豊見城海軍壕  (太田良博著作集B『戦争への反省』 T沖縄戦の諸相より)

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                                      太田良博

    (管理人注:本論文は未発表原稿で、執筆年代不明だが、S30年代半ばかと思われる。)

 沖縄戦で住民は足手まといであった。それで、東条内閣は昭和十九年七月七日、サイパン玉砕の翌日の閣議で、奄美大島以南の南西諸島の老幼婦女子を本土と台湾に避難させることを決定した。沖縄県から本土に八万人、台湾に二万人の疎開が予定されたが、結果は、九州に六万人、台湾に約二万人が送り出された。沖縄にはなお四〇万人以上の住民がいた。島内疎開は、県外疎開が終わつてから実施するとの軍や県当局の方針は、結果的には失敗だった。米軍は、時間的余裕をあたえなかったのである。

 沖縄島内の疎開についで、軍が県当局に要請した事項は、
  (1)六〇才以上の老人及び国民学校以下の小児を昭和二十年三月末までに疎開させる。
  軍は北行する 空車輌及び機帆船をもつて疎開を援助する。
  (2)その他の非戦闘員は、戦闘開始必至と判断する時機に、軍の指示により一挙に北部に疎開する。
  (疎開事務は、名護の東江国民学校内にある国頭地方事務所が担当)

 島内疎開は、激戦が予想される沖縄本島の中・南部の非戦闘員を、比較的安全と予想される北部山岳地帯に疎開させることだが、その実施時期より早い三月二十三日にアメリカの機動部隊がやってきて、翌二十四日からは砲撃を開始した。その砲撃下で、中部南部の住民を北部の山中に疎開させた。
 疎開させたというより、疎開の号令をかけたといったほうがよい。
 予定されていた輸送機関は、住民移動のために一つも使われなかった。そのため、住民の大部分は、中・南部の戦場に放置されてしまった。住民の一部が、疎開のかけ声に応じて、各個別々に徒歩で移動したにすぎない。あわてふためいた軍は、住民の疎開移動どころではない、空いた車輌や機帆船などを、住民移動のために提供するという計画などふっとんでしまった。
 最初北部に一〇万を疎開させる予定だったが、やっと二万だけが、徒歩で北部に向かった。北部疎開といっても、受け人れ地での計画は何もない。北部の山岳地帯に、たくさんの人間が移動したら直ちに食糧に窮するのはわかり切ったことだが、その準備がまるでない。北部各村の役場に連絡して疎開民をおしつけているが、役場が疎開民の生活の面倒までみられるはずがない。北部疎開といっても山の中に放ったらかされたようなものだった。住民は山羊小屋よりみじめな、押せば倒れるような「疎開小屋」に住むことになった。

 とにかく砲弾に追われて、南部から北部山中への避難が、米軍上陸の前夜まで、連日連夜続き、軍の作戦行動と交錯し、道路上の混雑がはなはだしかった。
  県当局は国頭の各村に収容を割り当てたといっても、疎開地域の指定にとどまり、とても地方農村として、都会地から流れてきた多数の疎開民の面倒はみておれない。また設営班を設けて避難小屋の設営を実施したが、それも雨露をしのぐにも事欠くていどのものだった。また、避難民のための食糧をいくらかき集めても、軍が輸送力を独占し、住民の食糧輸送に使用させないのでは、避難民の生活を保障するだけの食糧は集めることができない、というのが簡単に説明できる実情であった。
 いわば戦場予定区域の沖縄島、中・南部から住民は、何の準備もないまま北部山中へ追いやられたのである。そこには、飢餓が待っていた。作戦中における、北部での餓死者続出の惨状は、米軍上陸時の無統制な北部移動の結果であった。
 住民の食糧は戦災を予想して各地に分散貯蔵してあったのを、敵上陸までにトラックや荷馬車でいくらか北部疎開地へ輸送されたものの、とても二万の疎開民をささえることはできなかった。北部山岳地帯の疎開地は、戦闘期間、分離孤立したまま自活を余儀なくされたが、疎開者のほとんどが老幼婦女子であったのと、未知の土地での食糧確保の困難が多くの栄養失調死を招いた。
 民間の車両もほとんど軍に徴用されていたので、疎開民の移動は徒歩でおこなわれた。
  空襲下、幼い子供をつれた女たちが、持てるだけの荷物をもち、子供の手を引いて七〇キロから一〇〇キロの道を、泥にまみれ、雨に打たれながら北部へ歩いて行った。
 しかし、ここにただ一つの例外があった。
 住民の北部移動で、小禄に陣地のあった海軍部隊だけは、手持ちの全トラックを総動員して小禄村民の疎開輸送にあたった。小禄村民だけは、この特別待遇で助かったのである。食糧も持てるだけ持てた。
 これは、住民の島内疎開で、軍が協力した唯一の例外であった。

 小禄の海軍部隊は、作戦でも特異な立場におかれた。
 敵の重囲下におかれ、兵力や武器弾薬、食糧の支援がどこからもなかった沖縄守備第三十二軍の作戦を「孤島苦の作戦」とすれば、小禄飛行場を死守して潰減した海軍部隊は、その中でも、さらに孤立無援の状態におかれていた。
 沖縄方面根拠地隊(大田実海軍少将)は、大本営陸海軍部の「陸海軍中央協定」に基づく、「南西諸島作戦二関スル現地協定」によって、米軍の沖縄上陸とともに、第三十二軍司令官牛島満中将の指揮下にはいり、地上戦闘を実施することになった。
 海軍部隊の兵力は約一万であったが、もともと海上護衛隊との地上連繋部隊であったので、地上戦闘装備は、甚だ劣弱であった。
 小銃は各隊とも兵員の三分の一しかなく、その他は木柄、鉄尖の槍を持っていた。機銃は、航空機用を地上旋回銃に改造したものが多く、手榴弾各人二、三発、急造爆雷約二、〇〇〇個のほかに、小禄地区には高射砲一四門などがあっただけである。
 その上、中部戦線の陸軍主力、第六二師団が潰滅状態に陥り、米軍の南下を妨げずに、戦線が首里前面の沢シ、前田まで圧迫されてきた五月中旬、斬込隊要員として、陸戦隊約二、五〇〇名と、軽兵器の約三分の一、迫撃砲の大部分が沖方根(沖縄方面根拠地隊)、つまり小禄の海軍部隊から抽出されて、陸軍の指揮下にはいったため、海軍残存兵カと、その装備はさらに劣弱化した。
 五月二十一日、軍首脳部は、もはや組織的防禦力を維持することができない限界点に来たと判断して、首里撤退を討議した。
 爾後の作戦について、首里を死守、知念半島へ後退、喜屋武方面へ後退の三案が検討されたが、これは、どの地点を最後の墓場にするかという、いわば玉砕会議であった。各師団、それぞれ、戦術的、あるいは心情的立場から意見をのべたが、沖方根(海軍)だけは「別に意見はない」との態度をとった。

 思うに、戦闘主力の陸軍さえ、壊滅的打撃をうけて戦力が著しく低下しているとき、さらに装備劣弱な陸戦隊としては、何処で戦うのも同じで、ただ陸軍の足手まといになってはいけないという考えがあったと推定される。
  五月二十二日タ刻、牛島軍司令官は喜屋武方面に後退を決意、軍司令部の一部は、同夕刻、直ちに、八重瀬岳南方四キロにある摩文仁海岸の洞窟司令部予定地に先遣隊として出発した。
 「軍は残存兵力をもって波名城、八重瀬岳、与座岳、国吉、真栄里の線以南、喜屋武方面地区を占領し、努めて多くの敵兵力を牽制抑留するとともに、出血を強要する。陸正面においては、八重瀬、与座の両高地に全力を投入して抗戦する」との計画をたて、海軍部隊の部署としては、
 「軍占領地域の中央部地区に位置し、軍の総予備となる」と指示した。
 つまり、陸軍各隊の補充要員ということで、独立した作戦行動は、期待されないことになった。
 撤退については、「企画を秘匿しつつ現戦線を離脱し、一挙に喜屋武方面陣地に後退することを主義とするが、有力な一部を各要線に残置して、地域的持久抵抗を行う。第一線主力の撤退時機はX日(五月二十九日予定とする」との方針が示された。

 海軍部隊は、二十六日、与座岳の南二キロの真栄平に移動した。真栄平は、軍展開地域のほぼ中央部に当り、撤退指示に基づき、予備兵力の位置として適当だと判断したようである。
 撤退に際し、携行困難な重火器類の大部は破壊された。
 ところが、この撤退が、「過早後退」として問題になった。軍の退却計画では、海軍部隊の撤退は、六月二日ころと予定し、軍から命令することになっていたのに、海軍部隊は命令電報を誤解した、とされている。
 軍は、この状況を知って驚き、五月二十八日、小禄の旧陣地へ戻るよう海軍部隊に命令した。沖方根司令官大田少将は、命令を誤解していたことを知って、直ちに小禄の旧陣地に復帰した。
 この週早後退と旧陣地復帰は、大田司令官にとって、海軍の名誉に関する重大問題として、深刻にうけとられたようだ。
 命令の誤解がどうして起こったか。
 おそらく、X日(二十九日)プラス三日を、マイナス三日ととったとすれば、軍が予定したといわれる六月二日を、五月二十六日と誤解したことが考えられる。

 また、「海軍部隊は現陣地のほか、有力な一部をもって長堂(津嘉山南西一キロ)西方高地を占領し、軍主力の後退を援護する。後退の時期は、全般の作戦推移を考察し、軍司令官が決定する」との指示があるが、「沖縄根拠地連合陸戦戦闘概報第八号」の中で、大田司令官は、「二十五日、第三十二軍命令二ヨリ斬込隊九組ヲ出発セシメ、津嘉山警備隊長ノ指揮下二人ラシム」と報告しているので、おそらく、右の軍命令を以って、海軍主力の撤退命令と解釈したのかも知れない。
 なぜなら、海軍主力の撤退時機については明示されてなかったからである。
 かくて旧陣地復帰後の海軍部隊は、小禄地区に取り残され、孤立することとなった。
 六月二日、米軍約四〇〇名が真玉橋を通って豊見城に侵入してきた。海軍部隊は、守備背面から侵入した、これらの敵を撃退したが、六月四日、水陸両用戦車約一〇〇輌、兵員約六〇〇の強力な米軍部隊が小禄の海岸正面から上陸してきた。
 そこで、腹背から米軍の攻撃をうけることになった。陸戦隊員は、強力な敵に対して、夜間の艇身斬込みで対応した。
 海軍部隊が小禄陣地を固守することは、このとき全軍の作戦にとって、無意味であった。六月五日、牛島司令官は、海軍部隊に、南部への後退命令を摩文仁から出したが、大田司令官は、「海軍は既に包囲せられ、撤退不可能のため、小禄地区で最後まで闘う」旨の電文で南部後退を拒絶した。

 瀬長島の海軍砲台が米軍を脊射して、海軍主力の戦闘に協カする中で、六日タ、「戦況、切迫セリ、小官ノ報告ハ本電ヲ以テ此処二一先ヅ終止符ヲ打ツベキ時機に到達シタルモノト判断ス、御了承アリ度」と、軍司令部に打電した。
 その後も約一週間、海軍は戦闘を続行している。
 このときの戦闘の激しさを、米軍は次のように記録している。

   沖縄駐屯の海軍の全兵力は一万。だが、正規の海軍軍人は、その三分の一たらずで、
  その他は大部分現地召集や防衛隊員であてていた。そして設営隊、航空隊、海上艇身
  隊、その他の部隊要員からなる根拠地隊も、陸上の訓練をうけたのはお義理程度の申
  しわけ的な訓練でしかなかった。ニ、三百人たらずで、しかも、その訓練というのも、
  俄仕込みのものであった。

   首里戦線陥落の後、日本軍が小禄半島の防衛にでたのは、気まぐれといってもよい
  ほど、まったく偶然の機会からであった。
   残りの海軍はそのまま前線に配属された。残りの海軍はそのままま第三七魚雷整備
  隊などは、兵の方が小銃の数より三倍も多いしまつで、五月の末まで首里、与那原戦
  線で戦い、完全に壊滅させられてしまったのである。
   小禄半島における十日間の戦闘は、十分な訓練もうけていない軍隊が、装備も標準
  以下、しかもいつかは勝つという信念に燃え、地下陣地に兵力以上の機関銃をかかえ、
  しかも米軍に最大の損害をあたえるためには、そこでよろこんで死につくという日本
  兵の物語りであった。

   日本軍の防衛線には、手薄なところというのはなかった。海兵隊が進めば進むほど、
  それは機関銃や二〇ミリ、四〇ミリ高角砲に向かって進むようなもので、遅々として
  渉らなかった。これは小禄ではどの戦線でも、おなじことで、第四海兵連隊も第二十
  二海兵連隊も同様に織烈な砲火をあびていた。

  小禄の十日間の戦闘で、海兵隊の損害は、死傷者数一千六百八名。これは第三水陸
  両用軍が首里戦線で、日本軍との戦闘でこうむった被害に比べると、はるかに大きか
  った。

                      (『日米最後の戦闘』外間正四郎訳より)

 海軍は海軍独自の方法で戦ったわけである。
 六月六日夜、大田司令官は海軍次官あてに打電した。

  沖縄県民ノ実情二関シテハ、県知事ヨリ報告セラルベキモ、果二ハ既二通信力ナク、
  三十二軍司令部モ、又通信ノ余カナシト認メラルル二付、本職、県知事ノ依頼ヲ受ケ
  タル二非ザレドモ、現状ヲ看過スル二忍ビズ、之二代ッテ緊急御通知申上グ。
  沖縄島二敵攻略ヲ開始以来、陸海軍方面トモ、防衛戦闘二専念シ、県民二関シテハ、
  殆ド顧ミル二暇ナカリキ。然レドモ本職ノ知レル範囲二於テハ、県民ハ、青壮年ノ全
  部ヲ防衛召集二捧ゲ、残ル老幼婦女子ノミガ、相次グ砲爆撃二家屋ト財産ノ全部ヲ焼
  却セラレ、僅二身ヲ以テ軍ノ作戦二差支ナキ場所ノ小防空壕二避難、尚、砲爆撃下ヲ
  サマヨイ、風雨二曝サレツツ、乏シキ生活二甘ジアリタリ。
  而モ、若キ婦人ハ率先、軍二身ヲ捧ゲ、看護婦、炊事婦ハモトヨリ、砲弾運ビ、艇身
  斬込隊スラ申出ルモノアリ。
  所詮、敵来リナバ、老人子供ハ殺サルベク、婦女子ハ後方二連ビ去ラレテ毒牙二供セ
  ラルベシトテ、親子生別レ、娘ヲ軍衛門二捨ツル親アリ。
  看護婦二至リテハ軍移動二際シ、衛生兵既二出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ共二サマ
  ヨウ、真面目二シテ、一時ノ感情二馳セラレタルモノトハ思ハレズ。
  更二、軍二於テ作戦ノ大転換アルヤ、自給自足、夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住民地区ヲ
    指定セラレ、輸送力皆無ノ者黙々トシテ宇宙ヲ移動スルアリ。
  之ヲ要スルニ陸海軍、沖縄ニ進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約ヲ強要セラレ
  テ御奉公ノ一念ヲ胸ニ抱キツツ遂二(解読不明)報ワレルコトナクシテ、本戦闘ノ末
  期ヲ迎エ、沖縄島ハ実状形容スベクモナシ。一木一草、焦土ト化セン。糧食六月一杯
  ヲ支フルノミナリト謂フ。
  沖縄県民、斯ク戦ヘり。
  県民二対シ後世、特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

 この電文が、のちに沖縄県民を泣かせたのである。
 これを、参謀次長と第十方面軍司令官にあてた牛島軍司令官の訣別電報と、比較してみ
る。
 六月十八日、摩文仁の洞窟司令部から打電した、軍司令官の電文はつぎの通りである。

  大命ヲ奉ジ挙軍醜敵撃滅ノ一念二徹シ、勇戦敢闘以後ニ三ヵ月、全軍将兵鬼神ノ奮戦
  力闘二モカカワラズ、陸海空ヲ圧スル敵ノ物量制シ難ク戦局マサ二最後ノ関頭二直面
  セリ。麿下部隊本島進駐以来、現地同胞ノ献身的協力ノモト二鋭意作戦準備二邁進シ
  来タリ。敵ヲ迎ウルニアタッテハ帝国陸海軍航空部隊ト相呼応シ、将兵等シク皇土沖
  縄防衛ノ完壁ヲ期シタルモ、満、不敏不徳ノ致ストコロ事志ト違ヒ、今ヤ沖縄本島ヲ
  敵手二委セントシ、負荷ノ重任ヲ継続スル能ハザル二至レリ。
   上、陛下二対シ奉り、下、国民二対シ、真ニ申訳ナシ。事ココニイタレル以上、残
  存手兵ヲ提ゲ、最後ノ一戦ヲ展開シ、阿修羅トナリテ最後ノ奮戦ヲナサン所存ナルモ、
  唯々重任ヲ果タシエザリシヲ思イ、長恨干歳二尽キルナシ。
  最後ノ決闘二アタリ、スデ二散華セル麿下将兵ノ英霊ト共二皇室ノ弥栄ヲ祈念シ奉り、
  皇軍ノ必勝ヲ確信シツツ、全員アルイハ護國ノ鬼トナリテ敵ノ我ガ本土来冠ヲ破催シ、
  アルイハ神風トナリテ天翔り必勝戦二馳セ参ズベキ所存ナリ。戦雲碧々タル洋上、尚
  小官統率下ノ離島各隊アリ、何卒宜敷ク御指導賜り度、切二御願ヒ申上グ、ココ二従
  来ノ御指導、御懇情ナラビ二作戦協カ二任ゼラレタル各上司ナラビ二各兵団二対シ深
  甚ナル謝意ヲ表ス。ハルヵ二微衷ヲ披歴シ、以テ訣別ノ辞トス。

 右は、整った文章である。しかし、それは、あくまで「儀式の文章」である。それとくらべて、海軍の大田実少将の電文は、文脈が乱れている。しかし、それは文章といったものではない。文章をこえた血の叫びといったようなものである。

 六月十一日、沖縄方面根拠地司令部の七四高地は、包囲攻撃をうけた。
 このとき、大田司令官は、摩文仁の第三十二軍参謀長あてに、「敵後方ヲ撹乱又ハ遊撃戟ヲ遂行ノタメ、相当数ノ将兵ヲ残置ス、右、将来ノタメ一言申シ残ス次第ナリ」と通報している。
 大田司令官は、敵の包囲攻撃をうけた司令部陣地から、遊撃戦を命じて、多数の部下将兵を脱出させたのである。
 これは一見なんでもない処置のようであるが、ここに、大田司令官の面目が躍如としている。「敵後方ヲ撹乱又ハ遊撃戦ヲ遂行ノタメ…」というのは、いちおう筋の通った理由である。だが、「相当数ノ将兵ヲ残置ス」というのが、ほんとの目的である。
 「残置」とは、司令部と一緒に玉砕させずに、兵力を残しておくという意味だが、何の装備もない兵隊を、敵の戦車や銃火器の犠牲にしたり、ただ自決を命じたりする方法をあえて取らなかった、そのための処置である。
 住民の話によると、戦争の末期に、小禄を死守するはずの海軍陸戦隊員が南部戦場に溢れてきた。中には五〇の坂に手のとどく老兵も相当おり、武器を持たないで、海軍用のビスケットを背負袋に一杯詰めていた、ということである。
 つまり、大田司令官の「残置」という処置で、小禄陣地を脱出してきた兵隊で、その大半は現地召集兵であった。
 「右、将来ノタメ一言申シ残ス次第ナリ」とは、これらの兵たちが脱走兵と誤解されないようにとの配慮であったわけだ。それは、敢闘せよ、だが生きられるなら生きよ、という配慮であったと解釈してよいようにおもわれる。
 そして、司令部の中核となる幹部要員だけが、司令部壕で自決を遂げたのである。

 六月十一日夜、大田少将は、牛島司令官あてに、「敵戦車群ハ、我ガ司令部洞窟ヲ攻撃中ナリ、根拠地隊ハ、今十一日二十三時三十分、玉砕ス。従前ノ厚誼ヲ謝シ、貴軍ノ健闘ヲ祈ル」旨、訣別電を打った。
  いま、大田海軍少将とその幕僚たちが自決した豊見城村の海軍壕は、戦跡名所の一つとなって、訪れる人があとを絶たない。                                                                                            (おおた・りょうはく)
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