硫黄島の遺産・その3
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硫黄島…
東京から南1250キロに位置する、太平洋に浮かぶ孤島。
周囲22キロというこの小さな島で、かつて世界の戦史上、稀にみる激しい戦闘が日本軍とアメリカ軍の間で行われました。
日本軍の死傷者二万一千人、米軍死傷者三万人。
アメリカ国民はけっしてこの硫黄島の戦いを忘れません。
彼らは、国立アーリントン墓地の正門前に、硫黄島のすり鉢山山頂に星条旗を立てる6人の海兵隊員の像を作り、多くのアメリカ国民がそこを訪れては、いまから60年前に戦った若者たちの勇気とその犠牲に敬意と感謝を表しつづけています。
かたや日本は…
すっかり硫黄島を忘れてしまいました。
「イオウトウ~?どこそれ?韓国の島?」ってな日本人の若者が増えているとか。
ほとんどの日本人は、学校の歴史の時間に硫黄島のことを教わらないため、
今の私たちの平和と繁栄は、この硫黄島の戦いによってもたらされた事実を知りません。
硫黄島では、日本兵士が飢えと乾きに耐え地獄を生きて戦ってくれました。鬼神をも慟哭させずにはいられないほどの戦いによって、
彼らは後世の私たち日本人に、とてつもなく大きな遺産を残してくれたのです。
それは日米安全保障条約です。
硫黄島で戦った日本兵があまりに強いので、「こんな強い日本とは二度と戦いたくない…」、そうアメリカ国民は思いました。そこで、日本の軍隊を解体する条件として、彼らは日本を一方的に守ることを約束したのです。
ヒトラー率いるナチス・ドイツ軍も強かった。でも、アメリカ国民を恐怖のどん底に突き落とすほど強くなかった。だから、戦後、分断された西ドイツは、「君たち、自分の身は自分で守りなさいよ!」と突き放され、貧しいながらも西ドイツは自国の軍隊を持つしかなかった。
ところが、日本においては、「君たちの身は僕たちが無償で守ってあげるから、心配しないで経済復興だけを考えなさい」って、アメリカは日本に言ったのです。
アメリカはそう言わざるを得なかったのです。日本の軍隊が怖かったから。
未だかつて、戦勝国が敗戦国とこれほど不利な条約を結んだ例はありません。それほどアメリカ国民にとって硫黄島の戦いがコンプレックスになったんです。
この日米安保条約によって、戦後、日本は世界最強の軍隊であるアメリカ軍を日本の傭兵(ようへい)として使うことができるようになりました。
しかも、ほとんどタダで。
その結果、日本は経済活動に専念することができ、短期間で奇跡の経済復興を遂げ、一時は日本人一人当たりのGNPがアメリカを抜き、世界一の経済大国となることができました。
また、戦後60年の平和を享受することもできました。
戦後60年、国際紛争に巻き込まれなかった国は、アジアでは唯一日本だけです。
そりゃ、そうでしょう。世界最強の軍隊であるアメリカ軍を自国の傭兵にしているのですから、どこの国も手が出せません。
人類最強の男、エメリヤエンコ・ヒョードルを用心棒にして街中を連れて歩くようなもんじゃないですか。どこのチンピラやゴロツキもよけて通りますよ。怖くて手が出せません。出したら最後、ヒョードルの必殺技「バウンド」が炸裂して、ボコボコにやられちゃいますからね。
国際社会でも同じです。
日本国憲法では、前文と9条で「平和を愛し、公正と信義に信頼できる」諸国民を信頼して、国際紛争を解決するための手段として戦争を放棄することが謳われています。簡単にいうと、周りの国を信頼して、武力(軍隊)をすべて放棄しましょう!ってことです。
多くの日本国民が、いま日本が平和でいられるのは、平和憲法を持っているからだと信じています。
とんでもない誤解です!
国際社会はホッブズの言う自然状態にあるんですよ。万人が万人に対してオオカミなんです!隙あらば弱い相手に襲い掛かるようなゴロツキ国家がウヨウヨしている。日本国憲法前文の「平和を愛し、公正と信義に信頼できる」諸国民なんて、いったいどこにいるんですか!少なくとも日本の周辺にはいません。
国内外の反政府ジャーナリストを殺しまくり、「ネズミ」と呼ばれた彼のカバン持ちの青年を操り人形の大統領にして、つねに権力を握り続けるロシアのプーチン。チベットを軍事占領し、チベットの民衆と僧侶を殺して平然としている中国の胡錦トウ。核をチラつかせて周辺諸国を恫喝する北朝鮮の将軍様。
みなさんもこれらの人たちが、「平和を愛し、公正と信義に信頼できる」諸国民なんて、まさか思いませんよね?
戦後、60年間、日本が平和を享受できたのは、日本のうしろにリバイアサンのごとき用心棒のアメリカがいたからです。平和憲法があったからではありませんよ。平和憲法は、せいぜいテルテル坊主を作って、明日の天気を願う程度のおまじない効果しかありません。
戦後、超大国だったソ連は北海道を喉から手が出るほどほしかったけど、ピクリとも動かなかった。いや、動けなかったのです。また、「奴隷となった農民を解放する!」と勇ましく言って、一方的にベトナム、チベット、トルキスタンに軍事侵攻した中国でさえ、「日本の搾取されている労働者を解放する!」と言って、日本に軍事侵攻することはできなかった。いわんや、小国の北朝鮮をや。北の将軍様が出来るのはせいぜいコソコソと日本人のアベックを海岸からさらって行くことくらい。
みんな、アメリカ軍が怖くて、日本に触手を伸ばせなかったのです。
今の日本の繁栄と平和は、日米安全保障条約という逆不平等条約を勝ち取ってくれた硫黄島の日本人兵士のおかげなのです。
このことを日本人は忘れてはいけません。ぜったいに!
私たちは本来一杯のお水すら、硫黄島の兵士たちの辛苦を想い、南の方角に向かって、ありがたくいただけなければいけないのです。
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さて、硫黄島の日本軍を指揮し、奇跡の戦いを起こした人は、栗林忠道という軍人でした。階級は中将。
硫黄島の戦いを知らない日本人が多いので、ましてや、この戦争を指揮していた日本の最高司令官の名前を知っている人は少ないでしょう。
実際、栗林中将の出身地である長野県の松代町に行けば、お土産屋でクリバヤシ饅頭くらいは売っているかと思いきや、ほとんどの地元の人たちでさえ栗林中将のことを知らないそうです。地元の本屋で郷土史の本を買っても、郷土の著名人の中には栗林忠道の名前は載っていないとか。オラが村の郷土の誇り!っていう人たちがいてもいいようなものですが…。
また中将のお墓のある明徳寺については、地元の旅行パンフレットには、毎年たくさんのカエルが集まってカエル合戦をやるので有名だとか、昔この寺にはお酒好きの弥勒菩薩様がいましたなどの類のことは書いてあるけど、栗林中将の「ク」の字も書いていない。
地元ですらこうなのですから、他のところでは推して知るべし。
日本人はすっかり栗林忠道中将を忘れてしまったんです。あたかも彼が存在しなかったかのように…。
唖然(あぜん)、呆然(ぼうぜん)、愕然(がくぜん)とする話ではないですか。
栗林中将は本来であれば、国民栄誉賞を100個くらいまとめてあげてもいい人ですよ!お札に印刷されていてもおかしくない人です。日本の大恩人なのですから。
アメリカでは、硫黄島の戦いが、Battle of Iwo Jima として語り継がれ、General Kuribayashi の評価が高いそうです。「硫黄島の星条旗」の著者、ジェームズ・ブラドリーは栗林中将を評して、「アメリカをもっとも苦しめ、それゆえにアメリカからもっとも尊敬された男」、と言っています。
日本人にはすっかり忘れられてしまいましたが、今なおアメリカで語り継がれる名将・栗林忠道中将とはどんな人物だったのか。
皆さんはガチガチの固~い軍人を思い描いていませんか。
全然違うんです。
まったく軍人らしくない人です。
栗林忠道中将は、おそらく皆さんの想像もつかないタイプの人物かと。
まずは、栗林中将が硫黄島着任早々に、家族に出した手紙を読んでみてください。驚かれると思います。
この手紙は、いつアメリカ軍が攻めてくるかわからない状況だったので、遺書として書いたものです。
「…、最後に子供たちに申しますが、よく母の言いつけを守り、父なき後、母を中心によく母を助け、相はげまして元気に暮らしていくように。特に太郎は生まれかわったように強い逞(たくま)しい青年となって母や妹たちから信頼されるようになることを、ひとえに祈ります。洋子は割合しっかりしているから安心しています。お母ちゃんは気が弱いところがあるから可哀想に思います。たこちゃんは可愛がってあげる年月が短かった事が残念です。どうか身体を丈夫にして大きくなって下さい。
妻へ、子供たちへ、ではさようなら、夫、父
追伸
1.持ってきたものの中、当座いらないものをこの便で送り返します。形見の品となるとも思います。
2.家の整理は大概つけて来た事と思いますが、お勝手の下から吹き上げるような風を防ぐ措置をしてきたかったのが残念です。
3.私は今手紙をどこへも一切出しておりません。もし昔の兵隊や友人たちなどから問合せのあった時は、ただ南方某地へ出征したという事だけ返事してやって下さい。」
驚きませんか!この追伸の2の内容。
なんと!二万あまりの兵隊を束ねる最高指揮官が “遺書” の中で、お勝手の隙間風を気にしているんですよ!
栗林中将は、硫黄島に赴任するにあたり、天皇陛下に拝謁までしているくらいの偉~い軍人なんです。それがお勝手の隙間風が寒かろうと家族の心配をしているのです。
アメリカ海兵隊の最高指揮官だったホーランド・M・スミス中将は、62歳という高齢にもかかわらず、ルーズベルト大統領に直接指名されて太平洋に赴いた名将でした。この人は別名、“ハウリング・マッド・スミス(Howling Mad Smith)”というあだ名がありました。吠えまくるスミスというところでしょうか。
スミス中将は、そのあだ名の通り、口の悪さで有名でした。アメリカ連合艦隊司令長官のニミッツ大将を、「日和見主義者」と罵倒するほどだったんですよ。
そのスミス中将が、軍人の中で唯一賞賛したのが敵将の栗林中将でした。
彼は回顧録(「米国海兵隊と太平洋進撃戦」)のなかでこのように書いています。
「太平洋で相手した敵指揮官中、栗林は最も勇敢であった。島嶼(とうしょ)の指導者の中には単に名目だけの者もあり、敵戦死者の中に名も知れず消えうせる者もあった。栗林の性格は彼が残した地下防備に深く記録されていた。」
敵ながら天晴れという感じでしょうか。
そんなアメリカの名将が絶賛するほどの壮絶な戦いを指揮した軍人が、自宅のお勝手の隙間風が心配で仕方がないって言っているんです。
なんとも所帯臭いというか、なんというか。
この栗林中将の “遺書” がいかに異色のものであるか。他の軍人の遺書と比べるとわかります。
たとえば、戦艦大和に乗って生き残った海軍少尉、吉田満氏が両親に送った遺書はこのような内容でした。
「私ノモノハスベテ処分シテ下サイ。皆様マスマスオ元気デ、ドコマデモ生キ抜イテ下サイ。ソノコトノミヲ念ジマス。」
また、山本五十六大将の “遺書” は、このようなものでした。
「一、機密漏洩の虞(おそれ)あるに付、私品と認めらるる書籍、書類、手紙等一切は、クラス幹事堀中将指定の場所へ御届願上度 一、此他の荷物中、戦時寄贈品は処理相成度く」
実に素っ気無いほどの簡潔さじゃないですか。多くを語らずということが帝国軍人の真骨頂ということでしょうか。
当時の軍人の基準からすると、栗林中将の “遺書” は、女々しいと思われるくらいですよね。
もう少し、中将からの手紙を見てみましょう。
栗林中将には、奥さんの義井さん、長男の太郎氏、長女の洋子さん、次女のたか子さんの四人の家族がいました。
栗林中将は、硫黄島に赴いたとき、次女のたか子さんがまだ幼かった(当時5~6歳)ので、非常に気にかけていたようです。
着任早々、先ほどの遺書の手紙といっしょに、たか子さん宛てに次のような手紙を送ってきました。
「たこちゃんへ たこちゃん、お元気ですか? お父さんが出発の時、お母さんと二人で御門に立って見送ってくれた姿が、はっきり見える気がします。 それから、お父さんはお家に帰って、お母さんとたこちゃんを連れて町を歩いている夢などを時々見ますが、それはなかなかできないことです。 たこちゃん、お父さんはたこちゃんが早く大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかりを思っています。 からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言いつけをよく守り、お父さんに安心させるようにして下さい。戦地のお父さんより (昭和19年6月25日付け 次女たか子あて)」
なんか、ほのぼのとしていて、とても世界最強のアメリカ海兵隊員を震え上がらせた闘将の書く手紙とは思えないでしょう。
栗林中将は、2度家族を置いて、日本の外に出ています。
硫黄島に赴任した時と、これよりさかのぼること15年前に、アメリカへ留学しています。
このときにも、まだ幼かった太郎さん(当時3歳)へ、アメリカから手紙を出しています。
「これはアメリカの子供が遊んでいるところです。
この辺は三輪車が大流行です。
お父さんは子供がこうして遊んでいるのに出会うと
きっとしばらく立ち止まって見ています
太郎君もこうして元気で遊んでいるのかと思って
(ニューヨーク州バッファロー発、昭和3年8月27日)」
この手紙は、字の読めない長男・太郎氏のために、図入りで書かれています。まるで絵本童話のような達筆さです。
この手紙は80年前に書かれたものですが、まるで現代の子煩悩なマイホームパパが書いたような手紙のような気がしてきませんか?古い時代の人って感じがしませんよね。
栗林中将は、奥さんも大変愛されていたようで、硫黄島から奥様宛にもたくさんの手紙を出しています。
「私もあまり心配しているせいか、この間はお前さんが大変やつれて眼ばかりがギラギラ光っている様子を夢にみてしまったのだよ。按摩さんは頼んでいるだろうか?お風呂も週2回くらいは沸かして血のめぐりをよくするようにしないと動脈硬化にもなるでしょう。 (昭和19年10月4日付け妻・義井あて)」
「火薬の袋張りは容易の仕事じゃないらしいね。さぞ肩も張るだろう。ほんとうにお察しする。しかしあまり無理しいないほうがいいでしょう。無理するとやはりからだに障るよ。(昭和19年10月10日付け 妻・義井あて)」
「この頃よく夢を見るが多くはお前さんとたか子に関した夢である。そして随分ありありと見る。多分一番気にかかっているせいだろうと思う。(昭和19年12月8日付け 妻・義井あて)」
「冬になって水が冷たく、ヒビ、赤ギレが切れるようになったとの事、ほんとうにいたわしく同情します。水を使った度に良く拭き払い、熱くなるほどこすっておくと良いでしょう。 (昭和19年12月11日付け 妻・義井あて)」
この手紙を書いている硫黄島では、時たま空襲があり、すでに穴倉生活をしていました。虫や熱さに悩まされている時期だったのです。そんな自分の境遇を顧みず、ひたすら妻を思いやっているのです。
すばらしい愛妻家でしょう!
ここに至っては、古い時代の人という感じがしないどころか、私たち妻子ある男性の鑑(かがみ)のような人物ではありませんか。
これが当時、男尊女卑を当たり前としていた軍人の基準からすると、栗林中将という人が異色の人物であることがおわかりいただけたかと思います。
栗林中将はとても筆まめな方であったようで、アメリカから42通、硫黄島から41通もの手紙を出しています。皆さんが図書館へ行かれたら、「硫黄島からの手紙」という本を見て下さい。この本は、クリント・イーストウッド監督の映画の台本ではなく、栗林中将が硫黄島から送ってきた手紙をまとめたものです。一冊の分厚い本になっちゃうくらいの手紙の量だったのです。
これらの手紙の中で、もっとも驚くべきことはこれだと思います。
アメリカからの手紙と硫黄島からの手紙、計83通。
これらの膨大な量の手紙の中で、皇国、国体、聖戦、天皇といった言葉が一度たりとも使われていないということです。
信じられますか。
栗林中将はトップクラスの帝国陸軍の軍人ですよ。その軍人が、当時の軍人たちの決まり文句というべき皇国、国体、天皇という言葉を一度も使っていないのです。
皇国、国体、天皇を口にしない日本軍人なんて、まるで神の愛を口にしないキリスト教徒や、アッラーの名前を唱えないイスラム教徒みたいなもんじゃないですか!
私が栗林中将を、まったく軍人らしくない軍人と言った意味がわかるでしょう。
栗林中将がやさしかったのは家族だけではありません。家族以外の人たちにも気遣っていました。
貞岡信喜という85歳の老人が高知市に住んでいます。
この方は若い頃に、南支派遣軍の参謀長として広東(中国の広州)にいた栗林氏(当時少将)の軍属をしていました。軍属というのは、高級将校の身の回りの世話をする係でした。
少将と軍属では、天地ほどの身分の差があります。
それにもかかわらず、栗林氏は息子のような年の貞岡さんに実に親身に接したということです。
こんなエピソードがあります。
貞岡さんは一枚の写真を大切に保管されています。それは昭和18年に広東の南支派遣軍の駐屯地で撮られたものだそうです。
場所は兵舎の庭で、白いカバーの掛かった椅子が置かれ、軍服姿の栗林氏が軍刀を手に座っています。横には軍用犬のジャーマン・シェパード。そして、後ろに立っている五人のうちの一人が貞岡さんです。
貞岡さん曰く、
「写真を撮ることになったとき、閣下が “せっかくだから貞岡も呼んでやろう” とおっしゃって、敷地内の宿舎にいた私のところに使いを出してくださったんです。この写真を撮った庭から宿舎まで、全速力で走っても往復15分以上はかかります。その間、閣下は私が来るのを待っていて下さったんです。」
陸軍少将が軍属を15分も待つなど、普通ならまず絶対にありません。でも、栗林氏は、写真を撮ってもらうという当時めったにない機会を、身の回りの世話をしてくれる貞岡青年に与えたかったんでしょうね。
階級社会の最たるものである軍隊にあって、目下の者に気さくに接する栗林氏は異色の将官だったんです。入院した兵があれば、みずから車を運転して、果物を持って行ったり、マラリアにかかった兵には氷を届けたりしていました。
こんな栗林氏を貞岡さんは、父以上に慕い、昭和18年6月に、栗林氏が中将に昇進して、東京の近衛第2師団長に転任が決まると、自分も転属願いを出して、栗林中将についていったのです。
ところが、その一年後、栗林中将は硫黄島に赴任することが決まりました。この時は、栗林中将は貞岡青年の同行を許しませんでした。玉砕することがわかっていたからです。
栗林中将が昭和19年6月に硫黄島に赴任したあと、思いつめた貞岡さんは、東京から横浜まで夜を徹して歩き、父島行きの船に飛び乗ったそうです。そして、父島に着いてから、無線電話で栗林中将と話すことができたそうです。その時、「そんなところで何をしておるか!絶対にこちらにきてはならん!」っと怒鳴られたとか。貞岡さんが、栗林中将に怒鳴られたのはあとにもさきにもこのときが最後だったそうです。
貞岡さんは、12月まで父島に留まりましたが、諦めて国へ帰る決心をしました。
栗林中将は、東京の妻・義井さん宛てに、次のような手紙を送りました。
「貞岡は最近便で内地に帰るそうです。せっかく来たが私の許までまで来れず、それに病気になって入院もしたりで、帰る気になったのです。東京へ着けば無論立ち寄るだろうから、その節は玄関だけにせず、何でもあるものを振舞ってやって下さい。やがては田舎に帰るのだそうです。 (昭和19年12月11日付け 妻・義井あて)」
また、貞岡さんの実家へ直接、手紙も送りました。
「拝啓 東京からの葉書着きました。当地でお会いできなかったことは残念ですが、ご無事ご帰還になったことは何よりと存じます。東京で留守宅の世話までして下さるようなお話ですが、ご厚情の段、深く感謝します。 小生もその後相変わらず非常に丈夫かつ元気で働いていますからご安心下さい。内地は寒いでしょう。どうぞ風邪などをひかぬようご用心下さい。では、さようなら。」
階級社会の最たる軍隊では、階級が違えば、神様と奴隷くらい身分さがありました。だから、イジメも多かったと聞きます。ちょっと気に食わなければ、ビンタなんか当たり前の世界だったんです。そんな世界で、一般の兵士や軍属にいたるまで、対等に付き合う将校なんていなかったんです。
実はこの「軍人らしくない」ということが、のちのちお話しますが、奇跡の戦いを起こすことができた理由でした。
栗林中将が拝命された硫黄島の第百九師団は混成部隊でした。
混成部隊というのは、ほとんどが応召兵で組織されています。いわゆる徴兵された人たちです。大東亜戦争の末期は、20代前半から30代前半の壮健な若者が不足していました。この第百九師団の兵士は、志願の幼年兵(20歳未満の者)と30代後半から40代後半の人たちでした。一年前まで八百屋や魚屋をやっていたようなオジサン連中です。平均年齢36歳。
今でこそ、40代ってまだ若いですよね。でも、この当時は、40代後半はもう初老の域で、55歳になると定年を迎えていました。そんな時代の平均年齢36歳ですよ。
はっきり言って、硫黄島の第百九師団はロートル軍団だったのです。
しかも、航空機も戦艦の援護もなし。水も食料も乏しい。
対するアメリカ海兵隊は、20代前半の屈強な若者たちばかり。
普通に考えたって相手になりません。
先ほど述べた栗林中将の「軍人らしくない」という性格が、この寄せ集めロートル軍団を火の玉のような最強軍団に変え、占領したアメリカ軍に「勝者なき死闘」と嘆ぜしめた理由だったのです。
それでは、栗林中将が硫黄島の最高指揮官に任命されたいきさつからお話しましょう。
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栗林中将を硫黄島の第百九師団長に指名したのは、当時参謀総長兼首相だった東条英機です。
彼は栗林中将に、「どうかアッツ島のようにやってくれ」と言ったといいます。
アッツ島は、栗林中将が硫黄島へ行く前年の昭和18年5月、米軍の上陸を阻止しようとして死闘を演じ、玉砕という名の全滅を遂げたアリューシャン列島の小島です。
大本営は硫黄島を死守せよと命じたが、太平洋の孤島を守りに赴くということは、もはや勝って敵を撃退することを意味しませんでした。日本にはもはやそれだけの力が残っていなかったのです。
東条英機首相が言った、「アッツ島のようにやってくれ」という意味は、粘れるだけ粘って、全員が死ぬまで戦ってくれということなんです。
ここから先の話をはっきりと理解していただくために、ちょっとここで、軍隊の基礎知識を。
軍隊の基本単位をお話します。
軍隊の一番小さな単位は小隊です。3~5人程度のグループ。小隊がいくつか集まって中隊を形成し、中隊がいくつか集まって大隊を形成するというようになります。順次大きくなっていくにしたがって、
小隊→中隊→大隊→連隊→旅団→師団
となります。連隊は二千人規模。その連隊が2~3個集まって旅団となります。一番大きな単位が師団です。1個師団で約二万人です。
また、それぞれに小隊長、中隊長、連隊長、というように、リーダーがいます。
そして、皆さんに覚えておいてほしいのが、
最大単位の師団長には、戦場でだれも命令する人がいないということです。
つまり師団長の命令ひとつで全兵士は動くんです。
だから硫黄島の第百九師団長になるということは、
師団長の命令一つで数万もの将兵が戦い、そして死んで行くということなのです。
でも、当時の師団長クラスの人は、あまり将兵の死については深く考えませんでした。
当時の大将や中将という高級将校にとって兵士は単なる駒であり、もっとも重要なことは国体を護持することだったんです。
皆さんは、大本営参謀のような軍人(大将、中将、少将)は、兵隊と同じように戦場で戦うものと思っていませんか?それは間違いです。
彼らは兵士のように戦いません。
彼ら高級将校は兵士ではなく、どちらかと言うと官僚なんです。
軍部官僚というべき人たちで、計画を立てたり、戦争の指揮を戦場から離れたところから指揮する人たちなんです。実際には戦地で銃を持って戦うことはありません。
彼らにとって戦争は将棋やチェスと同じです。兵隊は駒なんです。
東条英機は、軍部官僚として無能でした。
彼が計画する軍事戦略はことごとく失敗。何十万人という兵隊が玉砕を余儀なくされました。戦局が悪化したことについては、東条は責任を感じていましたが、兵士が死ぬことにはあまり気にも留めていませんでした。単なる駒ですから。これは東条だけではなく、ひろく高級将校について言えることです。
ところが、同じ高級将校である栗林忠道中将は、兵士一人ひとりが駒と思えなかったんです。
彼の今までの兵士や軍属に対する接し方を見てもわかるでしょう。
こういう心のやさしい人は軍人に向かないかもしれません。
勝利がありえないとすれば、どんな目的ならば、部下たちは “甲斐ある死” を死ぬことができるのか。
栗林中将はさぞかし、二万余りの兵隊が自分の命令で死んでいく島に赴くについて、非常に胸を痛め、かつ悩んだことだろうと思います。
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ところで、栗林中将はアメリカとの戦いには最初から反対していました。
常々、家族には、「アメリカは日本がもっとも戦ってはいけない国だ」と言っていたそうです。
栗林中将はアメリカへ留学し、ハーバード大学、ミシガン大学で学びました。だからアメリカという国がどれほど巨大な国であるかを知っていたんですね。長男・太郎氏(当時3歳)に送った手紙からもよくわかります。
「女中のお婆さんがこの頃、自動車を買い換えたというので、お父さよんに見せています。なるほど、なるほど、なるほど、これはいい……、丁寧に使うたら大分長持ちしそうだぜ……
キャプテン(栗林氏のこと)よ、わたしゃ自動車買い替えたよ、四百ドルさ、古さとしては相場ものさ。前のかね?あれは亭主にやったよ。
亭主と財布は別にしているね。亭主はほんとにいい人だが、酒を飲んだりばくちをやるで、いつも私の金をねだるで困るよ。今年になっても、もう随分貸したね。ベラベラベラベラ
お父さん腹の中で思えらく
『こんな婆の自動車でも、日本の田舎を走っている乗合自動車よりよっぽどいいや。ほんとに日本もどうかしないといけないな……それはそうと、亭主と懐を別にしているとは、これもやはりアメリカ式だわい……』」
アメリカは、栗林氏の身の回りの世話をする女中のお婆さんでさえ、自家用車を持っている国だったのです。日本とは国力が違いすぎました。
また、栗林氏はアメリカに3年半住んで、アメリカ国民が公正と信義を重んじ、軍人に対しては、どこの国の人でも温かく迎えてくれる人たちであることを知っていました。栗林氏の人柄でしょうか、アメリカ留学中は相当な人気者だったようです。
それを示す手紙が残っています。
やはり、長男・太郎氏に宛てた絵手紙です。
この手紙には、タクシーに乗って走り去る栗林氏と、手を振って見送る人たちが描かれています。留学当初、民間人の家に下宿して暮らしていたバッファローという町を去り、首都ワシントンに向かう場面です。そこにこのような文章が添えられています。
「バッファローの下宿のおばさんや
近所のおばさん達がみんなして、
お父さんが帰ってしまうのを
惜しがっているところです
お父さんはそれ程
みんなに好かれていました」
アメリカにはたくさんの友人や知人がおり、アメリカは栗林氏にとっても、もっとも戦いたくない相手でもありました。
だから彼は最後までアメリカとの開戦に反対していました。
このことが東条英機に疎(うと)まれ、必敗の地である硫黄島行きを命じられたという説が有力です。前出の貞岡氏もそう信じています。
しかし、東条英機がどのような理由で栗林中将を硫黄島の師団長に命じたかはさておき、無能だった東条英機が唯一正しい判断をおこなったのがこの時です。彼が栗林中将を硫黄島の最高指揮官に命じたことによって、戦後の日本の命運が開けたのですから。
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先ほど東条英機は、「どうかアッツ島のようにやってくれ」と、栗林中将に言いましたが、これは本当はとんでもない話なんですよ。
アッツ島と硫黄島では、軍事戦略上の重要性がまったく違うからなんです。
だからアッツ島と同じに硫黄島で戦ってはいけないのです。
東条英機にはそのことがわかっていなかった。
東条英機という人は、権力闘争の政治手腕はあったかもしれませんが、参謀総長としては失格です。
アッツ島が位置するアリューシャン列島から日本までは一万キロ以上の距離がありました。この時代にこんな長い距離を飛べる爆撃機なんか存在しなかったのです。はっきり言って、アッツ島なんかどうでもいい島だったんです。さっさとアメリカにあげちゃえばよかったんです。アリューシャン列島なんかにこだわらずに、そこの兵力をグワム、サイパンに向けるべきだった。
それなのに東条英機はアッツ島やキスカ島になぜかこだわった。そして何千人と言う兵士を無駄死にさせてしまったのです。
なぜ硫黄島が戦略上重要か?
それはグワム、サイパンと日本列島の中間地点にあったからです。
グワム・サイパンから日本列島までの距離2600キロ。往復5200キロ。
この距離は大型爆撃機B29が飛行できるギリギリの距離でした。
だからアメリカは中継地となる島がほしかったのです。そして中継地点になる小笠原諸島では、飛行場を建設するのに適した平坦な島は硫黄島しかありませんでした。実際、この周囲22キロという小さな島には、3つもの滑走路がありました。いわば硫黄島は不沈空母のような島だったのです。
グワム・サイパンがアメリカに占領されてしまった今、硫黄島をアメリカに取られるということは、日本の大都市への大規模な空襲が可能になってしまうということなのです。
つまり、硫黄島は、戦略上、アッツ島なんか比べものにならないくらい重要だったのです。「アッツ島のように」やっちゃダメなんです!
栗林中将は無能な東条英機と違い、ことの重要性がわかり過ぎるくらいわかっていました。
「この島を取られると、東京は空襲を受け、大勢の人たちが死ぬことになる…」
皇室に限りない崇敬の念を抱いていた山本五十六大将は、トラックやラバウルといった太平洋の戦場にあっても、毎朝、部下に首都の天候を尋ねたそうです。皇居が空襲の被害にあうことを怖れたからです。
栗林中将もまた、硫黄島に赴いたあと、つねに東京の空襲について心配し、しつこいほど繰り返し手紙に書いています。しかし彼の場合、つねに眼前にちらついてその心をさいなんだのは、火の海を女子供が逃げまどう光景でした。
「空襲は相変わらず毎日あります。このごろでは夜間一機か二機、昼間二十機の空襲が欠かさずあります。その度ごとにこちらの飛行場や陣地が痛めつけられるので、あちらこちら見渡す限り草木がなくなり、土地がすっかり掘り返されて惨憺たる光景を呈するに至りました。内地の人には想像もできない有様です。…これがもし東京などだったらどんな光景(もちろん凄惨な焼け野原で死骸もゴロゴロしている)だろうなどと想像し、何としても東京だけは爆撃させたくないものだと思う次第です。(昭和19年9月12日付け 妻・義井あて)」
「この戦争で、軍人でしかも最前線に出ている私が死ぬのは仕様がないとしても、お前達内地の婦女子まで生命の危険を感じなければならないのは何としても我慢の出来ない話だから、是非万難を排して田舎に退避し生命だけは全うしてくれ。(昭和19年12月8日付け 妻・義井あて)」
なんとしても、日本の大都市への空襲は避けたい…。
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栗林中将は、軍人は普通の人たちが普通の生活をするために存在すると考えていた人です。
このような考え方を持った軍人は、当時としてとても異色だったんですよ。彼の生きていた時代の軍人は、常に国体とか天皇というものが、思想の中心にあったのですから。
彼には、東京のような大都市が、アメリカの空襲を受け、女子供、年寄りが火の中を逃げ回ることが耐えられなかったのです。そこで彼は思い悩み、硫黄島である壮大な計画を立てました。
栗林中将が考え出した計画がどのようなものかをお話しする前に、戦争とはいかなるもので、本来どのように戦争を行うべきかということについて述べます。これを知っていただければ、皆さんに彼の考え出した方法がより理解できると思います。
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皆さんは、近代の戦争と中世以前の戦争の違いがわかりますか?
兵器が違うって?
そう、確かに近代では武器が発達し、中世と比べものにならないくらい、大量に人を殺戮できる兵器が開発されました。原子爆弾、ナパーム弾、化学兵器、爆撃機、戦車等。
でもそれらは槍が機関銃になっただけで、基本的にはなんら変わっていません。
近代戦争と中世の戦争の大きな違いは、近代の戦争にはルールがあるということです。
なんでもありのけんかとルールのあるボクシングの違いのようなものです。
中世以前の戦争から、ルールのある近代戦争までのプロセスを簡単にスケッチします。
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ヨーロッパ大陸は地続きであったため、隣国としょっちゅう侵略したりされたりの繰り返しでした。そのたびに多くの人たちが殺され、また一般市民に対する虐殺や略奪が行われました。
そこでヨーロッパの人々は、徐々にもっと戦争をスマートにしようと考え始めました。
そして生み出されたされたものが、「戦争とは他の手段をもってする政治の継承にすぎない」という考え方でした。
これはクラゼウィッツというプロイセンの軍人が、「戦争論」という本の中で述べた有名な言葉です。
簡単に言うと、それぞれの国がお互いの国益にしたがって外交交渉を進めた結果、他に解決する方法がない場合、政治的手段として戦争をしましょう、ってことです。
なんか安易に戦争をするみたいで、日本人的感覚から許せない!って、思われるかもしれませんね。
でも、これが戦争の悲惨さを避ける唯一の方法なんです。
平和を願うだけでは悲惨な戦争を避けることはできません。
それまでのヨーロッパの戦争は、どの国も正義を持ち出していました。「正義はわが方にあり!」ってな感じで、どこの国も戦争をしていました。
ところが、戦争に正義を持ち出すと、際限がないのです。
相手が降参しても許しません。なにしろ正義はこちらにあり、相手は不正義。兵隊であろうが、一般民衆であろうが、かまわずに皆殺し。できるだけ残虐な方法で殺しました。トコトンまでやらないと気がすまない。
宗教戦争がそうでした。
カトリックやプロテスタントから見れば、それぞれの宗教国は異教徒であり、悪魔の使いのようなものです。神の正しい戦いという理由を持ち出して、戦い始めると、お互いに相手を抹殺するまでやらなきゃ気がすまない。途中で止めることなんかできなくなるのです。
その結果どうなったか。
なんと!ヨーロッパの人口が三分の一も激減してしまうほどの悲惨な戦争になってしまったのです。
だから、どの国も、これからは戦争には正義、不正義を出すのはよそう。良い戦争、悪い戦争という考えを止めようということになったのです。
クラウゼウィッツが言うように、他の解決する手段がない場合に、戦争を政治的にしましょうということになりました。
そしてさらに生まれたのが、講和条約という考え方でした。国際法の基本中の基本といえるものです。
皆さんも世界史や日本史の中で、下関講和条約やポーツマス講和条約なんて言葉を習ったでしょう。
でも、ほとんどの授業で、講和条約の重要性を習っていないのではないかと思います。
この講和条約は、人類が発明した画期的な考え方なんです。
たとえば、両国間で、ある問題が起きて、話し合いで解決する方法がない場合、戦争をすることになります。でも、いったん戦争を開始して、勝敗が見えたら、トコトンやらずに、適当なところで戦争を止めて、勝者と敗者の立場で、話し合いでその問題の処理(たとえば領土の割譲など)を決めましょう、ということになりました。
これが講和条約です。
また、戦争の仕方もルールづけが行われました。
たとえば、ハーグ陸戦条約では、戦争前には宣戦布告をすること、非戦闘員への攻撃の禁止や一般の建築物の破壊行為の禁止が決められました。ジュネーブ条約では、捕虜の虐待を禁止し、また、捕虜となる条件も詳細に定められました。
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ざっと中世から近代にいたる戦争の考え方の推移をお話しました。
戦争とは外交の一手段であり、戦端を開いてから、優劣がついたら、さっさと条件を出し合って講和をし、戦争を早期に終わらせるのが、本来の近代戦争のあり方なのです。
そのために講和条約というものが考え出されました。
欧米では軍事学というものがどこの大学にもあるので、彼らは一般知識として戦争について習います。だから戦争にはルールがあり、かつどのように戦うかということを常識的に知っています。
特に捕虜に関する知識は、戦争になったときに身を守る術としてとても重要なので、欧米の国々では、国民にジュネーブ条約を小学校から教えます。
捕虜になるというのは恥ずかしいことではありませんよ。捕虜になると名誉ある取り扱いを受けます。でも捕虜になるにはいくつかの条件を満たさなければなりません。たとえば戦闘員であれば、軍服を着ていなければならないとか、非戦闘員では武器を所持していてはいけないとか。その他、戦闘員であれば武器はこれこれこのように所持しろとか、あるいは黙秘権はどこまで許されるかとか、etc.etc. とにかく細かく規定されています。
これらの条件をクリアーすれば、名誉ある捕虜の特権を受けることができます。
皆さんは、戦争には戦い方のルールがあり、かつ捕虜となる条件があるなんて知っていました?ほとんどの読者が知らなかったんじゃないかなぁ。
実は、戦前の日本人も知りませんでした。
だから、大東亜戦争(太平洋戦争)は悲惨なものになってしまったんです。
当時の日本国民はすべて、戦争になったら、勝つか負けるか、生きるか死ぬかのいずれかだと思っていました。負ければ敗戦国民は皆殺しか、奴隷にされると思っていたんです。だから「一億総玉砕だ!」なんて悲壮な気分になっていたのです。こんな具合だから、戦争を単なる外交の延長線と考える人がいなかった。だ~れも、「うん、ここら辺で手を打って、講和しましょ!」って、考える人がいなかったんです。
そのため日本は、トコトンまで戦ってしまいました。島嶼(とうしょ)の戦いでは、玉砕につぐ玉砕。民間人は「生きて虜囚(りょうしゅう)の辱めを受けず」なんてことを信じ、アメリカ軍が迫ってきたら多くの人たちが自害してしまった。
せめて欧米では小学生すら知っているジュネーブ条約の知識があれば、沖縄であれほどの民間人が犠牲になる悲劇は防げたはずなのに…。残念です。
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ここまで戦争についてお話してお分かりのように、近代戦争で大切なことは、政治家は戦争を外交の一手段として考え、軍人にしっかりと戦争計画を練らせ、どこにおいて講和を結び戦争を終結させるかということを常に念頭において置かなければならないということです。
戦争は極力回避しなければなりません。
しかし、不幸にしてどうしても戦争を起こさなければならなくなったら、戦争をどこで終わらせるかがもっとも重要なことなんです。
そこが政治家の腕の見せ所なんです。
ところが、国民はもちろんのこと、当時の政治家たちは、まったく近代戦争と言うものがわかっていなかった。
戦争は単に勝つか負けるか、生きるか死ぬか、どちらかひとつしかないと思い込んじゃった。
だ~れも、戦争を外交の一手段として捕らえ、どこで戦争を終わらせるかということを考えていなかったのです。
これじゃ、戦争が悲惨なものになるのも当然です。
私の知る限り、戦争をどこで終わらせるかと言うことを念頭において、戦った軍人が二人いました。
そのうちの一人は連合艦隊司令長官の山本五十六大将です。
彼は若い頃にハーバード大学に留学していました。アメリカという国をその目で見てきたので、アメリカという国が日本と比較にならないほど国力があることを知っていました。
だから、日米開戦を思案していた近衛首相に、「日本はアメリカに勝てるか?」と尋ねられた時、山本五十六は、「最初の一年は思う存分暴れて見せます。しかしその後は…」と、口を濁してしまいました。
山本五十六大将がはっきりと、「しかしその後は日本はアメリカに負けます!」と言えば、歴史は変わったかもしれませんが、彼ははっきりと言わなかった。日本海軍は日本政府から潤沢な予算を割いてもらっていたので、「アメリカに負けます」とは言いづらかったのかもしれませんね。
ところで、皆さんは日米開戦となった理由を知っていますか?
油の供給を止められたからですよ。
中国大陸進出を企てていたアメリカにとって、すでに中国進出を果たしていた日本は目の上のタンコブだったんです。そこでイギリスとオランダを誘って、日本への石油の供給をストップしたのです。当時、油田のあるアラブ諸国や東南アジアのインドネシアはイギリスやオランダといった白人たちに支配されていました。これをABCD包囲網と言います。
資本主義国にとって石油の供給を止めるということは、死ね!と言っているようなものです。
日本はギリギリの交渉をアメリカとしましたが、アメリカが最後に日本に突きつけたものがハル・ノートと言われる、ハル国務長官の回答でした。これはすべての中国大陸および朝鮮半島、台湾の権利を放棄せよというものでした。現代の感覚から言うと、沖縄や北海道の領有権の放棄を要求されているようなものでしょうか。到底受け入れられるものではありませんでした。
東京裁判の判事の一人だったインドのパール博士は、「ハルノートのようなものを突きつけられたら、モナコのような小国であっても武器を持って立ち上がるだろう」と言っています。
ハル国務長官の回答はとても理不尽なものだったんです。
皆さんは学校の歴史の時間で、日本の起こした戦争は侵略戦争だって習ったと思いますが、大東亜戦争(太平洋戦争)は自衛の目的だったんですよ。生き残るために仕方なく起こした戦争なんです。
日本はこのハルノートをアメリカの最後通牒として受け取り、かくて日本は日米開戦を決意しました。
山本五十六は戦争のルールと戦い方を知っていました。
アメリカと戦争をするなら短期決戦しかない。最初にアメリカを叩いて、講和を呼びかけ、日本が石油の供給を確保できる条約を結んで、戦争をさっさと早く終わらせようと思っていました。
そこで彼が考え出したのが緒戦の「真珠湾攻撃」でした。
山本司令長官の戦争計画はこうでした。
昭和16年12月7日午後一時(ワシントン時間)に、野村吉三郎駐米大使がハル国務長官に宣戦布告をし、それと同時に連合艦隊は真珠湾に襲いかかり、できるだけアメリカ軍に打撃を与える。そして、時期を見て速やかに連合国側に講和を持ちかけ、日本が有利な条件で戦争を終結させるというものでした。
言葉でいうと簡単ですが、これ大変なことなんです。
まず、真珠湾攻撃なんて突拍子もない計画が、山本五十六が考えた通りに遂行できるのかどうか?
野村駐米大使がハル国務長官に、午後一時のアポを取ることはそれほど大変なことではないでしょう。電話一本で済みますから。
大変なのは連合艦隊のほうです。
渋谷のハチ公前で午後1時に待ち合わせるわけじゃありませんよ。60隻のもの大艦隊を40日間かけて5500キロを移動しなければならないのです。途中で暴風雨に会うかもしれないし、敵に発見されるかもしれない。戦争と言うのは不確実性の連続なんです。午後1時にピッタリとハワイ海域に入って、真珠湾にいるアメリカの主力戦艦を見つけ出し、撃沈しなければならないというのはそれほど大変なことです。
当初、海軍参謀雄本部は、成功の確率があまりにも低いということで反対しましたが、山本五十六はこれを強引に通しました。
第一航空艦隊の司令長官・南雲忠一中将は、「ハワイ空襲を成功させるのは不可能だ」と嘆げきました。山本五十六自身も、途中で発見されて、全滅するかもしれないことを覚悟していました。
でも、彼はこれを成し遂げたんです!たいしたもんです。
真珠湾奇襲作戦は信じがたいほどの大成功でした。
午後1時ピッタリに真珠湾を攻撃。アリゾナ、オクラホマ、ウェストバージニア、カリフォルニアの戦艦四隻を撃沈。戦艦メリーランド、テネシー、ペンシルベニアを中破という目も眩むような大戦果をあげ、ゼロ戦に乗った飛行士は、「トラ!トラ!トラ!(我奇襲に成功せり)」の暗号無電をハワイ沖で待つ連合艦隊本部に送ってきたのです。
これによってアメリカ連合艦隊はほぼ壊滅状態となりました。
まさに真珠湾攻撃の成功は奇跡だと言ってもいいでしょう。
「これで石油を確保し、戦争を終わらせることができる!」
山本五十六はこう確信しました。
ところが彼の戦争計画を狂わす思わぬことが起きてしまいました。
野村駐米大使の宣戦布告が遅れてしまったのです。
理由は、宣戦布告の暗号文が前日の深夜に日本大使館に入電されてきたのですが、なんと!その日に限って誰も当直していませんでした。大使館員のひとりが日本に帰国するということで、送迎会が行われていたのです。「今晩ぐらいは当直しなくても大丈夫だろう!」ってな感じで、ノー天気にみんな宴会に飲みに行っちゃったんです。職務放棄もいいところ。
皆さんは、大使や外交官の本来の職務はなんだかご存知ですか?
大使や外交官の本来の職務は、非常事態に際して適切な行動を取るということなんです。彼らは24時間勤務なんです。だから彼らは給料も高いし、名誉もあるんです。危機に直面して適切な処理ができない大使や外交官なんて、ネズミを取らない猫みたいなもんじゃないですか!無用の長物!粗大ゴミ!役立たず!
明日の一時にハル国務長官のアポを事前に取っておくようにと、日本政府から命令が来たときに、なんかあるなって、ピンとこなかったんでしょうか?日米関係が緊迫している時期ですよ~。危機感まったくゼロ!
大切な宣戦布告文の長い暗号が入電されているころ、大使館の外務省職員たちは宴会でグデングデンに酔っ払っていたんです。
翌朝、二日酔い状態で出勤したところ、長い暗号文が入電されており、慌てて解読作業を行いましたが、後の祭り…。全文を解読したときには、午後2時を過ぎていました。野村大使がハル長官のところへ宣戦布告文を持って行った時には、午後2時半。真珠湾攻撃が始まって、すでに一時間半が経過していました。野村大使がハル長官に宣戦布告文を渡したときには、全米に放送されたラジオの臨時ニュースで、真珠湾奇襲を全アメリカ国民は知っていました。
も~、悲憤発狂するような、お粗末な話じゃないですか!
外務省職員の大失態で、国家の運命を賭けた世紀の真珠湾攻撃大計画が、「世紀のだまし討ち」になってしまったのです!
黒澤明監督の映画「トラ!トラ!トラ!」では、真珠湾攻撃成功に沸く艦上で、無線電話で宣戦布告が遅れたことを知った山本五十六大将がただ一人茫然自失の状態。そして彼はこう言いました。
「我々は巨大な眠れる獅子を起こしてしまった…」
ハル国務長官は遅れた宣戦布告文を受け取る際に、野村大使にこう言いました。
「アメリカ国民はこのような卑怯な行為を絶対に許さないだろう!」
日本はこの二日後に、マレー沖海戦でイギリスの戦艦、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈し、南方侵攻作戦も三ヶ月で終了しました。
本来であれば、山本五十六はここら辺で、連合国側に講和を呼びかけ、有利な条約を結んで戦争を終結したかったのですが、アメリカ国内では真珠湾のだまし討ちに反日感情が燃え盛り、アメリカ国民の戦意は高揚していました。とても講和を呼びかける雰囲気ではありませんでした。
アメリカ国民ほど、アンフェアーな行為を憎む国民は他にありません。
真珠湾攻撃以前は、アメリカ国民は厭戦的ムードでした。戦争なんかいやだって国民全員が思っていました。ところがこの真珠湾攻撃以降はガラリと雰囲気が変わり、「ジャップ憎し!」という感情が支配的となりました。日本のアンフェアーな行為にアメリカ国民はまとまりました。こういう時のアメリカはものすごく強くなります。まさしく、真珠湾のだまし討ちは、巨大な眠れる獅子を起こしてしまったのです。
ミッドウェー海戦から日本は体制を整えたアメリカに徐々に押されてきました。
そしてマリアナ沖海戦からはっきりと日本は守勢に立たされました。このころすでに山本五十六大将は、ラバウル上空で戦死。
その後サイパンとテニアンが陥落。日本の敗戦が濃厚となっていきました。
このような時期に栗林中将が第百九師団長として硫黄島に赴任してきたのです。
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戦争をどこで終わらせるかということを念頭において戦ったもう一人の軍人は、この栗林忠道中将でした。
彼は出来るだけ長く硫黄島で粘り、一人でも多くの損害をアメリカ軍に与えることにより、有利に講和条約を結び、戦争を早期に終わらせることを計画していました。
2000年にアメリカで刊行されベストセラーとなった「硫黄島の星条旗」の著者、ジェームズ・ブラッドリーはこう述べています。
「栗林は、アメリカの世論を視野に入れて出血持久戦を選んだ。戦闘を長引かせ米軍に多くの死傷者を出させることで、米国民を厭戦気分にさせようとしたのだと思う。」
アメリカに長年滞在した経験のある栗林中将は、この硫黄島の戦いがアメリカ国内で報道されることを知っていました。そしてアメリカは民主主義の国であり、国民の世論が大きく大統領の判断に影響することも熟知していました。
たしかに当時のアメリカでは、硫黄島の戦況報道は毎日のように行われていたんですよ。その報道の量とスピードは、当時の日本からは想像もつかないものでした。しかも、正確な情報がアメリカ国民に伝えられました。大本営発表のニュースは、都合の悪いものは削除して報じられたのに対し、アメリカ海兵隊に従軍していた記者たちはありのままの戦況を本国に送ったのです。
ジェームズ・ブラッドリーはさらにこう続けます。
「アメリカ人は何よりも人的な被害を重く見る。だから、死傷者の数が多ければ、たとえ戦況が有利でも、その作戦は失敗ではないかという世論がわきあがる。アメリカで暮らし、その国民性についてよく知っていた栗林は、そこまで計算して敵の死傷者をじわじわ増やしていく戦い方を選んだ。アメリカの世論が、日本との戦争を早く終わらせようという方向に向かうことを期待したのだろう。」
栗林中将自身も、大本営に対して、積極的に終戦交渉を進めることを進言していたようです。
やはり玉砕の島であったアンガウル島から生還し、戦後、太平洋の島々での玉砕戦に関する多くのノンフィクションを著した船坂弘氏は、昭和43年刊行の『硫黄島 ああ!栗林兵団』の中で、次のような逸話を紹介しています。
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だが、栗林中将は防備の強化をはかりながら、べつのことを考えていた。昭和3年からアメリカへ、昭和6年からカナダへ軍事研究にいき、そのおそるべき工業力を知っている栗林は、真田、中沢両少将が島をさるとき、一つの意見具申書を大本営に届けるように依頼した。それは、
「米国の戦力、アメリカの国力を至急に判断し、サイパン玉砕後は早急に和戦の方法を講ぜられるように」
というものであった。しかし当時の幕僚としては、ただ驚いて顔を見合わせるだけであった。意見具申書にたいしても、部隊の士気に影響をあたえることをおそれ、胸中深く秘め帰国しても口にするものはひとりもいなかった。
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アメリカでは栗林中将が予想していたようなことが起きていました。
アメリカの報道スタッフは硫黄島から24時間報道を続けた結果、アメリカ国民は硫黄島上陸から4日間の戦闘が、ガダルカナルでの5ヶ月間にわたるジャングル戦を上回る死傷者を出したと知って茫然。あまりに大きな犠牲に世論が沸騰し、「アメリカの若者をこれ以上殺させるな!」、「最高指揮官を更迭せよ!」という投書が新聞社や政府関係機関に殺到したんです。
アメリカ大統領にとって、世論は天の声です。
もし、大本営が栗林中将の進言を受け入れ、この時点でアメリカ政府に講和を呼びかければ、ルーズベルトは戦争を終結するために講和条約の締結を考えた可能性が非常に高いのです。
あるいは、真珠湾奇襲の大失態がなければ、間違いなく、アメリカ側から日本政府へ講和を呼びかけ、この時点で戦争は終結していたと思います。
残念ながら、大本営の無能な軍部官僚たちは、栗林中将の具申書を取り上げませんでした。そして、その後、歴史は、沖縄戦、東京大空襲、広島・長崎の原爆投下の悲劇をたどることになってしまったのです。
でも、栗林中将たちの硫黄島の戦いが無駄になったわけではありません。
冒頭に述べたように、日本の大都市がBー29に空襲されないように、二万一千人の兵士が粘るだけ粘って戦ってくれたおかげで、アメリカ国民は日本兵士に対して恐怖を植え付けられ、戦後の日本の繁栄と平和の道が開かれたのですから。
硫黄島玉砕の前日、昭和20年3月22日の戦況を伝える電報には、このように書かれていました。
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『師団長以下将兵敢闘中ナリ。
我等将兵ハ飲マズ食ハズノ日ヲ五日続ケタリ。然レドモ、我ガ敢闘精神ハ益々高潮シツツアリ。最後ノ一瞬マデ戦闘ヲ続行セントス。』
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水も食料も尽き果てながら、50度近くある地下陣地に立てこもり、最後の一瞬までゲリラ戦を展開したのがよくわかります。
水や食べ物で不自由したことがない現代の私たちには、彼らの渇水のつらさがわからないかもしれません。
硫黄島から生還した日本人兵士が硫黄島協会の会報紙で、「夜降った雨水が道路に溜まっているのを四つんばいで飲んだときの甘(うま)かった味が忘れられない」と述べています。逆境を生きる決意を表す言葉に、”泥水をすすってでも”という表現がありますが、その泥水さえ、硫黄島の日本人兵士にとって、甘露の味がする貴重な水でした。
それほど、渇水がつらかったのです。
しかし、彼らはそのつらさに耐え、バンザイ突撃することなく、最後まで忠実に栗林中将が立てた計画に従い、組織的戦いを続けたのです。すごい精神力でしょう。なぜここまでがんばれたかというと、自分たちが戦っている間は、日本が空襲を受けないと信じていたからなんです。だから彼らはできるだけ長く苦しい地獄を生きて、戦おうと思っていたんです。
その結果、アメリカ海兵隊は、日本軍を上回る三万人もの死傷者を出しました。
はっきり言って、アメリカ海兵隊は、栗林中将の混成(寄せ集め)部隊に力負けしたんです。これって、すごいことなんですよ!なんてったって、アメリカ海兵隊は今も昔も世界最強の軍隊なんですから。
しかも、その後、彼らは日本兵が水も食料もない状態で戦っていたのを知り、心の底から日本兵に対して恐怖を覚えたのです。
だから、アメリカは戦後、日本の軍隊を解体するかわりの条件として、彼らにとって不利な日米安保条約を結び、一方的に日本を守ることを約束したのです。
皆さんの多くは、かつての私と同じように、日米安保条約が漠然となんか悪い条約のように思っているのではないでしょうか。でも、素直な気持ちで日米安保条約を読むと、これほど日本に有利な条約はありませんよ。
しかも、アメリカ国民は、日本を特恵国として扱い、優先的に日本製品を輸入することにより、日本を経済支援しました。また、戦後、占領した領土(沖縄、硫黄島etc.)を自主的に返還もしました。まったく至れり尽くせりの扱いでした。
大葬の礼の前夜に私が会ったドイツ人ジャーナリストは、「ひょっとしたら、日本はアメリカに太平洋戦争で勝ったんではないだろうか?」と、アメリカの日本に対する対応を不思議がりましたが、
彼の指摘の通り、戦後、日本はアメリカから、まるで ”戦勝国” 扱いを受けてきたのです。
それだけアメリカ国民は、二度と日本と戦いたくない…って、思ったんです。
あれも、これも、それも、すべて硫黄島で日本兵士が最後の最後まで戦ってくれたおかげです。
どうですか、みなさん。そう思うと、一杯のお水でも、南の方角に向かって、硫黄島兵士の辛苦を想い、ありがたくいただきますって気持ちになってきませんか?
それでは、つぎに栗林忠道中将が、どのような戦い方をしたのかを見ていきたいと思いますが、その前にアメリカ海兵隊の最高司令官、ホーランド・M・スミス中将が、これまでの島々(アッツ、キスカ、アンガウル、サイパン、テニアン、グワム等)を落としてきた経緯をお話します。スミス中将の戦い方がわかると、栗林中将の取った戦法が、いかに優れたものであったかが理解できるからです。
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「臨時ニュースをお伝えします!臨時ニュースをお伝えします!
本日の正午ころ、突然、火星人が米国に襲来し、現在ニュージャージー州が攻撃されています!かなりの被害が出ている模様です!近隣の地域ではただちに非難をして下さい!」
これは、1938年(昭和13年)に名優オーソン・ウェールズがCBSのラジオドラマ『宇宙戦争』で放送した一こまです。
ウェールズの迫真の演技に、多くのアメリカ国民がこの放送を本物のニュースだと勘違いし、一時アメリカがパニック状態になりました。
ところが、その3年後の昭和16年12月8日、日本の真珠湾奇襲がラジオの臨時ニュースで伝えられた時、ほとんどのアメリカ国民は最初、「これって、なにかのジョーク?」って思ったそうです。彼らは日本の奇襲を信じなかったのです。
当時のアメリカ国民にとって、日本は極東(FAR EAST)にあるお伽の国。マルコポーロの東方見聞録に出てくる黄金の国『ジパング』くらいの知識しかありませんでした。日本は実感のない国だったのです。
そんなわけで、アメリカ国民は火星人が攻めて来ることがあっても、まさか日本が攻めてくるなんて考えもしなかったのです。それほど彼らにとって、真珠湾奇襲は予期しないことでした。だから、ほとんどのアメリカ国民は、日本の真珠湾奇襲に驚きました。
ところが、日本の真珠湾奇襲に驚かなかった人物がいたのです。
ホーランド・M・スミス中将です。
彼は、第一次世界大戦の戦勝国となった日本は、マリアナ、カロリン、マーシャル諸島を獲得したが、これらの島々は、アメリカ海軍の本拠地ハワイと前進基地であるグワム、フィリピンを結ぶルート上にあり、日露戦争以降、中国大陸にかんして日米で緊張関係が存在するから、いずれ日米開戦が行われるであろうと、予測していました。しかも、戦争は日本の奇襲によって行われるだろうと思っていました。
果たして彼の予想は的中しました。
スミス中将の回想録によると、彼は真珠湾奇襲をワシントンの将校クラブで知ったのですが、いあわせた陸海軍将校のほとんどが信じられないという顔をしたのに対し、「つとに予測していた通りの戦争の起こり方であったし、対応の方法も十分承知していたから、少しも驚くことはなかった」と書いています。
彼は真珠湾が奇襲を受ける6年前から、日本と戦端が開かれることを予測し、その戦争計画を立てていました。
その戦争計画とは、太平洋諸島の日本軍基地を撃破しつつ一直線に北上して日本を叩くというものでした。そのために彼ら海兵隊は島嶼の軍事作戦を研究してきたのです。
日本の大学には軍事学という学問がないので、一般の日本人に島嶼(とうしょ)戦といってもあまりピンとこないと思います。
島を守る側と攻める側では、どちらが有利か知ってますか?
島を守る側の方が圧倒的に有利なんですよ。
なぜかというと、島を攻める側の軍隊は、ボートに乗って海岸まで行き、上陸しなければなりません。この時、身を隠すような塹壕などがなく、まったくの無防備状態になるのです。だから、島を守る側は、この時に一気に敵を撃ちまくり、全滅させれば良いのです。
これを島を守る側から水際作戦と言い、軍隊の教科書的な戦法です。
スミス中将たちは、日米開戦に備え、圧倒的に不利な敵軍の水際作戦に対し、どのように戦えば良いかということを研究してきました。
そして編み出されたものが、水陸両用作戦というものでした。
これはどういうものかというと、まず目標の島の制海権および制空権を奪ったうえで、猛烈な爆撃および艦砲射撃で守備隊の抵抗力を弱め、その後、海兵隊の大部隊が電撃的に強行上陸する。上陸部隊が前進するかたわら、占拠した地域では工兵隊(=土木・建築工事をする部隊)が航空基地を作り、さらなる目標に向けて戦闘機や爆撃機を飛ばし、島の攻略後は陸上部隊が進駐してこれを守備する。この一連の軍事行動を敏速に展開し、要地を押さえつつ日本本土に肉薄していくというものでした。
スミス中将は、カリブ海の訓練場で試行錯誤を繰り返し、欠陥を修正しつつ、この水陸両用作戦を完成させていたのです。
このようなアメリカ側の対日開戦の準備に対し、戦争を仕掛けた日本はどのような準備をしたか?
驚くべきことに、なんにもしていませんでした。
これまでの日本陸軍は、士官学校で対ソ連主体の軍事教育を行ってきました。対米戦を主体にした教育に変更したのは、なんと!開戦二年後のことでした。しかも、山本七平氏が、「一下級将校の見た帝国陸軍」で書いているように、その時期に至ってもなお、「対米戦闘に関する一枚の図面も持たず、そのための教育の基本計画さえも持っていない」というお粗末な状態でした。
あまりにもアメリカを舐めすぎですよね。
日本は資源豊かなアメリカの物量に負けたと、戦後、ほとんどの日本人が思いました。
でも、それだけじゃないんです。
戦争にとってもっとも大切なことは、合理的精神を持つことなんです。
日本にはこの合理的精神が欠如していました。
最小限の損害を持って最大限の打撃をあたえ、最短の時間を持って最大の目的を達する唯一可能な方法を徹底的に追求するという考え方が必要です。
たとえば、スミス中将は、占領すれば基地設営のための資材が必要になるということで、必要な時期に必要な物資を必要な分量だけ供給するためにどうすればよいか、ということまで徹底的に研究しました。そして、彼によれば、海兵隊は、「積載の方法を精密科学の水準まで洗練させた」とまで言っています。
かたや、日本軍は。
鬼畜米英!徹底抗戦!一億総玉砕!
掛け声ばかり…
ただの精神主義です。
スミス中将は、「素早く叩き、強く叩き、敵が屈服するまでどこまでも叩き続ける!」と常に言い続けた「猛将」と呼ばれた人ですが、それらの掛け声は、彼の合理的精神の裏打ちがありました。
こんな有能な最高司令官のいるアメリカ海兵隊に、日本の島嶼守備隊が敵いっこありません。
真珠湾の打撃から徐々に態勢を整えたアメリカは、太平洋の島々で日本軍と戦うことになりました。
ミッドウェー海戦以降、日米の形勢は逆転。制空権および制海権をアメリカに取られ始めます。そして、マリワナ沖海戦で、日本の連合艦隊は事実上、壊滅状態に。
制空権と制海権を握ったアメリカは、島嶼戦で水陸両用作戦を実施。スミス中将率いる海兵隊は次々と日本が占領していた島々を落としていきました。アッツ、キスカ、アンガウル、ガダルカナル、タラワ、ペリリュー、サイパン、グワム…。スミス中将率いるアメリカ海兵隊はまさに敵なし。ほとんど一週間から二週間くらいで日本軍を撃滅していきました。
これってすごいことなんですよ。
これだけの数々の戦いをおこなって、スミス中将は一度も負けたことがないのです。第二次世界大戦を通して、負けなしだったのは彼だけなんです。「硫黄島の星条旗」のジェームズ・ブラドリーは著書の中で、スミス中将の戦績は、パットン将軍(アメリカ陸軍大将・ノルマンディー上陸作戦の最高指揮官)でさえ羨(うらや)むものだ、と言っています。
グワムを落としたあとで、いよいよスミス中将率いる海兵隊は、グワムと東京の中間地点にある硫黄島奪取を試みます。
スミス中将は、硫黄島には川がなく、すでに物資の供給ルートを断っていましたから、日本軍は水不足で士気は相当落ちていると読んでいました。だから、硫黄島はこれまでの島々より楽に五日間くらいで落とせるだろうと思っていました。
この時、彼はまだ、この島にのちに世界の名将十傑に選ばれる有能な指揮官がいることに気づいていませんでした。
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硫黄島に赴任してから、まず栗林中将が戦わなければならなかった相手は、外部の敵アメリカではありませんでした。
それは日本陸海軍にはびこる伝統主義との戦いでした。
伝統主義とは、ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの言葉です。過去に行われていたからという理由だけで、それを続けなければならないという強い衝動のことをいいます。これは人間の習性みたいなもので、誰でも新しいことをするには勇気がいりますよね。「新しいことをやって失敗するよりは、このまま昨日の延長でいいや!」って、こういう気持ちです。だから昨日やったことと同じことを今日もする。そして今日やったことは明日も同じようにする。
マックス・ウェーバーは、この伝統主義を、「永遠の昨日」とも言っています。
皆さんの周りにも、こういった伝統主義者がいませんか?すでにそれが機能しなくなってしまっているにもかかわらず、現実を直視せず改革をしたがらない人。伝統主義は組織が長い間に腐食し、形骸化すると現れてきます。当時の帝国陸海軍にも組織上の形骸化が現れ、多くの面で伝統主義が瀰漫(びまん)していました。
ちなみに伝統主義の反対は、合理的精神です。
栗林忠道という人は、物事を合理的に考える人でした。だから伝統主義と真っ向からぶつかりました。
これまでの島嶼の戦いで、日本軍は水際作戦を取って、易々とアメリカ軍に島を落とされてきました。栗林中将は、それはすでに制空権と制海権をアメリカ軍に奪われてしまったため、艦砲射撃や空爆で、日本軍の水際の攻撃力が低下していることが理由であることを分析していました。彼は硫黄島に赴任するまでに、敵将スミス中将の水陸両用作戦を徹底的に研究していたのです。
そこで、彼は水際作戦を放棄する方針を取りました。
これまで、アッツ、キスカ、アンガウル、ガダルカナル、タラワ等、日本軍は水際作戦をとってアメリカ軍に負けていたから、当然そのような結論になります。
ところが、当時の日本軍では、この当たり前のことが当たり前でなかったのです。
島嶼戦において、水際作戦は日本軍の伝統的な戦法でした。
硫黄島の参謀たちはほとんどが、今までとおりの戦い方である水際作戦に固執しました。新しい戦法を取るにはあまりにもリスクが大きいというのが彼らの主張でした。
彼らは陸軍士官学校で、ずっと島嶼戦は水際作戦が常識であると習ってきた人たちです。栗林中将が赴任するまで、大本営の参謀たちも来島しては、水際作戦の重要性を彼らに説きました。そのため水際の陣地構築を行い、同時に水際作戦の訓練をしてきました。いまさら、「水際作戦を取らないなんて…」って、気持ちが強かったのです。これまでアッツ、キスカ、アンガウル、サイパン等々の島々が、水際作戦をとって、ことごとく米軍に全滅させられてきたのに、だれも現実を直視していませんでした。
また、彼らには戦場の美学というものがありました。
水際作戦でやるだけやって、力及ばず米軍の上陸を許してしまったら、あとは総攻撃をかけて潔(いさぎよ)く、バンザイを唱えながら戦場に散りたいという気持ちが強かったのです。
古来より日本には、「武士道とは死ぬことと見つけたり!」という言葉がありますが、戦場で潔(いさぎよ)く散ることは、彼らにとって男の美学だったんです。
合理主義者であった栗林中将には、そのような戦場で潔く散る美学などありませんでした。あくまでも彼は現実を直視しました。
「この島が米軍の手に渡れば、B-29の大都市への空爆が可能になり、多くの犠牲者が出てしまう。それだけはなんとか避けたい!」
硫黄島は他の島と同じように潔く散ってはならない島であることを知っていました。長くこの島を死守し、できるだけ多くの損害を米軍へ与えて、講和条約へ持ち込むことが栗林中将の考えでした。
そこで栗林中将は、水際作戦に固執する旅団長と参謀長をさっさと更迭し、また批判的な将校18名を本国へ送還してしまいました。
これって異例のことなんですよ。
師団における旅団長や参謀長は、会社にたとえれば、専務や本部長のようなものです。新しい社長(師団長)が来て、幹部を全員クビにしちゃったようなものです。
それだけ栗林中将も必死だったんですね。
その必死さが大本営に通じたのでしょうか。新しい旅団長として、当時「陸戦の神様」といわれた千田貞季(さだすえ)少将を、参謀長として、歩兵戦の大家である高石正大佐を、そして参謀として、「歩兵戦の神様」と言われた中根兼次中佐を呼び寄せることができました。
硫黄島の戦いで重傷を負いながら生還した堀江参謀は、戦後当時を振り返って、「師団長の希望の線に沿ったとはいえ、陸軍中央部がよくも選りに選んで、ほぼ同時に陸軍きっての猛者を送り込んだもの」だと述べています。
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師団参謀本部を固めた栗林中将は、一日でも長く島を維持するために準備に取り掛かります。その内容は以下に集約されます。
①水際作戦を捨て、主陣地を海岸から離れた後方に作ること。②その陣地を地下に作り、全将兵を地下に潜って戦わせること。
栗林中将が考えた戦い方は、地下陣地を海岸から離れたところに多数掘り、それぞれの地下陣地を地下道でつなげ、行き来のできるようにしておきます。そして米軍が上陸してきたら、海岸で攻撃せず、いったん海岸から離れたところまでひきつけておいて、挟み撃ちで総攻撃するというものでした。
そして、その後は、地下壕に潜ったり出たりしてゲリラ戦を展開し、できるだけ長く米軍と戦い、彼らにできるだけ多くの損害を与えるというものでした。
これって言葉でいうと簡単ですが、ものすごく大変なことなんです!
なぜかというと、硫黄島は名前のごとく、火山の上に乗っかっている島のようなもので、地盤がもろく、地下のトンネルを掘ることは至難のわざなのです。ちょっと掘ると、地熱は50度に達するほどです。しかも川がないので、飲み水は雨水に頼らなければなりません。飲み水を制限しながら、硫黄ガスと地熱に苦しみながら、地下のトンネルを掘らなければなりません。想像をしただけでもぞっとしませんか?
さらに兵士たちは、地下壕を掘りながら、実際にアメリカ軍が上陸してきた時を想定しながら、戦闘訓練も受けなければなりません。彼らのほとんどが応召兵です。一年前は八百屋や魚屋のオヤジさんだった連中か、幼年兵といって、志願した十六、七の若者です。ちょっと前までランドセルを背負っていたような子たちです。そんな素人の集まりですから、戦うための厳しい訓練をしなければなりません。
中には敵の戦車にめがけて、爆弾を抱えて体当たりする訓練もありました。
死ぬための訓練ですよね。
栗林中将は、死ぬのがわかっていながら、兵士に苦しみながらトンネルを掘らせ、かつ、つらい軍事訓練を受けさせたのです。これって、死ぬのがわかっている末期ガン患者に、安楽死も許さず、モルヒネも与えず、苦しんでから死ねと言っているようなものですよね。これほど残酷なことはありません。
もし、皆さんが硫黄島の最高司令官だったとして、たとえ日本の大都市を空襲から守るという理由があったにせよ、部下たちに、このような人間性を無視した冷酷な命令ができますか?
この冷酷なことを栗林中将はやり遂げたんです。
栗林忠道という軍人は、兵士がマラリアにかかれば氷を持って見舞いに行ったり、軍属の若者に写真を撮らせてあげたいと、じっと待つ温情あふれる面があると思えば、このような過酷な命令もできる非情な面を持っている人だったのです。
特にこの戦車の体当たり攻撃は、彼の冷徹な計算がなされた戦いです。
アメリカ軍のシャーマン戦車は、それまでの島嶼の戦いでは一台の損害も受けたことがありませんでした。それほど頑強な戦車だったのです。日本の旧式の戦車ではまったく歯がたちませんでした。当時アメリカでは日米の戦車の違いは、フォードA型と新型キャデラックの違いと言われていたほどでした(日本人にはちょっとわかりにくい例えかもしれませんが…)。
栗林中将は長年のアメリカ軍の研究において、最新鋭のシャーマン戦車の弱点は、側部キャタピラの下であることがわかっていたので、兵士たちに爆弾を抱えてその弱点部分に体当たりする訓練をさせていました。その結果、この硫黄島の戦いで、この肉弾戦により、なんと!270両のシャーマン戦車を破壊しました。太平洋戦争で、日本軍がアメリカ軍のシャーマン戦車を破壊したのは、後にも先にも、この硫黄島の戦いのときだけでした。
無謀なことをするたとえに、竹やりで機関銃に立ち向かうという言葉がありますが、生身の人間が戦車に体当たりするなんて、フツーこんな恐ろしいことを誰も考えつかないですよ。
なぜ彼がこのようなことを考えつくかというと、彼が合理的に物事を考える人だからです。
彼には皇国、国体、聖戦、死の美学などというあいまいな言葉はありません。具体的に考える人なんです。
栗林中将は、軍人は一般の人たちが普通の生活ができるために存在する、と信じていました。その一般の人たちを守るためには、これまでの島嶼戦の日米の戦いを分析し、アメリカ軍の弱点を攻撃することだと考えます。そして今ある兵力で最小の損害で、いかにアメリカ軍に最大の損害を与えるか。そこには情が入り込む余地はありません。彼の頭の中にあるのは最大効率なのです。「どうせ死ぬ運命であれば、兵士の命を有効に使わせてもらおう!」、栗林中将はこう考えたんです。
ここのところは、読者の栗林中将の評価が分かれるところではないでしょうか。
「栗林ってのは、悪魔のような、とんでもない野郎だ!」って、思う人もいれば、「いやいや、戦争だったのだから仕方がない。むしろ、本土の空襲を防ぐためによく戦ってくれた」と言う読者もいるでしょう。
実は、出版界でも栗林中将の評価は分かれています。
栗林中将は類まれな知将で優れた人物であると評価する本もあれば、ある新聞社が出している「玉砕の島々」という本は、硫黄島で亡くなったおびただしい兵士たちの無残な死体の写真を掲載し、栗林中将を、二万人あまりの兵士を死に追いやった冷酷無比の人物として紹介しています。
感情的にみればいろいろな評価が出てくるでしょうが、ここでちょっと歴史の見方についてお話します。
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皆さんに質問します。
アメリカ合衆国史上、もっとも多くの人を殺した人物は誰でしょうか?
切り裂きジャック(Jack the Ripper)じゃありませんよ。
切り裂きジャックなんて、せいぜい20人から30人くらいの人間を殺したくらい。この人物に比べたら切り裂きジャックなんて、アブドーラ・ザ・ブッチャー(古いかな?)に比べた幼稚園児みたいなもんです。それに切り裂きジャックはアメリカ人ではなく、イギリス人でした。
アメリカ合衆国史上、もっとも多くの人を殺した人物とは?
答えはエイブラハム・リンカーンです。
アメリカ合衆国第16代大統領のリンカーンは、南部の州が合衆国を脱退し、独立宣言をした時、アメリカの分裂を防ぐために、武力行使を決断しました。そして4年間にわたる内戦(南北戦争)が開始され、終結するまでに南北双方の州で62万人の兵士が亡くなりました。
彼が武力行使なんてことを決断しなければ、これだけ多くの兵士の命が失われることはなかったのです。
にもかかわらず、アメリカ人に、「もっとも偉大な人物の名前を二人挙げて下さい」と質問すると、ほとんどのアメリカ人は、ジョージ・ワシントンとエイブラハム・リンカーンの名前を挙げます。
リンカーンの非情な決断により、62万人という兵士の命が失われているのに、なぜアメリカ人はリンカーンを偉大な人物の一人に挙げるのでしょうか?
それは彼らの歴史的評価が感情と切り離されているからなのです。
アメリカ人が歴史上の人物を評価する場合、歴史的業績という普遍的な基準から行います。その歴史的業績とは、①その歴史的行為が後世にどれくらいポジティブな影響を与えたか、②その歴史的行為がどれほど困難であったか、という二点から考察します。
アメリカ人にとって、アメリカの独立に次ぐ、後世にポジティブな影響を与えた事件は、南北戦争でしょう。当たり前ですよね、リンカーンが武力をもってしてアメリカの分裂を食い止めなければ、今のアメリカ合衆国は存在しなかったのですから。しかも、難易度も文句なし。南北戦争後に南部州と北部州の遺恨を残さず、有名なゲティスバーグの2分足らずのスピーチで、それまで帰属意識がそれぞれの州にあったアメリカ国民に、「自分たちはアメリカ国民である!」という、国民意識(ナショナリズム)を持たせるという奇跡を起こしたのです。この時、アメリカ合衆国は、リンカーンによって、初めて真の国民国家(Nation State)となったのです。
だからアメリカ人にもっとも偉大な人物を二人挙げて下さいと質問すると、彼らはこの普遍的な基準から歴史的業績を判断するため、ほぼ同じ人物の名前が挙がるのです。
日本人は感情から判断するので、どうしてもリンカーンは奴隷解放をした人道主義者だから偉い、ワシントンは正直に桜の木を折ったことを父親に告白したから偉い!って、なっちゃうんですよね。
リンカーンよりも偉大な人道主義者はたくさんいますよ。リンカーンは奴隷の人権擁護に関しては、第6代大統領のジョン・クインシー・アダムスの足下にも及びません。彼は政治生命を賭けて奴隷のために戦った政治家です。正直者という点では、世の中にワシントンより正直者は五万といるでしょう!だから、人道主義や正直者という観点からいうと、厳密には彼らはもっとも偉大な人物として名前を挙げられる人たちではありません。
日本人の歴史観をもっとも表しているのが、国民的人気番組の「水戸黄門」と「遠山の金さん」です。
「この紋所が目に入らぬか!控えおろう~!頭が高い!」
「この桜吹雪がおめーらの悪事をすべてお見通しなのさ!」
悪いやつらをやっつけて、なんか、気持ちがすっきりしますよね。
でも、これって感情面から見ているからおもしろいんですよね。
アメリカ人から見ると、「水戸黄門」も「遠山の金さん」も、近代司法制度をまったく無視したとんでもない番組なんです。彼らからすると、「水戸黄門」や「遠山の金さん」は、裁判官、検察官、弁護人をすべて兼ね備えた恐ろしい権力の怪物・リバイアサンのように映るようです。もし、アメリカでこのような番組が放映されたら、青少年のこころを蝕むポルノより有害な番組として、アメリカ国民は子供たちに見せないと思います。水戸黄門がおもしろい!なんて言う変なアメリカ人は、デーブ・スペクターくらいですよ。他にはいません。
もし、この歴史的業績という基準で戦中・戦後の歴史を見ると、日本人の中で最も偉大な人物は、この栗林忠道中将ということになると思います。
彼が硫黄島の兵士二万一千人を指揮し、アメリカ海兵隊と史上稀に見る熾烈な戦いにより、彼らに「もう二度と日本人と戦いたくない…」って思わせることができたから、アメリカは戦後、彼らにとって不利な日米安保条約を結び、経済援助を行い、そして沖縄や小笠原諸島を自主的に日本へ返還したのです。戦後60年の日本の平和と繁栄は、硫黄島の戦いのおかげです。だから、これほど後世にポジティブな影響を与えた人物は他にいないでしょう。しかも難易度も十分。寄せ集めのロートル軍団を率いて、世界最強のアメリカ海兵隊と互角以上の戦いをしたのですから。
もし外国人に、「日本の戦中・戦後の偉大な人物は?」って聞かれたら、皆さん、日本人として、「It's General Kuribayashi!」って、答えなければいけませんよ。
あぁ、それなのにそれなのに、ほとんどの日本人が硫黄島の戦いも、栗林忠道中将も忘れてしまったのです。栗林中将の出身地である松代町に行っても、栗林中将を知っている人はほとんどいません。お土産店で栗饅頭は売っていても、栗林饅頭は売っていないのです。中将のお墓がある明徳寺は、地元の旅行パンフレットには、カエルがたくさん集まってカエル合戦が行われることで有名だと書かれていても、栗林中将のことは何一つ紹介していません。
地元ですらこうなのですから、ほとんどの日本人が知らないのも無理ないか…。本来は栗林中将は国民的英雄として、お札に印刷されていてもおかしくないのですがねぇ~。
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話を硫黄島にもどしましょう。
死ぬことはわかっていても、持久戦に持ち込み、できるだけアメリカ軍に損害を与える。そのためには、水際作戦を放棄し、後方陣地(地下壕)構築しかない。そのような作戦を準備することは、硫黄島の水や食料の乏しい状況では、兵士に死ぬ以上の苦しい過酷な労働を強いることでした。
前にもお話したように、師団というのは最大の単位です。その最高指揮官である師団長には、戦場で命令する上の者はいないのです。つまり師団長の判断で、兵士は戦い死んでいくのです。
二万余りの兵士に、死ぬことがわかっていながら、潔い死を許さず、過酷な訓練と後方陣地構築というつらい労働をさせなければならない。そのような非情な命令をしなければならなかった最高指揮官である栗林中将の心中はどのようなものであったのか。相当苦しんだのではないかと思います。
もし、これが大本営の軍部官僚である大将や中将であれば、彼らにとって戦争は将棋のようなもの。兵隊は単なる駒でしかありませんから、なんとも思わなかったでしょう。でも、これまでお話しておわかりのように、栗林中将は自分より下の者たちも対等の一人の人間として考える人でした。
栗林中将が近衛師団の師団長だったころ、前掲の貞岡さんが栗林中将の家に行ったとき、栗林中将と家族の食卓に、女中さんもいっしょに食事を取っていたことに驚いた、と戦後述べています。当時の時代は、女中さんがその家族といっしょに食事を取るという風習がありませんでした。ましてや、軍人のほとんど最高位にいる人と女中さんがいっしょに食事を取るなんて考えられないことだったのです。栗林中将は女中さんでさえ対等の一人の人間として接したのです。
栗林中将はこんな性格の人ですから、兵隊が単なる駒とは思えませんでした。
こういう時って、人間はなんらかの折り合いをつけるんですよね。
彼は兵士たちに死ぬとわかっていながら、出来るだけ長く地獄のような生を生きさせて、戦うことを命じるために、ある覚悟をしました。
その覚悟とは、「常に兵士と共にあり!」と、いうものでした。
最初、硫黄島の第百九師団を含む小笠原兵団の司令本部は、同じ小笠原諸島の父島に置かれることになっていました。父島のほうが水もあるし、居住条件が硫黄島よりずっと良かったからです。ところが、栗林中将は小笠原兵団に兵団長として赴任してくると同時に、司令本部を硫黄島に移動しました。
つまり、栗林中将は常に兵士と寝起きを共にして、同じ苦しみを最後まで受けようと決心したのです。
彼のこの覚悟がどれほど異色のものであるかは、おそらく現代の日本人にわからないと思います。なぜかというと、中将という階級がどれほど偉い軍人なのかということが実感として湧かないからです。
そこで基礎知識として、軍人の階級と当時の軍人が世間でどのように思われていたかについてちょっと解説しますね。
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陸軍の場合、階級は以下のように17階級あります。
将官: 大将、中将、少将
佐官: 大佐、中佐、少佐
尉官: 大尉、中尉、少尉、准尉
兵: 曹長、軍曹、伍長、兵長、上等兵、一等兵、二等兵
位としては上から、将官→佐官→尉官→兵のようになります。またそれぞれ大→中→少のように、左にいくほど位が高くなります。
将官、佐官、尉官を含めて将校と呼びます。特に将官(大将、中将、少将)は高級将校と呼ばれます。
将校になる人たちは、一般に士官学校という軍人専門の学校を卒業した人たちです。特に高級将校は、陸軍大学を優等な成績で卒業した人たちから、いずれ選ばれて昇格します。ちなみに栗林中将は陸大の35期生で、2番の成績で卒業しています。
今と違って昔の日本では軍人は尊敬されていました。陸軍大学と帝国大学(現東京大学)の両方の入学試験に合格すると、どちらを選ぶか迷うほど、高級将校である軍人は名誉ある職業でした。良家の子女の憧れの嫁ぎ先は、帝国大学を卒業した官吏よりも、陸軍大学出身の軍人だったんですよ。
皆さんは戦場ですべての軍人が銃を持って戦うと思っているでしょう。
それは間違いです。
実際に銃を持って戦うのは兵、つまり曹長以下の兵士たちです。基本的には将官、佐官、尉官の将校は戦場で戦いません。とくに高級将校(大将、中将、少将)になるようなエリートコースに乗っている軍人は、戦場にすら行くことはありません。
じゃ、彼らは何をするかというと、司令本部を設けて、そこで作戦を立てて兵隊を動かすのです。大将や中将は師団長、少将、大佐は旅団長、中佐や少佐は連隊長、尉官クラスは参謀を務めます。彼らはそれぞれの役割分担をして、司令本部に集まって作戦を立て、駒である兵士をどのように動かすかということを話し合うのです。
この司令本部は通常、前線から離れたところに置かれるのです。
将校たちは、安全なところで作戦を練り、前線へ指示を出すのです。将校たちは食べ物も違うんですよ。私の父は現在85歳で、戦争中は "マレーの虎(マネーの虎じゃありませんよ!)" で有名な山下泰文大将のトラ兵団(第14方面軍)に所属し、フィリピンに進軍していました。そこで私の父は司令部付きになり、一人の将校(中尉)の食事や洗濯、また彼の乗る馬の世話係をしていました。(私の父は司令部付きになったおかげで、前線で戦う必要がなく、戦死せずに済みました。)
父の話によると、将校は食べ物の物資も別便でくるのだとか。中尉程度でもかなりの待遇を受けているので、ましてや中将や大将といった高級将校の待遇は一般の兵士たちからすれば、考えられないような優雅な生活だったんです。
中将や大将は国内においては、閣僚クラスです。陸軍大臣は中将や大将から人選されます。東条英機首相も階級は中将でした。ですから、戦地にいても中将や大将の待遇は一般兵士と比べ、格段の待遇を受けていても、誰も文句を言わないし、それが普通であると思われていました。
どうですか。ここまでお話しすると、中将といわれる階級の人がどれくらい偉いか実感できましたでしょうか。その偉い軍人が硫黄島に来て、一般の兵士と同じ生活をするということが、当時としてどれくらい異色のことであったかがお分かりいただけたかと思います。
会社でいえば、ソニーの盛田昭夫やパナソニックの松下幸之助なんて大企業の社長が突然に独身寮にやってきて、一般のヒラ社員と同居するようなものでした。いや、それ以上の驚きだったのです。石破防衛大臣がサマーワにやってきて、自衛隊の兵舎で隊員たちと寝起きを共にするようなもんです。
栗林中将は生活を共にするだけでなく、兵士といっしょになって戦い、玉砕する覚悟だったのです。
最高司令官である将軍が塹壕に最後まで立て籠もって、一般兵士と共に殉ずるということは通常ありません。心ある将軍であっても、兵士が全員玉砕すると、後方にある司令本部で自決するのが普通です。ところが、終戦間際は軍部官僚制は腐敗していました。部隊が全滅しても腹を切らずに、そのまま逃げちゃう最高司令官がゴロゴロと出たんですよ。
たとえば、日本軍が中国で占領していた都市が敵軍に落とされそうになったとき、兵隊をおいて敵前逃亡した大将。特攻隊を送り出すときに、「君たちを送り出し、最後の一機になったら自分もそれに乗って君たちの後を追いかける!」と訓示していた中将が、最後の一機になったら、それに乗って台湾へ逃げちゃった。もっとひどいのになると、フィリピンで自分の兵隊が30万人もバタバタと死んでいるのに、遠く離れたサイゴンの旧フランス領事館で愛人と酒池肉林の生活を続けた元帥(上級大将)。
マッカーサーだって、フィリピンで山下泰文大将に攻め込まれたとき、"I shall return !" なんて、格好いい捨て台詞を吐いたけど、実際は数万人の自分の兵隊を置き去りにして、さっさとオーストラリアに逃げたんです。
こんなもんです、大将や中将なんて。中には兵士の命を大切にするように大本営に訴える高級将校もいましたが、大概の大将や中将にとって兵隊は捨て駒です。それに比べると、栗林中将はあまりにも「バカ」がつくほどの実直な人でした。
「自分も君たちと同じ苦しみを味わうから、どうか非情な命令をしなければならない自分を許してほしい…」
栗林中将の心の中には、そんな気持ちがあったのだろうと思います。
「常に兵士と共にあり」という覚悟を最後まで中将は通しました。
昭和19年6月に硫黄島に着任してから玉砕するまでの9ヶ月間、彼は一歩も島から外に出ることはありませんでした。
これ、驚くべきことです!だれでもちょっと息抜きをしたいものじゃないですか。いろいろ理由をつけて、近くの父島へ出張することは彼には可能だったのです。父島へ行って、風呂に入って、冷たいビールでも飲んで、「フー」って一息つくことはなかったんです。
それどころか、大本営との打ち合わせには、自分の代わりに高級副官を東京に送りました。また大本営が父島に来ても、硫黄島に呼びつけて、自分が父島に行くこともなかったんです。本当に意思の強い人だったんだろうと思います。恥ずかしいながら、私にはできません…。
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兵士たちと同じ生活をするという栗林中将の覚悟は徹底していました。
特に水については自ら厳しく諌めていたようです。
「川もなく井戸もないから全部雨水を貯めて使うので、水は極度に節約します。マリーの飯椀に使った洗面器くらいにホンの少し水を入れて顔を洗い(目を洗うだけ)、その後で藤田が洗い、残りは丁寧に取っておいて便所の手洗い水にするという有様です。もっとも普通の兵隊たちはそれすらできません。(昭和19年8月2日付 妻・義井宛)」
マリーというのは、当時栗林家で飼っていた犬の名前です。犬の餌を入れる程度の小さなお椀に水を入れて顔などを洗っていたのです。この水の節制ぶりは周りの部下たちを驚かせたようです。
米軍上陸直前に、大本営との打ち合わせを命じられて東京へ出張し、そのまま帰島できず結果的に生き残った第百九師団の高級副官小元久米治少佐は、島での栗林中将の生活の様子を、戦後、次のように語りました。
「栗林兵団長は軍紀の厳しい将軍であり、時間の厳守、即時実行主義の人であった。しかし、温情あふるる一面もあった。絶えず島内を巡視し、隈なく地形地物を記憶し、陣地の編成、構築を指導し、この間ポケットに恩賜(おんし)のタバコをしのばせ精励する歩兵に分けておられた。/コップ一杯の水で歯を磨き顔を洗っておられた。/司令部でも野菜を作り始め、これを炊事に供出した。(『闘魂・硫黄島』堀江芳孝著)」
栗林中将は着任してから司令部が出来るまでの数日間、硫黄島の住民で、硫黄島産業という会社の常務だった桜井直作さんの自宅の一室を間借りしていました。桜井さんは戦後、栗林中将についてこう語りました。
「栗林閣下とは縁側でよく食事を一緒にしましたが、水の節約に率先されたのには敬服しました。ひげの生えた参謀長の方と藤田副官一緒でした。(『闘魂・硫黄島』堀江芳孝著)」
もともと、この硫黄島に二万一千人の兵士が住むことに無理がありました。
硫黄島には戦前から住民が住んでいましたが、わずかに一千人ほどの人口でした。だから雨水でやってこれたのです。
アメリカ軍の分析官は、硫黄島の地理的条件から、硫黄島に潜んでいる日本兵士の数は最大一万三千人と見積もっていました。それ以上は、雨水の量からいって不可能だろうと判断していました。そこへ二万一千人の兵士が入り込んだんですから、水の消費量を極度に抑えなければならないわけです。
硫黄島の兵士たちに配給される水は、一日水筒一本と決められていました。この水筒一本で、夜間は地熱が50度というトンネルの中で穴掘りを行い、そして、昼間は戦闘の訓練をするのです。その貴重な水も、しばしば汚染されており、多くの兵士たちがパラチフスや下痢に悩まされたといいます。彼らはこの配給される水筒の水を「鬼の水」と呼んでいました。
特にトンネル掘りは想像を絶してきつかったようです。
地下20メートルから30メートルを掘り下げ、そこから横に掘り進んで、他の地下陣地とつなげていくのですが、蒸し暑く、かつ、ところどころで硫黄ガスが噴出してきます。喉が焼け付くようにカラカラ。でも供給される水は生暖かい汚れた水の入った水筒1本。想像しただけでも、なんか息苦しくなってきますよね。
硫黄島で野戦病院の衛生兵となった毎日新聞写真部員の石井周治さんは、地下陣地掘りの作業について、戦後このように語りました。
「空襲と艦砲射撃の間を見計らっては、地質の固そうな場所を掘った。コツン、コツンとツルハシで掘るので、一日かかっても手掘りでせいぜい1メートル、ダイナマイトを使っても2メートルがやっとであった。地熱の高いところでは地下足袋の底が融け、硫黄ガスのせいで頭痛がして呼吸が苦しくなる。褌一本の姿でツルハシやスコップを振るうのだが、5~10分で交代しなければならなかった。穴の中は地熱が強く、暗闇の中の労働なので、その10分間でさえも非常な苦痛である。手は豆だらけ、肩にはシコリができ、地熱にあえいでも咽喉がひりひりしても、飲む水がない。(『硫黄島に生きる』より)」
作家の梯久美子さんは、取材で硫黄島に訪れ、地下壕に入ったときの感想をこう述べています。
「実際に地下壕の奥深くに下りてみると、たとえそれがわずかな時間であっても、暗闇と澱(よど)んだ空気に圧迫され動悸がしてくる。 - 硫黄島戦闘の特色は、敵は地上に在りて友軍は地下に在り - 海軍司令官、市丸利之助少将による戦訓電報の電文が甦る。栗林が選んだ戦法の過酷さが、あらためて胸に迫った。(梯久美子著・『散るぞ悲しき』より)」
前掲の石井周治さんは、戦後7年経って再び硫黄島の土を踏みました。司令部壕の内部に入ったときのことを次のように記しました。
「私が懐中電灯で壁を照らし、天井を照らし足下を照らすと、前方でキラリと光が反射した。ハッと見直すと、どうしてできたのだろう、水溜りであった。むろん地下水なぞ一滴もあろうはずはないのだから、その水は外部から入ったものとしか考えられない。とすると、スコールなどの雨水が、七年の歳月の流れとともに、いつしか暗い洞穴の窪みに水溜りを作ったのだろう。もしこの水が、あの壕掘りの時にあったらと思う。私は無意識に、暗い中で、その水溜りを泥靴で汚さぬように、よけて歩いた。」
無意識に、暗い中で、その水溜りを泥靴で汚さぬように、よけて歩いた…
渇水に苦しめられた人にしか書けない表現ですよね。みんな真水に飢えていました。壕(トンネル)掘りはそれほど過酷なものだったのです。
そして、アメリカ海兵隊が上陸してからは、その「鬼の水」さえ配給されなくなり、渇水地獄の中を36日間生き続けて戦うことになるのです。
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栗林師団長は兵士たちだけに水の節約を課しませんでした。優遇されがちな将校にも水の節約を厳しく求めたのです。
私の父が従軍したトラ兵団のところでお話したように、将校は寝るところから食べるものにいたるまで、一般の兵士たちとはまったく違っていました。戦場で優遇されるのは将校たちの特権のようになっていたのです。栗林師団長はそれを許しませんでした。
ある日のこと、師団長が巡回をしている時、将校のひとりが水槽にタオルを浸して、汗をぬぐっているのを目撃しました。
この時、栗林中将は烈火のごとく怒りました。銃殺に値するとまで言いました。
「貴様がいま無駄にした水で、このあといったい何人の命が救えたと思っているのか! この島では、水の一滴は血の一滴だと思え!」
こうして、栗林中将は、自分たちは特権を持っているんだと思いがちな将校すべてに、一般の兵士たちと同様に水の節制を守るように説いてまわりました。
栗林中将は食べるものも、まったく兵士たちと平等にしました。6月25日に全将校に向けて発した「師団長注意事項」の中で、彼はこう言いました。
将校ハ兵ノ食事ニ万端ノ注意ヲ払ウコトヲ要ス。将校ノ分ノミ別ニ炊事シ兵ノ給食ガ如何ナル状態ニ在リヤニ無関心ナルカ如キコト断ジテアラザルヲ要ス。
将校の食事を特別に作って、兵士たちの食事が粗末になってはいけない。つまり、簡単にいうと、将校は兵士たちと同じものを食べろと言っているのです。
もちろん、栗林中将も兵士たちと同じものを食べました。
異例のことに当番兵たちは困惑したといいます。軍隊では階級によって食事に供される皿の数から細かに規定されていました。兵士たちと同じにしろといわれてもどうして良いかわからない。
彼はそんな困っている兵士たちに、決まってこう言ったそうです。
「かまわないから、さらだけ並べておけ!」
こうして、師団長は空の皿を前に並べて、兵士たちと同じように、食事を取ったそうです。
これ、考えてみれば、当たり前の話なんですよね。軍隊の8割~9割くらいは兵士が占めています。そして前線で実際に銃や火器を使って戦うのは、将校ではなく兵士です。栗林中将は合理的に物事を考える人でしたから、将校よりも兵士を大切にしたのです。
明治時代の軍人のバイブルであった「軍人勅諭」にはこう書かれています。
「兵休まざれば将休むべからず。兵食わざれば、将食ふべからず。兵と苦難を同じうし、労逸を等しうするときは、兵も死を致すものなり。」
明治の元勲たちは、この軍人勅諭をきっちりと守りました。だから、明治の時代には、大山巌、児玉源太郎、乃木希典といった優秀な軍人が多く輩出されたのです。日清戦争や日露戦争が勝てた理由はここにあります。
軍人勅諭には、また、このように書いてあります。
「軍人は忠節を尽くすことを本分とすべし。兵力の消長は、是国運の盛衰なることをわきまへ、世論に惑わず政治に拘らず、只々一途に己が本分の忠節をまもるべし。」
軍人勅諭では、軍人は政治に関わるなと言っているんです。
ところが、昭和の時代になって、軍部官僚は強いエリート意識を持ってしまったんです。「自分たちは他より優れているから、なんでもしていいんだ!」 こう思っちゃったんですね。こうして、軍部官僚制はいつしか腐敗していきました。だれも軍人勅諭を守らなくなってしまったのです。そして、軍人の本分を忘れ、兵を軽んじ、政治というオモチャに夢中になってしまいました。これが彼らが戦争目的を忘れてしまった大きな理由です。
そんな中にあって、栗林中将は軍人勅諭を忠実に守った人でした。彼は政治の世界に関わることもなく、軍人としての研究や修練を積んできたのです。
冒頭、栗林中将は軍人らしくないと書きましたが、軍人勅諭に忠実だったという意味では、本当の軍人だったと言ってもよいでしょう。
ちなみに、この軍人勅諭に関して言えば、もう一人、軍人らしい軍人がいました。
ホーランド・M・スミス中将です。彼は日本の軍人勅諭は読んだことがないでしょうが、彼の行動は軍人勅諭そのものでした。
彼は常々こう言っていました。
「兵士がまず食べろ、次が将校だ。そして最高指揮官が最後に食え!」
彼もまた、合理主義者です。戦う兵士をもっとも大切にしたんです。
スミス中将もまた、部下である海兵隊員を「マイマリーンズ」と呼んで、「常に兵士と共にあり!」ということを実践した最高指揮官でした。「机に座っていて何がわかるか!」と、アメリカ軍の上層部を公然と批判し、彼は弾が飛んでくる前線に危険をかえりみず足を運ぶ将軍だったんです。
彼の回想録には、このようなことが書かれています。
「私はかつてニミッツ提督に言った、『海兵隊員は日本兵と同じく喜んで祖国のために命を捨てる。海兵隊が全滅することがあるかもしれないが、海兵隊の敗北ということは決してない。私の海兵隊は最後の一兵まで戦い続ける。断じて捕虜にはならない。そういう最後のときが来たら、生きて事実を伝える者は誰一人いなくなるが、私は最後まで海兵隊員のそばを離れない!』 本気で私はそう言った。」
一見、吠えまくるスミス中将と温厚な栗林中将は、対照的なタイプに思われるかもしれませんが、この二人にはこのように共通点が多かったのです。ハウリング・マッド・スミスというあだ名とおり、彼は上級将校を罵倒することはあっても褒めることはしない人でした。ところが、戦後、スミス中将は、敵将である栗林中将に対してだけは賛辞の言葉を惜しみませんでした。それは彼が栗林中将の戦い方や生き方の中に共感するものを見たからだと思われます。
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硫黄島で欠乏していたのは水だけではありません。
彼らは新鮮な野菜にも飢えていました。
硫黄島は火山灰が堆積した島なので、畑の作付けができません。生野菜が絶対的に欠乏していました。兵士たちは野菜の変わりに、味けのない乾燥野菜をおかずに食べていました。
兵士たちと同じものを食べていた師団長の手紙にこのようなことを書いています。
「毎日乾燥野菜ばかりですがゴジゴジして閉口です。しかしあまり痩せもしないところを見ると滋養はあるのかもしれません。(昭和19年11月17日付け 妻・義井宛)」
これに対して、栗林中将の家族は、缶詰やウイスキーなどを送ろうかと手紙を出したようです。最高司令官の荷物であれば、フリーパスですので、なんでも送ることができました。しかし、栗林中将は、「自分は兵士たちより恵まれた立場なので十分足りている」、「大事な輸送物資を載せる飛行機なのだから、手紙以外は何も託さないように」という意味の手紙を書き送っていました。
「常に兵士と共にあり」ということを実践していたことが伺えます。
大本営参謀だった朝枝繁春中佐は、作戦連絡を伝えるために昭和19年7月に硫黄島を訪れました。その時に、生野菜や水が欠乏しているということを聞いていたので、ナス、キュウリ、トマトなどの野菜や、水を4斗樽を持って行ったのだそうです。勤務兵に手渡すと、拝むように受け取り、「おおぃ~、みんな湯飲みをもってこ~い!」っと大騒ぎになったそうです。
栗林師団長の分はべつにかごにとってあったので、それを直接渡しました。
その時の様子を、朝枝中佐は、戦後このように書いています。
「一籠の生野菜はこれを師団長にお届けした。将軍は目に涙、副官に命じ、小刀で雀の餌ほどに小きざみにし、連隊長以下できるだけ多くの将兵に分け与えられ、自らは一片も口にせられなかった。それどころか将軍は僅かのパパイヤの実を集めては、漬物を作り、周りのものに与えておられた。昭和の乃木将軍かと深い感銘を受けた。(小笠原兵団の最後)より抜粋」
どうですか?皆さんの心の中に、栗林忠道という軍人がどのような人であったかという人物像ができましたか?
世渡りが下手そうだけど、とても好感の持てる人物でしょう。
あくまでも自分に厳しく、周りの者たちには公正・厳格なリーダーであり続けた人なんです。
でも、恩賜(おんし)のお菓子が配られた時は、自分で手をつけずに自宅へ送りました。当時は甘いお菓子はなかなか手に入らなかったんです。お菓子に添えた夫人への手紙には、小さく「家だけで食べること」と書いてありました。昭和の乃木将軍か日本版ガンジーを思わせるような人でしたが、家族に対してだけはどこにでもいるような普通の「甘~い」お父さんだったんですね。ちょっとホッとするのは私だけでしょうか。
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前にもお話しましたが、栗林中将には皇国、国体、天皇という概念がありませんでした。彼の手紙にはこれらの言葉は一度も使われていないことからもわかるでしょう。あくまでも具体的に考える人なんです。だから軍人がなぜ存在するかということについて、漠然とした皇国とか国体なんて言葉を使った考え方をしません。
ずばり、「軍人は普通の人が普通に暮らせるようにするために存在する!」、という信念を持っていました。
前掲、硫黄島に着任して間もないころ、司令部ができるまで硫黄島産業という会社の常務だった桜井直作さんの自宅の一室を間借りていたことを書きました。この桜井さんと中将の以下の会話に彼の信念が見えます。
「七月初旬サイパン玉砕の放送があったとき、私が『閣下、いよいよ硫黄島に敵を引きつけて叩くことになりますね』と申しましたら、いつも元気な閣下が、『われわれの力がなくて皆さんに迷惑をかけてすまないが、もうこうなってはどうしようもありません』と答えられたときには本当にびっくりしました。(闘魂硫黄島)より」
普通の将軍であれば、「全員玉砕の覚悟で、醜敵アメリカを撃滅せん!」ってな感じで、勇ましく敵を迎え撃つ気概を示すでしょうが、栗林中将はあっさり、「すみません」って、謝ってしまったんです。こんな将軍は当時どこにもいませんでした。普通将軍と言うのは威厳を保つために、いつでも偉そうにしているもんです。あまりに謙虚すぎちゃうというか…。こんなことだから、陸大を2番で卒業しながら、大本営に一度も入ることなく硫黄島なんかに配属されちゃうんですよね。
でも、硫黄島がいかに小さな島であっても、そこに住む人たちにとっては貴重な生活の場。戦闘になれば家や職場が破壊されます。「普通の人たちが普通の生活ができる」ように守ることが軍人の務めであるのに、それができないので、彼は謝ったんです。
普通の人が普通の生活ができるようにするのが軍人の勤め。
こう考える栗林中将は、一般の人たちを戦闘に巻き込むことは耐えられないことでした。
そこで彼は着任して一箇月で、島民の内地送還を決定します。
これも当時としては異例のことでした。
戦争末期は、大東亜戦争(太平洋戦争)は、総力戦になっていました。国民は「軍国の民」として、等しく戦争に貢献することが求められていたのです。ところが、彼はあくまで軍人は一般人を守るのが勤めであるという信念がありましたから、民間人を戦争に協力させるなんて、とんでもない!って思っていたんです。だからさっさと島民を内地へ避難させてしまったのです。
沖縄戦では10万人という民間人の犠牲者が出ましたが、軍属として徴用された若干の独身者を除き、これだけの激しい戦いが行われた硫黄島で、一人の民間人の犠牲者を出さなかったのは、早い時期に栗林師団長が島民の避難を決定したからでした。
彼は慰安所も置かなかったんですよ。
これは、一般の兵士や将校たちにはつらかったでしょうねぇ~。
私の読者には女性の方たちもいらっしゃるので、「かいちゃんってそんな人だったんだ!」って思われてしまうかもしれませんが、男が普通の精神状態でいるためには、女性が近くにいることは必要なんです。ましてや兵士たちは、「ひょっとしたら明日は自分の命は無いかもしれない…」、そう思ったら、一夜だけでも女性といっしょにいて、嫌なことは忘れたいと考えても仕方がないように感じます。
でも、栗林師団長にとっては、慰安婦もまた、軍人が守らなければならない「一般人」だったのです。だから硫黄島には慰安所も設けませんでした。
その結果、アメリカ軍が上陸する7ヶ月前から、硫黄島は一人の女性も子供もいない男だけの島になったのです。
これ、想像しただけでもきついですよね。
明けても暮れてもトンネル堀りと戦闘訓練。水も食料も乏しい。ましてや酒もない。しかも気を紛らわしてくれるような、女性や子供がいなくなっちゃたんですよ。
ただただ、むさくるしい男たちが周りにいるだけ。
昭和19年1月末に大本営との打ち合わせで東京に出張し、その後米軍が上陸したため硫黄島に戻れなくなり、結果として生き残った藤原環少佐はこの島での日々について、
「硫黄島には全然何もなく、金を貰っても買う物もなく、軍人以外は誰もいない殺風景なところであって、見えるものは天気のよい日に北硫黄島がかすかに見えるだけで、その他は海ばかりである。私も6ヶ月で頭が変になりそうであった。」
と、正直な感想を漏らしています。
女性も子供もいない男だけの島。水も食料も欠乏している。そして毎日毎日、トンネル掘りと戦闘訓練。しかもいつアメリカ軍が上陸してくるかわからない恐怖…。
硫黄島の将兵たちは、ゴールの見えないマラソンをひたすら走り続けたのです。
『硫黄島の星条旗』の著者、ジェームズ・ブラドリーは、「酒も娯楽もなく一人の女性もいない島で、兵士たちが8ヶ月もストレスに耐えたのは奇跡である」と、語っています。
確かに、戦争中、極度のストレスにさらされた兵士たちが反乱を起こした例はたくさんあります。
なぜ、将兵はこれほどのストレスに晒されながら、硫黄島では軍紀が保たれたのでしょうか?
奇跡の秘密は、栗林師団長と二万一千人の兵士との付き合い方にありました。
それでは、栗林師団長が兵士たちとどのように毎日接していったのかを見てみましょう。
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硫黄島の戦いが終わって、生き残った日本人兵士一千人の聞き取り調査が、アメリカ軍によって行われました。
その結果、驚くべきことがわかりました。
なんと、生き残った兵士一千人全員が、最高指揮官である栗林中将の顔を知っているというのです。
顔を知っているだけではありません。
ほとんどの人たちが栗林中将に声をかけられたことがあるというのです。中には恩賜のタバコをもらったという兵士や、道で迷っていたら、杖をついた上半身裸の老人がやってきて、目的地の陣地まで案内してもらった。あとでそれが師団長であったことを知って驚いたという兵士。こういった兵士たちが沢山いたのです。
つまり、亡くなった兵士も含め、二万人を越える兵士たちすべてと、栗林師団長はなんらかの言葉を交わしていたということです。
二万人ですよ!驚くべきことです!
二万人を越える兵士のほとんどが、最高指揮官である将軍に会ったことがある戦場はまずありません。
実際、私の父(二等兵)はトラ兵団(第14方面軍)に配属され、そこで司令部付きの世話係になりましたが、一度も山下泰文中将の顔を見たことがないと言っていました。司令部つきの軍属でさえ最高司令官の顔をみたことがないのです。それほど師団長は偉い人なんです。
そんな偉い最高司令官と一般の兵士が接することができたら、こりゃ、士気が高まりますよね。皆さんだってそうでしょう!会社で、稲盛和夫さん(京セラ会長)のような伝説の経営者が下におりてきて、「君に期待しているからね」っと言われたら、徹夜してでもこの人のために働いちゃおう!って思っちゃいますよね。
かつて、破綻寸前だった日産自動車に、ルノーのジェネラル・マネージャーだったカルロス・ゴーン氏が乗り込んで来たとき、まずやったことは、ディーラーの支店を一軒一軒廻って、セールスマンと握手をして、一人ひとりを激励することでした。
もちろん、ゴーン氏が行った日産自動車の経営再建計画はこれだけではありませんが、ゴーン氏が社員の士気というものをいかに重要視していたかがわかります。
昭和40年に東芝が倒産寸前の危機に見舞われたときもそうでした。
後年、中曽根内閣で行政改革を断行し、旧国鉄や旧電電公社を解体してJRやNTTを立ち上げて有名となった土光俊夫さんは、当時、石川島播磨重工の社長でした。彼は東芝を救うために東芝の社長として送り込まれました。出社第一日目に、土光さんは誰よりも朝早く会社にでて、まず門番に、「今日から東芝の社長として働かせていただく土光と申します」と挨拶し、後から出社してきた一般社員にも挨拶して、彼らと机を並べて、営業の顧客周りを開始したのです。もちろん役員専用車などは使わずに、一般の営業マンと同様に、バスや電車に乗り継いでの営業です。当初、社員たちは驚きましたが、土光さんの真摯な仕事に対する情熱にこころを打たれました。一時は潰れかけた会社の特徴で、会社の雰囲気は暗かったのですが、土光さんの顧客周りに触発された社員たちの士気は高まり、業績は短期間でV字回復をしたのです。
どこぞの大会社の社長だった人のように、一般社員とかけ離れ、自分専用のジェット機を乗り回し、タレントの女の子といちゃついているようでは、いざというときに、社員の士気は上がりません。危機的な状況になると、部下は一人去り、二人去りという具合に、みんな離れていってしまいます。
ビジネスの世界でさえ、トップが下におりてきて、一般社員と共にありということを示すだけで、士気が高まり、業績が伸びるのです。ましてや、生死を賭けて戦う戦場で、士気の良し悪しは、直接勝敗に影響を与えることは容易に想像がつきますよね。
問題は、果たして二万人を越える将兵と接することが可能なのかどうか?
まず、普通に考えたって不可能ですよね。
だから、アメリカ軍は、「ジェネラル・クリバヤシは化け物か?!?!」って、思ったんです。
彼らは心底、栗林中将を恐ろしいと思いました。そして、いったいあと何人くらい、ジェネラル・クリバヤシのような軍部官僚が日本にはいるのだろうかと、アメリカ軍司令部内では真剣に話し合われたのです。当初、彼らは九州から上陸するつもりでしたが、栗林中将の影におびえ、その計画を変更してしまったほどでした。
ここまで、栗林中将の人柄を話してきたので、皆さんにはなんとなく二万一千人の兵士たちと言葉を交わすことが可能であることは感じていると思います。
栗林中将は、軍属の若者でも、自宅で働く女中さんでも、一人の人間として敬意を持って対等に接する人でした。だからこんなことができたのです。「自分はエリートだ」と思っている指揮官には絶対できないことです。
硫黄島に着任してからの栗林師団長は、毎日、水筒1本を肩にかけ、島を歩き回っては、地形を記憶し、それぞれの部隊で戦闘の細かな指示や、兵士たちと会話をしたそうです。
当時の写真を見ると、上半身は開襟シャツに、下は軍隊ズボンと地下足袋。杖を持った姿です。こんな格好だから一般兵士と見分けがつかないのです。ふら~と現れては、ニコニコ顔のお爺ちゃんがこちらを見ている。そのうち大隊長が師団長であることに気付いて、あわてて兵士を集めて挨拶をするということが多かったのです。
当時の師団長視察(?)の様子をいくつかの証言から見てみましょう。
前出の石井周治さんは新聞社に勤めていた時に内地で栗林中将と面識がありました。彼は『硫黄島に生きる』の中で、中将との再会をこのように記しています。
「その日も、副官室前を自転車を押して歩いていくと、右手の方から、杖を持った将官がやってきた。来たなと思って、私は直ちに直立不動の姿勢で敬礼した。その将官は、丸腰のかなりの老人である。この老人が、私どもの直属長官、栗林中将であった。中将は私のそばを通る時、『ご苦労』といわれた。その『ご苦労』という言葉に、やれやれと思って、中将の顔を良く見ると、栗林中将というのは、近衛師団長時代に、しばしば仕事の上で会ったことのある、あの栗林中将ではないか。
中将は、その私の声を聞いて、二三歩あともどり、私の顔に目を見据えていたが、
『ああ、君はあの新聞社の、…石、石、…と、石井君だったな』と、ニッコリと笑われた。
『そうか、石井君か。とんだところで会ったな。暇なときは遊びに来たまえ』
といって、向うにゆっくり歩いて行かれた。」
中将クラスになると、閣僚と同じですから、内地では多くのマスコミの取材などを受けたりします。普通いちいち新聞記者の名前など覚えていないものです。ところが、栗林中将は若い駆け出しの新聞記者だった石井さんの名前を覚えていたのです。栗林忠道という高級将校が、たとえ相手が地位の低いものであろうが、一人の人間として尊重し、人との出会いをいかに大切にしていたかということを物語っています。
以前、「最後の授業」というブログ記事で、400人の生徒の名前をたった一日で覚えてしまった河合先生という数学の教師の話をしましたよね。地位が上にある人に名前を覚えてもらえることは、下の者にとって、とても嬉しいものです。この時の石井さんも、著書の中で、「中将が私の名前を忘れずにいてくれたことが無上に嬉しい」と、感想を述べています。栗林師団長が二万人の兵士の名前をすべて覚えていたとは思いませんが、おそらくこれに近いほどの接し方をしていたものと思われます。
もう一人の証言を紹介しましょう。
硫黄島から生還した機関銃中隊長の阿部武雄さんは、陣地構築作業をしていると、「年寄りの将校さんらしい人がさっきから見ています」と部下がいうので、振り返ると、どこかで見た顔…。だれだっけとしばらく考えていて、はっと、以前遠くから見たことのある師団長だと気がついた。そこで、慌てて作業を一時中止して、笑顔でこちらを見ている栗林師団長のところへ走っていき、新陣地構築作業中である旨を報告した。阿部さんはその時の模様をこのように話しています。
「栗林師団長は私をタコの木の蔭に誘って先ずタバコを差し出し火をつけてくれた。こんな経験は初めてである。大隊長までならいつも顔を合わせて何でも言えるが、師団長となると顔を見ることもほとんどない。それが親しげにタバコを出し火をつけてくれるなんて普通考えられないことである。作業ズボンは汗と土で汚れ、上半身は裸、「お前は中隊長か。ご苦労だな」。それから兵隊たちの健康状態、陣地と火網構成要領等精しく説明した後一つ一つの陣地を熱心に見て廻られて指導された。地形地物の利用から射界と距離までも的確な意見を述べられた。去るにあたって、『これからは直属上官が来ても作業を中止しない方がよいな、そうしよう』と言われたが、次の日の師団長会報に、『以後、作業中上官が来ても先任者のみ報告し作業はそのまま続行、敬礼はしなくてよい』とあった。その後幾度か私の陣地に足を停められ、『タバコに不自由しているだろう』と何本か戴いたことを思い出す。米軍が上陸した場合は本土からの救援がなく玉砕戦闘となることを承知で硫黄島に責任者として着任され、深く部下に思いをいたして炎天下陣地を廻られた心情が痛いほど胸にこみ上げて来る。」
8ヶ月間に二万人を越える将兵と言葉を交わすということは、一日平均百人の兵士たちに声をかけたということです。
彼は毎日、徒歩で島中を歩き回っていたのです。
たとえ島が小さいとはいえ、もっとも遠い陣地まで行って司令部まで帰ってくるには、十数キロの距離があります。この時、栗林師団長は53歳。当時の50歳は今の50歳ではありませんよ。平均寿命は50歳代ですから、かなりの老人なんです。現代のような郷ヒロミや石田純一のような50歳代はいなかったのです。かなりからだにこたえたのではないでしょうか。
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このようにして、栗林師団長は毎日毎日陣地を徒歩で廻っては、兵士に声をかけたり、実地の戦闘訓練を支持していたのです。
当然のことながら、兵士たちの士気は高まりました。
でも、それだけではないのです。
日本兵士が、水も食料も尽き果てながら、自暴自棄になってバンザイ突撃をすることなく、最後の最後まで組織的に戦うことができた理由がもう一つあるのです。
それは、栗林師団長が兵士一人ひとりに志(こころざし)を植え付けたからなんです。
志(こころざし)って、なんだか知っていますか?
志とは、自分を越えたなにか尊いものに、命を賭けるという覚悟を言います。人はこの志を持つと、ものすごく強くなります。どんなに大きな困難があろうとも、決して諦めなくなります。
栗林中将は合理主義者でしたから、皇国とか国体なんて漠然とした言葉を使いませんでした。ずばり、軍人とは普通の人が普通の生活をするために存在するという信念を持っていました。
彼ら二万一千人の将兵たちは、この栗林中将の考え方に共鳴したのです。
彼らは、自分たちが戦う目的は、皇国とか国体なんてあいまいなものではなく、婦女子やお年寄りと言った人たちや、愛する家族を守るためであると考えました。彼らは志を持ったんです。だから彼らは、栗林中将が考えた作戦通り、渇水地獄の生を生き、ゲリラ戦をしかけて36日間も戦えたのです。
島嶼の戦いでは、バンザイ玉砕という無謀な戦いが多くありましたが、本当は兵士たちは皇国とか国体なんて漠然としたものに命なんかかけたくなかったのです。
日本人社会は、「和を持って尊しとす」の言葉とおり、周りの雰囲気とかに影響されます。だから周りに人がいると空気に流されて、「天皇陛下バンザイ!」なんて叫んで死ぬ人が多かったのですが、実際は一人のときは違う言葉を叫んだんですよ。知ってますか?
たとえば特攻隊兵士。
彼らが一人で敵艦めがけて突っ込んでいく時に叫ぶ言葉は、「天皇陛下バンザイ!」、じゃなかったんです。多くの特攻隊兵士が叫んだ最期の言葉は、「お母さ~ん!」とか、あるいは既婚者は愛する妻や子供の名前でした。
彼らは愛する者の名前を叫んで、最期の勇気を奮い起こしたんです。
皆さんだってそうでしょう。会社でがんばって働けるのは、愛する家族がいるからでしょう。愛する家族がいるから、つらいことにも耐え、社会という戦場に出て戦う勇気が出てくるのですよね。
栗林中将は合理主義者だから、当たり前のことを当たり前のように主張したのです。我々の戦う目的は、皇国や国体なんてものではなく、愛する家族を含む一般の人を守ることである。硫黄島で戦っている間は、日本が空爆を受けることはない。だから我々は一日でも長く硫黄島で戦うんだ。この栗林中将の呼びかけに、二万一千人の将兵が共鳴したんです。彼らは高い志を持ったのです。
これが、硫黄島兵士が最期の最期まで粘ることができ、硫黄島を占領したアメリカ軍に、「勝者なき死闘」と嘆じさせた奇跡の戦いを起こせた理由でした。
ところで、この志ですが、今の日本では志を持つことの大切さを学校で教えません。
戦後、自分を越えたなにか尊いものに命を賭けるという、志とか愛国心は、軍国主義に通じるということで否定されてきました。だから、ほとんどの人が、志とか愛国心という言葉を聞くと、「なんかうさんくせ~」って、拒絶反応が起きてしまうのです。
他の国の人たちは、「愛国心」という言葉を聞くと、胸が熱くなるというのに、日本ではまったくの逆ですよね。
その結果どうなったか?
多くの日本人が精神的に弱くなってしまいました。
ちょっとした誘惑に負けてしまう人たちや逆境に打ち勝てない人たちがたくさん出てきてしまいました。
国民から預かった年金をちょろまかしちゃう職員や、賄賂を積まれて口利きをしてしまう政治家。日本中にはびこる役人たちの天下りの構造や汚職といったモラルの低下等々…。最近では教育委員会までがおかしくなっちゃった。
そしてまた、人生の壁に直面し、それを乗り越えられない人たち。ちょっと人生につまずいたくらいで、「死んじゃおうかなぁ~」なんて思う人たちがいかに多いことか。
日本では現在、年間3万人の自殺者がでます。先進国でこれほど自殺率の高い国は日本だけですよ。
そもそも教育と言うのは、人生をいかに生きるべきか、ということを教えるものなのに、日本では一番大切な子供の時期に、知識のつめこみばかりを行っています。肝心なことを子供たちに教えていないのです。これじゃ、画龍点睛を欠くというか、仏を作って魂を入れていないというか、不完全な人間がぞくぞくと出てきて当然ですよね。
前総理の安倍晋三さんが、60年ぶりに教育基本法の改正を行い、「郷土を愛するこころ」という教育理念を組み込みました。外枠を固め、これから教育要綱等の内側の改革を進める前に残念ながら失脚してしまいました。これから日本を本気で変える強い意志を持った若い政治家が出てきて、それこそ安倍前総理の志を継いでもらいたいものです。
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話がちょっと教育問題になってしまったので、硫黄島にもどしましょう。
二万一千人の将兵が高い志を持ち、歯を食いしばって作り上げた地下陣地とはどのようなものであったのか。
日本では戦後、戦史を研究するということがなかったので、ほとんど硫黄島の資料というのはありません。アメリカ軍の調査書に頼らざるを得ません。
栗林中将が作り上げた地下陣地がいかに優れたものであったかは、アメリカ軍の調査書の中でも、敵将であったスミス中将のものが良いでしょう。スミス中将は実際に硫黄島で戦ったのですから、もっとも信頼性のあるものだと思います。
スミス中将は回想録の中で、このように述べています。
「太平洋で戦ったすべての敵の中で、栗林は最も手強い相手であった。太平洋の島々には、我々が名前しか知らない日本軍指揮官もずいぶんいたが、彼らにはこれといった特色もなく、その点、埋葬班が処理する敵兵の累々たる死体となんら異なるところがなかった。しかるに、栗林の個性は彼の構築した硫黄島の地下防備に深く刻み込まれていた。我々が栗林の残存部隊を『北の鼻』一帯に追い詰めるまで、彼は我々と対等に渡り合った。組織的抵抗が米軍上陸後数日で崩潰せず最後まで持続した点で、硫黄島戦はすこぶる注目すべき戦闘であった。 …中略… 栗林の地下陣地は、私が第一次大戦中にフランスで目にしたいづれよりもはるかに優れており、第二次大戦におけるドイツの地下防備をも凌ぐものだ。」
アメリカ軍は、上陸前に偵察機の撮影によって、地下陣地の存在を知っていましたが、スミス中将はここまで大規模なものとは思っていなかったのです。そりゃそうでしょう。日本兵が掘ったトンネルは全長18キロに及び、ほとんどがつながっていたのです。
スミス中将は地下陣地について、さらにこのように述べています。
「…、それはまさに『難攻不落の要塞の傑作』であった。天然の洞窟を活用し、他に新たに数百の洞窟を掘り、そのすべてを地下道で連結し、それをまた30乃至40フィートの深さに掘った地下壕と結びつけ、そこに大砲や迫撃砲を隠していた。 …中略… しかも地下壕や洞穴や通路からなる巨大な迷路が待ち構えていた。防衛陣地に対する驚愕を我々は日々新たにしたのである。」
…それはまさに『難攻不落の要塞の傑作』であった。
硫黄島の二万一千人の将兵たちは、敵の最高司令官が絶賛するほどの地下陣地を作り上げていたのです。
…防衛陣地に対する驚愕を我々は日々新たにしたのである。
アメリカ海兵隊がいかに苦戦したかがよくわかりますよね。スミス中将は、「栗林の個性は彼の構築した硫黄島の地下防備に深く刻み込まれていた」といったほど、栗林中将の後退陣地作戦はすぐれていたのです。
それでは、常勝将軍ホーランド・M・スミス中将を迎え撃つ知将・栗林師団長がどのように戦ったかをもう少し詳しく見てみましょう。
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まず、硫黄島の地理的な説明をします。硫黄島の地形を覚えましょう。
図が描けないので、頭の中で想像するか、紙にこれから説明する硫黄島を書いてみて下さい。
硫黄島はご飯をすくう杓文字(しゃもじ)のような形をしています。握りの部分を下に、大きな丸い部分を上にした垂直の杓文字を描いてみましょう。
硫黄島は杓文字と同じように平坦な島ですが、杓文字の細くなっている握りの部分の突端に、この島で唯一の174メートルの高さの山があります。この山はすり鉢山と言います。この山は、その名の通り、上から見るとすり鉢のように火口がぽっかりと口を開けています。
いま皆さんが描いた杓文字の握りの部分の右側面は、南海岸と呼ばれる約4キロつづく砂浜です。この砂浜以外は、硫黄島の海岸は断崖絶壁となっています。そのため、アメリカ海兵隊はこの南海岸から上陸することになります。
握りの部分と丸くなっている部分を分けるように、杓文字の真ん中あたりに横線を引いてみて下さい。この線を主陣地第一線と言います。ここに集中的に日本兵は地下壕を掘り、それぞれの壕をつなげて、アメリカ軍の進軍を食い止めるべく、強固な堅陣を組んでいました。
主陣地第一戦とすり鉢山の中間地点に千鳥飛行場があります。この飛行場は南海岸からわずか800メートルの距離に位置します。南海岸に上陸したアメリカ海兵隊は、この千鳥飛行場を取りにかかりますが、すり鉢山と主陣地第一線に陣地を構えていた日本軍に挟み撃ちの攻撃を受け、当初は多大な損害を受けます。
杓文字の大きな丸い部分の突端は「北の鼻」という地名で、栗林壕と呼ばれる司令部壕がありました。
主陣地第一線と北の鼻の中間地点に、同様に線を横に引いて下さい。この線を主陣地第二線といい、やはり強固な地下陣地が構築されていました。
主陣地第一線と主陣地第二線との中間地点には、元山飛行場があります。やはりこの飛行場もアメリカ海兵隊と日本兵の激しい戦場となったところです。
また、主陣地第二線と栗林壕の中間地点には、新しい飛行場が建設中でした。
どうですか?うまく描けましたか。
それでは、最後に今描いた杓文字を右に45度傾けて下さい。これが地図上に載っている硫黄島の形です。上が北、下が南をあらわしています。
アメリカ海兵隊は、南海岸から上陸し、すり鉢山と千鳥飛行場を占拠し、さらに主陣地第一線を突破します。そして元山飛行場を落とし、主陣地第二線を突破し、栗林壕に迫ります。南海岸から栗林壕まで、約7キロの距離です。オリンピックのアスリートなら、わずか20分くらいで走り抜けてしまう距離です。ところが、硫黄島の戦いでは、アメリカ海兵隊はこの距離をじつに36日間もかけて進まなければならなかったのです。しかも日米双方で5万人もの死傷者を出して。
いかにこの小さな島で激しい戦闘が繰り広げられたかが分かりますよね。
それでは、もう少し詳しく日米の戦いを見てみましょう。
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アメリカ海兵隊が上陸するまでに、アメリカ軍は硫黄島に2ヶ月におよぶ艦砲射撃や空爆を行いました。偵察機が撮影した中に地下陣地を構築する日本軍が写っていたからです。砲撃の規模はそれまでの島嶼の戦いでは最大級のものとなりました。使った砲弾の鉄量を硫黄島に敷き詰めると、厚さ1メートルになるほどの量でした。この二ヶ月間のすさまじい砲撃によって、島の地形が変わり、島に生息していた草木や動物はすべて死滅しました。栗林中将が着任する前に作っていた水際陣地は、この時に破壊されました。
この時の砲撃がどれほどすごいものなのか。硫黄島から生還した工兵隊の伍長だった方の手記にはこのように書かれています。
「島に向けられていた砲が一斉に火を噴いた。島には大地震が起こった。火柱は天に届くかと思われるようだ。黒煙は島を覆う、鉄片はうなりを生じて四散する。直径1メートルもある大木も根の方が上になってふっ飛ぶ。轟音は雷が100も200も一度に落ちたようなものすごさである。地下30メートルの穴の中でも身体が飛び上がる。まさにこの世の地獄となった。」
艦砲射撃に続いて行われた空爆もまた壮絶なものでした。激しい爆撃によって、すり鉢山の頂の四分の一が吹き飛んでしまうほどでした。
「次は大型機が何十機もそろってやって来る。ブルンブルンとうなりながら来る。銀色である。島の上に来た奴は一トンという恐ろしい爆弾を落とす。次から次と落とすその音は恐ろしい。気の弱い奴はキチガイになる。ヒューヒューと音を立てて落ちる。続いて大地震が起きる。炸裂する。岩石も土砂と一緒に中天に舞い上がる。そして落下する。直径10メートル、深さ5メートル位の穴が地面にできる。人間が居れるような状況にない。」
この激しい艦砲射撃と空爆で、多くのアメリカ海兵隊員は、「俺たちが戦う日本兵士は残っていないんじゃないか?」って、思ったのです。
ところが、栗林師団長の指示で作られた地下陣地に立て籠もった日本兵士はほとんど無傷でした。おそらく多くの日本兵士たちが、あらためて、水際陣地構築作戦を放棄し、この後方陣地構築を進めた栗林師団長の判断の正しさを知ったことだと思います。
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第二次世界大戦史上最大の砲撃が行われた三日後に、ついに上陸の日ーDデイがやってきました。
昭和20年2月19日午前6時30分、アメリカ海兵隊員は上陸用舟艇に乗り込み待機します。
艦砲射撃と空爆が続いたあと、午前9時に上陸が開始されました。アメリカ海兵隊を乗せた上陸用舟艇が次々と南海岸に到着しました。
海兵隊員がもっとも緊張する瞬間です。
島嶼の戦いでもっとも危険な場面だからです。ほとんどの海兵隊員たちは死を覚悟します。敵の水際作戦による一斉射撃にひるむことなく上陸を強行し、一気に敵を叩き潰さなければなりません。
恐怖と勇気と愛国心が入り混じった感情を持って、アメリカ海兵隊員たちはぞくぞくと硫黄島の海岸に降り立ちました。
ところが、「あれれ?」って、ほとんどの海兵隊員たちは思いました。
日本軍がまったく発砲してこなかったからです。
「やっぱり、あの激しい砲撃で、ほとんどの日本兵士は死んじゃったんだ。」って、多くの海兵隊員たちは思いました。「これは、案外簡単にこの島を占領できそうだ!」
激しい砲撃によってすでに日本兵の戦闘意思は低下している!という甘い観測も手伝って、次から次と上陸用舟艇が海岸に到着し、アメリカ海兵隊は上陸して、千鳥飛行場へ向かって進軍します。
硫黄島の南海岸は、火山灰が風化してできた砂浜です。やわらかく膝までめり込んでしまいなかなか進むことができません。この歩きにくい砂浜が、まるで新宿駅の山手線構内のラッシュアワーのごとく、多くのアメリカ海兵隊員でひしめき合っているとき、初めて日本軍は攻撃を仕掛けました。
栗林中将の指示通り、日本軍はアメリカ海兵隊を間近まで引きつけておいて、至近距離から挟み撃ちで攻撃をしました。至近距離からの砲撃であったので、予想以上の命中率でした。日本軍の射撃で、アメリカ海兵隊員はバタバタと倒れていきました。またロケット砲も使われ、命中した海兵隊員の身体はバラバラに吹き飛びました。この凄惨な状況を目の当たりにして、硫黄島の砂に足を取られて動けないアメリカ海兵隊は一時パニック状態に陥りました。
初日の戦闘で、もちろん日本側にも被害がでましたが、アメリカ側の損害は大きなものでした。初日の死傷者二千三百人の他、戦争神経症で戦闘不能になった者百名。これは初日に上陸した海兵隊員三万一千人の実に8パーセントにのぼりました。
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激しい戦闘が繰り広げられた初日・Dデイも日が暮れ、一時的な静けさが訪れました。
多くの犠牲者を出して硫黄島の砂を這うようにして、砂丘を越えてきた海兵隊員たちは疲れきっていましたが、夜を迎えても眠ることができません。なぜかというと、これまでの島嶼の戦いでは、激しい初日の戦闘があったあと、日本軍はバンザイ攻撃を仕掛けてくるからです。
「バンザイ」を連呼して無謀に突撃してくる日本兵たちは、アメリカ海兵隊員にとって嫌悪と恐怖のなにものでもありませんでした。しかしながら、一気に敵軍の兵力を低下させるチャンスでもありました。日本軍は、バンザイ突撃のあと必ず組織的に崩壊していたのです。
ところが、今回はいつまでたっても日本軍はバンザイ突撃をしてきません。待てど暮らせど、不気味に静まり返っていました。
そして、ついに夜明けを迎えました。
この時初めて、海兵隊員たちは、この硫黄島の戦いがこれまでの島嶼の戦いと違うことに気付いたのです。
スミス中将は、硫黄島の沖合いのエルドラド号の艦船上で、やはり眠れぬ夜明けを迎えました。
硫黄島を眺めながら、彼は近くにいた従軍記者の一人に、こう言いました。
「この島の日本軍を指揮しているやつが誰だか分からないが、そいつはかなり頭の切れる奴だ。」
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上陸したアメリカ軍は、正面800メートルの距離にある千鳥飛行場と、左手方向にあるすり鉢山を奪取すべく、進軍を開始しました。そして上陸5日目に、ついにすり鉢山の日本軍を落としました。
5日間の戦いで、アメリカ海兵隊は五千人にのぼる死傷者を出しました。この死傷者数は史上最大の作戦と言われたノルマンディー上陸作戦の死傷者数を越えるものでした。一箇所でこれだけの被害がでたのは、南北戦争のゲティスバーグ以来のことです。
硫黄島は平坦な島で、唯一の山であるすり鉢山は島のどこからでも見えました。
だから、このすり鉢山の頂に星条旗が立ったとき、ほとんどの海兵隊員たちは歓声を上げ、海上の艦船は一斉に汽笛をならしました。
すり鉢山に星条旗が立てられた直後、モーターボートで二人の男が南海岸に降り立ちました。そのうちの一人の男は、すり鉢山に翻る星条旗を見て、涙を流しました。横にいた男は、この涙を流す男にこう話しかけました。
「ホーランド、これで海兵隊は今後500年間安泰だな!」
ホーランドとは、ホーランド・M・スミス中将です。彼はここにいたるまでにマイマリンーズの犠牲を思って、涙を流していたのです。
スミス中将に声をかけた男は、ジェームズ・V・フォレスタル。当時のアメリカ海軍長官です。
アメリカというのはすごい国ですね。アメリカ海軍長官は海軍のトップです。太平洋艦隊司令長官のニミッツ大将より上位にあります。彼より上は国防長官とルーズベルト大統領しかいません。そんな海軍のトップにいる人物が、まだ砲弾が飛び交っている戦場にくるんですですよ。
日本で言えば海軍大臣や陸軍大臣が戦場に来るようなものです。当時の軍事官僚はエリート意識が強く、腐敗しきっていました。彼らは日本にいて戦場で何が起きているのかわからなかったんです。これじゃ、アメリカに勝てないのも無理はないですよね。指揮を取るトップが現場を知らないんじゃ勝負になりません。
フォレスタル長官が、「これで500年間は安泰だな」といったのには理由があります。
アメリカ軍は大きく五つに分かれます。陸軍、海軍、空軍、海兵隊、沿岸警備隊。
今でこそ、海兵隊、Marine Corps(マリンコと発音します)は、押しも押されぬアメリカ軍の表看板となっていますが、発足当時は海軍のお荷物と呼ばれ、創設以来不要論がしばしば持ち上がっていました。
ところが、今回の太平洋戦争(大東亜戦争)では、海兵隊は島嶼の戦いでもっとも勇気のある戦いを行い、そして敵国の日本の本土に初めて星条旗を立てたのです。これがアメリカ国民に海兵隊の存在意義を強く印象付けました。だから、ホレスタル海軍長官は、今回の硫黄島での海兵隊の活躍が今後500年間、海兵隊の存在を保障してくれると言ったのです。実際、この硫黄島の戦い以降、アメリカ国民がもっとも敬意を払う軍人は海兵隊員になりました。皆さんは、アメリカの若い女性に人気があるのは、トム・クルーズの「トップ・ガン」のような空軍の兵士だと思うでしょう。もっとも人気のあるのは、アメリカの勇気のシンボルとなっている海兵隊員なんですよ。
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ところで、この時に撮影された6人の兵士たちが立てた有名な星条旗の写真の話をします。
この6人の兵士(5人の海兵隊員と1人の水兵)が写っている星条旗の写真は、史上もっとも美しい写真と言われ、これをもとに国立アーリントン墓地の前に巨大な像も彫られました。また、この写真は記念切手ともなりました。この星条旗を立てた兵士6人のうち3人がアメリカへ生還しましたが、生きている人物が切手の肖像画になったのはこのときが初めてでした。それほどこの写真はアメリカ国民を感動させたのです。
この世紀の写真を撮った人は、ジョー・ローゼンソールというAP通信社のカメラマンでした。彼はこの写真を撮ったことで、新聞記者としては最高の名誉であるピューリッツァ賞を受賞しました。
ローゼンソールはチビで近眼で、ちょっとオッチョコチョイの男でした。
上陸5日目に、すり鉢山に星条旗が揚がるかもしれないという情報に、従軍記者たちは興奮しました。そして我先にいい位置からいい写真を撮りたいと、彼らは南海岸に上陸するため艦船からボートに乗り込みました。その時、ローゼンソールは濡れた梯子に足をすべらせ海に落ちてしまったんです。
ドジというかマヌケというか…。
でも、人生はなにがきっかけでチャンスをつかむかわからないもの。
災い転じて福となす。人間万事塞翁が馬って言いますからね。ローゼンソールは馬から落ちなかったけど、梯子から落っこちて、彼の人生最大の幸運をつかんだんです。
当時の写真機は今のように防水ではありません。彼の持っていたカメラは使えなくなり、部屋にあるスペアーの写真機を取りに帰らなければなりませんでした。彼が取りに帰っている間に、他の従軍記者たちは彼を置いてさっさと島へ渡ってしまいました。
遅れてローゼンソールがすり鉢山山頂に到着したときには、国旗掲揚式は終わっていました。すでに先に出た従軍記者たちは、この国旗掲揚式の写真を撮り終えていたのです。だから従軍記者たちは、それ以外のなにかニュースバリューになるものを捜して山を下りていってしまいました。ローゼンソールはなにも撮影しないと上司に「どアホ!」って、どやされるので、なにか撮らなくちゃとぐずぐずしていたところ、なんと”二度目の”国旗掲揚が行われたのです。
アメリカ海兵隊第五師団の大隊長だったチャンドラー・W・ジョンソン中尉は、最初に揚げた”公式な”星条旗は記念となるので大切に保管するために、国旗を降ろすように命じました。そして代わりの星条旗を揚げることにしたのです。代替の星条旗は景気づけに大き目のものがいいだろうということで、縦140cm、横245cmもある大きな星条旗を近くにいた6人の兵士に渡しました。
二度目の国旗掲揚なんて、出汁(だし)を取り終わったあとの煮干みたいなもの。周りにいた者たちは気にも留めてもいませんでした。遅れてきたローゼンソールだけが、仕方なく撮影したのです。この時、だれも世紀の瞬間が訪れようとしていたとは思いもよりませんでした。
ジョンソン中尉が渡した国旗はかなり大きかったので重量がありました。
6人は近くにあった残骸の中から一本のパイプを見つけ、そのポールにこの大きな星条旗を結んで揚げようとしました。ところが折からの強風で振り回されてなかなかポールを起こすことができません。六人のうちの一人が、根元を持って地面に固定し、あとの五人が「ヨイショ!」って感じで、やっとポールを起こすことができました。
パチリと、この瞬間をローゼンソールは写真に収めました。
いまのデジタル写真機と違って、その場で撮った写真を見ることはできません。ローゼンソールは、自分が撮影した写真の出来栄えを知らず、まあ、二度目とは言え、なんとか国旗掲揚の写真を撮れたので、これで編集長に怒られずにすむかとホッとして、フィルムをそのままグアムのAP通信社の写真編集長、ジョン・ボドキンに送ったのでした。
グアムのジョン・ボドキンは硫黄島から送られてくる従軍記者たちのフィルムを現像していていました。そして、ローゼンソールの撮ったフィルムを現像した写真を見たとき、思わず息を呑みました。そして次の瞬間、こう叫びました。
これは空前の写真だぞ!
ローゼンソールの撮った写真は、構図から光の当たり具合、そして何よりも多くの犠牲者を出したあとに、疲れきった兵士たちが苦労をしながら風にたなびく星条旗を立てる姿が感動的に映し出されていました。
すぐにボドキンはこの写真をニューヨークの本社へ電送しました。
翌朝、ローゼンソールの写真は、朝刊の一面を飾りました。
ボドキンが叫んだように、この写真は空前絶後の写真となりました。
数百万人のアメリカ国民が、この写真に釘付けになったのです。
眠そうな目をしてドアステップにかがみこんだ男も女も、朝刊の一面に載ったその写真を一目見るといっぺんに目が覚め、家の中に向かって叫びました。「おお~い、これを見てみろ!」
出勤途中のサラリーマンは、通りの新聞売りに三セント渡して、歩きながら一面の写真を見るや否や、踵(きびす)を返してもどって来て、またもう一部買いました。
戦場に息子たちを送り出したすべての母親たちは、この写真の6人の若者を見て、遠い異国の地で戦う自分たちの息子に想いを馳せました。
当時、この写真を見た人たちは、この写真をどこでどのような状況で見たかを鮮明に覚えているといいます。それほど、この硫黄島の写真はアメリカ国民に衝撃と感動を与えたのです。
硫黄島上陸三日にして、すでに五千人という死傷者を出したことをアメリカ国民は知っていました。だから必死に星条旗を立てるこの6人の若者たちの姿を見て、アメリカ国民は遠い海の孤島で戦うアメリカ海兵隊員たちの犠牲と苦労を思い、涙を流したのです。
ところで、多くのアメリカ国民は、ここで大きな誤解をしました。
この硫黄島のすり鉢山に立てられた星条旗を、硫黄島を制圧したものと思い込んだんです。
戦いは始まったばかりでした。五千人という死傷者はまだほんの序章にすぎません。
このあと多くの海兵隊員が、できることならナチス・ドイツと戦いたかったと手紙を自宅へ送るほど、あるいは、「もう、二度と日本兵と戦いたくない…」と嘆くほどの、激しい戦いを一ヶ月間繰り広げることになります。彼らが地獄を見るのはこれからだったんです。
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話を硫黄島の戦場にもどしましょう。
アメリカ海兵隊が上陸して4日目ですり鉢山が陥落したことは、栗林中将にとって大きな痛手でした。もともと彼らの戦いはアメリカ軍に勝つことではなく、出血持久戦に持ち込むことが目的だったので、いずれはこの山がアメリカ軍の手に落ちることは覚悟していました。しかし彼はすり鉢山の部隊には10日間くらいは持ちこたえて、アメリカ軍を南の地区に釘付けにしておいてほしかったのです。
すり鉢山が早期に陥落してしまった最大の理由は、元山地区とすり鉢山の地下道が完成されていなかったからです。そのため、千鳥飛行場をアメリカ軍に占領されてしまうと、すり鉢山が孤立してしまいました。もしすり鉢山~元山地区間の地下道が完成していれば、地上を通ることなく両方の陣地を行き来することができ、連絡が容易になることはもちろん、兵員や武器弾薬の移動もできるはずでした。
水際陣地を放棄し、後方陣地構築を栗林中将が決定した時、大本営の容喙(ようかい・口出しをすること)や海軍の反対もあり、地下道の工事が思うように進まなかったことが原因でした。栗林中将はさぞかし臍(ほぞ)をかんだことと思います。
南海岸から上陸した海兵隊は、左手に進んですり鉢山を攻略する一方で、別部隊は右手、つまり北東方向に向かって攻め上っていきました。千鳥飛行場を制圧し、主陣第一線を突破し、元山飛行場を目指して進軍しました。
「素早く叩き、強く叩き、敵が屈服するまで叩き続ける!」という、スミス中将の言葉に代表されるように、アメリカ軍はあくまで力で圧倒する戦い方をしました。
アメリカ軍は正面からぶつかり合う戦争はものすごく強いのです。
湾岸戦争では、中東の軍事大国であったイラク軍をあっという間にねじ伏せちゃいましたよね。
アメリカ軍をボクサーで例えれば、ボクシング史上最強のハードパンチャーと言われた、ヘビー級チャンピオンのジョージ・フォアマンでしょうか。
フォアマンの強さは桁外れでした。彼に比べたらタイソンのパンチなんか小学生並みでした。デビュー以来、彼と戦って4ラウンド以上リングに立っていたボクサーは一人もいなかったんですよ。ジョー・フレイジャーやケン・ノートンといった名だたる名ボクサーたちも正面からの打ち合いをしたために、3ラウンドまでに、ことごとくリングに沈められてしまいました。
試合を観戦していた「空手バカ一代」の原作者・梶原一騎は、「こんなつえぇ野郎を倒せる人類は一人もいない!」と思ったとか。
ところが、無敵と思われたフォアマンをマットに沈めたボクサーが現れたのです。
その人の名前は、モハメッド・アリ。
モハメッド・アリがフォアマンに挑戦した時、彼はすでに全盛期を過ぎていました。ロートルのアリが、破竹の勢いの若いフォアマンに勝てるとは、だれも予想していませんでした。フォアマンに挑戦したアリの勇気を誰もが讃えましたが、フォアマンの勝利は誰もが絶対であると思っていたので、賭けが成立しなかったほどです。
ところが、アリはクレバーなボクサーでした。彼は無謀にフォアマンと正面から打ち合うことはしなかったのです。
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」というように、彼はフットワークを使って、フォアマンの攻撃を巧みにかわし、的確にジャブをヒットさせました。フォアマンのパンチは空を切り、スタミナは徐々に消耗していきました。そして、8ラウンドに疲れきったフォアマンをアリは右ストレート一発で倒したのです。まさに蜂の一刺しでした。
モハメッド・アリが伝説のボクサーとなったのはこの時です。ボクシング・ファンはこの試合が行われたアフリカの地名を用いて、「キンサシャの奇跡」と呼んでいます。
ちょっと、この例えはマニアック過ぎましたかね?
とにかく、栗林中将率いる日本軍はモハメッド・アリと同様に、この力に勝るアメリカ軍と正面から戦うことを避けました。
戦車を先頭に近づいてくるアメリカ軍に対して、穴倉から不意に出て行って、戦車に爆弾を抱えて体当たり攻撃し、あとから続く歩兵隊に砲撃を食らわす。そして彼らが反撃してくると、日本軍は戦いを避けて地下陣地へ隠れ、そしてまた別の穴から出てきて、思わぬところから攻撃する。この繰り返しでした。彼らは「蝶のように舞い、蜂のように刺す」攻撃を続けたのです。このようにして日本軍はアメリカ軍に大きな損害を与えました。
日本軍のモハメッド・アリ戦法に対し、アメリカ軍は火炎放射機で対抗し、一つ一つの壕の入り口を見つけて、ガソリンを流し込み、鉄板で蓋をして、日本兵を焼き殺していきました。市丸利の助海軍少将の戦訓電報には、「米軍は前面を清野と化して初めて前進。歩兵の前進時速約十メートル。さながら、”害虫駆除”のごとき態度で戦闘す」という文面があります。
アメリカ軍はまるで見えない敵と戦っているようなものでした。硫黄島を上空から見たアメリカの偵察機のパイロットが、「わが軍は島と戦っているようだ!」と形容したほど。
このように、当初の戦いでは、日本軍はアメリカ軍と互角以上の戦いをしたのです。スミス中将は、回顧録で、この時の戦いを、「洞窟、銃座、壕の一つ一つが独立した戦闘であって、日米両軍が死ぬまで白兵戦を演じた」と述べています。
ところが、徐々に日本軍はアメリカ軍に押されてきました。
理由は砲弾がなくなったからです。
普通、陸戦において砲弾がなくなったら近代戦争は行えません。大砲やロケット砲のない陸軍兵士なんて、丘に上がったカッパみたいなもので、まともに戦うことは不可能です。この時点で本来であれば白旗を揚げて投降するのが常識です。どこの国でも、戦闘不能になったら捕虜になっても不名誉なことではありません。
ところが、硫黄島の兵士たちは投降しませんでした。「生きて虜囚の辱めを受けず」という誤った考えが多くの日本人にはありましたが、彼らの場合はあくまで、「この島を取られたら大規模な空襲が行われる、だから一日でも長くこの島で戦うんだ!」っていう気持ちが強かったのです。
そして、彼らは、手榴弾と銃だけで戦い続けました。
日本兵は砲弾がないので、接近戦を挑みました。海兵隊員が寝ているところを、闇に乗じて近づき、銃剣や刀で戦いました。竹やりで機関銃に立ち向かうという表現がありますが、砲弾がなくなったため、日本軍はまさにそんな戦い方をしたのです。最期まで戦うことを諦めませんでした。
この時のアメリカ海兵隊の接近戦の恐怖を、戦死したあるアメリカ軍将校が日記にこのように記していました。
「この島では前線にいるだけでも勇気が要る。日本兵がいま座っている地面の下にもいるかもしれないからだ。この島では部下に前進を命じるには勇気が要る。確実に死が予想されるからだ。そして、朝目を覚まして起きるのは、最も勇気が要る。また、同じことをしなければならないからだ。」
しかし、日本兵の必死の戦いにも関わらず、硫黄島の戦況の明暗がはっきりしてきました。
2月26日までに元山飛行場は陥落しました。
3月上旬になると主陣第二線も突破され、新しく建設中だった第三の飛行場もアメリカ軍の手に落ちました。この時点で、日本兵の残存兵力は4000名。三分の二の兵士が戦死していました。
いよいよ日本軍は、北の鼻一帯に追い詰められました。
栗林中将の元へは毎日のように、各部隊からの全滅の報が入ってくるようになりました。また、すでに砲弾も水も食料も尽きてしまったので、敵陣へ万歳を唱えて突入する許可を求める電報も入ってきました。それに対して、栗林中将はバンザイ突撃の中止を厳命しました。あくまでも組織的、計画的に戦うことを要求したのです。
アメリカ軍が日本軍を北の鼻一帯に追い詰めた時の状況を、敵将・スミス中将は回顧録でこのように書いています。
「明らかに栗林が指揮を取っていた。彼の個性はその強靭な抵抗にはっきりと示されていた。 …中略… 硫黄島では断崖から飛び降りて自殺する者はいなかった。日本兵は最期まで戦い、掃討戦を甚だ犠牲の大きいものとした。栗林はアメリカ兵を一人残らず道連れにするつもりだった。」
水も食料も枯渇したにもかかわらず、生き残った将兵たちは地獄の生を生き、最期の最期までゲリラ戦を仕掛けたことが、スミス中将の回顧録からよくわかりますよね。
このような苦しい状況でも、栗林中将の命令が日本兵士によって守られたことについて、戦後この戦いを調査したアメリカ軍は、「奇跡の統率力」であったと記しています。
この栗林中将の奇跡の統率力を伺うことができる一件があります。
硫黄島の戦いが終わった後、アメリカ海兵隊が日本兵の遺体の埋葬をしているとき、ある紙片を見つけました。
それは「敢闘の誓い」という栗林中将が全軍に配布したものでした。
そこにはこのように記されていました。
(一)我らは全力を振って守り抜かん。/(二)我らは爆薬を抱いて敵の戦車にぶつかり之を粉砕せん。/(三)我らは挺身敵中に切り込み敵を皆殺しにせん。/(四)我らは一発必中の射撃によって敵を撃ちたおさん。/(五)我らは敵十人を斃(たお)さざれば死すとも死せず。/(六)我らは最後の一人となるも「ゲリラ」によって敵を悩まさん。
従軍記者であったビル・D・ロスは、著書『硫黄島ー勝者なき死闘』の中で、栗林中将のこのスローガンがいかに日本兵士たちに浸透していたかをこう記しています。
「海兵隊は『敢闘の誓い』の紙片を、硫黄島のどこでも ー まず海岸沿いの塹壕で見つけたのを皮切りに、洞窟でも、トンネルでも、トーチカでも、死んだ敵兵の遺体の上にでも ー 発見できた。」
ほとんどの将兵がこの敢闘の誓いの紙片を身につけていました。おそらく毎日これを復唱して、自らを鼓舞していたと思われます。
これってすごいことなんですよ。
戦陣訓というのは、内地にいるときには皆なんとなく従うような顔をしていますが、いったん戦場にでると、だれも本気で考えていなかったんです。当たり前です。戦場を知らない高級将校がなにを言ったて説得力がないのです。
東条英機も戦陣訓を書いて、戦地に送りましたが、本土でのうのうと暮らしている奴に戦場で戦っている者の苦労がわかるかって!感じで、東条英機の戦陣訓を受け取った将兵たちは手で丸めてゴミ箱にポイしちゃいました。だいたい、戦陣訓で、「虜囚の辱めを受けず」なんていっているご本人が、自決し損なって、アメリカ軍に捕縛されて、東京裁判にかけられちゃたのだから、お話になりませんよね。
それに比べると、硫黄島の将兵たちは、忠実に栗林中将の敢闘の誓いを守り通したのです。
爆弾を抱えて戦車に体当たりをし、夜の闇に乗じて、刀で敵兵を切り殺し、十人を殺すまでは絶対に死なない。こうして彼らはバンザイ突撃をせず、地獄の生を生きて戦ったのです。
栗林中将たち司令部が玉砕したあとでも、残った兵士たちは栗林中将の敢闘の誓いを守り、ゲリラ戦を展開してアメリカ軍を悩ませました。
すでに戦いが終わっていると思っていたら、思わぬところから日本兵の攻撃を受けて殺されるアメリカ兵が多くいました。最後の最後まで戦った日本兵二名が投降した時は、すでに戦争が終わって4年もの月日が経っていました。なんとそれは朝鮮戦争が勃発する一年前だったんですよ。
それほど、栗林中将の命令は硫黄島で忠実に守られたのです。アメリカ軍調査班が、「奇跡の統率力」だったと表現したのがよくわかりますよね。それだけ全将兵から栗林中将は信頼を受けていたということなのです。
栗林中将の戦う目的 - 一日でも長く戦って本土空襲をさせない! - に共鳴して、ミイラのように日に日にやせ細りながら、忠実に戦う将兵たちを見て、果たして栗林中将はどう思ったのでしょうか?
梯(かけはし)久美子さんの著書・『散るぞ悲しき』に、平成16年の1月に行われた、「たこちゃん」こと新藤たか子さんとのこんなインタビューがあります。
たこちゃんは父の年齢を越えて69歳になっていました。
父の人生を振り返って、彼女は言いました。
「私はね、父は幸せだったと思うんです。あの時代に50過ぎまで生きられましたし、軍人としても出世もした。 … ええ、幸せな人生でした。ほんとうに。」
この時、梯さんは不躾(ぶしつけ)とは思いながらも、「最後まで、でしょうか?」と質問をしました。
すると、新藤たか子さんは、こう言いました。
「はい。だって兵隊さんたちはみんな、どんなに苦しくても、最後まで父を信じてついてきてくれた。父のような立場の人間にとって、それ以上の幸せがあるでしょうか。」
この父にして、この娘あり!という感じでしょうか。
父が硫黄島に出征する朝、もう二度と会うことができないことを直感的に悟り、門で泣きじゃくったたこちゃんは、父親の下で亡くなられた二万人の兵士を想い、きっぱりと、「父親は幸せでした!」と言い切ったのです。
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実際に硫黄島の戦場で、栗林中将が「幸せ」を感じる余裕があったかどうかわかりませんが、最後まで自分の命令に従って戦った兵士たちに感謝をしていたと思います。
そして栗林中将は忠実に戦ってくれた兵士たちのためにあることをしようとしました。
それは、愛する祖国を守るために、硫黄島の兵士たちがあえて地獄の生を生き、いかに勇敢に戦って死んでいったかということを広く日本国民に知らせることでした。
栗林中将は、「懸命に戦って死んでいく兵隊たちに、せめて日本国民からの感謝と敬意を与えてあげたい!」って、思ったんです。
このことは、3月25日の最後の出撃に際し、栗林中将が述べた訓辞に表れています。
「予が諸君よりも先に、戦陣に散ることがあっても、諸君の今日まで捧げた偉功は決して消えるものではない。いま日本は戦に敗れたりといえども、日本国民が諸君の忠君愛国の精神に燃え、諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に対し涙して黙祷を捧げる日が、いつか来るであろう。安んじて諸君は国に殉ずべし。」
そして栗林中将は、この時、ある部下にだけは死んではならないと伝えました。硫黄島から生還した武蔵野菊蔵工兵隊長の手記によれば、それは参謀の一人であった吉田紋三少佐で、栗林中将は出撃前に、「貴官は本島に生を保ち、いつの日か本島を脱出して、日本国民にこの惨状を伝えよ」と命じたといいます。
吉田少佐は栗林中将たちが玉砕したあとでも生き延び、いかだを作って何度か硫黄島脱出を企てましたが失敗。その後、5月にアメリカ軍の飛行機を奪おうとしたところを射殺されたと伝えられています。
また、この時よりさかのぼって、栗林中将は激しい戦いの最中に、各部隊での戦闘をくわしく報告させ、目覚しい活躍をした兵士に感状を発行しました。感状とは戦功を立てた兵士に対してその武功を讃える表彰状です。伝令はこの感状を命がけで戦場を走って届けます。
今さら玉砕する運命の島で、感状の発行も必要ないだろうと思うなかれ。
感状を発行すると、その報告は上聞に達すると言い、天皇陛下までその兵士がどのように戦ったかが報告されます。当然、感状を発行された兵士も家族も名誉に感ずるのです。また、これは戦史広報に載るので、広く硫黄島でどのような戦いが行われたを後世に伝える手段となります。
さらに、栗林中将は広く国民に硫黄島の戦いを知ってもらうために、これまでの型にはまった軍人的な表現ではなく、生の実情を伝える生きた言葉を戦訓電報に入れてきました。
3月5日の大本営宛戦訓電報の末尾には、このような文章が書かれていました。
「以上これまでの戦訓等にては到底想像も及ばざる戦闘の生地獄的なるを以って、泣き言と思わるるも顧みず敢えて報告す。」
戦訓電報の中で、戦闘状況を「生地獄」と表現するのは異例のことでした。栗林中将は兵士たちどのような地獄の中にいるかを広く知ってほしかったのでしょう。
そして最後に、栗林中将が大本営宛に送った3月16日の決別電報には、兵士たちがどのような状況で戦い、そして彼自身はそれをどのように感じたのかを、率直に表現しました。
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「戦局、最後の関頭に直面せり。敵来攻以来、貴下将兵の敢闘はまさに鬼神を哭(なか)しむるものあり。特に想像を越えたる物量的優勢を以ってする陸海空よりの攻撃に対し、婉然(えんぜん)徒手空拳を以ってよく健闘を続けたるは、小職自らいささか悦びとするところなり。
然れども飽くなき敵の猛攻に相次いで斃(たお)れ、為にご期待に反し此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは、小職の誠に恐くに堪えざる所にして幾重にも御詫(おわび)申し上ぐ。
今や弾丸尽き水枯れ、全員反撃し最後の敢闘を行わんとするにあたり、つらつら皇恩を思い粉骨砕身もまた悔いず。
特に本島を奪還せざる限り、皇土永遠に安かざるに思い至り、たとえ魂魄(こんぱく)となるも誓って皇軍の捲土重来(けんどちょうらい)の魁(さきがけ)たらんことを期す。
ここに最後の関頭に立ち、重ねて衷情(ちゅうじょう)を披瀝すると共に、只管(ひたすら)皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永久(とこしえ)にお別れも申し上ぐ。… 中略 …
辞世の句 :
国の為重きつとめを果たし得で、矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき」
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戦前、戦中の日本人も軍部官僚も、いつかは「カミカゼ」が吹くと信じていました。そして、極力都合の悪いことからは目をそらしていました。精神主義に捕らわれていたのです。だから、栗林中将が決別電報の中で使った、(アメリカの)物量的優勢、徒手空拳、弾丸尽き水枯れなどという言葉は、あまりに現実的な言葉であったため、翌日の新聞発表では、すべて削除または改ざんされました。
また、辞世の句に使われた「散るぞ悲しき」は、軍人らしくない言葉として、「散るぞ口おし」に書き換えられました。
栗林中将は高級将校ですから、これらの言葉が当時の風潮からタブーであったことは十分承知していました。でも、現状を広く国民に知ってほしい一念で書いたものと思われます。
あれや、これや、それや。栗林中将は二万一千人の将兵に名誉を与えるために、後世の日本人に硫黄島でいかに兵士たちが愛する祖国のために戦ったかを語り継いでもらうために、いろいろな方策を取ったのです。
しかし、残念ながら、彼の願いは叶うことはありませんでした。
戦後60年、日本人は硫黄島をすっかり忘れてしまいました。栗林忠道という軍人など、あたかも存在しなかったかのようです。
そして、硫黄島の戦いが戦後60年の平和と経済的繁栄をもららしたという事実に至っては、それを知っている日本人はほぼ皆無でしょう。
「クイズ!百人に聞きました。さて、正解者は何パーセント?」
硫黄島の話は、これらのクイズ番組では、問題にならないでしょうね。だって、誰も答えられないから。
おそらく、100人に聞いても、1000人に聞いても、硫黄島で戦った兵士たちの歴史的業績を正しく評価をしている人はいないだろうなぁ~。
こんなことだから、だれも硫黄島で戦った日本兵士に感謝も敬意も払いません。
今なお、硫黄島の地下には、日本に帰ってこれない御柱が一万体以上あるんですよ。
忘恩ここに極まれり。
唯一、アメリカ国民によって、硫黄島の日本人兵士の勇敢な戦いが語り継がれていることが、彼らにとってせめてもの慰めでしょうか…。
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硫黄島の戦いを栗林中将が島に拝命されたころから長々と話してきましたが、いよいよ終局を迎えました。
栗林中将が最後にどのように戦い、そして戦場に散っていったかをお話します。
ところで、日本陸軍では、3月16日に栗林中将の硫黄島の功績を認め、大将昇格を決定しました。史上最年少の大将誕生でした。もっともご本人は大将になったことを知らなかったようですが…。これ以降は、栗林氏に敬意を払うため、栗林大将と呼びます。
3月16日に大本営宛に決別電報を打った翌朝、栗林大将は硫黄島に生き残っている全将兵に向かって呼びかける電報を発しました。
(一)戦局は最後の関頭に直面せり
(二)兵団は本十七日夜、総攻撃を決行し敵を撃砕せんとす
(三)各部隊は本夜正子を期し各当面の敵を攻撃、最後の一兵となるも飽くまで決死敢闘すべし
(四)予は常に諸子の先頭に在り
硫黄島の生還者であった玉田猛中尉の手記によると、3月17日に栗林司令部壕から出陣するときの様子は以下のようだったそうです。
栗林大将は左手に軍刀の柄を握りしめ、「…たとえ草を食み、土をかじり、野に伏するとも断じて戦うところ死中自ずから活あるを信ず。ことここに至っては一人百殺、これ以外にはない。本職は諸君の忠誠を信じている。私の後に続いて下さい」と述べられ、同夜司令部は出撃した。
こうして、栗林大将は500人の部下を連れて、戦場に向かったのでした。
ところが、この夜、栗林大将は総攻撃を仕掛けませんでした。なぜかというと、アメリカ軍包囲網が厳しく、出撃の隙を見つけることができなかったからです。
あくまでも無駄な死に方をしない。合理主義者であった栗林大将らしいですね。彼はバンザイ突撃ではなく、実質的な損害を少しでも多くアメリカ軍に与えることに、二万人の兵士の死に甲斐を求めたのです。
そして待つこと一週間。水も食料もなかったので相当つらかったと思います。アメリカ軍は日本の組織的抵抗は終わったと思い込み、包囲網を緩めました。この隙に栗林大将は500人の部下を率いて包囲網を脱出、海岸に沿ってすり鉢山へ南下、翌朝26日に海兵隊と陸軍航空部隊の野営地を急襲しました。すでに日本軍との戦闘は終わったと思っていたアメリカ兵たちは不意を突かれ、パニックに陥りました。約3時間におよぶ熾烈な接近戦の結果、アメリカ軍に死傷者170名の損害を与えました。そして生き残った日本兵は元山、千鳥飛行場に突入し、そこでほとんどが戦死しました。
アメリカ海兵隊戦史「硫黄島」では、この総攻撃を「3月26日早朝における日本軍の攻撃はバンザイ突撃ではなく、最大の混乱と破壊を狙った優秀な計画であった」と記しています。
「予は常に諸子の先頭に在り」
栗林大将は、この言葉とおりに、将兵たちの先頭に立って敵陣に突入しました。右大腿部を撃たれ、出血多量で亡くなったという説がありますが、彼の周りにいた部下たちもこの時の戦いで戦死してしまったので詳しいことはわかっていません。
ところで、中将や大将クラスの軍人が、一般兵士とともに戦うことはまずありません。マッカーサー元帥(上級大将)、ニミッツ海軍大将が一般兵士と戦うなんて考えられないでしょう。日本陸軍でいえば、東条英機参謀総長(階級・中将)や杉山陸軍大臣(階級・大将)です。彼らは兵隊は単なる駒だと思っている人たちですから、一般兵士と戦うなんて思ったこともないでしょう。
おそらく、大将で一般兵士と共に戦ったのは、世界中の近代戦争史を調べても、栗林大将だけだと思います。
栗林大将が硫黄島に赴任してきた時に決心した覚悟 - 常に兵士と共にあり - を最後まで貫きました。
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最後の総攻撃が終わり、生き残った日本兵士たちの聞き取り調査が行われました。そしてアメリカ海兵隊とスミス中将は、敵の最高指揮官が一般兵士に混ざって一緒に銃をもって戦ったことを知り、非常に感動しました。
そして、スミス中将は驚くべきことをやりました。
なんと、アメリカ軍のインフラ整備作業を一日ストップさせ、アメリカ海兵隊員に栗林大将の遺体を捜させたのです。
千鳥飛行場や元山飛行場にはおびただしい日本兵の遺体が散乱していました。
アメリカ軍は、それらの遺体を一体ずつ埋葬する時間がないので、工兵隊がそのまま路盤材とアスファルトを敷いて、滑走路を整備する予定でした。それを一日延期して、栗林大将の遺体を捜したのです。
戦場で戦うだけが戦争ではありません。戦争というのは総合戦なんです。敵陣地を占領したら、工兵隊がインフラ整備をし、爆撃機や警備隊を受け入れて、海兵隊は速やかに次の戦場に移動する。戦争に勝つために、これらの戦争計画をできるだけスピーディに行うことが必要です。
それを一日中断するということはすごいことです。
スミス中将は上層部と衝突する覚悟で、この決定を下しました。
彼は、勇敢に戦った日本兵士と、その日本兵士を率いてあくまで徹底抗戦をした栗林大将に敬意を表すため、せめて敵将の亡骸だけでも見つけて、べつにお墓を作り葬むってあげたいと思ったのです。
アメリカ海兵隊員は一日中、必死になって栗林大将の遺体を捜しましたが、見つかりませんでした。
なぜ見つからなかったかわかりますか?
栗林大将は、死後特別扱いをされることを嫌い、出陣前に身についていた階級章をすべてはずしていたからなんです。
死してなお、「兵士と共にあり」という覚悟を貫いたのです。
だから栗林大将の遺骨は今も他の兵士たちとともに硫黄島の地下にあります。
栗林大将が最後に奥様に宛てた手紙は、このような言葉で締めくられていました。
「…それではどうかくれぐれも(身体を)大切にして、できるだけ長生きをして下さい。長い間ほんとうによく仕えてくれて有難く思っています。(昭和20年1月21日付け 妻・義井あて)」
覚悟上の玉砕でした。
こうして、日米両軍にとって長い36日間の硫黄島の戦いは終わりました。
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全米を感動の渦に巻き込んだ一枚の写真。
星条旗を揚げた6名の兵士たちのうち3人が生きてアメリカに帰ることができました。彼らは太平洋戦争の英雄として、アメリカ国民に熱狂をもって迎えられました。
ところが、生還者の一人だった若者は、「ボクは国旗掲揚の時に、たまたまそこにいただけで、英雄じゃない!」と言って、英雄扱いされることを嫌い、生まれ故郷のウィスコン州のアンティーゴという小さな田舎町にさっさと帰ってしまいました。そこで彼は地元の葬儀屋に就職して地道に働き、その後自分の葬儀店を持つまでになりました。
彼の名前は、ジョン・ブラドリーと言います。
そう、このブログでもたびたび引用した、『硫黄島の星条旗』の著者、ジェームズ・ブラドリーの父親です。
ジョン・ブラドリーは1994年1月に心臓発作でこの世を去りました。
生前、ジョン・ブラドリーは、インタビューなどの申し込みなどをすべて断り、じつにストイックな人生を送った人でした。彼は硫黄島の話を家族にもしたがらなかったそうです。
そんな父、ジョンは一度だけ、まだ小さかった息子ジェームズに硫黄島について語ったことがあります。
そして、この話の中に彼の想いのすべてが込められています。
ジョン・ブラドリーは息子に言いました。
「ジェームズ、お父さんはヒーローなんかじゃない。
君にこれから言うことを、忘れずに覚えていてほしいんだ。
それは…
この戦争の本当のヒーローは、帰ってこれなかった男たちだ。」
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この言葉は、硫黄島の日本兵士にも同じことが言えます。
硫黄島で戦って亡くなられた二万人の日本兵士たちは、私たち日本人のヒーローなんです。
日本人はけっしてこのとこを忘れるべきではありません。
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あとがき)
お疲れ様でした。いつも長~いブログを読んでいただきまして、ありがとうございます。
日本人がなぜこれほどまで(見事?)に、硫黄島の兵士たちと栗林大将を忘れてしまったのでしょうか。それにはいろいろ理由がありますが、日本人社会にある硫黄島に触れさせたくない”力”の存在が大きいと思います。
皆さんはあまり気にしていないかもしれませんが、現在の日本社会を動かしているのは、60年安保騒動の世代の人たちなんですよ。
1960年の安保改定に反対し、多くの人たちが「アンポ!ハンタイ!」のシュプレヒコールを唱え、抗議行動を起こしました。改定の前日には国会や首相官邸は、32万人というデモ隊で埋め尽くされました。彼らの多くが学生でした。彼らは安保改定を阻止することはできませんでしたが、時の最高権力者であった岸信介氏を首相の座から引きずり下ろしたのです。
この時のデモに参加した学生たちは、真剣に国の将来を憂い、これらの行動を実行したのです。ある意味で、気概のある人たちでした。だから彼らが大学を卒業し社会に出たとき、実業界、教育界、マスコミ等々、それぞれの分野で出世していきました。そして彼らは現在、それぞれの業界で重鎮となっています。
彼らが死んでも認めたくないものがあります。
それは、日米安保条約が日本に戦後の平和と経済的な繁栄をもたらしたということです。
当たり前ですよね。
彼らにとって、安保改定は阻止できなかったけれど、時の最高権力者であった岸信介氏を首相の座から引きずり下ろしたことは、彼らの青春の勲章なのです。彼らはそれを誇りに思って生きてきました。ところが、「日本の繁栄が日米安保条約の賜物である」、なんてことになったら、岸信介氏は戦後の英雄になっちゃうし、彼らの青春を賭けた安保ハンタイ運動は茶番になってしまいますからね。それでは彼らの人生そのものを否定してしまうことになってしまいます。
ところが、どう考えても、いやどう考えなくても、日本の戦後の平和と繁栄は、日米安保条約なくしては、あり得なかったことが分かってきた。だから彼らはそれらを直視せず、無視することにしたのです。ましてや、日米安保を導いた硫黄島の戦いの歴史的業績評価なんて、とんでもない話なんです。だから彼らは国民に硫黄島の戦いについて本当のことを教えません。教えるとしても、残虐な戦いが行われたという感情面ばかりを強調して、その歴史的意義を教えません。
当然のことながら、日本国民は硫黄島について忘れていきました。
でも、今、世代交代の時期に来ています。安保騒動世代は定年を迎え、第一線を退きつつあります。
私たち若い世代は、彼らの人生を意義あるものとするために、欺瞞に満ちた彼らの歴史観に付き合う必要はありません。これからは、私たち自身の目でもう一度、昭和史を見直す時期に来ていると思います。
岸信介氏は、首相を辞任した日の朝、番記者にオフレコで言いました。
「安保改定が正しく評価されるには、五十年かかる。その時になったら、みんな、安保を改定してよかったと思うさ!」
再来年、2010年で安保改定50周年を迎えます。この機会にマスコミや教育界の意見に左右されることなく、自分自身の目でいったい日本人にとって安保条約とはなんだったのかを見直してみるべきではないでしょうか。
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次回も硫黄島の話を続けます。もうちょっとお付き合いを。
以前、「17世紀に生まれ、18世紀を支配した人」を書いたとき、ひょっとしたら、こんな長いブログを最後まで読んだ人は一人もいないんじゃないかと心配しましたが、今回は全然そんな心配していません。現在、定期的にアクセスしてくれる読者は100人くらいいます。この人たちは必ず最後まで読んでくれると確信しています。
ただし、読んでくれたことを実感するため、すみませんが応援のクリックをよろしくお願いいたします。できれば、一週間くらい毎日クリックしていただくと、現在150位のランキングが上位に上がり、多くの人たちに、この硫黄島の戦いを知ってもらえるチャンスが増えます。よろしくお願いいたします!
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