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(cache) モレスビーの悪夢

 

        モレスビーの悪夢

 

 

 

 状況は悪化の一途をたどっていた。

 一九四二年八月二〇日に占領して以来、ニューギニアの端、ポートモレスビーはあきらかに海軍の、いや日本のお荷物になっていた。

 確かに占領当初こそクックタウン、タウンスビルといった北東オーストラリアの脅威となった。また、ニューギニア・ソロモン諸島、ニューカレドニア、フィジー諸島、サモア諸島の攻略により豪州及びニュージーランドの屈服、乃至は好意的中立の獲得という策は悪くはない。日本の国力――特に補充能力を無視し、軍艦は燃料が無くても無限に進め、乗組員もいならないというのであれば。

 だが、現実には軍艦を動かすのには油がいるし、乗組員は飯を食う。遠くの子供に毎月仕送りをするとなると莫大な労力になるし、遠くになればなるほど交通事情などで郵便事故も起こる。さらに、荷抜きをするものも現れる。

 普通の郵便事故であれば、郵政省に文句を言えばいい。だが、国家が出し、それが強盗に襲われ続けているとなると話は違ってくる。国家は実力をもって強盗を排除する必要がある。排除しきれないのは国家の怠慢というしかない。

 第一次モレスビー輸送失敗以後、連合艦隊は手を替え品を替え、様々な方法でモレスビーへの輸送を試みているが、どれ一つとして満足のいく結果になっていない。わずかに駆逐艦による「ねずみ輸送」で成功例がごく少数あるが、焼け石に水、無いよりマシな程度であった。

 さらに一二月の一日から開始されたB17による空襲で、豪州方面艦隊は湾内での回避運動をよぎなくされ、その時点であと二〇日といわれた燃料は一気に枯渇した。

 あと一回、あと一回回避運動を行えば豪州方面艦隊は動くことすらままならなくなる。

 モレスビーは危機に瀕していた。

 そして、この期に及んでも、トップは己の怠慢を認めていなかった。

 

 

 一二月七日

 トラック島 海軍基地

 

「補給の要求しかできんのか、南雲の無能者は!」

 豪州方面艦隊からの緊急電を一読した嶋田GF長官は、あまり上品とは言い難い音をたてて舌打ちした。

「モレスビー占領以来、豪州方面艦隊司令部からの報告と言えば、ただただ『重油よこせ、食料よこせ、弾薬よこせ』繰り返しだ。連合軍が残していった物資を自力で捜してみようとかする気になれんのか!」

「豪州方面艦隊がモレスビー占領直後に送ってきた報告書は、長官もごらんになったと思われますが」

 嶋田の一方的な言いぐさを聞き逃せなくなって、大西滝治郎少将――第一航空戦隊司令官は言った。

「敵はモレスビーから引き上げるに際して、ありとあらゆる物資を持ち去ったと」

「君の意見を求めた覚えはないぞ、一航戦司令官」

 嶋田は不快げに言って、自分の前に勢揃いした第一、第二両艦隊の提督達をじろりと見回した。

「で、各戦隊の司令官が雁首揃えて、この私に何を意見したいのかね?」

 時間が気になるのか、それとも居心地の悪さか時計をちらちら見ながら聞く。

「豪州方面艦隊が――いえ、モレスビー全体が、目下重大な危機に直面しています。そのことについて、長官にご注意を喚起したいのです」

 一同を代表して、古賀峰一第二艦隊司令長官が言った。この八月に大将に昇進しており、襟の桜の記章が三個に増えている。熱帯圏にあるトラック島に半年以上滞在しているにもかかわらず、日焼けの跡が目立たず、色白の事務官僚を思わせる顔だった。

「モレスビーが数度にわたる空襲を受けたという件かね?」

 一二月一日の空襲を皮切りに、連合軍は、実に四回にわたる空襲をモレスビーに加えている。第一回は戦爆連合の九〇機の空襲だったものが、一二月二日の第二次空襲では九五機、一二月四日の第三次空襲では一〇五機と、一回ごとに機数と激しさを増している。一二月六日の第四次空襲では実に一二〇機がやってきた。

 モレスビー航空隊は、迎撃に奮戦しているが、敵の重爆は装甲が厚く、零戦の二〇ミリ機銃でもなかなか火を吹かない。七・七ミリ機銃しか装備してない二一型甲などは、――坂井三郎のように同じ所に百発近くぶち込める特殊な搭乗員を除いて――手も足も出ない有様である。

 そして、敵が爆撃隊の機数を増やしているのとは対照的に、モレスビー航空隊は機体、搭乗員の消耗、燃料不足から、次第に迎撃機の機数を減らさねばならない羽目に陥っていると言う。

「このままでは、遠からずして、モレスビーの制空権は、完全に敵の手に落ちます。いや、もう落ちている、と言うべきかもしれません」

「いつまでも敵の攻勢が空からのものにとどまっているとは思えません」

 三川軍一第二戦隊司令官が畳み掛けるように言った。

「敵が、艦隊を繰り出してくることも考えられます。そうなえば、第八艦隊は燃料切れの状態で敵を迎え撃たねばならず、勝敗は目に見えています」

「確固たる証拠もなしに、不愉快な想像は止めたまえ!」

 嶋田は、拳で執務机を叩いて言った。

「敵の戦艦がハワイを出航した、などという情報は、全く入っておらん」

「敵艦隊が動いていないのではなく――」

 大西滝治郎が言った。

「敵艦隊の動向監視に当たる我が軍の潜水艦が、撃沈されたからではないでしょうか?」

 最近、ハワイ、オーストラリア方面で、日本軍の潜水艦が消息不明になるケースが増えている。第六艦隊司令部(潜水艦中心)に定時連絡を送ってこず、そのまま帰還してこないことが多いという。

 その情報は、嶋田のもとにも届けられているはずだが……

「なんたることを言うのかね、君は!」

 嶋田の額に青筋が浮いた。本気で腹を立てた様子だ。

「我が軍の潜水艦は、性能、乗組員の技量とも、極めて優秀だ。そんなに多くの潜水艦が、沈められるわけがないではないか。君は、アメリカの対潜能力を過大評価している。敗北主義者だぞ、それは」

 大西は、怒りを通り越してあきれてしまった。現在、新型潜水艦を開発するために日本に来ているドイツ人技師によると日本の潜水艦は無音潜航性が非情に悪く、「太鼓や祭囃子を鳴らしている」ようなもので、「こんなにやかましい潜水艦には乗れない」とまで言われたという。多くの同僚の前で「敗北主義者」と罵倒されたことより、航空屋の自分が知っている程度の情報すらGF長官が知らないことに大西はあきれ果てた。

「失礼ながら、長官はアメリカを過小評価しておられます」

 大西が静かにやり返したとき、嶋田はすでに大西の顔を見ていなかった。

「時間だ」

 嶋田がそういうのと同時に、ノックの音が響く。

「失礼します。嶋田長官、輸送機の準備が整いました」

 侍従兵からの連絡にようやく嶋田はにこやかな表情を見せた。

「分かった。今行く」

「どこへ行かれるのですか?」

 これまで、ひたすら黙っていた角田覚治第四戦隊司令官が、殺意すら感じられる口調で聞く。

「本土だ」

 少しもやましいところがないようで、堂々と言う。

「及川海相と永野軍令部総長からMO作戦に関して会議を開きたいという申し出があった。現在のMO作戦と来るべきN作戦(ニューカレドニア)、FS作戦(フィジー・サモア)に備え、海軍省、軍令部と話し合ってくる」

「モレスビーは放棄すべきです」

 古賀は言った。

「もしくは、全GFを率いて、モレスビー輸送船団の護衛を。もし、全GFを動かせないとおっしゃるのであれば、私の第二艦隊だけでも行かせて下さいませんか? 第二艦隊は、現在戦艦二隻を第八艦隊に出していますが、一八インチ砲装備の伊吹級四隻は手元にあります。敵がマーシャル沖の生き残りの戦艦全てを投入してきたとしても、十分勝算はありますし、うまく行けば、マーシャル沖で撃ちもらした敵戦艦を、今度こそ完全に殲滅できると考えますが」

「どちらも論外だね」

 嶋田は傲然と言い放った。

「皇軍に撤退はありえん。少なくとも、作戦目的を完遂するまで、一度確保した占領地には、何ヶ月でも、何年でも、留まり続けねばならん。また、GF主力、もしくは第二艦隊をモレスビーに派遣したとして、その間にマーシャルやトラックに敵が来寇してきらどうするのかね? モレスビーを確保できて、トラックを落とされる羽目になったら、どう責任をとるのかね?

 だいいちモレスビーの放棄というような作戦方針の大転換には、陛下の御裁下が必要なのだ。GF司令部だけで決められるわけがないだろう」

「もらってくればよろしいのではないですか」

 角田が言った。

「そのための会議でしょう」

 角田の厳しい視線に嶋田は何も答えず、捨て台詞のように古賀を臨時の司令長官代理に命じ、「戦艦をモレスビー方面に動かすな」と怒鳴るように命じると、逃げるように部屋を出ていった。

 残ったメンバーは、まるで通夜のように暗い表情を浮かべていた。

 

 

 一二月九日 

 下関  料亭「周防」

 

 内地は相変わらず平穏だった。

 町を歩けば、勇壮な行進曲や軍歌が耳に付き、至る所に「聖戦完遂」「鬼畜米英撃滅」「八紘一宇」といったスローガンをかき立てたビラや立て看板が並べられている。

 だが、人々の顔は少々暗い。無敵海軍がモレスビーで奮戦していても、自分達の生活の規制――いくつかの自由の規制、食料の配給、国債の強制割り当てなどは一向に変化が無いからだ。

 それに加え、最近では目立った勝利が無い。幾つかの海戦で圧勝しているようだが、未だ「モレスビー占領」以降のニュースが無いというのはやはり志気を萎えさせる。

 現実は、海戦で完敗し、放棄まで主張されている状況なのだが。

 そんな中で極秘の、しかも贅沢な会議が開かれていた。

 

「そうか、モレスビーの現状はそこまで悪いか」

 米俵のような頭をした大将の襟章をつけた人物、永野修身軍令部総長は言った。

「はい。モレスビーの南雲は日々、補給の要求しかしません。私が何度も十分な護衛を付けて送り出しているのにもかかわらず、輸送船団の指揮官はことごとく失敗します」

 同じく大将の襟章を付けた人物、嶋田GF長官はこともなげに言う。

「人事に問題があるだろうな。死者を攻めるのは嫌だが、一〇月の第二次モレスビー沖海戦で敗北した五島は敵の砲撃を最後まで同士討ちだと思っていたそうだ」

「似たような人物は、GF司令部にもいます。いずれ変えざる終えないでしょう。ですが、今はまずい。GF内でも輸送船団の指揮官の無能さを言う人物が居る一方、この作戦に疑問を持つ者が現れています。今、飛ばせば彼らは間違いなく米内や井上といったグループに走る」

「それだけは避けねばならん」

 この中で、いや海軍内で唯一元帥の襟章をつけた人物がようやく口を開く。

「ならば、戦力の増強を。海上護衛というくだらないことをやっている第七艦隊に割り当てる戦力、予算があるならば、こっちに回していただきたいですな」

 まったくだ、といった表情で永野、元帥は頷く。彼らはいずれも「大砲屋にあらざるものは軍人にあらず」という思想を隠そうともしていない。

「及川氏にもそろそろ隠居を願いたいですな。あのお方はこの前、戦艦にあてる予算の一部を割いて海防艦を造りたいというたわけたことを発言しています。あのお方は戦艦と海防艦ではどちらが重要なのか分かっておられない。そういう人物はさっさと隠居して欲しいですな」

 これもまたまったく、といった表情で二人は頷く。

 及川とは現海相の及川古志郎海軍大将で、一応は彼らの派閥の人間である。しかし、「商船保護」という嶋田らにとっては理解できないものに目覚め、第七艦隊の設立と人事にかなり力を入れた頃から袂を分かっている人物でもある。学者になるところを間違って軍人になったとしか思えない風貌の人物で、温厚であるが、それだけに押しに弱い人物であった。

「だが、それ以前に、GF長官の変更という手もある」

 元帥の発言に嶋田はわが耳を疑った。

「君はさっき『この作戦に疑問を持つ者がいる』といったが、それは当然ではないかね。作戦開始からおよそ四ヶ月、この間に失った輸送機、戦闘機、駆逐艦、輸送船、そのどれもが馬鹿にならん。平時でも三年が限界と言われるGF長官を戦時も含めそれ以上勤めたのだ。そろそろ後輩に譲ってはどうかね?」

「げ、元帥は私を切り捨てると」

「別にそうは言っていない。ただ、君も疲れただろうと言っただけだ」

 にこやかに笑ってはいるが、目は笑っていない。なんとも冷酷な目だ。

「まあ、その話は後にしましょう。せっかく内地に戻ったのだから、嶋田君に羽目をはずさせてあげましょうよ」

 これ以上、二人が話すと危険と見た永野が機転を利かし、女将を呼び、料理が運ばれる。

 そこには熱燗の他、広島産の生牡蠣、サザエの壺焼き、鯛や寒鰤の刺身――等々の贅を尽くした料理が並べられていた。

 中でも目立つのは、国宝の大皿に盛られたふぐ(下関ではふく)の薄造り「てっさ」と、ふぐ鍋「てっちり」である。しかも、この日下関で取れたばかりの新鮮なトラフグであった。

 日本国家は遼河畔事件の頃から、「戦時下だから」という名目で国民に窮乏生活を強いている。町中には「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」といったスローガンが氾濫し、「ぜいたく監視隊」なる組織が我が物顔で練り歩き、少しでも上等に見える服を着ている者や装身品を身につけている者を見つけると、魔女裁判の審問官のように嬉々とした表情で騒ぎ立てる。

 それが「聖戦完遂」「鬼畜米英撃滅」「八紘一宇」の現実だった。

 その国民から容赦なく取り立てた税金で、庶民には夢見ることすらかなわぬ贅沢を味わいつつ、自分達の権力基盤を強化するための謀を巡らせる。それが、政界や軍閥の中に身を置く者の特権だった。

 だが――さすがに罰があったらしい。

 この日、貸し切りにしていた料亭に、極秘で救急車が回され、また極秘で呉海軍病院に運ばれていった。運ばれたのは海軍元帥伏見宮博恭、海軍大将永野修身、そして同じく海軍大将嶋田繁太郎。

 三人が運び込まれた呉海軍病院では、直ちに検査した結果、倒れた原因をつかんだものの、どうしようもなかった。三人はいずれも河豚による中毒であったからだ。

 河豚中毒は、それこそ顔から下を土に埋めるという効果があるかないか分からない方法しか、治療法が存在しない。結局どうすることもできず、意識不明の状態のまま、呉海軍病院に入院させておくしかなかった。

 戦後、山口多聞氏は雑誌のインタビューでこのように答えている。

「酷いとは思うだろうが、私はこの話を聞いた時ばかりは天罰だと思った。南雲さんらがモレスビーで必死の思いをしている時に、このような宴会をあまつさえ内地にわざわざ戻って繰り広げているとは。モレスビーで戦死した将兵の怨念だと本気で思った」

 この事件は海軍甲事件と呼ばれ、この事をきっかけに海軍は大きな変化を遂げる。

 だが、残念なことに海軍にはまだ贖罪の子羊が必要だった。

 

 

 一二月一〇日 〇八〇〇時

 ニューギニア ポート・モレスビー

 

 第八艦隊の各艦は、全ての対空火器に最大仰角をかけ、敵機の来襲を待ちかまえていた。

「今度はかなりやられるだろうな」

 旗艦「土佐」の艦橋で南の空を眺めながら、南雲忠一は呟いた。

 一二月一日の第一回空襲以来、通算六度目の空襲だが、第八艦隊にとって、状況は過去五回のどれよりも悪い。

 回数を重ねる度に、敵の数は確実に増加する一方、こちらの迎撃戦闘機の数は減少の一途をたどった。第八艦隊では。軽空母「竜驤」の艦載機と航空燃料を陸揚げし、モレスビー航空隊と共に迎撃に当たらせたが、敵を完全に食い止めるにはほど遠い状態だった。

 それでも、迎撃戦闘機は勇戦し、敵の重爆にしつこく食い下がって爆撃を妨害して来たが、その迎撃戦闘機隊も、遂に燃料が底をついた。

 第八艦隊は、自分達の力だけで、空からの攻撃に対処しなければならない。

 そして、更に致命的なことには、第八艦隊は動くことが出来ない。過去五回の空襲で、狭い港内や、時には外洋に出るなどして回避運動を行った結果、三週間は保つはずだった燃料を、一〇日で使い果たしてしまったのだ。

 補給が来ない限り、もはやラバウルまで後退することすら出来ない状態だった。

「爪に火を灯すようにして貯めた金を、不慮の災害で使い果たしてしまったようなもの」

 とは、ある参謀の、ため息混じりの言である。

 連合軍の爆撃隊は夜が完全に明け、周囲がすっかり明るくなるころ、姿を現した。

「せめて、雨でも降っていてくれればな」

 戦艦「加賀」艦長の岡田次作大佐は、雲一つない空を、うらめしげに見上げた。

「我々は、GF司令部だけでなく、天にまで見放されたらしい……」

 間もなく、対空戦闘の開始を告げるラッパが高らかに鳴り渡った。「配置に付け」の号令が、各艦の乗組員を走らせる。六隻の戦艦では、艦長が鉄兜を被り、対空戦闘の指揮を執るべく、防空指揮所に移る。甲板では、機銃員達が、二五ミリ、一三ミリの各機銃に取り付き、発砲の態勢を整えた。

 最初にモレスビー港上空に姿を見せたのは、双発双胴のP38だった。二機、五機、一〇機――と、見る見る数を増やして来る。それらに先導されるようにして、後方からB17の魁偉な巨体が、やって来た。

 太く長い胴の前寄りに、機関車をはめ込んだような形のコクピットが位置し、ところどころに、昆虫の目玉を思わせる半球状の機銃座が取り付けられ、最後部には、丈高い垂直尾翼が、いきり立つように突き出している。幅広く、長い主翼には、前方に突き出した四つのエンジンが、ぐうん、ぐうん――と力強い響きを発して、大気を震わせている。

 B17一機を二機のP38で守る態勢は、さながら双頭の竜をしもべにかしづかせた空の巨人を思わせた。

 編隊はモレスビー港の遙か手前で二手に分かれ、一隊は内陸の飛行場に進路を取り、もう一隊はそのままモレスビー港めがけて前進してきた。

「射撃開始!」

 各艦の艦長が発した号令はほとんど同時だったであろう。六隻の戦艦、一隻の軽空母、一隻の軽巡、八隻の駆逐艦が、おびただしい火箭を一斉に噴き上げ始めた。全艦合わせて何百門にも達する高角砲、機銃の発射音が、耳を聾する雄叫びとなって、モレスビーの空に咆哮する。

 それらを衝いて、まずP38群が、二基のエンジンを唸らせながら、急速に降下し始めた。機首の二〇ミリ機関砲一門、一二・七ミリ機銃四丁――アフリカの戦場で、ドイツ軍の車両や歩兵をなぎ倒してきた重火力が、真紅の閃光と共に炸裂する。

 各艦の甲板に火花が散り、そこかしこで悲鳴が上がった。頭を、胸を、腹を撃たれた兵士達が、絶叫と共に死の舞を踊り、血をしぶかせて倒れ伏す。

 上空から、海面すれすれの高度から、機銃を撃ちっぱなしに突入し、何人かの兵士を仕留めて離脱していく。人の魂を冥府に導く、金属製の死の鳥 (ハーピィ)を思わせる。

 艦上の対空砲火陣も、猛然とこれに応戦した。何機かが火弾に貫かれ、もんどりうって墜落する。数本の火箭が突き刺さり、木っ端微塵にはじけ散る。

 しかし、全体的にみるとそれらはごく少数だった。ボイラーを焚けず、電源も入らず、指揮所からの電気誘導によるシステマティックな照準射撃は期待できない。このため機銃ごとの各個照準となり、高精度の命中率など、望むべくもなかった。

 やがて、P38の襲撃が終わり、B17の出番になった。

 巨大な四発の重爆は、悠然と前進してくると、次々と爆弾を落とし始めた。

 落下速度のついた爆弾は、水深の浅いモレスビー港の海底を抉り、大量の土砂を舞上げた。戦艦群の右舷に、左舷に、土色の水柱が噴き上げ、崩れ落ち、土砂を含んだ海水が、機銃手たちを打ちのめす。

 五〇〇ポンド爆弾の一発が、戦艦「加賀」の一番砲塔に直撃し、天蓋の上に閃光が走った。金属的な衝撃音と共に、無数の鉄片が飛び散り、周囲の将兵を殺傷する。

「やられたか!」

「土佐」の艦橋からその光景を見た南雲は、破局を予感し、思わず目をつぶった。戦艦の主砲塔の真下にある弾薬庫に火が入ったら、不沈戦艦を豪語する巨艦といえども、ひとたまりもなく轟沈してしまう……。

 が、「加賀」は無事だった。第一砲塔に、うっすらと焦げたような跡は見受けられるものの、その四万八五〇〇トンの巨体は、何事もなかったのように、モレスビー港に浮かんでいた。

 災厄に見舞われたのは、軽空母の「竜驤」だった。排水量一万二千トンの軽空母は、「加賀」ほど幸運でもなく、頑丈でもなかった。最大の不運は、航空爆弾では戦艦の上面装甲を貫けぬ――と判断したB17のパイロットに目を付けられた事だったかも知れない。

 無数のハンマーが貧弱なブリキ細工を、よってたかって叩きつぶす光景を思わせるその爆撃は、「竜驤」の飛行甲板を抉り、機銃座を吹き飛ばし、艦形を大きく変貌させた。

 甲板中央に開いた、軽トラックが入りそうなほどの大穴から、濛々たる黒煙が噴き出し、醜く変貌した己の姿を僚艦に見せまいとするかのごとく、「竜驤」の姿を隠していく。

 その上から、更に情け容赦なく、B17の五〇〇ポンド爆弾が落とされた。艦を覆った黒煙の中に、無数の閃光と赤黒い炎が見え隠れし、鈍い爆発音を伴って、無数の黒っぽい破片が、つぶてとなって飛散する。

 全長一八〇メートルの軽空母を、何発の爆弾が襲ったのか、正確なことは分からない。連合軍の最後の一機が投弾を終えて引き上げたとき、「竜驤」は見る影もなく破壊され、飛行甲板をわずかに海面に覗かせた状態で、モレスビー港の海底に着底していた。

 生存者の存在など、期待する方が愚かと言うべきだった。

 南雲を始めとする豪州方面艦隊の司令部幕僚たちは、半ば呆然として、モレスビー港の惨状を見つめていた。

 軽空母「竜驤」を実質的に撃沈され、戦艦部隊も、少数の直撃弾と、おびただしい至近弾により、大なり小なり被害を受けている。

 特に「天城」は第二砲塔付近に喰らった直撃弾により、第二砲塔のターレットが歪み、旋回が不可能となってしまった。これは、南雲ら司令部にはそうとうなショックであった。

 それ以外の戦艦も副砲、高角砲などをごっそりやられている。

「もう一度空襲に来られたら――」

 南雲は、うちからこみ上げるものを抑え、努めて平静な声で言った。

「八八艦隊計画艦といえども危ない」

「長官、このままでは――」

 幕僚を代表して、草鹿竜之介が言った。

「攻撃されても応戦もできない、ラバウルまで後退することもできない。これでは、我々はここで敵になぶり殺されるだけです」

「トラックの嶋田長官に、もう一度連絡するんだ。――いや、連絡ではなく、救援要請にすべきだろうな」

 南雲は答えた。本土の異変は南方はおろか、トラックにも伝わっていないので、南雲はいまだに嶋田が司令官だと思っているが、正確な情報が入っていても、それ以外に取るべき方法はないであろう。

「電源が入らず、通信機が使えませんが」

「陸軍から野戦用の通信機を借りたまえ。トッラクは無理でも、ラバウルまでなら届くだろう。一一航艦司令部を経由して、こちらの窮状を伝えるんだ。『モレスビーは、燃料、食料の不足により、重大な危機に直面せり』と」

 同じ頃、内陸にあるモレスビーの飛行場でも、爆煙が未だ収まらぬ滑走路と、見るも無惨な残骸と化した愛機を前に、搭乗員や整備員達が、呆然とした面もちで立ち尽くしていた。

 米軍の空襲は熾烈を極め、日本軍の偽装を簡単に見破り、モレスビー航空隊の飛行機の大部分に小型爆弾、機銃弾を見舞った。その徹底ぶりには明らかな憎悪が込められており、過去三ヶ月間モレスビー航空隊に痛めつけられた借りを、すべて今日一日分に凝縮して返そうと決意したかのようだった。わずかに無事であった機体も、肝心の滑走路が完全に破壊され、土砂とコンクリート塊と化した現状では意味がなかった。もっとも、直せたところでガソリンが無いのではどうしようもないが。

 破壊された滑走路の数カ所で、線香を立てたように、細い煙が立ち上っている。それはモレスビー航空隊の短い栄光の期間の終わりを告げ、その弔いをするかのようであった。

 

 

 同日 一四〇〇時

 オーストラリア クックタウン

 

 トーマス・キンケードは、臨時に第三七任務部隊の司令部を置いた戦艦「アイオワ」の艦上で、モレスビー攻撃隊指揮官バークレー少佐の報告を、直接受けていた。

 日本軍の空襲が途絶え、連合軍の航空攻撃が開始された現在、もはや空襲を受ける危険はないと判断され、艦隊はモレスビーまで僅か八〇〇キロ足らずの、ここクックタウンまで前進している。

「すると、モレスビーの日本艦隊は――」

 キンケードは、バークレーの顔をまっすぐに見つめて聞いた。

「まったく回避行動を取ろうとしなかったのだな?」

「イエス、サー」

 と、バークレーは答えた。

「対空砲火は相当なものがありましたが、地上の制止目標を爆撃するのと、全くかわりませんでした」

「大いに結構」

 キンケードは、満足げに頷いた。

「その報告を待っていた」

 キンケードはバークレーを下がらせると、直ちに第三七任務部隊の司令部幕僚全員を「アイオワ」のブリーフィング・ルームに召集した。

 結論が出るまで五分とかからなかった。モレスビーの日本艦隊は、完全に燃料を使い果たし、自力で航行できる能力を喪失している。今を置いて、この艦隊を叩く機会は他にない、と。

「我々としては、可能な限り迅速に――トッラクにいるジャップの本隊が、救援に駆けつける前に、モレスビーの艦隊を叩きつぶさねばなりません」

 参謀長のコナリー少将の意見に全員が賛成した。もちろんキンケードにも異論はない。

 キンケードは全員の顔を見回して言った。

「今夜二〇時に、作戦開始としよう」

 この決定は米太平洋艦隊司令長官のニミッツ大将にも伝えられ、ニミッツは空母二隻でマーシャルを襲わせて陽動させるという。

 その命令が伝達されるや、「アイオワ」艦内で、歓喜が爆破した。

 一年前の、あのマーシャル沖の屈辱を晴らせる。「キンメルに続け!」のスローガンを、今こそ我が手で実践できる!――その喜びに、艦全体が異様な興奮状態に包まれた。

 将兵の興奮は、艦隊の他の戦艦全てにたちまち波及し、やがて巡洋艦や駆逐艦にも伝わった。

 第三七任務部隊を支配した熱狂と喜悦は、出港直前まで収まらなかった。

 そして、一一日〇五三〇時、マーシャル諸島は大空襲に会い、米海兵隊はルオット島に上陸した。

 

 

 一二月一一日 一二〇〇時

 トッラク島 海軍基地

 

「長官、これは陽動です」

 米軍、ルオットに上陸――の報を受け、連合艦隊の司令部幕僚、各戦隊の指揮官を旗艦「近江」に集めて、緊急に開かれた会議の席上で、角田は開口一番そう言った。

「上陸部隊を伴ってというのが気になりますが、この時期、敵がマーシャル攻略にやってくる理由はありません。あるとすればただ一つ、GF主力をモレスビーから引き離すことです」

「わかっている……」

 古賀GF司令長官代理は重苦しい表情で言った。内地の異変は、ここトラックにもまったく伝わっておらず、古賀は嶋田がいまだに内地で健在だと思っている。そのため、古賀は代理という、不十分な権力で事態に向かわねばならない。

「しかし、現実にマーシャルが襲われている以上、ほっておくわけにはいかないだろう。ここを恒久基地とされれば、マーシャル諸島は完全に落ちる」

「マーシャルが落ちても、今現在の直接の脅威にはなりません。しかし、モレスビーの艦隊には直接の脅威が迫っているのです」

「通信参謀」

 古賀が連合艦隊司令部の和田中佐に声をかけた。

「ルオットからの通信文は、敵の兵力について知らせて来ているのか?」

「それが不明なのです」

 和田は助けを求めるように、宇垣纏の方に目をやった。

「ルオットに限らず、マーシャルからの敵兵力――特に海上兵力についての情報が、これまでのところ、何一つ入ってきていません」

 宇垣が説明した。

「クェゼリンやマロエラップからも偵察機を出していますが、どうも敵は相当数の戦闘機を用意しているようです。偵察機がことごとく未帰還となり、敵情がまったく報告されていないのです」

「戦闘機ではなく、電探の可能性もある」

 角田が言った。

「イギリスが本土航空決戦の折り、沿岸に多数の電探を配置し、友邦ドイツの爆撃隊に対して効果的な迎撃を行ったと聞いている。戦闘機を多数用意すると、その分爆撃機を減らす事になるから、マーシャル攻略は難しい。あれはこちらが来るのを察知して、より上空で待ち伏せできると聞いているが」

「どちらにせよ、我々には不十分な情報しかなく、その上で決断を下さねばならないのです」

 三川軍一第三戦隊司令官が言った。

「一〇の一〇までマーシャルは陽動です。米軍がこちらの兵力をマーシャルに引きつけたいが故に、マーシャルに来襲した兵力を隠していると言うのが、私の考えです」

「私もそう思います」

 角田は口を添えた。

「我が軍の主力をマーシャルに引きつけ、その隙にモレスビーを襲い、八八艦隊計画艦四隻を含む六隻の戦艦を撃沈する。これが敵の思惑です」

「わかっている……」

 古賀が再び重苦しい表情で言った。

「だが、出来んのだ」

 古賀は嶋田に代理に指名される前、「モレスビーへの戦艦の投入は許可せず」というきつい一言を言われてから指名されている。軍人として、間違った命令にはとことんまで異論を唱え続けるが、これまた軍人として一度下った命令には従わなければならないという考えが古賀にはある。自分の信念に反することは古賀には難しいかった。

「戦艦の投入は出来ない。私に出きるのはせいぜい護衛艦の数を増やすくらいだ」

 古賀は自らの力の無さを呪うかのように呟く。現在出港中の第八次輸送船団にしても、駆逐艦、巡洋艦の不足から古賀に出来たのは空母を一隻余分に付けることぐらいであった。

 空母があれば、相手が魚雷艇、潜水艦、航空機、水上艦艇のどれであっても対抗できる――といっても、それはあくまで理屈の上であり、闇夜に紛れて魚雷艇、潜水艦の攻撃を受ければ防ぐことは難しいし、索敵に失敗し、一端水上艦艇に捕らえられてしまえば、空母ほど脆弱な艦はない。航空機にしても敵が圧倒的な数で押してくれば防ぎきることは不可能である。加えて、肝心の珊瑚海の制空権はすでに敵の手に落ちているのである。軽空母一隻が二隻になったくらいで成功率が高められるとは、あまり思えなかった。

 嶋田の命令が無ければ、古賀は本当に全GFを率いて第八次輸送船団の護衛をしていたかもしれない。

「とりあえず、マーシャルには戦艦を出そう」

 古賀が結論を下す。

「敵兵力が分からないため、第四戦隊の『伊吹』『鞍馬』に第五戦隊は角田君の指揮の下、一航戦及び三水戦とマーシャルに直行してくれ」

「『伊吹』と『鞍馬』に『比叡』『霧島』の四隻だけ、ですか」

 三川が疑問そうに聞く。

「『穂高』『戸隠』は四航戦(「隼鷹」「飛鷹」)と共にラバウルに向かわせる」

 古賀はようやく名案を思いついたようで、なにかふっきれた顔をしている。

「敵艦隊の本隊が判明次第、そこに全力をぶつける。最悪の場合、各艦は個別に行動してもらう」

 つまり、「穂高」と「戸隠」を一端ラバウルに向かわせ、その上でモレスビーに向かわせようというものである。

「四航戦はラバウルへ訓練をかねた航空機輸送を行う予定ですが」

「無論それも同時に行わせる。この四隻にはかなりの重労働を強いると思うが頑張ってくれ」

 無責任な台詞であることは古賀が一番分かっていた。

 

 

 一二月一三日 一三〇〇時

 珊瑚海 ポート・モレスビー沖

 

「あと少しだな」

 第八次モレスビー輸送船団の旗艦を勤める軽巡「長良」の艦橋で、司令官の田中頼三少将は、前方の海面を見つめて呟いた。

 船団の右舷側――ほとんど水平線に近い辺りに、緑に覆われたニューギニアの海岸がうっすらと見え、周囲の海面は、灼熱の太陽に焙られ、ぎらぎらと照り輝いている。田中にとっては、これが二度目だが、麾下の護衛艦隊――駆逐艦群にとっては、何度も行き来を繰り返した馴染みの海であるはずだった。

 もう、モレスビーは遠くない。昨日の戦いで、軽空母「祥鳳」が魚雷二発を受け、護衛の駆逐艦二隻を付けてラバウルに戻さざるを得なくなったものの、肝心の輸送船六隻、給油艦二隻は全て無事である。その後は敵の攻撃もなく、船団はゴールを目指して、ラストスパートをかけているところだった。

 田中にとっては、第一次輸送船団の護衛に失敗して以来、実に三ヶ月ぶりの前線勤務である。

「駆逐艦は、その高性能の必要上、排水量の大半は推進機関に充てられ、上甲板は大砲と魚雷発射管を装備している。このため、艦の内部にはほとんど余裕がない。このような艦を食料や燃料の輸送に使ったところで、運べる量はごく限られており、危険を冒すのに見合うだけの効果を上げられるとは考えられない。このような作戦のために、艦隊決戦や護衛のための重要な戦力である駆逐艦を使用し、消耗するのは、愚の骨頂である!」

 こう主張し、第四次補給作戦から実施された駆逐艦によるネズミ輸送に反対し続けた結果、第一次補給作戦の失敗などとも相まって、一時司令官の任を解かれ、連合艦隊中央から遠ざけられていたのだ。

 しかし、モレスビー補給作戦の現実は、田中が危惧した通りとなった。連合軍の妨害によって、軽巡や駆逐艦が何隻も沈められ、ただでさえ多くの量は運べない食料や燃料は、ますます不足しがちになった。

 事態が深刻化した現在なって、ようやく田中がモレスビーへの補給線の問題点を知慮していることが思い出され、彼の前線復帰がかなったのだ。

(だから言わんこっちゃないんだ)

 新鋭駆逐艦が、輸送船の代わりに使用され、次々と失われていく状況は、田中には我慢ならないものだった。駆逐艦本来の性格とは全く相容れない任務のために、水雷戦の技量を入神の域にまで磨き上げられた駆逐艦乗り達が、乗艦もろとも、南海の戦場に虚しく失われていく。

 そうでなくてさえ、駆逐艦の数は不足がちなのだ。

 まず、ローマ軍縮条約により日本海軍の駆逐艦は米英の半分しか保有を認められていなかった。次に海軍の艦船調達計画は、第一に戦艦、第二に空母といった大型艦に偏重され、駆逐艦、海防艦といった小型艦艇は、二の次、三の次に回されることが多い。加えて、米軍の通商破壊戦による被害が、徐々にではあるが確実に増加しつつあり、艦船を建造するための資材や燃料の供給が滞りがちである。

(こんなことでは、いずれ米軍が反抗を開始したとき、我が軍はバランスの崩れた艦隊編成で迎え撃たねばならなくなってしまう)

 砲撃、水雷、航空を三位一体化した総合戦力で、米軍を迎え撃つ――マーシャル沖海戦時、山口多聞が提唱した、この海の総力戦思想とも言うべき考え方に田中は共鳴していたが、今、その三本の柱の一つが崩れようとしている。

 とは言え、いかに不本意な作戦であろうと、前途に不安を感じていようと、彼は自分がこの作戦を成功させるため、全力を尽くさねばならず、また実際そうするであろうことが分かっていた。

 これは立場こそ違え、彼を送り出した古賀長官代理も同じである。

(命令されたからじゃない。軍人としてではなく、人間として、これをやらなきゃなんのだ。燃料、食料、弾薬の不足のために窮地に陥っている友軍を救うために……)

「昨日の戦闘での遅れは、どうやら取り戻せたようですね」

 もの思いに耽っていた田中の背後から、首席参謀の中原大佐が声をかけた。

「予定通り、正午にはモレスビーに入れそうです」

「だといいのだがね」

 田中は笑顔も見せず、ぼそりと呟くように答えた。

(モレスビー航空隊が事実上壊滅し、艦隊から「祥鳳」が外れ、「瑞鳳」一隻となった今、珊瑚海の制空権は敵の手にあると言っていい。また、我々がモレスビーに入港することが分かり切っている以上、モレスビーの入り口に潜水艦が網を張っていることも考えられる。首尾良くモレスビーに入港できたとしても、補給作業には丸一日はかかるのだ。その間、敵に妨害されないという保証は、全くない。いや、敵の指揮官が少しでも積極的な意志を持つ人物なら、必ず妨害にかかってくるだろう……)

 過去のモレスビー補給作戦の失敗を見、自身も失敗の経験を持つ田中は、前途を楽観する気にはなれない。

 この船団が、無事モレスビーに到着することはありえない。航海は一見順調なようだが、その実、破滅に向かって突き進んでいるのだ――そんな不吉な予感めいたものが、胸中に重くわだかまっている。

 爆撃機警戒のため上空を一四機、魚雷艇警戒のため低空を一四機の零戦が警戒し、本来哨戒に出すべき九七式艦攻も六機全てが対潜哨戒のため輸送船団上空を飛び回っているのはその不安を少しでも減らすためだった。特に「祥鳳」被雷後、「瑞鳳」に露天系止の形で間借りしている四機の「祥鳳」零戦隊の存在は大きい(米軍と異なり、艦載機の露天系止は日本海軍では軽空母では禁止されている。というのも、日本空母において露天繋止が認められているは艦爆のみであり、軽空母には艦爆は搭載されていないからだ。なお、後のトラック島沖海戦、及びフィリピン沖海戦時には、なんとしても大量の戦闘機を戦場に投入する必要があった為、規定を無視して艦戦の露天繋止にふみきっている。)。

 しかし、その不安は現実のものとなった。

「敵機接近! 九時の方向!」

 見張り員が叫び、それに重なるようにして、爆音が聞こえ始めた。大気その物をやすりにかけるような重々しいうなり声。

「やはり、見逃してくれる気はなさそうだな」

 田中は、心持ち身体を強ばらせながらも、幕僚達の顔を眺め渡して言った。

「対空戦闘!」

 その号令より早く、直掩の零戦隊は動いていた。大事な輸送船団に仇なすものを、一機でも多く、排除すべく全速力で向かった。

「取り舵一杯。最大戦速急げ!」

 掌航海長が鋭く命令を発し、戦闘開始を告げるラッパが、高らかに吹き鳴らされる。

 一隻の軽空母、二隻の軽巡、八隻の駆逐艦、そして六隻の輸送船と二隻の給油船の甲板上では、既にこのことを見越して配置に付いていた機銃員達が、なまじりを決して空を睨んでいる。八隻の商船には、それぞれ駆逐艦一隻づつが張り付き、我が身を盾として無防備な商船を守らんとする構えを取った。

 大小合計一九隻の船団は、にわや増速し、泡立つ航跡で海面を騒がせながら、一斉に回避運動を開始した。

 ここより少し先では、敵機と零戦隊の戦闘が開始されている。P38三〇機に護衛されたB25六〇機が二八機の零戦と戦闘を行っている。爆撃機の護衛のため、P38は得意のヨーヨー戦法(急降下、急上昇の繰り返し)が使えず、格闘戦にもつれ込まされて撃墜される機も少なくない。しかし、零戦隊は数の上で下回っている以上、爆撃機には手が出せず、また手を出せたとしても、米爆撃機は重装甲、重火力で知られており、逆に撃墜される機もあった。

 所々に派手なオレンジ色の炎が上がるのが分かる。零戦が撃墜された証拠だった。

(なにか、状況を一目で把握する方法がいるな)

 軽空母「瑞鳳」の艦橋で第三航空戦隊司令官の柏木耕介少将は比較的余裕を持って見つめていた。昨日、乗艦の「祥鳳」が二発の魚雷を食らって中破したので参謀と共に「瑞鳳」に移ってきたが、「祥鳳」と勝手が違わないし、開戦時の旗艦でもあったので、それほど不都合はない。

 しかし、空の上で何が起きているのかは、双眼鏡を覗いたくらいでは良く分からない。敵機が双発機らしいことと、全体で九〇機ほどの編隊であることくらいしか分からなかった。

(帰ったら艦政本部の月島にでも頼んでみるか)

 だが、この思いつきが、「電波狂い」こと月島中佐と、月島が懇意にしている陸軍の山崎技術中佐――陸軍の異端集団「過激団」所属――が絡んだ事によって、後に「大帝国劇場」と呼ばれる大規模防空指揮システムへと発展していくことなどこの時の柏木には知る由もなかった。

 

 敵機が双発の中型爆撃機ということは相当嫌な相手であるのだが、柏木に変な気負いはない。平素の訓練と変わらぬ平然とした態度であった。

 やがて零戦隊を振り切った敵機――米陸軍航空隊の誇る双発の軽爆撃機B25の編隊約六〇機は、船団の遙か手前で高度を落とし、一気に距離を詰めてきた。

 どことなく中途半端な高度だった。雷撃には高すぎ、爆撃には低すぎる。

「爆撃――いや雷撃か!? いったい、どっちなんだ?」

 参謀の安達が叫び、

「射撃開始!」

「瑞鳳」艦長の伊沢石之介大佐が素早く命じた。それより早く「長良」の単装七基、計七門の一四センチ主砲が急旋回し、火を噴いた。続いて軽空母「瑞鳳」の連装四基の一二・七センチ高角砲が火を噴き、軽巡「阿武隈」もそれに習い、八隻の駆逐艦も矢継ぎ早に、小口径の主砲を撃ち始める。

 B25群の手前で、砲弾が炸裂し、爆煙が湧いた。落下する破片で、海面に無数の飛沫が上がり、白くしぶく。B25群が味方の上空に達する前に一機でも多く叩き落とそうと、どの艦も、持てる全ての火力を振り絞っている。

 が、B25は落ちなかった。天空を飛翔する鳥が、のろまな海棲動物をあざ笑うかのように、巧みに機体を振って対空砲火をかわし、船団と交差する進路を突進してくる。爆弾槽の扉が開いている様が、各艦の艦上からはっきり見えた。

 一機あたり二発ずつの黒い塊――五〇〇ポンド爆弾が、ほとんど無造作とも言える動作で海中に投げ込まれる様を、柏木も、田中も、各艦の艦長も、訝しげな表情で見守った。

「雷撃じゃないのか?」

「海中に爆弾を捨てて、どうする気だ?」

 その疑問は、しかし直ちに驚愕へと変わった。爆弾は海神から受け取りを拒否されたかのように海面上を跳ね返り、輸送船や駆逐艦に向かった。

 その時、数機の航空機が海面付近まで降下し、爆弾に突っ込んだ。給油船の目の前で大爆発が起き、その爆風が機銃員を吹き飛ばす。

 全てがスローモーションのようであった。爆弾が海面上を跳ね返ってから航空機が爆弾に体当たりするまで、ほんの一瞬であるのだが、その全てが柏木にははっきりと見えた。

 勿論、航空機が体当たりできた爆弾はごく一部であり、大部分の爆弾は輸送船、駆逐艦の横腹に、次々と激突した。

 衝撃音と共に爆炎が奔騰し、おびただしい破片がはじけ飛ぶ。

 三〇ノット以上の高速で走り回っていた駆逐艦が、一瞬にして動きを止められ、積んでいた砲弾に誘爆した輸送船が一瞬にして消し飛ぶ。

 水面の反発力を利用した反跳爆撃(スキップ・ポンピング)だった。

 しかし、投弾を終わったB25にも思いもかけない敵が待っていた。先ほど海面付近まで降下してきた航空機――九七式艦攻がB25に向かってきたのだ。

 何故九七式艦攻六機全てが味方の対空放火に巻き込まれる危険を承知で降りてきたのか、また、なぜ間に合ったのか正確なことは全員が戦死した現在分かっていない。ただ、はっきりとしているのは、海面付近まで降りてきた九七式艦攻六機の内、三機が爆弾に体当たりし(一機は体当たりに失敗して海面に突っ込んだ)、二隻の給油船を救ったという事実。そして、残り三機の行動が常軌を逸していたという事である。

 三機の九七式艦攻は旋回機銃を振り回してB25に立ち向かい、そして全機がB25に無理心中を強要したのだ。

 クックタウンに脚を降ろさせはしない、この付近にいるであろう潜水艦にも助けださせはしない、この方法が、多大なる犠牲と共に成果を勝ち取れることを知らしめてやる。

 そんな殺気すら感じられるかのように、九七式艦攻は突っ込んだ。B25の機銃により、九七式艦攻は直ちにぼろぼろになるものの、投弾直後とあって態勢が整っていないためか、撃墜はされなかった。

 そして、B25の死角部分から九七式艦攻が覆い被さる。プロペラがコクピットを切り刻み、B25のパイロットにこの世で最後の恐怖を与えた後、共に海面に激突する。またある九七式艦攻は、積んでいた六〇キロ爆弾が体当たりと共に誘爆し、B25を木っ端微塵にした。

 この九七式艦攻の恐怖にかられ、機体の操縦を誤った一機のB25も海面に突っ込んだ。残りのB25は闇雲な機銃掃射で一目散に逃げていく。

 わずか、六機の九七式艦攻は二隻の給油船を救い、またかけられれたであろう機銃掃射からも艦を救ったのだ。

 B25群の襲撃が終わったとき、六隻の輸送船は全て沈められ、駆逐艦「黒潮」が撃沈、軽巡「阿武隈」が舷側に大穴を開けられ、重油の尾を引きずっている。

 海面には、沈没艦の浮遊物に混じって、数少ない生存者が苦しみもがいており、救助を求めてしきりに手を振っていた。

 その光景を、柏木は悔しさとやるせなさの混じった感情で見つめている。本来、敵戦艦に必殺の魚雷を叩き込むために技量を鍛えた搭乗員が、敵爆撃機と心中するなど、あってはならなかった。対潜哨戒が重要なことも、船団護衛が重要なことも分かっていたが、このような死なせ方は彼の本意ではなかった。

(……馬鹿が。お前達は大馬鹿者だ。死んでどうする。生きて、生き抜いて……)

 思考が上手く定まらない。だが、この時、柏木は誓ったことがある。全ての搭乗員が本来の目的と違う使われ方をしないように全力を尽くすこと、そしておそらく彼らの夢である「航空機による戦艦の撃沈」を果たし、必ず、この搭乗員達の墓前に報告することを。

 一方、同じ光景を、田中は無念の思いで見つめている。やはりこうなってしまったな――との思いよりも、艦攻隊にあのような行動に踏み切らせてしまった事が、無念で仕方なかった。何もできなかった自分が、ただ悔しく、情けない。それが自分の責任であるとないに関わらず。

「生存者の救助と、『阿武隈』の護衛に、駆逐艦2隻を残そう」

 幕僚達に向けられた田中の声は、悔しさに歪み、いつもの張りが失われている。

「他の艦はどうするのですか?」

「予定通り、モレスビーに入港する」

 何を馬鹿なことを聞いているんだ、という表情で田中は言った。

 護衛の軽空母、軽巡、駆逐艦はこのことがあるのを見越して、輸送船とは比べものにならないほど少量のではあるが、第八艦隊への補給物資を搭載している。また、二隻の給油船は無事であり、これで第八艦隊は重油不足からは解消される。何としても届けなければならない。

「それは、しかし――」

 中原が異議を唱えた。

「給油船が届いても、食料、砲弾、弾薬が届かなければ第八艦隊の戦闘力は維持できません。豪州方面艦隊の飢えは解消できません」

「それでも行動の自由は得られる」

 この時、田中にはある決意が漲っていた。

 

 同日 一二〇〇時

 東京 宮城

 

 この日、内地の海軍省、軍令部では一種のクーデターが発生した。「伏見宮元帥、永野軍令部総長、嶋田GF司令長官倒れる」のニュースをいち早く掴んだ、堀悌吉海軍大将、米内光政予備役海軍大将らが及川海相に働きかけ、海軍省、軍令部に根付く伏見宮派の幹部を更迭、後任に親米英派を送り込んだ。

 内地に急遽呼ばれた古賀GF司令長官代理は、前日に堀大将から海軍甲事件のことを知らされ、そのまま司令長官に就任を要請された。古賀はたった一つの条件を付け、堀も了承した。

 そして今日、陛下の御前で古賀GF司令長官、米内海軍大臣、堀軍令部総長が就任したのだ。直後に開かれた緊急会議で古賀はモレスビーの放棄を主張、末次大将らが反対するもすでに堀らによる根回しは終了しており、一五〇〇時モレスビーの放棄が決定した。

 

 同日 同時刻

 珊瑚海 ヨーク岬半島東方海域

 

 第八次モレスビー輸送船団――それは、もはや二隻の給油艦が生き残っているだけであったが――が、やっとの思いでモレスビーに入港し、第八艦隊の将兵達に迎えられている頃、珊瑚海で哨戒任務についている伊二四は、おびただしい艦影を潜望鏡に捉えていた。

 艦隊の中央に、特徴的な丈高い籠マストを持った八隻の巨艦が位置し、その周囲を多数の巡洋艦、駆逐艦ががっちりとガードしている。

「これだけの大艦隊を見るのは、随分久しぶりだな」

 艦長は、潜望鏡を覗き込みながら呟いた。

「どうやら米軍は戦力の回復を終えたらしい……」

 数分後、艦長の命令を受けた電信員が、慌ただしく暗号を組み、GF司令部と第八艦隊司令部に充てて緊急信を発した。

「一二一三、一二〇〇、我北上中の米主力艦隊を発見せり。位置、ヨーク岬半島の東二〇〇マイル。敵の艦種は――」

 ここまで発信し終えたところで、緊急信は唐突に中断されることになった。伊二四の存在をいち早く探知した米駆逐艦数隻が、最大戦速で突進し、爆雷攻撃によって、この艦を撃沈したためである。

 米太平洋艦隊発見の殊勲艦伊二四は、ここ珊瑚海で武運が尽き、乗組員全員と共に、その骸を海底に晒すことになったのだった。

 

 同日 一五〇〇時

 ニューギニア ポート・モレスビー

 

「モレスビーから撤退する」

 静かな、しかし断固たる決意の表情で南雲が言ったとき、「土佐」の作戦室にいる人々――第八艦隊と田中頼三麾下の補給船団護衛艦隊の司令部幕僚、各艦の艦長、モレスビー航空隊と陸軍第三五旅団の主要幕僚たちの反応は、やはりそうなったか――と言いたげな表情を見せる者、険し表情で非難がましい視線を向ける者、そして、不安そうな表情を見せる者に分かれた。

 その全員に向かって、南雲は反対意見を唱える余地を一切感じさせない厳しい声で言った。

「撤退後、敵が使用できないように港湾を爆破する。モレスビー航空隊の全隊員、第三五旅団の全将兵は、艦隊に分乗させて、ラバウルまで撤退する」

 ようやく待望の重油が届いた第八艦隊であったが、戦艦六隻を十分にまかなうにはまだ足りないため、ボイラーは程々しか炊いておらず、冷房も入れていない。そのため「土佐」の作戦室の中は、ニューギニアの炎天下の中にあって、蒸し風呂さながらの暑さだったが、南雲の声色の厳しさに、一瞬ひんやりとした空気が漂ったようだ。

(やはり、選択の余地はなかったようだな)

 騒然となった作戦室の中で、一人沈黙を保ちながら、田中頼三は思った。

(誰よりも南雲さん自身が一番辛いだろうが、今の状況下では仕方がない。俺としてはトラックに戻ったら、南雲さんを可能な限り弁護すること、そして、発案者として、南雲さんの責任を、できるだけ分担することだ)

 戦艦六隻の給油が済み次第、第八艦隊と補給船団そのものを合わせた戦艦六隻、軽空母一隻、軽巡三隻、駆逐艦一三隻に、モレスビー航空隊、陸軍第三五旅団の将兵を乗せ、ラバウルまで撤退する――この案を、最初に南雲に提示したのは、他ならぬ田中だった。

 補給部隊の軽空母一隻、軽巡一隻、駆逐艦五隻が運んできた食料、弾薬はとうていモレスビーの将兵を満たすことは出来ず、このままでは間違いなく「飢餓」が現実のものとなる。その前に、艦隊を動かせる幸運な現在の内に、モレスビーから撤退することが犠牲を最小限に抑えられる最も現実的な策であると、田中は説いた。

「モレスビーから撤退しようというのかね?」

 提案を聞いた南雲は、目を大きく見開いて田中の顔を見つめた。

「ことここに至っては、他に取るべき手段はないと考えます。現在であれば艦も将兵も救える。しかし、次の輸送船団が来るまで待ち、それが全滅したら確実に餓死者が発生し、戦艦も放棄せねばならないかもしれません。……輸送作戦を全う出来なかった事は申し訳なく思いますが」

「しかし、嶋田長官やGF司令部がそれを認めるとは思えんが……」

「GF司令部の許可など、必要としません」

「独断で撤退しろと言うのか!?」

 草鹿竜之介参謀長が目を剥いた。

「そんなことをしたら、南雲長官の立場はどうなる!? 査問会どころか、下手をすれば軍法会議だ。敵前逃亡で死刑、最低でも予備役編入は免れない。それが分かって言っているのか?」

 南雲は嶋田氏や古賀氏らと同様、軍令系統の要職を歩んできた海軍の主流派である。その輝かしい経歴が一挙に泥まみれになることを、草鹿は懸念しているようだ。

「本当に断罪されるべきは、南雲長官じゃない」

 田中は海兵同期の豪州方面艦隊参謀長に、学生同士が討論をするような口調で言った。「豪州方面艦隊をこのような窮地に追い込みながら、その現状を把握しようともせず、トラックでのうのうとしているお偉方どもだ」

 幕僚達のある者は顔色を変え、ある者はうっと呻くような声を上げ、互いに顔を見合わせた。彼らの中には嶋田や伏見宮に通じる軍令系の派閥に属する者も少なくない。誰よりも、南雲自身がその一人なのだ。田中はそんなことに全く頓着しようとせず、堂々たる上官批判をやってのけたのである。

「一つだけはっきり言えるのは、脱出する道を取れば、戦艦も救うことが出来ますが、このままモレスビーに留まれば、第八艦隊と全艦船と将兵、それにモレスビー航空隊と第三五旅団の全員が犠牲になるだろうということです」

 田中は、再び南雲の方を向いて言った。

「それも、おそらく明日の朝までには」

「何故そんなことが言える?」

「伊二四の緊急信は、こちらでは受信していないのですか?」

「通信は、目下一日一回の定時連絡だけなのでね」

「敵主力が、こちらに向かってきています」

 草鹿が顔色を変え、南雲はピクリと眉を動かした。

「モレスビーに入港する直前、『長良』が受信したものです」

 田中は、受信した電文を取り出し、そのまま南雲に手渡した。

 南雲は、ひったくるようにしてそれを受け取ると、数十秒間、食い入るように見つめていた。

 やがて南雲は顔を上げ、電文を草鹿に手渡すと言った。

「これだけでは、情報が不足だな」

「そうでしょうか?」

「敵の規模が不明のままだ。受信したのは、これだけかね?」

「ここまで受信したところで、通信が途絶えました。敵と遭遇し、通信を打ち切って潜航したのかもしれません」

 もし撃沈されたのでなければ、ですが――と、無言のうちに付け加える。

 南雲は一声、うなるような声を立てると、腕組みをして考えこんだ。

 田中には、南雲の苦悩がよく分かった。豪州方面艦隊は、燃料や食料だけではなく、情報も不足している。索敵機を飛ばすこともできず、通信機の電源にも事欠くような有様では、情報の集めようがない。

(お気の毒に……)

 田中は思ったが、彼らのプライドを気遣い、口には出さなかった。

「皆、私に命を預ける気があるか?」

 やがて南雲は、腕組みを解き、幕僚達の顔を眺め渡して言った。

「この件に関して、私がどのような決定をしようと、それに従う意志はあるかね?」

「長官のご命令は、陛下のご命令同様です」

 一同を代表して、草鹿が言った。

「我々全員、豪州方面艦隊が編成されたときから、長官に命をお預けしたつもりでおりました。この点については、全将兵が同じでしょう」

「では、二時間――二時間だけ、考える時間を貰いたい」

 南雲はゆっくりと立ち上がり、幕僚達が見守る中、作戦室から退出した。

 その二時間の間、南雲が何を考え、どのように苦悩したかについては、戦後に刊行されたどの戦史にも、想像以上のことは書かれていない。また、即決できず、「無駄に将兵を殺した優柔不断な提督」とこけ降ろす歴史家も少なくない。しかし、結局の所、占領地にしがみついて全てを失う愚を犯すよりも、占領地と自分の名誉を捨てて兵力を残す道を、南雲は選んだのだ。

 騒然となった作戦室は、南雲の鋭い「静かに!」の一声で静まった。

 人々の前から目を逸らすような姿勢を取り、瞑想するような表情を浮かべて、南雲は言った。

「もう論議の段階は、とうに過ぎているのだ。哨戒中の潜水艦の報告によれば目下敵の主力艦隊がこのモレスビーに向かってきているという」

「敵艦隊と言っても、所詮マーシャルの生き残り。返り討ちにしてくれます!」

「確実に負けるぞ」

 南雲は寒さすら感じられる冷静な声で否定した。

「今の第八艦隊は九月にヨーク岬沖合で演習を行った第八艦隊ではない。燃料、弾薬の不足でろくに訓練もできず、乗組員も空きっ腹で戦わざるおえない艦隊だ。見張員もろくに見えないとこぼしていた。補助艦を始末する副砲はごっそりとはぎ取られ、残ったのも空きっ腹のため発射速度が著しく遅くなる。肝心の主砲も徹甲弾、榴弾共に少ない。このような状況で戦っても、我に理がないばかりか、貴重な艦と経験を積んだ乗組員を、虚しく失う愚を犯すばかりだろう。

 これを敵前逃亡、皇軍にあらざる卑怯な振る舞いと見る者もいよう。私自身、主目的を達成しないままモレスビーを放棄せざるおえないのは残念だ。

 しかし、大局的見地から見て――敢えて名を捨てて実を取るという考え方からすれば、これが唯一かつ最上の策と言える。

 責任は、全てこの南雲が一身に引き受け、諸君らの誰一人として、罪に問われることのないよう配慮する。どうか――」

 南雲は膝の上に手を置き、深々と頭を下げた。

「私の言う通りにしてもらいたい」

 日頃寡黙な南雲にしては、珍しい能弁ぶりだった。それだけに説得力があり、最初、非難がましい視線を向けていた者もやがて諦めたような表情に変わった。

 が――

「従えませんな」

 たった一人、異議を唱えた者がいる。

 陸軍第三五旅団の川口清武旅団長だった。

「我々は、あなたの豪州方面艦隊の指揮下に属しているわけではない。我々は、あくまでラバウルの第八方面軍の命令を受ける立場にあります。第八方面軍の直接の命令がない限り、たとえ海軍がいなくなろうが、補給が全く来なくなろうが、我々はモレスビーから動くわけにはいきません」

「しかし、旅団長」

 草鹿が言った。

「あなた方だけを残して、我々だけで撤退するわけにはいきませんよ」

「ならばモレスビーに留まればいい」

「モレスビーに留まれば、我が艦隊は確実に全滅する」

 南雲が言った。

「基本方針を変更するつもりはない。豪州方面艦隊はモレスビーから撤退する」

「海軍は海軍で独自の行動を取ればいい」

 川口は言った。

「我々は別に見捨てられたなどとは思いません。帝国陸軍の軍人として、その節を全うするだけです」

「ご再考願えませんか?」

 柏木少将が言った。

「陸軍を見捨てて艦隊だけが撤退したとなれば、海軍と陸軍の間に亀裂が生じかねません。それは、今後の戦争遂行上、致命的な内部分裂をもたらします。大局的見地から見て、どうか我々と共に、モレスビーから撤退して下さい」

「我々は命令を受けているんですよ」

 川口は、胸ポケットから一枚の紙片を取り出し、南雲に渡した。

 南雲はしばらくそれを見つめ、それからぼそりと言った。

「あの今村さんが、こんな命令を出すなど、信じられませんな」

「ですが、正式な命令書です。新たな命令が下るまでは、我が第三五旅団はモレスビーに留まり続けねばなりません」

 田中や柏木は後で知ったことだが、命令書にはこう記載されていた。

「第三五旅団は、別命あるまでは、いかなる事態になろうともモレスビーに留まり、同地を死守すべし――」

 最後に、今村第八方面軍司令官と牟田口第一八師団長の書名が入っていた。

「どうやら、やむを得ないようですな」

 南雲は大きく息をついて言った。

「あなた方への命令権が第八方面軍にある以上、我々にはどうしようもありません。ただ……武運をお祈りするだけです」

 それでは、と柏木が妥協案を出した。

「せめて傷病兵だけでも、ラバウルに後送してはどうです? モレスビーには、医薬品も相当不足しているでしょうし、ラバウルの野戦病院なら、少しはまともな治療を受けられると思いますが」

「そうですね……」

 川口は心を動かされたらしく、少し考えてから言った。

「お願いします。事後承諾の形になりますが、傷病兵の後送なら、第八方面軍司令部も許可してくれるでしょう」

「では、すぐにでも移送を始めて下さい」

 草鹿が言った。

「『瑞鳳』の格納庫を臨時の居住区にすれば、他の艦の通路に寝転がるより多少はマシだと思います」

「いや、すまんが他の艦にしてくれ」

 柏木の発言は南雲によって遮られた。

「『瑞鳳』には『瑞鳳』にしか積めないものを頼みたい」

 よく分からない南雲の発言に柏木以下ほぼ全員が不思議な顔をするが、草鹿がそんな事はどうでもいいとばかりに言う。

「とにかく、移送を始めて下さい。敵は、遅くとも明日の夜明けまでにはモレスビーにやって来る。方針が決まった以上、我々は敵がモレスビーに到着するまでに、撤退を完了していなければなりません」

「撤退が遅れた場合、戦闘もありうる」

 南雲の言葉の意味を、幕僚達が理解するのに、数秒の時間を必要とした。第三五旅団の傷病兵全員を艦に収容し終えるまで待つと、南雲は明言したのである。

「そのための準備もしておこう。――浮かれてくる米軍に、一泡吹かせるための準備をな」

 

 同時刻

 マーシャル諸島近海

 

 視界の中で、水平線が右から左へ大きく動くのが第四戦隊旗艦「伊吹」の艦橋からはっきり見えた。同時に回頭に伴う遠心力が、艦橋内の人々の何人かを、わずかによろめかせた。

 艦隊の進路は二五〇度。ラバウルを経由して、珊瑚海に入り、モレスビーに向かうコースである。

 角田覚治は、無言のまま、怒りをたぎらせた眼で、遙かな海面を凝視していた。彼ははらわたが煮えくり返る思いで、GF司令部の命令を受領していた。

 マーシャルに出現した敵艦隊を攻撃・殲滅せよ――二日前にこの命令を受けた第四戦隊の二隻は、慌ただしくトラックを出港し、ほぼ一日半の航程で、マーシャルに到着した。しかし、彼らがマーシャルに着いたときには、既に米艦隊は立ち去った後であり、索敵機の広範囲の探索にも関わらず、その姿を見出すことはできなかった。

「マーシャルに敵艦隊の姿無し。既に退去した模様。陽動であったと思われる」

「伊吹」からの報告とほとんど入れ違いに、GF司令部からの命令が届いた。 

「モレスビーに敵主力艦隊来寇の兆しあり。第四戦隊及び第五戦隊は速やかに反転し、豪州方面艦隊の救援に赴かれたし――」

 電文は平文のままだった。

 ある程度予想していたとは言え、最悪の事態が現実のものとなった。トラックからマーシャルに向かうのに要した時間、そしてこれからラバウルを経由してモレスビーに向かうのに要する時間――最低でも四日を空費してしまったのだ。

(唯一の救いは――)

「穂高」「戸隠」はラバウル周辺にいる。この艦が全速力でモレスビーに向かって、第八艦隊を救ってくれることを心から願わずにはいられなかった。

 

 同日 二一〇〇時

 ニューギニア ポート・モレスビー

 

「これが、永の別れか」

 星明かりの下にうっすらと浮かぶモレスビーの影が、次第に遠ざかりゆくのを、駆逐艦「天津風」の甲板上から見守りながら、西沢広義は呟いた。

 田中少将の率いる第一次撤収隊が撤収準備を終え、今ポートモレスビーを後にするのだ。

 第一次撤収隊は軽巡「長良」を旗艦とし、戦艦「天城」「土佐」、軽空母「瑞鳳」に第八艦隊の駆逐艦「白雪」「野分」ら二五ノット以上の最大戦速が出せる艦で編成されている。これは「加賀」「赤城」「伊勢」「日向」の四隻が機関故障、艦の浸水、スクリューの破損などで最大戦速がだせないため、「戦艦は一部であっても確実にラバウルに待避させる」事を望んだ南雲の決断によるものだ。

 すでに古賀新GF長官からのモレスビー撤退命令はモレスビーにも届いており、この事で南雲が処分される事はなくなった。

 しかし、南雲は責任者として最後の指揮をとることを望んだのだ。

 甲板上には、モレスビー航空隊のパイロットや整備員たちが集まっている。度重なる空中戦や空襲で負傷し、腕を吊っている者、松葉杖をついている者が少なくない。白木の箱に入った戦友の遺骨を、首から下げている者もいる。最前線の兵士達が、生命と肉体で支払わされた、四ヶ月近くに渡るモレスビー占領の代償だった。

「みんな、聞いてくれ!」

 不意に頭上から、笹井醇一中尉の声が振ってきた。振り仰いだ西沢の眼に、後部主砲塔の上に立ち上がった笹井の姿が映った。

「我々のモレスビーでの戦いは終わったが、戦争は終わった訳じゃない。ラバウルに帰ってからが、むしろ戦いの本番なのだ。我々はモレスビー航空隊員としての誇りを自覚し、だらだらとしたところを見せて、『天津風』の乗組員に笑われないようにしろ。

 また、ラバウルまで約二日間の航程だが、その間、敵の出方によっては戦闘もあり得る。戦闘中、我々は『天津風』の乗組員の邪魔をせぬよう、まとまって行動せよ。また、戦闘によって『天津風』乗組員に欠員が生じたときは、適宜上官の指揮に従い、応援せよ」

 一旦言葉を切って、にこりと笑った。

「いいか、みんな。俺達は、たった四ヶ月足らずとは言え、敵を恐れさせた栄光あるモレスビー航空隊の隊員だぞ。それを忘れるな!」

 はい!――一同が力強く唱和した。

(この人は、経験は浅いが、指揮の盛り上げ方をよく心得ている)

 西沢は上官の姿を、微笑しながら頼もしげに見守っていた。

 帰らぬ過去を振り返るより、未来を見つめよう――そうこの若い士官は訓示したのだ。

 同じ頃、軽空母「瑞鳳」の艦橋では南雲長官と、艦隊の編成について最後まで交渉を行い、ついには説得された柏木少将が、敬礼をしてモレスビー港を見つめていた。

 彼は敵艦隊との遭遇時に、「航空機で多少なりとも有利な状況を展開できる」と主張し、第二次撤収隊に「瑞鳳」をねじ込むよう要請したが、「戦闘機のみで敵艦に攻撃をかけるのは、無意味に近い」と南雲長官に言われてしまった。それでも彼は諦めず、航空機で陽動をかけることの利点を解いたのだが、「格納庫に積んだあれを確実に本土に持って帰って貰いたいのだ」と言われ、ついに断念したのだ。

(それにしても)

 と、柏木は思う。

 軍令系の要職を歩み、海軍の主流派である南雲が、あれが重要な物だという認識をしている時点で尊敬と敬意を払う必要がある。

(なんとしても生きて帰ってきてください)

 柏木の敬礼は、「瑞鳳」がモレスビー港を出発し、モレスビー港が完全に見えなくなるまで続けられた。

 第一次撤収隊の出発後四時間後に第三五旅団の傷病兵らを乗せた第二次撤収隊が出港した。

 そしてその三〇分後、モレスビー港に火の気が上がった。

 

 一二月一四日 〇一三〇時

 ニューギニア ポートモレスビー

 

 突如上がった火の気は、軽空母「龍驤」を赤々と燃え上がらせ、ただでさえ大破破損していた一万トンそこそこの空母をただの鉄屑以下にしている。

 無論、何も燃える物がない「龍驤」がここまで燃えているのには訳がある。第三五旅団が熱した重油を「龍驤」に流し込み、その上で火を着けたからだ。

 そして防波堤の影には一二隻の船がある。全長が僅か一七メートル、排水量は四〇トンにも満たない小さな船だった。

 戦艦「土佐」以下、六隻の戦艦に二隻ずつ搭載されていた艦載水雷艇だった。

(少し早かったか)

 豪州方面艦隊水雷参謀の沢渡真人中佐は不安に駆られたが、この決死隊の指揮官として顔には出さなかった。

「大丈夫でしょうか?」

「ここまで来れば、かけるしかない」

 同じように不安に駆られている天野少尉に沢渡は声をかける。

 この艇が積んでいる魚雷で必中を狙いたければ、最低でも八〇〇〇メートルまで近づかなければならない。しかし、最高速度が一〇ノットしかない艦載水雷艇では、敵に近づく前に撃沈される公算が大きい。そこで、沢渡中佐は第三五旅団に頼みこみ、「龍驤」を燃やすことで、煙幕を張ろうとしたのだが……。

「米軍は予定時刻通りに来るでしょうか?」

「言っただろう。ここまで来ればかけるしかないと」

 沢渡はもう一度説明する。

「潜水艦の報告が一二〇〇時、ヨーク岬半島の東二〇〇マイル。ここからモレスビーまでの距離と敵艦隊の速度を計算すれば、敵艦隊のモレスビー到着は〇二三〇~〇三三〇。この時間帯に丁度モレスビー港辺りに煙が漂う状況を作ろうとすれば、あの時間が適切だ」

「それは分かっているんですが……」

 天野の顔はまださえない。

(無理もないか)

 考え込んでいる天野の顔を沢渡は胸の痛みを感じながら見つめた。海軍兵学校を卒業してまだ一年も経たない新任の少尉。頬が赤く、顔から少年の面影が完全には抜けきっていない、真面目一途な青年士官……。

(こんな若い者を死地に追いやるとは、罪深いことだ……)

 煙幕に隠れての奇襲とは言え、足の遅い艦載水雷艇が駆逐艦や巡洋艦の迎撃を突破できる可能性は極めて小さいだろうし、よしんば必殺の魚雷を敢行したところで、敵の追撃を振り切って逃げられる可能性は、更に低いだろう。

 また、運良く生き延びたとしても、生き残った将兵は第三五旅団に合流して、予想される米軍のモレスビー奪回作戦を迎え撃つ事になっている。補給を立たれ、孤立した軍隊が生き延びられるとはとうてい思えなかった。

 しかも、この作戦は自分の我が儘から実行されたものである。敵艦隊を足止めし、六戦艦が逃げられる確率を高めると銘打ってあるものの、GF司令部からの命令が「撤退」である以上、命令違反は明らかなのだ。

(すまん。個人的なところから出た作戦にお前ら巻き込んでしまって。せめて一隻でもいいから敵戦艦を撃沈して、最後の華を咲かせよう)

 沢渡は、艇の後部に搭載されている魚雷に、ちらりと眼をやった。

 通常、駆逐艦や巡洋艦が搭載しているのは、直径六三センチの九三式酸素魚雷だが、この艇が搭載している魚雷の直径は八一センチ。炸薬量は、九三式の四九〇キロの二倍以上に当たる一・二トンである。

 命中しさえすれば、一撃でほとんどの戦艦の装甲をぶち破る事が可能だが、射程が雷速四六ノットで四〇〇〇メートル、四二ノットで八〇〇〇メートルと短く、戦艦同士の砲戦距離が二万メートルから三万メートルになっている現在、艦隊決戦の中で使える兵器ではない。

 それを沢渡は、敵を待ち伏せての奇襲に用いようとしていたのだ。

 当初、この作戦を言い出したのは南雲であった。モレスビーに来寇する主力艦隊に対して、艦載水雷艇による魚雷戦を挑む――モレスビー放棄の方針を決定した時に決めていたこの作戦案を述べたとき、全員が反対した。

 特に、モレスビー放棄の発案者である田中は

「長官は先ほど、『責任は全て私が取り、第八艦隊の幕僚達が一切罪に問われないようにする』と言われました。ここに残られたのでは、それが出来なくなると思います」

 と、激しく抵抗した。

 この論議をうち切ったのは豪州方面艦隊水雷参謀の沢渡だ。

 沢渡は自分が水雷の専門家であること、一〇月にマラリアにかかり、まともな仕事をしていないこと、先日、妻が結核で死亡したことを南雲に告げ、「せめて最後くらい立派な仕事を成し遂げて、靖国に行った時、仲間に自慢したいのです」と南雲、草鹿、田中、柏木に詰め寄り、自分が指揮をとることを認めさせたのだ。

 それから作戦参加の志願が、モレスビー撤退の慌ただしい準備の中で募られた。

 艦載水雷艇は、戦艦一隻当たり二隻ずつを搭載しており、雷撃戦を行うには一隻当たり三名の乗員が必要である。沢渡以外に三五名の兵が残らればならない。

 生存の可能性はまず望めない決死の作戦であるのにも関わらず、志願者の数は少なくなかったが、「作戦の成功率がなるべく高そうな者」という基準に基づき、現在、各水雷艇の乗員を勤めている者が大半を占めた。

 また、作戦の成功率を少しでも高めるため、川口旅団長に「龍驤」に重油を流し込んで火を着けてくれるように頼み、川口は快く引き受けてくれた。

 艦載水雷艇に乗り込む前、沢渡は簡単な訓辞を行っている。

「皇国の悠久の繁栄を信じ、気の毒なれど、私と共に来てくれ」

 語尾が僅かに震えるのを、沢渡は抑えることが出来なかった。

 そして、艦載水雷艇は防波堤の影で、ひたすら敵艦隊が来寇するのを待った。

 そして――

「敵艦隊発見!」

 その苦労は報われた。しかも計算した時間通り、丁度港湾沖に煙が佇んでいる。

「天野少尉、各艦に発光信号を」

 沢渡は命じると共に、水雷艇のエンジンを始動した。軽快な音と共に、排水量四〇トン足らずの小艇が身を震わせた。

「作戦を開始する」

 沢渡の「土佐」一号艇がゆっくりと動き出した。

 

 同日 〇三〇〇時

 ニューギニア ポート・モレスビー港

 

 モレスビーの市街は闇の底に沈み、星明かりの下で、おぼろげな輪郭を見せている。

 その遙か手前、港を取り囲む防波堤の向こう側に炎がくすぶっているのが見えた。艦種は分からないが、それほど大きくはなさそうだ。

「ジャップの艦隊はすでに火を放った後だったか」

 米第三七任務部隊の旗艦「アイオワ」――米軍最強の火力を誇るサウスダコタ級の最後の一隻――の艦橋で、トーマス・キンケード中将は言った。

「六時間前、監視任務に就いていた潜水艦が、大型艦二隻を中心とする5、6隻の艦船が、モレスビーから出港したとの報告をしています」

 参謀長のジム・オズボーン少将が言った。

「ジャップは艦隊の一部に燃料を集中させて逃げ出したのではないでしょうか?」

「その可能性は、考えられるな」

「でしたらどうします。モレスビーから脱出した艦隊の追撃にでますか?」

 キンケードは少し考え込みながら、モレスビー港を見つめていた。どうも、艦を爆破したときの煙にしては黒い気がする。重油火災に近い気がするが、ジャップの艦はほとんどの燃料を使い果たしたはず。まあ、彼の任務は日本海軍第八艦隊、特に八八艦隊計画艦四隻を含む六隻の戦艦の無力化であるから、モレスビーから動けない四隻の戦艦は後で始末してもかまわないだろうが……。

「しかし、こう煙が多いと港内がよく見えませんな。これでは四隻がいるかどうかも分かりませんな」

 オズボーンはあくまで冗談のつもりだったが、キンケードはこの瞬間、ハンマーで殴られたような衝撃を受けた。

「ジム、これは罠だ!」

「は?」

 状況がつかめていないオズボーンに対し、キンケードは説明するのもまどろこしい様子で慌てて言う。

「いいか、何故これだけの煙が出ているのか? 勿論、艦を爆破した煙だろう。しかし、それはモレスビー港で破損した、おそらく陸軍航空隊が撃沈確実とした空母の破壊だ。我々に燃え上がる艦を見せ、油断させている内にまんまと逃げだそうと言う策だ!」

「しかし、潜水艦の報告では大型艦は二隻と……」

「見落としたんだろう。潜水艦は視界が限られるからな」

「しかし、燃料が……」

「持っていたんだよ。戦艦全てを逃がすだけの燃料を。それを隠す為に、回避運動を行わなかったんだ」

 それはキンケードの勘違いであるのだが、今の彼を納得させるのには十分だった。

「では、」

「全速力で追いかける。奴らの目的地はおそらくラバウルだ。損傷している艦も多いだろうから、それ程速力は出せないはず。夜が明ける前に、ラバウルの制空権に入る前に……」

 だが、キンケードが全てを言い終わる前に次の出来事は起きた。

 突如、左舷側のレキシントン級が砲火を開き、何かが爆砕された。そして、レキシントン級巡洋戦艦「コンステチューション」に水柱が上がる。

「『コンステチューション』被雷!!」

「魚雷一発で沈むか」

 キンケードは確信と希望が混じった叫び声を上げた。

 確かに「コンステチューション」は沈まなかった。レキシントン級巡洋戦艦の薄い装甲と言えども、魚雷一発で沈められるほどやわではなかった。しかし、通常の二倍以上もの炸薬をもった八一センチ魚雷を食らって、ただではすまなかった。

「コンステチューション」はその一発で戦闘力を失い、濛々たる黒煙を噴き上げ、艦体を大きく傾けながら、その場に停止していた。艦底部では、乗組員達が死にもの狂いの形相で、奔流を思わせる浸水と戦っていた。沈没は免れるとしても、またドックに逆戻りとなるのは確実なようだった。

「警戒と護衛に二隻の駆逐艦を残し、全速力で追いかける。速力の早いレキシントン級を先行させて足止めさせ、メリーランド級、サウスダコタ級の部隊で止めを刺す。

 それから、ライトの第六七任務部隊に連絡を取り、レキシントン級との合流か敵艦隊の足止めを選ばせろ。

 クックタウンやタウンズビルの航空隊にも出撃要請をだせ。急げ!」

 オズボーンが何か言う間も無く、命令は全艦に通達された。

 

 同日 〇四三〇

 ニューギニア南部沿岸付近

 

 南雲中将が指揮する第二次撤収部隊は敵艦隊の追撃を予想しなかったわけではなかった。いや、むしろ必ずあるものとし、万全とはいかないまでもそこそこの体制を整えていた。

 露払いの軽巡「川内」を先頭に、「日向」「伊勢」「赤城」「加賀」と続き、殿に軽巡「神通」、その両脇を駆逐艦が固めている。「川内」のやや後ろには駆逐艦に護衛された二隻の給油艦がそこにおり、「川内」艦長の森下信衛大佐はいざとなれば、給油艦の盾になる覚悟をしているはずだった。

 空は北西から南東へだいぶ雲がかかってきて、星が見えなくなり始めた。この分だと、明日か明後日は雨かもしれない。

 今回、南雲の乗艦している「加賀」は日本海軍の伝統とも言うべき陣頭指揮をしていない。これは、敵が後方から来る確率が高いためで、それでもなお、別働隊などが前方からくる可能性を考え、先頭に「川内」を置いていた。

 全艦の乗組員にはすでに戦闘待機命令が出され、全員が戦闘配置のままで待機している。これが長く続くと乗組員は緊張を強いられ、戦闘の前に疲労し、その状況で戦わねばならないのだが、全乗組員――中将から二等兵まで――に等しく久しぶりの白米入り握り飯が配られ、士気は維持できる、と南雲は考えていた。

 艦隊速度は給油船に合わせているためわずか八ノット。出発してから三時間半が経過しているが、敵が三〇ノットで追撃してきたら一時間とちょっとで捕捉される速度である。

 給油船については「モレスビー港内で処分すべき」との意見もあった。しかし南雲はその意見を退け、「川内」と駆逐艦で護衛するように配置した。

 第八艦隊がモレスビーを維持しきれずについには撤退する羽目になったのは、「海軍とは自国の商船を守るために存在する」という基本的な理屈を忘れ、商船を守れなかった所に最大の理由があると南雲は見ている。それに、豪州方面艦隊司令長官に親補される前の支那方面艦隊司令長官の要職にあった時に聞いた事実を思い出した。

「南方の石油は溢れ出しているのに、本土まで運ぶ給油船がない」と。

 これは、軍令部が設備の破損などで占領前の産出の四割を見込んで計画を立てたのに対し、現実には無傷で占領したため給油船がまったく足りないのである。しかも、一万トンクラスの大型給油船はドックを塞ぐためひどく嫌がられる。つまり、その現実を知っている南雲にとって、二隻の給油船は戦艦六隻を救った命の恩人であると同時に、失ってはならない貴重な物なのだ。

(何としてもこの二隻は内地に戻さねばならん。重油を積んでいない給油船も守る価値があることを、知らしめなくては……)

 そのような事を考えていた時、右舷後方の闇の中に、めくるめく閃光をはっきり見た。 数十秒の間を置いて、大気を裂く轟音と共に、艦隊の右舷側に、夜眼にも白い水柱が何本も、高々と吹き上がった。

「砲雷撃戦、用意!」

「無事に行かせてくれる気は、どうやらなさそうだな」

 南雲は呟いた。

 避けられるものなら戦闘は避けたかった。しかし、始まる以上どうしもうもない。

(戦艦四隻は給油船と駆逐艦を逃がすための盾となる)

 南雲は落ち着いた表情で、「砲撃開始」の命令を出す時を待った。

 

 後の歴史家に「日米海軍史における史上最低の戦い」と言われる第三次モレスビー沖海戦前半戦は、米巡洋戦艦「ユナイテッド・ステーツ」以下三隻のレキシントン級が最大射程に近い三万五〇〇〇で放った一六発の四〇センチ砲弾によって開始された。

 米艦隊は全戦艦に新型のSGレーダーを装備していたが、いくら新型のSGレーダーと言えども有効射程距離は良くて二万五〇〇〇、現実には二万以下と言われている。三万五〇〇〇では「レーダーにかろうじて痕跡が見える」程度であり、命中など期待する方が無理であった。

 事実、四戦艦の放った初弾は全て近弾となり、「加賀」の右舷後方に水柱を上げただけに終わった。

 これに対し第二次撤収隊の四隻の戦艦はいずれも投影面積を最小にするように変針し、発砲すらしなかった。

「当たらないのが分かっていて、ただでさえ少ない砲弾を消費する気はない」と南雲が言ったと伝えられるように、この距離では「加賀」「赤城」の四〇センチ砲では届くのがやっと、「伊勢」「日向」の三六センチ砲では言わずもがな、だからだ。

 一〇分、二〇分と経ってもこの状況に変化はない。距離こそ三万メートルまで近づき、第二次撤収隊の周辺に盛大な水柱が上がるものの、直撃弾どころか挟叉弾すらない。

「何故だ、何故命中せん……」

「ユナイテッド・ステーツ」艦橋で、フランク・フレッチ少将はいらだちを隠しきれない声で言った。

「何故当たらん! どうして命中しないのだ!」

 短時間で敵戦艦を撃沈し、残ったジャップの艦隊をなぶり殺しにするという目的は、どう考えても実現しそうになかった。

「もう少し、敵に接近してはいかがでしょうか?」

 砲術参謀がフレッチに注意を喚起した。

「レーダーの最大有効射程距離は二万~二万五〇〇〇。現在はそれよりも五〇〇〇遠いのです。この距離ではレーダーの誤差が大きく、命中率が著しく低下します。せめてあと五〇〇〇、できれば二万まで接近しては敵艦隊との距離を詰めるべきと考えますが」

「それはできん」

 フッレチは激しくかぶりを振った。

「敵に接近すれば確かに命中率は上がるが、それは敵も同じだ。いや、夜目が利き、マーシャル沖で我が軍の三倍~四倍の命中率を示したジャップの方が有利と言える。それにこの薄い装甲のレキシントン級でトサ級と撃ち合えば、こっちは一撃で致命傷だ。せっかくドックから出てきた『ユナイテッド・ステーツ』を傷物に出きるか」

「しかし、こちらは高初速の五〇口径です。北部珊瑚海海戦(第二次モレスビー沖海戦の米側名)で、レーダーがジャップの眼を上回る事は証明されたはず。距離を詰めた方がメリットは大きいと思いますが……」

「ダメなものはダメだ」

 フレッチは、頑として首を縦に振らなかった。

「なんとか現在のままで命中率を上げるんだ」

「不可能です」

「やるんだ」

 フレッチと参謀が議論している間にも、砲撃は延々と繰り広げられている。ようやく日本側も撃ち返してきているが、少しずつ、試しながら撃っている感じで命中はない。

「ライト少将から『突撃許可求む』の通信が入っています」

「不許可だ!」

 フレッチは顔を真っ赤にしながら即答で却下した。

 この時、参謀はこの海戦の敗北を覚悟し、フレッチの更迭を確信した。

 

 南雲が距離三万メートルで砲撃を開始したのは、まぐれ当たりを期待してのものではない。レキシントン級の砲撃開始後、「川内」と駆逐艦二隻は給油船と共に逃走に移っているが、軽巡「神通」、駆逐艦「雪風」「狭霧」「吹雪」「白雪」は雷撃準備を終え、タイミングを計っていた。戦艦の砲撃はこちらに注意を引きつけるためのものであり、軽巡と駆逐艦に注意を向けさせないためのものだった。主目的が「ラバウルへの撤退」にある以上、長居をするつもりはない。一撃を加えた後の逃走がベストだった。

 九三式酸素魚雷の最大射程は雷速四〇ノットで三万二〇〇〇メートル、三六ノットなら四万メートルにも達する。米軍の魚雷は雷速四八ノットで四〇〇〇メートル、三二ノットで八〇〇〇メートルだからまさに桁違いの兵器なのである。

 軽巡「神通」の水雷長は接近、肉薄して魚雷を叩き込む従来の方法ではなく、遠距離から未来地点を読んでの雷撃を試すつもりだった。目的が逃走であるから、敵艦が魚雷を避けようとして回避運動をとれば、それの分だけ逃げれることになる。

「撃ーっ!」

 水雷長の号令一下、圧搾空気によって送り出された四本の魚雷は、まるで生き物のように海中に飛び込んだ。

 他の四隻の駆逐艦も呼応して魚雷を発射。合計四〇本もの魚雷が敵艦めがけて突き進む――が、

「魚雷、自爆した模様!!」

 敵艦まで三分の一のところで海面が盛り上がり、爆発が起こった。酸素魚雷が、一大飛沫をまきちらして爆発。次の魚雷も、また次の魚雷も。

「ま、まだ残りの魚雷がある」

 動揺を抑え、タイムウォッチに眼をやる。

「……五、四、三、二、一」

 零。敵艦から水柱が上がった。艦影を覆い隠すほどの巨大な水柱だ。

 しかし、敵艦は何事もなかったかのように砲撃を続ける。マーシャル沖で「レキシントン」を沈めた実績のある九三式魚雷だ。水柱は命中したからではなく、敵艦の直前になって自爆したから以外考えられなかった。

 後に判明することだが、この時の自爆は偶然ではなかった。海軍の基準に照らして調整すれば、ほぼ間違いなく自爆することが判明するのである。マーシャル沖海戦や南方作戦中、駆逐艦の艦長によっていくつも報告がなされているのだが、海軍省、軍令部、GF司令部のどれもまともにとり合わなかった事も判明する。「自分達の調整ミスをごまかそうとしている」というのが、彼らの言い分だった。また、マーシャル沖海戦やシンゴラ沖海戦では大戦果をあげた巡洋艦、駆逐艦は全て基準を無視して調整した事も判明する。

「次発装填急げ!」

 水雷長は思考を停止し、今の自爆は偶然であり、次は正常に動くと考え――いや、信じたかった。

 しかし、この行動は無意味、というか行うことすら出来なかった。突如、右舷に閃光を見、その数十秒後、軽巡「神通」はただの鉄屑と化した。

 キンケード中将率いる第三七任務部隊本隊、サウスダコタ級「アイオワ」の四〇センチ砲弾が命中したのである。

 

 「日米海軍史における援軍の戦い」これが、第三次モレスビー沖海戦後半戦の一般的な表し方である。

 戦場に到着した米軍の援軍、キンケードの「アイオワ」は最大射程で軽巡「神通」に四〇センチ砲弾を叩き込み、「神通」をただの鉄屑と化した後、ライトに突撃許可を出し、フレッチに接近命令を出した。フレッチは何か言いたかったかもしれないが、キンケードが続いて「従え」と短く命令を出すと、さすがに接近。砲撃しながら二万メートルまで近づくと同航戦の格好で長四〇センチ砲八門から規則正しく砲弾を吐き出した。

 ライト少将の第六七任務部隊は先頭を行く「伊勢」「日向」に攻撃を集中させるべく、突撃した。副砲がほぼ全滅している「伊勢」「日向」を守るために、残った駆逐艦「雪風」「狭霧」「吹雪」「白雪」は一二・七センチ砲を振りかざして応戦する。「伊勢」「日向」も自らを、そして駆逐艦を守るため主砲を重巡に向けねばならなかった。

「川内」と二隻の駆逐艦は一切戦闘には加わっていない。二隻の空の給油船を守るために、この三隻はひたすらラバウルに向けて北上していた。

 必然的にレキシントン級を迎え撃つ形になった「加賀」「赤城」はこれまでの消極的な戦い方ではく、敵艦が全ての砲塔の射程に入った瞬間、全ての砲塔が火を噴いた。

 この時、不運だったのは「ユナイテッド・ステーツ」である。すでに「加賀」「赤城」に照準を付けられていた本艦は、待ちかまえていた罠に飛び込んだ獲物のごとく、狩られる運命にあった。「加賀」「赤城」から放たれた一〇発の四〇センチ砲弾は(奇跡的に)三発が命中、艦首、第二砲塔付近、艦橋に命中した。艦橋に命中した一発は榴弾であったため、フレッチ少将らに恐怖と肉体の損傷を与えただけにすんだが、艦首、第二砲塔に命中した二発はそうはいかなかった。艦首に命中した一発はそこに張られていた薄い装甲をあっさりとぶち破り、艦首部分をごっそりと奪い去る。第二砲塔付近に命中した一発もやはり薄い装甲をぶち破り、きっちり〇・一秒後に爆発。ダメコン隊の適切な行動で、「弾薬の誘爆」という最悪のシナリオこそ免れたものの、大幅に速力を落とした以上、艦隊からの脱落は確実だった。

 一方、「加賀」「赤城」に対する報復はすぐさま行われている。同型艦を脱落させられた「コンステレーション」「レンジャー」「サラトガ」の三隻は長四〇センチ砲を全てこの二隻に向け、次々と砲弾を叩き込んだ。主砲のみならず、副砲もすべてこの二隻に向けれられている。副砲弾といえども、艦上の建造物をのきなみスクラップにする力はあり、嫌な存在だった。

 命中弾は「加賀」五発、「赤城」七発。「加賀」は艦首を食い破られ、第三砲塔をひん曲げら、第四砲塔を吹き飛ばされ、水上機のカタパルトがなぎ払われた。「赤城」は第一、第二砲塔を叩き割られ、煙突が折られ、艦尾が食い破られた。何よりも致命的なのは、艦尾に食らった一発が舵とスクリューを吹き飛ばした事だ。

 これで「赤城」は虫の息になった。行き脚が止まったことで、後ろから近づいてくる「アイオワ」「メリーランド」「ワシントン」の格好の餌食となる事が避けられなくなったのだ。

 行き脚が止まり、海上に静止しているに近い「赤城」周辺に水柱が上がる。ひときわ大きな水柱が「アイオワ」の長四〇センチ砲砲弾でそれより小さいのが「メリーランド」「ワシントン」であろう。レキシントン級三隻は「赤城」は「アイオワ」らにまかせ、「加賀」を仕留めるつもりのようだ。

「赤城」の後部第三、第四、第五砲塔から死にもの狂いの四〇センチ砲弾が放たれる。まだ、かろうじて統一射撃が可能であったため、目標は敵戦艦の二番艦。先頭は「アイオワ」に決まっており、そんな重装甲の戦艦を狙うよりも幾分か装甲の薄いメリーランド級の方が、まだダメージを与えられる可能性があるからだ。

 水柱の中、ほとんどあてずぽうに近い状況で放たれた砲弾は、「メリーランド」の第三砲塔に命中、装填されていた四〇センチ砲弾を誘爆させ、「メリーランド」は巨大な炎を吹き上げた。これでもなお、ダメコン隊の活躍で中破ですんだのだから、いかにアメリカ海軍の軍艦が沈みにくいかが分かる。

 同型艦を潰された「ワシントン」の怒りはただならぬものであったに違いない。次とその次の砲撃で「赤城」に二発の命中弾を出し、第四砲塔をねじ曲げ、再び艦尾に大穴を開けた。

 その頃、「加賀」は三隻のレキシントン級にしこたま殴られ、息も絶え絶えな様子だった。レキシントン級と異なり対4〇センチ砲防御がなされているだけあって、高初速の長四〇センチ砲砲弾を食らってもそう簡単に大穴が開くことはなかった。しかし、度重なる直撃は装甲に亀裂を生じさせ、各部から浸水するのは避けられない。いや、伊吹級と違い普通の対四〇センチ防御しかされていない本艦が長四〇センチ砲砲弾に耐えている事実を誉めるべきだった。

「加賀」は「コンステレーション」が放った何度目かの砲弾により、ついに全ての主砲が使用不能となる。しかしその砲弾が命中する僅か数秒前に放った砲弾は「コンステレーション」の艦首部分に命中。「ユナイテッド・ステーツ」同様、薄い装甲しか張られていない艦首をまたもや吹き飛ばした。

 

 激しい乱戦の中で、キンケードは興奮した面もちで戦場にいた。ほぼ一年前、マーシャル沖海戦の終盤で、圧倒的な命中率を誇る日本艦隊に追撃され、機関出力を全開にして逃げまくったことは、いまだにキンケードの脳裏に焼き付いている。あの時のことを思い出す度、何度屈辱に胸の中が震えたか。

 その屈辱をようやく晴らす機会が訪れていた。「コンステチューション」「コンステレーション」「ユナイテッド・ステーツ」「メリーランド」の四隻が損傷を受けたものの、いずれも沈没にいたる傷ではない。敵は「加賀」「赤城」が戦闘不能、「伊勢」「日向」もライトの第六七任務部隊が数の多さを利用して至近距離から必殺の魚雷を叩き込んだ。重巡の被害は馬鹿にならないようだが、それでも勝利は間違いない。

 そして、彼の口が再び「撃!」の形に開かれたまさにその瞬間、彼と彼の乗る「アイオワ」は狩人から獲物へと転落してしまった。

 艦に激しい衝撃が走り、装填された第四砲塔の四〇センチ砲弾が爆発を起こした。彼が振り向いたその先には、旭日の中から二隻の戦艦が迫り来るのがはっきりと見えた。

 

「乱痴気騒ぎを止めさせる」

 一一日にトラックを出発して以降、ろくに寝むる事が許されず、眼を真っ赤にさせた「穂高」艦長の城島茂人大佐はいきなりそう言い放った。

「目標、敵『サウスダコタ』級。次に『メリーランド』級に照準を合わせる!」

 射撃指揮所の長瀬智久砲術長からもすぐさま「射撃準備完了」の報告が入り、「戸隠」の松岡昌次艦長からも「射撃準備完了」の報告が入る。

「撃ーっ!」

 城島艦長の不機嫌さのせいか、始めから斉射。一六発の四六センチ砲が「アイオワ」に襲いかかり、いきなり二発が命中した。うち一発は後部指揮所を直撃、後部指揮所を叩き壊し、そこにいた副長以下のスタッフを消し炭に変えた。そしてもう一発が第四砲塔を直撃し、そこに装填されていた三発の四〇センチ砲弾を誘爆させたのだ。

 あわてて「ワシントン」が照準を変更し、突如現れた戦艦に砲撃を行うも、全弾近弾となり、「穂高」「戸隠」に被害はなかった。

「穂高」「戸隠」も目標をメリーランド級に変更。この二隻の第二斉射は挟叉となり、第三斉射にて「ワシントン」に一発の命中弾がでる。

 この命中弾が「ワシントン」の運命を決めた。第二砲塔の天蓋を貫通した四六センチ砲弾はその下の弾火薬庫を誘爆させ、三万二千トンの巨艦は火柱を上げた。それでもまだ浮いているところがさすがではあるが、沈没は時間の問題だった。

 旗艦「アイオワ」を大破、「ワシントン」を撃沈されたキンケードは撤退を決定。城島大佐も燃料の不安、味方の艦が浮いている状態で救助を求めていたため、追撃を行う気が無かった。これにて一応第三次モレスビー沖海戦は終了する。

 損害は

  日本軍

 沈没……軽巡「神通」、駆逐艦「吹雪」「狭霧」

 大破……戦艦「加賀」「赤城」「伊勢」「日向」

 

  米軍

 沈没……戦艦「ワシントン」重巡「クインシー」駆逐艦「クラクストン」「オバノン」

 大破……戦艦「ユナイテッド・ステーツ」重巡「アストリア」「ビンセンス」「シカゴ」駆逐艦「セルフリッジ」「スティレット」

 中破……戦艦「アイオワ」「メリーランド」「コンステチューション」「コンステレーション」(「コンステレーション」のみモレスビー港で中破)

 

 なお、「伊勢」「日向」と駆逐艦四隻は、キンケードの突撃許可を受けた重巡を中心とする第六七任務部隊と最後まで交戦。「伊勢」に三発、「日向」に二発の魚雷を受け、「吹雪」「狭霧」が沈められるも、重巡一隻を撃沈、三隻を大破させた。

 日本側ではこの損害表をもって、第三次モレスビー沖海戦の自軍の勝利を結論づけた。

 確かに日本軍は軽巡一隻、駆逐艦二隻の喪失、戦艦四隻の大破と引き換えに多数の艦を沈めているからそう言えないことはない。

 しかし、このうち大破した「加賀」「赤城」「伊勢」は「加賀」「伊勢」が機関室への浸水により、「赤城」はひどい火災のため、総員を退艦させた後、キングストン弁が抜かれ、自沈している。魚雷を使わなかったのは、自爆の可能性があったからだ。

 この三隻の自沈を撃沈とし、「コンステレーション」の被害を引いた上で米軍は第三次モレスビー沖海戦を自軍の勝利と結論づけている。

 いずれにせよ、第八艦隊が、最後の最後になって、米艦隊に痛烈なまでの反撃を行い、約四ヶ月に渡る補給線寸断のうっぷんを一気に叩き返したこと、日本艦隊がいかに手強い存在であるかを米軍に知らしめたのは否定できない事実であった。

 ところで、日本軍にとって第三次モレスビー沖海戦はまだ終わっていなかった。四航戦の高木少将が、参謀の制止を振り切り、「手負いの戦艦を撃沈する」と息巻いて攻撃隊を発進させ、零戦一二機、九七式艦攻八機を失うのだ。

 高木少将は航空のずぶの素人で航空について何も分かっていなかった。彼は直掩に二〇機の零戦を残すと残り全てをろくな索敵もしないまま出撃させ、その上四航戦は空襲を受けないように北上させたのだ。

 高木少将は査問会で、「ラバウルは第八艦隊の艦艇で一杯であり、だから北上してトラックに向かった」と述べているが、明らかに第八艦隊の救援命令を無視したものであった。

 攻撃隊はだいたいの目測で出撃させられた結果、雲の下にいた米艦隊を発見できず、いたずらに辺りを彷徨った。しかも、この搭乗員はようやく離発艦できるようになったばかりで、一航戦、二航戦のベテランから見れば、ひよっこ同然であった。彼らは最終的には零戦一二機、九七式艦攻八機が仲間とはぐれて機位を失い、さらにはぐれなかった編隊も母艦が北上していたため見つけられず、全機がラバウルに着陸した。

 この事は、「運良く雲がかかっていなかったら、『穂高』らが損傷した可能性もある」(事実、B17が空襲のため出撃したが、発見できず引き返している)と、古賀長官を激怒させ、高木少将は即日で予備役に編入させられた。高木少将自体、スラバヤ沖海戦で指揮官としての資質を疑われていたが、年功序列と派閥人事のためさしたる事態にもならず、新設の四航戦の司令官に親補されたという経緯がある。

 古賀は厳しい処分を行うことで、嶋田前長官の時に行われていた不当処置を断固として認めない事を明らかにしたのである。同時にこれは年功序列、派閥均衡人事の弊害を表すものとして、適材適所と実力主義を古賀は徹底する事になる。

 ともあれ、海軍にとってモレスビーの長い四ヶ月は終わりを告げた。

「嶋田大将の火遊びは高くついた」とは、ある参謀のコメントである。

 

 一二月一九日

 ハワイ 米太平洋艦隊司令部

 

「そうか、『ワシントン』が沈没、その他五隻の戦艦が中大破か……」

 アメリカ太平洋艦隊司令長官、チェスター・ニミッツ大将は苦虫を噛み潰したような表情をしていた。

「修理にどのくらいかかりそうなのかね?」

「『ユナイテッド・ステーツ』『アイオワ』『メリーランド』はいずれも本土のドックで半年、『コンステチューション』『コンステレーション』はハワイで4ヶ月といったところです」

 参謀長のレイモンド・スプルーアンス中将も弱りきった口調で言う。

「とりあえず、モレスビーを奪回した点は評価できるんだが……」

 損害があまりにも大きい。

 そうニミッツは言いたげだった。

「潜水艦の報告では大型艦三隻がラバウルに到着。うち一隻、『イセ』クラスのみが損傷を受けていたと。どうやら残り三隻は海戦後、処分したようでその点では勝利と言えなくもないのですが……」

 損害が大きい。

 スプルーアンスもそう言いたげだった。

「こうなった最大の原因は何かね?」

「指揮官の問題もありますが、やはりレキシントン級の装甲の薄さ、でしょう」

 スプルーアンスはこともなげに言う。

 レキシントン級は巡洋戦艦の常で装甲が薄い。マーシャル沖海戦の損傷をハワイや本国のドックで修理した際、若干の速度の低下に目をつぶって、装甲の強化を図ったのだが、それくらいでは四〇センチ徹甲弾の直撃に耐えられなかったのだ。

「かといって、これ以上装甲を上げたところで、改装の手間とコストと速力の低下の割にメリットはあまりありません。もったいないですが、レキシントン級はイセクラスやコンゴウクラスとの対決に専念させるべきでしょう。それと、まあ後は空母の護衛ぐらいですか」

「それも一つの手ではあるが……」

 そうなると、今度は五〇口径四〇センチ砲八門という火力が生かせない。レキシントンの火力はメリーランドよりも大きいのだ。

「日本海軍の戦艦の散布界はどうだったのだ?」

「モレスビー撤退艦隊は、かなり広かったようですが、イブキクラスは異常です。『アイオワ』は初弾命中、『ワシントン』も初弾で挟叉されています」

 伊吹級が戦場に到着したときには、すでに夜が明けていたというせいもあるだろうが、それでも、この数字は異常だった。

 やはり日本海軍は強い。それが、ニミッツとスプルーアンスの感想である。

「キンケードの処分はなしだ。最後の油断はいただけないが、彼はあのマッカーサーとうまく付き合って、モレスビーを奪回した。今後、大統領がどのような方針を決定するかわからないが、反攻作戦中に陸軍の手を借りる必要があるときもある」

「まあ、イブキクラス二隻が加わった状況下ですから、反対意見は起きないと思いますが」

 米国民にとって伊吹級は憎悪の対象であったが、それ以上に恐怖の対象であった。

「しかし、これではっきりしたな」

 ニミッツは確信を得ていた。

「艦隊決戦に必要なのは、高速、重装甲、重火力を持った高速戦艦だ。重装甲、重火力であっても、低速であればマーシャル沖のサウスダコタ級のように沈められる。逆に、高速、重火力であっても、軽装甲であれば、今回のレキシントン級ように一撃で戦闘力を失う。すべてを高いレベルで纏め上げなければ、近代戦では使い物にならない。

 私は今後の建造計画において、この点をしっかりと主張しよう」

 自信を持って言っているニミッツだが、気がついていない点が一つある。ニミッツが望んでいる「すべてを高いレベルで纏め上げた高速戦艦」をアメリカはまだ持っていないが、日本にはまだ一一隻ある事を。今後、両者の差は急速に埋まっていき、じきに逆転するが、その間に日本軍が大攻勢をかけてきたらどうするのか、ニミッツはまったく考えなかった。

 もっとも、燃料不足でぴいぴい言っている日本艦隊が大攻勢をかけれる状況には無かったから、考える必要もないのだが。

 

 同日

 ラバウル 陸軍第八方面軍司令部

 

 この日、第一八師団参謀長国分北斗は不機嫌の絶頂にあった。

 厳密に言えば、国分の不機嫌は「この日」ではない。一二月一〇日に第八方面軍司令官の今村均中将が急遽、内地の参本と陸軍省に呼び出されてから、国分はひたすら不機嫌であった。

 今村中将が内地に向け出発したその日から、ただの一度もこの第八方面軍司令部で第一八師団師団長の姿を見たことはない。

 当然、今もこの場所にはいない。しかし、居場所は分かっている。第一八師団の師団長牟田口廉也は今村中将が居なくなったその日から、ひたすら芸者通い、料亭通いの日々を送っていた。

 もっとも、これは不機嫌の副たる原因であっても主ではない。上官が酒と女に溺れているということは、無能の証明のようなものであり、その分参謀である国分の信頼は厚く、強いものになる。出世意識の強い国分にとって、第一八師団を事実上掌握することは大きなメリットだった。

 問題は牟田口が遊ぶ金が第一八師団の費用から賄われていることと、ほぼ同時期に第一八師団の食料、嗜好品がごっそり減った点にあった。主計課のトップも最近姿を見せないことからもおそらくこれは間違いない。軍の資金、および物資を横流しして女に突っ込んでいるのだ。

 さらに国分の機嫌を悪くしているのは今、自分が置かれている状況である。

「参謀長」

 ふいに国分を呼ぶ声が聞こえる。

「なんだ」

「第三五旅団への電文、あれで良かったんでしょうか?」

「知るか」

 今村が内地に向かった後、第三五旅団から第八方面軍司令部に「モレスビー撤退について」の電文が入った。内容は第八艦隊がモレスビー湾にて大損害を受けた事、海軍はモレスビーからの撤退を本気で検討しているということ、そして川口自身も「モレスビーは食料、医薬品、武器、弾薬共に少なく、敵との戦闘になった場合、夜戦はともかく昼間に勝利するのは難しい」として、撤収を申し出ていた。

 この電文を国分は「責任上」牟田口に見せたところ、牟田口は始めは完全に出来上がっていたのだが、電文を見るなり見る見るうちに顔色を変え、そして電文を破り捨てた。その上で、「第三五旅団にモレスビーの死守を命じろ」と言い、また酒をがぶ飲みしていた。

 国分が冷静に「食料も、弾薬も無い状況でどうやってモレスビーを確保するのですか?」と聞いたところ、「食料が無ければ、ニューギニアのジャングルに求めろ。弾薬が無ければ、軍刀で、軍刀も折れれば歯で戦え」と平気な声で言ってのけたのである。その上で、自分の名前だけだと後で責任を追及されるのを恐れたのか、あろうことか勝手に今村中将の名前を使い、第三五旅団に命令を下したのだ。

 牟田口の腹は読めている。いざとなれば、参謀長の自分が勝手に牟田口と今村の名前を使ってやったとして、逃げるつもりなのだ。

(そうは問屋がおろすか)

 国分は今村が内地に出ていってからの牟田口の行動を逐一記録していた。入った料亭、使った金額、抱いた女の数と名前まではっきりと記録している。

(これを杉山に見せてやる。俺の申し出に素直に応じればそれで良し。もし応じなければ……)

 その時は、対立派閥にこの記録を持っていって、奴らの軍人生命を奪っている。

 国分の反撃は始まったばかりだった。

 

 

 同日

 トラック島 海軍基地

 

「そうか、南雲さんは『加賀』と運命を共にしたか……」

 古賀峰一新GF長官は、暗然とした表情で呟いた。

 草鹿参謀、岡田艦長らの説得に関わらず、激しい火災と浸水で機関室が浸水し、動くことが出来なくなった「加賀」艦橋に置いて、敬礼しながら沈んでいったという。

 モレスビー港外の沢渡ら挺身隊についても、モレスビーに残存した第三五旅団経由で送ってきた報告によって、大体のことは分かっている。

 それによれば、艦載水雷艇の攻撃によって、米主力戦艦の一隻が航行不能に陥るほどの大損害を受け、曳航されて引き上げた――とある。

 そして出撃した一二隻の艦載水雷艇は、ただの一隻も帰還しなかった。指揮をとった沢渡が戦死したことは、まずもって間違いない。

 戦艦三隻の喪失、南雲忠一豪州方面艦隊司令長官、沢渡真人水雷参謀の戦死――これらにより、古賀は一気に一〇歳以上も老け込んだように見えた。

 特に沢渡は、古賀が期待していた人材であり、「中央だけでなく、実戦も経験させて、日本海軍の将来を担うのにふさわしい人材に育てたい」という古賀の推薦書付きで送り込んだ人物である。南雲と沢渡の戦死は、古賀にとって最も辛いことだった。

「……すまなかった」

 古賀は報告に訪れた草鹿竜之介、田中頼三、柏木耕介にやっとそれだけ言った。

「もっと早く救援に行きたかったんだが、中央でゴタゴタがあり動けなかったんだ」

「古賀長官のせいではありません」

 柏木が言う。

「古賀長官が撤退命令を出してくれねば、モレスビーで論議が真っ二つに割れ、モレスビー港内で全員が戦死していた可能性もあります」

 命令が届いた時点で、すでに撤収準備に入っていたのだが、柏木はそのことを言う気は無かった。無能な上官の下で、全力を尽くした人物に「あなたの行動は無意味でした」と言えるほど、彼は冷酷な人間ではない。

「全ての責任は――」

「やめろ」

 柏木が続けようとした所、古賀が遮った。

「言いたいことは分かるが、その先の台詞はよせ」

 古賀の悲しげな目を見ると、柏木は何も言えなくなった。

「田中司令も同じものを持っておられますが――」

 草鹿がちらりと田中を見ていった。

「南雲長官から預かった手紙です」

 そこには「参謀長以下第八艦隊司令部職員の罪を問わないで欲しい」という嘆願書が入っていた。

「それと、南雲長官から伝言です」

 今度は田中が言った。

「嶋田前長官あてもありますが、どうします?」

「良かったら聞かせてくれないか? 私は後任なんだし」

 それでは、と田中は言った。

「『命令に反し、独断でモレスビーを撤退してしまった事は、誠に申し訳ありません。どうか仇を討って下さい。嶋田長官の武運長久をお祈りいたします』」

「これは古賀長官あてです」

 草鹿が言う。

「『戦艦三隻の喪失の責任は全て私にあります。また岡田や矢島ら艦と運命を共にしなかった艦長も、彼らが身につけた技量は陛下の財産であり、今後必ず必要になると思い、させなかったのです。どうか温情ある処置をお願いします』」

「南雲さん……」

 古賀の頭の中に、南雲との想い出が走った。軍令畑で、米英強行派の彼であったが、本職である水雷の技量を、十分に発揮出来ぬまま戦死したという点において、悲運の提督である。年功序列制の被害者と言えるかも知れない。

「報告書は急ぎますか」

「ああ、すまんが頼む。米軍の技量がどれほど向上しているのか調査し、反抗時機を見極めたい」

 それでは、と言うと田中と草鹿は出ていき、後には柏木と古賀が残った。

「どうかしたのかね?」

「お時間があるのなら、少しつき合っていただけませんでしょうか」

 古賀は柏木の真剣な表情に断ることができず、ただ黙って頷いた。

 

 古賀が連れて行かれた先は軽空母「瑞鳳」だった。シンゴラ沖海戦前のマレー沖航空戦――「世界初の(基地航空隊も参戦しているが)空母同士で戦われた海戦」として戦史に記録されている。――で英空母「ハーミズ」「フェーリアス」を撃破した殊勲艦の一隻だ。三航戦に所属するが、ペアを組んでいた「大鷹」が第七艦隊へ引き抜かれ、新たにペアを組んだ「祥鳳」もドック入りした今、一隻で三航戦を編成している。

 柏木の目的地はその「瑞鳳」の格納庫にあった。

「これは一体?」

 それを見たとき、古賀はこれが何であるかが分からなかった。格納庫の床が抜けそうなくらいの重量があるのは分かるが、今一つピンとこなかった。

「大型工作用土木機械、米国流に言うとブルドーザーです」

 古賀も噂には聞いたことがあった。何でも、開戦直後に占領したウェーキ島で、捕虜にした米軍兵に滑走路の修理を命じたところ、こいつを使って、一週間はかかると思ったのが僅か二日で出来たと聞く。もっとも、その後、雨ざらしにしてしまって使い物にならなくなったとも聞くが……。

「南雲長官の話だと、なんでも故障した状態で放置されていたとか。修理できた頃には動かす燃料が無かったそうですか」

「ということは、動くのかこいつは」

 モレスビー撤退において米軍は全てのものを持ち去ったと聞く。てっきり、修理のしようがなくて放置されていたものだと思いこんでいた。

「実際動かしてみなければ分かりませんが、おそらく普通に動くはずです」

「よし、さっそく本土に送ろう」

 古賀は即決したようだ。

「それから、あと一つ。行って頂きたい事があるのですが」

「なにかね?」

「ハッ、それは……」

    ・

    ・

    ・

「解った、其の件に関しては、任せたまえ。それから、『瑞鳳』は消耗した艦載機と搭乗員を受け取るために『日向』を始めとする第八艦隊の残存部隊と共に内地に向かってくれ。指揮は第四艦隊司令長官の小林仁中将に行わせよう」

「小林中将ですか……」

 柏木は顔を曇らせる。

「ああ。トラックで釣りばかりしている御仁だ。海の怖さをもう一度思い出してもらおう」

 結果的に言えば古賀のこの判断は間違っていた。戦艦「日向」は呉への回航中に潜水艦の雷撃を受け、かろうじて呉にたどり着いたものの、そこで着底。引き上げたところで、労多く益少なしということで解体されることになる。

「瑞鳳」のブルドーザーは無事に呉に到着。そこから来栖川重工に送られ、研究に、実戦にと大いに役立つことになる。

 思わぬプレゼントを米国からもらった日本だったが、米国も思いもかけないプレゼントを日本から貰うことになる。

 日時は四三年一月八日。前日の七日にモレスビーに上陸した米陸軍は、何故か、非常に微弱な抵抗しか行わない第三五旅団を撃破して同都市を占領。半壊したモレスビー政庁舎においてマッカーサー元帥が「日本軍は、二度とこの地に足を踏み入れることはないだろう」と高らかに連合軍の勝利とモレスビーの奪回を宣言した。

 この日、陸軍のある兵士は元日本軍の飛行場近くの林の中でちゃちな偽装ネットにくるまれた銀色のジュラルミンの輝きを見せる機体を発見した。

 機体は零戦二一型。連合軍を苦しめたこの機体はこれから連合軍のために、人肌も二肌も脱ごうとしていた。