友だちがいれば親が居なくても愛着は育つのか
物心ついたら児童養護施設に住んでいたという事と、現在、大人の自分が無愛着であるという事実の関連性をわたしなりに考えてみよう。自分の過去が曖昧なため(記憶関連)、殊更証拠にこだわりながらも、その証拠がないという事実に落ち込む事がある。それでも自分は、過去からの積み重ねにより構成されているから、無愛着である理由を探そうとするなら、自分の過去の育てられ方について考えるのは、わたしにとってごく自然な思いつきである。
もう数年前から同じような問いかけを、様々な人から受けてきた。
「でも、楽しい事もあったでしょう?」
「誰か1人くらい友人はいなかったの?」
そう異口同音に問われてきた。
そのたびにわたしは
「だから?」
「友だちがいれば親から捨てられた子ども時代の問題は解決するの?」
と答えていた。
まるで無愛着など、この世界にある筈がないと思いたいかのように、同じ問いかけが続き、どうやら家庭で愛着を持っている事を前提にして生きている人たちは、この世界に誰もいないと言い続ける人の言葉を信じられないようだ。と気付かされた。
わたしは、その質問は性質の違う話を一まとめにしているかのようで、答えづらい。
養護施設で親から捨てられた子ども達が、愛着をつくるチャンスを得られない問題は、その児童に1人、友だちが出来れば解決をみるのか?
否。そもそも友達関係と親子関係は違う性質のものだから、自分を捨てた大人(養育者)からの、愛着の欠損を埋める存在にはなりえない。
そう思った理由は、もし親がいなくても施設の仲間がいる事(個人的には親友すらいないが)で正しい愛着が形成されるなら、今、わたしはとっくにこの愛着問題をクリアしていて(真面目なのだからなおさら)楽しい主婦ライフを満喫している筈だから。
家庭の人が口にする「でも友だちはいなかったの?」という問いは、持てる人の論理だと感じる。物心付いた時、大人(親・養育者)がいるのが当然の人は、友だち1人いれば百人力なのかもしれない。でも、それは親がいて愛着を形成しながら子ども時代を過ごした人の、その心の中の安定を基準に質問していると感じる。
気付いたら親もなく自分の出自も知らず、同じ年くらいの集団の中にあり、自ら子どもである事にも気づけない者(子ども)たちに必要なのは、まず子どもである自分から、人生をスタートさせる事、そして大人とのプライベートな関係性の中で自我を作ってゆき、その次の段階で社会性の中の友だち関係を繋げてゆきたい。
いきなり、乱暴に施設集団という妙な社会性の真っ只中に放置されて、後は仲間で育ちあいなさいと言われては、愛着形成どころではないと感じている。子どもにまず必要なのは1人の子どもとして守ってくれる大人から守られる事であり、いきなり友だちづきあいに疲労困憊する事ではないと思っている。
・・・そして今わたしは、新しい要素である「魂の絆・心の家族」という存在に出会った事で、自分の空っぽなカテゴリに追加せざるをなくなり、非常な苦痛を絆相手の彼らにもたらしながらも、こうしてわたしは、記事を書き続けている。
| 養護施設を出てからの問題 | 00時12分 | comments:14 | trackbacks:0 | TOP↑
確かに面白い
論文おもしろい、
今、必死に読んじゃってます。
| レイ@Maria2 | 2007/02/24 09:21 | URL | ≫ EDIT