2008年8月 2日 (土)

硫黄島の遺産・その3

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硫黄島…

東京から南1250キロに位置する、太平洋に浮かぶ孤島。

周囲22キロというこの小さな島で、かつて世界の戦史上、稀にみる激しい戦闘が日本軍とアメリカ軍の間で行われました。

日本軍の死傷者二万一千人、米軍死傷者三万人。

アメリカ国民はけっしてこの硫黄島の戦いを忘れません。

彼らは、国立アーリントン墓地の正門前に、硫黄島のすり鉢山山頂に星条旗を立てる6人の海兵隊員の像を作り、多くのアメリカ国民がそこを訪れては、いまから60年前に戦った若者たちの勇気とその犠牲に敬意と感謝を表しつづけています。

かたや日本は…

すっかり硫黄島を忘れてしまいました。

「イオウトウ~?どこそれ?韓国の島?」ってな日本人の若者が増えているとか。

ほとんどの日本人は、学校の歴史の時間に硫黄島のことを教わらないため、

今の私たちの平和と繁栄は、この硫黄島の戦いによってもたらされた事実を知りません。

硫黄島では、日本兵士が飢えと乾きに耐え地獄を生きて戦ってくれました。鬼神をも慟哭させずにはいられないほどの戦いによって、

彼らは後世の私たち日本人に、とてつもなく大きな遺産を残してくれたのです。

それは日米安全保障条約です。

硫黄島で戦った日本兵があまりに強いので、「こんな強い日本とは二度と戦いたくない…」、そうアメリカ国民は思いました。そこで、日本の軍隊を解体する条件として、彼らは日本を一方的に守ることを約束したのです。

ヒトラー率いるナチス・ドイツ軍も強かった。でも、アメリカ国民を恐怖のどん底に突き落とすほど強くなかった。だから、戦後、分断された西ドイツは、「君たち、自分の身は自分で守りなさいよ!」と突き放され、貧しいながらも西ドイツは自国の軍隊を持つしかなかった。

ところが、日本においては、「君たちの身は僕たちが無償で守ってあげるから、心配しないで経済復興だけを考えなさい」って、アメリカは日本に言ったのです。

アメリカはそう言わざるを得なかったのです。日本の軍隊が怖かったから。

未だかつて、戦勝国が敗戦国とこれほど不利な条約を結んだ例はありません。それほどアメリカ国民にとって硫黄島の戦いがコンプレックスになったんです。

この日米安保条約によって、戦後、日本は世界最強の軍隊であるアメリカ軍を日本の傭兵(ようへい)として使うことができるようになりました。

しかも、ほとんどタダで。

その結果、日本は経済活動に専念することができ、短期間で奇跡の経済復興を遂げ、一時は日本人一人当たりのGNPがアメリカを抜き、世界一の経済大国となることができました。

また、戦後60年の平和を享受することもできました。

戦後60年、国際紛争に巻き込まれなかった国は、アジアでは唯一日本だけです。

そりゃ、そうでしょう。世界最強の軍隊であるアメリカ軍を自国の傭兵にしているのですから、どこの国も手が出せません。

人類最強の男、エメリヤエンコ・ヒョードルを用心棒にして街中を連れて歩くようなもんじゃないですか。どこのチンピラやゴロツキもよけて通りますよ。怖くて手が出せません。出したら最後、ヒョードルの必殺技「バウンド」が炸裂して、ボコボコにやられちゃいますからね。

国際社会でも同じです。

日本国憲法では、前文と9条で「平和を愛し、公正と信義に信頼できる」諸国民を信頼して、国際紛争を解決するための手段として戦争を放棄することが謳われています。簡単にいうと、周りの国を信頼して、武力(軍隊)をすべて放棄しましょう!ってことです。

多くの日本国民が、いま日本が平和でいられるのは、平和憲法を持っているからだと信じています。

とんでもない誤解です!

国際社会はホッブズの言う自然状態にあるんですよ。万人が万人に対してオオカミなんです!隙あらば弱い相手に襲い掛かるようなゴロツキ国家がウヨウヨしている。日本国憲法前文の「平和を愛し、公正と信義に信頼できる」諸国民なんて、いったいどこにいるんですか!少なくとも日本の周辺にはいません。

国内外の反政府ジャーナリストを殺しまくり、「ネズミ」と呼ばれた彼のカバン持ちの青年を操り人形の大統領にして、つねに権力を握り続けるロシアのプーチン。チベットを軍事占領し、チベットの民衆と僧侶を殺して平然としている中国の胡錦トウ。核をチラつかせて周辺諸国を恫喝する北朝鮮の将軍様。

みなさんもこれらの人たちが、「平和を愛し、公正と信義に信頼できる」諸国民なんて、まさか思いませんよね?

戦後、60年間、日本が平和を享受できたのは、日本のうしろにリバイアサンのごとき用心棒のアメリカがいたからです。平和憲法があったからではありませんよ。平和憲法は、せいぜいテルテル坊主を作って、明日の天気を願う程度のおまじない効果しかありません。

戦後、超大国だったソ連は北海道を喉から手が出るほどほしかったけど、ピクリとも動かなかった。いや、動けなかったのです。また、「奴隷となった農民を解放する!」と勇ましく言って、一方的にベトナム、チベット、トルキスタンに軍事侵攻した中国でさえ、「日本の搾取されている労働者を解放する!」と言って、日本に軍事侵攻することはできなかった。いわんや、小国の北朝鮮をや。北の将軍様が出来るのはせいぜいコソコソと日本人のアベックを海岸からさらって行くことくらい。

みんな、アメリカ軍が怖くて、日本に触手を伸ばせなかったのです。

今の日本の繁栄と平和は、日米安全保障条約という逆不平等条約を勝ち取ってくれた硫黄島の日本人兵士のおかげなのです。

このことを日本人は忘れてはいけません。ぜったいに!

私たちは本来一杯のお水すら、硫黄島の兵士たちの辛苦を想い、南の方角に向かって、ありがたくいただけなければいけないのです。

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さて、硫黄島の日本軍を指揮し、奇跡の戦いを起こした人は、栗林忠道という軍人でした。階級は中将。

硫黄島の戦いを知らない日本人が多いので、ましてや、この戦争を指揮していた日本の最高司令官の名前を知っている人は少ないでしょう。

実際、栗林中将の出身地である長野県の松代町に行けば、お土産屋でクリバヤシ饅頭くらいは売っているかと思いきや、ほとんどの地元の人たちでさえ栗林中将のことを知らないそうです。地元の本屋で郷土史の本を買っても、郷土の著名人の中には栗林忠道の名前は載っていないとか。オラが村の郷土の誇り!っていう人たちがいてもいいようなものですが…。

また中将のお墓のある明徳寺については、地元の旅行パンフレットには、毎年たくさんのカエルが集まってカエル合戦をやるので有名だとか、昔この寺にはお酒好きの弥勒菩薩様がいましたなどの類のことは書いてあるけど、栗林中将の「ク」の字も書いていない。

地元ですらこうなのですから、他のところでは推して知るべし。

日本人はすっかり栗林忠道中将を忘れてしまったんです。あたかも彼が存在しなかったかのように…。

唖然(あぜん)、呆然(ぼうぜん)、愕然(がくぜん)とする話ではないですか。

栗林中将は本来であれば、国民栄誉賞を100個くらいまとめてあげてもいい人ですよ!お札に印刷されていてもおかしくない人です。日本の大恩人なのですから。

アメリカでは、硫黄島の戦いが、Battle of Iwo Jima として語り継がれ、General Kuribayashi の評価が高いそうです。「硫黄島の星条旗」の著者、ジェームズ・ブラドリーは栗林中将を評して、「アメリカをもっとも苦しめ、それゆえにアメリカからもっとも尊敬された男」、と言っています。

日本人にはすっかり忘れられてしまいましたが、今なおアメリカで語り継がれる名将・栗林忠道中将とはどんな人物だったのか。

皆さんはガチガチの固~い軍人を思い描いていませんか。

全然違うんです。

まったく軍人らしくない人です。

栗林忠道中将は、おそらく皆さんの想像もつかないタイプの人物かと。

まずは、栗林中将が硫黄島着任早々に、家族に出した手紙を読んでみてください。驚かれると思います。

この手紙は、いつアメリカ軍が攻めてくるかわからない状況だったので、遺書として書いたものです。

「…、最後に子供たちに申しますが、よく母の言いつけを守り、父なき後、母を中心によく母を助け、相はげまして元気に暮らしていくように。特に太郎は生まれかわったように強い逞(たくま)しい青年となって母や妹たちから信頼されるようになることを、ひとえに祈ります。洋子は割合しっかりしているから安心しています。お母ちゃんは気が弱いところがあるから可哀想に思います。たこちゃんは可愛がってあげる年月が短かった事が残念です。どうか身体を丈夫にして大きくなって下さい。

  妻へ、子供たちへ、ではさようなら、夫、父

 追伸

 1.持ってきたものの中、当座いらないものをこの便で送り返します。形見の品となるとも思います。

 2.家の整理は大概つけて来た事と思いますが、お勝手の下から吹き上げるような風を防ぐ措置をしてきたかったのが残念です。

 3.私は今手紙をどこへも一切出しておりません。もし昔の兵隊や友人たちなどから問合せのあった時は、ただ南方某地へ出征したという事だけ返事してやって下さい。」

驚きませんか!この追伸の2の内容。

なんと!二万あまりの兵隊を束ねる最高指揮官が “遺書” の中で、お勝手の隙間風を気にしているんですよ!

栗林中将は、硫黄島に赴任するにあたり、天皇陛下に拝謁までしているくらいの偉~い軍人なんです。それがお勝手の隙間風が寒かろうと家族の心配をしているのです。

アメリカ海兵隊の最高指揮官だったホーランド・M・スミス中将は、62歳という高齢にもかかわらず、ルーズベルト大統領に直接指名されて太平洋に赴いた名将でした。この人は別名、“ハウリング・マッド・スミス(Howling Mad Smith)”というあだ名がありました。吠えまくるスミスというところでしょうか。

スミス中将は、そのあだ名の通り、口の悪さで有名でした。アメリカ連合艦隊司令長官のニミッツ大将を、「日和見主義者」と罵倒するほどだったんですよ。

そのスミス中将が、軍人の中で唯一賞賛したのが敵将の栗林中将でした。

彼は回顧録(「米国海兵隊と太平洋進撃戦」)のなかでこのように書いています。

「太平洋で相手した敵指揮官中、栗林は最も勇敢であった。島嶼(とうしょ)の指導者の中には単に名目だけの者もあり、敵戦死者の中に名も知れず消えうせる者もあった。栗林の性格は彼が残した地下防備に深く記録されていた。」

敵ながら天晴れという感じでしょうか。

そんなアメリカの名将が絶賛するほどの壮絶な戦いを指揮した軍人が、自宅のお勝手の隙間風が心配で仕方がないって言っているんです。

なんとも所帯臭いというか、なんというか。

この栗林中将の “遺書” がいかに異色のものであるか。他の軍人の遺書と比べるとわかります。

たとえば、戦艦大和に乗って生き残った海軍少尉、吉田満氏が両親に送った遺書はこのような内容でした。

「私ノモノハスベテ処分シテ下サイ。皆様マスマスオ元気デ、ドコマデモ生キ抜イテ下サイ。ソノコトノミヲ念ジマス。」

また、山本五十六大将の “遺書” は、このようなものでした。

 「一、機密漏洩の虞(おそれ)あるに付、私品と認めらるる書籍、書類、手紙等一切は、クラス幹事堀中将指定の場所へ御届願上度 一、此他の荷物中、戦時寄贈品は処理相成度く」

実に素っ気無いほどの簡潔さじゃないですか。多くを語らずということが帝国軍人の真骨頂ということでしょうか。

当時の軍人の基準からすると、栗林中将の “遺書” は、女々しいと思われるくらいですよね。

もう少し、中将からの手紙を見てみましょう。

栗林中将には、奥さんの義井さん、長男の太郎氏、長女の洋子さん、次女のたか子さんの四人の家族がいました。

栗林中将は、硫黄島に赴いたとき、次女のたか子さんがまだ幼かった(当時5~6歳)ので、非常に気にかけていたようです。

着任早々、先ほどの遺書の手紙といっしょに、たか子さん宛てに次のような手紙を送ってきました。

 「たこちゃんへ  たこちゃん、お元気ですか?  お父さんが出発の時、お母さんと二人で御門に立って見送ってくれた姿が、はっきり見える気がします。 それから、お父さんはお家に帰って、お母さんとたこちゃんを連れて町を歩いている夢などを時々見ますが、それはなかなかできないことです。  たこちゃん、お父さんはたこちゃんが早く大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかりを思っています。  からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言いつけをよく守り、お父さんに安心させるようにして下さい。戦地のお父さんより (昭和19年6月25日付け 次女たか子あて)」

なんか、ほのぼのとしていて、とても世界最強のアメリカ海兵隊員を震え上がらせた闘将の書く手紙とは思えないでしょう。

栗林中将は、2度家族を置いて、日本の外に出ています。

硫黄島に赴任した時と、これよりさかのぼること15年前に、アメリカへ留学しています。

このときにも、まだ幼かった太郎さん(当時3歳)へ、アメリカから手紙を出しています。

  「これはアメリカの子供が遊んでいるところです。

  この辺は三輪車が大流行です。

  お父さんは子供がこうして遊んでいるのに出会うと

  きっとしばらく立ち止まって見ています

  太郎君もこうして元気で遊んでいるのかと思って

  (ニューヨーク州バッファロー発、昭和3年8月27日)」

この手紙は、字の読めない長男・太郎氏のために、図入りで書かれています。まるで絵本童話のような達筆さです。

この手紙は80年前に書かれたものですが、まるで現代の子煩悩なマイホームパパが書いたような手紙のような気がしてきませんか?古い時代の人って感じがしませんよね。

栗林中将は、奥さんも大変愛されていたようで、硫黄島から奥様宛にもたくさんの手紙を出しています。

  「私もあまり心配しているせいか、この間はお前さんが大変やつれて眼ばかりがギラギラ光っている様子を夢にみてしまったのだよ。按摩さんは頼んでいるだろうか?お風呂も週2回くらいは沸かして血のめぐりをよくするようにしないと動脈硬化にもなるでしょう。 (昭和19年10月4日付け妻・義井あて)」

  「火薬の袋張りは容易の仕事じゃないらしいね。さぞ肩も張るだろう。ほんとうにお察しする。しかしあまり無理しいないほうがいいでしょう。無理するとやはりからだに障るよ。(昭和19年10月10日付け 妻・義井あて)」

  「この頃よく夢を見るが多くはお前さんとたか子に関した夢である。そして随分ありありと見る。多分一番気にかかっているせいだろうと思う。(昭和19年12月8日付け 妻・義井あて)」

  「冬になって水が冷たく、ヒビ、赤ギレが切れるようになったとの事、ほんとうにいたわしく同情します。水を使った度に良く拭き払い、熱くなるほどこすっておくと良いでしょう。 (昭和19年12月11日付け 妻・義井あて)」

この手紙を書いている硫黄島では、時たま空襲があり、すでに穴倉生活をしていました。虫や熱さに悩まされている時期だったのです。そんな自分の境遇を顧みず、ひたすら妻を思いやっているのです。

すばらしい愛妻家でしょう!

ここに至っては、古い時代の人という感じがしないどころか、私たち妻子ある男性の鑑(かがみ)のような人物ではありませんか。

これが当時、男尊女卑を当たり前としていた軍人の基準からすると、栗林中将という人が異色の人物であることがおわかりいただけたかと思います。

栗林中将はとても筆まめな方であったようで、アメリカから42通、硫黄島から41通もの手紙を出しています。皆さんが図書館へ行かれたら、「硫黄島からの手紙」という本を見て下さい。この本は、クリント・イーストウッド監督の映画の台本ではなく、栗林中将が硫黄島から送ってきた手紙をまとめたものです。一冊の分厚い本になっちゃうくらいの手紙の量だったのです。

これらの手紙の中で、もっとも驚くべきことはこれだと思います。

アメリカからの手紙と硫黄島からの手紙、計83通。

これらの膨大な量の手紙の中で、皇国、国体、聖戦、天皇といった言葉が一度たりとも使われていないということです。

信じられますか。

栗林中将はトップクラスの帝国陸軍の軍人ですよ。その軍人が、当時の軍人たちの決まり文句というべき皇国、国体、天皇という言葉を一度も使っていないのです。

皇国、国体、天皇を口にしない日本軍人なんて、まるで神の愛を口にしないキリスト教徒や、アッラーの名前を唱えないイスラム教徒みたいなもんじゃないですか!

私が栗林中将を、まったく軍人らしくない軍人と言った意味がわかるでしょう。

栗林中将がやさしかったのは家族だけではありません。家族以外の人たちにも気遣っていました。

貞岡信喜という85歳の老人が高知市に住んでいます。

この方は若い頃に、南支派遣軍の参謀長として広東(中国の広州)にいた栗林氏(当時少将)の軍属をしていました。軍属というのは、高級将校の身の回りの世話をする係でした。

少将と軍属では、天地ほどの身分の差があります。

それにもかかわらず、栗林氏は息子のような年の貞岡さんに実に親身に接したということです。

こんなエピソードがあります。

貞岡さんは一枚の写真を大切に保管されています。それは昭和18年に広東の南支派遣軍の駐屯地で撮られたものだそうです。

場所は兵舎の庭で、白いカバーの掛かった椅子が置かれ、軍服姿の栗林氏が軍刀を手に座っています。横には軍用犬のジャーマン・シェパード。そして、後ろに立っている五人のうちの一人が貞岡さんです。

貞岡さん曰く、

「写真を撮ることになったとき、閣下が “せっかくだから貞岡も呼んでやろう” とおっしゃって、敷地内の宿舎にいた私のところに使いを出してくださったんです。この写真を撮った庭から宿舎まで、全速力で走っても往復15分以上はかかります。その間、閣下は私が来るのを待っていて下さったんです。」

陸軍少将が軍属を15分も待つなど、普通ならまず絶対にありません。でも、栗林氏は、写真を撮ってもらうという当時めったにない機会を、身の回りの世話をしてくれる貞岡青年に与えたかったんでしょうね。

階級社会の最たるものである軍隊にあって、目下の者に気さくに接する栗林氏は異色の将官だったんです。入院した兵があれば、みずから車を運転して、果物を持って行ったり、マラリアにかかった兵には氷を届けたりしていました。

こんな栗林氏を貞岡さんは、父以上に慕い、昭和18年6月に、栗林氏が中将に昇進して、東京の近衛第2師団長に転任が決まると、自分も転属願いを出して、栗林中将についていったのです。

ところが、その一年後、栗林中将は硫黄島に赴任することが決まりました。この時は、栗林中将は貞岡青年の同行を許しませんでした。玉砕することがわかっていたからです。

栗林中将が昭和19年6月に硫黄島に赴任したあと、思いつめた貞岡さんは、東京から横浜まで夜を徹して歩き、父島行きの船に飛び乗ったそうです。そして、父島に着いてから、無線電話で栗林中将と話すことができたそうです。その時、「そんなところで何をしておるか!絶対にこちらにきてはならん!」っと怒鳴られたとか。貞岡さんが、栗林中将に怒鳴られたのはあとにもさきにもこのときが最後だったそうです。

貞岡さんは、12月まで父島に留まりましたが、諦めて国へ帰る決心をしました。

栗林中将は、東京の妻・義井さん宛てに、次のような手紙を送りました。

  「貞岡は最近便で内地に帰るそうです。せっかく来たが私の許までまで来れず、それに病気になって入院もしたりで、帰る気になったのです。東京へ着けば無論立ち寄るだろうから、その節は玄関だけにせず、何でもあるものを振舞ってやって下さい。やがては田舎に帰るのだそうです。 (昭和19年12月11日付け 妻・義井あて)」

また、貞岡さんの実家へ直接、手紙も送りました。

  「拝啓 東京からの葉書着きました。当地でお会いできなかったことは残念ですが、ご無事ご帰還になったことは何よりと存じます。東京で留守宅の世話までして下さるようなお話ですが、ご厚情の段、深く感謝します。 小生もその後相変わらず非常に丈夫かつ元気で働いていますからご安心下さい。内地は寒いでしょう。どうぞ風邪などをひかぬようご用心下さい。では、さようなら。」

階級社会の最たる軍隊では、階級が違えば、神様と奴隷くらい身分さがありました。だから、イジメも多かったと聞きます。ちょっと気に食わなければ、ビンタなんか当たり前の世界だったんです。そんな世界で、一般の兵士や軍属にいたるまで、対等に付き合う将校なんていなかったんです。

実はこの「軍人らしくない」ということが、のちのちお話しますが、奇跡の戦いを起こすことができた理由でした。

栗林中将が拝命された硫黄島の第百九師団は混成部隊でした。

混成部隊というのは、ほとんどが応召兵で組織されています。いわゆる徴兵された人たちです。大東亜戦争の末期は、20代前半から30代前半の壮健な若者が不足していました。この第百九師団の兵士は、志願の幼年兵(20歳未満の者)と30代後半から40代後半の人たちでした。一年前まで八百屋や魚屋をやっていたようなオジサン連中です。平均年齢36歳。

今でこそ、40代ってまだ若いですよね。でも、この当時は、40代後半はもう初老の域で、55歳になると定年を迎えていました。そんな時代の平均年齢36歳ですよ。

はっきり言って、硫黄島の第百九師団はロートル軍団だったのです。

しかも、航空機も戦艦の援護もなし。水も食料も乏しい。

対するアメリカ海兵隊は、20代前半の屈強な若者たちばかり。

普通に考えたって相手になりません。

先ほど述べた栗林中将の「軍人らしくない」という性格が、この寄せ集めロートル軍団を火の玉のような最強軍団に変え、占領したアメリカ軍に「勝者なき死闘」と嘆ぜしめた理由だったのです。

それでは、栗林中将が硫黄島の最高指揮官に任命されたいきさつからお話しましょう。

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栗林中将を硫黄島の第百九師団長に指名したのは、当時参謀総長兼首相だった東条英機です。

彼は栗林中将に、「どうかアッツ島のようにやってくれ」と言ったといいます。

アッツ島は、栗林中将が硫黄島へ行く前年の昭和18年5月、米軍の上陸を阻止しようとして死闘を演じ、玉砕という名の全滅を遂げたアリューシャン列島の小島です。

大本営は硫黄島を死守せよと命じたが、太平洋の孤島を守りに赴くということは、もはや勝って敵を撃退することを意味しませんでした。日本にはもはやそれだけの力が残っていなかったのです。

東条英機首相が言った、「アッツ島のようにやってくれ」という意味は、粘れるだけ粘って、全員が死ぬまで戦ってくれということなんです。

ここから先の話をはっきりと理解していただくために、ちょっとここで、軍隊の基礎知識を。

軍隊の基本単位をお話します。

軍隊の一番小さな単位は小隊です。3~5人程度のグループ。小隊がいくつか集まって中隊を形成し、中隊がいくつか集まって大隊を形成するというようになります。順次大きくなっていくにしたがって、

小隊→中隊→大隊→連隊→旅団→師団 

となります。連隊は二千人規模。その連隊が2~3個集まって旅団となります。一番大きな単位が師団です。1個師団で約二万人です。

また、それぞれに小隊長、中隊長、連隊長、というように、リーダーがいます。

そして、皆さんに覚えておいてほしいのが、

最大単位の師団長には、戦場でだれも命令する人がいないということです。

つまり師団長の命令ひとつで全兵士は動くんです。

だから硫黄島の第百九師団長になるということは、

師団長の命令一つで数万もの将兵が戦い、そして死んで行くということなのです。

でも、当時の師団長クラスの人は、あまり将兵の死については深く考えませんでした。

当時の大将や中将という高級将校にとって兵士は単なる駒であり、もっとも重要なことは国体を護持することだったんです。

皆さんは、大本営参謀のような軍人(大将、中将、少将)は、兵隊と同じように戦場で戦うものと思っていませんか?それは間違いです。

彼らは兵士のように戦いません。

彼ら高級将校は兵士ではなく、どちらかと言うと官僚なんです。

軍部官僚というべき人たちで、計画を立てたり、戦争の指揮を戦場から離れたところから指揮する人たちなんです。実際には戦地で銃を持って戦うことはありません。

彼らにとって戦争は将棋やチェスと同じです。兵隊は駒なんです。

東条英機は、軍部官僚として無能でした。

彼が計画する軍事戦略はことごとく失敗。何十万人という兵隊が玉砕を余儀なくされました。戦局が悪化したことについては、東条は責任を感じていましたが、兵士が死ぬことにはあまり気にも留めていませんでした。単なる駒ですから。これは東条だけではなく、ひろく高級将校について言えることです。

ところが、同じ高級将校である栗林忠道中将は、兵士一人ひとりが駒と思えなかったんです。

彼の今までの兵士や軍属に対する接し方を見てもわかるでしょう。

こういう心のやさしい人は軍人に向かないかもしれません。

勝利がありえないとすれば、どんな目的ならば、部下たちは “甲斐ある死” を死ぬことができるのか。

栗林中将はさぞかし、二万余りの兵隊が自分の命令で死んでいく島に赴くについて、非常に胸を痛め、かつ悩んだことだろうと思います。

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ところで、栗林中将はアメリカとの戦いには最初から反対していました。

常々、家族には、「アメリカは日本がもっとも戦ってはいけない国だ」と言っていたそうです。

栗林中将はアメリカへ留学し、ハーバード大学、ミシガン大学で学びました。だからアメリカという国がどれほど巨大な国であるかを知っていたんですね。長男・太郎氏(当時3歳)に送った手紙からもよくわかります。

  「女中のお婆さんがこの頃、自動車を買い換えたというので、お父さよんに見せています。なるほど、なるほど、なるほど、これはいい……、丁寧に使うたら大分長持ちしそうだぜ……

  キャプテン(栗林氏のこと)よ、わたしゃ自動車買い替えたよ、四百ドルさ、古さとしては相場ものさ。前のかね?あれは亭主にやったよ。

  亭主と財布は別にしているね。亭主はほんとにいい人だが、酒を飲んだりばくちをやるで、いつも私の金をねだるで困るよ。今年になっても、もう随分貸したね。ベラベラベラベラ

  お父さん腹の中で思えらく

  『こんな婆の自動車でも、日本の田舎を走っている乗合自動車よりよっぽどいいや。ほんとに日本もどうかしないといけないな……それはそうと、亭主と懐を別にしているとは、これもやはりアメリカ式だわい……』」

アメリカは、栗林氏の身の回りの世話をする女中のお婆さんでさえ、自家用車を持っている国だったのです。日本とは国力が違いすぎました。

また、栗林氏はアメリカに3年半住んで、アメリカ国民が公正と信義を重んじ、軍人に対しては、どこの国の人でも温かく迎えてくれる人たちであることを知っていました。栗林氏の人柄でしょうか、アメリカ留学中は相当な人気者だったようです。

それを示す手紙が残っています。

やはり、長男・太郎氏に宛てた絵手紙です。

この手紙には、タクシーに乗って走り去る栗林氏と、手を振って見送る人たちが描かれています。留学当初、民間人の家に下宿して暮らしていたバッファローという町を去り、首都ワシントンに向かう場面です。そこにこのような文章が添えられています。

  「バッファローの下宿のおばさんや

   近所のおばさん達がみんなして、

   お父さんが帰ってしまうのを

   惜しがっているところです

   お父さんはそれ程

   みんなに好かれていました」

アメリカにはたくさんの友人や知人がおり、アメリカは栗林氏にとっても、もっとも戦いたくない相手でもありました。

だから彼は最後までアメリカとの開戦に反対していました。

このことが東条英機に疎(うと)まれ、必敗の地である硫黄島行きを命じられたという説が有力です。前出の貞岡氏もそう信じています。

しかし、東条英機がどのような理由で栗林中将を硫黄島の師団長に命じたかはさておき、無能だった東条英機が唯一正しい判断をおこなったのがこの時です。彼が栗林中将を硫黄島の最高指揮官に命じたことによって、戦後の日本の命運が開けたのですから。

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先ほど東条英機は、「どうかアッツ島のようにやってくれ」と、栗林中将に言いましたが、これは本当はとんでもない話なんですよ。

アッツ島と硫黄島では、軍事戦略上の重要性がまったく違うからなんです。

だからアッツ島と同じに硫黄島で戦ってはいけないのです。

東条英機にはそのことがわかっていなかった。

東条英機という人は、権力闘争の政治手腕はあったかもしれませんが、参謀総長としては失格です。

アッツ島が位置するアリューシャン列島から日本までは一万キロ以上の距離がありました。この時代にこんな長い距離を飛べる爆撃機なんか存在しなかったのです。はっきり言って、アッツ島なんかどうでもいい島だったんです。さっさとアメリカにあげちゃえばよかったんです。アリューシャン列島なんかにこだわらずに、そこの兵力をグワム、サイパンに向けるべきだった。

それなのに東条英機はアッツ島やキスカ島になぜかこだわった。そして何千人と言う兵士を無駄死にさせてしまったのです。

なぜ硫黄島が戦略上重要か?

それはグワム、サイパンと日本列島の中間地点にあったからです。

グワム・サイパンから日本列島までの距離2600キロ。往復5200キロ。

この距離は大型爆撃機B29が飛行できるギリギリの距離でした。

だからアメリカは中継地となる島がほしかったのです。そして中継地点になる小笠原諸島では、飛行場を建設するのに適した平坦な島は硫黄島しかありませんでした。実際、この周囲22キロという小さな島には、3つもの滑走路がありました。いわば硫黄島は不沈空母のような島だったのです。

グワム・サイパンがアメリカに占領されてしまった今、硫黄島をアメリカに取られるということは、日本の大都市への大規模な空襲が可能になってしまうということなのです。

つまり、硫黄島は、戦略上、アッツ島なんか比べものにならないくらい重要だったのです。「アッツ島のように」やっちゃダメなんです!

栗林中将は無能な東条英機と違い、ことの重要性がわかり過ぎるくらいわかっていました。

「この島を取られると、東京は空襲を受け、大勢の人たちが死ぬことになる…」

皇室に限りない崇敬の念を抱いていた山本五十六大将は、トラックやラバウルといった太平洋の戦場にあっても、毎朝、部下に首都の天候を尋ねたそうです。皇居が空襲の被害にあうことを怖れたからです。

栗林中将もまた、硫黄島に赴いたあと、つねに東京の空襲について心配し、しつこいほど繰り返し手紙に書いています。しかし彼の場合、つねに眼前にちらついてその心をさいなんだのは、火の海を女子供が逃げまどう光景でした。

  「空襲は相変わらず毎日あります。このごろでは夜間一機か二機、昼間二十機の空襲が欠かさずあります。その度ごとにこちらの飛行場や陣地が痛めつけられるので、あちらこちら見渡す限り草木がなくなり、土地がすっかり掘り返されて惨憺たる光景を呈するに至りました。内地の人には想像もできない有様です。…これがもし東京などだったらどんな光景(もちろん凄惨な焼け野原で死骸もゴロゴロしている)だろうなどと想像し、何としても東京だけは爆撃させたくないものだと思う次第です。(昭和19年9月12日付け 妻・義井あて)」

  「この戦争で、軍人でしかも最前線に出ている私が死ぬのは仕様がないとしても、お前達内地の婦女子まで生命の危険を感じなければならないのは何としても我慢の出来ない話だから、是非万難を排して田舎に退避し生命だけは全うしてくれ。(昭和19年12月8日付け 妻・義井あて)」

なんとしても、日本の大都市への空襲は避けたい…。

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栗林中将は、軍人は普通の人たちが普通の生活をするために存在すると考えていた人です。

このような考え方を持った軍人は、当時としてとても異色だったんですよ。彼の生きていた時代の軍人は、常に国体とか天皇というものが、思想の中心にあったのですから。

彼には、東京のような大都市が、アメリカの空襲を受け、女子供、年寄りが火の中を逃げ回ることが耐えられなかったのです。そこで彼は思い悩み、硫黄島である壮大な計画を立てました。

栗林中将が考え出した計画がどのようなものかをお話しする前に、戦争とはいかなるもので、本来どのように戦争を行うべきかということについて述べます。これを知っていただければ、皆さんに彼の考え出した方法がより理解できると思います。

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皆さんは、近代の戦争と中世以前の戦争の違いがわかりますか?

兵器が違うって?

そう、確かに近代では武器が発達し、中世と比べものにならないくらい、大量に人を殺戮できる兵器が開発されました。原子爆弾、ナパーム弾、化学兵器、爆撃機、戦車等。

でもそれらは槍が機関銃になっただけで、基本的にはなんら変わっていません。

近代戦争と中世の戦争の大きな違いは、近代の戦争にはルールがあるということです。

なんでもありのけんかとルールのあるボクシングの違いのようなものです。

中世以前の戦争から、ルールのある近代戦争までのプロセスを簡単にスケッチします。

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ヨーロッパ大陸は地続きであったため、隣国としょっちゅう侵略したりされたりの繰り返しでした。そのたびに多くの人たちが殺され、また一般市民に対する虐殺や略奪が行われました。

そこでヨーロッパの人々は、徐々にもっと戦争をスマートにしようと考え始めました。

そして生み出されたされたものが、「戦争とは他の手段をもってする政治の継承にすぎない」という考え方でした。

これはクラゼウィッツというプロイセンの軍人が、「戦争論」という本の中で述べた有名な言葉です。

簡単に言うと、それぞれの国がお互いの国益にしたがって外交交渉を進めた結果、他に解決する方法がない場合、政治的手段として戦争をしましょう、ってことです。

なんか安易に戦争をするみたいで、日本人的感覚から許せない!って、思われるかもしれませんね。

でも、これが戦争の悲惨さを避ける唯一の方法なんです。

平和を願うだけでは悲惨な戦争を避けることはできません。

それまでのヨーロッパの戦争は、どの国も正義を持ち出していました。「正義はわが方にあり!」ってな感じで、どこの国も戦争をしていました。

ところが、戦争に正義を持ち出すと、際限がないのです。

相手が降参しても許しません。なにしろ正義はこちらにあり、相手は不正義。兵隊であろうが、一般民衆であろうが、かまわずに皆殺し。できるだけ残虐な方法で殺しました。トコトンまでやらないと気がすまない。

宗教戦争がそうでした。

カトリックやプロテスタントから見れば、それぞれの宗教国は異教徒であり、悪魔の使いのようなものです。神の正しい戦いという理由を持ち出して、戦い始めると、お互いに相手を抹殺するまでやらなきゃ気がすまない。途中で止めることなんかできなくなるのです。

その結果どうなったか。

なんと!ヨーロッパの人口が三分の一も激減してしまうほどの悲惨な戦争になってしまったのです。

だから、どの国も、これからは戦争には正義、不正義を出すのはよそう。良い戦争、悪い戦争という考えを止めようということになったのです。

クラウゼウィッツが言うように、他の解決する手段がない場合に、戦争を政治的にしましょうということになりました。

そしてさらに生まれたのが、講和条約という考え方でした。国際法の基本中の基本といえるものです。

皆さんも世界史や日本史の中で、下関講和条約やポーツマス講和条約なんて言葉を習ったでしょう。

でも、ほとんどの授業で、講和条約の重要性を習っていないのではないかと思います。

この講和条約は、人類が発明した画期的な考え方なんです。

たとえば、両国間で、ある問題が起きて、話し合いで解決する方法がない場合、戦争をすることになります。でも、いったん戦争を開始して、勝敗が見えたら、トコトンやらずに、適当なところで戦争を止めて、勝者と敗者の立場で、話し合いでその問題の処理(たとえば領土の割譲など)を決めましょう、ということになりました。

これが講和条約です。 

また、戦争の仕方もルールづけが行われました。

たとえば、ハーグ陸戦条約では、戦争前には宣戦布告をすること、非戦闘員への攻撃の禁止や一般の建築物の破壊行為の禁止が決められました。ジュネーブ条約では、捕虜の虐待を禁止し、また、捕虜となる条件も詳細に定められました。

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ざっと中世から近代にいたる戦争の考え方の推移をお話しました。

戦争とは外交の一手段であり、戦端を開いてから、優劣がついたら、さっさと条件を出し合って講和をし、戦争を早期に終わらせるのが、本来の近代戦争のあり方なのです。

そのために講和条約というものが考え出されました。

欧米では軍事学というものがどこの大学にもあるので、彼らは一般知識として戦争について習います。だから戦争にはルールがあり、かつどのように戦うかということを常識的に知っています。

特に捕虜に関する知識は、戦争になったときに身を守る術としてとても重要なので、欧米の国々では、国民にジュネーブ条約を小学校から教えます。

捕虜になるというのは恥ずかしいことではありませんよ。捕虜になると名誉ある取り扱いを受けます。でも捕虜になるにはいくつかの条件を満たさなければなりません。たとえば戦闘員であれば、軍服を着ていなければならないとか、非戦闘員では武器を所持していてはいけないとか。その他、戦闘員であれば武器はこれこれこのように所持しろとか、あるいは黙秘権はどこまで許されるかとか、etc.etc. とにかく細かく規定されています。

これらの条件をクリアーすれば、名誉ある捕虜の特権を受けることができます。

皆さんは、戦争には戦い方のルールがあり、かつ捕虜となる条件があるなんて知っていました?ほとんどの読者が知らなかったんじゃないかなぁ。

実は、戦前の日本人も知りませんでした。

だから、大東亜戦争(太平洋戦争)は悲惨なものになってしまったんです。

当時の日本国民はすべて、戦争になったら、勝つか負けるか、生きるか死ぬかのいずれかだと思っていました。負ければ敗戦国民は皆殺しか、奴隷にされると思っていたんです。だから「一億総玉砕だ!」なんて悲壮な気分になっていたのです。こんな具合だから、戦争を単なる外交の延長線と考える人がいなかった。だ~れも、「うん、ここら辺で手を打って、講和しましょ!」って、考える人がいなかったんです。

そのため日本は、トコトンまで戦ってしまいました。島嶼(とうしょ)の戦いでは、玉砕につぐ玉砕。民間人は「生きて虜囚(りょうしゅう)の辱めを受けず」なんてことを信じ、アメリカ軍が迫ってきたら多くの人たちが自害してしまった。

せめて欧米では小学生すら知っているジュネーブ条約の知識があれば、沖縄であれほどの民間人が犠牲になる悲劇は防げたはずなのに…。残念です。

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ここまで戦争についてお話してお分かりのように、近代戦争で大切なことは、政治家は戦争を外交の一手段として考え、軍人にしっかりと戦争計画を練らせ、どこにおいて講和を結び戦争を終結させるかということを常に念頭において置かなければならないということです。

戦争は極力回避しなければなりません。

しかし、不幸にしてどうしても戦争を起こさなければならなくなったら、戦争をどこで終わらせるかがもっとも重要なことなんです。

そこが政治家の腕の見せ所なんです。

ところが、国民はもちろんのこと、当時の政治家たちは、まったく近代戦争と言うものがわかっていなかった。

戦争は単に勝つか負けるか、生きるか死ぬか、どちらかひとつしかないと思い込んじゃった。

だ~れも、戦争を外交の一手段として捕らえ、どこで戦争を終わらせるかということを考えていなかったのです。

これじゃ、戦争が悲惨なものになるのも当然です。

私の知る限り、戦争をどこで終わらせるかと言うことを念頭において、戦った軍人が二人いました。

そのうちの一人は連合艦隊司令長官の山本五十六大将です。

彼は若い頃にハーバード大学に留学していました。アメリカという国をその目で見てきたので、アメリカという国が日本と比較にならないほど国力があることを知っていました。

だから、日米開戦を思案していた近衛首相に、「日本はアメリカに勝てるか?」と尋ねられた時、山本五十六は、「最初の一年は思う存分暴れて見せます。しかしその後は…」と、口を濁してしまいました。

山本五十六大将がはっきりと、「しかしその後は日本はアメリカに負けます!」と言えば、歴史は変わったかもしれませんが、彼ははっきりと言わなかった。日本海軍は日本政府から潤沢な予算を割いてもらっていたので、「アメリカに負けます」とは言いづらかったのかもしれませんね。

ところで、皆さんは日米開戦となった理由を知っていますか?

油の供給を止められたからですよ。

中国大陸進出を企てていたアメリカにとって、すでに中国進出を果たしていた日本は目の上のタンコブだったんです。そこでイギリスとオランダを誘って、日本への石油の供給をストップしたのです。当時、油田のあるアラブ諸国や東南アジアのインドネシアはイギリスやオランダといった白人たちに支配されていました。これをABCD包囲網と言います。

資本主義国にとって石油の供給を止めるということは、死ね!と言っているようなものです。

日本はギリギリの交渉をアメリカとしましたが、アメリカが最後に日本に突きつけたものがハル・ノートと言われる、ハル国務長官の回答でした。これはすべての中国大陸および朝鮮半島、台湾の権利を放棄せよというものでした。現代の感覚から言うと、沖縄や北海道の領有権の放棄を要求されているようなものでしょうか。到底受け入れられるものではありませんでした。

東京裁判の判事の一人だったインドのパール博士は、「ハルノートのようなものを突きつけられたら、モナコのような小国であっても武器を持って立ち上がるだろう」と言っています。

ハル国務長官の回答はとても理不尽なものだったんです。

皆さんは学校の歴史の時間で、日本の起こした戦争は侵略戦争だって習ったと思いますが、大東亜戦争(太平洋戦争)は自衛の目的だったんですよ。生き残るために仕方なく起こした戦争なんです。

日本はこのハルノートをアメリカの最後通牒として受け取り、かくて日本は日米開戦を決意しました。

山本五十六は戦争のルールと戦い方を知っていました。

アメリカと戦争をするなら短期決戦しかない。最初にアメリカを叩いて、講和を呼びかけ、日本が石油の供給を確保できる条約を結んで、戦争をさっさと早く終わらせようと思っていました。

そこで彼が考え出したのが緒戦の「真珠湾攻撃」でした。

山本司令長官の戦争計画はこうでした。

昭和16年12月7日午後一時(ワシントン時間)に、野村吉三郎駐米大使がハル国務長官に宣戦布告をし、それと同時に連合艦隊は真珠湾に襲いかかり、できるだけアメリカ軍に打撃を与える。そして、時期を見て速やかに連合国側に講和を持ちかけ、日本が有利な条件で戦争を終結させるというものでした。

言葉でいうと簡単ですが、これ大変なことなんです。

まず、真珠湾攻撃なんて突拍子もない計画が、山本五十六が考えた通りに遂行できるのかどうか?

野村駐米大使がハル国務長官に、午後一時のアポを取ることはそれほど大変なことではないでしょう。電話一本で済みますから。

大変なのは連合艦隊のほうです。

渋谷のハチ公前で午後1時に待ち合わせるわけじゃありませんよ。60隻のもの大艦隊を40日間かけて5500キロを移動しなければならないのです。途中で暴風雨に会うかもしれないし、敵に発見されるかもしれない。戦争と言うのは不確実性の連続なんです。午後1時にピッタリとハワイ海域に入って、真珠湾にいるアメリカの主力戦艦を見つけ出し、撃沈しなければならないというのはそれほど大変なことです。

当初、海軍参謀雄本部は、成功の確率があまりにも低いということで反対しましたが、山本五十六はこれを強引に通しました。

第一航空艦隊の司令長官・南雲忠一中将は、「ハワイ空襲を成功させるのは不可能だ」と嘆げきました。山本五十六自身も、途中で発見されて、全滅するかもしれないことを覚悟していました。

でも、彼はこれを成し遂げたんです!たいしたもんです。

真珠湾奇襲作戦は信じがたいほどの大成功でした。

午後1時ピッタリに真珠湾を攻撃。アリゾナ、オクラホマ、ウェストバージニア、カリフォルニアの戦艦四隻を撃沈。戦艦メリーランド、テネシー、ペンシルベニアを中破という目も眩むような大戦果をあげ、ゼロ戦に乗った飛行士は、「トラ!トラ!トラ!(我奇襲に成功せり)」の暗号無電をハワイ沖で待つ連合艦隊本部に送ってきたのです。

これによってアメリカ連合艦隊はほぼ壊滅状態となりました。

まさに真珠湾攻撃の成功は奇跡だと言ってもいいでしょう。

「これで石油を確保し、戦争を終わらせることができる!」

山本五十六はこう確信しました。

ところが彼の戦争計画を狂わす思わぬことが起きてしまいました。

野村駐米大使の宣戦布告が遅れてしまったのです。

理由は、宣戦布告の暗号文が前日の深夜に日本大使館に入電されてきたのですが、なんと!その日に限って誰も当直していませんでした。大使館員のひとりが日本に帰国するということで、送迎会が行われていたのです。「今晩ぐらいは当直しなくても大丈夫だろう!」ってな感じで、ノー天気にみんな宴会に飲みに行っちゃったんです。職務放棄もいいところ。

皆さんは、大使や外交官の本来の職務はなんだかご存知ですか?

大使や外交官の本来の職務は、非常事態に際して適切な行動を取るということなんです。彼らは24時間勤務なんです。だから彼らは給料も高いし、名誉もあるんです。危機に直面して適切な処理ができない大使や外交官なんて、ネズミを取らない猫みたいなもんじゃないですか!無用の長物!粗大ゴミ!役立たず!

明日の一時にハル国務長官のアポを事前に取っておくようにと、日本政府から命令が来たときに、なんかあるなって、ピンとこなかったんでしょうか?日米関係が緊迫している時期ですよ~。危機感まったくゼロ!

大切な宣戦布告文の長い暗号が入電されているころ、大使館の外務省職員たちは宴会でグデングデンに酔っ払っていたんです。

翌朝、二日酔い状態で出勤したところ、長い暗号文が入電されており、慌てて解読作業を行いましたが、後の祭り…。全文を解読したときには、午後2時を過ぎていました。野村大使がハル長官のところへ宣戦布告文を持って行った時には、午後2時半。真珠湾攻撃が始まって、すでに一時間半が経過していました。野村大使がハル長官に宣戦布告文を渡したときには、全米に放送されたラジオの臨時ニュースで、真珠湾奇襲を全アメリカ国民は知っていました。

も~、悲憤発狂するような、お粗末な話じゃないですか!

外務省職員の大失態で、国家の運命を賭けた世紀の真珠湾攻撃大計画が、「世紀のだまし討ち」になってしまったのです!

黒澤明監督の映画「トラ!トラ!トラ!」では、真珠湾攻撃成功に沸く艦上で、無線電話で宣戦布告が遅れたことを知った山本五十六大将がただ一人茫然自失の状態。そして彼はこう言いました。

「我々は巨大な眠れる獅子を起こしてしまった…」

ハル国務長官は遅れた宣戦布告文を受け取る際に、野村大使にこう言いました。

「アメリカ国民はこのような卑怯な行為を絶対に許さないだろう!」

日本はこの二日後に、マレー沖海戦でイギリスの戦艦、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈し、南方侵攻作戦も三ヶ月で終了しました。

本来であれば、山本五十六はここら辺で、連合国側に講和を呼びかけ、有利な条約を結んで戦争を終結したかったのですが、アメリカ国内では真珠湾のだまし討ちに反日感情が燃え盛り、アメリカ国民の戦意は高揚していました。とても講和を呼びかける雰囲気ではありませんでした。

アメリカ国民ほど、アンフェアーな行為を憎む国民は他にありません。

真珠湾攻撃以前は、アメリカ国民は厭戦的ムードでした。戦争なんかいやだって国民全員が思っていました。ところがこの真珠湾攻撃以降はガラリと雰囲気が変わり、「ジャップ憎し!」という感情が支配的となりました。日本のアンフェアーな行為にアメリカ国民はまとまりました。こういう時のアメリカはものすごく強くなります。まさしく、真珠湾のだまし討ちは、巨大な眠れる獅子を起こしてしまったのです。

ミッドウェー海戦から日本は体制を整えたアメリカに徐々に押されてきました。

そしてマリアナ沖海戦からはっきりと日本は守勢に立たされました。このころすでに山本五十六大将は、ラバウル上空で戦死。

その後サイパンとテニアンが陥落。日本の敗戦が濃厚となっていきました。

このような時期に栗林中将が第百九師団長として硫黄島に赴任してきたのです。

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戦争をどこで終わらせるかということを念頭において戦ったもう一人の軍人は、この栗林忠道中将でした。

彼は出来るだけ長く硫黄島で粘り、一人でも多くの損害をアメリカ軍に与えることにより、有利に講和条約を結び、戦争を早期に終わらせることを計画していました。

2000年にアメリカで刊行されベストセラーとなった「硫黄島の星条旗」の著者、ジェームズ・ブラッドリーはこう述べています。

「栗林は、アメリカの世論を視野に入れて出血持久戦を選んだ。戦闘を長引かせ米軍に多くの死傷者を出させることで、米国民を厭戦気分にさせようとしたのだと思う。」

アメリカに長年滞在した経験のある栗林中将は、この硫黄島の戦いがアメリカ国内で報道されることを知っていました。そしてアメリカは民主主義の国であり、国民の世論が大きく大統領の判断に影響することも熟知していました。

たしかに当時のアメリカでは、硫黄島の戦況報道は毎日のように行われていたんですよ。その報道の量とスピードは、当時の日本からは想像もつかないものでした。しかも、正確な情報がアメリカ国民に伝えられました。大本営発表のニュースは、都合の悪いものは削除して報じられたのに対し、アメリカ海兵隊に従軍していた記者たちはありのままの戦況を本国に送ったのです。

ジェームズ・ブラッドリーはさらにこう続けます。

「アメリカ人は何よりも人的な被害を重く見る。だから、死傷者の数が多ければ、たとえ戦況が有利でも、その作戦は失敗ではないかという世論がわきあがる。アメリカで暮らし、その国民性についてよく知っていた栗林は、そこまで計算して敵の死傷者をじわじわ増やしていく戦い方を選んだ。アメリカの世論が、日本との戦争を早く終わらせようという方向に向かうことを期待したのだろう。」

栗林中将自身も、大本営に対して、積極的に終戦交渉を進めることを進言していたようです。

やはり玉砕の島であったアンガウル島から生還し、戦後、太平洋の島々での玉砕戦に関する多くのノンフィクションを著した船坂弘氏は、昭和43年刊行の『硫黄島 ああ!栗林兵団』の中で、次のような逸話を紹介しています。

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 だが、栗林中将は防備の強化をはかりながら、べつのことを考えていた。昭和3年からアメリカへ、昭和6年からカナダへ軍事研究にいき、そのおそるべき工業力を知っている栗林は、真田、中沢両少将が島をさるとき、一つの意見具申書を大本営に届けるように依頼した。それは、

「米国の戦力、アメリカの国力を至急に判断し、サイパン玉砕後は早急に和戦の方法を講ぜられるように」

 というものであった。しかし当時の幕僚としては、ただ驚いて顔を見合わせるだけであった。意見具申書にたいしても、部隊の士気に影響をあたえることをおそれ、胸中深く秘め帰国しても口にするものはひとりもいなかった。

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アメリカでは栗林中将が予想していたようなことが起きていました。

アメリカの報道スタッフは硫黄島から24時間報道を続けた結果、アメリカ国民は硫黄島上陸から4日間の戦闘が、ガダルカナルでの5ヶ月間にわたるジャングル戦を上回る死傷者を出したと知って茫然。あまりに大きな犠牲に世論が沸騰し、「アメリカの若者をこれ以上殺させるな!」、「最高指揮官を更迭せよ!」という投書が新聞社や政府関係機関に殺到したんです。

アメリカ大統領にとって、世論は天の声です。

もし、大本営が栗林中将の進言を受け入れ、この時点でアメリカ政府に講和を呼びかければ、ルーズベルトは戦争を終結するために講和条約の締結を考えた可能性が非常に高いのです。

あるいは、真珠湾奇襲の大失態がなければ、間違いなく、アメリカ側から日本政府へ講和を呼びかけ、この時点で戦争は終結していたと思います。

残念ながら、大本営の無能な軍部官僚たちは、栗林中将の具申書を取り上げませんでした。そして、その後、歴史は、沖縄戦、東京大空襲、広島・長崎の原爆投下の悲劇をたどることになってしまったのです。

でも、栗林中将たちの硫黄島の戦いが無駄になったわけではありません。

冒頭に述べたように、日本の大都市がBー29に空襲されないように、二万一千人の兵士が粘るだけ粘って戦ってくれたおかげで、アメリカ国民は日本兵士に対して恐怖を植え付けられ、戦後の日本の繁栄と平和の道が開かれたのですから。

硫黄島玉砕の前日、昭和20年3月22日の戦況を伝える電報には、このように書かれていました。

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 『師団長以下将兵敢闘中ナリ。

  我等将兵ハ飲マズ食ハズノ日ヲ五日続ケタリ。然レドモ、我ガ敢闘精神ハ益々高潮シツツアリ。最後ノ一瞬マデ戦闘ヲ続行セントス。』

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水も食料も尽き果てながら、50度近くある地下陣地に立てこもり、最後の一瞬までゲリラ戦を展開したのがよくわかります。

水や食べ物で不自由したことがない現代の私たちには、彼らの渇水のつらさがわからないかもしれません。

硫黄島から生還した日本人兵士が硫黄島協会の会報紙で、「夜降った雨水が道路に溜まっているのを四つんばいで飲んだときの甘(うま)かった味が忘れられない」と述べています。逆境を生きる決意を表す言葉に、”泥水をすすってでも”という表現がありますが、その泥水さえ、硫黄島の日本人兵士にとって、甘露の味がする貴重な水でした。

それほど、渇水がつらかったのです。

しかし、彼らはそのつらさに耐え、バンザイ突撃することなく、最後まで忠実に栗林中将が立てた計画に従い、組織的戦いを続けたのです。すごい精神力でしょう。なぜここまでがんばれたかというと、自分たちが戦っている間は、日本が空襲を受けないと信じていたからなんです。だから彼らはできるだけ長く苦しい地獄を生きて、戦おうと思っていたんです。

その結果、アメリカ海兵隊は、日本軍を上回る三万人もの死傷者を出しました。

はっきり言って、アメリカ海兵隊は、栗林中将の混成(寄せ集め)部隊に力負けしたんです。これって、すごいことなんですよ!なんてったって、アメリカ海兵隊は今も昔も世界最強の軍隊なんですから。

しかも、その後、彼らは日本兵が水も食料もない状態で戦っていたのを知り、心の底から日本兵に対して恐怖を覚えたのです。

だから、アメリカは戦後、日本の軍隊を解体するかわりの条件として、彼らにとって不利な日米安保条約を結び、一方的に日本を守ることを約束したのです。

皆さんの多くは、かつての私と同じように、日米安保条約が漠然となんか悪い条約のように思っているのではないでしょうか。でも、素直な気持ちで日米安保条約を読むと、これほど日本に有利な条約はありませんよ。

しかも、アメリカ国民は、日本を特恵国として扱い、優先的に日本製品を輸入することにより、日本を経済支援しました。また、戦後、占領した領土(沖縄、硫黄島etc.)を自主的に返還もしました。まったく至れり尽くせりの扱いでした。

大葬の礼の前夜に私が会ったドイツ人ジャーナリストは、「ひょっとしたら、日本はアメリカに太平洋戦争で勝ったんではないだろうか?」と、アメリカの日本に対する対応を不思議がりましたが、

彼の指摘の通り、戦後、日本はアメリカから、まるで ”戦勝国” 扱いを受けてきたのです。

それだけアメリカ国民は、二度と日本と戦いたくない…って、思ったんです。

あれも、これも、それも、すべて硫黄島で日本兵士が最後の最後まで戦ってくれたおかげです。

どうですか、みなさん。そう思うと、一杯のお水でも、南の方角に向かって、硫黄島兵士の辛苦を想い、ありがたくいただきますって気持ちになってきませんか?

それでは、つぎに栗林忠道中将が、どのような戦い方をしたのかを見ていきたいと思いますが、その前にアメリカ海兵隊の最高司令官、ホーランド・M・スミス中将が、これまでの島々(アッツ、キスカ、アンガウル、サイパン、テニアン、グワム等)を落としてきた経緯をお話します。スミス中将の戦い方がわかると、栗林中将の取った戦法が、いかに優れたものであったかが理解できるからです。

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「臨時ニュースをお伝えします!臨時ニュースをお伝えします!

本日の正午ころ、突然、火星人が米国に襲来し、現在ニュージャージー州が攻撃されています!かなりの被害が出ている模様です!近隣の地域ではただちに非難をして下さい!」

これは、1938年(昭和13年)に名優オーソン・ウェールズがCBSのラジオドラマ『宇宙戦争』で放送した一こまです。

ウェールズの迫真の演技に、多くのアメリカ国民がこの放送を本物のニュースだと勘違いし、一時アメリカがパニック状態になりました。

ところが、その3年後の昭和16年12月8日、日本の真珠湾奇襲がラジオの臨時ニュースで伝えられた時、ほとんどのアメリカ国民は最初、「これって、なにかのジョーク?」って思ったそうです。彼らは日本の奇襲を信じなかったのです。

当時のアメリカ国民にとって、日本は極東(FAR EAST)にあるお伽の国。マルコポーロの東方見聞録に出てくる黄金の国『ジパング』くらいの知識しかありませんでした。日本は実感のない国だったのです。

そんなわけで、アメリカ国民は火星人が攻めて来ることがあっても、まさか日本が攻めてくるなんて考えもしなかったのです。それほど彼らにとって、真珠湾奇襲は予期しないことでした。だから、ほとんどのアメリカ国民は、日本の真珠湾奇襲に驚きました。

ところが、日本の真珠湾奇襲に驚かなかった人物がいたのです。

ホーランド・M・スミス中将です。

彼は、第一次世界大戦の戦勝国となった日本は、マリアナ、カロリン、マーシャル諸島を獲得したが、これらの島々は、アメリカ海軍の本拠地ハワイと前進基地であるグワム、フィリピンを結ぶルート上にあり、日露戦争以降、中国大陸にかんして日米で緊張関係が存在するから、いずれ日米開戦が行われるであろうと、予測していました。しかも、戦争は日本の奇襲によって行われるだろうと思っていました。

果たして彼の予想は的中しました。

スミス中将の回想録によると、彼は真珠湾奇襲をワシントンの将校クラブで知ったのですが、いあわせた陸海軍将校のほとんどが信じられないという顔をしたのに対し、「つとに予測していた通りの戦争の起こり方であったし、対応の方法も十分承知していたから、少しも驚くことはなかった」と書いています。

彼は真珠湾が奇襲を受ける6年前から、日本と戦端が開かれることを予測し、その戦争計画を立てていました。

その戦争計画とは、太平洋諸島の日本軍基地を撃破しつつ一直線に北上して日本を叩くというものでした。そのために彼ら海兵隊は島嶼の軍事作戦を研究してきたのです。

日本の大学には軍事学という学問がないので、一般の日本人に島嶼(とうしょ)戦といってもあまりピンとこないと思います。

島を守る側と攻める側では、どちらが有利か知ってますか?

島を守る側の方が圧倒的に有利なんですよ。

なぜかというと、島を攻める側の軍隊は、ボートに乗って海岸まで行き、上陸しなければなりません。この時、身を隠すような塹壕などがなく、まったくの無防備状態になるのです。だから、島を守る側は、この時に一気に敵を撃ちまくり、全滅させれば良いのです。

これを島を守る側から水際作戦と言い、軍隊の教科書的な戦法です。

スミス中将たちは、日米開戦に備え、圧倒的に不利な敵軍の水際作戦に対し、どのように戦えば良いかということを研究してきました。

そして編み出されたものが、水陸両用作戦というものでした。

これはどういうものかというと、まず目標の島の制海権および制空権を奪ったうえで、猛烈な爆撃および艦砲射撃で守備隊の抵抗力を弱め、その後、海兵隊の大部隊が電撃的に強行上陸する。上陸部隊が前進するかたわら、占拠した地域では工兵隊(=土木・建築工事をする部隊)が航空基地を作り、さらなる目標に向けて戦闘機や爆撃機を飛ばし、島の攻略後は陸上部隊が進駐してこれを守備する。この一連の軍事行動を敏速に展開し、要地を押さえつつ日本本土に肉薄していくというものでした。

スミス中将は、カリブ海の訓練場で試行錯誤を繰り返し、欠陥を修正しつつ、この水陸両用作戦を完成させていたのです。

このようなアメリカ側の対日開戦の準備に対し、戦争を仕掛けた日本はどのような準備をしたか?

驚くべきことに、なんにもしていませんでした。

これまでの日本陸軍は、士官学校で対ソ連主体の軍事教育を行ってきました。対米戦を主体にした教育に変更したのは、なんと!開戦二年後のことでした。しかも、山本七平氏が、「一下級将校の見た帝国陸軍」で書いているように、その時期に至ってもなお、「対米戦闘に関する一枚の図面も持たず、そのための教育の基本計画さえも持っていない」というお粗末な状態でした。

あまりにもアメリカを舐めすぎですよね。

日本は資源豊かなアメリカの物量に負けたと、戦後、ほとんどの日本人が思いました。

でも、それだけじゃないんです。

戦争にとってもっとも大切なことは、合理的精神を持つことなんです。

日本にはこの合理的精神が欠如していました。

最小限の損害を持って最大限の打撃をあたえ、最短の時間を持って最大の目的を達する唯一可能な方法を徹底的に追求するという考え方が必要です。

たとえば、スミス中将は、占領すれば基地設営のための資材が必要になるということで、必要な時期に必要な物資を必要な分量だけ供給するためにどうすればよいか、ということまで徹底的に研究しました。そして、彼によれば、海兵隊は、「積載の方法を精密科学の水準まで洗練させた」とまで言っています。

かたや、日本軍は。

鬼畜米英!徹底抗戦!一億総玉砕!

掛け声ばかり…

ただの精神主義です。

スミス中将は、「素早く叩き、強く叩き、敵が屈服するまでどこまでも叩き続ける!」と常に言い続けた「猛将」と呼ばれた人ですが、それらの掛け声は、彼の合理的精神の裏打ちがありました。

こんな有能な最高司令官のいるアメリカ海兵隊に、日本の島嶼守備隊が敵いっこありません。

真珠湾の打撃から徐々に態勢を整えたアメリカは、太平洋の島々で日本軍と戦うことになりました。

ミッドウェー海戦以降、日米の形勢は逆転。制空権および制海権をアメリカに取られ始めます。そして、マリワナ沖海戦で、日本の連合艦隊は事実上、壊滅状態に。

制空権と制海権を握ったアメリカは、島嶼戦で水陸両用作戦を実施。スミス中将率いる海兵隊は次々と日本が占領していた島々を落としていきました。アッツ、キスカ、アンガウル、ガダルカナル、タラワ、ペリリュー、サイパン、グワム…。スミス中将率いるアメリカ海兵隊はまさに敵なし。ほとんど一週間から二週間くらいで日本軍を撃滅していきました。

これってすごいことなんですよ。

これだけの数々の戦いをおこなって、スミス中将は一度も負けたことがないのです。第二次世界大戦を通して、負けなしだったのは彼だけなんです。「硫黄島の星条旗」のジェームズ・ブラドリーは著書の中で、スミス中将の戦績は、パットン将軍(アメリカ陸軍大将・ノルマンディー上陸作戦の最高指揮官)でさえ羨(うらや)むものだ、と言っています。

グワムを落としたあとで、いよいよスミス中将率いる海兵隊は、グワムと東京の中間地点にある硫黄島奪取を試みます。

スミス中将は、硫黄島には川がなく、すでに物資の供給ルートを断っていましたから、日本軍は水不足で士気は相当落ちていると読んでいました。だから、硫黄島はこれまでの島々より楽に五日間くらいで落とせるだろうと思っていました。

この時、彼はまだ、この島にのちに世界の名将十傑に選ばれる有能な指揮官がいることに気づいていませんでした。

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硫黄島に赴任してから、まず栗林中将が戦わなければならなかった相手は、外部の敵アメリカではありませんでした。

それは日本陸海軍にはびこる伝統主義との戦いでした。

伝統主義とは、ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの言葉です。過去に行われていたからという理由だけで、それを続けなければならないという強い衝動のことをいいます。これは人間の習性みたいなもので、誰でも新しいことをするには勇気がいりますよね。「新しいことをやって失敗するよりは、このまま昨日の延長でいいや!」って、こういう気持ちです。だから昨日やったことと同じことを今日もする。そして今日やったことは明日も同じようにする。

マックス・ウェーバーは、この伝統主義を、「永遠の昨日」とも言っています。

皆さんの周りにも、こういった伝統主義者がいませんか?すでにそれが機能しなくなってしまっているにもかかわらず、現実を直視せず改革をしたがらない人。伝統主義は組織が長い間に腐食し、形骸化すると現れてきます。当時の帝国陸海軍にも組織上の形骸化が現れ、多くの面で伝統主義が瀰漫(びまん)していました。

ちなみに伝統主義の反対は、合理的精神です。

栗林忠道という人は、物事を合理的に考える人でした。だから伝統主義と真っ向からぶつかりました。

これまでの島嶼の戦いで、日本軍は水際作戦を取って、易々とアメリカ軍に島を落とされてきました。栗林中将は、それはすでに制空権と制海権をアメリカ軍に奪われてしまったため、艦砲射撃や空爆で、日本軍の水際の攻撃力が低下していることが理由であることを分析していました。彼は硫黄島に赴任するまでに、敵将スミス中将の水陸両用作戦を徹底的に研究していたのです。

そこで、彼は水際作戦を放棄する方針を取りました。

これまで、アッツ、キスカ、アンガウル、ガダルカナル、タラワ等、日本軍は水際作戦をとってアメリカ軍に負けていたから、当然そのような結論になります。

ところが、当時の日本軍では、この当たり前のことが当たり前でなかったのです。

島嶼戦において、水際作戦は日本軍の伝統的な戦法でした。

硫黄島の参謀たちはほとんどが、今までとおりの戦い方である水際作戦に固執しました。新しい戦法を取るにはあまりにもリスクが大きいというのが彼らの主張でした。

彼らは陸軍士官学校で、ずっと島嶼戦は水際作戦が常識であると習ってきた人たちです。栗林中将が赴任するまで、大本営の参謀たちも来島しては、水際作戦の重要性を彼らに説きました。そのため水際の陣地構築を行い、同時に水際作戦の訓練をしてきました。いまさら、「水際作戦を取らないなんて…」って、気持ちが強かったのです。これまでアッツ、キスカ、アンガウル、サイパン等々の島々が、水際作戦をとって、ことごとく米軍に全滅させられてきたのに、だれも現実を直視していませんでした。

また、彼らには戦場の美学というものがありました。

水際作戦でやるだけやって、力及ばず米軍の上陸を許してしまったら、あとは総攻撃をかけて潔(いさぎよ)く、バンザイを唱えながら戦場に散りたいという気持ちが強かったのです。

古来より日本には、「武士道とは死ぬことと見つけたり!」という言葉がありますが、戦場で潔(いさぎよ)く散ることは、彼らにとって男の美学だったんです。

合理主義者であった栗林中将には、そのような戦場で潔く散る美学などありませんでした。あくまでも彼は現実を直視しました。

「この島が米軍の手に渡れば、B-29の大都市への空爆が可能になり、多くの犠牲者が出てしまう。それだけはなんとか避けたい!」

硫黄島は他の島と同じように潔く散ってはならない島であることを知っていました。長くこの島を死守し、できるだけ多くの損害を米軍へ与えて、講和条約へ持ち込むことが栗林中将の考えでした。

そこで栗林中将は、水際作戦に固執する旅団長と参謀長をさっさと更迭し、また批判的な将校18名を本国へ送還してしまいました。

これって異例のことなんですよ。

師団における旅団長や参謀長は、会社にたとえれば、専務や本部長のようなものです。新しい社長(師団長)が来て、幹部を全員クビにしちゃったようなものです。

それだけ栗林中将も必死だったんですね。

その必死さが大本営に通じたのでしょうか。新しい旅団長として、当時「陸戦の神様」といわれた千田貞季(さだすえ)少将を、参謀長として、歩兵戦の大家である高石正大佐を、そして参謀として、「歩兵戦の神様」と言われた中根兼次中佐を呼び寄せることができました。

硫黄島の戦いで重傷を負いながら生還した堀江参謀は、戦後当時を振り返って、「師団長の希望の線に沿ったとはいえ、陸軍中央部がよくも選りに選んで、ほぼ同時に陸軍きっての猛者を送り込んだもの」だと述べています。

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師団参謀本部を固めた栗林中将は、一日でも長く島を維持するために準備に取り掛かります。その内容は以下に集約されます。

①水際作戦を捨て、主陣地を海岸から離れた後方に作ること。②その陣地を地下に作り、全将兵を地下に潜って戦わせること。

栗林中将が考えた戦い方は、地下陣地を海岸から離れたところに多数掘り、それぞれの地下陣地を地下道でつなげ、行き来のできるようにしておきます。そして米軍が上陸してきたら、海岸で攻撃せず、いったん海岸から離れたところまでひきつけておいて、挟み撃ちで総攻撃するというものでした。

そして、その後は、地下壕に潜ったり出たりしてゲリラ戦を展開し、できるだけ長く米軍と戦い、彼らにできるだけ多くの損害を与えるというものでした。

これって言葉でいうと簡単ですが、ものすごく大変なことなんです!

なぜかというと、硫黄島は名前のごとく、火山の上に乗っかっている島のようなもので、地盤がもろく、地下のトンネルを掘ることは至難のわざなのです。ちょっと掘ると、地熱は50度に達するほどです。しかも川がないので、飲み水は雨水に頼らなければなりません。飲み水を制限しながら、硫黄ガスと地熱に苦しみながら、地下のトンネルを掘らなければなりません。想像をしただけでもぞっとしませんか?

さらに兵士たちは、地下壕を掘りながら、実際にアメリカ軍が上陸してきた時を想定しながら、戦闘訓練も受けなければなりません。彼らのほとんどが応召兵です。一年前は八百屋や魚屋のオヤジさんだった連中か、幼年兵といって、志願した十六、七の若者です。ちょっと前までランドセルを背負っていたような子たちです。そんな素人の集まりですから、戦うための厳しい訓練をしなければなりません。

中には敵の戦車にめがけて、爆弾を抱えて体当たりする訓練もありました。

死ぬための訓練ですよね。

栗林中将は、死ぬのがわかっていながら、兵士に苦しみながらトンネルを掘らせ、かつ、つらい軍事訓練を受けさせたのです。これって、死ぬのがわかっている末期ガン患者に、安楽死も許さず、モルヒネも与えず、苦しんでから死ねと言っているようなものですよね。これほど残酷なことはありません。

もし、皆さんが硫黄島の最高司令官だったとして、たとえ日本の大都市を空襲から守るという理由があったにせよ、部下たちに、このような人間性を無視した冷酷な命令ができますか?

この冷酷なことを栗林中将はやり遂げたんです。

栗林忠道という軍人は、兵士がマラリアにかかれば氷を持って見舞いに行ったり、軍属の若者に写真を撮らせてあげたいと、じっと待つ温情あふれる面があると思えば、このような過酷な命令もできる非情な面を持っている人だったのです。

特にこの戦車の体当たり攻撃は、彼の冷徹な計算がなされた戦いです。

アメリカ軍のシャーマン戦車は、それまでの島嶼の戦いでは一台の損害も受けたことがありませんでした。それほど頑強な戦車だったのです。日本の旧式の戦車ではまったく歯がたちませんでした。当時アメリカでは日米の戦車の違いは、フォードA型と新型キャデラックの違いと言われていたほどでした(日本人にはちょっとわかりにくい例えかもしれませんが…)。

栗林中将は長年のアメリカ軍の研究において、最新鋭のシャーマン戦車の弱点は、側部キャタピラの下であることがわかっていたので、兵士たちに爆弾を抱えてその弱点部分に体当たりする訓練をさせていました。その結果、この硫黄島の戦いで、この肉弾戦により、なんと!270両のシャーマン戦車を破壊しました。太平洋戦争で、日本軍がアメリカ軍のシャーマン戦車を破壊したのは、後にも先にも、この硫黄島の戦いのときだけでした。

無謀なことをするたとえに、竹やりで機関銃に立ち向かうという言葉がありますが、生身の人間が戦車に体当たりするなんて、フツーこんな恐ろしいことを誰も考えつかないですよ。

なぜ彼がこのようなことを考えつくかというと、彼が合理的に物事を考える人だからです。

彼には皇国、国体、聖戦、死の美学などというあいまいな言葉はありません。具体的に考える人なんです。

栗林中将は、軍人は一般の人たちが普通の生活ができるために存在する、と信じていました。その一般の人たちを守るためには、これまでの島嶼戦の日米の戦いを分析し、アメリカ軍の弱点を攻撃することだと考えます。そして今ある兵力で最小の損害で、いかにアメリカ軍に最大の損害を与えるか。そこには情が入り込む余地はありません。彼の頭の中にあるのは最大効率なのです。「どうせ死ぬ運命であれば、兵士の命を有効に使わせてもらおう!」、栗林中将はこう考えたんです。

ここのところは、読者の栗林中将の評価が分かれるところではないでしょうか。

「栗林ってのは、悪魔のような、とんでもない野郎だ!」って、思う人もいれば、「いやいや、戦争だったのだから仕方がない。むしろ、本土の空襲を防ぐためによく戦ってくれた」と言う読者もいるでしょう。

実は、出版界でも栗林中将の評価は分かれています。

栗林中将は類まれな知将で優れた人物であると評価する本もあれば、ある新聞社が出している「玉砕の島々」という本は、硫黄島で亡くなったおびただしい兵士たちの無残な死体の写真を掲載し、栗林中将を、二万人あまりの兵士を死に追いやった冷酷無比の人物として紹介しています。

感情的にみればいろいろな評価が出てくるでしょうが、ここでちょっと歴史の見方についてお話します。

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皆さんに質問します。

アメリカ合衆国史上、もっとも多くの人を殺した人物は誰でしょうか?

切り裂きジャック(Jack the Ripper)じゃありませんよ。

切り裂きジャックなんて、せいぜい20人から30人くらいの人間を殺したくらい。この人物に比べたら切り裂きジャックなんて、アブドーラ・ザ・ブッチャー(古いかな?)に比べた幼稚園児みたいなもんです。それに切り裂きジャックはアメリカ人ではなく、イギリス人でした。

アメリカ合衆国史上、もっとも多くの人を殺した人物とは?

答えはエイブラハム・リンカーンです。

アメリカ合衆国第16代大統領のリンカーンは、南部の州が合衆国を脱退し、独立宣言をした時、アメリカの分裂を防ぐために、武力行使を決断しました。そして4年間にわたる内戦(南北戦争)が開始され、終結するまでに南北双方の州で62万人の兵士が亡くなりました。

彼が武力行使なんてことを決断しなければ、これだけ多くの兵士の命が失われることはなかったのです。

にもかかわらず、アメリカ人に、「もっとも偉大な人物の名前を二人挙げて下さい」と質問すると、ほとんどのアメリカ人は、ジョージ・ワシントンとエイブラハム・リンカーンの名前を挙げます。

リンカーンの非情な決断により、62万人という兵士の命が失われているのに、なぜアメリカ人はリンカーンを偉大な人物の一人に挙げるのでしょうか?

それは彼らの歴史的評価が感情と切り離されているからなのです。

アメリカ人が歴史上の人物を評価する場合、歴史的業績という普遍的な基準から行います。その歴史的業績とは、①その歴史的行為が後世にどれくらいポジティブな影響を与えたか、②その歴史的行為がどれほど困難であったか、という二点から考察します。

アメリカ人にとって、アメリカの独立に次ぐ、後世にポジティブな影響を与えた事件は、南北戦争でしょう。当たり前ですよね、リンカーンが武力をもってしてアメリカの分裂を食い止めなければ、今のアメリカ合衆国は存在しなかったのですから。しかも、難易度も文句なし。南北戦争後に南部州と北部州の遺恨を残さず、有名なゲティスバーグの2分足らずのスピーチで、それまで帰属意識がそれぞれの州にあったアメリカ国民に、「自分たちはアメリカ国民である!」という、国民意識(ナショナリズム)を持たせるという奇跡を起こしたのです。この時、アメリカ合衆国は、リンカーンによって、初めて真の国民国家(Nation State)となったのです。

だからアメリカ人にもっとも偉大な人物を二人挙げて下さいと質問すると、彼らはこの普遍的な基準から歴史的業績を判断するため、ほぼ同じ人物の名前が挙がるのです。

日本人は感情から判断するので、どうしてもリンカーンは奴隷解放をした人道主義者だから偉い、ワシントンは正直に桜の木を折ったことを父親に告白したから偉い!って、なっちゃうんですよね。

リンカーンよりも偉大な人道主義者はたくさんいますよ。リンカーンは奴隷の人権擁護に関しては、第6代大統領のジョン・クインシー・アダムスの足下にも及びません。彼は政治生命を賭けて奴隷のために戦った政治家です。正直者という点では、世の中にワシントンより正直者は五万といるでしょう!だから、人道主義や正直者という観点からいうと、厳密には彼らはもっとも偉大な人物として名前を挙げられる人たちではありません。

日本人の歴史観をもっとも表しているのが、国民的人気番組の「水戸黄門」と「遠山の金さん」です。

「この紋所が目に入らぬか!控えおろう~!頭が高い!」

「この桜吹雪がおめーらの悪事をすべてお見通しなのさ!」

悪いやつらをやっつけて、なんか、気持ちがすっきりしますよね。

でも、これって感情面から見ているからおもしろいんですよね。

アメリカ人から見ると、「水戸黄門」も「遠山の金さん」も、近代司法制度をまったく無視したとんでもない番組なんです。彼らからすると、「水戸黄門」や「遠山の金さん」は、裁判官、検察官、弁護人をすべて兼ね備えた恐ろしい権力の怪物・リバイアサンのように映るようです。もし、アメリカでこのような番組が放映されたら、青少年のこころを蝕むポルノより有害な番組として、アメリカ国民は子供たちに見せないと思います。水戸黄門がおもしろい!なんて言う変なアメリカ人は、デーブ・スペクターくらいですよ。他にはいません。

もし、この歴史的業績という基準で戦中・戦後の歴史を見ると、日本人の中で最も偉大な人物は、この栗林忠道中将ということになると思います。

彼が硫黄島の兵士二万一千人を指揮し、アメリカ海兵隊と史上稀に見る熾烈な戦いにより、彼らに「もう二度と日本人と戦いたくない…」って思わせることができたから、アメリカは戦後、彼らにとって不利な日米安保条約を結び、経済援助を行い、そして沖縄や小笠原諸島を自主的に日本へ返還したのです。戦後60年の日本の平和と繁栄は、硫黄島の戦いのおかげです。だから、これほど後世にポジティブな影響を与えた人物は他にいないでしょう。しかも難易度も十分。寄せ集めのロートル軍団を率いて、世界最強のアメリカ海兵隊と互角以上の戦いをしたのですから。

もし外国人に、「日本の戦中・戦後の偉大な人物は?」って聞かれたら、皆さん、日本人として、「It's General Kuribayashi!」って、答えなければいけませんよ。

あぁ、それなのにそれなのに、ほとんどの日本人が硫黄島の戦いも、栗林忠道中将も忘れてしまったのです。栗林中将の出身地である松代町に行っても、栗林中将を知っている人はほとんどいません。お土産店で栗饅頭は売っていても、栗林饅頭は売っていないのです。中将のお墓がある明徳寺は、地元の旅行パンフレットには、カエルがたくさん集まってカエル合戦が行われることで有名だと書かれていても、栗林中将のことは何一つ紹介していません。

地元ですらこうなのですから、ほとんどの日本人が知らないのも無理ないか…。本来は栗林中将は国民的英雄として、お札に印刷されていてもおかしくないのですがねぇ~。

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話を硫黄島にもどしましょう。

死ぬことはわかっていても、持久戦に持ち込み、できるだけアメリカ軍に損害を与える。そのためには、水際作戦を放棄し、後方陣地(地下壕)構築しかない。そのような作戦を準備することは、硫黄島の水や食料の乏しい状況では、兵士に死ぬ以上の苦しい過酷な労働を強いることでした。

前にもお話したように、師団というのは最大の単位です。その最高指揮官である師団長には、戦場で命令する上の者はいないのです。つまり師団長の判断で、兵士は戦い死んでいくのです。

二万余りの兵士に、死ぬことがわかっていながら、潔い死を許さず、過酷な訓練と後方陣地構築というつらい労働をさせなければならない。そのような非情な命令をしなければならなかった最高指揮官である栗林中将の心中はどのようなものであったのか。相当苦しんだのではないかと思います。

もし、これが大本営の軍部官僚である大将や中将であれば、彼らにとって戦争は将棋のようなもの。兵隊は単なる駒でしかありませんから、なんとも思わなかったでしょう。でも、これまでお話しておわかりのように、栗林中将は自分より下の者たちも対等の一人の人間として考える人でした。

栗林中将が近衛師団の師団長だったころ、前掲の貞岡さんが栗林中将の家に行ったとき、栗林中将と家族の食卓に、女中さんもいっしょに食事を取っていたことに驚いた、と戦後述べています。当時の時代は、女中さんがその家族といっしょに食事を取るという風習がありませんでした。ましてや、軍人のほとんど最高位にいる人と女中さんがいっしょに食事を取るなんて考えられないことだったのです。栗林中将は女中さんでさえ対等の一人の人間として接したのです。

栗林中将はこんな性格の人ですから、兵隊が単なる駒とは思えませんでした。

こういう時って、人間はなんらかの折り合いをつけるんですよね。

彼は兵士たちに死ぬとわかっていながら、出来るだけ長く地獄のような生を生きさせて、戦うことを命じるために、ある覚悟をしました。

その覚悟とは、「常に兵士と共にあり!」と、いうものでした。

最初、硫黄島の第百九師団を含む小笠原兵団の司令本部は、同じ小笠原諸島の父島に置かれることになっていました。父島のほうが水もあるし、居住条件が硫黄島よりずっと良かったからです。ところが、栗林中将は小笠原兵団に兵団長として赴任してくると同時に、司令本部を硫黄島に移動しました。

つまり、栗林中将は常に兵士と寝起きを共にして、同じ苦しみを最後まで受けようと決心したのです。

彼のこの覚悟がどれほど異色のものであるかは、おそらく現代の日本人にわからないと思います。なぜかというと、中将という階級がどれほど偉い軍人なのかということが実感として湧かないからです。

そこで基礎知識として、軍人の階級と当時の軍人が世間でどのように思われていたかについてちょっと解説しますね。

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陸軍の場合、階級は以下のように17階級あります。

将官: 大将、中将、少将

佐官: 大佐、中佐、少佐

尉官: 大尉、中尉、少尉、准尉

兵: 曹長、軍曹、伍長、兵長、上等兵、一等兵、二等兵

位としては上から、将官→佐官→尉官→兵のようになります。またそれぞれ大→中→少のように、左にいくほど位が高くなります。

将官、佐官、尉官を含めて将校と呼びます。特に将官(大将、中将、少将)は高級将校と呼ばれます。

将校になる人たちは、一般に士官学校という軍人専門の学校を卒業した人たちです。特に高級将校は、陸軍大学を優等な成績で卒業した人たちから、いずれ選ばれて昇格します。ちなみに栗林中将は陸大の35期生で、2番の成績で卒業しています。

今と違って昔の日本では軍人は尊敬されていました。陸軍大学と帝国大学(現東京大学)の両方の入学試験に合格すると、どちらを選ぶか迷うほど、高級将校である軍人は名誉ある職業でした。良家の子女の憧れの嫁ぎ先は、帝国大学を卒業した官吏よりも、陸軍大学出身の軍人だったんですよ。

皆さんは戦場ですべての軍人が銃を持って戦うと思っているでしょう。

それは間違いです。

実際に銃を持って戦うのは兵、つまり曹長以下の兵士たちです。基本的には将官、佐官、尉官の将校は戦場で戦いません。とくに高級将校(大将、中将、少将)になるようなエリートコースに乗っている軍人は、戦場にすら行くことはありません。

じゃ、彼らは何をするかというと、司令本部を設けて、そこで作戦を立てて兵隊を動かすのです。大将や中将は師団長、少将、大佐は旅団長、中佐や少佐は連隊長、尉官クラスは参謀を務めます。彼らはそれぞれの役割分担をして、司令本部に集まって作戦を立て、駒である兵士をどのように動かすかということを話し合うのです。

この司令本部は通常、前線から離れたところに置かれるのです

将校たちは、安全なところで作戦を練り、前線へ指示を出すのです。将校たちは食べ物も違うんですよ。私の父は現在85歳で、戦争中は "マレーの虎(マネーの虎じゃありませんよ!)" で有名な山下泰文大将のトラ兵団(第14方面軍)に所属し、フィリピンに進軍していました。そこで私の父は司令部付きになり、一人の将校(中尉)の食事や洗濯、また彼の乗る馬の世話係をしていました。(私の父は司令部付きになったおかげで、前線で戦う必要がなく、戦死せずに済みました。)

父の話によると、将校は食べ物の物資も別便でくるのだとか。中尉程度でもかなりの待遇を受けているので、ましてや中将や大将といった高級将校の待遇は一般の兵士たちからすれば、考えられないような優雅な生活だったんです。

中将や大将は国内においては、閣僚クラスです。陸軍大臣は中将や大将から人選されます。東条英機首相も階級は中将でした。ですから、戦地にいても中将や大将の待遇は一般兵士と比べ、格段の待遇を受けていても、誰も文句を言わないし、それが普通であると思われていました。

どうですか。ここまでお話しすると、中将といわれる階級の人がどれくらい偉いか実感できましたでしょうか。その偉い軍人が硫黄島に来て、一般の兵士と同じ生活をするということが、当時としてどれくらい異色のことであったかがお分かりいただけたかと思います。

会社でいえば、ソニーの盛田昭夫やパナソニックの松下幸之助なんて大企業の社長が突然に独身寮にやってきて、一般のヒラ社員と同居するようなものでした。いや、それ以上の驚きだったのです。石破防衛大臣がサマーワにやってきて、自衛隊の兵舎で隊員たちと寝起きを共にするようなもんです。

栗林中将は生活を共にするだけでなく、兵士といっしょになって戦い、玉砕する覚悟だったのです。

最高司令官である将軍が塹壕に最後まで立て籠もって、一般兵士と共に殉ずるということは通常ありません。心ある将軍であっても、兵士が全員玉砕すると、後方にある司令本部で自決するのが普通です。ところが、終戦間際は軍部官僚制は腐敗していました。部隊が全滅しても腹を切らずに、そのまま逃げちゃう最高司令官がゴロゴロと出たんですよ。

たとえば、日本軍が中国で占領していた都市が敵軍に落とされそうになったとき、兵隊をおいて敵前逃亡した大将。特攻隊を送り出すときに、「君たちを送り出し、最後の一機になったら自分もそれに乗って君たちの後を追いかける!」と訓示していた中将が、最後の一機になったら、それに乗って台湾へ逃げちゃった。もっとひどいのになると、フィリピンで自分の兵隊が30万人もバタバタと死んでいるのに、遠く離れたサイゴンの旧フランス領事館で愛人と酒池肉林の生活を続けた元帥(上級大将)。

マッカーサーだって、フィリピンで山下泰文大将に攻め込まれたとき、"I shall return !" なんて、格好いい捨て台詞を吐いたけど、実際は数万人の自分の兵隊を置き去りにして、さっさとオーストラリアに逃げたんです。

こんなもんです、大将や中将なんて。中には兵士の命を大切にするように大本営に訴える高級将校もいましたが、大概の大将や中将にとって兵隊は捨て駒です。それに比べると、栗林中将はあまりにも「バカ」がつくほどの実直な人でした。

「自分も君たちと同じ苦しみを味わうから、どうか非情な命令をしなければならない自分を許してほしい…」

栗林中将の心の中には、そんな気持ちがあったのだろうと思います。

「常に兵士と共にあり」という覚悟を最後まで中将は通しました。

昭和19年6月に硫黄島に着任してから玉砕するまでの9ヶ月間、彼は一歩も島から外に出ることはありませんでした。

これ、驚くべきことです!だれでもちょっと息抜きをしたいものじゃないですか。いろいろ理由をつけて、近くの父島へ出張することは彼には可能だったのです。父島へ行って、風呂に入って、冷たいビールでも飲んで、「フー」って一息つくことはなかったんです。

それどころか、大本営との打ち合わせには、自分の代わりに高級副官を東京に送りました。また大本営が父島に来ても、硫黄島に呼びつけて、自分が父島に行くこともなかったんです。本当に意思の強い人だったんだろうと思います。恥ずかしいながら、私にはできません…。

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兵士たちと同じ生活をするという栗林中将の覚悟は徹底していました。

特に水については自ら厳しく諌めていたようです。

  「川もなく井戸もないから全部雨水を貯めて使うので、水は極度に節約します。マリーの飯椀に使った洗面器くらいにホンの少し水を入れて顔を洗い(目を洗うだけ)、その後で藤田が洗い、残りは丁寧に取っておいて便所の手洗い水にするという有様です。もっとも普通の兵隊たちはそれすらできません。(昭和19年8月2日付 妻・義井宛)」

マリーというのは、当時栗林家で飼っていた犬の名前です。犬の餌を入れる程度の小さなお椀に水を入れて顔などを洗っていたのです。この水の節制ぶりは周りの部下たちを驚かせたようです。

米軍上陸直前に、大本営との打ち合わせを命じられて東京へ出張し、そのまま帰島できず結果的に生き残った第百九師団の高級副官小元久米治少佐は、島での栗林中将の生活の様子を、戦後、次のように語りました。

  「栗林兵団長は軍紀の厳しい将軍であり、時間の厳守、即時実行主義の人であった。しかし、温情あふるる一面もあった。絶えず島内を巡視し、隈なく地形地物を記憶し、陣地の編成、構築を指導し、この間ポケットに恩賜(おんし)のタバコをしのばせ精励する歩兵に分けておられた。/コップ一杯の水で歯を磨き顔を洗っておられた。/司令部でも野菜を作り始め、これを炊事に供出した。(『闘魂・硫黄島』堀江芳孝著)」

栗林中将は着任してから司令部が出来るまでの数日間、硫黄島の住民で、硫黄島産業という会社の常務だった桜井直作さんの自宅の一室を間借りしていました。桜井さんは戦後、栗林中将についてこう語りました。

  「栗林閣下とは縁側でよく食事を一緒にしましたが、水の節約に率先されたのには敬服しました。ひげの生えた参謀長の方と藤田副官一緒でした。(『闘魂・硫黄島』堀江芳孝著)」

もともと、この硫黄島に二万一千人の兵士が住むことに無理がありました。

硫黄島には戦前から住民が住んでいましたが、わずかに一千人ほどの人口でした。だから雨水でやってこれたのです。

アメリカ軍の分析官は、硫黄島の地理的条件から、硫黄島に潜んでいる日本兵士の数は最大一万三千人と見積もっていました。それ以上は、雨水の量からいって不可能だろうと判断していました。そこへ二万一千人の兵士が入り込んだんですから、水の消費量を極度に抑えなければならないわけです。

硫黄島の兵士たちに配給される水は、一日水筒一本と決められていました。この水筒一本で、夜間は地熱が50度というトンネルの中で穴掘りを行い、そして、昼間は戦闘の訓練をするのです。その貴重な水も、しばしば汚染されており、多くの兵士たちがパラチフスや下痢に悩まされたといいます。彼らはこの配給される水筒の水を「鬼の水」と呼んでいました。

特にトンネル掘りは想像を絶してきつかったようです。

地下20メートルから30メートルを掘り下げ、そこから横に掘り進んで、他の地下陣地とつなげていくのですが、蒸し暑く、かつ、ところどころで硫黄ガスが噴出してきます。喉が焼け付くようにカラカラ。でも供給される水は生暖かい汚れた水の入った水筒1本。想像しただけでも、なんか息苦しくなってきますよね。

硫黄島で野戦病院の衛生兵となった毎日新聞写真部員の石井周治さんは、地下陣地掘りの作業について、戦後このように語りました。

  「空襲と艦砲射撃の間を見計らっては、地質の固そうな場所を掘った。コツン、コツンとツルハシで掘るので、一日かかっても手掘りでせいぜい1メートル、ダイナマイトを使っても2メートルがやっとであった。地熱の高いところでは地下足袋の底が融け、硫黄ガスのせいで頭痛がして呼吸が苦しくなる。褌一本の姿でツルハシやスコップを振るうのだが、5~10分で交代しなければならなかった。穴の中は地熱が強く、暗闇の中の労働なので、その10分間でさえも非常な苦痛である。手は豆だらけ、肩にはシコリができ、地熱にあえいでも咽喉がひりひりしても、飲む水がない。(『硫黄島に生きる』より)」

作家の梯久美子さんは、取材で硫黄島に訪れ、地下壕に入ったときの感想をこう述べています。

  「実際に地下壕の奥深くに下りてみると、たとえそれがわずかな時間であっても、暗闇と澱(よど)んだ空気に圧迫され動悸がしてくる。 - 硫黄島戦闘の特色は、敵は地上に在りて友軍は地下に在り - 海軍司令官、市丸利之助少将による戦訓電報の電文が甦る。栗林が選んだ戦法の過酷さが、あらためて胸に迫った。(梯久美子著・『散るぞ悲しき』より)」

前掲の石井周治さんは、戦後7年経って再び硫黄島の土を踏みました。司令部壕の内部に入ったときのことを次のように記しました。

  「私が懐中電灯で壁を照らし、天井を照らし足下を照らすと、前方でキラリと光が反射した。ハッと見直すと、どうしてできたのだろう、水溜りであった。むろん地下水なぞ一滴もあろうはずはないのだから、その水は外部から入ったものとしか考えられない。とすると、スコールなどの雨水が、七年の歳月の流れとともに、いつしか暗い洞穴の窪みに水溜りを作ったのだろう。もしこの水が、あの壕掘りの時にあったらと思う。私は無意識に、暗い中で、その水溜りを泥靴で汚さぬように、よけて歩いた。」

無意識に、暗い中で、その水溜りを泥靴で汚さぬように、よけて歩いた…

渇水に苦しめられた人にしか書けない表現ですよね。みんな真水に飢えていました。壕(トンネル)掘りはそれほど過酷なものだったのです。

そして、アメリカ海兵隊が上陸してからは、その「鬼の水」さえ配給されなくなり、渇水地獄の中を36日間生き続けて戦うことになるのです。

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栗林師団長は兵士たちだけに水の節約を課しませんでした。優遇されがちな将校にも水の節約を厳しく求めたのです。

私の父が従軍したトラ兵団のところでお話したように、将校は寝るところから食べるものにいたるまで、一般の兵士たちとはまったく違っていました。戦場で優遇されるのは将校たちの特権のようになっていたのです。栗林師団長はそれを許しませんでした。

ある日のこと、師団長が巡回をしている時、将校のひとりが水槽にタオルを浸して、汗をぬぐっているのを目撃しました。

この時、栗林中将は烈火のごとく怒りました。銃殺に値するとまで言いました。

「貴様がいま無駄にした水で、このあといったい何人の命が救えたと思っているのか! この島では、水の一滴は血の一滴だと思え!」

こうして、栗林中将は、自分たちは特権を持っているんだと思いがちな将校すべてに、一般の兵士たちと同様に水の節制を守るように説いてまわりました。

栗林中将は食べるものも、まったく兵士たちと平等にしました。6月25日に全将校に向けて発した「師団長注意事項」の中で、彼はこう言いました。

  将校ハ兵ノ食事ニ万端ノ注意ヲ払ウコトヲ要ス。将校ノ分ノミ別ニ炊事シ兵ノ給食ガ如何ナル状態ニ在リヤニ無関心ナルカ如キコト断ジテアラザルヲ要ス。

将校の食事を特別に作って、兵士たちの食事が粗末になってはいけない。つまり、簡単にいうと、将校は兵士たちと同じものを食べろと言っているのです。

もちろん、栗林中将も兵士たちと同じものを食べました。

異例のことに当番兵たちは困惑したといいます。軍隊では階級によって食事に供される皿の数から細かに規定されていました。兵士たちと同じにしろといわれてもどうして良いかわからない。

彼はそんな困っている兵士たちに、決まってこう言ったそうです。

「かまわないから、さらだけ並べておけ!」

こうして、師団長は空の皿を前に並べて、兵士たちと同じように、食事を取ったそうです。

これ、考えてみれば、当たり前の話なんですよね。軍隊の8割~9割くらいは兵士が占めています。そして前線で実際に銃や火器を使って戦うのは、将校ではなく兵士です。栗林中将は合理的に物事を考える人でしたから、将校よりも兵士を大切にしたのです。

明治時代の軍人のバイブルであった「軍人勅諭」にはこう書かれています。

  「兵休まざれば将休むべからず。兵食わざれば、将食ふべからず。兵と苦難を同じうし、労逸を等しうするときは、兵も死を致すものなり。」

明治の元勲たちは、この軍人勅諭をきっちりと守りました。だから、明治の時代には、大山巌、児玉源太郎、乃木希典といった優秀な軍人が多く輩出されたのです。日清戦争や日露戦争が勝てた理由はここにあります。

軍人勅諭には、また、このように書いてあります。

  「軍人は忠節を尽くすことを本分とすべし。兵力の消長は、是国運の盛衰なることをわきまへ、世論に惑わず政治に拘らず、只々一途に己が本分の忠節をまもるべし。」

軍人勅諭では、軍人は政治に関わるなと言っているんです。

ところが、昭和の時代になって、軍部官僚は強いエリート意識を持ってしまったんです。「自分たちは他より優れているから、なんでもしていいんだ!」 こう思っちゃったんですね。こうして、軍部官僚制はいつしか腐敗していきました。だれも軍人勅諭を守らなくなってしまったのです。そして、軍人の本分を忘れ、兵を軽んじ、政治というオモチャに夢中になってしまいました。これが彼らが戦争目的を忘れてしまった大きな理由です。

そんな中にあって、栗林中将は軍人勅諭を忠実に守った人でした。彼は政治の世界に関わることもなく、軍人としての研究や修練を積んできたのです。

冒頭、栗林中将は軍人らしくないと書きましたが、軍人勅諭に忠実だったという意味では、本当の軍人だったと言ってもよいでしょう。

ちなみに、この軍人勅諭に関して言えば、もう一人、軍人らしい軍人がいました。

ホーランド・M・スミス中将です。彼は日本の軍人勅諭は読んだことがないでしょうが、彼の行動は軍人勅諭そのものでした。

彼は常々こう言っていました。

  「兵士がまず食べろ、次が将校だ。そして最高指揮官が最後に食え!」

彼もまた、合理主義者です。戦う兵士をもっとも大切にしたんです。

スミス中将もまた、部下である海兵隊員を「マイマリーンズ」と呼んで、「常に兵士と共にあり!」ということを実践した最高指揮官でした。「机に座っていて何がわかるか!」と、アメリカ軍の上層部を公然と批判し、彼は弾が飛んでくる前線に危険をかえりみず足を運ぶ将軍だったんです。

彼の回想録には、このようなことが書かれています。

  「私はかつてニミッツ提督に言った、『海兵隊員は日本兵と同じく喜んで祖国のために命を捨てる。海兵隊が全滅することがあるかもしれないが、海兵隊の敗北ということは決してない。私の海兵隊は最後の一兵まで戦い続ける。断じて捕虜にはならない。そういう最後のときが来たら、生きて事実を伝える者は誰一人いなくなるが、私は最後まで海兵隊員のそばを離れない!』 本気で私はそう言った。」

一見、吠えまくるスミス中将と温厚な栗林中将は、対照的なタイプに思われるかもしれませんが、この二人にはこのように共通点が多かったのです。ハウリング・マッド・スミスというあだ名とおり、彼は上級将校を罵倒することはあっても褒めることはしない人でした。ところが、戦後、スミス中将は、敵将である栗林中将に対してだけは賛辞の言葉を惜しみませんでした。それは彼が栗林中将の戦い方や生き方の中に共感するものを見たからだと思われます。

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硫黄島で欠乏していたのは水だけではありません。

彼らは新鮮な野菜にも飢えていました。

硫黄島は火山灰が堆積した島なので、畑の作付けができません。生野菜が絶対的に欠乏していました。兵士たちは野菜の変わりに、味けのない乾燥野菜をおかずに食べていました。

兵士たちと同じものを食べていた師団長の手紙にこのようなことを書いています。

  「毎日乾燥野菜ばかりですがゴジゴジして閉口です。しかしあまり痩せもしないところを見ると滋養はあるのかもしれません。(昭和19年11月17日付け 妻・義井宛)」

これに対して、栗林中将の家族は、缶詰やウイスキーなどを送ろうかと手紙を出したようです。最高司令官の荷物であれば、フリーパスですので、なんでも送ることができました。しかし、栗林中将は、「自分は兵士たちより恵まれた立場なので十分足りている」、「大事な輸送物資を載せる飛行機なのだから、手紙以外は何も託さないように」という意味の手紙を書き送っていました。

「常に兵士と共にあり」ということを実践していたことが伺えます。

大本営参謀だった朝枝繁春中佐は、作戦連絡を伝えるために昭和19年7月に硫黄島を訪れました。その時に、生野菜や水が欠乏しているということを聞いていたので、ナス、キュウリ、トマトなどの野菜や、水を4斗樽を持って行ったのだそうです。勤務兵に手渡すと、拝むように受け取り、「おおぃ~、みんな湯飲みをもってこ~い!」っと大騒ぎになったそうです。

栗林師団長の分はべつにかごにとってあったので、それを直接渡しました。

その時の様子を、朝枝中佐は、戦後このように書いています。

  「一籠の生野菜はこれを師団長にお届けした。将軍は目に涙、副官に命じ、小刀で雀の餌ほどに小きざみにし、連隊長以下できるだけ多くの将兵に分け与えられ、自らは一片も口にせられなかった。それどころか将軍は僅かのパパイヤの実を集めては、漬物を作り、周りのものに与えておられた。昭和の乃木将軍かと深い感銘を受けた。(小笠原兵団の最後)より抜粋」

どうですか?皆さんの心の中に、栗林忠道という軍人がどのような人であったかという人物像ができましたか?

世渡りが下手そうだけど、とても好感の持てる人物でしょう。

あくまでも自分に厳しく、周りの者たちには公正・厳格なリーダーであり続けた人なんです。

でも、恩賜(おんし)のお菓子が配られた時は、自分で手をつけずに自宅へ送りました。当時は甘いお菓子はなかなか手に入らなかったんです。お菓子に添えた夫人への手紙には、小さく「家だけで食べること」と書いてありました。昭和の乃木将軍か日本版ガンジーを思わせるような人でしたが、家族に対してだけはどこにでもいるような普通の「甘~い」お父さんだったんですね。ちょっとホッとするのは私だけでしょうか。

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前にもお話しましたが、栗林中将には皇国、国体、天皇という概念がありませんでした。彼の手紙にはこれらの言葉は一度も使われていないことからもわかるでしょう。あくまでも具体的に考える人なんです。だから軍人がなぜ存在するかということについて、漠然とした皇国とか国体なんて言葉を使った考え方をしません。

ずばり、「軍人は普通の人が普通に暮らせるようにするために存在する!」、という信念を持っていました。

前掲、硫黄島に着任して間もないころ、司令部ができるまで硫黄島産業という会社の常務だった桜井直作さんの自宅の一室を間借りていたことを書きました。この桜井さんと中将の以下の会話に彼の信念が見えます。

  「七月初旬サイパン玉砕の放送があったとき、私が『閣下、いよいよ硫黄島に敵を引きつけて叩くことになりますね』と申しましたら、いつも元気な閣下が、『われわれの力がなくて皆さんに迷惑をかけてすまないが、もうこうなってはどうしようもありません』と答えられたときには本当にびっくりしました。(闘魂硫黄島)より」

普通の将軍であれば、「全員玉砕の覚悟で、醜敵アメリカを撃滅せん!」ってな感じで、勇ましく敵を迎え撃つ気概を示すでしょうが、栗林中将はあっさり、「すみません」って、謝ってしまったんです。こんな将軍は当時どこにもいませんでした。普通将軍と言うのは威厳を保つために、いつでも偉そうにしているもんです。あまりに謙虚すぎちゃうというか…。こんなことだから、陸大を2番で卒業しながら、大本営に一度も入ることなく硫黄島なんかに配属されちゃうんですよね。

でも、硫黄島がいかに小さな島であっても、そこに住む人たちにとっては貴重な生活の場。戦闘になれば家や職場が破壊されます。「普通の人たちが普通の生活ができる」ように守ることが軍人の務めであるのに、それができないので、彼は謝ったんです。

普通の人が普通の生活ができるようにするのが軍人の勤め。

こう考える栗林中将は、一般の人たちを戦闘に巻き込むことは耐えられないことでした。

そこで彼は着任して一箇月で、島民の内地送還を決定します。

これも当時としては異例のことでした。

戦争末期は、大東亜戦争(太平洋戦争)は、総力戦になっていました。国民は「軍国の民」として、等しく戦争に貢献することが求められていたのです。ところが、彼はあくまで軍人は一般人を守るのが勤めであるという信念がありましたから、民間人を戦争に協力させるなんて、とんでもない!って思っていたんです。だからさっさと島民を内地へ避難させてしまったのです。

沖縄戦では10万人という民間人の犠牲者が出ましたが、軍属として徴用された若干の独身者を除き、これだけの激しい戦いが行われた硫黄島で、一人の民間人の犠牲者を出さなかったのは、早い時期に栗林師団長が島民の避難を決定したからでした。

彼は慰安所も置かなかったんですよ。

これは、一般の兵士や将校たちにはつらかったでしょうねぇ~。

私の読者には女性の方たちもいらっしゃるので、「かいちゃんってそんな人だったんだ!」って思われてしまうかもしれませんが、男が普通の精神状態でいるためには、女性が近くにいることは必要なんです。ましてや兵士たちは、「ひょっとしたら明日は自分の命は無いかもしれない…」、そう思ったら、一夜だけでも女性といっしょにいて、嫌なことは忘れたいと考えても仕方がないように感じます。

でも、栗林師団長にとっては、慰安婦もまた、軍人が守らなければならない「一般人」だったのです。だから硫黄島には慰安所も設けませんでした。

その結果、アメリカ軍が上陸する7ヶ月前から、硫黄島は一人の女性も子供もいない男だけの島になったのです。

これ、想像しただけでもきついですよね。

明けても暮れてもトンネル堀りと戦闘訓練。水も食料も乏しい。ましてや酒もない。しかも気を紛らわしてくれるような、女性や子供がいなくなっちゃたんですよ。

ただただ、むさくるしい男たちが周りにいるだけ。

昭和19年1月末に大本営との打ち合わせで東京に出張し、その後米軍が上陸したため硫黄島に戻れなくなり、結果として生き残った藤原環少佐はこの島での日々について、

  「硫黄島には全然何もなく、金を貰っても買う物もなく、軍人以外は誰もいない殺風景なところであって、見えるものは天気のよい日に北硫黄島がかすかに見えるだけで、その他は海ばかりである。私も6ヶ月で頭が変になりそうであった。」

と、正直な感想を漏らしています。

女性も子供もいない男だけの島。水も食料も欠乏している。そして毎日毎日、トンネル掘りと戦闘訓練。しかもいつアメリカ軍が上陸してくるかわからない恐怖…。

硫黄島の将兵たちは、ゴールの見えないマラソンをひたすら走り続けたのです。

『硫黄島の星条旗』の著者、ジェームズ・ブラドリーは、「酒も娯楽もなく一人の女性もいない島で、兵士たちが8ヶ月もストレスに耐えたのは奇跡である」と、語っています。

確かに、戦争中、極度のストレスにさらされた兵士たちが反乱を起こした例はたくさんあります。

なぜ、将兵はこれほどのストレスに晒されながら、硫黄島では軍紀が保たれたのでしょうか?

奇跡の秘密は、栗林師団長と二万一千人の兵士との付き合い方にありました。

それでは、栗林師団長が兵士たちとどのように毎日接していったのかを見てみましょう。

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硫黄島の戦いが終わって、生き残った日本人兵士一千人の聞き取り調査が、アメリカ軍によって行われました。

その結果、驚くべきことがわかりました。

なんと、生き残った兵士一千人全員が、最高指揮官である栗林中将の顔を知っているというのです。

顔を知っているだけではありません。

ほとんどの人たちが栗林中将に声をかけられたことがあるというのです。中には恩賜のタバコをもらったという兵士や、道で迷っていたら、杖をついた上半身裸の老人がやってきて、目的地の陣地まで案内してもらった。あとでそれが師団長であったことを知って驚いたという兵士。こういった兵士たちが沢山いたのです。

つまり、亡くなった兵士も含め、二万人を越える兵士たちすべてと、栗林師団長はなんらかの言葉を交わしていたということです。

二万人ですよ!驚くべきことです!

二万人を越える兵士のほとんどが、最高指揮官である将軍に会ったことがある戦場はまずありません。

実際、私の父(二等兵)はトラ兵団(第14方面軍)に配属され、そこで司令部付きの世話係になりましたが、一度も山下泰文中将の顔を見たことがないと言っていました。司令部つきの軍属でさえ最高司令官の顔をみたことがないのです。それほど師団長は偉い人なんです。

そんな偉い最高司令官と一般の兵士が接することができたら、こりゃ、士気が高まりますよね。皆さんだってそうでしょう!会社で、稲盛和夫さん(京セラ会長)のような伝説の経営者が下におりてきて、「君に期待しているからね」っと言われたら、徹夜してでもこの人のために働いちゃおう!って思っちゃいますよね。

かつて、破綻寸前だった日産自動車に、ルノーのジェネラル・マネージャーだったカルロス・ゴーン氏が乗り込んで来たとき、まずやったことは、ディーラーの支店を一軒一軒廻って、セールスマンと握手をして、一人ひとりを激励することでした。

もちろん、ゴーン氏が行った日産自動車の経営再建計画はこれだけではありませんが、ゴーン氏が社員の士気というものをいかに重要視していたかがわかります。

昭和40年に東芝が倒産寸前の危機に見舞われたときもそうでした。

後年、中曽根内閣で行政改革を断行し、旧国鉄や旧電電公社を解体してJRやNTTを立ち上げて有名となった土光俊夫さんは、当時、石川島播磨重工の社長でした。彼は東芝を救うために東芝の社長として送り込まれました。出社第一日目に、土光さんは誰よりも朝早く会社にでて、まず門番に、「今日から東芝の社長として働かせていただく土光と申します」と挨拶し、後から出社してきた一般社員にも挨拶して、彼らと机を並べて、営業の顧客周りを開始したのです。もちろん役員専用車などは使わずに、一般の営業マンと同様に、バスや電車に乗り継いでの営業です。当初、社員たちは驚きましたが、土光さんの真摯な仕事に対する情熱にこころを打たれました。一時は潰れかけた会社の特徴で、会社の雰囲気は暗かったのですが、土光さんの顧客周りに触発された社員たちの士気は高まり、業績は短期間でV字回復をしたのです。

どこぞの大会社の社長だった人のように、一般社員とかけ離れ、自分専用のジェット機を乗り回し、タレントの女の子といちゃついているようでは、いざというときに、社員の士気は上がりません。危機的な状況になると、部下は一人去り、二人去りという具合に、みんな離れていってしまいます。

ビジネスの世界でさえ、トップが下におりてきて、一般社員と共にありということを示すだけで、士気が高まり、業績が伸びるのです。ましてや、生死を賭けて戦う戦場で、士気の良し悪しは、直接勝敗に影響を与えることは容易に想像がつきますよね。

問題は、果たして二万人を越える将兵と接することが可能なのかどうか?

まず、普通に考えたって不可能ですよね。

だから、アメリカ軍は、「ジェネラル・クリバヤシは化け物か?!?!」って、思ったんです。

彼らは心底、栗林中将を恐ろしいと思いました。そして、いったいあと何人くらい、ジェネラル・クリバヤシのような軍部官僚が日本にはいるのだろうかと、アメリカ軍司令部内では真剣に話し合われたのです。当初、彼らは九州から上陸するつもりでしたが、栗林中将の影におびえ、その計画を変更してしまったほどでした。

ここまで、栗林中将の人柄を話してきたので、皆さんにはなんとなく二万一千人の兵士たちと言葉を交わすことが可能であることは感じていると思います。

栗林中将は、軍属の若者でも、自宅で働く女中さんでも、一人の人間として敬意を持って対等に接する人でした。だからこんなことができたのです。「自分はエリートだ」と思っている指揮官には絶対できないことです。

硫黄島に着任してからの栗林師団長は、毎日、水筒1本を肩にかけ、島を歩き回っては、地形を記憶し、それぞれの部隊で戦闘の細かな指示や、兵士たちと会話をしたそうです。

当時の写真を見ると、上半身は開襟シャツに、下は軍隊ズボンと地下足袋。杖を持った姿です。こんな格好だから一般兵士と見分けがつかないのです。ふら~と現れては、ニコニコ顔のお爺ちゃんがこちらを見ている。そのうち大隊長が師団長であることに気付いて、あわてて兵士を集めて挨拶をするということが多かったのです。

当時の師団長視察(?)の様子をいくつかの証言から見てみましょう。

前出の石井周治さんは新聞社に勤めていた時に内地で栗林中将と面識がありました。彼は『硫黄島に生きる』の中で、中将との再会をこのように記しています。

  「その日も、副官室前を自転車を押して歩いていくと、右手の方から、杖を持った将官がやってきた。来たなと思って、私は直ちに直立不動の姿勢で敬礼した。その将官は、丸腰のかなりの老人である。この老人が、私どもの直属長官、栗林中将であった。中将は私のそばを通る時、『ご苦労』といわれた。その『ご苦労』という言葉に、やれやれと思って、中将の顔を良く見ると、栗林中将というのは、近衛師団長時代に、しばしば仕事の上で会ったことのある、あの栗林中将ではないか。

  中将は、その私の声を聞いて、二三歩あともどり、私の顔に目を見据えていたが、

  『ああ、君はあの新聞社の、…石、石、…と、石井君だったな』と、ニッコリと笑われた。

  『そうか、石井君か。とんだところで会ったな。暇なときは遊びに来たまえ』

といって、向うにゆっくり歩いて行かれた。」

中将クラスになると、閣僚と同じですから、内地では多くのマスコミの取材などを受けたりします。普通いちいち新聞記者の名前など覚えていないものです。ところが、栗林中将は若い駆け出しの新聞記者だった石井さんの名前を覚えていたのです。栗林忠道という高級将校が、たとえ相手が地位の低いものであろうが、一人の人間として尊重し、人との出会いをいかに大切にしていたかということを物語っています。

以前、「最後の授業」というブログ記事で、400人の生徒の名前をたった一日で覚えてしまった河合先生という数学の教師の話をしましたよね。地位が上にある人に名前を覚えてもらえることは、下の者にとって、とても嬉しいものです。この時の石井さんも、著書の中で、「中将が私の名前を忘れずにいてくれたことが無上に嬉しい」と、感想を述べています。栗林師団長が二万人の兵士の名前をすべて覚えていたとは思いませんが、おそらくこれに近いほどの接し方をしていたものと思われます。

もう一人の証言を紹介しましょう。

硫黄島から生還した機関銃中隊長の阿部武雄さんは、陣地構築作業をしていると、「年寄りの将校さんらしい人がさっきから見ています」と部下がいうので、振り返ると、どこかで見た顔…。だれだっけとしばらく考えていて、はっと、以前遠くから見たことのある師団長だと気がついた。そこで、慌てて作業を一時中止して、笑顔でこちらを見ている栗林師団長のところへ走っていき、新陣地構築作業中である旨を報告した。阿部さんはその時の模様をこのように話しています。

  「栗林師団長は私をタコの木の蔭に誘って先ずタバコを差し出し火をつけてくれた。こんな経験は初めてである。大隊長までならいつも顔を合わせて何でも言えるが、師団長となると顔を見ることもほとんどない。それが親しげにタバコを出し火をつけてくれるなんて普通考えられないことである。作業ズボンは汗と土で汚れ、上半身は裸、「お前は中隊長か。ご苦労だな」。それから兵隊たちの健康状態、陣地と火網構成要領等精しく説明した後一つ一つの陣地を熱心に見て廻られて指導された。地形地物の利用から射界と距離までも的確な意見を述べられた。去るにあたって、『これからは直属上官が来ても作業を中止しない方がよいな、そうしよう』と言われたが、次の日の師団長会報に、『以後、作業中上官が来ても先任者のみ報告し作業はそのまま続行、敬礼はしなくてよい』とあった。その後幾度か私の陣地に足を停められ、『タバコに不自由しているだろう』と何本か戴いたことを思い出す。米軍が上陸した場合は本土からの救援がなく玉砕戦闘となることを承知で硫黄島に責任者として着任され、深く部下に思いをいたして炎天下陣地を廻られた心情が痛いほど胸にこみ上げて来る。」

8ヶ月間に二万人を越える将兵と言葉を交わすということは、一日平均百人の兵士たちに声をかけたということです。

彼は毎日、徒歩で島中を歩き回っていたのです。

たとえ島が小さいとはいえ、もっとも遠い陣地まで行って司令部まで帰ってくるには、十数キロの距離があります。この時、栗林師団長は53歳。当時の50歳は今の50歳ではありませんよ。平均寿命は50歳代ですから、かなりの老人なんです。現代のような郷ヒロミや石田純一のような50歳代はいなかったのです。かなりからだにこたえたのではないでしょうか。

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このようにして、栗林師団長は毎日毎日陣地を徒歩で廻っては、兵士に声をかけたり、実地の戦闘訓練を支持していたのです。

当然のことながら、兵士たちの士気は高まりました。

でも、それだけではないのです。

日本兵士が、水も食料も尽き果てながら、自暴自棄になってバンザイ突撃をすることなく、最後の最後まで組織的に戦うことができた理由がもう一つあるのです。

それは、栗林師団長が兵士一人ひとりに志(こころざし)を植え付けたからなんです。

志(こころざし)って、なんだか知っていますか?

志とは、自分を越えたなにか尊いものに、命を賭けるという覚悟を言います。人はこの志を持つと、ものすごく強くなります。どんなに大きな困難があろうとも、決して諦めなくなります。

栗林中将は合理主義者でしたから、皇国とか国体なんて漠然とした言葉を使いませんでした。ずばり、軍人とは普通の人が普通の生活をするために存在するという信念を持っていました。

彼ら二万一千人の将兵たちは、この栗林中将の考え方に共鳴したのです。

彼らは、自分たちが戦う目的は、皇国とか国体なんてあいまいなものではなく、婦女子やお年寄りと言った人たちや、愛する家族を守るためであると考えました。彼らは志を持ったんです。だから彼らは、栗林中将が考えた作戦通り、渇水地獄の生を生き、ゲリラ戦をしかけて36日間も戦えたのです。

島嶼の戦いでは、バンザイ玉砕という無謀な戦いが多くありましたが、本当は兵士たちは皇国とか国体なんて漠然としたものに命なんかかけたくなかったのです。

日本人社会は、「和を持って尊しとす」の言葉とおり、周りの雰囲気とかに影響されます。だから周りに人がいると空気に流されて、「天皇陛下バンザイ!」なんて叫んで死ぬ人が多かったのですが、実際は一人のときは違う言葉を叫んだんですよ。知ってますか?

たとえば特攻隊兵士。

彼らが一人で敵艦めがけて突っ込んでいく時に叫ぶ言葉は、「天皇陛下バンザイ!」、じゃなかったんです。多くの特攻隊兵士が叫んだ最期の言葉は、「お母さ~ん!」とか、あるいは既婚者は愛する妻や子供の名前でした。

彼らは愛する者の名前を叫んで、最期の勇気を奮い起こしたんです。

皆さんだってそうでしょう。会社でがんばって働けるのは、愛する家族がいるからでしょう。愛する家族がいるから、つらいことにも耐え、社会という戦場に出て戦う勇気が出てくるのですよね。

栗林中将は合理主義者だから、当たり前のことを当たり前のように主張したのです。我々の戦う目的は、皇国や国体なんてものではなく、愛する家族を含む一般の人を守ることである。硫黄島で戦っている間は、日本が空爆を受けることはない。だから我々は一日でも長く硫黄島で戦うんだ。この栗林中将の呼びかけに、二万一千人の将兵が共鳴したんです。彼らは高い志を持ったのです。

これが、硫黄島兵士が最期の最期まで粘ることができ、硫黄島を占領したアメリカ軍に、「勝者なき死闘」と嘆じさせた奇跡の戦いを起こせた理由でした。

ところで、この志ですが、今の日本では志を持つことの大切さを学校で教えません。

戦後、自分を越えたなにか尊いものに命を賭けるという、志とか愛国心は、軍国主義に通じるということで否定されてきました。だから、ほとんどの人が、志とか愛国心という言葉を聞くと、「なんかうさんくせ~」って、拒絶反応が起きてしまうのです。

他の国の人たちは、「愛国心」という言葉を聞くと、胸が熱くなるというのに、日本ではまったくの逆ですよね。

その結果どうなったか?

多くの日本人が精神的に弱くなってしまいました。

ちょっとした誘惑に負けてしまう人たちや逆境に打ち勝てない人たちがたくさん出てきてしまいました。

国民から預かった年金をちょろまかしちゃう職員や、賄賂を積まれて口利きをしてしまう政治家。日本中にはびこる役人たちの天下りの構造や汚職といったモラルの低下等々…。最近では教育委員会までがおかしくなっちゃった。

そしてまた、人生の壁に直面し、それを乗り越えられない人たち。ちょっと人生につまずいたくらいで、「死んじゃおうかなぁ~」なんて思う人たちがいかに多いことか。

日本では現在、年間3万人の自殺者がでます。先進国でこれほど自殺率の高い国は日本だけですよ。

そもそも教育と言うのは、人生をいかに生きるべきか、ということを教えるものなのに、日本では一番大切な子供の時期に、知識のつめこみばかりを行っています。肝心なことを子供たちに教えていないのです。これじゃ、画龍点睛を欠くというか、仏を作って魂を入れていないというか、不完全な人間がぞくぞくと出てきて当然ですよね。

前総理の安倍晋三さんが、60年ぶりに教育基本法の改正を行い、「郷土を愛するこころ」という教育理念を組み込みました。外枠を固め、これから教育要綱等の内側の改革を進める前に残念ながら失脚してしまいました。これから日本を本気で変える強い意志を持った若い政治家が出てきて、それこそ安倍前総理の志を継いでもらいたいものです。

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話がちょっと教育問題になってしまったので、硫黄島にもどしましょう。

二万一千人の将兵が高い志を持ち、歯を食いしばって作り上げた地下陣地とはどのようなものであったのか。

日本では戦後、戦史を研究するということがなかったので、ほとんど硫黄島の資料というのはありません。アメリカ軍の調査書に頼らざるを得ません。

栗林中将が作り上げた地下陣地がいかに優れたものであったかは、アメリカ軍の調査書の中でも、敵将であったスミス中将のものが良いでしょう。スミス中将は実際に硫黄島で戦ったのですから、もっとも信頼性のあるものだと思います。

スミス中将は回想録の中で、このように述べています。

  「太平洋で戦ったすべての敵の中で、栗林は最も手強い相手であった。太平洋の島々には、我々が名前しか知らない日本軍指揮官もずいぶんいたが、彼らにはこれといった特色もなく、その点、埋葬班が処理する敵兵の累々たる死体となんら異なるところがなかった。しかるに、栗林の個性は彼の構築した硫黄島の地下防備に深く刻み込まれていた。我々が栗林の残存部隊を『北の鼻』一帯に追い詰めるまで、彼は我々と対等に渡り合った。組織的抵抗が米軍上陸後数日で崩潰せず最後まで持続した点で、硫黄島戦はすこぶる注目すべき戦闘であった。 …中略… 栗林の地下陣地は、私が第一次大戦中にフランスで目にしたいづれよりもはるかに優れており、第二次大戦におけるドイツの地下防備をも凌ぐものだ。」

アメリカ軍は、上陸前に偵察機の撮影によって、地下陣地の存在を知っていましたが、スミス中将はここまで大規模なものとは思っていなかったのです。そりゃそうでしょう。日本兵が掘ったトンネルは全長18キロに及び、ほとんどがつながっていたのです。

スミス中将は地下陣地について、さらにこのように述べています。

  「…、それはまさに『難攻不落の要塞の傑作』であった。天然の洞窟を活用し、他に新たに数百の洞窟を掘り、そのすべてを地下道で連結し、それをまた30乃至40フィートの深さに掘った地下壕と結びつけ、そこに大砲や迫撃砲を隠していた。 …中略… しかも地下壕や洞穴や通路からなる巨大な迷路が待ち構えていた。防衛陣地に対する驚愕を我々は日々新たにしたのである。」

…それはまさに『難攻不落の要塞の傑作』であった。

硫黄島の二万一千人の将兵たちは、敵の最高司令官が絶賛するほどの地下陣地を作り上げていたのです。

…防衛陣地に対する驚愕を我々は日々新たにしたのである。

アメリカ海兵隊がいかに苦戦したかがよくわかりますよね。スミス中将は、「栗林の個性は彼の構築した硫黄島の地下防備に深く刻み込まれていた」といったほど、栗林中将の後退陣地作戦はすぐれていたのです。

それでは、常勝将軍ホーランド・M・スミス中将を迎え撃つ知将・栗林師団長がどのように戦ったかをもう少し詳しく見てみましょう。

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まず、硫黄島の地理的な説明をします。硫黄島の地形を覚えましょう。

図が描けないので、頭の中で想像するか、紙にこれから説明する硫黄島を書いてみて下さい。

硫黄島はご飯をすくう杓文字(しゃもじ)のような形をしています。握りの部分を下に、大きな丸い部分を上にした垂直の杓文字を描いてみましょう。

硫黄島は杓文字と同じように平坦な島ですが、杓文字の細くなっている握りの部分の突端に、この島で唯一の174メートルの高さの山があります。この山はすり鉢山と言います。この山は、その名の通り、上から見るとすり鉢のように火口がぽっかりと口を開けています。

いま皆さんが描いた杓文字の握りの部分の右側面は、南海岸と呼ばれる約4キロつづく砂浜です。この砂浜以外は、硫黄島の海岸は断崖絶壁となっています。そのため、アメリカ海兵隊はこの南海岸から上陸することになります。

握りの部分と丸くなっている部分を分けるように、杓文字の真ん中あたりに横線を引いてみて下さい。この線を主陣地第一線と言います。ここに集中的に日本兵は地下壕を掘り、それぞれの壕をつなげて、アメリカ軍の進軍を食い止めるべく、強固な堅陣を組んでいました。

主陣地第一戦とすり鉢山の中間地点に千鳥飛行場があります。この飛行場は南海岸からわずか800メートルの距離に位置します。南海岸に上陸したアメリカ海兵隊は、この千鳥飛行場を取りにかかりますが、すり鉢山と主陣地第一線に陣地を構えていた日本軍に挟み撃ちの攻撃を受け、当初は多大な損害を受けます。

杓文字の大きな丸い部分の突端は「北の鼻」という地名で、栗林壕と呼ばれる司令部壕がありました。

主陣地第一線と北の鼻の中間地点に、同様に線を横に引いて下さい。この線を主陣地第二線といい、やはり強固な地下陣地が構築されていました。

主陣地第一線と主陣地第二線との中間地点には、元山飛行場があります。やはりこの飛行場もアメリカ海兵隊と日本兵の激しい戦場となったところです。

また、主陣地第二線と栗林壕の中間地点には、新しい飛行場が建設中でした。

どうですか?うまく描けましたか。

それでは、最後に今描いた杓文字を右に45度傾けて下さい。これが地図上に載っている硫黄島の形です。上が北、下が南をあらわしています。

アメリカ海兵隊は、南海岸から上陸し、すり鉢山と千鳥飛行場を占拠し、さらに主陣地第一線を突破します。そして元山飛行場を落とし、主陣地第二線を突破し、栗林壕に迫ります。南海岸から栗林壕まで、約7キロの距離です。オリンピックのアスリートなら、わずか20分くらいで走り抜けてしまう距離です。ところが、硫黄島の戦いでは、アメリカ海兵隊はこの距離をじつに36日間もかけて進まなければならなかったのです。しかも日米双方で5万人もの死傷者を出して。

いかにこの小さな島で激しい戦闘が繰り広げられたかが分かりますよね。

それでは、もう少し詳しく日米の戦いを見てみましょう。

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アメリカ海兵隊が上陸するまでに、アメリカ軍は硫黄島に2ヶ月におよぶ艦砲射撃や空爆を行いました。偵察機が撮影した中に地下陣地を構築する日本軍が写っていたからです。砲撃の規模はそれまでの島嶼の戦いでは最大級のものとなりました。使った砲弾の鉄量を硫黄島に敷き詰めると、厚さ1メートルになるほどの量でした。この二ヶ月間のすさまじい砲撃によって、島の地形が変わり、島に生息していた草木や動物はすべて死滅しました。栗林中将が着任する前に作っていた水際陣地は、この時に破壊されました。

この時の砲撃がどれほどすごいものなのか。硫黄島から生還した工兵隊の伍長だった方の手記にはこのように書かれています。

  「島に向けられていた砲が一斉に火を噴いた。島には大地震が起こった。火柱は天に届くかと思われるようだ。黒煙は島を覆う、鉄片はうなりを生じて四散する。直径1メートルもある大木も根の方が上になってふっ飛ぶ。轟音は雷が100も200も一度に落ちたようなものすごさである。地下30メートルの穴の中でも身体が飛び上がる。まさにこの世の地獄となった。」

艦砲射撃に続いて行われた空爆もまた壮絶なものでした。激しい爆撃によって、すり鉢山の頂の四分の一が吹き飛んでしまうほどでした。

  「次は大型機が何十機もそろってやって来る。ブルンブルンとうなりながら来る。銀色である。島の上に来た奴は一トンという恐ろしい爆弾を落とす。次から次と落とすその音は恐ろしい。気の弱い奴はキチガイになる。ヒューヒューと音を立てて落ちる。続いて大地震が起きる。炸裂する。岩石も土砂と一緒に中天に舞い上がる。そして落下する。直径10メートル、深さ5メートル位の穴が地面にできる。人間が居れるような状況にない。」

この激しい艦砲射撃と空爆で、多くのアメリカ海兵隊員は、「俺たちが戦う日本兵士は残っていないんじゃないか?」って、思ったのです。

ところが、栗林師団長の指示で作られた地下陣地に立て籠もった日本兵士はほとんど無傷でした。おそらく多くの日本兵士たちが、あらためて、水際陣地構築作戦を放棄し、この後方陣地構築を進めた栗林師団長の判断の正しさを知ったことだと思います。

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第二次世界大戦史上最大の砲撃が行われた三日後に、ついに上陸の日ーDデイがやってきました。

昭和20年2月19日午前6時30分、アメリカ海兵隊員は上陸用舟艇に乗り込み待機します。

艦砲射撃と空爆が続いたあと、午前9時に上陸が開始されました。アメリカ海兵隊を乗せた上陸用舟艇が次々と南海岸に到着しました。

海兵隊員がもっとも緊張する瞬間です。

島嶼の戦いでもっとも危険な場面だからです。ほとんどの海兵隊員たちは死を覚悟します。敵の水際作戦による一斉射撃にひるむことなく上陸を強行し、一気に敵を叩き潰さなければなりません。

恐怖と勇気と愛国心が入り混じった感情を持って、アメリカ海兵隊員たちはぞくぞくと硫黄島の海岸に降り立ちました。

ところが、「あれれ?」って、ほとんどの海兵隊員たちは思いました。

日本軍がまったく発砲してこなかったからです。

「やっぱり、あの激しい砲撃で、ほとんどの日本兵士は死んじゃったんだ。」って、多くの海兵隊員たちは思いました。「これは、案外簡単にこの島を占領できそうだ!」

激しい砲撃によってすでに日本兵の戦闘意思は低下している!という甘い観測も手伝って、次から次と上陸用舟艇が海岸に到着し、アメリカ海兵隊は上陸して、千鳥飛行場へ向かって進軍します。

硫黄島の南海岸は、火山灰が風化してできた砂浜です。やわらかく膝までめり込んでしまいなかなか進むことができません。この歩きにくい砂浜が、まるで新宿駅の山手線構内のラッシュアワーのごとく、多くのアメリカ海兵隊員でひしめき合っているとき、初めて日本軍は攻撃を仕掛けました。

栗林中将の指示通り、日本軍はアメリカ海兵隊を間近まで引きつけておいて、至近距離から挟み撃ちで攻撃をしました。至近距離からの砲撃であったので、予想以上の命中率でした。日本軍の射撃で、アメリカ海兵隊員はバタバタと倒れていきました。またロケット砲も使われ、命中した海兵隊員の身体はバラバラに吹き飛びました。この凄惨な状況を目の当たりにして、硫黄島の砂に足を取られて動けないアメリカ海兵隊は一時パニック状態に陥りました。

初日の戦闘で、もちろん日本側にも被害がでましたが、アメリカ側の損害は大きなものでした。初日の死傷者二千三百人の他、戦争神経症で戦闘不能になった者百名。これは初日に上陸した海兵隊員三万一千人の実に8パーセントにのぼりました。

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激しい戦闘が繰り広げられた初日・Dデイも日が暮れ、一時的な静けさが訪れました。

多くの犠牲者を出して硫黄島の砂を這うようにして、砂丘を越えてきた海兵隊員たちは疲れきっていましたが、夜を迎えても眠ることができません。なぜかというと、これまでの島嶼の戦いでは、激しい初日の戦闘があったあと、日本軍はバンザイ攻撃を仕掛けてくるからです。

「バンザイ」を連呼して無謀に突撃してくる日本兵たちは、アメリカ海兵隊員にとって嫌悪と恐怖のなにものでもありませんでした。しかしながら、一気に敵軍の兵力を低下させるチャンスでもありました。日本軍は、バンザイ突撃のあと必ず組織的に崩壊していたのです。

ところが、今回はいつまでたっても日本軍はバンザイ突撃をしてきません。待てど暮らせど、不気味に静まり返っていました。

そして、ついに夜明けを迎えました。

この時初めて、海兵隊員たちは、この硫黄島の戦いがこれまでの島嶼の戦いと違うことに気付いたのです。

スミス中将は、硫黄島の沖合いのエルドラド号の艦船上で、やはり眠れぬ夜明けを迎えました。

硫黄島を眺めながら、彼は近くにいた従軍記者の一人に、こう言いました。

「この島の日本軍を指揮しているやつが誰だか分からないが、そいつはかなり頭の切れる奴だ。」

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上陸したアメリカ軍は、正面800メートルの距離にある千鳥飛行場と、左手方向にあるすり鉢山を奪取すべく、進軍を開始しました。そして上陸5日目に、ついにすり鉢山の日本軍を落としました。

5日間の戦いで、アメリカ海兵隊は五千人にのぼる死傷者を出しました。この死傷者数は史上最大の作戦と言われたノルマンディー上陸作戦の死傷者数を越えるものでした。一箇所でこれだけの被害がでたのは、南北戦争のゲティスバーグ以来のことです。

硫黄島は平坦な島で、唯一の山であるすり鉢山は島のどこからでも見えました。

だから、このすり鉢山の頂に星条旗が立ったとき、ほとんどの海兵隊員たちは歓声を上げ、海上の艦船は一斉に汽笛をならしました。

すり鉢山に星条旗が立てられた直後、モーターボートで二人の男が南海岸に降り立ちました。そのうちの一人の男は、すり鉢山に翻る星条旗を見て、涙を流しました。横にいた男は、この涙を流す男にこう話しかけました。

「ホーランド、これで海兵隊は今後500年間安泰だな!」

ホーランドとは、ホーランド・M・スミス中将です。彼はここにいたるまでにマイマリンーズの犠牲を思って、涙を流していたのです。

スミス中将に声をかけた男は、ジェームズ・V・フォレスタル。当時のアメリカ海軍長官です。

アメリカというのはすごい国ですね。アメリカ海軍長官は海軍のトップです。太平洋艦隊司令長官のニミッツ大将より上位にあります。彼より上は国防長官とルーズベルト大統領しかいません。そんな海軍のトップにいる人物が、まだ砲弾が飛び交っている戦場にくるんですですよ。

日本で言えば海軍大臣や陸軍大臣が戦場に来るようなものです。当時の軍事官僚はエリート意識が強く、腐敗しきっていました。彼らは日本にいて戦場で何が起きているのかわからなかったんです。これじゃ、アメリカに勝てないのも無理はないですよね。指揮を取るトップが現場を知らないんじゃ勝負になりません。

フォレスタル長官が、「これで500年間は安泰だな」といったのには理由があります。

アメリカ軍は大きく五つに分かれます。陸軍、海軍、空軍、海兵隊、沿岸警備隊。

今でこそ、海兵隊、Marine Corps(マリンコと発音します)は、押しも押されぬアメリカ軍の表看板となっていますが、発足当時は海軍のお荷物と呼ばれ、創設以来不要論がしばしば持ち上がっていました。

ところが、今回の太平洋戦争(大東亜戦争)では、海兵隊は島嶼の戦いでもっとも勇気のある戦いを行い、そして敵国の日本の本土に初めて星条旗を立てたのです。これがアメリカ国民に海兵隊の存在意義を強く印象付けました。だから、ホレスタル海軍長官は、今回の硫黄島での海兵隊の活躍が今後500年間、海兵隊の存在を保障してくれると言ったのです。実際、この硫黄島の戦い以降、アメリカ国民がもっとも敬意を払う軍人は海兵隊員になりました。皆さんは、アメリカの若い女性に人気があるのは、トム・クルーズの「トップ・ガン」のような空軍の兵士だと思うでしょう。もっとも人気のあるのは、アメリカの勇気のシンボルとなっている海兵隊員なんですよ。

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ところで、この時に撮影された6人の兵士たちが立てた有名な星条旗の写真の話をします。

この6人の兵士(5人の海兵隊員と1人の水兵)が写っている星条旗の写真は、史上もっとも美しい写真と言われ、これをもとに国立アーリントン墓地の前に巨大な像も彫られました。また、この写真は記念切手ともなりました。この星条旗を立てた兵士6人のうち3人がアメリカへ生還しましたが、生きている人物が切手の肖像画になったのはこのときが初めてでした。それほどこの写真はアメリカ国民を感動させたのです。

この世紀の写真を撮った人は、ジョー・ローゼンソールというAP通信社のカメラマンでした。彼はこの写真を撮ったことで、新聞記者としては最高の名誉であるピューリッツァ賞を受賞しました。

ローゼンソールはチビで近眼で、ちょっとオッチョコチョイの男でした。

上陸5日目に、すり鉢山に星条旗が揚がるかもしれないという情報に、従軍記者たちは興奮しました。そして我先にいい位置からいい写真を撮りたいと、彼らは南海岸に上陸するため艦船からボートに乗り込みました。その時、ローゼンソールは濡れた梯子に足をすべらせ海に落ちてしまったんです。

ドジというかマヌケというか…。

でも、人生はなにがきっかけでチャンスをつかむかわからないもの。

災い転じて福となす。人間万事塞翁が馬って言いますからね。ローゼンソールは馬から落ちなかったけど、梯子から落っこちて、彼の人生最大の幸運をつかんだんです。

当時の写真機は今のように防水ではありません。彼の持っていたカメラは使えなくなり、部屋にあるスペアーの写真機を取りに帰らなければなりませんでした。彼が取りに帰っている間に、他の従軍記者たちは彼を置いてさっさと島へ渡ってしまいました。

遅れてローゼンソールがすり鉢山山頂に到着したときには、国旗掲揚式は終わっていました。すでに先に出た従軍記者たちは、この国旗掲揚式の写真を撮り終えていたのです。だから従軍記者たちは、それ以外のなにかニュースバリューになるものを捜して山を下りていってしまいました。ローゼンソールはなにも撮影しないと上司に「どアホ!」って、どやされるので、なにか撮らなくちゃとぐずぐずしていたところ、なんと”二度目の”国旗掲揚が行われたのです。

アメリカ海兵隊第五師団の大隊長だったチャンドラー・W・ジョンソン中尉は、最初に揚げた”公式な”星条旗は記念となるので大切に保管するために、国旗を降ろすように命じました。そして代わりの星条旗を揚げることにしたのです。代替の星条旗は景気づけに大き目のものがいいだろうということで、縦140cm、横245cmもある大きな星条旗を近くにいた6人の兵士に渡しました。

二度目の国旗掲揚なんて、出汁(だし)を取り終わったあとの煮干みたいなもの。周りにいた者たちは気にも留めてもいませんでした。遅れてきたローゼンソールだけが、仕方なく撮影したのです。この時、だれも世紀の瞬間が訪れようとしていたとは思いもよりませんでした。

ジョンソン中尉が渡した国旗はかなり大きかったので重量がありました。

6人は近くにあった残骸の中から一本のパイプを見つけ、そのポールにこの大きな星条旗を結んで揚げようとしました。ところが折からの強風で振り回されてなかなかポールを起こすことができません。六人のうちの一人が、根元を持って地面に固定し、あとの五人が「ヨイショ!」って感じで、やっとポールを起こすことができました。

パチリと、この瞬間をローゼンソールは写真に収めました。

いまのデジタル写真機と違って、その場で撮った写真を見ることはできません。ローゼンソールは、自分が撮影した写真の出来栄えを知らず、まあ、二度目とは言え、なんとか国旗掲揚の写真を撮れたので、これで編集長に怒られずにすむかとホッとして、フィルムをそのままグアムのAP通信社の写真編集長、ジョン・ボドキンに送ったのでした。

グアムのジョン・ボドキンは硫黄島から送られてくる従軍記者たちのフィルムを現像していていました。そして、ローゼンソールの撮ったフィルムを現像した写真を見たとき、思わず息を呑みました。そして次の瞬間、こう叫びました。

これは空前の写真だぞ!

ローゼンソールの撮った写真は、構図から光の当たり具合、そして何よりも多くの犠牲者を出したあとに、疲れきった兵士たちが苦労をしながら風にたなびく星条旗を立てる姿が感動的に映し出されていました。

すぐにボドキンはこの写真をニューヨークの本社へ電送しました。

翌朝、ローゼンソールの写真は、朝刊の一面を飾りました。

ボドキンが叫んだように、この写真は空前絶後の写真となりました。

数百万人のアメリカ国民が、この写真に釘付けになったのです。

眠そうな目をしてドアステップにかがみこんだ男も女も、朝刊の一面に載ったその写真を一目見るといっぺんに目が覚め、家の中に向かって叫びました。「おお~い、これを見てみろ!」

出勤途中のサラリーマンは、通りの新聞売りに三セント渡して、歩きながら一面の写真を見るや否や、踵(きびす)を返してもどって来て、またもう一部買いました。

戦場に息子たちを送り出したすべての母親たちは、この写真の6人の若者を見て、遠い異国の地で戦う自分たちの息子に想いを馳せました。

当時、この写真を見た人たちは、この写真をどこでどのような状況で見たかを鮮明に覚えているといいます。それほど、この硫黄島の写真はアメリカ国民に衝撃と感動を与えたのです。

硫黄島上陸三日にして、すでに五千人という死傷者を出したことをアメリカ国民は知っていました。だから必死に星条旗を立てるこの6人の若者たちの姿を見て、アメリカ国民は遠い海の孤島で戦うアメリカ海兵隊員たちの犠牲と苦労を思い、涙を流したのです。

ところで、多くのアメリカ国民は、ここで大きな誤解をしました。

この硫黄島のすり鉢山に立てられた星条旗を、硫黄島を制圧したものと思い込んだんです。

戦いは始まったばかりでした。五千人という死傷者はまだほんの序章にすぎません。

このあと多くの海兵隊員が、できることならナチス・ドイツと戦いたかったと手紙を自宅へ送るほど、あるいは、「もう、二度と日本兵と戦いたくない…」と嘆くほどの、激しい戦いを一ヶ月間繰り広げることになります。彼らが地獄を見るのはこれからだったんです。

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話を硫黄島の戦場にもどしましょう。

アメリカ海兵隊が上陸して4日目ですり鉢山が陥落したことは、栗林中将にとって大きな痛手でした。もともと彼らの戦いはアメリカ軍に勝つことではなく、出血持久戦に持ち込むことが目的だったので、いずれはこの山がアメリカ軍の手に落ちることは覚悟していました。しかし彼はすり鉢山の部隊には10日間くらいは持ちこたえて、アメリカ軍を南の地区に釘付けにしておいてほしかったのです。

すり鉢山が早期に陥落してしまった最大の理由は、元山地区とすり鉢山の地下道が完成されていなかったからです。そのため、千鳥飛行場をアメリカ軍に占領されてしまうと、すり鉢山が孤立してしまいました。もしすり鉢山~元山地区間の地下道が完成していれば、地上を通ることなく両方の陣地を行き来することができ、連絡が容易になることはもちろん、兵員や武器弾薬の移動もできるはずでした。

水際陣地を放棄し、後方陣地構築を栗林中将が決定した時、大本営の容喙(ようかい・口出しをすること)や海軍の反対もあり、地下道の工事が思うように進まなかったことが原因でした。栗林中将はさぞかし臍(ほぞ)をかんだことと思います。

南海岸から上陸した海兵隊は、左手に進んですり鉢山を攻略する一方で、別部隊は右手、つまり北東方向に向かって攻め上っていきました。千鳥飛行場を制圧し、主陣第一線を突破し、元山飛行場を目指して進軍しました。

「素早く叩き、強く叩き、敵が屈服するまで叩き続ける!」という、スミス中将の言葉に代表されるように、アメリカ軍はあくまで力で圧倒する戦い方をしました。

アメリカ軍は正面からぶつかり合う戦争はものすごく強いのです。

湾岸戦争では、中東の軍事大国であったイラク軍をあっという間にねじ伏せちゃいましたよね。

アメリカ軍をボクサーで例えれば、ボクシング史上最強のハードパンチャーと言われた、ヘビー級チャンピオンのジョージ・フォアマンでしょうか。

フォアマンの強さは桁外れでした。彼に比べたらタイソンのパンチなんか小学生並みでした。デビュー以来、彼と戦って4ラウンド以上リングに立っていたボクサーは一人もいなかったんですよ。ジョー・フレイジャーやケン・ノートンといった名だたる名ボクサーたちも正面からの打ち合いをしたために、3ラウンドまでに、ことごとくリングに沈められてしまいました。

試合を観戦していた「空手バカ一代」の原作者・梶原一騎は、「こんなつえぇ野郎を倒せる人類は一人もいない!」と思ったとか。

ところが、無敵と思われたフォアマンをマットに沈めたボクサーが現れたのです。

その人の名前は、モハメッド・アリ。

モハメッド・アリがフォアマンに挑戦した時、彼はすでに全盛期を過ぎていました。ロートルのアリが、破竹の勢いの若いフォアマンに勝てるとは、だれも予想していませんでした。フォアマンに挑戦したアリの勇気を誰もが讃えましたが、フォアマンの勝利は誰もが絶対であると思っていたので、賭けが成立しなかったほどです。

ところが、アリはクレバーなボクサーでした。彼は無謀にフォアマンと正面から打ち合うことはしなかったのです。

「蝶のように舞い、蜂のように刺す」というように、彼はフットワークを使って、フォアマンの攻撃を巧みにかわし、的確にジャブをヒットさせました。フォアマンのパンチは空を切り、スタミナは徐々に消耗していきました。そして、8ラウンドに疲れきったフォアマンをアリは右ストレート一発で倒したのです。まさに蜂の一刺しでした。

モハメッド・アリが伝説のボクサーとなったのはこの時です。ボクシング・ファンはこの試合が行われたアフリカの地名を用いて、「キンサシャの奇跡」と呼んでいます。

ちょっと、この例えはマニアック過ぎましたかね?

とにかく、栗林中将率いる日本軍はモハメッド・アリと同様に、この力に勝るアメリカ軍と正面から戦うことを避けました。

戦車を先頭に近づいてくるアメリカ軍に対して、穴倉から不意に出て行って、戦車に爆弾を抱えて体当たり攻撃し、あとから続く歩兵隊に砲撃を食らわす。そして彼らが反撃してくると、日本軍は戦いを避けて地下陣地へ隠れ、そしてまた別の穴から出てきて、思わぬところから攻撃する。この繰り返しでした。彼らは「蝶のように舞い、蜂のように刺す」攻撃を続けたのです。このようにして日本軍はアメリカ軍に大きな損害を与えました。

日本軍のモハメッド・アリ戦法に対し、アメリカ軍は火炎放射機で対抗し、一つ一つの壕の入り口を見つけて、ガソリンを流し込み、鉄板で蓋をして、日本兵を焼き殺していきました。市丸利の助海軍少将の戦訓電報には、「米軍は前面を清野と化して初めて前進。歩兵の前進時速約十メートル。さながら、”害虫駆除”のごとき態度で戦闘す」という文面があります。

アメリカ軍はまるで見えない敵と戦っているようなものでした。硫黄島を上空から見たアメリカの偵察機のパイロットが、「わが軍は島と戦っているようだ!」と形容したほど。

このように、当初の戦いでは、日本軍はアメリカ軍と互角以上の戦いをしたのです。スミス中将は、回顧録で、この時の戦いを、「洞窟、銃座、壕の一つ一つが独立した戦闘であって、日米両軍が死ぬまで白兵戦を演じた」と述べています。

ところが、徐々に日本軍はアメリカ軍に押されてきました。

理由は砲弾がなくなったからです。

普通、陸戦において砲弾がなくなったら近代戦争は行えません。大砲やロケット砲のない陸軍兵士なんて、丘に上がったカッパみたいなもので、まともに戦うことは不可能です。この時点で本来であれば白旗を揚げて投降するのが常識です。どこの国でも、戦闘不能になったら捕虜になっても不名誉なことではありません。

ところが、硫黄島の兵士たちは投降しませんでした。「生きて虜囚の辱めを受けず」という誤った考えが多くの日本人にはありましたが、彼らの場合はあくまで、「この島を取られたら大規模な空襲が行われる、だから一日でも長くこの島で戦うんだ!」っていう気持ちが強かったのです。

そして、彼らは、手榴弾と銃だけで戦い続けました。

日本兵は砲弾がないので、接近戦を挑みました。海兵隊員が寝ているところを、闇に乗じて近づき、銃剣や刀で戦いました。竹やりで機関銃に立ち向かうという表現がありますが、砲弾がなくなったため、日本軍はまさにそんな戦い方をしたのです。最期まで戦うことを諦めませんでした。

この時のアメリカ海兵隊の接近戦の恐怖を、戦死したあるアメリカ軍将校が日記にこのように記していました。

「この島では前線にいるだけでも勇気が要る。日本兵がいま座っている地面の下にもいるかもしれないからだ。この島では部下に前進を命じるには勇気が要る。確実に死が予想されるからだ。そして、朝目を覚まして起きるのは、最も勇気が要る。また、同じことをしなければならないからだ。」

しかし、日本兵の必死の戦いにも関わらず、硫黄島の戦況の明暗がはっきりしてきました。

2月26日までに元山飛行場は陥落しました。

3月上旬になると主陣第二線も突破され、新しく建設中だった第三の飛行場もアメリカ軍の手に落ちました。この時点で、日本兵の残存兵力は4000名。三分の二の兵士が戦死していました。

いよいよ日本軍は、北の鼻一帯に追い詰められました。

栗林中将の元へは毎日のように、各部隊からの全滅の報が入ってくるようになりました。また、すでに砲弾も水も食料も尽きてしまったので、敵陣へ万歳を唱えて突入する許可を求める電報も入ってきました。それに対して、栗林中将はバンザイ突撃の中止を厳命しました。あくまでも組織的、計画的に戦うことを要求したのです。

アメリカ軍が日本軍を北の鼻一帯に追い詰めた時の状況を、敵将・スミス中将は回顧録でこのように書いています。

「明らかに栗林が指揮を取っていた。彼の個性はその強靭な抵抗にはっきりと示されていた。 …中略… 硫黄島では断崖から飛び降りて自殺する者はいなかった。日本兵は最期まで戦い、掃討戦を甚だ犠牲の大きいものとした。栗林はアメリカ兵を一人残らず道連れにするつもりだった。」

水も食料も枯渇したにもかかわらず、生き残った将兵たちは地獄の生を生き、最期の最期までゲリラ戦を仕掛けたことが、スミス中将の回顧録からよくわかりますよね。

このような苦しい状況でも、栗林中将の命令が日本兵士によって守られたことについて、戦後この戦いを調査したアメリカ軍は、「奇跡の統率力」であったと記しています。

この栗林中将の奇跡の統率力を伺うことができる一件があります。

硫黄島の戦いが終わった後、アメリカ海兵隊が日本兵の遺体の埋葬をしているとき、ある紙片を見つけました。

それは「敢闘の誓い」という栗林中将が全軍に配布したものでした。

そこにはこのように記されていました。

(一)我らは全力を振って守り抜かん。/(二)我らは爆薬を抱いて敵の戦車にぶつかり之を粉砕せん。/(三)我らは挺身敵中に切り込み敵を皆殺しにせん。/(四)我らは一発必中の射撃によって敵を撃ちたおさん。/(五)我らは敵十人を斃(たお)さざれば死すとも死せず。/(六)我らは最後の一人となるも「ゲリラ」によって敵を悩まさん。

従軍記者であったビル・D・ロスは、著書『硫黄島ー勝者なき死闘』の中で、栗林中将のこのスローガンがいかに日本兵士たちに浸透していたかをこう記しています。

「海兵隊は『敢闘の誓い』の紙片を、硫黄島のどこでも ー まず海岸沿いの塹壕で見つけたのを皮切りに、洞窟でも、トンネルでも、トーチカでも、死んだ敵兵の遺体の上にでも ー 発見できた。」

ほとんどの将兵がこの敢闘の誓いの紙片を身につけていました。おそらく毎日これを復唱して、自らを鼓舞していたと思われます。

これってすごいことなんですよ。

戦陣訓というのは、内地にいるときには皆なんとなく従うような顔をしていますが、いったん戦場にでると、だれも本気で考えていなかったんです。当たり前です。戦場を知らない高級将校がなにを言ったて説得力がないのです。

東条英機も戦陣訓を書いて、戦地に送りましたが、本土でのうのうと暮らしている奴に戦場で戦っている者の苦労がわかるかって!感じで、東条英機の戦陣訓を受け取った将兵たちは手で丸めてゴミ箱にポイしちゃいました。だいたい、戦陣訓で、「虜囚の辱めを受けず」なんていっているご本人が、自決し損なって、アメリカ軍に捕縛されて、東京裁判にかけられちゃたのだから、お話になりませんよね。

それに比べると、硫黄島の将兵たちは、忠実に栗林中将の敢闘の誓いを守り通したのです。

爆弾を抱えて戦車に体当たりをし、夜の闇に乗じて、刀で敵兵を切り殺し、十人を殺すまでは絶対に死なない。こうして彼らはバンザイ突撃をせず、地獄の生を生きて戦ったのです。

栗林中将たち司令部が玉砕したあとでも、残った兵士たちは栗林中将の敢闘の誓いを守り、ゲリラ戦を展開してアメリカ軍を悩ませました。

すでに戦いが終わっていると思っていたら、思わぬところから日本兵の攻撃を受けて殺されるアメリカ兵が多くいました。最後の最後まで戦った日本兵二名が投降した時は、すでに戦争が終わって4年もの月日が経っていました。なんとそれは朝鮮戦争が勃発する一年前だったんですよ。

それほど、栗林中将の命令は硫黄島で忠実に守られたのです。アメリカ軍調査班が、「奇跡の統率力」だったと表現したのがよくわかりますよね。それだけ全将兵から栗林中将は信頼を受けていたということなのです。

栗林中将の戦う目的 - 一日でも長く戦って本土空襲をさせない! - に共鳴して、ミイラのように日に日にやせ細りながら、忠実に戦う将兵たちを見て、果たして栗林中将はどう思ったのでしょうか?

梯(かけはし)久美子さんの著書・『散るぞ悲しき』に、平成16年の1月に行われた、「たこちゃん」こと新藤たか子さんとのこんなインタビューがあります。

たこちゃんは父の年齢を越えて69歳になっていました。

父の人生を振り返って、彼女は言いました。

「私はね、父は幸せだったと思うんです。あの時代に50過ぎまで生きられましたし、軍人としても出世もした。 … ええ、幸せな人生でした。ほんとうに。」

この時、梯さんは不躾(ぶしつけ)とは思いながらも、「最後まで、でしょうか?」と質問をしました。

すると、新藤たか子さんは、こう言いました。

「はい。だって兵隊さんたちはみんな、どんなに苦しくても、最後まで父を信じてついてきてくれた。父のような立場の人間にとって、それ以上の幸せがあるでしょうか。」

この父にして、この娘あり!という感じでしょうか。

父が硫黄島に出征する朝、もう二度と会うことができないことを直感的に悟り、門で泣きじゃくったたこちゃんは、父親の下で亡くなられた二万人の兵士を想い、きっぱりと、「父親は幸せでした!」と言い切ったのです。

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実際に硫黄島の戦場で、栗林中将が「幸せ」を感じる余裕があったかどうかわかりませんが、最後まで自分の命令に従って戦った兵士たちに感謝をしていたと思います。

そして栗林中将は忠実に戦ってくれた兵士たちのためにあることをしようとしました。

それは、愛する祖国を守るために、硫黄島の兵士たちがあえて地獄の生を生き、いかに勇敢に戦って死んでいったかということを広く日本国民に知らせることでした。

栗林中将は、「懸命に戦って死んでいく兵隊たちに、せめて日本国民からの感謝と敬意を与えてあげたい!」って、思ったんです。

このことは、3月25日の最後の出撃に際し、栗林中将が述べた訓辞に表れています。

「予が諸君よりも先に、戦陣に散ることがあっても、諸君の今日まで捧げた偉功は決して消えるものではない。いま日本は戦に敗れたりといえども、日本国民が諸君の忠君愛国の精神に燃え、諸君の勲功をたたえ、諸君の霊に対し涙して黙祷を捧げる日が、いつか来るであろう。安んじて諸君は国に殉ずべし。」

そして栗林中将は、この時、ある部下にだけは死んではならないと伝えました。硫黄島から生還した武蔵野菊蔵工兵隊長の手記によれば、それは参謀の一人であった吉田紋三少佐で、栗林中将は出撃前に、「貴官は本島に生を保ち、いつの日か本島を脱出して、日本国民にこの惨状を伝えよ」と命じたといいます。

吉田少佐は栗林中将たちが玉砕したあとでも生き延び、いかだを作って何度か硫黄島脱出を企てましたが失敗。その後、5月にアメリカ軍の飛行機を奪おうとしたところを射殺されたと伝えられています。

また、この時よりさかのぼって、栗林中将は激しい戦いの最中に、各部隊での戦闘をくわしく報告させ、目覚しい活躍をした兵士に感状を発行しました。感状とは戦功を立てた兵士に対してその武功を讃える表彰状です。伝令はこの感状を命がけで戦場を走って届けます。

今さら玉砕する運命の島で、感状の発行も必要ないだろうと思うなかれ。

感状を発行すると、その報告は上聞に達すると言い、天皇陛下までその兵士がどのように戦ったかが報告されます。当然、感状を発行された兵士も家族も名誉に感ずるのです。また、これは戦史広報に載るので、広く硫黄島でどのような戦いが行われたを後世に伝える手段となります。

さらに、栗林中将は広く国民に硫黄島の戦いを知ってもらうために、これまでの型にはまった軍人的な表現ではなく、生の実情を伝える生きた言葉を戦訓電報に入れてきました。

3月5日の大本営宛戦訓電報の末尾には、このような文章が書かれていました。

「以上これまでの戦訓等にては到底想像も及ばざる戦闘の生地獄的なるを以って、泣き言と思わるるも顧みず敢えて報告す。」

戦訓電報の中で、戦闘状況を「生地獄」と表現するのは異例のことでした。栗林中将は兵士たちどのような地獄の中にいるかを広く知ってほしかったのでしょう。

そして最後に、栗林中将が大本営宛に送った3月16日の決別電報には、兵士たちがどのような状況で戦い、そして彼自身はそれをどのように感じたのかを、率直に表現しました。

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「戦局、最後の関頭に直面せり。敵来攻以来、貴下将兵の敢闘はまさに鬼神を哭(なか)しむるものあり。特に想像を越えたる物量的優勢を以ってする陸海空よりの攻撃に対し、婉然(えんぜん)徒手空拳を以ってよく健闘を続けたるは、小職自らいささか悦びとするところなり。

 然れども飽くなき敵の猛攻に相次いで斃(たお)れ、為にご期待に反し此の要地を敵手に委ぬる外なきに至りしは、小職の誠に恐くに堪えざる所にして幾重にも御詫(おわび)申し上ぐ。

 今や弾丸尽き水枯れ、全員反撃し最後の敢闘を行わんとするにあたり、つらつら皇恩を思い粉骨砕身もまた悔いず。

 特に本島を奪還せざる限り、皇土永遠に安かざるに思い至り、たとえ魂魄(こんぱく)となるも誓って皇軍の捲土重来(けんどちょうらい)の魁(さきがけ)たらんことを期す。

 ここに最後の関頭に立ち、重ねて衷情(ちゅうじょう)を披瀝すると共に、只管(ひたすら)皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永久(とこしえ)にお別れも申し上ぐ。… 中略 …

 辞世の句 :

   国の為重きつとめを果たし得で、矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき

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戦前、戦中の日本人も軍部官僚も、いつかは「カミカゼ」が吹くと信じていました。そして、極力都合の悪いことからは目をそらしていました。精神主義に捕らわれていたのです。だから、栗林中将が決別電報の中で使った、(アメリカの)物量的優勢、徒手空拳、弾丸尽き水枯れなどという言葉は、あまりに現実的な言葉であったため、翌日の新聞発表では、すべて削除または改ざんされました。

また、辞世の句に使われた「散るぞ悲しき」は、軍人らしくない言葉として、「散るぞ口おし」に書き換えられました。

栗林中将は高級将校ですから、これらの言葉が当時の風潮からタブーであったことは十分承知していました。でも、現状を広く国民に知ってほしい一念で書いたものと思われます。

あれや、これや、それや。栗林中将は二万一千人の将兵に名誉を与えるために、後世の日本人に硫黄島でいかに兵士たちが愛する祖国のために戦ったかを語り継いでもらうために、いろいろな方策を取ったのです。

しかし、残念ながら、彼の願いは叶うことはありませんでした。

戦後60年、日本人は硫黄島をすっかり忘れてしまいました。栗林忠道という軍人など、あたかも存在しなかったかのようです。

そして、硫黄島の戦いが戦後60年の平和と経済的繁栄をもららしたという事実に至っては、それを知っている日本人はほぼ皆無でしょう。

「クイズ!百人に聞きました。さて、正解者は何パーセント?」

硫黄島の話は、これらのクイズ番組では、問題にならないでしょうね。だって、誰も答えられないから。

おそらく、100人に聞いても、1000人に聞いても、硫黄島で戦った兵士たちの歴史的業績を正しく評価をしている人はいないだろうなぁ~。

こんなことだから、だれも硫黄島で戦った日本兵士に感謝も敬意も払いません。

今なお、硫黄島の地下には、日本に帰ってこれない御柱が一万体以上あるんですよ。

忘恩ここに極まれり。

唯一、アメリカ国民によって、硫黄島の日本人兵士の勇敢な戦いが語り継がれていることが、彼らにとってせめてもの慰めでしょうか…。

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硫黄島の戦いを栗林中将が島に拝命されたころから長々と話してきましたが、いよいよ終局を迎えました。

栗林中将が最後にどのように戦い、そして戦場に散っていったかをお話します。

ところで、日本陸軍では、3月16日に栗林中将の硫黄島の功績を認め、大将昇格を決定しました。史上最年少の大将誕生でした。もっともご本人は大将になったことを知らなかったようですが…。これ以降は、栗林氏に敬意を払うため、栗林大将と呼びます。

3月16日に大本営宛に決別電報を打った翌朝、栗林大将は硫黄島に生き残っている全将兵に向かって呼びかける電報を発しました。

  (一)戦局は最後の関頭に直面せり

  (二)兵団は本十七日夜、総攻撃を決行し敵を撃砕せんとす

  (三)各部隊は本夜正子を期し各当面の敵を攻撃、最後の一兵となるも飽くまで決死敢闘すべし

  (四)予は常に諸子の先頭に在り

硫黄島の生還者であった玉田猛中尉の手記によると、3月17日に栗林司令部壕から出陣するときの様子は以下のようだったそうです。

栗林大将は左手に軍刀の柄を握りしめ、「…たとえ草を食み、土をかじり、野に伏するとも断じて戦うところ死中自ずから活あるを信ず。ことここに至っては一人百殺、これ以外にはない。本職は諸君の忠誠を信じている。私の後に続いて下さい」と述べられ、同夜司令部は出撃した。

こうして、栗林大将は500人の部下を連れて、戦場に向かったのでした。

ところが、この夜、栗林大将は総攻撃を仕掛けませんでした。なぜかというと、アメリカ軍包囲網が厳しく、出撃の隙を見つけることができなかったからです。

あくまでも無駄な死に方をしない。合理主義者であった栗林大将らしいですね。彼はバンザイ突撃ではなく、実質的な損害を少しでも多くアメリカ軍に与えることに、二万人の兵士の死に甲斐を求めたのです。

そして待つこと一週間。水も食料もなかったので相当つらかったと思います。アメリカ軍は日本の組織的抵抗は終わったと思い込み、包囲網を緩めました。この隙に栗林大将は500人の部下を率いて包囲網を脱出、海岸に沿ってすり鉢山へ南下、翌朝26日に海兵隊と陸軍航空部隊の野営地を急襲しました。すでに日本軍との戦闘は終わったと思っていたアメリカ兵たちは不意を突かれ、パニックに陥りました。約3時間におよぶ熾烈な接近戦の結果、アメリカ軍に死傷者170名の損害を与えました。そして生き残った日本兵は元山、千鳥飛行場に突入し、そこでほとんどが戦死しました。

アメリカ海兵隊戦史「硫黄島」では、この総攻撃を「3月26日早朝における日本軍の攻撃はバンザイ突撃ではなく、最大の混乱と破壊を狙った優秀な計画であった」と記しています。

「予は常に諸子の先頭に在り」

栗林大将は、この言葉とおりに、将兵たちの先頭に立って敵陣に突入しました。右大腿部を撃たれ、出血多量で亡くなったという説がありますが、彼の周りにいた部下たちもこの時の戦いで戦死してしまったので詳しいことはわかっていません。

ところで、中将や大将クラスの軍人が、一般兵士とともに戦うことはまずありません。マッカーサー元帥(上級大将)、ニミッツ海軍大将が一般兵士と戦うなんて考えられないでしょう。日本陸軍でいえば、東条英機参謀総長(階級・中将)や杉山陸軍大臣(階級・大将)です。彼らは兵隊は単なる駒だと思っている人たちですから、一般兵士と戦うなんて思ったこともないでしょう。

おそらく、大将で一般兵士と共に戦ったのは、世界中の近代戦争史を調べても、栗林大将だけだと思います。

栗林大将が硫黄島に赴任してきた時に決心した覚悟 - 常に兵士と共にあり - を最後まで貫きました。

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最後の総攻撃が終わり、生き残った日本兵士たちの聞き取り調査が行われました。そしてアメリカ海兵隊とスミス中将は、敵の最高指揮官が一般兵士に混ざって一緒に銃をもって戦ったことを知り、非常に感動しました。

そして、スミス中将は驚くべきことをやりました。

なんと、アメリカ軍のインフラ整備作業を一日ストップさせ、アメリカ海兵隊員に栗林大将の遺体を捜させたのです。

千鳥飛行場や元山飛行場にはおびただしい日本兵の遺体が散乱していました。

アメリカ軍は、それらの遺体を一体ずつ埋葬する時間がないので、工兵隊がそのまま路盤材とアスファルトを敷いて、滑走路を整備する予定でした。それを一日延期して、栗林大将の遺体を捜したのです。

戦場で戦うだけが戦争ではありません。戦争というのは総合戦なんです。敵陣地を占領したら、工兵隊がインフラ整備をし、爆撃機や警備隊を受け入れて、海兵隊は速やかに次の戦場に移動する。戦争に勝つために、これらの戦争計画をできるだけスピーディに行うことが必要です。

それを一日中断するということはすごいことです。

スミス中将は上層部と衝突する覚悟で、この決定を下しました。

彼は、勇敢に戦った日本兵士と、その日本兵士を率いてあくまで徹底抗戦をした栗林大将に敬意を表すため、せめて敵将の亡骸だけでも見つけて、べつにお墓を作り葬むってあげたいと思ったのです。

アメリカ海兵隊員は一日中、必死になって栗林大将の遺体を捜しましたが、見つかりませんでした。

なぜ見つからなかったかわかりますか?

栗林大将は、死後特別扱いをされることを嫌い、出陣前に身についていた階級章をすべてはずしていたからなんです。

死してなお、「兵士と共にあり」という覚悟を貫いたのです。

だから栗林大将の遺骨は今も他の兵士たちとともに硫黄島の地下にあります。

栗林大将が最後に奥様に宛てた手紙は、このような言葉で締めくられていました。

「…それではどうかくれぐれも(身体を)大切にして、できるだけ長生きをして下さい。長い間ほんとうによく仕えてくれて有難く思っています。(昭和20年1月21日付け 妻・義井あて)」

覚悟上の玉砕でした。

こうして、日米両軍にとって長い36日間の硫黄島の戦いは終わりました。

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全米を感動の渦に巻き込んだ一枚の写真。

星条旗を揚げた6名の兵士たちのうち3人が生きてアメリカに帰ることができました。彼らは太平洋戦争の英雄として、アメリカ国民に熱狂をもって迎えられました。

ところが、生還者の一人だった若者は、「ボクは国旗掲揚の時に、たまたまそこにいただけで、英雄じゃない!」と言って、英雄扱いされることを嫌い、生まれ故郷のウィスコン州のアンティーゴという小さな田舎町にさっさと帰ってしまいました。そこで彼は地元の葬儀屋に就職して地道に働き、その後自分の葬儀店を持つまでになりました。

彼の名前は、ジョン・ブラドリーと言います。

そう、このブログでもたびたび引用した、『硫黄島の星条旗』の著者、ジェームズ・ブラドリーの父親です。

ジョン・ブラドリーは1994年1月に心臓発作でこの世を去りました。

生前、ジョン・ブラドリーは、インタビューなどの申し込みなどをすべて断り、じつにストイックな人生を送った人でした。彼は硫黄島の話を家族にもしたがらなかったそうです。

そんな父、ジョンは一度だけ、まだ小さかった息子ジェームズに硫黄島について語ったことがあります。

そして、この話の中に彼の想いのすべてが込められています。

ジョン・ブラドリーは息子に言いました。

「ジェームズ、お父さんはヒーローなんかじゃない。

君にこれから言うことを、忘れずに覚えていてほしいんだ。

それは…

この戦争の本当のヒーローは、帰ってこれなかった男たちだ。」

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この言葉は、硫黄島の日本兵士にも同じことが言えます。

硫黄島で戦って亡くなられた二万人の日本兵士たちは、私たち日本人のヒーローなんです。

日本人はけっしてこのとこを忘れるべきではありません。

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あとがき)

お疲れ様でした。いつも長~いブログを読んでいただきまして、ありがとうございます。

日本人がなぜこれほどまで(見事?)に、硫黄島の兵士たちと栗林大将を忘れてしまったのでしょうか。それにはいろいろ理由がありますが、日本人社会にある硫黄島に触れさせたくない”力”の存在が大きいと思います。

皆さんはあまり気にしていないかもしれませんが、現在の日本社会を動かしているのは、60年安保騒動の世代の人たちなんですよ。

1960年の安保改定に反対し、多くの人たちが「アンポ!ハンタイ!」のシュプレヒコールを唱え、抗議行動を起こしました。改定の前日には国会や首相官邸は、32万人というデモ隊で埋め尽くされました。彼らの多くが学生でした。彼らは安保改定を阻止することはできませんでしたが、時の最高権力者であった岸信介氏を首相の座から引きずり下ろしたのです。

この時のデモに参加した学生たちは、真剣に国の将来を憂い、これらの行動を実行したのです。ある意味で、気概のある人たちでした。だから彼らが大学を卒業し社会に出たとき、実業界、教育界、マスコミ等々、それぞれの分野で出世していきました。そして彼らは現在、それぞれの業界で重鎮となっています。

彼らが死んでも認めたくないものがあります。

それは、日米安保条約が日本に戦後の平和と経済的な繁栄をもたらしたということです。

当たり前ですよね。

彼らにとって、安保改定は阻止できなかったけれど、時の最高権力者であった岸信介氏を首相の座から引きずり下ろしたことは、彼らの青春の勲章なのです。彼らはそれを誇りに思って生きてきました。ところが、「日本の繁栄が日米安保条約の賜物である」、なんてことになったら、岸信介氏は戦後の英雄になっちゃうし、彼らの青春を賭けた安保ハンタイ運動は茶番になってしまいますからね。それでは彼らの人生そのものを否定してしまうことになってしまいます。

ところが、どう考えても、いやどう考えなくても、日本の戦後の平和と繁栄は、日米安保条約なくしては、あり得なかったことが分かってきた。だから彼らはそれらを直視せず、無視することにしたのです。ましてや、日米安保を導いた硫黄島の戦いの歴史的業績評価なんて、とんでもない話なんです。だから彼らは国民に硫黄島の戦いについて本当のことを教えません。教えるとしても、残虐な戦いが行われたという感情面ばかりを強調して、その歴史的意義を教えません。

当然のことながら、日本国民は硫黄島について忘れていきました。

でも、今、世代交代の時期に来ています。安保騒動世代は定年を迎え、第一線を退きつつあります。

私たち若い世代は、彼らの人生を意義あるものとするために、欺瞞に満ちた彼らの歴史観に付き合う必要はありません。これからは、私たち自身の目でもう一度、昭和史を見直す時期に来ていると思います。

岸信介氏は、首相を辞任した日の朝、番記者にオフレコで言いました。

「安保改定が正しく評価されるには、五十年かかる。その時になったら、みんな、安保を改定してよかったと思うさ!」

再来年、2010年で安保改定50周年を迎えます。この機会にマスコミや教育界の意見に左右されることなく、自分自身の目でいったい日本人にとって安保条約とはなんだったのかを見直してみるべきではないでしょうか。

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次回も硫黄島の話を続けます。もうちょっとお付き合いを。

以前、「17世紀に生まれ、18世紀を支配した人」を書いたとき、ひょっとしたら、こんな長いブログを最後まで読んだ人は一人もいないんじゃないかと心配しましたが、今回は全然そんな心配していません。現在、定期的にアクセスしてくれる読者は100人くらいいます。この人たちは必ず最後まで読んでくれると確信しています。

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2008年6月 1日 (日)

硫黄島の遺産・その2

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本日は硫黄島を通して、アメリカ国民というのはどういう人たちかをお話します。

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硫黄島で日本軍とアメリカ軍が戦ったことを知っている日本人はわずかばかり。ほとんどの人たちは硫黄島の存在すら知りません。若い人たちの中には、硫黄島が韓国か台湾の島だと思っている人たちもいます。

硫黄島…。

アメリカ国民はこの言葉を聞くと、思わず背筋を伸ばし厳粛な気持ちになるそうです。

日本国民はすっかり硫黄島を忘れてしまいましたが、アメリカ国民は硫黄島をけっして忘れることはありません。

その一例を挙げましょう。

もし、皆さんの周りにアメリカ人がいれば、こう質問をしてみて下さい。

「あなたが今まで見た戦争写真で、もっとも感銘を受けたものは何ですか?」

ほとんどのアメリカ人がこう答えます。

「それは、硫黄島の星条旗です。」

彼らが言う「硫黄島の星条旗」という写真は、アメリカ海兵隊が硫黄島に上陸して四日目に、すり鉢という小高い山の頂に、六人の兵士が星条旗を立てた瞬間を写した写真です。

この星条旗を立てた兵士6名のうち、わずか3名しか生きてアメリカに帰れませんでした。硫黄島の戦闘の激しさがわかりますよね。

この写真がアメリカ国内で新聞紙上で報道された時、数百万人のアメリカ国民が釘付けになったと言います。この写真を見たアメリカ人は、いつ、どこで、どのような状況で見たかということまで詳細に覚えているとか。あたかも日本国民が、いつ、どこで、終戦の玉音放送を聞いたかを覚えているというのと似ていますよね。それほどこの写真はアメリカ国民に感銘を与えたんです。そして今なお、太平洋戦争を経験していない世代のアメリカ国民に感銘を与え続けています。

すっかり硫黄島を忘れてしまった日本国民。今なお硫黄島と聞くと厳粛な気分になるアメリカ国民。

このような違いがなぜ起こるか、理由がわかりますか?

それは、日本国民とアメリカ国民では、戦争と軍人に対する考え方がまったく違うからなんです。

日本の場合、戦争はまったくの悪なんです。戦争さえなければ平和であり続けると信じています。だから過去の戦争はあやまちであり、はやく忘れたい過去なんです。

アメリカの場合はどうかと言うと、戦争があるから平和や民主主義が保たれると考えています。そりゃ、彼らも戦争は嫌です。極力戦争はしたくない。でも戦争がなければ、平和も民主主義もあり得ない。

彼らにとって戦争は必要悪なんです。

必要悪だといっても、誰でも戦場で戦いたくないですよね。命を失うかもしれませんから。

だから、彼らは平和や民主主義を守るために戦ってくれる軍人に名誉を与えるんです。

名誉とは何か知ってますか?

名誉とは、感謝と敬意を表すことです。

彼らが硫黄島と聞くと、厳粛な気持ちになるのは、この戦いで3万人の海兵隊員が死傷したからです。一箇所の戦いでこれほどの死傷者が出たのは、ゲティスバーグの戦い(死傷者5万人)以来のことです。彼らは硫黄島で亡くなった多くの海兵隊員たちの勇気とその犠牲に対して、強い尊敬と感謝の念を覚えるから、厳粛な気持ちになるのです。

ゲティスバーグと言えば、彼らはゲティスバーグの戦いも忘れません。

南北戦争の中で最大の戦いが行われたゲティスバーグでは、毎年、南北の統一のために戦って亡くなられた兵士たちのために慰霊祭が行われます。その時、戦死した兵士たち一人ひとりの名前を読み上げ、アメリカ国民は感謝と彼らの勇気に敬意を表します。

ゲティスバーグの戦いが行われたのは、140年前ですよ!

驚くべきことです!

アメリカ国民は、140年前の兵士一人ひとりに名誉を与え、そして彼らを忘れまいとしているのです。

日本じゃ考えられませんよね~。

140年前というと、日清・日露戦争よりずっと前です。戊辰戦争のころです。

日本の新しい夜明けのために、この戊辰戦争で亡くなられたサムライ兵士たちのために、今の日本人が厳粛な気持ちになって、慰霊祭をおこなうということはまずないでしょう。

皆さんが映画やCNNで見て、知っているつもりになっているアメリカ国民って、本当はこういう人たちなんですよ。日本人とまったく違うでしょう!

アメリカ国民は、軍人に対して、敬意と感謝(名誉)を表すことをけっして忘れない人たちなんです。

特に、危険を顧みず、勇敢な行為を行い、名誉勲章(medal of honor)を贈られた軍人に対しては、特別に名誉を与え、永く忘れないように努力するんですよ。

最近の名誉勲章を受けた人では、マイケル・モンスーア(Michael Monsoor)海兵隊員の例があります。

2006年、9月29日、モンスーア海兵隊員は、イラクでアルカイダの掃討作戦に参加していました。

その日、モンスーア海兵隊員は、他の仲間6人(米国海兵隊員3名とイラク兵士3名)と、援護射撃をするため、近くの建物の屋上に配備されていました。

その時、モンスーア隊員の胸に、ポンっと何かが当たって、コロコロと屋根の上をころがりました。

それは手榴弾でした。

こんな時、皆さんならどうします?

普通だったら、その場から、ダッと離れて地面に伏せますよね。

彼はそうしませんでした。

モンスーア隊員は、逆にその手榴弾を追っかけて行って、その上に覆いかぶさったんです。

当然、彼の体の下で手榴弾は爆発し、彼は即死でした。

なぜ、彼がそのような行動をとっさに取ったのか?

6人の仲間が手榴弾の周りにいたからなんです。

彼は自分の命と引き換えに、仲間6名の兵士の命を救う道を選んだんです。

後日、モンスーア兵士の勇気を讃え、名誉勲章授与式がホワイトハウスで行われました。

ブッシュ大統領は、彼の両親に、"America owes you a debt that can never be repaid(アメリカはけっしてお返しすることのできない恩をあなた方から受けました)!" と言って、涙で顔をくしゃくしゃにしながら名誉勲章を手渡しました。これは全米にも放送され、アメリカ国民もモンスーア兵士のために泣きました。そして、アメリカ国民は2006年9月29日をマイケルの日と定め、永く彼に対する名誉を忘れないように決意しました。

アメリカ国民は勇敢な兵士には最大限の名誉を与えるのです。

皆さんの馴染みのある例をもう一つ。

いま、アメリカでは、ヒラリーさんとオバマさんの民主党大統領候補者選びが終盤を迎えていますよね。これは、民主党ではなく、すでに大統領候補者の権利を獲得した共和党のジョン・マケイン氏についての話です。

ニューズウィーク誌のワールド・ビューというコラムを書いているジャーナリストで、ファリード・ザカリア(Fareed Zakaria)という人がいます。

ザカリア氏は辛らつな批判をする人なんです。民主党の大統領候補であるヒラリー女史やオバマ氏などは皮肉を込めて痛烈に批判をします。

でも、ジョン・マケイン氏を批判する時には、ちょっと違った書き方をします。5月5日号のニューズウィーク誌では、彼はジョン・マケイン氏を批判する際に、このような前置きを書きました。

"I write this with sadness because I greatly admire John McCain, a man of intelligence, honor and enormous personal and political courage. But …(私は、知的な人であり、名誉のある人であり、かつ個人的および政治家として勇気があるジョン・マケイン氏を尊敬しているので、これを書くのは悲しいのですが…)"

また、タイム誌やニューズウィーク誌の読者の投書欄も同様です。一般読者がマケイン氏を批判する前には、ほとんどの人が、「マケイン氏は名誉ある人で、個人的には尊敬していますが、しかし…」って、書き方をします。

なぜ、みんな、マケイン氏に気を遣うか知っていますか?

実は、マケイン氏は元軍人で、しかもベトナム戦争の英雄だからです。

1970年、ベトナム戦争に参戦していたマケインは、操縦していた航空機が撃ち落され、南ベトナムで捕虜となります。彼は航空機から脱出の際に負傷したのですが、病院に入れられることなく、ハノイの刑務所に送られて拷問を受け、なんども生死の境をさ迷いました。その後、南ベトナムは彼が海軍大将の息子であることを知り、南ベトナムが人道国家であることをピーアールするために、マケイン氏を釈放しようとしました。

ところが、マケイン氏は釈放を拒否。この時に彼が言った言葉が、有名な "First in, first out(最初に捕まった捕虜を最初に解放すべし)" でした。そして、彼はその後も拷問に耐え続け、ベトナム戦争終了のパリ協定で釈放されるまで、5年間の捕虜生活を送りました。

5年間の捕虜生活で、彼の髪は白くなり、両腕は肩より上に上がらなくなってしまったとか。すさまじい拷問だったんですね。それでもその拷問に屈しなかったマケイン氏の不屈の闘志と精神力の強さに、アメリカ国民は尊敬の念を抱いているのです。だから彼らがマケイン氏を批判するときは、ちょっと前置きをするんですよ。

話が少し逸れてしまいましたが、類まれな勇気のある行為に対しては、アメリカ国民はこの様に敬意と感謝を表します。

それをもっとも表したものが、名誉勲章なのです。軍人にとって最高の名誉であり、めったに取れるものではありません。

ところが、この硫黄島ではゴロゴロと名誉勲章を贈られた兵士が続出しました。

第二次世界大戦の4年間に、87個の名誉勲章が贈られました。そのうち28個の名誉勲章が硫黄島のたった一箇月の戦いで出たのです。三分の一にあたる数です。

先ほど、「硫黄島の星条旗」の写真の話をしましたが、現在この写真をもとに、国立アーリントン墓地の入り口に、星条旗を立てる6人の海兵隊員の彫刻が飾られています。その台座のところに、合衆国太平洋艦隊の司令長官だったチェスター・ニミッツの言葉が刻まれています。

"Uncommon Valor was a Common Virtue (硫黄島で戦ったアメリカ海兵隊員にとって、非凡な剛勇が平凡な美徳であった)."

勇猛果敢で知られるアメリカ海兵隊が、名誉勲章に値する勇敢な行為が普通になるほどの勇気を出さなければ、硫黄島は落とせなかったのです。

それほどすさまじい戦いだったということです。

ここまでお話しすると、アメリカ国民がどういう人たちか理解いただけたので、彼らにとって硫黄島がどのような存在かおわかりいただけたかと思います。硫黄島は彼らにとって神聖な聖地になっているのです。アメリカ国民は、硫黄島と聞くと、自然に背筋を伸ばし、厳粛な気分になってしまうのがわかるでしょう。

アメリカ国民というのは不思議な連中です。

彼らが勇敢な軍人に敬意を表すのは自国の兵士だけではありません。

なんと!日本兵に対しても敬意を表すのです。

アメリカ国民は、日本兵が硫黄島で水も食料もなく、灼熱地獄の穴倉で耐えながら、戦っていたことを後から知り、日本兵の精神力の強さに底知れぬ恐怖を感じました。そして、日本とは二度と戦いたくない…って、思ったんですね。

ところが、それと同時に、彼らは硫黄島で戦った日本兵に対して、尊敬の念も持ったのです。

硫黄島で負傷し米軍捕虜となった大越晴則さんは、サンフランシスコ、シカゴ、ハワイなどの捕虜収容所を経て、昭和22年に復員しました。彼は硫黄島で戦った時、まだ17歳でした。ところが、彼がイオウトウ・ソルジャーとわかると、どの収容所でもアメリカ軍人から一目置かれたと言います。「イオウトウ・ソルジャーとカミカゼ・ソルジャーは別だ!」って言われたそうです。

やはり、捕虜となった石井周治さんは、サンフランシスコの収容所での経験を次のように回想しています。

 ある日のことでした。ガードの一人が、「オマエは一体どこで捕虜になったのか?」

 と聞くので、

 「硫黄島で…」

 と答えると、ガードは一瞬ハッとするように顔色を変えて銃を持ち直した。我々の方が逆にびっくりした。(『硫黄島に生きる』より)

恐怖と尊敬の入り混じった複雑な心境…。それが当時のアメリカ国民が硫黄島の日本兵に持つ感情だったのです。

今でも、アメリカ軍人は、硫黄島の生き残りの元日本兵に会うと、相手がどんなにヨボヨボであろうとも、襟を正して直立不動の姿勢で敬意を表すそうです。

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硫黄島を通して、アメリカ国民がどういう人たちかを語りましたが、戦争や軍人に対する感覚が日本と相当違うことがお分かりになりましたでしょうか?

最後に、もし、皆さんの周りにアメリカ人がいたら、このように質問してみてください。

「太平洋戦争で、もっともアメリカを苦しめ、それゆえアメリカ人からもっとも尊敬されている日本の軍人はだれですか?」

山本五十六や東条英機ではありませんよ。

おそらく、こう答える人が多いと思います。

ジェネラル・クリバヤシ…。

彼らがジェネラル・クリバヤシというのは、栗林忠道という軍人です。

栗林忠道中将は硫黄島で日本軍の指揮を取り、アメリカとの陸海空の物量的差にもかかわらず、奇跡の戦いを起こした人です。

ほとんどの日本人は、栗林忠道という名前を知らないだろうな…。

この人はアメリカでは、名将十傑に選ばれている人で、特に軍関係者から尊敬を受けている人なんです。

栗林忠道中将は、残念ながら日本人にはすっかり忘れられてしまいましたが、今なおアメリカ人のこころの中で、偉大な軍人として生き続けています。

次回は、この硫黄島の最高司令官・栗林忠道中将についてお話したいと思います。

ちょっと、いや、かなり右翼っぽくなっていますが、ご興味のある方は、keep in touch with をお願いします。

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あとがき)

文中にも書きましたが、軍人に名誉を与えるとは、敬意と感謝を表すことなんです。

この名誉を軍人に与えることは、アメリカだけでなく、どのこの国でも行っています。誰でも戦場で戦いたくないものです。その嫌な仕事をしてくれるのが軍人なんです。だからどこの国でも国民は感謝と敬意を軍人に払います。

日本だけが軍人に名誉を与えません。

かつて小泉純一郎首相が、「靖国には心ならずも戦争に行って亡くなられた方がいるので、その御霊を慰めるために」、と言って、靖国神社を訪問しました。この時、生きている英霊とも言える、小野田寛郎さんが怒りました。「心ならずもとは何事か!」

小野田さん曰く、

「ボクは嫌々戦場に行ったんじゃない。愛する日本を守るために自ら進んで戦場に行ったんです。もし、そこで死んだとしたら、死ぬ気で死んでいったんです!」

亡くなられた兵士を哀れむことが慰霊ではありません。感謝と敬意を表すことが彼らの慰霊になるんです。名誉を与えることなんです。

自衛隊も同じです。彼らにも名誉を与えるべきではないでしょうか。

彼らがサマーワで任務を終えて帰国したとき、反戦市民団体が憲法違反のデモを行い、TVのレポータは茶化したような報道をしました。

日本で迎えた自衛隊の家族は、「父親が、夫が、命を賭けて任務を遂行してきたのに…」って、悔し涙を流したそうです。

軍人がなぜ命を賭けて戦えるか。皆さんは考えたことがありますか?

名誉があるからなんです。軍人は名誉のために死ぬんですよ!!!

名誉を与えない日本の自衛隊が、有事の際に、果たして私たちのために命を賭けて戦ってくれるかどうか、甚だ疑問です…。

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2008年5月25日 (日)

硫黄島の遺産・その1

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1989年2月23日の夜、私は会社の同僚と新橋のガード下で、お酒を飲んでいました。

読者の皆さんはお上品な方が多いでしょうから、新橋のガード下の飲み屋街なんて行ったことがないかもしれませんね。屋台が連なっており、料金が安いので、私のような貧乏サラリーマンなどが行きます。ちょっと人生の悲哀を感じるような飲み屋街なんです。

その日は小雨混じりの天気で、とても寒い日でした。コートを羽織ったまま二人で焼き鳥をつまみに、熱燗を飲んでいました。

なぜ、2月23日なんて日時を正確に覚えているかというと、翌日が大葬の礼がとりおこなわれる日だったからです。

若い人たちは記憶がないかもしれませんが、1989年の1月7日に昭和天皇が崩御され、2月24日に大葬の礼(天皇陛下のお葬式)が行われたんです。世界127ヵ国の元首が出席しました。アメリカ合衆国の大統領・ブッシュパパ、フランス大統領のミッテラン、イギリスのエジンバラ公など、世界中のMVP(ん、VIPだっけ?)が集まったのは、この時だけです。

2月24日は公休日となり、テレビのメディアはコマーシャルを自主規制し、日本国民はすべてその日は喪に服したのです。

いわば2月23日は、昭和という時代が幕をおろす直前の日だったのです。

本来であれば、さっさと帰宅して喪に服さなければならないのに、ノー天気な我々は、「明日は休みだから、ちょっと飲みに行っちゃおうか!」ってなノリで、新橋のガード下の飲み屋街に繰り出したのでした。(不謹慎ですよね。)

さすがに、翌日は大葬の礼が行われるとあって、屋台の飲み屋街は人通りも少なく、閑散としていました。そんなうら寂しい飲み屋街で我々が飲んでいると、

「御いっしょさせてもらっていいですか?」

と、一人の男性が声をかけてきました。

振り返ると、なんと!外人。

友人は英語はしゃべれないし、当時私も30歳から英語のやり直しをしたばかりで、英会話には自信がありませんでした。だからちょっとドギマギしちゃいましたが、この外人は日本語が堪能だったので安心しました。

「どうぞ、どうぞ」ということで、新橋のガード下には似つかわしくない外人を含めた三人組が屋台でお酒を飲み始めました。

彼はドイツのジャーナリストで、大葬の礼を報道するために日本に来たということでした。

彼はむかし日本の大学に留学しており、そのころ彼の友達とよく新橋のガード下に飲みに来ていたそうです。この日も報道クルーと最終打ち合わせをしたあとに、彼が宿泊していたホテルが新橋に近かったので、なつかしいガード下に来てみたとのことでした。

彼は日本語が堪能だけでなく、日本の歴史もよく知っていました。

彼は日本の昭和という時代を語り始めました。

日本は第二次世界大戦で、ドイツを裏切らずに最後まで同盟国であったことを感謝しておいると言いました。

そして、日本の戦後について、彼は驚くべきことを言いました。

「日本は太平洋戦争で、ひょっとしたらアメリカに勝ったんではないだろうか?」

私は、「なぜ、そう思うの?」と、訊きました。

彼の話を総合するとこういうことでした。

通常、戦争が終わると、戦勝国と敗戦国のあいだで、講和条約が結ばれますが、その条約の条件は敗戦国にとって不利なものとなります。戦勝国は敗戦国に対して、賠償を要求し、領土の割譲を求めるのが普通です。

ところが、日本とアメリカの戦後の取り決めを見ると、どれもこれもアメリカに不利なものばかりで、敗戦国は日本ではなく、アメリカに思えてしまうということでした。

戦後、アメリカは日米安保条約を結び、一方的に日本を守ることを約束しました。そのため日本は軍備にお金をかけることなく、経済に専念することができました。またアメリカは日本に対して賠償金を要求することなく、それどころか日本を特恵国とする特別な法律を作り、日本から優先的に輸入することによって、日本の経済支援をしました。

同じ軍事同盟を結んでいる韓国は大変だったそうです。

朝鮮戦争はもとより、ベトナム戦争のときも、韓国軍は刈りだされて、アメリカ軍といっしょにベトコンと血みどろの戦いをしなければなりませんでした。朝鮮戦争のときも、ベトナム戦争のときも、日本は何をしていたかというと、ぬくぬくと戦争特需を受けて経済活動に専念していたのです。

その結果どうなったか?

日本は短期間で経済復興を成し遂げ、一時国民一人当たりのGNPがアメリカを抜き、世界第一の経済大国になったのです。

また、アメリカは占領した沖縄を返還しました。

未だかつて歴史上、戦争で得た領土を自主的に戦勝国が返還した例はないそうです。アメリカが日本に対して気を遣っているように見えますよね。

これらを総合すると、彼にはどうしても、太平洋戦争でアメリカが日本に勝ったと思えないということでした。

私はこのドイツ人に教えてもらうまで、安保条約が日本に有利な条約だと考えたことがありませんでした。

私が小学校の低学年のころに、安保改定騒動があり、「アンポ!ハンタイ!」のシュプレヒコールが日本国中鳴り響いていました。だから安保条約というのは、不平等条約と思っていましたし、安保改定をした岸信介は極悪人だと思っていました。たしか、岸信介が首相を辞任した数日後に、暴漢に襲われてナイフで刺された時は、「ざま~見ろ!当然の報いだ!」ってな雰囲気が世間にあったように記憶しています。

たぶん、このブログを読んでいる読者の皆さんの中にも、安保条約が不平等条約だと思われている人たちが多いのではないでしょうか。

これ、安保条約を読んだことがないからなんですね。

もし私たちがこのドイツ人のように、ちゃんと安保条約を読むと、安保条約が日本にとって有利な条約であることがわかります。極東地域で国際紛争が起きた場合は、アメリカは軍隊を出して日本を守ることが義務付けられています。それに対して日本は憲法の範囲以内で協力するだけです。アメリカがどこかの国から侵略を受けても、日本はアメリカに軍隊を送らなくっていいんです。一方向なんです。アメリカがテロに攻撃されても、本来日本は軍隊を出す義務はないんですよ。(現在の海上給油やサマワへの自衛隊派遣はお付き合いでしているだけで安保条約とは関係ありません。念のため。)

言い方を変えると、安保条約は逆不平等条約になっているんです。アメリカにとって不利な条約なんです。

なぜ、アメリカは安保条約という不利な条約を結び、そして日本を経済援助したのでしょうか?

ドイツ人ジャーナリストだけでなく、普通に考えると誰でも不思議に思いますよね。

これ、後年いろいろな本を読んで、理由がわかりました。

硫黄島の戦いがあったからなんです。

硫黄島…。

ほとんどの日本人が硫黄島の戦いを忘れてしまいました。若い人の中には、硫黄島を韓国の島だと思っている人もいるとか。

アメリカ人は硫黄島をぜったに忘れません。硫黄島と聞くと、アメリカ人は思わず背筋を伸ばし、厳粛な気分になるそうです。

硫黄島の住所は、東京都小笠原郡硫黄島。れっきとした東京都内です。

周囲は22キロと小さな島ですが、この小さな島で、かつてない激しい地上戦が行われました。

なぜ、この島で激戦が行われたかというと、硫黄島がグアムと東京を結ぶ直線上の中間点にあったからです。グアムにはB29という大型爆撃機がありましたが、東京を空襲するには、グアムー東京間の3000キロという距離は長すぎました。どうしても中間拠点が必要だったのです。だからどうしてもアメリカは硫黄島を取る必要がありました。

それまで、アメリカはアッツ、タラワ、キスカ、グアム、サイパン、テニアンといった島を次々に落としてきました。だいたい5日から2週間くらいで日本兵は玉砕しました。

これまでだと、上陸時に激しい戦闘がありますが、いったんアメリカ軍が上陸すると、その夜に日本軍は「バンザイ」突撃を仕掛けて、玉砕するのがパターンでした。

アメリカは硫黄島の補給路をすでに断っていました。

日本軍には食料も弾薬もほとんどないことを知っていました。それに比べて、アメリカ軍は食料も豊富にあり、戦車もあり、また海上からの砲撃や空からの空爆もできました。アメリカ軍の戦力は日本軍をはるかに超えていました。

だからアメリカはこれまで落としてきた島々より簡単に硫黄島を落とせると思っていました。せいぜい5日くらいで日本兵はバンザイ突撃をして全滅するだろう安易に考えていたのです。

日本軍二万人に対して、アメリカは五個師団(約十万人)を硫黄島に送り込み、三個師団(約六万人)を上陸させました。

圧倒的な人数ですよね。

ところが、これまでのパターンと違い、硫黄島の日本兵はバンザイ突撃を仕掛けてきませんでした。

替わりに、硫黄島の日本兵は地下道を掘り、組織的なゲリラ戦で36日間にわたって接近戦を挑みました。

その結果、日本人二万人の死傷者に対し、アメリカはそれを上回る三万人の死傷者を出してしまったのです。

アメリカ国民は戦慄しました。

硫黄島のアメリカ軍の死傷者数は、第二次世界大戦の史上最大の作戦と言われたノルマンジー上陸戦をはるかに越えるものでした。アメリカが一箇所の戦いでこれほどまでの被害を出したのは、南北戦争のゲティスバーグ以来のことだったんです。

だから、日本兵はなんて強いんだ!って、アメリカ国民は恐怖を感じたんです。

彼らは戦争を研究する国民です。日本軍が玉砕した後に、硫黄島を隈なく調べました。

そして日本兵がどのような状態で戦っていたかが徐々にわかってくるにつれて、さらに恐ろしくなって震えが止まらなくなっちゃったんです。

硫黄島はその名の通り、島全体が火山の上にある島です。したがって地下の中は40度から50度くらいの温度があります。

しかも硫黄島には川がありません。

飲料水は雨による貯水に頼るしかないのですが、地上戦が始まってからは外に出て行くことができないので、ほとんど水なしの状態で戦わなくてはならなくなってしまったのです。

アメリカ兵が近づいてくると、日本兵は突然穴から出て行ってゲリラ戦を仕掛けるのですが、それまで日本兵はほとんど水も食料もなく、高温の穴倉に隠れてじっとしているんですよ。

このつらさがわかりますか?

特に水がないことほど苦しいものはありません。しかも穴の中は高温多湿。水なし食い物なしでウェット・サウナに入っていることを想像して下さい。普通だったら気が狂っちゃいますよ。それこそ破れかぶれで、「バンザイ」突撃をしたくなっちゃうと思いませんか?

でも、日本兵はそれに耐え、戦い抜いたんです。

すごい精神力だと思いませんか?

硫黄島から生還したアメリカ兵も日本兵も、「この世の地獄だった」って言います。

でも、アメリカ兵と日本兵では、地獄の意味が違うんです。

アメリカ兵の地獄は仲間が次々と死んでいくことでしたが、日本兵の地獄は生きることだったんです。

それほど渇水がつらかったんです。

でも彼らは「バンザイ」突撃をしませんでした。彼らは、潔い死を死ぬよりも、生きる地獄を選んだんです。

なぜだかわかりますか?

彼らは自分たちが戦っている間は、日本に空爆は行われないと信じていたからなんです。

自分たちが生きている間は、お年寄りや女性たち、そして子供たちが空襲を受けて、逃げ惑い、死ぬようなことが起きないと思っていたからなんです。

愛する家族が住む日本を守りたい!って、彼らはひたすら願っていました。

だから、潔い死を死ぬよりも、地獄の生を生き、できるだけ長くアメリカ軍と戦おうと決心したんです。

そして日本兵は36日間も戦い抜きました。戦場で倒れた日本兵はほとんどミイラのようにやせ細っていたそうです。

その結果どうなったか。

アメリカ国民は日本兵の精神力の強さに、底知れぬ恐怖を感じたのです。そしてこう思いました。

二度と日本とは戦いたくない…。

硫黄島の兵士たちがアメリカ国民にこう思わせたから、戦後、アメリカは日本に軍隊を持たせず、安保条約によって一方的に日本を守ることを約束したのです。スターリンが北海道を占領させてほしいと言ってきた時も、アメリカはこんな強い日本国民の一部を東側に取られるなんてとんでもない!ってことで、拒否しました。だから日本は朝鮮やドイツのように分断されずに済みました。また、貧困からヒトラーのような独裁者が現れるのを恐れたため、アメリカは日本に対する賠償金を要求することを諦め、逆に日本を特恵国とする法律を作り、優先的にアメリカに日本製品を輸入することによって、日本を経済援助しました。

朝鮮戦争やベトナム戦争が起きても、アメリカは日本に対して出兵を要求しませんでした。あの強い日本軍が復活することを恐れたためです。

あれも、これも、それも、すべて硫黄島で日本兵が地獄を生きて戦ってくれたおかげです。

だから、今の日本の繁栄は硫黄島で玉砕した日本兵二万人の犠牲の上になりたっているのです。

米国太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツは、硫黄島と同様にペリリュー島の地下壕を構築して戦い、そして玉砕していった日本兵を讃えるために、島に碑を建てました。

そこにはこのように碑文が刻まれています。

   「諸国から訪れる旅人たちよ、

   この島を守るために日本軍人が

   いかに勇敢な愛国心をもって戦い

   そして玉砕したかを伝えれよ」

これは、硫黄島の兵士たちにもあてはまります。

硫黄島にはまだ日本に帰って来れない一万体の御柱が洞窟の中に横たわっているんですよ!

日本人はアメリカ国民のように、硫黄島で戦われた日本兵士たちへの敬意と感謝をけっして忘れるべきではありません。

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あとがき)

硫黄島の戦いは戦後の日本の原点なのです。

それにもかかわらず、学校の教科書では硫黄島の話は出てきません。あったとしてもほとんどが反日史観から、その悲惨さばかりを強調して、硫黄島の兵士たちがどのよう気持ちで戦い、そして彼らの成し遂げた歴史的業績を教えません。だから、日本人は硫黄島の兵士に感謝することもなく、どんどんと硫黄島を忘れていきます。

端的な例が硫黄島の呼び名です。

ほとんどの日本人が硫黄島の呼び名すら忘れてしまいたした。

おそらくこのブログを読んでいる読者も、硫黄島を「イオウジマ」と読んでいると思います。

これ、間違いです。

硫黄島の正式名称は、「イオウトウ」です。

戦前に硫黄島に住んでいた住民も、硫黄島で戦った兵士も、そして当時の日本国民も「イオウトウ」と呼んでいました。なぜ、「イオウジマ」というようになったかというと、アメリカ軍にいた日系アメリカ兵の通訳が間違えて、「イオウジマ」と訳してしまったからです。ところが、戦後日本人は硫黄島を忘れてしまったため、アメリカ人が発音する「イオウジマ」が正しい呼び名だと勘違いしてしまったのです。

このブログ記事を書いている時でさえ、パソコン画面に硫黄島と書こうと思うと、「イオウジマ」とローマ字入力しないと硫黄島という漢字が出てきません。「イオウトウ」では登録されていません。それほど日本人は「イオウジマ」が正しい呼び名だと思い込んじゃってるんです。

これからは、正しく歴史を見直すために、次回から皆さんだけでも正しい呼び名、「イオウトウ」と読んで下さいね。

本日は硫黄島の戦いの概要を簡単にお話しましたが、次回はもう少し詳しくこの硫黄島の戦いを見ていきたいと思います。

to be continued です。

・ 

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2008年1月13日 (日)

17世紀に身を置き18世紀を支配した人

アメリカでは毎年と言っていいほど、銃の乱射による事件が後を立たない。

昨年の4月にバージニア工科大学で起きた銃による乱射では、32人もの教員や学生たちが殺された。また今から8年前に起きたコロラド州立高校の銃乱射を覚えている読者も多いだろう。

大規模な乱射事件が起きるたびに、アメリカ国内では銃の規制を立法化しようという声が上がるが、いつのまにかそれらの運動が中途半端に終わってしまう。

「アメリカ人ってなんて野蛮な人種なんだ!」って思われる読者も多いだろう。あるいは銃規制に反対する全米ライフル協会は、「なんて力のある圧力団体なんだ!」って思われている読者もいるかもしれない。

ところが、この銃規制が進展しない本当の理由はもっと別のところにある。

このことを知っている日本人って案外少ないのではないだろうか。

アメリカが銃規制を断行できない理由は、銃規制が民主主義の根幹にかかわる問題だからなのである。

「えっ!なんで平和な民主主義が銃と関係あるの???」って思われる読者も多いと思う。

そう思われて当然である。というのは、

我々日本人が学校で教わってきた民主主義と、アメリカ国民が学校で学んできた民主主義がまったく違うからなのである。

端的に言うと我々日本人に見える民主主義の風景とアメリカ国民に見えている民主主義の風景が違うのである。

ちょっとむつかしいと思うので、たとえをつかって説明しよう。

たとえば、健康。

我々は健康というと、あたかも健康という「物」が存在しているように考えがちであるが、健康という「物」が存在しているわけではない。

健康をどのようなものであるかという捕らえ方、考え方なのである。

健康の見方には二通りあると思う。

一つは外側から見た健康。

顔色が良く、元気ハツラツで、ご飯もおいしく食べられる。身体のどこにも痛くはなく、自由に動かすことができる。このような状態を外から見て、健康の存在を実感する人もいるであろう。いわば外面から見た健康である。

これと同様に、日本人は外側から見た「状態」として民主主義をとらえる。

憲法が存在し、司法、行政、立法の三権に権力が分離され、普通選挙が行われて、、国民が選んだ人たちによって国会で法律が作られていれば、民主主義の国家であると日本人は考える。

もう一つの見方は、内側から見た健康である。

健康というのは、外側から見ただけではわからない。元気ハツラツで顔色も良く、ご飯もおいしく食べられたとしても、ひょっとしたら身体の内側では、脂肪が内臓にびっしりとへばり付き、高血圧で、血はドロドロになっているかもしれない。こんな状態であれば、けっして健康とは言えないだろう。適度な運動をして節制をこころがけ、適度な体重を維持し、体内では血がサラサラに流れて、はじめて健康と言える。その結果として、外側からみた血色の良さや、元気ハツラツで、おいしく何でも食べられるということなのである。

アメリカ国民の民主主義の見方はこれに近い。

アメリカ国民は民主主義を内側から見る教育を受けてきているのである。それはずばり言うと、民主主義の精神を学ぶということである。

アメリカ国民は民主主義の精神が国民一人ひとりに行き渡り、各個人がそれにしたがって行動することにより、はじめて健全な民主主義の社会が実現されると思っている。

彼らはその結果として、憲法や三権分立や議会政治があると考えているのである。

だからアメリカ国民は、議会のシステムや憲法、選挙制度といったことを学ぶ前に、民主主義のバックボーンにある思想や、民主主義社会にいたる歴史といったことを学ぶことがより重要だと思っている。

日本の民主主義とアメリカ合衆国の民主主義は表面上は似ているが、アメリカ国民にはあるべき姿の民主主義の風景が我々日本人とはまったく違って見えているのである。銃規制ひとつをとっても、日本人とアメリカ国民の民主主義の考え方が違うのは当然のことなのかもしれない。

我々日本人は高校生のころに、倫理社会(いまはこう言わないのかな?)で、日本国憲法や国会のシステム、三権分立の制度などを学ぶ。わずか5~6時間の授業でこれらのことを学習し、これが民主主義のすべてだと思っている。

片やアメリカ国民は、民主主義の精神がすべての国民に行き渡らせなければならないと思っている。だから彼らは小さい頃から歴史の中から民主主義の思想の変遷を教え、民主主義の精神を心の奥深くに植え込もうとする。

アメリカ国民が学校で子供たちに費(つい)やす民主主義教育の時間は日本の比ではない。

オジサンのブログ記事「歯止め」でも紹介したが、アメリカ国民は子供たちが幼稚園にあがる年齢になると、民主主義の思想が凝縮されているリンカーンのゲティスバーグの演説や、トーマス・ジェファーソンの独立宣言書などを暗唱させられる。そして高校生になるまで、ヨーロッパの民主主義にいたる歴史や、独立戦争における歴史を徹底的に繰り返し教えるのである。そうすることによって子供たちに民主主義の精神を注入していく。

アメリカ国民は、国民一人ひとりに民主主義の精神が根付くことによって、民主主義社会が健全に維持されていくと考えているのだ。

アメリカの大学には初等科の数学のコースがあるという。

大学に入学したばかりの生徒の中には簡単な代数の計算すらできない学生がいる。初等科の数学コースはそれを補うためのカリキュラムである。アメリカでは小学校、中学校、高校の算数や読み書きの時間を削ってでも、この民主主義の歴史を教えるためにこのような学力不足の生徒たちがでてきてしまうからだ。それくらい彼らは民主主義教育に時間をかけるのである。

以前、「徘徊する怪物」というオジサンのブログ記事に、アノーピさんというアメリカに在住の日本人の方からコメントをいただいたことがあった。アノーピさんにはハイスクールに通う息子さんがおり、息子さんは三権分立を提唱したモンテスキューの「法の精神」を学校の授業で読んでいるとおっしゃっていた。

日本ではモンテスキューは、「モンテスキュー」 → 「法の精神」 → 「三権分立」 という具合に、言葉の連想ゲーム的程度にしか学校で教えないと思う。「法の精神」を読ませる学校はほとんどないのではないだろうか。そんなに詳しくつっこんだら、日本では広く浅く知識を求められる穴埋め形式の大学入学試験に合格しなくなってしまうからだ。

アノーピさんがおっしゃるには、息子さんの民主主義教育はそれだけではない。民主主義の重要性を学ぶために、第二次世界大戦で命をかけて戦い、民主主義を守り抜いた退役軍人の慰問もしていると教えていただいた。このようにアメリカでは、日本では考えられないような膨大な時間をかけて、歴史の中から子供たちに民主主義の精神を教えるのである。

これはオジサンの経験からであるが、不思議なことに我々日本人であっても、彼らのように民主主義を民主主義の精神の中でとらえるようにすると、民主主義というものがまったく違って見えてくるのである。

このような民主主義の捕らえ方をすると、銃規制の問題だけでなくアメリカという国がいま世界でどのようなことをしようとしているかが見えてくる。それだけではない。今日本で起きている不祥事などが、実は民主主義の根底を揺るがす重大な問題であることがわかってくる。現在の日本は憲法を持ち、三権分立がなされ、議会政治が行われており、表面上は民主主義国家のように見えるが、実際には内側に流れる血液はドロドロで、内臓には脂肪がびっしり張り付いて、メタボリック症候群に陥っていることに気付くはずだ。

そこで本日は、みなさんといっしょに、アメリカ国民と同じように民主主義を民主主義の精神の中で見ていきたいと思う。

これによっておそらく皆さんにもアメリカ国民と同じ民主主義の風景が見えてくるだろうと思う。

.

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民主主義の精神がもっとも発揮された時代は、偉大なジョージ・ワシントンと建国の父たちが起こしたアメリカ独立戦争のときである。

だからアメリカ国民はこの時代の歴史を学校で何度となく繰り返し教わるのである。

このころのヨーロッパの国々の王様は強大な権力を持っており、絶対主義と呼ばれた時代であった。17世紀のイギリスの政治哲学者、トーマス・ホッブズはこの権力を聖書のヨブ記にでてくる伝説の怪物、リバイアサンにたとえるほど、当時の王様は強大な権力を持っていた。アメリカ13州はこの強大な権力を持っていた王様から独立を勝ち取ったのである。

民主主義の精神とはなにかをお話する前に、予備知識として、中世の後半から近代の初期までのヨーロッパの歴史の中で、このリバイアサンとも言える強大な権力者がどのように登場してきたかを簡単におさらいしておこう。

えっ、歴史は苦手だって!

大丈夫。オジサンも高校生のころは暗記科目が苦手で、特に歴史は及第点ギリギリだった。

大学入試に合格するためには細かなことを知らなければならないかもしれないが、民主主義のバックボーンを知るためには、そのように重箱の隅をつっつく必要はない。大きな流れを物語のように覚えておけばそれで十分。

それでは中世後半から近代初期までの歴史の物語を語ろう。

ローマ帝国が崩壊したあとのヨーロッパは分裂し、封建領主といわれる非常に多くの権力者たちが群雄割拠していた。そしてその封建領主のためにヨーロッパの人口の九割以上を占める農奴と呼ばれる人たちが土地を耕して農作物を作っていた。

農奴という言葉は世界史の授業で聞いたことがあると思うが、ほとんどの人たちが、農奴とは単純に農業をする奴隷と思っているのではないだろうか。農奴と奴隷は同じではない。

ここでちょっとアメリカに存在した奴隷と中世ヨーロッパの農奴との違いを述べておこう。

実はこの違いがあとになって歴史の流れの中で大きな意味を持ってくるからだ。

アメリカにいた奴隷は家畜と同じだと見なされていた。

だから主人は奴隷たちを意のままに扱うことができた。必要なければ売り払っても良いし、処分しても良かった。1980年代に50%という驚異の高視聴率をあげたルーツというドラマがあった。著者アレックス・ヘイリー氏の自伝的小説をドラマ化したものであった。オジサンと同じ年代か、あるいはそれ以上の世代であれば覚えているかもしれない。アレックス・ヘイリー氏の先祖であるクンタキンテという黒人が、西アフリカで奴隷商人たちに拉致されアメリカに連れてこられ、ある農園主に売られた。クンタキンテはキンテ族の王子で誇り高き戦士であった。奴隷である身分に耐えられず何度か脱走を企てるがいずれも失敗してしまう。そして農園主はこれ以上逃亡を企てないように、クンタキンテの片方の足の甲を切り落としてしまったのだ。こうしてクンタキンテは自由になることを諦め、奴隷として農園で働かなければならなくなってしまった。

その後、クンタキンテは種の保存のために、同じ農園で働く奴隷の女性となかば強制的に結婚させられ、そして女の子が生まれた。こうして奴隷の身ではありながら、愛する妻と娘の3人の幸せな生活を送ることになった。ところがその幸せな生活も長くは続かなかった。娘が成長し働ける年頃になると、農園主はクンタキンテ夫婦から娘を引き離し、市場で売ってしまったのである。

「なんてひどいことを!」って、多くの皆さんは思われるかもしれない。

しかし当時のアメリカでは、このような人身売買を非人道的と思う人はほとんどいなかったのである。

奴隷は家畜として見なされ、人としての一切の権利を持っていなかったからだ。

生まれたばかりの子犬や子猫を親から引き離して、ペットショップで売る感覚だったのである。皆さんもペットショップで売られている子犬や子猫を見て、「かわいい!」って思うことはあっても、「親から引き離されてかわいそう!」とは思わないでしょう。この当時のアメリカも同じ。奴隷が市場で売られても、それを哀れに思う人たちはほとんどいなかったのである。(もっとも現在のアメリカの多くの州では動物虐待であるということで、生まれたばかりの子犬や子猫を親から離してペットショップで販売することは禁じられている。いずれ近い将来に日本でも動物愛護の観点から子犬や子猫のペットショップ販売は禁止されるかもしれないが…)

ヨーロッパの農奴たちも不自由な身分であった。

土地に縛り付けられていたのである。

「お隣の封建領主様の方がやさしい!」からっていって、農奴たちは勝手に他の土地に行って働くことは認められていなかった。アメリカの奴隷たちと同様に農奴は封建領主の所有物であったのである。

ところがヨーロッパの農奴たちにはいくつかの権利が認められていた。

そのひとつは家族をばら売りされないということだった。

アメリカ開拓時代の奴隷にとってもっともつらいことは、愛する家族を引き離されることであった。だから南北戦争後、奴隷たちが悲惨な境遇(奴隷解放宣言のあとでも、元奴隷の地位向上政策は20世紀になるまで行われなかったため)の中で、彼らがまっさきにやったことは引き離された家族を捜し出すことであった。。

それに比べると、ヨーロッパの農奴たちは恵まれていた。

ヨーロッパの農奴たちはあくまで土地とセットと考えられていたので、封建領主であっても農奴たちの家族をばら売りすることはできなかったのである。もし封建領主がどうしても農奴を他の領主へ売らなけれっばならない場合は、土地と農奴の家族をセットで売らなければならなかった。

また、農奴たちは地代として収穫物の何割を封建領主に納めるというように決められていたので、残った収穫物を農奴たちは自由に処分することができた。

アメリカのまったく不自由な奴隷と違い、このように農奴たちには上記の権利が認められていたのであるが、このことがいずれヨーロッパの歴史を動かしていく要因の一つとなるので、こころに留めておこう。

さて、話しを封建領主にもどそう。

非常に多くの封建領主たちは限られたヨーロッパという土地の中でひしめき合っていたいたため、封建領主たち同士の争いごとが絶えなかった。

「隣の封建領主のところの家畜がオレのところの牧草を食べちゃう!」、「隣の封建領主のところを流れる川を堰き止めたので、オレのところに水が流れてこない!」なんて問題が起きていた。

ところがそれらの問題を仲裁してくれる人がいないので、即、実力行使にでたため、しょっちゅう戦争があちこちで起きていた。

そこで封建領主たちは彼らの中で力のある人を仲裁役として選ぶようになってきた。これがいずれ王様となり、封建領主は貴族となって王国を形成して行ったのである。

王様というと、皆さんは非常に強い権力を持った人と思われるかもしれないが、中世の王様はとても弱い立場にあった。ホッブズが言ったリバイアサンからはかけ離れた存在であった。なぜかというと、もともと王様は強い武力で周りの封建領主たちを力ずくでねじ伏せて王様になったわけではない。封建領主たちの中でちょっと大きめな荘園を持っている人が王様として選ばれたからだ。いわば村の庄屋さんのような立場であった。

王様と領主たちは主従関係を結ぶのであるが、この王様と家来の関係は、日本の戦国時代や江戸時代の殿様と家来の関係とは違っていた。

ヨーロッパの王様と家来である領主たちの関係は契約に基づいていた。

日本人の感覚からするとちょっと奇妙に思えるかもしれない。

彼らは詳細に記した契約書を作った。

たとえば、税金としての年貢は出来高の何割とか、戦争になったときは何人の兵隊を出すとか、こと細かに規定されていた。

だから、王様がお隣の王国と戦争をして、「あとちょっと家来が多く兵隊を出してくれれば勝てるのに~!」って思っても、契約以上の人数の兵隊を家来たちに要求することができなかった。あるいは王様の娘が結婚するので、「豪勢な結婚式をしてあげたいのだけど、家来たちはもうちょっと税金を払ってくれないかな~」って思っても、契約以上の税金を徴収することはできなかったのである。このように王様の権力は限られたものであった。

ところで王様と家来の関係が契約によると聞くと、「中世の時代の主従関係はずいぶんドライだったんだなぁ」って思う人がいるかもしれない。

しかし彼らの契約は必ず守られたということを記憶しておこう。

中世ヨーロッパには騎士道というものがあった。この騎士道とは契約によって決められたことはきっちりと履行するということである。ある意味では日本の武士道より信頼できるものかもしれない。

たとえばあだ討ち。

王様と家来の契約にあだ討ち条項があれば、王様が何者かに殺害されたとき、家来は必ずあだ討ちをおこなったのである。それに比べて日本では、戦国時代に主君を裏切って敵方につくことは日常茶飯事だった。日本の歴史上主君のあだ討ちをした例はわずかに二つ。忠臣蔵の赤穂浪士たちと織田信長のあだを討った豊富秀吉だけである。肉親のあだ討ちは数多くあったが、主君のあだをうつことは非常にめずらしいので後世に語り継がれる美談となった。

だから中世の主従関係は契約によって成り立っていたが、けっして希薄な関係ではなかったのである。

余談になるが、この契約という概念はじつは聖書からきている。

キリスト教の聖書をいままで読んだことがない読者の方たちは、聖書には人生の示唆に富んだ話や、愛に満ちた心やすらぐお話といった、ありがた~い言葉が書かれていると思っているのではないだろうか。

それはまったくの誤解である。

聖書は神様と人間の契約書なのである。

旧約聖書、新約聖書の「約」とは、契約のことを表している。旧訳聖書、新訳聖書ではないことにご注意。

特に旧約聖書の中ではこと細かに、神様が人間たちにしなければならないことを預言者を通して書いているのである。「出エジプト記」、「申命記」、「レビ記」といった章を読んでいただければわかるのであるが、祭壇の寸法から着る物、普段の生活の仕方から食べ物にいたるまで、やっていいこととやってはならないことを神様はビックリするくらい詳細に規定している。神様との契約とは、それらの言いつけを守れば神様は永遠の繁栄を保証してくれるが、その言いつけを守らない場合は、罰則として、一族の滅亡をもたらすというものである。

旧約聖書にはとくに古代イスラエルの民が神様との契約を破ったため、悲惨な歴史を歩まなければならなかったことが、これでもかこれでもかというくらいに書かれている。そのためヨーロッパの人々には、契約を守らないとどんなに恐ろしいことが起こるということが脳裏に焼きついたのである。

だからヨーロッパでは、単に人間同士の間に契約の概念が広がっただけでなく、

契約は絶対に守られなければならない、

という契約の絶対性が根付いたのである。そしてこの契約の絶対性が近代にはいって資本主義を生み出す土壌になっていくのである。このことはいずれ宗教ブログに戻したときにまたくわしくお話したいと思う。

さて、中世の王様と家来の関係はこのように契約に基づいた関係で、王様であっても強い権力を持っていなかった。

しかもこの時代のヨーロッパには伝統主義というものがあった。これは過去の習慣、風習は良くても悪くても、かならず守られなければならないというものである。このころになると、王様と貴族たちは定期的な会合を持っていた。これが後に議会となっていくわけであるが、そこでは新しい法律を作るわけでなく、過去の習慣や風習を確認しあう場で、法律は歴史の中から発見するものであったのである。だから当時の王様は会合(議会)でいつも貴族の不満と伝統主義の板ばさみに苦しんでいた。中世の王様はこのように中間管理職のような立場で、ホッブズがリバイアサンと呼んだ絶対的な権力を持つ王様とはかけ離れた存在だった。

ところが永遠に続くかと思われたこの中世の時代を、近代へ大きく動かす出来事がいくつか起きた。

ひとつは14世紀の中ごろに起きた黒死病(ペスト)の流行である。

黒死病は瞬(またた)く間にヨーロッパ中に広まり、多くの人々が死んだのである。この黒死病によりヨーロッパの人口の四分の一から三分の一が減ったと言われている。

この人口激減は結果として農奴の立場を強くすることになった。

封建領主たちは領地内で農奴が働いてくれないと食べていけないのであるが、農奴の人口が減ったため、農奴の機嫌を取らなければならなくなった。「少ない人数で悪いけど、もうちょっと残業して働いてくれないかな?」とかなんとかソフトに言って手なずけようとしたが、「じゃ、年貢の割合を下げろ!」って感じで、農奴たちは地代の引き下げなどを交渉し、相対的に封建領主たちの力は衰えていった。

もうひとつの出来事は11世紀ころから始まった数回の十字軍遠征である。

皆さんも学校の歴史で習ったと思うが、ヨーロッパ諸国はキリスト教の聖地であるエルサレムの奪還を目的に、トルコ帝国に軍隊を送り込んだのである。そこでヨーロッパ諸国が出会ったのはイスラム世界の圧倒的な文化の高さであった。もともと中近東にはギリシャ哲学が継承され、医学、数学、天文学などが発達していた。またトルコ帝国は世界貿易で栄えており、遠く中国の絹織物やインドの香辛料、あるいは美しい陶器などが持ち込まれていた。ヨーロッパ諸国の驚きは、あたかもブッシュマンがニューヨークへ来たときと同じ衝撃を受けたに違いない(この例えちょっ~と古いかな?)。そのようなわけで、十字軍が戦利品として持ち帰ったそれらの高い文化の品々はヨーロッパで珍重されたのである。

当然のことながらやがて、ヨーロッパの商人たちがアラブ諸国へ訪れるようになり、中東貿易が盛んになった。

そして貨幣経済が発達したのである。

この貨幣経済の発達は中世のヨーロッパを大きく変えることになった。

まずこの貨幣経済は、黒死病の流行により、相対的に立場の良くなった農奴たちに追い風となった。

いままで年貢を払ったあとの収穫物は、農奴たちが自由に処分できたのであるが、物々交換経済では、蓄積ができなかった(キャベツを蓄積しても腐っちゃうでしょう~♪)。貨幣経済の普及により農奴たちは貨幣によって富を蓄積することがはじめて可能となったのである。また農奴の中には商才に長けた者がいて、市場の価格が上がるまで待って農作物を売るようになり、大もうけをする農奴もいた。そして稼いだ貨幣を封建領主に渡して、自由になる農奴も現れてきた。

このようにして、封建領主たちは没落し、中世の封建制度が崩れていったのである。

この貨幣経済の発達によってもっとも恩恵を受けたのは王様だった。

もちろん王様も、元は封建領主のひとりであるので、黒死病の流行や貨幣経済による領土内の農奴たちの独立の被害をこうむった。しかしその損失を補ってなお有り余る恩恵があったのである。

それは貨幣経済の発達にともない財力を持った商人たちをバックに付けることが出来たからである。

当時は山賊や海賊がウヨウヨいた。

13世紀の後半にベネチアの商人マルコポーロは、法王の親善大使としてモンゴル帝国の皇帝フビライ・ハンを訪れた。17年間皇帝フビライに仕えたあと、マルコポーロがイタリアに戻るとき、フビライは黄金や絹織などの土産を持たせ、4艘の船と600人のクルーでマルコポーロを送り出した。

18ヵ月後にイタリアについたマルコポーロは悲惨なものであった。

帰路の途中で海賊や山賊に遭い、生き残った者はわずかに18人。黄金や絹織物はもとより、着ぐるみはがされ、乞食のようにボロ布をまとった状態でベネチアにやっとのことでたどり着けたのであった。

こんな具合に、ヨーロッパの商人たちは中近東への旅路で山賊や海賊の被害にあっていた。

封建領主たちは山賊や海賊を取り締まってはくれなかった。もともと封建領主たちは戦時中に雇う兵隊は、山賊や海賊出身者が多かったからだ。中世の軍隊は平時は山賊や海賊をして生計を立てていたのである。だから封建領主たちは最初から山賊や海賊を取り締まろうなんて思っていなかった。

そこでヨーロッパの商人たちは王様に保護を求めたのである。

「王様、どうぞ私たちの通商の安全を保障して下さい」とかなんとか言って、商人たちは王様にお金を献上した。

議会でいつも小うるさいことを言ってくる憎き封建領主たちが没落していく様を、「いい気味だ!」って思っていた王様は、この商人たちの申し出に飛びついた。

そして王様は商人たちの中東貿易の安全を守るために、商人たちから受けたお金で多くの兵隊を雇ったのである。

これが常備軍である。

当時の王様のみが財力を持った商人たちを味方につけ常備軍を持ったことの意義は大きい。これによって権力基盤が確固たるものになったからである。

皆さんも歴史の授業で「常備軍」という言葉は何度か聞いたことがあるでしょう。

でも、この常備軍を持つことの重要性は学校でくわしく習わなかったのではないだろうか。そこでもうちょっと常備軍を持つことの意義を補足しておこう。

常備軍を持つことの重要性は、織田信長の例を挙げればわかりやすいと思う

信長が戦国時代に天下を取れたのは、戦国武将で彼のみが常備軍を持ったからである。

中世のヨーロッパも日本の戦国時代も、富の源泉は土地だと思われていた。当時は通貨も流通していたが、多くの武士たちは農作物や米を生産できる土地をほしがった。だからお殿様は軍功のあった武将たちに土地を与え、武将たちは平時はその与えらた土地を耕して米などを作っていた。

戦国武将たちは百姓を兼務していたのである。

戦(いくさ)の時にのみ、クワやスキを刀にかえて出陣していた。

つまり当時の戦国武将たちは戦のプロとは言いがたかった。

これは勇猛で名高い武田軍も同じだった。

だから戦国大名たちは、戦功をあげた部下たちに与える土地を確保するために、つねに領土拡大に血眼になっていた。

そんな戦国大名たちの中で信長のみが土地にこだわらなかった。

彼は貨幣が将来、大きな富の源泉になることを見通していた。

そこで信長は商人たちを保護し、楽市、楽座の制度によってさかんに商業を奨励した。これによって貨幣経済が発達し、堺の町などは栄えたのである。

信長は豊富な財力を持った商人たちに献金させ、そのカネで軍隊のための兵士を雇ったのである。

信長の兵隊たちは土地を与えられたわけではないので、百姓仕事をする必要がなく、平時から戦の研究をし、かつ訓練をしていた。

つまり信長の持っていた軍隊はプロの軍隊だったのである。

プロとアマチュアの差は大きい。

このことを如実に証明したのが天下に最も近い戦国大名と言われていた今川義元との戦であった。

史上名高い「桶狭間の戦い」は、今川軍2万5千人に対し、信長軍はわずか数千人。

でも結果は、今川義元は首を取られ、信長軍の圧勝であった。

これほどまでにプロとアマの力の差は大きい。

人数的に十数倍の規模を持つ今川軍に信長が勝てた理由は、桶狭間で信長軍が今川軍に奇襲をかけたからだという説がある。それは歴史の事実かもしれないが、その背後にある歴史の真実をつかんでいない。信長の軍隊が平時に訓練をしているプロフェッショナルの集団であったからこそ、綿密な奇襲作戦を立て、迅速にそれを遂行できたと見るべきなのである。

社会人野球の優勝チームがプロ野球のどん尻のチーム(楽天?)と試合をしてもかなわないだろう。(たぶん…汗…野村監督頑張ってぇ~!!!)

中世の王様の軍隊も同じであった。

封建領主がそれまで雇っていた兵隊たちは、平時は百姓をしているか、あるいは山賊や海賊をしているならず者で、いざ戦(いくさ)になったときに統制が取れていなかった。それに比べて中世の王様の軍隊はプロフェッショナル。

王様の軍隊は封建領主たちが束になってもかなわない軍隊になったのである。

中世という時代に、商人たちの財力と圧倒的な軍事力を王様が手に入れたことは、大きな権力を手に入れたことを意味する。

ここでちょっと簡単に権力とは何かを補足しておこう。それによって当時の王様がどれほどの権力を持ったかがわかるからだ。

権力とは他者に対して支配し服従させる力を言う。

だからなにも権力とは国家のみが持つものではない。我々の日常にも権力は存在する。たとえば会社の上司は部下に対して業務に関し、支配し服従させることができるから、権力を持っていると言える。また親は小さな子供に対して親の言いつけとおりにさせることができるので、親は子供に対して権力を持っている。

それではこの他者を支配することのできる力の源泉はなにか?

このことを非常によく分析したのが、社会学者のアルビン・トフラー氏である。アルビン・トフラー氏によると、権力の源泉は3つに分けられるという。それをもっともよく説明しているのは三種の神器である。

三種の神器とは、テレビ、洗濯機、冷蔵庫のことではありませんぞ。それは日本の高度経済成長期の家電の三種の神器。念のため。

トフラー氏のいう三種の神器とは、本当の三種の神器。天皇家に代々伝わる三種の神器のことである。

天皇家の三種の神器とは、剣(つるぎ)、宝石、鏡のことである。

この三種の神器は、天皇陛下が崩御されるたびに、次の天皇陛下に譲り渡されるものである。昭和の天皇が崩御されたときも、宮中ですみやかに三種の神器の譲渡の儀式が行われ、平成の天皇へと受け継がれている。

実はこれはあまり日本人にも知られていないかもしれないが、この三種の神器は権力を象徴しているのである。つまり三種の神器の受け渡しは、崩御された天皇から次の天皇への権力の譲り渡しの儀式なのである。

三種の神器の剣、宝石、鏡はそれぞれ、物理的な力(暴力)、財力、知力を表している。そしてこの暴力、財力、知力こそ権力の源(みなもと)なのである。

こういうと皆さんも思い当たることがあると思う。皆さんの周りにいる権力を持った人たちというのは上記の三つの権力の源泉を1つ以上持っている人たちなのである。

ガキ大将がなぜ下の者を従わせることができるかというと、他の者たちより大きな腕力(暴力)を持っているからなのである。また親は小さな子供より大きな腕力、財力、知力を持っているから、子供を従わせることができるのだ。

国家はなぜ権力を持っているかいうと、警察という暴力装置を持っているからなのである。法に従わないものは、暴力という力によって強制的に人々を従わせることができるのである。

ところでトフラー氏によれば、この権力の源は時代とともにその重要性が、

暴力→財力→知力

というように移行していくという。

古代の時代では、権力の源泉は暴力であった。腕力の強い者にはより大きな権力があった。喧嘩や戦(いくさ)の強い、屈強な身体を持った男がリーダーになったのである。

ところが時代が変わり、産業革命がおこり、通貨が流通するようになると、腕力を持った者より財力を持った者が権力を握るようになった。銀行業を起こした中世ヨーロッパのフッガー家やメジチ家などは、一族の中から法王になる者やヨーロッパの国王になる者を輩出するほどの力を持っていた。

そして現代のコンピュータの登場により権力が新たな段階へ移行した。

大きな知力を持った者が大きな権力を握るようになってきたのである。

このことを象徴しているのが、ビル・ゲイツのマイクロソフトだ。

オジサンはコンピュータ音痴なので、皆さんの方が詳しいと思うが、マイクロソフトはウインドウズというコンピュータの基本ソフトを作っている会社である。工場を持たずプログラムを作る技術者たちの集まった会社であった。彼らはソフトを作りコンピュータ・メーカーへそのソフトを納める下請け業者のひとつであった。だから本来はコンピュータ・メーカーは顧客でありマイクロソフトに対し権力のある立場であるはずだった。「オレのところのコンピュータに基本ソフトを売りたいなら、これこれこのようなソフトを作れ!」って感じで、コンピュータ・メーカーはマイクロソフトへ強く命令できる立場にあった。

ところが実際はどうかと言うと、まったくその逆なのである。

マイクロソフトはウインドウズのバージョンをアップするたびに、IBM、アップル、デル、NEC、東芝といった大手のコンピュータ・メーカーに対し、アクセスタイムのこれこれのマイコンを使えとか、どこどこの部品メーカーのメモリーチップを使えといった指示をしているのである。つまりある面ではマイクロソフトはコンピュータ・メーカーを支配しているといえる。

知力を持ったものがより大きな権力を握る。

権力移行(POWERSHIFT)が起きているのである。

この権力移行はコンピュータの登場により、我々のまわりのいたるところで起こっている。このことを話し出すとこれだけで長~いブログになってしまうので、ここであえて止めておこう。我々の周りで起きている権力移行をもっと知りたい読者は、アルビン・トフラー氏のパワーシフト(POWERSHIFT)を図書館で借りて読んでいただきたい。1990年代にベストセラーになった本なので、多分邦語訳もあるのではないかと思う。

それでは話を中世の終わりに戻そう。

中世の終わりという時代は、物々交換経済から貨幣経済への移行期であった。そしてまだコンピュータを中心とする知識集約型社会は到来していなかった。つまりこの時代の権力の源泉は暴力と財力にあったのである。

そして商人たちの財力をバックにつけ、常備軍という強い暴力装置を持った王様は、この時代の最高の権力を身につけたということなのである。

さらにまたこの時代に王様の権力を決定付ける思想が生まれた。

国家の主権という概念である。

それまでの中世のヨーロッパには国家というものは存在していなかった。

国家の構成要素は、国土、国境、国民であるが、中世ではこれらが明確にされず混在していたのである。先ほど述べたように、中世では王様と家来の主従関係は契約に基づいていた。ところがAという家来はBという王様と主従関係を結びながら、Cという王様とも主従関係を結ぶことができた。またBという王様はDという王様と主従関係を結ぶことができた。つまり、どこからどこまでがBという王様の国土と国民なのか、またCの王様の国土と国民はどこまでなのかという明確な線引きができなかったのである。

したがってこの時代までは国家は存在しなかった。

中世の終わりに封建領主が没落し国王の権力が強大になり、重複する主従関係がなくなった。そのため領土、国境および国民がようやく明確になり、近代において初めてスペイン、イギリス、フランスといった国家が誕生してきたのである。

そして国家が生まれると同時に、国家には主権があるという考えも生まれた。

フランスの思想家、ジャン・ボダンは、「国家には永続的にして拘束を受けない絶対の権利がある」と、提唱した。国家は他国の干渉を受けず、自国のことを自国で決定する権利があり、国家の主権の主体は国王にあるという考え方である。

この思想はヨーロッパ中に広まり当時の国際法となったのである。

この国家の主権という概念は国王の権力を増大させることになった。

国家には主権があり、その主権は誰も干渉することが出来ない。そしてその主権の主体は国王にある。つまり簡単に言うと、国土および国民を王様が所有し、その所有物をどのようにしようが王様の勝手でしょってことだ!

ベルサイユの栄華を極めたルイ14世の「朕は国家なり」という言葉が当時の国王の権力の強さをよく表している。

国王はここにおいて絶対の権力を手に入れたのである。

この絶対君主となった国王の前では、国民は吹けば飛ぶような将棋の駒どころかチリほどの重みもなくなった。どんなに税金を課せられようが、ムチャクチャな徴兵を受けて遠くの戦場へ送られようが、国王の思いのまま。文字とおり、国民を煮て食おうが焼いて食おうが、王様の勝手。国民はなにひとつ文句を言えなくなってしまったのである。

このようにして権力の怪物、リバイアサンがついに歴史に登場したのである。

さて、中世後半から近代初期の絶対主義国家の誕生にいたるヨーロッパの歴史をざっと見てきた。それではアメリカ13州がいかにこの恐ろしいリバイアサンとも言うべき絶対君主から独立したかを話そう。

えっ!話が長くって疲れたって!

う~ん、これから先がもっとも大切な話になるのだけど…。もし、疲れた読者がおられれば、この先は日を改めて読んでいただけるだろうか。なにせこのあとの話をわかりやすくするために、ヨーロッパの歴史を復習したのですから。

ここで読むのを辞めてしまうということは、レストランで前菜だけ食べてメインディッシュに箸をつけないで帰っちゃうようなもの。もったいないでしょう~!

このあとの部分を読んでいただければ、皆さんもアメリカ国民と同じ民主主義の風景を見ることができ、銃規制がアメリカで徹底できない理由や、アメリカがなぜ世界で無謀ともいえる軍事行動を展開している理由がわかってくるのですから。それだけじゃありませんぞ!今の日本の民主主義が健康に見えて、実は内部ではメタボリック症候群をわずらい血液はドロドロの状態で、いつ脳梗塞や心筋梗塞が起きてもおかしくない状況になっているのがわかるのです。

だからもうちょっとがんばって読んでね。

それじゃ、ジョージ・ワシントンと建国の父たちが絶対主義国家のイギリスから独立したころの話をしよう。

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皆さんも高校のときの世界史で習ったと思うけど、アメリカ13州が本国イギリスから独立した原因は税金問題だった。

当時のイギリスはアメリカ大陸でのフランスとの戦い(フレンチーインディアン戦争)で財政が逼迫していた。時のイギリス国王はジョージ3世。彼はそのコストを13州に払わせるため多くのものに税金をかけたのである。

アメリカ13州はイギリス本国の議会に代表者を一人も送り込んでいなかった。だから彼らには税金に対する不満が溜まっていた。NO TAX WITHOUT REPRESENTATION! (代表なきところに課税なし!)という気持ちが強かったのである。

そして課税される税金が商業上の印紙貼付の義務付けだけでなく、砂糖からお茶といった日常品にまで及ぶにいたって、アメリカ13州はついに、「ふざけんじゃねぇ!」って感じで独立を決意した…

…と言うわけではなかった。

事はそう単純ではない。

皆さんも歴史の授業で、「ボストン茶会事件」という言葉を聞いたことがあると思う。イギリス本国はアメリカ産の紅茶に高い税金をかけ、インドの安い紅茶を13州に売りつけて大儲けをしようとした。これに対してアメリカの植民地人の不満はいっきに爆発し、港に停泊していた東インド会社のお茶の積荷を海に投棄してしまったという事件である。我々はこの事件が発端となって各地で戦闘が勃発し、アメリカ独立戦争へつながっていったと習ってきた。

ところがこの時点では、ジョージ・ワシントンやトーマス・ジェファーソン、ジョン・アダムスといった多くの13州の識者たちはイギリス本国からの独立には消極的であったのである。外交官であったベンジャミン・フランクリンなどはこの時、イギリス本国との軍事衝突を避けるため奔走していた。

ジョージ・ワシントンと建国の父たちは、イギリス本国からの独立をためらっていたのである。

なぜか?

強大なイギリス軍を恐れていたからである…

…と、言うことではない。

確かに当時のイギリスは超がいくつも付いてしまうくらいの超大国。「けっして太陽が沈まない帝国」と言われるほど世界中に植民地を持っていた大国であった。イギリス本国から見れば田舎の村のような13個の植民地が戦っても、はたして勝てるだろうかという疑問があった。

しかし、それ以上に彼らがイギリスからの独立をためらう大きな理由がふたつあった。

ひとつは絶対君主に逆らうことが「神の摂理」に反することではないかという恐れであった。

先ほど中世後半に登場した国王の権力を決定付けたものとして、国家の主権という概念をお話した。16世紀の思想家、ジャン・ボダンという人が、「国家には永続的にして拘束を受けない絶対の権利がある」とし、その主権の主体は国王であると唱えた。

彼と同時期にやはりフランスの思想家で、国王の権力を磐石(ばんじゃく)にした人物がいた。ロバート・フィルマーという人だ。

ロバート・フィルマーは国王は国家の主権を神から授かっていると提唱した。

彼の主張はこのようなものだった。

聖書の創世記では、神は天と地を創造されたあとに、この世のすべての動物や植物を作られた。そして人類最初の人であるアダムを作られる時にこう言われた。 ”Have many children, so that your descendants will live all over the earth and bring it under their control (産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這生き物すべてを支配せよ。)『創世記第一章28節』”

つまり聖書ではアダムはこの世のすべてを神から授かり、その支配権はアダムの子孫に継承されるということである。そしてロバート・フィルマーは国王こそがアダム直径の子孫であり、国王がすべての支配者であることは神から授かったものであるので、王権は神聖にして冒(おか)すべからざるものであると主張した。

これを王権神授説という。

この王権神授説は当時のヨーロッパで自然に受け入れられた。

なぜかというと、若干の例外(古代ギリシャの都市国家アテネと初期ローマの共和制)はあるが、ヨーロッパでは王様のいない国はそれまで存在しなかったからだ。

今でこそ我々は王様のいない国が多数この地球上にあることを知っている。むしろ王様と国民を意識して生活している人は少ないだろう。だから王様のいない国を想像することは容易だ。

ところがこのころのヨーロッパの人々は王様のいない国など想像もつかなかったのである。夢想だにしなかったと言ってもいい。いつの時代でも、国が存在すれば王様が存在していたのだから。王様がいて国があるという感覚だろうか。

だから王様がいるということは自然のことであり、それは神の摂理であるというフィルマーの考え方は人々に自然に受け入れられたのである。

そんなわけで、どんなに酷い圧政を布こうが、武力と財力の大きな権力を握り、かつ国王は神聖にして冒すべからずという神がかり的なオーラを身につけた絶対君主に逆らおうと思う者はイギリス国内にはいなかったのである。

これは遠く離れたアメリカ13州も同じだった。

アメリカ大陸に初めて渡ったピルグリム・ファーザーズといわれる人たちは、イギリスで迫害を受け新天地へ逃れてきた清教徒と呼ばれる人たちである。このことからわかるように、アメリカ13州の人たちは熱心なキリスト(プロテスタント)教徒の子孫たちなのであった。

そんな敬虔なキリスト教徒にとってもっとも恐ろしいことは、神の御心(みこころ)に反した行いをして「救済」を受けられないことであった。我々無宗教の日本人には彼らが感ずる恐怖は理解しがたいと思う。このキリスト教における救済とはいったいどういうものなのかは、いずれ宗教ブログを再開したときに詳しくお話したい。その時に初めて彼らの恐怖の度合いがわかると思う。それまではちょっと我慢していただいて、ここでは救済を受けられないことは彼らにとって死ぬことよりも恐ろしいことであったということだけを覚えておいてほしい。

したがってジョージ・ワシントンと建国の父たちも敬虔なキリスト教徒であったから、彼らが国王に反旗をひるがえして独立戦争に踏ん切りがつかないのは皆さんにも理解できると思う。

彼らにとってこのロバート・フィルマーの王権神授説はそれほど巨大な壁であった。

そしてもうひとつ、ジョージ・ワシントンと建国の父たちがイギリスからの独立をためらう理由があった。

それは仮に国王を排除できたとして、その後にどのうような国を作ってよいかというビジョンがなかったことである。

なんども繰り返すが、それまでのヨーロッパには王様のいない国はなかった。だからだれも王様のいない国はどのようなものであるべきかという理想の姿を思い浮かべることができなかった。はたして王様のいない国など上手くいくのだろうか?彼らは王様のいない国家作りに不安を感じていた。

このビジョンのないことが白日の下に明らかとなった事件が本国イギリスで起きていた。

ジョージ・ワシントンと建国の父たちがイギリスからの独立を決意する120年前に起きた清教徒(ピューリタン)革命である。

この清教徒革命は神の前の平等をスローガンに迫害を受けていた清教徒たちが起こした革命で、当時の国王チャールズ1世を公開処刑し、清教徒主導の議会政治を行ったというものである。

ところが、国王の首をちょん切ったまではよかったが、議会内では各派閥が権力闘争を繰り返したため、清教徒革命を率いたクロムウェルという軍人が独裁制を布き、反対派の人々を粛清し恐怖政治を布いたのであった。結局、クロムウェルが病死したのち、独裁制に懲りた一般市民たちは、「やっぱり、王様がいたほうがいいや!」って感じで、亡命先からチャールズ1世の息子チャールズ2世を呼び寄せて王位につけた。チャールズ2世はクロムウェルの妻子や革命の首謀者たちを逮捕して処刑し、この無政府状態ともいえる清教徒革命後の混乱を収拾したのであった。

王様を排除した後の社会はどのようなものにするべきかというクロムウェルたちのビジョンの欠如が、清教徒革命後に混乱をまねき王政復古につながったと言えるだろう。

以上2点。

王権神授説と王様のいない国家はどのようなものであるべきかというビジョンの欠如。このふたつの問題が巨大な壁のようにジョージ・ワシントンと建国の父たちのまえに大きく立ちふさがっていた。

そこで彼らはその答えを歴史に求めたのである。

そして歴史の中に埋もれかかっていたある一人の人物と出会ったのである。

運命的な出会いであったと言っていいだろう。

この人物こそ難攻不落と言える王権神授説を打ち砕き、王様のいない国家は如何にあるべきかというビジョンを彼らに与えてくれる人であった。

その人物の名前はジョン・ロック。

ジョージ・ワシントンと建国の父たちの時代からちょうど100年前に存在していた17世紀のイギリスの政治哲学者だ。

ジョージ・ワシントンと建国の父たちがジョン・ロックと出会えたことは、人類の歴史において運命的な出会いであった。なぜなら彼らがジョン・ロックに出会ったことによって、その後の世界は大きく変わっていったのだから。

本日、長々とヨーロッパの歴史などを書いてきたが、実はこのロックという人物の思想を皆さんにお話したかったからなのである。

なぜロックの思想をお話しするのにヨーロッパの歴史を語ったかというと、このロックの思想は大きな歴史の流れの中で捉えないと、その本当の真価が伝わらないからなのである。

ジョン・ロックという名前は高校の歴史の授業で皆さんもお聞きになったことがあるだろう。おそらくロックという名前から、ロック→統治論→社会契約説、というように、言葉の連想が浮かぶのではないだろうか。しかしその思想についての歴史的意義というものをはっきりと認識している人は案外少ないのではないかと思う。

それは当然のことなのだ。

日本の歴史の教科書では、大学入試の穴埋め問題対策だろうか、広く浅く歴史の出来事を扱っているので、肝心な歴史の事件についての考察の深さが足りないからなのである。日本の歴史教科書にはロックについての記述はせいぜい2~3行くらいの記述しかない。ところがアメリカでは重要な歴史的出来事にはものすごい時間をかけて子供たちに、その歴史的背景や歴史的意義を教えるのである。特にロックの思想については日本人の想像を絶するほどの時間をかけて教育する。

冒頭、アメリカ国民は民主主義の精神を膨大な時間をかけて子供たちに教えると述べた。

実は民主主義の精神とはロックの思想のことである。

彼らは子供たちが幼稚園に上がる年になると、このロックの思想が凝縮されたリンカーンのゲティスバーグの演説やトーマス・ジェファーソンの独立宣言書などを暗記させる。そして高校になるまで何度も繰り返し教え込むのである。卒業後は国家的なイベントなどで繰り返しロックの思想を聴衆にリマインドする。AFNの放送などを聞いていると、時たまショート・ヒストリーという民主主義の歴史が流される。ほとんどがロックの思想に関してのものだ。

これほどまでにジョン・ロックの思想についてアメリカ国民は時間をかけて子供たちの心に深く植えつけようとするのである。

一方、日本ではロックについては、歴史の教科書の中でわずか2~3行程度の記述ですませている。

このロックに関しての認識の違いが、日本人とアメリカ国民の民主主義の捕らえ方の決定的な相違を作り出しているのである。

我々日本人の目から見ると、なぜアメリカは断固たる銃規制を行わないのかとか、あるいはアメリカはなぜ無謀ともいえる軍事行動を世界で展開しているのかがわからない。ところが逆にアメリカ国民から見ると、アメリカ国内であれば暴動が起きてもおかしくないような民主主義を危うくするような事象が日本では平然と行われていたりするのである。これらはすべてロックの思想を認識しているかどうかの違いから生じている。

そこで本日はアメリカ国民と同じ民主主義の風景を見ていただくために、このロックの思想についてお話したいと思う。

ちょっと(いや、かなりかな?)長くなってしまったので、疲れた読者はこの続きは明日また読んでね。絶対に最後まで読んでね~。

それじゃ、ロックという人がどのような人物で、どのような思想を持っていたかを話そう

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ジョン・ロックは1632年にイギリスで生まれ、オックスフォード大学で医学と哲学を学んだと言われている。彼が10歳のころに清教徒(ピューリタン)革命が始まり、17歳のときにチャールズ一世が公衆の面前で処刑された。そして彼が28歳のときにクロムウェルの死をもって革命が終わり、チャールズ2世が即位し王政復古が行われた。

このように彼は多感な青少年時代を革命の混乱のなかで過ごしたのである。

海を隔てたお隣のフランスでは、太陽王と言われたルイ14世が君臨しており、絶対主義の絶頂期を迎えていた。イギリスでも革命に懲りた人々が王政を望み、それに加えてフランスからの王権神授説がイギリスに入ってくるにいたり、いよいよイギリスの絶対王政は強まっていったのである。

そんな絶対主義まっただ中で、若きジョン・ロックは疑問に思った。

「はたして本当に国家の主権は国王にあるのだろうか?」

そこで彼は、「国家とはなんだろうか?」という根本的な問題から考え始めた。

彼は国家とは何かということを考えるにあたって、国家のできる前の状態を想像してみた。

国や社会などという複雑な人間関係ができるずっとずっと前のこと。そこで暮らす人々は自由であったはずだ。人々が不自由になったのは社会ができ、ルールや伝統などに縛られているからだ。もともと社会や国が出来る前は、身分の上下などというものはなく、すべての人々は平等で自由であったはずである。このようにロックは考えた。

ロックはこの平等で自由であった人々を「自然人」と呼び、自然人が生きていた状況を「自然状態」と呼んだ。

ロックの理論のすごいところは、複雑な社会現象をこのように抽象化したということにある。

社会といっても千差万別。イギリスのように伝統的に議会の強い国もあれば、フランスのように絶対主義が強い国もある。また社会を構成している人々は弁護士や医者のようなエリートもいれば、商人もいるし、貧しい農民だっている。これらの個々の事象を個別に扱っていては「木を見て森を見ず」ということになり、そこにある真実を見抜くことができない。だからロックは思い切ってディテールをすべて捨て去って、対象となるものを抽象化したのである。

抽象化することによってロックの思想は科学となり、普遍性を持ったのである。この普遍性こそが、時を越え国境を越えてアメリカに渡り、アメリカの独立を成功させた大きな要因だ。

自然科学をたとえに出せばわかりやすいかもしれない。。

たとえば、幾何学。

幾何学でいう点と直線は抽象化されたものである。

点の定義は大きさがなく場所のみを示すものであり、直線の定義は太さがなくまっすぐで長さだけを示すものである。ところが現実の世界には、大きさのない点など存在しないし、まっすぐで太さのない線など存在しないのである。ミリ単位で見れば点にはかならず面積はあるし、直線を描いたってどこかで曲がっているし、太さもある。それらの詳細をいちいち考慮していたら、幾何学の問題は解けない。それらのディテールを省略して、点や線を抽象化することによってはじめて、巨大な建造物である超高層ビルやダムなどを作ることが可能となるのである。

数学もそうだ。

ゼロや負の数。

この世にはゼロや負の数なんて存在しない。八百屋に行って、「大根マイナス一本下さい!」って言ったて、八百屋のオヤジは???ってことになっちゃうでしょう。

でも、ゼロや負の数、あるいは虚数なんて実際の世界にはないことを抽象化することにより、人類はロケットを月面に到着させたりして、我々の住むこの宇宙を解明してきたのである。

ロックの場合も同じだ。

人間というのは集団で暮らす動物だ。太古の昔に我々の先祖が洞穴で暮らしていたころにはすでに群れをなしていた。そこには当然一部族としてのルールや身分の差はあったろう。自然人や自然状態などというものは現実には存在しないのである。

しかしロックは自然科学と同様に、あえて人間や社会を抽象化することによって国家とは何かを解明しようとしたのである。

彼の理論をさらに続けよう。

自然人は自然状態で土地を耕し種をまいて収穫して暮らしていた。そこでは国家も社会もなくすべての人は平等で自由であった。ところが時代が経るにつれて人々は社会および国家の必要性を感じるようになってきた。なぜかというと、犯罪が増えてくるからである。

人は個々の性格を持っている。Aという自然人はとても働き者で、朝から晩まで働き通し。かたやBという自然人はグータラで昼間から仕事もせずにブラブラしている。当然そこには貧富の差が生じてくることになる。やがて勤勉でないものの中から窃盗や強盗などをする者たちがでてくることになった。

そこで人々は集まって社会をつくり、人々が安心して生活できるためのルールを作った。

他人から物を盗んではいけない。人を殺してはいけない…などなど。

ところが、そんなルールなんて知ったことか!って感じの人もいて、ルールを作っただけでは従わない人も中には出てくる。

そんなわけで、人々はルールを従わせるための社会的権力を作ることにしたのである。

これが国家である。

国家とは本来人々の合意に基づいて作られたもので、国家の権力は人々との契約によって委託されたものである。王様が権力を持っているのは、神から与えられたものではなく、国民との契約によって権力を行使する権限を与えられているにすぎないのである。

だから国家の主権は王様にあるのではなく国民にある。

そして国家の任務はこの国民との契約に基づき、国民の生命、財産、自由を守ることである。

ロックはこのようにして、人は生まれながらにして自由で平等であり、国家の主権は国民にあり、そして国家の存在目的は国民の生命、財産、自由を守ることであることを証明して見せたのである。

これ、すごいことだと思わないか?

今でこそ我々は民主主義の世の中に育ってきたから、すべての国民は自由で平等であると言われても驚かない。それが当たり前になっているから。ところが、ロックの生きた時代は絶対主義の絶頂期だ。国王の権力は神から授かったものであり、王権は神聖にして冒すべからずというものであった。不自由、不平等、身分の差は当然のことと思っていた。国家の主権が国民にあり、人々は生まれながらに自由で平等であるなんて誰も想像もつかない時代だったのである。

ジョン・ロックの生きた時代を考慮した場合、ロックがこのように考えたことはまさに奇跡であった。

ロックの理論はさらに続く。

国家権力は国民が作ったものであるから、国民に奉仕するためのもの。ところが国家権力は放っておくと肥大化し暴走する。だから国民の代表者を議会に送り、真の国民の国民による国民のための政府を作って、政府の運営を監視しなければならないと唱えた。

しかしながら、それでも権力が暴走する可能性がある。

その場合はどうするか?

ロックは人々には国家との契約を改廃する権利があると言う。

それは抵抗権と革命権である。

もともと国家は国民との契約を結んで誕生したものであるから、もしその国家が契約違反をするのであれば、国民には契約を破棄し、新しい契約を結びなおす権利があるのである。

このロックの思想を社会契約説という。

ジョージ・ワシントンと建国の父たちが求めていたのは、まさにこのロックの社会契約説であった。

ジョージ・ワシントンたちはこのロックの社会契約説によって、王権神授説を否定し、イギリスからの独立が正当化され、かつその後の社会をどのように作ればよいかという指針を得ることができたのである。

ロックのこの社会契約説は燎原の火のごとくアメリカ大陸に広まった。

アメリカ13州の人々はロックの社会契約説を本気で信じたのである。独立戦争が勃発した直後は13州の寄り合い所帯の軍隊は強大なイギリス軍に押されっぱなしであったが、思想の力は強い。ロックの描いた世界を実現したいという思いが、最終的にこの独立戦争をアメリカ13州に勝利をもたらしたのである。

我々は歴史の時間にこのアメリカ13州のイギリスからの独立の出来事を「アメリカ独立戦争」と習ったが、アメリカのハイスクールの歴史の教科書ではこの出来事を、

AMERICAN REVOLUTION(アメリカ革命)

と呼んでいる。あくまでもロックの主張する「革命権」の行使なのである。

17世紀にロックがイギリスでこの社会契約説を発表したとき、すぐに「ロックの思想はすごい!」とはならなかった。ほとんどの人々は、ロックの抽象化した自然人や自然状態は実際にはあり得ないことで、社会契約説など「絵空事」と批評したのである。

ところが、ロックが社会契約説を唱えた100年後の世界では、ロックの社会契約説はもはや単なる仮説ではなくなった。アメリカ合衆国の誕生はロックのシナリオ通りに行われたからである。アメリカ合衆国は人類史上初めてロックの社会契約説に基づいて作られた人造国家となったのである。

その後、ロックの思想はヨーロッパにもどりフランス革命をも導いた。

17世紀の大事件と言えば、アメリカ合衆国の誕生とフランス革命だが、この二つの事件はロックがいなければ実現されなかった。

日本の政治学の泰斗(たいと)、丸山真男教授はロックについて、

「17世紀に身を置きながら18世紀を支配した人」

と評したが、まさしくロックの思想はジョージ・ワシントンと建国の父たちに出会うことによって、その後の18世紀の世界を大きく変えたのである。

現在、世界の三分の一くらいの国々が民主主義を標榜している。それらの民主主義の国々には憲法がある。そしてそれらの憲法には必ずロックの思想が盛り込まれている。もしロックの思想が盛り込まれていなければ民主主義ではないと言っていいほどだ。日本国憲法も例外ではない。1990年代に相次いで社会主義、共産主義国家が崩壊して行った現在、民主主義化していく国は今後とも増えていくだろう。ロックの思想は21世紀の世界をも支配しようとしているのである。

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以上、ロックの思想について述べてきた。

ロックの社会契約説を要約すると、人は生まれながらに自由で平等であり、国家は国民の合意に基づいて作られ、国家の主権は国民にある。そして国家の存在目的は国民の生命、財産、自由を守ることにある。国家権力は放っておくと暴走するので、国民は代表者を議会に送り、国民の国民による国民のための政府を作り、監視しなければならない。そして、国家権力がそれでも暴走するようであれば、国民には国家との契約を改廃する権利がある。

ロックの社会契約説を信じ、苦労の末にイギリスと戦って独立を勝ち取ったアメリカ13州の人々は、この戦いからひとつの教訓を得た。

それは民主主義というのは、非常に貴重なものであり、それらは命を賭してでも守らなければならないということである。ロックの抵抗権や革命権はそれを教えている。

このロックの社会契約説に基づく民主主義を理解し、且つそれを命がけで守らなければならないということ。

これこそが彼らが学んだ民主主義の精神である。

このことはトーマス・ジェファーソンの独立宣言書に現れている。

「すべての人間は創造主によって平等に造られ、生まれながらにして何人も取り去ることのできない生命、自由、幸福の追求の権利を有することは自明の理である。その政府の統治者は人々から選ばれた代表者で、選挙民の同意を得なければならない。いかなる政府であろうと、選挙民の権利を護(まも)らないときには、人々は時の政府を覆し、新たな政府を誕生させる権利を有する。」

実はこの命を賭しても民主主義を守るという考えは、現在のアメリカ国民も持ち続けているのである。

これ、日本人の感覚からするとちょっと信じられないかもしれない。

以前、オジサンが海外関係の仕事をしていたとき、ビジネスで知り合ったアメリカ人には機会があればいつもこう質問した。

「あなたは民主主義を守るために命をかけて戦いますか?」

するとほとんどのアメリカ人は、真剣な顔になって、「もちろん!」と答えた。

もし、皆さんの周りにアメリカ人の友人がいたら同じように質問してみてほしい。きっと同じような答えが返ってくるはず。

これ、同じ質問をオジサンが日本人の会社の同僚に聞いたら、「おまえ、ちょっと最近働きすぎでストレスが溜まっているのか~?」って言われてしまった。

これほどまでに日本人とアメリカ人 の民主主義に対する考え方が違うのである。サウナと水風呂くらいの温度差がある。

なぜこのような温度差があるかというと、アメリカ国民は民主主義というのは永遠に続くものではなく、つねに守っていかないとなくなってしまうという危機感があるのに対し、日本では民主主義というのは、社会が発展していけばいつのまにか自然に発生するものという感覚があるからだ。いつでもどこでも空気のように民主主義というのはあり続けると思っている。

ここまで読んでくれた読者には、もうアメリカ国民と同じ民主主義の風景が見えてきたのではないだろうか。

9.11以降、アメリカはアフガンやイラクそしてイランに対して、無謀とも思える強硬姿勢を取り続ける理由は、彼らが民主主義の危機を感じているからなのである。もし何もしなければ民主主義がこの地球上から消えてしまうかもしれないと本気で思っている。リンカーンの「人民の人民による人民のための政府をこの地上から永遠に消してはならない!」というゲティスバーグの演説の言葉が今でも彼らの頭の中で響いているのだ。

オジサンの文通友達でオハイオ州に住んでいるマイケルという敬虔なクリスチャンがいた。彼は不動産会社に勤めていた。マイケルはリザーバー(reservoir)の一員でもあった。おそらく日本人にはこのリザーバー制度はあまり知られていないかもしれない。リザーバーは通常は一般人と同じ生活をしながら、定期的に軍事訓練を受けている人たちである。つまりいったん国家の危機が生じたときに軍務につく予備兵だ。

同時多発テロが起きてからアメリカがアフガニスタンに侵攻したとき、政府から彼は召集された。そこで彼は不動産会社を辞めて、手薄になった欧州のアメリカ軍基地を支援するためにヨーロッパへ送られた。そこでマイケルは1年近く勤務したあと、またオハイオ州にもどってきたのであるが、なかなか新しい就職先が見つからず苦労していた。オジサンはそれまでこのリザーバー制度には何らかの特典があるものだと勘違いしていた。たとえば国家から仕事を優先的に斡旋してもられるとか。ところがそのような面倒をアメリカ政府は見てくれないのだ。もちろん多少の保障のようなお金はアメリカ政府から出ていると思うが、リザーバー制度はほとんどボランティアの人たちによって支えられているということがわかった。

もし日本にこのような民主主義の危機が起きた時、自分の仕事を辞してまで戦おうという人がはたして何人いるだろうか?

先週大統領予備選挙がアイオワ州で行われたが、アイオワ州で走るすべての車のナンバープレートには次のような標語が書かれているという。

”LIVE FREE OR DIE!”(自由に生きよ、しからずんば死を!)

たとえ命を落とすことになろうとも民主主義を守る…。アメリカ国民の民主主義に対する気概を感じる言葉ではないか。

この命を賭しても民主主義を守るということは、なにも外からの脅威だけに向けられているわけではない。

実はアメリカ合衆国政府にも向けられているのである。

もしアメリカ国家の権力が暴走したら、彼らは立ち上がって革命を起こすくらいの覚悟をもっている。彼らはそれほどロックの社会契約説を信じきっている国民なのである。

ここまで話せば皆さんもなぜアメリカでは徹底した銃規制が行われないかがわかるでしょう。そう、彼らには銃を取り上げられるということが、なんとなく「刀狩り」のように感じてしまうからなのである。頭では銃を規制するべきと思っても、潜在意識の中で抵抗感があるのである。「わかっちゃいるけど止められない~♪それ、スイスイス~ダララッタ~♪」ってところでしょうかねぇ(ちょっ~と古いかな~?)。

一方日本はどうかと言えば、日本共産党でさえ革命路線を放棄してしまったくらいだから、権力が暴走したら革命を起こしてでも民主主義を守ろうなんて思っている人はほとんどいないだろう。いやむしろ国家権力が暴走するなんて夢にも思っていないかもしれない。なんだかんだ政府を批判はするが、結局親方日の丸を信じているのが日本人だ。

だからあちらこちらで日本の国家権力が肥大化して暴走しているのに気がつかない。

たとえば天下り。

独立行政法人なんてわけのわからない会社を作って官僚が天下りする。いくつかの会社を数年ごとに渡り歩いてごっそり退職金をもらっていくシステム。この天下りはなにも中央官庁だけではない。皆さんの周りを見渡してほしい。市や区といった地方行政レベルでもいたるところにわけのわからない▲×○■組合とか、○▲☆■協会なんて法人があるはず。たいていは地方行政組織の上層にいた人たちが天下っている。このように中央官庁から地方行政にいたるまで天下りシステムは日本中に広がっているのである。

日本天下り列島

この言葉がピッタリの役人天国が日本という国だ。

これを権力の暴走と言わずなんといったら言いのだろう。日本の政治・行政権力は官僚や地方の役人たちに簒奪されているのである。今や官僚たちはリバイアサンになろうとしている状態。

しかし不思議なことに、マスコミも国民も天下りを個々に批判はするが、これを民主主義の危機と声を大にして唱える人がいないのはなぜだろう。民主主義のプロである憲法学者でさえ「民主主義がいまや崩れようとしている!」と警告していない。これはバミューダ海域やピラミッドの謎に匹敵する世界七不思議のひとつに入れてもよいのではないかと思う。

ここで問題です。

「天下り」を英語ではなんと言うでしょうか?

答えは…

「天下り」なんて英語はありません、が正解。

ためしに皆さんが持っている和英辞典で「天下り」を調べてもらうとわかると思う。日本の「天下り」に相当する英語の言葉は見当たらないはずだ。仮に和英辞典に載っていたとしても、どれもこれも苦し紛れの英訳しか出ていないはず。

なぜ「天下り」に相当するピッタリの英語がないかというと、アメリカには天下りがないから。

「えっ、うそ~!」っと、驚かれる読者もいると思う。

そうなのです。アメリカには天下りなんて不公平なことは起きないシステムが採用されているのです。

天下りの原因となっているのは官僚制。日本はこの官僚たちが政治家を動かし、日本を支配している状態。自分たちの都合のいいように政治システムを作っている。

かつてはアメリカにも日本と同じ官僚制があった。しかしそれは民主主義を危うくするものとして、とっくの昔に官僚制を廃止してしまった。だから天下りがないのである。

その日本型の官僚制を廃止した人は、第7代大統領のアンドリュー・ジャクソンという人。

アンドリュー・ジャクソンは日本人にはあまりなじみのない大統領かもしれないが、アメリカ国民であれば誰でも知っている偉大な大統領の一人である。彼以前の大統領はジェントリーという貴族出身で、ほとんどが大農園主であった。ところがアンドリュー・ジャクソンは平民からはじめてなった大統領だった。彼は戦災孤児のど貧乏の逆境を跳ね返し、ホワイトハウスに駆け上った人だ。それだけに特に彼は特権階級の利権の独占が許せなかった。

彼は数々の業績を上げジャクソニアン・デモクラシーと呼ばれる時代を築いたが、そのうちの一つに抜本的公務員制度改革がある。

ジャクソンの時代にもノーパンシャブシャブや偽名を使ってまでのゴルフ三昧接待といった官民癒着があったのだろう。彼は「官僚は放っておくと腐敗し肥大化して、民主主義国家を危うくする」という危機感から、当時の官僚制を廃止して猟官制度を導入した。これは大統領が替わるたびに、公務員の主要ポストを総取替えする制度である。この猟官制度は現在にいたるまでアメリカ合衆国で採用されている。だからアメリカには天下りが起きないのである。

一口に官僚制を廃止すると言っても大変なことなのですぞ!

郵政民営化どころの話じゃない。全官僚を敵に回すことになるのですから。

しかしそれでもアンドリュー・ジャクソンは大統領生命をかけて官僚たちと戦い、公務員制度改革を断行したのである。なぜそこまでしたかというと、彼には民主主義は命を賭しても守り抜くという民主主義の精神があったからなのである。

ここまで読んでくれた読者の皆さんには、アメリカ国民が見る民主主義の風景が見えてきていると思う。どうですか。民主主義の精神から民主主義を見るとまったく違ってみえてくでしょう!

それじゃ、最後にこの民主主義の精神からみた日本の民主主義が実は健康そうに見えて、内部では血がドロドロのメタボリック症候群を起こしているということを検証して、この長かったブログ記事を終わらせることにしよう。疲れた方はちょっとここで休憩を取るか、明日この続きを読んでね。

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冒頭、アメリカ国民は民主主義の精神を膨大な時間をかけて子供たちに教えるとお話した。それに比べ、日本では数時間程度の民主主義の教育しか行わない。ロックの思想に関して言えば、わずか教科書に数行の記述しかない。

この結果、いま日本ではどのようなことが起きているか。

一億総民主主義音痴という状態が起きているのである。

あまりにも民主主義に鈍感になっていて、いま日本で起きていることが実は民主主義の根幹を揺るがす大問題であることに気付かない。

たとえば、薬害エイズ、薬害C型肝炎、防衛疑惑、ずさんな年金管理問題、等等…

ほとんどの国民がこれらの問題は個々に起きていると思っている。

ここまで読んでくれた読者には、もうおわかりになっていると思うが、これらは共通の原因から起きているのである。

民主主義精神の欠如

これこそがすべての問題の原因だ。

もし、厚生労働省の役人たちが「国民の生命を死んでも守る!」という気概を持っていれば、薬害エイズやC型肝炎問題は起きなかっただろう。社会保険庁の職員が末端に至るまで、「国民の財産である年金を死んでも守ってみせる」という気概で働いていれば、このようなずさんな管理で大問題になることはなかったはずだ。

厚生労働省の役人も社会保険庁の職員も、これは上層部の連中がやったことで、木枯らし門次郎なみの「あっしには関わりのねぇことでござんす」ってな顔をしている(このたとえもちょっと古いかな?)。ひとりひとりに民主主義を守り抜こうという民主主義の精神が欠如しているのである。”LIVE FREE OR DIE!”っていうくらいの民主主義を守るという精神がないのである。

あれもこれもそれも、すべて貧弱な民主主義教育から起こる民主主義精神の欠如が招いた悲劇なのである。

健全な民主主義社会は民主主義の精神が国民一人ひとりに行き渡り、各個人がそれにしたがって行動することにより、はじめて実現されるものなのである。

だから民主主義精神が国民ひとりひとりに根ざすことがなければ、同種の事件は今後とも起こってくるだろう。

どうですか。ここまで読んでくれた読者には、外見上は憲法があり、議会政治が行われ、三権分立が整っている日本の民主主義が健康そうに見えて、実は内部ではメタボリック症候群を患っていることがおわかりになったかと思う。

もしジョン・ロックがこの世に生き返って今の日本の状態を見たら、

「日本は断じて民主主義国家ではない!」

と言うに違いない。

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最後に日本の憲法9条についても触れておこう。

日本人に憲法でもっとも重要な条文はなんですか?…

…って聞いたら、おそらく

それは憲法9条の戦争の放棄であると答える人が多いのじゃないだろうか。

なぜかというと、戦後60年、日本では憲法論議はほとんど憲法9条に費やされてきたからである。テレ朝の俵総一郎さんの「朝までやってる」討論番組では、憲法問題はすべてこの9条問題だったし、憲法を守る会の人たちも問題としているのはやはりこの9条だった。とにかくマスコミも一般市民も憲法といえば9条のみ、憲法にはそれ以外の問題はないって感じで過ごしてきた。

だからほとんどの人たちが憲法でもっとも重要なのは憲法9条だと思い込んでしまうのは無理もない。

ここまで読んでくれた読者にはもうおわかりだと思うが、

憲法の命は基本的人権の保障にある。

日本国憲法で言えば、第十条「基本的人権の享有」、第十三条「国民の生命、自由および幸福を追求する権利の尊重」、第十九条「思想、信条の自由」である。

本来、我々が憲法に関して論じてこなければならなかったことはこの基本的人権の保障だったのである。あまりにも憲法第九条に時間を費やしすぎたため、国民の憲法に関する感覚がいびつになってしまった。

それを如実に表しているのが、隣国北朝鮮による日本人拉致問題。

こう着状態にあるこの拉致問題に対して、だれひとり武力を持ってして解決すべしと主張するものがいないのである。国民もマスコミも政治家も、武力で解決するという発想がないのだ。

それもそのはず、日本国憲法第九条では国際紛争を解決する手段としての武力を放棄してしまっているからだ。

日本では第九条は神聖にして冒すべからず的条文となってしまっている。

誤解がないようにしたいのだが、オジサンは戦争をすることを言っているのではない。拉致被害者救済の一手段として、武力の行使もひとつの選択肢として挙げているのである。

ここで冷静に考えていただきたい。

憲法第九条と基本的人権の保障とどちらが大切か?

民主主義教育をきちんと受けて、民主主義精神を受け継いでいるアメリカ国民なら、こんな簡単な問題は小学生でも答えられるだろう。またここまで読んでくれた読者にもすでにお分かりになっている。

憲法の命は繰り返すが、基本的人権の保障にある。比べること自体がナンセンス。国家は国民の生命、財産、自由を守ることが最重要事項である。

基本的人権の保障を遂行するのに憲法第九条が足枷(あしかせ)になるのであれば、さっさと修正するべきである。

憲法でぜったい変えていけないのは基本的人権の保障だけ。それ以外は民主主義というのは時代が変われば、状況も変わっていくので憲法もそれに合わせて修正していかなければならない。アメリカ合衆国は建国いらい何度も憲法を修正して、時代の変遷に対応してきた。日本国憲法も現代の状況に合わせて修正すべきなのだ。いつまでも日本はシーラカンスとなってしまった憲法を持ち続けるべきではない。

もし、アメリカ人が北朝鮮に拉致されて、アメリカ大統領がなにもしなかったら、アメリカ国民はその大統領を大統領のゴミ箱へポイしちゃうだろう。

1979年11月、駐イランのアメリカ大使館がテロリストに占拠されるという事件が起きた。時のアメリカ大統領は第39代のジミー・カーターだった。カーターは有名な平和主義者でハト派の代表格。そのカーターでさえ即座にピンポイントの救出をするために空てい部隊をテヘランへ送り込んだのである。なぜか?

イラン大使館の人質の中に一般国民がいたからである。

国民の生命、財産、自由を守ることは国家の基本中の基本。何もしなければ民主主義が死んでしまう。

だからカーターは軍隊を即座に送ったのである。

しかしながらこの時カーターは人質救出に失敗し、アメリカ国民は、国民の生命を守れない無能な大統領はいらない!って感じで、翌年の大統領選挙でジミー・カーターはゴミ箱へ結局ポイされちゃったのである。

もっとも何もしない日本の政治家より何倍もカーターの方がましか…。

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いろいろと長々と書いてきましたが、どうでしょうか。皆さんの民主主義の風景が変わりましたでしょうか。

私たちはCNNや映画、あるいは音楽などでアメリカ人に接する機会が多く、アメリカ人に対して親近感を持っていると思います。ところがそのよく知ったつもりになっているアメリカ人というのは、実は宗教や民主主義に関して、日本人とは似ても似つかない考え方を持った人たちなのです。

コミュニケーションで大切なことは、単なる言葉の技術だけでなく、こういった文化的な背景を学んで知ることです。バイリンガルと同時にバイカルチュラルを目指してくださいね。

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最後にオジサンのお願い。

本文でもお伝えしたように、民主主義の社会が健全に機能するためには、一人ひとりが民主主義の考え方を理解して、民主主義の理念にしたがって行動しなければなりません。そのためにはもっと充実した民主主義教育がこの国には必要です。現在の民主主義教育はあまりにも貧弱です。皆さんの中で将来政治家になる人や、文部科学省などの官僚になる人がいたらぜひ充実した民主主義教育を子供たちにできるように教育改革をお願いいたします。

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あとがき)

いや~、いつも長いブログを書きますが、今回は特別長かったですね。字数を数えてはいませんが、おそらく一冊の本になるくらいの分量がありましたよね。

最後まで読んでくれた読者に感謝します。

多分、このブログ記事を最後まで読んでくれたのは、今のアクセス数からすると数人程度かと思います。ひょっとしたら一人も完走できなかったかも…。

もし、最後まで読んでくれたら、読んだよ!って程度でいいので、コメント下さいね。一人でも読んでくれる人がいたらこれからも書き続けますから。

次回は民主主義教育に関して、歴史教育にもひとこと補足します。

私たちが学校で習ってきた歴史は、海外から見ると実に奇怪な教育に見えるんですよ。オジサンが仕事で付き合った外国人から学んだ歴史教育を紹介し、いかに日本の歴史教育がいびつになっているかをお話したいと思います。

それじゃ、またね~。ばいばい。

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参考文献

ルーツ

パワーシフト

統治論

アメリカ大統領物語

アメリカ外交の魂

憲法原論

バイブル

美しい国へ

2007年9月30日 (日)

民主主義を殺すもの

日本とアメリカの違いはいろいろあるが、選挙の考え方もかなり違う。

日本では選挙にお金をかけることは悪いことだと思われている。

お金をかけすぎると、すぐにマスコミに「金権政治だ!」って批判をされてしまう。一度金権政治化のレッテルを貼られると、悪役のイメージが付いてしまうために、有権者たちから敬遠されてなかなか当選できない。だから候補者たちは極力選挙運動を質素に見せようと努力する。たとえば選挙のスタッフたちは手弁当で応援のかたちを取ったりする。また法律でも候補者一人に対して事務所や選挙カーは何台までとか、うぐいす嬢や選挙スタッフは何人までといった具合に規定してある。細かなところでは事務所に飾るダルマやちょうちんの数まで規定している。

こんなことを全然気にしないのがアメリカの選挙だ。

もし皆さんがアメリカに行って選挙にお金はかけてはならないなんて言ったら、アメリカ人からけげんな顔をして、「ホワイ?」って聞き返されてしまうだろう。

なぜなら、アメリカ国民は選挙にお金をかけるのが当たり前と思っているからだ。

彼らはお金をかけるから知名度のない新人議員であってもチャンスがあると信じている。とくに自国のトップとなる大統領を選ぶ選挙となれば、その候補者がどのような候補者であるかを知るために、お金をかけなければならないと思っているのである。だから大統領選となれば、各候補ともジャカスかお金をかけて全国を遊説するし、テレビコマーシャルをどんどん流すのである。

もっとも日米のこの違いは、選挙資金の集金方法の違いからきているのかもしれない。

日本の場合は基本的に、一部の政党を除いて、企業の献金に頼っているのが現状だ。

表面上はパーティ券購入のような個人献金の形式を取っているが、実際は各企業に割り当てられた券を個人名で購入している現状だ。オジサンの勤めている会社にも選挙の時期になると、「パーティ券の購入お願いしま~す」って、いろいろの関連企業から依頼がくる。このような選挙資金の集金方法が、企業との癒着を生むのではないかという懸念があり、日本では選挙にお金をかけないほうが良いという考えになるのだと思う。

ところがアメリカの場合はどうかというと、もちろん有力な企業やお金持ちがスポンサーになったりするかもしれないが、大部分は一般国民の個人献金が大きなウェートを占めている。

一般の国民が自分の応援したい候補者に、100ドル、200ドルといった献金をするのだ。人気のある大統領候補者になると、選挙権を持っていない女子高生でさえ、アルバイトをして得たお金の一部、たとえば10ドル、20ドルといった寄付をしたりする。能力のある政治家、人気のある政治家であればそうとうな選挙資金を調達することができる。それを宣伝費や遊説などの資金にあってているのである。こんなところから選挙にお金をかけることにアレルギーが無いのかもしれない。

大統領選に関していうと、かけるのはお金だけではない。相当な時間もかけるのである。

アメリカ人は実質2年間をかけて大統領を選ぶのである。

このアメリカの大統領選挙であるが、皆さんもご存知かもしれないが、非常に複雑な選挙方法が取られている。

まず、大統領選挙が行われる年の2月から6月にかけて、予備選挙というものが行われる。アメリカでは共和党と民主党の2大政党制を布いており、各党の候補者を一般有権者が選ぶわけであるが、それぞれの州によって若干の違いはあるが、間接選挙で行われる。

そして、それぞれの党で選ばれた候補者が11月の大統領本選に臨むわけであるが、このときの11月の本選も一般有権者が投票した総数で大統領が選ばれるわけではない。これまた間接選挙を採用している。各州で勝利した候補者がその州の選挙人団という人たちを獲得し、その選挙人団の人数を多く獲得した候補者が大統領となるのである。

2000年の大統領選は稀にみる接戦で、民主党のゴア候補に投票した一般有権者数が多かったにもかかわらず、間接選挙人数を多く獲得したブッシュ候補が大統領に選ばれるという矛盾も生じてしまった。

この時のニュースを見て、「アメリカ人ってバッカじゃないの!予備選や本選なんて止めて、最初から複数の候補者を直接選挙で選べばいいじゃん!」って思った読者は多かったのではないだろうか?確かに最初から直接選挙にすれば、時間もお金もかからずに済むはずである。

ところがじつは、彼らはわざと大統領選挙を複雑にしているのである。

これは日本人にはあまり知られていないことかと思うが、この複雑な大統領選挙方法の原形を考案した人は、ジョージ・ワシントンと建国の父たちである。

ジョージ・ワシントンが憲法制定委員会議長になったとき、このアメリカ合衆国という人類史上初めての民主主義国家を永続させたいと思った。そこで彼は民主主義の国家がどのように衰退していくかを歴史の中から学ぼうとしたのである。ところが、当時のヨーロッパの国々では王様のいない国家はなかった。ましてや民主主義の国家なんてものはなかった。つまりジョージ・ワシントンが教科書とする国家がなかったのである。

そこで彼が注目したのは古代ローマであった。

古代ローマでは最初のころ共和政(民主政とほぼ同義)を取っていた。すべてのことは貴族の代表者の合議で決められていた。その民主的なローマがなぜジュリアス・シーザーという独裁者に乗っ取られてしまったのか。ジョージ・ワシントンは彼の仲間たち(建国の父たち)と徹底的に、このころのローマと独裁者・シーザーを研究したのである。

そしてひとつの結論に達した。

独裁者は民衆の熱狂から生まれる。

シーザーは執政官になると、国有地を貧しい平民に分配する法律を制定し、ガリア地方の遠征を成功させた。またシーザーは大変な雄弁家でもあったので、平民たちからの人気は絶大なものがあった。その彼がローマに軍隊を入れてクーデターを起こしたのである。ローマに入ってきたシーザーに対してローマの大衆はブーイングをしたかというとまったくその逆で、シーザーは民衆の歓呼で迎え入れたのである。シーザーのクーデターは大衆の熱狂なしでは成功しなかった。

つまり我々が最も恐れなければならないのは、独裁者ではなく、独裁者を生み出す我々国民の熱狂なのである。

国民の熱狂こそが民主主義を殺す。ジョージ・ワシントンはそう考えた。

だからジョージ・ワシントンと建国の父たちは、大統領が国民の熱狂によって選出されることがないように、このように時間のかかる、かつ複雑なシステムにしたのである。

国民の熱狂は短時間である。どんなに人気のある候補であっても、国民の熱狂は2年間も続かない。また2年間かけて選挙をすることによって候補者一人ひとりを有権者たちは観察することができる。どんなに完璧に見える候補でも、2年間かけて選挙をすれば、ひとつや二つのアラが見えてくる。候補者が神格化されることを防ぐことができるのである。

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ところで、おそらく独裁者と言っても、多くの日本人にはピンとこないと思う。

今の日本は民主主義の国で、憲法で基本的人権が保障されているし、三権分立がなされている。しかも戦争も無く平和だ。だからほとんどの人たちは独裁者なんて遠い国のことで、日本には全然関係ない話しだと思っていることだろう。でも、独裁者はどこにでも出現するのである。日本であっても例外ではない。

日本にも独裁者が現れる可能性があるという話しをしたい。

たとえばこんな以下のケースを考えてほしい。

ある日のこと、かいちゃんという天才政治家が日本に現れた。

かいちゃんは菜食主義で虫もころさない、とても性格が優しい人だった。かいちゃんの生活はとても質素で誠実そのもの。かいちゃんは禁欲主義者で、汚職の「お」の字も見当たらない清廉そのものだ。またかいちゃんはかつては画家をめざしたこともある芸術家タイプで雄弁家。彼と会った人たちがかいちゃんの人間的魅力にとりつかれてしまうほどのカリスマ性をもった人であった。かいちゃんは理想的な政治家であり、非の打ち所がなかった。少なくとも多くの人たちにはそう見えた…。

そんなかいちゃんがある時、国民の人気を背景に日本の内閣総理大臣になった。

かいちゃんは総理大臣になると同時に、強力なリーダーシップを発揮して、現在の日本の諸問題をすべて解決してしまった。

たとえば、かいちゃんは巧みな経済政策の実行により景気を活性化し、いままで就職したくても就職できなかったフリーターの人たちや派遣社員の人たちが正規雇用できるように法律を作った。そして格差のない社会をみごとに実現し、国民のすべてが豊かに生活できるようになった。

また、国民の年金を食いものにしている社会保険庁を即座に解体し、プロフェッショナルな投資集団を組織して、巧みな投資により、増税することなく年金基金の財源を創出し、国民の老後を保証することができた。これで日本国民が老後の不安なく安心して生活ができるようになった。

隣国による拉致問題に関しては、諜報機関をフルに活用し、拉致被害者の所在を調べ、ピンポイントに空てい部隊を送り込んで、一人の血も流すことなく、被害者全員の救出に成功したとしよう。

こんなかいちゃんという有能な首相が日本に現れたら、皆さんは熱狂しないだろうか。そしてこの人にずっと自分たちのリーダーでいてほしいと思わないだろうか。

そんな時にかいちゃんが皆さんにこう言ったとしたら、皆さんはどう判断するだろうか?

「私に全権を与えていただければ、もっと豊かな日本を造ります!」

こんな有能な人格者であれば、全権を彼に与えちゃってもいいかな…なんて思ったりしないだろうか?

「そんな、神様じゃないんだから、日本が抱えているそれらの諸問題をすべて解決するなんてできっこないじゃないか!」って反論する人もいると思う。

もちろん、かいちゃん(オジサンのこと)にはそんな能力はまったくないので、かいちゃんは独裁者なんかになれっこない。せいぜいなれるのはウサギの独裁者くらいだ(我が家ではうさこを12匹飼ってるのです…)。

ところが、そんな神様のようなことを実際にやってのけた人間がいるのである。

アドルフ・ヒトラーである。

ヒトラーというとほとんどの日本人はドイツの独裁者でユダヤ人を虐殺した恐ろしい人とだけしか知らないのではないだろか。

ヒトラーに関して我々がしっかりと知っておかなければならないことは、

ヒトラーは当時、世界で最も民主主義的と言われたワイマール憲法の下で、合法的に独裁者になったということである。

そして次にヒトラーに関して知っておきたい重要なことは、彼は天才だったということである。

つまり天才がひとたび出現すれば、民主主義の社会でも合法的な方法で独裁者となる可能性があるということである。

ヒトラーがどれほどの天才だったかを知るために、最初に当時の社会的な背景を知っておく必要がある。

1929年10月24日にニューヨークのウォール街で端を発した株価暴落は、瞬(またた)く間に世界を飲み込んで大恐慌となった。一瞬にして財産を失った人たちは路頭に迷い、自殺する者も続出した。ウォール街では歩くときに上を見て歩け!と言われるほど、ビルからバラバラ人が降ってきたという。この日だけで、11人の飛び降り自殺者が出たのだ。また企業の倒産や閉鎖が相次ぎ、あっという間に世界中で失業者があふれ出した。

もっとも世界恐慌の打撃を受けたのはドイツだった。

第一次世界大戦で敗戦したドイツには、ベルサイユ条約で莫大な賠償金の支払いが命じられていた。その金額たるや天文学的数字で、孫の代まで払い続けても返せないと言われていた。

そんな巨額の賠償金支払いで国家財政が苦しいドイツに世界恐慌が襲ったのだからたまらない。すぐに国家財政は破綻し、たちまち巷(ちまた)には大量の失業者が出てしまった。その数なんと600万人。じつにドイツ国民の5人に1人は失業してしまった。当時の失業は今の我々の失業と深刻さが違う。我々日本では失業すれば失業保険が出るし、給料の条件を考慮しなければコンビニでも、工事現場のガードマンとしてでも働くことはできる。ところが1930年代の社会では失業したらアウト。なんの保証も働き先も見つからず、路上生活で乞食をするしかないのである。失業ということが彼らにとってどれほど深刻で恐ろしいものであったかがわかると思う。

そんな恐ろしい失業問題を短期間で解決したのがヒトラーである

1933年の選挙によってドイツの国民議会の第一党となったナチスのヒトラーは合法的にドイツの首相になった。そしてまずやったことは、アウトバーンの建設をはじめとする公共工事である。

今でこそ不況になれば市場を刺激するために、公共投資をするということは誰でも知っている。

不況のときに公共投資が効果的であることを初めて提唱したのは、近代経済学の祖、ジョン・メイナード・ケインズというアメリカの官僚である。彼は「雇用・利子および貨幣の一般理論」という本を1935年に出版し、その著書のなかで不況時に人工的に需要を増大させる政策の有効性を証明した。それ以降、不況時に公共投資をする国が増えてきた。

しかし、ヒトラーが首相になった1933年時点では、不況に公共投資が有効であることはだれも知らなかった。

むしろ国家は経済に介入してはならないと思われていた。

この時代の経済学の主流は古典派経済学。古典派経済学の祖、アダム・スミスは「国富論」という本の中で、レッセフェール(自由放任主義)を提唱した。国家がなにもしなければ、市場は見えざる神の手(市場原理ー需要と供給バランス)によって最大多数の最大幸福を実現すると主張した。アダム・スミスの説はそれまでの小さな不況には効果を発揮した。だから今回の不況でも、どの国もこの大不況の中で何もせず、いずれは市場の健全性がもどると信じてじっとしていた。しかし経済が好転する兆しはまったく見られなかった。

各国政府は古典派経済学者たちに何度も意見を求めたが、彼らはいずれ市場は回復すると言うのみ。ところが不況はどんどん悪化して行ったのである。そのうち古典派経済学の大家たちは、「これは古典派経済学の理論が間違っているのではない。回復しない市場が間違っているのだ!」、なんてことを言い出す始末。

そんな時に、古典派経済学のレッセフェールなんてゴミ箱にポイしちゃって、ヒトラーただ一人が公共投資をしたのである。

ヒトラーが公共投資をしようとした時、そんなことをしたら市場はさらに大混乱を起こしてしまうってことで、ヒトラーの側近たちやドイツの経済学の大家たちは止めようとしたが、ヒトラーは一切聞く耳を持たず、公共投資を続けた。そうしたところ当然のことと言うべきか、景気は回復し失業問題は短期間で解消したのである。しかも通常公共投資をするとインフレが起こるのであるが、特筆すべきは、ヒトラーは巧みに市場を調整しながら公共投資をしたので、この時インフレを起こさずに市場を回復させたのである。

驚くべきとしか言いようがない。

ヒトラーは若い頃は画家志望であったので、経済学の「け」の字も知らなかったはずである。なぜ公共投資が不況に有効であることをヒトラーが知っていたのか。天才は生得の知恵があるということなのかもしれない。

この大不況で世界中がのた打ち回っている時に、ヒトラーのみがドイツ経済の立て直しに成功したのである。

当然のことながら、ヒトラーの国民的人気はうなぎのぼりのように高まった。

次にヒトラーが行ったのは大ドイツの復活である。

第一次世界大戦で敗戦国となったドイツにはベルサイユ条約で、多額の賠償が義務付けられただけでなく、軍事力の制限と広大な領土の譲渡があった。ドイツ人にとってこれは屈辱的な条約であった。ドイツ国民の尊厳や自尊心はこの条約でボロボロであった。

そのドイツ人にとって恥辱とも言えるベルサイユ条約を、1935年にヒトラーは一方的に破棄すると宣言したのである。

そしてヒトラーは一挙に陸軍の規模を12倍にするべく、再軍備を開始したのだ。

この時ばかりは、ヒトラーの側近だけでなく、ドイツ国民も震え上がってしまった。

大国のイギリスとフランスが攻め込んでくる!

ドイツ国民もヒトラーの側近もそう思った。ただしヒトラーを除いて…

ところがヒトラーはその時にイギリスやフランス国内で広がっていた平和主義運動に着目していた。

第一次世界大戦はこれまでの戦争では考えられないような戦死者を出した。その反動からイギリスやフランスでは国民に厭戦感情が高まり、いたるところで国民による平和主義運動が繰り広げられていた。

「イギリスもフランスも、国民の世論に反対して、軍事行動を起こせるような勇気のある政治家は一人もいない!」と、ヒトラーは読んでいた。

ヒトラーの読みは的中した。

イギリスもフランスもこのとき軍事行動を起こさず、ヒトラーのベルサイユ条約破棄宣言と再軍備を黙認したのである。

その後は平和主義運動の高まりで動けないイギリスとフランスを尻目に、無血で第一次大戦で取られたラインラントの領土を奪い返し、オーストリアを併合して行った。

ドイツ経済を立てなおし、失業問題を解決し、ベルサイユ条約によってボロボロとなったドイツ国民の尊厳を取り返したヒトラー。またアーリア人至上主義を説き、ドイツ民族の誇りと自信を取り戻してくれたヒトラー。

ドイツ国民が熱狂するのはむべなるかな。

ドイツ国内は欣喜雀躍、狂気乱舞の手のつけようがない状態。一神教であるキリスト教徒のドイツ人は、「神様、仏様、ヒトラー様!」とはさすがに言わなかったが、その代わりにこう言った。

「ヒトラーは限りなく神に近い人…」

一神教のキリスト教徒がこう言ったら、もうヒトラーを神だと言っているようなものだ。こうしてヒトラー神話が作られていった。

ヒトラーの行くところはどこでもドイツ国民が、「ハイル、ハイル!」の大合唱。ドイツ国民のすべてがヒトラーに心酔していた。

そんな時、「私に全権を与えていただければ、もっと豊かなドイツを実現してみせます!」とヒトラーは言った。

ドイツ国民は将来悲惨なことが起こるなんてことは誰も疑わずに、あっさりとヒトラーに全権を与えてしまった。

1935年にドイツ国内で国民投票が行われた。

そしてなんと国民の90パーセント以上という圧倒的支持で、首相と大統領の兼任(行政権の完全な掌握)、立法権、軍隊の指揮権といった、司法権を除くすべての権力をヒトラーに渡してしまったのである。

こうして三権分立という鎖がはずされ、リバイアサンという怪物が解き放たれたのである。

その後は、皆さんもご承知のように、誰もヒトラーの暴走をくい止めることができなくなり、世界は人類がいまだ経験したことのない第二次世界大戦という大惨事に突入していったのである。

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日本にヒトラーのような天才が現れたとき、はたして我々日本国民は冷静な判断ができるだろうか?皆さんには独裁者を出さない自信がありますか?

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国民の熱狂こそが民主主義を殺す。

ジョージ・ワシントンの慧眼(けいがん)は、はからずも他国の歴史が証明した。

アメリカの大統領は、行政権、軍隊の指揮権および立法に対しての拒否権という強い権力が与えられている。

だからこそ、ジョージ・ワシントンは国民の熱狂から独裁者になろうとする候補者が出ることを恐れたのである。

建国以来200年以上、アメリカ合衆国に一人の独裁者も出現しなかった理由は、ジョージ・ワシントンと建国の父たちが考え出したこの複雑な選挙制度にある。各政党の候補者選びから、予備選、本選と実質2年間という時間をかけてアメリカ国民は大統領となるべき人をじっくりと観察していく。そうすればひつじの皮をかぶった狼のどす黒い野望を見破ることができるのである。どんなに選挙に時間とお金がかかろうが、あるいは集票に手間取ることがあろうが、おそらくアメリカ国民はこの大統領の選挙方法を変えることはないだろう。

死してなおアメリカの民主主義を守り続けるジョージ・ワシントン。

ジョージ・ワシントンが歴代の偉大な大統領の中でも、ナンバー・ワンであることに異論を唱える者は一人もいないであろう。

あとがき)

ふ~うっ!

お疲れ様でした。今回はちょっと分量が多すぎましたでしょうか?最後まで読んでいただいた方は何人いるのかしら、ちょっと心配…。

昔と違って最近は日本国憲法を改正しようという議論がときどきされます。その際に日本もアメリカと同様に首相を一般国民が直接選んだほうがよいのではないかという首相公選制が話題になったりします。でも、日本のように選挙にお金をかけることが悪いことのように見られる国では、一般国民の直接投票がとても危険であることがお分かりになったのではないでしょうか。

ジョージ・ワシントンについて今回お話したとなると、どうしてもエイブラハム・リンカーンにつても話さなければなりません。なにしろこの二人は、王と長島、大鵬に柏戸、アントニオ猪木にジャイアント馬場、ラーメンに餃子(オジサンはラーメン餃子が好きなので、へへへっ…)のような関係ですから。

宗教ブログと言っておきながら、次回もアメリカの大統領についても話させて下さい。

それじゃ、来週も読んで下さいね。

バイバイ。

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参考文献

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ヒトラーと第三帝国

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ヒトラー神話の誕生

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ヒトラー・ユーゲント

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経済学をめぐる巨匠たち

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A Short History of The World

2007年9月23日 (日)

私の周りに神は見えない

前回の投稿記事で、1957年の旧ソビエト連邦の人工衛星スプートニクの成功がアメリカ国民にショックを与え、それまで多くの州で施行されていた反進化論法が廃止されたというお話しをした。

ところが、その4年後にもっとショッキングなことがおこった。

1961年4月の旧ソビエト連邦の有人宇宙飛行の成功である。

おそらく今の若い人には馴染みのない名前かもしれないが、人類史上はじめて宇宙に出た人物は、ユーリー・ガガーリンという軍人である。いまでもロシアの英雄の一人である。

オジサンと同い年かまたは年配の人であれば、この質問には簡単に答えられると思う。

ガガーリン少佐が宇宙から地球に送ってきた最初のメッセージは何でしょうか?

おそらくほとんどの日本人がこう答えるに違いない。

「地球は青かった…」

それまで人類は宇宙から地球を見たことがなかったので、我々の住むこの地球が宇宙空間で青く光る星であることは誰も知らなかったのである。だから彼が発したこの言葉は非常に印象が強く、当時の多くの日本人の心に感動とともに強く焼きついた。

ところが、同じ質問をアメリカ人にしたらどうだろうか。

これがまったく違った答えが返ってくる。

アメリカ人が記憶するユーリー・ガガーリンが最初に宇宙から発した言葉はこのようなものであった。

「私の周りに神は見えない…」

「へぇ~、結構哲学的な言葉だね!」って、皆さんの多くがのんきに思われるかもしれない。ところがあまり知られていないが、この言葉はアメリカという大国の60年代の方向を決定したといっていいほどのインパクトのある言葉だったのだ。

当時の日本人もこの言葉はニュースの報道などで聞いているはずなのであるが、宗教音痴の日本人はこの言葉は左の耳から入って右の耳から抜けて行っちゃった。だからだれも記憶していないのである。

ところが、キリスト教国であるアメリカは違った。

アメリカ国民のすべてがこのガガーリンの言葉に怒り震えたのである。

なぜかというと、アメリカはキリスト教の国であり、このガガーリンの発した言葉は、アメリカ国民を最高に侮辱した言葉であったからだ。

ちょっとわかりにくいと思うので、もう少し解説を加える。

旧ソ連は社会主義の国であったが、その理論的基礎は唯物論というものにあった。唯物論とは、我々の精神活動も含め、この世のすべての事象は物質の変化によって説明ができるという説である。そこには物質以外の要素(たとえば神など)は入る余地はない。社会主義の創始者・マルクスは「宗教は精神的アヘンである」と言って、宗教を切り捨てた。つまり、社会主義国家は無神論国家なのである。

かたや、アメリカは言わずとしれた資本主義国家であり、キリスト教国でもあった。

したがって、当時の資本主義国・アメリカと社会主義国・旧ソ連邦の対立は、有神論国家と無神論国家のイディオロギーの対立でもあったのである。

キリスト教の神はどこにいるかというと heaven (天国)である。

その heaven (天国)はどこにあるかというと、実は聖書にはその所在は明らかにされていない。だからと言って、地中深いところにあるとは考えにくい。神様はモグラじゃないんだから、そんな暗いジメジメしたところがお好きとは思われない。どちらかというと広々とした明るい上の方にあるのではないだろうか。そう考えた方が全知全能の神様のイメージにはピッタリだ。だらから大概の人は heaven (天国)というと上の方にあると考える。

ガガーリンもそう思った。

我々のずっと上の方、つまり宇宙空間からガガーリンが発した「私の周りに神は見えない」という言葉は、「天国など存在しない」また「神など存在しない」という、無神論国家・旧ソ連邦の宇宙開発競争における高らかな勝利宣言であり、かつアメリカ国民を文字通り見下した言葉であったのである。

だからアメリカ国民は怒りに震え、悔し涙を流したのである。

ガガーリンの有人飛行から3週間ほどして、アメリカもアラン・シェパードという宇宙飛行士が乗った宇宙船・フリーダム7号で有人飛行を成功させた。しかしこの宇宙飛行の実施はじつにタイミングがわるかった。なぜかというとガガーリンのボストーク1号との有人飛行の技術差が歴然として現れてしまったからだ。

ガガーリンは地球周回軌道に乗り1時間50分かけて地球を1周したが、アラン・シェパードの乗ったフリーダムは単に弾道飛行を16分間したのみ。無重力も10分間弱しか経験しなかった。今の人たちはサーカスなどを見たことがないかもしれないが、ピエロが大砲の中にはいってドンと打ち上げられ、放物線を描いてネットなどに着地する芸がある。アラン・シェパードの弾道飛行は、そのピエロのちょっと大掛かりな打ち上げと考えればよい。フリーダムは厳密な意味で宇宙に出たとは言いがたかった。

ガガーリンの華々しい成功のあとでは、文字通りアランシェパードはピエロを演じてしまったのである。

本来なら彼は国民的英雄としてアメリカ国民から熱烈な歓迎とともに地球に帰還するはずであったが、現実はその逆で、アメリカ国民の失意とともに迎え入れられたのだった。

当時のソ連邦はすごい国だった。少なくとも周りの国々にはそのように目に映った。

今の人たちには考えられないことかもしれないが、1960年代、1970年代は社会主義国の絶頂期で、農業生産も工業生産も年々倍増につぐ倍増が報じられていた。世界のいたるところで社会主義になる国も増えていた。またオリンピックなどは、まるでアメリカとソ連邦の運動会のようなもので、金メダルというとほとんどがこの二国が独占していた。ソ連邦の国威を示すひとつの例である。

カール・マルクスは唯物史観というものを唱えた。

これは人間はその社会の一定の生産関係の中にあり、歴史の移り変わりによって、生産関係も変わり、社会が発展していくというものである。たとえば中世は農奴と封建領主との生産関係であったが、貨幣経済が普及するにつれて、近代社会では労働者と資本家の生産関係に移っていくというように。

そしてマルクスはその著書「資本論」の中でこう予言した。

「生産技術の向上は、資本主義社会の内部矛盾を引き起こし、いずれは社会主義を経て、共産主義社会に移行する!」

いまから考えればばかばかしい話だが、60年代、70年代には、このマルクスの予言を信じている人がけっこういた。お恥ずかしいながらオジサンも学生時代は、ある朝起きたら日本は社会主義の国になっていた…なんてことが起こるのではないかと漠然と思っていた一人だ。

現在地球上に残っている共産主義国は、中国、キューバ、北朝鮮のみ。あとは1990年代にみんな崩壊してしまった。中国は共産党一党独裁を除いて、資本主義国に変貌しつつあるから、もはや現存する共産主義国に数えられないかもしれない。だから今から振り返れば、マルクスの予言なんて現在はだれも信じる人はいない。

しかし当時はアメリカでさえマルクスの予言に囚(とら)われていたのだ。

アメリカには、その頃ヒステリック症状というべき「ドミノ理論」という外交思想があって、連鎖的に共産主義国が誕生するなんていう強迫観念があった。だからアメリカはベトナムへの軍事介入をしつつあったのだ。実際はアメリカが70年代にベトナムから手を引いたら、現在のベトナムを見ればわかるように、彼らは共産主義の道を選ばずに資本主義の道をひたすら歩んでいる。(あの悲惨なベトナム戦争はいったいなんだったのか…。)

当時はそれほど現実離れした社会主義の脅威論が大きかったのである。

そんな状況下でソ連邦の有人飛行の成功が報じられたのである。

アメリカ国民の落胆振(ぶ)りは推(お)して知るべし。

やはり、ソ連には勝てないのか…。

アメリカ国民は敗北感にうちひしがれ、アメリカ社会には暗~い雰囲気が漂っていた。

このような状況下で、この劣勢をみごとにひっくり返す男が現れた。

就任したばかりの第35代大統領、ジョン・F・ケネディである。

ケネディは若干43歳の若さであったが、並みの大統領ではなかった。

フリーダムが帰還して数日後の1961年5月25日、ジョン・F・ケネディは突如として、アメリカ予算委員会でこう発言した。

「60年代が終わるまでの10年以内に人類を月面に立たせます!」

そしてこうも言った。

「これまでの宇宙開発で、これ以上重要で、これ以上困難で、これ以上費用のかかるものはありません!」

人類を月に送り込むためにいったいいくらかかるのか?いやそれ以上に月面に人類が立つことが果たして可能なのかどうか?力強く宣言したケネディ自身この時点ではわからなかったのである。

ひょっとして月面には技術的には行けないかもしれない…

世紀の茶番大統領の汚名を歴史上に刻む可能性が高かったが、アメリカ国民に希望を持たせ、ふたたびアメリカ社会を活性化させるため、アメリカ合衆国の威信をかけたケネディの一(いち)か八(ばち)かのかけであった。

もし日本で、政治家がなにかのプロジェクトを推進しようとして国民に向かって、「可能かどうかわからないくらい困難で、いったいいくらかかるかわかりません!」といったら、「あんた、いったいなに考えているの…」って、即リコールをくらっちゃうでしょう。ところがケネディが「月面に人類を立たせる!」って宣言したとき、アメリカ国民のブーイングを受けるかと思いきや、まったく逆だったのだ。

ケネディのこの宣言はアメリカ国民の熱狂をもって受け入れられたのである。

その理由はその背景にガガーリンの「私の周りに神は見えない」という言葉があったからだ。

「おのれ…、この屈辱を晴らさでおくものか…」とうい怨念がアメリカ国民にはあった。だからケネディの「月面に人類を立たせる!」という力強い言葉に、アメリカ国民全員が奮い立ったのである。

ケネディの月面着陸宣言に旧ソ連邦も全世界も度肝を抜かれたが、もっとも驚いたのはアメリカ航空宇宙局(NASA)の人たちである。

彼らは60年代の開発目標を立てたばかりであった。

その目標とは有人飛行を早く成功させ、1970年までに地球周回軌道に乗せて、7~8回地球を回るというものであった。それがいきなり、いくら予算を使っても良いから10年以内に人類を月面に立たせろというわけである。いままで幼稚園のお受験の準備していたのが、いきなり家庭教師は何人つけてもいいから、大学の入学試験を受けて合格しろ!と目標設定を変えられてしまったようなものだ。

しかし賽(さい)は投げられた。

そのあとのアメリカはすごかった。

キリスト教徒(プロテスタント)には行動的禁欲というものがある。

いずれこの宗教シリーズのブログでも詳しく紹介する予定であるが、行動的禁欲とは目的に向かって一心不乱に走りつづけるというパウロの教えである。アメリカはまさしく行動的禁欲のごとく、わき目も振らずに人類を月面に立たせるためにアポロ計画に没頭していった。アメリカ国家予算220億ドル、現在の貨幣価値にして1200億ドルを投入し、30万人の科学者やスタッフがこのアポロ計画に参加した。

そして、ジョン・F・ケネディの宣言した通り、1969年7月20日にアームストロング船長が月面に降り立ったのである。

今から40年前はパソコンなどない時代である。オフコンなるものはあったが、コンピュータなど一般の人たちは見たこともない。コンピュータのハードも今ほど発達していなかった。アポロ11号に搭載されたマイコンは4ビット。現在皆さんが使っているプレイステーションのようなゲーム機は32ビットのマイコンが主流だ。何世代か前のゲームボーイに使われていたマイコンよりもはるかに劣るマイコンがアポロ11号に使われていた。

そんな今よりコンピュータ技術の劣った時代に、アメリカはわずか8年間でアポロ計画を成功させたのである。

これはすごいことだと思わないか?

これが実現できた背景には、アメリカ国民の宗教的情熱とプロテスタントとしての強烈な使命感があったのである。

1960年代はまさにプロテスタンティズムが実現された時代であった。

彼らからすると、自由主義世界を守るということは神の御心に沿うものだと考えている。なぜかというと、彼らにとって民主主義、資本主義、キリスト教は三位一体なのである。

国家の威信をかけて、資本主義、民主主義を守ると言うことは、キリスト教世界を守ることでもあるのである。

このように、アメリカという国の行動の背景には、大なり小なりプロテスタンティズムの思想があるのである。このことをしっかりと覚えておいてほしい。

あとがき)

お疲れさまでした。

民主主義、資本主義、キリスト教は三位一体であるということは、今の高校の歴史教科書には書いてあるのでしょうか?少なくともオジサンの学生時代にはなかったような気がします(はっきり断言できないのは、オジサンは高校時代は歴史は及第点ギリギリで、得意科目ではなかったからです…汗)。

実は私たちが住む資本主義社会、民主主義社会というのは、キリスト教から発達してきたのです。資本主義や民主主義がキリスト教と関係があるというのは不思議に思われるかもしれません。このことを初めて解明した人は、ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーという人です。その著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という本に書かれています。

これがすごい理論なんです。風が吹けば桶屋が儲かるって感じの理論なんですが、思わず「なるほど!」って納得しちゃう理論なんです。目からウロコが落ちるように、現在のアメリカが見えてくるようになりますよ。いずれこのブログで彼の理論を紹介しますね。

さて次回ですが、宗教のテーマから離れて、今回登場してもらったジョン・F・ケネディも含めた偉大なアメリカの大統領をご紹介したいと思います。アメリカ人にとっていつの時代も大統領は彼らのヒーロなんです。アメリカ人のメンタリティに強く影響を及ぼした歴代の偉大な大統領を知ることは、アメリカという国家、国民を知ることでもあります。

そうそう、もしオジサンの過去ログ、「アメリカン・ヒーロー」と「5ドル紙幣の偉人」と「徘徊する怪物」を読んだことがない方は、ぜひ次回までに読んでいていただけますでしょうか。読んでいただいていれば、次回の偉大な大統領たちの記事がよりおもしろく楽しんでいただけると思います。

それじゃ、また次回もぜひ読んで下さいね。

バイバイ

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オジサンお薦め本)

アメリカ外交の魂

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日本人のための憲法原論

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プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

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アメリカ大統領物語

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大統領たちの通信簿

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NASAを築いた人と技術

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宇宙からの帰還

2007年9月16日 (日)

おサルの裁判

評論家の山本七平さんが、戦時中フィリピンでアメリカ軍の捕虜になって終戦を迎えたときの話しである。

山本さんたち旧日本兵はアメリカ軍宿舎へ集められ、ある教育を受けさせられた。

それはダーウィンの進化論についての講義であった。

進化論の講義が終わったあとで、山本さんがアメリカ軍将校にこう質問をした。

「ここにいる日本人はほとんどが高等学校でダーウィンの進化論などとっくに学んできた。なぜいまさら我々にわかりきったダーウィンの進化論を教えようとするのか?」

この質問にアメリカ軍将校は腰を抜かさんばかりに驚いたという。

終戦後、アメリカ軍の最大の関心事は、強かった日本人をいかに弱体化させるかということにあった。特にアメリカ人を恐れさせたのは、自分の命もかえりみずに爆弾を抱えて戦艦に突っ込んでくる神風特攻隊である。アメリカ人の分析ではその日本の強さの秘密は、天皇に対する強烈な忠誠心にあるという結論であった。

ご存知のように我々日本人は戦前の教育で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫・ニニギのみことが葦原の地に天孫降臨し、天皇陛下はその子孫であると習ってきた。だから天皇陛下は単なる人間ではなく、人にして神である。つまり現人神(あらひとがみ)であると教わったのである。

日本人に根付いたこの「天皇教」を打ち崩すために、アメリカ軍はわざわざ講師を呼んで、山本さんたち旧日本兵にダーウィンの進化論を講義させたのであった。それに対し、「すでにダーウィンの進化論など知っている」と山本さんが言ったので、アメリカ将校は驚いたのである。

アメリカ軍将校がこう山本さんに質問を返した。

「君たち日本人はこれまで天皇は神の子孫であり、人間にして神であると言ってきた。これはダーウィンの進化論と矛盾するのではないのか?」

このアメリカ軍将校の質問に、今度は山本さんが驚く番であった。

山本さんは初めてこのとき、ダーウィンの進化論が天皇の現人神(あらひとがみ)説に矛盾することに気付いたのである。

山本さんだけでない。戦前の日本で進化論が教えられてきたが、特高の思想検閲を受けたという話も聞いたことがない。当時の日本人1億人は誰一人として、ダーウィンの進化論が天皇現人神(あらひとがみ)説と矛盾することに気がつかなかったのである。

これは驚愕の事実である。

山本さん曰く、「日本で現人神(あらひとがみ)と進化論を学んだが、それはそれ、これはこれという感じですんなりと受け入れられた。」

日本人の宗教観を如実に表している言葉である。神社の初詣、お彼岸のお墓参り、暮れのクリスマスのお祝いをいっぺんにできちゃう国民ならではの特質というべきか。

前々回の投稿で、日本人の宗教観は世界でも類まれであると述べた。この一件からも我々日本人は他の国民と違っていることがお分かりになるかと思う。

ダーウィンの進化論がすんなりと受け入れられた国は世界広しといえど、日本以外にはないのである。

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さて前置きがいつものように長くなってしまったが、本日はユダヤ教とキリスト教のファンデメンタリズム(原理主義)について検証していこう。

前々回の投稿で、宗教とは本来ファンデメンタリズム(原理主義)であると述べた。

イスラム教徒のほとんどが、原理主義者であることは、最近のイランやイラク、アフガニスタン、パキスタンなどの報道を聞いていると、なんとなく納得がいくのではないだろうか。

ところが、アメリカ人はほとんどが原理主義のキリスト教徒であると言っても、多くの読者はピンとこないと思う。

我々の多くがTVや映画などで目にするアメリカは、ほとんどがビジネスマンやセレブの人たちが闊歩するニューヨークやロスアンゼルスなどの大都会だ。そこではこれっぽっちの宗教色も感じられない。だから多くの読者はいったいどこにキリスト教原理主義者なんているの?って感じだと思う。

でもいるのである。あちらこちらに。アメリカは宗教国家といってもいいほど、キリスト教原理主義者がたくさんいるのだ。

冒頭に進化論の話をしたが、実はアメリカでは日本とまったく逆で、この進化論を受け入れるにはとてつもない苦悩と葛藤があるのである。このお話をすることによっていかにアメリカにはファンデメンタリスト(原理主義者)が多いかをお伝えしたい。

アメリカではダーウィンの進化論に関して、これまで何度ともなく繰り返されるモンキー・トライアル(おサルの裁判)というものがある。

おそらく多くの読者は驚かれると思うが、アメリカの多くの州では、ダーウィンの進化論を公立の学校で教えることを禁じているのである。なぜかと言うと、それらの州ではキリスト教ファンデメンタリストが多く、親たちが公立の学校で子供たちに聖書の天地創造と異なる学説を教えることは好ましくないと思っているからである。

ところがときどきそれらの州法に反してこの進化論を子供たちに教えてしまう(不埒な?)教師が出てきてしまうのである。その際にこれらの州法の禁止命令が憲法に抵触しているのではないかということを争う裁判に発展してしまうことがある。これがモンキー・トライアル(おサルの裁判)と呼ばれる裁判である。特に有名なものとしては、1925年のテネシー州で起きたおサルの裁判がある。

テネシー州ではキリスト教ファンデメンタリストが多いため、聖書の天地創造の記述と異なる進化論を公立の学校で子供たちに教えることは法律で禁じられていた。ところが理科の教師・ジョン・スコープスは子供たちに進化論を教えてしまったために、逮捕されてしまったのである。

この裁判は検察側に元民主党大統領候補だったウィリアム・ブライアンが代表となり、被告側にはクラレンス・ダローという当時有名な弁護士がついたため、全米が注目する裁判となった。

結果はスコープ側の敗訴となった。

しかしそれから40年たって、ソ連のスプートニックの実験成功がきっかけになり、1967年にこの法律は廃止された。

しかし、その後も同様の裁判はつづき、最近の例では1987年のルイジアナ州のおサルの裁判がある。

オジサンは初めてアメリカの多くの州で、ダーウィンの進化論を教えることを法律で禁じているということを知ったとき、非常にショックを受けた。

これはイスラム世界の宗教国家ではない。自由の国、アメリカなのだ。それまでアメリカという国は、なんでも自由で科学も含め最先端にある国だと思っていた。だからこのような宗教による学問の規制があるとは信じられなかった。

ソ連のスプートニックショックがあってから、宗教よりも科学を優先しなければならないという機運が高まり、これらの反進化論法は撤廃されるようになったが、それでもいくつかの州では、依然として進化論を禁じているのである。

このことから見ても、いかにアメリカにはキリスト教原理主義者が多いかがおわかりになるかと思う。

石を投げれば原理主義者に当たるってくらい、アメリカには原理主義者がたくさんいるのだ。

2004年11月のCBSの調査では、国民の55%が聖書の天地創造を信じているという。

キリスト教にはイスラム教のような戒律がない。

だから食事をしていて豚肉を食べないとか、一日5回の礼拝が義務付けられているとかといった戒律がないので、外からみて原理主義者であることがわからない。しかし確実にキリスト教原理主義者は多数存在する。CNNなどのTVにでてくるレポータやアンカーたちにも確実に原理主義者がいるはずである。

聖書ではアダムからイエスまでの系譜が克明に記述されている。

アダムは何歳まで生き、その子セスはアダムが何歳の時に生まれ、何歳まで生きた…と言う具合に延々と記述されている。これらを計算すると神が天地創造を行ったのはいつころかということが正確にわかる。神がこの世界を造ったのは紀元前4004年である。

つまり今から約6000年前にこの宇宙と地球ができたことになる。

ちなみに現在の宇宙物理学では、地球は約30億年前にでき、宇宙の始まりであるビッグバンは約150億年前に起きたとされている。これは遠くにある星ほど写真を撮ると、赤く映って見えることから、遠くにある星ほど光のスピードで我々から遠ざかっていくことがわかったからだ。これを逆計算すると宇宙ができてどれくらいたったかがわかるのである。

宇宙物理学で計算された150億年と聖書が述べる6000年の宇宙の年齢…。この違いがどれほどあるか。その違いをわかりやすくするために、仮に150億年を1年の長さにたとえて見ると、6000年の長さはわずか30秒足らずになる。一年の長さと、たったの30秒弱。それほど宇宙物理学でいう宇宙の年齢と聖書の年齢はかけ離れているのだ。

それにもかかわらず、これらのファンデメンタリストは、なんども繰り返すが、天地創造も含め、聖書に書かれている一字一句が本当にあったこととして信じている人たちである。

これはユダヤ教徒についても同じことが言える。

ほとんどのユダヤ教徒も旧約聖書に書かれている一字一句信じている。

アインシュタインを筆頭に、医学、化学、物理学の分野でノーベル賞を取るユダヤ人は非常に多い。なんと、ノーベル賞受賞者の5人に一人がユダヤ人だ。(これは驚異的な受賞率である!)そして、これらのユダヤ人のほとんどが敬虔なユダヤ教徒なのである。

かつてノーベル物理学賞をとったユダヤ人の科学者に、小室直樹さんという学者がこう質問した。

「あなたは本当にこの世界がわずか6000年前にできたと信じているのですか?」

するとこの物理学者はこう答えた。

「もちろん信じてます。当たり前でしょう。私はユダヤ教徒なのですから。」

これぞ原理主義の真髄 …。

我々日本人は初詣とクリスマスをいっしょに祝っちゃう国民なので、この原理主義というものがよく理解できないのであるが、読者のみなさんはなんとなく実感としてつかんでいただけただろうか?

このようにこの世界のほとんどの事象は、ユダヤ教徒、キリスト教徒そしてイスラム教徒の原理主義者によって動かされている。そして彼らの宗教は彼らの思想および行動を意識的または無意識的に規定しているのである。

このことを実感としてつかんでおいてほしい。そうすることによって、皆さんの身近な外国人との付き合いから国際紛争にいたるまで、目からうろこが落ちるように、よ~く見えてくるようになるのである。

そうそう、アメリカでもっとも権力のある原理主義者の話もしておこう。

アメリカでもっとも権力のある原理主義者といえばブッシュ大統領である。

彼は敬虔なファンデメンタリストである。そして彼の右腕のライス国務長官も同様にファンデメンタリストである。彼らはホワイトハウスの一卵性双生児といわれるが、深い宗教の信仰を通じて信じあっている仲であると言われている。もちろんこの二人も天地創造は神によって6000年前に行われたと信じている人たちである。

こう考えると、ブッシュ大統領があくまで妊娠中絶法や同性愛者の婚姻に反対する理由がお分かりになると思う。

彼は単に人道的にまたは道徳的にこれらに反対しているわけではない。

それらは聖書の記述、"Have many children, so that your decendants will live all over the earth(創世記1章26節)" と "No man is to have sexual relations with another man(レビ記18章22節)に反する行為だから反対しているのである。

こんな風に聖書やコーランに何が書いてあるかを知ってくると、身近なことから国際問題にいたるまでよくわかってくる。タイムやニューズウィークを読んでいておもしろいように理解できるようになるのである。

あとがき)

おつかれさまでした。

どうですか?宗教とは本来原理主義であるということが実感としてわかってきましたでしょうか?

次回は、多くの反進化論法の廃止のきっかけとなったスプートニク・ショックとそれに続くガーガーリンショックを補足します。

宇宙開発に遅れをとったアメリカは人類を10年以内に月へ送るというアポロ計画を打ち立てます。しかしこの背景には宗教が関わっていることを日本人はあまり知りません。「なんで、科学的なアポロ計画とキリスト教が関係あるの???」なんて、声が読者から聞こえてきそうですが、実は大有りなんです。人類を月に立たせた60年代のアメリカの国家プロジェクトというべきアポロ計画にキリスト教がどのように関わったか。その思わぬ展開を書こうと思っています。

それじゃ、また次回よろしくね。バイバイ!

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オジサンお薦めの本)

空気の研究

皆さんも「空気」で動かされてしまうと感じることはないだろうか?実はこれは日本人独特の文化であるのだ。そしてこの「空気」が日本社会を動かしているといっても過言ではない。この日本独特の「空気」を学問としてはじめて研究したのが山本七平氏である。

日本人とユダヤ人

イザヤベンダサンというペンネームで山本七平氏がはじめて30年前くらいに書いた本。日本人は水と安全はタダだと思っているという言葉が当時社会にショックを与えた。この本を読むとユダヤ人が安全をどのよう考えているかがよくわかる。

A BRIEF HISTORY OF TIME

車椅子の物理学者として有名なホーキング博士が、宇宙の始まりとその後の発展をわかりやすく教えてくれる…と言いたいが、かなり難解。うわべ読みでざっくりと内容をとらえることが大切。英検準1級以上の方にお薦め。

ユダヤ世界のすべて

現代物理学の父・アインシュタイン、社会主義経済の父・マルクス、アローの背理で有名な経済学者・アロー、精神医学の巨人・フロイト等…。学術の分野でのユダヤ人の活躍は驚異的である。この本によってユダヤ人の歴史から現代にいたるまでの足跡を学ぶことができます。

2007年9月 9日 (日)

耳の長いトリ???

我々一般の日本人が海外の人たちと付き合うときに、もっともトラブルになりやすいのが、食べ物にかんしてだと思う。

特にユダヤ教、イスラム教、ヒンズー教およびインド仏教では食べて良いもの悪いものがはっきりと決められている。これを食物規範という。本日はこの食物規範について、それぞれの宗教で何を食べてよく、何を食べてはならないかを詳細に見ていこう。

その前にまずお伝えしたいことは、オジサンのビジネスを通した経験では、宗教上の食物規範を単なる「好き嫌い」程度にしか考えていない日本人が多い。

ちょっとくらいなら、神様も許してくれるだろう…

ほとんどの日本人がこう考える。とんでもないことである!

食物規範を含む戒律は彼らにとっては「生死」以上の問題であることをぜひ肝に銘じてほしい。

彼らはこれらの戒律を破ると神の罰が下ると本気で信じている人たちなのである。

ユダヤ教徒であれば戒律を破れば一族皆殺し、イスラム教徒であれば地獄での永遠の業火による苦しみ、ヒンズー教徒であれば畜生の生まれ変わりに等々…

戒律を破るとこのような罰が与えられると本気で信じているのである。

以前、日本からイスラム教の国・インドネシアへ進出した某調味料メーカーが、調味料の素となるグルタミン酸ソーダを作る際に豚肉の一部を触媒として使った。「触媒だから直接口に入らないからいいか」ってな安易な気持ちで、製造したグルタミン酸調味料を販売してしまった。ところが後から触媒に豚を使ったことがわかり、暴動が起きて国際問題にまで発展してしまったことがあった。彼らにすれば豚を使ったものは全て不浄なものとなり、食することは戒律違反になってしまうのだ。努々(ゆめゆめ)ちょっとくらいならいいかという考え方は、食物規範に関しては厳禁である。

またユダヤ教徒は、旧約聖書を読むとよくわかるのであるが、過去に何度となく神が定めた掟を破り、その都度一族絶滅の危機に見舞われてきた民族である。北イスラエルの滅亡、南ユダ王国のバビロン捕囚、そしてその後、数々のヨーロッパにおけるホロコーストを体験してきた。彼らにとって食物規範を含む戒律を守るということは、ユダヤ民族の存亡にかかわる重大問題であることがおわかりになると思う。

彼らの戒律を守ることの重要性をしっかりと把握して、これらの海外の人たちと付き合っていってほしい。

逆に言うとここらへんをしっかりと理解して、彼らが日本に来たときに戒律に反する「不浄な?」食べ物から守ってあげると、これらの人たちと太い信頼関係のパイプを作ることができるのである。

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まずはユダヤ教から見ていこう。

ユダヤ教の経典は旧約聖書であるが、特に最初の部分、創世記(Genesis)、出エジプト記(Exodus)、レビ記(Leviticus)、民数記(Numbers)、申命記(Deuteronomy)には、ユダヤ教徒として守らなければならないこと(戒律)が克明に書かれている。これらの5書をトーラ(またはモーゼ5書)と言い、ユダヤ教の経典の中でももっとも重要なものとされている。

食物規範についての記述は、レビ記の11章と申命記の14章3節から21節までに書かれている。こと細かに書いてあるが、食べてはいけないものの要点は以下。(コリンズの聖書の原文を最後に載せておくので、英語に興味のある方は挑戦してみたし):

1.蹄(ひづめ)が割れていない動物または反芻(はんすう)をしない動物。

ブタ(蹄は割れているが反芻をしない)、ラクダ、ウサギ、ねずみ、もぐら、等

2.水中に生息するものでエラまたはウロコのない生物

3.食べてはいけない鳥。

わし、ふくろう、たか、とんび、カラス、海とり、ダチョウ、コウノトリ、コウモリ等

4.バッタ、イナゴを除く羽のあるすべての昆虫

5.地をはう動物

へび、とかげ等

6.ヒツジまたはヤギの肉とその乳をいっしょに料理したもの

ということは、

ユダヤ教で食べられるものは、肉類は牛、羊、ヤギなど。一般の魚はOKだが、ウナギやドジョウはだめ。貝類もだめ。イカやタコもだめ。カニもだめ。ただし確かエビはOKだったと思う。鶏肉はOK。グラタンやクリーム類を使った料理は同種の肉類が使われているならばだめ。

オジサンはお刺身を肴に、お酒を一杯というのが大好きなので、ホタテや貝類、イカ、タコの食べられないユダヤ人とは、なんとかわいそうな民族なんだという気がする…。

もし皆さんがビジネスなどで欧米の人と食事や接待をするときには、けっこうユダヤ系の人たちが多いので、食べ物の制約があるかどうか事前に調べておこう。接待のときなど思わぬ不快な思いをしてしまうことがあるので気をつけよう!

なお、旧約聖書を共通の聖典とするキリスト教は、イエスの登場によって戒律よりも神への忠誠と愛を優先させたため、ユダヤ教のような食物規範はない。常識内で何を食べてもOK。

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次にイスラム教の食物規範を見てみよう。

コーランの第5章3節にはこのように書いてある。:

「あなたがたに禁じられたものは、死肉、流れる血、豚肉、アッラー以外の名を唱え殺されたもの、打ち殺されたもの、墜死したもの、角で殺されたもの…」

イスラム教はシンプルだ。ずばりイスラム教徒が食べられないものは、豚肉である。

…と思いきや、そう簡単ではない。

実はイスラム教では、キリスト教の旧約聖書の「出エジプト記」、「レビ記」、「申命記」および、新約聖書の福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)は、聖典の一部とされているのである。

以前、パキスタンから来たイスラム教徒の顧客と食事に行ったことがあるのだが、彼らは豚肉以外にもタコやイカ類は食べなかった。また前回の投稿に登場したカーンさんと居酒屋へ行ったことがあるが、彼も豚肉以外にもタコやイカ類は食べなかった。

そう考えると

パキスタンとバングラデシュのイスラム教では食物規範にかんしては、ユダヤ人同様に旧約聖書が適用されているようだ。(申し訳ないが、オジサンはアラブ人と食事をしたことがないので、本家本元のイスラム教徒であるアラブ人も同じであるかわからない。この点ご存知の方がいらっしゃれば教えてほしい…)

イスラム教徒の方を食事に招待する時などは、豚肉以外に食べられないものがあるかどうかを確認しておくほうが無難である。

ところで、「えっ!なんでイスラム教ではキリスト教の聖書の一部が聖典となっているの???」と、不思議に思っている読者がいるかもしれないので、ちょっと解説を。

イスラム教徒に、「あなたの最初の先祖は誰ですか?」と聞くと、こう答えるはず。

それは、アダムとイブである。

つまり広い意味で言うと、イスラム教徒はユダヤ教徒およびキリスト教徒と兄弟なのである。

イスラム教の経典であるコーランは、旧約聖書および新約聖書を継承して、7世紀に天使ガブリエルを通して預言者モハメッドにおろした唯一神アッラーの啓示なのである。このコーランの中では、たびたびモーゼやイエスが登場し、イスラム教では彼らはモハメッドと同様に預言者として扱われ、尊敬されている。

ちなみに、彼らは預言者(prophet)であって予言者(fortuneteller)ではない。預言者は神の代理として神の言葉を人々に伝える人。予言者は超能力によって未来に起こることを事前に伝えることができる人。混同しないように、念のため。

イスラム教と聞くと、右手に剣、左手にコーランを持って、イスラム教に改宗するように迫ってくる恐ろしい暴力的な宗教のようなイメージがあるかもしれないが、これはまったくの誤解である。十字軍以降の西ヨーロッパのキリスト教世界のプロパガンダによって作り上げられたいつわりのイメージと思われる。実際はコーランではイスラム教に改宗するのが望ましいが、ユダヤ教、キリスト教との共存を認めているのである。

覚えている人も多いと思うが、イラクのフセイン政権で外務大臣を務めていたアジズというごくごくまともな人がいた。この人はキリスト教徒であった。キリスト教徒であってもイスラムの世界では迫害されることはないのである。

9.11以降世界中で過激なイスラム原理主義運動が起こっており、これらの現象をイスラム教とキリスト教の対立としてとらえている識者が多くいるが、上記の例からもちょっと的外れなのがわかると思う。

イスラム教はユダヤ教もキリスト教も同胞として共存を認めているのだ。

現在のイスラム原理主義運動の原因はもっと深いところにある。それはオジサンといっしょにイスラム教およびイスラムの世界を勉強していくと本当の理由が徐々に見えてくるはずだ。

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ついでにインドのヒンズー教を見てみよう。

インド人と聞くと、牛を神聖視して、牛肉だけ食べないと思い込んでいる日本人が多いけど、それは大きな間違い。

インド人の7割は敬虔なヒンズー教徒で、全員がベジタリアン(菜食主義者)である。

彼らはいっさいの動物や魚介類は食べない。

これは人は死んで輪廻を繰り返すと信じているところから来ている。

「あなたが今、食べようとしいる豚や魚は、亡くなったあなたのやさしい母親の生まれ変わりかもしれない…」

こう言われたらちょっと食べる気がしないでしょう。

以前オジサンが勤めていた産業機器を製造している会社の社長さんは高学歴でかなりの英語使いだったが、インド人は牛肉だけ食べないと思い込んでいた。そこで接待をする際に、牛肉以外にも豚肉や魚介類があるってことで、なんと!インドの代理店の人を彼の行きつけの高級焼肉屋について行っちゃったのである。それを後から知って、あわててオジサンが追っかけて行って強引にお店を変えさせたことがあった。高級だからって彼らが喜ぶはずはない。

そのインド人が言っていた。「かいちゃんは命の恩人だ!」って。

彼らからすると、牛に限らず生き物を焼いたにおいが漂うところにいることすら耐えられないことなのだ。

本来はヒンズー教徒も元始仏教徒も植物さえ食べてはならないのである。

なぜかというとそれらには命が宿っているからである。

ヒンズー教と元始仏教では、いっさいの殺生を禁じている。そうかといって、なにも食べないのでは餓死してしまうので、必要悪として野菜と果物は食べるのである。

日本では食事をする前に「いただきます」と言う習慣があるが、これは仏教用語から来ている。本来の意味は、「あなたの命をいただいて、生きながらえさせていただきます」という、自分が生きるために犠牲となって死んでいく動植物に対する感謝の言葉なのだ。英語に訳そうとしても適訳が見当たらないのは当たり前。欧米にはそのような宗教的概念がないのだから。旧約聖書の中では、唯一神・エホバはヤギや羊の皮をはぎ、これこれこのように焼いて供えよとイスラエルの民に命じる箇所が多数記述されている。つまりもともと家畜は人間が食べるものとして神によって創造されたものである。家畜を殺すことは神の意思にかなっており、悪いことではない。だから無理に「いただきます」を英訳しようとすれば、せいぜい、Let's eat it, shall we? なんてあっさりと言うしかない。

マヨネーズや卵くらいはいいのかな?なんて思うのは日本人。野菜と果物以外はだめ!(ただし、乳製品はOK!)

精進料理であっても、かつおだしを使っているものも不可。

オジサンは日本国内でインド人と営業に出かけて、昼食をとるときには喫茶店に入ってトーストやピザ(ただしサラミの乗っていないもの)とサラダを食べさせていた。それで十分。もちろんドレッシングはイタリアンで、マヨーズなどが使っていないものを選んであげよう!

そうそう、インド人はお茶も好きなので、紅茶も合わせてたのんであげることを忘れずに!

オジサンは時々、行きつけの昆布だしのお蕎麦屋さんにも連れて行っていた。インド人はたいてい「うまい、うまい」と言って喜んで食べていた。なにも高いところへ連れて行く必要なんかない。高級レストランに連れて行っても彼らはちっとも喜ばない。彼らが一番喜ぶものは「安全な」食べ物なのである。

またインド・レストランに連れて行けば安心だろうと思わないこと。

日本では本当のインド・レストランは非常に少ない。

インド・レストランと銘うっているお店のほとんどが、バングラデシュ料理かパキスタン料理である。日本に本当のインド・レストランが少ない理由は、コックがインド人だと、ベジタリアンなので、肉や魚を使った日本人好みの料理が作れないためだ。大概でてくるインド料理と呼ばれるものはパキスタン人またはバングラデシュ人コックが日本人好みに作ったパキスタンまたはバングラデシュ料理である。そのなかには肉類や魚介類が材料として使われているので注意が必要だ。(オジサンはパキスタン人またはバングラデシュ人が作った料理を否定しているわけではないのでご了承いただきたい。彼らの作る料理はそれはそれでとてもおいしい!)

もし、皆さんのお知り合いのインド人がホームシックにかかって、どうしてもインド料理が食べた~いと言ったら、東京地区であれば、銀座の「アショーカ」か「ナイル」に連れて行ってあげよう。この二軒は本当のインド料理レストランである。ただし完全を期すために、念のため、菜食主義者であることをウェーターに伝えておこう。なお、あまり知られていないが「ナイル」は日本で初めて開店したインド・レストラン第一号でもある。

なんか英語ブログというよりも、グルメ店の紹介ブログみたいになっちゃいましたね。

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最後に日本の食物規範についても触れておこう。

江戸時代まで日本にも食物規範があったのをご存知だろうか?

江戸時代までの人たちは、不浄なものとして四足動物を食してはならないことになっていたのである。これは仏教の戒律から来ているものと思われる。ところが日本の食物規範はユダヤ教徒やイスラム教徒のような原理主義者がみたら、腰を抜かすくらい厳格ではなかったのである。

種子島に外国船が漂着して以来、日本は鎖国をしていたとはいえ、西欧の文化が徐々に入ってきた。そのうちの一つに牛肉、豚肉があった。日本人はそれらの四足動物がおいしいということがだんだんわかってきた。

戒律で四足動物を食してはならない。かといって肉は食べたい…。

そこで当時の人々はこう考えた。

イノシシは色が黒くてとても他の四足動物のように見えない。あの黒さはどこかでみたような…、そうだ!あれは海にいるクジラの色に似ている。イノシシはひょっとして四足動物じゃなくて山にいるクジラじゃないか?うん、あれはたしかにクジラだ!ってことで、イノシシを食べていた。

また、ある人はウサギを見て、ウサギはピョンピョン跳ねる。あれはどう見ても四足動物に見えない。ウサギはひょっとしてニワトリの一種じゃないか?確かに、一羽二羽と数えていたらなんとなく鳥のように思えてきた…、うん、これは鳥だ!ってことで、ウサギも食べちゃった。

前回の投稿記事で、妻子を殺されても豚肉を食べなかったイスラム教徒と比べると、日本人の食物規範はなんとあいまいなことか…。

日本の仏教僧もそうだ。日本に仏教が伝わったころは仏教僧は完全なベジタリアンであった。ところが現在では精進料理は何かのイベントに出される程度で、ほとんど食さなくなってしまった。いつのまにか食物規範の戒律がなくなっちゃたのである。

このことから見ても、我々日本人には原理主義(ファンデメンタリズム)がなじまないのがおわかりになるかと思う。

あとがき)

お疲れ様でした。

ユダヤ教やイスラム教でいう宗教上不浄な食べ物とは、現代的知識を持って見ると、細菌やウィールスが繁殖したものであるようです。

細菌やウィールスは肉眼で見ることができず、かつその存在すら知らなかったので、古代の人々はそれらの食べ物にはなにか霊的に不浄なものが憑いていると思っていたのでしょう。昔の豚は衛生面で問題があり、多くの人がお腹をこわしたりしたのでしょうね。またイカやタコのような生物は、冷蔵庫のような貯蔵場所がなく腐敗しやすかったので、食中毒などを起こしやすかったと思います。これらは旧約聖書のレビ記や申命記の食物規範の章をじっくりと読むとおわかりになると思います。巻末にその部分を抜粋しておきましたので、このような観点から読んでみると面白いのではないでしょうか。参考にしてみて下さい。

原理主義の人たちにとって食物規範は非常に重要なものです。ここら辺を注意して日本にこられる海外の人たちに接してあげて下さいね。コミュニケーションがスムーズになると同時に、深い信頼関係を築くことができます。

前回の投稿でイスラム教徒の原理主義を見ましたが、次回はユダヤ教とキリスト教の原理主義を検証してみたいと思います。

それじゃ、また見てね。バイバイ。

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オジサンお薦めの本)

聖書

聖書協会が出版している、口語英語で書かれた読みやすいバイブルです。この聖書の特徴は各章の要約が冒頭に書かれていることです。聖書は日本語で読むよりもこの英語版で読むほうがずっと楽です。中学3年生程度の英語力があれば理解できるほど、平易な文章と単語で書かれています。

平易な文章で書いてあるとは言え、一般の我々が聖書を通読するのは骨の折れる作業です。なぜかというと、系譜が非常に複雑で混乱するからです。最初から細かく読んでいくと何がなんだかわからなくなっちゃいます。そこで枝葉末節は思い切って省き、ざっくりと幹の部分だけをすばやく読みましょう。そうすることによって聖書による神と人間の関係がより深く理解できます。どの部分が太い幹か今後このブログで明らかにしていきますね。

参考文献)

レビ記11章

The Lord gave Moses and Aaron the following regulations for the people of Isreal.

You may eat any land animal that has devided hoofs and that also chews the cud, but you must not eat camels, rock-badgers, or rabbits. They must be considered unclean; they chew the cuds, but do not have devided hoofs. Do not eat pigs. They must be considered unclean; they have diveded hoofs, but do not chew the cud. Do not eat these animals or even touch their dead bodies; they are unclean.

You may eat any kinds of fish that has fins and scales, but anything living in the water that does not have fins and scales must not be eaten. Such creatures must be considered unclean. You must not eat them or even touch their dead bodies. You must not eat anything that lives in the water and does not have fins and scales.

You must not eat any of the following birds; eagles, owls, hawks, falcons; vultures, crows; ostriches; seagulls, storks, herons, pelicans, cormorants; hoopoes; or bats.

All winged insects are unclean, except those that hop. You may eat locusts, crickets, or grasshoppers. But all other small things that have wings and also crawl must be considered unclean.

Whoever touches the dead bodies of the following animals will be unclean until evening; all animals with hoofs, unless their hoofs are devided and they chew the cud, and all four-footed animals with paws. Whoever carries their dead bodies must wash his clothes, but he will still be unclean until evening.

Moles, rats, mice, and lizards must be considered unclean. Whoever touches them or their dead bodies will be unclean until evening. And if their dead bodies fall on anything, it will be unclean. This applies to any article of wood, cloth, leather, or sacking, no matter what it is used for.  It shall be dipped in water, but it will remain unclean until evening. And if their dead bodies fall into a clay pot, everything that is in it shall be unclean, and you must break the pod.

Any food which could normally be eaten, but on which water from such a pot has been poured, will be unclean, and anything drinkable in such a pot is unclean. Anything on which the dead bodies fall is unclean; a clay stove or oven shall be broken, but a spring or a cistern remains clean, although anything else that touches their dead bodies is unclean. If one of them falls on seed that is going to be sown, the seed remains clean. But if the seed is soaking in water and one of them falls on it, the seed is unclean.

If any animal that may be eaten dies, anyone who touches it will be unclean until evening. And if anyone eats any part of the animal, he must wash his clothes, but he will still be unclean until evening; anyone who carries the dead body must wash this clothes, but he will still be unclean until evening.

You must not eat any of the small animals that move on the ground, whether they crawl, or walk on four legs, or have many legs. Do not make yourselves unclean by eating any of these. I am the Lord your God, and you must keep yourselves holy, because I am holy. I am the Lord who brought you out of Egypt so that I could be your God. You must be holy, because I am holy.

This, then is the law about animals and birds, about everything that lives in the water, and everything that moves on the ground. You must be careful to distinguish between what is reitually clean and unclean, between animals that may be eaten and those that may not.

申命記14章3節ー21節

Do not eat anything that the Lord has declared unclean. You may eat these animals: cattle, sheep, goats, deer, any animals that have divided hoofs and that also chew the cud. But no animals may be eaten unless they have divided hoofs and also chew the cud. You may not eat camels, rabbits, or rock-badgers. They must be considered unclean; they chew the cud but do not have divided hoofs. Do not eat pigs. They must be considered unclean; they have divided hoofs but do not chew the cud. Do not eat any of these animals or even touch their dead bodies.

You may eat any kind of fish that has fins and scales, but anything living in the water that does not have fins and scales may not be eaten; it must be considered unclean.

You may eat any clean bird. But these are the kinds of birds you are not to eat: eagles, owls, hawks, falcons; buzzards, vultures, crows; ostriches; sea-gulls, storks, herons, pelicans; hoopoes; bats.

All winged insects are unclean; do not eat them. You may eat any clean insect.

Do not eat any animal that dies a natural death. You may let the foreigners who live among you eat it, or you may sell it to other foreigners. But you belong to the Lord your God; you are his people.

Do not cook a young sheep or goat in its mother's milk.

2007年9月 2日 (日)

「死ぬ」よりも恐ろしいこと

オジサンの知り合いにオマール・カーンさんというバングラデシュ人がいた。

カーンさんは日本の大学で学び、卒業後はそのまま日本に留まってインド向け専門商社へ就職した。オジサンと知り合ったのはこのインド向けの仕事を通してであった。

そのカーンさんから、「かいちゃん、今度インド・レストランをやりたいと思っているのだけど、いっしょにやらないか?」という話を持ちかけられた。いまから15年くらい前の話である。

カーンさんは以前から日本でインド・レストランをやりたいという夢があったようで、そのために貯金をし綿密な計画を練ってきたのであるが、どうしても資金面で不足があるようで、親しくしている人たちに共同経営を持ちかけているのだった。カーンさんは人をだますような性格ではないし、働き者で実行力があることは仕事の付き合いからわかっていた。また企画書なども良く出来ていて、綿密にコスト計算もされており、実現性の非常に高いものであることがわかった。そこでオジサンはこの話に乗ってみようかという気になった。

しかし、オジサンが出資できる額とカーンさんの預金を足しても、まだ少し足りない。

するとカーンさんは、「かいちゃん、あとひとり信頼のできる人がいる。」と言った。

その信頼できる人とは、山本さんという自動車修理工場の社長さんで、カーンさんの古くからの知り合いだとのこと。さっそく二人でレストラン開業のための出資をお願いするため、その社長さんを訪ねることにした。

会ってみると、山本さんは50歳前後で、偉(えら)ぶるところがなく、気さくで感じの良いひとであった。

山本さんは中学を卒業してから単身東京に出てきて、苦労の末自動車修理工場を経営するまでになった人だそうだ。会社経営が軌道に乗ってからは、従来したかった勉強もはじめ、英語に関しては独学で英検3級を取るまでになった努力の人である。また勉学のかたわら、海外からの留学生を援助するボランティア活動などもしていた。カーンさんとは彼が日本の大学に通っているころからのお付き合いだという。

「ぼくはこう見えても結構国際人なんですよ!」

と、山本社長はおっしゃられて、国際交流ボランティアの会合や知り合った人たちと撮った写真のアルバムなどを見せていただいた。海外の人たちと交流しているということが山本社長の自慢のタネのようだった。

レストラン出資の件も、具体的に詳細までは話し合わなかったが、「ぼくのできる範囲で協力はするよ」とおっしゃられていたので、感触はよかった。うまくいきそうだ!

そうこうしているうちにお昼時になり、山本社長が外で食事をご馳走してくれるという。

「この近くに繁盛しているメキシコ料理店がある」と、山本社長は言った。

このメキシコ料理店は店構えは小さいながらも、国税局が査察に入ったほどの盛況ぶりだという。

「インド料理とは違うかもしれないが、君たちの勉強になるだろうから、行ってみよう!」と社長はおっしゃられた。

なるほど、そのメキシコ料理店の前には客が行列を作っている。すごい繁盛ぶりだ!

順番を待って山本社長お薦めのそのメキシコ料理店へ入った。

メキシコ料理といっても昼の定食は一品だけ。熱した鉄板製のお皿に、なにやら中華丼の具のようなとろみのかかったものを入れただけのとってもシンプルなもの。それにご飯がつく。それでもジュージューとおいしそうな音とこうばしい香りがしてくる。うまそうだ!さっそく定食三つを注文した。

1分もたたないうちに、さっと料理が出てきた。

ジュージュなっているその中華丼のような具を口に入れてみた。うまい!ちょっと辛味のかかったなんともいえない味だ。ご飯とよく合う。一品料理で時間がかからず、しかもおいしそうな音とこうばしい香り。客の回転率もよく、儲かるはずだ。山本社長が我々をここに連れてきた理由がよくわかった。

本来であればここでご馳走になって、山本社長が機嫌のいいうちに、具体的な出資のお願いをして帰れるはずであった。

ところがここで大きな問題が起きた。

カーンさんがこの山本社長お薦めの自慢の料理を食べられないのである。

そのメキシコ料理には豚肉が使われていたのであるが、カーンさんはイスラム教徒だったのである。

ご存知の読者も多いと思うが、イスラム教の聖典・コーランでは豚肉を食することを禁じているのである。

以下はその時のカーンさんと山本社長の会話。

.

カーンさん: 「社長、すみません。私はイスラム教徒なので豚肉は食べられないのです。」

山本社長: 「じゃ、豚肉の部分は食べずに、その汁だけでもご飯にかけて食べてごらん。日本人が好む味がわかるよ。とても勉強になるよ。」

カーンさん: 「社長、豚肉を使っている料理はいっさい口にしてはいけないのです。」

山本社長: 「なにも死ぬわけじゃないんだから、そんな大げさな。ちょっとだけでいいから舐めてみたら。本当においしいんだから。イスラムの神様もちょっとくらいなら許してくれるだろう?」

カーンさん: 「・・・・・・・・」

そのうちだんだん山本社長の機嫌が悪くなってきてしまった。

山本社長: 「オレも自動車修理会社を命がけでやってきた。レストランを経営するのも命がけでやらないとダメだ。なにも豚肉を食べろとはいっていない。味の勉強のために汁をちょっと舐めてみたらといってるだけなんだ。命がけでやればできるでだろう?それくらいもできないのか?」

カーンさん: 「・・・・・・・・」(いまにも泣きそうな顔)

.

このあとなんとか食べさせようとする山本社長がカーンさんを責め立てるのであるが、結局、カーンさんはこのメキシコ料理にはいっさい箸をつけることはなかった。当然山本社長はカーンさんのレストラン経営の姿勢を疑うことになり、出資をしてもらう話はうまくいかなかったのである。

今回なぜカーンさんの話からしたかというと、読者の皆さんに私たち日本人の宗教観とイスラム教徒の宗教観の違いを体感してもらいたいからなのである。

ここで皆さんに質問したい。

もし読者の皆さんがイスラム教徒と仮定して、カーンさんのようになにか実現させたい夢を持ち続けていたとしよう。たとえば皆さんが英語の勉強のため外国に留学したいと夢見ていたとしよう。そんなとき豚肉を使った料理が出てきて、ちょっと舐めたらその夢を叶えてあげようと誰かが言ったとしたら、皆さんはどうするだろか?

多少舐めちゃってもいいかな…なんて思わないだろうか。

もっと極端な例を出そう。

もしみなさんがイスラム教徒で、暴漢によって家族全員が捕らわれたと仮定する。もし豚肉料理を食べないと家族全員を殺すと脅されたらどのように行動するだろか?

愛する家族を救うためなら、ちょっとだけなら食べちゃおうと思わないだろうか?

実はこれはむかし十字軍がエルサレムに進攻した際に、実際に現地のイスラム教徒に対しておこなった拷問なのである。

あるイスラム教徒の男が妻と娘といっしょに十字軍に捕らわれてしまった。そして十字軍兵士によって彼は豚肉料理を差し出され、食べないと妻と娘を刺し殺すと脅されたのである。

その脅しに対してその男はどうしたか?

答えは、その男は目の前で妻と娘が惨殺されても豚肉を食べなかったのである。

日本人的感覚から言うと、「なんて、薄情な奴なんだ!」って、思われるかもしれない。

しかし、それほどイスラム教徒にとって戒律を守ることは絶対なのだ。

自称「国際人」の山本社長が、「死ぬ気になれば食べられるだろう」と言ったが、それは間違っている。

自分だけでなく、たとえ愛する家族が死ぬことになろうが、戒律を破ることはできないのである。

いやむしろイスラム教徒にとっては「死」は重要なことではない。彼らは死などさほど恐れていない。

それよりも恐ろしいのは戒律破りなのである。

彼らにとって戒律破りは死ぬことよりもはるかに恐ろしいことなのだ。

なぜ彼らにとってそれほどまでに戒律破りが恐ろしいのか?

それを知るためにはイスラム教の教義を知らなければならない。

ちょっと長くなって恐縮だが、もうちょっとがんばって読んでもらいたい。簡単にイスラム教における教義を説明しよう。

イスラム教には六信(イマーン)というものがある。

これはイスラム教徒として信じなければならない6つの要件で、イスラム教の基本中の基本となる教義だ。それらは ①アッラーを信じること ②アッラーの天使を信じること ③アッラーの経典を信じること ④アッラーの預言者を信じること ⑤最後の審判を信じること ⑥天命を信じること

この六つのことを完全に信じきることができて、はじめてイスラム教徒となれるのである。

今回の宗教シリーズでは、後日あらためてイスラム教について詳細を説明するので、本日は項目5の最後の審判についてだけお話する。

イスラム教ではキリスト教と同様に終末思想というのがある。

それはいつだかわからないが、いずれ必ず世界の終わりがやってくるというもの。

ある日突然に天使が降りてきて、ラッパを2度吹く。そうするとこの地上は神の光でかがやき始め、死んだ者は生き返り、生きている者と一緒に瞬時に裁かれて、コーランに書かれた正しい行いをした者は天国へ、正しくない行いをした者は地獄へ送られるのである。

ここでポイントは「生きたまま」天国または地獄へ送られるということ。

コーランの記述によると、正しい行いをしなかった者は地獄で炎の中に「生きたまま」投げ込まれる。ところが焼け死ぬことはできないのである。なぜかというと皮膚が焼けただれても、またすぐに新しい皮膚が再生されるので、まさしく灼熱地獄の苦しみは永遠に繰り返されていくからだ。

地獄とはまさに阿鼻叫喚の世界。

逆に天国はどうかというと、そこは緑の多い世界で、ここちのよい涼しさ。美しい森の中を甘い川やお酒の川が流れている。その川のお酒をいくら飲んでもよい。そのお酒はなんともいえない美味で、飲みすぎても肝硬変になる心配もない。また果物などのおいしい食べ物も豊富にある。おまけに容姿端麗な女性を与えられて、セックス三昧の日々。

これほど楽しいことはないというところが天国なのである。

イスラム教徒にとって、生きたまま最後の審判の日を待つのも、死の状態で待つのもあまり違いはない。いずれかならず最後の審判の日はやって来るのだ。次の世が本当の世界で、現世はテスト期間中の仮の世界だと彼らは思っている。だから彼らはあまり死というものを重く考えないのだ。

十字軍に捕らわれた男は、たとえ家族を殺されたとしても、行いを正しくしていればいずれ全員が生き返って天国へ行くと思っていた。だから彼は豚肉を食べなかったのである。

我々日本人からすると、最後の審判の日の到来は荒唐無稽な作り話のように聞こえると思う。しかし、オマール・カーンさんや十字軍に捕らわれた男も含め、すべてのイスラム教徒がこのことを本気で信じているのである。

これはすごいことだと思わないか?

世界のイスラム教徒の人口は約15億、しかも急速にイスラム教徒が増え続けている。あと10年~20年もするとキリスト教徒を抜いて世界一の宗教になる。

そしてイスラム教徒のほとんどが、自分の命だけでなく愛する家族の命をも犠牲にしてまで、最後の審判の日の到来に備え、コーランの教えを完璧に実践しようとするのである。

オマール・カーンさんのような読者の周りにもいる一般のイスラム教徒から、アラブ世界の国を動かすほどの力を持ったイスラム法学者や政治家のような権力者に至るまで、全員がコーランの教えを信じ、その教えを何よりも第一優先に実践しようとしているのである。

9・11以降、原理主義者(ファンデメンタリスト)という言葉をよく聞くと思う。

原理主義者とは宗教の教えを忠実に実践しようとする者を言う。日本人的感覚からいうと、我々は原理主義者について一部の宗教に囚われた狂信的な人というイメージを持っていないだろうか?

ところが原理主義者とは特別な存在ではない。

どこにでもいる人たちなのである。

そして本日の投稿でオジサンがみなさんに伝えたかったことは以下。

原理主義者とはイスラム教徒だけではない。

ユダヤ教徒やキリスト教徒も本来は原理主義者なのである。

ほとんどのユダヤ教徒は旧約聖書に書かれたことは「事実」として信じているのである。

たとえば、紅海が真っ二つ分かれてモーゼに率いられたイスラエルの民が渡った出エジプトの記述を本当にあったこととして信じている。

また同様に多くのキリスト教徒はイエスがおこなった数々の奇跡(亡くなった少女に触れて生き返らせたことや、ガラリア湖の水面を歩いて渡ったこと等)を実際にあったこととして本気で信じているのである。

まさか!大の大人がそんな作り話を本気で信じているはずはない!

…と、思うのは日本人だけである。ある宗教の教徒になるということは、その宗教の教義を文字通り信じきることなのである。

宗教とは本来そういうものなのである。

たいていの日本人は、元旦は神道の神社に初詣に行き、お彼岸には仏寺のお墓参りをし、暮れにはクリスマスを祝っちゃうような国民なので、この原理主義というものがなかなか理解できないのである。どうしても原理主義者を目の当たりにすると、頭のイカレタ変人にしか見えない。

日本ではキリスト教徒であってもほとんどの人が、天地創造やノアの箱舟、あるは預言者たちのおこなった数々の奇跡を単なる比喩的にしか捕らえていない。現実にあったものとして信じている人たちは少ない。少なくともオジサンの周りにいる日本人のキリスト教徒は聖書の中の奇跡をな~んとなくそんなことがあったのかな…程度のあいまいさ。積極的に疑ってはいないものの、確信には至っていなかった。

実はこの日本人のような宗教感覚の方が、世界的に見て稀なのである。

そして問題なのは、自称「国際人」の山本社長をはじめ、多くの日本人が自分たちの持っている類まれな宗教観を人類普遍の宗教感覚だと思い込んでいることなのだ。ここに異文化間コミュニケーションの軋轢(あつれき)が生じるのである。

畢竟(ひっきょう)、宗教とは原理主義(ファンデメンタリズム)こそが本来の姿であることを肝に銘じてほしい。このことをとっくりと腑に落とすことによってはじめて、これからオジサンがお話しようと思っているユダヤ教、キリスト教およびイスラム教の驚くべき世界が理解できるようになるのである。

あとがき)

みなさ~ん、おひさしぶりです。

今年の夏は本当に暑(熱?)かったですが、ようやく最近、朝夕がちょっと過ごしやすくなってきたかなって感じがしています。

さて今週より宗教をテーマにブログを再開します。10回~15回くらいの投稿記事を書こうと予定していますが、執筆する時間が日曜日しかないので、前回のように毎週1回の更新はできないかもしれません。(前回はかなりしんどかったです。)今回は無理せずに、不定期に投稿しますので時々覗いて下さいね。

記事の投稿間隔は長くて投稿回数も少なく、物足りない感じもするかもしれませんが、一球入魂で書き上げていきますので、気長~にお付き合いをお願いいたします。

レストランの件ですが、資金が思うように集まらず最終的には断念しました。その後、転職したのでカーンさんとは疎遠になってしまいましたが、何年かして風の噂でカーンさんは念願のお店を開店できたということを聞きました。

今回の投稿でなんとなく原理主義者というものが一部の人たちではなく、どこにでもいる人たちであることがわかっていただけましたでしょうか。しかも彼らの戒律というのは、命と引き換えでも守るというとても厳しいものです。そこらへんを理解して彼らと付き合ってくださいね。

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そうそう、本日は是非皆さんにご紹介したいブログがあります。

はなぶささんという英語三冠(英検1級、TOEIC965以上、通訳ガイド)保持者でプロの翻訳家の書かれたブログ(変身!幸せな英語使いドットコム)です。

このブログは英語と日本語のチャンポンで書かれています。

使われている英単語はいずれもタイムやニューズウィークなどで見かける「知的な」語彙ばかりで、おそらく英検の試験出題者が好みそうなものばかりです。辞書を片手にじっくりと読むとボキャビルに役立ちます。

しかしオジサンが皆さんにお伝えしたいのは、それ以上に書かれている内容がとってもいいということなんです。

円滑なコミュニケーションとは語学だけの問題ではありません。

外国の言葉を学ぶと同時に、文化、習慣、考え方等に関して、海外と日本の違いを学んでいく必要があります。その点、はなぶささんのブログにはそれらのヒントがたくさん書かれているのです。まさに一石二鳥のブログなんです!

また彼女のブログで扱っているテーマがなぜかオジサンの書いた過去ログとシンクロしています。はなぶささんのブログと合わせて読んでいただければ、2倍お楽しみいただけると思います。ぜひ彼女の過去ログも読んでいただくことをお薦めします!

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次回はそれぞれの宗教の食物規範について補足します。

それじゃ、次回もよろしくね。バイバイ!

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2007年8月 5日 (日)

秋のブログ再開のお知らせ

読者の皆さ~ん、

お久しぶりです。暑い日が連日続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか?

すでに終了してしまったオジサンのブログですが、多くの方々が毎日このブログを訪れて、過去の記事を読んでくれています。英語ブログランキングに登録して、記事を投稿していたころよりもずっと多くの方々が訪れています。とっても不思議に思うと同時に、非常に感謝をしております。

さて、前回の投稿連載では最後の方はヘトヘトになってしまいましたが、4ヶ月間休養を取り、体力も回復してきましたので、また秋からブログの投稿を再開しようと思っております。

前回の投稿では、主としてロングマンの使い方と英語の本を読むことの楽しさをテーマとして書きましたが、今回は何にしようか考えた末、宗教をテーマに書こうと思っています。

なぜ宗教について書こうかと思ったかというと、オジサンは20年間、海外の人たちと仕事をしてきたのですが、「あれれ?」と思うようなことがいろいろありました。彼らの行動が理解できないのです。ところが徐々に彼らの意思決定には宗教が大きく関係していることがわかってきました。彼らの宗教を理解すると、彼らの行動が日常的なことから国際紛争にいたるまでよくわかるようになります。タイム誌などを読んでいても、非常によく内容がわかってきます。

たとえば、私たち日本人にもなじみのあるキリスト教ですが、私たちが持っているキリスト教に対するイメージと実際のキリスト教では大きな相違があります。

聖書を通読するとそのことがよくわかります。

なぜか日本では、キリスト教徒であっても聖書を読みません。オジサンの周りにいる何人かの日本人のキリスト教徒に聞いてみたのですが、旧約から新約にいたるまで聖書を通読した人は一人もいませんでした。日本ではクリスチャンになる人のほとんどは、牧師さんの人柄に惹かれたとか、ミサの荘厳な雰囲気が好きということで、毎週日曜日に教会へ行くようになり、そのままクリスチャンになる場合がほとんどのようです。もちろんオジサンはこのようなキリスト教の学び方に反対しているわけでないので誤解しないで下さいね。

日本人のキリスト教徒でさえ聖書を通読しないのですから、おそらく一般の日本人で聖書を通読された方は非常に少ないのではないかと思います。ところが欧米では小さい頃から子供たちに聖書を全体を通して読ませます。

日本人が持っているキリスト教の神様のイメージは、なんかホワ~ンとしてとっても暖かくって、愛に満ちているありがた~い神様を想像するのではないかと思います。しかし聖書に描かれている実際の神様は我々の想像とはまったく違っています。水風呂とサウナくらいの温度差があります。

天地創造から新約まで読んでいくと、私たちが持っているそのようなキリスト教観はふっ飛んでしまいます。聖書の中には我々の想像をはるかに越えるすごい世界が広がっています。

秋からのブログで、ぜひオジサンと聖書をおおざっぱにザッと通読しましょう。皆さんのキリスト教観が変わると思いますよ。

また、アラブの方たちの宗教、イスラム教もオジサンといっしょに勉強しましょう!

イスラム教は現在人口比率で言うと世界第二位の宗教ですが、あと10年~20年もすると、キリスト教を抜いて、世界第一位の宗教になります。それなのにほとんどの日本人がイスラム教を知りません。

イスラム教というと、日本では、「なんか奇怪な宗教で、テロばかり起こしている恐ろしい宗教」、というイメージがあると思います。

ところが、イスラム教を勉強すると、皆さんのイスラム教に対する見方が180度変わります。

イスラム教ほど平和を重んじる宗教はありません。感動すら覚えますよ。もしオジサンが生まれ変わって、どの宗教をやりたいかと聞かれたら、まっさきにイスラム教を選びます。イスラム教は理想的な宗教です。だからイスラム教が世界的に急速に広まっていくのがわかります。

いま世界中で起きているイスラム原理主義運動が問題になっています。

9.11が起きた時、ある大新聞が「テロの背景には貧困があるので、貧困の撲滅が大切である」というような論調の社説を出しました。たしかに貧困の撲滅は重要ですが、テロを起こすイスラム教徒の中にはエンジニアや弁護士、医者という地位の高い人たちが相当数占めており、単に貧困が原因ではありません。また世間で言われているような、単純なキリスト世界とイスラム世界の宗教対立と捕らえるのもちょっと違います。理由はもっと別のところにあります。

それでは中東の混乱も含めてこれらの原因はなにか?

その答えはイスラム教の聖典・コーランの中にあります。

ぜひ秋からのブログで、オジサンといっしょに世界四大宗教のうち、ユダヤ教、キリスト教およびイスラム教を勉強しましょう!きっと皆さんが英語を使ってコミュニケーションを取る時や、タイム、ニューズウィークなどを読むときの理解に役に立つと思います。

なお、オジサンはキリスト教徒でもイスラム教徒でもなく、また宗教学者でもありません。「オジサンの言ってることは、教会の牧師さんが言っていることと違う!」と、抗議されてもオジサン困っちゃいます。オジサンは正式な宗教学を学んでおらず、独学で聖書を読み、宗教本を読んできただけですので、素人の域を出ておりません。オジサンの個人的な解釈ですので、正当な教義と違っているところが多々あると思います。そこのところはご容赦していただくとして、あくまでも参考程度までにしていただきたと思います。

秋からのブログではこの宗教をテーマに10~15回くらいの投稿記事を書こうと思っています。また今回は英語ブログランキングに載せません。前回は一週間に一回でしたが、今回は不定期にします。読者の皆様には気長にお付き合いいただけますようにお願いいたします。

前置きがまたまた長くなってしまいましたが、涼しくなったらお会いしましょう。

じゃね、バイバイ。

オジサンお薦めの本)

聖書

聖書協会が出版している、口語英語で書かれた読みやすいバイブルです。この聖書の特徴は各章の要約が冒頭に書かれていることです。聖書は日本語で読むよりもこの英語版で読むほうがずっと楽です。中学3年生程度の英語力があれば理解できるほど、平易な文章と単語で書かれています。

平易な文章で書いてあるとは言え、一般の我々が聖書を通読するのは骨の折れる作業です。なぜかというと、系譜が非常に複雑で混乱するからです。最初から細かく読んでいくと何がなんだかわからなくなっちゃいます。そこで枝葉末節は思い切って省き、ざっくりと幹の部分だけをすばやく読みましょう。そうすることによって聖書による神と人間の関係がより深く理解できます。どの部分が太い幹かは秋からのブログで明らかにしますね。

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