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子どもがこの世に誕生してからの愛着が育つ期間と臨界点


 今、家庭の生活をしていて、集団行動を取れない子が問題児となる事ばかりが先行していた施設時代、「あれは一体なんだったんだろう」と考える。家庭から来た、勝手気ままに振舞ってきた子を規律正しい生活を送らせる為には、集団行動を取れない子が問題となるのは致し方ない。それが集団世界だから。

 でも乳児院から養護施設にいた子は、その集団的規律正しさしか知らずに過ごす。たった一人の養育者との固定感覚がないまま、集団生活をするという事を考える時、乳児院から養親・里親へ迎え入れる時期は、いつごろまで何とか間に合うのだろうか。
 
 自分の例を考えてみた。

 物心付いた頃には施設にいたその後で血縁親とやらが迎えにきて、二度目の施設までの期間、共に過ごした。でもその期間については多くの大人のうちの1人と少しの期間過ごした程度のイメージしかない。頭では血縁親だと理解しながらも、もっと原始的な部分が、彼女の存在を自分とは関連付けられなかった。全く別の人が入れ替わっても気付かないだろう。

 もし、その時に周囲がいくら「お母さんが来て良かったね」と言おうが何だろうが、その意味そのものが理解できなかっただろう。その「良かったね」の良かったが、何が良かったのかさえ分からない。

 家庭で物心ついた子とパターンが違う、乳児院・施設で物心ついた子は(わたしは乳児院じゃないが)おそらく、生まれてからずっと、集団養育の場で育てられていた為、固定された1人の大人との関係性が築かれなかった。集団生活しか知らない子は、親との(血縁によらず、固定された養育者)基本的(原始的)な愛着を付ける期間を得られないまま、その時期を(ブランクのまま)過ごしてぎてしまった。

 そのため、愛着関係を作るためのシナプスというか、回路が誰もいない、あるいは沢山いて分からないというデータを基礎として、原始的な愛着形成の成長を終えたのではないかと感じた。

 だからその後で出会った人(里親・養親含め)は、その子にとって、いくら周囲が「この人はあなたにとって特別な人だよ」と教えてくれても、その子の愛着回路はブランクを基礎データとしたまま成長した後なので、言われている意味が分からず、誰に対しても愛想よくしてゆく・・・。

 その子にとっては周囲の大人は取替えがきく感覚もあり、愛着を知っている人々を困惑させる結果となる。

「不変」に対して愛着は付けられてゆく
 
 愛着は養育者のその質の高さに応じて育つのじゃなく「不変」であるものに対して付けられていくような気がする。虐待親でも求め続ける幼子がいる。その子にとって、ののしりも暴力も親子という固定された関係性の中で行われるため、レパートリーは少ない、その人の癖というものがあり、いつも同じ、つまり「不変」なのだ。

 そう考えると、確かに養護施設には、暴力を振るう職員も上級生も、あまりに変動がありすぎ、流動的で、せつな的で、養育者も常に変わる。施設の子は愛着が付けられる時期を乳児院で逃し、さらに児童養護施設の集団養育の場で、そのまま放置される。
  
 こうして無愛着な人間達が多く世の中に排出されるのかと思うと、やはり乳児院の早い段階でたった一人の大人に出会ってほしいと、しつこく思った。

 ※ 勝手な推論です、何の根拠もないかもしれない。

|  養護施設を出てからの問題 | 21時10分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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