無愛着な気分「この人である必要はない」「わたしである必要はない」
結婚してから要求されている固定的で個人的な関わりは、一般家庭で過ごしてきた夫にとっては当たり前なのだと、事あるごとに自分へ納得させなくてはいけない。
時々足元を確かめるのだ、今現在自分はどういう社会で生きているのかを・・・。*1
「この人である必要は無い」「わたしである必要はない」「この場所である必要はない」という感じ方は施設時代における集団の中の流動的な人間関係が染み付いている為だと思う。いつも固定的な人間関係をオカシイと感じやすい。固定的で個人的な関わりはとても後ろめたい事だし、とても言い訳がましくなる。
又施設では「この人と共にいたい」と考え行動する事は児童の問題行動とみなされ、職員会議の議題に上り、厳重注意を受ける事へ繋がる。だから個人的で固定的な交流をする事をそもそも考えない。
でもこの社会における一般家庭は、児童養護施設の集団的・大舎制的な、常に人の変動があり続ける居住空間とはあきらかに違う個人的で固定的な人間関係こそ必要な観念だし、そうでない事の問題の方が大きい。
わたしが育った施設は最長でも1年単位で人は入れ替わり、部屋も担当も部屋の子も全て総入れ替えし続ける場所。途中入所の子と違い、物心ついたらすでに施設で過ごしている子は違和感も持たずに生活している、問題に気付かず卒園まで延々とメンバーの替わり続ける生活をしつづける。
わたしにとっては家庭生活そのものが適応するのに難しく感じられる。
それに対して「分かっていて結婚したんじゃないの?」と夫から何度も言われる。
たしかに「分かっていたつもりだった」けれど。
家庭生活未体験なんて事が、生活全てにおいて影響しているとは知らなかったから、今思えば、『結婚して欲しい』と彼から言われた時、どんな問題も浮かばなかった。確かに家庭生活を一度も体験したことがないという事をもっと問題視すべきだったのだ。
ただ、それを今頃言ったら詐欺だろうか。
1人で生きている事に気づかずに育つのが施設全部育ちの問題。皮肉な事にその現実に気づかされるのは結婚する事により固定された対象者が現れた時。その機会を持てた事が施設全部育ちにとっていい事か悪い事か分からない。
子ども時代に何処かの家庭の里子になっていれば、家庭を知らない事についてはその段階で気づけると思う。いい年した大人の女が「家庭知りません」と言っても社会的に通じないらしい。社会的に通じない話を書いている事を自覚しながら、これからも粛々と書いていこうと思う。
わたしである必要はないと思うが、今、わたしはここにいる。
今現段階での落としどころというところ。永遠を確約できないけれど今、とりあえず、いる。
*1 途中入所者や家庭を基本的に知っている人たちの書くブログの内容、問題視している部分が、同じ施設育ち同士で括れないのは、抱えている問題がそもそも違う事による。だから色んな施設育ちのブログを読む時、施設にどういう形で入所しているのか、入所期間などをほぼ捉えてから読む事をお勧めします。
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