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一方的に与えられ続ける事から、自分で選ぶ意志を持つ事への移行


 サブタイトル:数多ある対象の中から自ら選び取る事は必ずしも常に自己責任とは連動しない

 このブログのヘッダーのベンチの写真は、Mariaが撮ったシーンの中から、わたしが選び取り、加工したシーン。彼女のおかげでウェブ用の写真に困る事がほぼなくなった。里親さん応援サイトのバナーのトウゾクカモメも、里親さんサイトの菜の花も、ストップの掲示板の写真も、その他の写真もみな、フォルダに詰め込みすぎて蓋がしまらない程の、写真群の中から選んでいる。
 
 以前は、素材屋さんの配布するシュールな写真(だいたいシュール 退廃 写真 で検索する自分って何?と我にかえったり・・・我にかえれば尚辛いっす)を探すだけで時間を取られ、実質、サイトの中身やサイトの全体のデザインのテンプレートなど作ってる余裕が無かった。彼女のおかげでスタイルを整える事などができて、心から感謝している。

 最近、選び取るという事の楽しさを覚え始めている。彼女も沢山の写真を渡しながら思うそうだ。

「レイちゃんがウェブ用に選ぶ写真は、意外性があってとても興味深い」と。

 実は彼女も自分が撮ったシーンの中に、密かなお勧めが、お気に入りがあるのだ。

 でも、渡す時に、

 「この写真を使って」とは言わない。
 
 うれしそうに全部渡す。彼女はけして、何をどう使うか強制した事がない。

 わたしが、密やかな彼女のお気に入りシーンを選ぶかどうか、選ばなかったとしたら、どんなシーンを選んでエフェクトをかけるのか、すごく楽しみにしている様子。わたしたちは、相手が意外な行動を取る事も楽しみながら、お互いの感性の違いを、少しわくわくしながら眺めている。

 わたしも又、Mariaが自ら選び取るシーンを見るのが好きだ。彼女を取り巻く連続した風景の中で、どの風景を見て彼女がシャッターを切るのか楽しみなのだ。その時点で彼女の心にはそのシーンに対する意識が働き、自ら選び取っているのだから。

 昔、1人の里親さんが、委託された里子がレストランで、何を選ぶか考えすぎて倒れてしまった話を書いて下さった事があった。おそらく選ぶ事そのものがストレスになってしまったのだろう。でも、里親さんは軽い気持ちで「どれでも好きなものを選んでいい」と声を掛ける。

 里子は施設から委託されてきた子だったから、今までは食事も与えられたものを黙って食べるのが当然だった。一緒に夕飯の買い物に行った事さえない子ども。その子の短い今までの人生は一方的に与えられるものばかりで、自ら選ぶ事は許されなかった事だ。
 
 しかも、家庭で育てられた里親さんには分かりにくい話だと思うが、わたしは今でも「自分の意志」で動いていると、時々後ろめたくて仕方ない。何か悪い事をしているという気持ちになる。両手を出してムチで打たれるのを覚悟するような気持ち。

 もしここで自分の意志を優先するような事を選んだから、自己責任を取らなくてはいけない。でも、自己責任を取りたくても連帯責任になるかもしれない。
 
 家庭に入った里子は集団にそむくような態度を簡単に取れないと思う。親の方が「その子は選択する事そのものをやった事がない」「自らの意思を働かせようとするとロックが掛かる」などについて、気にしておいた方がいいと思う。

 個人の自由と選択権は、当然ながら集団養育の場では、単なるわがままとなってしまう。レストランのメニュー票を前に、そんな覚悟や思考停止をしている子どもがいようとは、誰も思わないだろう。

 集団養育の場から来た子どもは、もう施設じゃないという意味が理解できていない。もう施設じゃない事を子どもにきちんと説明するには、施設とはどういう場所なのかを、里親の方が勉強し、知識を得ていく必要があると思う。

 施設も家庭だという解釈で捉えたら、施設から委託されてきた子の行動が見えなくなるだろう。家庭的な施設から来た筈のこの子の態度は、一体なんなの?・・・という、矛盾の為に精神的におかしくなるだろう。

 だから、養護施設を家族・家庭と呼ばないでほしい。施設は施設というカテゴリでいいのだ、そこからしかスタートできない、無愛着児童を迎え入れた親の意識改革は・・・。

|  Soul-Family-projct・別館 | 08時21分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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