愛着障害は、養育環境が変わるだけでは修正できない
これほど、他人から見て「本人の努力不足、やる気がない、又は性格の悪さ、ひねくれている」と感じられる症状(あえてそう言う)はないのでは?と思う。愛着を持ちすぎて人を追いかけてしまったり、寂しさのあまり周囲を巻き込む人(子)については、他の人間の理解を得られやすい。寂しさのあまり追いかける気持ちには一定の理解を示す事ができる。それは機能不全じゃない家庭で育てられた人が自分の中にもあるパターンに当てはめやすいから。
でも、誰の事も追いかけなかったり、誰の事も等しく追いかけてしまう、誰かを特別扱いできない愛着障害の人(子)については理解されないどころか、本人そのものが大変嫌われやすく、里子の場合などは養護施設へ戻される要因になる。わたしのように結婚している人の場合は離婚へ至りやすい。
わたしは特に、他人によるわたしの像ではなく、わたしが自分で自己の体験(夫とのやりとりの断片)などを書いているので、本当は愛着を理解しているから書けるのだという誤解を持たれているかもしれないと思い、少しばかり釈明をしたくなった。
わたしがこうしてテキスト化するのは育ちの影響を受けていると思われる部分を説明するためと、自分自身の整理作業の為でもある。現在の、わたしの周囲にいる人との人間関係を書いていくうちに、様々な気付きもある。でも・・・ここが説明しにくい部分だけれど、書いている当事者だから、わたしはもう様々な過去の心の癖を理解し、克服しているかというと、現在のわたしは相変わらず他人を大切には思えないし、人は流れ行くもの、今目の前にいる人ととりあえず関係を作るけど、未来永劫ではない。など、独特の感性に裏打ちされた生き方をしている。
しかし
そこまで分かっていながら何故できない?
たとえ施設では愛着は作れなくても、今は家にいるんだから
と思う人がいるだろうなと想像する。少なくとも夫はそのような意見を持っている。
でも悩んでいる方は考えてみてほしい。環境が変わったら自動的に無愛着はなくなるのか?と。
その人(子)が施設や機能不全家庭を出てから、あなたに会うまでの間に愛着を作る機会があったかどうかを・・・。今、愛着障害児(人)を目の前にしてして、もうすでにその人(子)が愛着を持っている筈と心のどこかで期待していないかどうか。自分を追いかけてくれる筈と思い込んでいないかどうか。
もし、その人(子)にとって初めての出会い(愛着関係としての出会い)があなただったら、あなたが愛着を作る最初の人になる覚悟を持たなければ、その人(子)はすぐに河童の川流れのように流れ、消えてゆく。理不尽かもしれない、愛されないことは辛いでしょう。
でも誰の事も愛し、愛される関係を持った事がない人(子)は、誰の事も愛し、愛される関係を知らないのは当然のこと。そういう相手に自分がなるつもりがなくては、愛着という絆をつくる事はできない。
もちろんわたしはわたしでもっと努力をしたい、自分の心の癖に向かい合う事で、家庭を投げ出さないようにしたい、わたしの心の癖を知る事で、時には誤解されるような冷血発言などもするが、それもパッケージングされたわたしであるという事。
少しでも自称無愛着児童として、テキストで何かを伝えられないかと日々、考えている。
でも、誰の事も追いかけなかったり、誰の事も等しく追いかけてしまう、誰かを特別扱いできない愛着障害の人(子)については理解されないどころか、本人そのものが大変嫌われやすく、里子の場合などは養護施設へ戻される要因になる。わたしのように結婚している人の場合は離婚へ至りやすい。
わたしは特に、他人によるわたしの像ではなく、わたしが自分で自己の体験(夫とのやりとりの断片)などを書いているので、本当は愛着を理解しているから書けるのだという誤解を持たれているかもしれないと思い、少しばかり釈明をしたくなった。
わたしがこうしてテキスト化するのは育ちの影響を受けていると思われる部分を説明するためと、自分自身の整理作業の為でもある。現在の、わたしの周囲にいる人との人間関係を書いていくうちに、様々な気付きもある。でも・・・ここが説明しにくい部分だけれど、書いている当事者だから、わたしはもう様々な過去の心の癖を理解し、克服しているかというと、現在のわたしは相変わらず他人を大切には思えないし、人は流れ行くもの、今目の前にいる人ととりあえず関係を作るけど、未来永劫ではない。など、独特の感性に裏打ちされた生き方をしている。
しかし
そこまで分かっていながら何故できない?
たとえ施設では愛着は作れなくても、今は家にいるんだから
と思う人がいるだろうなと想像する。少なくとも夫はそのような意見を持っている。
でも悩んでいる方は考えてみてほしい。環境が変わったら自動的に無愛着はなくなるのか?と。
その人(子)が施設や機能不全家庭を出てから、あなたに会うまでの間に愛着を作る機会があったかどうかを・・・。今、愛着障害児(人)を目の前にしてして、もうすでにその人(子)が愛着を持っている筈と心のどこかで期待していないかどうか。自分を追いかけてくれる筈と思い込んでいないかどうか。
もし、その人(子)にとって初めての出会い(愛着関係としての出会い)があなただったら、あなたが愛着を作る最初の人になる覚悟を持たなければ、その人(子)はすぐに河童の川流れのように流れ、消えてゆく。理不尽かもしれない、愛されないことは辛いでしょう。
でも誰の事も愛し、愛される関係を持った事がない人(子)は、誰の事も愛し、愛される関係を知らないのは当然のこと。そういう相手に自分がなるつもりがなくては、愛着という絆をつくる事はできない。
もちろんわたしはわたしでもっと努力をしたい、自分の心の癖に向かい合う事で、家庭を投げ出さないようにしたい、わたしの心の癖を知る事で、時には誤解されるような冷血発言などもするが、それもパッケージングされたわたしであるという事。
少しでも自称無愛着児童として、テキストで何かを伝えられないかと日々、考えている。
| 整理中の課題&記事 | 09時50分 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑
はじめまして
はじめましてファビさん。答え方が難しいと感じます。
2年が勝負という言葉に妙に緊張します。
施設にいるのなら彼に必要な「固定した大人」がいないのですから、何をするにも限界があると感じています。その限界が教師の限界であり、それでいいと思います。むりをしないで下さい。
ただ、大人の生き方として誠実な大人の生き方を少しでも見せてあげて下さいとしか、今は、言葉が見つかりません。
| レイ | 2007/05/30 17:38 | URL | ≫ EDIT