価値観の違いとやら
「わたしにとって「信じる」というのは、あなたになら騙されてもいい、あなたになら何をされても本望、という覚悟がなくてはできないと思う。それ程人に思いを持った事がない」
そう夫に伝えたら。
「俺はお袋にそんな信じ方はしない」「お袋だけは俺を絶対に裏切らないし、何もひどいことをしない」と反論が返ってきた。
「でも人は結果として消えてゆくものだ」とわたしがさらに反論すると、彼は「結果としてずっといてくれる人が家族だ」と返ってくる。
育てられ方が違うため、いつも反語的な思考パターンで会話する。彼は「もし捨てられたら?」という発想自体浮かばない、想像できない。
「人は現れては消えてゆくもの」と言っても宇宙人の言葉だと言われてしまう。彼が「家庭は温かいものだ」といえば「家庭は実体無き幻だ」と反論してしまう。
「感覚の違い」を研ぎ澄ませれば、互いの違いが激しく際立つ。それぞれの育ちからくる「当たり前」がぶつかりあう、思念の対立があって、その先に和合できるものがあればいいけれど、図形的にはこの先は、末広がりに離れていく曲線。思考の違いがここまである意味、際立ち、それぞれに立っていれば、この先、譲れないものがある互いは違う道を歩む事を考えねばならない。
この部分だけは一致した。
この人にならどんな捨てられ方をしても納得できる。そういう人を信じる事ができればいいけれど、夫のように「捨てない人との共存を前提」に、物事を考える事が難しい・・・・。
| 養護施設を出てからの問題 | 10時22分 | comments:8 | trackbacks:0 | TOP↑
この部分、頭に霞が掛かるのです
うみぼうずさん、やっぱりそうでしたか。いつもコメントをありがとうございます。その上わたしは当事者主体で、無愛着の心情を書いているため、
記事に書けるくらいならとっくにこの問題を解決できる筈ではないか?
と自分で自分に疑いの目を向けてしまう事があります。自分で自分の事を語るというのは、発信元として(記事を作成する側として)あまり混乱していない方がいいのですが、この無愛着の問題だけは、混乱したまま、伝えてしまう事が多いです。
たぶん、うみぼうずさんはお仕事の体験などからも、家庭で虐待を受けた子が「何をされても親を求めてしまう姿」を多く見てきたと思います。だから「施設で虐待されたわけでもないのに誰も求めないという態度」が、どういう事なのかなかなか見えてこないと思うのです。
そして、残念ながらわたしも、過去をきちんと記憶していないので具体例をあげられず、今のわたしを作った過去が、全然分からないまま、大人になった完成品の自分の心情を文章化しています。そのあたりが、たぶん悩みのツボだと思います。具体的な自分の記憶が欲しいです、とても。
| レイ@うみぼうずさん | 2007/02/22 11:03 | URL | ≫ EDIT