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スタンス再確認


 atomさん、こんにちは。引用文をあまり使えなくて、一方的な親記事となります事をご容赦下さい。

>レイさんへ
>これレイさんのブログだし、レイさんはどう感じるのだろう。

 わたしは実は人との衝突を避ける癖があった。長いものに巻かれた事はないので孤独を選ぶけれど、人との精神的応酬に対しては脆弱なところがあり、Mariaが矢面(いや、矢ぶすま?)になってきた歴史がある。彼女は傷ついていても振り返らない熱い人間だから、この人を守ると思えば自分の事などお構いなしで、傷だらけになってしまう。冷静そうに見えるわたしが人と衝突しない道を選ぶ傍らで彼女がとばっちりを受ける。怒りが増幅して現実世界がおかしくなるのは本末転倒。だから、自分の気持ちを正直に綴れればと思う。よろしく。

>>違う立場からのやりとりは大事だと思う。わたしも書く、あなたも書く(コメントやその他の方法で)、
>>お互いに自分が知っている世界を持ち寄り、子どもにとってどう育てられる事がいいのかを、
>>考えていきたい、だからコメント感謝です。

> と返してくれた。

 スタンス

 確かにそう書いたし、わたしはその気持ちに自体に偽りはない。というのは、わたしが今結婚している人は家庭育ちの人、彼は常日頃「君には家庭で育った人の気持ちは分からないし、君を理解できる家庭育ちも100%いないだろう」と言われているので、語り合う為の「糸」を残しているつもりだ。

 ただ、ネットにおいては過去にも同じようなやりとりが続き正直疲れてきている。「施設育ちの人だけが苦労しているんじゃない」「家庭幻想を持っている」「今はある」atomさんは言わなかったが、別の人から「過去は過去、今は今」「悲劇のヒロイン」「妄想」まで飛び出した事もある。過去においてその度に返事を返してきたが、何故一度も家庭生活をした事がない子ども達の存在を語ると、機能不全家庭の話へ変化していくのか理解がしにくい。

 わたしが言っているのは、機能不全家庭へ子ども達が行って欲しいのではなく、全ての子ども時代を児童養護施設だけで育てられる事の問題を語っている。よりよい子ども時代を過ごす為に、児童養護施設だけで育てられた人間として、機能不全ではない家庭生活を過ごして欲しいと願う。

 全ての人が差別しているわけじゃないから差別について語りづらくなるなら、語る事そのものに限界を覚える。その差別がたとえ一部の話だとしても、差別がある限り語るだろう。

 話し合うにしても前提として上記のものをわたしは持っているという事を伝えておきたい。

 そして「家庭で育った人には対象者がいる」という言い方についても、その質を問う前にともかく家族関係(relation)があるというに過ぎない。施設はその家族関係がないので小さな頃から施設しか知らない子は、対象者を定める機会を失い続けていると伝えている。それをもって機能不全家庭に虐待がないなどと無茶な事は思っていない。同じカテゴリの違う虐待として語りにくい。別のカテゴリの問題だと思う。

 その前提を基礎に語りたい事 

 里親家庭へ行っても不調で施設へ戻される子どもというのがいる。そのような子がどんな問題行動を里親家庭で起こしているか、又は、里親家庭の質の問題も両方考えたいと思ったので、養護施設の事も語りながら家庭の人の話も聞くべきと思った。

 でもMariaは「イヤなら来なきゃいい」という基本姿勢を取っている人なので、そのあたりでわたしとは違う反応になるのだろう。わたしは発信していれば人の反応があるのは仕方ないと思っているから話し合う姿勢を示そうとする。それが両者の対応の違いとなって現れている。でもどうやらわたしの「受容的」に見えながらも最終的にはうまくやりとりできなくなる事が問題ではないかと感じてきている。今後は受け入れられないなら最初から言語化すべきとも考えている。

>でも違う立場からコメントすると「違う立場=家庭で育った人」に対して
>なぜか喧嘩腰で、「理解してない」だの「そんなに簡単じゃない」だの
>終いには今回のマリアさんのように「〜としたら謝る覚悟があります」とか
>「差別され続けた立場としてとことん、やり取りをさせていただきます。」
>なんてコメントが返されてくる。

 という風になっていく事には、やはりここに至るまでの「互いの引っかかるキーワード」があったんだと思う。いや、わたしは文章化していないものまで想像してしまう時がある。それは時々atomさんが「○○なんて言ってないよ」と教えてくれるので、又立ち止まれる事は、わたしにとっては必要な気がする。

 たぶん「○○なんて言ってない、思ってない」という文章を素直に信じるべきなんだろう。

 わたしは、世間に差別や偏見がある事実を「この世界の人全部が差別しているわけじゃない」としても、現実的に、差別や偏見を受けている養護施設の子たちがいる限り、そのような子がいる事を伝える為の筆を止める事はできない。

 その際「全ての人が差別偏見を持っているわけではないという理由で、偏見や差別についての語りそのものをやめる事はできない。一部、そのような人々がいる」という前フリをしておいて書く必要があるのかどうかは、又別に考えねばならないが。

 そして施設の子だけが苦労していると書いているんじゃないが、苦労のカテゴリが家庭育ちの人とは違うように思う。
 
 家庭の子の苦労の話は、家庭の人のサイトやブログで書いている。そのような人が自分の場所で自分の気持ちを書くのをとても支持している。里親家庭も全ての解決へ至る道だと思っていない、機能不全な里親家庭は困る。だからわたしは家庭を勉強する必要性を感じる。だから、互いに持ち寄ってという表現を使った。

 養護施設の子の抱える問題は極端に薄い人間関係の層、又は、無さに負う所が多いと思っている。家庭の子もそうだよと言う事自体自由だと思う。そして、施設全部育ちの問題とは違う性質を持っているとわたしは認識している。一見似ているようであっても違う部分がある。ただ言語化が追いつかない。

 わたしは家庭の人が気持ちを吐き出す場所に行き、施設の子も苦労している、家庭の子だけが苦労しているわけじゃないというレスを付ける気持ちになれない。その人はその人独自の過去から来るものがあるのを読めば、とてもそんな事は言えない。

 「今はいるじゃん」に過剰反応した事について

 里親が里子の事を守秘義務などがあり、書けない人が多い事を知っている。施設から来た子の特徴として掲げられているくらい特殊な内面構造をしているようなのに里子の抱える問題については、表面化しない。
  
 里子にいらいらする里親の中に「もう施設じゃないのに、もう親がいるのに、何故この子は・・・」というような表現に出会う。事実、わたしも夫からそう言われる。夫は一緒に住んでいるから、わたしの家庭的じゃない異質な感じに気付いているが、社会生活を普通に送っていれば特に気付かれる事はない。

 わたしは「今相手がいる状況」に対応できずに全部ぶち壊して、家庭も子どもも捨てて行く施設育ちの人の話をしている。その一方では「今相手がいる状況」に対応できずに全部ぶち壊して、家庭も子どもも捨てていく家庭育ちの人の話は、わたしの想像を超えていて言語化できない。
 
 わたしは確かに絆づくりを努力している、努力できている、絆相手の血のにじむような協力のおかげで、わたしの独自努力の道が開けている。だからこそ、多くの施設全部育ちが自分の抱える問題・課題に気付かずに、知らず知らずドロップアウトしていく現実を視野に納めながら、もっと早く人と愛着関係を持ってもらいたいと願い、黙っていられなくなったのだ。

 工夫すべき事

 ただし、親記事については工夫すべきだと思った。自分個人の悩み事として書いていたので、とても個人的なものになっている。しかし、養護施設がヴァイオレンスな場所であろうがなかろうが、子ども時代の全てを「対象者無き状態で放置される」この虚無は、癒しようがないと感じる。わたしは自分の話を通して、養護施設における普遍的な問題=無愛着状態で放置されている子どもたちの事を語っている。それは集団養育の場での普遍的な問題点だと考えている。どうやら子どもにはターゲットが必要らしい。
 
>私はただ施設の子どもの事が知りたかった。
>「何かをしたい」と思った時、その何かが独りよがりにならないように
>何をしたらいいのかを知るためにここのブログに来てたのに。

 ありがとう。それなら、できたら「家庭の人も苦労している」という言い方で終わらず、親が育てられない子どもが機能不全家庭ではない里親家庭へ委託される為に何ができるかを考える為の指針へ繋がる話をしたい。

 一度も家庭生活をもった事がない子ども達がこの世界にいる事、を発信している。とても地味で判りにくい話だけど、これも又一生に影響を与える問題であるという事を訴えている。愛着障害・無愛着というのは、この世界に帰属意識を持てない事なのだ。
 
 あなたのテーマは無愛着の話ではないという印象を受けるので、カテゴライズすると別の話になるのかもしれない。今はこれしか言えない、長くなってすみません。

【ブログのスタンス】

| └ スタンス | 20時22分 | comments:10 | trackbacks:0 | TOP↑


 激しいブログですね、ごめんなさい。でも読んでくださっていたんですね。少しずついきましょうね。いつもありがとう。

| レイ@あまねさん、ゆっくりと・・・。 | 2007/03/31 08:37 | URL | ≫ EDIT

こんばんは。

レイさん、なかなかコメントは出来ないけれど・・・こちらのリンクの色々なブログ、記事、ちょっとずつだけれど拝見してます!

いろんな事を知るために・・皆さんの記事、一生懸命読んでます。

また訪問致しますね!

| あまね | 2007/03/30 03:39 | URL |

atomさんんへ。

ここに書くのがいいのか迷いながらここの方が読んでくれるかしら?と思うので、書きます。

私のブログを読んでくれてありがとう。
そして、気がついてくれてありがとう。

一つだけ反論したい。(笑)

「差別をしたことはない」というのは傲慢だと思います。なぜなら社会が「差別をしている」からです。
直接の差別はないのかもしれないけれど、例えば親がいないことで、「保証人」がいない。だからアパートが借りられないなんて言うことは、ざらにあるのです。本人達がどう努力してもどうにもならないことを社会が求めます。
そして、その社会の構成を私たちがしているんです。

これは養護施設の方もそうですが、障害を持った方達も同様です。

知らなかったでは済まされない大人の責任が本当はあるのだと私は思って生きています。
私も、Mariaさんに「差別なんてしてない」と言ったことがあります。


だけどそれは「気付いていない」だけのことでした。
(もう何年前でしょう??4年、5年前かな?)

傷つけてごめんではなくて、『知らなくてごめん』なのではないでしょうか?

あなたの「わかって欲しいの」と言う気持ちは伝わっていました。だけど、それは私は「侵入しているのに気がついていない」だけ・・・だと思っていました。

あとで、自分の所でも、記事を書きますので、読みたいと思ったら読んでください。
とっても苦しんでいるようには見えないけれど、楽しそうにも私は見えなかった。

「私の気持ちをわかってよ!」病はあるんじゃないかな?
子育て、気をつけてね。意外とそこがキーワードだったりするよ。

それと、私は「怒り」をだしているわけじゃないのです。本当に怒ったら手がつけられませんので・・・。それじゃ・・・またね。





| kasumi | 2007/03/29 17:13 | URL | ≫ EDIT

atomさん

>私も一人でも多くの施設の子供が家庭で育つことを心から願ってます。

 ありがとうございます、この言葉、嬉しいです。

>「今はいる」この言葉がそんな地雷になるとは思わなかった。本当に今はいる、濃厚な関係ができている。先のことはわからないけど、いつか救われて欲しいと思って書いた。ただそれを伝えたかった。

 atomさんも疲れたでしょう。今回、無駄な話じゃないと思う。家庭で育った人の感覚と施設で育った人の感覚を、お互いに譲れないながらに真剣に話し合えたと思う。

 Mariaともわたしの過剰反応について話したのだけど、その時、ふと思い出した事があります。

>それと「今があるから過去がどうでもいい」と思ったことは一度もない。過去がるから今がある。そんなの当たり前だと思ってた。

 そうですね、今の自分は過去の延長ですね。わたし、主婦の友だちの過去虐待の話を毎日のように聞き続けていた事があるのです。今はその人は家を出て虐待親から距離を置いて安全な場所にいました。

 でも彼女の苦しみは続いていました。虐待を受けた事がないわたしでも彼女の記憶にある虐待への怒りは、たとえ、今虐待を受けてなくとも、終わるものではなく、話を止める事はできませんでした。

 彼女が、もう虐待を受けていた過去は過ぎ去ったと心の深い所で納得するまでは、虐待は続いているのだと思えました。だから、どうしても「あなたはもう虐待を受けてるわけじゃないのよ」とは言えませんでした。毎日のように電話で話しているので夫から「ほどほどにしろ」と言われましたが、なぜか、聞き始めた話を切る事ができませんでした。

 わたしが反応した「今はある」という事。確かに事実ですが、今はあるけれど、無かったこと、捨てられた事、集団だけで育てられ、一人の大人と出会えなかった事に対する気持ちを語り切ってないと思います。誰もいなかった過去は、誰かに出会えた事に気づけない程、これもまた、虐待とは双璧を成す程に大きな出来事ではないかと、個人的に思います。

>今後も私みたいなわけのわからない人は来るだろうけれど、レイさんとマリアさんのしている事は間違いなく大事な事だと思うから、どうか発信し続けて下さい。

 ありがとう、atomさん。あなたが信じてほしいと思っているあなたの気持ちを、わたしは言葉どおりに受け取ります。ところでこの引用にはないけれど、あなたを荒らしと思った事は不思議と一度もありませんでした。それでは又・・・。

| レイ | 2007/03/29 17:07 | URL | ≫ EDIT

atomです。

kasumiさんのブログに行って、私のしたことがやっとわかった。
私はレイさんに絡んでたのか。私はレイさんに絡んでるつもりがなかったので、目からウロコだった。

私のダンナさんが私の事をよくこう言う。
「お前はいい事をたまに言ったとしても悪く聞こえる。」
マリアさんが言うところの私の究極の二択は別に計算してるわけではなくて、
本当に昔から両極端な事しか浮かばない。それで生きてこれた面もあるけれど、
今となってはよくない癖だと思う。

うまく伝わるかわからないけど、きっと私のコメントを読みたくない人たちばかりだと思うがでも書く。
相変わらず長いけど。
私は結果としてレイさんを傷つけてしまったと思うから。
(レイさんが私の言葉で傷つくかはわからないけど、少なくともいい気分ではないはずだから)

ここで私は何回かコメントを書いたけれど、どういうわけか全く伝わらない。
逆方向へと流される。
でもいつも穏やかなkasumiさんがレイさんを心配し、kasumiさんのブログであのような表現になっているということは
多分私はたくさんの地雷を踏みまくったのだと思う。
私はもう少し、知識を得てから更にもう少しわかりやすい文が書けてからコメントすべきだった・・・
とkasumiさんのブログを読んで思った。

私は子供たちを家庭へにちっとも不快感を持っていない。
天気のいい日の公園で、お友達と遊ぶ子供を見ながら「みんなこうであるべきだ」と毎度のように思う。
このブログを読んでいる人には私を機能不全家庭で育った今も癒されず、
満たされていない人だと思われているみたいだけれど実は違う。
今更だし、何を書いても何故か逆に伝わってしまうので、もう私的に諦めようかと思ったけど、
少しでもレイさんの気持ちが楽になればと思って、書く。
私は7,8年前までは確かに常に不安定な人だった。いろんなものに依存しながら生きていた。
でも今のダンナさんに会って、私と私の家族は救われた。
私の父は父を恨み、母は母を知らずに育った。
だから普通とは言いがたい家庭だったし、そもそも家系的にごちゃごちゃしていたから
(長くなるからはしょります。)絶対子供は生むまい。私でこの家は終わるんだと心に決めていた。
(深い付き合いの人間をつくりたがらないのは、家庭が原因というよりは昔いじめられたからだと思ってる。)
私はkasumiさんの言うように「普通」を求めながら育った。
いろんなものに依存しながら普通を求めて普通の男の子とつきあったりしたけど、
普通の子とは何人つきあっても結局やっぱりうまくいかなかった。
今のダンナさんは全然普通じゃなくて、私の真逆をいく上しか見てない人だった。
親を亡くして15歳で弟を連れて家を出て、全くひとりで大丈夫な人間。
なんだかわからないけど、気力だけがやたらある人間で私に
「何があってもケツは俺が拭いてやる」(職人言葉だから下品でごめん。)と言ってくれた。
その一言で私は救われた。家族も変わった。
「環境と時間で人はいくらでも変われるんだ。」とよく彼は言う。

そんなこんなで最近の私は自分の昔が不安定だったことを暫く忘れていたから、
「家庭で虐待を受けた私と施設で虐待を受けずに育った人と・・・」
という意味では決してない。私は本当にどちらがいいのかわからないという意味で書いた。
でもそういう見方をしてはいけないということをkasumiさんのブログを見るまで気づかなかった。
それと不安定な時期もkasumiさんがいうように、施設で育った人と自分を天秤にかけたりは誓ってしていない。
私は中学生の頃いくらあるかわからない父親の借金を知ってから、
どちらかというと一日も早く稼ぎたいということしか頭にない状態だったので、
そういう方向には頭が働かなかった。
私は施設の事を知らない。本を読む前にネットでここに来てしまった。
しばらく見てたらレイさんが辛そうに見えた。ただ声をかけたかった。
最初はただそれだけだった。
「今はいる」この言葉がそんな地雷になるとは思わなかった。
本当に今はいる、濃厚な関係ができている。
先のことはわからないけど、いつか救われて欲しいと思って書いた。
ただそれを伝えたかった。
難しい問題だから、無責任に励ますことはしたくない。
私のそういう部分が「施設に対する子供にいい思いを持ってない」と
つながってしまったのだろうか、と思う。
それと「今があるから過去がどうでもいい」と思ったことは一度もない。
過去がるから今がある。そんなの当たり前だと思ってた。
でもその過去の記憶がないというのは、きっと不便だろうし、
どういう気持ちなのか私にはわからない。
また無責任な事を、と思われるかもしれないけれど、
簡単に「理解できる」という言葉を使いたくない。
理解したくないわけではないけれど、うまく言えない。。。

そもそも、ブログにコメントを残すことをしたのが初めてだったので、
私宛に来たコメントは返さねばと真面目に思っていたから、
絡んでいるつもりは毛頭なかった。
私は「家庭育ち」の時まで、自分的には言葉を選んでいるつもりだった。
私は今まで差別は良くないという教育を受けてたし、
自分でもそう思って差別はしたことがなかった。
自分は差別してないのに、一生懸命に生きてる人たちだと
(本当に勝手な)好意すら持っていたのに、なぜか「家族育ちに」「家族育ちが」と言われた。
なんで「人」がついてないんだろう。
何かしたいという気持ちで人の家に「どんな感じですか?」と聞いて人扱いされなかった気持ちになった。
言葉ひとつひとつにものすごい敏感な人たちが、
相手を人扱いしないのかわからなかった。
結局施設を出た人たちはそういう風に扱われてきたということなのかなと思った。
でも私が差別をしたわけではないのに、なぜそういう言い回しをするの?
というのは正直今も思ってる。
今思えば「何かをしたい」と思うには私はまだ知識がなさ過ぎる。
レイさんの庭に勝手に入ってきて「何かしたいから教えてくれ」では
主は困って当たり前だ。
でも私は「家庭育ち」で頭がいっぱいだった。
そのせいで言いたい事を、言わなくてもいい事を頭にあるものを怒りに任せてすべて言ってしまった。
ごめん。許せとは言わない。コメントはもうしない。
私は荒らしたくてここに来たわけじゃない。

それと里親について。子供と一緒に児童館に行くと、里親募集のポスターが貼ってある。
子供が生まれる前、なかなか子供ができないなと感じ、
ダンナさんに里親のことを言ったことがある。
その時「できなかったらそういう選択もあるよね」という具合にしか私も言わなかったし、
あっさり却下されたけれど。
それ以来なぜか他の児童館に行ってもポスターが目に付く。
でも、昔の事も思い出すし、私がいつつなぐ側になるかわからないんだとその度に思う。
その単純な不安がきっと、里親に関する発言に行ったんだと思う。
でも、マリアさんの言う通りだ。不安があれば、里親さんのHPで言うべきだ。

とにかく私は何が地雷かもわからずしゃべってしまった。
kasumiさんの言うように疲れたと思うよ、本当にごめん。
私も一人でも多くの施設の子供が家庭で育つことを心から願ってます。
今後も私みたいなわけのわからない人は来るだろうけれど、
レイさんとマリアさんのしている事は間違いなく大事な事だと思うから、
どうか発信し続けて下さい。

| atom | 2007/03/29 04:35 | URL | ≫ EDIT

 atomさん、あなたがあたしのコメントを読もうが読むまいが、どうでもいいけど、あたしがおかしいと思うことは、きちんと反論させていただくわ。
 それから、あたしのコメントはレイちゃんと話し合って書いているの。あたしのコメントがレイちゃんの意図から外れたら、レイちゃんから指摘されてしまうのよ。
 ただ、レイちゃんは、直接的な反論をぶつけることができない正確だから、あなたの意見に対してもNOといえないの。
 このコメントも、レイちゃんが了解していることをまず断っておくわね。

>家庭で虐待(※)を受けながら育つことと、施設でなんの虐待も受けずに育つことと
どちらが子どもにとっていいことか私にはわからない。

 あなたは、いつもこのように「究極の選択」のような表現をするのね。まるで、「家庭虐待」が施設で育つことよりもひどいことだといいたいけど、それをいったら猛烈な反論が来そうだから、歯にものが挟まったような並列的書き方をするの。

 あたしに言わせれば、どちらも不幸なの。そして、不幸に優劣をつけるのは間違っているの。あたしたちは「病人の病気自慢」「不幸自慢」をしたいのではないの。

 さらに言わせてもらえば、「虐待のない施設」は、とても少ないと思っている。まだ「虐待が表面化していない施設」があるだけだと思っている。

http://gyakutai.yogo-shisetsu.info/
↑「STOP!養護施設内虐待」というサイトを見てほしいわ。家庭で虐待を受けた子が、さらに施設でも虐待を受けているの。
もちろん、オール施設育ちも虐待を受けている。

 でも、あたしたちは、「家庭の虐待」と並列にしたり、比較したり、それこそ、どちらが酷いかなんて比べない。

 子どもたちに必要なのは「究極の選択」ではなく、家庭でも施設でも大切に育てられること。もちろん、里親家庭でも。

 そのうえで、施設に長期在所する子は、機能不全でない里親家庭に行ってほしいと訴えている。

 なのに、里親家庭の虐待話を持ち出し、あたかも(すべてとはいわないが)里親家庭が問題あるかのようなイメージをかもし出す。

 そこに、あたしとレイちゃんは、あなたの抱える課題の根の深さを知るの。あなたのような方は、過去にもたくさんやってきた。子どもたちを里親家庭にという訴えに対して、まるで、虐待里親家庭に行かせようとするかのようにクレームをつける。
 そこまで家庭不信なのは理解できるけど、過去を整理していないせいだとも思っている。

 じゃあ、

子どもは、どこで育てばいいの?
子どもは、どのように育てられればいいの?

 どうやら結婚し、子どももいるようだけど、虐待しない里親家庭に子どもを行かせればいいだけのことでしょ。

 それから、レイちゃんに里親家庭に行った子どもの話を聞くのもお門違い。

 里親さんのサイトやブログで話を聞けばいいだけのこと。
http://gyakutai.yogo-shisetsu.info/
↑たとえば「シドさんの里親のHP」とか…

 いずれにせよ、虐待家庭はあたしたちのカテゴリーではないので、これ以上、無駄な時間を使わせないでほしい。
 レイちゃんと同じ意見であることを、断っておきますわね。

 ここからは、誰というわけではなく、
里親になる方にお願いしたいけど、子どもの不幸を比較したり、優劣をつけたりするのは里親失格だと思うの。というか、なっても間違いなく失敗するの。

 施設で育った無愛着の子どもが家庭に来て、「もう家庭にいるのだから…」といったり、「家庭で虐待を受けるより施設のほうがまし」と言ったりする里親がいるとしたら、子どもは受け入れられているとは思えないわ。
 施設にいた空っぽの期間を、空っぽの心を埋められるほどそばにいて初めて、子どもは受け入れてくれる人だと感覚的に感じるの。

 それから、自分の過去はきちんと整理してほしい。どんな動機で里親を希望しようと勝手だけど、未整理の方は、間違いなく子どもに過去を投影し、結果として虐待したり、不適切な対応をするの。
 そのような、里親を選別し、教育するプログラムもなく、一定の条件さえ満たせば、誰でも里親になれてしまう現状が問題あるとは思っている。

 お願いだから、過去の可愛そうだった自分を救うために里親にならないでほしいわ。
 里親制度というのは、親が育てられない子どもに正しく育てる親を与える制度であって、自分を癒したい大人に子どもを差し出す制度ではないの。

| Maria | 2007/03/27 18:51 | URL | ≫ EDIT

大事なこと言い忘れた。

私が里親について調べ始めたのは、私自身が施設から子どもをひきとりたいという気持ちがあったから。
それがキッカケでここにたどり着いた私が
施設の子どもに対してよい感情を持ってないなんて、
あり得ない。

今は自分で生んだ子供に対する育児を通して
自分のキャパを知り、
周囲の理解も得られず、
今「ひきとりたいか?」と言われれば
私自身に自信がない為そうとは言えないけれど。

| atom@追記 | 2007/03/27 13:54 | URL | ≫ EDIT

急いで結論を出してくれたのに、
子どもがインフルエンザで反応が遅くなったatomです。

昨日の夜途中迄書いていたけれど、
うなされ始めた人がいたので、投稿できなかった。
そして今、今朝投稿されたレイさんのコメントを見て
どちらのレイさんに対してコメントを返すか迷うところだけれど、
親記事に対してのみコメントを返します。

※途中までは昨夜書いたもの。途中からは今朝書いたもの。

オブラートに包まず、感情をそのまま言葉にすれば
マリアさんのコメントに対しての私の感情はまさにこんな感じ↓。

>怒りが増幅して現実世界がおかしくなる

とてもよくない気持ちが私の中に起こって
不愉快さのあまり血の気が引いていくのがわかるので、
もうこのブログには来ないでおこうと思った。
あまりによくない気持ちが沸きすぎて
私の子どもに対する態度に影響が出やしないかと思うほど。

でも、自分の書いたものに対する責任があるし、
レイさんの考えが知りたくて、また来てみた。
それでレイさんが素直に丁寧に書いてくれていると感じたので、
今コメントをレイさんに対して書いています。

>たぶん「○○なんて言ってない、思ってない」という文章を素直に信じるべきなんだろう。

そう思ってくれてありがとう。
本当にそのまま受け取って欲しい。
そのまま受け取ってもらえないのであれば
私はコメントを書く意味がない。

例えば「差別」という言葉について、
私は自分のイメージと実際の言葉の意味があってるかどうか
この前のコメントを書く前に念の為にネットの国語辞典で調べた。
「区別をつけること」
「偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。」
自分のイメージと大体あっていると思った。
私にとって、差別の「意味」はこれ以外に有しない。
マリアさんがいろいろ書いてくれてたみたいだけど、それは差別に対する「知識」だと私は思っている。
言葉に対する「意味」と「知識」は別物で、さらに「使い方」も「意味」とは異なると思ってる。

>何故一度も家庭生活をした事がない子ども達の存在を語ると、機能不全家庭の話へ変化していくのか理解がしにくい。

逆になぜレイさんは一度も家庭生活をしたことがない子ども達の存在と
機能不全家庭の話を別に考えることができるのだろう、と私は思う。
例えば施設の子どもが里親と生活することができたとする。
でもそこで虐待にあったら、それはどちらの分野の話なのか。
それから、もうひとつ。
家庭で虐待(※)を受けながら育つことと、施設でなんの虐待も受けずに育つことと
どちらが子どもにとっていいことか私にはわからない。
これらはすべて私限定の考えだけれど。
※ここでの虐待はabuseとかそういうのは抜きで読んで欲しい

「その前提を基礎に語りたい事」について。
私はレイさんと「里親家庭の質の問題」について語りたいと思っている。
「施設の子どもを里親へ」という思いに私は反対ではない。
けれど里親に行った後のいろいろな問題について考えると、
里親に行った後「何かあれば児童相談所へ」
それではあまりにも無責任な気がする。
冷蔵庫の話の「ニュースソース」がどうだとかマリアさんは言っていたが、
その話はニュースで知ったのではない。
私の近いところで起こった事だから。
信じる信じないはレイさんの自由だ。

私はマリアさんが言うところの多数の人間だからこそ思う。
少数派であるレイさんとマリアさんには
いろいろな思いをしながらも発信し続けて欲しいと思う。
「思い」以外にも「施設で差別を受けている子どもの実情」を
発信することは、施設を経験した人間でなければできないと思う。
(でも、差別の実情を発信する事と発信する相手に対して偏見や先入観を持って差別する事は
 何も生まないのでやめて欲しい。)
その発信する過程で、自分が語りたいと思う相手限定で構わないから
家庭で育った人と語った方がいいと思う。
そうでないと、お互いがマリアさんが言うところの
「夜郎自大」になっていってしまう可能性があると思う。
私はレイさんとは「『施設の子どもを里親へ』のその後について」語りたいと言ったけれど
レイさんが私と語りたくないのなら、私でなくても構わない。
少なくとも今の私はマリアさんとは間違いなく語る事はできないし。
お互いを理解することは到底できないと思う。
(そもそも語り合うにはお互いを「人」として認めなければ語ることなんてできないと思っている。)
私が「伝わる」という言葉を使うのは
最初からお互いを理解し合うなんてできないだろうと思っているから。
とりあえず言葉とその意図することを伝えたいし
その努力はしたいと思っている。
私の文章はそのまま受け取って欲しい。
私はそれ以下でもそれ以上でもない文章を心がけているつもりだけれど、
今までのいろんな人とのやりとりの中で
いろいろな事を言われてきているようなので、行間を読む癖は仕方のないことだと思う。

あくまでレイさんの意思に任せるけれど、もし私に対して反応してくれるのであれば
私の文章の行間を読むのはやめて欲しい。
何も書いてない行間を読むのは、読むだけ無駄だ。

>そして施設の子だけが苦労していると書いているんじゃないが、苦労のカテゴリが家庭育ちの人とは違うように思う。

私もそう思った。そう、きっとカテゴリが違う。
施設の子どもが抱える問題点は、きっとレイさんが言っていることの通りだと思う。
私には施設出身者が言うのだからそうだと思うだけだけれど。
家庭の子どもが抱える問題点は、本当に千差万別だ。
家庭にいるのに人間関係が希薄な場合もあるし、
あまりに濃密な人間関係の為、苦しむ子どもだっている。
「施設の子だけが苦労しているわけではない」と私が書いたのは理由がある。
私は家庭で育ったけれど、私の人生の3分の2は
周囲の人間の気持ちばかりを考えて推し量ることばかりをしていた。
だから人の気持ちの難しさについてはよくわかっているつもりだ。
それでもマリアさんは私を「家庭で育った」という点と
その他の何個かのコメントの無い行間を読みまくり、
そこには何もないのに私の勝手な気持ちをつくりあげ、
人の気持ちなんてお構いなしな人間と一緒にしようとする。
そのことに対して出た感情的な言葉だと思う。
感情をぶつけるだけの言葉はよくない。
これに対しては私の表現に問題があることだと思う。

>その人はその人独自の過去から来るものがあるのを読めば、とてもそんな事は言えない。

そう思うよ。申し訳ない。

あと「今はいるじゃん」について。
私のレイさんに対する「今はいる」については、
絆相手がいるということは今は人間関係ができている、
ということではないかと思うだけ。
レイさんがその他大勢の社会の人に対して人間関係ができているかどうか
それは私にはわからない。

>自分が答えてみたいと思う魅力的なコメントを求める自由を行使したい。

それでいいと思う。
私のコメントに対してレイさんが答えてみたいと思えば
反応してくれればいい。

>この人を守ると思えば自分の事などお構いなしで、傷だらけになってしまう。

マリアさんのレイさんに対する愛情はとても深いと思う。
やっと見つけたソウルメイトと思えば、そうなっても仕方ない気持ちもわからなくもない。
(また「わかるわけないだろ−」とか言われそうだけど。)
でも正直なところ、感情的なマリアさんのコメントについては
私はとても精神的被害を蒙っている。
私は何を言われても、正しく優しい気持ちを抱ける程できた人間ではない。
でも今後、マリアさんのブログで何を書かれようと
このブログのコメントで勝手な人間像を作られようと
どうでもいい。
私はもうマリアさんの私に対する血気盛んなコメントを
読まないと決めたので、彼女に対するコメントも返せない。
煮るなり焼くなりマリアさんの好きにして、と伝えて欲しい。

>テーマは無愛着の話ではないという印象を受けるので、カテゴライズすると別の話になるのかもしれない。

そう。
カテゴライズすれば、私のテーマは無愛着ではないと思う。
私はすべての子どもに人間らしく育ってもらいたいと思う。
(でもこれは大きなテーマで、漠然としている。)
その為に今人間扱いされていない施設の子どもの事を知り
何ができるだろうと、思い施設の子どもの実情を知りたくて
ネットでいろいろ見ていたらここに辿り着いた。
細かいカテゴライズはまだ私の中でできていない。
ネットで人のブログにこういうものを書くのも今回が初めてだし、
まだ自分の気持ちを理路整然と書き表す事になれていないので
ある程度のわかりずらさは大目に見てもらいたいと思う。

私は世の中の子どものことを考える前に
自分の子どもを大切にしなければならないと思ってる。
だから私に対して丁寧に記事を書いてくれても、
迅速にコメントを返すことができない事、
それとひとつのコメントを書くにあたり、
だいたい見直し時間も入れると、私はだいたい2時間かかる。
だから迅速に反応するのは難しいという部分はわかって頂きたい。。

最後に、レイさんが言うようにすべてのコメントに反応する必要はないし、
それはレイさんの自由だよ。
長くなってごめん。

| atom | 2007/03/27 13:24 | URL | ≫ EDIT

 わたしは自分の思いが人に伝わると思う程おめでたくない。でも反応されたら真面目に答えなくちゃと思いすぎて、自分がまだ整理中なのに急いで結論を出そうとするのがあまり良くない結果に繋がると思う。

 ともかく、この親記事以上の事はもう書けないし、施設の問題を語るのに言い訳がましい気持ちになるのも・・・。

 この親記事で自分のスタンスとしたい。コメントの応酬はどちらかというと、どっちが何を言ったか言わなかったかのような、疲労感はあるが意味がない事が多いと思う。

 もうだんだん分かってきたからMaria。わたしは必要な事を一方的に語っていこうと思う。不快ならば来ない自由はもちろんあると思った。自分が答えてみたいと思う魅力的なコメントを求める自由を行使したい。

| レイ@確かに何度も同じくり返しには疲労感が | 2007/03/27 07:43 | URL | ≫ EDIT

 Leiちゃんとふたりでサイトやブログを立ち上げて、もう5、6年になるかしら。

 施設職員は「全ての施設がそう(暴力施設)ではない」と、全ての施設が暴力施設でなければ、施設の問題を語ってはいけないかのような言いがかりをつけてきた。

 機能不全家庭の方は、その機能不全家庭の実情は語らずに、「子どもたちを家庭へ」という訴えに不快感を示した。
 「子どもたちを施設ではなく家庭で育てて欲しい」という訴えは、虐待家庭で育った自分を否定された気持ちになるみたい。

 あたしは、経験値を上げたから、その人の語らない不快感がわかる。だけど、そんな人を相手するのは時間の無駄だから、スルーすることを覚えた。

 戦うことは、必要な場合もあるけど、同じ事の繰り返しは時間の無駄。

 今回も、あたしはスルーするつもりでいたの。

 だけど、Leiちゃんの感じる違和感につきあったの。

 あたしは、Leiちゃんが正しいとか間違っているとかはどうでもいいの。あたしの大切なLeiちゃんが、そう感じるのなら、あたしも一緒に戦う。それが、友達ってものだもの。

 もちろん、たしなめることもあるし、違うよ、と反対することもある。

 今回は、あたしも同じ感覚だったら、スルーしようと思ったにも関わらず、Leiちゃんの違和感につきあってしまった。

 全ての人に理解してもらわなくていい。もし、世界中に理解して欲しいとしたら、それは不遜な考えだと思う。
 たかが個人のブログで、日本全国を相手にするつもりもない。

 通りすがって、読んでくれて、理解してくれる人がいれば儲けもの。

 夜郎自大になれないところが、世の中の不要な子どもとして育った施設育ちの限界なのかもしれないわね。

| Maria | 2007/03/27 00:22 | URL | ≫ EDIT














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