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旅に出る鞄(かばん)に一冊の本をしのばせる。だが、巡る先々の楽しさに気もそぞろとなり、なかなか活字に集中できない。〈本の栞(しおり)少し動かし旅終る〉。近江砂人(おうみさじん)の川柳は、誰にも覚えがあろう一コマを切り取って微笑を誘う▼先の小紙俳壇には、日原正彦さんの〈春風が十頁(ページ)ほど拾ひ読み〉があった。読みかけを風がめくる。夏の木陰にはミステリーもいいが、春風には恋愛短編集が似合いそうだ。だが栞にせよ風にせよ、紙の書物ならではの光景が、やがては過去の感傷に遠のくかもしれない▼米国生まれの新型情報端末「iPad」が、鳴り物入りで売り出された。週刊誌大ながら様々な機能や可能性を満載している。中でもネットで買って読む「電子書籍」への関心は高い。先行する米国では「紙の本はもう買わない」という人が増えているそうだ▼品ぞろえが充実すれば、これ一台で行く先々が「書斎」になる。読書革命ともいえるが、旅の鞄に一冊だけをしのばせるのも捨てがたい。書店の棚からお供の一冊を選ぶのも、本好きの楽しみのひとつである▼今後は「電子」の猛攻に「紙」がたじろぐ図となろうか。とはいえ書物そのものにこだわる人は少なくない。詩人の堀口大学が、「僕は殺すと云(い)われても、万葉集や古今集を革の装幀(そうてい)に仕立てる気にはなれない」と述べていたのを思い出す▼内容と外見が調和してこそ名著、という感覚だろう。いわゆる愛書家である。仕事柄、わが紙への愛着もひとしおだが、選択肢が増えたのを歓迎したい。食わず嫌いはひとまずおいて。