みなさんはどう思われますか
寺岡良信さんから以下のコメントが投稿されました。とても考えさせられるいい内容なので、本欄にアップさせていただきます。今回の朝鮮高級学校の(当面の)除外という結果が、どのような意図でなされたものであるか、よく理解できるのではないでしょうか。この文章にみちる怒りは、けっして一方的なものではありません。かつてのご自身に対する怒りであり、明日そうであるかもしれない自分への怒りでもあります。私も今回の結果にはたしかに悪意を感じています。しかしさらに本当の悪があると思います。それは、「それは私の悪ではない」と、私たちすべてにかかわるはずの悪の現場を、何も考えず通り過ぎることだと思います。またすぐれて現在的な詩的感受性もまた、今日の結果を「間違っている」と魂の底から感じることから生まれると私は確信します。みなさんはどう思われますか。(河津)
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高校無償化法案が衆院文部科学委員会で可決された。だが私たちが強く願っていた、朝鮮高級学校を対象から除外しないということについては、第三機関を設置して検証することが決まった。若者たちが学ぶ学校という場を、まるで違法や犯罪の疑いのある組織・施設に見立て、立ち入って調べるという姿勢自体、予断や偏見を前提にしたもので不快極まりない。なぜ首相や文科相が学校現場を訪れ、生徒や先生や父母たちと膝を交えて話し合うことをしなかったのか。おそらくは一方に拉致問題と無理やり関係づけようとする強硬意見があり、他方に私たちのような意見があり、そのはざまで、政治家たちは一見中立を装った、もっともらしい「第三機関」なるものを思いついたのであろう。
私は、金日成前主席や金正日総書記の顔写真があるかどうかの詮索や、教科書の一部だけを見て反日教育でないかどうかを判断するだけに終わってしまいそうな、「第三機関」による「検証」などではなくて、民族差別を許さないという視点に立脚した確かな世論の形成こそが重要な鍵になる思う。なぜ日本に朝鮮学校があるのかという、歴史的想像力と洞察に支えられた牢固とした論理と、不条理を見逃さない心情を、多数の世論形成へと繋げていかなければならないのだと思う。
今朝の某新聞を見て、そのすさまじい反朝鮮学校キャンペーンにぞっとした。
そこには北朝鮮と朝鮮総連と朝鮮学校がイコールで結ばれていて、総書記の意向を受けた朝鮮総連幹部が各学校に「無償化を勝ち取れ」と檄を飛ばしたと、それこそ鬼の首でも取ったかのように、下品で煽情的で、かつ蕪雑な文章で書かれていた。これはもう、朝鮮高級学校の生徒のみならず、民族の矜持を保ちつつ、日本社会の市民として共に生きてゆこうと、真剣なまなざしで様々な困難に堪えている在日の若者たちへの、悪意以外の何物でもない。
胸に手を当てて考えよ。
韓国併合条約のいかさまと総督府支配の野蛮とを。創氏改名を、神社参拝や日本語の強制を。
昔高校で習ったことを少しでも思い出せ。
あの虐殺を生んだ関東大震災の流言蜚語を。「犬と朝鮮人お断り」と墨書きされた不動産屋の張り紙を。「線路の枕木一枚に朝鮮人の死一つ」の言葉を。
断わっておくが、私は強制連行を拉致と相殺しようなどというつもりは全くない。
拉致と教育とをいっしょくたに論じるな、北朝鮮を攻撃するキャンペーンに、何の関係も責任もない生徒たちを巻き込むなと言っているのだ。朝鮮学校がなぜ彼らに必要であったのかを、マイノリティーがその尊厳を守るために学ぶ民族教育の、権利としての普遍性とともに想起せよと言っているのだ。
尊厳を回復することは差別する者への闘いでもあるから、彼らが歴史を語るとき、その言動がときとして鋭利な刃物のように映ることもあるだろう。そのことをいちいち「反日」だと騒ぐな。それは歴史に対する度し難い無知か、横着な開き直りである。
私は偉そうに物を言っているのではない。
「排除の論理」はかつて私の裡にも存在したし、今も私の意識下で息をひそめているかも知れない。某新聞の記事にぞっとしたと、書いたが、そこに映し出された悪意はかつての私であり、明日の私かも知れない。
この薄氷を踏むような思いを踏まえて、しかし私はより多くの人に、日本人の良識に訴えていかなければならぬと思う。繰り返し言うが、世論が鍵である。今日本人の立ち位置が試されている。内省と洞察と豊かな想像力に裏打ちされた、確かな世論を大きく広く形作ってゆきたい。 (寺岡良信・詩人)
寺岡さん、河津さん、
くやしいね。くやしいね。
巨大なものは悪である、と言ったのは田村隆一。そう、だけど権力の卑小、卑劣さと戦いつづける無名の者らの歴史を越える大きなちからを今信じなければならない。わたしらは無名の生者や無名の死者たちとともに戦い、詩をいきつづける。在日の若者たちよ、くやしいやろ、うらめしいやろ、こんな当たり前のことすら責任をもって果たせない、大人たちが情けないやろ、信じられんやろう。ごめん、歴史の厳しいつけを、戦う君たちに負わしてしまうこれは大人の私の責任や。
投稿: tomi | 2010年3月12日 (金) 23時39分
多分、朝鮮高級学校のなかにも、日本のほかの学校にもみられるように、権力と非権力の二重構造はみられるだろう。キム親子の肖像がかかっているからといって、日本社会の一員として多感に暮らしているのであれば、それを押しつけと感じ、日本と朝鮮とのはざまで、それを口にはできず苦しんでいる子らもいるはず。日本の政治家が権力と非権力のどちらをより重要視するかで、政治の品格は決まる。もし権力を体制とみなして重要視するなら、それは所詮、苦しむ者たちの心をいけにえにする、卑しい権力あらそいの構図にすぎないだろう。わたしはこういうことらと戦っていく、詩を生きたい。
投稿: tomi | 2010年3月13日 (土) 00時37分
tomiさん、
コメントを読んで、涙が出ました。朝鮮学校の生徒たちは、私たちの間違った過去から受け取ることのできたかけがえのない宝物であり、国交回復した平和な未来に対して、私たちが責任を持って届けなくてはならない贈り物です。そのことに対し、私たちは感謝をしてこなかったし、責任を果たしてこなかった。自分のことばかり考えていた。詩人にとって詩が最も大切なものならば、詩こそが変わらなくてはならないでしょう。サロン的趣味的な詩から、きちんと歴史と現実と他者に向きあう詩へ。
投稿: 河津聖恵 | 2010年3月13日 (土) 00時56分
何もかも理解しているというそのことが、理解し尽くせない両者の断絶を露呈することを告げ知らせる存在者に向き合うこと。消費構造のなかにからめとろうとするこの社会において、そこに埋没しかかりつつ、回避し、果敢に小さくも遊撃すること。
「What are you from ? 」
「I'm from Japan. but I'm Korean , but I was born and brought up in an but my nationality is South-Korea・・・・・」
外国に行って、こうして「but」の連続で相手を困惑させてしまうようなことは、「from Japan 」と単純に言える私にはありえない。
投稿: ヤドリギ金子 | 2010年3月13日 (土) 11時26分
ヤドリギさん、ありがとうございます。
「敵か味方か」は結局は「もうかるかもうからないか」にゆきつく論理だと感じます。すべての元凶である消費構造にからめとられない芥子粒ほどの魂を、詩を書く者ならば育てていくべきでしょう。
朝鮮学校の問題を自分の問題として考えないことは、いつからか私たちに巣くってきた「空虚感」を、さらにはてしない欲望へと駆り立てていくはずです。
改憲、徴兵制、言論統制、戦争、侵略。
激しい空虚のエネルギーはかならず危険な方向へむかいます。
朝鮮学校の生徒もきっと、生まれてからずっと自分の中で「but」を繰り返してきたのですね。私たちもまたかれらの「but」に想像力を馳せることで、「from Japan 」でことたりてきた自分を、どんどんゆさぶっていきたい。その方が、よりいきいきと生きられるはずですから。
投稿: 河津聖恵 | 2010年3月13日 (土) 12時07分
すべての高校無償化について現政権の元で上手く法案が通過していかない理由はどこにあるのでしょう。
大きなひとつは,統治の方法の問題でしょう。様々な世論に対して整理が出来なくて適当にごまかそうとしているレベルです。多数につくでしょう。
ふたつ目は,私たちの日常生活レベルで、政権の発するコメントやマスコミの発する意見に翻弄されたり、操作されたりというようなレベルがあります。生活レベルでのパワーのぶつかり合いです。
もう一つは,今はまだ露骨には出ていませんが、力で支配するというレベルです。議会制民主主義には,暴力がついています。歴史が証明しています。また、政党政治では,今までは失敗の連続で政権交代があるくらいです。
この三つの層に合ったレベルの、次元のいろんな抵抗が生まれてきます。上記の三層のパワーがあるからです。そして現状は経過して行きます。ここまでは何度も繰り返され経験ずみなのでご存知のことと思います。パワーのあるところには,抵抗が必ず生まれ補完しあいます。
ここから先が、問題なのです。パワーと抵抗の均衡を破る抵抗を創らなければなりません。それは、やられてもやられても改善策をもとめて抵抗し続けるほかにないでしょう。可能なかぎり、曖昧でもおおまかでもなく、厳密に言葉をつむぎだし、分析し、レベルの混同に細心の注意を払って余計な混乱は避けて、理論的実践と同時に、そして実際の現実の場で、各自個人の責任で行動を継続し続けることだと私は考えています。よき機会を見つけて、直接行動も含め実践します。(パワーは権力と翻訳されますが、日本語の権力という言葉からのイメージは、私には大げさに感じられて、気軽に行動する妨げとなるような気が致します。)
投稿: 倉田昌紀 | 2010年3月13日 (土) 12時18分
倉田さん、ありがとうございます。
今朝の朝日新聞に載っていた、「自由か補助金か、決断を」と学校に迫る橋下知事の発言はぞっとしました。金をちらつかせて「肖像画を外せ」といっています。総連やいわゆる北朝鮮との関係も断てとも。このような発言に対し、産経新聞愛読者はきっというでしょう。「あたりまえだ、外させろ、日本人の言うことをきけ」。かれらの(私たちの)歴史的な負い目をすり替えるために。そして肖像画が外されたときに、きっとまたいうでしょう。「ほらみろ、おれたちが正しかったんだ」。その時産経新聞愛読者以外もまた、じつは胸をなでおろさないでしょうか。「その方が現実的でかしこいやり方だわ。さあ仲良くしましょう」。しかしもちろんそのとき、この国のモラルは二重に崩れ、差別は二重に隠蔽されていきます。
投稿: 河津聖恵 | 2010年3月13日 (土) 13時36分
リンクさせてもらいました。
投稿: 野樹 | 2010年3月13日 (土) 17時25分
ありがとうございます。いまある高名な年配の詩人と電話でお話していたところ、朝鮮学校の話題になりました。「かつて私たちが母国語を奪った国の人たちに、母国語が学べる最善の環境を整えてあげるのはあたりまえでしょう」。たしかにそうだと思います。
投稿: 河津聖恵 | 2010年3月13日 (土) 17時31分
毎日ブログを拝見しています。特に朝鮮学校高校の無償化について現政権の判断には私もいろいろな異論がありますが、この問題の現実的なネックは学校その ものに直接予算をつけるというところにあります。日本に在住している韓国系と 北朝鮮系の生徒に直接予算をつけるというような行政措置を講ずれば、反対や拒否のためのもっともらしい理由は薄らぐでしょう。もっともそれでも対象となる生徒の行く学校との関連性から拒否や反対の論理は立つでしょうが、そこまでくれば日本の文化的な度量のキャパシティに傷がつくでしょう。朝鮮高校の教室に飾られ ているという北の将軍の写真も父兄の意見で少なくなってきているようです。仮 に飾られていてもあんまり目くじらたぬてて非難すべきではないと思います。無 視すればよいのです。そのくらいの度量が今の政治家にはないんですね。私はも ともと政治家などは信じていませんからいいのですが、今のマスコミの疑似権力化が驚異です。政治家が恐れるはそのマスコミです。今政権はそのマスコミの 鼻息を窺っています。国民の感性や知性を決して反映してはいない、マスコミの世論調査の胡散臭さに政治家も鼻を詰まらせているようです。私は、国民が朝鮮高校の教育が正当ものでることを信じることが先ず大きな前提になると思います。その態度や意志が朝鮮高校の有為の教師達の意志に力を与え、生徒達に批判力が 培われていきます。それを信じての無償化は今後の両国の関係を正しいものにし ていく結果を招来すると思います。乱筆失礼します。
投稿: 池田實 | 2010年3月13日 (土) 20時11分
池田さま
ありがとうございます。
「直接予算をつける」というのはいいアイデアですね。それが出来ない理由は、「肖像画(たぶん写真ではなく肖像画だったと思います)を無視するくらいの度量が今の政治家にはない」理由とたぶん同じで、そのような「飛躍」には、自分自身の論理を、自分の言葉で創り上げることが必要だということですね。
だからいっそ「飛躍」をしてみたら?と大阪の知事くんに私もいいたいです。
飛躍すれば、そのあとに、必ず、新鮮な論理と言葉が生まれてくるはずですから。
最初に差別があって、結果として同じ差別があって・・・なんていう繰り返しでは、論理も言葉もすれきれていくだけ。なんの進歩も発展もないし、第一楽しくないですよね。不機嫌は伝染しますし。
またそれとからめて、朝鮮高校の生徒たちの「批判力」についてですが、それは、tomiさんのコメントが対応するのではないでしょうか。
「日本社会の一員として多感に暮らしているのであれば、それを押しつけと感じ、日本と朝鮮とのはざまで、それを口にはできず苦しんでいる子らもいるはず。」
私も在日の友人の、多感で多面的な「批判力」に感動しています。
それはヤドリギさんの言われた「but」の多面性ともいえるでしょう。
祖国の指導者の肖像画についてですが、なぜ飾ってあるのかということを、在日一世の心情になって、理解してみたら、きっと理解できるし、理解したほうが面白いと思いますよ。
とにかく他者を排除するのは、暗い。つまらない。頭が甲殻と化してしまいます。
もうやめませんか?と産経新聞の愛読者さんたちにいいたいですね。
私たちだって、誰もが何か(誰か)を信じている。でもこの価値観の多様な社会では、いろんな自分が必要であって、また意図しなくともいろんな自分が生まれてきて、
面白いのですが、それを面白くするためには、つまり生きていて楽しくするためには、いつも「信じているもの」を一つ持っているというのは、必要ですね。ゆたかな自分という木を育てるための、丈夫な「根っこ」を持つのと同じなんじゃないでしょうか。朝鮮学校の生徒たちにとって、その「根っこ」がたまたま、というか宿命的に、祖国の指導者の肖像画なのであって(批判するなら批判するで、自分や歴史について考えるときの、大事な鏡になっていると思いますよ)、それを奪うなんて、奪うほうが、本当につまらないですよ。
投稿: 河津聖恵 | 2010年3月13日 (土) 21時00分
寺岡さんの文章を読ませていただきました。
本当に心が震えます。
無償化除外が発表される前日、僕は夜勤明けの電車の中で産経新聞を広げているオッサンを何人も見ました。そのオッサンらはみな座席にふんぞりかえって、おぞましい見出しのついた、朝鮮学校を貶める記事に見入っていました。
電車の中で広げられる新聞が、夕刊紙やスポーツ新聞を除けば、どういうわけか産経新聞(オッサン)が圧倒的に多い。
こんな光景が日常化したのは98年のテポドン騒ぎ(これも凄まじいプロパガンダでした)のころからだったと記憶しています。
新しい歴史教科書をつくる会による歴史歪曲教科書の問題でもそうでしたが、これには自民党・財界と産経新聞がやってきたプロパガンダの影響が明らかですね。
それにどう対抗していけるのか、言葉を掛け金にしている詩人の政治的実存が試されているように思います。
投稿: kyoyasai | 2010年3月13日 (土) 23時12分
朝鮮学校を訪問したり、映画「ウリハッキョ」を観たり、また、在日の教え子たちと話をするなら、国家観や日本観、朝鮮観、民族に対する考え方、そして何より人間観の多様さに、驚きます。例えば、肖像画に関するとらえ方についても、日本の生徒たちの中に「君が代」斉唱に疑問をもったり・ごく自然にスルーしたりする生徒がいるのと同様に、国家主義的刷り込みに関して疑問を抱いている生徒も多くいると推察しています。
また、(途方もない戦前・戦中の拉致問題があたかもなかったかのように)騒がれている拉致問題(もちろん、これはこれで問題ではありますが)以降、朝鮮学校の先生方や生徒たちが、いかに嫌がらせに耐え、いかに「つらい思いをし」「いかに気をつかって」
いるのかをしっかり知って受け止めるなら、暴言は吐かれないはず、と楽観します。
東北の学校では確かこの問題以来、肖像画もかけなくしたり、運動会などでも国旗も万国旗にしたり、国家主義的・民族主義的色彩を明確にしなくなってきており、学校をオープンにする努力も独自にされています。
戦略は別にして、「国家が教育に介入するとはいったいいかなることなのか?」ということを、今回のこの問題を契機にさらに深く考えなければならないとも思います。
投稿: ヤドリギ金子 | 2010年3月13日 (土) 23時15分
ご活動に敬服します。
ジュネーブの人種差別撤廃委員会が日本政府に改善を勧告するようですよ。
国際的な人権意識レベルを日本も持つべきですね。
この不況下に、生徒の教育を受ける権利を守らなければなりません。
朝鮮語教育をもっとも熱心にやってきたのは朝鮮学校です。
実際に通学している生徒さんも様々な意識を持っているでしょう。
金城一紀の『GO』もあるし。
選択の権利も保障すべきですね。
投稿: 佐川亜紀 | 2010年3月13日 (土) 23時24分
寺岡さん、tomiさん、そのほか投稿された方々のコメントに強く打たれます。
掲載された詩や、河津さんの真摯なコメントには静かなちからがあって、
深い共感とともに染み入ってくるようです。
「<それは私の悪ではない>と、私たちすべてにかかわるはずの悪の現場を、何も考えず通り過ぎることだと思います。またすぐれて現在的な詩的感受性もまた、今日の結果を「間違っている」と魂の底から感じることから生まれると私は確信します」
河津さんのこうした言葉を自身に問わずに詩を書き続けることはあまりにノーテンキ、と同時にシステムの悪意に同調することに他ならないと思います。
投稿されたみなさんの言葉を味わい、私自身内部にくだしながら、
加藤周一の『言葉と戦車』に書かれたメッセージを思っています。
中略しながらいくつか抜き書きします。
「言葉は、どれほど鋭くても、また、どれほど多くの人々の声となっても、一台の戦車さえ破壊することができない・・・戦車は、すべての声を沈黙させることができるし、プラハの全体を破壊することさえもできる・・・しかし、プラハ街頭における戦車の存在そのものを、自ら正当化することだけはできないだろう・・・1968年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と無力で圧倒的な言葉であった」
これらに加えれば(というか裏には)言葉が戦車になる可能性もまた含まれているということなのでしょう。そうした意味でいままさに危機状況です。tomiさんのいわれるように「戦って詩を生きたい」と思います。
投稿: フクネコ | 2010年3月13日 (土) 23時24分
kyoyasaiさん、
ふんぞりかえって、ですか・・。
読んでいる内容や言葉の質は、おのずと読む者の風貌や姿勢をも変えていくのは確実です。。紙面のいやなオーラが、姿にも映し出されたおっさんなんて、車内で携帯電話に怒る人よりこわいです。こわい車内風景です。車内にも鏡が必要な国ですね。
ヤドリギさん、
「拉致問題以降、朝鮮学校の先生方や生徒たちが、いかに嫌がらせに耐え、いかに「つらい思いをし」「いかに気をつかって」いるのか」を私も
感じています。学校見学に二度行って、私は、生徒たち先生たちの優しさ、真摯さ、気高さに打たれました。ここでは、みんなが仲間(「トンム」という言葉が掲示板に書いてありました)なんだ、という熱い安心感。信頼感。素敵ですよ。「見学に来てくれて、本当にありがとう」と笑顔で何度も言われました。見学に来た人はもうトンムなんですね。
人を傷つけるマスコミの言葉なんか、トンムに会えば、雲散霧消してしまいますよね。
佐川さん、
コメントありがとうございます。
ジュネーブの人種差別撤廃委員会が動いているんですね。
やはりヨーロッパは人権という理念がかくじつに生きていますね。
産経新聞の誹謗中傷も、ぜひ取りあげてほしいです。
「朝鮮語教育をもっとも熱心にやってきたのは朝鮮学校です」
思ってみれば、なぜ私も隣国の言葉を学べなかったんだろう。
茨木のり子さんではないですが、つくづく思います。]
また、言葉においても同調を強いる日本社会では、朝鮮学校のように外国人にとって母国語での授業は、必須です。「朝鮮学校しか朝鮮語を学べなかったし、すぐれた語学教育を受けたおかげで、通訳になれた」と言った方がいました。日本人のお母様、韓国籍のお父様を持つ方です。
とにかく孤独な少年のように世界に背を向けているこの国の心が、積極的に、前向きに、ひらかれていくように、私たち自身が内側からがんばらなくてはならないですね。
フクネコさん、初めまして。
とても偶然というか必然なことに、
私も今日加藤周一さんを想っていたんですよ。
「圧倒的で無力な戦車と無力で圧倒的な言葉であった」
私も大好きな言葉です。
言葉が戦車になる可能性が試されている、今は、そうしたあらたな詩の季節なのかもしれません。がんばりましょう。
投稿: 河津聖恵 | 2010年3月13日 (土) 23時30分
ヤドリギさん
在日の方らの学校実態は多分おっしゃる通り多様だろうとおもいます。差別を行って来た国の者らの多くが、ゆえ無き差別を受け、苦しみ、つらい思いをしている者の実情を知り、受け入れることができるようになれば、きっと暴言は吐かれなくなるでしょう。でもそのことについて私は楽観できません。暴言はいつだって吐かれうると覚悟してかかるしかないと思っています。わたしが楽観するとすれば、在日の若者たちにいま起こっていると思われる感受性や認識力の多様性にです。かれらには歴史を担い、時代を新しくしてゆく、先をゆくちからがあると信じます。肖像画問題もこの授業料無償化問題も、彼らはきっと現実を生き抜く彼らの新しいちからでのりこえてゆくだろうと思います。わたしたちにできることは、そのためのささやかなお手伝いでしょう。
投稿: tomi | 2010年3月14日 (日) 00時00分
リンクさせていただきました。
「それは歴史に対する度し難い無知か、横着な開き直りである。」私たちは、幾たび彼ら彼女らから言葉を、名前を、そして民族教育の権利を奪ってきたのでしょうか。
首相官邸や文部省政務三役、国会議員(衆議院文部科学委員会、参議院文教科学委員会)などにメールやFAXで意見を伝えるための名簿を掲載しています。ご活用ください。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~yabure/action/mushouka/index.html
投稿: 四十雀 | 2010年3月17日 (水) 23時40分
四十雀さま
貴重な情報ありがとうごさい゛ます。私たちは今鋭意リーフレットを作成中です。また何かありましたら、ぜひお知らせ下さい。
投稿: 河津聖恵 | 2010年3月18日 (木) 18時21分