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入所理由ごとに違う、それぞれにとっての施設イメージ

コラム

 一口に養護施設出身者と言っても、入所理由によって内面にある施設イメージはかなり違うのだと認識中。わたしが心に思う施設イメージを「正」としているのではないから、施設にいた子の数だけ施設イメージがある事は理解できる。

 わたしは、人生の生きづらさや無愛着の理由の1つに育ちの影響があるから、戦後何十年も「家庭的」を目指していると言い続けている施設に釈然としない思いがある。

 でも、虐待家庭から救われた子は、施設に入った事で命を繋げられた、それも確かだ。そのような子にとっての施設は救いの場、もう1つの家庭と思えるのかもしれない。(たとえ本質的な家庭じゃなくとも)

 虞犯少年にとっては、家庭でネグレクトされたりひどい環境だった事への怒りを持っているので、施設という場所を否定しきれないのだと思う。

 養護施設には、それぞれの入所理由ごとに異なる施設イメージを持っている子どもたちが一緒に住んでいる。そしてもちろん施設を出た後も、そのイメージはそれぞれの中で確かなものへとなっていく。

 わたしは、わたしの人生を歩いているから、どうしてもわたし固有の施設イメージを主観としてブログを書いている。だから、他の施設出身者はそれぞれの施設イメージを書いていってほしい。前はわたしも自分のイメージと違う文を読むと焦ったりイライラしたけれど、児童福祉や法律や少年法などを勉強していくにつれて、それぞれ固有の理由を抱えた、それぞれの子ども達の「声」を聴いていこうと、だんだん考えが変わっていった。

 とはいえ譲れないものは譲れないのだ。上級生や職員による虐待や家庭から切り離された集団養護論などへの怒りは止まらないし、虞犯少年への個人的整理できないものがある。

 わたしは、家庭で育てられたかった施設全部育ちとしての立場で、これからも発信する。一度くらい家庭生活を子ども時代に体験しても天罰は当たらないよね、と思ったのに、実際は家庭生活を持った事がない事そのものが、何かの天罰を受けた結果なのかなんて、つまらぬ事を考えてしまいそう。

 基本的に施設育ち同士が憎みあう必要はないし、戦う必要はないと思う。同じ場所に乱暴に詰め込まれてしまったから、違う課題を持つもの同士で同じ世界である児童養護施設を、違ったフィルターで語り合ってしまう。

 ネットで対立するたびに、そう思う。

| └ コラム | 10時25分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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