年末・年始の聖なる夜 ―西欧と日本の年末・年始の行事の比較的研究― (Oh, Night Divine ― A Comparison between Japanese and European New Year Customs ―)

Emilia GADELEVA(エミリア ガデレワ) 国際日本文化研究センター

はじめに

 世界の多くの家々で大事に祭られるクリスマスという行事における象徴がどのような意味を持つかといえば、それをキリスト教的な説明だけで十分に理解することは不可能だと思います。これらの象徴について考えていくうちに、私は日本のお正月行事との類似性に気がつきました。そこでキリスト教以前の伝統に根をおろすヨーロッパの年末行事と日本のお正月の比較研究をしたいという気持ちが生まれました。そのきっかけとなったのは次のことです。
  何年か前に、本物のクリスマスツリーが日本にないことを寂しく思い、この時期に本物のモミや松の木を何本も売っているヨーロッパのことを思い出したのです。そして、やっとクリスマスが終わり、お正月のものが店にならべられたところ、クリスマスツリーにふさわしい松の枝が花屋さんにいっぱい現われたのです。それは門松飾るための枝でした。門松とクリスマスツリーが似ているのだなと、そのとき初めて感じました。その後、この季節の日本とヨーロッパの様子を比較して、考えていくうちに、その類似性に気付き驚きました。
  西洋のお正月といえば、日本人がまず思い浮かべるのはクリスマスです。その説明のほとんど(学術的なものも含めて)が、そのときにイエス・キリストの誕生を祝うといいます。「クリスマス」という言葉自体は、キリストをたたえるミサを意味します。しかし実は、この日がイエスの誕生祝いに選ばれたのは、ヨーロッパの各地で行われていた、キリスト教の立場からはいわゆる未開(pagan)の、キリスト教以前の祭りを止めさせられないので、そこにキリスト教的な意味を与えるためでした。祭りの様々な要素にキリスト教的な解釈がなされましたが、どうしてツリーなどで家を飾り、七面鳥または豚の丸焼きを食べ、サンタクロースからおくりものをもらうということの意味があいまいになったのでしょうか。他方、日本のお正月といえば、おせち料理、門松や鏡餅、お年玉が思い浮かびます。
  これらの行事は現在、様々な面で変容され、かなり商業化されていることは研究者がよく指摘する通りですが、その伝統はいうまでもなく太古にさかのぼるものです。日本の神々の本質を探って見ている私は、日本とヨーロッパの古代のお正月行事を比較研究することがその参考にならないのかと考えました。
  そこで、今回は、現在私たちが楽しく祝うこれらの行事の古い内容を探って、その意味を考察してみたいのです。その比較の前提になっているものは、日本の側からは、もちろん柳田国男の年中行事の研究と山中裕氏の『平安の年中行事』などであり、ヨーロッパの神話についてはエリス・デービッドソンなどの研究です。

1.年始の時期をめぐる観念

 年中行事というのは、太陽と月の運行により季節が変わるということを基盤におくものです。カレンダーが用いられる以前には、祭りは太陽、月や他の遊星の動きの観察をもとにして、また農業、漁業や狩猟などに大事なときや季節の変わり目の時期に行われたのでしょう。太陽の動きに従えば、一年のポイントは冬至の最も長い夜であり、月の満ち欠けのサイクルでは、一月十五日あたりの新月がこのようなポイントになります。これらのポイントはそれぞれ太陽暦と太陰暦の年末・年始の祭日を決めるものとなりました。これは、山中裕氏のことばを借りれば、いわゆる「民間暦」(1)を築造したのです。これに対して、国家が確立すると同時に、全国に共通するいわゆる「公暦」が定められたのです。
  日本の年中行事に大陸風の年月の数えかたが多少なりとも影響を与えたのはかなり太古にさかのぼるでしょうが、日本に中国から暦が伝えられたのは、推古天皇のときのことであるといわれています。統一した暦を用い始めると、「天皇を中心とする中央集権国家が確立しはじめ」たし、「年中行事も宮廷行事として完成」(2)しはじめたと山中氏が指摘します。しかし、今回、私の研究対象となるものは、宮廷行事よりもその一面となった民間行事であり、これに注目したいのです。明治維新の後(明治六年、一八七三年)から日本では太陽暦が採用されるようになりましたが、柳田国男が指摘したように、「日本の正月行事も盆行事も、あるいは新暦でおこない、あるいは旧暦でおこない、あるいはまた暦法だけは新暦によるが、行事の期日はなるべく旧暦に近づけようとする一月送りでおこなうものもあり、現状はまちまちに乱れてしまつた」(3)のです。
  ヨーロッパでは、ローマ時代の古いカレンダーはやはり太陰暦であり、一つは十カ月の太陰年をもとにして紀元前八世紀から使用されたといわれていました。そのもう一つ、ローマ共和主義(Romanrepublican)カレンダーはローマの五代目の大王タルクイニウス・プリスクス(TarquiniusPriscus)の時代(紀元前六一六―五七九)に完成され、一年を十二カ月三五五日としたのです。そして、ユリウス・カエサル(JuliusCaesar)の命令で紀元前一世紀(四六BC)に完成されたユリウス暦は、太陰暦のかわりに太陽暦にもとづき十六世紀まで採用されたものです。このカレンダーをさらに改正して、一五八二年に現在まで全ヨーロッパで採用されているいわゆるグレゴリオ暦が作られたのです。このカレンダーは、一月一日を年の始めとして固定した新暦として知られており、それに対してユリウス暦は旧暦となったのです。両者は十二日間の違いがあり、例えば後者ではクリスマスは一月六日にあたるのに対して、前者によればそれは冬至のすぐ後の十二月二五日にあたるのです。ということは、ヨーロッパにも旧暦と新暦というものがあり、行事の日付けがときに乱れる原因となります。
  年中行事の祭儀において、人々の生活に大事な事柄が象徴的に表されることは遠い過去の時代からです。現在私たちは、これらの象徴に新しい意味を込めたり、内容を変容させたりしますが、本来の意味を知ることができれば、行事の意味も、伝統を守るためだけにやり続けるよりも、もっと明らかになり、心に親しいものになるのではないかと考えられます。以下に、年末・年始の行事における象徴を考察したいと思います。
 柳田国男は、日本人が「正月の満月の夜を一年のはじまりとし、その機会に年始めの行事をしていた。それが後に大陸から輸入された暦制の影響によつて、正月元旦を一年のはじまりとする風が、京都を中心として次第に諸地方へ普及していつた」と考え、「そして朔旦正月を大正月、望の正月を小正月、または大年小年と呼び分けることになり、正月は年に二度あるものと考えられるようにさえなつた」(4)と指摘します。しかし、私は、日本人が月の動きを読みながら、同時に太陽の運行も気にしたのではないかと思います。そのため、年末・年始の行事は、冬至辺りから始まり、正月の満月の夜にピークを迎え、二月の始めに終わったのです。年送り・新年迎えの行事は一日の祭りというよりも、何日かにわたる、時には一ヵ月ほどの長い行事として祝ったのです。柳田国男によれば、門松の古い形は、家を松などの常緑樹の枝で飾り、中心に松の一本を飾るということで、そのいわゆる「松迎え」は十二月十三日に行ったのです。これについては後で詳しく述べますが、ここではとりあえず「こよみ」という語の意味、すなわち「日(カ)読み」を思い起こしてみても、様々な行事は陰暦のみならず日、太陽の動きを読み取ることに由来することを確認しておきたいと思います。
  ヨーロッパでは、月の運行にもとづく暦を採用した古代ローマ人に対して、北西欧の諸民族は太陽の動きを大事にしていました。エリス・デービッドソンによれば、ケルト人にとっては、一年は冬と夏の二期に分けられており、新年が一月一日のSamainという行事で始まり、それは同時に冬の始まりとして考えられたのです。Samain という語自体は「夏の終わり」を意味するといいます。そのときには、冬の寒さにたえられない家畜が殺され、冬中の食料として保存されました。また、季節の変わり目の時期に、死者の世界の戸は開いており、死者が人々の世界をおとずれると考えられたのです(5)。
  他方、日本では、柳田国男が指摘したように、「一日の境も、古くは夜の始まる時刻にあると考えられていた。それだから、今日でいう大晦日の夜の食事が年取りの膳であり、その時に人々はみな、めでたく年を一つ重ねた」(6)のです。興味深いことに、古代ヨーロッパでも日本と同様に、一日は晩から晩まででした。『ガリア戦記Y』においてユリウス・カエサルは、ガリア人にとって夜は朝より先であり、クリスマスがクリスマスイブで始まるのと同じように誕生日や月の始まりなどの祝いを夜に行ったと書いています。
 三五○年にローマの主教ユリウス一世によって初めて十二月二五日はイエスの誕生祭として決められます(7) が、それ以前には、この日の前後の時期はヨーロッパの諸民族の間では年末・年始として祝われていたのです。そのため、このような行事の習わしを受け継いだクリスマスは、日本のお正月行事と比較できるもの、むしろ比較すべき対象であると思います。お互いに影響を与えることもない、遠く離れた地域での行事ですが、驚くほど似ている点があり、人々の考え方の類似性を語っています。他方、形は似ていてもその根拠や意味の異なるところもあり、文化や神々崇拝の違いがどこまで考え方に影響を与えているのかを示しています。

2.神を迎え送る時期、正月とクリスマス

 正月の行事全体の中心が神を迎える宴を行うことにあったという考え方が柳田国男の研究の大きな結論です。「年の神は家の神」において氏は、「正月早々から一家の主人が家を留守にするといふことは有り得ないことである。私たちの家などの慣例は、除夜から元日は公けの勤仕の外は家から出て行かない。さうして夜どほし起きて居るといふ忌籠りはもう無いが、其代りには年越の宵のおせちと、翌朝のいはゆる雑煮を祝ふ時に両度、神棚に燈明を上げ神酒と神饌を供へて、もとは其御前で一同が、はいお目出たうを交換したものであつた。」(8)と述べます。つまり、元日の晩に実家で過ごすことには、「忌み籠り」の意味があります。また、その時に、正月様または年神を迎えることは、この時期の飾りからわかります。神の木(常緑木、榊など)またはある象徴的な物(剣、鏡、玉など)をヨリシロとして降臨すると考えられたのは、日本の神祭の大きな特徴でしょう。そして、お正月の場合にも、松を立てるのはそのためだということが柳田国男の研究からわかります。もともと、お正月祭に用いる様々な木は、年木または新木と総称されます。それが、地方や飾り方や飾る時期によって、松飾り、餅花(小正月に飾る)、祝い棒(図1、2)、占い用の粥杖または粥だめしなどと呼ばれているのです。氏によれば、門松というものは、本来、門の前に進出したものであるよりも、「家の表入口に軒近く立てたものを、特に立派にする場合も有るといふに過ぎない」のです。そのもとの形は、「家によつては一つ■■の小屋の口、井戸にも閑所にも悉く之を飾るが、その中にはおのづから中心があり、殊に念入りな大きな一対を、立てる場所は大よそ定まつて居た」ものです。この松は、本来、年神の降臨する神木の一種でしたが、木の種類は土地によって様々だったのです。例えば、山形県では、楢や、椿や、タラなどが、愛知県三河の山地では、竹や榊、また他の種類の木が用いられています(9)。柳田国男は、次第に松の木が多くなり、それに統一されていったのは、一つの流行にもとづいた現象であったといいます。しかし、私は伝統というものは、時間とともに、統一されたものへ変容されたり、新しい意味を加えられたり、あるいは他の地方の行事の影響によって形がかえられたりしながら続くものだと思います。それはともかく、山から持ってきた松から、「枝振りの好い大松を中心にして、是に白紙の幣を剪り掛け、又はホダレともカイダレともいふ削花を添へる」ものもあり、そこにはよく「意外な物」、ある形の食器がぶら下げられましたが、それらは、「神に供物をさし上げる食器」(10)でした。その風習は、さまざまな名前で呼ばれ、様々な形で関東から中部地方、近畿、四国、九州まで広まっていましたが、「その木に降臨した正月様に、その祭の幾日間かの供え物を献ずる器」(11)だったのです。さらに、「もう少しこの初春の松飾りのことを談るならば、是等の松の木は、農村では今なほ一般に『迎へ申す』と謂つて居る」(12)らしいのですが、この木をいつ立てて、いつ取りおろすのかは、正月様を祭る期間と一致していたというのです。本来はこの「松迎へ」を「正月迎へ」とも呼んでいたが、師走(十二月の別名)の十三日に行ったということについて は先にふれたと思います。
  また、小正月にも木を立てる習わしがあったと、柳田国男は指摘します。一つの興味深い例は、秋田県由利郡笹子村に見られます。「ここでは年の暮ではなくて、正月六日を門松迎えといい、そして門松立てと呼ばれるのは、正月十五日の朝の行事である。名だけは門松といつても、朴(ぼく)の木が主で、それにミズキとタラの木とを二・三本ずつ添えて、一軒で時には三・四十本も立てるという」(13)のです。この例からもわかるように、「門松」という名前が不自然であることは氏が指摘する通りです。
  さらに、柳田国男が、雪の多い東北地方や中部山地では、松の木を家の中に立てて飾っていると述べていることは注目に値する興味深い点です。それは拝み松(図3、4)または祝い松と呼ばれるもので、紙の幣などを付けて、家の中の主柱に飾ったのです(14)。これが何よりもクリスマスツリーに似ていることは、氏も指摘されています。また、クリスマスに対しての氏の正確な理解にも注意しておきたいと思います。「クリスマスはキリストの生誕記念日となつているが、本来は冬至の祭であつた。すなわち一年のうちで日が最も短く、夜が最も永くなる極点、そしてそれより一日一日と太陽の恵みがしげくなる転換点、そのいわば一種の重要な境目における祭であつた」(15)という説明はこの学者が、日本の祭の深い意味だけではなく、外国の祭の本質を深く理解しようとしたことを語っていると思います。さらに、氏が正しく推察したように、クリスマスツリーには、家に神を迎える聖なる木という意味があるのです。しかし、これには他方、宇宙樹の深い意味もあると考えられます。クリスマスツリーの伝統は、よくドイツに由来するといわれます。史料に、飾り付けられたクリスマスツリーが初めて現われるのは一五○九年のルカス・クラーナハ(LucasCranach)(父)の絵においてです。以後、十九世紀まで広く飾られることはありませんので、クリスマスツリーを飾るのはそのときからの伝統であるといわれています。しかし、サミュエル・マセーによれば、それは、ドイツのキリスト教化を完成させたセイント・ボニファス(St.Boniface)が八世紀にオディンという神の神木ナラ、カシの木をイエスをたたえる松、モミに変えたことから始まったのです(16)。というのは、聖なる冬至の夜の直前に飾られるこの木は、何もないところから突然に考え出されたものではないのです。この風習は古い伝統にさかのぼるものなのです。ここで、どうしてクリスマスツリーがキリスト教の行事に取り入れられたのかということを考えようとすると、ヨーロッパ諸民族にとっての樹木、とくに常緑樹の意味を説明しなければなりません。
  ヨーロッパの諸民族の神話においては、宇宙樹とも世界樹(図5)とも呼ばれているものが有名です。古代文献からわかるように、スカンディナビア人の宇宙は土地を丸で表し、その中心に世界樹を置き、土地の周りは海が広がっているという風に描かれています。この世界樹の根元には命の水の泉がわき、その根の下に数多くの生き物が住み、他の生き物はその枝に住むと考えられたのです。北欧の神話における世界樹は、山や森を祭場としていたことに由来するのだろうとエリス・デービッドソンが指摘しているとおりだと思います(17)。また、中央に置かれた木は、幸運(luck)や神々の保護を得るためであり、ゲルマンやスカンディナビアの民族の間に、家のそばに守り木(guardiantree)を植えるという習慣がみられますが、十九世紀のブレーメンのアダム (AdamofBremen)(18)は、犠牲として人間を含めて神々への供え物が選ばれた木の枝からぶら下がっていたと伝えるのです。
  世界樹の下には神々が集い、相談すると信じられていたし、アイルランドではこの中央樹は人間の世界と死者や神々の両他界とを結ぶものと信じていたのです。アイルランドでは、このような聖なる木には毎年りんごやハシバミの実やカシの実がなっているといいます。さらにこの木は常に緑であり、その葉っぱがいつも枝についていると考えられたのです(19)。ここで注目したいのは、北欧の世界樹にもっとも多いのはトネリコ(ash)などの広葉の木ですので、クリスマスに飾るモミまたは松の木とは直接には結びつきません。しかし、八世紀に突然モミや松を考え出したとも思いません。世界樹は常に緑だということが強調されていますし、年末・新年始の大事な冬至の時期に、家々を常緑樹の枝で飾る風習は、このような考えかたと無関係ではないと考えられます。スサン・ドリュリーが指摘するように、真冬(midwinter)の祭りのときに家々を常緑樹の枝で飾ることはかなり古い習わしです。自然の全てが死んでいるように見える時期に栄えるこれらの木々が、生命の力を象徴すると考えられたのです。冬至あたりに行われたサツルナリア(Saturnalia)や一月一日ごろのカレンヅ(Kalends)という古代ローマンの行事、冬至を祭ったスカンディナビアのユール(Yule)祭りや、その時期に行われた他のヨーロッパ民族の行事には、月桂樹(laurel)、マンネンロウ(rosemary)、泰山木(bay)、ツゲ(box)、モミ、松 (fir)、イチイ(yew)が用いられましたが、もっとも広く普及しているのは西洋ヒイラギ(holly)や、ツタ(ivy)や、ヤドリギ(mistletoe)です。これらの木々は、真冬にも緑であるだけではなく、実を稔らせるからでしょう。飾りをいつからいつまで飾っておくかは定められていましたが、その時期は地域によって多少異なります。二五日が過ぎればすぐに取り下ろすこともあれば、旧暦のクリスマス(一月五日)まで置くこともあります。また、人々を保護する力があると考えられたヤドリギを用いるところでは、二月一日まで飾っておくこともあるのです (20)。ところで、ヤドリギの下でのキスはかなり有名ですが、その由来を説く伝説は、やはりイエス・キリストよりも冬至の太陽と関係があります。ラウラ・マルチネズによれば、北欧の太陽神バルデル(Balder)は、自分が死ぬという夢を見ました。彼のお母さんフレイアー(Freya)は、夢が現実にならないように、全ての生き物に息子に害を与えないという約束をさせたが、ヤドリギと約束をかわすのをわすれてしまいました。ある悪神はヤドリギで矢を作り、バルデルを射ったのです。しかし、お母さんの愛情のおかげで彼は死なないで生きかえることができました。そして、しばらくの間姿を消しかけていた太陽は、冬至の後再び輝いてきたのです。フレイアーの涙がヤドリギの実となりました。彼女は、むすこへの愛情の象徴として、ヤドリギの下を通るみながキスするようにしたのです。他方、ヨーロッパのデュルイド族は、家畜を病気から守るために、家畜室の入口の上にヤドリギの枝をかけたり、その枝で占をしたりしました(21)。このように、長い伝統があるこの木に対しての信仰はキリスト教が入ってもすてられなかったので、新たな意味を与えられて、キリスト教に受け入れられたのです。キリスト教の習わしとしてこの木が「光りの中の光り」("thelightoflights")の象徴となり、イエス誕生の表象とされたのです(22)。
  このような伝統を背景にして、クリスマスツリーは聖なる世界樹を象徴するともいえるし、家々を世界、宇宙と結びつけながら、新年に幸運と神の保護を獲得するものであり、その飾りは神々への供え物を象徴するとも考えられます。日本の年木の意味と大そう類似するこの象徴は、年末・年始に家で神または神々を迎えて、新年への祈りをささげたことを語っています。では、この神はどこから訪れる何者として考えられたのでしょうか。これについては、以下に考察することにしましょう。

3.お年玉とクリスマスプレゼント

 サミュエル・マセーが指摘するように、クリスマスにプレゼントを持って来るサンタクロースには、良い子供にはプレゼントを持っていっても、悪い行いをした子供にはプレゼントをあげないとか、彼らをたたくために棒を持っており、または後で食べるように悪い子を大きな袋に入れるといった恐い面があります(23)。これはただ子供の教育と関係があるのではなく、もっと深い意味があると思います。その意味の解釈を以下に考えましょう。
  先にいいましたように、冬至の時期の祭りには、木を飾るということは神を招くということを意味します。では、この時期に古代ヨーロッパで祭ったのはいったいどのような神だったのでしょうか。キリスト教以前のヨーロッパでは、様々な自然の神を崇拝していました。これらの精霊は岩や滝、泉や森に宿り、人々の労働を見守ると考えたのです。しかし、日本の神々の認識と違って、これらの神々は目に見えない形のないものではなく、様々な大きさや形のあるものとして考えられたのです。その根跡は、民話に見える小人や妖精や魔法を使える女性などにうかがわれます(24)。ここで、アンデルセンやシャルル・ペローなどの童話における妖精の役割とそれに対してのお返しを思い出してみたいのです。一つの例としてここに『妖精と靴屋さん』(図6、7、8)という話を挙げたいと思います。昔、あまり成功していない貧しい靴屋さんがいました。ある晩、彼には一足の靴を作れるだけの革しか残っていないので、最後の靴を作るように、ため息をつきながら靴型(pattern)を書いて、翌朝切って縫おうと思いました。しかし、次の朝には、驚くことにていねいに縫われた一足の出来上がった靴が机の上に置いてありました。この靴はすぐに高く売れて、二足分の革を買うことができました。その晩靴屋さんは、前と同じように革に靴型を書いて寝ました。次の朝には、また、驚くことに、二足のすばらしい靴が机の上に置いてありました。このようなことがしばらく続き、靴屋さんがよい靴を作っていると評判がたって、皆が彼に靴を注文しましたので、お金持ちになりました。ところが、ある晩、奥さんと二人でだれが靴をこしらえるのかと覗いてみれば、それは二人の妖精でした。小さな体で、小さな道具を出して速やかに仕事をしていました。ただ、その妖精の体は、なんと裸でした。もうすぐクリスマスだったので、靴屋さんと奥さんが、二人の妖精にお礼のプレゼントを準備することにしました。靴屋さんが小さな長靴を作り、奥さんが小さな洋服を仕立てました。そして、クリスマスイブに二人は、そのプレゼントとお菓子とワインをテーブルの上に置いて、隠れて待っていました。いつものように妖精たちが来て、プレゼントを発見しました。大喜びで服を着て長靴をはき、お菓子を食べてワインを飲みました。こうして一晩中楽しく過ごしました。靴屋さんとその奥さんもこれを見てとても嬉しかったのです。その夜妖精たちは靴を作りませんでした。また、その後も靴を作りに来ませんでした。たぶん、見られたとわかってしまったので、もう来なくなったのでしょう。妖精とはこのようなもので、人間に姿を見られるのが嫌いだからです。しかし、いい評判がたっていたので、靴屋さんはもう困りませんでした。彼が作る靴は妖精が作っていた靴ほどていねいに小さなステッチで縫ってはいなかったことに、だれも気がつきませんでした。彼は、奥さんと一緒に幸せにくらしました。
  なお、これらの神々のうち、母の女神(MotherGoddesses)と呼ばれている、手に赤ちゃんを抱いた女神たちの小立像が数多くみつかっています。「冬の女神」とも呼ばれているこれらの母たちは、木、岩や池と結ばれており、冬に祭られたのです。ケルト人やゲルマン人が重んじ崇拝したこれらの女神は、アングロサクソン人にも奉られ、デ・テンポラ・ラチオネ(Detemporaratione)という史料では、作者ベデ(Bede)が説明するように、クリスマスの前の晩はModranihtつまり「母の夜」と呼ばれたのです。彼女たちのために、クリスマスイブに食べ物が用意しておかれた例が多くあります(25)。
  他方、冬至の行事と関係があったかわかりませんが、サンタクロースのイメージとぴったり重なる守り神(guardianspirits)であったらしいものに、ガリアの頭巾を被った小立像があります。その中には、若者または子供にみえるものもありますが、髭をはやした年よりもあります。背が低く頑丈であるこれらの小立像の多くは、小人またはねこ背の人のように見え、豊穣、富のしるしであるぶどうや卵が入った籠を持っています。頭巾が人には見えない他界に属することを表わすのです。民話においてこれらの小さなものは、ある場所または家族と結び付けられ、怒らせたり迷惑をかけたりしなければ、いたずら好きな陽気なものであり、幸運や富をもたらし人々の労働を助ける者として考えられたのです(26)。籠を持っているこれらの小立像は、秋の豊穰と結ばれる面があるのでしょうが、サンタクロースのイメージにも全く無関係ではないと思います。それは、サンタクロースのプレゼントが富や幸運を象徴するからであると考えられます。古代ヨーロッパで年末・年始の行事が行われた冬至あたりや一月一日のころに、ご馳走を食べてプレゼントをあげる風習には同じ意味があったと考えられます。四世紀のギリシャに住んでいたリバニウス(Libanius)のカレンヅという祭の描き方を見れば、テーブルは食べ物でいっぱいであり、人々はお互いにプレゼントをあげたりしていたのです(27)。古代社会では、プレゼントが大きな意味を持っていたと思います。これは人を喜ばせるだけではなく、病気が直る、または生命力が復活するなどといったおまじないの意味、象徴としておくられたのです。クリスマスプレゼントにこのような意味があったことは、古代では富、生命力の象徴であるりんごやくるみ(特に金色に塗ったもの)などが贈られたこと、つまりプレゼントの内容を見ればよくわかります。
  日本にもこのような意味をこめたお正月のプレゼントがあります。それはお年玉です。現代においては、ほとんどの場合お金であるこのプレゼントは、本来は餅であったのです。これについて「年神から賜るものと考えていたらしい」と柳田国男は考えています(28)。また、「九州のずつと南の方でも、除夜の年越の晩には年どん又は年ぢいさん(図9)といふ人が、好い子供には年玉の餅を持つて来てくれる。それを貰はぬと年を一つ重ねることが出来ぬといひ、信じはせぬまでも舶来のサンタクロウスと、全く同じ話をして居る家が多いさうだが、下甑(しもこしき)の島の或る古風な部落などは、人が頼まれてその年ぢいさんになつて、籠を頭から被つて夜更に門の戸を叩き、子供にこの年の餅を持つて来る習はしさへあつた。…即ち多くの先祖たちが一体となつて、子孫後裔を助け護らうとして居るといふ信仰を考へ合せると、子供に親しみを持たせる為には、是より好い名は無いのであつた。…年神を我々の先祖であつたらうといふ私の想像はここに根ざして居る」(29)とも述べています。
  このように、柳田国男によれば、お正月に訪れる神は先祖神だったのです。「春毎に来る我々の年の神を、商家では福の神、農家では又御田の神だと思つて居る人の多いのは、書物の知識からは解釈の出来ぬことだが、たとへ間違ひにしても何か隠れた原因のあることであらう。一つの想像は此神をねんごろに祭れば、家が安泰に富み栄え、殊に家督の田や畠が十分にその生産力を発揮するものと信じられ、且つその感応を各家が実験して居たらしいことで、是ほど数多く又利害の必ずしも一致しない家々の為に、一つ■■の庇護支援を与へ得る神といへば、先祖の霊を外にしては、さう沢山はあり得なかつたらうと思ふ。」(30)  
  柳田国男の祖先崇拝が自然の神々の崇拝に先だつという説に対して、私は日本では逆であったのではないかということについて論じたことがあります。しかし、今は、古代の人々は自然の神々と祖先神をはっきり分けていたのかは疑問であると考えるようになりました。それは、キリスト教以前にヨーロッパで崇拝された神々の性格について、様々なことを考察した結果です。エリス・デービッドソンによれば、場合によって人々に害を与えたり、または助けたりする前述の神々は、死者と全く無関係ではありませんでした。ドイツやスカンディナビアでは、死者がハローインとクリスマスの時期に人々の世界を訪れると信じ、クリスマスに教会へ出かける前には、彼等のために食べ物を残すという風習があったのはこのような痕跡を示すでしょう。アイスランドでは妖精が同様に家々を訪れると信じていたということ(31)は、祖先の霊と自然の神々の間に大きな区別はなかったらしいことを語っていると思います。古代北欧諸民族の史料としてはサーガという長歌が有名ですが、サーガ (EyrbyggjaSaga)によれば、アイスランドで最初のスカンディナビア人の聖なる場所は、体を洗っていない人は近づけない穢や暴力から守られた小さな丘であったのです。それは、死者が祖先に加わるように埋められた場所、また死者の世界への入口としても考えられていました(32)。特に、大王の霊が人々の生活に影響を与えると考えられ、スカンディナビアの亡くなった大王たちが豊穰をもたらすと信じられた例の一つは、フレイル (Freyr)という神はもともとウップサラ(Uppsala)に住みスウェーデン人を支配した人物でしたが、その時代に国が栄えたので、亡くなった後には人々がその墓に供え物を持ってきて彼等の労働を見守るように願ったというところにみえます。このように、フレイルと妖精や国守神(land-spirits)との関係から、これらは死者と結ばれることは可能に思われます。スウェーデンやノルウエーでは、古代から大王たちの古墳の場所がわかることが大変重要だったのは、国をうまく治め、豊穣や幸運の年月を迎えた大王は、死後にもめぐみや守護を与えることができると信じられていたからです。このような大王たちはそれぞれスウェーデンの主人(Freyr,Lord)という称号をもった可能性もあるといわれています(33)。
  祖先崇拝はおそらく、サンタクロースの「父」的な要素を加えたのではないでしょうか。そして、フランス語などの言語では彼は「父」と呼ばれているのはこのためでしょう。
  ところで、プレゼントは子供に与えられるようになっていきますが、そこには理由が二つあると思います。一つは、イニシエーションまたは成年式の過ぎていない子供は、人間世界に属しない精霊と同じくまだ社会の一部として考えられておらず、儀礼においてしばしば象徴的な役割を果たすことと関係があります。二つめの理由は、実際には親に準備され子供に授けられたこのプレゼントは、亡くなった祖先の精霊が子孫に富を与えるということを象徴的に表わすと考えられることです。
  他方、お正月のご馳走は、神々の供え物、そして新年の富の象徴、豊穣を願う占いの意味があったのです。前者の意味は、日本では元日に雑煮を食べるということについて、神への供え物を祭に参加する人々が分けて食べることを意味すると、柳田国男が説明するところにみえています(34)。ヨーロッパで、特別な生地で作ったジンジャーブレッドマンという人形型のクッキーがツリーに飾られ、食べられることにも、同様な意味があるのです。年の始めに新年の様子を占う風習は、古代ヨーロッパにも日本にも見られるのです。

むすびにかえて

 ここに注意しておきたいのは、クリスマスカードによくシーズンズ・ウイシュズ(Season'swishes)と書いているところです。クリスマスは一晩一日の祭であるよりも、「正月」でいうように「月」、英語でいうようにseason,periodoffeasting、つまり月またはそれよりも長い期間の行事として見なされているのです。日本のお正月も元日だけで終わることなく、長く続きます。クリスマスツリーの本来的な飾りがクッキーだったということも併せて考えれば、冬の最も寒い時期に、森か常緑樹を家に迎え、その木に森の妖精を招くように甘いお菓子を飾り、周りに御馳走を出し、歌を歌い、踊りながら、妖精を楽しませ、新年の豊作を祈ったのではないかと考えられます。そして、豊穣の約束をあらわす、妖精たちの象徴的なプレゼントとして、様々な形で特別な食べ物やお金が「年神」とか「サンタクロース」から出されたのです。
 最後に、私の母国であるブルガリアのクリスマスについて少しだけ述べさせていただきます。まず、クリスマスイブの御馳走ですが、その中心となるのは丸いパンpitaです。このパンは、昔、貧しい人でもそのためにためておいた小麦粉又はお金を使って、できるだけ白い、贅沢なパンにしました。このパンの中には、「お金が入る」ことを意味する金貨や、「健康」を意味するヤマボーシまたはミズキ(cornel-tree,dogwood)という木の小枝などの占い物が入れられます。パンは、家の最も年上の人によって分けられ、最初の分は「神に」、それから「家に」、「畑に」、「家畜に」などと分け置いてから、年の順に家の人たちに分けるのです。私の家では、「お客さん」の分も、このような人がいるかいないかとは関係なく用意していました。その夜に訪れるお客さんは、神のように扱うべきとの言い伝えが残っていたからです。これはむしろ、この夜に家で神々を祭ることにより、突然に訪れるお客さんがそれらの神を表すことになるからだと思います。食事の途中又は終わりの方に、祖父又は父が部屋を出て、しばらくしてから母は、「そろそろボジックお祖父さん(dyadobojik)を呼んでみよう」と子供たちを誘います。子供たちは鍋やフライパンなどをもって、窓の前に大声で呼びます。そこで窓が開き、だれであるかわからないように変装した祖父か父が窓から果物やお菓子、お金を投げ、子供たちがもっている道 具でそれを捕まえようとします。もちろん、キリスト教風の祈りなどもこの夜にはとても大事に行われますが、わたしはこの背景にキリスト教以前のこの季節の行事の影響が十分にうかがわれると思います。そして、次の日には、スルワカリ(図10、11)やクケリという行事が行われます。都市では、前者だけの略した形が見られますが、田舎では現在でも両方が古い伝統にもとづいて行われているのです。クケリという行事は、面を冠り、鈴を付けて踊るというものです。クリスマスツリーをブルガリアでいつから飾るようになったのかを今ふれることはできませんが、先に述べた行事には、参加者の帽子や服が常緑樹の枝で飾られるのはかなり古い風習だと思います。スルワカリは、若い人(田舎では若い男、都市では性別なく子供たち)が、スルワチカ(図12)という飾られたミズキの枝をもって、家々を訪れ、歌を歌って、季節のお菓子(パン、干し果物、くるみ、りんごなど)やお金をもらう行事です。飾られた枝で家の人たちの背中をたたくこともあり、これは健康のためだといいます。興味深いことに、日本にもこのような行事があります。「祝い棒」(図1、2)または「卯杖」というめでたいまじないや予祝の願いを込めた聖なる棒で、若い女性のお尻をたたいて、たたかれた人が子供を生むという小正月の行事です。この行事は古代から貴族や女房社会でも行われたことは、平安時代の文学からわかるのです。「『枕草子』にも、『心地よげなるもの卯杖のことぶき』(八○段)とあり、正月を祝うもので女房たちは、これにたいへんすがすがしいものを感じたのであろう。『散木奇歌集』にも、

はつうの日よめる  

 あさましやはつ卯の杖のつくづくと思へば年のつもりぬるかなとあり、(中略)、卯杖に長寿の祝の意味のあったことが感ぜられる」(35)。さらに、柳田国男によればこのような棒で、正月十五日の粥をかきまわして年占いをしたり、田の水口に立てて豊作を願った例もあります(36)。豊穰、健康をもたらすこのお正月に使われる棒は、ヨーロッパのおとぎ話にでてくる魔法の棒と何らかの関係がないでしょうか。他方、「ほとほと」(図13、14、15)という日本の行事は、もちやおかしをもらいに家々を巡り歩く若い人や子供たちの姿がブルガリアのスルワカリを思わせますし、秋の行事、ハロウィーンにも似ています。
  それぞれの文化の差異によって、ヨーロッパや日本の人々が冬至から正月の満月ぐらいまでの時期に行う年末・年始の行事に採用される様々な象徴の意味が異なるところがあります。しかし、豊穰や幸運の願いを込めたこれらの行事は、太古を今日と結ぶ人々の新年への期待を表わしているところで、心のつながりをもつと思います。

注釈