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児童養護施設における学生ボランティア実践のためのプログラム構築の観点試論


児童養護施設における学生ボランティア実践のためのプログラム構築の観点試論
http://www.h.kobe-u.ac.jp/~rechs/onishi.pdf

 引用部 

 次に挙げることのできるチャイルドライフと本活動との違いは、前者の対象とする相手が主に入院する子どもとその家族であり、一時的に滞在する病院という施設において家庭生活と同様の日常性をできる限り保障しようとするのに対し、後者の対象とする相手が親と離れて施設に入所して暮らす子どもであり、長期にわたって施設そのものが家庭生活に順ずる生活の場となっている点である。


 中略

 ここで議論しなくてはらならないのは養護施設での日常性である。つまり、いつ自分の家庭に戻ることができるのかが分からず、施設を擬似的な家庭とせざるをない入所児に対して、その日常性を保障する事が可能かどうかという問題である。

 通園・通学によって学習権はある程度保障されているにせよ、施設での遊び・勉強・食事・入浴・就寝などは他の多くの入所児と常に一緒に営まれているため、円滑に共同生活を送るためのルールを強く意識せざるをない状況が存在する。

 この意識は社会化ないしは社会性の獲得にとって重要である反面、家庭では当たり前の「一緒にいると安心してくつろげる相手」との時間を入所児1人ひとりが持ちにくいことにもつながっている。

 本活動のボランティア学生は、徐々にそのような存在になってきていると判断しているが、構築されるプログラムの中には、たとえば、持続的・継続的にかかわる事を重視する観点、可能であれば入所児とボランティアが一対一ないしは少人数でかかわる時間を重視する観点が必要である。

 本稿の目的は、大学教官が児童福祉施設に学生ボランティアを派遣し入所児の発達支援を実践するという活動をプログラム化するにあたってどのような観点が必要なのかを、チャイルドライフというアメリカの小児医療現場での実践プログラムと対比させながら検討する事であった。


 Mariaが言うようにわたしにとってもかなり面白い論文と思えた。とくにアメリカ発祥のチャイルド・ライフ・プログラムを、この大学の学生ボランティアが、児童養護施設での発達支援ボランティアとして関わる際の観点を考える為の例題として対比させているのが面白かった。
 
 わたしとMariaがそれぞれに、ボランティアについて書いてきたのは単に文句言いな為だけでなく(汗)、児童養護施設という日常で生きる子ども達に、どのような自分ながらの観点を持って関わるかという事を考える材料にして欲しいから。

 養護施設の子ども達も連日お礼を言い続けて子ども時代を過ごせば、自分への価値観の基準を底上げする事ができない。施設の子にとって一番の問題は、自分を低く見てしまう、劣等意識が強いというなどという、自分は価値のない人間だと思いやすいことでもある。もちろんメンタルケアプランに関わるという発想が育ちにくい日本だからどうしてもモノを送る事で代替行為とするきらいもあると思う。

 でもずっと施しを受け続けるだけの自分では、誇りの持ちようがない。自尊の気持ちを持つ機会を与えられず、誇りを持つ事を諦めてしまう。エドワードさんはその状況を「ただじっと耐えていた」と表現されている。その気持ちがわたしには痛いほどわかる。

 洋服も名も知らぬ人から送られてきたものを使う、日用品もそう、遊び道具もそう。そして住んでいる場所も借り物。その中でお礼状を書き続ける子ども時代を過ごす事でどういう内面的な問題が生じるか少し想像してくれるとありがたい。 

 さて、この論文をさっと読んで思った事は、

 児童養護施設という独自性の強い世界に対して、ボランティア要員として、長期的視野を持って関わる事には、養護施設の集団的な日常に対する挑戦的なテーマも内在していて、その挑戦的な部分というのは、一対一ないしは少人数、個性に応じてという部分であり、それは養護施設では集団的ルールに抵触しかねない問題をはらんでいるのだと感じる。

 チャイルドライフは闘病中の子ども達のメンタルケアも含まれているが、養護施設の子ども達とメンタル的に関わる事は難しい。一過性のボランティア要員が「発達支援」に関わるという事だけで、もう文章そのものに矛盾を含んでいる。

 それでもこの論文は面白かった。どういう観点でボランティア活動に関わっていこうかと考えている途中がよく見えて、夢中で読んでしまった。

|  養護施設を出てからの問題 | 17時23分 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

 少し固い内容が多くてすみませんでした。

 >中学を卒業するまでの子供はどう頑張っても、自分で生活していくお金を稼ぐことは無理ですよね。親がいようがいまいが、誰かに養ってもらわないと生きていけません。

 確かに家庭の人も子ども時代は養ってもらわなくては生きていけません。それは養護施設の子どももその「期間」は共通するものを持っています。

 しかし家庭の子どもは家庭で育つ事がそのまま自尊感情を持てない事には繋がらないと思います、機能不全家庭でなければ別ですが・・・・。

 養護施設の子どもたちは常に最低基準を遵守しながら生きていて、その上で施しを受け取りながら生きています。その生活が与える心的な影響について語りたくて、ここ最近の一連の記事を起こしています。
 
 ボランティアが来てよかったよかったという話は多いけれど、1施設出身者の本音は必ずしもよかったよかったではすまないという事です。
 
 施しを受けるという表現そのものを嫌う人も過去にはいました。お恵みやお情けといいう表現を嫌う人もいるでしょう。

 わたしはボランティアを全て否定しているのではなく、関わる時に意識してもらいたいものがあるという事です、何か良い事をしたい人は、感謝してもらえないと怒りを出す人が多いと知ったのも、自分の過去の体験から勉強しました。  

| レイ@リグレットさん | 2007/02/27 08:11 | URL | ≫ EDIT

レイさん、私はむずかしい文献を読むのは苦手なので、この記事とは、ちょっとずれたコメントになってしまいますが、「施しを受け続けるだけの自分では、誇りのもちようがない。」というところに胸が痛みました。中学を卒業するまでの子供はどう頑張っても、自分で生活していくお金を稼ぐことは無理ですよね。親がいようがいまいが、誰かに養ってもらわないと生きていけません。私はそれが当たり前だと思っていました。レイさんは、今まで生きてきただけで、充分立派だと思います。

| リグレット | 2007/02/25 22:11 | URL |














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