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養護施設の無愛着な子ども集団を繋ぐ見えない鎖

養護施設にいる間の問題
 
 養護施設の集団生活で身に付く事は、無愛着である事と連動した集団のけん制と束縛だ。愛着のないもの同士を縛るために、よく職員は連帯責任という概念を用いる。誰かわからないものがルールを破った時に、犯人が出てこなければ出てくるまで、他の子全員が床に正座させられる。

 当然、家庭から来た虞犯少年が盗難などをしていた場合名乗りをあげる筈もない。彼らは家庭から来ているので、養護施設の集団に対する連帯責任の意識を育てて来ていない。誰がどんな扱いをされようが関知するものではない。

 子ども達は大体誰がやったか見当はついている、だが、報復があるので誰も何も言えない。だから、正座を長時間させられる。(自分の出来事の断片的記憶)

 職員も、子ども同士が兄弟姉妹のように愛着を持ち合うなんて思っていない。現実、他人の寄せ集めなのだし。子ども達も同じ屋根の下に住むというよりも、同じ釜の飯を食う仲というほうがピンとくる所謂施設仲間でしかない。

 そんな思いのない子ども同士を縛るのが、連帯責任という概念。これが戦中の隣組制度や、北の方の国の相互監視体制を想像させるもので、集団での許容範囲を超えて個人的な行動をしたら、その子は集団から大変な目にあってしまう。まず、日常生活を滞りなく過ごせないだろう。

 子ども達は、一ヶ月に一回ほどの子ども自治会で反省会をやり、互いに何が悪かったかを言い合い、それをもって、当園では子ども達は自発的に問題を解決しようとしているなどと言う。時には、当園の子ども達は互いに育ちあいをしていると表現する場合もある。

 でもその正体は、子ども達にとっては見えない鎖でしばる相互監視体制だ。少ない職員が手間を掛けずにすむ、一見すると社会性を身に付けてさせているように見えるこの施設の集団養護。でも外から見れば全く理想的な、乱れのない集団的な行動だ。「うちの子も鍛えてほしい」と言う人もいたそうだ。

 養護施設にいる無愛着な子どもに愛着を付けさせる事はできない、だから「愛情でいう事を聞かせる事ができない」以上、「連帯責任」という鎖で縛り付けるしかない。養護施設では大人から育てられた、養育されたという感覚が持てないのは当然だと思う。

 この感覚を持ちながら家庭生活をすれば、冷血と言われるのも今なら理解できる。施設の集団の概念を家庭生活へ応用すれば、家庭育ちの夫を不快にするのは当たり前。冷たいと言われるのも当たり前、理屈ぬきでエモーショナルな家庭生活に、理路整然とした分析は必要ないのかもしれない。

 子ども時代の子ども自治などで鍛えられた、相手を批判する姿勢は家庭には不向きなようだ。養護施設時代の概念という鎖は、施設を出た後、ペンチで切らないといけない。

|  養護施設を出てからの問題 | 04時22分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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