り切って、勢い良く扉を開けて屋上に飛び出る。
 足がガクガク震える。全身から汗が吹き出る。息切れが収まらない。何百段もの階段を一気に昇ってきたのだ。体力が持つはずがない。
 けれど、それでも停滞無く――

「出番だぞ、ストームレイダー。」

 デバイスを起動し、その手に握り締める。狙撃銃の外観のデバイス――ストームレイダー。
 命中精度を上げることに特化したデバイス――自分と同じ一点特化に全てを賭けた相棒。

『All right.』

 返答と共に直ぐに端――柵の辺りにまで移動し、その柵に向けてまずは一発、弾殻生成。

「どいてろ。」

 放つ。一撃で落下を防止する柵は根元から折れ曲がって狙撃の障害物ではなくなり、単なるオブジェと化した。跪き、銃把を握り、銃身を支え、構える。

『データリンクを始める。』

 デスティニーからの通信。
 返答も待たずにストームレイダーとデスティニーが繋がりデータの送受信が始まる――目まぐるしく飛び交う膨大なデータ。
 気温、気圧、湿度、地形データ、それら全ての現在の状況が送り込まれては送り返されていく。
 狙う――スコープがぶれる。銃身が揺れている。
 ……手が、震えている。

「……情けねえな。」

 シン・アスカ――人が近くにいる為に生まれる後遺症/心的外傷。過去の失敗を思い出す。
 考えてみれば良く似た状況だ――敵がいて、味方がいて、どちらも動きを止めていて、そこを狙う自分。
 息が荒い。疲労ではなく恐怖から息が荒くなる。怖い――誤射が怖い。失敗するのが怖い。

「くそっ……!!」

 毒づいて、震えを止めようする――それでも止まらない。
 狙撃とは詰まる所、どれだけの下準備――データの充実と装備の充実による誤差の排除――を施したかによって決まるモノと思って良い。
 システムに従うだけならば、それこそ機械任せで充分だ。だが、狙撃とは人間が行うからこその“狙い”“撃つ”行為だ。
 一発の弾丸が当たるかどうかはそこで決まる。

 システムの指示通りに撃つのか――それともその指示を裏切るのか。
 風を読み、気圧を読み、流れを読んだ上での、最後の選択/意思の発露。
 今の自分にそれが出来るのか――否。否。断じて否。
 不安が胸を染める。高めていた自分が成功すると言うイメージが霧散する。
 代わりに現れるのは失敗すると言うイメージ――シン・アスカに弾丸が突き刺さると言うイメージ。

「……止まれ、いいから止まれ……!!」

 言葉/願いに反して止まらない。震えることが正常とでも言いたげにまるで震えが止まらない。
 恐怖が恐慌となって破裂する寸前――デスティニー、あのいけすかないデバイスから声が届いた。

『……ああ、そうだ。一つ、言い忘れていたことがある。もし、怯えて、震えているというのなら、』

 声の調子は淡々と。先ほどと同じように、ただ冷徹に事実だけを告げるようにして――

『“俺”が代わりにその引き金を引いてやろうか、狙撃手(スナイパー)?』

 その声で、胸の中の何かに炎が点火する。

「なんだと…」
『誤射如きに怯えて震える狙撃手よりはデバイスである“俺”の方がまだマシだろう――システムの精度そのままで狙撃が出来るのだからな。』

 ―――狙撃っていうのは、“狙い”“撃つ”こと。放つ瞬間、狙撃手は自分と世界を繋ぐ。意思を弾に込めて、それを撃ち放つ。機械任せじゃ出来ない人間だから出来る芸当よ。

 聞こえてくる誰かの言葉/想い出。忘れてはいけない誰か/忘れられない誰か。

 ―――キミはそういうのが出来ないもんね。

 自分から離れていった誰か。
 誰も――自分以外の誰も知らない誰かの声。
 好きだった女――好きでいたかった女。

 ―――じゃあね、ヴァイス・グランセニック。前を向けない男は嫌いなの。

 あの時と同じ状況。あの時と同じ繰り返し。
 また、自分は繰り返す――もう一度同じ事を繰り返す。
 だから、自分は、このいけすかない機械の言うように――

「―――黙ってろ。」

 ――絶対に逃げ出さない。握り締めた銃把から手を離すな。

「今からお前に……本当の“狙撃”って奴を見せてやる。」

 あの時を超えろ。あの時と同じじゃないと証明しろ。
 何の為に此処にいるのか。

 失敗するためか?
 誤射するためか?

 違う、誰かを――あの馬鹿に“手を貸す”為だ。
 前を向く。震えは止まらない。恐怖ではなく別の感情――怒りで震えが止まらない。

「……スナイプショット。」
『Yah.』

 小さく、呟く――ストームレイダーとのデータリンクを開始。流れ込む情報。
 脳髄に流れ込み、一つのカタチを作り上げて行く。
 最適な角度。最適な高さ。システムが導き出す、最適な構えを。
 流れ込む情報を取捨選択。場所はピンポイント、許される誤差は10cmも無い――暗闇で針の穴を通すような行為。

 出来るのか/“やるだけだ”。終わりを告げる自問自答。
 狙え/握れ/引け――空白が心を埋め尽くす/頭の撃鉄が落ちる。
 同時に、久しく感じたことない感覚が自身の脳髄から湧き上がる。
 “全能感”。世界全てを握り締めたような錯覚/震えが止まった。

「―――」

 心臓の鼓動が消える錯覚。呼吸音すら聞こえない――呼吸していると言う意識すら消えて行く。
 上空から俯瞰する自分とスコープを覗く自分。自己が乖離し融け合い、特化する。
 胸を支配するのは澄み切った広大な虚無と込めるべき弾丸――機械では決して込められない狙撃手の意思。

「狙い撃つ。」
『Please.(どうぞ)』

 僅かにターゲットから標的を外す。直感/全能感が告げる道筋。
 それに一切の疑いを持つこと無く、引き金を引く。続いて指定されるポイントに銃口を向け引く。今度はターゲットをそのまま。次のポイントも同じくターゲットをそのまま。その次は僅かにずらす。その次もずらす。

 放たれる五発の弾丸。それらが着弾する前に引き金を引く。引く。引く。引く。引く。
 システムに従い/裏切り――何度も何度も何度も引き金を引き続ける。
 狂ったように――ただ冷徹に没頭し、埋没する。

 巨人の左手の銃口が徐々に上がって行くのを認識する。一発では無理でも何十発と繰り返される狙撃による衝撃が少しずつ少しずつ銃口を上げていっている―――それに何を思うでもなく、ヴァイス・グランセニックは引き金を引き続ける。
 弾倉が空になる。取り外して、ストームレイダーが自動詠唱。

『Transfer(転送).』

 虚空に魔法陣が生まれ、それに合わせて呟く。


「開封(オープン)。」

 魔法陣から重力に従い落下してくる黒く四角い物体――既に生成してある弾丸を込めた弾倉。
 既に準備がしてある陸士108部隊隊舎からの転送――それを受け止めると、ストームレイダーに取り付け、再度構える/狙う/撃つ。連射の速度で狙撃する。
 心の中は平静だ。落ち着くことも慌てることも何も無く、ただその作業に没頭する。
 データが生み出したシステムに対して従順と反逆を選択し続ける。

 巨人の銃口が上に上がる。敵がそろそろ気付いたようだ。無視して撃つ――ここまでの成功率はおよそ8割。シンは気づいていないようだが幾つか彼を貫きかけた弾丸も存在している――弾丸の軌跡を全て把握する自分自身に不思議と違和感を感じない。
 銃口が目標値にまで上がりきる――狙いを銃口の中に変化。
 セレクタをセミオートからフルオートに切り替える。

「―――」

 無言のまま引き金を引く――引き続ける。フルオートで連射されていく弾丸。
 秒間13発と言う速度で発射される弾丸。
 弾倉に詰め込まれていた魔力弾が瞬く間に放たれて行く。
 次の瞬間、暗闇が掻き消されるほどの爆発が起きた。
 銃口内に撃ち込まれた何発もの弾丸が、放たれようとしていた弾丸に激突及び銃口内部を抉り取って傷つけて、巨人が放とうとした弾丸が暴発――巨人の左腕を食い千切ったのだ。

「……この馬鹿野郎が。」

 呟いて、気付く――シン・アスカが、こちらを見ていることに。
 迸る苛立ち。
 胸には高揚感――この仕事をやり遂げたと言う高揚感と、その高揚感そのものに苛立ちを覚える気持ちがある。
 何でこんなことをしたのか。どうして乗せられたのか。
 それは多分――

『さっさとぶっ壊せ。』

 自身の中で生まれそうになった言葉を遮るように念話を繋ぐ。
 今度は繋がった――あのくそったれなデバイスが繋げたようだ。

「え。」
『こっち見てる暇あるんだったらな、さっさとそのデカブツぶっ壊せって言ったんだよ、この馬鹿野郎!!』


 苛立ちを込めた咆哮と共に再度“銃撃”が始まった。

『うおおおおおおお!!』

 先程までの信じられないような精度の狙撃ではない連射。それでも狙いはしっかりと定めているのか、無造作な掃射にしか見えない速度で、確実にシグーの関節部を撃ち抜いていく。
 関節部に命中し、火花を散らしてフレームを削る魔力弾――僅かな窪みが生まれる。
 けれど、凡人が作り出した魔力弾の一発如きでモビルスーツの関節部が破壊されることはない。


 だが――そこに再度撃ち込まれる魔力弾。何度も何度も撃ち込まれて行く内にその窪みが徐々に広げられていく。
 直径1cmにも満たない大きさとは言え超音速で射出された魔力弾が同じ箇所に何発も撃ちこまれれば、稼働域を確保する為に脆弱に仕上げざるを得なかった関節部程度、損傷を与えることは容易い。

 起き上がろうとするシグー。そこに無慈悲に撃ち込まれる弾丸。コンマ5秒ごとに場所を変えて打ち込まれて行く射撃。身体を庇ってのたうち回る様はまるで吊り上げられ暴れる魚のようで滑稽で哀れを誘う――まな板の上の鯉の如く、破壊するには丁度いい風情。

「言われなくても分かってんですよ――」

 シンの表情が変わる。
 歯を食い縛って全身の痛みを堪えて、“唇を吊り上げる”、“両の目を吊り上げる”。悪魔の如き笑顔。曲がりなりにもヒーローになるなどと嘯く人間が浮かべるような笑顔ではなく、どちらかというと虐殺者と言われた方がしっくり来る形相。

 のたうつシグーに向けて左手に握り締めた大剣の先から伸びる全長20mを超える巨刃―――MMI-714アロンダイトビームソードを突き付ける。掃射は止まない。
 握りは両手持ち。全身全霊をこめて突き抜く構え。

「――俺は、最初っから、そのつもりなんだからなあ!!!」

 突撃する。
 残った魔力残量=残り僅か/その全てを次ぎ込んでただ攻撃に特化する――引き絞られ放たれる矢の如く。その装甲を、フレームを、ソイツを構成する全ての要素を突き抜く為に。
 デバイスからの情報展開/後方からの掃射に当たらずに接近するルート――躊躇わずそのルートに身体を滑り込ませる/加速。

 篝火の如くシグーを照らす火花/超音速で射出される弾丸の群れ=自分を掠めて飛んで行くソレを全て無視――当たらないと言うルートを提示された、だから突き抜けろ、前に進め前に進め真っ直ぐに前へ――その為だけに故郷を捨てて此処に来たと言う事実を今更思い出す。

 悪魔のような微笑みが更に歪んで、抑え込んでいた“渇き”が酷くなる。
 全てを守りたいと言う“渇き”。
 二人を取り戻したいと言う“渇き”。
 ヒーローになりたいと言う“渇き”。

 欲望が溢れ出る。
 全てを守ればそれでいいという謙虚な化け物としての欲望ではなく、何もかもを守り抜いて望んだ願いを叶えようとする強欲な悪魔としての欲望が。守護と恋に狂った悪魔が目を開く。
 狂ったように笑いながらの突撃――全身を覆う朱い炎が更に苛烈に燃え盛った。それに伴い更に加速する。

『くっ、このっ!!』

 毒づきと共にシグーの足がシンに向けて蹴り出された。同時に残っている右手は剣を振り被って叩ききる構えを取った。
 先ほどまでは注視していた、その攻撃を全て“無視”。見て見ぬ振りで突き進む。
 蹴りが剣と接触した/突き破って突撃。
 剣と剣が接触する――こちらの接触の方が数瞬早い。

『なっ―――』

 蹴りを乗り越え、剣を乗り越え、ただただ前へ前へ、狙うはコックピットではなく腰部。接触。
 襲い来る衝撃は強く、剣ごと吹き飛ばしてしまいそうなほどに暴力的だ。
 だが、それでも握りしめた両手を離さない。歪んだ笑顔は変わらない。高笑いでもしそうなほどに笑顔は歪みを増していく。

 援護を受け、防御に意識を回さないことでようやく出来た全身全霊の突撃がシグーを串刺しにして、動かしていく。
 大剣との接続を解除。
 そのままデスティニーの刀身の先の砲門から圧縮し熱量に変換した魔力砲を発射。

「飛んでけええええええ!!!!」

 咆哮ともに放たれた朱い光条がシグーに突き刺さったアロンダイトを後押しし、街の外まで吹き飛んで行く。途中、地面にぶつかりシグーの全身が何度ものた打ち回り、それでも止まることなく地面との摩擦で全身がバラバラに砕けていき――そして、停止。

 全身から火花を発しているシグー。右手の武装は破壊され、右腕も根元から折れている。両足は関節部を軸に綺麗に折れ曲がって、完全な四肢欠損状態――確認するまでもなく完全に破壊されている。

『盛大な串刺しだな。』
「……油断するなよ。動き出さないとは、限らないんだからな。」

 デスティニーのぼやきを耳にして、そう返答する。
 実際、油断は出来ない。コズミックイラで戦ったレジェンド――付近全ての瓦礫やモビルスーツ、撃墜した戦艦などを取り込んで全長100mを超えたと言う前例があるのだ。
 あれだけの化け物ではないだろうが――だからと言って、これでお終いなどと言う確証はどこにもない。

「熱源反応は?」
『無い。強いて言えばお前の突き刺したアロンダイトが一番熱い。爆発しなかったことが驚きだな。』

 淡々としたデスティニーの呟きにシンは一瞬顔を引き攣らせる。恐らく何も考えていなかったのだろう。
 コックピットを避けることを念頭に考えていたからか、それ以外のことが頭から抜け落ちていたのだ。

「……い、行くぞ。」
『了解した。』

 引き攣らせた顔をそのままに、シグーに向けて飛び立った。
 近づいてくる巨人。紛れも無く、それはモビルスーツ。ザフトで運用されていた機体だった。
 コックピットに近づき、開閉ボタンを押し込む――軋むような音を立てて、動き出すコックピット。
 即座に後方に跳躍。両手でデスティニーを構え、刃に炎を纏わせる。

「……さあ、何がいる。」

 油断無く、コックピット内部を見つめる。
 計器類からは火花が散り、ディスプレイは軒並み割れてコックピット中に散らばっている。
 シート部分に見えるモノは白色のパイロットスーツとヘルメット――何か違和感を感じる。

『……既に脱がれているな。』

 違和感の正体はパイロットスーツの中に誰もいないこと。シートに、ペタンと張り付くようにして置かれているパイロットスーツ。

「……無人機だっていうのか?」

 コックピットに近づく――デスティニーからの警告音は無い。
 とは言え、中に誰もいないとは限らない、と言うよりも信じられないと言った方が正しい。
 あれだけの操縦を人工知能が自律的に行っていたなど悪い冗談にしか思えない。
 コックピットの中に入り込む――異臭が鼻に届く。

「……何の匂いだ、これ。」

 生魚のような生臭い匂い。
 パイロットはここで生魚を触っていたとでも言うのだろうか――そんな馬鹿な考えが思い浮かぶ。
 だが、それは在り得ない匂いだ。人体が発する匂いでもないし、モビルスーツの計器類が発する匂いであるわけがない。以前のレジェンドは確かに化け物ではあったが――紛れも無く“機械”だった。あのコックピットからしたのは、あくまで血と薬品の匂いだけ。生臭い匂いなどまるでしなかった。
 パイロットスーツを掴みあげようとして、“ぬるり”、と滑った。

「なっ」

 ばちゃん、とシートに落ちるパイロットスーツ。見れば、パイロットスーツの中から毀れ出している透明な粘液。
 パイロットスーツの中を触れば、零れ出したモノと同じ粘液が中を埋めていた。今ほど溢れていたのは恐らくはコレと同じモノ。
 粘液の温度は人肌の暖かさ――暖かさはまるで消えていない。まるで、少し前まで、人間が“その中に入っていた”ように。

「デスティニー。」
『ここには何もいない。一応付近にも探査はかけているが現在何も見つかっていない。』

 恐らく、ここには“何か”がいたのだ。パイロットスーツを着る様な人型の何かが――自分がここに入る寸前、もしくは吹き飛ばした瞬間か。
 タイミングは分からない。
 だが、自分がここに入る前に、このパイロットスーツを着ていた“何か”が此処から去った。
 転送か、それとも別の手段なのかは分からないが。

「……何だ、この数字。」

 掴み直したパイロットスーツ。その左胸の部分に赤いインクで走り書きのように書かれた、“48”と言う数字。
 どくん、と胸が鼓動する。得体の知れない何か。それと戦っていた自分。
 何か、取り返しのつかない何かが動き出しているという悪い予感がする。
 それが何なのかは、まるで分からないけれど。
 ――月は、ただ、世界を白く染めていた。



[18692] 第四部ミッドチルダ風雲篇 64.再会と邂逅(a)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/06/02 17:16
 死ねば元通り。その日を過ぎれば元通り。何をしたって元通り。
 どうしてこうなったのか。何が理由なのか。いつからこうなのか。
 分かることは何もない――ただ飽きることなく繰り返される日々を見せつけられる。
 終わりを過ぎれば始まりに戻るメビウスの円環。
 繰り返すことでいつか真実に辿りつける――この円環から抜け出せる。
 そんな風に思って何度も何度も繰り返した。
 けれど、現実は残酷で――これが現実ではなく、私の妄想だという可能性もあったが――何度繰り返そうとも
結果は変わらなかった。

 人間は“飽きる”生物だ。
 人間は飽き、興味を持つ対象を変えることで、人生という長い旅を終えることが出来る――逆に言えば、
“飽きる”という機能を持たなければならないほどに人間の人生は長い。
 それ以上に長い“永遠”など人間には必要ない――手に入れてはならない。手に入れてしまえば、人は全てに
飽きた退屈の中で生きていかねばならなくなる。それは人間には耐えられない。

 だから――彼女も耐えられなかった。ジェイル・スカリエッティのような無限の欲望もない、ただの人間に過ぎ
ない彼女が、そんな永遠に耐えられるはずもない。
 彼女は摩耗する。繰り返しの度に少しずつ――けれど、確実に摩耗する。

 ――これは運命に弄ばれる、そんな一人の魔女の思い出。


「シンっていつもそうやって空を眺めてますね。」
 月を眺める男に声をかける。男はいつもと同じように誰を誘うでもなく、この場所で一人夜空を眺めていた。
空には白く輝く月。
 いつも通りの日常。変わらぬ日常。どこにでもある日常。この繰り返しの只中にあっても変わらぬ日常のヒトコマ。

「……そうですか?」

 男は振り向かずにそのまま呟く。
 風が吹き、男の伸ばしっぱなしにした黒い髪が揺れる――その背中がどこか寂しそうに見えた。

「えいっ」
「っ!?」

 男の背中に私は飛び乗った。突然の体重の増加に男は驚いて、態勢を崩す――少し大げさ過ぎないかと思った
が、結構勢い込んで飛び乗ったせいかもしれない。もしくは、“そんなことを絶対にしないだろう”という確信
があったからか。

「と、と……!!」

 態勢を崩して、前のめりに。バランスは倒れこむことを否定できないほどに崩れている――彼が無理やり振り
向いて背中に飛び乗った私と向かい合わせに対面する――両手が伸びた。彼が倒れこむ。

「きゃっ」

 小さく少女のような――もうそんな年齢でもないけれど――悲鳴を上げて私も一緒に倒れこむ。
 その際に、しっかりと彼が私の身体と頭をコンクリート製の床に当たらないように抱きしめてくれた。
 咄嗟にこういうことをする辺りに彼らしさを感じて、私は何故か嬉しくなって微笑んでしまう。
 ぎゅっと抱き締められて床に寝そべった――彼の体温を感じて、彼の匂いを吸い込んで、彼の吐息を感じて、
緩んだ頬が赤く染まるのを実感する。

 こうして触れているだけで、こうして感じているだけで、こうして息がかかるだけで――そんな些細なことで
私の心は躍りだしたいくらいに浮足立つ。
 そんな感情を覚える度に、“ああ、自分はこの人が本当に好きなんだなあ”、と、そんな年齢には決して似合う
はずもない乙女のような――つい最近までは確かに乙女だったが――コトを思って苦笑する。

「……カリムさん、こういうのは無しって前言いませんでしたか?」
「ふふ、仕方ないじゃないですか。何故かシンの背中が抱きついて欲しそうに見えたんです。」

 男――シン・アスカはそんな私を見て、はあ、とため息を吐いた。
 呆れているのだろう。実際、私だって、こんな子供のように抱きついたりするのは自分のキャラじゃないと思う。
 けど、仕方ない――そう、仕方ない。
 彼がそこにいて、私と彼との二人っきりで――それで抱き付きたくならないほうがおかしいのだ。

「……ったく、何が抱きついて欲しそうだよ、俺は別に……うぷっ!?ちょ、カリムさん!?」

 なおも不貞腐れたように呟こうとした彼の頭を抱え込んで自分の胸――サイズはそれなりと彼も言ってくれた――に
押し付けるようにして抱きしめた。
 子供など産んだことはないがこうやって人を抱きしめると何故か幸せな気持ちになれる。
 こうやって抱きしめ合っているだけで互いの体温が繋がって、ひとつになれるようで――なるほど。
 世の中の母親が赤ん坊を抱き締める時幸せな顔になるのはこういうことか、と一人心中で納得する。
 なおも、ぎゅうっと抱き締める自分を見ながら、朱い瞳の男――シン・アスカが優しげに微笑む。
 “この世界”では自分にだけ見せてくれる微笑みで――“この世界”ではそうなるように仕向けた事実に
わずかに胸が痛み――それでもこの胸に感じる彼の重みがそんな痛みをかき消した。

「……カリムさんって甘えさせたがる方かと思ったけど、逆なんですね。」

 そう言って、彼が自分を抱き締め返す――体温が近づいて、二人の身体がひとつになっていく。

「……好きな人限定ですよ。」

 自分も強く抱きしめた――抱き締めていく内に、胸の内から焦燥が湧き上がる。
 焦燥――独占欲。
 離したくない。離れたくない。誰にも渡したくない。
 自分だけのモノにしたいと願う女ならきっと誰だって持つだろう当然の感情。
 その感情の波に任せて、壊れた万力のように力を込めて抱き締める。
 胸の内から出る言葉は世間一般の――そしてこの心に幼い時から刻み続けられる“貞淑”などという言葉とは
真っ向から相反する言葉。

 もっとこの体温を感じたい。もっと繋がりたい。身も心も溶け合って彼の目に自分しか映らないようにしたい。
 ちょうど自分の目に彼しか映らないように――彼の目に他の誰かが映るのが嫌で嫌で仕方ない。
 そんな独占欲のままに力強く抱きしめた。絶対に離さない、絶対に誰にも渡さないと、そう伝えるように。

 そんな胸の不安が口を吐いて吐き出されてしまう――彼の前では自分はいつだって自分は素直な子供になってしまう。

 いつだって、何だって、自分は彼にスベテをさらけ出してしまう。
 ミイラ取りのはずが取られてしまった典型的な例――籠絡させるように調整して、いつの間にか籠絡されて
しまった馬鹿な女。
 子供のように呟く――年齢は彼など及びもつかないほどに上だというのに。

「どこにも……いかないでくださいね、シン。」
「……大丈夫ですよ。」

 彼が顔を上げた。
 朱い瞳がこちらを見つめる。吸い込まれそうな、紅玉のような朱い瞳――こういうと彼はいつも恥ずかしげに、
そんなことは無いと言うけど――本当にその瞳は綺麗で、誰にも渡したくないと心の底から思ってしまうほどに
綺麗だった。

「どこにいたって、すぐに駆けつけますよ。俺は、カリムさんの騎士なんだから。」

 真剣な瞳。胸の奥から湧き上がる抑えきれない気持ち――もう我慢できない。このままでいたくない。
 もっと一つになりたい。身も心も。溶け合うほどに一つになって。
 ――ここが外だという意識はすでに脳裏にはなかった。
 ただただ欲望のままに身を近づけて彼と瞳を合わせた。

「……シン。」
「……ん。」

 唇が繋がり、身体がさらに近づき――その体温が溶け合う。
 肌と肌が触れ合って、“私”と彼はその時一つに――暗転。
 天空/現実に向かって落下する感覚。浮遊感――幸せな夢から過酷な現実へと転落する。

 ――そうして、“私”が目を覚ます。

 見えるものは自分の上にかかる布団と見慣れた暗闇。
 服は着ている。空は見えない。
 例えようのない喪失感――離したくなかったモノを離してしまった寂寥。

「……夢、か。」

 隣を見れば誰もいない。
 さっきまで熱いほどに感じた彼の体温はどこにもない。
 暗闇だけがあって、何にもないどこにもいない私は一人でそこにいる。

「……嘘吐き。」

 言葉が漏れた。
 それは“彼”に向けた言葉。“この世界”の彼ではなく――自分と愛を語った“彼”の言葉。

 ――俺は、カリムさんの騎士だから。

 世界でただ一人の自分だけの騎士。
 聖王教会のカリム・グラシアではなく、ただのカリム・グラシアの、もうどこにもいない“私”だけの
騎士は、どこにもいないのだ。
 右手を天井に向けて伸ばした――いつか、こうやって彼の頬を撫でたようにして。
 衣擦れの音と共に袖が下がって、腕が露わになる。

 白い肌に不似合いな油性マジックで乱雑に書かれた数字が書かれている――49。
 確認できた繰り返しの数――実際はそれよりもはるかに多い、と思う。
 確認出来ていないだけで、この繰り返しはそんな程度ではないと確信があったから。
 おそらくはその数倍――下手をすれば数十倍すらあり得る。
 もしかしたら、百を超えているかもしれない。千を超えているかもしれない。万を超えているかもしれない。
 本当はもうずっと前に摩耗しきって彼の顔なんて思い出せることもない。
 先ほどの夢のように思い出せたのはほとんど奇跡に近い――何か、良いことの前触れなのかもしれない。
 そう、信じ込むことにする。
 本当にそうなのかは置いておくとして――自分は“この時”の為に全てを賭けたのだから。

「……これで、最後だから。もう少し待っててください。」

 小さな呟き。誰にも届かない――届かせるつもりもない。その言葉は自分にだけ届けばいい。

「今度こそ……死んで、みせるから。 この“永遠”からきっと抜け出してみせるから。」

 力強く、少女のように、“彼”の前での私のように言葉を紡いだ。

「だから――もう少しだけ、待っててください。」

 “この世界”の誰にも届かない言葉が暗闇に消えていく。
 そして――最後の繰り返しの日々がまた始まる。

 魔女になってしまった“女”は今日もまた日々を謳歌する。
 この繰り返しの最後に、いつか愛した彼の元へ逝けると信じて。



 ガタンゴトンと音が室内に響く。
 右手に持った小麦色の文字が書かれた白い缶を口元に持ってきて、その中の小麦色の液体――ビールに口をつける。
 ここはエルセアからクラナガンに繋がる列車。乗り換えは基本的にしなくても良い直通便である。
 窓の外を見る。そこにはどこまでも続く牧場や畑があり、その先に小高い丘や山――そして、その所どころに
存在する白い点――牛や羊の放牧である。ミッドチルダではこういった風景は一般的だ。
 都市部は発展しているように見えても、それ以外の場所は必要以上に発展していない。

 不要な発展はする必要が無い。田舎に高層ビルを建てて誰が得をするのか。
 それ以上に景観を損ねてまるで意味が無い。故に誰もがそんなものを嫌い、誰も住みたがらないし建てたがらない。

 産めよ増やせよと盲目的に建物を作りあげるような無駄なコトはしない――その結果が、こののどかな風景だ。
 忙しい現実から乖離された風景。普通の人ならその風景を見るだけでほっとするだろう――だが、

「……はあ。」

 ヴァイス・グランセニックが窓の外を見ながら溜め息を吐いた。
 そんな彼に声がかかる――透き通るようなソプラノボイスで。

「……溜め息吐きたいのはこっちなんですけど。」

 声の方向を見る。そこには艶めいた長髪の女性がいた。
 服は上下ともに黒のスーツ。ワイシャツは赤。瞳の色は黒――黒づくめな中でワイシャツの自己主張が激しいのは
“彼”の主張なのか。透き通るような白い肌と黒と赤の服装がやけに艶やかなイメージを与える。
 有り体に言って美人だった。それもシャレにならないくらいの――美人揃いの旧6課でも1,2を争うというか、
チャンピオンになれるんじゃないだろうかと思えるほどの。

「……そうだな、すまん。」

 “彼女”の表情は誰が見ても分かるくらいの仏頂面。腕を組み、椅子に体重を預けるようにして座っている。道行く
人は皆目を逸らしている――釣り上った目じりは元々悪い目つきを最悪に変えていく。

「……シ、じゃなかった、マコトちゃん、いい加減、機嫌直せよな。」

 マコト、と呼ばれた女性が奥歯を噛み締め、全身を震わせている―――羞恥とどうして自分がこんなことをしているのかという憤怒からか。

(……そりゃ、まあ、機嫌良くなるはずないよな。女装して潜入しろとか……ナカジマ三佐もなんでこんなこと了承したんだよ。)

 心中で呟きため息――ため息の数だけ幸せが逃げていくというが、今の自分の幸せはどれくらいに逃げて行ったんだろうか。
 ちらり、と横を見る。
 女性の名前はマコト・アスカ。年齢22歳のキャリアウーマンで、極度の貧乳――と、いう設定である。

「……なんで、“俺”がこんなこと………」
『俺じゃなくて私だろ、シン。』

 念話でそう呟く。彼女がギロリとこちらを睨んできた。半分涙目になっている。
 当然か――むしろ良くここまで持ったものだと思う。これでもう一日以上“彼は女装したまま”この列車に乗っているのだから。

「ああ、もうおばさんそのビール全部頂戴!!あと柿ピーも!!それとその幕の内弁当!!」

 車内を通る売り子のの女性――40代後半である――立ち上がって声をかける。
 手には行きがけに渡された紙幣の内の一枚――日本円にして一万円ほど――をオバサンに向けて突き出していた。
 オバサンからビール5本に、柿ピー、幕の内弁当を受け取り、お釣りを財布の中に入れ再び椅子に座る。
 ぷしゅ、と音を立ててビールのプルトップが開けられた。

「……飲まなきゃやってらんないっすよ、これ。」
「……ほどほどにしとけよ。」

 グイグイとビールを飲み干していくその姿は曲がり間違ってもキャリアウーマンという姿ではなく、どう見ても単なるオッサンでしかない。
 見目麗しい女性が半泣きになってビールを次々に飲み干していく姿は怖かった。出来れば離れたい。
 というか、知り合いだとか思われたくない。真面目に勘弁してください。客席の白い目が辛いんです。

「……はあ。」

 ここはエルセアとクラナガンを結ぶ列車――ミッドチルダエクスプレス。
 男の名前はヴァイス・グランセニック。陸士108部隊所属の魔導師。
 そして、傍らのマコト・アスカという女性に“変装している”男の名前は、シン・アスカ。
 こことは違う世界からやってきた異邦人にして魔導師であり、そして――女装すると洒落にならないくらいに美人になる男だった。
 元々撫で肩な上に女顔なので仕方ないのかもしれないが――道行く男にナンパされるのはそれなりに精神に来るものがあるようだ。

 ――女装とかでいいんやない?

 多分、それが全ての発端だった。あの時、もう少し必死になって止めていれば――そんな後悔が二人の胸の内にあったモノだった。

 ――これは、己の運命に抗い続ける、ある一人の男の物語。



 あの戦闘の後、ヴァイスとシンはゲンヤに呼び出された。
 部隊の到着を待たずに無断で屋外で魔法を使用し勝手に戦闘を始めたことへの叱責だと思い、ヴァイスは身構えたが――ゲンヤは
その事実に文句を言うこともなかった。
 呼び出した理由は、戦闘の責任の所在についてではなく、別件でだった。

 ――あの戦闘が終わった直後、ゲンヤの元にあるメールが届いたという。メールの送り主は“クロノ・ハラオウン”。

 メールの内容は“元機動6課のメンバーをクラナガンで見たので、そちらで調査をしてほしい”とのこと。
 二人が呼び出しを受けた理由は何のことはない。クラナガンに向かい、その調査を行って欲しいというものだった。

 機動6課――時空管理局の内部にあって異常なほどに戦力を集中した最強とも伝説とも謳われる部隊である。
 半年前のクラナガンへのガジェットドローンの大規模な襲撃によって6課はフォワード陣を全て失い、解体され、今に至る。
 その結果としてヴァイス・グランセニックは陸士108部隊に配属された。
 おそらく他の人間も同じように別部隊に配属されたか、もしくは管理局をやめたか、そのどちらかだろう。
 無論、ヴァイス自身は彼女たちが死んだとは到底思えなかった。
 シン・アスカと八神はやてがあの巨人と鎧騎士との戦いの最中に消失したのは皆確認している――だが、
それ以外のメンバーはそれまで生きていたのだ。確実に。
 それが戦闘が終わった直後に消失した。ヴァイスでなくとも、死んだのではなく身を隠したと考えるだろう。
 だが、だとすればどうして身を隠したのか。そのメリットはどこにあるのか。
 身を隠したということは、機動6課、もしくは管理局にいられない理由があったということだが――ヴァイス自身
彼女たちにそんな後ろ暗い理由があったとは到底思えなかった。

 大体、そんな後ろ暗い理由があったとしても機動6課には聖王教会と言う強いバックアップが存在していた。
 その気になればもみ消すことだって可能だろう――その方法を取るかどうかは別として、だが。
 だから彼女達に隠れる必要など無い――聖王教会と敵対した場合を除いて。
 そこに何があったのかは誰も知らない。八神はやてとカリム・グラシアの間に何があったのかなど誰にも分からない。
 だが、もし、彼女が聖王教会と敵対するという道を選んだとすれば――おのずと辻褄は合ってくる。
 現在クラナガンは聖王教会が復興を一手に担い、管理局の介入を拒んでいる。
 無論、管理局が全く介入できないという訳ではなくごく一部は復興に協力しているが――その一部に聖王教会の息が
かかっていないという保証は無い。 少なくとも、そこに陸士部隊が入り込むような隙間は無い。

 行きたくても行けない状況――そこに送られたクロノ・ハラオウンからの秘匿回線による指示。
 怪しいと言えばこれ以上ないほどに怪しい。
 送られたタイミング/シンがシグーを破壊した直後。
 その内容/クラナガンでの6課メンバーの調査。
 こちらにとって都合のよすぎる展開/ご都合主義のように胡散臭い展開。

 ゲンヤはこのメールの詳細を問う為にクロノ・ハラオウンに連絡を取ったが――答えは返ってこなかった。
 というよりも、クロノ・ハラオウンに連絡が取れなくなったのだ。彼は現在聖王教会からの依頼で単独で調査に赴いているという。
 それはありえない状況だ。提督と言う地位にある人間が単独で調査を行うなど絶対にあり得ない。
 提督クラスの魔導師であれば確かに腕利き――オーバーSランクの魔導師は多い。
 特に若年から提督の椅子に座るような魔導師にその傾向は強い――クロノ・ハラオウンも例にもれずその類だった。
 3人揃えば世界を救えるだろうとも言われる――実際に救ってみせた訳だが――高町なのは、八神はやて、フェイト・T・ハラオウンと互角、
もしくはそれ以上の戦闘能力を持っている歴代最強の提督。いわゆる超級魔導師(ハイエンド)に数えられる一人。
 そんな彼ならば確かにどんな任務であろうとも単独でこなしてしまうだろうが――提督と言う地位はそんな単独を許さない。
 元よりそう言った優秀な魔導師の“離反”や“殉死”を防ぐために提督などの高い地位に若年から就けるのだから、
彼が若くしてその地位に就いているという前提に反していると言ってもいい。その前提に反することすら厭わずに彼に
指示を出せる人物となれば、おのずとその対象は絞られていく。

 彼以上の地位にあり、管理局の暗黙のルールを破ることすら黙認されて――その上で彼自身がその指示に従うことを
良しとする人間。
 消去法でいけば、はやてやゲンヤが知る人間の中でそれらの条件に全て該当する人間など、カリム・グラシアくらい
しかいないのだ。

 だが、解せない部分はある。
 ゲンヤ・ナカジマは八神はやてが話した情報によって聖王教会とジェイル・スカリエッティが手を組んでいることを
知ったが――クロノ・ハラオウンほどの切れ者がその事実に気づいていないとは思えない。ましてや、提督に単独行動を
取らせるという命令を送られて、クロノ・ハラオウンが何も調べていないとは思えない。そんな愚鈍な輩が提督にまで
上り詰められる訳が無いのだ。
 それがどうしても解せない。だが――ある最悪の想定であれば、その疑問は氷解する。
 最悪の想定――彼はそれらを全て知った上でカリム・グラシアに力を貸しているのではないか、ということ。
 この想定ならば全ての辻褄がピタリとハマる。命令を聞くのも当然だ。
 事情を全て納得した上で協力しているのなら、クロノ・ハラオウンは全力で力を貸すだろう。
 義妹を殺した原因であるジェイル・スカリエッティとクロノ・ハラオウンが手を組むなどどんな理由があったとしても
納得出来るものではないが。
 そして、もしそうならば、それは管理局の一部と聖王教会、そしてジェイル・スカリエッティが手を組んだことを意味する。
 味方であったモノが敵になる――最悪以外何と言うべきだろう。

「……罠、って考えた方がいいでしょうね。」

 独特のイントネーションではやてが呟いた。

「……だろうな。色々と分からねえ部分はあるが、こいつは見えてる地雷みたいなもんだ。踏んでくれとばかりに顔を
出してやがる。」

 印刷したメールをテーブルの上に置いて、ゲンヤが溜め息を吐く。

「……このメールの本当のあて先は俺じゃない。」
「十中八九、私らに送ってきたのやろうと思います。」
「だろうな。」

 テーブルの上に置いてあるコーヒーを口元に運びながら呟いた。
 恐らく、彼女の言う通りだろう。
 敵――クロノが本当に敵なのかどうかは未だ分からないが――の狙いはおそらく、八神はやて、シン・アスカ、ドゥーエの
確保と言ったところか。
 無理矢理に力ずくで奪いに来ないのは――それが出来ない何らかの理由があるからか、それとも単なる余裕か。

(……力ずくってんなら、まだ楽だったんだよな。)

 心中で呟き、相手がそういった荒っぽい手段を取ってこないことに少しだけ落胆する。
 無論、勝てる見込みは無い。だが、負けるつもりも無い――最悪、この部隊が崩壊することになっても別に構わない。
 自分が手塩にかけて育てた、この陸士108部隊はその程度で瓦解するような部隊では無いし、それで死ぬような部隊でもない。
 何より、そうなった際に起こるであろう“乱戦時に内部に潜り込める可能性”のメリットの方が大きい。

(そうなりゃ色々とやりようもあるんだが……どうにも待たれてるってのは気分が悪い。)

 ゲンヤ・ナカジマと言う人間は基本的には荒事を好まない。
 拳でカタをつけるよりも言葉でカタをつける方法を選ぶ類の人間だが――好まないだけで嫌いな訳ではない。
 問題を解決する方法として荒事が最も適しているのなら躊躇うことなく相手の命を刈り取る。
 伊達にクイント――彼の妻であり、ギンガとスバルの母である――を鍛え、シューティングアーツの構築に協力した
訳ではないのだ。
 コーヒーに再び口をつける。いつのまにか冷え切って、苦みだけが残っている――少し鈍くなっている頭をはっきり
させるにはちょうどいいとばかりに一気に飲み干す。
 そんなゲンヤを見て、はやてが口を開く。

「……どうするつもりです?」
「こいつは正式な手順に則った“命令”ではなく、単なる“お願い”に過ぎない。こっちが突っぱねる分には問題ない
んだが……どうするべきかって話だ。」

 言葉を切ってから、もう一度続ける。目を合わせた彼女はこちらを覗き込むように見ている――これからの自分の返答
次第で彼女もこれからの立ち位置を決めるからだろう。
 その眼には嘘は全て見抜くという決意が溢れていた。

「……お前らの目的はクラナガンに潜入し、機動6課メンバーを探し出し、その上でギンガとフェイトの嬢ちゃんを取り
戻してくる――合ってるな?」
「あと一つ、世界を救うってこともある訳ですが……」
「そいつに関しちゃ保留だろう。 止め方どころか、何がどうなって滅びるのかすら、よく分かってないんだろう? 」
「……まあ、そうですね。」

 肩をすくめるはやて。構わずに話を続ける。

「俺の目的は……はっきり言ってギンガとスバルを助けられるならそれで良い。……本当なら俺が行きたいところだが、
流石にあの巨人共とやりあうのは無理だ――だから、お前らの力を借りる。あんな化け物とやり合うような経験がない
うちの馬鹿共には荷が重いんでな。」
「……正直、あれとやりあえるのはシン以外にいません。」
「お前らは俺の娘二人を取り戻し、ついでに他のメンバーも取り戻し、そのついでに世界を救う。」

 はやてに目を向ける――こちらを覗き込むような視線。その視線に向けて強く意思を込めて射抜く。

「俺はお前らに娘二人を取り戻してもらう代わりに、その協力をする。」

 そのまま睨みあうこと数分――はやては睨み返すでもなく、ただただその視線を受け止めている。 
 動じる様子も、抗う様子もそこにはない。
 ゲンヤが視線を外す――はやてが呟く。

「ギブアンドテイク……ですね。」
「……ま、そんな良いもんじゃないけどな。」

 一度咳払いをして、話を続ける。

「クラナガンでの調査に必要となる人間の数は二人。この内一人はシン・アスカだ。流石に堂々とは行けねえだろうから、
多少変装してもらう――そうだな、そこらはお前に任せた方がいいか。」
「……変装……ですか」
「ん? ああ、何でもいいだろ。バレないのが一番なんだしな。」
「了解しました。」

 あの巨人――モビルスーツと戦闘して生き残る、勝利する可能性がある唯一の人間である以上シン・アスカがクラナガンに
赴くのは当然である。
 無論、あちらの狙いはそこ――つまりシン・アスカを呼び出すことにあるのかもしれないが、考えても仕方がない。
 シン以外の誰もがあの巨人と渡り合う力を持っていない以上、シンを行かせるしかないのだ。ヴォルケンリッターが
この場にいればまだ違っただろうが――そんなIFを考えても意味が無い。
 心中に生まれた苦々しさ――全てをシンに押し付けるしかないことにもどかしさを感じる。
 だが、それを一切表情に出すことなく、八神はやてはゲンヤとの会話に没頭する。

「そしてもう一人だが――幾らなんでもウチの部隊の誰も出ないって訳にはいかない。それにアスカとドゥーエとかいう
ナンバーズはともかく、お前は顔が売れ過ぎてて駄目だ。仮に変装してみてもどこかで確実にバレる――もっとも、向こうは
お前らが帰って来てるのは百も承知なんだろうが。」
「……そですね。」

 ゲンヤの言っていることは至極真っ当だ。
 いつの間にか下手なアイドルよりも顔が売れるようになっていた自分――それを気にしたことは無かったけど、考えて
みればおかしな話だ。
 自分は管理局と言う組織の一職員に過ぎないのだ。そんな自分の顔が売れているというのはどういう訳か――要するに
良い広告塔だったのだろう。

 “20になるかならないかで管理局のエースクラスにまで上り詰めたエリート女魔導師”

 話題性と言う意味では確かに下手なアイドルなど歯牙にも欠けない――もしかしたらその内本当のアイドルみたいなことも
やらされていたのかもしれない。
 広告塔として顔が売れ過ぎた自分にはこういった仕事は向いていない。と言うよりも不可能だ。
 本当は付いていきたい。行ってあの馬鹿の助けになりたい、そう思う――けれど、行けない。

(……信じてやってきて、後悔なんて一つもないけど……やってきたもんに邪魔されるってのは皮肉なもんやな。)

 八神はやてのシン・アスカへの感情が何かと言えば、それは淡い想いでしかない。
 ギンガやフェイトが抱いたような熱く沸騰しそうなほどの恋慕は彼女には無い――ただ、穏やかに傍にいてほしいという
それだけの想い。
 彼女は見守り、支え、そして、あの男に願い――つまり、二人の女を取り戻して幸せになるという自分勝手で我儘な願いを
叶えさせたい。
 あの馬鹿はきっとその為に何であろうと犠牲にする。
 自分の命など、その願いの前では簡単に捨てられる。シンはコズミックイラという時代で命の大切さを学んできた訳では
ないからだ。
 シン・アスカがコズミックイラという時代で得た真実とは、何のことは無い。自分の中に燻っていた本当の願いに気付き、
開き直っただけに過ぎない。

 これまではそれをしなければ生きていけない、生きている意味が無いだった。
 今は違う。それをしたいから生きている。それに全てを賭けたいからこそ生きている。

 似ているようでこの違いは絶大だ。
 前者は欲求ではなく使命感しかないのに対して、後者は欲求のみで構成されている。
 それを叶えさせたい――それが八神はやてがコズミックイラで思ったこと。
 あの時、あの海辺でシン・アスカの朱い瞳は自分を真っすぐに射抜いた。
 二人のことを知りたいと。自分に真っ正直に、純粋に、単純に、男はただ惚れた女に惚れこむことに切り替わった。
 その姿に見惚れたのだ。そして、コズミックイラであの馬鹿が言った言葉。

 ――ヒーローごっこじゃない。俺は、ヒーローになりたいんだって。

 夢を叶えてくれる存在――そして、その夢の先へ繋がる存在。
 見惚れた。惹かれた。例えようもないほどにかっこいいと思った。
 どうしようもない馬鹿だと思う――そんな馬鹿な想いを抱いた自分はさらに馬鹿だが。

「本当なら、あのドゥーエっていうナンバーズを行かせるべきなのかも知れんが……信用出来るがいつ裏切るか、
わからないんだったな、八神。」

 一瞬物思いに耽っていたところに声をかけられ、返答が一瞬遅れる。

「あ、そうです……スカリエッティに裏切られた訳ですから敵やないんでしょうけど……敵の敵は味方って言うほど
簡単な話でも無いと思います。」
「……まあ、そうだろうな。そんな簡単に心変わり出来るってんなら、更生プログラムなんて面倒なものが必要になる訳がない。」
「となると、この部隊から誰か行く言うことですか?」
「ヴァイス辺りに行かせようと思ってる……あいつは元々6課の人間だ。アスカとも面識があるし、人探しをするなら、
その知り合いを連れて行った方が手っ取り早い。」
「……うん、ヴァイス君なら適任やと思います。」

 少しだけそれが辛い。ここで待つことしか出来そうにも無い自分が――この気持ちは、何だというのだろう。

「……ま、なんとかなるだろうよ。死んだと思ってた二人が生きてたんだ……取り戻せる余地があるだけ最高だ。」

 ゲンヤがテーブルの上の電話に手を伸ばす。

「それじゃ、さっさと伝えておくか。」

 その時、はやての胸の内のナニカが彼女の口を勝手に動かした――多分、自分の中にあった無意識のココロが。

「あ」

 紡がれた言葉に意味は無い――何の意味も無い言葉の羅列。

「ん? どうした?」

 ゲンヤが自分を見た。不思議そうにこちらを見ている――何か、何かを言おうとした。
 自分は、何を言おうとしているのだろう。

「あ、いや、えーと……」
「……何かあるのか、八神?」

 無理矢理にでも付いて行きたい?
 否。そんな馬鹿な考えは彼女の中には無い。ただ、彼女は――本当は付いて行きたい。けれど理性がそれを邪魔する。
 二律背反が絡み合う。

 シンについて行きたい/付いていってはいけない。
 その願いを叶えさせたい/叶えさせたくない。
 だから、その落とし所――妥協点を探す。
 思考は一瞬。紡がれる言葉は多分、単なる嫌がらせだ――まったくもって意味などまるでない、嫌がらせ。
 けれど、それは――意地っ張りな彼女の意思表示。もう、“二人を選んでしまった”シンにはきっと分からないだろうけど。

「そ、そうや、ナカジマ三佐、一ついいですか? 変装のことなんですけど……」
「ああ、どうかしたか?」
「女装ってありやと思います?」

 瞬間、ゲンヤが目を丸くしていた。恐らく頭が真っ白になったのだろう――無理もない。突拍子が過ぎることは
言われるまでもなく分かっている。それでもしっかりと返答を返したのはのはこれまでの人生経験のなせる技かもしれない。

「……な、何の話だ?」
「あ、いや、ふと思ったんですけど、どうせ変装するなら、徹底的にやった方がええんやないかなって思って。」
「アスカに、女装させるつもりか……?」
「ええ、ナカジマ三佐はありやと思います?」
「……い、いや、まあ、確かに普通に変装するより良いだろうよ。バレる心配も殆ど無い……が、普通、嫌がると思うぞ。」

 ゲンヤの言う通りだ。
 シン・アスカは――というか、特殊な性癖や嗜好をもっている人間ならばともかく世の中の殆どの人間は女装など
したがらない。それに女装とは常日頃からするものではない。あくまで閉じたクローズドサークルの中でのみ行われる
べき所業である。何故なら女装だとバレたらヤバいからだ。倫理的に。
 エルセアからクラナガンまで少なく見積もっても一日以上かかる道程である。しかも列車というクローズドサークルで
ありながら、オープンスペースでもある場所――見つかれば生き恥どころか、二度とその列車に乗りたくなくなるのは言うまでもない。
 なら、どうして、そんなことを言い出したのか―――それこそ、発作みたいなものだ。
 ゲンヤがこちらを見た――口を開く。

「……というか何でまたいきなり女装なんだ? 嫌がらない道理が無いと思うが……」

 訝しげにこちらを見るゲンヤ――返答に詰まる。自分でもよくわからない感情に押されてだから、そんな理由なんて
分からない。
 強いて理由をあげるとすれば――女装させれば、自分の服を着せれば――少しはそんな気持ちも晴れるかもしれないって
いうだけの気持ち。

「……あんまり言いたくない、言うのは駄目ですか?」

 ――そんな横恋慕みたいな気持ち、言いたくないし、言える訳もない。

 黙りこむはやて。
 ゲンヤはその様子を見て、しばし沈黙する。
 ゲンヤがはやてに抱く気持ちは娘に抱く気持ち――娘ほど年が離れているのだから当然か。
 ギンガもこんな風に黙りこむことはあった。本当はしたいことがあって、けど言えなくて、黙りこむ。母親を早い
時期に亡くしたせいか、我慢してばかりいた娘だった。
 それにどことなく似ている。つまり彼女は我慢をしている――ように感じられる。
 当てずっぽうの直感任せの推論だが、何か確信めいたものを感じる。
 なら、我慢しているのは何に対してか――思い当たる事実は一つだけだ。

「……八神、お前、もしかして…」

 ゲンヤがにやりと笑った。
 勘づかれた――はやての頬が紅潮する。
 別に恥ずかしいことでも、やましいことでもないのに、どうしてこんな風に恥ずかしくなるのか。

「い、いや、そんなんじゃないんです、単に面白そうかなって思っただけで、別に、し、シンに何か思ってるとかは…」
「アスカのこととは言ってないんだがな……ま、いいさ。」

 ゲンヤがテーブルの上の電話で内線をかける。
 受話器を耳に押し当てると聞こえてくる電子音――数秒で電子音は消えて女性の声がした。
 ゲンヤが受話器の向こうの女性に伝える内容はシンとヴァイスの呼び出し――それも今すぐに、と言うモノだった。

「……な、ナカジマ三佐?」
「サービスしといてやるよ……ま、観客としては波乱万丈の方が面白いってのもあるしな。」

 もう一度、にやり、と笑みを浮かべる。
 はてさて、まだ生きているウチの娘はどうするのか。
 そして、ハラオウンの嬢ちゃんはどうするのか。
 可愛い子には旅をさせろと言うが――いざ旅に出る子を見ると、何やら嬉しいような楽しいような甘酸っぱい気持ちに
なってくるのは何でなのか。

 心中で呟き、ゲンヤは受話器を戻し、椅子に腰かけた。
 前には、少しだけ嬉しそうなはやて――この後のシンを考えると少しだけ気の毒に思うが、仕方ないということで我慢
してもらおう。

(……ま、色々と楽しませてもらうぜ、シン。)

 ちなみに、この時シンは自分が女装する羽目になるとは夢にも思わず、ヴァイスと二人でカレーライスを食っていた。

「カツカレーおかわりしてもいいですか?」
「……ふざけんな、自腹でやれよ、このヤロー。」



[18692] 第四部ミッドチルダ風雲篇 65.再会と邂逅(b)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/06/02 17:16
 クラナガンの大通りを歩く男装の麗人――マコト・アスカ。
 道行く人が振り返り、こちらを見ている。

「……。」

 その視線を感じて、思わずそちらを睨みつけ――ようとして、踏み止まる。
 ジャケットの内ポケットに入れた短刀がブルブルと震えていることに気づいてだ。

「……っ。」

 小さく舌打ちし、再び前を向いて歩きだす。
 服ははやてのスーツ――一度しか袖を通していないらしい。
 袖の長さなどサイズがピッタリなのは彼女が直したからだろう。
 ワイシャツはヴァイスから借りた。ワインレッドのワイシャツを選んだのは、意地でも
どこかにシン・アスカっぽさを入れたかったからだが――実際、そうなっているのかは怪し
いモノだった。

『ここらへんだったよな。』
『次の角を左に曲がった路地の奥にあったはずだ……今もそこにある可能性は低いだろうが。』
『他に手がかりは無いんだ、虱潰しにやってくしかないさ。』

 ヴァイスとシン――マコトちゃんは今宿泊するホテルに荷物を置いて、別行動を取っている。
 ヴァイスは管理局本局へ向かっている――クロノへの挨拶と情報の真偽を問う為だが、
社交辞令以上の意味合いは無い。どの道行ったところで、クロノはいない。むしろ、本命は
クロノではなく無限書庫に努めるユーノ・スクライアへの依頼である。依頼の内容は羽鯨に
ついて。情報がまるで無いはやてに出来る最善の手段だった。
 そして、もう一方――シンとデスティニーは本来の目的であるクラナガンでの6課メンバーの
捜査を行っている。
 クロノからのメールに添付されていた画像データは喫茶店・赤福周辺のモノだった。
 その為、彼らは今そこに来ているのだが――

「……なあ、これ逆に目立ってると思うんだが。」

 道行く人の視線が痛い。
 男だとバレている訳ではないと思うが、それでもこれだけの人間に見られるのは正直気分が
良いものではなかった。

『辛抱するんだな。少なくともそのウィッグは暫くは外せない。そういう仕様だ。』
「……何でそんな無駄に高性能なんだよ、このカツラは。」
『周辺スキャンを終了。この付近にはいないようだな。』

 マコトちゃん――シンの呟きを無視して、デスティニーが返答する。
 どうやら、この恰好に対する質問はこれ以上受け取るつもりはないらしい。
 呟き終えると同時に短剣の刀身の表面を走っていた朱い幾何学模様が消えていく。

「周り見ても誰もいないしな――なあ、そのスキャンって確実なのか?」
『確実ではない。以前登録されたバイタルデータから判別しているだけでしかない以上、
漏れることも十分にあるだろう。近距離ならまだしも索敵範囲限界ギリギリで変装など
されていたら、判別は不可能だな。』
「……やっぱり地道な聞き込みが確実ってことか。」
『その為の変装だ。』

 はあ、とため息を吐いて大通りに面している店――喫茶店や食堂、八百屋や魚屋など
様々な店に向かって歩いて行く。
 懐にあるのは必要になるだろうと渡された6課メンバーの写真。
 ギンガ・ナカジマ、フェイト・T・ハラオウン、スバル・ナカジマ、ティアナ・ランスター、
キャロ・ル・ルシエ、そしてシグナム、ヴィータ、シャマル、リインフォース2、ザフィーラなどの
ヴォルケンリッターがそこに映っている――集合写真が一枚に、ギンガとフェイトの写真が一枚ずつ。
 ヴォルケンリッターとはやてが映っている写真が一枚に、スバル、ティアナ、エリオ、
キャロが4人で取った写真が一枚。

 エリオの顔を見る度に胸に苦いものが広がっていく――彼は今どこで何をしているのか。
 敵となって既にそれなりの時間が経過している。
 最後の戦いにおいても彼が何をしているのかは分からなかった。
 コズミックイラでエリオが裏切った理由については何となくだが、理解はしている。
 彼は単に仲間を守りたかった。多分それだけだ。
 仲間を無意識の内に殺そうとしていた自分を排除しようとしても出来なかった――はやてが
それを断ったらしい――からこそ、敵に回ってまで自分を殺そうとした。

 自分を殺されることを容認することは出来ないが、気持ちは分かる。多分同じ立場なら
自分も似たようなことをした、と思う。
 大切な人を助ける為なら、味方だろうと何だろうと敵に回してでも助ける――昔、自分も
ステラを助ける為に似たようなことをやった。
 自分の場合は助けるどころか、失敗した揚句にあの大量殺戮の遠因を作ったようなものだが。
 先ほど回った喫茶店の隣の魚屋へ向かう――店にいるのは中年の男性と女性が一人。夫婦で
切り盛りしている店なのだろう。

「……えーと、あの、す、すいません」

 自分でも不思議に思うほどオドオドした声音が漏れ出ていく。

『何でそんなにおどおどしている。お前らしくもない。』

 念話でデスティニーが呆れたように呟いてくる。

『仕方ないだろ! 慣れてないんだよ、こういうのは!』

 そう、慣れていない。元々人付き合いというものを全て除外した生活を長く続けていたシンに
とって特定個人以外との会話は緊張を伴うものだった。
 ザフトにいた頃も、ミッドチルダに来た後も、こうやってどこにでもいる一般人に聞き込みを
するこどなどは無かったから余計にそう思うのかもしれない。

「お、別嬪な姉ちゃんじゃねえか、何買いに来たんだい?」

 そんなシンの緊張を何か買いたい物があるとでも勘違いしたのか頭に握り鉢巻きを巻いた中年の
男性が魚を捌く作業を一旦止めて、こちらに近づいてきた。

「すいません、実は……」
「あんた!食っちゃべってないで仕事しなよ!!」

 店の奥から聞こえてくる重く響く声。エプロンをつけた中年の女性が店の奥からやってきた。
 男はその怒声に怯むことなく、怒鳴り返す――そこに躊躇いが無いのは慣れているからだろうか。

「うるせえ、仕事ならちゃんとやってるだろうが!!」
「どーだか。まったく直ぐに若い子見ると鼻の下伸ばしちゃって……」
「んだと!?」
「何だい、何か文句でも……あら、あんたどうしたんだい、ぼうっとしちゃって。」
「……あ、いや」

 呆気に取られるシン――慣れていないというか、こういった夫婦のやり取りと言うものをシンは
経験したことが無かった。
 勿論、両親が喧嘩しなかった訳では無い――こんな風な気楽に喧嘩じみたやり取りをすることは
無かったけれど。

 コーディネイターとナチュラル。
 同じ人類に端を発する、“手を加えた人間”と“自然な人間”。
 小さな諍いから大きな争いまで二つの人種の争いはどこにでも存在していた。
 地球に住むコーディネイターはどこに行っても差別され、オーブ以外に安住の地などは存在しなかった。
 子供の頃はよく分からなかったが――もしかしたら両親はひた隠しにしていたのかもしれない――成長
した今は分かる。
 両親は追い詰められていたに違いない。
 ナチュラルからの無言の圧力やコーディネイターであるというだけで受ける有形無形を問わない
理不尽な差別に。

 そんな状況でこんな気楽な喧嘩など出来るはずがない。
 こういったじゃれ合いのような喧嘩は、心に余裕があり、仲の良い二人の間でしか行われない。
 喧嘩してこじれたからと言って行きつく所――つまり離婚や別居などに行きついたりはしない。
 どこかでどちらかが折れて仲直りをする。
 あの時代、そんな喧嘩をするコーディネイターはいなかった。
 団結して、お互いを支え合っていなければいけない時代だ。くだらないことで喧嘩して離婚など
出来る状況では無かった。

 結果的にシンやマユは両親が離婚するなどという状況を経験はしなかったが――その背景や経緯
を考えれば、明るい話題でも無い。
 だから、シンにとって、こういうじゃれ合いのような喧嘩は殊の外、新鮮に映った。
 行きつくところまで行くような喧嘩しかしたことの無いシンにとっては――羨ましくさえ思える
喧嘩だったから。

「二人共仲良いんだなあと思って。」
「……ま、まあ、そりゃ夫婦だからな。」

 男が怪訝な顔でこちらを見つめる。何かおかしなことでも言っただろうか。
 女がこちらを見て、ふっと笑う。

「あんた、変わった人だねえ。」
「……そうですか?」
「喧嘩してる二人に仲良いっていう人はあんまりいないと思うよ? まあ、いいわ。で、何か用あって
来たんでしょ、あんた?」
「……そうです。少し聞きたいことがあって。」
「聞きたいこと?」
「ええ。」

 懐から写真を取り出し、彼らに見せるように掲げる――ギンガとフェイトの写真、そして機動6課の
全員が映った集合写真を。

「この中の誰か――誰でもいいんです。どこかで見たこととかありませんか?」
「……ほう、こりゃまた別嬪さん揃いだな。」
「あんたはそれしか言えないのかい? ……うーん、うちの店には来たこと無いねえ。あんたは
見たこと無いのかい?」
「見たことは……無いなあ。こんだけの別嬪さんなら絶対に忘れねえだろうし。」

 顎髭をさすりながら男が呟く。

「そうですか……ありがとうございます。」

 写真を懐に戻し、頭を下げ、すぐにその店から出ようとして、男――店主から声がかかった。

「お、おい、それだけに来たってのかい?」
「へ? ああ、そうですけど。」
「店の中まで来たんだ。ついでに何か買ってたら、どうだい?安くしとくよ?」

 そう言われ店の中の魚に目が行った。
 居並ぶ色取り取りの魚たち。結構な数の品が揃っている。
 タラ、サケ、イカ、タコ――中にはどでかいサメの頭まである。

(……何も買わないで行くのも、逆に怪しいか。それに――何かいろいろあるな。)

 見たことの無い魚や少なくとも自分のいた世界には無かった魚介類――魚だと思われる食材が
並んでいる。それを眺める――ザルに開けられたタラを指差して、呟いた。

「これもらえますか?」

 そこにいる店主の輝かしい笑顔が印象的だった――絶対自分を女だと信じて疑っていないそんな顔だった。
 ――少し泣きたかった。


「……ちょっと買い過ぎたか。」
 時刻は既に夕暮れに近い。
 呟くシンの両手には野菜や魚、肉が入った買い物袋が下げられていた。恐らく3人前ほどの食事
の材料がそこに入っていた。

『聞き込みをしに行ったのか、買い物をしに行ったのか分からんな。』
「うっせ。話だけ聞いて、はいさようならっていうのも気まずくて嫌なんだよ。それにちゃんと
情報も手に入ったろ?」
『まあな。』

 魚屋の後は八百屋。喫茶店、本屋、肉や、服屋に屋台。そして民家、集合住宅等が何件も立ち並ぶ
大通りの目ぼしい店や民家に地道な聞き込みを続けること4時間。
 見つけた場所は路地裏の奥にある店――正確な場所は良く分かっていなかったが、そこは紛れもなく
シン達が以前食事をした喫茶・赤福だった。

「全然、変わらないんだな、ここ。」
『以前の戦闘に関係の無かった場所だからな。何も変わってはいない。』

 デスティニーの呟きに答えることなく、シンはその建物を感慨深げに見つめる。
 あの時は、ティアナとスバルに誘われて街に繰り出し、そこでフェスラ――ドゥーエと出会って、
そして――ギンガとフェイトに尾行されて何の因果か自分が全員に奢ることになって、此処に来た。
 仮面を被った偉丈夫――ギルバート・グラディスが店長と言うあからさまに怪しい店だった。

「……あれから、もう3か月近く経ってるのか。」
『こちらの時間軸で言えば半年以上だ。』
「まあな。」

 自分たちの感覚ではコズミックイラにいたのは2週間程度だった。だが、こちらではどういう訳か、
その間に半年近く経過している。
 そこにどんな意味があるのかは分からない――考えても仕方の無いことだと気にしないことにしている。
 大事なのは既にそれだけの時間が経過していること。
 リインフォースに見せられた未来。
 それを変えられるのは自分とジェイル・スカリエッティだけらしいが――実感はある。危機感もある。
 だが、それが具体的にはならない。

 自分が見たのは、世界全てが消えていく様。人が、建物が、全てが消えていく様――ただ消えていく
だけで、どういった現象の結果として、そうなるのか。
 正直なところ何も分からない。分からないから調べなければならない。調べても分からないかもしれ
ない――それでも調べなければ始まらない。


「……ったく、教えるなら肝心なことくらい教えていけよな、あいつも。」
『あいつ?誰のことだ?』

 知らず口に出ていたらしい。 

「……さあな。俺だってよく知らないんだ。答えようもないさ……無駄話はこれくらいにしとくぞ、
デスティニー。」

 懐の短刀に手を伸ばし取り出す。朱い軌跡が幾何学模様に走り抜け、輝き始める。

『誰もいない――もぬけの殻だ。』
「……そうそう上手くはいかないか……いいさ、調べるだけ調べていこう。」

 手を伸ばす――寸前、先ほどのことを思い出す。

「……結婚したらさ」
『……結婚?』
「いつか、あんな風に喧嘩とするのかな、俺も。」
『……さあな。』

 返答は素っ気なく――どこか寂しげに聞こえたのは気のせいだろうか。

 ――あの二人と結婚して幸せに暮らす夢を思い出す。

 結婚という事柄にシンはこれまで興味は無かった――というよりもそんなことを意識する時期が無かった
とでもいうべきか。
 子供の頃は意識する訳もなく、戦争中は意識する余裕はなく、戦争が終わってからは頭の中にそんな
単語は無かった。
 そして自分の周りに結婚している人間は少なく――人付き合いそのものが少なかったのもあるが――必然的
に結婚という言葉はシンには縁が無かった言葉だった。
 だからだろうか。
 こうした夫婦喧嘩というものを見ていると、どうしても自分を重ね合わせたくなってしまう。
 自分も――こんな風に喧嘩が出来るのだろうか、と。
 妄想の類だ。意味の無い想像にすぎない。
 未だ成就もしていない恋に対して、こんなことを思うなど本当に馬鹿げている。
 自己嫌悪――以前の言葉を思い出す。

 ――私たちは貴方に同情していただけ
 ――貴方が可哀想だから、慰めていただけ。

 その通りだ。だから、やり直す為に此処に来た。
 自分たちは“恋に恋していた”だけなのかもしれない――自分はそれを恋に塗りかえる為に此処に来た。
 胸に湧き上がる想い――二人に会いたいという気持ち。
 その裏にある恐れ――拒絶されることへの恐怖。
 もし、拒絶されれば自分はどんな風になってしまうのか。自分がやろうとしていることはどちらも選ぶ
という最悪の選択肢。

 好きだと言ってくれたからと言って――いや、好きだと言ってくれたからこそ、怖くなる。
 自分の選択はそんな二人に対する裏切りなのではないのかと。
 否――それは裏切り以外の何物でも無い。
 二人に告白された。彼女達はどちらも自分を選べとは言わなかった。ただ好きだと告げられただけだ。
 けれど、普通はそのどちらかを選ぶモノだし――どちらをも選ばないモノでもある。どちらをも選ぶと
いう選択肢は普通は存在しない。

(……最低なのは分かってる。)

 そう最低だとは自覚している。傍から見れば自分は単なる二股野郎だ。最低のニンゲンだ。
 それを否定はしない。自分でも十二分にそう思う。けれど――
 思考を一旦そこで切って、ドアを開いた。
 中には誰もいないとデスティニーは告げているが――それを完全に鵜呑みに出来るほど頭のネジは緩ん
でいない。
 大剣の姿のデスティニーを無造作に肩に担ぎ、中に入っていく。
 店内は薄暗い。蛍光灯のスイッチを探す――ほどなく見つかり明かりをつける。
 光によって照らされた店内はあの日の光景そのままだった。

 整然と並べられたテーブル。カウンターに置かれたままのメニュー。
 その全てがあの日と同じように設置されている。

「……」

 テーブルに近付き、その上を人差し指でなぞる。指の先端にくっついてくる埃――かなりの量だった。

「随分使われてないのか。」
『カレンダーが8月のままだな。』

 壁に張りつけてあるカレンダーを見れば、確かにデスティニーの言う通り8月のまま変わっていない。
 これをそのまま信じるなら、この店にいた人間は8月からずっとここには帰っていないということになる。
 無論、単にカレンダーをめくり忘れていたということも考えられるが。

「あの戦いからずっとここには帰っていないってことか。」
『鵜呑みにはできないが、そう考えるのが妥当だな。』
「……」

 無言のまま店内を歩き回る。カウンターに置いてあるメモ――買い物リスト。キャベツや豚肉、牛肉などなど。
 日常のカケラそのもの――失踪の原因になるようなものではない。
 厨房に入る。そこも店内と同じく、いつ使い出しても良いように片付けられていた。無論、所狭しとばかりに
埃は被りまくっていたが。
 一通り、厨房を見回ると店内に戻って椅子に腰掛け、天井を見上げる。
 回らないプロペラのような飾りが天井から吊り下げられていた――呟く。

「広域スキャンの開始。ここを中心に半径10km――いけるな?」
『無論だ。』

 明瞭な返答と共にデスティニーが朱く明滅し出す――それをテーブルの上に置いて思考に没頭する。

(気配は無い。デスティニーのスキャンにも引っ掛からない。ここに誰もいないのは確実だ。)

 それは間違いの無いことだった。念の為に周辺のスキャンも行っているが――効果は見込めないだろう。
 手がかりは無し。調査は無駄骨。女装までしてここまで来た結果がこんなものというのはどうにも納得が
いかないが――駄目で元々で来たようなものだから仕方ないと言えば仕方ない。

 溜め息を吐き、背もたれに体重をかけた。
 緊張が緩むと先ほどの考えがまた鎌首を持ち上げてくる。
 答えだけは決まっている。
 あの二人とずっと一緒にいたい。結婚というカタチにならなくても、それでも自分は共にいたい。
 それを知るのは自分だけだ。少なくとも、ギンガとフェイトはそんなことを決して思ってはいないだろう。

 それを知って、あの二人が認めるのかどうか。受け入れてくれるのかどうか。
 考えれば考えるほど、自分のやりたいことが最低であることを自覚して、終いには胸の内に罪悪感が灯り
出す。

 罪悪感――こんなことを思っていることへの。そして二人を裏切っているという罪悪感。
 考えてない時はどんなことがあっても、この願いを叶えてみせると息巻いてはいたが――考えてみれば、
これほど傲慢で最低なことは無い。
 言ってしまえばプラントやオーブで昔放映していたテレビドラマに出てくるような男だ。それも主人公に
ぶん殴られて更正する側の。

「……はぁ」

 取り止めの無い思考が散らばっていく。
 先ほどの魚屋でのやり取りによって、これまで考えもしなかったことが浮かび上がってくる。
 浮かび上がる思考はシャボン玉のように弾けて飛んで新たなシャボン玉を作って、また弾けて新たなシャボン玉を
作って、連鎖していく。

「なあ。」
『何だ。』

 テーブルの上に置かれた大剣の朱い明滅は止まない――スキャンを続けたままデスティニーは返答する。

「お前、あの二人覚えてるか?」
『二人――ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウンか。』
「ああ。」
『覚えている――と言うよりも記録にある程度だな。』

 デスティニーが呟く。彼――いや彼女の心は大剣の中にあるので、“姿”などは無いが――もし、姿が
あれば、恐らく肩を竦めて答えているだろう。
 声の調子は淡々と、力強く答えてくる。
 天井を眺める。思い出す彼女達の言葉と声と姿――笑っている姿は少ない。泣いている姿が印象的だからか、
そんな姿しか思い浮かばない。

 ギンガ・ナカジマ。何も言わずに自分の横にいてくれた女性。多分、誰よりも自分の為に動いてくれた人。
 朝はいつも彼女が起こしてくれていた。どこか幼い母性のようなものを感じさせてくれた女性。

 フェイト・T・ハラオウン。気がつけば横にいた女性。何も言わずに一緒にいて、何も言わずに笑っていた人。
 朝になると時々ベッドの中に潜り込んできた。無邪気な子供のような、純粋無垢な女性。

「どんなこと言えば良いんだろうな、俺。」
『……どんな、とは?』

 デスティニーが聞き返してくる。質問の内容が読めないのかもしれない。構わずに呟いて行く――その内、
話の内容は分かるだろう。

「二股……になるよな、これ。」
『それがどうかしたのか?』

 当然だろうとばかりにデスティニーが答える。口調はいつも通りに淡々と。

「……何を言えばいいのかって思ったんだよ。」
『今更だな。その為に此処まで来たんじゃないのか?』

 デスティニーが呆れたように言う。確かにその通り今更なのだが――今まで何も考えずにいたからか、
一度考え出すとどうしても気になってしまう。

「そうなんだけど……何だろ、何て言うんだろうな、こういうのは。」

 心の中がモヤモヤと曇りがかっているようだった。
 結論は既に出ているのに、その結論に突き進むのが――どこか、何がどうという訳ではなく不安だった。
迷っていると言ってもいいのかもしれない。

『恋愛初心者が落ちる初歩的な落とし穴だな。』
「落とし穴?」
『相手に会えないから不安になる。相手が本当に自分を好きなのか不安になる。何かをしようにも相手は
そこにいない――お前の場合はこれが二人分ある訳だ。』
「……」

 沈黙――驚きと、そして納得があった。胸にストンと落ちていくその言葉。
 呆けた顔をしている自分には構わずデスティニーは続ける。

『究極的には相手の気持ちなど分からない。だから、この気持ちは誰でも抱くものだ。それは誰であろうと
避けては通れない――例外があるとすれば、極端な自信家などが挙げられるな。自分が嫌われる訳が無いと
まで思いこめるような、な。』
「俺はそこまで自信持てないな。」
『お前は割と小市民だからな。』
「ほっとけよ……って終わったのか?」

 刀身の朱い明滅が終わり、輝きが消える。

『ああ。この周辺には誰もいな――』

 背筋を怖気が這い登る。一瞬で肌が全て粟立ち、意識が一気に覚醒する。

「デスティニー!!」

 デスティニーが言葉を言い終える前にその柄を握り締め、椅子から転げ落ちるようにして、床に滑りこむ。
同時にバリアジャケットを展開。はやてから借りた服に替わり、黒と赤で構成されたバリアジャケットが全身
を覆っていく。
 瞬間、全ての窓が粉々に砕け散り、店内に割れたガラスが散乱する――それまでシンがいた椅子が粉々に弾
け飛んでいた。

 瞳を細く、意識を細く、思考を細く――連結していく全ての自分。
 脳髄が切り替わる。戦う為の自分へと――わずかな嫌悪感が生まれ、それを思考の彼方に捨て去り、集中
する。
 視認は出来なかった。全神経を回避に集中させたせいで何かを見る余裕などどこにも無かった。

「ったく、誰もいないんじゃなかったのかよ……!!」
『反応は未だに無い……何かしらの偽装を施されていたのかもしれないな。』
「偽装って、それどういう……」

 再度、爆発音――テーブルの上を縦横無尽に飛び回る物体。それに合わせて自分も別の場所に飛び移る。
 色は青。カタチは分からない。先端は綺麗な真四角を描き、それが縦横無尽に中空を飛び回り、軌道上の
物体を全て破壊していく。
 何かを狙っているのではなく、触れたもの全てを破壊していくだけだ。
 会話を念話に切り替え、デスティニーに告げる。

『跳べるか。』
『八神はやてに繋げればな。リンクは現在切れている。ここからでは復旧に数時間かかる。』
『だったら、強引に行くしかないってことだな……良いぜ、分かりやすくて良い。』

 床に這いつくばって、ソレの動きを観察する。
 速度はそれほど速くない。少なくとも銃弾よりは遥かに遅い。目で終える程度。
 威力は少なくとも椅子を粉々に出来る程度。まともに当たればバリアジャケット越しとはいえ相応の
ダメージを食らう可能性がある。

 一瞬の逡巡――判断する。決断は即決。行動はその直後――動く。
 大剣の柄からフラッシュエッジを引き抜き、自分とは逆方向に向けて投擲――機能(システム)・光翼(ヴォワチュールリュミエール)
は使えなくなるが、どの道、リンクを繋ぎ直さないことには使えない。
 フラッシュジエッジに向けて飛来する青い物体――その動きと同時に全力で窓に向けて、走る。身体を丸めて
窓から外に飛び出す。ゴロゴロと地面を転がる――アスファルトで身体が打ちつけられて痛みが走る。
 痛みを無視して立ち上がり、叫ぶ。

「来い…!!」

 叫びと同時にフラッシュエッジが店内――もはやその面影は無いただの廃墟――から舞い戻る。
 それを柄に押し込み、飛翔。
 一気に屋根の上まで加速する。これ以上の高度は取れない。クラナガンでは基本的に飛行魔法は禁止
されている。一定以上の高度は申請していない場合は即座に管理局に見つかる――飛行中の激突への
安全対策らしい。どうでも良い記憶が脳裏に浮かぶ。
 そのまま隣の家の屋根に跳躍――飛行の魔法の応用で体重を軽減した上で出来ること――とにかく
その場から離れる。

 周りは民家だらけで、どこもかしこも明かりが点いている――そこに住んでいる人がいるということだ。
 その光景にぞっとする。昼間はよくわからなかったが、上空から眺めればよく分かる。
 民家と民家がひしめき合うこの場所では“誰も巻き込まずに戦闘を行う”ことがあまりにも難しい。
 ひゅん、と風を切る音。咄嗟に屋根から飛び降りる――首筋を掠める何か。背筋を這い登る悪寒。
視線をそちらに向ければ――青い真四角の何かが自分の髪の毛を掠めていったのだ。

「ちっ。」

 舌打ちしながら、再度跳躍。屋根に飛び乗り、青い何かに向けて大剣を構える――青い真四角の何かが迫り来る。

「デスティニー……!!」
『ギアサード。』

 返答と共にシンの全身を朱い炎が覆い、心臓の鼓動が加速。
 筋肉が悲鳴を上げ、骨格が軋みを上げる。
 全身を走る激痛――それを奥歯を噛み締めることで堪え、通常の3倍の速度で流れる視界。
 大剣を振りかぶり、それに当てる――鍔迫り合い。その青い何かの動きを止めて、全景が目に入る。
 それは一枚の布。長さはどれほどなのか、分からない――月に照らされて、そこに描かれた模様が浮き上がる。
 白い花のような文様が青色の下地の上に描かれている。
 どことなく和服――昔テレビで一度見た“キモノ”と言う服装を思い出す文様。
 材質は単なる布のようで――けれど、アロンダイトの斬撃を受け止めるような材質の布などあり得ない。

「はああっ!!」

 裂帛の咆哮と共に無理矢理にその布――本当に布かどうかは疑わしいが――を弾き返す。
 一瞬の間――布が蛇のように自らの身体をうねらせ、“その形状を変化させ”再度迫り来る。
 布の先端が二股に分裂し、蛇が顎の骨を外して、獲物を捕食するように、視界の両脇から挟み込むように
襲い来る――後方に退くことで回避。
 二股に分かれた布は軌道を変えずに交差し、再度溶け合うようにして一枚の布へと戻っていく。

「くっ……!!」

 連続した螺旋の軌道で迫るソレを打ち払い、捌き、弾き――屋根から屋根へ飛び回りながら月光を明かりに
打ち合い続ける。
 本当なら最大威力のエクストリームブラストを使用して、直ぐにこの場を離脱すれば良いのだろうが――魔力
供給無しで行うことは即ち死を意味する。文字通りの自殺行為に過ぎない。

(拙い、拙すぎる。)

 魔力供給は出来ない――使えば民家を破壊する以上は使えない。つまり最高速での戦闘は出来ない。
 敵の正体が分からない――デスティニーの索敵でも未だにどこにいるのか分からない。
 決め手を封じられ、その上敵がどこから攻撃を行っているのかも分からない。
 打ち込まれる布の一撃――それを受け止めるが、勢いを殺しきれずに後方に吹き飛ばされた。
 態勢が崩れる。蛇のようにうねる布が近づく。真正面から顔面を貫く軌道――そこからうねり、背後から
胸を貫く軌道となり襲いかかる。止めを刺す算段なのか――朱い瞳が濁り輝く。

「舐めるなよ……!!」

 右肩前面、左肩背面から高速移動魔法――フィオキーナを発射。朱色の間欠泉が吹き出し、その勢い
そのままにシンの肉体を時計回りに回転させる。右手に持った大剣を回転の勢いと遠心力、膂力、瞬間的
に出せる全力で振り抜いた。

「あああっっ!!!」

 ガキン、と鈍い音を立てて、青い布と大剣(アロンダイト)が接触――吹き飛ばされる青い布。その姿に変わりはない。
 破れるどころか、まるで無傷なままで、斬撃を打ちこんだこちらの右手の方が痺れている。

「おい、何やってるんだ、あんた!!」

 屋根の下から声――見れば、そこはすでに大通りのすぐ近く。いつの間にか路地裏の上の屋根裏から大通りの
近くの家の屋根裏にまで押されていたようだ。
 青い布が動く――狙いは、自分ではなく下方。即ち今、声をかけた男。それは昼間に出会ったあの魚屋の店主。
 青い布が疾駆する。あの強度と速度ならば人を殺すことなどあまりにも容易い――考えるよりも早く身体が動いた。

「逃げろ!!」

 飛んでいるのでは間に合わない。通常の移動では決して間に合わない――右手に魔力を収束、炎熱変換、そして
圧縮――掌に現れる半球状の溶岩。近接射撃魔法パルマフィオキーナ。
 屋根を蹴って飛び出す。右手を上空に向ける――朱い間欠泉が迸る。パルマフィオキーナの発射の反動を利用し急加速。
 視界が流れる。間に合うか――男と布の接触の瞬間が近づく。焦燥すら感じられないほどに小さく刻まれた時間間隔。
 真実、刹那とも言える時間の中で――青い布と男の間に割り込む、寸前でソレは軌道変化させた。

「なっ……」

 声を出す暇もあればこそ。
 ソレは、男に当たる筈だった軌道をそれまでとはまるで違うこちらの顔面に変更したのだ
 反応出来たのが奇跡に近い――だがそれだけだ。迎撃は間に合わない。
 彼我の距離は数m。加速した時間間隔の中で更に時間の加速を速める。
 通常の3倍の速度――ギアサードから、通常の4倍の速度――ギアフォースへとエクストリームブラストの設定を変更。
 周辺から生命を奪い、己が魔力としようと糸が伸びる――伸ばさせない。

 心臓が痛い。内臓が痛い。骨が痛い。関節が痛い。
 それまで全身を苛んでいた痛みが、おもちゃに思えるほどの痛みの加速。
 脳髄に熱した鉄棒を差し入れられるような生理的な嫌悪を伴う苦痛――意思の力を総動員し、それを押さえつけ、
この僅か数秒の交錯に全精力を傾ける。
 加速した思考、体感時間。ソレ――青色を基調としたキモノのような柄の布を捉える。迫る――死ぬ寸前の視界。
 何もしなければ、このまま頭蓋を真っ二つにされ、グロテスクな死体と自分はなり果てる。

(まだだ。)

 更に思考を加速。ギアフォースからギアフィフスへエクストリームブラストの設定を変更。全身を襲う痛みが更に
倍加する――無視。気にするな。今だけだ。痛む身体に苦しむ前に、生き延びることだけに全てを懸けろ。
 迎撃は間に合わない。加速したところで不可能/肯定。機械化する思考。全てを生き延びることだけに集中させる。
 大剣は間に合わない。ならばどうする――受け止めるしかない。
 左手を突き出す。生身の部分で受け止めれば引き裂かれることは必至。

 瞳を見開き咆哮。加速した世界の中では金切り声にしか聞こえない。
 魔力収束構築展開――咄嗟にトライシールドを展開する。
 僅かに青い布の動きが“停滞した”。不可解な挙動――気にするな。
 激突。破裂音が鳴り響き、展開したトライシールドが粉々に霧散する。左腕に激痛。左腕が肘の先から明後日の方向に
向いている――骨折。肘から突き出た白い骨が痛々しい。
 脳髄を駆け抜ける痛み。
 それを押さえつける為に再度、咆哮咆哮咆哮。

 トライシールドとの激突で速度が緩んだのか、青い布は今も動かずにそこにいる――思考を置き去りに肉体が
勝手に迎撃を選択。パルマフィオキーナを発射した右掌をソレに向けて叩きつける――咆哮と共に炎熱変換し
圧縮された魔力の炎が火山の爆発のように噴き上がる。

「あああぁあぁぁぁぁぁっっ!!!」

 絶叫と共に発射したパルマフィオキーナが青い布を迎撃。同時に全身の飛行制御を解除。
 パルマフィオキーナの反動そのままにシン・アスカの全身が後方へと吹き飛んで行く。
 布が吹き飛んだ。シンが吹き飛んだ。
 両者の距離が開く―――その場にいた昼間の魚屋の店主は無事なまま。
 自分の左腕は完全に折れた。左腕は死んだ。

 青い布はいまだ健在。だが、パルマフィオキーナの命中した個所から煙が上がっている――無傷と言う訳ではない。
 右手を掲げる。ひゅん、と風を切って落下中だったデスティニーがシンの右手に舞い戻る――両の腕を使って
離脱を敢行した為に自由落下の最中だった。
 ギアフィフスからギアサードへと、エクストリームブラストの設定を変更――頭の中心を貫くような頭痛と
全身を苛む激痛が走り抜け、膝が折れ、意識が途切れそうになる。
 奥歯を噛み締め、唇を噛み切ることで意識を繋ぎ止める。
 リジェネレーションによる自動再生無しで使用した代償――下手をすれば死んでいたかもしれないほどだった。 

 だが――それでも生き延びた。
 瞳に力を込める。左腕は死んだ。全身には激痛が走る。
 それでもまだ動く。まだ戦える。
 今の戦闘の音を聞いて、付近住民が次々と家から出てくるのが見える――出来るなら全員に逃げろと怒鳴り
つけたいが、激痛のせいで喋ることもままならない。
 状況は最悪だ。守るモノが更に増えた。絶対絶命そのものだ。
 それでも戦える。まだ戦える――そうやって自分を鼓舞しなければ、いつ意識を失ってもおかしくなかった。
 対峙は数秒。集まってきた人間の喧騒が大きくなっていく。心中が焦燥で埋め尽くされていく。
 その時、青い布が動いた――バタバタと風に自らをなびかせながら上空へ一気に飛翔し、どこかにに向けて
飛んでいく。

(……たす、かった、の、か?)

 息が荒い。心臓の鼓動が煩い。全身から噴き出す汗。倒れこんでこのまま眠りこみたい衝動に駆られる。
 付近に集まった人間が自分に声をかけている――応える余裕がどこにも無い。
 膝が落ちる――自分の周りに集まる人々。その足元の隙間から“見覚えのある顔”が見えた。

「……くす」

 嗤っている顔。彼女が絶対に浮かべない――けれど、今は彼女しか浮かべられない顔。
 自分の知らない嗤い。誰かを嘲笑する嗤い。馬鹿にする嗤い。信じられないほどに下卑た嗤い。
 彼女に、一番似合わない笑顔。

「……あ、あ」

 脳髄が混乱する。
 嬉しさがある。困惑がある。喜びがある。恐れがある。
 泣き叫びたいほどに嬉しいのに、何故か――近づいてはならないと脳のどこかで誰かが警告している。

「……ギンガ、さん。」

 恋い焦がれた人。待ち望んだ人。探していた人。
 ―――絶対に取り戻すと決めた人。
 ギンガ・ナカジマが、自分を見下ろすように嗤いながら、そこに、いた。

「ギンガ、さん……!!」

 無理矢理に立ち上がる――途端、激しい頭痛と引き裂かれるような激痛が襲い来る。気を抜けば、右側の
視界も“消えそうになる”。

「く…あ…」

 折れる膝を両手で押さえつけて倒れこむことを否定――無理矢理に走り出す。

「お、おい、あんた、大丈夫か?」
「どい、てくれ…!! 」

 そう言って男を押しのけ、その横を通り過ぎる――瞬間、右側の視界が消える。
 突然の視界の消失。半分だけの視界が突然出現する――構わず走りぬけようとして、誰かに肩が当たり、
バランスを崩して、視界が回転する。
 突然、目の前に広がる黒いアスファルト。関係無いとばかりに両足と両手に力を込めて立ち上がり、走り出す。
 痛みを気にする余裕など最早存在しない。
 頭の中にあるのはシンプルな一つだけの事実――今すぐに追いかけろ。ただそれだけ。
 転ぶ。走る。転ぶ。走る転ぶ――走る。走る。走る。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」

 息が切れる。胸が苦しい。全身が痛い。意識を繋げているのが辛い。このまま此処で眠りこみたくなる。

「ふっざ、ける、なよ……シン、アス、カ……!!」

 自分自身に向けて毒づく――そうだ、ふざけるな。
 何をしに此処まで来た。何を守りに此処に来た。何を取り戻しに此処まで来た。
 そんなの決まってる。考える必要なんてどこにも無い。
 ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウンを取り戻す為だ。

「見つけて……見失って、ごめんなさい、なんて……馬鹿か、俺は……!!」

 転ぶ――立ち上がる。何度も何度も何度も馬鹿みたいに繰り返される繰り返し。
 いつの間にか、周りの風景が変わっている。
 どこにいるのかも分からない――同時に自分もどこにいるのか分からない。
 以前、確かにクラナガンにいた。機動6課の隊舎に住んでいた――だが、そんな街中を詳しく知っている訳
ではない。
 街中を走り抜けたことなんて一度も無い。地図を読み込んで頭の中に叩きこんだから把握できているなんて、
そんな訳がない。

「……ふ、ざ……けん、な。」

 何度も肩で息をする内に限界が到達する。どれほど走ったのか、恐らく数十分以上は確実だ。
 汗がだらだらと流れ落ちる。そして疲弊する肉体とは対照的に―――頭痛や、肉体の痛み、視界の消失はいつの
間にか消えている。デスティニーが“糸”を伸ばしてリジェネレーションを行ったのだ。
 搾取の糸によって取りこまれた生命を魔力に変換し供給――自動再生による全身の修復。
 息切れが収まる。転んだ拍子に痛めた身体中が修復されていく――そんなことはどうでもいい。探せ。探せ。探せ。

「そうだ、早くギンガさんを―――」

 呟いた瞬間、耳元に届く音――鳴り響く風切り音。
 音の方向に目をやる。そこに――あの青い布があった。布が螺旋を描き、その姿を変えていく。
 平面でしかない布が――厳密には厚みもあるので平面ではないが――螺旋を描き、うねり、絡み、ナニカを
形作っていく。
 布が折れて波目を作りあげていく。
 先端が顎のように二股に裂け、その少し上――恐らく頭部に浮かび上がる紅い輝き。瞳を模しているのか
両脇に二つ。そして顎の中心から伸びる、血のように紅い、先端が二股に分かれた舌。
 青い大蛇がそこにいた――数秒ほどの間に、単なる布でしかなかった、ソレは、全長およそ数mほどの体躯の
蛇へと変化を完了する。

「……何だ、こいつは。」
「おいで、弾丸淑女(ブリッツキャリバー)。」

 背後から声がした。声の方向に振り向く。
 布――今は蛇――がその声に向けて飛び立つ。
 心臓の鼓動が収まらない。煩いくらいに振動する。その振動が伝播し、手が震える、身体が震える、心が
震える。
 ようやく、出会えた、探し求めた人。
 返事を返したい人。
 絶対に取り戻すと決めた人。
 服装はナンバーズの着ているようなラバースーツ――もはやレオタードと言った方が良い姿。
 それが起伏の激しい彼女の肢体を際立たせている。
 蒼い髪。蒼い瞳。蒼い髪の乙女が呟く――以前と変わらない声で。

「セットアップ。」
『イエス、マスター。』

 その口が紡ぐ言葉によって、青い布で構成された蛇の全身を白い光が走り抜け―――蛇が、分解し、変形し、
彼女の身体に巻き付くようにして、鎧を形成していく。
 それはバリアジャケット――のはずだ。通常のバリアジャケットとはあまりにも違い過ぎて同じモノだとは
決して思えないが。

 モチーフはおそらく第97管理外世界の日本と言う島国でのみ着られている民族衣装――着物。
 シンは着物自体詳しい訳では無いのでよく分かっていないが、それはいわゆる振袖と言われる類である。
 無論、完全な着物ではなく随所に動きやすさを意識したアレンジを施されている為に本来の着物から見れば
完全に逸脱したモノだ。
 殆ど単なるジャケット代わりに振袖を羽織ったような姿。袖は風に揺れて、なびいている。
 足元にはローラーブーツ――ではなく、ローラーブレード。
 蒼い髪の乙女が、構える
 右足を前に、左足を後ろに。
 身体は半身だけ相手から見えるように。
 右拳を前へ、左拳を後ろへ――それはどこか、弓を引き絞る射手に似ている。

「――シン・アスカよね?」

 ごくり、と喉が鳴った。緊張のせいか、知らず唾を飲み込んでいたのだ。
 緊張――闘うことへの緊張。
 自分の知っている口調ではない――なのに、声は同じで、彼女だと断言させる。

「……ギンガ、さん。」

 ギンガ・ナカジマ、彼女が生きてそこにいる。本当はすぐにでも駆け寄って抱きしめたいとさえ思うのに、
身体が動かない。
 少し前に脳裏に考えていた、何を言うべきか、どうするべきか、などと言う殊勝な考えはどこにもない。

「“出会ってすぐに”こんなことを言うのもどうかと思うけど――」

 彼女の口が動く。その瞳が自分を射抜く――込められるは殺意。絶対に殺すという殺害の意思。
 胸にあるのはただの悲哀と絶望。
 ドゥーエは今陸士108部隊にいる。故に此処にいることは絶対にあり得ない。
 裏切って此処にいるとして――彼女はすでに裏切られているのだ。
 だから、眼前の女性は“本物”だ。
 紛うことなく、シン・アスカの知っている、彼が求めたギンガ・ナカジマ以外にあり得ない。

「――貴方を殺すわ。」

 折り返しを迎えた物語。
 始まりの合図が、今、打ち鳴らされた。
 



[18692] 第四部ミッドチルダ風雲篇 66.再会と邂逅(c)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/06/02 17:17

 何もかもが空白だ。
 私の胸は生まれた瞬間からずっと空白で何にも無い。
 思い出そうとしても何も無い。
 考えようとしても何も無い。
 何も無い何も無い――記憶が無い。
 知識としては理解できる現象――記憶喪失。
 たかが記憶を失ったところで何が変わるのか、という人はいるだろう。記憶を
失くしたところで失ったのは記憶だけだ。
 身体は正常で、生きていくには何の不便も無い。息をすることも出来る、食事
も出来る、生理的に必要な機能は何も損なわれていない。
 けど、それだけだ。
 死なないだけで、生きている訳ではない。
 過去が無い――それは孤独だ。世界中の誰をも自分は知らない。何も知らない。
知っているのはどこの誰とも知れぬ“自分自身”のみ。

 そこは暗闇。生まれた時から一緒にいるその子だけが自分にとっての仲間――家族だ。

「ブリッツキャリバー。」

 呟きに応じて、空を泳いで近づく彼女――弾丸淑女(ブリッツキャリバー)という名の
デバイス。デバイスというものが何なのか初め分からなかったが、“魔法”を使う
為に必要な道具らしい。

『マスター、どうされました?』

 蛇のような外観の“彼女”が放つ声はその外観に似合わないほど綺麗な声。
 その声を聞くだけで、少しだけ、胸の空白が埋められていく。

「……シン・アスカを殺せば、私は記憶を取り戻せるのかな?」
『恐らく……それすらも、確証はありませんが。』

 私が意識を取り戻した時――即ち私が生まれた時ともいえる――目の前にいた男
はそう言った。
 記憶が欲しいか、と。
 その言葉を契機に私は狂いそうなほどの孤独を覚えた。
 寂しいという感情に分類される感情――けれど、その度合いは寂しいなんてもの
じゃなかった。

 ――何も分からない。

 思い出そうと記憶を手繰れば記憶そのものがどこにもない。何かを考えようとして
思い浮かべようとすれば、知識は浮かび上がるのにそれに伴って覚えているであろう
記憶が全て無かった。
 私は誰なのか。
 私は何なのか。
 私はどうしてここにいるのか。
 考えても答えは出てこない――答えそのものに繋がるであろう記憶が無いのだから当然か。
 最初の数日間は何をすることも無くぼうっとしていた。
 その状況に頭を慣らす為に脳が思考することを放棄していたのだろう。
 ただ眠るだけの日々を繰り返す。
 想い浮かぶモノは何も無い――寂しかった。空っぽの自分。胸に空いた空洞は何を
以って埋めればいいのか。
 悲しかった。本当は埋まっているはずの記憶が全て無いことが――初めからそんなものは
無かったのだと言うことも考えたが日々を過ごす内にそんな考えは全て消えていった。
 初めから何も無いなんてことは絶対にあり得ない。でなければ、胸に空いたこの大きな空白
の説明がつかない。
 何日も過ぎていった。
 ただ茫洋と過ごす中で胸の空白は大きくなっていた。
 飢餓感――記憶を取り戻したいという欲求は小さくなるどころか大きくなるばかり。
 もう一度、男に会いに行った。
 “生まれて”から二度目の対面。男の顔の白い仮面が胡散臭い――本当に信じてもいいのか、
と心のどこかが言っていた。

「記憶が欲しいのなら、この男を殺してくれないか?」

 そんな男の言葉に合わせるように、傍らにいた眼鏡をかけた女性が私に近づいて、
一枚の写真を手渡してきた。
 そこに映るのは、釣り上った朱い瞳とボサボサの黒髪が特徴的な一人の男。
 名前はシン・アスカというらしい。
 自分の家族を殺して、記憶を失う原因を作った人間――そう言われてもまるでピンと
こなかった。
 記憶喪失とは言え、出会ったことのある誰かならば何かの反応をする――と、思う。
自信は無いが、そういうものではないのかという思いがあった。
 だが、写真の男からは何も感じなかった。

 写真に写る男は自分の失った記憶には何も関係がない――家族を殺したと言われても、
その家族のことをまるで覚えていないのだから、実感が湧く筈もない。
 けれど、私には他に縋るモノは無かった。
 この胸の空白を埋めるには、それしか無かったから――会ったことも無い男を殺す。
そんな馬鹿な真似を引き受けた。
 いつもいる暗闇――そこがどこかも分からない暗い部屋。ミッドチルダという世界の
どこかとだけ教えられた。
 窓から見える月はいつも通りに変わらない。昼間に見える太陽だって変わらない。
 何も変わらない自分の胸の空白。何もしなければ何も変わらない。そんな自分を暗示
しているようで――私は急かされていた。
 いつか胸の空白に飲み込まれて、自分自身さえも失くしてしまいそうで――もう、すで
に失くしているのかもしれないけれど。


 足元で鳴り響く駆動音――動く。

「ぎ、ギンガさん……!! くそ、話を聞いてくれ……!!」
「……貴方は私の仇と聞いているわ。そんな人間の話は聞けない。」

 彼女が呟く言葉――訳が分からない。
 仇。殺す。出会ったばかり。
 意味が分からない。言葉が通じない。
 まるで、別の人間のようにさえ思える。
 なのに、

「く、そっ……!!」

 ギンガが握りしめた右拳を突き出す――同時にそこに巻き付くようにして、“巨大な拳”
を形作る“袖”。
 彼女が身につけているのは振袖と呼ばれる類の着物だ。袖の部分が、膝下まで届くほどに
長く垂れ下がっている。
 その袖が形状変化を起こし、それまでは単なる布のようにしか見えなかったというのに
一瞬後には巨大な拳――2mほどの岩のような――に変化する。

「なっ――」

 驚愕の声を上げる――身体はそんな驚きに困惑することなく滑らかに動き、その拳を受け
止める。ガキンと鈍い音を立てて、打ち合う刃金と拳。

「ぐ、ぎ。」

 鍔迫り合い。両の手で握り締めた大剣で受け止める。
 踵が地面にめり込んでいく。大剣が徐々に押し込まれていく――打ち下ろし気味に放たれた
拳の自重なのか、それとも彼女自身の膂力なのか。
 その重さと威力は半端なものではなかった。まともに当たれば死ぬか、もしくは致命傷は確実。
 ――視界の端を掠めるもう一つの拳。左手の指を真っ直ぐに伸ばし手刀を形作る。右拳と
同じようにして、服の袖が巻き付くようにして、形状変化。それは螺旋杭(ドリル)。壁を穿ち、
地面を穿ち、全てを貫くことにのみ特化した形状。

 両手が塞がった自分を貫くつもりだ――咄嗟に右半身に魔力を集中し、高速移動魔法フィオ
キーナを形成。発生箇所は右肩、右腰、右膝の三カ所。魔力収束、炎熱変換、圧縮解放――膨大
な訓練によってもたらされる滑らかな魔力移動。
 高速移動魔法フィオキーナによって無理矢理肉体を左側に強制移動。全身の骨格が軋みを
上げる――吹き飛ばされるようにして、その場から離れる。
 そして、それまで自分がいた場所を貫く螺旋杭(ドリル)が空を切る。
 彼我の距離が開く――およそ5m。一足で攻撃を行える距離。

「……逃げ足は速いのね。」
「ギンガ、さん。」

 呟く――ギンガは答えない。返答の代わりに右手を振るう。
 鞭のようにしなりうねり伸長する袖――布となり、伸びゆく間に、先端が細く紐へと変化する。
 速度は高速。通常では避けられない。

『ギアサード。』

 以心伝心。伝えるよりなお早く、デスティニーが“勝手”に高速活動魔法エクストリームブラスト・
ギアサードを発動。
 上空へ飛翔。まずは距離を取れ――だが、そんなシンの思惑を読み切っていたかのように、“紐”が
シンが上空に飛翔し到達するであろう場所へ、既に飛来していた。

「なっ」

 シンの足首に絡みつく紐。足首という場所が眼球から遠いせいか、足首を狙うという発想そのものが
無かったのか――まるで反応できずに足を絡め取られる。次瞬、紐が一気に短く縮んでいく。
 それに合わせてギンガが踏み込む――足元のローラーブレードが回転し、地面との摩擦で煙を上げる。
 加速――左手を握り締める/布が絡まり岩塊のような拳へと変形。
 デスティニーへ念話を送信。情報を展開、大剣が変形し、大砲――ケルベロスへと変形。
 設定は非殺傷。狙う、放つ、発射。放たれる朱い光熱波。空気を焼きながら突き進む。
 それが見えているであろうに構うことなく、左拳を突き出し、回避する素振りなどまったく見せず
突撃するギンガ――シンを引き寄せる紐の速度がさらに上がる。
 着弾――寸前で、岩塊のような拳が形状変化。
 岩塊が一枚の布へ――布の先端が朱い光熱波に触れる、捌く、ベクトルをずらし、僅かに外へ――朱い
光熱波がギンガの背後へと突き抜けていく。

 絶句するシン――声を上げる暇は無い。朱い光熱波を捌いた布が更に形状変化。絡み合い螺旋に
回転する円錐へと――螺旋杭(ドリル)が形成される。
 激突まで一瞬。回避する暇は無い。ギンガの左手がシンの胸の中心へと吸い込まれていく――意識が
白熱する。
 生き残る為に、生き延びる為に、肉体は防御を選択/刃を向けたくないという想いを撤去出来ない。
 訳も分からず死んでも意味は無い――それでも刃を向ける訳にはいかない。
 シン・アスカの心の中の想いが動作を邪魔し、肉体行動に制限をかける――大砲を大剣に変形し、打ち
込まれる螺旋杭(ドリル)を受け止める。激突。
 回転し穿ち抜こうとする螺旋杭(ドリル)の頂点と、それを受け止める大剣(アロンダイト)の刀身。

「く、そ、ったれええええ!!!」

 裂帛する気合と胡乱な声。
 激突の余波――熱量と衝撃が周囲にまき散らされ、大気を震わせる。地面が振動し、砕かれたアスファルトの
欠片がビリビリと震えている。
 押し込もうとする力に陰りが起きる――僅かに違和感。強引に押し込んでくると思っていたからだ。強引な手管を
それほど好まないとはいえ、状況に応じて臨機応変に対応するギンガとは思えない――態勢は変わらない、そのまま
ギンガが呟く。どこか、辛そうに。

「今のも避けられるなんて思わなかった。……出鱈目ね、貴方。」
「やめろ、ギンガさん……!! 俺はあんたと戦う気なんてないんだ!!」

 間近で彼女を見る。夢や幻で見るほどに恋い焦がれた女性――見間違う訳もない。眼の前にいるのは、
紛れもなく、自分が求めたギンガ・ナカジマだ。
 そうだ。同じだ。目前の女は“記憶の中の彼女”と同じように辛そうな顔をして、自分に拳を向けて
殺そうとしている――それが苦々しくて辛い。

「貴方に戦う気が無いとしても――」

 ひゅっと息を吸い込み、打ち込まれた左手を引きこむ。同時に左腕の引き込みと連動し、突き出される右拳。
両手が塞がっている以上、防ぐ術は無い――両肩の前面からフィオキーナを発射し、急速後退。

「――私には貴方を討つ理由がある。」

 拳の到達よりも早くシンの身体が後退。すでにそう行動することを読み切っていたのか、ギンガの表情
に変わりは無い。

「理由って……どういうことですか。」

 その呟きに、怪訝な顔をするギンガ――そこに“自分の知る彼女”の面影を感じ取る。
 笑ってくれなかった、辛そうにさせてしまった彼女の面影を。

「貴方は私の家族を殺した……私が記憶を失った原因。」

 簡単に――苦虫を潰したような顔で、彼女は答えた。

「4年前の空港火災の日。私の全てを貴方は奪った……妹も、父も、母も、全部貴方が奪った。」

 俯いたまま呟く。表情は見えない。
 彼女が何を思っているのか、どうしてそんな世迷子とを言い出すのか、何も分からない。

「俺、が?」
「ええ、そう“聞いてるわ”。貴方が全てやったんだと。」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!! 俺は、去年初めて、この世界に来た次元漂流者だ! あんたの
家族を殺すことなんて出来る筈もないだろ!? 大体――大体、そんなこと、俺と一番初めに会ったあんたが
知らないはず無いだろうが!!」

「……そっか。貴方と初めて出会ったのは私なんだ。」
「覚えて…ないんですか?」

 寂しげな表情をするギンガ――心臓がどくん、と鼓動する。
 腕が震える。奥歯を噛み締めて、震えを止める――彼女が嗤う。ナニカを嘲るようにして、酷薄な笑みを浮かべる。
 心に亀裂が入る。

「知らないのよ、何にもね。」

 気だるげに、どうでもよさそうに笑いながら彼女は呟いた。
 酷薄で、冷徹で、
 彼女が構えを解いて、歩き出す。

「知らない、って」

 口がからからに乾いて行く。
 彼女は――ギンガ・ナカジマは言葉の意味が理解できない。
 何かが、おかしい。歯車が噛み合わない、とでもいうのだろうか。
 彼女が自分を知らないなどということはあり得ない。
 この世界に落ちてから一番長く一緒にいた人だ。ずっと自分を導いてくれた人だ。いつも傍にいてくれた人だ。
 そんな彼女が――自分を知らないなどありえない。
 何か、何かが致命的なコトになっているような――いい加減に噛み合っていないのが自分だと気づけ。
 馬鹿でも分かるほどに溢れている情報。どんな人間だってここまで情報を与えられれば必ずその事実に辿り着く。
 心中から漏れる声に耳をふさぎたくなる。絶対に信じたくないこと――絶対に認めたくない辿りつきたくない“最悪”な真実。
 それは――

「……ふざけるな。」

 頭に思い浮かんだその予想を一言で切って捨てる。そんなことは無い。在り得ないと。
 そうして、呆然と立ち尽くす自分に向けて彼女が右拳を突き出した。
 袖が伸びる――蛇のようにうねり、布のようなカタチだった、ソレが自分の首元に向けて伸びてくる。
 迫る布。刃のように、矢のように迫るソレに咄嗟に身体が反応し、首を捻る――頬に刺すような痛み。避け
切れずに皮が割かれた。
 髪が一房纏めて切られた――ウィッグが落ちていく。

「……今のも避けるんだ。」

 どくん、と胸が鼓動する――薄々と、その時点でこれがどういう状況のによるものか理解していく。意識が
冷えていく。心に亀裂が入っていく。
 デスティニーは何も言わない。多分、コレは全てを理解している。
 理解して――何も言わないのだ。
 こんな、くそったれの始まりは恐らく誰も予想していなかったから。

「俺が、誰か分かりますか。」
「……分からないわ。貴方は私が殺さなきゃいけない人間……そうなんでしょ?」

 頬に感じる痛み。口元に感じる鉄の味――血。頬が薄く裂けている。
 彼女は訥々と語り続ける――表情は無表情。感情などまるで無い虚無そのもの。
 自分の知る彼女なら絶対にしなかったような表情だった――なのに、声と姿は同じで、“違い”を浮き彫りにし、
胸の痛みに拍車をかける。

「貴方を殺せば、私は欲しいモノが手に入る。失くした大切なモノが手に入る――だから、貴方を殺さなきゃいけないの。
家族を殺したとか全てを奪ったとかそんなのどうでもいいの。」
「……欲しい、もの?」

 胸を駆け巡る焦燥。
 訳も分からずに怯える自分は何だ――全て理解しているのに認められない
 どうして、自分はこんなに焦っている――焦るのは当然だ。だってシン・アスカがこの世界に戻ってきた理由を無意味に
させるのだから。
 どうして、こんなに彼女の言葉が怖いのか――簡単だ。だって、もう取り戻せないことが確定するから。

「……貴方は私を知っているのよね。」
「俺は、あんたに会う為にここまで来たんだ!! 知らないはずがないでしょう!?」

 そう言うと、彼女は驚いたような顔をして、こちらを見つめ――目を逸らした。

「……聞いていたのと随分違う――貴方が仇っていうのは、やっぱり嘘なのかも、ね。」

 小さく呟き、彼女が近づいてくる。
 自分は――動かない。否、動けない。
 身体が石にでもなったかのように動かなくなっている。
 そこにいては拙いと全身の神経が警告を鳴らしている。早く逃げろと囁いている。
 だっていうのに、自分は動けないまま、その場に佇み、彼女を待ち続ける。
 彼女が怖い。

 自分の知るギンガ・ナカジマと同じ表情――多分それは自分の知る彼女の表情そのもの。
 なのに、“その中身”が違う。
 いない、のだ。自分の知る彼女は――もう、どこにもいない。
 それがどんな事実の先にあるのかは分からない。何が起きたのかは分からない。過程などさっぱりだ。分かるのは、
結果として、目の前にいる彼女――ギンガ・ナカジマは、ギンガ・ナカジマであって、ギンガ・ナカジマではないということ。
 力が――抜けていく。

「記憶が、欲しいの。」

 視界に彼女の顔が映り込む。 
 変わらない顔。いつも自分を支えてくれていた彼女の顔――変わらないのはそれだけ。

「空っぽなの。」

 彼女は――記憶を失っているのだ。
 そう考えれば、辻褄が全て合ってくる。自分を知らないことも、自分を仇だということも、家族は全て死んで
いるということも――他人事のようにそれらを話すという意味も。
 恐らく、殺されたというのも誰かに教え込まされたモノ。

「俺のこと、覚えてない、ってこと、ですか。」
「誰も知らない――貴方が誰なのかなんて知らない。私は、誰も知らないの。」

 辛そうに、身体を切り刻まれることに耐えるような表情で彼女が自分を見つめる。
 彼女の表情が何よりも痛い――心が砕け散りそうなほどに痛い。

「何だ、よ、それ……知らないって、何なんだよ!!」
「酷い、話よね。私もそう思うけど――仕方ないじゃない。“知らないんだもの”。」

 声を荒げても彼女の様子は変わらない。ただ悲しげに、泣き出しそうな表情でその場に佇むだけ。
 何が悲しいのかなんてさっぱり分からない。
 何で泣きそうなのかも分からない。
 そんな表情をさせたくないのに――心と裏腹に言葉は彼女に叩きつけるようにして紡がれてしまう。

「だから、何なんだよ、それは……!!」
「だから、言ってるじゃない。“知らないから仕方ないって”。」
「ふざけるな!! 俺は、あんたに会う為にここまで――」
「……知らないのよ、知らない、何も知らないのよ、私はっ!!!」

 彼女が左拳を握り構える――撃ち放たれる。

(何だよ、それ。)

 呼吸が荒れていく、鼓動が煩く、全身は震えていて――けれど、身体は自動的に防御を選択。
 彼女の拳を受け止め背後に跳躍し威力を軽減――それすら彼女が教えてくれて、その言葉通りに毎日欠かさず
反復してきた証。彼女のへの想いの証。
 拳が近づく――加速した時間の中でもその拳は変わることなく速く。
 両腕に激突する拳――後方へ吹き飛ぶ。視界が一気に前方へ流れていく。

 彼女は記憶を失くしていた。
 記憶を失くしたのは――間違いなく何かが原因だろう。人為的な何かが。

(ジェイル・スカリエッティ……とかいうやつ、か?)

 記憶喪失を人為的に行う――そんな魔法など聞いたことも無い。だが――戦闘機人というモノを人為的に作り
出したジェイル・スカリエッティとかいう人間ならば出来ないこともない、のかもしれない。
 吹き飛ぶ――どこかの建物にぶつかる。壁にめり込み、破壊し、その中に叩きこまれる。
 吹き飛ばされた瓦礫と埃が自分を白く染めていく。付近に生体反応は無い。知らず知らず無人になった放置区画に
来ていたのだろう――以前の戦いの傷跡の入り口。
 灰色の世界。以前見ていた世界はこんなモノだった。世界全てに色が無く、自分の生きる意味自体が無くて、
ただ縋りついて。死んでしまわなかったのは胸にあった残骸のせいだった。
 今はそれが見えないのは何故だろうか――分からない。
 彼女はどこにもいない。その言葉が何度も胸の中で反芻される。

(どこにもいない。)

 記憶を失ったギンガ・ナカジマ――多分フェイト・T・ハラオウンも同じことだろう。記憶喪失かどうかは分か
らないが、まず間違いなく“シン・アスカの記憶”は壊されているに違いない。
 拳を握りしめようとする――力が入らない。
 あれだけ大見栄を切ってこの世界に戻ってきた。
 何があろうとも諦めないと決めていた。
 なのに、記憶を失った“程度”で、こんな風に落ち込むとは思いもよらなかった――いや、“記憶”を失っていたからか。
 半月の柔らかな白い光が地を染める。冬の冷たい空気は彼女の声を余すところなく綺麗に通す。

「私は、空っぽの私の中身が欲しいだけ。そうすれば、ラウ・ル・クルーゼは私に記憶をくれるって言ったから。」

 聞いてもいないことをポロポロ喋り出すギンガ。
 ラウ・ル・クルーゼ。忘れられるはずがない名前――予想通りの名前。
 自分は動かない――動けないのではなく、動かない。動く気がしない。 

「死んでる……訳無いわよね?」

 声にこちらを心配する響きが混じる。普通なら死んでいる。普通なら――自分は普通ではない。肉体は既に再生
が始まり、そこかしこから蒸気が上がっている。
 そんな自分に気付いているのかいないのか、ギンガはただ無造作にこちらに近づいてくる。
 本当に不思議な感覚だった。
 困惑している自分がいる。絶望している自分がいる――自分自身の描いたクソッタレで甘ったれな空想。それを
貫き通したいと思った。どんなコトが待っていようとも絶対に諦めないと。その癖もう既に絶望している――諦めてはいないが。
 自問自答が続く――諦めてはいない、と今、自分は言った。
 ならば、どうして、自分はこんな風に落ち込んでいる?
 諦めて、もう届かないと自分で考えたからではないのか? 

(違う――違う、な。)

 心中で呟く。そうだ、違う。絶対に違う。
 諦めているのではない。諦めなんてどこにも無い。この絶望は“諦め”から来ているものではない。
 ならば、どこからこの絶望が始まっているのか――簡単なことだ。多分凄く簡単なこと。

 自分は落ち込んでいるのではなく、悲しいのだ。
 彼女は記憶を失くしたと言った。
 恐らく求めるもう一人の彼女もそうだろう。
 記憶が無い――それは、シン・アスカの知る彼女たちはどこにもいないことを意味する。 

 心があればいいのか。身体があればいいのか。記憶があればいいのか。
 どれか一つでも欠ければ、その時点でニンゲンは欠落する。
 少なくとも――シンの知るギンガは消えたのだ。
 それが悲しい。それが嘘でないと分かるから悲しくて力が出ないのだ――絶望しているのだ。 

「……生きてる?」
「……ああ、あんな程度じゃ死ねませんね。」

 瓦礫に背を預け、俯いたまま座り込んだ自分に声をかけるギンガ。
 見たこともない着物姿でそこにいる。
 袖をなびかせ、彼女はこちらを見下ろす。頭に付けたリボンはそのまま。
 瞳には理知的な輝きよりも、野性的な光が強い。肌は白い。瞳は青い。
 笑顔は無邪気で無邪気で――彼女が絶対に浮かべない笑顔で。
 その笑顔が、痛い。

「抵抗……しないの?」
「……。」

 これから殺す相手に抵抗しないのかと聞くのもどうかと思うが――確かに自分はどうして抵抗しないのか。
 諦めていないのなら、動けばいい。
 言葉よりも、まず行動する。そうやって自分は今までずっと生きてきた。
 だから、今回も同じように動かし――動かない。肉体と意識が連結しない。
 身体の動きが何かに奪われてしまったかのように動かない。
 彼女の右足が動き、回し蹴りが放たれる――そんな時だけ肉体はしっかりと反応し、攻撃を両手で受け止める。
 今度は衝撃を殺しきれない。後方に吹き飛ぶ。
 また別の建物――今度は屋根が吹き飛んだまま、戦いの傷跡を色濃く残す――に吹き飛んでいく。
 土煙が上がり、瓦礫がパラパラと舞い落ちる。
 寝転がり、吹き飛ばされた態勢のまま動かない――動けない。

「……おい。」
『何だ。』

 声をかけるとデスティニーから返答があった。
 一縷の望みを賭けて―――門外漢どころか人間ですら無い、デスティニーに聞いてみる。
 多分、それは自分の心の整理をする為だけの行為。意味なんてどこにもない。

「記憶って戻るのか。」
『さあな。時間だけが解決してくれるとはよく言うが――普通は戻らないだろうな。戻ること自体が奇跡のようなものだ。』
「……そうだよ、な。」

 痛い。悲しい。辛い。
 ――不甲斐ない。
 自分が早く戻ってくれば、そんなことにはならなかった。
 自分があの時、彼女達の死を疑っていればこんなことにはならなかった。
 今更すぎるかもしれない。それでも後悔だけが残って仕方ない。
 もっと早く戻っていれば――そんな自分の後悔を遮るようにギンガが近づいていた。

「抵抗しない相手を殺すのは、嫌だけど……」

 見れば自分と彼女の距離はすでに数mの距離にまで近づいている。
 その姿は先ほどと同じく天女のような着物姿。
 表情は無表情――声に辛さが滲んでいるのは何故なのか。
 そして、その辛そうな声を聞く度に、懐かしく、安らいだような気持ちになれるのは何故なのか。

「……お願い、死んで。」

 構え、そして――走り出す。鳴り響く駆動音。彼女の身体が加速し、跳躍――両手を広げ、袖が生き物の
ように蠢き出す。
 広げた両手を交差するようにして振るう。瞬間、伸長する二対の布。
 一枚は首元を、一枚は心臓を。
 何もせずに放置していれば、このまま自分は死ぬだろう。首を狙う布は顔と胴体を切り離し、心臓を狙う
布は心臓を真っ二つに切り分ける。
 再生速度も追いつかないほどの損傷――死を約束する二撃。
 思考は今も止まらずに動き続ける。
 死を目前にしていながら、微動だにしない――動く気になれない。動く必要も無い。
 多分、“自分は死なない”から。
 しゃりん、と鈴が鳴り響いたような音がした。 

「なんで……避けないの?」

 放たれた二枚の刃は“狙い違わず”、首の皮一枚と左腕の皮一枚を切り裂き、背後の瓦礫を粉々に砕いていた。
 外れたのではない。ここまでの戦いで、あの着物のような武装がそんな生易しいものではないことは
よく理解している。
 武装としての出鱈目さで言えばデスティニーなど及びもつかないバケモノじみた武器だ。
 だから、外れたのではなく、外したのだ。眼の前の女性は。

「……殺す気が無い癖によく言いますね。」

 呟く。彼女に自分を殺すつもりは無いのだ――少なくとも、こんな風に落ち込んで、動かない人間を
殺すつもりは無い。
 懐かしさや安らぎを感じたのは、そのせいだった。
 記憶を失くしたというのも嘘ではない。
 あれが自分の知っているギンガ・ナカジマでは無いというのも確実だ。
 けれど、目の前の彼女の中に、カケラはある。ギンガ・ナカジマのカケラが。
 無抵抗の人間を殺せるような――それどころか殺し自体行えないような人だから。 

「……殺すんだったら、あんたはとっくの昔に俺を殺してる。そのデバイス――ブリッツキャリバーは今の
俺がこんな風に渡り合えるモノじゃない。」

 ここまでの一連の戦闘の中で、エクストリームブラスト・ギアフィフス――通常の五倍の速度を引き出す
高速活動魔法――までを使いようやく互角に至った。だが、あの時は使い手がいない状況での戦闘。
 武器とは使い手が使いこなしてこそ真の力を発揮する。同じように、彼女が使わないブリッツキャリバーが
全力を出し切れているとは到底思えない――つまり、今だあの武器はその性能の底を見せていないのだ。
 ギアフィフスどころかギアマキシマム――通常の七倍の速度を引き出す高速活動魔法とさえ、渡り合って
しまいかねないバケモノ。
 だというのに、ここに来ての戦闘で、自分は一度も圧倒されなかった。
 ギアサードまでしか用いていないというのに、だ。
 もしかしたら、彼女は未だあの武器を使いこなせていないから、これが最高速なのかもしれない――そんな
考えも頭に浮かんだが、理屈ではなく直感が言っている。これは彼女の全力では無い、と。

「なのに、あんたはさっきから俺が避けられる程度の攻撃を繰り返してる――挑発でもしてるみたいに。」
「……そう、思う?」
「ええ……何となくわかりますよ。俺はあんたを“良く知っている”から。」
「……貴方は何なの?」

 良く知っていると言った瞬間、彼女の顔色が変わる。
 それまでの言葉はまるで信用しなかったのに――拳を重ね合う内に湧いた興味が大きくなってきたのだろう。
 そんな馬鹿みたいに素直で好奇心旺盛なところもどこか彼女に似ている――けれどそれが彼女では無いと
明確に浮き彫りにして、悲しさは変わらない。
 立ち上がる。全身の埃を右手で払い、彼女に向き直る。ズレ落ちていくウィッグ。髪がばさりと落ちて、
頭髪が露わになる。

「シン・アスカ。」
「名前を聞いてるんじゃない!! あなたが何なのかを聞いてるの!!」

 つい最近似たような質問をされたことを思い出す。あの時はヒーローと答えた・
 苦笑する。本当にヒーローならばこんな状況は笑いながら解決するのだろう。
 けれど、自分はそうじゃない。そんな圧倒的な強さも、博愛精神もほとんど無い。
 自分にあるのは欲望だけ――強欲で、全身全霊を懸けて大切なモノを取り戻し、二度と離さない。
そんな程度の矮小で馬鹿な人間。
 顔を上げて彼女を見つめる。見覚えがある――けれど、初対面みたいなものだ。
 少なくとも、記憶を失った彼女と自分は初対面だ。
 瞳に力を込めて、気合を入れろと自分に呟く。 

(言わなきゃいけないんだろ、シン・アスカ)

 言いたかった彼女はどこにもいない。だけど、それでも“言いたい”のだ。
 ここから、もう一度恋をする為に――その為に此処まで来たのだから。

「昔の――記憶失くす前のアンタに惚れて、今でも惚れぬいてる男さ。」

 何でもないことのように呟いて――途端に胸の鼓動が加速する。
 体温が上昇する。頬が紅潮するのが自分でもよく分かる。
 彼女の方をちらりと見る――固まっている。予想外の言葉が出てきて混乱しているのかもしれない。

(……まあ、そりゃそうか)

 初対面同然の――自分にとっては初対面どころかそれなりにつき合いが長いのだが――人間に好きだ
と告白されたのだ。
 普通は固まる。自分だって同じ状況なら固まる。
 彼女が額に手を当てて、それまで淀んでいた瞳を見開いて髪を掻き毟る――膝が折れてその場に座り込んだ。

「何よ、それ……?」

 呻くように呟く。呆然と、額から汗が垂れ落ちていく。
 気温は低い。低いというのに、流れる汗が止まらない。

「ギンガさん……?」

 震えている。ぶるぶると彼女の身体が震えている。

「……違う、こんなの、私じゃ、無い……!!」
「ギンガさん!?」

 呟きに伴って彼女の袖が揺れ出した。着物のそこかしこがほつれて、水揚げされたばかりの魚のように
のたうち回り出す。

「違う……違う、こんなの違う。」
「だ、大丈夫ですか!?」
「違う違う違う違う違う違う……・」

 困惑し狼狽するギンガ。暴走する感情。自分を好きだと言ってくれた男性を殺そうとしたからこその
混乱――そんな訳が無い。
 着物が――布が暴走する。付近の建物や道路を抉り取りながら、先端が幾筋にも分かたれて広がっていく。
 既に着物と言うカタチは成していない。
 彼女の素肌は黒色のボディスーツによって覆われているだけで――着物はその全てを布と化して
辺り一帯を引き裂いて行く。
 大蛇が牙を四方八方目当てもつけずに暴れ狂っているように、彼女の世界が現れていく。
 彼女の胸の中心が青く輝く――魔力が暴走し外界を侵食する。

「この、光は―――」
『……彼女の魔力だ。だが、これは……』

 彼女を中心に吹き荒ぶ青い魔力。
 魔力光が示す通りにそれはギンガ・ナカジマの魔力そのもの――だが、デスティニーと同じくシンにも
違和感があった。

(何だ、この量は……?)

 吹き荒ぶ魔力。カタチを持たないただ垂れ流す“だけ”の魔力。だが、ただ垂れ流すだけでありながら、
付近一帯に疾風を吹き荒ませていく。
 莫大な量。シン・アスカよりもさらに膨大な――それこそ八神はやてにすら匹敵しかねない馬鹿げた量。
 以前のギンガの魔力量はどんなに多くとも精々がシンと同じかそれよりも僅かに少ないくらいだった。
 だが今、彼女の肉体から噴き出ている魔力はそんなレベルをはるかに超越している。
 魔力量だけで見れば、AAAランクを超えて、SSランククラス――明らかに異常だ。以前のギンガの
魔力量を超越しすぎている。

「違う……違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う」

 呆然と荒れ狂う魔力の中心で機械仕掛けの人形のように呟き続けるギンガ――そして、彼女の
周りを荒れ狂っていた布が一つにまとまっていく。
 それは先ほどの蛇のような姿をさらに巨大化したような――本当の、布で出来た大蛇。
 大蛇の瞳が紅く光る――弾け飛ぶ。右腕に寄り集まる大蛇のなれの果て

「わたし、じゃ、無い……私はこんな風に笑えない、こんな風に怒れない、こんな風に泣けない、
こんな、こんな―――こと、なんて、どれも、できない、のに」

 彼女が右手を掲げる――弾け飛んだ布が集まり、幾条もの布――刃/螺旋杭/糸を形成していく。
 ごくり、と知らず唾を飲み込んだ。
 馬鹿げた量の魔力を注入し、馬鹿げた大きさと量に増大していく布布布――群れを成す蛇のごとき姿。

「ギンガさん……くそ、どうなってるんだ!?」
『来るぞ。』 

 呟きと共に後方に跳躍――それまでいた場所が粉砕した。彼女は右手を振り降ろしただけだ。
 そして、それに伴い布がその場を突き抜けた。
 それだけで目前の全てが粉砕された。爆発した。原形を留めないほどに破壊された。
 圧倒的な破壊力――それだけではない。

「デスティニー!!」

 デスティニーがその姿を変形。大剣から大砲へと。設定は非殺傷。この期に及んで傷つけずに戦う
など不可能かもしれないが――それでも傷つけることだけは許さない。
 狙いはギンガ・ナカジマの本体。先ほどの戦闘であの布が防御能力を持っていることは確認している。
 だが、今の彼女はその武器を着物ではなく、布――鞭のようにして使っている。彼女の身体を覆うの
は漆黒のボディスーツのみ。防御は薄い。攻撃するならばそこしかない。

「……ごめん。」

 謝罪の呟きと共に放つ朱い魔力砲。砲口から伸びていく一条の朱い光熱波。当たれば意識を刈り取る
程度は造作も無い一撃。彼女は攻撃に集中しており、無防備だ――この一撃で終われと願う。

「うわああああああああああ!!!!」

 咆哮する彼女。輝く蒼き光。そして、弾かれる朱い光熱波。荒れ狂う暴風。
 彼女は右手を振り回しているだけだというのに、抉り壊し弾き爆ぜていく世界。暴虐そのもの――だと
いうのに朱い光熱波は真っすぐに放ったシンの元へ向かって弾き返されてきた。

「なっ――」

 左肩から朱い間欠泉を噴射し、咄嗟にそれを避ける。
 一瞬の停滞。その一瞬で彼女は自分に近づいている――殺される範囲。暴虐する蛇の群れ。

 “脳髄が切り替わる”。

 目を見開く。大剣を両手で握り締め、その場から上空に跳躍。速度は最高速――付近は既に廃墟区画。
 一瞬でシンの周辺の瓦礫が砂塵と化した――エクストリームブラスト・ギアマキシマムによる搾取。
 加速した七倍速の世界。
 その只中にあって、その蛇の群れは、目標(シン・アスカ)を失うことなく追尾している――身体を捻り、回避。
 追撃は止まない。ギンガは足元のローラーブレードから道を生み出し既に上空の自分を追尾している。

(どうする。)


 退避は論外。目の前にいる女性は探し求めた大事な女性。今ここで奪い返さなければいつまた会えるか
分からない――そんな可能性よりも何よりも、シン・アスカの根幹が彼女を放っておけないと叫んでいる。
 泣いている。啼いている。涙は流していない。けれど、苦しそうな顔をして、叫んでいる――泣いて
いるのと同じだ。
 彼女が記憶を失ったことは辛く、悲しく、痛い。胸が引き裂かれそうに痛い。彼女が自分を知らないと
言う度に自分の心の亀裂はどんどんと大きくなっていく。
 だが――唇が釣り上がり笑みを形成。不敵に微笑む。

(だから、どうした。)

 心中で呟く/笑え笑え笑え。
 何のために此処まできた/彼女を取り戻すためだ。全てを置きっ放しにして此処に来たのは彼女を奪い
返す為だ。
 奪われた。だから奪い返す。
 何もおかしくはない。当然のコトだ――その為だけに此処まで来た。
 記憶を失っていようと何だろうと――記憶を取り戻す算段は彼女を手に入れてから考えれば良い。きっと
何か方法がある。物事に絶対などという確定は存在しないのだから。
 だから――自身の思考を“引っ繰り返す”。 

 彼女が記憶を失くしたコトが悲しい/それでも生きている。
 彼女が苦しむのが辛い/だったら奪い返して二度と泣かせない。
 彼女が生きているのがうれしい/それが真実だ。
 だったら――奪い返せば良い。 

 両肩、両腰、両膝、両足に短距離高速移動魔法(フィオキーナ)を形成。四方八方上下左右から襲い来る蛇の群れ。
 大砲を大剣に変形――右手で大剣を握り締め、左手で大剣から引き抜いた短剣――フラッシュエッジを握る。
 その暴風の中に自ら突進する/周辺から迫り来る蛇を受け止め、捌き、弾き、前進前進前進――止まるな進め突き進め。

(戦って取り戻す。)

 単純明快な一つの答え。いつだってそうやって勝ち取ってきた。だから、今回も――記憶喪失だろうと、
敵だろうと、どんなに強かろうと、奪い返す。
 近づけ近づけ近づけ―――損傷は無視/動けない致命傷で無い限り前進を優先。
 機械化する思考。冷徹と冷静の狭間――胸に燃える焔を絶やさず前進前進前進。
 彼女が叫ぶ――殆ど恐慌を起こしているかのように。
 それほどに恐れる意味が分からない/記憶喪失なんて言う常識外れの状況に置かれているのだ。意味が
分からなければ後から考えろ。
 近づいて奪い去って取り戻す。それが最も重要な事実であることに変わりはない。

「来るな……来るな、来るな、来るな来るなああああ!!!」
「うおおおおおおおおおおおお!!!」

 肉体が描く軌道は彼女への最短経路。一直線に彼女に向かって進み続ける。回転しながら、全方位から
迫る数多の刃や螺旋杭(ドリル)、糸、紐、を弾き捌き回避し―――耳が吹き飛ぶ。
 全て無視。いつも通りの再生に全てを委ねた命知らずの突進。
 彼女がその突撃に驚愕の叫びを上げる――その表情に心が痛む/それでも止まるな取り戻せ。

「来るなああああああ!!!」
「ふざ、け、んなああああああ!!」

 絶叫じみた咆哮。左手のフラッシュエッジを大剣の柄に設置――残る一本のフラッシュエッジを逆手で
引き抜き、加速/突進。
 更に数を増やす蛇の群れ――受け止めきれない/受け流す/押し流される――だから、どうしたと更に
全身の力を込めて突進。
 ――普通なら、ここで引くだろう。恐慌にいたり、狂ったように来るなと繰り返す彼女に近づくなど
普通なら絶対にやらない。
 だが、来るなと言われて近づかない程度の気持ちでここまで来ている訳では無い。
 そこにどんな理由があろうと、関係ない。
 覚悟なんて無い。あるのは欲求それ一つ。
 取り戻す。奪い返す。
 その過程にどんな障害があろうと――そんなもの全て関係無しに突破する。 

「俺は、ここまで、アンタとフェイトさんを追っかけてきたんだ!!今――今更諦める訳ないだろうが!!」
「そんなの知らない知らない知らない!!」

 彼女の叫びと共に更に蛇の群れが勢いを増していく――上空に飛翔。僅かに蛇の群れから身を離し、
同時に巨大斬撃武装を召喚――解錠。
 此方と彼方の中間から現出するモビルスーツサイズの大剣、アロンダイトビームソード。
 突如現れた巨大な剣――当然のごとく、それに向けて右腕から生える蛇の群れを振るうギンガ。

「私は何にも知らない――知らないんだからああああああ!!!」

 振り下ろす――蛇の群れがそれを受け止めようと亡者のように群がり集まり絡め壊す――現出を解除。
 受け止めることに集中した為に、広範囲に広がっていた蛇が一か所に集まっている――道が開けた/加速――突撃。
 巨大斬撃武装から、大剣を引き抜き、突進。全身に設置したフィオキーナを全て後方へ向ける。
 重力加速度も加味した全速は七倍に加速した感覚ですら制御しきれない――視界が後方に高速で流れていく。
 彼女の身体が迫る。フラッシュエッジを大剣に戻し、左手を伸ばす。
 蛇の群れは既に戻り始めている――それよりも自分の方が数段速い。
 絶対に奪い返す。二度と奪わせない。
 迫る。あと数m。
 迫る。あと僅か。
 彼女が振り回した右手を咄嗟に自分に向ける――僅かにこちらの方が速い。彼女が自分を迎撃するよりも
早く彼女を奪い返す――背筋に怖気。
 直感が逃げろと告げる/理性がそれを裏切って、もう数十cmの場所にいるギンガに手を伸ばさせよう
とする――背後から忍び寄る死の気配。
 デスティニーが咄嗟にフィオキーナを調整し、無理矢理、軌道を変える。
 直線から曲線、そして直線――ギンガを迂回するようにして、彼女の背後十数mにまで後退。

「デスティニー、お前何勝手に……!!」
『上を見ろ。死ぬつもりか。』

 その言葉に釣られて、上空を見る。今しがた感じた死の気配を放った誰か――それが誰かを確認するために。
 自分の邪魔をした誰かを睨みつける為に。

「そこまでだ、シン・アスカ。」
「……誰だ。」
「クロノ・ハラオウン――君たちに依頼をした人間……いや、君にはこう言った方が分かりやすいな。」

 二杖を携えた漆黒の魔導師がシンを見下ろしている。

「君に惚れた女の家族だ。」

 感情を感じさせない平坦な声で男が呟いた。



[18692] 第四部ミッドチルダ風雲篇 67.再会と邂逅(d)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/06/02 17:17

「……あんたが、クロノ・ハラオウン。」

 胸の苛立ちと憤怒を隠す気も無く睨みつける。
 男はそんなシンの視線に怯える様子もなく淡々とシンを見下ろしている。
 左手に漆黒の杖――恐らくはデバイス。お伽噺に出てくる魔法使いの杖をそのまま機械化したような代物。
 右手に白色の杖――鋭利に研ぎ澄まされた白銀の刃を穂先にしつらえた槍のような代物。恐らくこちらもデバイス。
 黒髪と黒い瞳、更にはバリアジャケットも黒色――全身黒ずくめの魔導師。
 クロノ・ハラオウン、と男は名乗った。
 どこかで見覚えのある顔と名前だった。此処では無いどこか――それもつい最近、どこかで見かけたような――思い出す。

「……フェイトさんのお義兄さん、か。」

 ギンガ・ナカジマ、フェイト・T・ハラオウンの葬式で出会った男だった。あの時とは見た目も雰囲気も違い
すぎる為に直ぐには分からなかったが。
 あの時悲しみに沈んでいた瞳は何もかもを射抜くように鋭くこちらを睨みつけている。
 表情は無表情。滲み出す雰囲気は冷たい印象――黒ずくめの見た目も相まって悪魔のような印象さえ与える。
 男――クロノが呟いた。冷たく、冷徹に、感情をまるで籠らせずに。

「“柱”は殺さずに捕えろと伝えたはずだが。」
「……」

 ギンガが唇を歪め、自分の右腕の先から伸びる蒼い布に目を向ける。
 先ほどまで暴れ狂っていた蛇の群れには水色の矢――恐らく魔力によって作られたモノ――によって大地に
射止められていた。

「下がれ。その男の相手は君では無理だ。」
「っ……!!私が記憶を取り戻す為にはこの男を殺さなきゃ―――」
「“下がれ”と言ったんだ。これはお願いじゃない、命令だ。」

 クロノ・ハラオウンが右手に握った漆黒の杖を彼女に向ける。
 同時に彼女の足元から現出し、彼女の身体を絡め取る鎖の群れ――チェーンバインド。
 魔力が杖の先端に収束していく。

「撃たせたいか?」
「クロノ・ハラオウン……!!」

 漆黒の杖の先端に水色の魔力が収束していく――高い耳鳴りのような音が鳴り響く。
 何かが高速で回転しているような、甲高い音。収束は止まらない。輝きは先ほどよりもより鮮明に、音は人の
可聴域をはるかに超えた超音波に――大気が震え、地面が振動する。
 ギンガの顔色が変わる――それがどれほどの威力の魔法なのかを理解しているからだ。
 布を動かそうとしても動かない――あの“矢”で射抜かれている間は絶対に動かない。
 下唇を噛みながら、込めていた魔力を霧散させる――同時に矢も霧散する。

「そうだ、下がるんだ、ギンガ・ナカジ――」

 その言葉を遮るように―――朱い光熱波がクロノに迫る。
 左手の白い槍を無造作に振り払う。その先端から水色の矢が生まれ、光熱波に向かって放たれる。
 接触――光熱波と水色の矢が溶け合うようにして消滅していく。
 刹那の沈黙――黒い瞳と朱い瞳が交錯する。
 クロノ・ハラオウンが口を開いた。

「いきなり、砲撃とは御挨拶だな、シン・アスカ。」

 瞳に力を込めて、クロノを睨みつける。
 こちらを睨みつける視線を全て燃やし尽くすように、視線で人が殺せるなら殺してしまえとばかりに睨みつける。

「ご挨拶なのはどっちですか……邪魔しないでくださいよ。」
「シン……アスカ、貴方、どうして……」
「あんたがいなくなると困るんですよ。」

 ギンガに向けて呟きつつも向けた砲口と視線は逸らさない。周辺からの魔力搾取は滞り無く稼働。
 放った魔力砲が消滅した理由はよくわからないが、恐らく何かしらの魔法だろう。それがどんな効果なのかは
分からないが、そんなことはどうでもいい。
 腹が立っていた。心底、腹が立っていた。
 いきなり現れてギンガを拘束してその武器を向けていることにも腹が立ったが――それ以上に自分の邪魔を
されたことが何よりも腹が立った。
 もう少しで取り戻せた“かもしれない”のだ。幻を見るほどに焦がれた人を取り戻せる寸前だったのだ。
 奥歯を噛み締め、歯軋りをして、それでも憤怒は治まらない。

「どうやら、僕の依頼の為に此処まで来た訳ではなさそうだな――まあ、当然か。」
「あんな罠同然の依頼にわざわざハマりに来たんですよ。感謝くらいして欲しいもんですね。」

 呟きながら、大砲を大剣に変形し、両の手で握り締め、構える。
 頬に浮かぶは獰猛な肉食獣の微笑み。邪魔をする者全てを薙ぎ払う悪魔の微笑み。
 そんなシンを見てクロノの視線が更に鋭く冷たく研ぎ澄まされる――緊張する空気。
 爆ぜる寸前の弦のように凍りついて行く。

「……それで、そのまま罠にハマってお終いか? お終いなら彼女と共に“連れて行ってやるが”。」

 クロノが右手の黒い魔法使いの杖を振るう。瞬間、虚空から飛び出る鎖の群れ。
 全身を縛りつけ、決して動けないように禁縛していく――鎖の数はさらに増え、ギシギシと全身を締め付けていく。
 笑みは、消えない。消えることなく――更に頬の歪みを増していく。

「……は、ふざけんな。俺はここまでその人を取り戻しに来たんだ。そっちこそ――」
『機能・光翼(システムヴォワチュールリュミエール)顕現。』

 搾取の糸が鎖を絡め取り、貪っていく――ひび割れ亀裂を作り砂塵と化して消えていく鎖――いつの間にか両膝の
横に浮かんでいた光刃――フラッシュエッジがくるりと回転する。シンの姿が?き消える。
 此方から彼方へと、次元を両断し、無限の超加速――光速移動の発動。
 次元両断跳躍開始。一瞬の視界の断絶。
 刹那、シン・アスカの肉体はクロノ・ハラオウンの背後へと移動/付近からの搾取とクロノのバインドそのものを
搾取することで実現した一度きりの切り札。
 クロノ・ハラオウンは背後に現れたシン・アスカに気づいていない――そのまま間髪入れずに大剣を振り被り、

「――俺の邪魔をしてんじゃねえよ。」

 振り下ろす。狙うは背中。一撃で意識を刈り取る――どれほどの強さであろうと奇襲の前には関係ない。
 形容しがたい違和感――軟質の固形物に放り込まれた感覚/全身が水の中に入り込んだ感覚/背後から何人もの
人間に羽交い絞めにされている感覚――その全てがない交ぜになった混沌そのものの世界に放り込まれたような錯覚。

(なんだ、これ)

 視界は変わらない。身体を操る感覚も変わらない。ただその“場”から受ける感覚が何か別物になっている――鈍い
金属音が鳴り響く。
 両手に感じるのは斬撃が成功した手応えではなく、金属と金属のぶつかり合う鈍い感触。
 漆黒の杖で大剣を受け止めている――その事実に、反応出来たことに驚きを隠せない。そしてそれ以上に“受け止
められた”ことが信じられなかった。
 通常の七倍の感覚加速を使用者に与える高速活動魔法エクストリームブラスト・ギアマキシマム。それほどの速度で
繰り出される斬撃は上昇する速度に伴い威力も常識外れな域に達する。
 非殺傷設定は継続している以上、死ぬことは無いだろうが――それすら高度な術者相手においてのみだ。魔法も使え
ないバリアジャケットも装備していない一般人ならば殺しかねない――だからと言ってやすやすと受け止められる類で
は無いのだから。
 クロノ・ハラオウンが左手に握る白色の杖を振り抜く――先端には氷結の刃が生まれている。
 咄嗟に後退。一瞬遅れて、シンがいた場所を通過する氷刃。
 瞬間感じる違和感/考えていたよりも氷刃と自身の距離が離れていない。追撃を封じる為に一旦しっかりと距離を
置くつもりだったのだが――舌打ちをしながら全身の魔力放出を制御し、全力で後退。
 距離が開く。追撃は止まない。クロノが両手を交差させるようにして右手に握る漆黒の杖をこちらに向けている。

『StingerRay』

 漆黒の杖から放たれる電子音の声――先端に生まれる光の弾丸。間髪いれずに発射。
 態勢を崩しながらの後退の最中に回避する余裕は無い/左手を突き出し魔力を収束し、炎熱変換圧縮展開。
 選んだ選択肢は迎撃――その光弾ごと後方のクロノ・ハラオウンを迎撃する。
 次瞬、朱い光熱波と光弾が激突。薙ぎ払えとばかりに更に魔力を込める。光熱波が更に太く強く大きく輝きを
増していく/爆発。押し返すことは出来なかった。
 近接射撃魔法パルマフィオキーナ。この魔法の原理はごく単純なもので、魔力を熱量に変換し圧縮、そして
指向性を与え放つ、ただそれだけの魔法である。術式などというものは一切無い。
 生まれ持った魔力変換資質と魔力の制御技術によって成り立つ単なる射撃。

 原理で言えば拳銃と同じだ。火薬によって生まれた圧力によって放たれる弾丸とさほど変わるものではない。
 だが、単純ゆえにその威力は込める魔力によって際限なく上昇する――砲撃クラスの威力を伴うほどには。
 意識を刈り取るどころか、単なる射撃魔法に過ぎない光弾程度消し飛ばす勢いで放った。
 だが、

「――僕の魔法と拮抗するとはな。」

 予想に反して威力は互角――消し飛ばすどころか、相殺される。
 僅かに驚愕。されど思考は止まることなく追撃を選択。乖離しつつ、絡み合う思考と行動。
 後退。左手をクロノに向ける。左手に魔力を集中/再度の炎熱変換魔力圧縮。
 魔力が収束し、朱い溶岩を形成――発射/拡散。

『目標補足。軌道修正。』

 再度放たれるパルマフィオキーナ。先ほどとは違う無数の朱い線の群れ。
 直線を描き、曲線を描き、螺旋を描き、多様な軌跡を描き、朱い光線がクロノに向けて押し寄せる。
 全方位、上下左右前後全てを覆う朱い光線の群れ。
 威力は低く決定打には決してならない――足止め程度になれば十分。目の前の敵などどうでもいい。
 そんなことよりも何よりも、直ぐそこにいる彼女を取り戻す方が先決だ。

「うおおおおお!!」

 加速する。視界が流れていく。ギンガは今も項垂れたまま動かないでいる。迫る、接近、大剣を握り締める、
彼女が自分に気づく。

「シン・アスカ……?」

 大剣を振り被り、彼女の身体を縛りつける鎖を切り裂く――布は未だ動かない。敵意が無いのかそれとも戦う
意思そのものが見当たらないのか。どちらでも構わない。

(どっちでもいい、今取り返さないでいつ取り返すんだ……!!)

 心中で咆哮。叫ぶ暇は無い。余裕も無い。迫る。迫る。近づく。左手を伸ばす。彼女がこちらを見た。
 蒼い瞳に映るモノは自分の知る輝きなのか、それとも知らない輝きなのか――悲しみも怒りも全部置き去りに
して、今だけは取り戻すことに専心する。
 彼女の左手が、自分に向けられる――こちらを攻撃する為の拳なのか、こちらの意思に応える掌なのか。

「ギンガ、さん……!!」

 手と、手が、絡み合う―――掴む。右手を真正面に向ける。
 魔力を収束解放全力全開ロケットの噴射の如き朱い炎が噴出し、加速した速度を一気に殺す/止まり切るはずも
ない――彼女が胡乱な瞳でこちらを見つめる。握り締める手は柔らかい。
 ようやく触れあえた手/絶対に離さない――両足の裏にフィオキーナを設置発射全力全開。
 脳が揺れる。視界が揺れる。衝撃が手を伝って彼女に伝わる。
 その右手から伸びる布が衝撃に反応して、自分に向かって突撃――無視。
 右手に込める力を強くする。呆然とする彼女の手を離さない。
 身体に突き刺さる布/刃、布/刃、布/刃――“接触の寸前、皮一枚だけを切り裂き逸れていく布”。
 激痛で離しそうになる手を奥歯を割れんばかりに噛み締めて、堪える。
 全身の速度を緩める為に炎熱の噴射は終わらない止まらない弾け飛ぶほどに強く――見る間に減速する世界。
 止まる。
 眼前にはこれまでで最も近付き、最も驚いた顔をした彼女がいて――思わず、顔が綻んだ。

「……これ、で。」
「……あなた、は。」

 全身を血塗れにした男が自分の手を掴みながら、笑いかける――スプラッタ映画にありそうなシーンだなと思った。
 その場合は自分がゾンビで彼女はゾンビになった自分の恋人役――現実と大した違いはない。
 馬鹿な考えが浮かぶ。
 そんな馬鹿な自分の考えとは別に彼女は今も呆然と自分を見ている――握り締めた手を強く自分の元に引っ張る。抱き締める。力強く。

「きゃっ」

 吐息が触れ合う距離。近く、誰の声も聞こえないほどに近く――何よりも近く。
 顔が近い。吐息が絡み合う。唇が近い――思わず、そこに自分の唇を触れ合せる。反射的――思考では無く衝動、
あるいは本能に導かれるようにして。

「!?」

 彼女の顔が近く、吐息が絡み合うどころか、混ざり合う。彼女は離れようとしない。
 ただ茫然とシン・アスカの衝動に巻き込まれて、その場に立ち尽くす――混ざり合う唾液と吐息。お互いの呼吸が
顔にかかって少しだけこそばゆい。
 そのままどれほど唇と唇が触れ合っていたのだろう。
 数秒――もしかしたら、数瞬程度かもしれない。正確な時間は分からない。
 永遠にも感じられるほどに長いようにも思えたし、刹那よりも短いようにも思えた――曖昧で不確かな感覚。 胸の中の
想いだけが真実――それこそ、衝動的に口づけをしてしまうくらいには。
 唇に熱を感じた。それが痛みだと理解するまでに数瞬――唇が離れた。

「痛っ…」

 絡み合った唾液が互いの唇の間でどこか淫靡に糸を引く――混ざり込む紅。唇から垂れる一筋の血。
 触れ合った異物(クチビル)を噛み千切った――衝動的なのか、紅が混ざり込んだ自分の唇を見て、彼女の呆然自失の
瞳に恐怖が舞い降りる。
 唇を奪われたことへの恐怖――怯えられて、それでもシン・アスカは止まれない。止まることなど出来ない。
 咄嗟に彼女が自分の胸を押して、離れようとする。
 それを、有無を言わさぬ力で抱き締めて、離れさせない。例えるなら、蛇が自身の身体を絡ませて獲物を捕獲するかの
如く――決して離さないと、抱き締めた。
 どちらともなく目を向けた。朱と蒼――瞳と瞳が絡み合う。
 思わず、頬が綻ぶ。蒼い瞳が見詰める自分は、衝動でやってしまったことを後悔するよりも、嬉しさに塗れて、微笑む。

「……は、はは。」
「いきなり、何を……」
「……勢い、です。」

 彼女の胸の中心に自分の額をこつんと当てる。額に感じるのは固い骨の感触。眼下に映るのは、いつか触れた双丘。
 何もかもが懐かしい――その全てが同じで、内実だけがまるで違う。それでも――それでも、こみあげてくるのは
悲しさよりも嬉しさだった。

「やっと……捕まえ、た。」

 安堵の言葉。思わずこぼれる笑顔。彼女は一瞬だけ、そんな自分を見るが、次の瞬間、その手を振り払おうと力を
込める――それでも布は動かない。金縛りにでもあったみたいに停止したまま、動かない。

「離して……離して、よ。」
「……嫌ですよ。」

 柔らかな彼女の感触を味わうように抱き締める――とくん、とくん、と聞こえてくる音。
 ゆるやかに上下する胸。感じる体温の温かさ。彼女が今ここで生きているという、生存の証左。
 柔らかな心臓の音/何か違和感を感じる――その肌の柔らかさに身を任せる。

「離して、よ。」
「もう、二度と、離したくないんですよ。」

 心の底からそう呟いた。安堵するように、息を吐き、そのまま抱き締める力を強める――布が蠢きだす。彼女が叫ぶ――泣きそうな声で。

「離して……!!」
「嫌です。」

 即答する。離すつもりはない。
 彼女が離してという気持ちは分かる。初対面同然の人間にいきなりキスされたのだ。
 叫びたくなるのも分かる――だけど、そんなことは知ったことじゃない。

「離して、離して、離してぇっ!!!」
「離しません……絶対に、離さない……!!」

 暴れる。布が、彼女が、刃が、螺旋杭が、紐が、糸が――デバイスと彼女が暴れ狂う。彼女を暴風の中心として世界が暴虐する。

「離してぇ!!」
「絶対に嫌です!!」

 泣きそうな声で彼女は自分の手を振り払おうと暴れる、同時に布も暴れる。
 叩きつけられる布刃/螺旋杭/岩塊――振り払おうとするも距離が近すぎる故に間に合わない、それ以上に彼女に刃が当たら
ないかと躊躇して刃の冴えが鈍る。

「離して、離して、離してええええ!!!」

 目を閉じて、その暴虐に耐える覚悟を決める――刃が食い込む/螺旋杭が抉る/岩塊が叩く――全て、当たらない。
 布が暴虐するのは地面だけ。皮一枚、髪一本、紙一重――それだけの隙間を開けて全て逸れていく。
 鼓膜が潰れそうなほどの激音轟音爆音。弾け飛ぶ地面。破片が踊り、バリアジャケットを叩く。
 巻き起こる暴風――舞い上がる砂塵が目に入り、目を閉じる――布が一枚、腕に絡み付く。
 それに何かを考える暇もなく、シンの身体が宙を舞った――掴んでいた手も拍子抜けするほどに呆気なく外された。

「な……!?」

 力は緩めていなかった。なのに、自分から外したかのように、手がいつの間にか離れていた――気がつけば視界が急転していた。
 空中で身体を捻り、無造作に宙を舞った身体を制御し、着地。距離が離れた。離さないと言ったのに、離れた。

「くそ……!!」

 毒づき、近づこうとする――だが、布が結界のようにシンの眼前の地面を殴り付けた/動こうとした足が止まる。
 不用意に近づけば一瞬で肉片になる――そんな確信/けれど殺されないという確信も同時に存在する。
 一瞬の迷い。近づくべきか、近づかないべきか。
 彼女が叫ぶ。その迷いを突くように。

「近づかないで……来ないで、来ないでよ!!!」

 その言葉で覚悟を決める。大剣を両手で握る。踏み込む。迫る暴虐に突き進む。
 受ける捌く弾く進む流す進む――足を止めない腕を止めない突き進む。

「嫌だって言ってるんですよ!!」

 踏み込む。上空から迫る暴虐――群れる蛇。刃の如き顎が自分を狙って迫り来る。
 暴虐は明確な拒絶の証――だが、知らない。知るものか。そんなこと一切合財関係無い。

「記憶が無いっていうなら、俺がどれだけでも作ってやる――何も無いっていうなら俺が全部くれてやる!!!」

 地面と水平にスライディングのごとく跳躍――突撃の最中、肉体を旋回させ、上空から迫る全てをすり抜け、残った全てを
斬撃で迎撃。
 ガガガガガと甲高い音が鳴り響き、付近の瓦礫や砂塵を衝撃波が吹き飛ばしていく/右肘を地面に叩きつけ、反動を活かして
上空へ跳躍。その際に身体を反転させ、地面と向き合う方向に/蛇の群れがこちらを狙って接近――左手を大剣から離し
パルマフィオキーナを発射、拡散、数十条に拡散した朱く細い火線が蛇の群れと接触/火線が蛇の群れに捌き弾かれあらぬ方向に飛んでいく。

「俺が全部あんたにくれてやる、だから……だから!!」

 数十条の火線が一瞬だけ堰き止めた蛇の群れ。その隙間を縫うようにして襲い来る残りの蛇の群れ。
 向かう先を守るように蛇の群れが/目標=ギンガ・ナカジマを守るようにして――黙れ突破突破突破突破―――!!!

「だから……!!」

 接近、加速、高速移動魔法の数を更に倍加。速度は等比級的に増加。制御限界領域を突破。知るか、限界を超える
程度で取り戻せるなら何度だって超えてやる。

(何度だって……!!)

 彼女が教えてくれたように――馬鹿みたいに繰り返した基礎。
 その結果として彼女を取り戻せるというのなら――
 蛇の群れの内の何匹かが身体に突き刺さる――止まることなく、突き進む。突き刺さった姿を見てギンガの顔に
浮かぶ驚愕――そんなの全てどうだっていい。
 眼前。目の前には、愛してやまない、夢にまで見た、焦がれ続けた女の泣き顔。

「俺があんたを守る――ずっと、あんたを守ってみせる。」

 手を伸ばす。蛇の群れが止まっている。主が近すぎるからか、それとも単純に“攻撃しない”のか。

「だから、俺と一緒に、来てくれ。何も無いなら俺が全部くれてやる。絶対にあんたを一人にしない。絶対に―――」


 あの時出来なかった――これまで出来なかった全てを撥ね退けて、
 伸ばした手をさらに伸ばして、彼女の手に重ねる。
 彼女の気持ちなんて知らない。
 シン・アスカが守りたい。絶対に譲れない。それだけは譲らない。 

「キミを守るから。」
「私、を……まも、る。」
「――悪いが、“その子”は、渡せない。」

 上空のクロノ・ハラオウンを見る――既にこちらの放ったパルマフィオキーナは消され、睨みつけている/上等だ
と睨み返す。

「嫌だね。もらってきますよ、この人を。」
「渡さないと言った……!!」

 漆黒の杖を振るう。再度現れる鎖の禁縛――自分と同じくギンガも禁縛――あるいは拘束していく。
 搾取開始。
 鎖を砂塵に、彼女は無傷に、付近を砂礫に――全てを自分の一部として、同一化。魔力増加。
 漆黒の魔導師――クロノ・ハラオウンが白銀の槍の先端に氷の刃を作り出す。
 降下。加速。速度は高速。通常であれば決して捉えられない神速領域。
 握り締めた彼女の手を離す――寸前できつく握り締めた。

「……絶対に渡さない。絶対に。」
「シン・アスカ……。」

 彼女の手から自分の手を離す。
 大剣を握り締める。反転。背後の死角から自分を狙う白銀の槍――その先端から伸びる氷結の刃。そしてもう一方の
手が握り締めた漆黒の杖。
 氷刃に自身の握り締めた大剣の刃を叩きつけた。漆黒の杖に大剣から引き抜いた短剣を叩きつけた。
 鍔迫り合いの衝撃波が波紋となって大気を揺らす。

「貰ってくって言ったんですよ!!」
「二度は言わないと言ったぞ、シン・アスカ!!」

 それまでのような無表情ではなく、感情の籠る表情――込められた色は憤怒。その憤怒の意味には心当たりがある。
あり過ぎると言ってもいい。
 何せ、自分は彼の家族を守り切れずに殺した――実際は生きていたが、知らない人間からしてみれば同じだ。
 憎まれるのは正当だ。憤怒を抱くのは正当だ。許せないのは正当だ。
 だが、だからと言って――その正当を受け入れて、言われるままになれるかどうかは、“別の話だ”。

「上等だっ……!!」

 呟きと共にシンがその氷刃を弾き、左手に握り締めた短剣で漆黒の杖を押さえつける。
 クロノの態勢が崩れる。躊躇わずにシンが踏み込んだ。
 右手で大剣を振り下ろす/シンの全身を覆う先ほどと同じ違和感。構わず振り抜く。回避される――外れる。
 違和感を気にすることなく、更に踏み込み、短剣を首筋に向けて振るう。
 クロノがその一撃を首を捻って回避する/後ろに倒れ込む勢いを利用し、身体が独楽のように回転。
 左足が跳ね上がり、それに追随する形で右足が跳ね上がる。左回し蹴りから、後ろ回し蹴りへの二連撃がシンの首筋を
断とうと迫る――背筋を逸らし、その二撃を回避。
 互いに態勢が崩れるも、攻防は止まらない。二連の蹴りの勢いを利用してクロノは態勢を整え、ギンガ・ナカジマと
シン・アスカの間を立ち塞ぐ。
 シンの思考が加速する。速度では勝っている。だが、クロノには何か明かされていない手札がある――それが何か
分からない。戦闘において未知なる一手と言うのは如何なる時でも切り札となる。
 逡巡している暇は無い。躊躇している暇もない――構わず踏み込む。どんな一手であろうと、自分は耐えきれると
いう算段――再生するというアドバンテージを活かす選択。

 大剣の柄に短剣を収納。両手で握り締め、踏み込む。
 違和感が身を覆う――クロノ・ハラオウンの周囲に“立ちこめている”違和感。
 斬撃の連鎖を開始――付きまとう違和感が何であろうと、突破することに違いは無い。
 どの道、突破しなければ彼女は取り戻せない――邪魔するな、と心中で呟き、大剣を振るった。
 袈裟斬り/受け止められる――構わず、刃を跳ね上げて逆袈裟/受け止められる。
 斬撃は止まらない。止まることなく繰り返す繰り返す繰り返す/受け止められる受け止められる受け止められる。
 シンは構わず突き進む。速度のアドバンテージは揺るがない。威力のアドバンテージも揺るがない。

 態勢を崩さない万全の態勢で受け止め、弾き、捌くクロノ。
 万全の態勢で受け止められなかった瞬間、攻撃は届く――攻撃が吸い込まれるようにして、クロノが携えた二杖に
受け止められていく。
 以前のラウ・ル・クルーゼと同じ――いや、何かが違う。だが、その違いが分からない。視認出来る結果は以前と
同じく完全防御。
 つま先を地面に当てて、足元の瓦礫を蹴り上げる。跳ね上がる瓦礫――アスファルトの破片。顔面狙いでは無く
単なる目くらまし。その瓦礫の軌道と交差するように大剣を振るう。左から右へ抜ける横薙ぎ。
 一歩引いて紙一重の差でその横薙ぎを回避するクロノ。
 回避されることは予想通り。
 一歩引いた態勢は上半身が伸び切り、それ以上の回避――上半身だけを動かした最低限の回避を許さない。
 返す刀で先ほどと逆向き――振り抜いた反動を活かして、右から左へ抜ける横薙ぎ。受け止められた。
 クロノの態勢が崩れる。シンの身体は止まらずに動き続け、斬撃の連鎖を起こし続ける。
 大上段からの打ち下ろし――受け止められた。交錯する刃と杖。
 体重をかけて、杖ごとクロノを地面に押し込む――押し込ませずに受け止め後方に流すクロノ。

 “流される勢いを利用して”身体ごと受け止められた点を支点に跳躍。クロノの頭上を通り抜ける/死角への侵入。
 頭上には僅かに死角が存在する――彼が振り向き、こちらを捉える前に二本のフラッシュエッジを同時に投擲。
 内から外へ――そして、外から内へと戻り来るフラッシュエッジ。
 クロノの上空から、振り返った後の背後へと、死角と死角を結ぶように短剣が飛翔する。
 大剣を再度両手で握りしめ構える――大上段。地面に落下する、天と地が逆転した態勢で構えられた大上段は斬り下ろし、
ではなく、斬り上げの軌道を描く。
 同時三連撃。背後から二本の短剣が飛来し、前面下方からの大剣の一撃。
 補足の有無に関係なく、防御を無効化する、刃の檻。

「くっ……!!」

 うめき声をあげ、クロノ・ハラオウンは“視認すらせずに”その連撃を回避する――身を捻り後方からの二連撃を
回避し、前面下方から迫る斬撃を二本の杖を交差させて受け止め、その斬撃の勢いに逆らわずに後方に跳躍する漆黒の魔導師。
 回避しざまに、斬撃を放ち空中で無防備な隙を晒したシンに向けて、二発の光弾――スティンガーレイが放たれた。
 攻撃の瞬間は気が緩む。攻撃に集中し当てることに集中する一方、避けることへの集中が途切れるのだから
当然だ――歯を噛み締めて、全身の筋肉を緊張。顎を引いて、両手両足を丸めこんで魔力を集中、バリアジャケットの
防御を高めることだけに専心。
 爆発。両手両足が痺れ、骨の髄まで全身に衝撃が響く。脳が揺れる。視界が揺れる。地面が見えた。這いつくばるよう
にして、無理矢理受け身を取って着地。

「あ、が……!!」

 一連の攻防の後にうめき声をあげて這いつくばっていたのはシンだった。
 息を切らして即座に立ち上がろうとするが、両手の痺れが大剣を取り落とさせる。
 クロノもまた攻め込まずに、膝を突き、息を切らして、シンを見ていた。
 その後方――大切な人が自分を見ていた。

「は、はは……!!」

 頬に浮かぶ亀裂は微笑み。
 痛む身体。途切れそうな意識。
 その只中にあって、ただただ笑う。
 不敵に、苛烈に、凄絶に。
 悪魔は微笑み、全てを奪う。同じく――彼も、笑いと共に全てを奪う。
 欲しいモノがある。ならば奪う。徹底的に。
 それは単純明快な一つの真実。
 四つん這いになった状態から突進。
 四足で立つ獣の如き態勢から全身を屈伸させて跳躍。速度は変わらず高速。追随するクロノ。

「邪魔すんなって言ってるだろうがっぁ!!」
「行かせないと言ったろう!!」

 大剣と二杖を打ち合う―――刃と鋼がぶつかり合い、火花を散らす。
 二度目の鍔迫り合い。動かない――停滞は一瞬。打ち合い、金属音と火花が舞い散り、夜の世界を赤く染める

「どうして――」

 どうして、あの男は戦っているのか。
 どうして、あの男は自分にキスをしたのか。
 どうして、あの男は自分のことを好きだなどと言ったのか。
 分からないことだらけだ――記憶の無い自分にとって、世界など正体不明のモノでしかない。

「どうして――」

 自分を好きと言った。
 惚れていると言った。
 取り戻すと言った。
 言葉の意味は分かる――けれど、まるで理解出来ない。
 文字通り血眼になり、彼は咆哮を上げながら戦い続けている。
 けれど、それは――自分に対してではない。
 胸がドキドキする。“初めてのキス”の影響だ――それも、自分に向けたモノでは無い。
 それらは全て、自分では無い、誰かに向けたモノ。

「……私、は。」

 爆発音。立ち上る噴煙。その中心から剣と杖を打ち合いながら、吹き飛んでくる二つの人影。シン・アスカとクロノ・ハラオウン。
 それを止めるでもなく、眺める自分――どうすればいいのかなんて、何も分からない。
 元より、それを知る為の戦いだ。それを知る為に、シン・アスカを殺そうとしたのだから。
 なのに――自分は、どうして、どうして、どうして。

 吹き飛ばされるシン――戦いの様相は五分五分。互いのバリアジャケットは所々が擦り切れ、傷だらけ。
 共に息を荒くしながら、対峙する朱と黒の魔導師――表情だけは対照的に、シンは笑みを浮かべて、クロノは無表情で、
互いに睨み合う。

「どうして……私、を」
「――貴女は知らなくても良いことです。」

 いつの間にか、彼女の背後に誰かがいる。
 漆黒の拘束服――そこに脊髄を沿うように存在するジッパー。
 全身に存在する、関節部では無く、その繋ぎ――二の腕や太股の中腹、脛、腹部、首――に肉体を締め付けるようにして
存在する黒鋼のベルト。
 明らかに腕よりも細く、締め付けると言うよりも千切り取ろうとするかのような姿だった。それでも声に痛みは無い。
 手に持つ漆黒の長杖と両端に付けられた鎖がその異常を際立たせる。
 それは異常な姿だ。本来なら千切られる寸前であろう四肢と一部の隙もないほどに“顔面を隠している拘束服”。
 明らかに内部から外部を見ることなど出来る筈もない。なのに、ソレは見えているかのようにギンガの横に並び立つ。

「一号、あなた……」
「余計なことを考えなくてもいいんですよ、フロイライン。貴方はただ戦うだけの人形なのです。」
「私、は。」
「記憶のない貴女に魂などあるはずもない――ラウもそう言っていたでしょう?」
「……ええ。」
「思考は拳を鈍らせます。貴女は一度下がるべきです――あの男を殺す機会はラウがまた与えてくれます。」

 話をする二人の眼前では、クロノとシンがぶつかり合い、弾き合いながら戦い続けていた。
 鍔迫り合いの状態から押し負けて後方に弾かれたように下がるクロノ――シンは右手を彼に向けて先程放った拡散型の
パルマフィオキーナで追撃。朱い数十の光条がクロノを囲むようにして追尾する。
 数多の光条を下方に逃げることで回避する――速度を上げすぎたせいか、地面に足を滑らせながら着地。光条が全て
地面に着弾し、道路が砕き散って、粉塵が舞い散った。
 すかさず、返しの一撃――クロノが漆黒の杖をシンに向ける。
 現れる総数13発の光弾――無誘導射撃魔法スティンガーレイ。5発で高町なのはのディバインバスターと拮抗する
威力を誇るソレが13発生成されている。

「余計なことをするな、一号……!!」
「その余計なことが必要な状況では無いのですか?」
「黙れ!!」

 クロノが叫ぶと同時に、スティンガーレイがシン・アスカに向けて一直線に突き進む。
 放たれた光弾を視認するとシンは即座に大剣を大砲に変形。
 多頭焔犬(ケルベロス)によってそれらを撃ち落とす/爆発。
 立ち昇る噴煙を突き抜けて、シンが降下し迫る。
 クロノが二杖を構え、それを迎え撃つ為に、新たに魔法を構築する。
 一号と呼ばれた男がそこに声をかけた。楽しげな調子で――どこか、無邪気な子供のような風情を感じさせる声音で。

「ああ、そうだ。言い忘れていましたが――」

 顔は見えない。なのに、その頬が歪んでいると理解する。嗤っていると思える声。
 ギンガ・ナカジマの根幹を揺さぶる“創造主と同じ声”。

「二号と三号も既にこちらに来ています。」
「何……?」

 呟きながら、クロノはシンに向けた視線を外さない。外してしまえば一瞬で意識を刈り取られる恐れがあるからだ。
 迫る男の振りかぶった大剣は焔を纏い、朱く赤熱している。
 ここまでの戦闘で非殺傷設定を継続していることは確認したが――だからと言って、その攻撃の危険度が消えた訳ではない。
 あれだけの速度と威力によって発生する攻撃は非殺傷設定であろうと肉体に甚大な損傷を与えかねない――自分の、
クロノ・ハラオウンが使用する魔法と同じく。

「だああああ!!!」

 絶叫じみた咆哮と共に振り下ろされる大剣。それを迎え撃とうと両手のデバイスに魔力を流し込もうとした、
その時――彼の左側から伸びる白色の鎖がその身体を絡め取った。
 エクストリームブラストの搾取の影響下でも存在を誇示し続ける鎖――それは魔力で編まれた鎖ではなく、
実体をもつ鎖だ。
 シンの朱い瞳に力が籠る。唇を苛立たしげに歪ませ、力任せにその鎖に手をかけた。

「邪魔だあああ!!」

 咆哮と共に引き千切り、再度突撃を敢行―背筋に怖気/SEEDによって与えられた付近全てを自身のモノとして
知覚が告げる感覚。反射的に左方向に急速離脱。
 瞬間、大気を焦がし、シンがそれまでいた場所を貫く黄金の光。

「次から、次へと……!!」

 次から次へと現れる自分の邪魔をする者たちに対して、苛立ちと焦燥が募っていく。
 見れば、ギンガの付近にはそれまで見たことも無い人間がいる。
 あちらの目的は明白だ。ギンガ・ナカジマを連れ戻されては困る――どういう理由かは知らないが、シンが
ギンガを連れ戻すことを邪魔してくるのはそういう理由だろう。
 ならば、今ギンガの近くにいる人間も同じく、こちらの邪魔をするか、ギンガ・ナカジマを保護しようとするだろう。

 ――黄金の光が消えることなく、巨大な刃のように、シンに向かって、突撃する。 

 大剣を力任せに降り抜いた。

「邪魔するなって、言ってるだろうがぁっ!!」

 大剣でその巨大な光刃を受け止め、弾き飛ばす。巨大な光刃――よく見ればそれは斧の形をしている――が、
ぐらりと揺れて、後方に倒れこむ。
 視線を斧が倒れこんだ方向に向ける。見れば二人の男がいた。姿かたちはギンガの近くにいる男と同じような姿。
 違いがあるとすれば、その服装の肩の部分に赤い文字で一人は「2」、もう一人は「3」と書かれていることくらいか。

「こいつらは……」

 ――脳裏に入り込む“見たことのないイメージ”。イメージは断片的で要領を得ないモノばかり。
 見えるモノは手術台と光に照らされる誰か。
 そして、その手術台に並び立つ白衣の男共。
 メスなどの誰でも知る器具だけではなく見たことのない――というか想像したくもない――ノコギリやハンマー、
ハンマドリル、ピック等のおよそ人に使ってはいけない類の道具によく似ている。

「くっ――!?」

 これまでに感じたことの無い感覚。同時に湧き起こる頭痛/強制的に意識に送り込まれる痛みという名の空白(ブランク)。
 突然の頭痛が動きを阻害する。
 引き千切った鎖がその数を増やす。
 一本だけではなく四方八方から何本も何本も、腕を、足を、首を、身体を捕縛する。
 うめき声を上げた時にはすでに遅い。
 空中に磔にでもされたように縦横無尽に肉体を緊縛する鎖に捕えられ――地面に向けて叩きつけられた。
 咄嗟に、歯を食いしばり、受身の態勢を取った。
 だが、気付いた時には何もかもが遅すぎた。
 地面が迫る。
 轟音と衝撃が耳を叩いた。全身が揺れた。瞳の奥で火花が散った。意識が一瞬途切れた。
 意識も視界も何もかもが真っ白になっていく。

「あ、が……。」

 叩きつけられ捕縛された状態で静かに虚ろにその場で磔にされるシン。
 鎖の禁縛は緩まない。今も四方から彼を引っ張り続け、拘束し続けている。
 そこに二人の人間――体つきからして恐らく男――が近づいていく。

「……こ、の」

 捕縛されたまま無理矢理身体を動かし、下から睨みつける。
 一人は槍斧を携えた人間――体つきから見て恐らく男。細身の体に不似合いな巨大武装を携えている。
 一人は鎖――というか鞭なのだろう、これは。太鼓のバチのような取っ手の先から延びる鎖がそれ自体が意志でも
持っているかのごとくシンを締め付けている。

「……」

 無言で槍斧を持った人間が近づいてくる。
 咄嗟に身体を動かし、鎖の捕縛から身体を抜け出させようとする――ズキン、とこれまでで一番の頭痛が響き意識が
喪失し覚醒する。

「あ、ぐ……!?」

 右手の疼きと共に沸き起こる脳髄の奥から右目を突き抜けていくような痛み。心臓の鼓動と同じように振動し、
ズキンズキンと全身の動きを阻害/停止させる。
 ざわざわと右手を中心に疼き出す痛み――というよりも胎動。それは“あの時”を思い出させる痛み。
 腕から“生える”小さな黄金の羽根。触手のように、樹木のように、天に向かって伸びていくバケモノの翼。
 一瞬で何百回も覚醒と気絶を繰り返すほどの凄絶な痛み。
 その果てに、あの時、彼の身体は人間ではなくバケモノ――羽鯨になろうとしていたのだから。
 その感覚はあの時を容易に思い起こさせるモノだった。

「ぎ、ぐ……!!」
「……。」

 鞭を持った人間が近づいてくる。
 痛みを堪えながら無言で――というよりも言葉を放つ余裕が無い――そののっぺらぼうのように穴の無い顔を睨みつける。
 打ちつけられた身体は問題なく――頭痛こそ酷いが、動く。手も、足も、腕も、どこにも問題はない。
 なのに、身体を動かすという機能と脳髄が切り離されたとでも言うように、まるで動けない。
 いや、正確には――動かそうとすると脳髄に火鉢を差し込まれるような激痛が走って動けないのだ。
 開きっ放しの口から涎が垂れ落ちた。鎖で縛られていない手足を動かし、芋虫のように身体を動かしていく。

「はっ、はっ……はぁっ…あ、ぎゃ、ぐ!?」

 それだけで――死んだ方がマシなほどの激痛が走った。

『……堪えろ、シン。共鳴はもう終わる。』

 僅かにデスティニーの声が上ずっている。予想外の状況に戸惑っているのだろう――かくいう自分もこの状況に困惑していた。

(ま、だ、余裕は、あった、はず、なのに。)

 喪失と覚醒を繰り返す意識の中で思考を繋ぎ止める。
 そう、“こうなる”ことは予想していた。
 “何が”、“どうなって“、”どうなるのか“、などという具体的なことは何一つとして分かっていないが、それでも
何かがおかしくなることは理解していた。
 だからこそ困惑する。こんな早くこんなことになるはずがないのだ――自分の身体のことだ。自分が一番よく知っている。
その感覚はもっと先のことだと告げていた。

 ―――おかしくなるのは、もっと先のはずなのだ。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」

 荒く息を吐きながら、意識を繋ぎ止めることだけに集中する。
 共鳴――デスティニーは共鳴と言った。
 胡乱な意識の中で必死にその言葉に思考を巡らしていく。

「―――同化現象。」

 声が聞こえた――男の声だ。どこかで聞き覚えのある、忘れようのない声。

「羽鯨に見染められた“無限の欲望”だけに起きる人間がニンゲンでなくなっていく現象――同化現象と呼ばれる現象。
その中にあって、ニンゲンはいつか羽鯨の眷属ではなく同属と化していく。」

 謡うように言葉が紡がれていく。
 声の調子は軽やかに、楽しげに、緩やかに―――男の声が紡がれていく。

「まさか、ここまで効果があるとは思いませんでしたよ。我らとは“違う”存在だというのに、これほどに共鳴するとは。」

 聞きたくない声。忘れたくない声。忘れようのない声。
 少し前、エルセアで聞いた男と同じ声―――ラウ・ル・クルーゼの声。

「ラウ、ル……クルーゼ、か。」 
「くく、いえいえ、私は彼とは違いますよ。」

 目を向ければそこにいたのは三人の拘束服姿の男共がいた。
 先程から喋っているのはその内の一人で、後の二人は後方でじっと沈黙を続けている。

「安心してください、君の浸食の限界はまだ先だ。その痛みもすぐに消えます。 今回はただ、共鳴しただけですよ、
私たちと、ね。」
「わたし、たち……?」

 ただ与えられた問いに答えるだけのオウム返し。返答に意味などない。ただただ繰り返すだけ――何も考えることも出来ない。

「一号、とお呼びください、シン・アスカ―――いえ、異郷より現れし無限の欲望とでも呼ぶべきでしょうか?」

 慇懃無礼そのものと言った口調で男は続ける。

「お、ま、え……」
「クジラビト―――味気の無い名前ですが、それが私たちの呼び名です、シン・アスカ。」
「くじ、ら……あ、があああっ!?」

 鎖の禁縛がさらに強くなり、肉に食い込み、骨が砕けた。
 リジェネレーションによる再生は今も継続。死にいたる事はない――だが、頭痛が酷く身体を動かすこともままならない。
 絶体絶命――そんな言葉が浮かんだ。

『再起動開始。活動再開まであと180秒。』

 デスティニーの念話が聞こえた。

「おれ、をどうする、んだ。」
「さあ? 私たちは与えられたことを遂行するだけの駒でしかありません。今現在の目的は貴方にギンガ・ナカジマを
渡さないことと、生き残ること――それだけです。」
「―――ギンガさんを、どう、する、つもり…だ。」
「今は戦ってもらうだけです――そして、いずれは死んでもらいますが。」

 死んでもらいます、と男が言った瞬間、ビキ、と脳髄の中の致命的な何かにヒビが入った。

「……殺すってことか。」
「彼女にはこの世界を救う“聖女”になってもらいます。」
「聖女……」
「彼女は世界を救って死ぬのです――純粋無垢で、清廉潔白な、真なる聖女として、彼女は捧げられる。」

 男の口調に熱が入り込む。幸福を甘受することを喜ぶ――狂信者の口調にビキビキ、と脳髄の中の致命的な何かが壊れていく。
 暴力的な衝動に全身が支配されそうになるのを何とか堪える。

(……まだ、早い。)

 今、この男は何を考えてか、重大な情報を伝えている。
 ギンガ・ナカジマの記憶を消し去った理由と、自分の邪魔をする敵――その敵の目的を得意げに語っている。
 今すぐに掴み掛かりたい衝動を抑え込み、必死に耳を傾ける。

「どうやって、世界を救うんだ。」
「……くくききき、聞き出そうとしているのが見え見えですよ、シン・アスカ。」

 その返答に、一瞬、頭が沸騰してブチ切れそうになるが、必死に自制する。

「……。」
「いいでしょう、教えてあげますよ。 どの道、隠すほどのことでもありませんし……それに“もう止められない”。」

 まるで、与えられた玩具を自慢する子供のような口調で男は語り出す。
 ラウ・ル・クルーゼの声に合わせられる無邪気故に残酷な子供の口調。

「一月後、ギンガ・ナカジマは、羽鯨の受肉するべき器となって、聖王によって滅ぼされる。」
「……なんだと。」
「高次存在である羽鯨をこの地平にまで落とし込む。そして、覚醒した“聖王の剣”のみが、受肉した羽鯨を殺すことが
出来る――それで世界は救われます。」

 その言葉で、撃鉄が落ちた。

「……あの人を、殺す、ってことか。」
「人聞きの悪い、犠牲と言ってください。」
「……へえ。」

 銃口に籠められた弾丸は覚悟――死すら厭わずに願いを叶える覚悟。
 身体を動かす。頭痛はまだ止まない。だが、知らない、知るものか。そんなこと一切合切どうでもいい。
 殺すと言った。
 殺すと言った。
 殺すと言った。
 それが、敵の目的――ずっと前から不明だった敵の目的。
 無作為に行われた襲撃。その影で苦しんでいた人々。目的は世界の救済だと聞かされた。以前はその為に自分を利用
しようとしていた。
 だが、今は――“彼女を使って”“彼女を殺して”世界を救うことが目的だと、目の前の男は言った。

「させると、思うか?」
「その鎖は壊せませんよ、いくら貴方でもね。」

 確かに男の言う通りだった。
 搾取によって本来ならこの程度の鎖は一瞬で崩壊させることが出来るはずなのに、まるで崩壊する様子が無い。
 何か、搾取を阻害する術式を刻みこんであるのか、その鎖は全く搾取を受け付けていないのだ。
 いつの間にか、頭痛は消えている。それでも、鎖が全身を拘束し、身体を動かすことを許さない――いかにシン・アスカ
と言えども、その事実は変わらない。
 だが―――頬笑みが浮かぶ。亀裂のような悪魔の微笑みが。

「何を笑っているのですか?」
「そりゃ、笑うさ。」

 右眼に――金色が集まる。朱い瞳が金色に染まっていく。

「……それを聞かされて俺がおとなしくしてると思ってるんだからな。」
「壊せないと言ったはずですが。」
「“知らねえよ”。」

 自分の中の根幹/最奥――深い、深い場所。

『……使うのか?』
『ああ――もう我慢するのは無理だ。』

 デスティニーからの念話に念話で対応する。
 そして、声に出して、言い放つ。
 滾る憎悪と憤怒を込めて――覚悟を決めて、呟いた。

「……命削ってでも、こいつらを、」

 殺す、と呟こうとして―――

『――死んでもらっては困るな、シン。』

 不意に、頭の中で声がした。
 涼しげな、以前に聞いたことのある――多分、自分よりも、デスティニーは絶対に忘れられない声。

『この、声は……』

 ――月光が輝いた。風を裂く音が聞こえる。空気の振動する音が聞こえる。布が棚引く音が聞こえる。
 振動が地面に伝播して震えている。
 見れば――漆黒の服装、そして“右足”を中心にして生まれた、夜空に輝く青い杭。
 それは円錐。右足を中心にして形作られる、独楽の如き円錐。
 三つの円が右足を中心に同心円状に連なり、ぐるぐると回転し、円錐の面を形成していく。

「隕石(メサイア)――」

 落下する岩塊のような円錐。上空から真っ逆さまに頂点を地面に向けて、地面を穿つように、潰すよう
に――右足を先頭にして、突貫するその姿は紛う事無く単なる蹴りである。
 だが、それはもはや“蹴りなどではない”。
 巨大な岩塊のような円錐が地面に向けて落下していく――その先端に人間の右足が突き出ているという
だけの姿であるそれが蹴りであるはずがない。
 それは隕石。空を彷徨い、星にひかれて落ちていく流れ星の如く、

「―――落としいいいいいいいい!!!!!」

 暴虐が舞い降りた。
 シンはただ呆気に取られてそれを見ていた。
 逃げなければなどと言った考えは全く浮かばなかった。
 なぜなら、その声は、その姿は――その声は、シンとデスティニー/レイ・ザ・バレルのカケラにとって、
忘れられない声だった。


『ギル……!?』

 前ザフトの長にして、シン・アスカが守れなかった、レイ・ザ・バレルが殺してしまった、一人の男。
 死んだはずの――地獄に落ちたはずの人間が、そこにいる。

「くっ、貴様!!」

 叫びをあげながらクジラビトが動く。自分の全身を捕縛する鎖と同質の鎖が上空に向かって疾駆する。
 幾重にも連なりながら鎖が円錐=岩塊の回転を止めようと迫る――叫びが走る。
 低く、渋みの聞いた声にて放たれる叫び。

「ハイネ!!」

 その叫びと同時に迫る鎖に伸びる、楔が連結した鞭――どこか、シグナムのレヴァンティンを連想させる
――鎖を絡め取り、捌いていく。
 円錐の傾きに沿うように、下方から迫る幾十幾百の鎖が捌かれ、軌道をずらされ、円錐の動きを止められずに
上空に伸びていく。
 鞭が伸びるのは円錐の中腹。落下する円錐と同様に落下している、オレンジ色の髪の男の手元の柄から。

「ハイネ……?」

 シンが茫然と言葉を放つ。事態の急展開についていけていない――事態は止まることなく突き進む。
 オレンジ色の髪をした男。服装はギルバート・デュランダルと同じく、黒いコートに黒いスーツ。
 遠目なので確実ではないが、その男をシンは知っている。
 昔、戦時中に死んだ男。僅かな間だけを共に過ごした、“戦友”――ハイネ・ヴェステンフェルス。
 茫然とその光景を眺めるシンを尻目に円錐は速度を速めて落下する。
 鎖を撥ね退けながら加速し重力に従って、その円錐=蹴りが、クジラビトに迫っていく。
 激突する。視界が一瞬で土埃で染め上げられ、何も見えなくなった。
 爆音が鼓膜を叩き、周囲の状況をつかませない。激突と同時に禁縛が解けていた。
 咄嗟に全身を亀のように縮こまらせて防御の体勢/爆風がシンを吹き飛ばす。
 知らず瞳を閉じていた――そして、爆音が消え、瞳を開けた。
 目の前には、一人の偉丈夫が背中を向けて、立っていた。
 長く艶やかな黒髪。以前は違う名前を名乗っていた。もしかしたらという疑念と、そんなことがあるはずが
ないという思い込みの中で、いつしか男のことは忘れていた。

「ギルバート……グラディス。」

 そう、呟くと、男が右手で仮面を外し、懐に収めた。

「―――今は、少し違うな。」

 見覚えのある――実際は見覚えのあるどころではない。自分のように“彼”に抜擢された人間にとっては聞き
慣れるどころか、耳に焼き付いて離れない――声が放たれた。
 口調は穏やか。生前の通りに優雅な口調で、彼は呟く。

「ギルバート・デュランダル。」

 それは運命の名前。唾を飲み込み、眼を見開いた。

「それが私の本名だ――君もよく知っている通りに、な。」

 物語が、動き出す。
 終わりの始まりが――世界を救う戦争が――女を取り戻す闘いが――幸せになる為の旅路が――今、始まった。



[18692] 第四部ミッドチルダ風雲篇 68.再会と邂逅(e)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/06/02 17:18

 ココロが忘れても、カラダが忘れない。
 感情を管理するのはココロだ。けれど、感情の根幹となる記憶を保管する場所は脳――つまりカラダだ。
 ココロは記憶を思い出すだけ。忘れることは出来ない。
 カラダは記憶を補完する。忘れるとすればカラダの欠損によってのみだ。
 だから、カラダは記憶を忘れない。忘れようがない。忘れたりなんて出来ない。
 ココロが休んでいる時、ココロが眠っている時――カラダはココロに思い出せと伝えてくる。
 夢で、幻影で、幻聴で。


「フェイトさん、これ。」
「ジュース?」
「ええ、何か飲んどかないと倒れますよ。」

 ■■はそう言って私にジュースを渡してくれた。
 最近、気がついたが、彼は気遣い上手というか、いつも誰かに何かをしている。私やギンガだけじゃない。
 他の誰にでもそうやって彼は優しくしている。
 初めはそれは好意の表れかと思っていた。私たちを仲間だと認め始めているのだ――そんな風に思っていた。
 けれど、それは多分違う。
 それは好意と言うよりも、どちらかと言うと奉仕に近い感じだった。
 感謝していると彼は言った。多分、本当にそう思っていたんだろう。
 感謝している――何に?戦わせてもらえることに。
 狂ったように戦いに懸けるココロを隠すでもなく晒すでもなく、それが当然とでもいう風に彼は佇み続ける。
 事実、それは当然なのだろう。
 彼にとって戦い続けることこそが普通で、戦い続けない日常など存在しない――彼の心の中を知った今は、本当にそう思う。
 彼は――■■・■■■は誰も見てはいない。ただ、そうやって戦い続けることでしか生きられない。
 本当はそんなことは無いと言ってやりたかった。ギンガも同じように思っていたはずだ。
 けど、私たちはそれを言えない。言えば、何かが変わってしまう。大事な何かが壊れてしまう――そんな確信が私たちの足を鈍らせていた。


 ――夢で見る光景は様々なモノ。


「■■は星座とか好きなの?」
「へ?……ああ、そんなんじゃないですよ。別に、星座とかはよく知らないですし。」
「……■■、お茶持ってきまし……何でフェイトさんがここに。」
「あ、あはは、な、何かギンガと■■がここに来るの見えたから、つい……」

 そう言い訳じみたことが勝手に口を吐いて出ていく――実際言い訳ではあった。
 別に付いてくる道理は無かった。
 二人がいつもやっている個人訓練に自分が入り込む必要もない。
 だけど、気がつけば、自分はここにいた。
 少し罪悪感を感じるココロ。
 カラダはそんなの関係無しに彼に向って近づこう近づこうとして、実際近づいてしまった。
 どうやら、頭で考えて止められるモノでもないらしい。
 私の言葉を聞いて溜め息を吐くギンガ。
 だが彼女にしてみれば、私のこの行為も予想の範疇だったらしい。

「……まあ、別に来たら駄目な訳って訳でも無いし……」

 屋上の地面にお茶を入れてきた魔法瓶の乗ったお盆を置くギンガ。お盆の上には湯呑みが三つ。

「それに、こんなこともあろうかと湯呑みは三つ持ってきてますし。」

 そう言って、笑う彼女。自分も笑う。
 ■■は苦笑しつつも不思議な顔をする。どうしてそんな予想が出来たのか分からないようだ。
 簡単なことだ。けれどその簡単なことは彼にとても難しい。
 きっと、言わない限りは気づかない。言わない限りは気づけない。
 答えなんて私たちの顔を見れば書いてあるっていうのに――彼は絶対に気づかない。
 だから、二人で声を合わせて呟いた。

「それは、」
「乙女の、」
「秘密です。」
「秘密だよ。」
「…………そ、そうですか。」

 何故か、唇を引くつかせた彼が印象的だった。


 ――彼とは誰だろう。その顔がどうしても思い出せないのは何故だろう。
 そんな不完全な幾つもの想い出がここにある。

 顔は見えない。声だってノイズ混じり。その上、全く聞こえない言葉だってある。
 おぼろげで霞がかった想い出。失ったモノ。かつてそこにあったのだろう記憶
 夢を見る度思い出す、胸を締め付ける痛切な想い。

 ――■■を守りたいと願った。
 ――■■を変えたいと願った。
 ――■■と一緒にいたいと願った。

 そんな想い出。
 忘れてしまうに綺麗すぎて大切すぎて、絶対に忘れられないと確信してしまうほどに大事な想い出――その裏で、何が起きていたのかを現実は教えてくれる。

 愛していたはずの子供を追い詰めた――きっとそれは私のせいだ。 
 愛していたはずの子供が裏切った――きっとそれは私のせいだ。
 愛していたはずの子供が変わり果てた――きっとそれは私のせいだ。

 本当に守りたかったモノは■■ではなく子供や仲間――だったはずだ。
 少なくとも“自分”はそう思っている。
 会ったことも無い■■などと言う男をそんな風に想ったことが一番信じられない――それを肯定するカラダ。ココロの奥底で自分は既に選んでい――それを否定するココロ。
 カラダとココロが乖離する。
 ■■に恋した過去の自分。それを失った今の自分。
 正常なのは今の自分。
 間違っていたのは過去の自分。
 そう、断定して、失った記憶を焼却したいのに――カラダがそれを許さない。
 思い出せ、想い出せ、と夢で幻影で幻聴で私にそう言い続ける。 

 世界は滅びる。だから世界を救う。 
 それが、今の私の為すべきこと。
 教えられたまま、疑いもせずにそれに没頭し続けて既に半年。
 初めは疑っていたけれど、カラダが訴え出してからは知らず知らず没頭していた。
 没頭することで、その間違いから目を背けていた。
 募る憎悪――自分と■■への。
 募る悲哀――自分とエリオとキャロへの。
 二つの感情が自分を壊す。けれど、■■と出会ってしまえば何もかもが壊れてしまいそうで。

 ――答えは出ない。何もかもが曖昧で答えの一つも見えてこない。

 夢が終わる――夢の終わりはいつも同じ光景。 

『――私が、死んだら、フェイトさんが■■をお願いします。』
『諦めちゃ、ダメ、だよ。何で、ギンガが、そんな』

 息も絶え絶えにそう呟く私に彼女はただ優しく微笑んで――

『本当は、私、■■に守られたかったんです。だけど――それは無理だから』

 涙と笑顔が混在する。
 泣き笑い。顔は笑って、心は泣いて、だけど隠しきれなくてにじみ出てきて何もかもが止められなくて。

『……その代わりに私は、守れる。あの人を。』

 その横顔が綺麗だと思った。絶対に失くしてはならないと思った。
 ■■もきっとそう思うに違いない――そんな確信さえあった。

『ギン、ガ……』
『そうだな、キミの犠牲によって世界は救われる――そう、あの男もきっと救われる。』

 声が聞こえた。
 耳に残る声――その内にどす黒い毒を抱く悪魔の声。
 ぶつん、と映像が切れた。
 途切れ途切れの夢。大事なことを幾つも幾つも連ねられた夢。
 
「……また、この夢、か。」

 瞳を開けば、既に見慣れた天井がそこにある。
 暗闇に慣れた瞳が捉えるモノは眠り続ける三人の少女。
 ティアナ・ランスター、スバル・ナカジマ、キャロ・ル・ルシエ。
 ここはメゾン・ド・ミネルバと呼ばれるクラナガンに幾つも存在するアパートの一つ。
 そして、ギルバート・デュランダルの住処にして、管理局を抜け出して、今も戦い続ける自分達が住まう場所

 ――これは、ある二人の女の恋物語。


「ギルバート・デュランダル……貴様……!!」
「……ハイネ、そちらは任せたぞ。」
「了解しました、議長。」

 クジラビトがその男に向けて呟いた。
 声に籠る感情は憎悪――邪魔をされたという憎悪。
 子供が自身の遊びを邪魔された際に浮かぶような稚拙な憎悪。
 それに構わずにデュランダルは右肩を前に出し右手を下げ、左手を口元に当てて構える。
 地面に右足を押し付けるようにして体重を右足にかけ、左足は僅かにつま先立ち――ボクシングでいうヒットマンスタイルに酷似した構え。
 両手を覆う手袋――ブーストデバイス・ナイチンゲールが紅く輝く。
 一号と名乗った男が杖を構える。杖の両端に設置された鎖が、音を鳴らす――振るう、伸びる鎖。
 先ほどシンを捕縛した鎖と同質のモノがデュランダルに向けて伸びていく。

「温いな。」

 空気を切り裂き疾駆する鎖に向けて、踏み込む。
 元々前傾だった姿勢が更に前傾に――右肩を前に出して鎖の左側に身体を滑り込ませた/そのまま回転、右手で鎖を掴んで引っ張り込む――左手を後方に伸ばす/同心円状の波紋が浮かび左手が虚空に吸い込まれ、“引き抜く”。
 引き抜かれた左手の五指に挟み込まれ、存在する四本の短剣――フォールディングレイザー・レプリカ。

「疾っ。」

 鋭い吐息と共に四本の短剣を投擲。
 同時にクラウチングスタートの如き前傾姿勢からの突進。地を蹴り、一号に迫る。
 流れ行く世界。
 機を感じ取る――視覚、聴覚、嗅覚、触角、味覚、直感、六感全てを駆使し、その行動の兆しを感じ取る。
 走り抜ける。接敵。一号が手に持つ杖でフォールディングレイザー・レプリカを払い除ける/その下から滑り込むように懐に入り込む。右手を握り締める――拳を作り、固め、弾丸とする。
 一撃――疾走する弾丸(コブシ)。短剣を払いのけることに集中させ一号はその弾丸を視認することもままならない。
 二撃――滑走する砲弾(コブシ)。右拳を開き、その服を掴み、吹き飛ぶことを許さない。右手を引く/左拳を伸ばす。めきり、と鈍い音を立てて左拳が一号の腹部に“突き刺さる”。伸縮性があるのか、拳が打ち込まれる度に服が拳の形を象って背部に穿ち抜かれる――それでも服は破れない。 
 三撃――同じ繰り返し。再度突き刺さる左拳。突き刺さるごとに、左拳が背面まで突き抜ける。
 四撃――連弾連撃。拳によって描かれる爆裂する弾丸着弾連鎖。
 五撃――腰が回る。左足に全体重を乗せて、加速するつま先。鉈の如き勢いで振り抜かれる左足。
 再度、鈍い音が鳴り響く――重いサンドバックを巨大なハンマーで殴った際に出るような音。
 続いて響く爆音。瓦礫塗れになった周辺に一号がめり込んだ音だ――瓦礫が爆発した。クジラビトがその瓦礫を弾き飛ばし、中空に浮かび上がる。

「……殺す。」

 一号の呟き。口調からは先ほどまであった余裕が綺麗さっぱりと消えていた。
 そして、消失した余裕の代わりに煮え滾る憤怒がそこにあった。
 邪魔をされたことが悔しいのか、攻撃を食らったことが悔しいのか、あるいはその全てか――恐らくその全てなのだろう。
 一号の口調からは自分達が負けるなどと言う予想はまるで感じられなかった。
 自信があるということだ――それがここまで見事に攻撃を食らえば憤怒の一つや二つはあってもおかしくはない。
 高まる緊張。空気が張り詰める帯電する視線と視線が交錯する、構えを取る。
 そして――動く。
 突撃。激突。絡み合う拳と杖。

「殺せるかな、人形の君に。」
「貴様……!!」

 杖が振るわれ、鎖が追従し、蛇が獲物に跳びかかるようにデュランダルの頭部に襲い掛かる。
 クジラビトと言う化け物の基礎能力は高い。
 筋力、耐久力、魔力。全てにおいてAAAランク程度の実力を“生まれ持っている”。
 杖を振るえば肉を抉り、骨を断つ。強化した、この肉体と言えど、その一撃の前では紙切れ同然の威力しかない――故に捌く。
 攻撃のベクトルを逸らすことで威力に拮抗する――ギルバート・デュランダルの戦闘能力とは、あくまでブーストデバイス・ナイチンゲールによる肉体強化によるモノである。
 それによってもたらされる達人の技術。力量。体力。
 多岐に渡る――それこそ数百にもなるありとあらゆる武術が彼の肉体には刻み込まれている。
 シン・アスカやラウ・ル・クルーゼのような単一系統の技術ではなく、数百の系統の技術を根幹とする以上引き出しの多さという点ではありとあらゆる世界の誰よりも多いだろう。
 引き出しが多いということは迷いを生むことにも繋がる。
 故に骨子となる戦術が必要となる――ギルバート・デュランダルの戦闘において必要となる骨子。
 それは即ち“捌き”。転じて“思考”。考えること、組み立てること。
 膨大な経験を伴わない技術を思考によって行われる予測、構築、組立、発動、そして破壊へと用いる。

 思い描くイメージは自身を中心に幾つもの円が並ぶ球体――そのイメージと同様の姿で三重に発動されている結界を解く。単独で要塞にも匹敵する結界を解き放ち、攻撃/捌きに転じる。
 円という二次元は重なることで球――即ち三次元となる。半径は自身の腕の範囲。故に足元はお留守になる。それを防ぐためにイメージを拡大。手も足も関係ない。腕によって払う。手によって捌く。そんな分別は必要ない。
 手や足、その全てで捌く。人体のありとあらゆる箇所を用いて捌く。人類が生み出したありとあらゆる武術と言う技術体系を用いて、捌く。
 手で、肩で、足で、頭で、背中で、剣で、槍で、刀で、鞭で、棒で――その全てで捌く。
 右手を広げ、拳ではなく掌を作る。迫る鎖を払い、杖を肩で弾く。
 逆側の先端が既にこちらに迫っている――捌かれた勢いを利用しての一撃。根と言う武装だからこその一撃。左手でそれを捌き、続いてその先端から迫る鎖を身体をくるりと回転させ、背中を這わせるようにして捌く。回転したせいで、背中――というよりも右肩がクジラビトの鳩尾と接触する。ラバースーツは見た目通りに冷たい感触を伝える。

「ふんっ!!」

 構わず右足で床を“踏み抜く”。
 足元から発生した衝撃が、右肩に集約する同時に、結界を再構築/右肩から生まれる槍の如く形状変化。
 形状変化した結界――要約すればシールドである――が衝撃を後押しするようにして、クジラビトの腹部から背部までを“貫く”。
 べきべきべき、と人体から聞こえてはいけない類の音が鳴り響く。
 通常の人間ならばこれで死ぬ。まず間違いなく腹部に直径数十cmの大穴が開いて、死に至る。
 だが、クジラビトは倒れない。
 腹部は大穴ではなく固く絞った雑巾のように捩じられているだけで――既に内臓が存在する隙間さえないほどに捩れているというのに、ソレは未だ倒れない。
 デュランダルは驚かない――この半年の間、戦い続けているこのクジラビトと言う存在がどれほど死に辛いかなどよく知っているのだ。

 だから――止まらない。

 右手で拳を作る。捻じれ切って本来なら生きているはずのない腹部に押し付ける――静止。
 実際は違う。静止などしていない。あくまで傍目には静止、と言うものである。

 ブレイクインパルスという魔法がある。物質の固有振動数を解析し、それに合わせた震動を送り込むことで粉砕する魔法――これはその類型だ。何しろギルバート・デュランダルは魔導師では無い。魔導師で無い彼にそんな魔法が使える訳も無い。これはただ震動を叩きこむだけの技法。
 どれほど銃弾すら弾く装甲であろうと、どれほどに強固な体組織であろうと――須らく内部は脆いと相場は決まっている。
 故に、ミサイルも、ビームサーベルも、ビームライフルも何もいらない。強固な装甲を“穿つ”のに、威力など必要ない。
 必要なのは、震動だけ。その身を揺らす震動だけ。

 ――触れただけの拳に威力は無い。それで何かが起こることは無い。
 
 デュランダルの瞳がかっと見開いた。
 鋭い吐息。右拳が一瞬ブレる。耳鳴りが起きる。デュランダルの拳が動いた。動くのは拳のみ。
 それ以外の如何なる箇所も稼働しない連動しない、それは拳撃という術理に反する行為。全身の連動こそが拳に重さと威力を乗せる術であるというのに――だが、それはそんな術理すら螺旋曲げる悪魔の術理。
 デュランダルは拳を前に突き出した。
 そして、それだけで――クジラビトの腹部は背中は拳大の大きさにへこみ、次の瞬間“吹き飛んだ”。
 更に、全身に夥しい数の波紋が生まれる。地面に叩きつけられ、のたうち回るクジラビト。釣り上げられ陸地に水揚げさせられた魚のように全身を痙攣させのたうち回り、苦しんでいる。
 声を発することも出来ないのだろう、口元から漏れる声は哀れな小さな声のみだ。

「……なんだ、これ」

 呆けたようにその光景を見つめるシン。
 彼の知るギルバート・デュランダルと言う人間は良くも悪くも文官――つまりは戦わない側だ。
 無論、目前の男が生身ではなく何らかの処置を行われているだろうことは考えるまでもないが――それでもこれだけの戦闘能力を持っていることがにわかには信じられない。

「何を呆けているシン。」

 デュランダルが呟く――低く渋みの聞いた声。聞きなれていた声だからか、目前の光景とまるで噛み合わない。

「君のやるべきことはここには無い。さっさとギンガ・ナカジマを連れ戻してきたらどうだね。」

 ギンガ・ナカジマ――その一言で呆けて霞がかっていた意識が一気に色を取り戻す。
 全身の状況を確認。手足に異常は無い。
 腹部に痛み――肋骨が折れている。先ほどの鎖の禁縛による損傷。放っておけば直る。意識に問題は無い。 視覚に異常は無い。五感に異常は無い――“侵食”による痛みはもう存在しない。
 気になることはそれこそ幾つもある。考え出せばキリが無いほどに幾つも幾つもそれこそ数え切れないほどに。
 けれど、今はその思考を全て切り捨てる。
 願いはここには無い。取り戻したいモノはここではなく向こうにあるのだから――朱い炎が全身を覆う。即座に飛び立とうとし――瞬間、爆音が二つ耳に舞い込んだ。
 反射的に音のする方向に振り向いた。

『ハイネ・ヴェステンフェルス、もう一人は、不明だ。見たことのない人間だな。』

 両手に楔を幾つも連結した剣を携えたオレンジ色の髪の男と両手に馬鹿みたいに巨大な拳銃を持ち全身を銀色の鎧――むしろ装甲板で覆った人間がクジラビトを瓦礫の中に埋め込ませた音だった。
 唇を噛み締めてその光景から目を離す。
 聞きたいことはそれこそ山ほどある――だが、今は聞くべき時ではない。そう心中で呟いて、デスティニーを握り締める。
 恐らく、自分よりもよほど、聞きたいことがあるはずだ――その中に眠るレイ・ザ・バレルにとっては殺したはずの親同然の人間が生きていたのだから、当然だろう。

「シン、早く行け。」

 デュランダルがこちらを見ることもなく呟く。
 その視線の先には吹き飛ばした――それどころか腹部を貫かれるような拳撃を食らったはずの一号が何事も無かったかのように立っていた。

「やはりタフだな、君らは。」

 やれやれとばかりにデュランダルが肩を竦める。
 シンが声をかけた。

「議長。」
「何だね。」
「……後から、全部教えてください。“あんた”は全部知ってるんでしょう…?」

 その問いにデュランダルは微笑みを顔に張り付け、答えを返した。
 彼が知っている笑顔とはどこか違う、子供のような笑顔を。

「そうだな、教えよう――この世界の秘密と、この世界の“絶望”を。」
「……お願い、します。」

 絶望と言う言葉に僅かに引っかかりを覚えたが、直ぐに意識を戻す。考えるな。聞くべき時は今じゃない。それは後から聞けば良い。優先順位を間違えるな。
 先ほどまでいた場所を見れば――天空からの蹴りの衝撃によって距離が離れた――人が増えている。ギンガとクロノだけのはずがそれ以外にも数人――どこか見覚えのある人影。

「それじゃ、」
「ああ、そうだ、シン。一つ言い忘れていたが―――」

 直ぐに飛び立とうと全身に力を込めた時、デュランダルが思い出したように、口を開いた。

「何ですか?」
「フェイト・テスタロッサ・ハラオウンもあそこにいる……」

 その名前を口に出した瞬間、シンは跳んでいた。言い終える前に飛び出す辺り、殆ど本能的な行動だろう。
この場にいた時間は数分程度。
 だが、その数分がどれほど貴重なのかを理解している――これまで、その数分に何度も泣かされてきたからかもしれない――その全てが女の為に、と言うのがあまりにも彼らしい。
 顔つきも変わり、身長も伸びて――それでも根幹になる部分はまるで変わっていない。馬鹿のままだ。
 いや、より強固に、頑丈に、彼は馬鹿のまま――その馬鹿を貫いて此処まで来た。
 それは以前とは違うことを意味する。以前は下を向いていた瞳は今では真っすぐに前を見ている。

「……それなりに成長したか。」

 瞳だけをシンが飛び去った方向に向け告げる――振り返って、瞳を鋭く、全身で構え、呟く。

「さて、そろそろ睨めっこはお終いにしようか、クジラビト君。」
「………馬鹿にしているのか。」

 憤怒は消えない。先ほどよりも過熱し、顔の無いラバースーツ越しでも分かるほどの怒気を振りまいている。
 無言のまま、クジラビトが歩く。
 デュランダルは構えたまま動かない――後方から爆音が聞こえた。
 恐らく、シンが辿りついたのだろう。
 その結果、何がどうなるのか。
 シン・アスカと言う人間にしてみれば、此処からが阿鼻叫喚の地獄だろう。
 少なくとも普通の人間ならばそうだ。自分だったら、絶対に遭遇したくない状況である――何せ、許されない恋慕を抱いていることを看破される、あるいは告白する瞬間だ。

「……さて、どうなるか」

 その瞬間を見れないことを僅かばかり悔やんでいる自分を悪趣味だなと思いながらも楽しげな笑みを浮かべる。
 クジラビトも踏み込んだ。それに合わせ、自らも踏み込む。
 ハイネとティーダの戦闘も再開している。
 一度や二度の交錯で倒せるほどクジラビトとは甘い相手ではない――だが、それでも駆逐しなければならない。
 世界を救う為に。
 ――愛した女のいた世界を救う為に。


 鎖で禁縛されたギンガ・ナカジマを挟むように、四人の女と一人の男が対峙する。
 空気が凍りつくような緊張。
 ギルバート・デュランダルの強襲に合わせ、同時に強襲を懸けた四人の魔導師。

 オレンジ色の髪を二房に束ねた、まだ少女の面影が残る二丁拳銃型のデバイスを握る魔導師――ティアナ・ランスター。鋭い目つきで眼前の男の一挙手一投足を睨みつけている。その判断は正しい。
 眼前の男にとって、彼女たちは一挙手一投足で制圧出来る程度の戦力でしかない。如何なる動きであろうと致命打を与えるのは想像に難くないのだから。

 蒼く短い髪、右拳につけられたガントレットが特徴的な白いバリアジャケットを纏った、こちらもまだ少女の面影を残す魔導師――スバル・ナカジマ。同じく彼女も構えを解くこと無く、いつでも迎撃できるように集中力を高めている。瞳に恐れは無い。眼前に死んだはずの姉がいる――今すぐにでも駆け寄りたい衝動を堪えて、彼女はただじっとクロノを見つめる。気を抜けば、やっと見つけた姉を再び奪い去られてしまう。そんな危機感が彼女に構えを解かせないでいる。

 桃色の髪。少女そのものと言った風体。巨大な竜を従える小さな魔導師――キャロ・ル・ルシエ。傍らに従えた飛竜は動かせない。迂闊に動けば、それが全てを崩してしまう。そんな確信があった。竜から感じ取れる感情は恐怖。怯えているのだ、眼前の男に。奥歯を噛み締め、彼女もまた恐怖を堪える。眼前の男。その先に探し求める少年がいるのだという希望を胸にして。

 金色の髪。紅い瞳。全身を覆う黒いバリアジャケット。以前着ていた白い外套は存在しない。手には大鎌。優しげな雰囲気に反する武装――フェイト・T・ハラオウン。彼女の瞳に映るのは恐怖。他の三人とは違う恐怖――目の前の状況への恐怖と、自身が投げ込まれた渦中への恐怖。浮かぶ色は未知への恐怖。

 そして、彼らを見下すでもなく見上げるでもなく、静かに見つめる男。
 黒いバリアジャケットを身に纏い、両の手に杖を握る魔導師――クロノ・ハラオウン。化け物じみた力――むしろ化け物とでも呼んだ方が良い力を得た超級魔導師。油断なく眼前の四人を眺めている。

 そして――彼女たちの後方で茫然とそれを見つめている着物姿の女性。ギンガ・ナカジマ。
 彼女にしてみれば全員が初対面である。その中に自分の妹に、よく似た女性がいても特に何も思うことも出来ずにいる。それが自分の過去だという実感が無いのだから、幻影と相違無いのだ。
 けれど――困惑は止まらない。今もずっと困惑し続けている。

「……そこをどくんだ。」

 白銀の杖と漆黒の杖を携えてクロノが呟く。
 その言葉は眼前の四人を威圧する。

 ――それはあくまでティアナ達の感想だ。クロノは別に威圧などしていない。圧倒的な戦力差があるからこそ、勝手に彼女たちは威圧されているのだ。
 ティアナ・ランスターは推察する。自分達全員でクロノ一人とどれだけの間渡り合えるのか、と。
 恐らく数分も持てばいい方だろう。それほどに彼と自分達の戦力差は圧倒的だった。 

(シンとこの人は渡り合っていた――“あの”、シンと互角に戦っていた。)

 ティアナの脳裏に蘇るのは以前のシン・アスカ。千体のガジェットドローンと一人で戦っていた時のこと、そしてエリオとの戦いの映像だった。
 化け物と言う言葉があれほどよく似合う魔導師もいないだろう。
 そんなシン・アスカと――ガジェットドローン千体と渡り合う魔導師とクロノ・ハラオウンは互角の戦いをしていた。先ほどの戦闘を僅かながらに見ていた彼女たちにとって、彼は驚異以外の何物でもなかった。

(……どうする。)

 思考を巡らせる。
 先ほどまで気が逸っていたスバルも今は無言だ――眼前の敵がどれほどのモノか肌で感じているのだろう。
 それでも先ほどから何度か動き出そうとはしていたが、その度に思い止まっている。
 見るだけで分かるほどの焦燥。
 付き合いの長い彼女はスバルがどれだけ焦っているのかを理解している。
 死んだと思っていた姉が生きていた――同じようにして死んだと思っていたフェイトが生きていたのだから、生きている可能性こそ高かったモノの、この半年間、ギンガは一度も自分達の前に姿を現さなかった。
 諦めかけてさえいた。それが今目の前に姿を現している――焦るのも無理は無い話だ。

「……返答は、無しか。」

 クロノがそう言い放ち、左手の漆黒の杖を彼女らに向ける――ティアナ・ランスターの思考が加速する。
 動くタイミングを計る。行動の瞬間を予測し、念話の準備を行う。致命的な戦闘への突入を知覚する。
 胸の鼓動が煩い。知らず冷や汗が流れていく。緊張する空気。
 スバルも、キャロも同じく、緊張を高めていく。動き出す瞬間を見逃さないように全身全霊を懸けて集中する。
 攻撃の意思表示をしたというのに、歯向かう姿勢を見せた自分達にクロノは小さく溜息を吐きながら、魔力を操作し、幾つもの光弾を作り出していく。
 スティンガーレイ。単純な直射型の射撃魔法――威力は射撃魔法と言うレベルではないが。

「時間も無い。どかないのなら、力づくで行かせてもら……」
「どうして」

 クロノの言葉を遮るように、声が放たれた。
 動きに集中し過ぎていた自分はそれが誰の声なのか、一瞬理解出来なかった。
 スバルでもない。キャロでもない。自分でもない――考えずとも明白な事実だ。
 クロノ・ハラオウンをクロノと呼び捨てにするような人間はこの場では一人しかいない。
 彼の妹、フェイト・T・ハラオウンしかいない。

「どうして、こんなことをするの?」
「……生きていたのならどうして連絡をしなかった。母さんやエイミィがどれだけ悲しんだのか、分かっているのか。」

 クロノの表情は変わらない。相も変わることなく仏頂面――鉄面皮と言ってもいい。彼女の質問にも答えない。彼女の質問など瑣末なことだと言わんばかりに。
 だが、その時表情が僅かに緩んだ。

「それでも安心するよ、お前が生きていたことを確認出来て。」
「……クロノ。」
「……ギンガ・ナカジマについてはお前は知らなくても良い。いや、お前だけじゃない、こんなことは誰も知らなくて良いことなんだ……出来るなら、何もかもを忘れて、管理局に戻って……それで終わりにして欲しいくらいだ。」
「……だったら、どうして、どうして、ギンガを……?」

 意味が、分からなかった。
 自分――フェイト・T・ハラオウンが知るクロノ・ハラオウンと言う人間はそんな人間ではなかった。
 実直で真面目で不器用で――厳しい人だった。自分にも、他人にも。けれど、その厳しさの中に優しさがある人。
 誰にでも厳しくなれるという事は誰にでも優しく出来るという事。
 誰かを犠牲にするなんていうことを彼が容認するはずがない――だって、彼は闇の書の時だってはやてを見捨てたりはしなかったのだから。

「クロノ、どうして、ギンガを犠牲にしなきゃいけないの?そんなのおかしいよ、そんなことしなくたって」
「世界は滅びる。」

 断定。有無を言わさぬ口調。
 声に籠る強い感情が後の言葉を許さない。

「それは絶対だ――それは、真実なんだよ。」
「意味が……分からないよ、クロノ。」

 “世界が滅びる”
 何度も何度も聞かされた言葉。
 そして、何度も何度も“否定された”言葉。
 正しいのはどちらなのか。自分はそれを“否定する側”にいる――その否定すら信じ切れていないのに。

「………ない。」

 誰かの呟き。小さく、吐き出すような声。
 車輪が回る音。土煙が上がり、何かが回転する音。
 咄嗟に音の方に振り向く。

「そんなの、絶対に――」

 金色の瞳。全身から上る気迫。右腕から漏れる魔力の蒸気――スバル・ナカジマが動く。
 自身の姉を犠牲にすることが正しい、真実なのだと宣言されて。

「許す、もんかあああああ!!!」

 踏み込みと同時に加速。
 跳躍/振りかぶる右腕――全体重を乗せた一撃。命中すれば意識を刈り取ることなど造作もない。
 当たれば、だ。全体重を乗せた一撃とは要するに大振りな攻撃。攻防の流れの中でならともかく初撃に行うべき攻撃ではない。避けてくれと言っているようなものだ。

 ――一対一ならば。

「キャロ!!」

 ティアナがキャロに向けて叫んだ。
 同時に両手に握りしめた拳銃の姿をしたデバイス――クロスミラージュの銃口が火を噴いた。
 スバルの突撃に合わせて魔力弾を発射する。着弾地点はクロノ・ハラオウン本体。その内数発は予測される回避方向に向けて発射。

「フリード!!」

 キャロが叫ぶ。彼女の傍らに佇む飛竜の口腔から連続で吐き出される二発の光熱波。同時に彼女の両手のデバイスが輝く。ブースト魔法の発動。ティアナの放つ弾丸の強化――威力ではなく速度を強化し、命中率を上げることに専心。
 崩れた均衡。
 戦力は間違いなくあちらが上。こちらは手を出した瞬間に返り討ちに遭う事は明白。
 それゆえに保たれていた均衡だが――スバルは手を出してしまった。激昂に駆られての行動なのは明白だが、そうなってしまえば、もうどうしようも無い。
 状況は動いた。なら、動いた状況に合わせてこちらも動くしかないのだ。
 ここで動かないままなら、スバルは間違いなく返り討ちに遭ってしまう。ならば、僅かな可能性に賭けるしかない。
 即ち先手必勝。相手が攻撃を行う前にこちらの全戦力を投入し、一瞬で終わらせる。
 ティアナの頭の中にあったのはそれだけだった。

「……許す許さないじゃない。」

 迫る魔力弾の嵐、弾丸と化した拳、そして光熱波。
 それらを前にしてクロノは漆黒の杖を向ける。次いで現れる水色の魔力光を発する三本の楔。
 楔が動く。一本はスバルの拳へ。二本は二発の光熱波へ。吸い込まれるように楔が動き、そして、接触。
 光熱波が霧散する。スバルの拳を取り巻いていた魔力が霧散する。

「なっ……!?」

 スバルの顔が驚愕に染められた。その楔が接触した瞬間構築していた魔法が消えたからだ。まるで、AMFにでも浸食されたかのようにして。

「それ以外に方法が無いだけだ。」

 クロノの身体が動く。弾丸の群れに目を向ける。
 本来、視認出来る訳も無い超高速。銃口の向きから発射方向を予測する程度のことしか出来ない――それを回避することは出来ない。回避方向にも弾丸は放たれている。どの方向に逃げても弾丸は狙っている。その弾幕は身動きを封じる為だけの弾幕。ただ、クロノ・ハラオウンに防御を選ばせるだけの。
 その予想通りにクロノが防壁を展開する。着弾する防壁を抉り取らんばかりに激突する数十発の弾丸。
 上空からスバルが近づく。右手の輝きは先ほどよりもはるかに小さい。楔によって霧散した魔法を再構築する時間は無かった。上空から落下し、接触までの1秒にも満たない僅かな時間の中で再構築したのだろう。どんなに逆境にあろうと諦めないからこその攻撃。
 絶対に諦めない。そんな強さがあればこその再構築。それに、彼女は既にティアナ・ランスターから念話を受けていた。
 彼女が突撃した瞬間、ティアナも意識を攻撃することに切り替えていた。あの時点で出来る最高の連携をする為に。
 それによって伝えられた作戦が今現在行っていることだ。だから――1人で戦っているなら、ともかく仲間との連携である以上、遅れる訳にはいかない。自分のミスは仲間全体へのミスとなる。そんな思いがスバルに諦めることを許さない。

「いく、ぞおおおおお!!!」

 スバルが咆哮する。彼女から見たクロノ・ハラオウンは今も変わらず防御をしている。ティアナは前面に向けてひたすら魔力弾を撃ち込み続け、キャロはその射撃魔法を早く強く硬くブーストを行い、フリードは光熱波を放ち続けている。
 そうなれば、防御している側とは逆の部分は手薄になる。スバルはその部分を狙う――ティアナとキャロ、スバル、フリードの今出来る最高の連携。
 最も攻撃力の高いスバルの一撃を生かす為に、ティアナを囮にし、キャロとフリードがそれを補助、そしてスバルが背後から防御不能の攻撃を叩きこむ。
 数的優位を確実に活かす堅実な攻撃方法――彼女たちが現状で出来る最高の連携。

「……」

 だが――クロノ・ハラオウンは表情一つ変えない。
 これがどんな戦術で自分がどんな状況にいるのか理解しているだろうに、その顔に動揺は無い。焦燥も無い。
 ただ、無表情。変わらぬ鉄面皮で受け止め続けている。
 スバルの接触まで一秒も無い。
 射撃は今も続いている。
 クロノは身動きできない。スバルの拳はクロノの意識を一撃で刈り取る。

 ―――本当に?

 おかしな疑念がフェイトの――いや、その場にいた全員の胸を掠めた。
 クロノ・ハラオウン。現在は前線を退き、提督と言う地位についてはいるものの、人手不足の管理局の酷使に耐え抜き、生き延びてきた、彼の戦闘経験は管理局内部の中でも抜きん出て多い。
 それこそ十や二十どころの騒ぎではない。百や二百――下手をすれば千にも及ぼうかという膨大な戦闘経験。それほどの経験をしてきた彼がこんな簡単に終わるのだろうか、と。

 そう。終わるはずが、無い。なのに彼は動かない。それが意味するところはたった一つ。

 ――動く必要が無いからだ。

(当たる。)

 心中で呟き、そのまま振りかぶった拳に全体重を乗せて叩きつける。
 何が起きたのか、マッハキャリバーを覆っていた魔力は霧散した。だがその後即座に再構築し攻撃、速度を一切落とさずに
 クロノは動かない。今もただ防壁を張り続ける――ようやく動いた。だが、遅い。その動き出しでは絶対に避けられない。
 近づく。接触する右拳と背中。無防備な背中に吸い込まれるようにして、右拳が――“逸れていく”。

「嘘。」

 その呟きは誰のものか。ティアナか、キャロか、スバルか、フェイトか――誰でも良い。誰であっても、その場の困惑を一言で言い表すには最も的確な言葉だった。
 その一瞬、何が起こったのか、理解出来なかった。それはスバルだけではなく、この場にいる誰も――目の前の光景が信じられなかった。
 棒立ちで無防備な背中を晒したまま僅かに身体を動かしたクロノ・ハラオウン。
 絶対に命中するはずだった。その一撃はクロノ・ハラオウンを強襲し、意識を刈り取るはずだった。
 なのに、右拳は逸れて外れた。
 疑問符が脳裏を埋め尽くす。

「これで」
「え?」

 その時スバルの思考は空白だった。真っ白だった。目の前の光景が、絶対に当たると確信していた一撃が勝手に逸れていくという不思議な光景を目の前にして、彼女は呆然自失の体で目の前を眺めていた。

 ――時間は一瞬。刹那の瞬間。だが、その刹那は何よりも長い。

 いつの間にか、クロノが自分の横に来ていた。
 呆然としていた一瞬でこの距離を移動したのだ。高速移動魔法――フェイト・T・ハラオウンの得意とする高速移動魔法並の速度。
 弾幕は既に彼の前には無い。弾幕を回避するために動いたのだ。それほどの速度を持っているなら、さっさと避ければ良かったというのに。

(う)

 嘘、と心中で呟くより尚早くクロノが漆黒の杖をスバルたちに向けた。
 間髪いれずに地面から鎖が顕現する。
 スバルとティアナの身体が緊縛される。同じく自分とキャロも。
 声を上げる暇も無ければ、反する暇もない。
 詠唱を破棄したとしか思えない速度での発動。だというのに、その威力はデバイスに詠唱を行わせた上での 発動と遜色が無い。
 発動された魔法はチェーンバインド。魔力で具現化した鎖で禁縛を行う魔法――一瞬で肉体を絡め取られ、 動きを全て封じ込められる。 

(誘い込まれてたのは、ティアナたちだった……!?)

 フェイトが心中で呟く。
 ここまで魔力弾による攻撃を受け続けていたのも、わざと無防備な隙を晒したのも――全て彼女たちを拘束する為のフェイク。
 接近されても回避できる力があるから、絶対に攻撃を食らわない自信があるから。
 だから、絶対に逃げられないように、こちらの攻撃を待っていた。
 攻撃を行わせ、全員の動きを止めて――あるいは限定して、絶対に外さない確実な拘束を行う為に。 

「終わりだ。」

 呟きの通りにそこで攻防は終わる。時間にして十数秒。
 彼女たちは全員が拘束される――それで全ては終わる。
 誰も言葉を発しない。
 スバルは意識を失っていた。攻撃直後の無防備な態勢にバインドによる拘束を受けた衝撃のせいかもしれない。キャロとティアナ、フリードも同じく声を発することも無く気を失っていた。
唯一意識を保っていたのは、何も出来ずに傍観していた自分だけ――皮肉としか言いようがない。

「……クロ、ノ?」
「……何もかも忘れて帰るんだ。君たちがこんなことに付き合うことは無い。」

 鉄面皮を維持したまま、クロノが告げた。
 それは――これまでフェイトが見てきたクロノ・ハラオウンの強さでは無かった。
 確かに、クロノ・ハラオウンという魔導師は強い。オーバーSランク魔導師とは一騎当千。傍から見れば化け物めいた強さを持つ。そこに位置するクロノ・ハラオウンが弱い訳が無いのだ。

 だが――だが、それでもこれは異常だ。
 彼女はクロノの実力を知っている。彼女自身、兄である彼からは教えてもらうことも多かった。
 けれど、この力はその実力から大きく外れている――あり得ないほどに強い。

「今なら僕の力で何とか出来る。この半年の間に君たちがやったことも全て無かったことに出来る。だから……」

 彼の表情が歪む。辛そうに顔を歪めて、苦しげに、血を吐くようにクロノ・ハラオウンが告げた。

「それでギンガを犠牲にするなんて、出来る訳が無い……クロノ、どうしてなの!?どうして、こんなことをするの!?」

 理解できない――どうして、クロノがこんなことをするのかが、理解出来なかった。
 兄妹として10年一緒に過ごしてきて、彼女はクロノ・ハラオウンという人間をよく知っている。
 理想が高く融通が効かない。だからこそ理想に裏切られ易く、いつも貧乏くじばかりを引いている――それでも貧乏くじを引いたことに対して文句を言うこともなく、職務に励む。
 執務官という仕事柄裏切られることは何度もあったはずだ。だけど彼はそんなことを一切表に出さずにずっと自身の本分を貫いてきた。
 彼の妻であるエイミィは、彼のそんなところを好きになったのだと言っていた。だからこそ、そんな彼を支えてあげたいのだと言っていた。
 自分だって少なからずそう思った。そんな彼の手助けを出来るのならしてあげたいと。

 ――自分が執務官になろうと思った動機の何割かはそんな気持ちなのだから。

 だから、理解出来ない。
 こんな――誰かを犠牲にするような方法を、誰かを生贄にする方法などクロノは最も嫌うはずなのに。

「……良いから帰るんだ。みんながお前を――君たちを待っている。もう、誰にも心配させるんじゃない。」

 ゆっくりと諭すようにそう言って、彼は自分たちから瞳を外した。何も聞く気は無い――話すことはもう無いということの意思表示。
 視線はギンガ――憐れむように、或いは嘆くように、彼女を見ていた。

 ――その視線がどうしても許せない。ギンガを生贄にする――その事実を絶対に認めるなと理性ではない、

 心の奥底が叫んでいる。

「クロ、ノ……!!」

 力を込める。バインドの解除に全力を注ぐ。クロノの瞳はずっと別の方向――上空を見ている。
 そこに、何かがいるように、漆黒の空を眺めている。

 ――歪む。空間が。同心円の波紋を生み出して歪む。空が歪む。

「……っ。」

 耳鳴りが始まる。歪みの中心から割れる空。そして、そこから壁を突き破るようにして伸びる手、足、身体。割れた空の破片が落ちてくる。破片に映り込むのは動く雲や星。世界がそのままそこに映り込んでいる。
空間を壊して、別の空間から現れる――見たことも聞いたことも無い転移魔法。
 少なくともミッドチルダ、ベルカのどちら共にこんな魔法は存在しない。
 伸びた手を走る金色の光。血管をなぞるようにして光る黄金の輝き。
 指の先端は糸が絡むように――毛細血管が輝いている。
 掌に近づくごとに光の線は太くなっていく――血管が輝いている。
 聞こえる声――笑い/嗤い/哂い。

「く、くくくく、くくきききき、ははは、あははははははっは!!! なんてカオをシテいるんDA、クロノ・ハラオウン。く、くききき」

 クロノが上空を見る――そこには全身を覆う白い服の上から白いマントを羽織った金髪の男。
 粟立つ肌。背筋の鳥肌が消えない。
 唇は亀裂のように歪んでいる。微笑みだ。その男は何が面白いのか笑っている。
 無邪気で、それ故に邪悪な、醜悪な、生理的な嫌悪感を伴わせる微笑み。
 哄笑/嘲笑/爆笑―――声が響き、空間を汚染していく。
 それが笑うだけで吐き気がする。
 姿を見ているだけで吐き気がする。
 声を聞くだけで吐き気がする。
 決して、誰とも相容れない邪悪そのもの。
 この世界の全てに相容れない邪悪そのもの。
 そこにいてはいけないもの。
 見てはいけないもの。
 存在してはいけないもの。
 心臓の動悸が激しい。見ているだけで冷や汗が流れていく。その身が放つ瘴気とも呼べるような
 白いマントが棚引く度に心臓の鼓動が跳ね上がる。その唇から声が漏れる度に背筋を怖気が這い登る。
 見た目はどこにでもいるような男性。ウェーブがかった金髪と端正な顔立ち――仮面が隠して瞳は見えない。

「……。」
「くくく、そう警戒しないでくれないか。皆、表に出たがっていてね。」
「ラウ・ル・クルーゼ……ギンガ・ナカジマを迎えに来たのか。」
「……ああ、私たちにとって、大切な彼女を迎えに来たのさ。それに――どうやら、面白いことにもなっているようなのでね。」

 クロノの眼光が厳しさを増していく。それは味方に向ける視線ではない。どちらかというと仇敵にでも向けるような鋭い鷹の如き視線。

「……クロ、ノ?」
「フェイト・T・ハラオウン――もう一つの撒き餌がここにいるということは……彼もここにいるのかな?」
「ああ、シン・アスカもここにいる。ギルバート・デュランダルも、全員な。」
「――なるほど。」

 そう言って、仮面の男がこちらを見た。
 ぞくり、と覗きこまれている感触。まるで蛇の下が身体中を舐め回してでもいるような。見られている、それだけで背筋が凍るような恐怖を感じる。
 哄笑し唇を歪めていることが、更に恐怖を促進させる。
 恐怖――“天敵”と相対する恐怖。
 クロノがその男に漆黒の杖を向ける――敵意を込めて、その男を睨みつけた。
 金髪の男はその視線をクロノに向ける。
 その視線を受けても、クロノは表情を変えない。睨みつけたままだ。 

「……さっさとギンガ・ナカジマを連れて行け。フェイト達は関係無い――彼女たちは僕が責任を持って保護する。」
「構わないさ。元々、アレらをどうしようなどとは思わない……撒き餌としての処置はもう終わっている。」

 撒き餌、と言った瞬間、クロノの表情が歪む。睨みつけていた瞳を逸らし、渋面が広がる。呟く。

「……だったら、早く行け。邪魔は入らないだろう。」
「ああ、分かっているとも。ただ――」

 金髪の男が後方を見据え、空中に浮かびあがっていく。顔には微笑み。ようやく来た待ち人に向けるような微笑み。
 クロノも――そして、自分もそちらに目を向けた。
 そこには、

「あの男は、そのニンゲン達を保護させてくれるのかな?」

 巨大な、少なくとも10m以上の大きさの大剣が柄をこちらに向けて朱い炎を纏って飛んでいた。
 その様はまるで人間がその巨大な大剣を背負っているかのような挙動を示して――違う。あれは、背負っているのだ。
 誰かが、巨大な大剣を背負って、朱い炎となってこちらに向かっているのだ。

「シン・アスカ……!!」

 ズキン、と頭痛が走る。同時にフラッシュバック――顔だけがぼやけて見えない幻影。 

「……あれが。」
『Ya.』

 バルディッシュの短い返答が返ってくる。どこか、懐かしむような雰囲気を感じるのは気のせいか。
 その名前は知っている。この半年間、ティアナやスバル、キャロ。それどころかギルバート・デュランダルやハイネ・ヴェステンフェルス、終いにはいつも無表情で寡黙なティーダからも聞かされていた男の名前。

 曰く――なんだかんだ言ってお人好し。
 曰く――ギン姉の好きな人。
 曰く――命知らずだけど頼りになる兄のような人。
 曰く――ザフトのエース。
 曰く――カリカリしっ放しの後輩。
 曰く――人間とは思えない戦闘狂。

 そして、記憶を失う前のフェイト・T・ハラオウンが恋い焦がれ、エリオを裏切らせた原因の一つ。
 胸がざわめき出す。鼓動が加速する。体温が上昇する。汗――冷や汗では無い汗が流れ出る。
 落ち着かない気持ち。
 噛み合わないココロとカラダ。
 記憶には無い男。忘れているから当然だ――だから、“私”には“昔の私”のような恋愛感情は存在しない。抱いている感情は恋慕ではなく憎悪に近い。エリオが裏切った要因の一つ。自分自身の罪の象徴。
 ならば、カラダは?

――胸が疼く。身体が疼く。喉が乾いていく。

 キライにならなきゃいけない男。
 ココロは疼かないのに、カラダが疼く――モヤモヤとした行き場の無い感覚。
 顔はまだ見えない。見えるのは朱い炎のような魔力と巨大な大剣。
 そして、この戦場――そう、ここはそう戦場。戦いの場。その雰囲気そのものを塗り替えるような圧倒的な気迫。
 朱い炎が――シン・アスカが、近づく。
 高鳴る胸の鼓動。ドキドキと言う音が煩い。
 なのに、心は冷静で冷え切って――乖離する。
 ココロとカラダを結び付ける魂と言う名の紐が解けて、離れていく。



[18692] 第四部ミッドチルダ風雲篇 69.再会と邂逅(f)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/06/02 17:18

 滑空するが如く疾走。速度は最高速。一切の減速を許さない――減速するくらいなら更に加速。
 風が強い。肉体が震える。剣を持つ手が震える/急げ急げ急げ――高まる気持ちに全てを委ねて疾走る翔けるさっさとそこに辿り着け―――!!!
 速度を上げる。
 高速移動魔法(フィオキーナ)の数を更に増加。背面からの魔力噴射を増大。速度超過。制御限界領域突破。
 見える人影。
 デスティニーへ念話による指示。対象の確認。

『クロノ・ハラオウン……フェイト・T・ハラオウン及びスバル・ナカジマ、ティアナ・ランスター、
キャロ・ル・ルシエ。その後方にギンガ・ナカジマを確認。』

 胸の奥で安堵する。死んでいなかったことへの安堵。生きていたことへの安堵。
 惚れた女が生きている。きっと記憶は消えている。ギンガは自分を覚えていなかった。だから、多分フェイトもそうだろう――それでも生きている。
 それがどうしようも無いほどに嬉しい。
 胸の奥から力が湧いてくる。剣を握る手に力が籠る。それは温かい気持ち。守りたかったモノが失われていなかったことへの、自分は何も失っていなかったという安堵。
 一瞬、気が緩みそうになる。

『そして、もう一つ朗報だ。いるぞ、シン。』
「いる?」
『ラウだ……ラウ・ル・クルーゼも、あそこにいる。』

 その名前を聞いて――温かな気持ちと並列する、ある感情がわき上がる。

「そうか。」

 声のトーンが一つ落ちる。
 低く、低く――感情の籠らぬ冷たい声に。

「クルーゼはどうしてる?」
『こちらを迎撃するつもりなのだろう。空中で待機している。』

 デスティニーからの返答。逡巡は無い。待ち構えているのなら――正面突破をするのが筋と言うものだ。

「巨大斬撃武装(アロンダイト)。」

 言霊を紡ぐ。握り締めた剣の先端から伸びる巨大剣の封印を解き放つ為の言霊。
 瞬間、大剣は在り様を変えて大鍵となる。

『解錠。』

 剣/鍵を虚空に差し込む――まるで水面に差し込んだように剣/鍵の先端が空間に溶けて消えた――ガチン、と右手の大剣/大鍵が何かと接続したような手応えを感じ取る。
 引き抜く。波紋を残して何も無い空間から引き抜かれるは、最大にして最強の斬撃武装。文字通り、ただ巨大なだけの刃金。ただ叩き切る為だけに研磨された刃。
 モビルスーツ・デスティニーが誇った当代一を争う近接武装――対艦刀MMI-714アロンダイトビームソード。
 全長20mを超える威容がその姿を現す/朱い炎が刃金を覆い尽くす。
 柄の部分にデバイス・デスティニーを差し込み接続した巨大剣を肩に“担ぐ”。
 速度は最高を超えて最速。近づいてくる仮面の男。
 デスティニーからの映像伝達。脳裏に浮かび上がる、ラウ・ル・クルーゼの姿――白い服。自分のバリアジャケットの原形とも言える赤服をそのまま白くしたような服装。
 白服。懐かしいその服装を見た瞬間、唇が釣り上がる。
 近づく――あの時の、そしてその前の。あの男と自分の間に存在する幾つもの借り。
 二人を奪われた。自分自身を完全に否定された。刻み込まれた恐怖。
 ――今、それを返す。

「……ラウ・ル・クルーゼ。」

 胸の奥底から全身を羽交い絞めにしようとする恐怖――何をしても無意味と言う恐怖。
 それらを全て胸の奥に押し込んでいく。

「行くぞ。」

 呟いて、突撃した。


「……う。」

 自分――フェイト・T・ハラオウンの後方で気を失っていたスバルが目を覚ました。
 彼女のデバイス・マッハキャリバーのデバイスコアが明滅している――主に何かを伝えているのだ。
 同じように、キャロやティアナも目を覚ます。
 そうこうする内に朱い炎が巨大化する。大剣が近づいてくる。
 それは、あまりにも異常な光景だった。
 多くの魔導師と出会った。自分のような大剣を扱う魔導師もいた。自分よりもさらに大きな大剣を使う魔導師もいた。巨大な斧を持つ者もいた。槍の使い手もいた。大鎌を使う者もいた。近接戦闘には魔法の才能以外の能力――白兵戦、格闘戦の能力が求められる。
 どれほど魔法を極めようとも、それはあくまで“放つ”力。自らの身体を制御し、使い切る為の能力とは違う。だから、魔導師の用いる武器と言うのは、その魔導師にとって最も手慣れた武器である場合が多い。
 自分であれば鎌か剣。シグナムであれば剣。ヴィータであれば大槌。
 巨大な武装と言うものであればヴィータのツェアシュテールングスハンマーもそうだが――あれは振るうというよりも砲撃に近い。武装そのものに推力を与えることで制御するという魔法の構造上、それは仕方無いとも言えるが。

 こちらにどんどん近付いてくるアレはヴィータのツェアシュテールングスハンマーとは一線を画すモノ。
 目測で分かるだけで10mを軽く超えているそのサイズは、明らかに人間以外――それこそ巨人が握り締めるような大剣だ。
 それは――魔導師と言う枠組みからは大きく外れたモノ。ニンゲンと言う枠組みから大きく外れたモノ。推力によって命中させるのではなく、振るうことで命中させる。
 ヒトでは使えない武装をヒトが当然のように使う――それが異常でなければ、何だと言うのか。

「ラウ・ル・クルーゼエエエエエエ!!!」

 その巨大剣を、文字通り大上段から振り下ろす。空気が弾け、振るうだけで尋常ではない風圧が生まれる。

「ようやく、ようやく帰ってきたようだな、シン・アスカ。」

 呟きながら金髪の男はその一撃を右へ僅かに避ける――巨大剣から生まれる幾つもの朱い光条。
 魔力噴射によって得られた推力による方向転換。
 跳ね上がる。左方向への移動。巨大剣が“通常の剣”と同じような挙動で追い縋る。
 その際に生まれる慣性による絶大な反動を意識を総動員して堪える。
 跳ね上がった巨大剣――金髪の男は一気に後方に下がり、それを回避する。
 まるでこれからどこを攻撃するのか視えているかのような完璧な回避行動――そこから逆方向に薙ごうとしても刺突を行おうとしても、次撃は届かない。
 これで攻撃は終わる――誰もがそう思った。自分――フェイト・T・ハラオウンも、クロノも、ティアナも、スバルも、キャロも。
 恐らく、あの金髪の男も。これで攻防は終わる、と誰もが思った。
 だが、

(舐めるなよ。)

 ――だが、シン・アスカは止まらない。巨大剣は止まらない。一心不乱にただ敵を倒すことにのみ集中したシン・アスカは、止まらない。

 高速活動魔法(エクストリームブラスト)・限界突破(ギアマキシマム)。感覚を加速し主観時間を“圧縮”する魔法である。
 7倍速とは即ち7分の1にまで主観時間が圧縮された世界だ――つまり1/7秒を1秒として知覚する世界。簡単に言ってしまえば、通常の主観時間で秒針が1秒動く時、シン・アスカの主観時間は7秒経っているというモノ。
 思考は一瞬。けれど、その一瞬でシン・アスカは1倍速の世界の7倍思考する。
 その最中、思考のみを更に加速させる――まるで時間が止まったような錯覚。
 SEEDがもたらす知覚拡大の最果て――集中力が導くゾーンと呼ばれる世界。
 時の止まった世界と言う錯覚。

 アロンダイトが届かない。攻撃は当たらない。逃げられた。眼下にはクロノ・ハラオウン――クルーゼに時間を掛けすぎれば、クロノ・ハラオウンがギンガとフェイトを連れ去って行く/断固として否定。憤怒すら伴う判断。脳髄の中の冷徹な部分が条件を弾き出す。
 ラウ・ル・クルーゼを仕留めるならば、今のタイミングしかない。
 時間をかければクロノ・ハラオウンはこの場を逃げる。

 その際にギンガは確実に連れて行かれる。もしかしたら、フェイトも――それを決して許さない。
 時間はかけられない。クルーゼを一撃で仕留め、次いでクロノを食い止める。
 その全てを出来る限り短い時間――理想は一瞬――で行う必要がある。
 確定予測とも言える絶対の、切り伏せられるほどに鋭く重い真実。その真実を理想で塗り替える。
 逃げたクルーゼを攻撃する方法の算出――砲撃、もしくは刺突。砲撃で倒せるほど温い敵ではない。ならば刺突が最も確実。
 だが命中の可能性は低い。先読みされることで回避される――その先読みを凌駕することが出来ればクルーゼへの一太刀は可能。

 状況を単純化する。先を読まれることで攻撃を回避される。ならばその先読みを凌駕すれば良い。
 同時に下方に位置するクロノ・ハラオウンに対しても牽制程度の攻撃を敢行。狙いはスバルやティアナ、キャロ、そしてフェイトの束縛を破壊すること。
 先読みを凌駕するにはどうしたらいいか――簡単なことだ。これまでは“出来なかった”ことをやればいい。これまで二撃で終わった攻撃を三撃に、一撃必殺の攻撃を必殺の二連続に、回避できなかった攻撃を回避し、回避される攻撃を当てる。
 強く、早く、鋭く。凌駕するべきは敵ではなく、これまでの自分。相手が知る自分自身。

「が――」

 切り下ろしから左薙ぎに軌道を変化させた巨大剣が、更に“突き進む”。
 “支点を変更”――それまではシンが握る柄を支点に動いていた巨大剣。振るう以上は当然――それを巨大剣の先端に切り替える。上下左右から先端を挟み込むように巨大剣を覆う朱い炎が間欠泉を上げる/噴射噴射噴射噴射――固定、停止。
 左薙ぎをそこで完全に停止させる。瞬間、シンの身体にかかる左方向へと引っ張り込む力――左薙ぎを停止させたことで生まれた斬撃の反動。

「ぎ、い。」

 絶叫の如き咆哮――脳髄に掛かる負担。脊髄にかかる負担。吐き気、眩暈、頭痛――自身を左方向へと引っ張り込もうとする反動を、エクストリームブラストによる魔力噴射で無理矢理相殺し、更に無理矢理右方向に移動――巨大剣の先端を中心に移動。更に巨大剣のシンから見て右側から魔力噴射。瞬く間にそれまで明後日の方向を向いていた先端がクルーゼを貫く方向に向き直り、先端にかけた魔力噴射の方向を刃に対して直角方向から後方――先端を中心にした二等辺三角形を形作るように、更に中心軸からズレる角度に傾ける。
 先端から噴射される朱い炎。二等辺三角形を形作ったのは刺突――突撃する為。更に中心軸からズレさせたのは、刺突に更に捻転――即ち回転を加える為。
 回転する力に押し出す力を加えることで弾丸は貫通力と直進性を得た。原理はそれと同じ。
 筋肉を捩じ切って、物理法則を捩じ切って、ただただ直進する為だけに――魔力を噴射。巨大剣が前進する突撃する回転する螺旋(ネジ)りこまれていく。

「でええぇえりゃああああああああ!!!!!」

 咆哮(クライ)咆哮(クライ)必殺の咆哮(ウォークライ)―――!!!
 絶叫じみた咆哮と共に巨大剣が回転し、朱い弾丸と化して突撃する。それを根元で支えるシン・アスカ自身も巨大剣を打ち出す炸薬と化して突撃する。
 斬撃から軌道を修正し、螺旋(ネジ)り込む刺突として放つまでにかかった時間は瞬き一つ。
 ラウ・ル・クルーゼがどれほど先読みしていようとも関係無い。何であろうと撃ち抜く刺突――というよりも身体ごと弾丸と化して、目標を穿ち抜く螺旋突撃(ドリルブレイク)。

 ――クルーゼがその一撃を知覚する。既に螺旋突撃(ドリルブレイク)はクルーゼの寸前にまで突撃している。
 回避したと思った瞬間、蛇が噛み付く方向を一瞬で変化させるかのように、巨大剣は滑らかに動き、クルーゼの方向に転進してきた。それも弾丸のような高速回転を追加して。
 それは予想外だった。あの武装は巨大すぎるがゆえに軌道が限定される。それゆえ回避行動はそれほど難しくは無い――追撃もあるだろうが、生身に比べて確実に限定された追撃しか出来ない。
 大きさや重量と言うのは両刃の剣。巨大であればあるほどに攻撃の際に求められる条件は険しくなっていくのだから。
 だからこその予想外。以前のシン・アスカが好んだ特攻にも似た一撃――だが、その一撃は特攻ではない。
 特攻とは思考停止の産物。現状の能力で届かないのなら文字通りその全てをぶつけて玉砕しようという特攻攻撃(バンザイアタック)。
 以前までのシン・アスカなら破れかぶれの攻撃を敢行する。刺突ではなく、ただぶつけるだけの攻撃を。“捻り込む”などという動作は思いつきもしないだろう。

「……変わったな。」

 クルーゼが呟く。嗤いが笑いへと変化する。
 左手が淡く輝く。

「試してみる、か……楽しませてくれよ、シン・アスカ。」

 遊びの笑いではなく、本気の微笑み。
 目前の脅威を駆逐するには自身の手札を切らなければいけないという愉悦の顕れ。
 クルーゼの左腕の淡い輝きが巨大化する。純白の輝きがあふれ出す――前方にかざす。
 ばちん、とクルーゼの後方の空間が“割れた”。

「――!?」

 貫かんばかりに接近していた巨大剣に、それまでは存在していなかったモノが激突していた。
 内部に複雑な機構を有し、外部に幾つもの装甲板を繋ぎ合わせたモノ。装甲は物理衝撃に対して異常なまでの強度を有する“フェイズシフト装甲”。
 それは腕。機械仕掛けの巨人の腕。

(モビルスーツの腕……!?)

 それは紛れもなく、モビルスーツの腕部。空間を割って腕だけが顕れた――現れた腕部の色は白。見覚えの無い機体。少なくとも自分は見たことの無い――どこかレイの乗っていたレジェンドに似ている気がした。
 激突する巨大腕と巨大剣。螺旋り込まれていく巨大剣の突撃を巨大腕が受け止めた。巨大剣はそれに構わず突き進むが――回転の勢いが巨大腕の抵抗によって減衰していく。
 だがその時点で既に巨大腕は原形を留めない程度に破壊されていた。
 巨大腕を突破した巨大剣がクルーゼの眼前へと到達する。速度も回転も衰え先ほどまでの威力は存在しない――それでも人間を殺すには十分すぎる威力は保っている。

 ――クルーゼの口元が微笑んだ。

 かざしていた自身の左手を柔らかに巨大剣の前へと動かす。やんわりと駄々をこねる子供をあやすようにして――そして、受け止めた。

「まさか、プロヴィデンスの腕を完全に破壊するとは……なかなかどうして楽しませてくれるようになったじゃないか。」

 左手を握り締め、巨大剣の先端に指が食い込んだ。
 言葉を言い終えると同時に右手が白く輝く。空間が割れる/爆ぜる――破片が飛び散り、そこから顕れる機械仕掛けの巨大な右腕。右腕はキャッチボールでもするかのように大きく振りかぶり、大仰に振り抜かれた。
 狙いは巨大剣・巨大斬撃武装(アロンダイト)。巨大剣にどれほどの強度が存在しようと真横からモビルスーツに殴られれば、外部の装甲や内部機構が破壊され、折れ曲がっていく。
 考えるよりも早く巨大剣の顕現を解除。
 即座にその場を離脱――移動方向は下方に移動。クロノ・ハラオウンからも目を離さない。

「つれないね、もう少し遊んでくれてもいいんじゃないのかい?」
「壊れたら弁償してくれるっていうならな。」

 軽口を叩きながらもシンの眼はクルーゼとクロノの両方を油断なく睨みつけている。
 クロノもそれが分かっているのか、動かないでいる――彼にとっても、彼女たちを連れていくことは目的の一つなのだから。
 息が止まるような緊張。
 睨みつけるシン。睨みつけるクロノ。

 ――停滞した戦場。動かそうと思えば動かせる。だが、それは、“まだ”早い。

 クルーゼが心中でそう呟く。
 まだ、早い――その言葉の意味はこの場にいる誰にも届かない。

「……まあ、今日はこんなもので良いとしておこう。」

 ぱちん、と指を鳴らす。
 ギンガとクロノの足元に魔方陣が浮かび上がり、次の瞬間ギンガの足元の“空間”がヒビ割れた。
 想起するイメージは先ほどのクルーゼの空間移動。空を割って現れる――まるで、あの時の化け物のように。

「時間切れか?」
「ああ、そろそろ戻らなければな。クライアントは時間厳守だ――君もよく知っているだろう?」
「……ああ。」

 クロノが溜息を吐き、漆黒の杖を鎖で禁縛したティアナやスバル、キャロ、フェイトに向ける。束縛していた鎖が消える。

「これ以上、厄介なことだけはしないでくれ。」

 諌めるように呟くクロノ――それを見て、シンが血相を変える。
 “足元の魔法陣”
 “時間切れ”
 “次は”
 ――時間切れなのはこちらも同じ。

「ちっ……!!」

 咄嗟にギンガのいる方向へと自らを移動させるシン。滑空というよりも落下という速度で一気にそちらに迫る。
 クロノが迫るシンに向けて、漆黒の杖を向ける/数十発のスティンガーレイが一瞬で現れる。
 五発でディバインバスターと拮抗する射撃魔法。威力は折り紙つき。非殺傷設定だろうと殺傷設定だろうと、それだけの数が命中すれば致命傷は確実。

 ――その全てを視界から忘却する。

 滑空。落下。加速。全力全開――刹那で最高速にまで駆け上る。

「行かせる、かあああああ!!!」
「……シン、アスカ。」

 絶叫のままに魔力噴射を行い一気に加速。小さく呟き胡乱な表情でこちらを見る彼女と眼があった。
 接近。手を伸ばす。彼女は一瞬不思議そうに自分を見て、その後に手を差し出して――彼女がその手を引いた。
 二人の手と手が一気に離れる。意識から追いやっていたスティンガーレイが次々と激突する。
 衝撃。爆発。無視することは出来ないほどの勢いでバリアジャケットの防御が食い破られていく。
 吹き飛ばされていくシン。無防備な状況で連続で喰らった――ギンガ・ナカジマに全てを集中させた代償。
 辛うじて防御した右腕が、防御の隙間を縫うようにして着弾した肋骨が、脚が、折れた。
 完全に折れたのではなく、ヒビ程度。それでも動きを止めるには十分すぎる。
 激痛。神経を針で刺されるような/全身全霊で無視――止まるな動け今動かなきゃいつ動く。

「ち、ぃぃぃっっ!!!」

 舌打ちしながら、迫る残る十数以上の光弾に左手を向ける。
 魔力収束変換圧縮発射――分割/照準は全てデスティニーに任せる。
 放たれる炎熱の魔力砲――パルマフィオキーナ。拡散し、幾つもの光条に分かれ、次々とスティンガーレイに激突し、相殺していく。
 その最中、開いた右手を更に伸ばす。
 手を引いた。彼女は怯えているようにも見えた。
 血走った眼をしている自分。戦いに没頭する自分。
 そんな自分を恐れているのかもしれない――それでも関係無い。怯えられても、嫌われても、彼女がそこにいることを許せない。そこにいれば、殺される。そこにいたら生贄にされる。
 例えどんな理由があろうと、そんな事実を認められる訳が無い――だから、手を伸ばす。
 信じろ。彼女が手を伸ばすと。

「ギンガ、さん……!!」
「わたし、は。」

 ギンガの瞳に色が戻る。胡乱な瞳ではなく力ある瞳に。
 浮かぶ色は迷い。その手を取るべきか否か。目前の男を信用していいのか、どうなのか。
 それは当然の迷いだ。
 記憶を失くした彼女にとって、目前のシン・アスカと言う男は初対面――それも家族の仇と教えられた男である。
 その映像に見覚えが無くとも、自分の記憶に確信が無くとも――与えられた情報がそれだけの彼女にしてみれば、それは信じるに足る――信じざるを得ない情報である。だから、ギンガにとってシンは家族の仇であり、それ以上でもそれ以下でもない。
 それが真実かどうかは関係ない。それ以外を知らないのだから。
 けれど、それでも――朱い瞳に宿る光の真剣さが気にかかる。その瞳は自分がこれまでに出会った誰よりも真剣な瞳だった。

 ――記憶が無いっていうなら、俺がどれだけでも作ってやる
 ――何も無いっていうなら俺が全部くれてやる

 それは本当なのだろうか。それを信じても良いのだろうか。
 何も無い自分。記憶が無い自分。どこにも居場所の無い自分。
 この男はそれをくれると言うのだろうか。与えてくれるというのだろうか。
 この胸の空白をこの男は埋めてくれるというのだろうか。

「……わた、しは」
「ギンガ、さん!!」

 手を伸ばす/手を伸ばす――互いに伸ばす手と手。絡み合い、溶け合い、その手が一つに――

「残念だが」

 呟く声。水を差す声。
 下卑た愉悦を滲ませた声。
 心底楽しそうな声。
 ―――聞くだけで苛立つ、天敵の声。

「時間切れだ。」

 落とし穴にでも落ちるかのようにギンガの姿がかき消える――まるで初めからそこにはいなかったようにして。

「くっそ、ギンガさん!!ギンガさん!!」

 地面に向けて手を伸ばす。魔法陣がかき消えていく。構わず、手を差し出す。ぶち当たる感触は固いアスファルト、爪が剥がれて血が吹き出るのも構わずそのまま地面を掘るようにして、その先へ――そこにはもう何も無い。

 歯軋りをしながら、周囲を見渡す。
 付近にはもうクロノもクルーゼもいない。影も形も――空間転移をしたのだとすればそれも当然。
 時間切れ。間に合わなかった。

 ――奪い返せなかった。

「ちく、しょう……ちっくしょう……くそったれええええええ!!」

 地面を思いっきり殴りつける――砕け散る道路。拳から血が舞い踊る。
 吹く風は冷たい。
 胸の奥で怒りが湧きあがる。
 どうして取り戻せなかった。
 どうして奪い返せなかった。

 ――殺すと言った。一月後に殺すと言った。

 未然にそれを防ぐ方法があるとすれば、今奪い返すことが一番だったはずだ。
 それがどうして出来なかった。
 力が足りなかった? もっと力があれば取り戻せた?
 違う、足りなかったのは覚悟だ。
 記憶喪失という予想外の状況だったから、覚悟が足りなかった――違う。

(俺が、びびったから……!!)

 記憶を失った彼女に一瞬怯まなかったか?
 そうだ、あの時、拒絶されることを恐れて、どうすればいいのか一瞬分からなかった。
 その一瞬の逡巡がコレを決めた。
 何の為に此処まで来た。何をしに此処まで来た。
 奪い返す為にだろう。
 取り戻す為にだろう。
 だっていうのに――どうして、自分は怯んだ。恐れた。逡巡した。

「……くそ…くそ……くっそおおおお!!」
「……」

 慟哭する男――見ようによっては少年と言えるほどに若い。
 胸の鼓動が大きくなる。
 同時に背筋を怖気が這い登る。

 ――強い。強すぎるほどに強い。

 ティアナ、スバル、キャロがどうして、そのシン・アスカと言う人を特別視していたのか良く分かる。
 これは、異常だ。異常なほどの強さ。ヒトの強さではない。
 もっとおぞましい――それこそ目の前の金髪の男やクロノ・ハラオウンから感じる雰囲気と同じ異質の強さ。
 化け物じみた強さ、ではなく―――化け物の強さ。
 今しがたの戦いは、自分の常識をはるかに凌駕した戦いだった。
 恐怖すら覚える強さ。戦いの最中、彼が顔に張り付けていたのは微笑み。戦闘狂の微笑み。
 理性は冷静に判断する――眼前の男性は危険だと。憎悪を感じていたのは正解だった。
 この危険すぎる男に向けるべきは友愛ではなく警戒なのだ。
 なのに――胸が締め付けられる。
 意識は、理性は危険だと告げているのに、カラダが疼くのは何故なのか。
 この感覚は何なのだろう。何だというのだろう。

 その時、彼と眼が合った。
 周囲を見渡しながら、ようやく自分に気がついたのか――それほどにギンガを取り戻すことに集中していたということ。
 ずきん――カラダ/ココロが痛む。

「……フェイト、さん。」

 彼が呟いた。自分を見ている――足元から、頭部まで全身をじっと見つめながら、こちらに歩いていくる。

「……な、何ですか。」
「……良かった。」

 微笑んだ。無邪気な子供のような、輝くような笑顔。どこか――どこかで見たような笑顔。
 ぎゅっと手を握られた――強く、二度と離さないと言いたげに。

「良かった……フェイトさんは、連れていかれなかったのか……本当に、良かった。」

 安堵するその表情。全身から力が抜けて膝が折れて、自分に向かって跪くような態勢――騎士が出陣前に主に頭を垂れるように、彼は跪く。
 本当に嬉しそうな、どこにでもいる少年のような表情――その表情に、先ほどの悪魔のような微笑みが重なる。
 ぱきん、と脳髄のどこかで音がした。
 極端な二面性。悪魔のようで、人間のようで――そんな全部を包括する化け物。
 記憶の奔流。実感の伴う/カラダを疼かせる――衝動めいた記憶の奔流。
 悪魔のようで、人間のようで、二つの異なる顔を両立させる化け物。
 自分がエリオを裏切った要因。
 自分が恋したという男。同時にギンガも彼に恋をしていた――ならば、男はどうなのか。
 どちらをも選ばなかった男。選べないまま壊れていった男。
 忘れてしまった男。
 溢れてくる幾つもの言葉と映像。
 記憶ではない、記録として蘇る想い出の残像。

「……貴方が、シン・アスカ、ですか。」

 聞かされている事実――自分とギンガがその男に惚れていたということ。どちらをも選べずにどちらも死なせてしまったこと。その結果、心を壊し、身体を壊し、比類なき力を得たこと。
 そして、エリオが裏切った原因であること。
 会ったことも喋ったことも無い人間。
 なのに出会った瞬間、それが“出会い”ではなく“再会”であることを実感してしまう。
 その手の感触を私は知っている。ココロが忘れてもカラダが覚えている。
 疼きが治まる。その手の暖かさに、体温に安堵を覚えてしまう。

「………わたし、は」

 本当は会った瞬間引っぱたくつもりだった。
 胸のどす黒い気持ちをどうにかする方法なんてそれくらいしか思いつかなかったから。
 けれど――出来そうになかった。
 泣きながら微笑む彼の顔。
 それを叩くことなど出来なかった。
 胸に渦巻く気持ちは何なのか。
 答えは出ない。

「……私は」

 声も出せずに手を握って跪いて泣き続けるシン・アスカ。
 伸ばされた手が引き戻される――
 それがどこか痛々しかった。


 シンとフェイトの再会から見て数時間後。
 場所は時空管理局本局無限書庫。この世界の全てを埋蔵する書庫。
 知識が羅列されることなく集積されていく空間。
 曰く――世界の全てが記された場所。
 そこでヴァイス・グランセニックはある部屋の前で立ち尽くしていた。

「……激務なんだな、司書長っていうのは。」

 薄暗い廊下を過ぎていった先にある場所。
 無限書庫の内部に最も近い場所に作られたユーノ・スクライアの私室である。
 クラナガンと時空管理局本局とは専用の転送ポートによって繋がれており、本来数日はかかる次元航行艦による次元移動を数時間にまで短縮する。
 これは時空管理局の主要世界――ミッドチルダなどの管理局の主要魔導師が多く在籍する世界であれば、全て導入されているモノである。
 シンと別れた後、ヴァイスはゲンヤからの計らいで無限書庫にまで辿り着いた。
 そして、この部屋の前に来るまでヴァイスは無限書庫の作業風景を目にしていた。
 時刻は20時を過ぎているが、書物を整理する職員が手を休める気配は無い――朝10時から20時までの交代制で整理を行っているらしい。また現在の司書長が就任してからは以前の数倍の効率で整理は押し進められているとか。それでも未だ半分以上が手つかずのままらしいが。

「……ぞっとするな、これ。」

 ぱっと目に付いただけでも数万――下手をすればその10倍、100倍はあろうかという書物の数。
 その一冊一冊の中身を確認し、どういった内容で、いつの時期に、誰が、どこで記したのか。

 この膨大な書物の一冊一冊全てをそうやってカテゴライズし、ラベリングを施し、整理していく。
 気の遠くなるような地道な作業だった。
 書物の整理というよりも遺跡の発掘に近いかもしれない。

 その無限書庫を取り巻く円形に連なる通路に幾つかの部屋が存在していた。
 職員は基本的にここで寝泊りを行うらしい。
 ヴァイスがいるのはその一室の目の前。
 そこが彼の目的である無限書庫の司書長――ユーノ・スクライアの自室だった。
 ここに案内してくれた事務員は単なる寝床なので寝ているかもしれない、と言っていた。
 起こしても構わないのかと聞くと、司書長は優しい人なのでその程度怒ったりはしませんよ、と返答された。

 ユーノ・スクライア。
 ヴァイス自身、面識は無いが話ならばある程度聞いている。
 高町なのはの幼馴染であり、フェイトを抜けば恐らく一番彼女と付き合いが長い男。彼女が最も頼りにするであろう男。
 そして同じく――ユーノ・スクライアも高町なのはを一番信頼しているであろうということ。

「……なんだかな。」

 別に高町なのはと誰がどうなろうとどうでもいい。これは本音だった。
 ならば、このモヤモヤした気持ちは一体何なのか。
 嫉妬ではない。ヴァイス・グランセニックが高町なのはに恋をしたなどということはあり得ない。
 多分、これは、後悔だ。
 娘を連れて行かれた、と泣いて悲しんでいただろう彼女を“見捨てた”ことへの。
 だから、ここに来た理由は命令だというだけではなく自分自身確かめたいことと伝えたいことがあったからだった。

 会ったことも話したことも無いユーノ・スクライアと言う人間にヴァイス・グランセニックは聞かなければいけないことがある。そんな使命感じみたお節介がここにいる理由の一つ。
 まだ、管理局を辞めない理由――燻り続けている理由だった。
 発端は高町なのはがヴァイスに告げたことを思い出したからだった。

 ――ユーノ君やクロノ君がヴィヴィオを連れていった。

 彼女はそう自分に告げていた。
 本当ならはやてやゲンヤに伝えるべきことだったのだと思う。
 けれど、言わなかった――言えば、止められる。ユーノ・スクライアの元にいけなくなる。
 そうなればお節介が出来なくなる。

 何か――何かが動きだしていることは分かる。だが、それが何かまでは分からない。
 だから、この時点のヴァイス・グランセニックはその重さを知らなかった。
 自分が場違いな人間なのだと気づいていなかった。

 ――ヴァイス・グランセニックは未だスタート地点にすら立っていないことに気づいていなかった。

「……」

 ノックをしても返事が無かった。
 ドアノブを回せば鍵は掛っていない――寝床、という言葉通り、眠っているのかもしれない。
 しばしの逡巡の後、扉を開けた。眠っていようとどうだろうと、自分は荷物を渡すだけ――案内してくれた事務員はこの程度では怒らないと言っていた。つまり、やってしまっても構わないということだろう。
 ――本当なら一度戻って事務員に話を通してもらうべきだと自分の中の常識的な部分がそう判断する。
 それが正しい。間違いない。
 けれど、心中に焦燥があった――早く、ユーノ・スクライアと話をしなければいけないという焦燥が。

「……失礼します。」

 室内は既に灯りが付いていた。薄暗く、私室と言うよりも確かに寝床という表現が似合う部屋だった。
 無機質――と言うよりも殺風景な部屋。生活に使う道具が殆ど存在しない。部屋は3部屋ほどあるようで、扉を開けて入った場所はリビングとダイニングが存在していた。
 テレビもラジオもオーディオも、そこには何もない。あるモノはテーブルの上に散らばった何冊かの雑誌。殺風景で無機質で生活感が欠片も感じられない部屋。本当に寝泊りしているだけで、生活などと言うものはここでしていないのだろう。

(誰もいない……奥にいるのか?)

 見れば扉の隙間から灯りが漏れている。小さく声が聞こえた。そちらに足を進める。
 ドアノブに手を掛ける――寸前、中から声が聞こえた。

「ユーノ君。もう一度だけ言うよ………ヴィヴィオを、返して。」
「無理だよ、なのは。」

 聞こえてくる声は二つ。
 一方は少し前まで毎週耳にしていた声――その前は毎日のように耳にしていた、高町なのはの声。
 一方は初めて聞く声。女性のようなソプラノボイス。
 けれど、声の中に僅かに存在する硬さのようなモノが辛うじてソレを男性の声だと認識させる。恐らく、それはユーノ・スクライアと言う男性の声。

「……何で?どうして、ユーノ君がこんなことを」
「必要があったから――じゃ、駄目かな?」

 硬質的な声音のなのはとは対照的にユーノの口調はあくまでも柔らかだ。
 ただ穏やかに、言う事を聞かないヤンチャな子供に言い聞かせるように、なのはを諭している。

「そんなの……認められる訳、無いよ。」

 彼女が僅かに身を動かす音。何かを構えるような音。

「……ユーノ君、お願い。ヴィヴィオを」
「なのは。」

 誰かが――恐らくユーノ・スクライアが、ぱちん、と指を鳴らす。
 穏やかな声が一転して硬質的な――感情の籠らない声に変化する。

「――ユーノ、君。」

 なのはの声から滲み出る感情は悲哀。
 扉は閉めたまま。中は見えない――それでも断言できるほどに強い悲哀。絶望。
 僅かに声が尻すぼみになっていくのは涙ぐんでいるからか。
 脳髄が沸騰する。奥歯をぎしりと噛み締める。
 ドアノブを静かに音を立てないように回す。左手を懐のドックタグ――ストームレイダーに伸ばす。

「これは運命なんだよ。ヴィヴィオは、世界を――」

 ――扉を押し出す。

 ストームレイダーを待機状態から戦闘状態――スナイパーライフルの姿に展開。
 中に入ると同時に構える。弾丸は既に装填済み。即時発射可能。

「動くな。」

 告げて内部を見渡す。予想通りの構図がそこには展開されていた。
 管理局の制服に身を包み、右手に杖を持ったまま全身をリング状のバインドによって緊縛されている高町なのは。
 椅子に座り、背中を向けながら、微動だにしない男性。栗色の髪と蒼い瞳――ユーノ・スクライア。

「……ヴァイス君、どうして、ここに。」

 なのはは驚いている。ここにいるはずの無い人間だからだろう――自分も同じだ。まさかこんなところで再会するとは思いも寄らなかった。

「……君は、確か機動6課の」

 対照的にユーノ・スクライアは微動だにしない。
 まるで自分がここにいることを知っていたかのように、驚く素振りさえ見せない。
 構えたストームレイダーの銃口はユーノに向けたまま――衝動的に部屋に入ってしまったことを今さらながらに後悔する。
 自分は何をしているのか、と。

(馬鹿だ、俺は。)

 毒づく。
 溢れ出す感情――嫉妬?義侠?憤怒?分からない。ただ目の前の現実をやり過ごすことが出来なかった。

 ――君はそういうのが出来ないもんね。

 脳裏で弾けるいつかの言葉の羅列。
 割り切ることも前に進むことも出来なかった自分自身。

 ―――“だから”、さっさと来て下さいね、ヴァイスさん……!!

 思いだした言葉に更に苛立ちを感じる。
 思考をかき乱す自分でも訳の分からない衝動――しかも、止める間も無いほどにその衝動は早く行動に結びつく。
 上手く立ち回ろうと思えばもっと上手く出来たはずなのに、どうしてこんなことをしたのかなんて自分でも訳が分からない。気がつけば、銃を構えていた。
 銃を構え、狙う。滞りなく反射的に自動的に行われるその行為に失敗などはあり得ない。
 撃てば命中する――そんな絶対の距離。

「……此処でソレを構えることがどういうことか分かっているのかな?」
「……洒落にならないことだってことくらいは分かってるよ。」

 銃口を向けられたユーノの態度は変わらない。
 この距離で射撃魔法を喰らえば、非殺傷設定の影響下であってもそれなりの損傷を肉体に与える。
 致命傷、とまではいかないだろうが、後遺症が残らないとは言い切れない。
 なのに、目前の男に警戒心は無い。
 単なる脅しで撃てないとでも思っているのか――それとも例え撃たれても対応出来る自信があるのか。

 ――実際、撃てるかどうかと言えば撃てはしない。撃った時点で次元犯罪者の仲間入り。この場所から逃げ切れるはずもないし、逃げ切ったところで行くあてなどあるはずもない。
 ……時空管理局本局でデバイスによる戦闘を行うなど正気の沙汰では無い。
 はっきり言ってしまえば、今のヴァイスが出来るのはストームレイダーを突き付けることで脅すことしか出来ない。
 その事実に思い至った時、両腕が震えそうになるのを自覚する。

(……俺は、一体、何をしてるんだ。)

 直ぐにでもこの銃を下ろして、平謝りして無かったことにしたい衝動が湧きあがる。
 これは一瞬の気の迷いに過ぎない。これは違う。こんなことを自分はしたくない。
 だから、自分は関係ない。こんなことをしたくてやった訳ではない――声がかかる。優しく穏やかな、諭す声。

「ソレを下ろすんだ、ヴァイス・グランセニック。」

 奥歯をぎしりと噛み締めて、“再度構え直す”。

「やめるんだ。君は何も知らない……ここで撃てば何も知らないまま何も関係が無いことで全てを失う。」

 見下ろすでもなく、見上げるでもなく、彼はただ自分を心配して声を掛けている。
 嘲りではなく、ただ純粋に慮った声。
 それが余計に苛立ちを加速させる。
 自分でも訳のわからない衝動を巨大化させる。

「ヴァイス君、やめて……!!」

 なのはが叫ぶ。叫びと言うほどに大きくは無いが――その声が引き金に指を掛けさせる。
 募る苛立ち。巨大化する衝動/暴虐――神経を蝕む疎外感/孤独。
 右手の人差指に力が籠る。撃ってしまえ/やめろと理性が叫ぶ――真逆の行動をする身体と理性。

「……っ」

 脳裏で天秤が見えた。
 秤に乗せられているのは自分の未来と自分の衝動。
 どちらを取るかは明白――衝動に従って、全てを失うのは絶対に嫌だった/負け犬の言い訳――黙れ。逡巡する心象。

「……その人を、離せ。」

 ユーノの瞳がこちらを射抜く――内面全てを踏破されたような感覚。
 ぞくりとするココロ。

「一つ、教えて欲しい。」

 ユーノは動かない。動かないまま、言葉を紡ぐ。

「君は何の用で此処に来た?」
「……あんたに、これを渡す為に、だ。」

 そう言って、はやてからの指示通りに手に持つ茶色の封筒を懐から取り出す。
 ストームレイダーは構えたまま。狙いは外さない。

「……はやてから、だね?」
「……」

 一瞬でその事実が看破されたことに驚愕する。だが、表には出さない。振り絞った自制心で必死に表情から驚愕を排除し無表情に徹し、沈黙する。
 ――その沈黙が、何よりも雄弁に語っていることを知りながら、黙る以外に選択肢が存在しないことに情けなさがこみ上げてくる。
 ユーノの瞳が覗き込むようにこちらを見た。
 眼鏡越しの本来は柔和な瞳が放つ光は鋭く、銃を突き付けているというのに寒気がする。
 話に聞いていたのとはまるで違うその印象に、恐怖すら感じる。
 ユーノ・スクライア。高町なのはの幼馴染で彼女をこの世界に連れ込んだ張本人。優しく穏やかで、けれど言うべきことはしっかりと言う一本筋の入った性格。
 今、目の前にいる男はそんな一本筋の入った程度の男ではない。
 普通、銃口を突き付けられれば眼の光に変化が生じる。
 銃口とは即ち死そのものとも言えるからだ――非殺傷設定を常識とする魔導師の世界においてもそれは変わりない。非殺傷設定の影響下であっても、絶対に死なない訳ではない。死に辛くなるだけなのだから。
 だから、事実がどうあれ、普通は眼の光が変化する。
 恐怖か、憤怒か、諦観か。
 何かの感情が浮かぶはずだ。
 なのに、目の前の男は、銃口が見えていないかの如く、あまりにも“普通”だった。変わらない。
 表情も態度も振る舞いも口調も――何もかもが変わらない。
 おかしなほどに、変わらないのだ。

「君はこの中身が何か、知っているのか?」
「……知る訳、ねえだろ。」

 ゆっくりと絞り出すように告げる。
 何かを調べる為だとは聞いていた。
 だが何を調べるのかも、何のために調べるのかも、何も知らない。別に知る必要も無いから、聞こうとも思わなかった。
 そうだ――自分は何も知らない。シンやはやては何かを知っているようだった。ゲンヤも、ドゥーエとか言うナンバーズも。
 自分は何も知らない――そんなことは当然だ。知る必要も無い。上司の命令に従う際に理由を問う馬鹿はいない。

「……だったら、話は簡単だ。」

 ふと思案するように瞳を閉じて、沈黙するユーノ。
 秒針が進むのを嫌に遅く感じる――ユーノが瞳を開く。
 どこか横顔には寂寥感が灯っていた。

「その手紙を置いて――なのはを連れて此処から出て行くんだ。君には、関係がない。」
「っ……!!」

 一瞬その物言いに脳味噌が沸騰しそうになり、引き金に力を加えようとする――その衝動を抑え込んで、口を開く。

「関係は、ある。」
「……」
「その人は、俺の……上司だ。関係無い訳が無い。」
「ヴァイス、君」

 なのはがこちらを見ているのを感じ取る。何故かソレに無性に苛立ち頬を歪ませる。
 目前のユーノが溜息を吐いた。
 その姿は、どこか全てを諦めた老人のような姿に見えた。

「知らない方がいいこともある……知ってしまえば戻れなくなる。」
「何のことだ。」
「絶望だよ。」

 繋がらない、噛み合わない会話。
 絶望、と男は告げた。

「絶、望……?」
「半年後、世界が滅びるとしたら、君はどうする?」

 ただ反射した言葉。その言葉にユーノは構うことなく、告げる。
 絶望――彼が知った絶望の一端を。

「……世界が、滅びる?」
「世界は、あと半年で消えて無くなり――そして、それを防ぐために、“二人の人間”を犠牲にする。」

 訳が、分からない。

「あんた、何言ってるんだ。」
「絶望だよ。真実と言う名の、ね。」
「真実……?」

 ユーノ・スクライアと再度、眼が合った。
 隠し切れずに滲み出る虚ろ――絶望の瘴気。
 戦場で誰もが知る狂気の一種――正気を保つ為に必要な狂気。
 その眼を見て――その絶望が真実なのだと確信する。
 それは狂気になるほどの信念。決意。覚悟。
 愕然と、その“違い”を明確に感じ取る。
 自身の衝動でしかない行動と彼の決然たる決意の結果となる行動。
 その二つの明確で残酷な違いを実感する。

「それだけの話さ……救う為に、生贄になる為に、“高町ヴィヴィオ”と“ギンガ・ナカジマ”は選ばれた。」
「そんなの……!!そんなこと……!!」

 その言葉を聞いて、なのはがバインドを解除しようとデバイスに魔力を込める。

「……運命なんだよ、なのは」

 告げて、ユーノの細い中指と親指が打ち合わされて、ぱちん、と軽い音が鳴り響いた。
 なのはの肉体を縛り付けるバインドに一瞬紫電が走る。
 身体を震わせる――眠らせたのか、気絶させたのか、なのはの瞼が落ちて行く。

「あ……は」

 膝が折れて、壁に体重をかけるようにして、なのはの身体が崩れ落ちて行く。バインドによるモノなのか、その崩れ落ち方は自然なモノではなく、抱きとめられているかのように、優しく床に崩れ込んでいく。

「あ……あ」
「やめておくんだ、ヴァイス・グランセニック。」

 咄嗟に引き金を引こうとした瞬間、突然、背後から声が聞こえた。
 同時に後頭部に感じる温かさ――体温。人の指が、突きつけられている。
 その声には聞き覚えがあった――否、聞き覚えがあるどころではない。
 何せ、その声は、数ヶ月前の戦闘で自分たちに指示を出していたのだから、忘れるはずもない。

「……ヴェロッサ、部隊長」

 それはヴェロッサ・アコースの声。機動6課の元・部隊長。

「変な気は起こさないでくれ……僅かな間だったとは言え、部下を殺したくないんだ。」
「……あんたも、なんですか。」
「……。」

 ヴェロッサは答えない。ただ無言で指を押し付けている。

「……君は、どうする?」

 ユーノが告げる。最終宣告とも取れる言葉。
 訳のわからない事実――真実。
 世界が滅びる。消えてなくなる。
 犠牲者は二人。生贄は二人。高町ヴィヴィオ。ギンガ・ナカジマ。
 それによって世界の滅亡は防止できる。
 あまりにも大きすぎる話。
 予想などしてもいなかった事実。
 水は高きから低きへと流れていく。重力に従い、下へ下へと流れていく。楽な方向へと流れていく。
 人間も変わらない。人間も高きから低きへと流れていく。楽な方向へと流れていく――流されていく。
 衝動がここまで身体を動かした――けれど、その衝動で得られるモノが何かも分からない。
 自身の未来を放り投げる意味がどこにあるのか。

「俺、は……」

 何もかも無かったことにしてくれると、目の前の男は言っている。
 諦めてしまえば、楽になれる――少なくとも、未来をドブに捨てるような真似はしなくてもいい。
 胸の鼓動が――沈静する。引き金に掛けた指が離された。
 目の前には眠り続ける高町なのは。
 それを優しく見守るユーノ・スクライア。
 あまりにも場違いなヴァイス・グランセニック。
 後方で沈黙するヴェロッサ・アコース。

「……渡すものを渡した、から……俺、は……」
「彼女を、連れて帰ってあげて、くれないか。僕は、もう……そういうことをしちゃいけないから。」

 血を吐くようにユーノが告げた。

「……そ、う、です、か。」

 心は、折れて、流れていく。高きから低きへと――常識と言う川の流れに従って。
 誰もが楽な方へと流れて行く。誰だって楽な方へと流れて行く。
 誰だってそうだ――だから何の得にもならない自分が、何か出来る訳でもない自分が、楽な方へ流れて行ったって誰も責めはしない。
 世界は滅亡する。だから世界を救う。
 あまりにも場違いな状況――そんな状況で一体ヴァイス・グランセニックが何をするつもりだったのだろう。的外れな義侠心の生みだした衝動に身を任せた結果――胸に湧き上がる羞恥。
 影響を受けたせいだと心中で呟く。シン・アスカの影響を受けたせいだと。
 あんなバケモノみたいに強い奴と一緒に戦って、手助けが出来て、胸の中で燻っていた何かが目覚めて――そう、なれなくともその手助けくらいは出来るんじゃないかって勘違いして。
 アイツのせいで――そうやって責任転嫁してどうする。意味が無い。何も意味が無い。
 影響を受けたのは自分自身。そこに、シンのことはまるで関係無い。
 ヴァイス・グランセニックが勝手に影響を受けて、勝手に勘違いして、勝手に場違いなことをして――勝手に気づかされた。ただ、それだけのこと。

「…………分かり、まし、た。」

 瞳を見開いて呟いた。
 もう、何も考えたくなかった。

 ――その後のことはよく覚えていない。
 なのはを背負って、管理局本局からクラナガンへの転送ポートに乗って――そこから彼女を背負って歩き続けて。
 不思議と重さは感じなかった。
 本当に、羽のように軽かった。
 だから、彼女の部屋に着いてから、ベッドに寝かせるのも簡単だった。
 どすん、と重さを思い出したかのようにベッドが音を立てて軋んだ。彼女は一瞬呻きを上げたものの、眼を覚ます様子は無かった。
 ユーノが行った魔法がどんなものかは分からないが、ここに来るまでの数時間、彼女は一度も目を覚まさなかった。
 背におぶっても一度も目を覚ますことなく眠り続けていた。それなりに揺れていたはずだから、ここまで眠り続けるのも、魔法の力なのだろう。
 その時のことを思い出して、知らず頬が歪む。

「……凄いんだな、天才ってのは。」

 呟く――卑屈に。
 嗤う――醜く。
 歪む――嘲笑へ。

 凡人とは違うのだと。自分とは違うのだと。くだらない言い訳が頭の中を駆け巡る。
 心中の誰もが呟く。
 それが正解だ。お前のやったことは正しい。だってあの場にいてもお前は何も出来ない。駄々をこねて、ユーノやヴェロッサを困らせて――もしかしたらなのはだって困っていたのかもしれない。
 あの場で自分があんなことをする理由は何も無い。
 その癖、怖気づいて、見捨てて。

「う……ん」

 なのはが寝返りを打った。
 身体がビクリと反応する――込み上げる罪悪感。
 胸を打つ痛み――後ろめたさの生み出す鼓動の重さ。
 震える手。
 自分の言葉を思い出す。情けなくて、格好悪くて、惨めで、最低で――目を逸らす。後ずさる。
 怖い。彼女が目を覚ました時が。
 このままここにいて何と言うのか。

 “二人が犠牲になるのが一番楽なので逃げてきました。”

(……違う。)

 あの時の自分が出した決断は正にソレだ。
 今、彼女が起きた時に自分が告げる“真実”もそれだ。
 自分が持つ真実はそれ以外に無い。

(……違うんだ。)

 見捨てた。流された。
 放つ言葉も紡ぐ思考も全てそれを押し隠す為の言い訳だ。
 ヴァイス・グランセニックの放つ全てはそんな言い訳と嘘に満ちている。
 関係無い?関係無い訳が無いだろう。
 ヴァイス・グランセニックにとって高町なのはは元とは言え同僚であり仲間だ。
 高町ヴィヴィオとはまともに話したことは無い――けれど、仲間の子供だ。機動六課はその為にゆりかごを落としたのではないのか。あの時の自分の狙撃もその為じゃないのか。
 ギンガ・ナカジマだって同じだ。それに、ヴァイス・グランセニックは知っている。知らない訳が無い。わざわざ本人から聞いたはずだ――そう、シン・アスカから聞いたはずだ。あの男は彼女を取り戻す為に戻ってきたのだと。正確には彼女たち、だが。

(だから、違う、違う、違うんだ……俺は、そんな)

 自問自答。
 自分の中に別の誰かがいて自分を叱責する。
 別の自分――自分自身の罪悪感の発露。叱責されることで楽になりたいという甘えの具現化。
 言い訳も、叱責も、何もかもが自分の生み出した自作自演。
 その事実には気づいている。
 20年以上生きていれば、そんな事実にはすぐに気付く――そしてその事実に気づかない振りだって簡単に出来る。
 そうやって、甘えてさえいれば、少なくとも自分を保つことが出来る。
 そうやって、言い訳さえしていれば、少なくとも誰にも非難されていないという罪悪感から逃れられる。
 そうやって、怯えてさえいれば、少なくとも誰かを見捨てたことも仕方ないと言い逃れが出来る。

 気づくな――気づくな。
 表層に現れようとする本音を内側に押し戻す。

「……くそ。」

 毒づくことすらもまた言い訳。
 仕方がないのだという、ていの良い諦観を誰かに見せつける為――多分、自分自身に見せつけて納得させる為に。
 逃げるように、ヴァイスはなのはの部屋を後にする。
 残された暗闇の中で、高町なのはが泣いていることにも気付かないまま。
 そこに――コタエがあることに気づかないまま。
 彼女の瞳から涙が一筋流れて行く。
 怖い夢でも見ているのだろう――もしくは先程の悪夢のような現実を繰り返しているのか。
 なのはの桜色の唇が動く。
 言葉を紡ぐ――それは名前。求める誰かの名前。

「……ユーノ君、ヴィヴィオ。」

 呟きは、虚空に溶けていく。
 彼女の根幹にある誰か。彼女が無意識に求める誰か。

 ――そこに決してヴァイス・グランセニックは入らない。

 答えは、そこに――彼女の胸の奥深く、誰の声も届かない深淵にこそ存在する。
 彼女自身、気づいてもいない、小さな小さな恋慕。
 少なくとも――ヴァイス・グランセニックではない誰かに向けられた小さな小さな恋の花。
 そこに答えが存在することを、彼は知らない。


 扉を開けて、外に出る。
 吐く息が白い――今にも雪が降ってきそうな、ネオンの灯りが照らす曇天の空。

「……くそ。」

 毒づいて、部屋を後にする。彼女の部屋の鍵は閉め、郵便ポストに落としてきた。
 書き置きはしていないが、ストームレイダーから、その旨を記したテキストメールを送ってあるのですぐに気付くだろう。
 これで――おしまいだ。
 彼女との縁は終わる。
 錆びついて軋む心が、これからの自分の道を狭めて決定していく。
 もう、部隊には戻れない、と思う。
 ゲンヤの娘を、シンの大事な女を、なのはの娘を見捨てる選択をした自分。
 言わなければ誰にも分からない――誰が言わなくても自分だけはそれを知っている。
 その罪悪感に自分は耐えられる訳も無い。
 今すぐにでもその事実を伝えてしまえば、まだ良いというのに、その後徹底的に奪われるかもしれない自分自身の未来を考えて、言えない。
 誰だってそうする。
 自分だけじゃなくて、他の誰もがそうやるに決まっている。
 だけど――

「……見捨てて、いいわけ、ねえ、よ、な。」

 然り。それがまかり通る世界を誰が望む。
 結局のところ、全ての感情はそれが発端なのだ。
 見捨てたこと。逃げ出したこと。ココロが折れたこと。
 それを抱えたまま、その罪悪感を抱えたまま生きて行くなんて出来るはずが無い。忘れるのが一番だ。
 何もかも忘れて、田舎に帰ってしまえばいい。
 自分には関係ない。だから徹底的に関係を無くしてしまえば、誰も気づかない。
 元々、辞めようかと考えていたのだ。
 良い機会だ――そう思って、懐のドッグタグの形状をしたデバイスに握り締める。

「……もう、終わりにして、いいよな。」
『Iamyourtool.Obeyyourintention.(私は貴方の道具です。貴方の意思に従います。)』

 いつも通りの簡潔な言葉。
 今はその簡潔な言葉が何よりもありがたかった。
 同情も、非難も何もいらない。

 ――もう、何もかも忘れよう。

 そう思って、溜め息一つ。空を見上げた。
 本当は星空でもあれば、感傷もしやすいのだろうけど、空には星も無い。
 曇天の中で見えるものは、ネオンの輝きに照らされた雲くらいで――絡み合いぶつかり合うようにビルの屋上から屋上へと音も無く、動く人影が四つ。

「……え?」

 もう一度眼を凝らしてみる。
 人影は四つ。三つの金色の輝きと一つの蒼みがかった黄金の輝き。流星のように動いていく。
 金色の輝きは時に離れ、時に絡み、蒼い輝きとの間で一定の距離を保ちながら接近と離脱を繰り返す。
 蒼金の輝きは、金色の輝きから逃げるようにビルからビルへと高速で移動する。
 ここからの距離はおよそ1km――それだけの遠距離から見ても高速と思えるほどの超高速。

「何だ、あれ。」

 金色の輝きが一際強くなる。輝きが巨大化する。
 三つの金色と一つの蒼い黄金が激突した――輝きがどちらも消失した。

「……お、おい。」

 数分間、その場に立ち尽くした。
 輝きは――消えたまま。
 変化は無い。動きは無い。

「……。」

 ごくり、と唾を飲み込み、いつの間にか足が動いていた。
 その人影が消失した場所に向けて、歩いていく――歩行は走行に。走行は疾走に。

「……」

 誘蛾灯に誘われる蛾のように自分の身体が動いていく。
 息を切らしてそちらに走っていく。
 ただ無我夢中で走っていた。
 何の為に――分からない。自分でも訳のわからない行動。
 そこに何かがあるのか。分からない。けれど足が止まらない。
 蒼みがかった黄金の輝き。その色に見覚えがあったからかもしれない。
 そんなことはありえない。
 敵になってしまったある男。
 理由は分からない。けれど――自分たちを裏切って敵になった男。

(まさか。)

 近づく。
 ネオンに照らされた歓楽街。その裏側。
 先程見た輝きの距離と角度から大よその場所は分かっている。
 惑うこと無く、路地裏に入り、歩を進める。

「……ちっ」

 顔をしかめて舌打ち。
 悪臭がする――誰かが酒に酔って胃の内容物を全て吐いたのだろう。
 それ以外にも幾つものアルコールの匂いと捨てられた生ごみ――誰かの喰い残しの匂い。
 道路は一部陥没し、それほど深いところに埋設されていなかった下水道が剥き出しになっていた。
 中には幾つもの固形物――白、茶、黒、茶――が流れて行く。蠅がたかり、悪臭を放っている。
 どうやら、汚物の匂いも混ざり込んでいるらしい。
 見なければ良かったと後悔しつつも足は止めない。

「……ここらへんのはず。」

 集合住宅に囲まれた路地裏の行き止まりに突き当たる。
 右を見てもアパート。左を見てもアパート。どこにも行き場は無い。
 悪臭がすることから誰もが窓を閉じてカーテンを閉めている。
 住宅の密集地帯ではしばしばこういうことが起きる。
 それこそ都会でも田舎でも関係は無く。
 周囲を見渡す――いるはずなのだ。
 ヴァイスの感覚では確信に近いレベルでそれを告げている。
 どういう原理なのかは分からないが、昔からそうだった。
 ただ見ただけで、目的物との大よその距離が何となく分かる。
 また、目的物が移動したとしても、見えているなら、何となくどの方向にいるのかも分かる。
 ヘリパイロットを志した理由の一つがそれだった。実際はあまり役には立たなかった。
 そんな能力が必要になる状況も特には無かった――単に勘が良い程度の代物。
 こういう時くらいしか使い道の無い意味の無い特技。

「……う、ぁ。」

 うめき声。反射的にその方向に振り向き、デバイスを構えた。
 そこには何も無い。ただ集合住宅の壁だけがあった。
 眼を凝らす。声が聞こえた。狙撃手という職業柄音には敏感だ。
 その自分が聞き間違えるはずが無い――方向を間違えることなどあり得ない。
 聞こえた。ならばそこにいる。
 確実に、そこにいるはずなのだ。
 ストームレイダーを構えたまま、声の方向に静かに近づく。
 両の眼は僅かな変化も見逃さないとばかりに見開いていた。
 刹那、空間に変化があった。 
 僅かな波紋――ティアナ・ランスターの使うオプティックハイドと同じ類の魔法。
 ティアナよりも随分とお粗末な精度だが。

(いる。)

 近づく。
 引き金に指を掛ける。
 近づく。波紋はもう目の前。

「……おい。」
「―――っ」

 その波紋が消えた。
 ばさり、と布がはためく音がした。蒼い黄金の輝きが漏れた。
 ひゅん、と風を切る音がした――時には既に首筋に刃が突きつけられていた。
 何百枚もの羽を刀身の峰から生やした反りの入った大剣。
 血まみれで所々が破れた黒いコート。
 髪の色は深紅の紅。
 血と泥に塗れて、汚れきった顔。
 腕や脚には数えきれないほどの裂傷。
 見た目は10代後半の男性――

「ヴァイス、さん……?」
 
 ――なのに、声だけは子供の声で。

「……やっぱり、お前だったのか。」
 
 茫然とこちらを見る、今にも倒れてしまいそうなほどに疲弊しきった顔。
 10代後半どころか20代と言っても通用するかもしれない。
 裏切って、見た目も力も全て変わり果てた男――子供のなれの果ての姿。
 
「エリオ。」

 エリオ・モンディアル。
 それは大切なモノを守る為に悪魔に魂を売った子供。



[18692] 第四部ミッドチルダ風雲篇 70.愛の病(a)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/06/02 17:19
「……本当にそれ以外に方法は無いのか。」
「ええ。この方法以外で世界を救うのは不可能です。」

そこは時空管理局本局内に存在するクロノ・ハラオウンの私室。
室内にいる人数は3人。
部屋の主であるクロノ・ハラオウン。
柔和な表情と金髪が印象的な女性――カリム・グラシア。
そして、

「何事も生贄は必要です――理解しているはずですよ、ハラオウン提督。」

金髪に白い仮面をつけた男が呟いた。
提督、と呼ばれた瞬間、クロノの顔が歪む。目前の男への嫌悪を隠そうともしていない。

「……だから、ギンガ・ナカジマと高町ヴィヴィオを犠牲にしろと言うのか?」
「その通り。大多数を救う為に、小数を犠牲にする――誰でもやっていることです。」

仮面の男は機械的な丁寧な口調で語る――どこか“読みあげている”ような感覚すら感じさせる。
口元には微笑み――クロノはその微笑みが気に食わない。
微笑んで話す話題ではないと言うのに、目前の男は微笑みながら語り続ける。

「拒否するのならば、それも構わないでしょう――その場合は貴方の家族の安否は保障できませんが。」

その一言でクロノの雰囲気が一変する。
瞳が鋭くなり、声が一段低くなる。その瞳が仮面の男を睨んだ――威嚇行為にも似た敵意の発露。空気が帯電したような錯覚すら覚えるほどに圧力を伴ったソレを叩き付けた。

「……脅迫するつもりか。」
「取引ですよ、クロノ・ハラオウン。」

だが、仮面の男はクロノが放つ敵意などどこ吹く風と言う具合に飄々と会話を続けていく。
敵意を受け流すでもなく、敵意を撥ね退けるでもなく、あくまで自然に受け止めて――敵意など最初から存在しないとでも言いたげに“親しげ”な様子は見る者に得体の知れなさを抱かせる。
知己であるカリム・グラシアの部下でなければ、既に追い返していることだろう――無論、そのカリム・グラシアもどこか異常だ。
クロノの知るカリム・グラシアと言う女性は厳しさこそあれど、優しい女性で――少なくとも、こんな微笑みはしなかった。こんなことを平然と行うような女性では無かった。
彼女と眼が合った――瞳の水面に浮かぶ感情。
ぞくり、と肌が粟立つ。

――これは、誰だ?

穏やかで女神のような微笑み――そこまでは良い。そこまでは。
そこに入り込んだ艶やかさが惧れを感じさせる。
天使のような笑顔の裏に隠れる悪魔――そんな印象を受けさせる。

「……どうされました、クロノ提督?」
「騎士カリム……貴女は本気でこんな馬鹿げたことを―――」

その瞳が細く鋭い矢のように自分を射抜いた。
思わず、身が竦む。

「世界を救う為ですよ、クロノ提督。」

歌うように――謳うように――唄うように。
奏でられるは悪魔の旋律。
人間では抗えない悪魔の唄声。

「世界が滅びれば――ミッドチルダどころか、管理局が滅びるでしょう。そして、全ての次元世界も同じく滅ぶ。」

呟かれる言葉は馬鹿げた単語の羅列。
一笑に付す相応しい世迷言。
なのに、

「予言に記されてしまった以上、これは絶対に発生します――世界が滅びると言う“現象”なのですから。」

預言者の著書という彼女の持つ希少技能。
この世界に既に存在している情報から予想される事象を無作為に記していくと言う魔法。
紡がれた事実の内、人為的要素が介在する予言は場合によって変化し、発生しないこともありうる――だが、自然現象などの人為的要素が介在しないモノについては別だ。予言された以上、地震や噴火などという“現象”は確実に発生する。
故に、世界が滅びるなどという馬鹿げた現象は確実に起きる。
記されたと言うことは、起きると言うことなのだから。
昨今ミッドチルダで起きている幾つかの事件もそれを示唆しているとすれば――辻褄が合うのも道理なのかもしれない。
カリムの後に続くように、仮面の男が語りかける。

「……全てを救うことなど出来はしません。大多数を救う為に、小数を切り捨てるのは、当然の摂理――貴方なら分かっているはずです。」

仮面の男が、真摯に伝えてくる事実。
その通り、世界というのはそれほど甘くは無い。多くを救う為に、小数を切り捨てるなど至極当然のことだ。
クロノ・ハラオウンであるならば、そんなことは当然知っている。
これまでの人生において、何もかもを救うなどという馬鹿げた理想を貫くことなど出来はしないと知らされて――何度煮え湯を飲まされたかなど分からない。
だから、理解している。理解していて、尚、それは認めがたい。
認められるはずもない――彼の得た喪失がそれを認めさせるはずがない。
だが、

「家族をこれ以上――」

仮面の男の唇が、“歪む”。それまでの真摯な態度が掻き消える。悪魔のように“強欲”の微笑みを浮かべて、クロノを見つめる。
口調はそれまでと同じ丁寧な敬語――既に慇懃無礼と言えるモノだ。

「――失う訳にはいかない。そうでしょう?」
「……貴様。」

胸が苦しい。
自然、奥歯を噛み締めて、目前の仮面の男を睨みつける――烈火の如き視線で。

「一つの世界と、二人の人間を犠牲にする――それだけで全てが救える。貴方の家族も、貴方の大事な人々も、全て、救える。」

幼い頃に父を失い、そしてつい先日義妹を失った――残された家族。彼にとって、それは是が非でも守らねばならないものだ。
失ったモノはもう戻らない――父も妹ももう戻ってこない。
母と妻、子供たち――決して失えるはずがない。

「……。」

守れなかった妹がいる。愛していた家族。守れなかったのは自分のせいではない――守れなかったと絶望した男がいた。だが彼のせいでもない。

――悪魔の囁きは誰にでも等しく舞い降りる。
誰にだって優先順位は存在する――同じようにクロノ・ハラオウンにも。
家族を優先しない。それがクロノ・ハラオウンの魔導師としての矜持だ。公人であるが故に、身内は一番最後にする、と。
だが――だからこそ、彼は家族を選ぶ。
救えるのならば――救わなければどうする。
彼は既に一人を守れなかった。守らなくてはならなかった家族を――妹を。
これ以上失くす訳にはいかないのだ。

その時、クロノ・ハラオウンはある意味では叩き折られ、ある意味では叩き直された。
顔を上げる。瞳に色が籠る。それまでは無かった色――覚悟と決意。
魔導師ではない、クロノ・ハラオウンとしての決意。

「本当に、守れるんだな。」
「ええ、私たちに協力してもらえれば。」

仮面をつけたまま、金髪の男は手を伸ばす――醜悪な微笑みを張り付けたまま。

「貴方の家族とこの世界――全てを救いましょう。」

ラウ・ル・クルーゼは呟いた。


――羽鯨によって喰われて世界は滅びる。

それは世界を覆い尽くす絶対法則。何よりも――物理法則ですら、その絶対真理の前で霞んでしまう。誰が何と言おうとソレは変わらない。
それは既に確定されてしまった法則だ。
世の中のありとあらゆる全てと同じく、一度確定されたことはおいそれとは変わらないのだから。

――世界を救うにはギンガ・ナカジマが生贄になる必要がある。

何かを為す為には代償が必要だ。それこそ世界を救う為には大きな代償が。
人一人の命ですら、世界という概念の前では塵芥と同じように軽すぎる。
故に――その代償は“軽すぎる”。
魔法であろうと物理であろうと人生であろうと何であろうと、物事の原則とは等価交換である。
その事実が変化することは無い。もし、それを覆すモノがあるとすれば――それは奇跡という名の妄想だ。

――彼女は世界を救って死ぬのです。純粋無垢で、清廉潔白な、真なる聖女として、彼女は捧げられる。

それは世界に捧げられる生贄。世界の全て――目に映る映らないを問わない全てを救う自動的な救済存在。
それこそが聖女。世界全てを救い、世界に捧げられる供物。

――一月後、ギンガ・ナカジマは、羽鯨の受肉するべき器となって、聖王によって滅ぼされる。

一ケ月後、その救済は実現される。
それを嘘だと跳ねのけるには――シン・アスカは羽鯨に近すぎる。その身の根幹に根差した羽鯨という存在がシン・アスカに教えるのだ。
それは事実だと。
ギンガ・ナカジマは殺されるのだと。
そうでなければ世界は救えないのだと。
それが最も正しい正義なのだと、シン・アスカの本能が教えている。

――これは滅びの未来に支配された宇宙の運命を真っ二つに叩き切る、ある一人の男の物語。



湿った空気。
廃屋の中の階段を下りていく――前方にいる長髪を後方で一つに束ねた男を先頭に、黙り込んだまま階段を下りていく。
階段は初めこそコンクリート造りの階段だったのが、途中から鉄骨で作られた螺旋階段へと変わった――どこか、ラクス・クラインの別荘にあったシェルターを思い出させる。
外部から見ただけでは決して分からない場所――誰が喫茶店の下にこんな地下が存在していると思うだろうか。
室内にはハイネとデュランダルがいる。彼ら二人に導かれ、ここに来た。

「ここだ。」

ギルバート・デュランダルが扉に手を掛けた。重苦しい音を立てて開いて行く。

「……ここ、は。」

明かりが、室内を照らしだす。
薄暗い光だけでは分からなかった全体像がはっきりと見えてくる。

「元々はシェルターとして用意されていたらしい――随分と古い時代のものだろう。」

デュランダルが呟くその言葉通りに、室内の意匠はどこか古めかしい――コンクリート造の白い壁。所々にヒビが入っている――いつ壊れるのか、それとも永遠にこのままなのか。
床も同じくコンクリート造――フローリングなどしてある訳でもない、ただ打設しただけのそれを造と言っていいものかは悩むところだが。
幾つかの部屋に分かれているのか、出入り口が4つあった。
そうやって、周囲を訝しげに見回す自分を尻目にデュランダルはテーブル――以前赤福にあったモノと同じモノ――の横に置かれている椅子に腰を掛ける。

「キミも座ったらどうだい? 立ちっぱなしは疲れるだろう?」
「……。」

無言――返答は返さずに腰を下ろす。表情は仏頂面のまま――もしかしたら機嫌が悪いとでも思われているのかもしれない。
そう思われたなら良い――そんなことを思い浮かべながら、倦怠感と疲労感にから嘆息を吐きそうになるのを我慢する。
呻きを上げずに、無言のまま――せり上がってくる吐しゃ物を飲み込んだ。
先の戦闘の反動だろう。

『無理をするな。』
『……大事なとこなんだ、邪魔するなよ。』

デスティニーからの念話に答えを返し、目前のデュランダルに目を向ける。

「お疲れのようだな、シン。」
「そうでも、無いですよ、議長。」

議長、と呟く瞬間、僅かに感情を籠らせてしまう自分に気がつく――落ち着けと心中で繰り返し、続ける。

「……教えてくれるって言いましたよね、議長。俺から聞きたいことは、一つだけです。」
「聞こう。」

デュランダルがテーブルに肘をつき手と手を握り合わせる。
聞きたいことは幾つもある。
それこそ、デュランダルやハイネがどうして生きているのか、どうして彼らが魔法を使えるのか、どうして此処にいるのか。だが、そんなものは正直言ってどうでもいいし、大体誰がやったことかなど予想はつく。

「あのクジラビトってのが言っていたことは本当なんですか。」
「……さて、どのことかな。」
「ギンガ・ナカジマを生贄にすることで、世界は救われる。俺が聞きたいのはそれが真実かどうかです。」

デュランダルの頬が僅かに緩む――その予想通りと言った姿にシンの中で僅かに苛立ちが募る。

「……知っているんですよね。」
「ああ、知っている。正確にはギンガ・ナカジマだけではなく、聖王――高町ヴィヴィオもだがね。」

高町ヴィヴィオ――どこかで聞き覚えのある名前。
記憶を検索しても会ったことは無い。

『高町なのはの養女。ゆりかご事件におけるキーパーソンであり、現在に蘇った聖王だ。』

デスティニーが念話を繋げる。
その言葉で思い出す。

「……聖王、ヴィヴィオ?」
「その通り。」

記録でだけ見たことがある女性――少女。
確か、現在はクラナガン市内にあるどこかの学校に通っていたはず。

「ちなみに君は聖王という存在についてどれほど知っている?」
「一通り……古代ベルカの王、でしたっけ。」
「その通り――アレは古代ベルカの王だ。表向きはね。」
「表向き?」
「実際は違う。聖王とは……そうだね、簡単に言えばキラ・ヤマトと同じモノさ。」

キラ・ヤマト。
コズミックイラにおける最強のモビルスーツパイロットにして――

「スーパーコーディネイター……?」
「違うと言えば違うが――まあ、それが一番分かりやすい例だろうね。本来は兵器なのさ。アレは。」

一拍を置いて。デュランダルが続ける。

「羽鯨を殺す為の、ね。」
「……それって。」
「羽鯨を殺す為に造られた生体兵器――それが聖王だ。故にギンガ・ナカジマが羽鯨を受胎すれば、高町ヴィヴィオもまた聖王として覚醒する。聖王の遺伝子にはそういった命令が刻み込まれている。必要になれば自意識など消滅し、聖王は羽鯨を殺す。そうして彼女たちは殺し合い、相果てることで世界は救われる――これが、彼らの言ったことの詳細だ。」
「……それが一ヶ月後?」
「ああ、だが――。」

デュランダルが薄く笑う。
悪戯が成功した子供のような笑顔を浮かべて、続ける。

「それは、嘘だ。」
「……は?」
「世界は滅びない。聖王は目覚めない――クローニングによる遺伝欠損が激しい高町ヴィヴィオにそれだけの強制力は働かない。ギンガ・ナカジマに羽鯨を受胎させることも不可能だ。寄り代となる無限の欲望が今はいない。」
「……俺が、いないから?」
「正確には君を含む、だな。君がいなくなれば、スカリエッティが寄り代になる必要があるが――あの男は寄り代になる前に、彼らと袂を分かつだろうね。」

デュランダルがテーブルの上に置いてあるコーヒーに口を付ける。一気に話したせいか、口内が渇いているのかもしれない。

「……だから、世界は羽鯨によって滅びることは無い――むしろ、こんなお粗末な状況で羽鯨を受胎させようなどということを行う方が危険だ。それこそ“本当に”目覚めてしまう。」

コーヒーをテーブルの上に置いて、続ける。

「踊らされているんだよ、彼らはね。」

さも当然の如くとでも言わんばかりにデュランダルは言う。

「あの男――ラウ・ル・クルーゼにね。」
「本当、なんですか。」
「ああ。だからこそ、私たちは戦っている。彼らの――いや、奴の企みを阻止する為に、ね。」
「……」

デュランダルの瞳を覗き込む。
瞳に嘘は見えない――仮に彼が嘘を吐こうとしたならば、シン・アスカ如きには見抜けないだろうが。
だが、と思う。
胡散臭い――もっと言えば信じられないと言う方が正解か。

羽鯨は世界を滅ぼさない。
誰も彼もが騙されている。
滅ぼすのは羽鯨を起こそうと画策するラウ・ル・クルーゼ。全てはあの男の企み。クロノ・ハラオウン達はそれに踊らされている。
納得できない自分がいるのをシンは自覚する。
理屈では無い。元より、このような常識外れの事態に通用するような理屈を持っている人間ではない。
リインフォースは言った。世界は滅びると――それが二年後の話だと。
それは間違いの無い事実だ。
羽鯨――世界を滅ぼす存在。
無限の欲望となって、その眷属となったシンにとって、羽鯨がどういう存在かはある程度理解できる。
それは海辺を知って、海を知ったと語るようなモノだが――それでもあり得ないと言い切れる。
羽鯨が目覚めないなどあり得ない。世界を滅ぼさないなどあり得ない。
あの光景を覚えている――空が割れた日のことを覚えている。右手を見る。羽が生えた腕を――侵された腕を。
理屈は分からない。だが、感覚が教えてくれる――アレは害があるとか無いとかそういうモノではない。
象が歩く際に蟻を潰すことに気付くだろうか?気付くわけがない。像にとって、蟻は空気のようなモノでしかない――潰そうとどうなろうと構わない存在。つまりは塵芥。路傍の石にも劣る存在だ。
羽鯨にとって、“この世界”はその程度の意義しか持たない――だからこそデュランダルの言葉は嘘だ。
この世界は既に羽鯨の捕食対象となっている。それだけは紛うことの無い事実――確信を持ってそう言える。
背筋に震えが走るほどに、あの恐怖は忘れない。
目前のデュランダルを見据える――どういうつもりで、こんなことを言っているのかは分からない。
シン・アスカならば騙せるとでも思っているのか、それとも他に何か理由があるのか。
そこは分からないが――まどろっこしい問答がどうしようもなくうざったいと感じる。
だが――デスティニーが心中に語りかけてきた。

【シン。】
【……分かってるよ。】

自制しろという声。デュランダルに目をむけ、呟く。
これ以上の会話に意味は無い。
隠そうとしている人間に問い質したところで意味は無い――この人がそういう人なのだと自分はよく知っているのだから。

「それが、全部ですか。」
「他にも私やハイネがどうして此処にいるのかなどの答えもあるが―――」

デュランダルが微笑みを浮かべたまま呟いた。

「“君”には必要ないだろう?」

こちらの全てを見通すような、漆黒の黒曜石のような瞳。
覗きこまれている――そう、感じた。
試しているような視線。全てを知った上で、こちらを騙そうとしている――否、騙されるかどうかを試している。

「……知ってるんですね、やっぱり。」
「おおよそはね。君が今どうなっているのかも大体の予想はついている。」
「……全部知ってて“隠してる”ってことですか。」

右手をポケットの中に入れる――デュランダルからは見えないように。
自分の言葉を聴き、その仕草を見て、デュランダルが口元を歪める――全部見通されている、そんな確信がある/それならそれで構わない。
にらみ合いは数秒――言葉を交わす必要は無い。
そう思って立ち上がろうとした時、デュランダルが口を開いた。

「一つ頼みがあるんだが――いいかね?」
「……何ですか。」

朱い瞳と漆黒の瞳が絡み合う――交錯は数秒間。互いに口を開かずに視線だけを絡ませ合う。

「2週間後、私たちは彼らの目的を阻止する為に聖王教会に乗り込む。その時、君には先陣を切ってもらいたい。」

一拍を開けてデュランダルが続けた。
軽々しく、歌うようにして。

「君の力はもはや化け物だ。オーバーSランクの魔導師が何人いようと君一人で事足りる――仮にモビルスーツが敵となっても君なら十二分に対処出来る。何度でも立ち上がり、戦いを繰り返すことが出来る。」
「……あの時の戦いみたいに、囮になれってことですか。」

にんまりと、唇を歪めてデュランダルが微笑んだ。

「その通り。理解が早くて助かるよ、シン。」

もう一度、あの大立ち回りをやれとデュランダルは言っている。1000のガジェット、ナンバーズ、そして――レジェンドと戦って敗北した、あの時と。

「君ほどの力があれば、容易いことだ――そうだろう?」

容易い――そんな訳が無い。そんな簡単な訳が無い。
現在のシン・アスカの――と言うよりもデバイス・デスティニーがもたらす戦闘力は確かに異常だった。
巨大斬撃武装(アロンダイト)――20mを越えるモビルスーツサイズの大剣を己が得物として振るい。
機能(システム)・光翼(ヴォワチュールリュミエール)――光速移動術式。真実、瞬きの間に彼我の距離をゼロにする。その過程全てを飛び越えて。
戦友の剣(レイ・ザ・バレル)――光速で巨大斬撃武装(アロンダイト)を撃ち出す魔法。一瞬で光速に近似する速度にまで加速した物体はありとあらゆる全てを食い破り。
高速活動魔法(エクストリームブラスト)――体感時間を加速させ、最大で通常の七倍の世界にて戦闘を行い。
自動回復魔法(リジェネレーション)――如何なる損傷であろうとも魔力が続く限りは治癒を行い、場合によっては一瞬で復元すら行う再生。
単身の戦闘能力で言えば化け物と言う言葉ですら生温い。
だが、その場合に相対するであろう敵は――あの一号と名乗ったような敵やクロノ・ハラオウン、それ以外にレジェンドのようなモビルスーツに、鎧騎士、そしてガジェットドローン、更には――聖王教会所属の魔導師もいることだろう。
その全てと戦うということが、どれほど難しいかなど考えるまでも無い。死ねと言っているのと同義だ。

「……俺が、囮になっている間に、あんたらは――」
「ギンガ・ナカジマと高町ヴィヴィオを救い出す。それで世界は救われる。」

一拍を置いて、デュランダルがシンの瞳を覗きこむ。

「君が気になっている“彼女”を、助けるには悪い話じゃないと思うが?」

デュランダルの口が閉じる。返答を待っている――どんな返答が返ってくるかも既に予想しているだろうに、それでもこちらの口から言わせたいらしい。
上等だ。
逡巡することなく、呟く。逡巡する必要などどこにもない。

「俺は最初っから、助けるつもりなんて、無いですよ。」

振り返って、睨みつける。隠している理由が何かは分からない――大方スバルやティアナへの配慮、と言ったところだろう。隠さなければ利用できない。ギンガ・ナカジマを助けることへの躊躇が生まれる――それを消し去る為に。
だったら、それで良い。それで構わない。
自分を利用しようと言うのならばそれで良い。自分だってそのつもりで此処まで来たのだから。
何を言われても、何を踏みにじられようとも、何が起きようとも、目的は変わらない。変えるつもりも無い。

「俺は奪い返す為に此処まで来た。あんたの思惑が何だろうと、そこは変わらない。」

その答えに――デュランダルの頬が緩む。口の前で組まれた掌によって隠されて――それでも隠し切れない愉悦をそこに滲んでいた。

「良い返事を聞けて嬉しいよ、シン。」
「どうも。」

気の無い返事をするシン――気にすることなくデュランダルは続ける。

「勝手ながら、こちらの方で君の部屋を用意させてもらった。差支えなければ、ハイネに案内させようと思うが、どうかな?」
「……ありがとうございます。」
「ああ、気にしないでくれたまえ――ハイネ。」
「はっ。」

デュランダルの言葉にハイネが答え、こちらに近づいてくる――思えば、共に過ごしたのは僅かな期間の戦友。
不思議な気持ちだった。死んだはずの人間と再び言葉を交わすと言うのは。

「久しぶりだな、シン。」
「……死人に久しぶりって言われるのも不思議な気分だけどな。」
「は、まあ、確かにな。」

相槌と共に差し出された手を掴む――暖かい、生きていることを実感させる掌の感触。
本当に不思議な気分だった。
死人と再会すると言うのは――悪くない気分だ。そう、考えて、思わず頬が緩んだ。

「シン?」
「何でもない、気にしないで……。」

頭の中心に直接響く声――デスティニーからの念話。

【シン。】
【……何だ?】
【少しギルと話をさせてくれないか?】

デスティニーの声にどこか焦燥に駆られたような響きが混じり込む。
レイ・ザ・バレルとステラ・ルーシェとマユ・アスカの成れの果て――主観を構成する一人にとって、最も大切な人間がそこにある。
デバイスとなっても、そこは変わらないのかもしれない――懐から短剣を取りだした。

「お前……?」

怪訝な表情でこちらを見つめるハイネを尻目にデュランダルに向き直り、声をかけた。

「議長。」

デュランダルがこちらを見つめている。その瞳に浮かぶ警戒心をからかうように短剣を放り投げた。
狙い違わず、短剣はデュランダルの手元に収まった。

「……何のつもりだ、シン。」
「レイが、その中にいます。」

デュランダルの低い声での呟き――けれど、レイと言う言葉を聞いた瞬間、初めてその表情に動揺が走った。

「……レイ、が?」
「話してやってください。」

茫然と短剣を見つめるデュランダル。
振り返ると、背後にいたハイネが茫然とシンを見ていた。
いきなり、掴みかかるとでも思ったのだろう。
くだらない子供じみた目論見――悪戯が成功したような気分に笑いながら、ハイネに呟いた。

「行こうぜ、ハイネ。」
「あ、ああ。」

扉を開けて、ハイネが先を進む。
扉の奥に見えた通路はリノリウム張りの真っ白な通路――どこか病院のような印象を伴わせる。
背後の扉に僅かに眼を向けた。
デスティニーが何を話すつもりなのか――聞けば答えただろうが、聞く気にはならなかった。
デスティニー――レイにとって、ギルバート・デュランダルがどれだけ大きな存在かは知っていたから。
自分だって、同じ立場ならそう思うだろうから。

(――変な“格好”にだけはならないでくれよ。)

僅かな不安を小さく呟きながら、シン・アスカはハイネ・ヴェステンフェルスの後をついていく。


しん、とした静寂が室内を覆う。
室内に残されたただ一人の男が手元の短剣を見て小さく呟いた。

「……レイ、か。」

大切な息子。友と同じ存在――未来を許されなかった存在。
シン・アスカはその短剣に彼がいると言った。馬鹿げた話だ。彼は既に死んだ――自分が殺したのだ。
僅かでも命を長らえさせる為とは言え、スカリエッティの処置を受け入れさせたのは自分なのだから――もっとも、その時の彼には既に自我と言うものは存在しなかったが。

「……馬鹿げた話だ。今更、私に何を言えと言うのか。」

その呟きに呼応するように短剣が輝き、ある“実像”を投影し始める。ワイヤーアート――或いは3Dモデリングのように、紡がれていく朱い軌跡。軌跡が紡ぐ実像は人型。朱いシン・アスカの魔力光と同じ輝きが人を象っていく。

「……何?」

短剣から手を離す――短剣はテーブルの上に落ちて、あらぬ方向へと滑り落ちていく。
それを、掴む“誰か”が“顕現する”。

「お久しぶりですね、ギル。」

声がした。金髪を棚引かせた、年齢にして16歳頃の――もしかしたら、まだ幼いかもしれない。或いはもっと年上なのかもしれない。
レイ・ザ・バレルのようでもあり、ステラ・ルーシェのようでもあり、シン・アスカのようでもあり――或いはその誰とも違う、一人の“女性”。
炎のように朱い瞳と金色に輝く髪。鋭く尖った視線――けれど、無邪気な子供のような容貌が同時に存在する不思議な容貌。
中性的、と言う訳ではなく、女性らしさと男性らしさが混在すると言った方が正しい。
子供のような、大人のような――女のような、男のような。
起伏のついた体形は女性らしく――切れ長の瞳と端正な横顔は中性的な印象を与える。
服装はシンのバリアジャケットと同じデザイン。けれど、細部の装飾はまるで違う。どこかソレは少女が好むテレビアニメに出てくる魔法少女のような姿。

「君は……」

厳密にはレイとは似ても似つかない。声も違えば、顔も違うし、性別だって違う。その胸の膨らみは目の前の人間が女性であると示している。
だが、雰囲気が、似ている。レイ・ザ・バレルと――自分が見捨てるしかなかった息子と。
喉が渇く――緊張している自分をデュランダルは自覚した。

「レイ……なのか。」

女は首を振って、その問いを否定する。
レイ・ザ・バレルではない――自分は違うのだ、と。
その返答は正確であり、曖昧であり、正解であり、間違いでもある。
デュランダルにはそんなことは理解できるはずもない――何故なら眼前にいる少女は、彼の想像を超えて、シン・アスカが生み出した、空想の具現化そのもの。無限の欲望が見出す時空の連続性から乖離した存在そのもの。無限の欲望は未来を変えることが出来ると言う伝承の証明そのものだから。

「私の――いや、“今の俺”の名前は、デスティニーです。」

呟きと共に女はテーブルの上の短剣を握り締める――自分自身の寄り代である“本体”を。

「シン・アスカの相棒ですよ。」

デスティニーは静かに微笑んだ。


見つめ合っていた――と思う。
私とシン・アスカと言う男は、きっと見つめ合っていた。
握り締められた手はまだ温かい。振り払おうとしても振り払えなかった。
それが悔しくて――虚しかった。

「……フェイトさん?」
「大丈夫、何でもないよ、キャロ。」

傍らのキャロが私を心配そうに見ている。
今の気持ちがそのまま表情に出ていたのかもしれない――自制出来ていない自分を自覚する。
いや、自覚するまでも無い。
私は、今、動揺している。
あの、シン・アスカのことを思うだけでこんなにも胸がかき乱されている。

「……スバルとティアナは、今、訓練してるの?」
「……何も出来なかったからって。」
「そう、だね。」

その言葉も私を抉る。

「何も出来なかった――もんね。」

つい、先程のことを思い出す。あの、圧倒的なクロノの強さを。

「……あんなに強かったんだ、クロノ。」

まるで歯が立たない――はっきり言って桁が違う強さだった。
自分並の高速移動を行い、キャロとティアナとスバルの連携を掻い潜り、その上で全員をバインドによって拘束した。
自分たちではどうしようも無かった。何も出来なかった。
感じたことの無い気持ちだった。いつの間にか置いていかれたような寂寥感。そして、自分自身の無力を呪う気持ち。

――焦燥が募る。世界が滅びると言われ、半年間を過ごしてきた。それを防ぐ為にと、管理局から身を隠してまで此処で過ごすことを選んだ。
流されていただけだ、と胸のどこかで誰かが――自分が呟く。
違う――とは言えない。それが自分の本音だ。
記憶を失くして、気が付けば見知らぬ場所で――実際は変わり果てた場所だけど――私は眼を覚ました。
意味が分からなかった。
あの日、白い鎧騎士と戦ってから、その日までの記憶が抜け落ちていた。
それでも月日が過ぎたことは理解できたし――自分が何か大切なモノを失くしたことも理解できた。
胸に開いた穴。それがとても大きく、昔、母を失った時のような虚無感すら覚えた。
そうして、訳も分からぬまま、仮面をつけた人間――ギルバート・デュランダルに誘われ、ティアナやスバル、キャロ、ヴォルケンリッターと合流し、身を潜めた。
世界を救う為――その言葉の居心地の良さに身を委ねて、目の前の状況から目を逸らしたいという気持ちがあったのだから。

「……シンさんなら、何とか出来たのかも知れませんね。」

キャロが小さく呟く。その名前の男を誇るように――自分自身の無力を呪うように。

「……シン・アスカ。」

胸が疼き、また心がかき乱される。胸の鼓動が激しくなり、奥歯を噛み締め、その鼓動を無視しようとするも――出来ない。それだけ落ち着こうとしてもドクドクと鳴り続ける心臓の鼓動が煩くて、集中が出来なくなる。
胸を抑える。痛い――苦しい。
シン・アスカ。化け物じみた力を持った――化け物そのものと言っても良い魔導師。馬鹿みたいに巨大な大剣を振るい、クロノ・ハラオウンと互角に戦っていた。
あの人は――異常だ。異常すぎる力だ。オーバーSランクなどと呼ばれ、自分の力にはそれなりに自信があった。どんな困難でも打ち勝てると――自分だけでは駄目でも、なのはや、はやて、ヴォルケンリッター、キャロやティアナ、スバルがいれば、打ち勝てると思っていた。けれど、あのシン・アスカと言う人とクロノはそんな常識を全て破壊した。
それが悔しい――それもある。けど、胸の苦しさはそんなモノから生まれている悔しさじゃない。
この胸の悔しさは自分の不甲斐なさに対するものではない。もっと、無様で惨めな――いつの間にか植えつけられていた気持ちに対するモノ。

「強いね、あの人は。」

私の声に頷くキャロ。

「才能もあるんでしょうけど……努力、してましたから。フェイトさんとギンガさんが死んだと思っていた頃は特に。」

ギンガ、と言う言葉が耳に響いた瞬間、ズキンと痛みが胸に連鎖した。
キャロは何も気づかない。気づかないまま、昔を――私の知らない“私の昔”を思い出して、話を続けていく。

「……エリオ君も、シンさんが倒したから。」

私の記憶には無い戦い。
私がさらわれて、エリオが裏切って、シン・アスカと言う人が“壊れた”時の戦い。
胸が、痛む。
見たことの無い戦い。見ることも叶わない戦い。
多分、それは全ての発端――なのに記憶が無い。
胸が痛い。
罪悪感で、後悔で、後ろめたさで。
沈黙は数秒ほど。何を話すべきかも定まらない――それでも、言葉を吐きだした。後ろめたさを誤魔化すようにして。或いは、責任転嫁をするように。

「……怖く、なかったの?」

キャロは私の問いを首を振って否定する。その眼にはどこか、悲しげな光が浮かんでいた。

「……そう、なんだ。」
「……シンさんは、私とエリオ君にいつも優しくしてくれました。」

悲しげに、でもどこか嬉しそうに語るキャロ。
重ならない記憶と記憶の残滓。残響すら共有できない記憶の齟齬。
感じている後ろめたさはエリオを裏切らせたことへの後ろめたさ。
エリオが裏切った頃、私は、シン・アスカと言う人間に恋をしていたと言う――本当に馬鹿だと思う。大切な子供が苦しんでいる時、私は男に恋をしてのぼせ上っていたのだ。
本当に、自分が信じられなかった。
その時の気持ちを、記憶を失くした今でも引きずっていることが、本当に信じられなかった。

「でも、エリオはあの人のせいで――」

呟く言葉は、もしかしたら責任転嫁の気持ちなのかもしれない――きっとそうだろう。
キャロはそんな私の内心に気付いているのか、遮るようにして呟いた。

「……今はエリオ君がどうしてあんなことをしたのか少し分かるんです。」

軽やかな微笑みではなく、重苦しい微笑み――彼女を引き取る前のような。けれど、その微笑みはどこか強さを内包していた。

「きっとエリオ君は私たちを守ろうとしてたから…・・・・だから、あんなことをしたんだって。」

俯いていた顔を上げる――その横顔に浮かんでいるのは、子供の表情ではなかった。

「だから、もう、いいんです。エリオ君は私が取り返さなきゃいけないから。」

一瞬、呆然とした。
何を言うべきか分からなかった――いや、何も言えないのに、何かを言おうとしたからか、言い淀んだ。
何を言えると言うのだろうか。こんな、いつの間にか、子供ではなくなってしまった少女に、何を言えることがあるのだろう。
私には何も言えない。
胸の疼きを堪えるだけの私には何も言えない。

「キャロ……」
「エリオ君が今、どこにいるのかは分からないけど――多分、泣いてます。」

淡々とキャロは呟く――決然と。

「私は、エリオ君の涙を止めたいんです。だから、エリオ君は――私が取り返さなきゃいけないんです。」

胸の疼きが大きくなる。
胸の悔恨が強くなる。
胸のざわめきが煩くなる。

「……そう。」

重苦しい雰囲気。
黒い天蓋が私たちを――私を覆い尽くそうとする錯覚。
胸の奥で疼き続ける感情/好意――自分のモノではないのに、自分のモノだと自覚してしまう感情に振り回されながら私は思った。

――置いて行かれた、と。
募る寂しさ。孤独は辛い――嫌いだ。
誰もいない。
誰もいない。
エリオは敵になって、クロノは敵になって、ユーノは敵になって、世界は敵になって、皆は目的に向かって一心不乱に邁進して――私だけが没頭できずに、没頭した振りをする。
実感の籠らない世界の危機。記憶が無い以上、世界が滅びると言われても実感など湧く筈も無い。
孤独――母を失った頃を思い出す。自分のいるべき場所が分からなくなる感覚。立ち位置とでも言うのだろうか。自分がどこに立っているのかも分からない感覚。
そんな時に思い浮かぶのが、どうして、“まともに話をしたこともない”あの男なのか。
何も言えない。どうすれば良いのかも分からない。
――私はただ内に内にと心を閉じていく。答えなどそこに無いと知りながら、そうすることしかできなかった。
キャロはただ悲しげに私を見ていた。
私は、その悲しさの意味も分からず――ただうな垂れることしかできなかった。



[18692] 第四部ミッドチルダ風雲篇 71.愛の病(b)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/06/02 17:19

通された部屋はコンクリートを打ちっぱなしにしただけの部屋だった。
中にはベッドと机と椅子――思っていたよりも、遥かにまともな部屋だったことに驚く。

「ここだ。」
「……思ったよりまともな部屋なんだな。」

心中の感想を正直に呟く。
ハイネはこちらの言葉に肩をすくめて、返答する。

「まあな。ここはシェルターと言うよりは隠れ家って意味合いが強いのさ。」
「隠れ家?」
「ジェイル・スカリエッティの隠れ家として、奴が勝手に作っていた施設を議長が勝手に見つけて、占拠した。ここなら聖王教会の人間も場所は知らない。」
「火事場泥棒じゃないか、それ。」
「まあ、誰も気にしてないからいいんだよ。」

溜め息を吐き、室内に入ろうと足を踏み出す――その時、ハイネが口を開いた。

「変わったな、シン。」
「何が?」
「お前が、だよ。」

その言葉に苦笑する。
変わったな、と言えるほどに眼前の男と自分の付き合いは長くないだろうに。

「いや、あんた、俺とそんなに付き合い長くないだろ。」

苦笑しながら言い放った。精々が数日間と言う程度だったはずだ。
だから、それは単なる言葉の上でのモノにしか過ぎない――そう、自分は思っていたのだが、ハイネは違っていたのか、こちらの眼に自分の目を合わせ、呟く。瞳は真剣そのものの本気の眼。

「これでも人を見る目はあるつもりなんだよ。」

覗きこむような視線――どこか先輩風を吹かせて、けど、それが嫌みにならない。
そうして、徐々に思い出していく。
そうだ、こういう男だった。
ハイネ・ヴェステンフェルスと言う男はこんな男だった。こんな風に僅かな時間で人を見る男だった――それこそ、あの頑固者のアスランでさえ、この男の言うことは聞こうとしていたのだから。

「根暗で不幸面したクソガキだったあの頃から見ると、まるで別人だろ?」
「……クソは余計だろ。まあ、言いたいことは分かるけど。」

変わったかと聞かれれば、変わったと答える。これからはもっと変わる。変わり続ける。
自分でそう望んだのだ。クソガキだった自分も、馬鹿だった自分も、最低な自分も、根暗で不幸面した自分も――全てを背負って生きていくのだと決めたから。
流れていく思考を振り切り、告げる。

「色々あったんだよ、色々とさ。」

右手を開き――その中心に見えだした、瞳のような紋様を見て、握り込む。隠すように――見えないように。
ハイネに向き直った。
オレンジ色の髪をした男が涼しげにこちらを眺めている。

「大体、そのくらいのことは知ってるんだろう? ティアナ達から聞いてるはずだろうし……あんたらが、そこらへんを調べてないなんて思えない。」
「……どうして、そう思う?」
「あれだけ派手に登場しといて、何も知らないなんておかしいだろ。俺のことも、この世界のことも――何でも知ってるって考える方が自然だよ。」
「ああ、ま、そりゃ確かにな。」

登場、という言葉を聞いて、その時を思い出したのか、ハイネが苦笑する。
今回は上空数十m――もしかしたら数百mかもしれない――からの大地に落ちる隕石のような蹴りと共に登場し、前回などはモビルスーツサイズの武器を“投げた”のだ。
あれだけ派手な登場をしておいて、何も知らないと言われる方がよほど違和感がある。
ギルバート・デュランダルやハイネ・ヴェステンフェルスと言う男はそんな人外の力を生身で使えるような常識外れの人間では無かったのだから。
だからこそ、そうでなければ――彼らは何もかもを知っていないと辻褄が合わないのだ。
生きていただけでも驚きだと言うのに、見たことも聞いたことも無いような魔法を使っていた。しかもその力はオーバーSランククラス。
どうやって、そんな力を得たのか?
簡単なことだ。自分と同じく、魔法――通常の魔法とは違う異常な類――によって得た力だと思えば、不思議でも何でもない。
ただのモビルスーツパイロットに過ぎない自分が剣の達人の技術を肉体に刻み込まされることで手に入れたのだから、ハイネやデュランダルが同じような処置を受けていても何もおかしくはない。
ならば、どうやってそんな力を得たのか――詳細は分からないが、このシェルターの場所を知っていたことから、スカリエッティの元かもしれない。
予想と言うには拙いモノであるが、大筋では外れていない――そう思っていた。

「あんたらは何でも知ってる。さっき議長が俺に言ったことも“知った上”で言ってるんだろうから疑ってなんかいない。」

言葉を切って、唾を飲み込んで続ける――少しだけ昂揚する自分を自覚する。
一瞬の沈黙。その僅かに開いた間から何かを感じ取ったのか、ハイネの顔にも緊張が浮かぶ――違う、緊張ではない。
その表情は不敵。薄っすらと微笑みを浮かべた――こちらを試しているような表情。
自然、口元が綻んでいく。

「だから、嘘吐いた理由も大体分かってる。」
「……嘘ってのは?」
「世界は滅びないっていう嘘さ。俺にあんな嘘通じるはずないって分かってあんなこと言ったんだろ?」

ハイネの瞳を覗き込む。
不敵な笑みが満足げな笑みに変わる。
うすら笑いに浮かぶ出す鬼気。
以前は感じ取ることも出来なかった、ハイネ・ヴェステンフェルスと言う兵士の気迫――歴戦の戦士という称号が何よりも似合う姿。
隠す気も無いのか彼は簡単にそれを暴露する。

「お前の思っている通り、ギンガ・ナカジマを助ければ、羽鯨はこの世界を滅ぼす。」
「……スバル達に隠してるのは、あいつらを迷わせない為に?」
「さあな。そこから先は議長の一存さ。議長の命令を実行しているだけだ。それに、嘘吐いた覚えは一度も無いぜ?」

ハイネが得意げに呟いた。

「言ったろ? 世界を救うってな。」
「……単なる屁理屈だろ、それ。」

その言葉で大筋を理解する――確かに嘘は言っていない。目前の男とデュランダルは嘘をついていない。
世界を救う――どの世界を救うかなど明言していない。
言葉遊びも良い所だ。
つまり、彼らが救おうとしている世界は、“ミッドチルダ”ではない――恐らく“コズミックイラ”を救う為に戦っている、とでも言うのだろう。

「……スカリエッティのやろうとしてたことと逆ってことかよ。」

呟く。
ハイネが自分の言葉に驚いたように眼を見開く。まさかこれほど早く理解されるとは思わなかったようだ。

「……やっぱり、お前は変わったよ。昔みたいに簡単に利用させちゃくれなそうだ。」
「その通り、ってことか。」

睨みあう二人。沈黙が場を覆う。数秒か、数分か、或いはもっと長いのか。
先に沈黙を破ったのは自分だった。
沈黙に耐えられなかった訳ではない。その後ろに人影が見えたから、自然と口を吐いて言葉が出ただけだった。
紅い瞳と金髪――フェイト・T・ハラオウン。記憶を忘れてしまった人。

「フェイトさん?」

紅い瞳がこちらを見ていた。
冷たい視線――悲しそうな視線で。
記憶を失くしてしまい、自分のことは忘れてしまって、何も覚えていない――はずだ。
足を踏み出した。途端、こちらに気づいたのか、彼女の姿がどこに消えていく。

「……嫌われてるなあ、お前。」

ハイネがニヤニヤと唇を歪めて微笑んでいた。

「うるさい。ほっとけ。」

冷たく呟く――ハイネが更にニヤニヤと笑い出す。
嫌われている訳ではない――とは言えない。どちらかと言えば確実に嫌われているだろう。
彼女とは未だにまともに話をしていないから分からないが、少なくともコズミックイラに転移するまでの自分のやってきたことは全て知っているだろう。
エリオが裏切ったと言う事実も、彼女がシン・アスカに恋をしていたと言う事実も――そして、シン・アスカがどちらも選べずに彼女“達”を守れなかったという事実も。
足を踏み出し、ハイネに目を向ける。ニヤニヤとした笑いを崩すことの無いハイネに言い放った。

「悪い、後、頼んだ。」

ハイネは肩を竦め、不承不承と言った体で頷く。

「分かったよ……しかし、本当に変わったな、お前。」
「何がだよ。」

心中の苛々が心に伝播したのか、少しだけ口調が荒くなる。
ハイネはそんな自分の態度を気にすること無く――笑いも消えない――続ける。

「前、議長と会った時のお前は色恋沙汰とかとは無縁に見えたんからな。今、そうやって、色恋沙汰で慌ててるお前見てると同じ人間には見えなくてね。」
「……それこそ、ほっとけよ。」
「ま、そうかもな。行けよ、あの子もう行ったぞ?」
「ああ、それじゃな。」

ハイネに促され、フェイトの後を追って走り出す。彼女がどこへ行ったのかは知らない。後を追ってどうするのかも決めていない。
それでも――。

シン・アスカは笑う。
状況は良くはない。むしろ悪いとさえ言える。
フェイトはシンのことを忘れていて、ギンガはシンのことを敵だと思い込まされている。
それだけではない。
シン・アスカの願いは誰も認めはしないだろうし、記憶を失くした二人がシン・アスカの願いに応える訳も無い。
状況は既に絶望的であり、困難ばかりが目につき、幸せな状況などどこにも存在しない。
けれど、“絶対”に無理などと言うことは“絶対”に存在しない。
物事に絶対など存在しない――そんなモノは全て覆す為に存在する。
故に、意味の有る無しなど気にしない。思いのままに突き進む。ただ胸に湧き上がる感情そのままに。その果てに何があろうと構わないと胸に刻み込んで。
――そうして走り抜けるシンの後ろ姿をハイネが後方から眺めていた。

「……若いなあ、あいつ。」

どこか羨ましそうな口調で、ハイネが呟いた。


繋がる瞳と瞳。
繋がった瞬間、起きた変化は胸の疼きだった。
頬がかっと熱くなる。握られた手の暖かさを思い出す。
浮かび上がる幾つものの記憶の残滓――宿る実感の暖かさ。
それら全てに吐き気にも似た嫌悪を覚え――気がつけば、その場から走り去っていた。

「……何で、こんなに。」

どうして自分はこんな風に思ってしまうのか。
記憶を失くしている以上はシン・アスカとフェイト・T・ハラオウンは知り合いではない。喋ったことも無い。触れ合ったことなど無い。一度も無い――なのにどうして、こんなにも自分の胸は疼き、“近寄りたい”という衝動が生まれるのか。
自分が自分では無い錯覚――自分の中にもう一人の自分がいるように思う。
その錯覚はそれほど外れではない。きっとコレは“失った自分”そのもの。
失くしてしまった自分――エリオを裏切らせた馬鹿な女の、汚れて、濁ってしまった自分のことだ。
そんな自分を“私”は嫌悪する。なのに、その汚れを嫌悪しきれない自分が確固として存在する。
“私”と自分が相反し、同じことを考えられなくなっている。

繋がる朱と紅――結ばれあった瞳から逃げるように駆けだして、辿りついた場所は、誰かが使っていた研究室のような場所。
誰か――そんなのはスカリエッティ以外にはいない。
元々がジェイル・スカリエッティの隠れ家と言うだけあって、今現在彼女たちがいるシェルターは隠れ家というには異常なほどに広く、充実した設備を備えていた。
どういった技術を使っているのか、クラナガン――下手をすればミッドチルダの全てを網羅する監視網まで備えている。
室内に溢れかえる幾つものダンボール。書類や計器類、端末が中に入っている。既に調べ上げられて、纏められているそれら――どこか誰にも調べさせないようにしているような節を感じさせる。
実際、ここにある書類をフェイトはティアナ達と共に全てを調べ上げている。その上でギルバート・デュランダルの言葉に従い、此処にいるのだが。
書類以外には幾つものデバイス――中にはどこか見たことのある形状――が散乱している。
その内の一つ、大剣の形をしたデバイスを手に取る。材質が違うのだろうか。見た目よりもはるかに軽い。それはデバイスというよりは武器という言葉が似合う――あの男が使うデバイスを思い出させる。
逸れた思考が元の方向に戻るのを感じ取る。握り締めた大剣を床の上に捨て置いて、溜め息一つ、呟いた。

「……シン・アスカ、か。」

そうして、呟いても鼓動は大きくなることは無い。彼に向けられていた意識を別の方向に逸らすことで、彼女の胸の鼓動はようやくおさまりを見せ始めていた。少なくとも、考えただけで心音が思考を邪魔することが無い程度には。
心の中に存在する“昔の自分”の鼓動が消えて、“今の自分”の想いが全てを占拠する。そうして、ようやく静寂が舞い降りる。彼女が今いる室内と同じように――彼女のこの半年間と同じように。

「私は――あの人を好きだった。」

然り。記憶を失った彼女以外の全員がそう言っている。
人伝えに聞いた話ではあっても――伝えてくれた人々は嘘を言う人間ではない。

シグナム――恋をすると人は変わるのだと痛感した。
ヴィータ――いや、やばかったぜ。
シャマル――青春ですよねえ。
ティアナ――いや、もう本当に……酷かったです。
スバル――ギン姉のライバルって感じでした。
キャロ――いつも、嬉しそうに笑っていました。

皆が笑顔でそう言っていた。
笑っていた。楽しそうにしていた。
“あんなフェイト・T・ハラオウンは今までに見たことが無い”とそう言って――
拳を強く握り締めた。奥歯を噛み締める。
手近な机に八つ当たりしそうな自分を必死に自制し、押し留める――泣き叫ぶ見っともない男。シン・アスカの顔が見えた。
悪鬼のように戦いながら、悪魔のようにギンガに近づきながら――そして、最後に自分の手を握って、涙を流した男。

「……そんなの、私じゃ、ない。」

力なく呟き、立ち尽くす。
室内は静かだ――今は誰もいない。皆は訓練に勤しんでいて、自分だけがそれに加わらずに、このシェルター内を適当に歩いてきた。
理由は――一人になりたかったから。皆が前を向いている中で自分だけがそれに集中できないでいる。取り残されたと言う、その疎外感が、彼女の足を此処へ向かわせた。
そうして、その最中にあの男を見つけた。シン・アスカ――の胸を掻き乱す男を。
視線はいつの間にか、そちらに囚われて、気がつけば彼をずっと見つめていた。
視線は熱を帯びて、胸はいつの間にか大きく鼓動して、そして思考は全てその朱い瞳に取り込まれていくようで――それが、あまりにも“恐ろしかった”。
胸の鼓動は今までの記憶には無いモノ――いや、昔一度だけ感じたことのある類のモノ。それも今ではまるで感じなくなって、気にしなくなったモノ。
恋。恋慕。情愛。
そんな言葉で呼ばれる類――以前、自分が感じたのはクロノとエイミィが結婚することが決まった時だった。
二人の結婚が決まった時、胸にズキンと音が響いた。割れるような音――何かが刺さるような音。
本当に微かな、気にしなければ刺さったことにすら気がつかないような微かな棘。
今思えば、あれは初恋だったのだろう。義理の兄に対して、義理の妹が恋をして、そして破れ去る。
どこにでもある恋。
どこにでもある失恋。
以前はその事実に全く気がつかなかった――それまで共にいた家族がいなくなると言う寂しさだとしか思えなかった。
無論、義理とはいえ兄と妹が恋愛するなど普通はあり得ないのだが――フェイト・T・ハラオウンの場合は多少意味合いが違う。
自分と兄は生まれついての兄妹ではなく、自分が引き取られることで成立した兄妹。年の近い頼れる男、と言う感覚があったからか、恋愛と言う感情に発展するのもそれほどおかしなことではないのかもしれない――そのキモチも今はもう無い。彼が結婚して既に数年。そんな感情はどこにもない。

けれど、その感情――相手は違うが――が、今、自分を侵している。シン・アスカ。朱い瞳の異邦人――フェイト・T・ハラオウンとギンガ・ナカジマが好きになった男。
あの時の感情――クロノに感じた感情よりもはるかに大きく、はるかに荒々しく、おかしくなっていまいそうなほどに強い気持ち。
なのに、そこにまるで実感が籠らない空虚な恋慕――おかしな例えだ、とフェイトは思う。
中身が詰まってこその恋慕。なのに、この身体に籠る気持ちは、中身の入っていない、がらんどう。
胸が張り裂けそうなほどに強く彼を想う“自分(カラダ)”。なのに、“私(ココロ)”は――それをどうしようもなく“汚らわしく”感じている。汚濁にしか思えない、濁り切って浅ましい、汚い。そんな気持ちを持っていること自体がどうしようもなく許せない。
この胸が温かくなることが何よりも度し難い――許せない。
この胸に生まれている感情は恋慕と自己嫌悪。
彼を想う恋慕と、彼を想う自分を嫌う自己嫌悪。

「……本当、私、最低じゃない。」

呟きはそのまま感情の吐露。
恋に溺れて、子供が追い詰められていたことにも気付かない愚かな自分に対して。
近くにあったソファーに腰を落として、そのまま寝そべった。態勢は仰向け――天井が見えた。
いつまで経っても慣れない天井。病的に白い天井の色。それを照らし上げる照明の白。
眩しい――そこに向けて手を伸ばす――届くはずもない。
精々が照明を隠せる程度の動作。

「エリオは、苦しんでた、のに。」

キャロはそれを見て、エリオを助ける決意と覚悟をして――一心不乱に自分を鍛えている。

「私は、あの――シン・アスカって人に恋をして。」

実感の籠らない、映像の中だけの恋愛。
録画再生される自分自身の映像。
実感の籠らない恋慕。
自分だけがいつまでも同じ場所、同じことを考えて、ぐるぐると回り続けている。
行き先はどこなのか――そんなモノ、とうの昔に失くしてしまったのか。
虚無感があった。虚脱感――と言い換えても良い。

「……皆はいなくなって。」

大事な友達も、大事な家族も、大事な――初恋の人も、全部が敵になって。
胸にぽっかりと穴が開いたような虚無感。大切なモノが零れ落ちていくと言う感覚。
流されていただけだと言う負い目がそれを後押しし、
そこに入り込む、いつの間にか植えつけられていた気持ち――押しつけられた結果。
どくん、と胸が鼓動する。笑いしか浮かばない。嗤うしかない。
“私(ココロ)”は彼に対して何も思っていないのに、“自分(カラダ)”は彼に恋をするというこの矛盾が。

「何も、知らないのに、ね。」

呟きと共に、思い浮かぶのはあの男。
胸が鼓動する。自動的に――自分の意志とは無関係に。
“自分(カラダ)”は昂揚し、“私(ココロ)”は憎悪するその気持ち。
空虚な恋慕――そして、私がエリオを裏切ったと言う証左。
覚えていることも出来なかった淡い恋――なのに、“自分(カラダ)”にだけは刻み込まれている。
全身から力が抜けていく。
どうしてこうなったのか。何が起きてこんなことになったのか。そんな答えはどこにもない。覚えていないのだから分かる訳も無い。
それに、思い出したくも無い。エリオを裏切った事実を突き付けられる――そう、思うと、その記憶にすら手を伸ばすことが怖い。
そして――それらとは別個に胸に存在する、黒い感情。ただひっそりと眠り、ある時、“私(ココロ)”を喰らい尽くさんばかりに暴れ狂うどす黒い感情。“彼女”の名前を聞く度に荒れ狂う感情。
それも――“私(ココロ)”の気持ちではない。けれど、紛れもなくフェイト・T・ハラオウンの“自分(カラダ)”に刻み込まれた激情。
その感情を経験したのは、これまでに数度程しかない。
一度目はアリシアに――自分を見てくれない母を想って、会ったことも無い私の原形に感じた。どうして私は貴女と違うのか、と。
二度目はエイミィに――自分でも気付かなかった気持ち。今思えば、と言う微かな揺らぎとして、クロノと結ばれた彼女に感じた、寂寥と勘違いするほどに小さな感情として。

それは――嫉妬。誰かを好きになると言う気持ちが生み出す副作用。

“自分(カラダ)”は“ギンガ・ナカジマ”に嫉妬している――だから、彼女を救って世界を救うことに没頭出来ない。“助けたくない”――見捨てたいとさえ思っている。
それは没頭出来ない理由の全てでは無い。けれど、その一部であることは間違いない。
天井に向けて伸ばした右手を力強く握り締める。強く強く――それこそ爪が深く食い込むほどに。
握り込んだ手を、開く。爪が掌を穿ち、血が流れていく。いつも短く手入れしている爪にも付着する紅――自虐の為に自分を傷つけても、何も変わらない。

「……最悪。」

それは信じられないほどに身勝手な気持ちだった。
少なくとも、“私(ココロ)”にはとても信じられないと言っても良い。
誰かを見捨てることが嫌だった。
だからこそ、偽善と知りつつも、エリオやキャロを引き取り、自らの子供として生きてきた――見捨てることが嫌だったから。
なのに、今、自分は、誰かを見捨てようとしている。

――恋に溺れた“自分(カラダ)”はそれを望んでいる。それを撥ね退けようと抗った。けれど、結果は変わらない。元より、気持ちなどという曖昧なモノを撥ね退けることなど出来はしない。そうして、自分は今も没頭出来ずに、燻ることも出来ずにただ此処にいる。
こんなに自分は最低だったのか、と考えれば考えるほどに自己嫌悪は極まっていく。

――“私(ココロ)”はシン・アスカを嫌悪する。
――“自分(カラダ)”はシン・アスカを求めている。

二律に相反する“私(ココロ)”と“自分(カラダ)”。
エリオは今もどこで何をしているのか分からない――“私(ココロ)”はいつもエリオやクロノのことを想い浮かべ、
シン・アスカをどう思えばいいのか分からない――“自分(カラダ)”はいつもシン・アスカのことばかりを想い浮かべる。
ふっと笑みが浮かぶ――あまりにも無様で最悪な自分を嗤う――そんな嘲りすら哂うしかない――自嘲の微笑み。

「エリオを……皆を失って、その上で男を求めるなんて、最低……本当に最悪だ。」

募る苛立ち――それすらも、この虚無の中では霧散する。
積み上げられていくのは、苛立ちではなく虚無感。
“自分(カラダ)”に対して、どれほどに抗おうとも抗えない“私(ココロ)”の弱さ――何をしても意味が無い。また何をするべきかも思いつかない。

――やるべきことは分かっている。世界を救い、ギンガを助け、エリオを連れ戻す。けれど、それが出来ると言う確信を持つことが出来ない。

自嘲が更に加速する。嗤いが醜く歪んでいく。
確信を持てない、のではない。確信など初めから無かったと言う事実が、胸の内から湧き上がってくる。

フェイト・T・ハラオウンとは――揺らぐ女だ。確固たる物など何もない。少なくとも、“自分の中から”確固たるモノを生み出せるような人間ではない。
“誰かに支えられることでしか生きられない”――彼女は誰かに依存することで強くなる。
強さ――確信の拠り所を自分ではなく他人から取得する類の人間だ。
別にそれはおかしなことではない――誰だって、誰かと関わることで生きていく。
拠り所を常に自分の中から取得する人間など殆どいない――愚かで馬鹿な独善者(エゴイスト)でなければそんなことは出来ない。
だが、誰かを救おうとするならば、そうでなくてはならない。独善者(エゴイスト)の語る独善(エゴイズム)――誰にも寄る事の無い独り善がりこそが人を救うのだから。
彼女には、それがない。そんな強烈な独り善がりを持っていない――だからこそ、そんな彼女に誰かを支えることなど出来る筈が無い。
それを覆そうと言うのなら変化が必要だ。
劇的な変化――何もかもを覆すほどの、強大な変化が。
彼女だけが手に入れることのできる、彼女だけが磨き上げ、光輝かせる独善が必要だ。
誰にも寄らない――誰でさえもその独善の前では打ち砕く。
独善とは即ち覚悟。八方美人では手に入らない我執――確信だ。

「……何が、間違いだったのかな。」

決して、間違いだとは思わない人生。誰かの為に生きようと――誰かを守るために、生きてきた。誰かを救う為に。
間違えたと言うのならば、彼女の記憶には残っていない期間こそ、“間違えていた”。
恋に溺れて、その他全てを忘れていたのだから――変化と言えば、それもまた変化ではあるが。
だからこそ、その時点でフェイト・T・ハラオウンにエリオ・モンディアルを救う資格は無い。

――彼女自身はどう足掻いても知らないことではあるが、エリオ・モンディアルが裏切った原因と言うのは紛れもなく、シン・アスカとフェイト・T・ハラオウンの“せい”である。
彼女がシン・アスカに恋をしなければエリオ・モンディアルは裏切らなかった。
それは紛れもない事実だ。
故に――エリオ・モンディアルを連れ戻すと言うのならば、それは彼女ではない。エリオ・モンディアルはフェイト・T・ハラオウンを救う為にこそ“裏切った”のだから。
そんな人間にフェイト・T・ハラオウンのような確信――絶対的な拠り所を持たない人間の言葉が届く訳も無い。希薄な言葉が届いてはいけない。
誰かを救う為に、自分自身すら裏切ったと言う決意は――そんな軽い言葉/覚悟で覆せるはずがないのだから。

自嘲は至極当然の事実――彼女自身にとって、それは既に真実にまで昇華してしまっている。だから、彼女は自嘲することしかできない。
物理法則のように、水が上から下へと流れていくように――それが当然であり必然である。

「……はあ。」

溜め息一つ――馬鹿馬鹿しいと断じて、思考を切り替える。泥のように思考の檻にこびり付く“混乱”と“迷い”を無理矢理に切り替えたと錯覚させ、迷い込んだ思考の迷路から抜け出す。
そろそろ行かないと、キャロ達が心配し出す――そんな“嘘”を吐くこと、振りをすることだけに気を回す自分が惨めだった。
溜め息が募る――無様で惨めな自分に嫌気が差して。
そして、その時――扉が音を立てた。コンコンと。それは誰かがノックする音。
続いて、声が届いた。
今――世界で一番会いたくなかった人の声が。

「フェイト、さん……いますか?」

背筋が震えた。身体が震えた。喜びに/憤怒に――心が躍る。
コンコンと扉が叩かれる。繰り返す――繰り返す。
黙り込む“私(ココロ)”と震える“自分(カラダ)”が二律に相反し、相克する。
しつこく――フェイト・T・ハラオウンがこの部屋にいると確信しているのか扉がまた、叩かれた。
浮かび上がる言葉。何かを言わなければ――何を?

「……ぁ。」

返事を返そうとして、声を上げようとするも、上がらない。喉が磔にでもされたように震わせられない。
思考が混乱する。何でだろう。どうしてだろう。何を言わなければ良いのかも分からない――なのに言わなければいけないと、焦燥が駆け巡っていく。

「ぁ、ぅ……」

小さな呟き。それが喉を震わせて絞り出せた声の限界量。鈴虫の鳴き声の方がよほど大きく美しい――自分が発せられるのは無様で惨めな負け犬の声。

「……フェイト、さん?」

声が、聞こえる。怪訝な声――フェイト・T・ハラオウンが此処にいるのかどうかを疑い出している声。
喋れば良い。何事かを言えば良い。
なのに、声が出ない――出せずに、佇むだけ。
声が出ないのは怯えから――そして惧れから。
何故――どうして――ふざけるな――重なり合う意味の無い/或いは意味だらけの言葉の羅列。
錯綜し、混乱し、喧騒する思考。
声を上げれば良いのか、帰れと拒絶すればいいのか、どうでもいいと無視すれば良いのか。
拒絶したい“私(ココロ)"と独占したい"自分(カラダ)"と何もかもを捨てて逃げ出したいワタシ。
怯える――求める――怖れる。
一者三様の感情が錯綜し、脳髄を軋ませる。

シン・アスカとフェイト・T・ハラオウンは“関わり”の無い他人だ。
彼がどうなろうと、何をしようと関係が無い、本当に初対面――会話をしたことすら、無い人間なのだ。
記憶を失って――自分のモノだと言う実感を失った記憶だけを押し付けられただけの、そんな“私(ココロ)”にとっては関わりの無い男でしかない。
けれど――“自分(カラダ)”はシン・アスカのことを考えてしまう。
怖いのは――怯えるのは、彼が近づけば、もう彼のことしか考えられなくなりそうで怖いのだ。
怒るよりも悲しむよりも尚先に――砕け散ったフェイト・T・ハラオウンの“私(ココロ)”はそれにこそ怯える。
エリオ・モンディアルを忘れて、シン・アスカのことを想ってしまいそうで――今度こそ“息子(エリオ)を裏切ってしまいそう”な自分が、怖かった。

「……ここ入ったと思ったんだけどな。」
「……っ」

その声に胸が躍り、ざわめき揺れて、沈降して、それでも、自分は動かない。
昔、映画で見たことのある光景――化け物に襲われて、それから身を潜めて隠れ続ける誰かのようにして。
怖い。
会ったその時は何とも思わなかったのに、それからたった数時間で"私(ココロ)"の在り様全てを変えようとしていることが怖い。
再び、こんこんと叩く音――嫌だ怖いどこかに行って私に構わないで。心のざわめきが全身を震わせる。

「……いない、のか?」

落胆するような呟き――それを寂しく思う”自分(カラダ)”/本当に安堵する”私(ココロ)”。
このまま彼が向こうに行ってしまえばそれで良い。何も起こらなければそれで良い。
これ以上、ワタシに何も想わせないで――そんな心中の呟きを嘲笑うようにし、ドアノブが音を立てた。
心臓が、跳ね上がった。

「……開いてる。」

ドアノブが回る。がちゃりと音を立てて回される。押し出される扉。自分はそれを見て何もせずに――或いは何かを期待して――そして何かに怯えて――ただ、開けられるがままの扉を見つめていた。

「……やっぱり、フェイトさん、いたんですね。」

朱い瞳が紅い瞳を絡め取る。
刹那、心臓が大きく脈動する。“自分(カラダ)”が彼を求めて荒れ狂う。“私(ココロ)”がそれを抑圧し、震えていく。
巨大化する虚無。
脳髄が真っ白になっていく――怖い。刻一刻と変えられていく自分を自覚する。
痛くて怖くて泣いてしまいそうだ。

「……“アスカさん”、ですか。」

起き上がり、名前を呟いた――初めて呼ぶはずなのに、その呼び方に違和感を覚える。
彼の顔が歪んだ。切り刻まれるような痛みが更に胸を貫いた。

心中で呟く。
どうして、どうして、と。
変えられたくない自分――変えられていくことで自覚する罪。
エリオを裏切り続けると言う罪悪感。それすら自己陶酔の極みだと言うのに、自分はそれを止められない。

「……フェイトさん?」

そんな自分の胸の内の喧騒など知ることなく、彼が怪訝そうに呟いた。
自分が僅かに胸を抑えようとしたからか――だが、そんな仕草/心配は全て自分にとっては罪そのもの。
フェイト・T・ハラオウンにとって、シン・アスカとは触れてはならない劇物だ。
触れれば、変えられてしまう。
"自分(カラダ)"に"私(ココロ)"が犯されていく。変わり果てた結果として行きつく先は恋に溺れる馬鹿な女。
そんな、自分が最も嫌う存在へと。
シン・アスカを嫌うのではなく、恐怖する――無造作に自分が変えられていくことが恐ろしくて。
シン・アスカを嫌悪するのではなく、彼に恋をする自分をどうしようも無く嫌悪する――エリオを裏切ったと突き付けられているようで。
胸が――痛い。痛くて痛くて涙が毀れそうになる
胸の中で二つの気持ちが荒れ狂って、脳髄を侵していく。
心中の願いは、ただ関わりたくない、それだけ。なのに、彼は関わってこようとする――それがどうしようもなく“疎ましい”“腹立だしい”“許せない”。それは単なる関わりたくないという憤怒の反転衝動――逆恨み、八つ当たり。自身が背負うべきモノから逃れる為だけに紡がれる責任転嫁。

「何でも……」

けれど、それだけは出来ないと――彼女の中に残る僅かな矜持が蠢いた。その責任転嫁から僅かでも逃れようと。
フェイトの顔が俯いた。隠すように、決して目前の男には見せないようにして、彼女の口が動く。

「何でもない、です。」

呟きは静かに――何も込めないように、フェイトは呟いた。

「……そ、そうですか。」

シンは何も言えない。言葉を拒むような、その態度の前では何一つとして言葉を放つことも出来ない。
交わしたい言葉は幾つもあった。返したい返事もあった。
けれど――言えない。言える訳が無い。

――何かを口にして、拒絶されるのが怖いから。

記憶を失くしていようと、どうなっていようとも関係無いと思っていた。
事実、ギンガが記憶を失くしていることなど、自分には関係が無いと断じて、ただ取り戻すことに集中した。
戦いの最中だったから。それ以外のことを考える余裕が無かったから。
けれど戦いが終われば――それらは全て裏返る。
陰鬱そのものと言った、少し前の自分のような表情をしたフェイトを見て、何かを言えるほど、シンは達観してはいない――というか何かを言えるような余裕などどこにも無い。
どれほどにふっ切ろうと人の心の根幹とは変わるものではない。
恋する男の心理などは単純明快――嫌われるのが怖い。そんな気持ちは誰にだって存在する。
フェイト・T・ハラオウンの心の中が掻き乱されているのと同じように、シン・アスカの心もまた掻き乱されているのだ。
彼にとって、ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウンと言う二人の女性はその程度には“重い”。
好意を持っている――惚れている、魅了されていると言って良い。
どうしてそこまで惹かれたのか、どうしてその二人なのか。彼は彼女たちの内面など何も知らない。知ろうともしていなかったのだから知る筈が無い。想像すらしたことも無い――ならば、何故か。
切っ掛けや理由などは曖昧だ。
誰かが誰かに恋をする理由など千差万別。
ハッキリとした理由がなければ恋では無いというのならば、世の中の半分以上の人間は恋などしていない。
同じくシン・アスカもまた――二人に恋をした理由は曖昧だ。強いて言うならば、いつも傍にいたことと、好意を持たれたから、というものだろう。
それは、特に変わった理由でもない。どこにでもあるような雑多な恋愛と似たような理由に過ぎない――恋愛とは須らく雑多なモノではあるが。

馬鹿げた生活だ。朝起きればフェイトがいつの間にか勝手に自分のベッドの中に入っていて、それを起こしに来たギンガが見つけて喧嘩を始め止めようとしたシンは殴られ気絶して、毎朝の訓練では日課のように三人で柔軟をして、朝食を三人で食べ、そうして一日を始め――全て同じくそんな風な三人一緒。
そんな日々を過ごした。
今、想えばその日々は大切なモノだった。
あの時はそれを酷く疎ましく――そして、申し訳なく感じていた。自分のような人間にそこまでしてくれる彼女たちに恩を感じていた。
だからこそ、告白をされた時、異常なほどに動揺した。その日々が崩れるから――違う。その日々に埋没し、“幸せ”になってしまうかもしれないから。
そんな日々の結果として、ある想いに気付かされる――失ってからでしか気付けなかった想いに。
それは本来、抱くべきではない感情。二人の女性に心の底から恋をするなど通常ではありえない。けれど現実に抱いてしまった感情。
その為に此処まで来た。元の世界を“捨てて”、この世界で生きる為に。
大事な人々――いけ好かないけど嫌いになれない先輩とか、嫌っていたけど話してみたら案外良い奴だった先輩とか、昔恋人だった人とか、家族の前では優しい女性とか、見違えるほどに成長した大嫌いな女とか――もう会えない何人もの人々の顔が思い浮かぶ。
それら全てと引き換えにしても、彼女たちが欲しいと思った――そんな馬鹿げた願いの末路が今の場所。恋に狂った人間の行きつく果て、とも言える。
その結果として、自分自身をがんじがらめに縛りつけると言うのも馬鹿な話だが。

沈黙が室内に満ちていく。
扉は開け放たれたまま――シンは室内に踏み込むこともせずに、扉の前で佇んだまま、そこにいる。
喋ることはできない。
フェイトは口を開くことで“変わって”しまうことが恐ろしく、シンは何かを言って彼女に拒絶されることが怖くて動けずにいて――動けない二人。
足を踏み出そうとするシン――フェイトはシンのその動作に僅かに身体を反応させた。それでシンが何かをしようと思っている訳でも無いだろうが――それは殆ど反射的な動作だ。
けれど、それは明確な――少なくともシンはそう思える――拒絶だ。

「……っ。」

それでも踏み出した足を戻せる訳も無い。
意を決して、室内に踏み入り、呟く――何を話すべきかも定まらないから、内容は至極単純明快な思いつき。

「何も……」

呟きが――その小さな声を発する為に引きずりだす力はどれほどのモノだと言うのだろう。
簡単な確認。
言葉にすればたった一言。
喉が冷え切ったコンクリートで固められたみたいに上手く動かない。
戦う為ではない力――心を動かす為の力――願いを叶える為の力。
それはどうしてこれほどに湧きあがらないのだろうか。

「何も……覚えてないんです、よね。」
「……何が、ですか?」

やっとのことで絞り出した自分の言葉に、彼女の声が染みわたっていく。
胸が痛い。頬が歪む。
覚えていないことが――胸を抉り抜く。
俯いた彼女の顔は遠くからでは見えない。
近づかなくては見ることも出来ない。

フェイト・T・ハラオウンの“私(ココロ)”の言葉にシン・アスカの頬が歪んだ。記憶が無いことを肯定するこの上ない返答――無知。
その通り、彼女は無知である。何も知らない――記憶が無いのだから無知であることは当然であり、誰にもそれを咎められることはない。

「あ、いや、な、何でも、無いです。」

取り繕うように呟くシン・アスカ。
ずきんと心臓を抉るような痛み。痛みとは自分自身の胸の根幹から――その痛みを埋めるように浮かび上がるエリオやキャロ、クロノ、なのは、はやての顔――ああ、”私(ココロ)”の思い出だ。その事実に酷く安堵し、胸の痛み/”自分(カラダ)”の慟哭――が、動悸となって酷くなる。
抉るように、刻むように、貫くように。
それが何を意味するのか――理解している。けれど、理解しても、尚それは度し難い。
だから――吐き出される言葉も自然、その心象に引きずり込まれる。


口を開こうとして閉じる。
伝えたい言葉はある――その返事を返す為に、此処まで来た。けれど、声が出ない。まるで声が出ない。話すべきことがあるはずなのに、言うべきことはあるはずなのに。
彼女にそれは届かない。記憶を失くしたと言うその真実が、自分の進みを遅くする。停滞させる。
彼女を見る――フェイト・T・ハラオウンを。自分が惚れた女を。失えば、幻影に見るほどに自分をおかしくさせる彼女を。
俯いたままで彼女はその場に佇む。
自分は――何も出来ずにその場に佇む。

「エリオは。」

彼女が、呟いた。
聞きたくない言葉――自分が犯した罪の名前。
彼女の顔が上がる。
こちらを見つめる紅い瞳。自分と似ているようでどこか違う紅。
険しい表情の中で輝く紅い瞳は、どこか今はもうヒトではなくなった“彼女(ステラ)”を思い出させる――代償行為で、好きになった訳でもないのにそんな風に結びつける自分の弱さが恨めしい。そんなどうでも良い愚痴すら思い浮かぶ。
こちらのそんな心中など知る筈もなく彼女が続ける――多分、自分にとって、一番苦いであろう言葉を投げかける為に。

「エリオは、貴方の――アスカさんのせいで、裏切ったんですか。」
「……。」

来た、と思った。
記憶を失くしたと言うことを聞いてから、必ず来るであろうと思っていた言葉――或いは待ち望んでいたかもしれない言葉。
心の奥を撃ち抜かれるような苦々しい痛みを感じ取り、一瞬両の手を握り締めた。
膝を付きたくなる衝動。泣き叫びたくなる衝動。叫び出したくなる衝動。掴みかかりたくなる衝動。
当然の摂理として聞かれるであろうと思っていた。
だから――耐えられる。予想通りの言葉である以上、その衝動も予想通り。

「……貴方がいなければ、エリオは裏切らなかったんですか。」

本当に――その言葉は、予想通り過ぎて、か細い吐息のような言い訳を伝えることさえ出来なかった。



「……貴方がいなければ、エリオは裏切らなかったんですか。」

彼女の口から放たれた言葉によって、彼の顔が歪んだ/ズキンと胸が痛んだ――これはただの事実確認だ。彼に何かを押し付ける気などまるでない――そんな都合の良い嘘に騙されてくれるほどフェイト・T・ハラオウンは馬鹿でもなければ阿呆でもない。
それは紛う事の無い責任転嫁――シン・アスカに責任があるかどうかなど誰にも分からないのだから。
揺れる焔のように在り様を変える彼の顔を見て、抉られたように痛む彼女の胸。
その心にうずくまりたくなる程の痛みが湧き上がる。
その痛みが酷く癇に障る。その痛みが何なのかを理解出来るから。他ならぬ彼女自身のことだからこそ、理解出来ないはずが無いのだから。

――“自分(カラダ)”を“私(ココロ)”が裏切っていることへの反作用。胸の痛みは身体が訴える恋の咆哮。

“フェイト・T・ハラオウン”はシン・アスカに恋をしているのだと伝える“自分(カラダ)”の訴えそのもの。この“私(ココロ)”を蝕むその訴え。

それを消し去る為に彼女はその言葉を放ったはずなのに――その言葉は誰よりも彼女の胸を掻き毟る。
相克する自分と自分のズレが生み出す痛み。その胸の痛みへの憤怒が、彼女の脳髄を真っ白に白熱していく。

「……私は、何も知らないから。どうしてエリオが裏切ったのか、貴方が何をしたのか。」

それは嘘だ。何かもを聞いている――それはただの責任転嫁。自分は悪くないと言いたいだけの押し付け。
そんなことは彼女も理解している。理解していて尚――感情が暴走していく。
真っ白に白熱した脳髄はいつもなら抑えるであろう彼女の全てを吐き出させていく――本心も、そうでないものも、全て。

シンの唇が真一文字に引き締められた。歪んでいく表情を引き締める為に――感情のうねりを隠す為に。
何かを言おうとする――けれど、口は開くばかりで、声を出さない。もしくは出せないのか。
それを見て――悔しさや、悲しみ、怒りに、苦しみ――その何もかもが、フェイトの胸の中に湧き上がり、何かを吐きだそうとした。
それは多分言ってはいけない言葉。誰に対してであろうと――言ってしまえば、何かが壊れてしまうような言葉。
口が開いた――やめろ。
けれど口は動く――お願いやめて。
“自分(カラダ)”の声が“私(ココロ)”を苛み――刹那、震動が世界を揺るがし、巨大な轟音が響いた。
空気が震えるほどの轟音と震動。シェルターの直下で地震が起きたかの如く、部屋全体が揺れ動く。
態勢を崩して、転びそうになる――温かい感触。シン・アスカの右手が彼女の手を掴んでいた。

「す、すみません……アスカ、さん?」
「……フェイトさん、直ぐにバルディッシュ展開してください。」

そう呟くシン・アスカの瞳は、自分を見るのではなく、今しがた彼が入ってきた扉に向けられていた。
奥歯を噛み締めたまま、油断なく扉を見つめる、その視線には紛れもない不安の色が浮かんでいる。

(……不安?)

心中で呟きながら、その言葉の“似合わなさ”に首をかしげる。
力があるから不安など感じないなどと馬鹿なことを言うつもりは無い――ただ、何故か“らしくない”と思った。
彼のことなどまるで知りもしないのに、確信めいたモノが胸を埋め尽くしていく――それらを全て頭の片隅に放りこんで、デバイスを展開し、バリアジャケットを装着する。
何がおかしいと言えば、この状況が既におかしい、と言うよりは、致命的だ。
此処は地下に造られたシェルターである。地上でどれだけの戦闘が起ころうとも此処にその衝撃が来ることは無い。
ならば、衝撃が来るとすればどういった状況か――内部で何かが起きた、ということか。
思いつくことは一つだけ。

「……襲撃。」
「多分、そうですね。」

返答は短く、シン・アスカは自分が放り投げた大剣をいつの間にか握り締め、微動だにしない。バリアジャケットを装着する気配も無く、ただ構え続けている。

「……バリアジャケット、つけないんですか。」
「デバイス、議長に預けたまんまなん――」

言葉を言い終える前に、彼が、動いた。こちらの肩を掴んだと思えば、直ぐに引き寄せられた――否、彼がフェイトに覆い被さってきた。
脳髄が白熱する。
“私(ココロ)”が白熱する漂泊する考えられない何もかも――“私(ココロ)”は胡乱に、“自分(カラダ)”は歓喜し、何が何なのかを理解できなくさせていく。

「いやっ……。」

小さく弱々しい否定の言葉/言葉の裏に在るのは安堵。両手で彼の身体を離そうとする――力が入らない/安堵が力を奪っていく。彼に抱きしめられたことで全身の力が抜けていく/怖い怖い怖い怖い。
錯綜する意識の中で、時が止まったような瞬間の中で――涙が零れる。身体が震える。自分の思い通りにならない、この身体への憤怒/安堵=混乱の中だからこその涙――けれど、状況はそんなことなどお構いなしに変化する。所狭しと響き渡る振動と轟音。更に爆発音が鳴り響き、視界が真っ白に、粉塵が舞い散って、鼓膜が震えて、思わず彼の身体を抱きしめ返して/吐き気を催して、衝撃が走り抜け/自分が何をしているのかも分からずに、気がつけば――フェイト・T・ハラオウンは、震えることしかできなくなっていく。
強い自分はどこへ行ったのか。確固たる自分はどこへ行ったのか。何も無い――自分には何も無い。
今の彼女にとって絶対に否定できない事実――記憶を失う前の自分はシン.・アスカに恋をしていたと言う事実。
後ろめたさとやるせなさと悔しさによって成立する、彼女自身が抱くシン・アスカへの/フェイト・T・ハラオウンへの感情――悔しさ。
触れなければそんなことは想いも寄らなかった。触れてしまったことで溢れ出す“自分(カラダ)”の想い。それが“私(ココロ)”を侵食する。侵していく。犯していく。冒していく。病原菌が正常な細胞を病に冒していくようにして、正常な“私(ココロ)”が壊れた“自分(カラダ)”に侵されていく。
実感する、その恋慕/病気。
どんな憤怒もどんな悲しみもその前では無力だ――それは自分の一部が持っている感情に過ぎないのに、こんなに怯える必要も無いはずなのに、認められずに此処に残ったまま、感情が荒れ狂っていく。

「……大丈夫ですか、フェイトさん。」

自分を抱きしめたままの、シン・アスカが声をかけた。
――ふざけるな。私を返せ。

「フェイト、さん……?」

声はの調子は優しげで、慈しむように耳朶を叩く。
――ふざけるな。消えろ。私の前から消えてお願い。

「……して。」

それ以上――触れないで。踏み込まないで。
心中の慟哭。

「……離して、よ。」
「……フェイトさん?」

シンの声の調子が変化する。心配するような様子へと/安堵を覚える自分――安堵を憎悪へと転化させる。
憎悪は怯えに転化し、恐怖へと昇華する。
彼の体温が離れていく。その事実に安堵して、その事実に寂しさを覚えて、その事実に恐怖する。

(私、今――求めて、た。)

抱き締められたことで、触れられたことで、距離がゼロになったことで――体温が融け合っただけで、フェイト・T・ハラオウンはシン・アスカを求めてしまう。
半年間、気付くことは無かった――ただ陰鬱で在るだけで、こんな風に身体が壊されていることなど知りもしなかった。
悔しい。悔しい。悔しい。
自分の心が――身体が見も知らぬ誰かのモノになってしまっている事実が本当に悔しくて、悲しい。
凌辱されていく自分の心。
蹂躙されてしまった自分の身体。
触れるだけで安堵してしまう自分自身――そんなモノを認めたくないのに、認めてしまいそうになる自分自身。

「離し、て……離して、くだ、さい。」

言葉は途切れ途切れに、朦朧とした頭は明瞭な言葉使いをさせることを許さない。
彼が自分から手を離したのが見えた――怯える自分は、後ずさり、そのまま、両の手でこの身体を抱きしめるようにして、震えることに没頭する。
目を向ければ、室内はそれまでの様相とはまるで違う姿を見せつけている――どうでもいい。
通路からは紅い炎が舞い上がり、室内は今の爆発で元の様相を完全に崩している――どうでもいい。
何があったのか、何が起きたのか、皆はどうなった、生きているのか、無事なのか、私はどうなってしまうのか
幾つもの言葉と思考が乱立する――どうでもいいと断じたいのに断じれない。フェイト・T・ハラオウンの理性がどうでもよくは無い、大事なことだと断定する。
顔を上げる。彼の顔が目に入る。辛いことを我慢するような表情――胸が握りつぶされる。今すぐ抱きしめたくなる衝動。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

「キャロや、ティアナや、スバル、は。」

絞り出すような声。それ以上の言葉を出すことが出来ない。

「探しに行きましょう――フェイトさんも一緒に来てください。」
「……あ、アスカ、さん?」

彼に手を握りしめられた――顔を背ける。胸が痛い悲しい辛い――安堵して、その安堵にこそ憎悪する。
境界面が融け合って消失する。何もかもが曖昧になっていく。
手を繋いだまま、逆の手に大剣を構え――彼はデバイスが無ければ魔法をまともに使うことも“出来なかったはず”なのに――背を向けて、呟いた。

「出口は。」
「……え。」

鸚鵡返しをすることも出来ない胡乱な思考。
自分は子供のように彼に手を引っ張られるまま――震えが彼に伝播していくのを止められないでいる。
咄嗟に手を振って、離す。彼の表情が一瞬だけ、険しくなった、が、次の瞬間にはそんなものは露と消えていく。

「……さっき入ってきた所以外に出口はあるんですか?」
「それは――。」
『It’s this route.』

バルディッシュがこちらの返答を待たずに、シン・アスカに向けて返答し、空間に地図を映し始める――映し出されたモノは、この場から最も近い脱出口。下水道への脱出口。

「……バルディッシュ、これでいけるのか?」
『Yes.』
「何を……するんですか。」
「さっきも言いましたけど……多分、これは敵の襲撃です。」

地図を睨みながら、彼が呟いた。
口調は、ただ滑らかに淀み無く流れていく。

「もし、そうなら――議長はもう逃げ出してます。多分、スバルやキャロにティアナ――それに他の皆も、一緒に逃げてるはずです。あの人は、そういう割り切り方が物凄く早い。」

喰い入るように地図を見つめるシン・アスカ。脳裏にその映像を叩きこんでいるのだろう。その仕草からはどこか手慣れた雰囲気が醸し出されている。

「逃げる、って。」

こちらの呟きにシン・アスカが瞳を向けてくる。真剣な眼差し。見つめられる朱には迷いや逡巡など微塵も見られない。

「これが敵の襲撃なら、逃げるしかないんですよ。俺たちは追いつめられた鼠と同じなんだから。」

淡々と事実だけを紡ぐシン・アスカの言葉。
地下施設と言うものの最大の利点とは、見つかり難いと言うことである。地下と言う本来建物が存在しない場所に作るからこそ、見つからない――それが地下施設だ。地上からは見えないし、空中からも見えない。
だが、見つかってしまえば、その出入の難しさが仇となる。隠密性を高める為に出入口を減らした結果――今度は逃げる場所が酷く限定されることになる。
彼の言う通り、この場所を見つかった時点で袋小路に追い詰められた鼠と同じなのだ。
けれど――

「何で、デュランダルさんが逃げたって思うんですか。何で、そんな……」
「それなりに付き合いが深いんですよ、あの人とは。それに――」

一拍を置いて、続ける。
シン・アスカが右手の大剣――デスティニーとは違う――を見つめる。どこか頼りなさげで、不安な視線で。

「俺の持ってたデバイスと通信が繋がらない。多分、向こうで切ってる。」

確信の籠った口調。
デバイスが勝手に通信を途絶する――そんな信じられないことを平然と彼は言い放つ。

「多分――アイツはデュランダルさん、と一緒に脱出してる、と思います。繋がらないって言うのは、俺たちの場所を“敵に”知らせない為だろうし。」

誇るように呟くシン・アスカを眺める。繋がれていた手を振って、彼が歩いていく。
彼の歩調は先程よりも少し遅く――ごく自然にこちらの歩幅に合わせてきている。
呟く言葉は殊の外、理知的な内容でそれまでの彼への印象と噛み合わない。
記憶は無い。なのに茫漠とした印象によって、形作られるシン・アスカと言う男は、もっと考え無しの猪突猛進だった気がする――徐々に落ち着いていく自分に気付く。
触れ合わないまま、僅かに離れたまま、その距離に慣れていくことで、自身の異常をすり減らしていく。

「だから、逃げた以外には考えられない……って、どうかしましたか?」

黙り込んだまま、ぼうっと彼を見ていた自分に声がかけられた。

「あ、いや……なんか、思ったより、考えて動いてるんだなって。」

シン・アスカの唇が引くついた。
考えてみれば、これは馬鹿だと思っていたと白状するようなモノだった。

「……まあ、考え無しなのは否定しませんけど。」

ぷい、と顔を背けるシン――それはまるで子供が恥ずかしがるのと同じ、20歳と言う年齢には似合わない態度だ。
彼のそんな態度に新鮮味を感じて口元に微笑が浮かぶ――のを抑え込み、その後ろに追随するように歩いていく。彼は何も喋らない。
二人揃って無言のまま歩いていく。
通路は思っていたよりも、炎に包まれておらず、人が歩く程度の空白を残していた。
散乱する瓦礫。砕け散った鋳鉄管。暗い青色のパイプもそこかしこで剥き出しになっており、中からは、パチパチと火花を散らす電線が見えた。
襲撃かどうかは未だ判別がつかない――どこかの動力部に異常が起きて施設全体に異常が起きたのだろう。

「……。」
「……。」

無言のまま、歩き続ける。
目指す場所はスバルとティアナとキャロがいるはずの訓練場。
通路の惨状から察するに、もしこの被害に巻き込まれていれば彼女たちもただでは済まないかもしれない――そんなことは無いと思う。思うけれど、不安は止まずに沈澱していく。
あの子たちには自分の保護などもう必要は無いと、そう思っても不安に思う気持ちは少なからず存在してしまう。
特に、キャロ。彼女は確かに成長している――自分を置き去りにしている。
けれど、それでも子供は子供。
親と言うモノが子供にとって一生、親であるのと同じく、子供と言うモノは親にとって一生、子供なのだ。その間柄は変わらない――エリオがいなくなったことでそんな想いはずっと強くなった。
だから彼女の成長やエリオの離別が寂しかった。子供の成長とは親からの自立を意味する。自立とは離別だから――精神的にも、物理的にも。

「この部屋、ですよね。」
「……そう、ですね。」

扉に手を掛けて開ける。

「……いない、ですね。」

予想通り、開かれた室内には誰もいない。ここまでの通路とは違い、衝撃や振動によってのみ荒らされたのか、炎は室内に波存在しない。そして、血痕やそれに類するモノは一つも見つけられなかった。
シン・アスカの言う通りに全員既に逃げたのか、違うのか。この状況ではそれすらも判別出来ない。
寂しさに裏打ちされた土台を根幹に不安が育っていく。
バルディッシュを通して、何度も何度も念話による通信を送ってはいるが、返ってくるのは不明瞭なノイズばかり。
ノイズは不安を煽るばかりで、打ち消す役割は果たさない。

「……キャロ。」

小さく呟き、室内をもう一度見渡してみる。
訓練場と言うだけあって、広大とは言わないまでも十分な広さを持った室内。その中に散乱する書類や瓦礫、壁面材。何も無い。
溜め息が零れて、悲嘆に暮れそうになる。念話は今も繋がらないまま――それでもと思って、念話を送る。
返事は無い。ノイズばかりが耳に届く。

「……皆、どうなったんですかね。」
「生きてます、きっと。そんな簡単に殺されるような奴らじゃない。」

そう答えながら、彼は部屋中を歩き回り、何かを探していた。
こちらには眼も暮れずに一心不乱に。

「……何、してるんですか?」
「……フェイトさんはギルバート・デュランダルとハイネ・ヴェステンフェルス、あの二人のこと、どう思います?」

彼はこちらの質問には答えず質問で返してきた。
その間も彼は手を止めない。瓦礫を動かし、書類を一枚一枚見て回り、何かを懸命に探している。
ギルバート・デュランダル。ハイネ・ヴェステンフェルス。
実のところ、彼女を含めた全員が彼らのことを完全に信用している訳ではない。
フェイトにとっては記憶を失くした間のことだが――彼女達が管理局を離れたのは別に管理局に離反したかったからではない。それまでの全ての元凶はカリム・グラシアだった、という理由が根底にある。
八神はやてが更迭されたのも、ギンガ・ナカジマとフェイト・T・ハラオウンが殺されたのも、シン・アスカが完膚なきまでに壊されたのも――全て、カリム・グラシアが黒幕だった。
どうして、彼女がそんなことをしたのかは分からない。世界を救う為というのが理由だが――今となってはそれが本当なのか、どうかさえ分からない。
そんな状況で彼女達は、ギルバート・デュランダル達を頼るしかなかったと言うのが本音だ。
得体の知れない敵から逃げるために得体の知れない敵か味方も分からない相手に縋り付いた――内約すればそんな程度。信用しているかと問われれば――信用はしているだろうが、信頼はしていない。
だから、どう思っているかと聞かれれば、

「……油断できないけど、しっかりしてる、とかですけど。」
「油断できない……はは、確かにそうですね。」

そう答えるとシンは、言外にざまあみろとでも言いたげな子供っぽい微笑みを浮かべて、話し出す。
その間も手は休めずに室内を物色し続ける。

「フェイトさんの言う通り、油断なんて出来る訳無い――どう見たって、あの人達も胡散臭いんだから。」

確認し終えた書類を適当に纏めていく。大雑把という表現が良く似合う動作。纏めていくうちに、書類の山が壊れた――僅かに顔をしかめるも、そのままにして、次の書類を物色する。
いい加減というか、あまりこういった作業は得意では無いのかもしれない。

「けど、あの人達は目的を遂げるまでは絶対に“終わらない”。しっかりしてるんですよ、あの人達は。」

言いながらも手は休めない。次へ、次へと部屋中を物色していく。

「だから――あの人が“俺”やフェイトさんを切り捨てるなんてことはありえない。きっと残してるはずなんですよ、何かを。」
「何か……って。」
「書き置きか何かを残してる……筈なんです。デスティニーが俺に無断で行ったのってそういうことだろうし。」

平然と呟きながら、書き置き――もしくはそれに類する何かを探していくシン・アスカ。
それは、不思議な言葉だった。
“デスティニーが俺に無断で行った”。
デバイスが独断専行を行った挙句に主を放って逃げる。その時点でありえないことなのに、主は主でデバイスには何らかの理由があるのだろうと疑ってすらいない。
信頼関係。それもかなり強固な――それこそ互いが互いに裏切ることなどありえないと断定できるような信じられないほどの絆。

「……どうかしましたか?」
「いや……信じてるんだなって思って。そのデバイスのこと、家族みたいに聞こえるから。」

呟きを聞いてシン・アスカの顔に少しだけ翳りが差し込む。ほんの僅か――気付かないくらいの翳り。

「実際、家族みたいなもんだから……信じないとかはありえないんですよ、俺とアイツの場合は。」

シン・アスカはそう言って黙り込み、作業に没頭する。
自分もまた黙り込む。時間は無い――だから、本当はこんな話をしている暇など無いのに、どうして話をしようと思ったのか。
何を探しているのかも分からない自分にはそれを手伝うことすら出来ない。けれど何もしなければ手持ち無沙汰になる。不安が募っていく――その暇に耐え切れずに声を掛けた。そういう部分は確かにある。
けれど――本当はどうなのだろうか。
私の心はまるでざわつかない。何も考えないで、ただ和やかに穏やかに――こんなことをしている場合ではないのに、慌てる様子がどこにも無い。
それに本来は感じなければいけないはずの悔しさも少しだけ――本当に少しだけ薄れている。ほんの僅かの変化だけれど、それは、致命的な、看過してはならない変化だ。
その時、書類を漁っていたシン・アスカが呟いた。

「……あった。」

手元には封筒――宛て名は“Dear Friend”と綺麗な文字で書かれている。
彼が、封筒の上端を破り封を開ける。

「何が、ディアフレンドだ……もっと分かりやすくしろっての。」

毒づきつつも、頬を緩ませて、彼がその封筒の中身を取りだした。
入っていたのは一枚の紙切れ。文字のみが記されている――筆跡は封筒とはまるで違う綺麗な文字。事務的な文章で書かれている内容に自分は目を丸くして、驚きを隠せなかった。

「……2週間後、ベルカ自治領聖王教会本部に集合、って、これは。」
「2週間後までに此処に来いってことでしょうね。」

シン・アスカが、文面を人差指で叩いた。書いてある地名は“ベルカ自治領バルドセルク”――聖王教会本部が存在する都市。
それ以上のことは何も書いていない。
文面から読み取れるのはそこまで。いつ、どこで、どうやって、何をするのか、何も書かれてはいない――そこまで書く余裕が無かったのか、それとも書かなかったのか。或いはその両方なのか。
どくん、と胸が鼓動する。
これは――最後通告だ。いつか来るとは思っていたけれど、まさかこんなに急に決まるとは――覚悟なら全員既に決めている。皆、ソレがいつなのかを待ち望んでいたのだから。
――覚悟の決まらない私だけがこんな風に浮足立っている。聖王教会に表立って反逆すると言うことは、この世界全てに反旗を翻すに等しい。その覚悟が、踏ん切りがつかないでいる。
それは――

「……フェイトさん。」
「……え? あ、はい。」

ぼうっとしていたこちらを怪訝な顔で見つめながら、シン・アスカが口を開く。

「ここまでの行き方分かりますか?」
「……え、と……一度行ったことはあるから、分かる……と思いますけど。」

その声に反応して、朱い瞳がこちらを覗き込む。
ただただ本気の気持ちによって紡がれる視線が自分を射抜く。

「だったら、俺をそこまで連れて行ってくれませんか?」

自分と違って、逡巡など一切無く、シン・アスカは答えた。
迷いの無い瞳が自分を――フェイト・T・ハラオウンを射抜く。

「……アスカさんを、私が、連れていく……?」
「フェイトさんも行くでしょう?だから、一緒にって思って。」

何でもないことのように彼は言う。その瞳は私がそれを断るなどまるで思っていない――胸が痛い。その真っ直ぐな瞳が何より痛い。
断るコトは出来ない。断れば、自分はその時点でギンガやヴィヴィオを見殺しにすることになる。
受け入れるしかない。
そうでなければ自分は一生自分を許せなくなる――それは、なんて胡散臭くて、薄っぺらい言葉なんだろうか。
自分の心はギンガ・ナカジマを見殺しにすることを――ほんの僅かとは言え――考えたことがあるのだから、そんな言葉を発する資格がある訳が無いのに。
朱い瞳に射抜かれることで気圧されたように感じるのは、そんな後ろめたさのせいで、どんな言い訳を発することも出来なくなっているから。
彼は、フェイト・T・ハラオウンは絶対に行くものだと確信して――その確信が痛い。
何と思われようとも構わないはずなのに、幻滅されるのが怖い。
その矛盾から逃れられない――好かれたいのに好かれたくないと言う、決定的な矛盾から。
私は返事を返すことも出来ずに、沈黙する。
沈黙を了解と取ったのか、彼が言葉を呟いた。その朱い瞳が少しだけ寂寥に揺れる――自分には向けない瞳を、どこか遠くに向けていた。

「きっと。」

僅かに乾いた彼の唇が動く。
朱い瞳に決意と覚悟と欲望が灯る――揺らめきつつも、盛り続ける炎。

「……きっと、ギンガさんはそこにいる。」

ずきん、と。
痛みが走った。
決然と呟いた彼の声を聞いて、彼の表情を見て、その瞳に映る欲望を感じ取って――心臓に杭が打ち込まれた。手足の末端にまで電流が走り抜けた。
膝が折れる。このまま座り込んで、思考することを放棄したい――そんなのは許されない、と足に力を込めて、その脱力を否定する。
唇を閉じて、息を静かに吸い込み、深呼吸――落ち着け。
それは“私(ココロ)”には関係の無いことだ。“自分(カラダ)”が勝手に思っているだけの嫉妬に過ぎない。
けれど、その嫉妬は――“私(ココロ)”の意識を変容させかねないほどに強大で醜悪で無様なモノ。
シン・アスカなどを好きになった覚えは無いのに、私はそんな感情に支配されてどうにかなりそうになっている。

「フェイトさん?」

彼が顔を近づけてくる。黙り込んだ自分を変に思ったのだろう――近づいたと行っても数十cm程度の話だ。触れ合うほどに近くなった訳ではない。
なのに――自分は顔を背けた。その顔を見ていられなかった。ほんの数十cmの距離が消失しただけなのに、知らぬ間に自分の頬――と言うよりも全身が――は真っ赤に紅潮していたのだから。
俯いたまま、取り繕うように口を開いた。こんな自分の顔を彼に見せるたくはないから。

「……アスカさんは、怖くないんですか。」

呟いた言葉は、大事なこと、だけど――取り繕うように言うべきことではない。
本当は本気で伝えなければいけないことであり、本来なら、思うべきですらないこと。

「怖い?」
「キャロやスバル、ティアナのこと、まるで心配してなさそうだから……」

途切れ途切れになりそうな言葉を絡めて纏めて、言い放つ。
シン・アスカの返答は眩しさすら感じるほどに単純明快なモノだった。

「……大丈夫ですよ。あいつらがそんな簡単にやられるわけが無い。それは、フェイトさんが一番知ってるはずです。」
「そうです、けど……」

彼の言う通りだ。キャロやスバル、ティアナはそんな簡単に倒されるほど弱くは無い――だが、自分はそれでも怖い。
逸れてしまったことが――自分の目の届く範囲にあの子達がいないことがどうしようもなく怖い。
信じられない弱さ、なのかもしれない。
あの子達の強さを信じられない自分の弱さ――そんな気持ちは無いはずなのに。
鎌首をもたげてくる、その弱さに抗うことが出来ない。
俯く自分を見て、彼の両手が自分の手に触れようとする――寸前で、咄嗟に私は手を引いた。
また彼の顔が歪み、私の心を揺れ動かしていく――伸ばした手を握り締めて、彼が呟いた。

「……大丈夫、大丈夫ですよ。」

私を射抜く朱い瞳は笑顔だった。
どこか痛々しさを感じさせる笑顔で、彼は続ける。

「デュランダル議長も……ハイネも、デスティニーもいる。だからきっと大丈夫です。それにあいつらはそんな簡単に諦めたりはしない。きっと……あいつらは、大丈夫です。」

それは、まるで――自分に言い聞かせるような声音だった。
痛々しい笑顔。少し前に彼が自分の手を握って、泣いた時のような、嬉しそうな笑顔ではなく、ただ貼り付けたような、そんな痛々しい笑顔。

「アス……」
「行きましょう、フェイトさん。」

彼が再度手を伸ばし、私はまた反射的に手を引いてしまう。
滑稽な仕草の繰り返し。彼の頬は歪むことは無い――慣れたのか、それとも歪みを隠しているのか。

(慣れるはずが無い、よね。)

そう、慣れる筈が無い。どんな人間であろうと好きな人にこんな態度を取られて、慣れる筈が――そんな言葉を胸中で呟いたとき、僅かに違和感を覚えた。
それは、多分気付いてはいけない――けれど、気付かなくては何も始まらない違和感。
“好きな人にこんな態度を取られて”――それは、おかしい。

「ここでこうしていても仕方ないし……フェイトさん?」
「……アスカ、さんは。」

昔の自分は彼を好きでいた。
昔のギンガも彼のことを好きでいた。
記憶を失う前の私達は二人共に彼を好きでいた――彼はそんな昔の私達に返事を返すことも無かった。正確には返すことも出来なかった。
だから、彼の気持ちというものを誰も知らない。彼が何を思っているのか。その事実だけが、ストンと抜け落ちてしまっている。

「アスカさんは……。」

――誰を好きなんですか、という言葉へと声が続いていかない。
その先の質問に繋がらない。その質問に返って来る言葉が、どうしようもないほどに怖い。

「フェイトさん?」

シン・アスカの声が響く。
何も言えないまま、私はそこにいた。
怖いことが悔しくて、怖いことが悲しくて、怖いことが嬉しくて――私は何も出来ないまま、馬鹿みたいに立ち尽くしていた。



[18692] 第四部ミッドチルダ風雲篇 72.愛の病(c)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/06/02 21:09

既に使われていない下水道――汚物は流れていないし、汚水も流れていない。随分前に放棄されたのだろう。流れているのは単なる泥水。精々が雨水程度。
水飛沫を上げながら、走り続ける。
戦闘を走る――いや、飛ぶか――彼の面影を残した少女へと声をかけた。

「彼はもう、逃げたと思うかね、レイ……いや、今はデスティニーか。」
「レイで構いません。それも――私の一部ですから。」

金色の髪の毛と朱く鋭い瞳。女性らしさを強調するが如くに突き出た胸。
瞳の輝きは鋭く女性とは思えないほどで、そこに加わる童女の如き可憐さを忍ばせた横顔が彼女の在り様を揺らがせる。
見る角度によっては幾通りもの表情を見せる。
そんな中で彼の面影など、金色の髪の毛と口調の節々にしか残っていない。
それが少しだけ苦々しい想いを再生し――そんなことを思う自分に苦笑する。
それはギルバート・デュランダルには似つかわしくない感傷だ。必要の無い、と言い換えてもいい。そんなことを思う資格など自分には無い。そう思っているのに、感情とは不思議なモノで勝手にそんな感傷を構成していく。
人であることなど当に捨てたと思っていたが、そんな感傷が浮かぶと言うことはまだ自分は自分のことを人間だと思っているのかもしれない。
それこそ夢幻のようなものだ――そんな馬鹿な考えを仕舞いこみ、語りかける。

「では、レイ、キミはどう思う?」
「恐らくは逃げたと思います。そうでなくては意味が無い。」

下水道を走りながら、後方を振り返る。
こちらの背後には3人の少女が同じく走り続けている。
ティアナ・ランスター。スバル・ナカジマ。キャロ・ル・ルシエ。
そして、自分――ギルバート・デュランダルも同じく戦闘準備を終えている。
同じように、デスティニー/レイも大剣を握り締めたまま、翔け抜けていく。
ハイネは襲撃が起きる前に此処から離脱してもらった。彼と――そして、シンは出会っていないもう一人には別の仕事があるからだ。
視界に入り込むレイの面影を残す彼女に向けて、続ける。

「……主であるシンを危険に晒してまで、君が私達についてくる必要も無かっただろうに。」

金色の髪を揺らして、デスティニーが首を横に振った。

「私がいれば、あいつは迷わず戦って、自分を囮にしてしまいます。」
「確かに……君が言うのならそうなのだろうな。」
「あいつは、役立たずのままでなければ、戦うのを止めはしない。」

酷い言い草だ、とも思ったが、それは真実だった。
デバイスである彼女がいないシン・アスカ。現在の彼ははっきり言えば役立たずだ。
彼の強さとは、デバイスがあってこその強さである。
デバイスを持たないシン・アスカなど精々がAランク程度――それも戦闘能力に限定した場合のみ――の魔導師である。戦闘能力に限定しない場合、彼のランクはDからC程度だ。
それは短期間で化け物の強さにまで駆け登った弊害でもある。
シン・アスカの強さとはデバイスがあるからこそ、デバイスに依存するからこその強さである。
無論、目前のデスティニーとはシン・アスカ専用のデバイスであり、彼以外には扱えないのだから、デバイスも含めた上で、“シン・アスカと言う魔導師”とも言えるが――デバイスが無いと彼が役に立たないことに変わりは無い。
だからこそ、そういった役に立てない状況に立たされれば、シン・アスカとて逃げ出す。化け物じみた強さを持っているからこそ、あの男は迷うことなく命を賭ける訳であって――決して自殺志願では無いのだ。

「まさか、シン君とフェイトさんも自分らを逃がす為に逸れた、とは思わないだろうね。」

後方から、スバルが言った。
デスティニーの朱い瞳がスバルを捉えた――口を開く。

「その通りだ、スバル・ナカジマ。この場で最も戦力となるアイツをあえて外す。そんな自殺行為だからこそ意味がある――もし、そのことに気付けば、あいつは確実にこちら側にいようとするからな。騙すくらいで丁度いい。」
「強いからこそ、か。」

デュランダルの言葉に頷くデスティニー。
その通り、管理局において化け物とも揶揄されるオーバーSランクであっても、一対一では今の“シン・アスカ”と言う化け物を倒すことは不可能だろう。
魔導師と言うより、人間サイズのサードステージシリーズ――デスティニー、インフィニットジャスティス、ストライクフリーダム、レジェンドのモビルスーツのことだ――と同等と言っても過言ではない。
それは明らかに人間の強さから逸脱している。現在の彼の力はそれほどに規格外だ。
だが――どれほどに規格外で強いと言っても、それは無敵と同義ではない。周辺から搾取した魔力だけでは補え切れないほどに戦闘の規模が大きくなれば、彼は命を削らざるを得なくなる。
それは駄目だ。それはいけない。
彼はまだ死んではいけない――シン・アスカという命を使い切るのは、このタイミングではない。
故にデュランダルはシン・アスカを助けた。
本来なら、助ける必要など無かったと言うのに、敵に見つかるリスクを犯してまで。
彼を死なせない為に、そして彼を捕えさせないために、である。
デュランダルにとって、最悪なのはシン・アスカが捕えられること。無限の欲望であるシン・アスカが敵の手に落ちようものなら、羽鯨の受胎は完了したも同然――彼とジェイル・スカリエッティは羽鯨にとって極上の餌なのだから。
だからこそ、最も確実な方法を取ったのだ。
シン・アスカを逃す為の最も確実な方法――即ち、戦うことが出来ないようにした上で、嘘を吐いて。

「けど、本当にあの二人だけで大丈夫なの? 幾らこっちが囮になるからって、シンは魔法もまともに使えないし、フェイトさんだって本調子じゃない……もし、あっちにも敵がいたら、その時点で終わりじゃない。」

ティアナが口を開いた。
走りながらのせいか、息が少し切れている。

「殆どの敵はこちらに呼び寄せている――あちらに行く敵がいるとしても、精々がガジェットドローン数機というところだろう。その程度は、今のシンとフェイト・T・ハラオウンだけでどうとでもなる。」

淡々と言葉を紡いでいくデスティニーに向けてキャロが声をかけた。

「信じてるんですね。」
「相棒だから、だな。 君とて、その竜を信じているだろう? それと同じだよ。」

デスティニーがキャロに向けて返答する。彼女はその言葉を受けて、傍らを飛ぶ小さな竜――フリードに目を向けると、フリードがぐるぅと呻いた。人語を理解しているのか、それとも雰囲気で察したのか、どことなく嬉しそうな雰囲気だった。
光が見える。下水道の終わり――恐らくはどこぞの排水施設か、海に出ることだろう。
デスティニーが呟いた。

「さて……お喋りはこの辺でお終いだな。」

彼女が速度を緩める――後方から、全員が追いついてくる。
出た場所は、昔は使われていたであろう、排水施設。
現在では使われていない――元より使われていたのは相当の昔なのだろう。生い茂る草と遠方に見える管理施設の荒廃がその年月を物語っていた。

「……いるな。」

デスティニーの呟きを聞いて、スバルが辺りを見回す――瞳の色は金色。通常の視覚では“見えない”モノを視る為の視覚へと変化する。
熱源反応は見えるだけで、20を超えている。
人間ではありえないほどに高まった温度を示す人型の熱源は――恐らくはクジラビト。ここ半年で現れた化け物達。数は5人。残りの熱源は、恐らくは聖王教会の魔導師たち。
スバル達3人の顔に緊張が走る。
別に、殺し合いをするつもりではない――それでも、同じ人間を相手にする戦いというものにはどうしても緊張が付き纏う。
シン・アスカがいない間に交戦は何度かあったが、それでも慣れるモノではない。
聖王教会を敵に回すと言うことは、世界を敵に回すと言うことだ――慣れる筈が無い。

「数にして、25人と言ったところか、スバル・ナカジマ?」
「……そうだね。」

スバルが神妙な顔で呟く。これから起こる戦闘を思い描いているのか、その拳がきつく握り締められていく。

「……どっち道、ここを抜け出さないことには何も始まらないしね。」

ティアナが両の手の拳銃型のデバイスを構え、漆黒の暗闇を睨みつける。
そんな彼女達を見て、右手に携えていた大剣を肩に担いだデスティニーが感心するように溜め息を漏らした。
ティアナの目がデスティニーをジトリと睨み付ける。揶揄でもされたように感じたのかもしれない――実際、この場にいる人間の中で自分だけが、直接関わりが無いのだから、そう思われるのもt当然かもしれないが。単なる成り行き――世界が滅びるとか単純に嫌だし、ギンガさんが間違いで殺されるのも嫌だし、何より、それを見過ごしたら、私は一生私を許せなくなる。
ティアナの胸にあるのはそんな気持ちだった。彼女は今そんな程度の気持ちで動き、未来を不意にしているのだから――揶揄すると言うのは分からないでもない。

「何よ?」
「いや、何、流石の覚悟だと思ってな。こんな状況でまだそんな顔が出来る――大したモノだ。」

ティアナの唇がひくついた。
まさか、デバイスにこんな風に褒められる日が来るなどと考えもしなかった。

「……あんたこそ、表情一つ変えないで、シンを騙すとか大したデバイスよ。」
「さっきも言ったが、あの馬鹿はこれくらいしないと騙されてくれないのさ。」
「……あんたが本当にデバイスなのか疑いたくなるわ。」
「ふふ、ユニゾンデバイスの亜種とでも思ってくれれば良いさ。」

笑いながら、呟く、デスティニー。
常識外れもいいところだ。幾ら主の為とは言え――平然と主を騙すようなデバイスはそれほどいない。そんな彼女の口調の節々から感じられるシンへの信頼はどこか家族や相棒と言うよりも――親友に対するモノに近い気がする。
どこか、自分がスバルに向ける態度に似ているような――そんな益体も無い思考が行き過ぎる中で、キャロが一心不乱に前を見ていた。

「……私達がここで目立てば目立った分だけ、フェイトさん達は無事になる、ってことですよね。」

小さく、少女――キャロが呟く。
幼い顔には似つかわしくない決意と覚悟を浮かび上がらせて。
少女には止まっている暇など無い。
彼女にはやるべきことがある。家族を――奪われたモノをこの手に奪い返すと言う願いがある。
少女は気付いていないが、それは酷く傲慢な願いだ。エリオ・モンディアルは自分の意思で――如何なる理由があろうとも選んだのは自分自身である――少女を裏切った。敵に回った。
だが――幼いココロはそんな理由など踏みつける。踏みつけて、踏みにじって奪い返す。
キャロにとって、エリオの意思や理由など関係無い。
彼女は最後に見た、エリオの顔が忘れられない――泣いているような彼の顔がどうしても離れない。
だから、助ける。一切合切を捨て置いて。
こんなところで立ち止っている暇は無い。悲しんでいる暇など無い。怖気づいている暇など無い。
否、そんな暇があるのなら、さっさと突破して、己の願いに突き進む。
フェイト・T・ハラオウンはキャロ・ル・ルシエに置いていかれたと感じていたが――実際は違う。
置いて行かれたのではない、彼女は、断固として“立ち止っている”。
誰をも置いていく訳では無く、全てを連れ戻して、奪い返す為に、彼女は立ち止ることを選択した。
デスティニーはそんなキャロを哀れに思う。
それは少女が胸に抱くべきではない想い。この年齢で、“過去に依存する”ことを選択するなど哀れと言う他は無い。
断固として、それは哀れでなくてはいけない――その身に“マユ・アスカ”の魂を内包するからこそ、彼女は強くそう思う。
子供とは未来に夢を見なければならない。
あの頃は良かった、あの頃は楽しかった、あの頃に戻りたい――そんな過去への想いに縛られてはいけないのだ。
それは感傷だ。
デバイスでしかない――それどころか分類上は文字通り、単なる魑魅魍魎でしかない自分が何を言うのか、とも思うが、人の魂を根幹として想像された以上、人としての感情に支配されるのは抗えない道理である。
だが――

「そうだな、その通りだ。」

デスティニーが呟いた。
小さく、決然と――どこか、女性の声には似つかわしくない少年のような口調で。
一歩、前に踏み出す。無造作に、敵に見つかることなどお構いなしとばかりに。

「先行する気かね?」
「ええ。“俺”が先行し、敵の眼を引き付けます。大規模魔法が使えるのは現状では“俺”だけのようですからね。」

声と共にその背に朱く透き通った翅(ハネ)が生まれる。翅は左右二対の六枚。
それは、凍結した炎とでも言うべき形状。震えるでもなく、羽撃たく訳でも無く、ただその炎(ハネ)は儚くも力強く揺らめき続ける。

「“俺”の魔法に続いて、ティアナ・ランスターとキャロ・ル・ルシエが撹乱を頼む。」
「了解。キャロ、いけるわね?」
「……はい、いけます。」

二人が術式を構築し、準備を進めていく。
デバイスが指揮を取ると言う前代未聞の状況ながら、不思議とデスティニー――レイとも呼ばれる彼女の声には説得力があった。
デュランダルにしてみてもそれは同じだった。
彼女の言葉には不思議な説得力がある。死人が寄り集まって出来あがったモノだとは彼女本人から聞かされてはいたが――死者だからこその説得力、とでも言うのか。
頼り甲斐のある姿。もし、レイが生きていたら、こんな人間になったのだろうか、とそんな無意味な考えさえ思い浮かび――仕舞い込む。
それは、本当に意味の無い考えなのだから。
それもまた感傷。捨て去ったはずの――ギルバート・デュランダルもまた感傷に流されていく。彼もまた過去に囚われることを選んだ人間であるが故に。“愛した女のいる世界を守る為に”、此処にいるのだからこそ――時には感傷に溺れたくもなる。
デュランダルが呟いた。

「殿(シンガリ)は、私でいいかね?」
「ええ、ギルとスバル・ナカジマにお願いします。この中では貴方がた二人が最も適している。」
「私とスバル君か……問題無い。的確だ。」
「……ありがとうございます。」

デスティニーの返礼。デュランダルの頬に僅かに微笑みが浮かんだ。
スバルはそれを横目で観察し、振り切った。
彼女は今も、半年前のデュランダルの言葉を忘れてはいない――シンを使い捨てにしようとした、彼の言葉を、全て信じてはいない。
だが、世界を救うと言う事実は――彼女にとって、姉を救うことをも意味する。
世界を救う生贄――しかもそれは全くの無意味な行為だと言う――に選ばれてしまったと言う姉。記憶を壊され、その人格すらも壊され――凌辱と言う意味ではこれ以上ない凌辱だ。
彼女はそれが許せない。何が生贄だ。何が聖女だ。そんな馬鹿げた勘違いの為に殺されるなんて許して良い訳が無い。そんな馬鹿げた行為の為に、そこまでの凌辱を受けるなんて許せるはずが無い。憤怒の炎が燃え上がる。その憤怒が、今の彼女を支える原動力。
故に、殿(シンガリ)をデュランダルと共に行うと言うことにも異論は無い。そんなところで異論を挟んでいても姉は救えない。

「私とデュランダルさんで、後続を倒していくってこと?」
「ああ。同時に包囲網が出来上がるようであれば、君には突撃手をお願いしたい。」
「……うん、了解。」

言葉の意味を噛み締め、集中を高めていく。
的確な指示だろう。闇夜に紛れた逃走を図ると言う目的に対しては一番問題が無いと言っても良い。

「最後に確認しておく。」

デュランダルが両の拳のデバイスを起動し呟いた。

「私たちは二週間後、聖王教会に向かい襲撃を行う。私たちの最終目標はそこでギンガ・ナカジマと高町ヴィヴィオを奪取することであり、この戦闘に勝利することではない。第一目的は逃げること……それを決して忘れないでくれたまえ。」

右手を開き、握り締め――再度開く。

「準備は良いかね?」
「いつでも。」

ティアナはクロスミラージュを構え、幻術の構築を既に始めている。

「大丈夫です。」

キャロがティアナに向けて幾つもの補助魔法を付与して行く――幻術の威力を高めるのだろう。

「大丈夫、です。」

スバルの返答は少しだけ、間が開いた。それは彼女の心の現れなのかもしれない。瞳に迷いは無いが、人間の好みが現れたと言うそれだけの。

「問題ありません。」

レイが大剣を構えた――肩に担いだだけの、それを構えと言うのなら、だが。

「では……行くぞ。」

デュランダルが右手を振り被り――地面に向けて振り下ろす。感傷をたたきつけるようにして。
ぽん、と軽い音が鳴り響いた。

「……ギル?」
「初撃は派手であればあるほど良い……そうだろう?」
「そうですが、何を……」
「魔法では無いが――可愛い“息子”の手助けになりたいと思うのは親ならば誰でも思う――遅れた息子への祝いと思ってくれ。」

言い終えると同時に左手を振りおろした。右手の振り下ろしとの間隙は僅かに10秒ほど。
左手の振り下ろしは視認することも出来ないほどの超高速。先程のような軽い音では無く、地面を叩き割らんばかりの轟音。

「……今更遅いことだろうがね。」

ざわめきが起きた。轟音が、彼らの所在を掴ませた。デュランダルが行ったことの意味が分からず、デスティニーの頬が歪んだ。此処にいたって初めての驚愕の表情――デュランダルが笑う。悪戯が成功した子供のような表情で。スバル達の表情は変わらない。何が起きるのかを知っているのだろう。

「ギル、何を、」
「遠当て、さ。」

放たれた言葉と同期するように、轟音と地響きが発生した。
遠くを見れば、間欠泉の如き勢いで周囲を囲むようにぐるりと土が“噴き上がった。
放たれる声は全て恐慌を意味している――当然か。いきなり、土が盛り上がり、爆発したならば誰であっても驚くに違いない。

――物質というのは衝撃を受けると必ず“抵抗”する。生物が本能的に衝撃に対して堪えようとするように、無機物も同じく“堪えよう”とする。衝撃に対して抵抗が発生するのは脊髄反射よりも尚早い、何百分の一秒という世界。刹那の瞬間。
ならば――その“堪え”を無効化することが出来たなら、衝撃というものは抵抗を受けずに物質を破壊する。
いわゆる透勁と同じ“技法”である。
同時ではなくほんの僅かにタイミングをズラし――知覚することも無い僅かな隙間。刹那とも呼ばれる単位――いわゆる百京分の一の隙間を開けて重なり合った衝撃は目標地点へと衝撃を余すことなく伝播させる。
それは、打撃の“撃点の操作技術”の集約とも言える。
故に遠方へ衝撃を伝え、それに追随するかのように衝撃を放つことが出来れば――任意の地点へと撃点を移動するなど造作も無い。
衝撃の伝播速度。距離。角度。座標の取得、弾性波探査など行わずとも計算によってそれは“成る”。
デスティニーの驚愕はそれだけを意味しているのではない。何よりも驚くべきは、その技によって誰も殺していないこと。
知覚範囲内での話だが、その全ては敵の数m前での発動。その距離の目算当てずっぽうによるものだろうが――ただあれだけの動作でそれだけの操作が出来ると言う事実にこそ驚嘆する。
それは魔法ではないが、もはや魔法と言っても良いような技術である。

「……貴方がこんなに派手好きだとは知らなかったですよ、ギル。」

呟き、デスティニーが下水道から飛び出す。柄に収納されていた二本の双剣が浮かび上がり、大剣の刀身に亀裂が走る。
縦横無尽――直線によってのみ描かれる幾何学的な亀裂。刀身が分割し、分裂し、浮かび上がる。
デスティニー――レイの瞳が朱く燃える。その色はシン・アスカと同じ色。
刀身の存在しない大剣を握り締めて、指揮者の振るうタクトのように振り払った。
次瞬、分裂した刀身と双剣が瞬く間に上空へ移動。刃の頂点にて灯る朱い光。

「――薙ぎ払え。」

そして朱い光が瞬き、言葉通りに炎が舞い上がり、爆発した。
刃の頂点に灯った朱い光が降り注ぐ雨のように大地に向けて発射されたのだ。
薙ぎ払ったのは木々と建物と地面――人間には当てない。殺すつもりはない。分裂した刀身と双剣は全て彼女の情報取得デバイスであり、彼女自身である。その程度の取捨選択はどうとでもなる――造作も無いことだ。

「……君ほどじゃないと思うがね。」
「どっちも派手すぎるわよ……キャロ!!」
「はい!!」

ティアナが飛び出す。キャロが飛び出す。それらに先んじてデスティニーが飛び立ち、飛来した刀身を自らの元に戻し、再度魔力を充填――そして、発射。足止めを繰り返し、退路を確保することに専心する。
ティアナが幻影を精製する。恐らくは彼女の限界の数量を。キャロのブーストによる限界数量の連続。

「デュランダルさん。」
「……ならば、行くか、スバル君。」

スバルが飛び出し、デュランダルがそれに追随する。
巻き起こる喧騒。聖王教会の魔導師がどれほどの者なのかは分からないが――恐らく幾ばくかの間は止めることが出来る。
問題はクジラビト。奴らには幻影も通用しなければ、喧騒が起きることも無いだろう。無論、彼らと戦う必要などありはしないから適当なところで切り上げればいいだけだが。

まずは撤退戦。そう、これは撤退だ。敗走ではない――勝利を手にするために必要な撤退である。
デュランダルは笑う。
ようやく始まる反逆に心を躍らせて。


下水道は恐らく相当な期間使われていない――廃棄されているのだろう。
汚水は流れていないし、汚物も見当たらない。
既に廃棄されて久しい――どれほど前に廃棄されたのか、見当もつかないほどだ。
彼方に見える光が少しずつ大きくなっていくのが分かる。
フェイトが僅かに既視感を覚えた。
いつか、どこかで同じようなことがあったような気がする。
既視感は温かみと共に彼女の胸の中で再生されている――そんな記憶には心当たりが無い。
そう、思った矢先、彼がこちらをチラチラと見ていることに気付く。
何度も何度も――何かを期待するような表情で。

「……何ですか?」
「あ、いや……何でも、ないです。」

フェイトはその表情で、察する――多分、あったのかもだろう。これと似たようなことが。
彼女は何も覚えていないけれど――彼は全てを覚えていて。
フェイトが口を開こうとする。何かを言おうと――何を言うべきかも定まらないままに。
その時、唐突に轟音が響き渡った。

「……戦ってる。」
「敵はあっちに固まってるようです、ね。」

無意識の内にフェイトの方に手を伸ばそうとして、寸前で押し留まらせる。
足元は不安定で段差が幾つもある。
右手に集めた魔力によって灯した炎の明かりだけで進むには、その下水道は薄暗すぎる。

「……あいつらはきっと大丈夫です。きっと。」
「……分かって、ます。」

フェイトの顔が歪んだ。
自分では無く、シン自身が自分に言い聞かせるような声を聞く度に、胸がざわめき軋んでいるのだ。
轟音の鳴り響いた方向――そちらについては両者共に不安はある。あり過ぎると言っても良い。
けれど、彼らには現状信じる以外に方法は無い。
今から彼女たちの方に向かったとしても、間に合うかどうかも分からないし、辿り着くことが出来るかも怪しい。
二人に出来ることはただ一つ。この場を一刻も早く離脱し、約束の場所――二週間後までに聖王教会本部に辿り着くこと以外には無いのだから。
下水道を出た。付近には木々が立ち並ぶ、どこかの森の中――取水口だろう。
空は曇り、星の光すら差し込まない漆黒の夜。
逃走するにはちょうどいい空模様と言える――そんなことを、シンが思っていた時、不意に“何か”を感じた。
怖気でも無い。肌が粟立つ訳でもない。危険は感じない。けれど、決して看過できない何か。
空気の感触が変わったような錯覚。
胸がざわめき出し、瞳が鋭く尖っていく。

「……。」

言葉では説明できない――何かとしか言いようの無い、曖昧な、けれど無視できない感覚。
現在のシン・アスカはSEEDによる知覚の拡張が恒常化し、取得する情報量が以前に比べて膨大になっている。
故に“察知”と“知覚”の間に齟齬が生じることが時々ある――つまり、拡張した知覚が意識に先んじて何かを察知するのだ。
原理で言えば、僅かな音や空気の振動、地面の震動等の周辺情報――それだけではなく、魔力素の変化、風の流れ、匂い等の普通なら気にも寄らないコトを無意識が勝手に感知している、と言ったところだろう。

「…どうかしたんですか、アスカさん。」
「……フェイトさん、直ぐに戦闘の準備してください。」

曖昧な感覚が何かがおかしいと告げる。何がおかしいのかは分からない。
付近を見渡しても何も変わった様子は無い。
吹き荒れる風によって、木々はざわめき、木の葉を散らしていく。その狭間を縫うようにして、何かが動いていくのが視界を掠めた、ような気がした。
右手で大剣――それはどこか“二人”の胸を貫いた大剣に似ている――を握り締め、構えた。
ひゅん、と風を切り裂く音がした/視認出来ていないにも関わらず身体が自動的に迎撃を選択。
弾かれた衝撃が両手を痺れさせる――そこでようやく迎撃したことに気付く。
迎撃方向を見れば、そちらに人影が見えた。

「――誰だ。」
「……ああ、やっぱり気付いてくれたのね、シン・アスカ。」

がさり、と草を踏む音と共に――“彼女”が現れた。
艶やかな着物を纏い、蒼い髪を束ねた女性。
袖はゆらりゆらりと風に揺れ、裾は棚引き、その内面の黒いラバースーツを露にし、彼女の脚部の曲線を映し出す。

「……ギンガ、さん。」
「ギンガ……」

ギンガ・ナカジマがそこにいる――シンとフェイトの顔に緊張が走り、付近の気配を探り出す。そんな二人を見て、ギンガが微笑む。

妖しく、艶かしい、蠱惑的な、蜘蛛の微笑みを――本来の彼女なら絶対に浮かべることの出来ない、少し前の彼女でもきっと浮かべることの出来ないだろう、微笑みを。

――違和感がある。無論、記憶を消されている以上は、シンの知るギンガとは違うのは間違いない。だが、少し前に戦ったギンガとも違う、“違いすぎる”。
戦闘による高揚などでは絶対にありえない変化。
何かが、おかしい。
そんなシンの胸中など知る由も無く、ギンガが口を開いた。

「……安心していいわ。ここには私以外にいない。誰もこんなところに来るとか思っていないもの。貴方達の企みは――大成功。」
「企み?」
「ん、んふふふふふ、何を言ってるのか、分からないの? それならそれで良いわ――私はそんなことどうでも良いんだし。」

両の手の袖が伸びていき、その先端が二股に割かれていき、棚引き、揺れる――伸びる/両手を振るう――投擲の動作。
空気を切り裂き飛来する刃(ヌノ)。
速度は“遅い”。視認出来る上に、狙いも稚拙。防がれるのが目的――というよりは、殺すつもりのない攻撃。
捌き、弾き、避ける。その全ては届かない。

「……何の、つもり、ですか。」
「ふふ……戦うつもりよ。それ以外に何があるっていうの?」

艶やかな微笑みに、狂気が混じる。
唇が釣り上がり、凶悪な表情が生まれていく。
彼女の身体が僅かに前傾――来る。

「……今度は、少しだけ本気で――」

呟く。足元で轟音。爆発する地面。空気を震わす振動。背筋を走る怖気。視認出来たことが奇跡に近い――更に言えば反応したことも。

「――行くわよ。」

左腕を振り被り、叩き付けようとする姿が見えた。狙いは顔面。
大剣で迎撃――弾かれるだけで意味が無い。捌くことは間に合わない。回避する以外に術は無い。
反射行動による回避。見切るなどという華麗なモノではなく、全身全霊を使って、真横に飛び出す――拳を振るう動作と共に巻き込まれた空気が突風となって、それまでシンがいた場所の空気を弾き飛ばした。
爆風が炸裂する。空中に飛んだ不安定な姿勢の為か、突風はこちらの身体を無造作に弾き飛ばし、距離が開く。凡そ10m――膂力なのか、それとも魔法によるものなのか。どちらにせよ、馬鹿げた力による結果。
呻きを上げながら、立ち上がる。爆発地点で佇む彼女の瞳が青く輝き、血走っている――薄く貼り付けられた微笑みは今も変わらず艶やかで愉悦に満ちていた。

「くっ……!!」
「ふ、ふふふふふ、あはははは、あははははははははっはははっは!!」

響き渡る哄笑。これまで聞いたことも無い、ギンガ・ナカジマの狂ったような笑い声。
血走った瞳の瞳孔は開き切って、可憐なはずの彼女の顔を病ませていく。

「凄い……やっぱり貴方は凄い!! そんな、何も出来ない、“役立たず”のままで、そこまで避けることが出来るなんて!!」

哄笑するギンガ。酷く楽しそうな笑い――違和感。いや、違和感という曖昧なモノではない。コレは確実に“違う”。

「……ギンガ、さん?」
「ふ、ふふふ、やっぱり、あの人の言う通りだった……貴方なら、私のこの胸の空白を埋めてくれる……埋めてくれる!!」

嬉しそうに着物を棚引かせ、高らかに笑うギンガ・ナカジマ――彼女が迫る。
魔力量は同等。魔法の練度には雲泥の差。身体能力はどう足掻いても向こうが上。
瞳を見開き、構える。脳の片隅に、あの人とは誰なのか、どうして彼女がこんな状況になっているのか、など考えるべきことは幾つもある。けれど――

「はああぁぁぁぁぁああああぁぁあ!!!!」

絶叫と共に彼女が迫る。速い――加速しない一倍速の世界において、あまりにもその速度は速すぎる。

「く、っそ!!」

歯噛みしつつ、更に後退。
先ほどよりもさらに加速した両手両足、或いは肩、もしくは裾。
ありとあらゆる部位から発せられる打撃、刺突、薙ぎ等の全ての攻撃を、捌き、凌ぎ、再度後退。
開いた距離は一足では届かない間合い――彼女がシンに向けて駆け抜けた。
狂気に支配されていながら、彼女の動きは至極滑らかで停滞などまるで見つからない動作――地を這う蛇の如く、低く疾駆する。

交錯は一瞬。
激突――腹部を狙った左拳の一撃を辛うじて受け止めた。折れることを覚悟で受け止めたと言うのに、剣は未だにその姿を維持していた。思っていたよりもはるかに強度があったことに僅かに驚く。
――ギンガの顔が歪み微笑み、唇が吊りあがった。

「……まだ終わりじゃないよ。」

彼女の身体が“沈降”し、重心を下方に向けて移動/僅かに体躯を前傾/全身の関節を固定/左拳を突き出す――同時に右肩を捻り、左腕を更に突き出す。

瞬間、左拳を受け止めていた大剣の刃を突き抜けて、衝撃が腹部を貫いた。

「げ、ぶっ。」

呻いた瞬間には吹き飛ばされた。
呟きが聞こえた瞬間には視界に彼女はいなかった――視界一杯に広がるのは一面の星空。
吹き飛ばされた、と理解した時には何もかもが遅かった。

「シン・アスカ。」

ギンガの顔が視界一杯に広がっている。瞳の色は青色――戦闘機人では無いヒトの色。

「……一緒に世界を救いましょう?」

優しげな言葉。艶やかな表情。
全身に力が入らない。
頬と額から垂れる血液。
右肩が切り裂かれた。
腹部への打撃は辛うじて受け止め――その衝撃で両手首がヒビでも入ったのか、ズキズキと痛み出した。
それらを突き抜けた衝撃のせいで、全身が動かない。
ギンガの左手がこちらに伸びる。
微笑みは艶やかに――分からない。何が起きたのか、何も分からない。
つい数時間ほど前までは、ギンガ・ナカジマは記憶こそ失っていたけれども、その節々に“彼女”を感じることが出来た。なのに、今は、そんな原形すら失うほどに、別人と成り果てている。
浮かび上がる当然の疑問。シン・アスカの五感と脳髄は目の前の彼女をギンガ・ナカジマだと断定し――理性が、それを信じられないでいる。変化に要した時間はほんの数時間。
そんなことが出来ると言うのか――分からない。
分かるのは、その手に掴まれた瞬間、何もかもが終わると言うこと。
彼女“達”を取り戻しにきたと言うのに、その彼女たちの一人に捕まってしまえば終わりと言うのは何て皮肉なことだろう。
けれど、彼女にはそんなシンの懊悩はまるで関係の無い事柄で、

「お願い――私の、為に、」

どくん、と胸が鼓動する。
その声に、その手に、その懇願に――彼女が今どんな状況なのかさえ分からないのに。
そんなモノは瑣末なことだと捨て置いて、その言葉に答えてしまう馬鹿な自分がいて――それを自覚するよりも早く反射行動のようにして、伸ばされた手を掴もうとしてしまう。


「一緒に来……がっ!?」

 突然、彼女の声が途切れた。視界一杯を埋め尽くそうとしてした彼女の顔が消えて、視界が真っ黒になり、柔らかく、温かい何かに顔が埋まっていた。全身に力は入らない。だから柔らかいソレが何なのか、さっぱり分からない。

「……んで。」
声が――聞こえた。
虚ろな視界を横にずらせば――

「――フェイト・テスタロッサ・ハラオウン、ね。」

――顔面を蒼白にしたフェイトが、自分を抱き締めていた。



その事実に自分が信じられなかった。
シン・アスカを助ける為にギンガから彼を奪ったことが――ただ、助けるだけなら良い。助けに入らなければ、おかしい状況だったから、それ自体は問題ではない。
問題なのは、ギンガが差し伸べた手に、シン・アスカが手を重ねようとした瞬間――私の意識がそこで弾き飛んだこと。
胸を駆け巡った気持ちは幾つもの薄汚い嫉妬心。
許せない、どうして手を重ねるの、私のことをどう思っているの、何でギンガを選ぶの、あなたは私のことが好きなんじゃないの、私はこんなにあなたを■■でいるのに。

それは、私の、気持ちじゃない。
“私(ココロ)”が失った、“自分(カラダ)”の気持ちだ。だから、“私(ココロ)”には関係ないことだ。なのに――気がつけば、私はギンガを蹴り飛ばし、シン・アスカを奪い取り、胸にきつく抱き締めていた。
胸に埋めるようにして抱き締めた彼から手が離せない。その身体は、ほっそりとした見た目に反して重く固く――その重さに、固さに、“彼であること”にどうしようも無く安堵する自分に愕然とする。

「――フェイト・テスタロッサ・ハラオウン、ね。」

ぞっとするほどに冷え切った声が響いた。
声の方向に目を向ける。
青い瞳が私を睨んでいた――瞳に燃える炎は嫉妬。

「何で、邪魔をするのよ、貴方。」
「……ギンガ、眼を覚まして。」

声をかけた――おざなりと言って良い声色。本当に止める気などまるでないと誰よりも自分には分かる声。
そんな声のニュアンスは、自然、相手にも伝わる。声色――つまりは、色合い。感情の機微なのだから。
青い瞳を血走らせて、彼女が呟く。幼稚で、無邪気な子供が、駄々をこねるように――苛立ちが募りだす。
彼女の足元のウイングロード――彼女はこれでシン・アスカを追いかけてきた――がその憤怒によって揺らぐ。

「煩い。」
「ギンガ、もう一度言うよ。目を覚まして。」
「……もういい、黙って。」

ギンガが左手を構えた。その身を覆う着物が――蒼く輝き出す。
視ただけで理解できるほどに不穏な空気が溢れ出し、彼女がその左手を突き出す――同時に、その拳が瞬く間に眼前に伸びてきた。

「……!?」

声を上げる暇さえない。咄嗟に出来たのは握り締めていたバルディッシュ――現在はハーケンフォーム――をそれに叩き付けるように動かしただけ――当たる。避けられない。
ガキンと重苦しい金属音が鳴り響いた。

「……やめ、ろ、二人……とも。」

シン・アスカがギンガの拳――正確には着物がその形状を変化させた拳状のモノ――をその手に握り締めた大剣で受け止めていた。気がつけば、それまで感じていた温かみがどこにも無い。
全身は見るからに満身創痍。その上、手元にはデバイスも無いと言うのに――殆ど反射的な行為なのだろう、それは。
私たち二人を戦わせない為の――苛立ちが募る。
シン・アスカの大剣に受け止められた拳が、ギンガの元へと戻り、元の着物としての姿に戻っていく。
彼女の表情は前髪で隠れて良く見えない――多分、私の思っている通りの表情をしていると思う。
きっと、彼女は――

「……そう、そういうこと。」

彼女が頭を振って、前髪をどかし、その表情を露にする。
それは予想通りの無表情――瞳がギラつく。頬が歪み、唇が釣り上がる。

「ソレは――“私”のモノよ。」

彼女が、歩く。俯いて――表情はもう見えない。唇だけが釣り上がって笑っているのが分かる。
ぞくり、と背筋を悪寒が這い登る。同時に胸の中で血走っていた“苛立ち”が燃え上がっていく
彼女が踏み出す度に、ウイングロードが踏み出す一歩に先んじて形成されていく。

「最初に会ったのは、私“らしい”から……。」

歩く速度は変わらない。
ゆっくり、しっかりと、足を踏み出し、近づいてくる。

「……横取りは汚いと思わない?」

横取りと言う言葉を聞いて奥歯を強く噛み締める。
彼女は今記憶を失っている――最初に会ったと言うのは他の誰かから聞いたことなのだろう。
順序については、彼女の言う通り。私も人づてに聞いた話だから、実際には知らない――奥歯を噛み締めたのは、ギンガの言葉がどうしようもないほど苛立つから。
意識が弾け飛びそうなほどに苛立ちが募り、うず高く積み上がっていく。

「……私は、この人のことなんてどうとも思ってない。」
「へえ?」

ギンガが左手を呆然と私達を見つめるシン・アスカに向けた/袖が伸びた。刃でも拳でもない、布のまま――シン・アスカを取り囲むようにして。
捕縛する――彼が奪われる。
思考が白熱し、“自分(カラダ)”と“私(ココロ)”が重なる――言葉を放つこともなく、魔法を発動。高速移動魔法(ソニックムーブ)及び高速行動魔法(ブリッツアクション)発動。
握り締めていたバルディッシュをその布に叩きつけ、弾き返し――安堵のため息を吐いた。
その様子をうすら笑いを浮かべながら、睨みつけるギンガ――苛立ちが募る。
苛立ちの中身については、考えたくは無い。

「そんなに必死に防ぐのに?」
「……仲間を守るのは当然のことだよ。」
「ふふ、ふふふ。」

哄笑。シン・アスカが背中越しに私を見ている――私が発した言葉に僅かながらに辛そうな表情を見せていた。
――胸が苦しい、痛い、悲しい、そんな顔をしないで、お願いだから私“だけ”を見て。

(……私はそんなこと思ってない。)

心中で蠢く言葉を憎悪する。
抱き締められたことで/抱き締めたことで――“自分(カラダ)”の声が大きくなっている。
侵されている。“自分(カラダ)”が求める恋に、“私(ココロ)”が侵されている。
その事実に、更に苛立つ。

「当然、ねえ……。」

瞳孔が開いた鬼気迫る形相でギンガが笑い出す。
その表情は本来の彼女なら絶対に見せない表情――つい、先程までの彼女でも絶対に見せないだろう表情、なのだろう。シン・アスカの険しい表情がそれを物語っている。

「……貴方、さっき自分がどんな顔をしていたか知ってるの?」

彼女の嘲笑に瞳孔が開いていくのを自覚する。
奥歯を噛み締めて、震える体を自制する――うず高く募った苛立ちが、憤怒と化して、その瞳を血走らせていく。

「……私が、どんな顔をしていたっていうの。」
「嬉しそうに微笑んでた。抱き締めて、悦んでたでしょ?ちょっと胸が大きいからって調子に乗ってさ。」
「馬鹿なこと、言わないで。」

ニヤニヤとした嘲笑を浮かべて、ギンガは続けていく。
ああ、本当にどうしてこの子はこんなにも苛立たせるのか。
何も知らない癖に、何も覚えていないのに――どうして、自分が“最初”に会ったなどと言いだしたのか。
悦んでいた――そんなのは私じゃない。私じゃない。私じゃない。

「……虫唾が走るわね、貴方みたいに、ずるい女。 カマトトぶった澄まし顔で気取って――どうも思ってないなら、どうしてあんな風に笑ってたのよ。」
「……笑って、ない。」
「あっ、そう。」

そう言って、ギンガは嘲笑を私に振りかけて――仕舞いこむ。

「だったら、貴方に用はないわ――邪魔よ、どいて。」

意識の間隙に滑り込まれたように、確実に捕らえていたはずの、ギンガの姿が“いつの間にか”眼前にあった。
翻った拳が疾風の速度で迫る。
狙いは顔面。遠慮など無い。非殺傷設定などあるはずもない――籠る殺意。
死ぬ。殺される。殺される。殺される。唐突に、突然に――殺され/ふざけるな。
瞬間、苛立ちが憤怒に変容し、爆発する。
視界全てが白熱した。目が血走った。紅い瞳に力が籠る。
ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。
甲高い金属音が鳴り響き、彼女の顔が驚愕に歪む――関係ないふざけるな黙って聞いていれば好きなことを好き勝手に言って――脳髄をチリチリと電流が走る。全身の魔力が激昂した精神に引き連れられて紫電へと変化、脊髄から脳へと向かう電流経路を変更、意識を満たす命令=速く速く速く――迫る鉄拳を、大剣に変化させたバルディッシュで受け止めた。

「……黙って聞いていれば、好き勝手なことを言うんだね、ギンガ。」

身体が震える。何かを考えようとすれば、溢れ出る怒りが思考を阻害する。
何も考えられない。身体も心も何もかもがおかしくなる。
声だけが自動的に吐き出されていく。

「知ってる? そういうの略奪っていうのよ?」
「私は、そんなこと思ってない……!!」

受け止めた拳を弾く――ギンガの着物の袖が私の足を掴み、引っ張る。
態勢が崩れ、転倒する。私の上に馬乗りになって拳を叩き付けようとするギンガから、身体を捻り、転がりながら距離を離す――拳が地面を砕いた。止まることなく、彼女の身体が滑らかに迫る。繰り出される下方からの拳の突き上げを一歩下がることで後退。
速度はこちらに分がある。補足出来る――補足などさせない。
速度を上げる。加速する。耳鳴りのような音と共に世界が切り替わる。高速行動魔法(ブリッツアクション)と高速移動魔法(ソニックムーブ)によってのみ得られる近距離における超加速――ステップを踏んで、ギンガの後方へ移動。大剣をその背に叩き付け――視認することすら必要なくギンガの右袖が後方に向けて突き出されている。
大剣と袖――刃が激突。
鳴り響く金属音。両手が痺れた。ギンガの身体は未だに転回することすらままならない――後退し立て直す/転回と同時にこちらに向けて突進するギンガ。
頭を低くして突撃する様は、どこか肉食獣の如き疾走――むしろ跳躍と言ってもいい。

「くっ……!!」

その速度は、自分が考えていたよりもはるかに速い。単純な速度差であれば確実にこちらが上だ。だが、それ以上に厄介なのがローラーブレードという移動手段と着物という服装。着物によって予備動作が隠され、ローラーブレードによる加速は上体の動作を必要としない――予測がまるで出来ない。

「あげないわよ。ソイツは私にキスしたの、それに……ふふ、私を欲しいとも言ってたの。」

嬉しそうに、倒錯するように、ギンガが呟く/その嬉しそうな横顔が、どうしても看過できない。苛立つ。腹ただしい。
瞳を青く輝かせ拳を振り抜いてくる――反射行動は迅速に迎撃を選択。

「だから、絶対にあげない!!」
「うぅぅるっさい!!」

咆哮と共に剣戟と拳戟が交錯した。
弾かれ合う剣と拳の狭間に差し込まれる言葉――煩い。黙れ。鍔迫り合いから今度はこちらが攻める番――ギンガが距離を潰し、剣を振り抜く隙間を与えない。奥歯をギシリと軋ませて、ぶつかり合い。
鍔迫り合いの態勢。互いの形相を歪ませ、剣と拳を押し合う――ギンガの瞳に映る自分が見えた。憤怒の一色しか見えない、“女”の形相。
胸が痛い。頭が痛い。頭痛が酷い。胸焼けが酷い――シンの顔が見えた。頭にくる。血が上る。
私は貴方のことなんて好きじゃないのに、どうしてこんなことを言われて、こんなにも胸が引き裂かれそうなほどに辛いのか。
その事実が痛い。悔しい。腹が立つ。なのに、“自分(カラダ)”は“私(ココロ)”と乖離して/重なり合って、嫉妬の炎を燃やしていく。侵されていく。冒されていく。犯されていく。
ギンガがその顔を歪ませて、口を開く。下卑た表情。許せない/私の気持ちじゃない――私がナニカに“変えられていく”、止められない―――。

「だから、横恋慕も大概にした方がいいわよ、フェイト・テスタロッサ・ハラオウン――これは私とシン・アスカの問題で、貴方は、初めっから無関係なのよ。」
「……だから、何だっていうの!? 何が言いたいのよ!!」

ニヤリ、とギンガが笑う。
厭らしく、嫉妬に塗れた女の形相――私と同じ形相。

「邪魔な横槍入れるあんたみたいなのは――」

鍔迫り合いの態勢から、ギンガが左拳の力を抜いて、上体を逸らした。
背筋に悪寒。咄嗟に後方に体重をかけて、後退――瞬間、ギンガの左足が跳ね上がり、私の眼前を通過する。
通り過ぎる左足が前髪を切り裂いたのが見えた。舞い散る金髪。

「さっさと、どこかに消えろって言ってるのよ!!」

跳ね上がった左足が彗星の如く落下し、残された右足が噴火の如く上昇し、蛇が顎を外して獲物を飲み込むように彼女の両足が私の顔面を挟みこむ――思考が加速する。伝達経路の変化によって通常よりも短縮した反応速度を以て全身を覆うバリアジャケットを変化させる。
リミットブレイク・ライオット――バリアジャケットの軽量化による速度特化と魔力圧縮によって生成された大剣――或いは双剣による攻撃力特化。二極への特化が生み出す一つの姿――ソニックフォーム。
手には双剣ライオットザンバー・スティンガー――全身を覆った輝きは一瞬で掻き消え、服装が変化し、両脚の挟み込みを双剣で受け止めた。
両手に痺れ。ローラーブレードによる二撃の威力は想定よりもかなり重かった。まともに当たっていれば、本当に殺されていたかもしれない。
そんな命の危険の只中にあって、私の心は、昂揚/憤怒/悲哀――様々な気持ちがないまぜになって、混沌し――露わになった私の身体を見せつけるように、“唇が釣り上がり”、知らず微笑みを形成する。
胸を埋め尽くすサディスティックな衝動。目の前の艶やかな着物姿のギンガが苛立つ顔を見て、圧倒的な優越感/下卑た欲望を覚えた。
湧き起こる欲望――人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえと叫びながら、否定しながら、欲望のままに、その鳩尾に向けて、左足を突き出した。
接触の瞬間、着物が動き、防御する――気にすることなく、全身を更に捻り込み、体重を掛けた。
高速活動による攻撃はどんな類であっても速度の恩恵を受け、高威力の攻撃となる――ギンガの身体が後方に吹き飛ぶ。左足に残る感触は柔らかい体躯の感触では無く、固い刃の感触。
そのまま、森の方向へと彼女が吹き飛んでいく――クリーンヒットはしていない。きっと立ち上がってくる。
荒く吐かれていく息を少しずつ整えていく。身体が重い。脳から肉体への生体電流の伝達経路そのものを操作し、加速させた反動だろう――体力の消耗が激しい。汗が流れ、口元に入り込む。

「……アスカ、さん、一つ、良い…です、か?」

息を切らせながら、シンに声をかけ、見つめた。
ギンガに集中しているから、あまり意識は割けないけれど――その顔は茫然としていた。
何を考えているのかは分からない。
ただ茫然と、私たちの戦いを見つめていた。
一秒の間隙。返答は無い。少しだけ焦燥に駆られ、もう一度声をかける。

「……聞いてるんですか、アスカさん?」
「き、聞いてますけど。」

我に返ったように返事を返すシン。
胸に渦巻く、幾つもの複雑な感情。
その感情は溶岩のように熱く、暴力的で、何もかもを消し去るくらいに鬱屈する。

「キス、したんですか。」
「……えーと、まあ。」

歯切れの悪い台詞が続く。どことなく後ろめたそうな――双剣を握る手に力が籠った。

「ギンガと、キスしたんですか?」

言葉と共に彼を睨み付けた。にらみ付けた瞬間、彼は瞳を逸らす――それはキスをしたという証明そのもの。

「……しました、ね。」
「……貴方って、本当に、最低ですね。」

腸が煮えくりかえりそうなほどに、文字通りお腹の奥底で何かが燃えあがっている。
火照る身体。脳髄は熱に蕩けて何を言っているのかも正直定かではない――おかしくなっている自分。
戦うことで燃えあがっているのではなく、ギンガの言葉で燃えあがっていく。

――そう、私はこの人のことを好きなんじゃない。私はただ仲間が殺されそうになったから、あんなにも怒っただけ。

そんな言い訳を何度も反芻しても、熱に浮かされた脳髄は、焼け石に水とばかりに蒸発させていく。
止められない。止められない――少なくとも、ギンガが、あんなことを言い続ける間は止まれそうにない。
軽い口調で、嘲るような言葉が届いた。

「最低なのは、貴方でしょ? 横取りしようとして、キスされて羨ましいもんだから、逆切れして好きじゃないとか、それなんてイタイ女?」
「……誰がイタイ女なの、ギンガ?」

彼女もまた唇が釣り上がる――狂気すら感じられる嗤い。

「お高く止まってんじゃないわよ、露出狂。」

目じりが更に釣り上がるのを実感する。
黙っていれば、本当に、この女は――

「誰が――」

――好き勝手な文句を言い続ける。
加速。
彼女の眼前へと。
彼女の眼は紛うことなくこちらを“捉え”、既にその右腕が放たれていた。

「捉えてるって……言ったでしょ!」

視覚と言うものは、上下の動きから左右への動きへの変遷に殊の外弱い。それに速度差を加えれば、その効果は一気に上昇する。
相手が、自分自身に注視しているのなら――捉えられた事実を利用する。
ステップを踏み、停止し、急加速。前のめりになる身体の体重をつま先にかけ、急加速と突発的な方向転換――独楽のように身体を半回転させ、彼女の右側へ移動。
停止したのはギンガに確実に補足させる為。そこから補足を外す為の急加速。そして視界/意識の外側に移動するための方向転換。

「な……。」
「誰が露出狂よッッッ!!!」

右手に握り締めた双剣の一振りを叩きつける。
ギンガの防御は間に合わない――彼女の右手が動いていた。反射なのか、意識しての行動なのか。どちらにせよ、それは想定外の行動だった。
刹那の隙間においての思考。
意識の外から放つ一撃。圧倒的な速度差がありるからこそ、攻撃を行なった。
こちらは既に攻撃を開始している。当たる――同時に彼女の攻撃もこちらに当たる。避けられない。
相討ちは即ちこちらの敗北を意味する――単純な話、攻撃力にそれほど差異は無い。
フェイト・T・ハラオウンは速度と攻撃力が卓越し、ギンガ・ナカジマは攻撃力と防御力が卓越している――それがここまでの戦いにて、導かれた事実。
だから、相討ちになれば考えるまでもなくギンガが勝利する。
恐らくは勘によるもの。彼女の表情は私を捉えている表情じゃない。直感によって彼女の身体が――或いはデバイスが――私を“捕捉した”ということ。
その右の裏拳は私の腹部に狙いを定め、放たれている。接触のタイミングは同じ――避けられない。

「あ――」

それは果たして誰の声だったのか。
フェイト・T・ハラオウンの声のようで、ギンガ・ナカジマの声のようで――誰が叫んでいるのかも分からない。何も出来ない。止まらなくてはいけないと言うのに身体が自由に動かない。

――刹那、爆風が吹き荒び、炎が燃え上がる。雄叫びが聞こえた。

「え。」

自分が放った呆けたような声と共に視界一杯に広がる“朱い炎”。逆手に持った大剣をこちらの双剣に叩き付け、炎を纏わせた掌を彼女の拳に叩き付ける。
ぎち、と肉を割き、骨を砕く音と鈍い金属音が鳴り響いた。
無理矢理に激突の中心に身体を滑り込ませたからだろう。受け止めたと思った双剣は大剣の刃を滑り彼の腹部を切り裂き、受け止めたと思った拳は彼の右手を弾き右脇腹を突き上げた。

「やめ、ろって……言った、で、しょ?」

痛々しげに口元から血を零して、彼が呟き、その膝が折れた。
地面に顔をぶつけるようにして、倒れる。
咄嗟に身体が動き、倒れる彼を支えようと――差し込まれる映像。どこかの訓練場。ボロボロのシン・アスカ。ボロボロのギンガ・ナカジマ。倒れこむ彼。それを支える“私”。それに厭らしい笑いを浮かべるはやて。それに厳しい目を向けるギンガ。
既視感は一瞬。刻み付けられた――違う。浮かび上がった記憶が焼き付けられた。
空白(ブランク)は一瞬。次瞬、彼を支えていた。手には彼を切り裂いた感触――非殺傷設定といえど感触までは消すことは出来ない。あくまで損傷を魔力に転化するだけに過ぎない――が残る。
呆然と、呟いた。
既視感によって舞い上がる気持ち――そして、今しがたの行動で巻き起こる気持ち。

「……どうして。」

言葉を続けようとして、止める。
それは言ってはいけない言葉。
皮肉にも嫌っていた――そう思いこもうとしていただけかもしれない――男を切り裂いた感触が私を我に返らせる。
男は、ギンガを守るように、大剣を構えていた。
胸が痛い。ただそれだけのことで拒絶されたように感じるのは何故なのか。
切り裂いたことへの罪悪感よりも、何よりも――シンがギンガを守ったと言う事実が胸を切り裂く。

「どうして……?」
「――馬鹿馬鹿しい。何よ、それ。何で、貴方はソイツを“守ってるのよ”。」
「……え?」

ギンガが肩を竦めて呟いた。

「私を、守った……?」
「……白けたわね。」

私の質問には答えずに、ギンガは着物を翻し、こちらに背を向けた。

「……ギンガ、何を。」
「白けた、って言ったでしょ。」

そう言って、彼女が左手を“振り払う”。
空間が歪む。それまでの彼女が蜃気楼だったかのように歪み出す。
彼女が振り向いた。
幾つもの感情が混ざりこんだ複雑な視線を向ける――それは私と同じ視線。私と同じ色がその瞳に浮かんでいた。

「ソイツに伝えておいて。次に会う時はまた“元の私”だと思うけど――」

霧散していく彼女。
消え往くその姿。
儚げに、幻のように、消えていく。

「多分、その時が最後だから。優しく、してね、って。」
「……最、後?」

呟いた私の声に彼女に答える気は無いのだろう――もしかしたら、もう聞こえていないのかもしれない。
その身体は既に半分以上が消えており、向こう側が透けて見えるほどに薄くなっていた。

「……またね、シン・アスカ。」

その呟きを最後にして――彼女の姿は消えていった。
風が吹く――吹き荒ぶ風は強く、私の髪を揺らし、視界すらも埋め尽くす。

「う……ぁ。」

呻き声――シン・アスカの声がした。
その体温は変わることなく暖かい。
私は、彼を支えながら、いつの間にか、膝を折っていた。
抱き締めるのでもなく、突き放すでもなく、ただその場に座り込むようにして――私は彼から離れることも出来ずに停滞する。

「……わかんないよ、もう。」

何が分からないのか――もしかしたら、“何が分からないのか”が分からないのか。何もかもが分からないのか。
呟いた言葉をもう一度反芻する。
風が吹く。森の木々が鳴いている。
何もかも、意味が、分からない。

「何も、わかんないよ。」

呟きは遠く。
雲は晴れず――雨が降り始めた。
ぽつり、ぽつりと。
曇天の黒い空は何も語らない――何も語ることなく、雨を降らせるだけ。
雨は止まない。夜も明けない。
――今は、まだ。



[18692] 第四部ミッドチルダ風雲篇 73.世界の敵(a)
Name: spam◆93e659da ID:099407eb
Date: 2010/06/04 00:57
 世界を敵に回せるか、と聞かれれば――答えはノーだ。
 世界を敵に回す。
 それは、およそ考えられ得る全てを敵に回すと言うこと。

 隣人を敵に回す。
 家族を敵に回す。
 友人を敵に回す。
 大切なモノ全てを敵に回して――それを釈明することもないだろう。
 世界を敵に回すと言うことは、未来そのものを敵に回す――或いは常識という“当然”を敵に回すと言うことだから。

 恐れがあった。
 覚悟も決意も何も無い私では、その恐れに抗うことは出来ない。
 なのに――

 ――馬鹿馬鹿しい。何よ、それ。何で、貴方はソイツを“守ってるのよ”。

 その言葉は私の胸を震わせた。
 “守られた”――その事実に至った瞬間、胸の奥から燃えるような炎が湧き上がった。
 それは誰の想いなのか――決まってる。“今の私”の想いではなく、“昔の私”の想い。

 降り続ける雨が、頬を、髪を、服を――全てを濡らしていく。
 漆黒の空には何も見えない。
 光すら通らない漆黒の暗闇の中で、私はただ彼を見つめ続けていた。



 降り続ける雨。
 もう既に使われていない建物――下水道管理施設の中は、そこかしこに埃が積みあがっていたものの、思っていたよりも、ずっとまともな状態だった。
 窓ガラスも割れていないし、雨漏りだってしていない。夜露を凌いで一晩を過ごすことは問題ない。
 今も降り続き、止まないままの風雨を避けることが出来る。

「……これ、かな。」

 月明かりだけを頼りに電気のスイッチを押すが、電気はつかない。
 既に使われていないのだから、電気の供給が止められているのも当然か。
 同じ理由で水道もトイレも使えないだろう。

(……別に一晩くらいの話だから、問題無い、か。)

 背中に背負った彼に意識を向ける。
 ここまで背負ってきて分かったが――体型に比べて彼の体はかなり重かった。
 女性と男性という違いはあるのだろうけど、ここまで重いとは思わなかった。
 ゴツゴツとした肉体は、触れただけで鍛え上げられたことを理解させる――鉛のように重い身体。
 こういった肉体になるには、それ相応の訓練が必要となる。
 魔導師としての訓練は特に肉体を鍛える必要がある訳ではない。
 筋力というモノはあるに越したことは無いが、魔導師にとって必須、という訳ではないからだ。
 けれど――ティアナやスバル、キャロから聞いた話だ。彼が行なってきた訓練とは、馬鹿みたいに基礎を繰り返すことだったと言う。
 魔法も、恐らくは戦闘技術そのものも。
 元々は魔導師でも無い、単なる機械兵器のパイロットであることを考えれば――果たして、どれほどの訓練を課してきたのだろうか。
 あどけない寝顔――時折、うなされているのは痛みのせいか、それとも何かしら夢でも見ているのか――彼の頭の中を覗けない自分には分からない。
 それが、少しだけ辛い――

「……何、考えてるの、私。」

 脳裏に写りこむ思考が侵されていることを実感する。
 焦燥が心を、情念が肉体を、恋慕が意識を、侵食し、染め上げていく。
 私が私でなくなっていく実感。
 その実感に怯えとおぞましさを感じながら、心地良さすら感じてしまう自分。
 ギンガに先ほど言った言葉さえ、薄っぺらく感じる。
 本当に――何とも思っていないのに、どうして私はこんなにもこの人のことが――

「……う」

 背中に背負った彼が呻き――うなされているような声を上げた。
 そんな彼に私は、優しく、優しく告げる――その優しさは別に好意から切り離されたモノであると、自己弁護を繰り返しながら。

「……今、寝かせてあげますから。もう少し、待っていてください。」

 背負った彼の方に目をやる。
 肩口に彼の顔を置いた吐息のかかる距離――無造作に伸ばした前髪が私の耳にかかり、少しだけこそばゆい。
 その額が私の肩に触れる――脂汗を流している。
 荒い吐息。
 うなされるような声。
 脇腹と背中が痛むのだろう。
 私とギンガの攻撃の間に入り込み、どちらの攻撃も不完全とは言え受けたのだ。
 辛うじて非殺傷設定を継続していたとは言え――その痛みは相当なモノのはずだ。骨折程度はしている。そんな確信さえあった。

 非殺傷設定とはあくまで魔法である。
 物理的損傷を、魔力値への損傷に切り替える魔法である。
 基本的にこの場合、対象に物理的損傷は生まれないが――対象の魔力を削るのだから、削り切った場合、それ相応の衝撃や痛みは生じる。
 衝撃や痛みが生じる以上は外傷が発生するのは当然の摂理でもある。
 私が、シンを――斬ってしまった時、彼はバリアジャケットすら展開していなかった。
 本来、感じてはいけないはずの手応えを感じたのは、その為だ。
 この両手に感じたのだ、彼を、シンを切り裂いた瞬間――硬いモノが触れる手応えが。
 その時のことを思い出し、私は唇を知らず噛んでいた。
 手応えは苦々しさを感じさせる――ギンガを守ろうとした彼を斬った手応え。
 苦々しさを感じることが辛かった。
 おかしくなった自分。それが、取り返しのつかないところにまで忍び寄っているようで怖かった。

「シ……アスカさん、今、ソファーに下ろしますから。」

 シン、と言いかけて、アスカさんと言い直す。
 唇を歪めて苦笑――或いは嘲笑する。本当に、無様だ。
 あれほど、何度も何度も心の中で、過去の自分を嫌っていたと言うのに――触れただけで、僅かに抱き締められただけで、これだ。
 最低な女。最低な親。本当に――最低すぎる。

 溜め息を吐いて――頭を切り替える。考えても仕方の無いことだ。本当に、考えるだけ意味が無いこと。

 彼を背負ったまま、ソファーの表面を私の服の袖で軽くふき取る――袖口が埃塗れになり、ソファーの表面が少しだけ綺麗になった。
 呻きを上げて、うなされている彼をソファーに下ろしていく。
 ソファーに汚れは今だ残っているが――この際、それは仕方ない。

「……ん……よ、と。」
「……ふぇい、と……さん?」

 ソファーに下ろす時の衝撃で目が覚めたのか、シンが瞳を開けて私を見ていた。
 朱い瞳は未だ虚ろな輝きで――ここがどこなのかも良く分かっていないのだろう。

「ここ、は……」
「近くにあった、もう使われてない建物――多分、下水の管理施設だと思います。」

 私の言葉で、彼の瞳に輝きが徐々に戻り出し――顔を歪めた。

「……痛みますか?」
「大したこと、ない、です……よ。」

 苦痛に顔を歪めて右脇腹を彼は抑えている。
 痛むのだろう――額から流れる汗は多分冷や汗。
 熱があるのかもしれない――もし、骨折したのだとすれば、大いにありうる話だ。
 私は彼に向けていた視線を付近一帯に向ける。
 どこに何があるのかは分からない。
 電気が切れている以上は、恐らく水道も切れているだろうけど――それでも探さないわけにはいかない。
 骨折しているのだとすれば、冷やさなければいけない。
 どれほどに魔法を使いこなすことが出来ようとも、治癒などは基本的に患者の自己治癒力に依存する――負傷を完全に治すことなど出来ないのだ。
 そうして、周りを見回していると、彼の呟きが聞こえた。
 見れば、ソファーの背もたれに体重をかけるようにして、身体を起こしている。

「アスカさん、無理しないでくだ……」
「……ギンガ、さん、は」

 私の声を遮るように彼が呟いた。
 瞳は真剣な色合い。笑うことなど決して出来ない、一心不乱そのものと言った光。

「ギンガ、ですか。」
「俺が、気絶してから……ギンガさんは、どうなったんですか。」

 真剣な言葉。どこか焦燥感すら漂わせる彼の声。
 その声を聞く度に胸が切り刻まれていくような錯覚すら覚える。 

 ――ソイツに伝えておいて。次に会う時はまた“元の私”だと思うけど

 思い起こす先ほどの彼女。
 儚げに、幻のように、消えていくその紅い唇が動いた。
 年齢に似合わない艶やかさを忍ばせた表情――何もかもが変わり過ぎていた彼女。
 それは誰にとっても同じなのだろう。
 彼も――シンも同じく、困惑していた。

 ――多分、その時が最後だから。優しく、してね、って。

 去り際に寂しそうな横顔の彼女が言った言葉。

 ――次に会う時は“元の私”。
 ――その時が“最後”だから。

 その言葉の意味は私には分からない。
 何が“最後”で、何が“元の私”なのか――私には何も分からない。

「……ギンガは。」

 私の呟きに呼応して、彼の朱い瞳に力が籠った。
 ギンガのことを思い出しているのだろうか――昏い感情が胸の奥で蠢き出す。
 理性や常識はギンガが残した言葉を彼に――シン・アスカに伝えるべきだと伝達してくる。

「ギンガさんは……どう、なったんですか。」

 ――それは炎に薪をくべるようなモノだ、と思った。
 シン・アスカという炎に、ギンガ・ナカジマという薪をくべると言うこと。
 伝えれば、彼は突き進む。踏み越える。決して止まらない――止まらない覚悟を完了させ、完結させるまで彼はきっと止まらない。
 それは、目的を目標と据えたならば、絶対に必要不可欠なことだ。
 目的――世界を救うこと。その為の方法として、私たちは――ギルバート・デュランダルはギンガ・ナカジマを救い出すと言うことを選択した。
 スバルは姉を救う為――姉は生贄になる。そんなことを言われて黙っていられる訳が無い
 ティアナも同じく――彼女はそういったことが大嫌いと言う性分によるものもあるかもしれない。
 キャロは――それがもっともエリオを救い出す近道だと思っているからだろう。
 だから、伝えればいい――否、伝えなければいけない。
 なのに、私はどうしても――それを伝えられないでいる。

「……。」
「フェイトさん……?」

 黙り込んで、次に伝えるべき言葉を探す――言わなければいけない言葉は分かっているのに、言葉を探しているのは何故なのか。
 心の中で鳴り響く不協和音。噛み合わない歯車。

「ギンガは……ここには、いません。一人で、戻っていきました。」

 一心不乱にこちらを見ていた彼の表情が、一瞬で四変する。
 眼を見開き口を開け何かを言おうとして、何も言わないまま口を閉じて俯いて、一瞬瞳を閉じて奥歯を噛み締めて、ゆっくりと顔を上げてこちらを見つめ直し口を開いた。

「……そう、ですか。」

 吐き出した言葉は、多分幾つもの感情を混ぜ合わせたモノなのだろう。
 痛みと苦さを堪えたような彼の顔の翳り――そんな混沌を示していた。
 
「……っ」

 胸に痛み。ずきん、と――私は一体何をしているのだろうか。
 言うべきなのに。言えばいいのに。言わなきゃいけないのに。
 何も言えない――言葉を口に上らせて、彼女の言葉を伝えれば、きっと彼は奮い立つと言うのに。
 私は、何も言えない。口を動かせない。動かせないことがどうしようもなく罪悪感を軋ませて、動かそうとする度に胸が軋んで痛んで何も出来ない。
 寂しそうな彼の顔。
 何か――多分ギンガを取り戻せなかったことを悔やむ彼の顔。
 その顔を見ると、胸が高鳴る。どうして高鳴っているのかは何も分からない――嘘、本当は分かっているはずだ。

(煩い。)

 心中で誰かが囁く――その誰かも当然、私。
 “私”が“私”に向けて囁いている。 

 ――あなたがどうであろうと私はシンのことが好き。

 煩い、黙れ。私はそんなことを思っていない。

 ――抱き締められて嬉しかった。抱き締めることが出来て嬉しかった。

 煩い、黙れ。私はそんなこと、どうだっていいんだ。

 ――本当はあなたも気付いているはずよ。だって、“あなた”であろうと“私”であろうと関係無い。私はあなた。あなたは私。どちらの声も、同じモノが囁いてる一人芝居なんだから。

 奥歯を、強く、割れんばかりに――割れろとばかりに噛み締めた。
 全身の筋肉が強張っていく。
 視界が真っ赤に染まっていく。
 悔しさと悲しさと――誰に向けるべきか分かっているのに、向けてはいけない“愛しさ”で。

 彼が、全身の力を抜いて、息を吐いた――表情が緩んでいた。先程までの何かを押し殺したような表情はそこには無い。
 あるのは柔和で穏やかな――“いつもの彼の表情”。

「……ま、仕方ないですよ。デバイスも無しにギンガさんを取り戻せるなんて思っちゃいなかったですし。それに、二人共に怪我が無くて良かった。」

 私の全身を一瞥し、彼はそう穏やかに語り、ソファーに寝そべっていく。
 少しだけ、その動作は不自然で――そこで、気付く。彼が腹部と脇腹を庇っていることに。
 痛みがあるのだろう。私とギンガの攻撃を受けたせいで。
 腹筋か背筋のどちらか――或いは両方を痛めているのかもしれない。

「……大丈夫、ですか。」
「かすり傷ですよ、こんなの。 大丈夫、一晩寝れば、治りますから。」

 私に心配をかけないように、私に後ろめたさを感じさせないように――彼は笑う。大丈夫だと。
 優しく――笑っていた。
 私には少しそれが理解出来ない――だって、この人はきっと、彼女を――ギンガのことが好きなのだろうに、どうして、この人はこんな風に笑えるのだろうか。
 あんな風にされてしまったギンガ。
 私の知ってる彼女とはまるで違うギンガ。
 何が起きたのか――何をされたのか。
 何も分からないけれど、それがまともなことではないだけ理解出来る。
 笑うことなど出来るはずが無い――私なら、多分無理だ。
 だから、不思議で――悲しくて――胸が軋んで――私は千々に滅裂する。

 ――突然、眼前に彼の顔があった。吐息の触れ合えない微妙な遠距離。近くて遠い壁がそこにあるような距離。
 
「ひゃぁっ!?」
「あ、ちょ、すいません、フェイトさ……」

 彼がいきなり近づいたことで驚きの声を上げた私から急激に離れようとして――いきなり彼が顔を歪めた。
 動いた拍子に激痛が走ったのか、反射的に腹部に手をやる――寸前で押し留まり、無理矢理笑顔を作って、奥歯を噛み締めていた。
 痛みを堪えている、のだ。

「あ、アスカ、さん……?」

 息が荒くなって、彼の全身が震える。
 ぶるぶると震えて、それでも笑って、どう見ても痛そうと言うか喋るのも億劫そう――本人は隠しているつもりなのかもしれないが、まるで隠しきれていない。

「…ちょ、ちょっと……あっち、行ってて…もらっても、いい……です、か?」

 脂汗すら流しながら彼が呟いた。
 見るからに痛そうな表情――顔面は蒼白で、流れる汗は秒を追うごとに増えていく。眼は血走って、笑っている表情との乖離が甚だしい。

「……あっち?」
「あ、あっちです、あっち。」

 彼が右手の人さし指でその方向を指し示す――指の先には扉があった。別室へと繋がる扉が。

「アスカさん、何を……?」
「い、いや、着替えようかと思って、ですね。」

 表情に焦燥がありありと浮かび、脂汗が更に流れ出ていく――何か嫌な予感がした。

「……服、脱いでください。」
「いや、だから、その為にちょっとあっちに行ってて――あぎゃぁっ!?」

 彼の脇腹に手を当てる。
 熱い。先程よりもはるかに熱くなって、皮膚が弾力を失うほどに、腫れ上がっている。

「良いから、脱ぎなさ……う、わ。」

 無理矢理、彼の服を脱がせていく。薄手のTシャツ一枚を脱がせれば、右脇腹が赤く腫れ上がり、左脇腹から腹部に向けて走る巨大な蚯蚓腫れがあった。その付近の皮膚は青黒く――内出血を起こしている。

「……ひど、い。」

 非殺傷設定とは、単に物理損傷を魔力損傷に置換するだけの魔法であり、損傷を無効化するような――そんなお伽噺の魔法では無い。
 その置換限界を超えれば、当然、余剰分の威力は魔力損傷では無く物理損傷として、顕現する。
 また、彼は、あの時バリアジャケットを纏っていなかった。
 それはバリアジャケットによる減衰が全く行われなかったことを意味する。
 バリアジャケットによる減衰が行われることもなく、攻撃を受ければ、その際に受けるダメージは加速度的に増大して行く。
 そして、最後に――彼はあの瞬間、両手に魔力を集中していたはずだ。
 魔力を一か所――或いは複数個所に集中すると言うことは、当然集中している箇所以外への魔力供給は滞っていることになる。
 バリアジャケットによる減衰が行われなかったこと。
 魔力を集中していた箇所以外への攻撃。
 放たれた攻撃はどちらも一撃必殺の威力。
 その結果、シン・アスカの腹部は――見るも無残に腫れていた。
 内臓の損傷はしていない――それすらも恐らくであって、確実ではない。

 それを行ったのは私とギンガ――ここまで彼の身体に傷をつけてしまったのは、私と彼女なのだ。
 罪悪感が迸る。焦燥する。こんな傷を作らせてしまった自分自身への罪悪感と焦燥。
 胸を掻き毟るような衝動が私の頬を歪ませる。瞳を歪め、頬を崩して、私はどうするべきかを思案する――本当なら直ぐにでも病院に連れていかなければいけないような傷なのだ。
 計画も目的も何もかもを一切合切取り払って、彼を病院へ連れて――そこまで考えて、彼がこちらを見ていることに気付いた。その顔は、これだけの傷を負っても、まだ笑っているのだ。
 困ったように、笑っている――その表情が、何よりも苛立たしかった。

「……アスカさん、そこに寝てください。」
「いや、フェイトさん、本当に大丈夫ですから、フェイトさんは――」

 笑顔のまま彼は私を何とか引き離して一人になろうとする。
 その仕草にどうしようも無く腹が立っていく。苛立ちが募っていく。どうして、この人は私のいうことを聞いてくれないのか。自分でも分かっているはずだ――これが、どれだけの怪我なのかを。
 それでも彼は一人になりたがる。一人で何が出来ると言う訳でもないのに、どうして、この人は――

「俺は、本当に大丈夫ですから。だから、少しだけ一人にさせて――」

 何かが弾け飛んだ。一人にさせて欲しいと言う彼の言葉が、私の心のどこかに触れたのか、次の瞬間、私は叫んでいた。

「――言う事を聞きなさい、“シン”!!」

 しんとした静寂と、黙り込んだ沈黙が交錯する。
 シンは何を言われたのか、分かっていないような呆けた顔で――私は息を切らして、彼を見つめていた。

「大丈夫な訳がないでしょう!? こんな怪我して、まだ、大丈夫だなんて――何、考えてるのよ!」

 迸りは収まらない。涙が毀れそうになる。
 涙は彼が言う事を聞いてくれない悲しさと、そこまでして私を関わらせないようにする彼の意固地っぷりに――悲しくて腹が立って、どうしようもない。
 呆けた彼の手を握り締めて――きつく、握り締めて、懇願するように、“叫んだ”。

「今だけで良いから――私の言うことを聞いて、お願い……!!」
「……フェイト、さん。」

 呆けた彼が、瞳を逸らした。
 心無しか、その頬が赤面しているように見えた。
 震えている――瞳は絶対に私に見せないように俯いて、震えていた。
 握り締めた手が、熱い。

「……分かり、ましたよ。」
「……“アスカ”、さん?」

 声色が少しだけおかしい――何かあったのか、と彼に近づく。
 彼が顔を逸らした。
 逸らす寸前、彼の口元が見えた――それは、笑っているようにも、どこか拗ねているようにも見えた。

「……アスカさん? どうかしたんですか?」
「……ホント、何でもないですから。」

 彼は決して顔を見せようとしない――けれど、それまでとは違い、こちらの魔法を拒否する訳ではなく、ただ顔を見せたくないだけなようだった。
 そんな彼を訝しげに思いつつ、私は彼の前に跪く。

「……それじゃ、今から、治癒魔法やってみます……いいですね?」
「あ、ああ、分かり、ました。」

 睨みつけて、そう言った私に彼は少しだけ嬉しげに――どうして嬉しいのかはまるで分からない――頷いた。
 右手から魔法を発動――フィジカルヒール。それほど得意な分野ではないが、この際仕方ない。やらないよりは、よほどマシだ。
 発動した魔法で彼に触れる――治癒魔法と言っても要は新陳代謝の活性化によって通常の速度よりも早く治癒を行うと言う魔法である。

「……フェイトさん。」
「何ですか。」
「……やっぱり、フェイトさんは――フェイトさんですね。」
「? 何のことですか?」
「……いや、ありがとう、ございます。」

 意味の分からない彼の言葉――どうしてか、それを嬉しいと感じてしまう。
 彼の皮膚に触れる。熱を持ち、大きく腫れ上がった脇腹。触れたことで、激痛が走ったのか、小さな呻き声と共に全身が一瞬震えた。
 彼は先程と変わることなく、顔を逸らし、決して顔を私には見せないでいた。頬が不自然に膨らんでいる――多分、痛みを堪える為に歯を食い縛っているのだろう。

「……少しの間ですから、動かないでいてください。」
「は、い。」

 途切れかけた言葉を繋ぎ止めて彼が呟き――目を閉じた。そのまま背もたれに体重をかけていく。もう、身体を支えていることも辛いのだろう。
 少しの間と告げたが、実際どれほどの時間が必要になるのかは分からない――出来れば、眠ってもらった方がいい。
 そう、思い、バルディッシュへ念話を繋げ、彼には気付かれないように新たな魔法を構築する。
 新たに構築する魔法――対象を眠らせる魔法。催眠などとは違う、単純に睡眠を誘発させる魔法――ある意味では子守唄のようなものだ。

「……」

 瞳を閉じて、苦しそうな表情を浮かべていたシンの顔が少しだけ穏やかになっていく。
 口は半開きになり、全身の力が抜けていって――十数秒後、吐息は寝息に変わっていく。
 フィジカルヒールは今も継続したまま。
 怪我の状態からして、そうそう簡単に治るものではないのは分かっている。
 眠りは浅く――そして、深くなる。
 穏やかな吐息。時折、苦しげに呻きを上げるものの――苦しげな様子はそれほど長く続く訳でもない。
 窓から差し込む月明かりが室内を照らしている。
 輝く月の光。どこか寒さを感じさせる輝き。
 触れ合った掌から感じられる熱は少しずつではあるものの収まってきていた。
 思っていたよりも早く魔法の効果があったのだろう――十分ほどで彼の寝息に苦しげなものが混じることは無くなった。
 室内に据え付けられたまま放置された――取り外されるのを忘れられたのだろう時計の刻む秒針の音。
 静謐な室内の中で、その秒針と彼の吐息だけが響いていく。
 
「……昔の私もこんなことしてたのかな。」

 穏やかに眠る彼の寝顔を見ながら、私は呟いた。
 彼が意識を失っていることを確認して――彼に声が届かないことを確信して、だ。
 独白、と言うほどに大それたものではないが、ただ、言葉を吐き出していく。
 多分、自分の中にある色々なモノを整理する為だけの言葉。

「……昔の私は、どうして、この人のことを……好きになったんだろう。」

 少し前に呟いた自問を再度呟く。
 過去の自分。今とはまるで違う自分。エリオのことを忘れていた最低の自分。
 落ちつくことで浮かび上がる彼のこと。
 けれど、それはもう変質している。触れ合ったことで、侵されて変質したことを実感する。

 フェイト・T・ハラオウンは――今も彼に恋をしている。
 理屈ではなく、心でもなく、身体が――本能が彼に恋をしている。

 そんな馬鹿げた確信が胸に在る。
 そして、その身体に、心が侵されていることも。
 記憶喪失に陥った人間は記憶は失っているが――忘れない事柄は存在する。
 それは身体の記憶。五感は、脳の記憶とは関係なく、その事柄を覚えていると言う。
 視覚、嗅覚、聴覚、触覚、味覚――それらは忘れない。そして記憶が戻る切っ掛けと言うのも、五感からが最も多いのだと言われてる。

 多分――私も同じなのだ。
 私の五感は、彼と一緒にいた時の記憶を後生大事に握り締めて、心に思い出せと叫んでいる。
 その叫びに気圧されて、私は彼と一緒にいることで、彼に触れただけで、こんなにも侵されている。
 目前の彼の寝顔を――可愛い寝顔だ、この寝顔を独占したい、などとふとした瞬間に思ってしまいそうなほどに。
 それが、どうしようも無く辛い。憎悪するほどに憎い。

「……もう、分かんないよね、何も。」

 そう、何も――分からない。
 私は自分が何をしたいのかも定まらなくなってしまっている。
 世界を敵に回すと言うことには踏ん切りがつかなかった。
 けれど、シン・アスカと言う人間に対してだけは決めていたことがあったのに――私をそれを貫けそうに無くなっている。
 過去の自分が許せなかった。
 エリオを放って、恋していたと言う自分が許せなかった。
 許せないと言うことは――恋と言う事実そのものが認められないと言うこと。それは即ち恋した相手――シン・アスカと言う人間すらも認めないと言うことだ。
 なのに、それは脆くも“侵された”。
 侵されて、今の私は身体が覚えていたであろう、“想い”を無理矢理に受け止めさせられている。
 何もかもが私を切り刻み、揺れ動かして――本当に何をどうしたら良いのかなんて何も分からない。 

「……私を、守った、か。」

 ギンガの言葉を思いだす。
 それが真実かどうかなど分からない――私から見れば、彼は彼女を守ったようにしか見えなかった。
 だから、私はこの人は彼女のことを好きなんだろうと思ったのだが――本当はどうなのだろう。
 この人は、本当は、誰のことを――

「……知って、どうするのよ。」

 溜め息混じりの言葉はどこにも届かない。
 彼の傷は徐々に徐々に癒えていく――それでも多分、傷痕は残る。
 消えない傷痕。彼に刻み込まれた傷痕。私と――彼女が刻み付けた傷痕。
 彼は眠る。穏やかに、安らかに――子供のように眠り続けていた。




[18692] 第四部ミッドチルダ風雲篇 74.世界の敵(b)
Name: spam◆93e659da ID:24434320
Date: 2010/06/04 10:27


白い世界。どこまでも続く純白。
どこまでも続く世界――どこにも続かない世界。
遠くには巨大な振り子時計。振り子が揺れる。揺れる度に響く低い残響――鳴り響く音が世界を揺らす。
ありえない世界。現実には存在しない世界――何故か今自分が夢の中にいるのだなと理解する。
それは、いつか見た過去の光景――闇の書の中で見たあの光景の雰囲気に酷似していたから。

そこには子供がいた。女の子だ。
髪の色は金髪。瞳の色は紅――よく見えないけれど、多分紅色。
少女は泣いていた。
一人で膝を抱えて泣いていた。
幼い子供が、何かに抗うようにして、声を殺して泣いていた。
抗っていたのは――多分、悲しいからだろう。

その子の顔には見覚えがあった――見覚えがあると言うのもおかしな話だろう。
それは、私が一番、誰よりも知っている人間――私自身なのだから。

あれは、フェイト・T・ハラオウンになる前の――まだ、フェイト・テスタロッサと呼ばれていた時の私。
お母さんを失って、大事な人を失って――何もかも失くしたと思って泣いていた頃の私だ。
あの頃、自分はいつも声を殺して、誰にも知られないようにして泣いていた。
誰の為でもなく、誰を慮った訳でもない。
ただ、どうしようも無かった――孤独をどうにかしようにも、自分は孤独で、何も無いと言う想いが強すぎて、それ以上どうにも出来なかった。
だから、泣いていた。
なのはやクロノ、色んな人にあの時出会うことが出来た――けれど、出会えたからと言って悲しみがすべて消える訳じゃない。
失ったことに変わりは無い。喪ったことに違いは無いのだから。
そこに、一人の女性が近づいていく。
その女性は、それまでは決していなかったはずだ。
なのに、気がつけば、少女の前に現れていた。
口元が微笑んでいるのが見えた――顔の全体像は、角度が悪いからかまるで見えない。
髪の色は金髪。
瞳の色は紅。
髪を後方で一つに束ね、着ている服は――何故かエプロン姿。
少しだけ顔が見れた――私はその顔を知っている。
少女と同じくそれは私だ。
私より年上の――多分、二十代後半くらいの私だ。

「泣いてるの?」
「……誰、ですか。」

少女(ワタシ)が紅い瞳を腫れあがらせて呟いた。
涙で濡れた瞳からは、何度拭っても、涙が零れ落ちていく。
嗚咽を漏らしながら、少女(ワタシ)は女性(ワタシ)に構うことなく泣いていく。
気持ちは――分かる。
あの頃、誰かに迷惑をかけることが嫌だった――それは今でも大して変わらないけど、あの頃は本当にそれが嫌だった。
こんな自分に良くしてくれる彼らに嫌な思いをさせるのが嫌だったから。
だから、迷惑をかけたくなかった。
だから――泣くのはいつも一人になってからだ。
そんな少女(ワタシ)を見て、女性(ワタシ)がくすくすと微笑んだ。

「私? 私はフェイトって言うの。」
「……私もフェイトです。」
「そっか……同じ名前だね。」

微笑みながら、女性(ワタシ)は何が嬉しいのか、少女(ワタシ)を見ながらニコニコと笑っている。
それは――何なのだろうか。
この光景の意味が私には分からない。
目の前にいる少女(ワタシ)は、昔の私だ。それは間違いない。記憶の中にある、私だ。
じゃあ、あれは――あの記憶に無い女性(ワタシ)は、何なのだろうか。

夢とは無秩序のようでいて、あくまで秩序の元で動いている――夢を見る人の想像力に依存して、人は夢を見る。だから、夢で見る光景とはあくまで自分の中に存在するモノのはずだ。
こんな――こんな、想像したことさえ無い未来の自分を想像するはずが無い。

――それ以前に夢の中でこれほど明瞭に意識を保っていることこそがおかしいのだが、フェイト・T・ハラオウンは、そこに違和感を持つことは無い。“そういう設定”が為されている世界に彼女は招かれているだけに過ぎない。

女性(ワタシ)が少女(ワタシ)の頭に手を置き、優しく撫で回し始める。
大人が子供にするような撫で方――あやすようにして、女性(ワタシ)は少女(ワタシ)を撫で続ける。
不思議で不気味で、眼を逸らせない。
少女(ワタシ)にとって、女性(ワタシ)の手は恐らく邪魔なのだろう。
何度も、女性(ワタシ)から離れようとしているのだが、女性(ワタシ)はそんなことはお見通しだと言わんばかりに、少女(ワタシ)に近づき頭を撫でて――笑い続けている。

「……何が、そんなに面白いんですか。」

少女(ワタシ)が、その微笑みに耐えきれずに、呟いた。
毒づいた、と言っても良い。瞳は淀み、悲しみと憎悪と絶望に塗れ――それは多分、誰にも見せないでいた負の感情。
相手が自分自身だと言う確信があるのか、それともこの世界は“そういう”世界なのか――少女(ワタシ)はいつもなら決して見せないであろう、感情を表情に映し出し、女性(ワタシ)を睨みつけている。

「うん? 面白いっていうよりも――」

女性(ワタシ)が少女(ワタシ)から手を離し、自分の口元に指を当てる。
私や少女(ワタシ)とはまるで違う出で立ち――本当に、自分とはとても思えない“女性(ワタシ)”が言葉を放った。

「楽しみ、かな?」
「……意味が分かりません。」

少女(ワタシ)は、苛立たしげにそう呟く。
そんな顔をする気持ちは――私にだって分かる。
母を失って、リニスを失って、アルフだけがいて――縋りついたモノを失うと言うのは本当に胸を焦がすのだ。
もう、届かない。手に入らない。見つけられない。
喪失したモノは――戻ってこない。
単純な悲しみや後悔だけでは無い――母が消えて安堵したと言う気持ちもあったのだ。
母に縋りついていたからと言って、母に反感を持たなかった訳では無かった。心の表面に出てこない、もっと奥底の深い暗い所にそんな感情があったのだ。
それを自覚することで生まれるのは自己嫌悪だ。そんなことを思う自分が信じられなくて――その気持ちを本当に振り切ったのはいつだろうか。
少なくとも、この年齢では無い。
ハラオウン家に引き取られて、家族と言うものが出来て、その上で――きっと、もっとずっと後。もしかしたら、今でも振り切れてはいないのかもしれない。

だから、少女(ワタシ)は苛立つ。女性(ワタシ)の“楽しみ”と言う言葉の意味が全く分からないから。

そんな少女(ワタシ)の視線を受け止めても尚――女性(ワタシ)は微笑みを崩さない。
女性(ワタシ)の唇が、軽やかに動いた。
風に乗せるような声音。誰に聞かせようとしているのか――こんな夢の世界の中で、私の潜在意識は何を考えているのだろうか。

「悲しい時や辛い時に涙を流して」

女性(ワタシ)は膝を抱えて腰を下ろし、少女(ワタシ)の涙をエプロンで拭っていく。
笑顔はそのまま――少女(ワタシ)が見蕩れるような綺麗な笑顔。

「嬉しい時や楽しい時には笑って――けど、心の中では少しだけ不安になって」

女性(ワタシ)の言葉が少女(ワタシ)の胸をえぐり出す。
けれど、女性(ワタシ)は言葉を止めない。そんな少女(ワタシ)を見て――それでも言葉を紡いでいく。

「私はここにいていいのかなって、ずっと思ってて――けどね?」

いきなりの転調。少女(ワタシ)が顔を上げた。

「貴方の人生はこれから大きく変わっていくの。新しい家族、新しい友達、新しい目標――貴方が想像もしないような、嬉しくて楽しいことばっかり。」
「悲しいことは――」
「悲しいことも、ずっと続くよ。けど、それ以上に楽しいことが多くなっていくの。」

女性(ワタシ)が右手の人差指を、少女(ワタシ)の額に触れ合わせた。
綺麗な手――戦わない一般人の手。ゴツゴツとした私の手とは違う手。

「それに……貴方もいつか恋をする。その恋の相手は“私”と同じなのか分からない。貴方の運命がどこに繋がっているのか、私には分からないけど――きっとそれは貴方を大きく変えてくれる。」

変わる、と言われ少女(ワタシ)の瞳に困惑が浮かぶ。
少女(ワタシ)も恋がどういったモノかは知っている。
けれど、実感として知っている訳でもないし――この時の彼女はそんな恋なんかを考える年齢ですら無い。
だから、変わると言われても意味は理解出来はしないだろう――それでも、変わると言う言葉は少女(ワタシ)にとっては重大な意味を持つ。

少女(ワタシ)は――私は――フェイト・T・ハラオウンと言う人間は、ずっと変化を求めていた。
今のままで良いのかと言う心の不安は、ひっくり返せば現状に不満があるからこそ生まれ出でる感情だ。
現状に不満が無い、満足している――幸せであることを確信できているなら、そんな想いは生まれない。
確信が無いから、不安になる。
だから、確信を求めて――私が変化と言う名の安寧を心のどこかでずっと求めていた、と思う。

「変わる、んですか……私は。」
「恋をすると変わるっていうでしょ? それは男も女も変わらないの――私や貴方の場合は特に、ね。」

何かを――想い出を振り返っているのか、女性(ワタシ)がどこか遠くを見つめるようにして、言葉を紡いでいく。
紅い瞳は、少女(ワタシ)を見ているようでもあり、想い出を見つめているようでもあり――或いは想い人を見つめているのかもしれない。

「貴方がどう変わるのかは分からないけど……きっと、貴方も変わる。変わってしまって、今の自分とは別人みたいになっちゃうの。」
「……私が、変わる?」

少女(ワタシ)が女性(ワタシ)の言葉を聞いて、身を竦めた。
変わる、という言葉に怯えを抱いているのかもしれない。
多分、それは正解だ。誰だって、別人みたいに変わると言われれば、期待よりも怯えが先行するものだし――少女(ワタシ)の目前にいる女性(ワタシ)は、確かに別人みたいに変わっているから。
輝くような笑顔。少なくとも、今の私には――多分昔の私にも絶対に出来そうに無い笑顔。

「大丈夫。」

少女(ワタシ)の小さな顔を、女性(ワタシ)は自分の胸に埋めるようにして抱き締めた。

「それは――怖いことなんかじゃない。あなたをもっと幸せにしてくれる“変化”なんだよ。」
「幸せ、なんて」
「貴方はきっと幸せになる。私と同じように――なれないはずが無いじゃない。だって、貴方は――」

小さく呟く少女(ワタシ)の顔に女性(ワタシ)が顔を近づけて、宣言する。

「貴方は“私”なんだから。」

きょとん、と少女(ワタシ)が女性(ワタシ)を見つめた。女性(ワタシ)の微笑みが柔和なモノから唇を釣り上げた不適なモノへと変わっていく。

「フェイト・テスタロッサは、そんな簡単に不幸になんてならないよ。きっと、ね。」

女性(ワタシ)が立ち上がり、告げる。
瞳の向きは――私。私を見ていた。

「……そう、思うでしょう? 貴方も。」

告げられた言葉と紅い瞳が私を射抜く。
言葉なんて出ない。
これは、夢だ。夢の中の話でしか無い――だったらどうして女性(ワタシ)は私を見ているのか。
女性(ワタシ)が見ている方向に何があるのか、興味を持ったのか、少女(ワタシ)も私の方に向き直る。

「……誰か、いるんですか?」
「私の好きな人は、どうしようもなく往生際が悪くて、分別なんて全く無くて――まあ、はっきり言えば最低な人だね。二股してるし。」

少女(ワタシ)の言葉に応えることなく、女性(ワタシ)が立ち上がり、私に向き直り、歩を進めてきた。
瞳は一直線に私を射抜き、捉えている。

「それでも好きになった。止まる気は無かった。誰にも――“あの子”にだって渡すつもりは毛頭無かった。」

あの子、といった辺りで脳裏で閃くモノがあった。
女性(ワタシ)の言っている、“好きな人”“あの子”が誰なのか――私を射抜く瞳が何かを告げていた。
歩きながら女性(ワタシ)が、うなじの辺りで髪を縛っていたゴム紐を解いた。金色の髪の毛が、重力に従って、広がっていく。

「けど、まあ……どっちも選べないどころか、どっちも選ぶような、そんな馬鹿だったから好きになったんだし――それもいいかなって思った。」

女性(ワタシ)は近づくのを止めない。
思わず、私は後ずさろうとする――足が鉄の棒にでもなったように動かない。
女性(ワタシ)が近づいていく。その距離はもうほんの僅か――少女(ワタシ)も同じく私を見ていた。
これが夢なのか、現実なのかが曖昧になっていく。
女性(ワタシ)が、私の目前に立っていた。
にっこりと微笑んで、朱い唇が、その笑みに似合わない物騒な言葉を紡いだ。

「私のこと――狂ってるって思う?」

沈黙――或いは絶句。
言うべき言葉をどこかに置き忘れてきたように、私は何を言うべきか分からない。
女性(ワタシ)は一心不乱に私を見つめていた。
微笑みとは裏腹な真剣一途――虚構を許さない本気の眼で。
何度か口を開き、同じ回数だけ口を閉じて、また開く。
喋るべき事柄が定まらない。
何を言うべきかがまるで定まらない。
なのに――言葉が勝手に紡がれていく。
紡がれた言葉は私の胸の中にあった幾つもの疑問の吐露。

「……狂ってる。意味が分からない。あの人にどうしてそこまで入れ込むの? それに二股って――どうして、そこまでして、自分を捨てられるの?」

溢れ出る言葉の響きは、全て罵倒そのものとも言える感情の吐露。
気付けなかった――或いは気付きたくなかった事実に、今更ながら気がついた。

――シン・アスカはフェイト・T・ハラオウンとギンガ・ナカジマを守ろうとしていた。
通常――恋愛とは一対一で行うモノだ。
それは常識であり、誠実であり、普通である。
なのに、この女(ワタシ)は今、二股と言った。あの子と言った。
それはつまり――シン・アスカは、フェイト・T・ハラオウンとギンガ・ナカジマの両方と恋愛関係になっている、とそう言っているのだ。
そんなことを、どうしてこんなに平然と言えるのか。気が狂っているとしか思えない。意味が分からない。
嫌な空想が思い浮かぶ。よくあるドラマのワンシーン。好きな男がいた。その男と付き合う為なら何でもするような女――身体を使って、お金を使って、或いは権力を使って。男に縋りつくような女。
反吐が出る。汚らわしいとさえ思った。目前にいる女性(ワタシ)の言葉は汚濁と虚飾に塗れた下劣な言葉にしか聞こえなかった。
私は女性(ワタシ)に眼を向けた。
睨みつけて、近寄るなと――ふざけるなと。
けれど、女性(ワタシ)には通用しない。まるで、そんな視線は何度でも経験済みだと言わんばかりに、意に介すこと無く、こちらに近づいてくる。

「捨ててないよ。私は、あの人を選んだの。あの人以外眼に入らなかったから。」

紡ぐ言葉は決して綺麗なモノでは無い。
捨ててない――あの人以外眼に入らなかったから。
だから、選んだ。
ふざけるな。本当にふざけるな。

「だから、どうして!? どうして、そこまで、あの人のことを――」
「そんなの、知らない――理屈じゃないもの。あの人じゃなきゃ駄目だってそう思ったの。だから、選んだ。」
「そんな馬鹿な理由で、どうして私が――」

もう、目前にまで近づいていた女性(ワタシ)。
右手が動く。戒めが解けた。解けた理由は分からない。動くのならそれでいい。
叩け。この女から離れろ。ふざけるな。私を汚すな。私を――ぱちん、と音がした。同時に右手に熱を感じる。
私は女性(ワタシ)を平手打ちした。
離れろと念じて、思いっきり振り抜いた。
けれど、女性(ワタシ)は――

「……理由も無く誰かを好きになることなんて無いって思う?」

彼女は、平手打ちなど、まるで意に介していなかった。
叩かれたことなど気にせず、話を続けていく。
気圧されているのは叩かれた女性(ワタシ)ではなく、叩いた私。
女性(ワタシ)が首を横に振る。それは違う。そんなことは無い、と。

「……知らないわよ、そんなこと。私は――」

ぎりっと唇を噛み切る。

「私は、あの人を好きになんてなってない……そんな質問、私には関係無い。」
「誰かを好きになるのに理由なんて要らないよ。気がつけば好きだったなんて、どこにでもある話だし――切っ掛けが無ければ、恋をしないっていうなら、世の中から恋なんてとっくに消滅してる。」
「だから、私にはそんなの何も関係――」
「うん、関係無いかもね。」

おどけたように彼女は笑って呟く。

「それだけ言いたかっただけ……そろそろ、この時間もお終いだね。」

女性(ワタシ)が呟きながら振り返る。
振り返った先にいたはずの少女(ワタシ)はもういない――女性(ワタシ)はどこか寂しそうな表情を見せて、もう一度私に向き直った。

「一つだけ――教えてあげる。」

くすり、と微笑み、告げる。

「恋ってね、“する”ものじゃないの。気がつけば“落ちてる”ものだから――抜け出せない落とし穴みたいにね。」

言葉が私を蝕む。その言葉が私の中の琴線に触れていく。
かっと眼が見開いた。心臓の鼓動が全身を震わせる。

「貴方、何を――」

言葉を全て言い終える前に、振り子時計が、時報を鳴らす。
残響が世界を揺らし、亀裂を入れていく――世界の終わり。
この逢瀬――過去と現在と未来の逢瀬が終わりを告げる。

目前の女性(ワタシ)の姿が薄れて消えていく。
手を伸ばしても届かない。
同時に私の姿も消えていく――意識そのものが薄れていく。
彼女の笑顔が目蓋の裏に焼きついて離れない。
そして、その言葉も。

抜け出せない落とし穴。
恋はするものじゃなく、落ちるもの。

その言葉が、どうしても耳から離れずに、私の脳裏を憤怒で埋めていく。
ふざけるなと叫んでも、その声はどこにも届かない。


「……何よ、それ。」

開口一番、口に上ったのはその言葉だった。
目覚めは、過去、経験が無いほどに最悪だ――その癖、意識は明瞭。夢の内容やどんな感情を覚えたかも何もかもを明確に覚えている。まるで、あの夢は現実であったかのように。胸がムカムカするのは、夢の中であった女性の言葉が耳から離れないからか。

抜け出せない落とし穴。
恋はするものじゃなく、落ちるもの。

腹が立ってくる。それは、多分私に当てた言葉だろう。こちらの目を見て、笑いながら言われたのだ。
それ以外に考えられない――もう一発叩いておけば良かったと少しだけ後悔。

「……本当に、なんなのよ。」

毒づいて、顔を上げる。見える顔はシン・アスカの穏やかな寝顔。
そこでようやく自分がどんな態勢で眠っていたのかに気付いた。
暖かい、ごく最近に触れ合った記憶のある体温――シン・アスカに抱きつくようにして眠っていたのだ。
多分、治癒を行なっている最中に眠ったのかもしれない――自分がどんな態勢か気付く。自分が顔を当てていた場所がどんな場所なのかを思い出す。

「あっ……!?」

慌てて身を離し、立ち上がる。ちょうど昨日治癒していた部分に思いっきり体重をかけていることに気付いたからだ。

だが、そんな私の心配を余所にシンは、むにゃむにゃと幸せそうに眠っていた。

「……治った、のかな。」

服をまくって、彼の腹部を露にする――傷痕は残り、腫れは未だ完全に引いているわけではないが、昨日の腫れに比べれば雲泥の差だ。熱も引いているし、何より彼の寝顔を見れば、痛みが治まっているのが良く分かる。
こんな幸せそうな寝顔が――痛みがあってのものだとは到底思えない。

「ありえない、のにね。」

その事実は異常なことだ。
たかが数時間の治癒魔法であれだけの怪我が治る訳もない――だが、その事実に納得する自分が存在している。
“シン・アスカと言う人間の治癒速度は異常なほどに早い。”
そんなルールがいつの間にか、彼女の中に刻み込まれている――彼女は未だ気付いていないが。

「…ん……にゃむ……」
「……何か、腹立ってきた」

寝顔は本当に幸せそう。彼は身体を丸めて寝返りを打ち――言葉にもならない何事かを呟いている。
やけにムカムカしてくる。
私はこんなに苦しんでいるのに、何でこんなに幸せそうな寝顔で寝てるって言うのだろう。
思わず、ぺちん、と彼の腹を叩いた。
一瞬呻きを上げるも彼が眼を覚ます様子は無い――痛みは無いのだろう。

「……はあ。」

溜め息だけが、空気に融けて消えていく。
昏々と眠り続けているシン・アスカ。
彼を叩いた掌を見る。少しだけ赤くなった掌。
その掌を見ながら、もう一度溜め息――怖い。

――落ちている。
――抜け出せない。

夢で聞いた言葉が耳から離れない。
ふざけるなという憤怒と素直になってしまえという堕落が並立する。
素直――何を素直になると言うのか。
怖いのはそこだ。
出会ってまだ“数時間”だ。数時間で素直になるもならないもないだろう――彼のことなど何も知らない。数日では無い。一目惚れと言うレベルですらないのだ。
まるで、予め刻み込まれたプログラムに従うように、フェイト・T・ハラオウンはシン・アスカに侵されてきている。
素直になる――そんな言葉が生まれ、思わず頷いてしまいそうなほどに、強く強く。

ぶる、と全身が震えた。
目の前の男性が、おぞましい何かに見えそうだった。

怖い――彼が怖い。
何をするでも無い。何を求めるでも無い。
ただ、自分を見つめる、その視線が何よりも怖い。
自分が自分で無くなっていく恐怖――何が怖いって、その恐怖すら徐々に感じなくなっていることが怖くて怖くて恐ろしい。
奈落の底に落ちていくような感覚。
落とし穴にはまってしまって抜け出せない感触。
何もかもが壊れていく実感。

「……何を足掻けって言うのよ。」

夢の中の自分の言葉。
そんなことを言われても、何をするべきかなんて、何も定まらない。
夢とは自分の潜在意識の表れ――なら、自分の中にはあんな自分が存在していると言うことなのだろうか。

無言のまま、私は彼から離れる。
頭がどうにかなりそうだった。


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