手の甲に当たっているひんやりとした冷たさに、空ろな意識がゆっくりと浮上するように鮮明になっていく。
耳たぶを打つそよ風の音。
それに靡く木の葉のせせらぎ。 目蓋の裏からの朗らかな射す光り。
五感に訴えてくる心地好いそれらに、誘われ瞼を徐々に開ければ見知らぬ景色に、心臓の鼓動が早まる。
「……ここは一体……?」
頼りなく出された言葉は、ひどく感情の籠もらない声だった。
暫く茫然と固まっていたが、未だに冷たさを送ってくる手の甲に視線がいく。
訝しげな思いを抱き見やれば簡素な長方形の石が、一本木の根元の近くに突き刺すように埋め込まれていた。
脚の第一間接までしかない白い長方形の石。当たっている手の甲を自分に引き寄せ、寂しい雰囲気の石を見やりながら立ち上がり、一歩後退する。
少し距離を置いて石を観察すると、近くで見ていた時より不思議と小さいなと思った。何を基準に小さいかはうまく言葉に表せれないが、小さいとそう思わせる何かが感覚として根底にある気がし、納得してしまう不思議な感情であった。
触ろうとするそういう考えもなかった。先程までに触れていた筈の自分が“まだ”自発的に触れてはいけない、そのような強迫観念にも近い一種の呪縛みたいに囚われているような気がした。
自分の身長の約五分の一にしか満たない長方形の石から視線を上にずらせば、太い幹から強い生命力を感じさせる大きめの木がどっしりと構えている。
気圧されたかのように思わず一歩後ろに下がってしまった。
背中の暖かな日差しに振り返り、愕然とする。
荘厳な石造りのアーチ状の門に、煉瓦の家に石畳の街並みや剣に槍に鎧などの古今東西な武器武具を携えた人達が活気に満ちて賑わっていた。
あり得ない。
そう否定したい気持ちが感情を負の方向に隆起させ、不安定な気持ちが連動して脚に力が入らなくなり芝生にガクリと膝が打ち付けられる。無常にも打ち付けられた痛みが仄かに熱を放ち、現実であることを突き付けられた。
「ここは……僕は何をしていた……」
覚えていない。
こんな場所知らない。
何をしていた。
次から次へと疑問が沸き起こり、答えの出ない不可思議な事に苛立ちともどかしさが感情を占めていく。
それでも起きる前の事を記憶の海に無造作に潜るかのように、朧気な箇所を模索せんと思考を働かせていくとぼやけたモノが――
「――ッつ!?」
突然、鈍い痛みが頭に走る。
前方に倒れ蹲りそうな身体を片手で支え、前頭部にもう片方の手をクシャリと目に掛かる前髪ごと押し当てる。
動悸が起こり呼吸が荒くなりそうになるのを、必死に整えようと呼吸を繰り返した。
頭の痛みと呼吸が落ち着きを取り戻しはじめ、地面に向いていた顔を上げる。
頭の痛みが起こる少し前に何かほんの少しだけ思い出せそうな気がした。けど、痛みの所為で掴み損ね霧散してしまった。
再度挑戦しようとすればまた頭痛にも似た痛みが邪魔するように思考を鈍らせる。
これ以上探ろうとしても無駄だと思い、何もわからない現状を少しでも理解するために、行動して情報を集めようと考える。
立ち上がり、小さな広場から少し離れた小高い場所から移動しようと目を前に向けた。
少し足取りが重いが、ゆっくりと小さな丘を下る。
広場には大して人がいなく、僅かな子供達が革の球状の物を投げあっている姿がしかいない。
遊ぶ事に夢中になっているからか、学生服という出立ちを奇異な目で見られることが無かった。
しかし、通りに出るとそうはいかないだろう。遠く迄周りを見やれば黒髪などいなく、全身真っ黒な服装に黒髪が異質に思えてくる。武器の携帯が当たり前に出来ていそうなこの場所と此処に来る前の武器の携帯が許されない場所を鑑みれば、極端に違い過ぎていた。
何故だろう。自分の方が可笑しいのではないかと、衆人環視の中で見られているような感覚に陥りそうになる。
ポツリと一人だけ取り残され、前迄存在していた自分という個体が世界から切り離された気がしてならない。
その妙にしっくりくる言葉に頭の中で反芻する。
世界から切り離された。
世界から切り離されていったい自分は何処にいるのだと、そうであるならここは何処であるんだと、言いたくなる気持ちがもたげてきそうだ。
世界から切り離されたなら此処は違う世界で、飛ばされてきた何て与太話な考えが浮上してきた。「そんなバカな話が――」
――ないとは言いきれなかった。
街を囲う巨大な壁に、聳え立つアーチ状の門が否定する気持ちを拒んだ。
いや、絶え間なく送り続けてくる視覚が、聞こえてくる街並みの声が、現実であることを訴えてくる無慈悲な情報に、拒んだのかもしれない。
呆然とただただ見上げながら立ち尽くす。そして、俯く。
記憶に存在するありとあらゆる情報を掻き集めても此処は、存在していなかった。
だが、目の前の景観は視覚を刺激してきて、存在を主張してくる。
記憶と送られてくる情報の齟齬に混濁する気持ちが、訳の分からない不快感をもよおしそうになる。
先程から訝しげな顔を向けていた門兵が、不快感に眉を寄せ表情をしかめた此方に歩み寄ってきていた。
心配とは違う警戒を顕にした一人の門兵が人六等分ほどの距離迄近づいてくる。
――逃げろ
何かが囁いた。
忠告とも警告とも取れる不思議な囁きに従わなければいけない気がして、振り返って門兵に背を向け力の限り足を踏み込み、走りだした。背後から声を掛けられるが、足を止める訳にはいかない。
普通に走っては追い掛けられ捕まえられそうなイメージが浮かび、なりふり構わず通りの人々を盾にしながら視線と喧騒が背後に流れていく。
高鳴る鼓動に思考が鈍りそうに成るが、捕まる訳には行かない。捕まれば致命的な事に陥り最悪、死の連想が付きまとう感じがする。
顔を見られたかもしれないが、俯き加減だったためはっきり見られてないはず。希望的観測に過ぎないが、縋るしかない。
忙しなく足を動かして、走り慣れない石畳の通りを力一杯走る。振り向いて確認する余裕などなく、それにわざわざ顔を曝すわけにはいかない。
背後からの喧騒が遠くに聞こえてくる。
距離が少しひらけた事に少し安堵したのがいけなかった。
――左に避けろ。
何かがまた囁く。
「――え? ――くっ!」
唐突な警告。
直後に首筋からの圧倒的な衝撃。
走っていた足がぐらつく。
前のめりに成る身体。
抱き抱えられる感覚。
遠退く意識が最後に捉えたのは、黒い無骨なブーツだった。