養護施設を家庭と教え込む事は何も知らない児童への罪
M氏 レイさんへ >施設で過ごし続けるという事は「施され続けている状態」を指し「恵まれない子ども達」という枠で>しか生きられない。普通の家庭であるなら、親から気持ちの伴ったモノを与えられるというのに、養>護施設に居続ける子どもには、自己肯定感や、プライド、正当な誇りの感覚が身に付かない。 以上の記述は、私達施設経験者を、大変侮辱したものと思われます。 正確には、(一生社会に感謝し続ける者)として下さい。それも後ろ向きでは無く、前向きに感謝しつつ、生活を送る、と言う事です。私の場合、1歳未満から17歳まで施設にいましたので、その間、施設のおかげと共に、当然補助金と言う税金も使われ、善意の方の寄付金も使われているわけです。あの17年間がなければ、当然今の44歳の私はありません。ならば、社会に感謝し続けるのは当然だと思います。そこに劣等感は存在しません。却って(自分)と言う存在にプライドを強く持っています。 ちなみに、私には現在の家庭の在り方から、(普通の家庭)と言う定義がわかりません。両親が揃っていても、子供に(ナゲット)やカップめんのみを与えている家庭、子供の顔をろくに見ない家庭、現在、様々な事件において、この様な家庭が表面化していますが。私は寮にいたころの状況の方が、現在の家庭より、余程(普通の家庭)だと感じます。 |
エドワードさんの場所 は案を出していくスレッドであり議論の場所ではないので返事を控え、色々迷った末こちらで返事らしきものを書いてみよう。
>>施設で過ごし続けるという事は「施され続けている状態」を指し「恵まれない子ども達」という枠でしか生きられない。普通の家庭であるなら、親から気持ちの伴ったモノを与えられるというのに、養護施設に居続ける子どもには、自己肯定感や、プライド、正当な誇りの感覚が身に付かない。
>以上の記述は、私達施設経験者を、大変侮辱したものと思われます。
>あの17年間がなければ、当然今の44歳の私はありません。ならば、社会に感謝し続けるのは当然だと>思います。そこに劣等感は存在しません。却って(自分)と言う存在にプライドを強く持っています。
それはすごいです。
社会的弱者に劣等感を感じさせずにモノや何かを施す事ができるなら、それは施しの手法としてはかなり高い技術ではではないかと思うので、わたしもそのノウハウを知りたいくらい・・・。M氏も「私達児童養護施設出身者を、大変侮辱」だなんて養護施設出身者の代表のような受け答えをするし、わたしの親記事も大概「施設の子は・・・」から始まるパターンなので、お互いに集団を背負って大変なことだと感じ、少し困惑した。
ならば、ここでは個人的に答えてみようか。
>あの17年間がなければ、当然今の44歳の私はありません。
ああ、その17年が児童養護施設しかなければ、今のあなたのようになっちゃう、確かに。
>私は寮にいたころの状況の方が、現在の家庭より、余程(普通の家庭)だと感じます。
機能不全家庭から保護されて措置されたのだから、当然、食事や通学の面では最低限保障されて然るべき(それも怪しい虐待施設はあるが)。しかしそれをもって「普通の家庭」とは言わない。普通の家庭と施設養護に於ける最低限の生存権が維持できる状況とは別のカテゴリ。
刑務所でも食事は三度三度出るけれど家庭とは言わない。児童養護施設の場合も、保護先としての最低限の保障でしかない。それをもってあなたが勝手に「家庭的」と感じるとしても、施設として妥当な線でしかない。
おそらくこの方は、
小学校の頃に「税金泥棒」「シセツ」と苛められた事もなければ、施設の内部でも職員から「お前ら誰のおかげで飯が食えると思ってる!」と言われた事がなく、自分が着ている古着についても、顔も知らない、名も知らない人からのものである事に対して考えを至らせた事がなく、相手が誰か分からなくても感謝し続ける事にとくに違和感もなく、保母が最低でも一年に一度は担当が変わり、人間関係が常に安定した事がなくとも気にせず、施設出身者としての就職の差別もなく、結婚の差別もなく(わたしは一度、結婚に失敗している)やってきたのだろう。
>両親が揃っていても、子供に(ナゲット)やカップめんのみを与えている家庭、子供の顔をろくに見ない家庭、現在、様々な事件において、この様な家庭が表面化していますが。私は寮にいたころの状況の方が、現在の家庭より、余程(普通の家庭)だと感じます。
あ、それはネグレクトなので世間に住む大人であるわたし達は通報義務により通報し、きちんと児相で保護されなきゃいけない。あなたが例に出した家庭は「機能不全家庭」であるという認識をきちんと持っていただきたい。
・・・・さて。
彼は自分の出た施設を家庭だと思っているそうだ。だから、彼の養護施設が家庭だったか、彼の出身施設へ取材してみればいい、というような言葉を書いておられる。たぶん彼自身では彼の施設が家庭であったか分からないのだろう。
この方は結婚当時のわたしの思考にそっくり。わたしもそうだった、と懐かしくなるくらいに似たような思考をもっている。だからわたしよりも一歩も二歩も先をゆくMariaほどは、しっかりと返せない。わたしの場合はまず「自分にとっての施設とは?」と自らに問わねば記事が書けそうにない。
でもM氏については、わたしと違う部分もある。
それはわたしは施設出身者女子であり、彼は施設出身者男子であるという事。
わたしが壁に突き当たってる「施設女子の家庭力」をテーマと据えるなら、M氏はわたし程には家庭を知らない事についての危機感を覚えていないだろう。わたしも危機感は薄いほうだが、それでは困ると周囲の人が声を上げたので、わたしはがんばって家庭生活を勉強せねばならない。
M氏もわたしも要養護児童だったから尚更外の世界を知らない。施設の園長が「ここは家庭だ」と言えばそれを受け止めるしかない。家庭を知らないから養護施設を家庭と刷り込まれるだろう。
でも信じようろする気持ちとそうでない現実をきちんと見極めなくては家庭を施設にしてしまう。
どうして、施設職員は要養護の子に本物の家庭を与えずに「ここは家庭だよ」と言い続けるのだろう。わたしが居た施設はミモフタもないが彼の施設のようなごまかしはなかった。わたしは冷静で静かに観察する事ができた。
家庭でないものを家庭と言ったら、家庭生活未体験の児童を騙す事になる。
施設職員が観念的に「ここは家庭だ」「お前らの親だ」と言う場合、言われてるその相手(施設の子)は、本質的な意味の家庭をすでに知っている事が前提であってほしい。施設の子の中でも要養護の子が、そのまま、その言葉をスリコミされてしまう事は発達心理の途上にある児童にとって非常に危険な行為だと思う。施設を家庭だと教えこむ施設職員、それはわたしは罪に思えて仕方ない。
ただし、機能不全家庭から保護されてきた子が家庭虐待の傷の回復の一環として観念的に「第二の家」「ここがわたしの家」と思う事は又別、回復に向う為に必要かもしれない。ただしこの場合、児童養護施設は専門的なケアを行える力量を持っていなくては、単なる言葉のごまかしとなる。そして実際、わたしは児童養護施設でケアをきちんと受けた家庭からの被虐待児を見た事がない。
親、家庭、というキーワードを用いれば説明いらずというのは、養護施設だけで育てられた子に対する無責任な行為。風土的という責任逃れは困るので、これからも書いていきたいと思う。
あれ・・・
少しずつ何か分かり始めてきた。機能不全ではあるものの「家庭」を心情的には別としても基礎データとして知っている被虐待児が施設を家庭と思う事と、乳児院から施設へ措置され、家庭体験を持たない児童が施設を家庭と思う事はその捉え方の性質が違うんじゃないだろうか
前者は「心の回復の為に一時的に必要な観念」であり、後者は「たんなるスリコミ」・・・。つまりだ、要養護児童はプログラミングの中の定義の問題を抱えているんだ。
| 養護施設にいる間の問題 | 09時51分 | comments:10 | trackbacks:0 | TOP↑
やわ肌の…
あたしの大好きな歌は、与謝野晶子の

やわ肌の 熱き血潮に ふれもみで
寂しからずや 道を説く君
なの。
趣旨は、「勉強してばかりいないで、あたしの熱い肌に触れてみたらどうよ」なのよ。
ちょっとパロったけど、
家庭のぬくもりを知らずに、施設を家庭っていうんじゃないわよ!
という気持ちを込めたのよ。
与謝野晶子の情熱的な詩って好きだわ。
ちょっとネットで調べたら、
「ふれもみで」「ふれもせで」の二つのフレーズがあるのね。「触れもみで」で憶えていたけど、歌集で確認しなくちゃだわ。
| Maria | 2007/04/26 19:43 | URL | ≫ EDIT