記憶があるのと無いの境目を「集団養育との絡み」で考える その2
その1
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主題テーマ:愛着と記憶は、時に必ずしも連動しないような気がする
わたしが「記憶」について乏しすぎるのは家庭を知らないから、養育者(担当保母)がコロコロ変わる環境下で育てられたから、だから記憶保持が難しいんだという方向で納得する事は、自分の物覚えの悪さを集団養育の中に求める事ができそうで、精神的には受け止めやすい。
夫との度重なる会話の影響も受けている。彼はいわゆる虐待のない家庭育ちで親から自らの記憶を補強するべく、小さな頃からのエピソードを何度も何度も話を聞いていた。わたしは盗み読みした育成記録だけが全て。わたしが彼の生家に行った時も、おそらく彼が覚えていない小さな頃の話を沢山してくれた。その上、誰も彼女を止められない。息子のエピソードを語るのが彼女の生きた証であるかのよう・・・。
夫は、そういう家庭で育てられた事もあり「記憶には絶対的な自信がある」と言っていた。夫の特徴は記憶しているシーン一つに関する他の出来事の影響なども、相関図で示せる事ができること。何故今そのシーンに至ったのかが理解できている事。そして時系列が理解できている事などだった。
それは一つの安定している家庭の中で、同じ親の元で育てられたからだと思っていた。そして三次元的に彼を取り巻く全てに彼は愛着を持てる為、記憶する能力が強いのだと思っていた。
わたしは、夫との対比だけで全て説明してしまおうとする為、他の機能不全の家庭の出身者の方に全て当てはまらない可能性について、あまり語ってこなかった。わたしと夫だけを対比データにすえると、全ては愛着がある事と記憶保持が関連付けられてしまう。
しかし愛着のあるなしに関わらず記憶を喪失してしまう例はある。
以前書いた、のちに機能不全家庭で育てられた事が判った家庭育ちで記憶を失ったKさんは子ども時代の全ての時代の記憶を失っていた、現在も取り戻せていない筈だ。彼女の場合、記憶を保てない程の虐待を受けていたというトラウマがそうさせた。
そして一方夫は家庭内の出来事じゃなく『保育園の裏で同級生の男子から性的ないじめに遭った事』があり、わたしと記憶について語るうちに急に鮮やかに思い出したそうだ。その当時、どうしても親に言えなかった事まで思い出したそうだ。親との会話では引き出されなかったが、わたしと記憶について語り始めたら引き出されたそうだ。
これらは機能不全家庭と虐待のない家庭という括りだが、対象者がいる環境で育ったにも関わらず記憶がない状態であり、全ては集団養育と愛着問題だけでは片付けられない。わたしは自分がそう思うほうが理屈に合うため、自分の事については集団養育の結果、記憶ができなかったという結末へ至っている。
しかし、それを書いてしまうと乱暴すぎるような気がする。機能不全家庭出身者で(後に分かった場合も含め)で記憶がない方に、家庭に居たはずなのに記憶が保持できないのは何故?と悩ませてしまう。それは自らが育てられた家庭そのもの、子ども時代そのものの愛着関係そのものに疑念を持つ事にも繋がりかねない。
だから機能不全家庭で育った方の記憶の喪失と、養護施設で育てられた集団養育の結果の記憶が保持できない話とはカテゴリが違うのかもしれないと思った。わたしは、そもそも愛着という部分を取り外して物事を考えられるので非常にシンプルだ。けれど、家庭で育てられた方は愛着という部分においては、施設育ちほどシンプルではなく複合的で、そして難しい処理を脳が抱えているように思い始めている。
| 養護施設を出てからの問題 | 06時36分 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑
記憶の問題のどのカテゴリか考えてみたい
Lukeさん、ありがとうございます。リンク先も読みました。施設育ちも色んなパターンの措置期間、措置内容、施設の雰囲気、などがありますから、その人毎に人生でこだわってる部分が違いますね。
施設を出たからといって施設の問題がその人のテーマとはなり得ないという事を、柔軟に理解できるようにしたいです。かといって自分のテーマはズレる事はないし、人生に影響を与えなかった親よりは、施設の方が影響を与えたので、考えるしかなかった。
という感じです。
| レイ@Lukeさん | 2007/03/10 08:48 | URL | ≫ EDIT