 | 故・曺圭訓氏 | 曺圭訓の名が在日朝鮮人と日本社会の表舞台に登場したのは、太平洋戦争さなかの1944年7月だった。
発端はささいなことだった。
曺はある日、金を借りにきた親戚の頼みを断った。するとその親戚が、「曺圭訓は共産党員」と密告したのだ。
神戸憲兵隊に呼ばれた曺は、3日間の取り調べを受けて解放された。その時憲兵隊長が、立ち去ろうとする曺に声をかけた。
「夏山(曺の日本名)社長、兵庫には20歳前後の朝鮮人徴用者が2000人ほどいる。あいつらはしょっちゅうストライキをしていて、一日も静かな日はない。サーベルで脅かしたり、見せしめに殴ってみても、まったく言うことを聞かなくて苦慮している。あなたは朝鮮人事業家でしょう? あなたならあいつらを説得できるかもしれない。ぜひ協力してもらえないか」(曺の回顧談より)
曺は、戦中から事業家として成功を収めた数少ない在日朝鮮人の一人だった。朝鮮人という理由で事業認可を受けることはできなかったが、1941年から神戸市鷹取で数十人の同胞を雇ってゴム工場を経営していた。兵庫県西部の有年にある森を丸ごと買い、伐木事業も手がけていた。粘り強く、日本社会で信用を得た人物であることを窺わせる。
憲兵隊長が話していた徴用者は、川崎製鉄所で働いていた。製鉄所を訪れた曺は、同胞の悽惨な労働実態を目撃した。
二十歳そこそこの青年に配給される食糧は非常に乏しく、安全装置はおろかまともな作業服もないまま、危険な労働現場に配置されていた。
彼らは労働条件の改善を求めてストライキを行っていた。日本人雇用主はそれを許さず圧力を加えてきたが、労働者も負けじと対抗していた。
曺は徴用者代表の朴球会氏に会って、説得を試みた。
「戦争中で物資不足なのだから、ストライキをしても得るものはないではありませんか。むしろ青年たちが傷つくだけです。仕事が終わったら私の工場にいらっしゃい。幸いにも備蓄しておいたコメがあるから、夕飯くらいはごちそうできますから」
明くる日から、鷹取にあった曺の工場には毎日徴用された同胞が集まるようになった。家にまで呼んで食事を振る舞うこともあった。
そのようにすごすうち、1945年8月15日に解放を迎えた。
突然の変化だった。
敗戦国日本は無政府状態になったかのような混乱に陥った。主要都市と施設は爆撃を受けたままの状態で放置され、社会秩序の乱れは深刻を極めた。経済も完全に崩壊し、物価と失業率は日を追うごとに上昇した。
日本人は飢えていた。日本に生活基盤がなかった200万人以上の在日韓国・朝鮮人は、それ以上に苦しい生活を余儀なくされた。
「同胞の大半が餓死状態」と、1949年10月15日付の在日韓国系新聞「民主新聞」は報じている。行き場を失った元朝鮮人徴用者は浮浪者となり、一部は掠奪を生業とした。
同胞の境遇を目の当たりにした曺は、深く苦悩した。解放直後から2週間、伐採場があった有年の山奥にとどまり、今後のことについて考えをめぐらせていた。
(敬称略、ソウル=李民晧) |