捨てられた者は大人になって探しに行くべきか
乳児院から施設へ行った子と話していて驚いた事がある。それは彼女には親戚がいて、引き取って育ててもらう事はなかったけれど、冠婚葬祭や何かあった時に連絡が入るそうで、それを煩わしそうにしている事だった。
わたしの頭では乳児院から来た子は特に、両親はもちろん親戚も誰もいないから施設へ入っているのであって、大人になってから連絡しあうとは驚きだった。もちろん育ててくれる親戚がいないから彼女も施設にいたのだけれど、わたしには親戚がいる事だけですでに驚きだった。
親戚というものが良いのか悪いのか以前に、わたしには精神病だった血縁母ただ1人しか生存確認できなかった。(愛着関係はない)その血縁母も影がなく、わたしは、親戚縁者誰もいなかった事をごく普通の事と思っていた。
そしてその子の話を聞いているうちに、自分は「付き合いを面倒と思う親戚もない事」が、さらに施設後の生活を家庭を知らないままにしている事に気づいた。
その子は乳児院から施設へ入ったものの、親戚がいたので「家」というものがどういうものかを、知っていた。施設を出た後、何度か行き来しているうちに覚えたそうだ。
全く家というものを体験した事がないままの自分とは、それは大きな違いだった。
施設は施設。家庭生活を教える場所ではないと書いてきたけれど、誰か1人でも関係性を持とうとする親戚縁者がいれば違うかもしれない。
福祉事務所が親の扶養の件で初めて無理に引き合わすのではなく、施設という長い入所期間に誰か探す事はできないのか、また、誰もいないのなら、里親などへの道が開かれないのかと思った。施設でドロップアウトしていくのは、誰もいない事がその主な原因。
その事を他の施設育ちの方から驚かれている現実も、少し情けない。
誰もいない気分なのじゃなく、誰もいない現実なのを、超えていかなきゃいけない。自分から家出したわけでも縁を切ったわけでもない、それなのに親戚を自分から探しに行かない事を姑などから責められた事もあった。
しかし、姑などは「当然探しにいくべき」と憤慨しているが、出て来られては困る生まれ方をしている子の事を忘れて生きている親戚縁者の前に出ていけるわけもない。という事に思い至れない。
「そんなはずはない、他人じゃないのだから探しに行きなさい、自分の生まれた家の祖先の墓へお参りに行くべき。行かないから施設へ入ったのよ」とだんだん訳が分らなくなってきた。
彼女は某占い師の細○数子の長い間の読者なので、家へ不義理をする者がゆるせないようだ。そもそも捨てらて施設へ入れられていた者が、親戚縁者を探さない罪に問われてていいのか不明だ。
追記
冒頭の女の子、彼女は過去の記事でも取り上げた事がある、保母への後追いが止まらなかった子だ。実は親戚がいるという話を聞いたとき、何か彼女には愛着の新芽のようなものが育ちかけていたのかもしれないと思った。
世界中から捨てられたわけではない子は、誰かを追える。
わたしは彼女が乳児院から施設へ措置されている事で、誰もいない者同士という括りで、語り合えると思っていた。だから彼女に親戚がいたという話は、ある種、どこか、遠く立場を引き離されたように思え、複雑な心境になった。
そんな彼女だからこそ、保母を後追いできたのかもしれないと思った。誰もいない者同士でけん制しあう心の癖をわたしも捨てなくちゃいけない。彼女に誰かがいた事、本当に良かったと思う、少なくとも天涯孤独ではない生き方を考えられるから・・・。
#親戚についても質よりもとりあえず親戚が存在しているという観点から書いてます。機能不全家庭との流れで嫌な思いをされている方がおられましたら、表現が足りずすみません。
| └ コラム | 02時36分 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

全てから断ち切られて生きること
親の無責任さの為、一族郎党との接点も持てない。結婚する時に、自分ひとりしかいないような思いを他の、全てから捨てられた子には味わってほしくない。親から捨てられたというのは実はピンとこない。世界中から捨てられ続けているような気分になりやすい。
誰に見せるでもない成人式や、結婚式に気持ちが向わなかった。どうでもよかった。夫のやる気に比べて冷血すぎると批判されたけれど・・・。
| レイ | 2007/05/25 09:14 | URL | ≫ EDIT