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野良犬に噛まれ、飼い犬に手を噛まれ

引用元:記事全文


パネルディスカッションより引用
 
西澤:自分の身に起こった外的な現実と自分の中に起こった内的な反応というのもを出して対決するというのは,西洋流の回復モデルである。それに対して,東洋モデルか,日本モデルなのかわからないが「仕方なかったことだ,忘れなさい」というようなやり方,がある。私が小学校二年生の時に,私のアパートの二階に住んでいた高校生の女の子がレイプにあうという事件があった。その時に周りの大人の反応が皆同じだったのを子ども心に覚えている「野良犬に手を噛まれたようなものだと思って忘れなさい」という。ものだ。そして,その方法で,不思議なことにその女性は回復したのである。この回復のメカニズムには社会的な文脈があって,その中で回復というものが位置づけられていると思う。たぶん,日本の場合は集団が,その悲しみだとか苦しみというものを暗黙のうちに分けあい,皆が同等に苦しむというしくみがあると思う。でも話をして分かち合うわけではない。つまりそのショックな出来事が,一定の集団の人たちに何も言わなくても分け与えられて浸透していき軽くなる。もしそうなら対決する必要はないのかも知れない「忘れてしまえばいいよ,皆で一緒に忘れよう」というようなことで癒されてしまうような態度があったようだ。この態度は日本が災害大国であったことに端を発していると思う。

中略

西洋流の自立とは,自分の問題について誰も責めることができず,最終的に責めを負うのは自分という考え方である。これが日本人に出来るのかという問題がある。例えば虐待をする母親のカウンセリングの中で自分も親に虐待をされていたということが出てくる。ここまではいい。しかし,虐待をしたのは自分が虐待をされたからで,私は責められるべきではなく,私の親を責めるべきだと恨みの感情で止まってしまう。虐待されたことが事実で子どもを虐待せざるを得ない状況に今苦しんでいるにしても,そこから回復するのは自分の責任だという,そういうスタンスがなかなか日本人には取れない。ただし,子どもの場合はうまくいく,プレイセラピーという遊びを通じて繰り返し繰り返し表現をする中で,確かに回復していく。

,,。大人の場合はもっと精神的な問題が絡んでいて昔の対処法に戻れる状況ではないつまり,自分のしんどさを暗黙のうちに吸収して一緒に忘れてくれる集団や地域というのを,もう日本は持っていない。従って,日本人にはそれに替わる何かを生み出す創造性が必要となると思う。 

 

というやり取りを読み・・・

 この国には「犬に噛まれる事のたとえ話」について、わたしが知る限り2つある事に気付いた。一つはご主人様である自分に歯向かう者に対して「飼い犬に手を噛まれた」があり、もう一つは(主に)性的な虐待を受けた人にに、慰めの言葉の一つとして「犬に噛まれたと思って」があるようだ。

 わたし個人はそんな風な話は聞いた事がないので少し興味を持った。養護施設では虐待を訴える子どもがいたらまず大人から「虚言癖がある」と言われてしまう。そういう施設の大人の態度しか知らない為、こういう言葉には馴染みがない。

 人間は犬に噛まれたら忘れる事ができるのだろうか?それともこの話に出てくるように犬の種類によるのだろうか。犬は野良犬であり、飼い犬ではないのだから精神的にはマシだからという意味だろうか。野良なら問題なく、飼い犬なら問題なのか。 これらを災害大国の日本固有のものと捉え、共通認識で超えようとしているようのではないかと捉えているようだが・・・・何とも難しい話だ。

 施設のような所では、集団暴行があれば文字通り流れ行く者たちにより、成された行為であるのは確かだ。施設での虐待を通り魔的と個人的に捉えるのも、自分と何の縁もない人々により、偶然そこを通りかかったか、上級生が機嫌が悪い時、よりによって小さな子が側にいたかにより、全く何の根拠も、ある意味憎しみに裏打ちされた個人的な大人の感情的虐待もなく、他人が冷静に粛々と行うイメージがある。

 それに野良犬の集まりみたいな養護施設の中で、集団の中で何かをカミング・アウトして生きられるんだろうか。個人的に何かしら混乱してるようだが、とりあえず気になったので書いてみた。

|  気になる記事のCLIP2007 | 10時54分 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑














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