PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

赤ちゃんを救うという「救いの範囲」


http://www.sanyo.oni.co.jp/sanyonews/2007/03/19/2007031909284823003.html
赤ちゃんポスト やむにやまれぬ判断でも

 熊本市の病院が、事情があって親が育てられない新生児を匿名で受け入れる全国初の「赤ちゃんポスト」の設置を計画している問題が、波紋を広げている。

 病院の外から開けられる箱形のポストに赤ちゃんを入れると警報が鳴り医療関係者が駆けつける仕組みだ。中から外は見えない。病院では緊急措置であることを強調し「捨ててもらうのが目的ではない。新生児の産み捨てや、不幸な中絶を少しでも減らしたい」と理由を説明する。

 赤ちゃんは、乳児院や児童養護施設で育てられるか、里親に預ける。病院ではポストと呼ばず、「こうのとりのゆりかご」と命名している。

 改築のために医療法に基づく施設の変更許可が必要なため、許可を出す熊本市などが国に法律上の問題がないか確認を求めた。厚生労働省は「設置自体は現行法に違反しているとはいえない」と一応、容認する見解を伝えた。最終的に「救える命がある」ことを重視した判断だろう。

 長勢甚遠法相も、赤ちゃんをポストに置いた保護者に保護責任者遺棄罪などの刑法の適用は難しいとの判断を国会で示した。「生命、身体に危険が生じる恐れがなければ罪の成立は認めがたい」からだという。

 一方、安倍晋三首相は「匿名で子どもを置いていけるものをつくるのがいいのか。大変抵抗を感じる」と強い反対姿勢を示した。安易な育児放棄を助長させると懸念を示した政府関係者もいた。

 病院にも一般市民から賛否の声が多数寄せられている。赤ちゃんを捨てる親を非難するのは簡単だ。しかし赤ちゃんはどうすれば救えるだろうか。さまざまな立場から考えていきたい。


 コメント

 わたしは職員から「学園がなかったらお前なんかとっくに死んでたんだぞ」と駅のコンコースで怒鳴られた事がある。自分探しの旅の途中で「施設に入りたかったわけじゃなかった」と言ったら、急に激怒された。

 よくわたしは「救われた人」だと言われるんだけれど、どのくらいの範囲まで救われたんだろうか。

 で、ごく普通に「赤ちゃんを救う」と言った場合は、たぶん「命」が消えないように救うという意味で使われているのだろう。それはわたし自身がよく「あなたは救われた人」という表現をされる。それは、死なずにすんだ事が救われた事として狭く定義されてるから、そのような表現で諭される。

 わたしは、それでもまだ救われ足りないと思っている。

 命は永らえたが、心が永らえたという気があまりしない。そして色んなものを諦めすぎたような気がする。命を永らえる事が最低限の生活を強要される事に繋がっている。それが児童養護施設入所なのだろう。

 捨てられた赤ちゃんたちが、不機嫌なコウノトリが運んできた「こうのとりのゆりかご」から、乳児院・養護施設へ措置され、救われたのはとりあえず「命」だけ。

 でも乳児院・養護施設だけの生活ではよりよい子ども時代を通してよりよい人生を生きる為の基礎固めにはならない。最低基準の最低限の許された枠の中でしかモノを見る事ができない。施設を出ても施設の高い塀の上に横たわる蒼空を睨むような、そんな子ども時代の心の癖が、いつまでも心に自由を許さない。 

 もっとよりよい人生を生きるために、家庭で育ちながら地域社会の子どもとして成長する権利を保障してほしい。人が命を永らえさせたなら、よりよく生きる権利もある筈なのだから。

|  気になる記事のCLIP2007 | 23時02分 | comments:15 | trackbacks:0 | TOP↑

マリアさんへ

「赤ちゃんポスト」に関係なくなってるし
2つ別々だとごちゃごちゃするので
「それでも「虐待を受けてない施設出身者」という感覚 」
のコメントで一緒にコメント返します。

| atom | 2007/03/26 00:34 | URL | ≫ EDIT

atomさん

「今いるじゃん」

 という言葉は、今は居るから、子ども時代はどうでもいいとしか解釈できません。あたしは血のにじむような努力をして、全てをぶち壊したい気持ちを歯を食いしばって抑え、かろうじて糸のように細い絆を保ち続けてきた。

 だけど、施設に育つ子どもには、こんな努力をしなくてもごく普通に絆を持てるような里親家庭に行ってほしい。あたし達は機能不全家庭の事は分からない。atomさんのいう家庭はあたし達の想定外。atomさんの言う家庭に子ども達が育って欲しいとも思わない。

 機能不全でない家庭に子ども達は行って欲しい。ただ、あたし達は機能不全も含めて、家庭を知らない。機能不全家庭とそうでない家庭と、違いがあるのか、世の中の全ての家庭が機能不全家庭なのか、施設の子どもを育てるにふさわしい家庭があるのかないのか、その情報は持っていない。

 唯一、里親sidoさんの他、あたしの周りの里親からの情報しかない。

 その家庭は、あたしから見ても子どもはのびのびと育って、あたしもこんな家庭で育ちたかったと思わせる家庭です。

atomさん、ここまで言うのであれば、子どもを育てるにふさわしくない家庭の例を示すべきではないかしら?

| Maria | 2007/03/25 22:58 | URL | ≫ EDIT

Mariaさんへ

失踪しようとする→引き留める→失踪しようとする→引き留める・・・

この繰り返しができること自体、
人間関係ができてるってことに私には見えるけどな。

安定した人間関係なんて、家庭で育っても
そう簡単に手に入るとは私は思わない。
私は家庭で育ったけど、他人に対して
「大好きでいつも話していたくてずっと一緒にいたい」
そんな気持ちを抱いたことは一度もない。
昔好きだった男の子に対しては、その時そう思ったかもしれないけど。
こと同姓に対してそんな気持ち抱いたことは一度もない。
今は結婚して子どももいるけど、
ダンナさんに対してもそうは思わない。

>「アルジャーノンに花束を」みたいな話なの。愛しい人さえ、記憶できずに消えてしまう。
 子ども時代からの無愛着の悲しさは、そこにあるの。

愛しいと思える人がいて、忘れてしまう悲しみを知っているのと
そもそも愛しいと思える他人を持ってなくて悲しみがよくわからないのと
どちらが無愛着なのか私にはわからない。

#今回も、大変だったんだから…

大変だったのかぁ・・・ごめんね。
でも「今あるからいいでしょう」とは言ってないんだ。
「今あるじゃん」と言っただけ。

私は最近このブログを知ったけど
なんか「家庭育ち幻想」みたいのを感じる。
家庭で育ったからといって、
みんなが愛しい人をもっているわけでもないし
家庭で育ったからといって、施設で育った人に対して
みんながみんな差別するわけでもないように
みんながみんな励ますわけでもないと思う。
少なくとも私は差別もしたくないし、
無責任に励ましたいわけでもない。

ただ今現在持ってものを「持ってない」と
一生懸命思い込もうとする必要はないんじゃないかと思う。

| atom | 2007/03/25 16:38 | URL | ≫ EDIT


> あたしと2日間話していないと、記憶から消えていくの。

 たぶん、特別感がなくなる。大事な思いを伝え合っても、少し経つと、そんな風に思っていた事さえが嘘のように感じられる。

 そしてその時点で連絡を取り合わないと多くの人々の中に紛れ込み、失われてゆく。

 たぶんそれを記憶できなくなるという風に捉えている。キーワードは集団化してしまうという事。

 未分化の状況へその人をカテゴリわけしてしまうという事。施設の子にとっては、特別な人がいるだけで罪深きこと。消し去りたい気持ちがあるのもしれない。

 親友でも片思いの彼でも何でも、自分が思うことが全て、神に対してそむいている気分なのかも。

| レイ@一番初めに薄れてゆくもの | 2007/03/24 18:36 | URL | ≫ EDIT

atomさん、

>でも、レイさんは人間関係築けてるように見えるけど。
>レイさんが築けてないと思うならしょうがないんだけど。

 あのね、築けてるように見えるのは、そう見せているからなの。
 いつもいなくなろうとするのを、あの手この手で、あたしが引き留めているの。あたしがLeiちゃんを追っかけなかったら、Leiちゃんは失踪してしまうの。

 あたしはLeiちゃんが大好きで、いつも話していたいし、ずっと一緒にいたい。だけど、Leiちゃんは、あたしと2日間話していないと、記憶から消えていくの。

 なかなか、安定した関係が築けていないのよ。

 「アルジャーノンに花束を」みたいな話なの。愛しい人さえ、記憶できずに消えてしまう。子ども時代からの無愛着の悲しさは、そこにあるの。

 Leiちゃんは、「いまあるからいいでしょう」みたいな事をいわれると、「よし、いかに無愛着か見せてやろうじゃないか」と、全ての人間関係を(といっても、数人だけど…)ぶちこわそうとするの。
#今回も、大変だったんだから…

 だから、いまあることを良しとするようなコメントは、禁句なのよ。

| Maria | 2007/03/24 04:37 | URL | ≫ EDIT


 「よりよく生きたかった」と思うその内容、個人的にわがままに一回書いてみようかな?と思います。

 つまり、もし自分が子どもだったら、どんな風にしてもらいたかったか。

| レイ@うみぼうずさんへ | 2007/03/23 10:34 | URL | ≫ EDIT

 atomさん、了解です。確かにわたし自身の現在、電話の電源を切れば、怒り交じりの心配してくれる人がいる。それも生きていればこそ。命がまず保持されなければ、その先は全くない。でもその「命」の行き先を案じる以前の、全くもって容赦なく消される命がある事も考えたいと思います。

 わたしの主張はおそらく、命は当然守られるべき。そして、その後の自分の生き辛さなどを基礎にして、子ども時代に命が守られた上で、尚、よりよい子ども時代を求めている、かつての施設っ子その1という事です。

 がんばって、でも認めるべきは認め、書いていきます、コメントありがとう。

| レイ@少し了解した | 2007/03/23 10:29 | URL | ≫ EDIT

またまたatomです。
しつこくてごめんなさいm(_)m

私はただ「生きていれば可能性はある」
という事実を書いただけ。
「死なずにいたのだから良かった」とは言ってないよ。

マリアさんが言ってたように、
>「命があってよかった」と言えるのは
>その命が輝いているときだけ。
>生きていてよかったと思える人だけ。

私もそう思う。
でもその命が輝く瞬間はどこで来るかわからない。
もしかしたら最後まで来ないかもしれない。
それは誰にもわからない。

そもそも、
「死なずにいればどんな可能性でもある」
というのは励ましなのか?と私自身で考えてみたけど、
それってやっぱり本当の事だし。
死ななければどうとでも生きていける。
死ぬ事だってできる。

前にも書いたけど、すべてが深くて難しい。

ちなみに人との関係だけど、
「レイさんやその他のブログを読んでる施設だけで育った人に」
という私の記述は、やっぱり無責任かもね。
でも、レイさんは人間関係築けてるように見えるけど。
レイさんが築けてないと思うならしょうがないんだけど。
本当に築けてない人に文句を言う人はいないし、
本当に築けてない人は、その人の精神状態を心配して
電話をかけてきてくれる友人なんて持ってない。

>ただ、わたしは施設についての印象しか語れない、

施設についての印象しか語れないとレイさんは言うけど、
施設を知らない私のような人にとって
施設の子どもたちのことを考えるのにそれはとっても大事なこと。
だから大いに店開きしてください。

マリアさんへ
小平のこと、教えてくれてありがとう。

あ、赤ちゃんポストから少し離れちゃったコメントで
ごめんなさいm(_)m

| atom | 2007/03/23 00:21 | URL | ≫ EDIT

>でも乳児院・養護施設だけの生活ではよりよい子ども時代を通してよりよい人生を生きる為の基礎固めにはならない。
ほんとに、そのとおりですね。一生を左右する子ども時代です。よりよいものを、めざさなければなりません。子どもたちには、最善のものが与えられなければなりません。施設で、「かわいそうな」状態においておいては、いけない。

| うみぼうず | 2007/03/22 20:48 | URL | ≫ EDIT

 atomさん、

>でも、私は同時にレイさんやその他のこのブログを読んでる施設だけで育った人に「今、ちゃんと人との関係は築けてるよ」と言いたかった。
 
 それはどうもありがとう、あなたから見て築けていますか。そうですか、それでは「わたしから冷たくされ被害を受けている」とわたしに文句を言っている夫やその他の交流のある人に、わたしは「ちゃんと人間関係築けているように見えてるようだよ」と諭すべきか。

 そして「過去や育ちがどうであれ、今こうして関係を築けているのだ。だから、死なずにいたのだから良かったのだと、死なずにいればどんな小さな可能性も可能性として残る」という風に励ましてくるか。

 そんなに物事が簡単なら愛着障害について何も発信する必要はないのだ。

 ただ、わたしは施設についての印象しか語れない、家庭体験をしてないから、atomさんが知っている事をわたしは知らない。だからatomさんが何か、苛立ちのようなものを抱えていても推し量る力がない。その部分は素直に認める。

 だからこそ、違う立場からのやりとりは大事だと思う。わたしも書く、あなたも書く(コメントやその他の方法で)、お互いに自分が知っている世界を持ち寄り、子どもにとってどう育てられる事がいいのかを、考えていきたい、だからコメント感謝です。

>とても辛そうだったから。
もちろん私が勝手にそう思っただけだけど。

 いえいえ、勝手にそう思った事について、わたしも思った事を書いているからお互い様。

 でも非常に一つ誤解があります。

 それは「辛そう」なのはわたしなのでなくわたしと接している周囲の人なのです。周囲を辛くさせているその謎に迫るために、自分の覚えてる範囲でのエピソードを書いて、問題や課題をここへ、店開きしています。

| レイ@atomさんへ | 2007/03/22 07:04 | URL | ≫ EDIT

誰にも出会えずに死んでいった子どもたち…

http://blog.livedoor.jp/maria_magdalena/archives/50831534.html

 養護施設に収容されて助かったはずの子どもたちが、施設で虐待を受ける。

 どんな理由かわからないけど、施設で死ぬ子もいる。死んでもなお、見も知らぬ他の子と一緒に葬られる。

 この子が赤ちゃんポストから来た子だとしたら、「赤ちゃんの時に死ななくてよかったね」といえない。

 施設で虐待された子に、施設で殴られている子に、施設でレイプされている子に、「命があってよかったね」といえない。

 施設を出た後、たったの一人で生きている人が、他人との健全な関係を作れずにいる人に、その結果、いろんな事を壊して失踪する人に、「命があるだけよかったね」といえない。

 「命があってよかったね」と言えるのは、

その命が輝いているときだけ。
生きていてよかったと思える人だけ。

あたしもLeiちゃんも、とりあえず生き延びている。
いえ、まだ死んでいない。
それを持って、良しとする気持ちになれない。

生き延びることの出来なかった子どもたちが、黙って立ってあたしたちを見ている気がするから…

ものもいわずに、責めるでもなく、ほめるでもなく、
ただ、死んだ魚のようなうつろな目で、
あたしたちのそばに立っているだけ。

生き延びてしまったから、
まだ死なないから、
ものをいわない子の眼が突き刺さるの。

生き延びてしまった施設育ちの、
まだ死なない施設育ちの、
背負わされた業(ごう)なのかもしれない。

| Maria | 2007/03/22 01:45 | URL | ≫ EDIT

心の全ては簡単には言い表せない、でも応援してることは伝えたい。

私は全部書いたら、あまりに長くなりすぎると思い、
ただ、赤ちゃんポストに対する私の思いだけを書きました。
でもあれでは言葉足らずだったんだな−、と
返してくれたコメント読んで思ったatomです。

そもそも、ポストについてコメントしたのは
マリアさんのブログ内でレイさんとポスト反対派の方の
コメントを読んだのが、直接的なきっかけかも↓
http://prayermaria.blog74.fc2.com/blog-entry-14.html#comment65

今思えば、マリアさんのブログ内であかねさんにコメ返しすれば
よかったかな?

でも、私は同時にレイさんやその他のこのブログを読んでる
施設だけで育った人に
「今、ちゃんと人との関係は築けてるよ」と言いたかった。
とても辛そうだったから。
もちろん私が勝手にそう思っただけだけど。

もちろん、だからって
施設だけで育ってもいいじゃないか、
というわけではないですよ。

私がここにコメントを記入するまでには
たくさんのサイトを見てきました。
もともと里親について調べていたので
里親さんの体験談とかもたくさん見たし、
施設で育った人のサイトもたくさん見た。
エドワードさんのHPも全部読んで泣きました。
もちろんマリアさんのHPも、その他の方のも。

レイさんやマリアさんの問いかけについては
十分理解しているつもりです。
理解はしているし、だいたい同じ意見だけど、
でも、すべてに関して同じではないかもしれない。

ポストに入れてそれでおしまいではないように、
里親家庭に委託してそれでおしまいではないと思うから。
そう思う理由は、レイさんたちの活動に
水を注す事になりかねないから、ここでは書かないけど。
どうすればいいかな。。。

それでも
「すべての子どもがきちんと育てられなければならない」
ということだけは私も同じ意見です。

里親制度も、養護施設の問題も、
人対人の問題だから、本当にとても深くて難しい。
劇的によい方向に向かう事はなくても、
まずは多くの人に関心を持ってもらわなくちゃいけないと
私は思ってます。
思うけどどうしたらいいのかな、
私に何ができるのかな、と思ってます。

シドさんへ
ポストに入れて(又は施設に入れて)
迎えにも面会にも来ない「生んだだけの人」が
私は子どもを育てられるとは思ってないので
「ポストの設置が捨て子を助長する」という考えに対しても
私はそうは思いません。
    ↑
これもこの前はしょっちゃった部分です。。。
やっぱり私、言葉足らずすぎですね。

マリアさんへ
私の文章のどの部分でそんな原則を思い出したのか、
私にはわからないけど、
そもそもその原則自体私には(読んでも)理解できないんだけど、
そんなことは微塵も思ってないよ。
安心してください。

| atom | 2007/03/21 13:45 | URL | ≫ EDIT

命が救われれば、乳児院・養護施設で子ども時代の全てを過ごしていいのか

里親のsidoです。

 子どもの命が救われるのは、大前提であり、このことに異議を申し立てる人はいません。
 しかし、多くの方たちの意見は、「捨て子を助長する・しない」といった議論に、終始している印象を受けます。

 しかし、Leiさんは、命が救われるだけでなく、その先の話をしています。「捨てられて救われた命は、施設で捨てられ続けていいのか」と、LeiさんやMariaさんは問いかけています。

 sidoは、先日、新聞の取材で、
「乳児院や養護施設で、親がいても面会にこない子がいる。子ども時代の全てを施設で過ごす子が1割いる。5年以上では3割いる。親が面会にもこないで施設に5年以上いる子は、実質捨て子と同じだ」といいました。

 子どもは、産めばおしまいではない。産んだ後、きちんと育てなければなりません。

 子どもは、赤ちゃんポストで救われればおしまいではない。救われた後、きちんと育てなければなりません。

 命が救われて、よかったでおしまいにするのは、赤ちゃんポストに捨てる親に通じるところがあります。

 子ども時代の全てを乳児院・養護施設で育つのは、システム虐待であり、社会に捨てられ続けているに等しい。 

 救われた命が、捨てられた子どもが、どう育つのが幸せなのか。その議論もして欲しい。

| sido | 2007/03/21 02:31 | URL | ≫ EDIT

趣旨は同じなのに微妙にすれ違う「その後」

atomさん、こんにちは。

 Leiちゃんは、赤ちゃんポストですくわれた後、乳児院・養護施設で子ども時代の全てをその他大勢の集団生活を送るのではなく、たった一人の子どもとして養子縁組家庭や里親家庭で育って欲しいといっているの。

 atomさんの意見を読んでいると、「劣等処遇の原則」を思い出しますわ。

↓劣等処遇の原則についてはこちら↓
http://casewk.com/archives/2005/08/post_147.html

関連記事↓
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060227/p1

| Maria | 2007/03/20 12:39 | URL | ≫ EDIT

 はじめましてatomさん、

>私は生まれたての命は死なせてはいけないと思う。

 同じ考えですね、良かったです。

>私は可能性が限りなくゼロに近くても、
>先につなげることは大事だと思うの。

 はい、あなたは、わたしがこの赤ちゃんポストの存在自体を否定しているのではない事がお解かりいただけてるか、不安ですが、おそらく大丈夫と思いますので、続けますが・・・。

 赤ちゃんポストにより、失わなくていい命が失われずにすむ事は大事ですが、施設出身者たるものとしては、そこで『はい、救われました、終わりです』は何のためにブログ書いているのか、という観点から、今ホットな話に手を付けました。

 わたしが求めてるのは「その先」です、全ての子ども時代が乳児院・養護施設の集団養護「だけ」で育てられる事などの弊害については文書作成中ですが、それらの事からも、
  
 子育てとは「将来この世界(日本)で自立してやっていけるように、その子に関する可能性の枠を広げる」でもあるのだから、子ども時代に普通の(当然機能不全じゃない)里親との生活を過ごす事で、世界に関する漠然とした視野を広げたり、家庭生活を体験ではなく体感してゆけるようにと、「里親家庭への委託を願う気持ち」で書いたつもりです。

  それから、施設を出た方でも、下の方にトラックバックして下さったような方もおられるようですので、よろしかったら色んな施設育ちの意見があるので、ご覧になってみて下さいませね。ご意見をありがとうございました。

| レイ@atomさんへ | 2007/03/20 08:34 | URL | ≫ EDIT














http://escapeorgoodfight.blog85.fc2.com/tb.php/110-86150ec5

PREV | PAGE-SELECT | NEXT