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マンガ家「依頼うれしかった」 手塚治虫創刊の雑誌「COM」

2010年6月1日

写真「COM」の思い出を語る矢代まさこ(左)とちばてつや=東京都内写真拡大座談会会場に並べられた「COM」のバックナンバー=東京都内で

 手塚治虫が1966年に創刊したマンガ誌「COM」を振り返る座談会が開かれた。刊行期間は実質5年と短命だったが、手塚の「火の鳥」を柱に、石ノ森章太郎らが実験作を掲載、新人賞からは竹宮恵子やあだち充ら多数の作家が輩出した。マンガ家志望の青年たちがあこがれた“伝説の雑誌”について、当時の編集者、作家らが熱く語った。

    ◇

 「COM」は、商業主義にとらわれない作品を発表し新人を発掘する場として、手塚の設立した虫プロダクションの子会社から刊行された。石ノ森が実験作「ジュン」で“マンガによる詩”を展開し、「漫画家残酷物語」で絶大な人気を得た永島慎二が「フーテン」を連載した。

 すでに週刊少年マガジンなどメジャー誌で活躍していたちばてつやも、短編を寄稿した。「当時の『COM』や『ガロ』を読んでると、読者の人気が上がった下がったなんて気にせずみんなのびのびやっていて、うらやましかった。だから『COM』からの依頼はうれしかったし、楽しく描けた。マガジンの担当者には怒られましたけどね」と、座談会で語った。

 「COM」の中心作家の一人だった矢代まさこは「好きなことをして下さいと言われ2年ほど描いたが、出来不出来を編集者のせいにできないと、自分の作品が嫌いになる。自滅のような形でダメになった」と、当時の心境を吐露した。一方で、「やれる時にやって、自分の限界に気づくのは悪いことではないかも」とも。

 マンガ家の真崎守は「トキワ荘がマンガ家たちのエネルギーが膨張する場になったように、COMも若い描き手や読者のエネルギーが盛り上がった。手塚先生の不思議なパワーだ」と振り返った。

 真崎は新人作品の選考を担当していた。「当時、投稿募集をしている雑誌が少なかった。今までにないセンスを持つ作品なら、編集部が反対しても通した」

 「COM」はまた、読者コーナーを通じて全国のマンガサークルの組織化を目指した。かけ声倒れに終わったものの、75年に同人誌即売会「コミックマーケット」が始まるきっかけになった。

 今回の座談会は、84年から続く同人誌即売会「コミティア」のイベント。会場の東京ビッグサイトを3300以上のサークルが埋めた。

 編集部員だった野口勲は「『COM』をきっかけに、同人誌というものが今日このような発展を見るとは、思ってもいなかった」と感慨にふけった。(小原篤)

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