2004年08月
例の着服事件以来、週刊誌や夕刊紙からNHKについての取材が来るが、みんな断っている。彼らの取材は、たいてい2年前の日経デジタルコアの脅迫事件に関するもので、これについては何度もインタビューを受けたし、同じことばかりいうのは面倒だから、情報は全部ウェブで公開した。今ごろ、また同じ話をするのはごめんだ。
今回の着服が新聞の1面を飾る大事件になったのには、ちょっと驚いた。あの程度のことは、そう珍しくないからである。昔はもっとひどくて、放送総局の副総局長(芸能のトップ)が暴力金融に脅されて辞職するという事件もあったが、ニュースにはならなかった。島元会長が米国に裏口座を作って7000万円余りを着服した(辞任のとき返した)事件も、当時は表に出なかった。今回のような小事件が外部に出て、週刊文春も押さえられないというのは、NHKの力も落ちたものだ。いや、「透明性が上がった」と評価すべきか。
こんなせこい話を追及するよりも、デジタル放送という巨大な無駄づかいを追及してはどうだろうか。テレビ局が押さえたまま使っていないUHF帯の電波の価値は、数兆円にのぼるのに、この問題については新聞はもちろん、民主党も腰が引けている。アナアナ変換への国費投入のときも、何度も政調会の「ヒアリング」につきあったが、結局、国会では議論にもならなかった。今回のようなつまらない「NHKバッシング」で、電波行政という「巨悪」が見逃されるようでは、逆効果である。
今回の着服が新聞の1面を飾る大事件になったのには、ちょっと驚いた。あの程度のことは、そう珍しくないからである。昔はもっとひどくて、放送総局の副総局長(芸能のトップ)が暴力金融に脅されて辞職するという事件もあったが、ニュースにはならなかった。島元会長が米国に裏口座を作って7000万円余りを着服した(辞任のとき返した)事件も、当時は表に出なかった。今回のような小事件が外部に出て、週刊文春も押さえられないというのは、NHKの力も落ちたものだ。いや、「透明性が上がった」と評価すべきか。
こんなせこい話を追及するよりも、デジタル放送という巨大な無駄づかいを追及してはどうだろうか。テレビ局が押さえたまま使っていないUHF帯の電波の価値は、数兆円にのぼるのに、この問題については新聞はもちろん、民主党も腰が引けている。アナアナ変換への国費投入のときも、何度も政調会の「ヒアリング」につきあったが、結局、国会では議論にもならなかった。今回のようなつまらない「NHKバッシング」で、電波行政という「巨悪」が見逃されるようでは、逆効果である。
今週のレッシグblogのゲストは、リチャード・ポズナーである。
彼は連邦第7巡回控訴裁判所の裁判官で、米国でもっとも影響力の大きな法律家として知られる。シカゴ大学の教授も務め、「法と経済学」という分野を作って法学の主流にした大法学者で、レッシグがlaw clerkとして最初に仕えた師匠でもある。
世間的には「保守派」といわれているが、本人は「リバタリアン」とか「プラグマチスト」と自称している。従来の「正義」を振り回す法律家とは違い、どういうルールが効率的かという合理主義にもとづいて、感情的なプライバシー絶対主義を批判し、フェアユースを拡大する著作権法の改革を提案している。近著では、「参加民主主義」を否定して「重要なのは政治に参加することではなく、政治の領分を縮小することだ」と説く。
驚くのは、そういう影響力の大きな裁判官がblogで一般人と議論し、判決を論評したりしていることだ。日本でも、裁判員とかロースクールとか意味不明な「司法改革」をするより、裁判官がみんなblogで国民と議論したほうがいいのではないか。
彼は連邦第7巡回控訴裁判所の裁判官で、米国でもっとも影響力の大きな法律家として知られる。シカゴ大学の教授も務め、「法と経済学」という分野を作って法学の主流にした大法学者で、レッシグがlaw clerkとして最初に仕えた師匠でもある。
世間的には「保守派」といわれているが、本人は「リバタリアン」とか「プラグマチスト」と自称している。従来の「正義」を振り回す法律家とは違い、どういうルールが効率的かという合理主義にもとづいて、感情的なプライバシー絶対主義を批判し、フェアユースを拡大する著作権法の改革を提案している。近著では、「参加民主主義」を否定して「重要なのは政治に参加することではなく、政治の領分を縮小することだ」と説く。
驚くのは、そういう影響力の大きな裁判官がblogで一般人と議論し、判決を論評したりしていることだ。日本でも、裁判員とかロースクールとか意味不明な「司法改革」をするより、裁判官がみんなblogで国民と議論したほうがいいのではないか。
経産省の「新産業創造戦略」というのができたそうだ。私は、けさの新聞広告で初めて知った。検索してみても、新聞の記事にはほとんどなっていない。つまり、今どき役所が「産業戦略」なんか立てても、世間は相手にしないということだ。
この新聞広告で「戦略」を語っている北畑隆生・経済産業政策局長は、官房長だった当時、RIETIへの言論介入を行った張本人である。私の雑誌記事にまで「けしからん」とコメントし、研究所のマネジャーが驚いていた。
経産省は、一時は過去の産業政策の失敗への反省から、こういう「ビジョン行政」はやめたはずだったが、やめると仕事がなくなるので、また昔に戻りつつあるようだ。正しい戦略は、失敗を分析し、その教訓に学ぶことから始まるのに、産業政策の事後評価もほとんど行われていない。まして失敗への批判を強権によって圧殺するような人物が、バラ色の「戦略」を語っても何の説得力もない。
この新聞広告で「戦略」を語っている北畑隆生・経済産業政策局長は、官房長だった当時、RIETIへの言論介入を行った張本人である。私の雑誌記事にまで「けしからん」とコメントし、研究所のマネジャーが驚いていた。
経産省は、一時は過去の産業政策の失敗への反省から、こういう「ビジョン行政」はやめたはずだったが、やめると仕事がなくなるので、また昔に戻りつつあるようだ。正しい戦略は、失敗を分析し、その教訓に学ぶことから始まるのに、産業政策の事後評価もほとんど行われていない。まして失敗への批判を強権によって圧殺するような人物が、バラ色の「戦略」を語っても何の説得力もない。
横江公美『第五の権力・アメリカのシンクタンク』(文春新書)は、この業界についての便利なハンドブックだ。
これを読むと、米国のシンクタンクといってもいろいろなビジネスモデルがあることがわかる。大学の付属研究所を除くと、大富豪が自分の思想を世の中に広めるために創立するというパターンが多いが、それだけでは長期にわたって組織を維持できないので、小口の寄付や委託研究で補っているようだ。この比重には違いがあるが、すべて非営利・非政府系である。
この基準からいうと、日本にはシンクタンクと呼べるものは一つもない。野村総研・三菱総研などは、営利の委託研究が主力で、研究水準も比較にならない。この最大の原因は、著者も指摘するように政権交代がないことだが、これは結果でもある。政策立案を官僚機構が独占しているため、与党と政策で競う力が野党にないのだ。
日本にも最近、政策NPOがいくつか出てきたが、資金的には大変だ。「構想日本」などもセミナー屋みたいになって、マスコミ向けの話ばかり追いかけている。村尾信尚『「行政」を変える!』(現代新書)は、RIETIの元同僚の本だが、彼の作ったWHY NOTというNPOも、いわゆるボランティアの域を出ない。彼は三重県の北川知事の後継者として選挙に出たが、落選した。「純粋無党派」という志はいいけれど、素手で「行政を変える」ことができるのだろうか。
日本で社会的な必要と供給の「需給ギャップ」がもっとも大きいのは、この業界だろう。官僚の供給する政策は、とっくに賞味期限が過ぎているのに、新鮮な政策を出す競争相手がいない。大学は競争原理が働かないし、政府系は政治家や官僚が口を出すし、コンサルは役所の下請けになってしまう。RIETIとGLOCOMの失敗は貴重な教訓だが、それを積極的に生かすのはむずかしい。やはり日本にも大富豪が必要なのだろうか。
これを読むと、米国のシンクタンクといってもいろいろなビジネスモデルがあることがわかる。大学の付属研究所を除くと、大富豪が自分の思想を世の中に広めるために創立するというパターンが多いが、それだけでは長期にわたって組織を維持できないので、小口の寄付や委託研究で補っているようだ。この比重には違いがあるが、すべて非営利・非政府系である。
この基準からいうと、日本にはシンクタンクと呼べるものは一つもない。野村総研・三菱総研などは、営利の委託研究が主力で、研究水準も比較にならない。この最大の原因は、著者も指摘するように政権交代がないことだが、これは結果でもある。政策立案を官僚機構が独占しているため、与党と政策で競う力が野党にないのだ。
日本にも最近、政策NPOがいくつか出てきたが、資金的には大変だ。「構想日本」などもセミナー屋みたいになって、マスコミ向けの話ばかり追いかけている。村尾信尚『「行政」を変える!』(現代新書)は、RIETIの元同僚の本だが、彼の作ったWHY NOTというNPOも、いわゆるボランティアの域を出ない。彼は三重県の北川知事の後継者として選挙に出たが、落選した。「純粋無党派」という志はいいけれど、素手で「行政を変える」ことができるのだろうか。
日本で社会的な必要と供給の「需給ギャップ」がもっとも大きいのは、この業界だろう。官僚の供給する政策は、とっくに賞味期限が過ぎているのに、新鮮な政策を出す競争相手がいない。大学は競争原理が働かないし、政府系は政治家や官僚が口を出すし、コンサルは役所の下請けになってしまう。RIETIとGLOCOMの失敗は貴重な教訓だが、それを積極的に生かすのはむずかしい。やはり日本にも大富豪が必要なのだろうか。
電波利用料は、レガシー無線機の「追い出し税」とすべきである
今回の最終報告書(案)は、基本的にはこれまでの電波有効利用政策研究会の方針を踏襲したものであり、それに関するわれわれの意見は、これまで公表してきたとおりである。その詳細と関連するデータについては、次のURLを参照されたい。
http://www.rieti.go.jp/it/dempa/
今回の報告書の根本的な問題点は、何のために電波利用料を徴収するのかという理念が明確でないことである。「電波の有効利用」がうたわれているが、現実の料率は無線局単位で課金されるため、逆に有効利用するほど負担が重くなる。この欠陥は、われわれが従来から指摘してきたところであり、報告書でも「逆インセンティヴだという意見がある」ことには言及しているが、結局は「制度の定着を図る」という理由で、現行の制度の手直しにとどまっている。
電波利用料の用途は、当初は電波障害対策などに限定されていたが、携帯電話の普及によってその収入が巨額になるにしたがって、テレビの「アナアナ変換」に使われるなど、用途がなし崩しに拡大されてきた。今回の報告書では、さらに研究開発や「デジタルデバイド対策」などに拡大されようとしているが、利用料は総務省の財源のために徴収するものではない。
電波は「稀少な資源」ではなく、効率的に利用すれば、ほとんど無制限に利用できる公共財である。特定の周波数を占有するレガシー無線機は、ほんらい公共財として共有できる電波を不当に独占しているので、電波利用料はその機会費用を負担させ、効率的な電波利用に移行するための「追い出し税」とすべきである。したがって料率は占有する帯域×出力に比例して決め、一般財源とすることが望ましい。
問題となっている免許不要局への課金については、そもそも「免許不要局」という概念が形容矛盾である。現在の「無線局」の概念は、無線機ごとに局舎や鉄塔を備え、政府が免許を与えることを前提にしているが、今後あらゆる家電製品に無線機能がつくようになれば、平均的なユーザーが何十もの「無線局」を持つようになるかもしれない。つまり無線デバイスは、情報機器の機能の一つにすぎないのである。
「免許不要局」に課金が行われると、あらゆる情報機器が規制の対象になるおそれがある。これは不要な規制を撤廃するという政府の方針に逆行するものである。むしろ特定の帯域を占有しない無線機については利用料を課さないで、大きな帯域を占有しているレガシー無線機に高い電波利用料をかければ、業務用無線などの無線LANによる代替が進み、周波数の開放が容易になろう。
欧州では周波数のsecondary marketの活用が検討され、米国ではFCCが免許不要帯への大幅な割り当て増を行うなど、「命令と統制」による電波割り当ては先進国では否定されている。この時期に、日本だけが命令と統制にもとづいた電波法改正を行うことは、こうした流れに逆行し、国際的に孤立する原因となる。他方、電波利用料はうまく活用すれば、公共の電波を「汚染」しているレガシー無線機を駆逐する武器ともなる。改正を急がず、電波利用の現状についての情報をわかりやすく公開した上で、あらためて国民的な議論をつくすべきである。
今回の最終報告書(案)は、基本的にはこれまでの電波有効利用政策研究会の方針を踏襲したものであり、それに関するわれわれの意見は、これまで公表してきたとおりである。その詳細と関連するデータについては、次のURLを参照されたい。
http://www.rieti.go.jp/it/dempa/
今回の報告書の根本的な問題点は、何のために電波利用料を徴収するのかという理念が明確でないことである。「電波の有効利用」がうたわれているが、現実の料率は無線局単位で課金されるため、逆に有効利用するほど負担が重くなる。この欠陥は、われわれが従来から指摘してきたところであり、報告書でも「逆インセンティヴだという意見がある」ことには言及しているが、結局は「制度の定着を図る」という理由で、現行の制度の手直しにとどまっている。
電波利用料の用途は、当初は電波障害対策などに限定されていたが、携帯電話の普及によってその収入が巨額になるにしたがって、テレビの「アナアナ変換」に使われるなど、用途がなし崩しに拡大されてきた。今回の報告書では、さらに研究開発や「デジタルデバイド対策」などに拡大されようとしているが、利用料は総務省の財源のために徴収するものではない。
電波は「稀少な資源」ではなく、効率的に利用すれば、ほとんど無制限に利用できる公共財である。特定の周波数を占有するレガシー無線機は、ほんらい公共財として共有できる電波を不当に独占しているので、電波利用料はその機会費用を負担させ、効率的な電波利用に移行するための「追い出し税」とすべきである。したがって料率は占有する帯域×出力に比例して決め、一般財源とすることが望ましい。
問題となっている免許不要局への課金については、そもそも「免許不要局」という概念が形容矛盾である。現在の「無線局」の概念は、無線機ごとに局舎や鉄塔を備え、政府が免許を与えることを前提にしているが、今後あらゆる家電製品に無線機能がつくようになれば、平均的なユーザーが何十もの「無線局」を持つようになるかもしれない。つまり無線デバイスは、情報機器の機能の一つにすぎないのである。
「免許不要局」に課金が行われると、あらゆる情報機器が規制の対象になるおそれがある。これは不要な規制を撤廃するという政府の方針に逆行するものである。むしろ特定の帯域を占有しない無線機については利用料を課さないで、大きな帯域を占有しているレガシー無線機に高い電波利用料をかければ、業務用無線などの無線LANによる代替が進み、周波数の開放が容易になろう。
欧州では周波数のsecondary marketの活用が検討され、米国ではFCCが免許不要帯への大幅な割り当て増を行うなど、「命令と統制」による電波割り当ては先進国では否定されている。この時期に、日本だけが命令と統制にもとづいた電波法改正を行うことは、こうした流れに逆行し、国際的に孤立する原因となる。他方、電波利用料はうまく活用すれば、公共の電波を「汚染」しているレガシー無線機を駆逐する武器ともなる。改正を急がず、電波利用の現状についての情報をわかりやすく公開した上で、あらためて国民的な議論をつくすべきである。
けさの日経新聞に関口和一さんの書評が出ている。
内容は、つとめて中立に書いてあるが、日経新聞でレッシグの本が「この1冊」に選ばれた意味は小さくない(日経は書評委員ではなく編集部が本を選ぶ)。日経の「プロパテント」についての攻撃的な方針は徹底しているからだ。「知財強化」以外の記事を載せないばかりでなく、私の友人はナプスター問題について「経済教室」に執筆を依頼され、P2Pに理解を示したら、原稿を没にされた。
先日も、日経の記者が来て「個人的には当社の方針は異常だと思っているのだが、私が言っても上司にきらわれるだけなので、外部の人に原稿を書いてもらいたい」というので、私が経済教室の事件を説明したら、唖然としていた。
「社論」があるというのは悪くないし、メディアが中立である必要もない。しかし再販や電波の問題のように、どの新聞にも「翼賛記事」しか出ないのは「談合」である。今年、大騒ぎになった「レコード輸入権」について、法案が出た去年、新聞がおとなしかったのも、再販にからむからだ。
しかし、私のコラムをきっかけにして、blogで(遅まきながら)これが話題になり、最後は国会で付帯決議が出るところまできた。日本でも、大手メディアの情報独占をblogが打破できればよいのだが。
内容は、つとめて中立に書いてあるが、日経新聞でレッシグの本が「この1冊」に選ばれた意味は小さくない(日経は書評委員ではなく編集部が本を選ぶ)。日経の「プロパテント」についての攻撃的な方針は徹底しているからだ。「知財強化」以外の記事を載せないばかりでなく、私の友人はナプスター問題について「経済教室」に執筆を依頼され、P2Pに理解を示したら、原稿を没にされた。
先日も、日経の記者が来て「個人的には当社の方針は異常だと思っているのだが、私が言っても上司にきらわれるだけなので、外部の人に原稿を書いてもらいたい」というので、私が経済教室の事件を説明したら、唖然としていた。
「社論」があるというのは悪くないし、メディアが中立である必要もない。しかし再販や電波の問題のように、どの新聞にも「翼賛記事」しか出ないのは「談合」である。今年、大騒ぎになった「レコード輸入権」について、法案が出た去年、新聞がおとなしかったのも、再販にからむからだ。
しかし、私のコラムをきっかけにして、blogで(遅まきながら)これが話題になり、最後は国会で付帯決議が出るところまできた。日本でも、大手メディアの情報独占をblogが打破できればよいのだが。
話題のマイケル・ムーア(本人はモーアと発音している)の映画を見た。
事前に情報が出回りすぎていたせいで、あまり意外性はなかったが、よくも悪くもwell-madeなドキュメンタリーという印象である。少し手を加えれば、NHKスペシャルにでもなるぐらいだ。手法も普通で、カンヌでグランプリをとるような芸術性はない。あれはやっぱり反米感情のおかげだろう。
ストーリーは単純で、前半はブッシュ政権とサウジの王族の関係や石油利権が今度の戦争の背景にあるという観点から、過去のニュース映像をつなげたもの。いくつか新事実の発掘はあるが、驚くような話ではない。どちらかといえば、古典的な「帝国主義」批判の変種だ。最後にオーウェルの「支配」「被支配」という話が引用されるのも鼻白む。
後半は、兵士個人の悲劇が中心で、息子を戦場で失ったおばさんの話が劇的に演出されている。これは息子が死んでから取材したものだろうが、愛国者のおばさんが現実に目覚めるというストーリーに仕立てているところはうまい。
議員への突撃インタビューなどは余計で、もっとワシントンの深層に迫ってほしかった。個人的に興味あるのは、ブッシュよりもチェイニーやラムズフェルドなどの狂信的な攻撃性の背景には何があるのかということだ。それが単なる石油利権ではつまらない。でも、一見の価値はある。
事前に情報が出回りすぎていたせいで、あまり意外性はなかったが、よくも悪くもwell-madeなドキュメンタリーという印象である。少し手を加えれば、NHKスペシャルにでもなるぐらいだ。手法も普通で、カンヌでグランプリをとるような芸術性はない。あれはやっぱり反米感情のおかげだろう。
ストーリーは単純で、前半はブッシュ政権とサウジの王族の関係や石油利権が今度の戦争の背景にあるという観点から、過去のニュース映像をつなげたもの。いくつか新事実の発掘はあるが、驚くような話ではない。どちらかといえば、古典的な「帝国主義」批判の変種だ。最後にオーウェルの「支配」「被支配」という話が引用されるのも鼻白む。
後半は、兵士個人の悲劇が中心で、息子を戦場で失ったおばさんの話が劇的に演出されている。これは息子が死んでから取材したものだろうが、愛国者のおばさんが現実に目覚めるというストーリーに仕立てているところはうまい。
議員への突撃インタビューなどは余計で、もっとワシントンの深層に迫ってほしかった。個人的に興味あるのは、ブッシュよりもチェイニーやラムズフェルドなどの狂信的な攻撃性の背景には何があるのかということだ。それが単なる石油利権ではつまらない。でも、一見の価値はある。
0.9.3が出た。
これまで一部の表示に不具合があったが、ほぼ解消されたようだ。デザインがちょっと野暮ったいが、本家のMozillaよりも軽く小さいので、私のようにメモリの窮屈な環境ではありがたい。特にタブは非常に便利で、もうIEを使う気にはならない。
これまで一部の表示に不具合があったが、ほぼ解消されたようだ。デザインがちょっと野暮ったいが、本家のMozillaよりも軽く小さいので、私のようにメモリの窮屈な環境ではありがたい。特にタブは非常に便利で、もうIEを使う気にはならない。
最近、テレビをほとんど見なくなった。最大の原因は、画面に出てくる字幕がうるさいことだ。特に民放では画面の下半分を占めるようなデカ文字になり、とても見るに耐えない。これはザッピング対策で、一瞬でも画面を見た人を引きとめようということらしいが、同じことを各局ともやったら、その効果は帳消しだ。
世界的にみても、こんなにうるさい字幕を出している国はない。BBCなどは、ニュースの見出しも出ないのでわかりにくいぐらいだ。CNNは画面に株価などが出たりするが、日本のように内容をそのままなぞる字幕というのは他に例をみない。視聴者が、バカにされていることに気づかないのだろうか。
私が番組を制作していたころは、「字幕は絵を殺すのでなるべく入れるな」と教わったものだ。日本人でもなまりの強いインタビューなどで字幕を入れると、「出演者をバカにしている」と抗議が来たりした。それが最近は、NHKも入れるようになった。これは聴覚障害者対策という意味もあるようだが、そういうのは文字多重という機能があるのだから、そっちでやってほしいものだ。
音楽番組でも、歌詞がいちいち画面に出ると、音楽は台なしだ。この走りは15年ぐらい前の紅白歌合戦で、障害者団体の要求によるものだった。紅白は生放送なので、テロップ専門の担当者がついて数ヶ月も練習をくり返し、とても緊張するという。不幸にして最初にテロップ担当になったのが私の同期で、「そもそも耳の聞こえない人が歌番組なんか見てどうするんだ」と嘆いていた。彼は私の親友だったが、先日の着服事件で部長を解任された。
世界的にみても、こんなにうるさい字幕を出している国はない。BBCなどは、ニュースの見出しも出ないのでわかりにくいぐらいだ。CNNは画面に株価などが出たりするが、日本のように内容をそのままなぞる字幕というのは他に例をみない。視聴者が、バカにされていることに気づかないのだろうか。
私が番組を制作していたころは、「字幕は絵を殺すのでなるべく入れるな」と教わったものだ。日本人でもなまりの強いインタビューなどで字幕を入れると、「出演者をバカにしている」と抗議が来たりした。それが最近は、NHKも入れるようになった。これは聴覚障害者対策という意味もあるようだが、そういうのは文字多重という機能があるのだから、そっちでやってほしいものだ。
音楽番組でも、歌詞がいちいち画面に出ると、音楽は台なしだ。この走りは15年ぐらい前の紅白歌合戦で、障害者団体の要求によるものだった。紅白は生放送なので、テロップ専門の担当者がついて数ヶ月も練習をくり返し、とても緊張するという。不幸にして最初にテロップ担当になったのが私の同期で、「そもそも耳の聞こえない人が歌番組なんか見てどうするんだ」と嘆いていた。彼は私の親友だったが、先日の着服事件で部長を解任された。
レッシグの新著の訳本が出たようだ。それにしても、邦題が"Free Culture"ってどういうことかね。この訳者は、なるべくカタカナやアルファベットを減らすという翻訳の最低限のマナーも知らないようだ。
訳本は見ていないが、原著を読んだ印象では、これまでのレッシグの議論のくり返しで、目新しい話はない。彼も認めるように、この本の論理の骨格は、リチャード・ストールマンが20年前から主張してきたことである。まあレッシグも「プロパガンダだ」といっていたから、これは政治的なパンフレットと割り切っているのだろう。
現在の著作権保護が過剰だというのは、学問的にはコンセンサスだが、問題はそれに代わる制度があるのかということだ。私との往復書簡でも説明しているように、レッシグはEFFやバークマン・センターの提唱している「コピー税」のようなしくみを考えているようだが、これは疑問である。彼の師匠のリチャード・ポズナーも「情報の国家管理につながる」として否定している。
政策で解決が困難な問題には、次の3種類がある。
1.答も、それを実現する政策もわかっているが、政治的に困難である。
2.答はわかっているが、それを実現する最善の政策がわからない。
3.答がわからない。
大部分の経済政策は1だが、マクロ経済政策で延々と論争が続いている「インフレ目標」などは2だろう。しかし「知的財産権」をめぐる問題は3であり、そもそも一義的な答が存在するかどうかもわからない。社会科学でもっともむずかしい問題の一つといってよい。
こういう問題に取り組むとき大事なのは、答がわかっているような振りをしないことだ。政府の「知的財産戦略推進計画」のように、米国がプロパテント政策で国際競争力を高めたなどという誤った前提をもとにして政策を立案するのは論外だが、Free Cultureがすべてを解決するというのも幻想だ(この点でレッシグは、ストールマンほどドグマティックではない)。わからないことをわからないと認めるのが、正しい政策論議の出発点である。
訳本は見ていないが、原著を読んだ印象では、これまでのレッシグの議論のくり返しで、目新しい話はない。彼も認めるように、この本の論理の骨格は、リチャード・ストールマンが20年前から主張してきたことである。まあレッシグも「プロパガンダだ」といっていたから、これは政治的なパンフレットと割り切っているのだろう。
現在の著作権保護が過剰だというのは、学問的にはコンセンサスだが、問題はそれに代わる制度があるのかということだ。私との往復書簡でも説明しているように、レッシグはEFFやバークマン・センターの提唱している「コピー税」のようなしくみを考えているようだが、これは疑問である。彼の師匠のリチャード・ポズナーも「情報の国家管理につながる」として否定している。
政策で解決が困難な問題には、次の3種類がある。
1.答も、それを実現する政策もわかっているが、政治的に困難である。
2.答はわかっているが、それを実現する最善の政策がわからない。
3.答がわからない。
大部分の経済政策は1だが、マクロ経済政策で延々と論争が続いている「インフレ目標」などは2だろう。しかし「知的財産権」をめぐる問題は3であり、そもそも一義的な答が存在するかどうかもわからない。社会科学でもっともむずかしい問題の一つといってよい。
こういう問題に取り組むとき大事なのは、答がわかっているような振りをしないことだ。政府の「知的財産戦略推進計画」のように、米国がプロパテント政策で国際競争力を高めたなどという誤った前提をもとにして政策を立案するのは論外だが、Free Cultureがすべてを解決するというのも幻想だ(この点でレッシグは、ストールマンほどドグマティックではない)。わからないことをわからないと認めるのが、正しい政策論議の出発点である。
いまや小泉内閣の1枚看板となった竹中氏だが、昔、仕事で何度かつきあった記憶でいうと「普通の経済学者」という感じである。特に独創的な学問的業績を上げたわけでもないが、そう間違ったこともいわない。彼の経済・金融政策も、実施段階の問題は別として、基本的には経済学の常識に沿ったものだ。
しかし、彼が森内閣のIT担当相だったときの政策はひどかった。最悪だったのは「IT商品券」である。個別補助ではなくバウチャーでやるというところはよいのだが、その目的が「IT講習」というのがわけがわからない。おかげで、バウチャーのイメージが悪くなってしまった。
さらに大きな悪影響を与えたのが「NTT分割論」だ。2000年の接続料交渉で、NTTは料金引き下げの代償として経営形態の見直しを求め、総務省は情報通信審議会の「IT部会」を作った。これはNTTを再々編して東西会社の規制を緩和しようというねらいだったが、その矢先に竹中氏が逆に「NTT完全分割」をぶち上げ、日経新聞などがそれに乗って騒いだため、NTTの宮津社長(当時)が「再々編の話は忘れてほしい」と腰砕けになり、経営形態論議が迷走する原因になった。
この後遺症は大きく、そのとき政府との調整で苦労した現在の和田社長は、いまだに「経営形態論議はしない」と強調している。しかし、市内と長距離を分断し、県間営業に政府の認可が必要という電話時代の経営形態のまま、光ファイバーの開放義務だけを論議しても意味がない。ITバブルをあおって恥をかいた中谷巌氏とともに、IT業界では「よろず評論家」の素人談義が危険だという見本である。
しかし、彼が森内閣のIT担当相だったときの政策はひどかった。最悪だったのは「IT商品券」である。個別補助ではなくバウチャーでやるというところはよいのだが、その目的が「IT講習」というのがわけがわからない。おかげで、バウチャーのイメージが悪くなってしまった。
さらに大きな悪影響を与えたのが「NTT分割論」だ。2000年の接続料交渉で、NTTは料金引き下げの代償として経営形態の見直しを求め、総務省は情報通信審議会の「IT部会」を作った。これはNTTを再々編して東西会社の規制を緩和しようというねらいだったが、その矢先に竹中氏が逆に「NTT完全分割」をぶち上げ、日経新聞などがそれに乗って騒いだため、NTTの宮津社長(当時)が「再々編の話は忘れてほしい」と腰砕けになり、経営形態論議が迷走する原因になった。
この後遺症は大きく、そのとき政府との調整で苦労した現在の和田社長は、いまだに「経営形態論議はしない」と強調している。しかし、市内と長距離を分断し、県間営業に政府の認可が必要という電話時代の経営形態のまま、光ファイバーの開放義務だけを論議しても意味がない。ITバブルをあおって恥をかいた中谷巌氏とともに、IT業界では「よろず評論家」の素人談義が危険だという見本である。
最近、日本のブロードバンドが世界的にも注目されているようだ。David Isenbergのblogでも私の論文が取り上げられているし、来週の『エコノミスト』誌のブロードバンド特集には、私の記事が2本も出る。
しかしソフトバンクの「たたき売り商法」が、最終的に収益に結びつくかどうかは疑わしい。「インフラでもうける気はない」というが、IP電話は普及すればするほど無料に近づくし、ケーブルテレビは地上波放送が配信できない。携帯電話も、2GHz帯の数MHzでTD-CDMAをやっても、ビジネスとしてはむずかしい。最大の壁は、電波利権と、それにからんだコンテンツの著作権である。
孫正義氏には、シンポジウムで3日前にドタキャンされた経験がある。そういうことは日常茶飯事だそうだ。要するに、気分で相場を張る山師なのだ。それが悪いというのではない。ベンチャー経営者なんて、みんな山師である。ギャンブルに勝てば英雄、負ければ笑いものだ。そのどっちになるかは、彼が日本の最後のタブー、電波利権を打破できるかどうかで決まる。
しかしソフトバンクの「たたき売り商法」が、最終的に収益に結びつくかどうかは疑わしい。「インフラでもうける気はない」というが、IP電話は普及すればするほど無料に近づくし、ケーブルテレビは地上波放送が配信できない。携帯電話も、2GHz帯の数MHzでTD-CDMAをやっても、ビジネスとしてはむずかしい。最大の壁は、電波利権と、それにからんだコンテンツの著作権である。
孫正義氏には、シンポジウムで3日前にドタキャンされた経験がある。そういうことは日常茶飯事だそうだ。要するに、気分で相場を張る山師なのだ。それが悪いというのではない。ベンチャー経営者なんて、みんな山師である。ギャンブルに勝てば英雄、負ければ笑いものだ。そのどっちになるかは、彼が日本の最後のタブー、電波利権を打破できるかどうかで決まる。
私もblogを始めることにした。今まで私の発言の場だった経済産業研究所のITメーリングリストが風前の灯なので、その代わりの媒体として使ってみる。まだテストなので、そう頻繁に更新するつもりはない。