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恵まれない子ども達は何が恵まれていないのか


 誰も誰とも繋がらない、誰にも誰もいない、全ての子は全て誰にも誰もいないという同一の条件だからこそ、仲が良いとは言えなくても何とか施設の集団生活をお互いにやっていける。施設は子どもが集団で暮らす場所。しかし親から捨てられたり虐待された子ども達は、いつも自分の飢えに気付かないように生きている。

 しかし、時々集団の中で生きていた筈の子が里親家庭へ迎えられてゆく。

 一緒に掃除をしていた子が、急に蝶ネクタイをしている。その子はみんなの輪から外れるのが怖いかのように、引き取られてゆく最後の一瞬までもを、みんなと一緒に掃除をしようとする。すると保母が少し笑いながら言う。

 「洋服が汚れるわよ」
 「もうあなたは掃除しなくていいの」

 その子は、不安そうにみんなの顔を見ようとする・・・。みんなはその子の顔をみない。曖昧に笑って「元気でやれよ」と言い、さっさと立ち去る。誰にも誰もいない事で保っていた暗黙のルールが壊されてゆく・・・。そのバランスを崩す子の前にいつまでも居られない。その時初めて、誰もいない集団はそれぞれの心の中の空っぽさと、捨てられた事実の確認を刻んでゆく。 

 飢えとは何か。
 
 一口に恵まれない子ども達と言っても、世間の方がよく理解しているのではないかと思う。家庭の愛情に恵まれない子ども達という括りで養護施設(孤児院)の子ども達の事情を理解している。それなのに、養護施設へ贈られるものは大量のモノ、モノ、モノばかり。贈る方も分かっている、愛情を与える事はできないし、親にもなれない。でも何かしたい、それで大量のプレゼントとなるのだ。

 クリスマスシーズンには、求めるものとは程遠いケーキの山、みんなで使うプレゼントがいっぱい。感謝のカードを書いて、感謝のオペレッタを踊り、それでも到底飢えは満たされない。
 
 飢えというのは、たった一人の大人から受ける愛情に対する飢えなのに・・・

 ケーキを食べても食べても食べても、飢えは満たされない。
 本当に満たされたいのは心なのに、胃袋ばかりはちきれそう。

 よく、寂しい人は太ると聞く。ストレス太りというのを聞いた事もある、でも養護施設ではたらふく食べてストレス解消する事はできない、あまりに食べ物がないのでストレス解消の方法がない。
 
 わたしにとって、何故こうも絆作りが大変なのかをよく考えると、わたしにとって絆作りの作業はいつも後ろめたさが付きまとうのだ。悪い事をしている気分がつきまとう。だからどこか堂々とできない。

 わたしはWolfさんが書いてくれた体験記をいつも削除してしまう。書くのにどれほどの時間が掛かったか思いやれないわたしがいる。わたしは心のどこかで、あの盗み読みした施設時代の育成記録以来、初めてのテキスト化された文章を読む事になり、全く違うわたしの客観視される姿に実は感動?していたというのに・・・彼の稀有な表現に時々恥ずかしくなりながらも、あの育成記録を上書きしてくれるテキストだった。

 それをいつも消してしまうから、彼はいつも激怒している。

Wolfさんがわたしの事を書いてくれるのは、テキスト好きな自分にとっては、自分を客観視できる良い材料なのに、それは同時に誰かと絆を作っている証ともなってしまう。気付いたら彼が書いてUPした記事を削除して、なかった事にしてしまう。

 そうすれば、何か周囲に言い訳が立つような、変な気分だ。でもそれは絆相手を抹消する行為ともなってしまう。絆相手を無き者とすることで、集団への理解を得られると思うのか・・・。

 わたしにとって今、絆作りをするという事は、見えない集団に対するある種の挑戦でもある。

 集団の囲いを抜けて、わたしはたった一人で誰かと絆作りをすると表明する事は、わたしにとって集団に対する戦いを挑むことに感じられる。

 誰にも誰もいない事で保ち、やれてこられたのに、わたしはそのパワーバランスを壊しているから、常に後ろめたく、常に罪悪感が伴い、それでいながら絆相手を傷つけてはならないという、今までにない要素が入り込み、かなり精神的な混乱をしている。

 理性は混乱していない、でも精神的には混乱する。
 
 集団生活の心の癖と一口に言っても、こういう事が、様々な妨げになると思った。ある施設出身者の方が里親家庭での心理的な辛さを書いていたので、ヒントを得てわたしも書いた。集団でのけん制を覚えた施設の子は、施設から引き取られる事が苦痛になる事もある。なぜなら、今まで何人もの子が引き取られてゆくのを見続け、周囲の子の冷たい、無関心な表情を見続け、誰も本当は引き取られてゆく子を祝福などしていない事を身を持って知っているから。そして自分だって祝福した事はない。そしてそれは同時に自分には関係のない世界の話だと再確認する。

 それなのに引き取られてゆく他の子をさめた目で見続けていた自分が、今度は引き取られる側になった時、どのような心情になるだろうか・・・。集団で生きる者は、多勢派である事での安住を無自覚ながらも基本としていた。わたし等は特に集団から距離を置いていたのに、こういう時には、集団となってしまう。集団生活が身に染み付いている。

 わたしは大人になってからの絆作りだけど、不思議な事にその心情に近いものを、わたしはこの8年で感じ続けていたと思う。養護施設からの引き取りではもう遅い(でもそうと知って覚悟する里親さんなら別かもしれないが)親が育てられない乳幼児を原則里親家庭へと言ってるのはその為なのだ。

 ※ これはわたしの主観です。そんな事はまったく関係なく甘えたり、また、甘えられない理由は、上記文章とは別の理由の場合があります。個人による差異がありますので、どうぞご理解下さい。

|  整理中の課題&記事 | 09時46分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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