PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

わたしの内なる劣等意識

施設の子の為に何ができるか悩む家庭育ちの人たち

 自らが苦しみの中にいても「養護施設の子ども達の為に何ができるか」を考えようとする機能不全家庭の人に出会うと、何故こういう風に考えられるのだろうと驚く。これはネットだけの話ではなくて、リアル世界でもそのような人々に会って「何をしたらいいか教えて欲しい」と訊ねられた事もある。

 実はわたしは自らが生き辛くて大変な時に、またそうでない時も「機能不全家庭の人の苦しみの為に自分が何ができるだろう?」などと考えた事がないし、相手に向かって「わたしに何が出来るか教えてほしい」と言った事もなかった。もちろん自分の生活や悩みに圧倒されていて他を省みる余裕がないという事もあるが、それ以前に、施設育ちの自分が家庭育ちの人に差し伸べる手などないと感じていた。(*こういう気持ちに至った理由は少し思い当たるものがある。) 

 それは自分だけの体験かと思えばそうでもなく、わたしが接している他の施設出身者達も、ボランティア活動などしている人は皆無だった。(*この場合の施設出身者というのは家庭で一度も育てられた事がない子ども達の事)

 ある家庭育ちの人の価値観とプライド

 わたしは、家庭の人に向かって「何ができるか教えて」という発想を持つ事自体、何か家庭の人に対して不遜ではないかと感じる心の癖がある。家庭の人が施設の人からこんな事を言われたら拒否感をあらわにするだろうと思うと、目の前で悩んでいる風でも何も言えなかった。

 でもそんなわたしの態度について、風の便りで、

 「あの子にはプライドがないのかね」という噂話として届けられた。
 
 確かにわたしは、家庭育ちの人のプライドの為に拒む事ができない事が多く、何でも受け取り続けた。古着でも何でも、拒む事がその人を何か傷つけるようで・・・。

 でも家庭の人に対しては、親のないわたしから手を差し伸べられる屈辱感を与えない為に、自分からは何もせずにいた。一方的に受け取り続けた。でも心優しき家庭育ちのその人は、影で「プライドが無い」という発言をしていたのだ。

 その時「そうか、人から受け続けるという事は家庭の人にとってはプライドがない事」なのだと知った。その人はおそらく、もし仮に、自らの経済が立ち行かなくなり、国の保護を求めるかどうかの瀬戸際に立ったら、きっと施設育ちのわたしの態度がオーバーラップするのではないかとヘンな想像をした。

 その人は、わたしに以前古着をくれた人と同一人物である。わたしからのモノを受け取るのは拒否し続けた。その目があまりに怒りに燃えていたので、差し出せなかった。お礼もさせてくれない人だった。

 これはわたしが実際に出会ってきた家庭育ちの人とのやりとりで作られた価値観と、養護施設での全国からの施しの体験から来る価値観だと思う。これが隔たったわたしの価値観なのかどうなのかは今はどうか取りざたしないでほしい。一部の家庭育ちの人との体験を元に書いているとだけ言っておこう。

 それでもわたしは上記のよう体験があり、家庭で育った人に対して常に気後れしていた。文章化はおそらく今回初めて。
 
 世間の人々から施されるのが当たり前の子ども時代を経て、お礼を書き続けてきた自分なので、わたしのような境遇の者が家庭の人に助けを申し出るだけで不遜な気持ちになり、何か失礼な事を言っている気分になる。

 それでいながら、心ある家庭育ちの方の厚意に対してはそれを拒むだけの理由を思いつけない。様々なわたしの現実がその人からもよく見える。わたしは自分の内なる劣等意識とも戦いたい。

|  養護施設を出てからの問題 | 07時42分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














http://escapeorgoodfight.blog85.fc2.com/tb.php/123-5914552b

PREV | PAGE-SELECT | NEXT