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無愛着者に「見捨てられ不安」はあるか

養護施設にいる間の問題

 わたしは毎日のように「捨てられた」とうるさい女だが、捨てられたと言い出したのは結婚後で、どういう状態を遺棄するのかという意味が実質的な重みを伴ってきた頃、つまり自分が子どもを持つ年齢になり、それらについて考え始めた頃からだ。

 初めの一歩である「自分が親から捨てられるシーン」の体験を経ずに施設で物心ついているので、たとえば「捨てられるんじゃないかと不安におびえ」「手を引かれて施設に行った」という他の出身者の話のような流れが自分にはない。だから自分自身には実は捨てられた感はなく、事実を論理的に解釈する為にあえて、親から捨てられたという表現を使っているに過ぎない。

 捨てられる不安から捨てられゆく現実、施設で捨てられた後に生じる気持ちへの移行を伴わない。

 ここでポイント、2つの施設の2度目は確かに親から再び捨てられるシーンになるのだろうが、一度目の施設で物心付いたあとでは、捨てられるという事がどんな事かは実はよくわかってなかった。児童相談所では親と住みたいと言うのが当たり前という話の持っていかれ方をしているし、そのため、養護施設行きが下されたが、それを捨てられたとは感じていない。それは措置変更先に不満があったとしかいいようがない。施設名の誤解やらいろいろ・・・。

 もし里親家庭というものを知っていたら騒いで吼えたかもしれないが失敗した。

 見捨てられ不安についても、見捨てられきっていて、その中で雑草のように1人生きていると見捨てられるかどうかという、相手に依存する心理も働きようがない。職員や保母と子ども達は、互いに依存関係ではないという(養育などを受けていてもそれは仕事上の事)ある意味、その場だけのビジネスライクな感覚があるので、このテーマを終えたら解散するのだと思っている。

 そうなると、最初から、捨てる捨てないの依存関係とは違う、施設での関係性の中でのみ生きている心理について考える事はそれ自体、課題としても草分け的なのかもしれない。

 施設で物心ついた子は離別があってもそれは捨てられたことにあたらず、見捨てられたわけでもなく、裏切りもそこにはない。たまに保母さんのブログなどで、離別の時の子どもの反応がドライなので寂しがっている話など読むと、ため息が出る。職業的手関わりだけの存在である保母なのだから、寂しがらない態度を取る子どもに対して、それを子どものせいにしないで欲しいとも思った。

 さて。

 春になると、放浪癖が出るのもそのためである。春は旅立ち、しかしそれは卒業という名の施設追い出しの時期でもあるのだ。15歳問題、わたしは18の大問題(個人的に)だったが・・・。今年又どれだけの、無愛着者が自分を無愛着だと知らずに世間へ歩いていったか。

|  養護施設にいる間の問題 | 09時10分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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