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集団から距離を置くことはイジメを受けるリスクを覚悟する事でもある

施設にいる間の問題

 学校でも集団、施設でも集団、多くの施設育ちは集団から距離を置く勇気を本当の意味で持てるだろうか。カラダは集団から離れていても、心はいつも集団に囚われていたのではないかと思う。たとえ戦々恐々としながら1人の時間を死守しても、この時間を守ったために受けるバッシングはもちろん覚悟しなくてはならない。わずかな時間を見つけては自分の心を何とか保つ。そうでなければ集団の論理に巻き込まれ、自分の脳で考えられなくなる。宗教系であれば尚更、思考停止状態になる。

 集団から距離を置いている子はほぼ確実にイジメのターゲットになると知っていてもそのリスクの高さよりも自分自身のアイディンティティを育てる事の方が重要と考えるタイプの子もいる。でも施設では「集団で育てあいが大事」だと特殊な自論がまかり通っていたから、施設の子がいかに1人の時間を過ごす権利を持てるかは2の次だった。

 1人で過ごす権利のない施設では、集団で過ごさない子を「集団行動ができない処遇困難児や問題行動を起こす児童」と位置づける。そうなると放置しておくわけにいかず、今度は職員の出番。周囲の子に「この子を受け入れてあげてほしい」といらぬ事を部屋の大きい子に頼む。

 その日から、その子はいやおう無く集団の中で過ごさねばならない。何故その子が集団を避けるかなど思い至れない子ども達は、集団から逃れようとするその子の態度が気に入らないと、ケリを入れたり、影でこっそりツネられたり、とにかく色々される。

 だから施設の子は、小さい子も大人になった施設育ちさえも集団に迎合しようとする心の動きがあり続ける。集団の中に身を置く事が最優先だった世界の影響下にいる、集団の質を考える事はしない。里親家庭を軽んじ不良仲間に入るのも、もしかしたらそのような一因があるのではないかと考える。たとえ、たった一人の相手と出会っても抜け駆けと感じてしまい、その相手に集中できない。
 
 養護施設には子どもの発達を無視した集団的管理体制がある。宗教に丸投げだけじゃなく「集団生活の育て合い」に丸投げしている部分もある。自我の確立の前に集団の長い尻尾にぐるぐる巻きにされ、自ら考える時間を作らせない。作らせるつもりもない、自分の脳で考える子を作らせないかのように、子どもが自我を確立するのを恐れるかのように、新しい情報から遠ざけ、過去の貧弱なデータベースだけを与え、世間にはとてもどどかない陳腐化された分析結果を与える。

「養護施設の図書室には、死亡した文豪の本しかないじゃない」と言った事があった。

 すると

「お前は何が言いたいんだ」と言われた。

 わたしはその質問の傾向にある種の危険を察知し、表面上は安全の為にも迎合しておいた。いろんな意味で危険な発言はすべきでないとだんだん分かってきたのだ。生き延びたきゃしたたかになれ、でも、けして人を蹴落としたり他の子の大事なものを破壊せず・・・。水面下で生きろ。

 ところが集団行動しかできない子はそんな事はおかまないなし。自分の脳なのか集団の脳なのか分からないままに行動する、誰がその責任者かよく分からないままに、集団だからこれはみな正しい、賛成多数の集団の意見は、何をどう見ても絶対的に正しいと言わんばかり。
 
 ファシズム的な独特の雰囲気の中で、個にコダワリつづける施設出身者は少ない。個はエゴイストで、集団が正論という考えがまかり通っているのでたった一人で意識を育てようとする児童はただそれだけで養護施設的にはエラーコードを打ち出したことになる。

 我思うゆえに我ありという明確な意思を持たなければ、とても集団性の持つその質を見分けられない。最初に集団の中で生きてしまえばそれが当たり前になる、その時、集団ごと自分の事も客観視できなければ、集団からは一生逃れられない。

 自分が育てるささやかで大事なものを守る事もできなくなる。集団という言葉一つで全部投げ出し見えない集団に忠誠を誓わさる自分へと埋没していく。だから個は大事、自我は大事であり、戦いながら守る価値がある。でも乳児院・養護施設ルートを辿ると「初めに集団ありき」からその人生が始まる。

 有名な本の題名を思い出した。たしか「人生の大事な事はお砂場で習う」だったか・・は、家庭で健全な親子密着を経てから、社会に対峙する個人としてようやく立つ事が容易である事を前提としており、発達段階の順番としては正しいと思われる(*題名から受ける印象だけだが)。しかし乳児院・養護施設の子の場合は「人生の必要ないことまで人生の最初から施設の箱庭で洗脳される」としか言いようがない。

 自分自身を考えても最近の自己の認知にはげっそりするものがある。まだまだ集団を背中に背負って生きているのだと感じた。集団生活しか知らなければ個として社会と対峙しにくい、集団の中のその他大勢で生きつづける事は自分の自我を構築できない不幸が潜んでいる。

 自分の考え方が確立していないのに集団を語るのはまず途方も無く難しい、集団の渦中にあってはその集団について語る事はできないと考えている。

 ただ分かってる事は、誰も捨てられた子を育てないのなら、自ら自分を育てるしかない。それが施設育ちの課題と思う。

|  養護施設にいる間の問題 | 07時20分 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

児童施設について

レイさんもご自分の自己認識に関して
ご自身げっそりされる、と書いていらっしゃいますが
私の場合はアスペルガーの診断が遅れ、当然それに対する専門的ケア・バックアップがなかったことによる(と思われる)
自己認識と対人認識の「ゆがみ」に本当にげっそりします。
「死ね、死ぬしかないんだよ、もう終わってるんだ、どうにもならない、お前は」
と、精神的に不安定になっているときなど
自分自身に(時には声に出して)罵声を浴びせないではいられない状態に陥ったりします。

ところで赤ちゃんポストの設置が熊本市で認可されましたね。

私は、実親に虐待されて殺されるくらいなら
赤ちゃんポストを経由してでも、少しでも幸せに生き延びるチャンスを生まれてきたものが得られるようにすべきだ
と思いますが
自分のブログでも述べたとおり、
そのあとをどうするのか、着実に議論すべきだと思っています。

児童施設で育った子供が「気の毒だ」というのはおこがましいですが
ごくごく短期間ながら、児童施設にボランティアとして関わった経験(と、その時長年それに携わってきた人から諭された内容)から考えて
やはり、現状では「保育者が一定しない」「規則や規律を無視した、一人対一人の愛情関係の成立が尤も大事な時期に、子供に規則・管理効率優先の生活を送らせている」施設が殆どである
(それは個々の施設の問題というより、制度的・社会的構造の問題が相当大きなものを占めていると思うのですが)
という点から
児童施設の根本的な見直し無しに
ポストのあとは児童施設へ、で済ませるのだけは止めてほしいと思います。

| 2月うさぎ | 2007/04/15 10:23 | URL | ≫ EDIT














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