人間的な愛を会得することの難しさ
夫は愛といえば、たちまちにして母の温もりに包まれている幼い自分に戻るそうだ。わたしは愛といえばすぐに教会の天井を見上げて神を探そうとしてしまう気持ちに戻る。
夫が、子どもにとって必要なエネルギーは無償の母の愛といえば、わたしにとって、子どもに必要なエネルギーは見えないけれど常にあり続ける愛だと思っていた。
夫はぬくもりをすぐに思い出すけれど、わたしはぬくもりを超えた厳しさの中の光を想像する。
だから互いに愛という1つのキーワードを用いても、あまりに違いすぎる観念を知り、時々話すことさえ無駄なことでは無いかと感じてしまう。彼はすぐにわたしを性的にHugしようとするが、わたしはその前に人間的なぬくもりを超えた霊的な会話を求めてしまう。
だから夫は
「修道院にでも行けよ」
と過去に何度も怒った。
夫とわたしは究極的に会話がズレている。どこから人生が起こったかにより、キーワードに対する認識が変わってしまう。わたしも努力し夫も努力している。お互い人間としては、相手に不利益をもたらす人間ではないので、即離婚という風には至れない。
でも明らかに何か、色んな点でズレている。
わたしは頭の中に愛という概念をつくっていて、それは論理的な愛。でも夫は体感する事に愛を感じるタイプの人だ。わたしは愛とぬくもりはとくにリンクしていない。寒い時は愛によらないぬくもりで間に合わせるタイプの人。愛がなくてもぬくもりは無尽蔵にあると感じている。
わたしは生きた人間をそこまで必要とせずにいたけれど、夫は生きた人間の生身のぬくもりを必要とする。
生きた人間を定めない世界が通常だったから、夫が求める愛というものがなかなか理解できない。わたしにとっても愛という言葉は特別な意味があるけれど、夫のそれとは愛の形が違うらしい。母に対する男の子の強い思い、強い信仰のようなものがあるようで、彼を見ていると・・・彼じゃなく何故か自分の方が異星人のような気分になってしまう。
雑文でした。
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