日本海海戦

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日本海海戦
Admiral Togo on the bridge of Mikasa
連合艦隊旗艦三笠艦橋で指揮をとる東郷平八郎大将
戦争日露戦争
年月日1905年(明治38年)5月27日28日
場所日本海
結果:日本海軍の決定的勝利
交戦勢力
大日本帝国 ロシア帝国
指揮官
東郷平八郎大将 ロジェストヴェンスキー中将
戦力
戦艦4隻
装甲巡洋艦8隻
巡洋艦15隻他全108隻[1]
戦艦8隻
海防戦艦3隻
装甲巡洋艦3隻
巡洋艦6隻他全38隻[2]
損害
水雷艇3隻沈没
戦死117名
戦傷583名
21隻沈没
戦死4,830名
捕虜6,106名
東郷平八郎 (1907年(明治40年))
東郷平八郎 (1907年(明治40年))

日本海海戦(にほんかいかいせん, 1905年5月27日5月28日)は、日露戦争中に日本ロシア帝国との間で戦われた海戦である。

日本以外では一般に対馬海戦(つしまかいせん, Цусимское сражение, Battle of Tsushima)と呼ばれるが、実際の海戦域は対馬沖にとどまるものではなく日本海広域に及ぶ。

日本海軍連合艦隊と、ロシア海軍の第2・第3太平洋艦隊(日本では「バルチック艦隊」の呼び名が定着している)との間で戦われた。日本艦隊の司令官東郷平八郎が採用した丁字戦法などにより、ロシア艦隊は戦力の大半を失い壊滅したが、日本側の損失は軽微で、海戦史上まれな一方的勝利となり、ポーツマス講和会議への道を開いた。後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚愕させ、タイムズ紙など有力紙が確認のため発表を遅滞させるほどであった。

目次

背景

バルチック艦隊

ロシア海軍は日露戦争開戦時に日本海軍の3倍近い戦力を保有していたが、艦隊をバルト海黒海太平洋(および若干をバレンツ海)の各方面に分散させていたため、開戦時に対日戦に投入できたのは旅順およびウラジオストクを母港とする太平洋艦隊(正式には第1太平洋艦隊)のみであった。ロシア指導部は太平洋艦隊のみでは日本艦隊に対抗できないと判断し、バルト海艦隊(バルチック艦隊)から主力艦艇を抽出して極東海域へ増派することを決定した。派遣部隊として、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督を司令長官とし[3]新鋭戦艦5隻を基幹とするバルチック艦隊(正式にはバルト海艦隊から抽出された第2太平洋艦隊)と、ニコライ・ネボガトフ提督を司令長官とする補助艦隊(同じく第3太平洋艦隊)とが編成された。これらの戦力と既存の艦隊とを合わせれば、日本艦隊の2倍の戦力となるので、戦うまでもなく極東海域の制海権を確保できると考えた。

しかし当時、石炭補給が常に必要となる蒸気船からなる大艦隊を、水兵と武器弾薬を満載した戦時編成の状態で、ヨーロッパから東アジアまで回航するのは前代未聞の難事であった。さらに、航路は日本と日英同盟を締結していたイギリスの制海権下にあり、良質な石炭はイギリスが押さえていたため劣悪な質の石炭しか入手できる見込みはなかった。ロシアと露仏同盟を結んでいたフランスや、皇帝同士が姻戚関係にあったドイツ帝国も、日英同盟によって牽制を受け、中立国の立場以上の支援を行うことはできなかった[4]

なお、第2・第3太平洋艦隊はロシアが極東方面に動員できるほぼ全艦艇であり、あとはほとんど、ロンドン条約により黒海を出ることを禁止された黒海艦隊と、遠洋航海不可能な小型艦艇しか残らない。

前哨

ロシア艦隊は大きく2波に分かれてアジアまでたどり着いた。
ロシア艦隊は大きく2波に分かれてアジアまでたどり着いた。
ロシア艦隊は対馬近海で連合艦隊と遭遇し、日本海南西部で撃破された。
ロシア艦隊は対馬近海で連合艦隊と遭遇し、日本海南西部で撃破された。

バルチック艦隊の出航

1904年(明治37年)10月15日、バルチック艦隊はリバウ軍港を出航した。10月21日深夜、バルチック艦隊は北海を航行中にイギリス漁船を日本の水雷艇と誤認して攻撃し、乗組員を殺傷してしまう(ドッガーバンク事件)。これによってイギリスの世論は反露親日へ傾き、イギリス植民地の港へのバルチック艦隊の入港を拒否した。以後バルチック艦隊はイギリス海軍の追尾を受け、これをしばしば日本海軍のものと勘違いして、将兵は神経を消耗させられた。[5]

1905年(明治38年)3月16日、バルチック艦隊はフランス領マダガスカル島のノシベ (Nosy Be) 港を出航した。この時点で旅順要塞は陥落し旅順艦隊は壊滅していたため、日本艦隊に対する圧倒的優位を確保するという当初の回航の目的は達成困難になっていたが、バルチック艦隊はウラジオストクを目的地として航海を続けた。インド洋方面にはロシアの友好国の港は少なく、将兵の疲労は蓄積し、水、食料、石炭の不足に見舞われた。5月9日、第2・第3太平洋艦隊はフランス領インドシナカムラン湾で合流した[5]

連合艦隊の警戒網

日本海軍の連合艦隊は、1904年8月10日黄海海戦でロシア太平洋艦隊主力の旅順艦隊に勝利し、8月14日の蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊にも勝利して、極東海域の制海権を確保した。1905年1月1日には旅順要塞が降伏して旅順艦隊の残存艦艇も壊滅したため、一旦ドック入りさせると共に、入念に射撃訓練を行ない、バルチック艦隊の迎撃に専念できるようになっていた。

問題はバルチック艦隊をどこで捕捉迎撃するかである。カムラン湾からウラジオストクへの航路としては対馬海峡経由、津軽海峡経由、宗谷海峡経由の3箇所があり得た。3箇所すべてに戦力を分散すれば各個撃破されかねず、戦力を集中していずれか1箇所に賭けざるを得なかった。とはいえ、バルチック艦隊が宗谷海峡を通過するためには、距離が遠いため日本本土の太平洋側沖合いで石炭を洋上補給する必要がある。津軽海峡は日本側の機雷による封鎖が厳重になされていた。このようなことから連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、バルチック艦隊は対馬海峡を通過すると予測し主力艦隊を配置するとともに周辺海域に警戒網を敷いた。

通報

5月14日、バルチック艦隊はカムラン湾を出港した。連合艦隊はバルチック艦隊が5月19日バシー海峡を通過したという情報を得たが、以降は所在がつかめなくなった。このときバルチック艦隊は長時間の演習や石炭の積み込み、さらには1隻の機関不調に時間を取られていたのだが、連合艦隊ではバルチック艦隊が太平洋から北海道へ向かった可能性も想定せざるを得なくなり、次第に焦り始めていた。24日に至り、東郷は大本営に対して北海道への移動をほのめかす電報を送っている。大本営は慎重を期す旨の返電を送り、東郷は5月26日正午までに移動すると返電を重ねた。

26日午前零時過ぎ、バルチック艦隊随伴の石炭運搬船6隻が上海に25日夕方に入港したという情報が大本営に飛び込んで来た。運搬船を離脱させたのは、航続距離の長い太平洋ルートを通らないことの証明でもあった。この情報によって連合艦隊は落ち着きを取り戻し、対馬海峡でバルチック艦隊の到着を待った。もし運搬船の上海入港が1日遅れていたら、東郷は艦隊を北海道に向けていたかもしれない[6]

1905年5月27日(海戦1日目)午前2時45分、九州西方海域203号地点にて、艦長成川揆大佐指揮の連合艦隊特務艦隊仮装巡洋艦信濃丸」がバルチック艦隊の病院船「オリョール」の灯火を夜の海上に発見した。接近して無灯火航行中の他の艦を多数確認し、4時45分、第一報にて「敵艦見ユ」を意味するモールス符号による略語「タ」(―・)の連送で始まる「敵艦203地点ニ見ユ0445」を打電した。

「信濃丸」は6時すぎまでバルチック艦隊に同航し敵艦隊が間違いなく対馬海峡を目指している事を確認してから、警戒任務のために近くにいて偵察に駆けつけた巡洋艦和泉」と交代後、敵に発見されることなく離脱した。「和泉」は6時に引き継いでから7時間に渡り敵の位置や方向を無線で通報し続けたが[5]、強力な無線機を積んでいた仮装巡洋艦「ウラル」艦長の妨害電波発信許可伺に対してロジェストヴェンスキーは「日本側の無線を妨害するな」と命令した。日本艦隊はこのために継続的な通報を受けることができた。

戦闘

本日天気晴朗ナレドモ浪高シ

日本海海戦を描いた戦争画
日本海海戦を描いた戦争画

「信濃丸」が夜間に病院船「オリョール」を発見できたのは、ロシア艦隊で1艦だけ「オリョール」が灯火管制を守っていなかったためであった。バルチック艦隊は「信濃丸」が電信で通報していることに気付かず午前五時頃に視認したが「所属不明の商船」として「信濃丸」が離れて行くのを見送った。また、「信濃丸」は夜間とはいえロシア艦隊に並航して観測を行い電波を発射し続けていたが、ロシア艦隊からは発見されなかった[7](当時は無線方位測定器の実用化以前)。

5時05分、連合艦隊全艦艇に出撃が下令された。連合艦隊は大本営に向け「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と打電した。これは、海が荒れて計画していた連繋水雷作戦[8]が行えないので、砲戦主体による戦闘を行うの意とも言われる。また司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』では、天気晴朗=視界良好で砲撃がやり易く、また敵を取り逃がす心配が少ない、浪高シ=艦が大きく揺れてお互い狙いを付け難いが、練度の高い日本軍の方が有利である、即ち総合すると「気象条件は我が方に極めて有利である」という意味であると解説している。

連合艦隊集結

日本の艦隊の夜襲を描いた画
日本の艦隊の夜襲を描いた画

10時には最初に駆けつけた連合艦隊第5・第6戦隊がバルチック艦隊を確認した。ロシア側も、夜明けから日本の「和泉」やその後の第5・第6戦隊を確認していた。11時すぎに旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」の掲げた「和泉」との距離を示す旗旒信号を発砲命令と誤認した後続の諸艦が砲撃を行った。日本側も多少の砲撃を返すが戦闘状態を避けて、常に距離を保った。双方に1発の命中弾もなかった。

日本の第3戦隊の海防艦3艦「厳島」「松島」「橋立」と装甲巡洋艦鎮遠」がバルチック艦隊の前方を横切った。その後、第3戦隊の第4駆逐隊の駆逐艦4艦「朝霧」「村雨」「白雲」「朝潮」がバルチック艦隊の前方を距離を保ったまま横切った。海防艦や駆逐艦側では敵艦隊の正面から方向を測定することで敵針路を正確に掴む、単なる偵察行動だったが、針路の前方海域に機雷が撒かれた場合の危険を避ける為、ロシア艦隊は回避運動に入った(他説あり。ただし日本側は連携水雷作戦を考案しており、あながち間違った判断ではない)。ロジェストヴェンスキーは戦後、「和泉」などが見えなくなった隙に第1・第2戦艦隊を一列横陣に展開しようとしたが第3戦隊が接近してきたためその命令を途中で取り消した、と述べている。しかし、この時の艦隊運動がバラバラで、もともと2列縦隊であった隊列はいつのまにか3列縦隊となり巡洋艦部隊は後方に遅れた。後日、日本の主力艦隊の多くの水兵はロシア艦隊を初めて見たときの印象を「敵はダンゴでやってきた」と語っている[7]

皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ

11時42分、第7戦隊も沖ノ島沖でバルチック艦隊を確認し、その後、友軍と合流した。13時15分からは、第3戦隊旗艦「笠置」をはじめ、バルチック艦隊に同航して敵所在を通報していた日本艦が列をなして第1・第2戦隊に合流しはじめた。

13時39分、連合艦隊主力の第1・第2戦隊もバルチック艦隊を左舷南方に視認し、戦闘旗を掲揚して戦闘開始を命令した。13時55分、東郷は連合艦隊旗艦「三笠」へのZ旗の掲揚を指示した。この時連合艦隊が使用していた信号簿ではZ旗は「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていた[9]

14時02分、針路を南西にとる連合艦隊と針路を北東にとるバルチック艦隊は反航路(平行すれ違い)上につく。14時03分、両艦隊の距離は11,000mまで接近する。距離8,500mで「どちら側でなさるのですか」と「三笠」砲術長の安保清種が砲戦の射撃準備を右舷とするのか、左舷とするのかを東郷にたずねた。距離8,000m、東郷は右手を高く挙げ、左へ半円を描くように示し、先頭をいく旗艦「三笠」は大きく左舷取舵を開始した。敵前大回頭、いわゆる「丁字戦法」「トーゴー・ターン」の開始であった[5]

敵前大回頭

T字による攻撃
T字による攻撃

この時代の軍艦は砲の多くが舷側に並んでいるので横方向に砲撃できれば前後方向より多数の砲が使用できた[10]。縦隊でまっすぐ進む敵艦隊に対して、その進路を横にふさぐ形、丁の字(あるいはT字)に似た体勢を形成できれば、敵の後続艦がまだ遠いうちに、敵先頭艦が前を向いている状態で味方の全艦艇の側方から先頭艦へ攻撃を浴びせることが出来るため、圧倒的に有利な形勢となる。この戦法自体は海戦の定石として古くから知られていた[11]が、敵艦隊もそのような形を避けようとする事と、交戦時間の経過に伴い相対的位置関係がずれてゆく(陸軍と違い、艦隊は絶えず航行している為)ため、実際に丁字を描くのは不可能に近いと言われていた[5]

東郷と秋山真之参謀は黄海海戦の教訓と試行錯誤の末、一つの結論に達していた。それは「敵艦隊の先頭を我が艦隊が押さえなければ、逃げる敵との砲撃戦は成立しない」という事実である[12]。その解決策として考案されたのが連携水雷作戦(敵艦隊に機雷源への突入か砲撃戦かの選択を強いる)である。しかし決戦当日は荒天となり、その使用は不可能となった。そこで次善の策として、敵前逐次回頭という敵の盲点を衝く事と、日本艦隊の優速を活かした強引な丁の字を形成する方法だった。[13]しかし当時の海戦の常識から見れば、敵前での回頭は艦を危険に晒す暴挙であった。「三笠」の回頭を目の当たりにしたバルチック艦隊の将兵は「東郷は狂ったのかと思った」「勝利を確信して喜びあった」という。[14]

14時05分、先頭艦の「三笠」に続き戦艦「敷島」も取舵一杯、後続艦も順次回頭を開始する。

14時07分、距離7,000mでバルチック艦隊が砲撃を開始し、先頭の「三笠」に攻撃を集中してきたため、三番砲塔を打ち抜かれるなど、後続の全ての艦が回頭を完了するまでに16発の命中弾を受けた。

14時10分、距離6,400m。日本の連合艦隊の第一戦艦戦隊は回頭を完了し、右舷側にバルチック艦隊の30隻以上が見渡せた。連合艦隊は回頭を完了した艦からバルチック艦隊の先頭の第1戦艦隊旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」と第2戦艦隊旗艦「オスリャービャ」に対して榴弾による一斉砲撃を開始する。「クニャージ・スヴォーロフ」に向けられた「三笠」の試射1射目は目標を飛び越えて海面で炸裂した。2射目は手前の海面を波立たせた。3射目が「クニャージ・スヴォーロフ」の前部煙突を吹き飛ばし、続く砲弾は司令塔の覗き窓に飛び込んで半数即死、半数を負傷させた。日本側も被害が出始めた。第2戦隊の装甲巡洋艦「浅間」が舵機を損傷して戦列から離れた。

14時17分、連合艦隊の砲弾がバルチック艦隊先頭の2艦に多数命中し、「オスリャービャ」と「クニャージ・スヴォーロフ」で火災が発生する。14時35分、連合艦隊は東南東に転針、バルチック艦隊のウラジオストックへの進路を完全に遮蔽していた。バルチック艦隊の速度15ノットに対して日本の艦隊は18ノットであった。この間にも連合艦隊の砲弾は着実にバルチック艦隊各艦をとらえ、14時43分、「クニャージ・スヴォーロフ」と「オスリャービャ」は甲板上や艦内の各所で火災を起こしながら戦列から離脱した。「クニャージ・スヴォーロフ」は12ノットながらまだ航行してたが、再び司令塔内に砲弾が飛び込み、2発目の戦闘は不可能であった。「オスリャービャ」は更に悲惨な状況にあり、14時50分には大火災を起こしながら沈没した。日本の主力戦艦の30.5cm砲は、ロシア艦隊との距離が3,000mを切った段階で鐵鋼榴弾から徹甲弾に切り替えた[7][5]

この決定的な30分間の砲戦で、海戦の大勢は決した。

クニャージ・スヴォーロフの北上以後の状況
クニャージ・スヴォーロフの北上以後の状況

追撃戦

14時50分、「クニャージ・スヴォーロフ」は突然北へ回頭した。日本の砲弾が後部へ命中し、が損傷したために自由な操船が妨げられた結果であったが、東郷、秋山ら「三笠」の首脳はこれを北へ逃げようとしている行動と判断し、後を追わせた。東郷にとっては、この海戦で下した唯一の誤った判断であった。

「クニャージ・スヴォーロフ」に続くロシアの2番艦、戦艦「アレクサンドル3世」の艦長ブフウオトフ大佐はただちに「クニャージ・スヴォーロフ」の舵の故障を見抜いて艦隊旗艦を追わず、結果として後続の全てのロシア艦は「アレクサンドル3世」に続いて進路を南東方向に保持したままであった。ロシア艦隊の頭を押さえにかかっていた日本の第1戦隊が「クニャージ・スヴォーロフ」を追って北へ転進したため、ロシア艦隊の前方に障害がなくなり、ウラジオストクへ逃げ込めると安堵しはじめた。

しかしその頃、第2戦隊旗艦「出雲」では、参謀の佐藤鉄太郎中佐が即座に「クニャージ・スヴォーロフ」の舵が故障をしたと判断し「スワロフ(= スヴォーロフ)に旗が揚がってません。あれは舵の故障です」と司令長官の上村彦之丞中将に進言した。「間違いないか」「間違いありません」佐藤の迷いのない答えに上村も決断を下し、東郷の「三笠」からの「左八点一斉回頭」(左へ90度回頭せよ)という旗による命令に反して、「我に続け」の信号旗を出して、第2戦隊はロシア艦隊への猛追撃を開始した。巡洋艦中心の第二艦隊が、戦艦中心のロシア艦隊に突撃するという猛将上村提督の名に相応しい前代未聞の作戦といわれるが、そこには、俊才といわれた佐藤参謀の冷静な判断があった。

上村の指揮の下で第2艦隊は東郷の第1戦隊とは別行動をとって東南東へ進むロシア艦隊を追って敵の東側目指して針路をとり、やがて、戦艦「インペラートル・アレクサンドル3世」の前へ回り込むことに成功した。上村の第2戦隊は、この時「浅間」が舵の故障で欠けていたため、ほとんど無傷の装甲巡洋艦5隻で構成され、20ノットの高速航行が可能であったが20.3cmの砲が最大であり、ロシア艦隊は傷を負いながらも30.5cmの主砲を備える6隻の戦艦が健在で他にも多数の艦があり、通常なら戦いを挑む状況ではなかった。3,000mに距離を詰めると双方の砲撃戦が始まり、たちまち第2戦艦隊の先頭にあった戦艦「シソイ・ヴェリキー」が猛火に包まれ戦線から離脱した。「クニャージ・スヴォーロフ」に代わってロシア艦隊を率いていた戦艦「インペラートル・アレクサンドル3世」も浸水によって艦が傾き戦線から離脱した。

すでにロシア艦隊は統一のとれた艦隊運動が行なえる状態になく、「インペラートル・アレクサンドル3世」が戦線から脱落したことで艦隊の先頭になった戦艦「ボロジノ」艦長セレブレーンニコフ大佐は、日本の第2戦隊との戦闘を避けるべく、左回頭によって第2戦隊の後ろから北へ向かう針路を選んだ。上村の第2戦隊もロシア艦隊を追って北へ転じた。この決断によって、先の東郷の誤った判断が偶然にもこの後で良い結果をもたらすことになる[5]。3時7分、戦艦「オスリャービャ」撃沈。ロシアの駆逐艦2艦が海面上の乗員を救助する間、日本艦隊からは1発の砲弾も撃たれなかった[7][5]

挟撃

日本の第1戦隊と第2戦隊による挟撃
日本の第1戦隊と第2戦隊による挟撃
逃走するロシア残存艦隊
逃走するロシア残存艦隊

舵を損傷した戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」を追っていた日本の第1戦隊は、ロシア戦艦1艦のみが北上しているだけなのですぐに間違いに気付いたが、すでにロシア艦隊は南東に遠く去っており、その方向に探しながら戻って来ていたところ、15時58分、偶然「ボロジノ」など逃走中のバルチック艦隊と鉢合わせして、東から追いかける第2戦隊と思いがけず挟撃する形になった(「乙字戦法」)[7]。この時の艦隊運動を見ていたロシア海軍士官は、「日本艦隊の艦隊運動はまさに神のごとくであった。」と語っている。

日本の2つの艦隊はバルチック艦隊を取り囲んで砲撃を加えた。もし第2戦隊も「三笠」の首脳と同じ判断をしていたら黄海海戦のときのようにロシア艦隊を取り逃がしていた可能性もあった。

日本の第1戦隊は距離6,500mでロシア艦隊に向け30.5cm砲を斉射した。第2戦隊はロシア艦隊のあまりの煙に30分間ほど、敵艦隊を見失ったが追いついて、左から回り込みを図りながら攻撃を加え続けた[7]。ロシア艦隊は、隊列を乱しながらもなお反撃しつつウラジオストックへ逃げ込む隙を探していた。ロシア艦隊は北へ針路をとり、東郷も第1戦隊に対し横陣形で北へ向かった。ロシア艦隊は南へ針路をとり、東郷もこれに合わせた。こういった艦隊運動と砲撃戦によって、時間と共にロシア艦隊は傷つき、戦艦「ボロジノ」を含め少しずつ艦を海中に失っていった。両軍は一旦離れた後に18時に再接近するがもはや日没であった。東郷は戦艦と巡洋艦による砲撃戦の中止を決定し、19時10分、主力艦への攻撃中止命令と鬱陵島への集結が命令された。主力艦による砲戦に代わり、21隻の駆逐艦と40艇の水雷艇に対し夜襲による攻撃命令が出された[5]

夜間戦闘

昼間戦闘の主力であった第1戦隊と第2戦隊は、戦闘海域の北東の鬱陵島沖合いに移動したころ、駆逐艦と水雷艇は敵艦を探して夜の海に散っていった。まず、戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」が4艇の水雷艇によって撃沈された。これで当初5隻あったロシアの最新鋭戦艦の4隻が失われた。

夜間攻撃は昼間とは違った危険がある。日本の駆逐艦「夕霧」と「春雨」は衝突事故を起こして共に小破し、他に水雷艇同士の2件の衝突事故で1艇を失っている。

バルチック艦隊司令官のロジェストヴェンスキー中将は旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」の艦上で負傷し、5月27日17時30分に駆逐艦「ブイヌイ」に移乗したが、艦尾に砲弾を受け破損の激しい「ブイヌイ」から更に駆逐艦「ベドヴイ」に再び移乗した。「ベドヴイ」と随行の駆逐艦「グローズヌイ」は日本の駆逐艦「漣(さざなみ)」と駆逐艦「陽炎」に発見・攻撃されたが、反撃せずに全速で逃亡を試みた。日本の駆逐艦は30ノットで追撃したのに対し、ロシア側は26ノットであり砲撃を避けられなかった為、「ベドヴイ」は機関を停止して降伏した。このため、「漣」は直ちに伊藤伊右衛門中尉および准士官以下7名の捕獲要員を送り込み、5月28日16時45分に「ベドヴイ」をロジェストヴェンスキー司令官とともに捕獲した[15]。「グローズヌイ」は逃走に成功し、数少ないウラジオストック到着組の1つとなった。「ベドヴイ」はこの海戦後、ロジェストヴェンスキー中将と幕僚ごと佐世保に曳航された[5]

19時03分、戦艦「インペラートル・アレクサンドル3世」撃沈。バルチック艦隊の第1・第2戦艦隊は壊滅し、ロシアの第1・第2戦隊でウラジオストクまで到着したのは巡洋艦「アルマース (巡洋艦)」と駆逐艦が2艦のみであった。20時20分、第3・第4駆逐隊の雷撃によって装甲巡洋艦「アドミラル・ナヒーモフ」が撃沈。

21時05分、第4駆逐隊司令の鈴木貫太郎は、連繋機雷作戦を用いて戦艦「ナヴァリン」を葬り、22時15分、戦艦「シソイ・ヴェリーキー」を雷撃によって大破させた。6時間半の夜間戦闘で50本の魚雷が放たれ6本が命中した[7]

ロシア第3戦艦隊

一夜明けた5月28日の朝、すでに第1・第2戦隊は実質的に消滅しており、ロシア艦隊はネボガトフ少将率いる第3戦艦隊のみとなっていた。第3戦艦隊は1世代古い旧式戦艦「インペラートル・ニコライ1世」を旗艦に旧式の装甲海防艦「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」「アドミラル・セニャーヴィン」「アドミラル・ウシャーコフ」で構成されていた。

日本の連合艦隊は夜間は鬱陵島に待機していたが、夜明けと共に索敵と攻撃のために日本海に展開していった。

連合艦隊の第3戦艦隊は、ネボガトフの乗艦「インペラートル・ニコライ1世」以下のバルチック艦隊第3戦艦隊を視認し第1・2戦隊に通報して遠巻きに待機していた。日本の第3戦隊はロシア第3戦艦隊に負けず劣らず旧式の艦で構成されており、しかも旧式巡洋艦で編成されていたため、強力な第1・2戦隊を待っていたのである。やがて第2戦隊が到着したがさらに第1戦隊を待っていた。

9時30分、第1戦隊も到着し日本の連合艦隊の主力艦は勢ぞろいした。ロシア側も第1戦艦隊の生き残りの戦艦「オリョール」は夜を徹しての復旧により戦闘可能なまでの状態となり、「インペラートル・ニコライ1世」は無傷であったため、戦闘となれば日本側にもそれなりの出血を強いる事は出来た[5]。ただし、このときオリョールに乗艦していたアレクセイ・ノビコフ=プリボイは「大砲は使えてもダメージで照準器が無茶苦茶に狂っており、まともな状況でも歯が立たなかった日本艦隊相手に戦えるような状態ではない」と否定的である。

降伏・戦闘終結

10時34分、ネボガトフの指示により「インペラートル・ニコライ1世」は白い旗を掲揚し降伏の意を示したが、戦時国際法で必要な機関停止をしていなかったため、連合艦隊は8,000mの距離で砲撃を開始した。しばらく遠距離からの威嚇砲撃が続いたが、10時53分にネボガトフも機関を停止しなければならないことに気づき、機関は停止された。日本側もこれによって砲撃を中止した。戦艦「インペラートル・ニコライ1世」とともに戦艦「オリョール」、巡洋艦「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」、巡洋艦「アドミラル・セニャーヴィン」はすべて降伏し、日本側は5隻を接収した[5]。この頃他の海域では夜戦によって大破していた「シソイ・ヴェリーキー」が沈没した[7]

影響

撃破されたロシア戦艦と退避する搭乗員を描いた画
撃破されたロシア戦艦と退避する搭乗員を描いた画
中立国アメリカ領のマニラ湾へ逃げ込んだ防護巡洋艦オレークの被害
中立国アメリカ領のマニラ湾へ逃げ込んだ防護巡洋艦オレークの被害

バルチック艦隊は戦力の大半を一回の海戦で失った。損害は被撃沈16隻(戦艦6隻、他10隻)、自沈5隻、被拿捕6隻。他に6隻が中立国へ逃亡し、ウラジオストクへ到達したのは3隻(巡洋艦「アルマース」、駆逐艦「ブラーヴイ」、駆逐艦「グローズヌイ」)のみであった。兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,106名であり、捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれていた。日本側の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名と軽微であり、大艦隊同士の艦隊決戦としては史上稀に見る一方的勝利となった[5]

当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせた。また海戦の結果、極東海域における日本海軍の制海権が確定した。ロシア軍にとっては、満州で対峙する日本軍の補給を断つことで戦争に勝利できる可能性が消滅した。1905年3月の奉天会戦ロシア陸軍主力の撃滅に失敗した日本にとって、海戦での決定的勝利は和平交渉の糸口となり、ポーツマス講和会議への道を開くことになる。

ロシア側の6,000名以上の捕虜は、多くが乗艦の沈没により海に投げ出されたが、日本軍の救助活動によって救命された。また対馬や日本海沿岸に流れ着いたものも多く、各地の住民に保護された。当時の日本は戦時国際法に忠実であり、国際社会に日本は文明国であるとアピールするためにも戦時法遵守が末端の小艇の水兵にまで徹底されていた。ロシア兵捕虜は、日本国民が戦時財政下の困窮に耐える中、十分な治療と食事を与えられ、健康を回復し帰国した。軍法会議での処罰を恐れる士官は日本にとどまることもできた。日本の戦時国際法の遵守は世界各国から賞賛が寄せられた[16]

ロジェストヴェンスキー長崎県佐世保市海軍病院に収容され、東郷の見舞いを受けた。東郷は軍服ではなく白いシャツという平服姿であった。病室にはいるとロジェストヴェンスキーを見下ろす形にならないよう、枕元の椅子にこしかけ、顔を近づけて様子を気づかいながらゆっくり話し始めた。この時、極端な寡黙で知られる東郷が、付き添い将校が驚くほどに言葉を尽くし、苦難の大航海を成功させたにもかかわらず惨敗を喫した敗軍の提督をねぎらった。ロジェストヴェンスキーは「敗れた相手が閣下であったことが、私の最大の慰めです」と述べ、涙を流した。ロジェストヴェンスキーは回復して帰国し、1906年軍法会議にかけられたが、戦闘中に重傷を負い指揮権を持っていなかったとして、無罪となり60歳まで生きた。

日本では、5月27日海軍記念日に制定された。海軍記念日は1945年を最後に廃止されたが、現在でも日本海海戦記念式典が毎年開催されている。2005年5月には対馬市横須賀市などでそれぞれ日本海海戦100周年記念の式典や大会が開催され、対馬市では海戦後初の合同慰霊祭が行われた。

バルチック艦隊の敗因

長途の航海

バルチック艦隊は33,340キロもの長大な距離を1904年10月15日から1905年5月27日まで半年以上航海を続けた。初めての東洋の海への不安、旅順艦隊を撃破した日本海軍への恐れは水兵の間に潜在的にまん延していた。カムラン湾出航後はウラジオストクまで寄港できる港がないことから、各艦は石炭を始め大量の補給物質を積み込んでいた。このためただでさえ実際の排水量が設計上の排水量をかなり超過しているロシア戦艦は更に排水量が増えてしまい、舷側装甲帯の水線上高さの減少や、復原力の低下につながり、日本海海戦における各戦艦のあっけない沈没の大きな要因となった。

長期の航海では船底についたフジツボが船足を落とす。当時の軍艦は2か月に1回程度は船底の貝を落としていた。これは本格的にはドックに入らなければできない作業であったから、長い航海の間にバルチック艦隊は徐々に最高速度を落としていった。

また、燃料の石炭も十分な無煙炭を確保できなかった結果、艦自体のスピードの低下や、もうもうと吐く黒煙によって艦隊の位置を知らせてしまった。

編制・装備

当時のロシア社会は、貴族の上級士官が庶民の水兵を支配するという構造的問題を抱えていた。上官と兵士ではなく、主人と奴隷のような関係の軍隊は、ときに対立や非効率を産んだ。水兵の中にもロシア革命にも繋がる自由思想の芽が育ち始めた時期で、無能な高級士官への反発が戦う意義への疑問を産み、士気を削いでいた。結果、サボタージュが頻繁に見られた。

ロシア海軍の水兵の内、優秀な者は太平洋艦隊と黒海艦隊に集められており、バルチック艦隊の水兵の質は最も低かった。航海前に多くの新水兵を乗せたが、マダガスカルでの長期滞在中など、十分に戦闘訓練を行ったものの目的が明らかでなく「訓練のための訓練」となってしまって実戦に有効でなかった。

バルチック艦隊主力のボロジノ級戦艦の中には、完工しておらず工員を乗せたまま出港した艦もあった。ロシア艦は家具調度品や石炭などの可燃物を多く積んでいた。当時の艦艇は木造部分が多く、浸水よりも火災で戦闘不能になることが多かった[5]。鹵獲されたものの沈没は免れた戦艦「オリョール」では乗員達が自主的に木製家具の処分などを行ったが、撃沈された戦艦「アレクサンドル3世」などでは「居心地が悪くなる」などの理由で木製品の処分が行われずそれが明暗を分けたとも考えられる[17]

指揮統率

バルチック艦隊司令部は長い航海の終わりに疲れきった状態での戦闘を避けるべく、終始、守勢の行動をとった。また、ウラジオストクに一目散に逃げ込んで、十分な休養の後、日本艦隊と対峙しようという考えも、決戦の勢いを鈍らせた。結果、自艦隊に有利な状況での先制攻撃の決心を欠き、チャンスを生かせなかった。ロジェストヴェンスキー提督が規律を重んじすぎる性格で、各艦の勝手な発砲に過敏なほど嫌悪感を示した影響も大きい[5]

後年、東郷は緒戦でロシア艦隊の隊形の不備を指摘して「ロシアの艦隊が小短縦陣(2列縦列)で来たのが間違いの元だったのさ、力の弱い第二戦艦隊がこちら側にいたから、敵が展開を終えるまでに散々これを傷めた。あのときもし、単縦陣で来られたらああは易々とならなかったろう」と述べている。[18]

気象

海戦当日の気象は、「天気晴朗ナレドモ浪高シ」とあるように、風が強く波が高く、東郷らの回り込みによって風下に立たされたバルチック艦隊は、向かい風のために砲撃の命中率がさらに低くなった。喫水線を高く設計したロシアの艦艇は、波が高いと無防備の喫水線以下をさらけ出すことになり、[19]魚雷1発だけで撃沈された。さらにこの構造は波高の時は転覆しやすかった[5]

連合艦隊の勝因

日英同盟

日英同盟の恩恵として、ロシアの同盟国フランスは事あるごとに英国の干渉を受けたため、局外中立を堅持せざるを得なくなり、バルチック艦隊はフランス植民地の港湾での本格的支援を受けることができなかった。一方日本はイギリスからバルチック艦隊の行動に関する情報を随時入手することができた。さらに、イギリス製の新型射撃盤、最新型の三六式無線電信機など、当時最新の軍事技術を利用することができた[5]

指揮統率

東郷平八郎は、指揮能力、統率能力も秀でていた。最前線で敵の動向に瞬時に対応する陣頭指揮を行いつつ、幕僚を戦艦「三笠」で最も安全な場所に移動させ、自らの戦死の後の指揮をも保障するなどの繊細な指揮をとった。東郷は旅順封鎖の期間中も演習を行い、十分に艦隊の練度を挙げていた。直前の黄海海戦などの戦闘経験と、その勝利によって士気が高かった。また、黄海海戦の教訓を十分に活かした。複数の艦を同時に自由に反転させるなどの様々な艦隊運動を思いのままに行うことが出来た。このため、逃げ回るバルチック艦隊の風上に常に回りこみ、見事な艦隊を維持しながら、猛烈な砲撃を加え続けることができた。

日本連合艦隊は煤煙が一筋になって見えるくらい的確な単縦陣を作っており、先頭の艦が取り舵をとると、それに続く艦船も見事に後についていく。バルチック艦隊のロジェストヴェンスキー長官は、そのあまりに素晴らしい艦隊行動に、先ほどまでの自軍のだらしない艦隊行動を恥じたと言われる。

参謀による作戦の実施

連合艦隊司令部は第1艦隊参謀秋山真之、第2艦隊参謀佐藤鉄太郎を参謀に擁し、上層部もその意見をよく重用しつつ、組織的、有機的に、最善の判断を行うよう常に努力した。また、各艦隊司令官・各艦艦長は必要に応じて独自の判断で行動する高い能力を持ち、高速巡洋艦からなる第2艦隊には猛将といわれた上村提督が任命されるなど適材が適所に配属されていた。

バルチック艦隊の旗艦の急転回に対し、東郷司令長官が判断を誤ったため、第1艦隊はバルチック艦隊を逃がしてしまう。この時、佐藤参謀がその判断が誤りであることを見抜き、第2艦隊がその高速性を生かしてバルチック艦隊を猛追撃し、戦艦相手に至近距離での砲撃戦を行い、第1艦隊の方向へバルチック艦隊を追い込み、結果的に挟み撃ちに持ち込んだことが海戦の完全勝利を確定させた[5]

戦術

ネットワーク中心の戦い

ネットワーク中心の戦い (Network-centric warfare, NCW) は、アメリカ国防総省を中心に唱えられている最新の軍事ドクトリンの1つであるが、その実現による世界最初の大勝利が日本海海戦とする意見[20]もある。

得られた情報を速やかに司令部に集め、優れた通信網を利用して、全軍を効率的に配置・動員し、敵軍に猛烈な集中攻撃を加える戦法であり、少ない軍で大軍を破ることも可能とされる。連合艦隊は、東京の大本営と電信通信可能な港に全軍を集め、バルチック艦隊の進路を完全に把握した上で海戦を挑み大勝利を得た。情報戦が重要であることを見抜き、海底ケーブルなどを周到に準備していた児玉源太郎の功績は大きい。

画期的な哨戒作戦

秋山真之参謀が立てた哨戒計画。バルチック艦隊を出来るだけはやく発見し、連合艦隊が出来るだけ有利に艦隊決戦を行うために、世界初の画期的な哨戒を行った。済州島佐世保港を線で結び、それを一辺として正方形を描き、その正方形の中を碁盤の目のように細かく分画し、 その一つひとつに哨戒用の艦艇を配置し、水も漏らさぬ監視を行った。軍籍船舶以外にも漁船まで動員した哨戒艦船73隻で行った。

七段構えの戦法

秋山真之参謀が立てたバルチック艦隊を全滅させるための周到な迎撃作戦計画。「天気晴朗なれども波高し」の電報で、大本営は、第一段が行われないことを理解した。実際には、第二段と第三段のみでバルチック艦隊を殲滅した。

第一段
主力決戦前夜、駆逐艦・水雷艇隊の全力で、敵主力部隊を奇襲雷撃
第二段
わが艦隊の全力をあげて、敵主力部隊を砲雷撃により決戦。丁字戦法が行われた。
第三・四段
昼間決戦のあった夜、再び駆逐隊・水雷艇隊の全力で、敵艦隊を奇襲雷撃。高速近距離射法が行われた。
第五・六段
夜明け後、わが艦隊の主力を中心とする兵力で、徹底的に追撃し、砲雷撃により撃滅
第七段
第六段までに残った敵艦を、事前に敷設したウラジオストック港の機雷原に追い込んで撃滅

丁字戦法

連合艦隊は秋山参謀と東郷司令官の一致した意見によって、丁字戦法を採用した。実際の進展は次のようなものだった。

  1. 敵艦隊に対して平行にすれ違う航路(反航)をとる
  2. すれ違い直前で敵前回頭を行う
  3. 自艦隊の足の速さを頼りに敵艦隊の先頭に対して斜め後方から敵進路を遮蔽する(このため、実際には「丁」より「イ」に近い形になる)

当時の海戦の常識から見れば、敵前での回頭(しかも2分あまりを費やしての160度もの回頭)は危険な行為であった。実際、回頭中はともかく、追撃中は旗艦であり先頭艦であった三笠は敵の集中攻撃に晒されており、被弾数48発の内40発が右舷に集中しており、帰還時の三笠は、突き刺さった砲弾の重みだけで、かなり右舷側に傾いていたという。しかし、一見冒険とも思える大回頭の2分間には、日本海軍の緻密な計算と英断が込められていた。それは次のようなようなものである。

  1. たしかに連合艦隊は2分間余り無力になるが、敵も連合艦隊が回頭中はその将来位置が特定できず、バルチック艦隊側も砲撃ができない(実際、三笠が回頭を終えた後に発砲してきている)。
  2. 当時は照準計の精度が悪く、第1弾が艦橋や主砲などの主要部に1発で命中することはごく稀であった。
  3. そのため、第1弾の着弾位置(水柱)から照準を修正して、第2弾からの命中を狙うことが多かった。しかしバルチック艦隊が使用していた黒色火薬は、発砲後にその猛烈な爆煙によって視界が覆われ、煙が晴れて第2弾を放つまでに時間がかかる。すなわち回頭中に第2弾は飛来しないか、慌てて撃つため命中精度が極めて低い。
  4. バルチック艦隊は当然旗艦である三笠を集中砲撃するが、東郷としては最新鋭で最も装甲の厚い三笠に被弾を集中させ、他艦に被害が及ばないことを狙った[5]。万一三笠が大破し、自らが戦死してでも丁字の状態を完成させることを最優先とした。東郷は砲弾飛び交う中、艦橋を一歩も動かなかった。

また、前述の旅順封鎖中などの艦隊訓練により東郷は、各艦の速度・回頭の速さなどの、いわゆる「癖」を見抜いており、これが敵前大回頭を始める位置を決めるのに役立った。

常識にとらわれず、合理的に勝利を追求した結果、丁字戦法を成功させた。敵艦隊に対する十分な分析と、有効射程範囲のギリギリの所を見極めて「トーゴー・ターン」を決めた東郷の采配は、連合艦隊を勝利へと導いた。

高速近距離射法

第五駆逐隊司令の鈴木貫太郎中佐が行った、駆逐艦や魚雷艇で敵艦にぎりぎりまで全力で接近して行う必死の魚雷夜間攻撃法。探照灯で照らし出され、猛烈な砲火を浴びせられながら、攻撃する夜戦法で、暗闇が前提なため味方同士が衝突事故を起こす危険があり、実現するために、猛訓練を行った。その結果、戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」、「シソイ・ヴェリーキー」、「ナヴァリン」、装甲巡洋艦「アドミラル・ナヒーモフ」、「ウラジミール・モノマフ」を一夜で撃沈するなど大戦果を挙げ、バルチック艦隊にとどめの大打撃を与えた。遠距離からの魚雷攻撃が当たり前だった当時の魚雷戦術に衝撃をもたらした新戦法。

発射速度

連合艦隊は大口径砲の門数で劣っていたため射撃精度とともに速射も重視していた。

連合艦隊は発砲しても煙が少なく視界が遮られないので速射に有利なコルダイト硝酸エステル無煙火薬)を英国より輸入し、また訓練の成果により発射速度においてバルチック艦隊を上回った。一方、バルチック艦隊の戦艦の主砲は新型砲塔を搭載していた戦艦「クニャージ・スヴォーロフ」の物を除いて砲塔の構造上の問題などから発射速度が遅く、遠距離砲戦で命中弾を期待するのは非常に難しかった。また旧式艦の一部は褐色火薬を発射薬に使用していたために黒煙によって視界が遮られ、さらに発射速度が遅くなった。

斉射戦術

日露戦争以前の砲戦では各砲が勝手に発砲していた。この方法は砲が小さく射程が短い時代は有効であったが、砲が大型化し射程が伸びるにつれて、着弾が判りにくいこと、発射の衝撃で船体が揺れ照準が狂うこと、弾着までの目標の移動による射撃諸元の算出困難などの問題が生じていた。

日露戦争で日露両海軍は、艦橋から射撃諸元(目標方位、苗頭、仰角)と発砲命令を射撃通信用の電気式通信装置で伝えて砲撃を行った。しかし訓練不足の上に指揮を執るべき砲術士官が次々に戦死、負傷した[21]ため従来どおりの砲戦指揮(独立撃ち方)を用いざるを得ない事態となったバルチック艦隊に比して、連合艦隊は事前の訓練の成果もあって高い命中率を記録した。

なお、全砲統制下による斉射戦術が行われたとよく述べられるが当時の射撃指揮装置では前後の主砲塔の砲撃のタイミングを合わせることは不可能である。もちろん砲塔毎に砲撃のタイミングを合わせる斉射は行われたが、砲塔の技術上の問題により斉射を行うと著しく発射速度が落ちることとなるので近接していて命中が確実な場合以外は絶対に行ってはならないとなっていた。[22]

一方バルチック艦隊では、前述の通り従来どおりの砲戦指揮(独立撃ち方)を用いざるを得ず、さらに旧式戦艦などは黒色火薬による黒煙によって視界が遮られ砲側観測が満足に行なえなかった。このため正確さを欠いたままの連続射撃しか行なえず低い命中率に止まった。なお、日露戦争の直後にイギリスで、斉射戦術に特化した新型戦艦ドレッドノートが開発される[5]

艦隊編成

連合艦隊は常に速力・火力が同じ2隻が1組となって敵と対峙し、2対1の優位な状態で戦えるようにしていた。連合艦隊は同種の艦をグループにまとめるように留意しており、第1艦隊は砲戦力、第2艦隊は機動力、第3艦隊は旧式艦としてはっきり運用の仕方を分けていた。このため、艦隊運動による効率的な攻撃、追撃、退避が可能になり、バルチック艦隊を逃さない徹底的な追撃戦を行えた。バルチック艦隊は速力の速い艦と遅い艦が混在した艦隊編成をとっていた[5]

新技術

伊集院信管

当時の艦砲は徹甲弾であっても威力が小さく敵艦の装甲を貫通できないことが多かった。榴弾信管に問題があり、敵艦に命中しても爆発しない不発弾が多かった。連合艦隊は徹甲弾による装甲の貫通よりも榴弾による上部構造の破壊を狙い、信管に伊集院五郎少将の開発した伊集院信管を採用した。この信管は鋭敏で、ロシア艦の装甲面で破裂した砲弾は下瀬火薬の特性によって火災を発生させ、上部構造を殲滅し無力化させた。

ロシアの砲弾は徹甲弾なので、煙突などに当たると穴をあけてそのまま突き抜け反対側の海中に落下する。しかし日本の砲弾は瞬発式で、ロープに当たってもその場で破裂したと言われるほど鋭敏に起爆し、下瀬火薬の猛烈な爆速で、何もかも粉々になぎ倒したうえ、その高温で火の海にしたのである[5]。ロシア艦隊に下瀬火薬の豪雨を一方的に浴びせたことが、ワンサイドゲームの一因とされる。またロシアの砲弾は高初速軽量弾であったため遠距離の砲戦となると威力が著しく減衰した。

ただ、伊集院信管はあまりに鋭敏なため、膅発事故の原因と疑われることもあった。「膅発」とは、連続射撃を経た砲身が赤熱することによって、発射時に砲弾が砲身内で爆発する事故で、第一次世界大戦直前に防止装置が発明されるまでは発生確率は高かった[5]。日本海海戦では「三笠」、「日進」、「オリョール」で膅発が発生した。後の連合艦隊司令長官山本五十六(当時は高野姓)は少尉候補生として「日進」に乗り組んで海戦に参加したが、この膅発に巻き込まれ、左手の指2本と右足の肉塊6を削ぎ取られる重傷を負った。

下瀬火薬

連合艦隊は砲弾の炸薬に下瀬火薬を導入した。これは当時炸薬の主流であった黒色火薬より爆速がすさまじく速く、命中時の破壊規模は当時の火薬常識を大きく超え、ロシア艦の構造物は粉々に破壊された。下瀬火薬の爆速は、現在のTNT火薬の爆速 6,900m/秒を上回る7,350m/秒であり、この爆速で破壊尽くされたロシア艦の凄まじい姿から、戦後、日本に謎の下瀬火薬ありと諸外国から恐れられた。さらに、下瀬火薬はその高熱によってペンキなどの可燃部全てを燃やし、粉々に破壊した甲板を火の海にした[5]。生き残ったロシア水兵は「今でも信じられない、鉄の大砲が炎を上げて燃えていた」と下瀬火薬の恐怖を述懐している。想像を絶する砲弾の衝撃波の威力に、バルチック艦隊の司令塔内にいた者は一人のこらず震えあがり、みんな恐怖におそわれて、垂直の装甲壁のかげに匿れる者や司令塔内から逃げる者もいたと伝えられている。

下瀬火薬は海軍技師の下瀬雅允がフランスのピクリン酸を主成分とする「メリニット」火薬を分析・コピーしたものであるとされている。しかし、当時の火薬技術は国家機密でその詳細を日本が入手することは困難であり、下瀬自身も独自開発を主張している。ヨーロッパではメリニットの高感度性と毒性を嫌って使用されなかったが、日本海軍では爆発事故の可能性には目をつむって砲弾の威力を優先した[5]。下瀬は爆発事故で重症を負いながらも猛研究を行い、弾体の内部にを塗ると鉄とピクリン酸の反応を防げることを発見、これを実用化して砲弾を完成させた。しかし日本海軍には砲弾を長期間保管したときの安全性を検証する余裕がなかったため、日露戦争後に戦艦「三笠」の爆発沈没事故[23]をはじめ何度も爆発事故を起こし、多数の死傷者を出したといわれている。

三六式無線電信機

秋山真之参謀は、無電に理解の無いトップに三回も上申を繰り返し、木村駿吉博士の寝食を忘れるほどの猛研究によって完成した三六式無線電信機1903年に正式採用させた。しかも、島津源蔵が日本初の鉛蓄電池の開発に成功したため、三六式無線電信機は日本海海戦で十二分に活躍可能となった。当時、無線電信技術はグリエルモ・マルコーニ1894年頃に発明したばかりだったが、日本海軍は、いちはやく世界トップレベルの通信力を整備したのである。バルチック艦隊の司令部はなぜか無線妨害を行わなかった。三六式無線電信機は、信濃丸によるバルチック艦隊発見の報告や、戦闘中の各艦の情報交換に活用され、戦況を有利に導いた。この三六式無線電信機は安中電機製作所(現アンリツ)の製品であり、蓄電池島津製作所の製品、受信機の継電器はイギリス製であった。

海底ケーブル

児玉源太郎は、日本独自の海底ケーブル敷設船で「九州~台湾」間を海底ケーブルで繋ぎ、さらにイギリスのインド・アフリカ回線と結んだ。バルチック艦隊が喜望峰インド洋を周回している情報は、イギリスのインド・アフリカ回線を通じてロシアに秘密で、次々に日本に送られた。さらに、この児玉ケーブルといわれる海底ケーブルは朝鮮半島と日本間など、日本周辺に張り巡らされ、朝鮮半島に停泊していた連合艦隊旗艦:戦艦三笠と東京の大本営とで電信による通信が可能であった。1分間で20数文字と限られた情報量であったが、最前線と大本営の間で、情報や命令のやりとりを短時間で行うことが可能であった。このため、大本営はいつでも、連合艦隊に移動命令を出せるようになったため、持てる戦闘力の全てを日本海海戦だけに集合させることが出来た[20]

宮原式汽罐

宮原二郎が開発した当時世界に衝撃を与えた画期的な新型汽罐。価格が当時の世界標準価格の半値で、給水、掃除が容易で、蛮用に耐えられ、燃費がよく、強力な馬力で、しかも小型とまさに画期的な発明で、日本海軍の高速化をもたらした。このため、バルチック艦隊を思う存分追撃できた。

麦飯

1885年明治18年)3月28日に発表された高木兼寛海軍軍医総監脚気原因説(たんぱく質の不足説)と麦飯優秀の理論(が含むたんぱく質はより多いため、麦の方がよい)は、同年7月、大沢謙二(東京大学生理学教授)の消化吸収試験結果により、誤りであることが実証されていた[24]。ただし、「麦飯を食べると脚気が減少する」という有益なエビデンスが得られていたこともあり、海軍は兵食として麦飯を給与しつづけた結果、脚気を「撲滅」[25]、日本海海戦の勝因の一つとなった。対するバルチック艦隊は、野菜ビタミンC)不足で蔓延した壊血病により、兵員の健康状態が悪かった。

驚異的な識字率

当時の日本国民の文盲率は25.1%前後と、欧米諸国より遥かに少なかった。識字率の高さは、「自己ノ氏名ヲ書シ得ザル者」は兵役に就くことが不可能とすることができ、複雑な兵器の取り扱いを紙の説明書による伝達で可能にするため、訓練の効率化をもたらした。

一方のロシア側は、日露戦争で捕虜となったロシア人の中で自分の名前すらも書くことのできない者が過半数はいる状況であった。このため、日本各地のロシア人捕虜収容所では、あまりに気の毒な惨状から、ロシア語の読み書き教育が行われた。

参加兵力

旗艦(ただし実際に旗艦に掲げられる指揮官旗のデザインを表してはいない)

大日本帝国海軍

三笠 (1905)
三笠 (1905)
敷島 (1905)
敷島 (1905)
富士 (1905)
富士 (1905)

ロシア帝国海軍

画像:Knyaz'Suvorov1904Kronshtadt.jpg
クニャージ・スヴォーロフ (1904)
ボロジノ (1904)
ボロジノ (1904)

記念碑

対馬オベリスク
対馬オベリスク

福岡県福津市日本海海戦紀念碑がある。

また、毎年5月27日には横須賀の海上自衛隊で「日本海海戦記念式典」が催されている。

1908年サンクトペテルブルクに、「インペラートル・アレクサンドル3世」乗組員の慰霊碑「対馬オベリスク」(Цусимский обелиск) が建てられた。

日本海海戦を題材とした作品

映画

小説

軍歌

日本海海戦を題材とした同名軍歌は4つ作られた。日本海海戦 (軍歌)を参照。

脚注・出典

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関連項目

ウィキメディア・コモンズ

参考文献

  • アレクセイ・シルイッチ・ノビコフ プリボイ著、上脇進訳『ツシマ バルチック艦隊遠征』原書房上・下、2004年、ISBN 4562037865ISBN 4562037873
  • マヌエル・ドメック・ガルシア著、津島勝二訳『日本海海戦から100年―アルゼンチン海軍観戦武官の証言』鷹書房弓プレス、ISBN 4803404895
  • 野村実『日本海海戦の真実』講談社現代新書ISBN 4061494619
  • 半藤一利、戸高一成『日本海海戦 かく勝てり』PHP研究所ISBN 4569633374
  • 木村勲『日本海海戦とメディア―秋山真之神話批判』講談社選書メチエISBN 4062583623
  • 別宮暖朗『「坂の上の雲」では分からない日本海海戦―なぜ日本はロシアに勝利できたか』並木書房、ISBN 4890631844
    • 上記の加筆訂正版、同『日本海海戦の深層』ちくま文庫、2009年12月。ISBN 978-4-480-42668-0
  • 菊田慎典『「坂の上の雲」の真実』光人社ISBN 4769811810
  • コンスタンチーン・サルキソフ著、鈴木康雄訳『もうひとつの日露戦争』朝日選書 2009年
  • エリザ・R・シドモア著、小木曽竜、小木曽美代子訳『日露戦争下の日本 ハーグ条約の命ずるままに―ロシア軍人捕虜の妻の日記』新人物往来社、2005年
  • 鈴木孝『20世紀のエンジン史―スリーブバルブと航空ディーゼルの興亡』三樹書房 ISBN 4895222837
  • 山下政三『鴎外森林太郎と脚気紛争』日本評論社、2008年。
  • ウラジミール・コスチェンコ著、 徳力 真太郎訳 『捕われた鷲―バルチック艦隊壊滅記』原書房、1977年


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