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夫の生家は時系列に沿った彼専用の博物館

コラム
 
 さて、GWなので恒例の夫の里帰りに参加しなくてはならない。しばらく留守にするので何か一言残していこう。
 
 夫にとって生家に帰る事は、否が応でも子どもへ戻る行為なんだそうだ。彼が生家に戻ると、義理母が「この子はね・・・」から話はじめる。何度も聞かされる夫の幼少時代の話、いつの間にか自分の幼少時代よりも彼の幼少時代の方を覚えてしまった。彼女は何も知らないわたしに、わが子を託す生みの親とばかり、一気に話しはじめる。
 
 彼の家は彼専用の博物館だ。彼が小さな頃から大学に至るまで過ごした日々の痕跡が家のあちこちに残っている。柱の低い位置に残された怪獣のシール、学校の図工で作ったと思われるナベ敷き。変なタペストリー、中学の教科書、高校の教科書、勉強机・・・。

 どこからどこまで夫のものばかり。家庭はこういう部分もパーマネンシーなのだ。この場所に来れば否応なく子どもへ返る、子どもの気持ちに返る事そのものが、彼にとってはどんなカウンセリングよりも効くらしい。

 親は親でありつづけ、学校を卒業しても措置解除にならず(実親家庭に措置解除はない)「もう君の親ではないよ」などと言われない。これも又すごい話だ。そして彼の生家は彼をずっと受け入れ続けている。大人になったからといって関係が切れるものではないという事もこの親子を通して勉強した。
 
 夫と彼の母親を見ていると、彼が子ども時代に過ごしていた毎日が見えるような気がする。全幅の信頼を置ける大人を持っている夫はわたしが心配になるくらいに寛ぎ、母親が語る幼少時代の彼の話にうっとり聞き入っている。わたしは、この義理の母親がこんなに優しい顔をするかと内面で驚く。

 家庭に残された彼の痕跡を見つめながらいつも不思議な気分になる。 

 養護施設の生活空間には自分の生きた痕跡は残されていない。使っていた机はすぐに誰かが引き継ぎ、教科書も制服も、自分が使っていた備品もすべて施設へおいてゆかなくてはいけないし、モノだけでなく、その空間からも、自分が生きた痕跡は消えている。置いていった教科書などは処分される。他人に処分されるくらいなら自分で燃やそうという事になり、施設の庭の焼却炉で自ら教科書を燃やしていたのをふと思い出した。

 夫とその母を見ていると「自分にはいかに誰もいなかったか」という事がだんだん染み込んでくる。彼の母親の態度を通して、自分にはそのような対象者がいない現実、さらに工場の不良品のような気分になり、やりきれなさというのを内面に確認するひとときを過ごす・・・。

 「あなたも先生に会いにいくの?」
 「時には顔くらい見せてあげなさい」

 突然、もの思いは破られる。言われた意味と質問を向けられたのが誰なのかわからない。が、自分の方を向いている義理母に、うっかり大笑いしそうになるのをこらえながら「ええ、そうですね」とだけ答えておく。このような人に、養護施設で育つ事をどれ程語っても受け入れられない事は知っているので、適当に空気にあわせて事なきを得る。
 
 でも笑いたい気分になるのは何故か、自分の心の動きがよくつかめない。

 そういうわけで、又、行かねばならない。嫁は里子じゃない、嫁は嫁。だけど夫の生家に行ったら、夫は子どもに返る。彼専用の博物館の中で子ども返りをして、何か癒されて現実へ戻る。生家とは不思議な空間だと思った。

| └ コラム | 01時57分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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