その17へ
――西暦2030(黎明12)年8月 全景 日本列島
その日のニューストップは、横須賀軍港に中継車を繰り出した国営放送や、軍事アナリストの解説をつけた民放機構の合同番組に差し替えられていた。
それ以外は、今年は比較的発生が少ない台風情報の代わりにTV画面の隅に表示される「転移情報」という形でデータ放送になっている。
天災に慣れきっているといえばそれまでだが、いかにも日本人らしい「適応」の仕方といえるだろう。
しかし、日本列島以外の場所ではまったくその正反対の状況が現出していた。
言うなれば、世紀のお祭り騒ぎだ。
国連の評価委員会から公式の否定声明が出ているとはいえ、日本列島分の体積の陸地が消えた反動で大津波や大地震が発生するという懸念を隠しきれない国々はこぞって日本近海に海軍の艦艇を派遣して観測にあたらせていたし、国連旗を掲げたEU緊急展開軍の空母戦闘群と各国艦艇が睨みあう一幕もあった。
宇宙空間はそれ以上だ。
偵察衛星はもとより各国の有人軌道施設、騙しだまし運用が続けられている国際宇宙ステーションまでもが軌道を変更し、X時すなわち日本時間の午後9時には日本列島周辺を観測できる位置に遷移している。
見た目はそれほどでもないが、NORAD(北米防空司令部)などのレーダー画面に示された軌道のラインは、まるで毛糸玉をぐちゃぐちゃにしたようにわけのわからないものになっていた。
公的機関はもとより、新聞(実体・Webを問わず)、テレビなどの報道機関も東洋の奇妙な島々の消失を特集して視聴率を稼いでいたし、質のいい番組にはおしみなく「投げ銭」が世界中から与えられていた。
しかし、もっとも忙しかったのは、各国の政府だろう。
中華連邦共和国・東亜国家共同体設立準備委員会(ややこしいが要するに中国政府)は人民共和国政府(要するに党)の東シナ海での軍事行動を自重するように声明を発表するとともに、米軍による東南アジア軍備拡張に「深刻な懸念」を表明していたし、ホワイトハウスは中国軍部の独走と機会主義を非難。
ASEANとインドもこれに便乗していた。
だが、日本列島の「不幸」に乗じるのもいかがなものかという意見――ベクトルは好意と悪意の両極端か無関心の3極だが――が大勢を占める国際世論というやつには概ねの配慮が示され、「転移」以後の国際秩序についても大方の意見がまとまっているようには見えた。
実際のところ、各国政府は日本列島という「方舟」ごと、何者の邪魔することもない新大陸へ渡っていく日本人どもに深刻な嫉妬を抱きかねないほど過労状態にあったのだが。
ともあれ、「チッ。JAPどもだけうまくやりやがって」という本音は腹の底に仕舞いつつ、各国の首脳は別れが迫っているからこそできる大幅なリップサービスを公開することに終始していた。
アメリカ大統領が「原爆投下などの第2次大戦時の非人道的な行為」に対して再び繰り返すべきでないと言えば、日本の首相が「真珠湾攻撃などの国際法違反云々」と返し、「政治的プロパガンダによる過去の虚像云々」とあれば「民間人も巻き込んだ総力戦で大陸を云々」と返す。
表面的に見れば東アジア周辺が急に愛と平和に目覚めたように聞こえるのだが、何のことはない。
双方が双方の外交カードをポイポイと捨て去っているだけの話だ。
滑稽だが、日本政府と外国が何のしがらみもなく言葉を交わせる、あまりに短い時間が対外的には出現していた。
まぁ、感情的なしこりが凝り固まった人々は怒りのやり場を失って気勢と奇声を上げているし、根本的に意地になっている人々は罵詈雑言を垂れ流すといういつもの通りの事象を生み出してもいたのだが。
言うなれば、通夜の枕元で繰り広げられる人間模様そのもの、というわけだった。
20時58分。
そんなあれこれの末、日本列島からは最後の公式な電波が発せられはじめた。
その国の象徴であり、元首である人物が、世界最強の伝統主義者らしい典雅な微笑をたたえて国営放送のカメラの前に立ったのだ。
彼の口から発せられる言葉はもちろん彼の本心そのものではなかったし、原稿を書いたのも彼だけではなかった。
だが、ひとつの国家と文化圏が去りゆく際の演出としては及第点以上のインパクトがあった(言った者勝ち的にこれまでの鬱憤やら何やらを暗喩と隠喩にこめていたりもしたが)。
短い演説が終わると、彼は再び微笑し、
「それでは全世界の皆さん、さようなら。」
一拍言葉を切り、
「また、逢いましょう。」
そう言って、公用のものらしい品のいい広間から歩き去っていった。
その後ろ姿に何ともいえない感覚を抱いていた人々は、画面が、はためく太陽の紋章に替わるとそれぞれ自分の興味を満たす方に神経を集中する。
もはや消え去る運命にある国の、古い古い詩がゆったりとスピーカーから奏でられはじめる頃には、宇宙から見た、あの奇妙な形の島々は、いつのまにか出現し、急速に輝きを増し続ける白い光の中に没し去っていた。
そして、日本は、去った。
歴史書にはそれだけが記された。
【承前】
――暗闇の中、彼女は泣いていた。
いや、外はうだるような暑さと、青と白の光、それに蝉とかいう虫の作り出す騒音で満ちている。
少女はその騒音がたまらなく憎かった。
石の森の中を行きかう鉄の車たちが放つ他者を拒絶するかのような騒音は、以前には感じられた濃密な土の匂いや水のにおいが感じられないこの町のように現実感を奪い去る。
この町の中にいると、少女は自分までもが…そう、陽炎のように消えてしまいそうに思え、たまらなく怖かった。
家に帰ることは不思議と頭にない。
振り返っても、我が家へ続く道は見えないし、第一家族が少女を愛していたという事実すら彼女には分からないほど彼女は幼かった。
かといって、少女を数日間問い詰め続けた黒服の男たちのように、今の少女を取り巻く世界が優しいわけではない。
修道女たちは彼女を遠巻きに見るだけだったし、最初は好奇心旺盛に少女に近づいてきた同年代の子供たちも、少女と会話するやたちまち排斥へと走った。
実際は、ナイーヴになっていた彼女をこれ以上刺激し悪影響を与えないという気遣いが孤児院の女性たちをためらわせていたのだし、明らかに嘘と思えることを言う、ピンク色の髪の異物に子供たちは正常な拒否反応を示したのだということは随分後にならないと少女にはわからない。
「にほんにもふらんすにも、きぞくはいない」ことを、少女は知らなかった。
だから、彼女は暦が春から夏へ変わった今になっても一人で絵本の部屋で本を読んでおり、時折廊下から聞こえてくる
「あ、うそつきがいるよ。」
「あーあ。今日もか。いい加減出ていってほしいよな。」
というあからさまな男子の声に傷つきながらあいうえおの本と、それ以外の絵本を読み比べ、
「なんでいるのよ。」
「ほっときましょ。私たちまでうそつきがうつったら…」
という女子の言葉にも傷ついていた。
一度、あんまりにも悲しく、腹立たしく自暴自棄になって暴れてしまったのがよかったのか悪かったのか、目の前でそんなことを言われないのが余計に辛かった。
チューブ入りの糊でぎとぎとになった上履きや、画鋲の入った枕よりも。
だから…
「俺は、平賀才人。」
「え?」
「え?じゃない。名前だよ名前。」
「え?え?」
てっきりまたトイレに連れ込まれてはたかれるのだと思っていたところにかけられた言葉に、少女は「きぞくにあるまじき」間抜けな返答を返してしまった。
「何だよ。名前聞いてきたのはそっちだろ?忘れたのか?」
目の前で、お仕着せの半ズボンを居心地悪そうに直している男の子の後ろでは、シスターたちの前で身振り手振りを交えながら話をしている男の人と、こちらを見ている女のひと。
女のひとが目に浮かべている何かに気がついた時、少女は、決壊した。
「お・・・ぼ・・・・俺は泣かしてなんていない。あああもう、泣くな。泣くなったら。」
発音がカメのそれと同じ「俺」で強がっている男の子は、「ああ。泣かした!」と苦笑交じりに笑う女のひとと、「だめだぞー妹を泣かしたら」とこれも笑う男の人に強がりながら、少しウェーブのかかった少女の髪に恐る恐る手を伸ばし、いささか乱暴に撫でた。
この日、少女は、ルイズ・V・平賀になった。
第1章 流浪の国―1へ
――西暦2030(黎明12)年8月 全景 日本列島
その日のニューストップは、横須賀軍港に中継車を繰り出した国営放送や、軍事アナリストの解説をつけた民放機構の合同番組に差し替えられていた。
それ以外は、今年は比較的発生が少ない台風情報の代わりにTV画面の隅に表示される「転移情報」という形でデータ放送になっている。
天災に慣れきっているといえばそれまでだが、いかにも日本人らしい「適応」の仕方といえるだろう。
しかし、日本列島以外の場所ではまったくその正反対の状況が現出していた。
言うなれば、世紀のお祭り騒ぎだ。
国連の評価委員会から公式の否定声明が出ているとはいえ、日本列島分の体積の陸地が消えた反動で大津波や大地震が発生するという懸念を隠しきれない国々はこぞって日本近海に海軍の艦艇を派遣して観測にあたらせていたし、国連旗を掲げたEU緊急展開軍の空母戦闘群と各国艦艇が睨みあう一幕もあった。
宇宙空間はそれ以上だ。
偵察衛星はもとより各国の有人軌道施設、騙しだまし運用が続けられている国際宇宙ステーションまでもが軌道を変更し、X時すなわち日本時間の午後9時には日本列島周辺を観測できる位置に遷移している。
見た目はそれほどでもないが、NORAD(北米防空司令部)などのレーダー画面に示された軌道のラインは、まるで毛糸玉をぐちゃぐちゃにしたようにわけのわからないものになっていた。
公的機関はもとより、新聞(実体・Webを問わず)、テレビなどの報道機関も東洋の奇妙な島々の消失を特集して視聴率を稼いでいたし、質のいい番組にはおしみなく「投げ銭」が世界中から与えられていた。
しかし、もっとも忙しかったのは、各国の政府だろう。
中華連邦共和国・東亜国家共同体設立準備委員会(ややこしいが要するに中国政府)は人民共和国政府(要するに党)の東シナ海での軍事行動を自重するように声明を発表するとともに、米軍による東南アジア軍備拡張に「深刻な懸念」を表明していたし、ホワイトハウスは中国軍部の独走と機会主義を非難。
ASEANとインドもこれに便乗していた。
だが、日本列島の「不幸」に乗じるのもいかがなものかという意見――ベクトルは好意と悪意の両極端か無関心の3極だが――が大勢を占める国際世論というやつには概ねの配慮が示され、「転移」以後の国際秩序についても大方の意見がまとまっているようには見えた。
実際のところ、各国政府は日本列島という「方舟」ごと、何者の邪魔することもない新大陸へ渡っていく日本人どもに深刻な嫉妬を抱きかねないほど過労状態にあったのだが。
ともあれ、「チッ。JAPどもだけうまくやりやがって」という本音は腹の底に仕舞いつつ、各国の首脳は別れが迫っているからこそできる大幅なリップサービスを公開することに終始していた。
アメリカ大統領が「原爆投下などの第2次大戦時の非人道的な行為」に対して再び繰り返すべきでないと言えば、日本の首相が「真珠湾攻撃などの国際法違反云々」と返し、「政治的プロパガンダによる過去の虚像云々」とあれば「民間人も巻き込んだ総力戦で大陸を云々」と返す。
表面的に見れば東アジア周辺が急に愛と平和に目覚めたように聞こえるのだが、何のことはない。
双方が双方の外交カードをポイポイと捨て去っているだけの話だ。
滑稽だが、日本政府と外国が何のしがらみもなく言葉を交わせる、あまりに短い時間が対外的には出現していた。
まぁ、感情的なしこりが凝り固まった人々は怒りのやり場を失って気勢と奇声を上げているし、根本的に意地になっている人々は罵詈雑言を垂れ流すといういつもの通りの事象を生み出してもいたのだが。
言うなれば、通夜の枕元で繰り広げられる人間模様そのもの、というわけだった。
20時58分。
そんなあれこれの末、日本列島からは最後の公式な電波が発せられはじめた。
その国の象徴であり、元首である人物が、世界最強の伝統主義者らしい典雅な微笑をたたえて国営放送のカメラの前に立ったのだ。
彼の口から発せられる言葉はもちろん彼の本心そのものではなかったし、原稿を書いたのも彼だけではなかった。
だが、ひとつの国家と文化圏が去りゆく際の演出としては及第点以上のインパクトがあった(言った者勝ち的にこれまでの鬱憤やら何やらを暗喩と隠喩にこめていたりもしたが)。
短い演説が終わると、彼は再び微笑し、
「それでは全世界の皆さん、さようなら。」
一拍言葉を切り、
「また、逢いましょう。」
そう言って、公用のものらしい品のいい広間から歩き去っていった。
その後ろ姿に何ともいえない感覚を抱いていた人々は、画面が、はためく太陽の紋章に替わるとそれぞれ自分の興味を満たす方に神経を集中する。
もはや消え去る運命にある国の、古い古い詩がゆったりとスピーカーから奏でられはじめる頃には、宇宙から見た、あの奇妙な形の島々は、いつのまにか出現し、急速に輝きを増し続ける白い光の中に没し去っていた。
そして、日本は、去った。
歴史書にはそれだけが記された。
【承前】
――暗闇の中、彼女は泣いていた。
いや、外はうだるような暑さと、青と白の光、それに蝉とかいう虫の作り出す騒音で満ちている。
少女はその騒音がたまらなく憎かった。
石の森の中を行きかう鉄の車たちが放つ他者を拒絶するかのような騒音は、以前には感じられた濃密な土の匂いや水のにおいが感じられないこの町のように現実感を奪い去る。
この町の中にいると、少女は自分までもが…そう、陽炎のように消えてしまいそうに思え、たまらなく怖かった。
家に帰ることは不思議と頭にない。
振り返っても、我が家へ続く道は見えないし、第一家族が少女を愛していたという事実すら彼女には分からないほど彼女は幼かった。
かといって、少女を数日間問い詰め続けた黒服の男たちのように、今の少女を取り巻く世界が優しいわけではない。
修道女たちは彼女を遠巻きに見るだけだったし、最初は好奇心旺盛に少女に近づいてきた同年代の子供たちも、少女と会話するやたちまち排斥へと走った。
実際は、ナイーヴになっていた彼女をこれ以上刺激し悪影響を与えないという気遣いが孤児院の女性たちをためらわせていたのだし、明らかに嘘と思えることを言う、ピンク色の髪の異物に子供たちは正常な拒否反応を示したのだということは随分後にならないと少女にはわからない。
「にほんにもふらんすにも、きぞくはいない」ことを、少女は知らなかった。
だから、彼女は暦が春から夏へ変わった今になっても一人で絵本の部屋で本を読んでおり、時折廊下から聞こえてくる
「あ、うそつきがいるよ。」
「あーあ。今日もか。いい加減出ていってほしいよな。」
というあからさまな男子の声に傷つきながらあいうえおの本と、それ以外の絵本を読み比べ、
「なんでいるのよ。」
「ほっときましょ。私たちまでうそつきがうつったら…」
という女子の言葉にも傷ついていた。
一度、あんまりにも悲しく、腹立たしく自暴自棄になって暴れてしまったのがよかったのか悪かったのか、目の前でそんなことを言われないのが余計に辛かった。
チューブ入りの糊でぎとぎとになった上履きや、画鋲の入った枕よりも。
だから…
「俺は、平賀才人。」
「え?」
「え?じゃない。名前だよ名前。」
「え?え?」
てっきりまたトイレに連れ込まれてはたかれるのだと思っていたところにかけられた言葉に、少女は「きぞくにあるまじき」間抜けな返答を返してしまった。
「何だよ。名前聞いてきたのはそっちだろ?忘れたのか?」
目の前で、お仕着せの半ズボンを居心地悪そうに直している男の子の後ろでは、シスターたちの前で身振り手振りを交えながら話をしている男の人と、こちらを見ている女のひと。
女のひとが目に浮かべている何かに気がついた時、少女は、決壊した。
「お・・・ぼ・・・・俺は泣かしてなんていない。あああもう、泣くな。泣くなったら。」
発音がカメのそれと同じ「俺」で強がっている男の子は、「ああ。泣かした!」と苦笑交じりに笑う女のひとと、「だめだぞー妹を泣かしたら」とこれも笑う男の人に強がりながら、少しウェーブのかかった少女の髪に恐る恐る手を伸ばし、いささか乱暴に撫でた。
この日、少女は、ルイズ・V・平賀になった。
第1章 流浪の国―1へ